2025年3月9日(日)四旬節第一主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書4章1〜13節「誘惑の歩みにある主の助け」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 3章では、福音書記者であるルカが、歴史的事実や系図、そして当時の優れた預言者であった洗礼者ヨハネの証言を通して「イエスは本当の救い主である」と伝えているということを見てきました。今日の箇所はその後、イエス様が荒野へ導かれ受けられた「悪魔の誘惑」の箇所です。

 3章ではイエス様が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、御霊が鳩のようにくだり、天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という声があったとありましたが、4章1節は、その下った「御霊に満ちて」という言葉から始まります。

「1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、」

 聖霊に満ちたイエス様は、「霊」に引き回され「荒れ野」にいました。「霊に引き回され」とある言葉は新改訳聖書では「御霊に導かれ」とも訳されています。そして、2節ですが、

「2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 」

 と続いています。聖霊に満たされたイエス様は霊、あるいは御霊によって「荒れ野」を引き回され、あるいは「導かれて」そして「悪魔の誘惑」に会われたのでした。

2、「荒れ野」

 皆さんはこのことをどう思うでしょうか?私たちも同じように、洗礼を受け、聖霊が与えられ、みことばとそこに働く聖霊によって導かれて歩んでいる私たちです。しかしある人にとってはここはこう思うかもしれません。それは、聖霊に満たされているのに、それなのに、聖霊なる神、助け主に満たされ導かれるのが荒れ野なのか?そしてそこに悪魔の誘惑があるのはどういうことか?と。つまり「聖霊に満たされ導かれるのだから、良いことでなければ、神、聖書は、おかしいじゃないか?何で悪いことへ導くのだ」と。

A,「聖徒であり同時に罪人」

 しかしこの聖書の箇所は私たちに一つの大事な事実を教えてくれています。それは、私たちはみ言葉の通り、信じて洗礼によって救われました。聖霊が与えられました。新しいいのちを与えられました。しかし、私たちに与えられた信仰の新しい歩みは、苦しみも罪もない天国に来た訳ではなく、「この地上に」尚も生きる信仰の歩みでもあるのです。そして、その地上にある「この世」は、聖書にある通り「罪の世」です。つまり悪魔の誘惑の力がまだ働いている世でもあり、罪の奴隷にある世です。私たちは確かに「神の前」にあっては、イエス様の十字架と復活のゆえ、私たちの義ではなくイエス様の義のゆえに、それを信じ受け入れる私たちの罪は見られません。それは私たちたちの義ではなく、イエス様の義のゆえに信仰によって私たちも義と認められていて、そして聖霊によって新しく生かされている者ではあるのです。しかし「同時に」、まだ尚も、この罪の世に生きる者でもあり、私達自身、一人一人誰も例外なく、つまり私自身も、肉にあっては、尚も同時に罪人でもあるのも事実です。今日、悔い改めても、私たちは罪を全く犯さない完全な人間になったのではなく、直ぐに行いにおいても心においても、罪を犯してしまう者です。キリストにあって信仰が与えられて霊にあって新しくても、同時に肉にあっては尚も、私たちは、もちろん私自身も自分勝手で、むしろ、肉の性質は、神と神のみことばを信じないで退けよう、背を向けようとする、まさに同時に罪人のままの私たちでもあります。それはルターも教える通りです。彼は教えました。私達は、キリストのゆえに霊にあって「神の前にあっては聖徒であっても、同時に罪人である」と。ですから、クリスチャンである私たちのこの罪の世、地上での歩みは、尚もその悪魔、誘惑との戦いに日々、生きる歩みなのです。だからこそ、主イエス様は主の祈りを私たちに与えて下さっているでしょう。「私たちの罪をお赦し下さい〜私たちを試みに会わせず悪より救いたまえ」と祈るのです。

B,「荒れ野のキリスト者は、誘惑との戦い」

 もちろん、救いの道は、必ず勝利の道でもあります。聖霊とみことばは私たちを最後には天国、そして新しい天と新しい地へと導く最強の力です。しかしこの罪の世は、まだ過ぎ去っておりません。尚も絶えず強く私たち一人一人を誘惑してくる事実はあるでしょう。私たちはそこで証しと愛に召され生かされている者ではあるのですが、この世にあって肉にあっては本当に罪に対して悪に対して、そして悪魔に対して弱い存在で、尚も罪深い日々です。ですから、聖霊による新しい道、私たちクリスチャンの道は、やはり、今日の箇所のイエス様のように日々、荒野なのです。日々、誘惑との戦いの道なのです。むしろそれは、救われる前より厳しい闘いになるでしょう。なぜなら私たちに与えられている聖霊は聖なる方ですから私たちを増々、罪に敏感にするからです。だからこそ、聖霊の導く道は、ここにあるような荒野、悪魔との戦い、罪との戦いの道なのです。イエス様も「あなたがたは世にあっては艱難があります」(ヨハネ16:33)とも言っているでしょう。日々、誘惑です。その誘惑は、ただ行いの罪を犯させようとするだけでなく、心の中の罪の思いも誘惑です。そして、何よりの誘惑は、イエス様こそが完全な私たちの救い主であるということを、私たちが信じないように、あるいは、洗礼や聖餐の福音の力を疑わせて、信仰の確信、救いの確信を奪い、イエス・キリストの恵みよりも、他の目にみえる目先のことや、他の人の行いや力、あるいは自分や自分の行い、名誉、プライドのほうが、救いのための力、光であるかのように思わせて、イエス様とそのみことばを捨てさせようとすることこそ、最大の誘惑です。そして捨てさせて、悔い改めのない歩みをさせ、ついには私たちを滅ぼすこと、永遠の死に堕とすことが、悪魔の最大の目的です。そのために働いてきます。私たちはイエス様と同じように、その荒野に導かれているのです。イエス様のように、日々、誘惑との戦いなのです。

 けれども恐れることはありません。今日のこのイエス様の受ける荒野の誘惑とそれに対するイエス様の姿はそんな私たちに、何のためにキリストは世に来られ、聖霊が私たちにも与えられ、その聖霊が私たちを導いているのかを証しし、そして、いかにしてイエス様は誘惑を退けるのかを私たちに示し教えてくれているのです。その事実が、この誘惑とイエス様にはよく現れているでしょう。まず悪魔はどのように誘惑するでしょうか。三つの誘惑が書かれています。

3、「悪魔の三つの誘惑」

 一つ目は、3節

「3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」」

 第二の誘惑は、6〜7節。

「6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 」

 第三の誘惑は、9〜11節です。

「9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

 これが悪魔のイエス様への三つの誘惑でした。この三つの誘惑を見る時に、悪魔の誘惑の一つの特徴が分ると思います。

A,「悪魔の巧妙さ」

 それは、私たちが悪の苦しみというとイメージする迫害とか肉体の痛みとか以上に、つまり目に見えて明らかな悪いものではなくて、むしろ、誘惑なのですから、人間の欲求・欲望をかき立て魅了する、魅力的な良いものを餌にしているということがわかると思います。私たちは悪魔の攻撃と言うと、迫害とかを連想するです。もちろん、迫害も妨げなのですが、しかし、ここにあるように、むしろ人が騙されやすい、誘惑に負けやすいのは、あのアダムとエバの罪の初めで、人にとって甘く美味しそうな実にこそ彼らは心奪われたように、まさに、人間のそのような罪の性質の根っこ、罪深く自己中心な願望こそを悪魔はみごとについてきているといえるでしょう。創世記三章のアダムとエバの堕落の所です。創世記の3章5節。そこでエバはサタンの「あなたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪の知識をしるようになることを神は知っているのです」(5節)というその誘惑のことばにこそ魅了されます。そしてエバはその誘惑の言葉を聞き「その木はまことに食べるの良く、目に慕わしく、賢くすると言うその木はいかにも好ましかった」(6節)と彼女の誘われる心を描いているでしょう。そのように彼らはその誘惑に負け神のみことばを退け、食べてはいけないと言われた木の実を食べるのです。今の世の中でも、実に沢山の詐欺事件が伝えられていますが、その手口のどれを見てみても、はじめは「美味い話」あるいは「利益・財産の話」から始まって、騙される人は引き込まれていきます。また多くのカルト信仰も溢れていますね。そのカルトにも多くの人が集まってきますが、そのカルト入信のきっかけも、やはり「美味い話」であったり、その人々の一時の不安解消やご利益をみごと刺激するようにして入信する人を魅了するのです。さらには広告メールや迷惑メールも、そのタイトルは、人々が開きたい、読んでみたいような、まず人の気をひく「美味い話」「利益の話」のタイトルが踊っています。誘惑とはそのようなものです。

1)「石をパンに」

 悪魔の誘惑もそうです。一つ目の誘惑を見てください。それは石をパンにするということです。パンは物質的な豊かさを示しています。そしてイエス様は確かに神の子ですから石をパンに変えることは出来るのです。もしその辺りの無数の石をパンに、つまり溢れるばかりの豊かさに変えることが出来るなら、なんと幸いでしょうか。毎日、食べるに困りません。そればかりでなく、有り余るほどのパン、食べ物を、人に配ることができます。そうすると、人からありがたいと賞賛され、尊敬される存在、人気者にもなれます。支配者にもなれるでしょう。これまでの世の統治者は、この力が得られるなら、直ぐにでも飛びついて得たい力と誘惑となるものでしょう。この直ぐにでも見たい手にしたい眼にみえる物質的な豊かさや数の多さ、大きさは、教会にとっても誘惑になります。石を豊かさ、富に変える。それは教会でも、その力があるなら、ぜひ、人を沢山、お金、富を沢山、集めるために、数を伸ばすために、人を惹きつけるためには、魅力的な材料であり、欲しい力であると見る人もいるかもしれません。

2)繁栄を全てあなたに

 第二の誘惑はどうでしょうか?悪魔は、世界の国々を全部見せました。ローマ皇帝のもの凄い繁栄と富を見せられただけでなく、悪魔は過去のこれまでの文明の繁栄、そして未来の、現代のこの繁栄や豊かさも見せたのかもしれません。その全て、その権力、栄光、繁栄が全て自分のものとなる。力と誉れが自分のものになる。それはどの国の支配者も、いかなる軍事力を駆使してでも奪い取りたい特権に映るものでしょう。エバを誘惑した「神のようになれる」というサタンの誘惑のまさに最たるものともいえます。教会も例外ではありませんね。世界の福音派のある人々は、まさに繁栄の神学の虜になり、地上の人間的な繁栄を約束し希望とするような都合の良い間違った福音、間違った偽りの光や愛で、人々を律法的に、マンパワーや理性や人間の直感や感情や欲求により頼むように、導いています。その中でもある熱狂的な教会やカリスマ牧師の教会は、教会が人の数やお金の数字の上で大きくならない、成長しないのは、信徒であるあなた方が熱心でないから、一生懸命でないからダメなんだと、教会や宣教や伝道を律法にして脅すように駆り立てますし、逆に信徒がそのような価値観であると、み言葉に誠実に仕え伝えている牧師に対してさえ、牧師が熱心ではないからだ、”営業努力”が足りないからだ(彼らはよくそんな牧師に「もっと「成功したビジネスマンの本」を読め」といいます)、能力、魅力がないからだと責め立てます。そのようなマンパワーで導くことは確かに数的には多くの人を集め、メガチャーチにまでもなります。それは、人の目には成功しているように見え、多くのクリスチャンはこれが成功した宣教・伝道だと決めつけてしまう、そのように更に間違った宣教、教会へと逸れていっているという深刻な現実がありますね。悪魔の誘惑はまさにキリストの姿をしてやってくる偽キリストであり、実に巧妙です。

3、「神を試みる:自分の思いの通りに神はするだろう」

 そして三つの誘惑。神を試みること、試すこと。つまり、神を人間の都合の良い解釈や想いのままに試す。これは「神が人を」ではなく、「人が神を」支配する誘惑です。それは先の繁栄の神学やリベラルや現代の流行の神学の共通の傾向ですが、人の思いのままに神を動かしたい、神に働いてほしい、神はそうするに違いないと決めつける、そのような誘惑です。これもまた誰にでも起こりうる誘惑ですね。私達は神の恵み、神のみ言葉や約束をその通りですと信じる信仰なのに、しかし私達の罪の性質は、神中心ではなく、自分中心に、自分の願うまま、思いのまま、期待するように、神がしてくれるだろうと思ってしまいます。そして自分の願う通り、思っていた通りにならないと、今度は、神がおかしい、神が矛盾している、間違っていると、神や神のことばを否定したり、呪ったり、批判したりします。これも、誰でも陥りやすいことで、クリスチャンであっても、もちろん私自身もしてしまいやすいことです。このように、サタンは人にとって「美味そうな人参」をぶら下げて誘惑して来るのです。いや、ひょっとしたら、誘惑されている、あるいは逸れてしまっていることさえも分らないということもあるくらいに、悪魔の誘惑は巧妙である恐ろしいものであるのです。

