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主日礼拝説教 2021年5月30日
聖書日課 イザヤ6章1-8節、ローマ8章12-17節、ヨハネ3章1-17節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。
そうは言っても、三位一体はわかりにくいことです。三つあるけれども三つあると言わないで一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうふうにして一つになるのかということはあまり考えません。むしろ、なぜ三つが一つなのかということを考えるからです。そして、なぜそうなのかということの答えを聖書から見つけているからです。どんな答えかと言うと、神がそういう三位一体であるというのは私たちに愛と恵みを注ぐためにそうなのだということです。三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体でなければならないということです。本日の説教を通してそのことがわかるようにしていきましょう。
まず最初に思い起こさなければならないことは、天地創造の神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。神に造られた最初の人間が神の意思に背くような性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったのです。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で述べるように、死ぬということは人間誰でも罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対の神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。
罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。
イザヤは自分の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤが大やけどを負わなかったというのは罪から清められたことを示しています。罪から清められたイザヤは神と面と向かって話ができるようになります。モーセの場合はそのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されました。しかし、彼が山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間には危険なものなのです。
このように神と人間との間には神聖と非神聖の果てしない溝が出来てしまいました。しかし、その神が溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされたのです。その救いの手がイエス様でした。そのことをイエス様は本日の福音書の日課の中でニコデモに教えます。そこでは「新たに生まれる」ということがポイントになっています。神聖な神との結びつきを回復してこの世を歩め、この世を去った後は神の御許に永遠に迎え入れられるようにする、これが「新たに生まれる」ことです。それはどのようにして起こるのか、それを次に見てみましょう。
まずニコデモについて少し述べておきましょう。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。彼らは旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に守ることを主張し、それを実践していました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。
イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な行為に留まるものではない。内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければなりませんでした。つまり、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになるとイエス様は教えたのです(同5章28節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。
全人的に神の意思に沿っているかどうかが基準になると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このようなやり方で神の前の清さは保証されるのだろうか、そもそもそういうやり方で天地創造の神の目に適う者になれるのだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様と向き合うといつも議論の応酬でしたので、夜こっそり一人で出かけるというのは意味深です。案の定、ニコデモはイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。
(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50ー52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、アリマタヤのヨセフと一緒にローマ帝国総督のピラトの許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節))。
さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」ということについて見ていきます。ところで、「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。例えば、貧乏な人が今度生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことに悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか、そういうことを言うことがあると思います。また、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃんかおばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現する言葉と言うことができます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の考えでは生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなってしまいます。 聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられて運が良ければ朽ちない復活の体を着せられて永遠バージョンの命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。
そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモ(10節)です。ファリサイ派とは言え、聖書をそれなりに学んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分が母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。
ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて、そこで神からの霊、聖霊を注がれることを意味します。
人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記2章6節やエゼキエル書37章9~10節で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神自身の霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれることで霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。
それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるるかもしれませんが、そうではありません。ここで言っている「霊」は先ほどから言っている神の霊、聖霊のことです。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節) 風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こり得るのか?彼の問い方には、途方に暮れた様子がうかがえます。
これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞かない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。
「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」 つまり自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こすのである、と。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。ここでイエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」 これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、これは何のことでしょうか? イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。先ほど申し上げたように、人間の、神の意思に背こうとする罪のゆえに神との間に果てしない溝が出来てしまいました。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受けると、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられることになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進むことになります。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。
しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのためキリスト信仰者の内に駐留する聖霊が、神さまの御心はこうですよ、と聖書の御言葉で示してくれているのに、それに背を向けて考えを持ってしまったり、果ては行ってしまうことすらあります。もっとひどい場合には御言葉自体を曲解したりぼやかしたりしてしまうこともします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。
この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを自分のものにしたいと思ってはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分に、つまり神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿えないのなら、そんな鬱陶しい神の意思なんか捨てて生きていけばいいじゃないか、などと言ってしまったら、イエス様の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底から完全に沿えるようにしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。
ここで大事なことは、自分の真実の姿にいい加減いやになった時は、いつも必ず心の目をゴルゴタの十字架に向けるのです。目をそこに向けさせてくれるのは聖霊です。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげと、お前があの方を真の救い主と信じた信仰のゆえに、神はお前を赦して下さったのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先回りされたので、あとは何も考えずにその後を追いかけるだけでよいのだ。あの夜、イエス様がニコデモに言っていたことを思い出しなさい。
モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。神はそういう仕方でこの世に愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ3章14~16節)。こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思にすっぽり包まれているので、また先まわりされたことの後追いが始まります。
キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきますが、こうすることで自分の内に宿る罪を圧し潰していきます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。一度に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。
このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪を宿すようになってしまったために、神は今度はひとり子を犠牲にして私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中で生きられることになりましたが、人生の中でいろんなことがあってそのことを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から指導や支援を受けられるようになりました。
ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえますが、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命まで生きられるようになるという、造られた目的を達成するということです。このように三位一体は私たちにあるべき姿を示し、そうなれるようにする力そのものです。本当に三位一体はすごいです!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
全知全能の父なるみ神よ。
私たち人間を造られたあなたはみ子を通してご自身の栄光を顕(あらわ)し、多くの人を正しい信仰に導きました。どうか、あなたから信仰を頂いた私たちが聖霊に支えられて今日も福音の喜びを新たに持てて、周りの人々にもその喜びを伝えることができるようにしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン
主日礼拝説教 2021年5月23日 聖霊降臨祭
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰を持てて救われた者としてこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。
本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。最初に聖霊降臨の出来事について本日の日課の個所にもとに少し詳しく見てみます。二番目のテーマは聖霊とは何者かということについて、特にイエス様が本日の福音書の日課の中で聖霊を「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいて、どうしてそうなのかということを見てみます。毎年教えていることのおさらいです。最後は、本日の使徒書の日課ローマ8章でパウロが聖霊はキリスト信仰者の希望を強めてくれる働きをすると教えていますので、それについて見てみます。
聖霊降臨とは、先ほど朗読して頂いた通り、イエス様の弟子たちが聖霊降臨を受けて群衆の目の前で、群衆のそれぞれの母国語で話を始めたという出来事です。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは留学もせず英会話学校にも行かず突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?群衆の驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。
弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったのでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。さらに考えられるのは、神が私たち人間を含めた万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。
ところが弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが自分たちの目で直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。
そこでペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象を説明します。群衆の中には新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れなことを言う人もいました。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと的外れな意見に真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?
ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14ー21節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の実現であると言います。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かしをします(2章22ー40節)。この後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっていますが、本日の日課から外れるので、そこには今日は立ち入らず後日に譲り、今日は前半部分だけを見ます。
ペトロはまず、この不思議な現象はヨエル書3章1ー5節の預言の成就であると説き明かしします。分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまって彼らは異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出しました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったとわかったのです。
ところでペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と述べます。「終わりの時に」とはギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヘブライ語原文のヨエル書では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後に」と言っています。これはペトロが引用で改ざんしたのではなく、ギリシャ語訳の旧約聖書が「終わりの日々に」と訳していることに倣ったのです。訳した人たちは終末論の観点でヘブライ語の意味を確定したわけです。ペトロはそれに倣ったのでした。
それでは「終わりの日々」とはどんな日々かと言うと、イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になるというのです。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が新しく創造され直すという天地大変動の時で、それはまた唯一残る神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるかという最後の審判が行われる時でもあります。イエス様の再臨を待つ日々は「終わりに向かう日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが仮に3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われていますが、これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。バビロン捕囚の後の時代には終末論的に理解されるようになります。イエス様の十字架と復活の出来事の後は彼の再臨の日を意味するようになります。
21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に移行できるのは、創造主の神の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの大説教の後半は、群衆にそのような者になりなさいと導く内容です。
こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。
それでは、聖霊とは一体何者でしょうか?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。
それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で孤児のようになることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、本日の福音書の箇所でも言われるように、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれをどうしようと言うのか?これらのことは以前の説教でも何度かお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。
聖霊が「弁護者」ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのです。では何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟の光に照らされて、外面的にも内面的にも神の意思に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前に進み出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はどうしようもない罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向け神のもとから立ち去ったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。
人を落胆させたり神のもとから立ち去らせるものには罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神は私の至らなさに不満でそれでこんな目に遭わせているんだ、と自分に原因を見て絶望してしまったり、または、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。このような絶望、失望に陥ることも悪魔の目指すところです。
私たちがどんな状況にあっても神の愛を信じられるように、しっかり神のもとにとどまることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように言って弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それが自分の罪に対してもそうであるとわかって、それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向いて次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と。キリスト信仰者は神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦してくれるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上はこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。
不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないのだとわかります。神との結びつきがあるということは神にしっかり守られていることだとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは不幸や苦難は神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていたのが、今度は逆に、存在しかつ見捨てない神と一緒にくぐり抜けるための一つのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。嵐吹き荒れる時でも一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。その時、不幸や苦難はもはや自分を打ちのめそうとする嵐ではなくなり、ただの耳障りな強風、煩わしい雨水にしかすぎなくなります。全身ずぶ濡れにはなりますが、家に帰れば湯船につかって服を取り換えてさっぱりできるんだ、というような気持ちで歩めるようになります。フィンランド人だったらサウナでしょう。
次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?2週間前の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の現在イスラエル国がある地域でナザレ出身のイエスは旧約聖書とその神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。
ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言を通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの世の次に到来する世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。そうした旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊はこの真理を私たちの心に示す働きをするのです。
人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、この真理を示されたことに気づいたからです。人生のいろんな経験を通して神はこの気づきへと導かれます。気づかせた聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間をその働きの下に服させるようにするのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きの下にすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないとか、また、救い主は沢山あってイエスは単なるそのうちの一人にすぎないとか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは何の意味もなさなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持って生きることができるので、霊的に安全地帯にいることになります。
(以下は説教の時に長くなるので省略しました。「ところで、先ほど見たような習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。聖霊降臨の出来事はまさにその力が与えられた出来事でした。このような特別な力は「恵みの賜物」とか「聖霊の賜物」と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマと言います。こうした賜物は教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰にどの賜物を与えるか決めて与えます。それゆえ、何か賜物を与えられても、与えてくれた方は取り上げることも出来る方だとわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いることが求められています。キリスト教の教派によっては、聖霊の賜物を追求することを強調する派もあるのですが、ルター派はどちらかと言うとその点はおとなしい方かもしれません。なぜそうなのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには、聖霊のことをここで申し上げた「弁護者」、「真理の霊」として捉えていることが大きいのではないかと思われます。」)
最後に聖霊がキリスト信仰者の希望を強めてくれることを本日の使徒書の日課のパウロの教えから見てみましょう。まず背景としてローマ6章から7章にかけてパウロが教えていたことを駆け足で見てみます。
人は洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると、罪に対しては死んで神に対して生きるようになると言います。罪に対して死ぬと言うのは、罪が洗礼を受けた人を支配しようとしても出来ないくらいにその人は死んでしまっているということです。だから、洗礼を受けた人は罪に服従することはなくなって、代わりに神に服従するようになるのです。しかしながら、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたとは言っても、私たちは実際はまだ死んで葬られていないし、ましてや復活して復活の体も纏っていません。私たちはまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になってしまっています。さらに、十戒の掟が神の意志に反することは罪であるとはっきり言い、私たちの真実の姿を晒す鏡のように立ちはだかります。キリスト信仰者は十戒の掟を通して神の意志が何であるかわかっているのですが、その通りに行えない、語れない、思考できない自分というものを、まさに十戒を通して気づかされてしまうのです。そうなると私たちは、洗礼を受けるとますます神から遠ざかってしまうのでしょうか?