 イエス様ご自身が言っています。「偽預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼である」と(マタイ7:15)。パウロも、第二テモテ4章2節以下で、教会が、自分たちに都合のいい空想話に逸れていき、そのような偽りの説教者を集めるような時代が来ると、預言的に警告しましたが、今まさにそのパウロの警告のようなことが教会では起きています。自分が語ってほしい甘い言葉を語らないと牧師を批判したり、律法を語ると罪や悔い改めを語るなと言い出したりして牧師を退けたり、そして自分に都合のいいことを言ってくれる説教者や牧師やメッセンジャーばかり求めたり集めたりするようなことは、実際に教会で起こっていることです。私たちの歩みは今も荒野です。いつでもサタンの誘惑があります。それは明らかな罪への誘惑もあり、迫害のような誘惑もありますが、まさにこの荒野の誘惑のように、人には気付かないようにして羊のなりをして信仰と言う大事な宝を奪い取っていく内は凶暴は狼の誘惑があり、むしろそのほうは怖いともいえるのです。私たち自身はそれに対して、実に弱く、脆い存在です。私たち自身ではそれを判断することも、勝つこともできないほど、弱く無力だともいえるのです。

B,「聖霊とみ言葉の正しい教えによる誘惑への勝利」

 しかし、十字架と復活への道を歩み始め、まず荒野へと導かれているイエス様であり、聖霊によって満たされ導かれたイエス様はどのようにして、この悪魔の誘惑を退けているでしょうか?

 イエス様は全て「みことば」をもって退けているでしょう。第一のみことばに対しては、4節

「4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 」

 申命記8章3節の引用です。そして二つ目の誘惑に対しても、8節ですが、

「8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」」

 申命記6章13節の引用です。そして最後の三つ目の誘惑は非常に面白い所で、サタンもみことばを用いて誘惑しているでしょう。まさに羊のなりをしてやってくる偽預言者の姿で、これは教会に絶えず起こり続けけいることであり、聖書を都合のいいように解釈した間違ったみことばで誘惑して来る姿そのものです。しかしそれに対して対抗しうるのも、聖書のみことばであり、そして大事な点ですが、その聖書のみことばの正しい解釈、正しい教え、つまり、正しい教理、正しい信仰告白こそ、悪魔のこの誘惑さえも退ける力であることが示されています。12節ですが

「12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 」

 やはり聖書、申命記6章12節の引用になります。

 聖霊に満たされて導かれるイエス様は、このように聖書のみことば、しかもその正しい教え、つまり正しい教理、正しい信仰告白、信条、そのように正しい教えで誘惑を退けました。そしてそこにこそ聖霊は、みことばにおいて、豊かに働いて力を現しているのです。みことばとその正しい教理、教えこそ、誘惑に対して何より強いということを、このところは私たちに伝えているのです。

4、「罪人は誘惑と罪に対して無力」

 私たち人間は堕落前の姿にあるように、本来の創造されたままの人間は、神のみことばによって、神の言葉に信頼して、それによって安心して平安に生きるものでした。本来は、そのように作られているのです。神の創造において良いもの、祝福の存在として創造され、いのちを与えられ、神の愛のもと、みことばによって導かれ、みことばを霊の糧として生き存在するものでした。しかし堕落は、サタンの誘惑、肉の欲に見るに麗しい慕わしい「神のようになれる」という美味しそうな実に負けることによって始まりました。罪の世は、そのようにサタンが私たちをキリストとそのことばから背を向けさせよう、自分を神に、中心にさせよう、そして救いから落とそうと、絶え間なく激しく誘惑して来るこの世なのです。私たちはこの世に尚も生きている者です。私たちも荒野を生きるものです。そしてそこでの私たち自身は、自らの力では実に弱く、無力で、罪深く、誘惑に勝つ力のないものです。直ぐに神と神のことば、キリストの十字架、罪の赦しを忘れ、疑い、自分が正しい、罪のない、神のように、生きようとしやすいものです。

5、「結び:だからこそキリストは信仰者に聖霊を与え働き勝利する」

 しかし、今日の箇所は教えます。イエス様を信じる信仰のゆえにイエス様の与える洗礼の恵みに与り、イエス様から聖霊が与えられているということ、その聖霊が常に力強く、みことばとその正しい教え、信仰告白、そして、洗礼と聖餐を通して働いてくださるのだということです。そしてその聖霊がみことばと正しい教えをもっていつでもサタンと誘惑を退けてくださり、勝利してくださる、まさに真の「助け主」だということをです。そのように今日もイエス様はこのみ言葉の説教と聖餐を通して私たちを励ましているのです。「あなた方の歩みは荒野の誘惑との戦いの歩みだからこそ、わたしは決してあなた方を一人にはしない、一人にし重荷を負わせ、一人で戦わせたりはしない、むしろ、そんな闘いに弱いあなた方にこそわたしは絶えず伴い、みことばを持って、十字架と復活の福音で、あなたを助けよう」と。だからそのまま福音を受けなさいと。イエス様はその思いで、今日もここにおり、イエス様がこの卑しい者による説教を通してですが、みことばを私たちに語ってくださっています。そして、今日もこのように救いの恵みである聖餐を、つまりみことばの結びついた、真のイエス様ご自身のからだと血、イエス様の救いのいのちをイエス様は私たちに与えてくださるのです。そして今日もイエス様は私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ罪の赦しを受け平安のうちに今週もここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

2025年3月2日(日)主の変容の主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年3月2日 変容主日

出エジプト記34章29-35節、第二コリント3章12節-4章2節、ルカ9章28-36節

説教題 「イエス様の変容 ― 私たちの希望と勇気の源」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節の最後の日曜日です。水曜日からイースター・復活祭に向かう四旬節が始まります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

 イエス様の変容の出来事は、実はキリスト信仰者にとってこの世を生きる希望と勇気の源になることを教えています。今日はこのことを見ていきます。ところで、この出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ8章27節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と特定できます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

2.山の上での出来事

 さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。少し詳しく見てみましょう。

 最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも夢の話と考える人もいるかもしれません。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディア‐グレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという言い方です。それで、モーセとエリアの出現は夢ではなくて現実に起きたことなら、彼らはやはり幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来にみんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。

 それなのでキリスト信仰の天国は他の宗教の天国とかそれに類するものと大きく異なっています。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類するものは、この世から死んだ後すぐ、ないしは30何年後とかの後で到達できるというものです。つまり、今のこの世がまだ存在している時に到達できるのです。ところがキリスト信仰では、到達は今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その時が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きます。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日に先立って死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということです。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。このようにキリスト信仰では死は復活の日までの眠りで、その時に永遠の安寧に入れるか永遠の滅びに入るかの振り分けが起こります。

 他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日まで神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上21章6節、イザヤ書8章19節です。

 次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中にもう出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然霧に覆われて視界が無くなるというのは、何も特別なことではありません。その霧は麓から見ると雲なのです。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

 あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(18ー23節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよくわきまえていなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。

3.イエス様の変容と受難の道の選択

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は神聖な神の子としての本質を顕わにしたのです。

 フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが言われています。さらに、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが言われています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の本質を目に見える形で顕すした出来事だったのです。

 そこで34節を見ると、「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」と言っています。ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、乗りかけた「雲」から降りてしまって、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?

 それは、私たち人間が復活の日に目覚めさせられて、神の栄光を映し出す輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。そうするためにイエス様は受難の道を進んでゴルゴタの十字架にかけられる道を選んだのです。どうしてそのようにしなければならなかったのでしょうか?

 それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪を除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現する神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、それは人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分というものではない、心の中で兄弟を罵ったら同罪と教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇でダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。このように罪は洗い清めなければならない汚れなのです。その洗い清めはもはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、できない人間にかわって自分で人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。では、「赦す」ことがどうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のことです。

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、つまり不問にするからこれからは神に背を向けず神を向いて新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは全て本当のことだとわかり、それでイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそれを神の守りと導きのうちに進むことになるのです。

4.勧めと励まし

 イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、「罪の赦しの救い」という神の贈り物を準備するためでした。私たちはこの贈り物を素直に受け取ってそれを携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。もちろん、全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそこを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、3章7節辺りから見ていくとわかるようになります。

 神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現すのです。しかし、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。というのは、神の栄光を映し出せる位に心の奥底まで掟を完璧に守ることは出来ないからです。それで、十戒は人間が誰でも罪を持っていることを明らかにする鏡です。なので、神の栄光を現す神聖な掟は人間を罰に定めてしまうのです。十戒だけでは人間は神聖な神のみ前に立たされた時、裁かれてしまうのです。

 しかし、神の御心はあくまで人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てて、神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。パウロが3章の9節で言っていること、人を罪に定める務め、つまり十戒の務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務め、つまりキリストの務めは、なおさら、栄光に満ちて溢れているというのはこのことです。

 そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の焼き尽くす危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがイエス様の十字架と復活の出来事が起こって、この世は神から罪の赦しを頂ける時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままで真の栄光を見ようとしない人たちがいることをパウロは嘆きます。

 しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けているので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。

 12節「この希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており」と言う時の希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使う時は、大抵は復活と神の栄光の映し出しを指しています。キリスト信仰者は、この希望から勇気を得ると言うのです。その勇気ある生き方の具体例が4章2節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について人々に真理を語る。そして他の人たちに向かって次のように言えることも。「私たちは罪の赦しの恵みに留まって生きる者です、なので神のみ前でやましいところは何もありません、どうぞそれをあなたたちの良心で判断してみて下さい

と。このように復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われどう思われようと全然平気です。人間は神ではないので恐くはないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

「礼拝後のコーヒータイムでは、フィンランドやスウェーデンで受難節(四旬節)に入る前に食されるラスキアイスプッラをパイヴィ宣教師の手作りで頂きました。フィンランドやスウェーデンではカトリック時代からの伝統で受難節を「断食の季節」と言います。イエス様の受難を覚える季節には嗜好品を避ける伝統があり、美味しいものはそのまえに頂くという趣旨でラスキアイスプッラが食されます。」

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

2025年2月23日(日)顕現後第七主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年2月23日顕現節第7主日 スオミ教会

創世記45章3-11、15節

第一コリント15章35-38、42-50節

ルカ6章27-38節

説教題 「この世で正義は不完全だが、最善を尽くして復活の日に清算してもらおう」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日のイエス様の教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者を祝福せよとか、汝らを侮辱する者のために祈れとか。お前なんか地獄に落ちろと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さいなどと祈らないといけないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげないといけないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞ、とは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?

 これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰もキリスト信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、困りました、どうしましょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者が物事を見る視点、キリスト信仰に特有な視点について教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が教えようとしている視点とは何か、考えなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

2.神が与えたものにではなく与えて下さる神に固執せよ

 イエス様の実行困難な教えは他にもいろいろあります。どれも聞く人読む人にショックを与えます。一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせるやり方です。

 イエス様は金持ちの青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。それに対してイエス様はこう返しました。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。

 このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。神が用意して下さったものを受け取ることでしか救いは得られないということです。もう一つは、人間は賜物を賜った神よりも賜ってもらったものに固執してしまうということ。賜ってもらったものに固執して賜ったお方を忘れるようになったら神は賜物を取り上げることも辞さないということです。

 まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったりすると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。それは、いつか将来今ある天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に死の眠り復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる。これがキリスト信仰の救いです。

 そう言うと、救いとは遠い将来のことで新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。ただ、神が守って導いて下さるとは言うものの、苦難や困難に出くわすと守りなんかないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として私たち人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。

 キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世ではそこに至る道を神の守りと導きを受けながら進むことができる、これがキリスト信仰の救いです。

 この救いは人間の力では獲得できません。それを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようにしっぺ返しを喰らってしまいます。それでは、なぜ人間の力では獲得できないのか?それは、人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっているためです。その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによって人間は救いを獲得できるようになったのです。イエス様はどうやって解消したのでしょうか?それは、人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は私たち人間がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。このようにイエス様が果たして下さった罪の償いを信仰と洗礼で自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。

 金持ちの青年の出来事が教えているもう一つの大事なこと、人間は賜物を賜った神よりも賜物の方に固執してしまうことについて。神は固執する対象を訂正するために手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。たとえ賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執する心を持っていなければならないのです。宗教改革のルターはその心は次のようなものだと教えます。

「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからしか得られないと思ってしまう位に愛しいものになってはいけない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えになるのをやめると言われるのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」

 本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えは、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に追いやって賜物に執着してはならない、終着している限りそんな賜物は取られ奪われて当然だということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきです。そこで、もし逆にルターが教えるように神に固執して賜物を持っていたのに、不当な取られ方、奪われ方をされたらどうするのか?つまり、賜物が取られ奪われるのが当然ではない場合です。それは正義の問題になります。次にそれを考えます。

3.この世で正義は不完全だが最善を尽くし復活の日に清算してもらおう

 まず、敵を愛せよ、頬を差し出せという教えを見ます。これらも、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。イエス様はマタイ5章でも同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くでしょう。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前よくすると悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれるとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです(神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書18章23節と33章11節を見れば明らかです)。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛しています、などと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活と最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげる、ということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

 復讐心で行わないということには、神がそうせよという命令があるからですが、もう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者が神から罪の赦しを受けた立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が膨張するのを抑える力になります。神聖な神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで私は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は復活の日に向って進む私を毎日支え守り、道を迷わないように導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。至らないところが沢山ある私だが、イエス様がこの私のためにも成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さずつけて生きている。その私を父なるみ神は毎日支え守り導いて下さる。

 本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」この教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。十字架と復活の出来事が起きる前にこれを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活と完全な正義に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私はあいつを裁く、罪びとに定めてやる、赦さないなどと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われるでしょう。イエス様の教えは、私はできない、できない、絶対できない、と言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて簡単なことではありません。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪として、この世では不完全かもしれないが罰せられねばなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。

4.勧めと励まし

 本説教で、キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々である、復活させられて神の御国に迎え入れられる日を目指して、今はこの世で神の守りと導きを受けながら進む日々であると申しました。苦難や困難に遭遇すると守りや導きを疑ってしまうかもしれませんが、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることである、それなので神の守りと導きは時として私たちの理解を超えた仕方で現れることがあるとも申しました。本日の旧約の日課、創世記45章のヨセフの信仰の証しがそれを示しています。愛のない兄弟たちの策略でヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされ、苦難に次ぐ苦難を受けます。しかし、最後にはエジプトの王ファラオに次ぐ高官に任命されるまでに至ります。その時、カナン地方を大飢饉が襲い、兄弟たちは食糧援助を求めてエジプトに来ました。今自分たちの目の前にいる高官がヨセフとわかって彼らは激しく動揺します。しかし、ヨセフは言います。あなたたちが私をエジプトに追放したのではない。後にあなたたちを救うために神が私をエジプトに送ったのだと。ヨセフは、兄弟たちに裏切られて売り飛ばされた時も、その後のエジプトでの様々な苦難の中にあっても、神がそばにおられることを信じて疑わなかったのです。もし疑っていたら、様々な誘惑があった時、神の意思に沿うなど意味がないと背いてしまったでしょう。しかし、背きませんでした。それは、まさに今日の詩篇の日課37篇にある、「主に信頼し、善を行え」という御言葉、「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように輝かせて下さる」という御言葉の通り、神に信頼して善を行い、そしてその正しさが光のように輝いたのでした。

 こう言うと、ヨセフの場合は運よくそうなったが、神に信頼して善を行ってもみんながみんなハッピーエンドにはならないと言う人も出てくるでしょう。ああ、信仰の薄い者たちよ、そんなことを言うあなたがたは、なぜイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたのかまだわからないのか?復活というものが本当に起きることが明らかになった以上は、正しさが光のように輝くのはたとえこの世の段階でなくても遅くとも復活の日に完全に起こるということがわからないのか?

 だから、神を信頼して善を行うことは何も心配しないで行って大丈夫なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

聖餐式

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2025年2月16日(日)顕現後第六主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。 アーメン

聖書ルカ6章17~26節 2025年2月16日(日)

題:「まことの幸に生かされる」

今日の聖書はルカ福音書6章17節~26節です。17節を見ますと「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」とあります。山から下りてこられ、とあるのは、その少し前の12節を見ますと、その事情がよくわかります。12せつには「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」とありますようにイエス様は人里離れた山に登って夜を明かして祈りに没頭されたのです。何を祈られたのでしょうか。今日の聖書のところで多くの病人や精神的に苦しみの中にある悪霊に取り付かれた人々をも、次々と病を治されていますから、多くの人々の救いを求めるのに対する哀れみの思いがいっぱいにあって夜通し父なる神にお祈りをされたのではないでしょうか。一人の人間では限界があり、そこにイエス様と共に協力して働きまたご自分の後を次いで行く弟子という者を12人選んで使徒と名付けられた。ルカはその弟子と選ばれた人の名をきちんと書き記しています。(6:14)にあります。

さて、夜が明けてイエス様は山を下り山腹の平らな所にお立ちになった。そこには数多くの弟子たちとユダヤ全土から、また都のエルサレムから、そして異邦人の地ツロやシドンの海辺の地からも群集がイエス様のもとに集まって来た。そうしてイエス様から病を癒してもらいたい、またイエス様の教えを聴きたいと群集は我も我もとひしめき合ったのです。そして、汚れた霊に悩まされた精神病者さえもが、たちどころに癒されていったのです。飼う者のいない羊のような群衆の様を哀れんでイエス様はそのひと時を病の治療の業に超多忙な時を過ごされたでしょう。それが一段落ついたところでイエス様は目を天にあげ、そして弟子たちを見て語りだされたのです。それが「山上の垂訓」として知られる教えでありました。イエス様は、まずどんな人が幸福であるか、どんな人が不幸であるか、というこの問題から語り始められたのです。

幸福な人はどんな人か、「貧しい人々」「いま飢えている人々」「いま泣いている人々」「人々に憎まれ、また人の子のために追い出され、罵られ汚名を着せられている人々」であると言われます。これに反して不幸な人は「富める人々」「いま満腹している人々」「いま笑っている人々」「全ての人々から褒められている人々」であります。以上ここで上げられた人々に対するイエス様の痛烈な言葉は甚だしく常識とは異なるもので意表をついた言葉でありました。しかもそれは余りにも人々の持っていた人間の常識とは異なる内容でありましたから人々の魂に深く突き刺さった言葉であります。これらのイエス様の教えの語り方というものが逆説的な言い方で人々の注意をひく語り方でありました。一言で言えばイエス様の教えは人々の常識とはとても似ているとは言えない厳しい断言であります。更には幸福な人々と不幸な人々についてその理由がずばりと単純に示して語っておられるのであります。

まず幸福の方では。

  1. 貧しい人々は…やがて結果として神の国はあなた方のものである。
  2. いま飢えている人々は…あなた方は満たされる。
  3. いま泣いている人々は…笑うようになる。
  4. 人に憎まれ追い出されたり汚名を着せられた者は天にてその報いは大きい。

次に不幸となる人々について。

  1. 富んでいる人々は…もう慰めを受けている。
  2. いま満腹している人々は…飢えるようになる。
  3. いま笑っている人々は…悲しみ泣くようになる。
  4. 全ての人に褒められている人々は…偽りの預言者たちのようになる。

こうして見て来ると現在と将来に於ける位置が転倒しているのです。ここでイエス様が言っておられる「いま」と言うのは何時であろうか。また将来とは何時のことであろうか。

<例えば>

2)番目に言われた、いま飢えている人々と言っても現在はそうであるかもしれない…で

も後に将来には食物を得ているかもしれない。同じように、いま泣いている人についても色々変化するかもしれない。…様々です。端的に言って「いま」と言われる事はこの世の事です。「将来」は天の御国であります。この世での貧しき人々が所有するのは結局「神の国」です。また迫害される者の受ける報酬は天に於いて大きな測り知れない報酬を受ける事もなります。不幸となる人々はこの世で富める者、満腹している者、笑っている者、これらの人々はやがて将来、死後に於いて満腹していた者が飢えるようになり、笑って威張っている者たちは泣き悲しみ苦しむ事になる。確かにいま現実のこの世で貧しい人々はまず食べる事に困っている。着るもの衣服も充分でなく、住む所も困っています。お金さえあれば…と嘆きます。しかしこの世でのものは天の国に於いて逆転ししまう。ここで思い出しますのは、ルカ福音書16章19節から31節にあります、「金持ちとラザロ」のたとえ話です。この例えでみられます、金持ちは金で自分の欲するものは何でも手に入れられ贅沢に暮らしていた。けれども死んだ後の世界では金で買えるもの、欲望を満たす全ての物という物は何も無いのです。人がこの世を終え死んだ後あるのは魂だけです。まことの幸せは聖なる霊の愛に生きる事です。そこでこの世でいま生きている者に向かってイエス様は教えられます。弟子たちに向かって語られています。権力がなくても、お金がなくても、貧しい人々よ耐え忍びなさい。やがて天のン野国はあなた方のものです。真の幸福そのものです。

いま、イエス様は押し寄せてくる群衆の病を癒し、力を与えて言われました。弟子たちに向かってはこの世の困窮には耐え忍び、また迫害されても、その苦しみに耐え、天の御国のまことの幸いを宣べ伝える者になりなさいと、教え給うたのであります。群集は病の治療を求めて来ます。しかし一時的な救いであります。結局は人の肉体は病気の前に屈服して死ぬ事は免れない、誰でもいつかは死を迎えます。一方イエス様が弟子たちに与えて行かれるものは永遠的なもの、絶対的なもの、天国の福音であります。弟子たちはこの福音を教えられ、自らまことの幸福者になって人々にその福音を伝え、まことの幸福者とらせること。彼らはその使命をイエス様から託されたのです。イエス様はユダヤ全土から続々と集まって来ていま身許にいる群衆を哀れみ、その苦しみ、病を癒し教えを語り給うた。これらの民衆はその身に負うている病と、その貧しさ、その人生の様々な苦難を背負っていま救い主イエスのもとに来てイエス様に触れイエス様の救いに接することが出来たのであります。その意味に於いて彼らは宮殿に座して錦の着物を着ている者たちよりもまことに幸福でありました。これに反して富んでいる人々、食べるものに飽きるくらい好みの飲食に満たされている人々、或いは人生を快楽と栄誉の中に過ごしている人々。彼らはイエス様のもとに来る動機も持たず、金など自分の思いのままに何でも出来るのですから、イエス様の救いに触れる機会も全く無い。天国の福音を聴く機会すらも全く無い。機会すらないのです。束の間のこの世の快楽も死を持って終ります。それ故彼らにはまことの幸福はない。むしろ災いと不幸でしかないのであります。人が幸福か、不幸であるかはイエス様の身許に来るチャンスを持つかどうかで決まるのあります。 

現代で言うならば、天の御国の救いに神の言葉である教説が語られている教会に来る事が出来るか、神の御言葉に触れ聖霊の導きによって信仰へと導かれ、これまでの古い人生から全く新しい人生の生き方へと変えられることが決定的な天の御国の約束と希望に満たされる真の幸福者となる事であります。この世は金と物質、ものが支配する世界です。嗚呼

お金があったらどんなに幸福か、その、この世は既に過ぎ去り死を迎えたら物質の支配は一切ありません。魂の世界、霊の世界です天の御国の支配に一番大切なものは、ただ愛の世界であります。救い主キリストを信じてキリストの愛に生かされるために、この世は愛も訓練の場でしかありません。愛を持って栄光をあらわす永遠の時であります。だから、イエス様は教え給うのです。嗚呼なんと幸せな人々、貧しい人々よ、神の国はあなた方のものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

聖餐式

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2025年2月2日 顕現後第四主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

 

主日礼拝説教 2025年2月2日顕現節第四主日

エレミア1章4-10節、1コリント13章1-13節、ルカ4章21-30節

説教題 「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きれば大丈夫」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の説教は先週の続きです。イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読と説き明かしを担当しました。イエス様はイザヤ書61章の最初の部分を朗読した時、「目の見えない人がみえるようになる」という42章7節の文を挿入しました。自分が人間の信仰の目を開く者であることを知らせるためにそうしたのです。信仰の目とは、天地創造の神の意思が見える目です。神が万物と私たち人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えた方であること、その神が罪のゆえに自分との結びつきを失ってしまった人間がまた結びつきを持てるようにとひとり子イエス様を贈って下さったこと、そのイエス様が十字架の上で自分を犠牲にして神と人間の結びつきを取り戻して下さったこと、これらのことが見えて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると神との結びつきを持ててこの世と次に到来する世の二つの世を生きられるようになるのです。

 とは言っても、十字架と復活の出来事が起きる前ではこのような信仰の目を人々に開くことはなかなか出来ません。そのかわりイエス様は、盲目の人たちの肉眼の目を開ける奇跡の業を行いました。そうすることで人々に自分は信仰の目を開ける力があることを比喩的に知らしめたのです。人々も、旧約聖書に言われる目の開きは肉眼のことではなく信仰の目であることを十字架と復活の出来事で初めてわかるようになります。

 このようにイエス様はナザレの会堂で自分の使命を明らかにするように聖書を朗読したのです。そこまでが先週の内容でした。その後で何が起きたでしょうか?