いいえ、そういうことではないのです。パウロは7章の最後で、キリスト信仰者は意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。しかし、洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはないと断言するのです。8章1節です。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉の体に打ち込まれているのです。
意識や理解の面で神に従うということに続いて、パウロは、キリスト信仰者に洗礼の時に注がれた聖霊が宿っている限り、信仰者は間違いなく復活に向かって進んでいると言います。8章11節です。神はキリスト信仰者に宿る聖霊を通して信仰者の朽ち果て滅びる肉の体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのです。
意識や理解の面で神の命じることがわかっていて、聖霊が宿っていれば、大丈夫、信仰者は復活に向かって進んでいます。そこでもう一つキリスト信仰者を大丈夫にするものについて言われます。それが8章24節で言われる「希望」です。パウロがここで言う希望の内容は23節にあるように、肉の体から解き放たれることです。将来、死者の復活が起きる日に朽ち果てる肉の体に替わって神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、これが希望の内容です。その体は今のこの世の段階ではまだ目にすることは出来ません。希望するだけです。パウロが言うように、それを目にしたらもう希望することはないのです。目に見ていないから希望するのです。
そういうわけで「希望によって救われた」というのは、復活の体をまだ目にしていない段階で、それを希望している段階で救われた状態つまり神の国に足を踏み入れたということです。復活の体を着せてもらえるという希望を持てていること自体が、今この世で間違いなく神との結びつきを持って復活の体の国に向かって進んでいることになっている。一旦足を踏み入れてしまったら、もう抜け出せないと言えるくらいに神の国に向かって進んでいるということです。ところが、そう言われて感激したのも束の間、すぐ聖霊と肉、神の意思と罪の意思の狭間に置かれて苦しい思いをする現実に戻ってしまい希望が萎えてしまいます。
しかし、聖霊が萎えさせないのです!どうしてか?26節でパウロは言います。聖霊は私たちが弱いから助けてくれるのだ。どのようにしてか?私たちのつたない祈りを神に取り次いでくれることによって!私たちは罪の自覚の時、苦難困難の時、もちろん神に祈ります。時として、この言葉で祈り足りているのか、この言い方で聞き入られるのか、不安になります。実は私たちが祈る時、私たちに駐留する聖霊が私たちの祈りを全て神の耳に入るように祈り直して神に伝達してくれるのです。言い足りなかったことは補い、言い間違えたことは訂正して。それは人間の言葉になっていないただの吐く息のようなものかもしれないが、聖霊が取り次ぐ祈りは神の意思に沿うものになっている。だから神は私たちにどんな解決、どんな時間表がいいかちゃんと考えて下さる。このように洗礼を受けて聖霊を注がれたら最後、自分から背を向けて振り払わない限り、神との結びつきは切ろうにも切れない、希望は弱まろうとしてもそれは決して失われないものになっているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
どうか、聖書の御言葉を通して聖霊が私たちの内に働き、イエス様が真(まこと)の救い主であることを絶えず覚えられるようにして下さい。そして、あなたから頂いた賜物を隣人の救いのため、そして教会の成長のために用いることが出来るようにして下さい。
主日礼拝説教 2021年5月16日 昇天主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。近年、国民の教会離れ聖書離れが急速に進んでいるフィンランドですが、それでもカレンダーを教会の伝統に合わせることがまだ残っているのは驚きです。今日は昇天日の直近の主日で、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。
さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。昨年と一昨年はエフェソ1章の聖句と結びつけて説き明かしをしました。一昨年はエフェソ1章の特に19節から21節に注目しました。そこでは、一度死んだ人間を復活させて復活の体を纏わせるということと、その者を創造主の神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要であるということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違うものを用いています(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょう。エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も用いています。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのに、日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者を復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというわけです。
ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来イエス様と同じように神の力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それをこの自分にも及ぼして下さる、そう信じられるかどうかが信仰の大きな鍵になるということを一昨年に申し上げた次第です。
昨年はさらにエフェソ1章の終わりの22節と23節に注目しました。教会は「キリストの体」であるとパウロは言います。ここで言われる「教会」は、スオミ教会のような個別の教会ではありません。また複数の教会から構成される教団でも、ルター派とかカトリックというような教派のことでもありません。それは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に至る道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。個々の教会、教団、教派という人的組織を超えた見えない教会です。それが「キリストの体」です。
そしてそのキリストはと言えば、今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立って、それらを足蹴にしていると。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実世界にある国の権力だけでなく、見えない霊的な力も全部含みます。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様はそうかもしれないが、信仰者は正直なところいろんな力の足蹴にされている方ではないか?「キリストの体」だなんて、パウロはちょっとはったりを効かせすぎではないか?でもこれはやっぱり本当のことなのです。昨年はこのことを確認しました。今年は、このことを19節から23節全体を見ながら、もっとはっきり出してみたいと思っています。つまり、キリスト信仰者はキリストの体の部分でいるので何があっても本当は大丈夫ということです。
その前にイエス様の昇天の出来事をどう理解したらよいかということを毎年お教えしていますが、それをおさらいしておきます。
新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。それで、イエス様の昇天を同じようなイメージで捉えてしまったら、あまり真面目に受け取られなくなってしまうのではないかと心配します。
しかしながら、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。これは、スーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。
そうすると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろありました。それを忘れてはなりません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。
これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。
ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多くありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました(このことについては今年の復活祭の礼拝説教でお話ししましたのでご関心ある方はホームページで過去の説教をご覧下さい)。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物である天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。
イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されてきました。ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみましょう。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?毎年お教えしていることですが振り返ってみましょう。
地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏等々、いろんな圏があって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、先日も野口宇宙飛行士の帰還がニュースになりましたが、そういう宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。
どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは信仰というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?
信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。
もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す人の脳神経の作用という言い方になっていくでしょう。
ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに、人間の命と人生は実は、この現実の世界だけでなく創造主の神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がどうしてひとり子を私たちに贈って下さったのかということがわかってきます。それは私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。
それでは、イエス様を贈ることでどうやって人間がそのような大きな人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神に対して不従順になって罪というものを持つようになってしまって、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る、神の意思に背こうとする性向、罪、それは行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまった。そこで神は、この失われてしまった結びつきを回復するために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。
どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を人間に開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けるとその人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ったことになります。罪を償われた状態に入ることになるので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の御国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きる命を持てるようになったのです。
キリスト信仰者は永遠の命と復活の体が待っている神の御国に向かう道を進んでいます。この道を歩む信仰者たちが集まって見えない教会、つまり個別の教会、教団、教派を超えた教会を形作っています。パウロはエフェソ1章で、この見えない教会の頭としてイエス・キリストがあり、教会はその体であると言います。人間は聖書の御言葉の力を及ぼされて洗礼を受けることでその体の部分になれます。そして、体の部分である信仰者は聖餐式のパンとぶどう酒で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して御言葉の力を及ぼされて体の部分として成長を遂げていきます。
そこで、体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実がある。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまないし死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?
それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろうという力が働いているところです。大きな人生なんて無理だよ、と。それで、人間が自分の造り主に心と目を向けられないようにしてやろうとか、そのようにして人間が造り主の神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらが既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらはイエス様が再臨される日に消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の巨大な力が今度は信仰者たちに働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうのです。
そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として留まっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、この体に留まって成長していくだけで十分なのです。ただ今は、コロナ禍のために聖餐式は受けられません。辛いところです。それだけに説教者は今の時ほど御言葉の力を一層引き出すために説き明かしに努めなければならない時はないでしょう。スオミ教会はキリストの体の末端に連なる取るに足らない教会かもしれませんが、それでも説教者は御言葉の説き明かしにおいては他の立派な教会の説教者と同じように最善を尽くしているということをどうかお忘れにならないように。
最後に宗教改革のルターが、キリスト信仰者はイエス様の強い守りの中にいるということと、体の部分である者同士が祈り合ってお互いを支え合うことを忘れてはならないと教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。その教えとは、マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」の説き明かしです。
「『全てのもの』とは文字通り全てのものである。全てのものが我らの主イエス様の手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。これの例外は何もない。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。
このことからも、イエス様の御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、我らに真の知識と真の光が与えられる。もしイエス様が全てのものを手中に収め、父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自らが述べているように(ヨハネ10章28ー29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ない。確かに悪魔は機会を捉えてはキリスト信仰者をあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬みや憎しみで心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと仕掛けてくるだろう。しかし、悪魔の攻撃を受けてもキリスト信仰者は怯む理由も必要もない。なぜなら、我らには悪魔をも足下に屈服させている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ我らを真にお守り下さる方である。