2.肉眼の目に留まってしまったナザレの人たち

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。会堂の人たちの視線が一斉にイエス様に注がれます。イエス様が口を開きます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この後でイエス様の説き明かしが続くのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。ただ22節をみると、会衆みんながイエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、彼が説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したと宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。

 ところが、ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。この訳では、どうしてこの後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという転回になってしまったのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の説き明かしを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。みなイエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いてはいるが、あれはヨセフの子ではないか、大工ではないか、などと言い始めたのです。この方は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなは知っている、大工じゃないか、ということが真実を遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様が肉眼に映る像を超えてメシアに映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。

 イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡の業でも行わない限り信じないということもわかりました。カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみせろ、そうしたら信じてやろう、会衆はそう言いたくて仕方がないと見破りました。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、後にイエス様が十字架に架けられた時、彼を信じない人たちが口にすることになる言葉でした。

 しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことを控えます。(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の御言葉とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラム王国の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異邦人でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異邦人に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じと言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った王国と同じ立場にある、というのです。

 これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。

3.ゴルゴタの十字架を見る信仰の目

 イエス様はなぜナザレの人たちを激怒させるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導いてあげてもよかったのではないでしょうか?先ほど申しましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験することを出発点にして信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります(同6章26節)。

 信仰とは、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことをその通りだと信じられることです。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るということもあります。しかし、注意しなければいけないのは、信仰が肉眼に頼るものにならないことです。肉眼に頼るものになってしまうと、奇跡の目撃や体験がなくなったら信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。

 それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指さなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反する罪があるなどと認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘したのです。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。そうせずに、自分たちをかつて神の罰を受けて滅亡した王国と一緒くたにするとは何事か、といきり立ってしまったのです。

 このことから明らかなように、信仰の目を持てて、その目でイエス様を見ることができるかどうかは、自分に神の意思に反する罪があることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるでしょう。しかし、自分を神の意志に照らし合わせて見るというのは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪までを問うものです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになったために人間は死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を内に宿していることの表われなのです。

 しかしながら、父なるみ神は、人間がたとえ死んでも復活の日に目覚めさせて造り主である自分の許に戻れるようにしてあげよう、そしてこの世で生きている間は復活に至る道を無事に歩むことが出来るようにしてあげよう、ということでひとり子をこの世に贈ったのです。それで、神罰を全て彼に受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架で起きたことです。人間は、イエス様の身代わりの罰受けが自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、その瞬間、イエス様が果たして下さった罪の償いは本当にその人のものになります。この時、その人は信仰の目を持っています。

 ところで、人間は信仰の目を持つと今度は、かえって自分の内に神の意思の反しようとする罪があるのがよく見えてきます。その時内なる信仰の戦いが始まります。キリスト信仰者が内にある罪に気づいて自分に失望したり神に背を向けたりすると悪魔がどす黒い勝どき声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれを意に介せず、目を一直線にゴルゴタの丘の十字架に向かって注ぎます。そこにかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時、私たちは息をのみ十字架の前に首を垂れます。同時に悪魔は失神して倒れ、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように果てしなく澄み渡り冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦された。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが神の意思に沿うように生きよういう心、神を全身全霊で愛そうとする心と隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。

4.勧めと励まし

 以上、信仰の目を持つと自分の罪が見るようになるが、罪の赦しの恵みに留まれば大丈夫、何も心配はないことを見てきました。これと同じことが本日の使徒書の日課、第一コリント13章でも言われていています。終わりにそのことを見ておこうと思います。

 第一コリント13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖句の一つです。ここで言われる、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、これらは、夫婦間だけでなく人間関係一般の理想です。これら一つ一つに照らし合わせてみたら、今の世はなんと愛から遠ざかってしまっているかと思わされるのではないでしょうか?

 「愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える」というのはどういうことでしょうか?「全てを信じる」とは、まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語(παντα)は「全てにおいて」という意味も持ち、ここはそれで訳すべきでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」とは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」も、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされてもイエス様のおかげで大丈夫、神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは、どんなことが起きようとも、忍耐し高ぶらない嫉妬しない等々の愛を持つということです。こうして見ると、愛を持てるかどうかは、全てにおいて信じられるか希望を失わないかどうかに関わってくることが見えてきます。

 どうやって「全てにおいて信じられ、希望を失わない」でいられるのか?パウロはそれを8節から永遠の視点で語ります。今の世が終わって、今の天と地に替わる新しい天と地が創造されて神の御国が現れる。その時、預言や異言という今の世に現れる聖霊の賜物はなくなってしまう。神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは無用になってしまうのです。

 ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違い、最初から完全で全体的なものだからです。しかしながら、それは神の側で完全かつ全体的なもので、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられる時、この自分が愛を完全かつ全体的に持てていることを目にするのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ、これらはかつていつも部分的、一時的にしか持てず、持てたと思いきや、すぐ消えてしまうの繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。自分が愛そのものになってしまっているのです。

 かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはまさにこのことです。当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった、愛は自分にはっきりと明瞭に現れるようになった。それでパウロは次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知ることになる」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。

 それでは、「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。

「神がこの世で私のことをはっきり知っていたように、私も神の御国で愛を体現していることをはっきり知るようになる。」

 これは変です。私は前の世では愛を体現していませんでした。体現しているのは今、神の御国でです。なのに神は、私が前の世でも愛を体現していたと見て下さったと言うのです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。

 「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたが前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さったことです。私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしました。高ぶったり傲慢になったりしました。」

そこで神は答えられます。

「わが子よ。お前は洗礼を受けてイエスの神聖な白い衣を身に纏った。それからは衣を手離さないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。お前が手離さないように握りしめた純白の衣の重みでお前の内なる罪は日々圧搾されてお前を支配する力を失っていたのだ。イエスを救い主と信じる信仰に生きたお前は、聖餐のパンと葡萄酒で衣を手離さないように握りしめる力を得ていたのだ。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者と前の世で知っていた、と言ったのだ。」

 パウロはフィリピ1章6節で次にように述べます。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言う通りだと思う人は信仰の目を持っています!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

後注(ギリシャ語がわかる人にです)

・πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。

・καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。

聖餐式

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2025年1月12日(日)顕現後第一主日(主の洗礼の主日)主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書3章15−17節、21−22節

「ヨハネが「私より優れた方が来られる」と指し示すお方」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の箇所は、3章の部分部分だけピックアップされており、バプテスマのヨハネのこと、そしてイエスの洗礼のことが書かれていますが、私は3章全体を通して今日の箇所にあるイエス・キリストの恵みを見ていきたいと思います。まず文脈を見てみますと2章では、ルカは、イエスの誕生と成長を通して、イエスは真の人であり、同時に真の神であるということを証ししてきました。そして、この3章でルカは、もちろんバプテスマのヨハネのことを書いていますが、そのヨハネはイエスを指し示すために約束された預言者であるのですから、中心はどこまでもイエス・キリストです。そしてその世にお生まれ手になった救い主イエスが、架空の人物だとか、イエスの話しが弟子たちの作り話だということでは決してなくて、イエスは確かに、人類の歴史の中に来られ、生まれ、生きられた真の神、真の救い主であるということを伝えることから始めるのです。

2、「歴史に確かに存在されたイエス:歴史の事実に基づいて」

 このルカの福音書は、「1章の喜びに始まり、終わりの24章も喜びで結ばれる」とよく言われるように、イエスの憐れみと恵みを伝えていて、慰めと喜びを与えてくれる福音の記録です。しかしそれは決してただ感情的に訴えるような伝え方ではありません。医者でもあった彼は証拠だててイエスの出来事が真実である事を説明しようと気をつけていることがわかります。このところでは、まず、彼は1〜2節で「皇帝ティベリウスの治世の第15年」と、その時代にイエスを指し示す預言者ヨハネが荒野に下ったと、きちんと歴史の事実をあげて伝えていることを見ることができます。ここでは、皇帝の名前だけでなく、パレスチナ地方の各地域の国主の名前も出て来るのですが、これは当時の、政治状況の歴史的な背景であり事実です。ローマ皇帝ティベリウス、そしてローマから任命されるユダヤの総督は、ポンティオ・ピラト。等々。正確に伝えようとしています。そして政治の面だけではありません。宗教面については、当時は、アンナスとカイアファが大祭司であったことも歴史的に説明するのです。ルカはこのように、この福音書に書かれているこの出来事、更に、ここでは旧約の預言の通り、神のことばが、荒野でザカリヤの子、バプテスマのヨハネに下ったという出来事ですが、それは、決して、作り話や物語、空想ではなくて、歴史のこの時に確かに起こったという事を、ルカは伝えているのです。一般的にも、このような歴史の事実から説明するということは、正しく情報を伝える時には大事なことで、それがどんな時に、どんな状況で、誰の時代、そこで何が起こったのかを示すことで、出来事が真実であることを私たちも確かに認めやすくなるでしょう。ルカはまさにそのことをしています。ある意味、1〜2節は預言者ヨハネの出来事と関係ないような支配者の羅列のように見えるのですが、ルカがそれを非常に詳しく書くのは、キリストの福音の記録が確かに歴史的な事実である事を証しするためなのです。

3、「それは救いの歴史の初めから連なる」

 それは3章の後半部分でも同じです。そこには、イエス様の系図が書かれています。皆さんがよく知っているのはマタイの1章が系図に始まっているのを知っているかもしれません。違う点は、マタイはアダムからイエスへと始まって説明していきますが、ルカはその逆で、イエスからアダムへと遡っているのが特徴です。一見、この系図はつまらなくて、意味がないかのように思うのですが、系図は大変、意味のあることです。それは先ず第一に、先程とおなじです。イエスは架空の人物ではなくて、イエスが確かにヨセフの家に、ヨセフの子として存在していたという事実です。歴史の事実であったということです。そしてもちろん、このイエスの系図はそれだけでなく、イエスが、確かに、神が約束されたダビデの子であり、アブラハムの子孫であるということまでを証明するものとして書かれているのです。旧約聖書の創世記では皆さん、神様からアブラハムに与えられた、「アブラハムの子孫によって世は祝福される」という契約を知っていると思います。まさにそのアブラハムの子孫として御子イエス・キリストは存在されているということ、そしてさらにはダビデの家にメシヤ、救い主、キリストが生まれるとも預言されていましたが、いずれの系図もその約束の通りであることを証明するための記録として書かれているのです。つまり、このイエスに成就した歴史の線を遡ると、神様が「女の子孫がサタンを砕く」と告げた、あの人類への罪からの救いの約束が確かにあり、イエスはその成就であり、イエスにおいて救いの歴史の線が確かに一本につながっていることの明確な証しなのです。