もちろん、悪魔の攻撃は君をとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも恐ろしいことだ。それだからこそ君は祈らなければならない。君が堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちも君のために祈らなければならない。どんなことがあっても神が君を見捨てることはない。これは揺るがないことである。イエス様は必ず君を苦境から救ってくれよう。そうである以上、君の方から簡単に神の御国から離脱するようなことはあってはならないのだ。」
(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。
天のあなたのみ許(もと)に上げられたイエス様のおかげで私たちが日々、罪の赦しの恵みの中で生きられ、いつもあなたに見守られていることを感謝します。どうか、復活の初穂(はつほ)であるイエス様に続いて私たちも、み前にて永遠に生きられる者にして下さい。
主日礼拝説教 2021年5月2日 復活後第五主日 使徒言行録8章26-40節、第一ヨハネ4章7-21節、ヨハネ15章1-8節
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本日の使徒言行録の日課の個所は、エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事です。この出来事は、人がイエス様を救い主と信じる信仰に至る時、万物の創造主の神はその人の生きた時代の中にあるいろんなことを用いて信仰に至らせるという、そんな神の大いなる導きを示しています。一般に信仰は個々人の内面のことと言われますが、神はこのように時代の状況を用いて人間に働きかけて信仰に至らせるというのが本当ではないかと思います。本日の説教ではこのことをエチオピアの高官の受洗を通して見ていこうと思います。
それから本日の福音書の日課の個所は、イエス様がキリスト信仰者に対してブドウの木の枝が木に繋がって実を結ぶように信仰者もイエス様に繋がって実を結べと教えるところです。これも、イエス様を救い主と信じる信仰に至った者は今度は神と共に時代の状況に働きかける側になるということを意味しています。このことについても見ていきます。
そういうわけで本日の説教は、キリスト信仰というのは信仰に至るまでも、また至った後も時代の状況とは無縁ではないということがテーゼになります。
エチオピアの高官の受洗について、まずこの出来事が記載されている使徒言行録という書物について述べておきます。この書物は、死から復活されたイエス様が天に上げられ、その後で聖霊降臨の出来事が起こって、聖霊の力で弟子たちがイエス様を救い主であると宣べ伝え始めるところから始まります。弟子たちの伝道がエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わり、大体30年間位の出来事が記録されています。まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物です。
本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来ます。ガザは、今でこそパレスチナとイスラエルの不幸な紛争のために中東情勢の熱い焦点の一つですが、本当は紀元前1500年位からある歴史的な町で、ローマ帝国の時代は平穏な町でした。エチオピアの方は、本日の箇所に出て来るのは現在のエチオピア国家と関係はなく、当時エジプト南部の地域はそう呼ばれていました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。どうしてかと言うと、イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至るまでの地中海東部の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えていました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。使徒言行録のパウロの伝道旅行をみますと、彼はたいてい訪問先で初めにシナゴーグを訪れます。そこで、エルサレムで起きた事件、イエス様の十字架と復活の出来事を知らせ、旧約聖書の預言が実現したことを伝えます。それを聞いたユダヤ人たちはいつも信じる者と信じない者に分裂しました。
これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。本日の箇所でエチオピアの高官が読んだイザヤ書53章7ー8節ですが、よく見ると、私たちが手にする旧約聖書のそれと少し違っています。これは、私たちの旧約聖書はヘブライ語から翻訳されたものなのに対し、エチオピアの高官が読んでいたのはギリシャ語の旧約聖書だったことによります。翻訳文がもとの文と違っているということがよくあるのです。エチオピアの高官は、ギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官でしたので割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、メシアの到来を待ち望む信仰を持つには至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったのです。
地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人が移住したことの他に、移住先の現地人たちが改宗したこともありました。ユダヤ教に改宗するというのは、現代の目で見ると少し奇異な感じを持たれる方がいらっしゃるかもしれません。それは歴史を通してユダヤ教やユダヤ人に対する迫害と偏見が長く持たれ、特にキリスト教側から否定的なイメージが作られたことが影響していると思います。ここではそういう後世に出来てしまった見方を脇に置いて、2000年前はどうだったかという、当時の視点で見てみますとかなりイメージが異なってきます。例えば、2000年前のギリシャ・ローマ世界の性のモラルは奔放というかルーズなところがありました(ひょっとしたら現代も似ているかもしれませんが)。そういうところでユダヤ教は、人間を男と女に造った創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。つまり余分な赤子は父親の権限で処分するという嬰児殺しが当たり前のことのように行われていました。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内の中にいる時から神に目をかけられているという生命観を示して間引きに反対したのです。
このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じ立場で正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍が大勢いたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、まさに彼らのことです。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。さあ、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることはできません。ローマ帝国の官憲も巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。