 このように、イエス・キリスト、そして聖書の福音書の記録。そこに書かれている一つ一つ、奇跡の一つ一つも、そして何より、十字架も復活も、それら全ては、決して、有名な神学者がいうような迷信、作り話、神話ではない、確かに人類の歴史、約2000年前のある所に確かに存在し、起こったことなのだと、今日のところは私たちに語りかけています。私たちの救い主、この聖書から聞くイエスのことばも奇跡も、そして罪からの救い、罪の赦しも、それらは決して空想話、作り話ではありません。イエスが、歴史に、人と人との間に、確かに存在している救い主であるということは、私達にとっては、とても意味があることでしょう。もしイエスが存在しないお方なら、あるいは、もしイエスが単なる良い話、良い物語の世界の架空のヒーローに過ぎず、私たちがそのような架空の物語の、良い話を聞いているだけなら、図書館の朗読会と何ら代わりがありません。もちろん、そこから学ぶことは多いでしょう。しかしそれは「神の前」にあっての「私たちの救い」ということ、あるいは、「神との関係」ということについて、あるいは、「神の前」でのことにおいては、全く何の意味ももちません。神がこの私たちの間に、歴史に、確かにイエス様を送ってくださった。イエス様は確かに人として救い主として事実、存在された。しかもそれは、遥か昔の神様の「救い」の約束からつながる事実としてこの人類の歴史に成就したということ。イエスのこの十字架は確かにこの歴史に立っていた。そこでイエスは死なれた。そしてイエス様はその三日目に確かによみがえって存在していた。さらには確かに、歴史のある時に、幻でも空想でも嘘でもなく、確かに弟子達のまえで天にあげられた。その時、イエスは確かに、いつまでもあなたがたとともにいると言われた。そして確かにこの私たちに歴史の事実として聖霊を与えて下さった。そのように全てが事実として示されるからこそ、その神が確かに、世に、私たちに働いてくださった、いや今も働いておられる、ここに書かれている救いの歴史の事実の線の上にこそ、私たちは、今確かに存在している。そのことに希望と平安を得て、今私たちは確かに、神様の前にある。救いが確かに今私たちにあると、確信を持って言うことができるはずです。その救い主は今も生きて歴史に、私たちの間に確かに存在しているからこそ、私たちは今日もこのように、これはその神のことばであると、生ける神のことばを信仰をもって聞いているし、そう信じるからこそ、この礼拝もみことばも喜びであり力であるとわかるはずです。逆に、これがまことの存在する救いの記録であり、これは今も生きる神のことばであると、思わないならば、このことばには意味等見いだせないのは当然ですし、礼拝も説教にも意味がない、力がないとなるのも当然なのです。みことば以外の他の物事に、重きがおかれていくでしょう。聖書は私たちに伝えています。書かれているすべてが事実であり、その約束は今も事実であると。このイエスも、その救いも、みことばも、聖霊も、そして神の恵みもすべて、真実であると。それこそを信じ、祈り、求めなさいと。これがこの3章から示される第一の福音であると教えられます。

4、「バプテスマのヨハネが指し示すお方」

A,「バプテスマのヨハネ:救い主、神、光ではない」

 3章の第二の恵みですが、ルカは今度は、イエス様がまことの神であり救い主であることを伝えるために、この時、非常にすぐれた預言者であり、人々から尊敬され、「キリストでは?」とまで言われた、バプテスマのヨハネの出来事を事実としてとりあげるのです。バプテスマのヨハネは、神が旧約聖書の預言で約束した、イエスの前に来ると約束された預言者でした。4節以下を見ますと、旧約聖書のイザヤ書の言葉が引用されて、この神様の約束の言葉の通りに、それが成就したと伝えています。この預言にある通りに、ヨハネは荒野で人々に、悔い改めを叫び、救い主の到来を教え示すのです。まさに主の道が救い主によって開かれる。その預言者はその道であるイエス様をまっすぐと指差し、指し示すというのが約束の預言でした。6節を見ますと、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。

とあるように、ヨハネが示す先に人々はイエス・キリストを見るのです。確かにこのバプテスマのヨハネはすぐれた神の預言者であり、ここでは10節では「群衆」、12節では「徴税人たち」、そして14節では「兵士も」、彼らは皆、ヨハネを「先生」と呼んでいて「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と皆この先生に救いを聞いているのです。そして15節では皆、「もしかすると、この方がキリストではないか」と思った程なのです。 そのように彼は尊敬されたすぐれた先生であったのです。

 しかし聖書が私たちに伝える大事なことは、彼は神、救い主ではなかったということです。すぐれた立派な人ではあったでしょう。しかし、地上に生まれ、朽ちるものから生まれたものは、どんなにすぐれた人、どんなに優れた先生であっても、決して神、救い主とはなり得ないのです。人は、その肉の性質として確かに「見えない神に

ではなく、優れた並外れた人間を神のように、あるいは王のように求めたり崇め立てようとするものです。サムエルの時代、イスラエルには彼らのために常に神がおり神の言葉があり、裁き司であるサムエルを通して神のことばがあって正しく導いていました。しかし、イスラエルの人々は、他の周りの国々と比べて、周りの人々と同じように、人間の王様をもとめて、自分たちもその人間の王様によって戦争に勝ち、パンが満たされ、国の繁栄を見たいと求めたのでした。それに対して神が警告しても、それでも彼らは王様を求めました。そのように目の前の人間中心の欲求のままに彼らは背が高くハンサムな好青年、立派でたくましいサウルを選んで、彼が王様として立てられましたが、しかしその王は、やがて民のパンを満たすどころか、パンを奪うものになりました。彼は神の言葉を軽んじ退けました。そのイスラエルの王様の子孫たちは、ダビデ以外は、皆、神を捨て、偶像礼拝に走り、結局は、民が自由に偶像礼拝するような国を造りました。そのダビデでさえも、神でも聖人でもなく、罪深い王であり不完全であったことが沢山書かれています。その結果、黄金のイスラエルは滅んでいったのです。地の塵から生まれ、そして堕落し罪人となった人間は、それが、いかに、どんなに優れて立派でカリスマのある先生であったとしても、たとえ約束の預言者であったとしても、どこまでも人であり一人の罪人です。神ではありません。決して救い主にはなれません。

B,「ヨハネは証しする:真の光、救い主は天から」

 聖書は何といっているでしょうか?救いは神から、救い主は天から来る。天から与えられる。聖書ははっきりと伝えているでしょう。使徒ヨハネはその福音書で、どのように私たちに伝えているでしょう。ヨハネによる福音書1章6節からですが、

「6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:6〜9節)

 「彼は光ではなかった」とあります。そしてその光は、そのお方、救い主は、天から来られることを示しています。さらにヨハネの福音書3章27〜30節ではバプテスマのヨハネ自身がこうイエスを指し示しているでしょう。

「27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」」(ヨハネ3:27〜30)

 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」、「私はメシアではない。」、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」ヨハネ自身がそう伝えるのです。ルカの福音書でも一致しています。3章16節

「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

 ヨハネは自分でも言うように、救い主ではありませんでした。彼自身授けている洗礼さえも、人を救う洗礼ではありませんでした。彼は立派な先生でした。彼の語る言葉は立派な「律法の」ことばでした。模範的な聖い生活もしていたでしょう。しかしそのバプテスマのヨハネ自身も、彼の言葉も、彼の洗礼も決して人を救いません。たとえ彼のアドバイスするその通りに完全に行いができたとしても、それが人を救うのでは決してありません。いや、救うことは出来ないのです。律法は人の不完全さ、神の前にあってどこまでも罪人であることを示すだけであり、決して人を救わないのと同じです。私たちの救いは、バプテスマのヨハネが、そのように道を備え、指し示す、福音、天から来られた神の御子「イエス・キリスト」のみである。その天の御子があたえる、聖霊と火のみことばによる洗礼によってこそ、あなたがたは救われるんだ。バプテスマのヨハネ自身がそのようにイエスを教え、イエスを指し示し、ルカはそのことを私たちに書き記しているのです。

5、「この方を見よ:神からの約束の成就:ヨハネはその方を指し示す」

 さらには、22節では、イエスが洗礼を受けたとき、天からイエスに呼ぶ声がしたことが書かれているでしょう。「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と。まさに、天からです。そしてヨハネはこのことを証してイエスを指し示しました。ヨハネ1章29節以下ですが、

「29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。〜「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」」(ヨハネ1:29〜34)

 バプテスマのヨハネが指し示す先、そして使徒ヨハネも、そしてルカもこの3章で、ヨハネのその指し示す指を用いて、私たちに指し示しているでしょう。すぐれた先生であるヨハネがキリストではない。私たちが捜し求め、信じるのは、地から生まれ出た王や優れた先生ではない。王も優れた先生も人であり神の前にどこまでも罪人であり、人は誰も自分自身でさえも誰も救うことは出来ない。彼らは救い主ではない。このバプテスマのヨハネであっても。彼は「自分はますます衰えなければならない」とまで断言しています。では、救いはどこにいるのか。救い主はだれか。それは、このイエス・キリストこそ、まことの救い主であると、彼は指し示し、ルカもそのことを示すのです。その方は確かに歴史に存在し、その十字架は確かに立っていた。その方は確かに復活されて、今もこの歴史に、私たちの間に生きておられる。だから、このイエス・キリストの救いも、みことばも、聖霊も、まさに真実であり、力があり、それが私たちに事実として与えられている。存在している事実なのだと。だからこの預言者が、聖書が指し示すお方を見よ。と。これが今日も、神が私たちにみ言葉を通して伝えるの福音のことばに他なりません。使徒たちは世界の人々にはっきりと言いました。

「12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)

6、「あなたはどこに救いとその確信を見るか?」

 私たちは何に救いを見るでしょうか?求めるでしょうか?何に救いの確信をおくでしょうか?自分の行いですか?自分の立派さですか?すぐれた先生ですか?王様ですか?バプテスマのヨハネですか?すぐれた先生のわざ、人間のことばや理性に救いの力があるのですか?確信があるのですか?道があるのですか?そうではないでしょう。バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示しました。使徒たちも、そして歩き出したばかりの教会も、この「イエス・キリスト以外には、誰によっても救いはありません。私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていない」と、イエス・キリストを指し示しました。私たちは神ではない。イエス・キリストにこそ、あなたがたの救いがあると。ですから答えは簡単です。この方、イエス・キリストを見ましょう。その救いの約束、その成就でありキリスト自身が成し遂げたこの十字架と復活を見ましょう。人の何か、自分の何かではなく、イエス・キリストにあって確信をもちましょう。イエス・キリストのみことばと聖餐を受け続けましょう。その約束のうちに今日もイエス様は私たちに宣言し遣わしてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひイエス・キリストに祈り、イエス・キリストにどこまでも期待し、信頼して歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

説教「造り主である神との関係に照らし合わせて自分自身を見つめることは、イエス様を救い主と信じる信仰のはじめ」 吉村博明 牧師 、マタイによる福音書2章1~12節

主日礼拝説教 2025年1月5日 主の顕現の主日

聖書日課 イザヤ60章1-6節、エフェソ3章1-12節、マタイ2章1-12節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は有名な「東方の三賢」の話ですが、本当にこんなことがあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来たとか、王子様の星を見たことが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。

 いつもこの個所について説教する時に申し上げることですが、ここに書かれた出来事はおとぎ話で片付けられない歴史的信ぴょう性があります。今回もそのことについておさらいをします。

 ところで、出来事がおとぎ話ではない、信ぴょう性があるとわかっても、それでイエス様を救い主と信じる信仰に至るかというと、そんな程度ではまだまだという人が大半ではないでしょうか?イエス様を救い主として信じて受け入れるというのは、聖書に記された出来事の歴史的信ぴょう性とは別のところに鍵があります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせて見るということです。自分と自分の造り主である神との関係はどんなものか考えてみることです。そのことも以前申し上げてきました。何度繰り返してもいいことなので本説教でも述べます。新しい視点を入れて述べます。

 ここで信仰と歴史的信ぴょう性の関係というのは次のようなものではないかということを述べておきます。自分自身を神との関係に照らし合わせて見つめ直して、その結果イエス様を救い主と信じるようになる。その時、おとぎ話みたいな出来事はきっと歴史的に何かがあると考え始めて、いろんな可能性を検証するようになっていく。それとは逆に、自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直しことをせず、イエス様を救い主と信じる信仰に至らなかったら、こんな出来事はありえないというバイアスがかかって可能性の検証に向かわなくなる。つまり、信仰が信ぴょう性に道を開くのであり、逆ではないということです。そういうわけで、イエス様を救い主と信じる信仰は、自分自身を造り主の神との関係に照らし合わせて見つめることから始まるのです。

2.東方の三賢の出来事の歴史的信ぴょう性について

まず最初に本日の福音書の箇所の出来事の歴史的信ぴょう性について振り返ってみます。

思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、私はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。

 1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座の中で異常接近したことを突き止めました。他方では、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があり、そこから古代の天体図やカレンダーが発掘されています。その中には紀元前7年の星の動きを予測したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するというのは普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。

そこでイエス様の誕生年についてみると、マタイ2章13ー23節によればイエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ルカ2章にあるローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで星の動きが緻密に観測されて、その動きもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れと考えられました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、もし学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。それで、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

そこで、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみます。紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失いませんでした。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは旧約聖書のエステル記からうかがえます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ民族やその信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ

などと隣近所はささやいていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ民族の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで本日の日課にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くして王についた人です。それで、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景に見事に裏付けされるものです。ただ、一つ難しいことは、東方の学者たちがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これについては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。先に述べましたが、木星と土星の異常接近は紀元前7年は一回限りでなく何回も繰り返されました。それで、エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。とにかく聖書の神は太陽や月や星々さえも創造された(創世記1章16節)方ですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

3.イエス様を救い主と信じる信仰に至る本当の鍵

東方の三賢の出来事の歴史的信ぴょう性を見た後は、いよいよイエス様を救い主と信じる信仰に至る本当の鍵について見ていきます。キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

 まず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからは彼こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならないと脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから伝道は続けるしかありません。

そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうち信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。

 では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は今の時代を生きる自分のためにも神が成し遂げて下さったのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?

イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。ご存知のように聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。

造り主の神との関係において自分を見つめると、神の前に立たされた時、自分は耐えきれないのではと気づきます。というのは、神は神聖な方であり、自分は神の意思に反する罪を持っているからです。神の意思というのは、十戒に凝縮されています。父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、嘘をついたり偽証したり改ざんしたり、妬みや嫉妬に駆られて何かを得ようしたならば、それらが行いに現れようが心で描こうがみんな神の意思に反するので全て罪です。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。

加えて、十戒の最初の部分は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟があります。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考えだな、そんな掟があるから自分の正義を振りかざして宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えています。その理由は「復讐は神のすることだから」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは、少なくともキリスト信仰では、実に人間の仕返しの権利を全部神に譲り渡すということです。そんな、やられたのにやり返さなかったらこっちが損するだけではないか、と言われるでしょう。しかしパウロは、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つと、少なくともキリスト信仰では、人間は相手をなぎ倒してまで自分の正義を振りかざすことがなくなるというのが本当のことなのです。

このような十戒に照らし合わせて見ると自分はいかに神の意思に反することだらけということに気づかされます。自分は完璧で、神の前に立たされても大丈夫だ、何もやましいことはない、などと言える人はいません。神の前に立たされたら自分はダメだ、持ちこたえられないと気づくと、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなると、自分を見つめることを神との関係に照らし合わせてしなくなり、別のものに照らし合わせてするようになります。

まさにその時、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を贈られたのかを思い出します。神聖な神のひとり子が人間の罪を全部引き受けて私たちのかわりに神罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれました。そのようにして私たちの罪の償いを果たして下さいました。それで彼こそ救い主です、と信じて洗礼を受けると罪の償いがその通りになって、神から罪を赦された者として見なされ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しの十字架は歴史上確固として打ち立てられたものです。自分を神との関係に照らし合わせて見つめて、その結果、神から遠ざかろうとする自分を感じたら、すぐ十字架のもとに立ち返ります。そうすれば、神と自分との結びつきは神の愛によってしっかり保たれているとわかって、恐れや後ろめたさは消えてなくなります。

本日の使徒書の日課エフェソ3章の12節でパウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べていました。少し注釈しながら言い換えると、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついていて、その信仰のおかげで神の前に立たされても大丈夫という確信がある。それで、神のみ前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。

4.勧めと励まし

最後に、東方の学者のグループのベツレヘム訪問はキリスト信仰者の信仰生活に通じるものがあるということを述べておきます。彼らは星に導かれて救い主のもとに到達しました。私たちにはそのような星はありませんが、救い主のもとに到達できるために聖書の御言葉があります。私たちには聖書の御言葉が星の役割を果たしています。救い主のもとに到達した学者たちは捧げものをしました。私たちも捧げものをします。何を捧げるのか?ローマ12章1節でパウロは「自分の体を神の御心に適う神聖な生贄として捧げなさい」と勧めます。それはどんな捧げものか?2節を見ればわかります。少し注釈しながら訳しますと、「あなたがたはこの世に倣ってはいけない。あなたがたはイエス様を救い主と信じる信仰によって心の状態が一新されたのだ。だから、あとは何が神の意思であるか、善いことであるか、神の御心に適うことであるか、完全なことであるか、それらを吟味する自分へと変わりなさい(後注)。」これが自分の体を神聖な生贄として捧げることです。信仰によって心の状態が一新させられたら、後はどのように変わっていくか、その具体的内容については12章でずっと述べられていきます。先ほど述べた、仕返しの権利を放棄することもその一つです。

学者たちは捧げものをした後、ヘロデ王のもとには戻りませんでした。救い主のイエス様のもとに到着して自分を神聖な生贄として捧げる者は、この世の声に倣わないということが暗示されているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注(ギリシャ語がわかる人に)ローマ12章2節は新共同訳では「自分を変えていただき」と訳されています。これはμεταμορφουσθεを受動態に考えて「(神によって)あなた方は変えられなさい」と訳したものです。4年前の説教で私も受動態で訳しました。フィンランドの神学部の授業ではここはmedium(日本語で何と言う?中動態?)で考えるべきと言われていましたが、私は律法的になるような気がして少し抵抗がありました。ところが、その後考えがかわり、今回はmediumで訳しました。パウロは読み手に対して強い調子で「あなたたちは自分自身で変わりなさい」と言っているということです。律法的にならないかという心配ですが、τη ανακαινωσει του νοοςがあるので律法的にならないことがわかりました。「心の状態を新しくしてもらったことをもって(dativus modi)/新しくしてもらったので(dativus causae)」あなたがたは変わりなさい、ということです。νουςは新共同訳では「心」と訳されています。英語ではmindと訳されています。「心」だとκαρδιαと一緒くたになってしまうので「心の状態」としました。キリスト信仰者はνουςが新しくされているので、肉には罪があっても救われているということがローマ7章の終わりで言われています。それで12章2節は、キリスト信仰者であるあなたたちはνουςが新しくされているので変わるのは当然なんですよ、というような、命令よりも注意喚起になるのではないかと思いました。それを基点にして12章の中にある行動リスト(大半は分詞形、一部は命令形)を見ると、νουςが新しくされたキリスト信仰者にとってはどれも当然のものなのだという注意喚起の続きになるのではないかと思いました。イエス様を救い主と信じる信仰によって救われた結果として、リストの諸行為は当然のものとして現れてくるのだ、忘れるな、ということです。救われるためにこれらをしなければならないという救いの条件ではないということです。救いの条件にしてしまうのが律法的ということです。

説教「永遠を思う心を持っていれば大丈夫」 吉村博明 牧師 、マタイによる福音書25章31~46節

礼拝説教 2025年1月1日新年礼拝

聖書日課 コヘレト3章1-11節、黙示録21章1~6a節、マタイ25章31~46節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

西暦2025年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は昨年の12月1日の待降節に入った時から始まりましたが、世俗のカレンダーでは今日が新しい年の始まりです。新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことは大事です。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと諦めて向かって行くのと、いや、これからは今までと違うものになるのだと前向きに向かって行くのでは試練に対する向き合い方、試練の中にあっての進み方も違ってきます。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に中身を与えるものになりますように。

2.私たちの試練に対する神の手腕

以前の説教でもお話ししたことがありますが、何年か前、私の家族で長期間病気などがあったりして、もう日本でのミッションの仕事は続けられなくなるのではないかという試練がありました。本当にもがくような思いで、多くの人の祈りに支えられながら、やっと暗いトンネルの中に光が見えてきてそれに向かって歩みだした時、あるキリスト信仰者から次のような言葉を頂きました。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、そして、わかった時点に立って後ろを振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい地点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。

 なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方だと信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するというのは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福と導きをお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを願う相手はこの方以外にはない、という具合に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。

 それでは全身全霊で神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう言うまでもなく、その神がかけがえのないひとり子を私たちに贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父なるみ神を私たちはその子として信頼するのです。だから、試練があってもそこで立ちすくんだり埋没したり堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)神が準備して下さっている次の段階に向かって進んでるという見方になれるのです。

 そのことを使徒パウロは第一コリント10章13節で次のように述べています。「神は真実な方です(注 ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」

 イエス様を救い主にしていない人たちから見たら、こういうのは根拠のない楽観論にしかすぎないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的な真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ8章28節です。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、神が万事を益にしてくれると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。全てが見事に埋め合わさった全体像を後で見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。

3.コヘレトの永遠を思う心について

このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中の時は父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。3章11節で、天と地と人間を造られた神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。

 永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、説明は簡単ではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には創造主の神と神の霊、そして箴言で言われる、天地創造の場に居合わせた神の「知恵」なる者しか存在しませんでした。神が天地を創造して時間の流れが始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26ー29節、詩篇102篇26ー28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。新しい天と地のもとで唯一の国として「神の国」が永遠に存続すると言うのです。そういうわけで、今の天と地は造られてから終わりを告げる日までは時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

 神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の中におられる方が、限りあるこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えた後も復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。そのような今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる神との結びつきを持てるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった原因、つまり神の意思に反しようとする罪をどうにかしなければならない。それで神のひとり子のイエス様は人間の罪を全部引き受けて十字架の上で人間にかわって神罰を受けて、私たち人間のために罪の償いを神に対して果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持って生きられるようになったのです

神はそのような永遠に属するひとり子を信仰を通して私たちの心に与えて下さいました。まさにコヘレト3章11節で言うように、神は永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は永遠を人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר、מבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which)神のなさる業を始めから終わりまで見極められないという心を」という訳になるのではないだろうか?そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」となるのではないだろうか。ただ、英語(NIV)やフィンランド語やスウェーデン語の聖書も新共同訳と同じように訳しているので、あまり大きな声で主張するのはばかれます。それでも、イエス様という永遠に属する御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと密かに思っています。

 もちろん日々の試練の中では神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味で、心に永遠を与えられても発見できないというのはやはりその通りです。そうなるとペシミズムになってしまうのか?しかし、先ほど述べたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中にある時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっていることでは神のなさる業を発見できているのです。この視点に立ってコヘレトを見ればペシミズムに留まらないで、それを超えるものが見えてくるのではないでしょうか。

 コレヘト3章の初め「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のところで、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、もちろん自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。これをどう考えたらよいでしょうか?

 そこで、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りを見てみます。ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。つまり、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかなくなります。そこから出発しなければならなくなります。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?これが一番大切なことです。

 ここで「永遠」の出番となります。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのこととしたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、目指す先には神の意思、神の正義、神の義があることが見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目で見て不幸な状態にある人たちの立場が逆転する可能性について繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるでしょう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口にしか過ぎない完璧な逆転が待っているのです。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。

4.勧めと励まし

イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神と結びつきを持って生きられるようになったとは言っても、それでも内側にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。自分では神の意思に沿うように生きようと志しても、それが叶わない、至らないことにいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分はもう一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つのだろうか?と。

 この個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25章40節)」。これはギリシャ語原文が厄介な個所です。直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした分をεφ’ οσονあなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くのことをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことが少しあるということです。少なくしたら、しなかったことが多くあるということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、みんな自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないと言うのです。

 キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しに留まって生きる限り、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。助ける人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられなくても神に祈ることはできます。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りがカモフラージュや自己満足に陥ることはありません。

 兄弟姉妹の皆さん、今世界を見渡すと、皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして、それをSNSを通して拡散するので何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力のある人たち、感情に訴える力のある人たちが我が物顔です。こういう時だからこそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い起こしましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はやがて火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなこととは別のところにあることもわかります。それなので、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られそれをいつか新しいものに変えられる方と結びついていることを今一度思い起こしましょう。その方は私たちの試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっています。なので、日々聖書を繙き御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「イエス・キリストは聖書と礼拝を通して私たちのそばにおられる」 吉村博明 牧師 、ルカによる福音書2章41~52節

主日礼拝説教 2024年12月29日 降誕節第一主日

聖書日課 サムエル上2章18-20、26節、コロサイ3章12-17節、ルカ2章41-52節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様が12歳の時の出来事についてです。両親と一緒にエルサレムの過越祭に参加した後で行方不明になってしまった、両親が慌てて探しに行き、神殿の中で律法学者たちと議論をしていたところを見つけたという出来事です。神殿でイエス様は神童ぶりを発揮したということでしょうか。イエス様は神のひとり子なので文字通り神童ですが、ここは、子供のイエス様が既に人々を驚かせる才能を持っていたことを示すエピソードに留まりません。よく見ると、この出来事は私たちキリスト信仰者の信仰にとっても大事なことを教えています。母マリアとイエス様のやり取りの中にその大事なことがわかるカギがあります。今日はそれについて見てみましょう。