以上のような時代状況を使徒言行録は明らかにしています。ここでエチオピアの高官の受洗を見てみましょう。彼はイザヤ書53章7ー8節の、屠り場に引かれる羊や毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは誰のことか?と悩んでいました。実は、彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所はヘブライ語の原文よりやっかいです。ヘブライ語では「羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまい、彼の同時代の者は誰もそのことを気に留めない」という書き方です。ところがギリシャ語の方は「主の僕はへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」などと言います。それに続いて「彼が死ななければならなかったことを誰が説明することができるだろうか?」などと問います。ヘブライ語とかなり違っています。
(ここで一つ注釈しますと、新共同訳では「卑しめられて、その裁きも行われなかった」と訳されていますが、ギリシャ語原文ではエチオピアの高官が読んだ部分は「彼がへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」です。ギリシャ語のイザヤ書の個所もその通りになっています。参考までに各国語ではどう訳されているかを見ると、フィンランド語訳とスウェーデン語訳はこれと同じです。ルター版のドイツ語訳は「彼の裁判は廃止される」で、新共同訳の「裁きが行われなかった」に近いです。英語のNIVは「彼の正義が奪われる」で、裁判が行われなかったことを意味するのであれば日独に近いです。フィンランド語訳とスウェーデン語訳は裁き=有罪判決が取り除かれるということで、私はギリシャ語原文の意味はこれだと思います。)
もしエチオピアの高官がヘブライ語で読んだのなら、主の僕が具体的に誰かはわからなくても何か迫害を受けたことはわかります。ところがギリシャ語を読むと、へりくだったことによって裁きが取り除かれるとあり、何のことかわかりません。しかも、主の僕の死の意味を誰かが説明しなければならないとも言っていて、裁きが取り除かれるのに死んだことにもなっています。ますますわからなくなります。
実を言うと、このわかりにくいギリシャ語の文はイエス様の出来事を知っている人ならばわかる内容なのです。へりくだったことにより裁きを取り除かれるというのは、フィリピ2章のキリスト賛歌を思い出すとわかります。そこで言われていることは、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順だったこと、その後で神に高く上げられたということです(8~9節)。神に高く上げられたというのは、神の力で死から復活させられ、さらに天に上げられて神の右に座すに至ったということです。まさに、へりくだったことによって裁きを取り除かれたのです。
それから、イエス様の十字架の死の意味を誰かが説明しなければならないということについて、誰がそれをするのか?イエス様が天に上げられた後、イエス様の十字架の死と死からの復活について宣べ伝えるのは使徒たちの役目になりました。ギリシャ語版のイザヤ書を読んで悩めるエチオピアの高官のもとに使徒の一人であるフィリポが送られたのです。ヘブライ語で読んでいたらこのような展開にはならなかったでしょう。それでは、なぜ彼は旧約聖書をギリシャ語で読んだのか?それにしてもなぜ彼は旧約聖書を読むようになったのか?なぜエルサレムに巡礼に行くようになったのか?そうしたことは先ほど述べた時代状況を思い起こせばわかります。
フィリポはイザヤ書53章の主の僕についての預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、主旨はこういうことです。天地創造の神が贈られたひとり子のイエス様が十字架の上で人間の罪の神罰を受けて死なれ、人間に代わって罪の償いを神に対して果たされた。それで彼を救い主と信じて洗礼を受ければイエス様の果たしてくれた罪の償いが効力を持つ。それで罪を償ってもらった者とされる。罪を償ってもらったから神からは罪を赦された者と見なされ、罪を赦されたのであれば神との結びつきを回復したことになる。さらに神はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さった。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はその道に置かれてそれを歩むことになる。神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得てその道を進み、万が一この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようになった。以上のような福音が伝えられました。時代を超えて私たちにも伝えられる福音です。
イエス様を救い主と信じたエチオピアの高官は洗礼を志願し、フィリポはそれを施します。これでエチオピアの高官は、割礼なくして天地創造の神と結びつきをもってこの世とこの世の次に到来する世の双方にまたがる命を持って生きることとなりました。エチオピアの高官の受洗は、神が時代の中にあるいろんなことを用いて導いたことの結果なのです。
福音書の日課の方を見てみましょう。有名なイエス様のぶどうの木のたとえです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、ぶどうの木と枝のように繋がっているというたとえです。
2節をみると、イエス様という木に繋がっている枝の信仰者は、実を結べば父なるみ神に手入れしてもらってさらに実を結ぶ、と言われます。3節では、弟子たちはイエス様の話した言葉によって既に清くなっている、と言われます。興味深いのは、「手入れをする」という動詞(カタイレイκαθαιρει)と「清い」(カタロイκαθαροι)という形容詞がギリシャ語では同類語で言葉の引っかけになっています。それで、弟子たちはイエス様の言葉によって手入れをしてもらって清い枝になっているという意味になります。手入れをしてもらって清い枝になるというのは、栄養を一層受け取る枝になっているということです。
ぶどうの枝が実を結べるのは木と繋がっているからです。枝が木と繋がっていなければ木から栄養を受けられないので結べません。当たり前のことです。それでは信仰者がイエス様という木から受ける栄養とは何でしょうか?それは言うまでもなく神の愛です。神の愛とは、本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章で言われているように、ひとり子を犠牲にしてまでも人間を罪と死の支配から解放して、復活と永遠の命に至る新しい命を生きられるようにしてあげようという愛です。人間が罪と死の支配から解放されるためには先ほど述べたように神のひとり子の犠牲による罪の償いと赦しが行わなければなりませんでした。このような神の愛と罪の赦しの恵みがキリスト信仰者が受ける栄養です。
神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を受けて実を結び、さらに手入れをしてもらってもっと栄養を受けられるようになってもっと多くの実を結べるようになる。ところが、イエス様に繋がっていながら実を結ばない枝は、父なるみ神が農夫のように切り取ってしまう、と言います。イエス様に繋がっていながら実を結ばないとはどういうことでしょうか?
キリスト信仰者が実を結ばなくなるとは、霊的な栄養を受けなくなってしまったことを意味します。それはどういう状態でしょうか?それは、イエス様を救い主と信じることがなくってしまうことです。罪を人間と神の関係にかかわる問題と見ないで、人間と人間の間のことだけと考えてしまうことです。6節でイエス様は、取り除かれた枝は集められて燃やされてしまうと言っていますが、これは最後の審判を意味します。私はここでは、イエス様を拒否することや裁きの問題はこれ以上深入りしないことにします。というのは、本質的なことは、どうしたらイエス様が私たちの間で救い主として保たれるかということです。そのためには、神との結びつきを持って生きることが何ものにも代えがたい価値あることとわからなければなりません。それをわかるようにしないで地獄に落ちるのが恐かったら信じろ、というやり方は本末転倒です。本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章の中でも、恐れと罰は表裏一体である、恐れには神の愛がないと言われています(4章18節)。
それでは、キリスト信仰者が神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を摂取して実を結ぶと言う時、その実とは一体何なのかということを考えてみましょう。第一ヨハネ4章を見ると、愛の実践ということがよく言われます。そこで言われる愛とは神の愛に立つ愛です。
9節 神の愛は、ひとり子イエス様をこの世に贈って彼を通して人間が新しい命を生きられるようにしたことで目に見える形で現れた、と言います。
10節 愛は、人間が神を愛したということにあるのではない。神が人間を愛してひとり子イエス様を人間の罪を償う生贄として贈って下さったことにあるのだ、と言います。
11節 そこでヨハネは「兄弟たち、神はこのように私たちを愛して下さったのだから、私たちもお互いに愛さなければなりません」と言います。19節でも言います。「私たちは愛そうではありませんか。なぜなら、神が最初に私たちを愛して下さったのですから。」
以上、愛についてのヨハネの立場ははっきりしています。人間が普通、愛と言っているものは実は愛ではない。愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにした、しかもそのためにひとり子を犠牲にしても構わないと思うほどであった、この神の愛が本当の愛だと言うのです。人間はこの愛で愛されて愛することができると言うのです。この愛がなければ愛することができないと言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということです。
そうすると、キリスト信仰者は愛する時、具体的に何をするのでしょうか?一つには、まだイエス様というブドウの木に繋がっていない人たちを繋がるように導いてあげることがあります。せっかくイエス様というブドウの木がこの世に植えられて立っているのに繋がっていない人たちが大勢います。イエス様に繋がるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを自分のものにするということです。そこに導いてあげるのは伝道の働きです。この働きは、いろいろな宗教や死生観があるところでは難しいものです。キリスト信仰者の側としては愛だと思ってやったことが、相手側から余計なお世話だとか脅威に受け取られたりします。人がどの宗教を信じるか、あるいは信じないかということは、詰まるところ、どんな死生観を持つかという問題に収れんすると思います。これは極めて現代的な問題です。
神の愛に立って愛するというのは伝道の働きに尽きません。もっと広いこともあります。それは、隣人に対してどのように振る舞うかという問題です。神の愛に立って隣人を愛するということについて聖書には沢山の教えがあります。有名なのは使徒パウロが第一コリント13章で愛について教えているところでしょう。私自身はいつもパウロがローマ12章で教えていることが大事と考えています。まず9節で「愛には偽りがあってはならない」と言います。その意味するところは、もし何か自分の利益とか名声のためとか下心があれば、もう偽りの愛になってしまうのです。その続きをざっと列挙すると、悪を憎み、善から離れるな/兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思え/迫害する者を呪うな、祝福を祈れ/喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け/思いをひとつにし、高ぶらず身分の低い人々と交われ/自分を賢い者とうぬぼれるな/誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ/隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第である時は迷うことなくそうせよ、少なくとも自分から平和な関係を壊すな/自分で復讐するな、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ/善をもって悪に勝て。
これらの中には不利益を承知のお人好しすぎることがありますが、そういうことが出来るのは、正義の問題を神が最後の審判で決着をつけて下さることに任せているからです。正義というのはやっかいなものです。誰かから害悪を被った時、こんな程度の補償や謝罪では収まらない、ということがよくあります。逆に、誰かに損害を与えてしまった時、確かに自分に落ち度はあったがまさかこんなに法外な補償を求めてくるとは、ということもよくあります。不完全な人間が判断を下して決めることは不完全にならざるを得ず、後々尾を引いてしまうのです。全知全能の神が最終的に決着をつけることでいいんだ、という姿勢でいると、この世ではエスカレートさせない、エスカレートと逆方向のことに心を向けられるのです。皆さんもご存じのように