2.神のひとり子が人間として生まれ出た後の成長

今日の個所はよく目を見開いて読むと、成人するまでのイエス様の生涯のことがいろいろわかってきます。マルコ福音書とヨハネ福音書のイエス様の記録は大人になってからです。まず洗礼者ヨハネが登場して、それに続いてイエス様が登場します。翻って、マタイ福音書とルカ福音書はイエス様の誕生から始まりまり、双方ともイエス様の誕生後の幼少期の出来事も記されています。例えば、ヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れたことや割礼を受けたこと、神殿でシメオンやハンナの預言を聞かされたことなどがあります。その後のことは今日のルカ2章の箇所で12歳の時の出来事が記されているだけです。あとは洗礼者ヨハネの登場まで何もありません。イエス様がゴルゴタの十字架にかけられるのは大体西暦30年頃のことなので、この12歳の時の出来事は幼少期と大人期の間の長い空白期の中の唯一の記述です。それでも、この短い記述からでもイエス様のことがいろいろわかってきます。

 まず、マリアとヨセフが毎年過越祭に参加していたことに注目します。ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまで直線距離で100キロ、道はくねくねしている筈ですから百数十キロはあるでしょう。子供婦人も一緒ならば数日はかかる旅程になります。イエス様は小さい時から両親に連れられて毎年エルサレム神殿で盛大に行われる過越祭に参加していたのです。皆さんは、今日の個所を読んで、帰路についた両親がイエス様がいないことに1日たった後で気づいたということを変に思いませんでしたか?あれ、どうしてエルサレムを出発する時に一緒にいないことに気がつかなかったのだろうか?それは、旅行が一家族で行うものではなく、それこそナザレの町からこぞって参加するものだったことを考えればわかります。マリアとヨセフはイエス様が「道連れの中にいる」と思ったとあります。また「親類や知人の間を捜しまわった」とあります。「道連れ」というのは、ギリシャ語のシュノディアという単語ですが、これはキャラバンの意味があります。つまり親類や知人も一緒の旅行団だったのです。そうすると中にはイエス様と同い年の子供たちもいたでしょう。子供は子供と一緒にいた方が楽しいでしょう。あるいは何々おじさん、おばさんと一緒にいたいということもあったかもしれません。いずれにしても、マリアとヨセフは出発時にイエス様がいなくても、きっとまた誰それの何ちゃんのところだろうと心配しなかったと思われます。もう何年も同じ旅行を繰り返しているので同行者も顔なじみです。二人が気にしなかったことからイエス様がどれだけこの旅行に慣れていたかがわかります。このようにテキストを一字一句緻密に見ていくとイエス様の幼少期から12歳までの様子の一端が窺えるのです。

 そして12歳の時に今までになかったことが起こりました。イエス様は両親と一緒に帰途につかず神殿に残りました。両親は行方不明になった子供を必死に探し回り、やっと見つかったと思ったら、なんと神殿で律法学者と議論しているではありませんか!マリアとヨセフの驚きようと言ったらなかったでしょう。この出来事について後ほど詳しく見てみます。

 この出来事の後のイエス様の様子はどうなったでしょうか?51節を見ると、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」とあります。「仕えてお暮しになった」というと何か、もう両親に心配かけない、いい子で生きたという感じがします。ここはギリシャ語のヒュポタッソーという動詞がありますが、両親に服するという意味です。もちろん両親に「仕える」こともしたでしょうが、要は十戒の第4の掟「父母を敬え」を守ったということです。当時のユダヤ教社会では13歳から律法に責任を持つとされていました。12歳までは子供扱いなのでした。エルサレム旅行から帰って程なくして13歳になったでしょうから、律法を守る責任が生じました。それで、エルサレム旅行の時に両親と緊張する場面があったが、その後は第4の掟に関しても他の掟同様、何も問題なかったということです。

 洗礼者ヨハネ登場するまでの十数年の間の期間は平穏で祝福されたものであったことが52節から伺えます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」「背丈も伸び」というのは、私の使うギリシャ語の辞書では「年齢を重ね」という意味もあり、フィンランド語の聖書ではそう訳されています。「神と人とに愛された」も、「神や人々が彼に抱く愛顧も増していった」です。そういうわけで、本当に誰からも好かれ頼られる非の打ちどころのない好青年に育ったのでしょう。その彼がやがて、人間と神の関係の障害となっている問題、罪と死の問題を解決するために自らを犠牲に供する道を進むことになるのです。

3.イエス様は神に関する事柄の中にいなければならない

以上、少年期、青年期のイエス様の様子が少しわかってきたところで、エルサレムでの出来事に戻りましょう。12歳のイエス様とマリアの対話の中に私たちの信仰にとっても大事なことがあります。

 マリアが問い詰めるように聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」「心配して」とありますが、ギリシャ語のオドュナオーという動詞はもっと強い意味です。気が動転した、とか苦しくて苦しくて、という意味です。マリアとヨセフは1日分の帰り路をエルサレムに戻らなければなりませんでした。加えてエルサレムでも少なくとも丸2日間捜さなければなりまんでした。当時人口5万人位だったそうです。しかも、過越祭の直後でまだ大勢の巡礼者たちが残っていたでしょう。そんな中を行方不明の一人の子供を捜し出すというのは絶望的な感じがしてしまいます。その時の二人の必死の思いはいかほどだったか想像に難くありません。運よくイエス様は無事でした。しかし、二人は無事を喜ぶどころではありませんでした。見つかった息子は、両親の顔を見るなり、お父さん、お母さん、会えてよかった!と泣きながら懐に飛び込んでくるような子供ではなかったのです。親の心配をよそに神殿で律法学者と平然と議論していたのです。なんだこれは、と両親が唖然として様子が目に浮かびます。

 そこでマリアの問いに対するイエス様の答えが重大です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」残念ながら、この訳ではイエス様の真意は見えてきません。ギリシャ語原文では「どうして捜したのか」と言ってはいないのです。「どうして捜したのか」と言うと、あなたたちは捜す必要はなかったのにどうして捜したのですか?と聞いていることになります。イエス様はそんなことは聞いていません。じゃ、何を聞いたのか?原文を直訳すると「あなたたちが私を捜したというのは、一体何なのですか?」少しわかりにくいですが、意味はこうです。あなたちが私を捜したというのは、私が迷子になったということなのか?私は迷子なんかになっていない、私は自分がどこにいるかちゃんとわかっている、という意味です。じゃ、どこにいるかというと、「父の家」がそれです。「父の家」とは父なるみ神の家、つまりエルサレムの神殿のことです。ところが、ここも説明が必要です。ギリシャ語原文では「父の家」とはっきり言っていません。「父に属する事柄、父に関わる事柄」です。もちろん、神殿はそうした事柄の一つですが、神殿の他にも「父に属する事柄、父に関する事柄」はあります。それでは、他にどんなことがあるのかということをこれから見て行きます。「私は、父に属する事柄/父に関わる事柄の中にいなければならない、そのことをあなたたちはわからなかったのか?」。イエス様がいなければならない「父に関わる事柄、父に属する事柄」とは何か?

 エルサレムの神殿では律法学者たちが人を集めてモーセ律法について教えることをしていました。公開授業のようなものです。モーセ律法について教えるというのは、天地創造の神の意思について教えることです。創造主の神が人間に何を求め何を期待しているかについて教えることです。過越祭に参加していたイエス様は神殿で彼らの教えを耳にしたのでしょう。神のひとり子ではありますが、人間としてはまだ12歳です。ということは、言語能力、語彙力も12歳です。しかし、両親が敬虔な信仰者で家庭でもお祈りし旧約聖書の話をしてシナゴーグの礼拝に通っていれば信仰の言語や語彙を習得していきます。12歳のこの日、律法学者の話を耳にした時、以前だったら抽象的過ぎて馬の耳に念仏みたいだったのが、この時は何が問題になっているかがわかるようになっていたのです。

 それでは、12歳のイエス様は律法学者の教えに対してどんなわかりかたをしたのでしょうか? 12歳のイエス様の言語能力と語彙力は、確かに30歳や40歳の学者よりも限られているかもしれません。しかし、神の意思についてはイエス様は心と体で100%わかっています。逆に律法学者の方は、言語能力と語彙力は12歳より大きいかもしれませんが、神の意思についてはほんの少しかわかっていなかったでしょう。抽象的な話に入っていける年頃になったイエス様は、学者たちがこれが神の意思だと言って教えていることに大いに違和感を覚えたに違いありません。なぜなら、神は彼の父だからです。イエス様はこの世に生まれ出る前はずっとずっと父のもとにいたので神の意思については被造物である人間なんかよりもよくわかっていました。それで律法学者の公開授業に飛び込んで、ああでもないこうでもないという話になったのです。12歳のイエス様の言葉は学者が使う言葉とは違うけれど、神のことを全てわかっているので質問も答えも本質をつくものだったでしょう。人々が驚いたのも当然です。

 ここからわかるように、イエス様が神に関わる事柄の中にいなければならない、と言ったのは神殿にいなけらばならないという意味ではなかったのです。そうではなくて、神の意思が正確に伝えられていないところに行ってそれを正さなければならないという意味なのです。このことは後に大人になったイエス様が活動を開始した時に全面的に開花します。その時のイエス様はシナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読を任される位になっていました。律法学者並みの言語能力と語彙力がありました。しかも、神の意思を100%心と体でわかっています。そのような方が神の意思について教え始めたらどうなるでしょうか?マタイ7章28節で言われます。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」神のひとり子と人間の知識人の差は既に歴然としていたのです。

4.勧めと励まし

ここでイエス様を捜す、見出すということについて、私たちの場合はイエス様を捜す、見出すというのはどういうことか考えてみましょう。私たちは罪が身近に来て私たちと神との結びつきを弱めようとする時とか、私たちに苦難や困難が降りかかる時に、父なる神や御子なるイエス様に助けを祈り求めます。キリスト信仰者は神に祈る時、必ず終わりに「私の主イエス様の名によって祈ります」と言います。「イエス様の名によって」というのは「イエス様の名前に依拠して」祈ります、ということです。他の何者の名前を引き合いに出しません、それ位イエス様は私の主です、ということを父に知らせます。なぜイエス様が主であるかと言うと、彼が十字架にかかって私の罪の神罰を代わりに受けて下さったからです。そのようにして私と神との間を取り持って下さったからです。そして死から復活されたことで私のために死を滅ぼして復活の体と永遠の命に至る道を切り開いて下さったからです。今その道を共に歩んで下さっているからです。イエス様は、世の終わりまで一緒にいると約束されました。

 ところが、このように祈っても苦難や困難が終わらないと、イエス様は一緒にいてくれないような気がしてきます。イエス様は一体どこに行ってしまったのか?行方不明になってしまったのか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰は、イエス様がそばにいたら苦難や困難は皆無という見方をしません。逆に苦難や困難があるのはそばにいない証拠だという見方もしません。イエス様を救い主と信じ洗礼によって結ばれたらイエス様は苦難や困難があろうがなかろうが関係なくそばにおられるという見方です。祈り願い求めているのにその通りにならないのはなぜかという質問をたてて答えを求めようとすると、日本の場合はすぐ祟りとか呪いとかいう話になっていくと思います。キリスト信仰は、もちろん苦難困難は早く終わるにこしたことはないが、仮に早く終わらなくてもトンネルの出口を目指してイエス様が一緒に歩いて下さるという信仰です。

 それでは、苦難や困難の中でも、暗いトンネルの中でも、イエス様が一緒に歩いて下さることがどうしてわかるのか?それについては、彼が母マリアに言った言葉を思い出しましょう。「私は神に関わる事柄の中にいなければならない。」神に関わる事柄の中にイエス様はいらっしゃいます。まず、聖書のみ言葉が神に関わる事柄です。そこにイエス様はいらっしゃいます。教会の礼拝も神に関わる事柄です。特にその中でも御言葉と説教と聖餐式は集中的に神に関わる事柄ですので、イエス様が共におられる密接度が高まります。苦難困難の最中でも御言葉と礼拝と聖餐式を通してイエス様はすぐそばにおられます。行方不明なんかではありません。日々、聖書のみ言葉を繙きそれに聞き、礼拝に繋がっていればいいのです。祈りは父なるみ神に届いています。解決に向かってイエス様が一緒に歩んで下さるというのが祈りの答えです。それなので私たちはこの暗闇のような世の中でひとりぼっちで立ちすくんでしまうこともないし、正しい方角もわからずにやみくもに進むということもないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

クリスマス・イブ礼拝の説教「福音の光を心に届けるクリスマス」 吉村博明 牧師 、ルカによる福音書2章1~20節

降誕祭前夜礼拝説教 2024年12月24日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.はじめに

今私たちはイエス・キリスト誕生に至る流れを聖書に基づいて駆け足で見ました。最後に朗読されたルカ福音書2章1~20節はイエス様が誕生した時の出来事を伝える個所です。世界中のキリスト教会のクリスマス・イブの礼拝で朗読されます。このイブの日、日本やオーストラリアで世界に先駆けて朗読されます。そこからユーラシア大陸にあるキリスト教会、アフリカやヨーロッパにある教会、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸にある教会で朗読されて世界を一周します。天にいます父なるみ神よ、どうか、戦乱や自然災害、権威主義体制のもとで平和な礼拝を持つことが難しいところでも、今日大勢の人がこの聖句に耳を傾けて、外面的な混乱に左右されない内面的な平安を持つことができるようにして下さい。アーメン

 さて、毎年同じ聖句を読んで聞かされてキリスト教徒は飽きないのかと言われるかもしれません。これは飽きる飽きないの問題ではありません。この日はイエス様の誕生を覚える日です。主の誕生を覚えるのに何が相応しいかと言えば、この聖句に耳を傾けて思いを巡らすことをおいて他にはありません。キリスト信仰者は、創造主の神と自分自身との関係について、また信仰者として自分のこの世での立ち位置について、毎週日曜の礼拝や日々の生活の中で確認しながら人生を歩みます。同じ聖句を何度も読んだり聞いたりするのは、神の御言葉は何があっても揺るがない確固としたものだからです。そのようなものに照らし合わせてこそ神との関係や自分の立ち位置を確認することが出来るのです。揺るいでしまうものや確固としていないものに照らし合わせたら、神との関係も自分の立ち位置もわからなくなってしまいます。

2.世界で一番最初のクリスマスの出来事

さて、ヨセフとマリアがナザレという町から150キロ離れたベツレヘムという町に旅をしていました。時はローマ帝国がユダヤ民族を占領下に置いていた時代です。当時ユダヤ民族にはヘロデという血筋的には異民族に属する王様がいましたが、これはローマに服従するもので独立国ではありませんでした。ローマの皇帝が税金の取り立てを強化するため領民に対して本籍地で住民登録せよと勅令を発しました。ヨセフの遠い先祖はかつての民族の英雄ダビデ王だったので本籍地はダビデ家系発祥の地のベツレヘムでした。それで二人はベツレヘムに旅立ったのです。

 その時、マリアは身重で出産間近でした。実は二人はまだ婚約中で同居もしていませんでした。マタイ福音書1章にあるように、マリアの妊娠を知ったヨセフは、もうこれで婚約は破棄かと悩みましたが、天使から、マリアの妊娠は神の霊つまり聖霊の力が働いたことによる、生まれてくる子をイエスと名付けよ、と告げられていました。つまり、引き取って育てよ、ということです。マリアもルカ1章にあるように妊娠前に天使から同じように告げられていました。戒律厳しいユダヤ教社会の中で婚約段階の妊娠は良からぬ憶測や疑いを生んだでしょう。しかし、二人は神の計画ならばと忍んだのでした。まさにその時、ローマ皇帝の勅令が下ったのです。

 さて、ベツレヘムに着いてみると、同じ目的で旅する人が多かったのか、宿屋は満杯でした。マリアの陣痛が始まってしまいました。二人は馬小屋を案内されて、そこでマリアは赤ちゃんを産みました。二人は赤ちゃんを布に包んで飼い葉おけの中に寝かせました。夜も大分更けた頃でした。

 その同じ時に町の郊外で羊飼いたちが野宿して羊の群れの番をしていました。暗い夜空の下、獣が襲ってこないか盗人がこないか起きた羊がどこかに行ってしまわないか、神経を張り詰めていなければなりません。不安と疲れがあったでしょう。そこに突然、目も眩むような輝く天使が現れたのです。羊飼いたちが恐れおののいたのは言うまでもありません。天使は「恐れるな」と言って続けました。旧約聖書に預言されていたメシア救世主が今夜いにしえのダビデの町ベツレヘムでお生まれになったと。メシアが本当に誕生した印として、布に包まれて飼い葉おけに寝かしつけてある赤ちゃんを見つけたら、それがその子だと天使は教えました。羊飼いたちは呆気にとられて天使のお告げを聞いていたでしょう。

 その時でした、天使の大軍が夜空に現れて一斉に神を賛美したのです。一人の天使の輝きでも眩しい位なのに大勢いたら夜空の闇などどこかに消え去ってしまったでしょう。天使たちの賛美の声が天空に響き渡りました。

「天には栄光、神に。
地には平和、御心に適う人に。」

 賛美し終わると天使たちは最初の天使も一緒に皆、天空に消え去りました。夜空と闇と静けさが戻ってきました。この時の羊飼いたちの心はどうだったでしょうか?ベツレヘムへ行こう!恐れも不安も疲れも皆消え去っていました。ただ、羊の群れは置き去りにはできないので、皆一緒に出発したでしょう。夜の街に突然羊飼いと羊の群れが入って来たので町はちょっとした騒ぎになったでしょう。メシアのいる馬小屋が見つかりました。何の騒ぎかと集まってきた人たちに羊飼いは見聞きしたことを話します。天使はこの子がメシアだと言っていたと。人々は驚きながらも半信半疑だったでしょう。それでも羊飼たちは喜びに溢れ神を賛美しながら野営地に帰って行きました。マリアは飼い葉おけの中で静かに眠る赤ちゃんを見つめながら、心の中で羊飼いたちの話したことやかつて天使が告げたことを思い巡らしていました。

3.羊飼いの心の変化は福音の光を受け取る人にも起こる

以上が世界で一番最初のクリスマスの出来事でした。ここで羊飼いたちの心の動きに注目してみましょう。羊飼いたちは暗闇の中で心配と疲労を抱えて過ごしていました。そこに暗闇を打ち消す天使の輝きを見て恐れおののきました。天使のお告げと賛美を聞いた後、暗闇は戻ってきましたが、もう心配も疲労もありません。告げられたことが本当だと信じてそれを確認しようと出かけます。そしてメシアに出会うや、心は神への感謝と賛美に満たされてまた暗闇の中に戻って行ったのです。しかし、暗闇はもう以前のような心配や疲労の暗闇ではありませんでした。メシアを確認できたことで希望と神への感謝で心が一杯になったのです。周りは暗闇でも心は光に満たされたのです。

 実は同じような心の動きは、イエス・キリストの福音を聞いて心で受け取った人にも起こります。まず、イエス・キリストの福音とは何か、少し申し上げます。それは、神との結びつきを失ってしまった人間がイエス様のおかげで持てるようになって、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになったということです。人間が神との結びつきを失った経緯は旧約聖書の創世記3章に記されています。天地創造の神に造られたばかりの人間が蛇の姿をした悪魔の言う通りにして神の意思に反しようとする性向を持つようになってしまいました。これを聖書は罪と呼びます。罪が人間に入り込んだ結果、人間は死ぬ存在になってしまったということも聖書は説き明かします。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いでしまうものになってしまったのです。たとえ犯罪を犯さなくても人間には奥深いところに受け継いでいる罪があるため、何かのきっかけで悪いことを心に描いたり言葉に出してしまったり、最悪の場合は行為に出してしまうのです。これらは全て人間が神との結びつきを失ってしまったことの現れです。

 神はこの状態を変えて人間がまた自分と結びつきをもてるようにしてあげようと考え、それでひとり子を自分のもとから贈られたのでした。ひとり子は神でありながら、人間の母親の胎内を通して人間として生まれてきました。子はイエスと名付けられ、成人に達すると大々的に人々に天地創造の神や来るべき神の御国についてに教え、神の子のしるしとして無数の奇跡の業も行いました。しかし、彼に脅威を感じたユダヤ教社会の指導者たちによって捕らえられ、ローマ帝国に対する反逆者として十字架刑に処せられてしまいました。

 ところが実はこれは全く表向きの出来事でした。十字架の出来事の真相は表向きのもっと奥深いところにあったのです。それは、神がひとり子に人間の罪の償いをさせたという贖罪の出来事だったのです。イエス様は人間の罪を全部自分で引き受けて本来なら人間が受けるべき神罰を代わりに受けられたのでした。イエス様は死から三日後に復活され、その40日後に弟子たちの見ている前で天にあげられました。これで十字架の出来事の真相が明らかになったのでした。 全て旧約聖書に預言されていたことが事後的にわかったのです。

 それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。この結びつきは、人生順風満帆の時でも大風逆風の時でも全く変わらずにあります。この世から別れる時も神と結びついたまま別れられ、復活の日が来たら再臨するイエス様の力で眠りから起こされて、イエス様と同じように復活を遂げて永遠の神の御国に迎え入れられるようになるのです。これがイエス・キリストの福音です。

 私たちがこの福音を受け入れてそれを携えて生きるようになると、羊飼いたちに起きたのと同じ変化が起こります。最初は暗闇の中で心配と疲労を抱えて生きています。聖書の御言葉は最初、神聖な輝きを持つ神は罪を断罪する恐ろしい方であることを伝えます。それで私たちは羊飼いたちのように神の神聖な光に恐れを抱くのです。しかし、聖書は同時に次のことも伝えます。人間が罪と一緒に断罪されて滅びてしまわないために神がひとり子を贈って十字架と復活の業を果たさせたとうことです。神の神聖な光は罪の汚れを断罪する裁きの光だけではないのです。罪を赦す恵みの光でもあるのです。恵みの光に自分の全てを委ねるのが私たちのキリスト信仰です。そうすれば恐れは消えて安心が取って代わります。一時の気休めの安心ではなく本当の安心です。ベツレヘムの馬小屋に出かけた羊飼いたちのように、私たちも教会の礼拝に出かけて、そこで御言葉の説教に耳を傾け聖餐式に与ることで本当の安心を確認します。そして、新しい一週間に歩み出します。それはちょうど、羊飼いたちが感謝と賛美に心を満たされて暗闇をものともせずに戻って行ったのと同じです。

4.勧めと励まし

このようにイエス・キリストの福音を心で受け取った人はこの世の暗闇をものともしないようになる光を受け取ったのです。どうして福音の光を受け取ったら暗闇のようなこの世をものともしないでいられるのか?それは、先ほども申したようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人は神と揺るがない結びつきを持てるようになったからですが、聖書ではその結びつきを神との平和と言います。使徒パウロもローマ5章で、信仰によって神との結びつきを回復したキリスト信仰者は神と平和な関係があると説いています。天使の軍勢が賛美をした時、「神の御心に適う人に平和」と言いました。「神の御心に適う人」というのは、イエス・キリストの福音の光を受け取って神との結びつきを回復した人のことです。そのような人が「平和

を持つというのです。罪を償ってもらって罪の赦しの中で生きられるようになると、もう神との間に敵対関係はないのです。神と平和な関係があれば、たとえ周りは平和が失われた状況があっても、自分と神との平和な関係に影響はない、周りが平和か動乱かに関係なく自分には失われない動じない平和がある、そういう確固とした内なる平和です。この世が暗闇のようになっても失われない平和です。

 このような確固とした内なる平和を持つようになったキリスト信仰者は今度は自分の外に対しても平和な関係を築こうとするようになるとパウロはローマ12章で説きます。周囲の人たちと平和な関係を築けるかどうかがキリスト信仰者のあなたの肩にかかっているのであれば、迷わずにそうしなさいと。相手が応じればそれでよし。応じない場合でも相手のまねをして非友好的な態度はとらない。悪に対して悪をもって返さない、善をもって悪に勝て。自分で復讐はせず、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよと。なんだか高尚な道徳を説かれているような気がしてしまうかもしれませんが、そうではないのです。キリスト信仰者は自分のことや、この世での自分の立ち位置を考える時は、神との関係において見、神との平和な関係は大丈夫か自省しながら考えます。だから、自分中心にならないのです。神との関係がなくて、そういうことをしろと言われたら、全て自分の力で行わなければならなくなり、それこそ一般人には縁遠い高尚な道徳になります。

 いくら神から消えない光、揺るがない平和を頂いて、周囲の人と平和な関係を築くのが大事と思っても、この世でいろいろなことに遭遇すると思いも萎えてしまうというのが現実です。だから、消えない光と揺るがない平和を確認する場として日曜日の礼拝があるのです。どうか、このクリスマスの時も、イエス・キリストの福音の光が多くの人の心に届いて、神と平和な関係を築けた人が暗闇の恐れを捨てて周囲との平和を築く力が与えられますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン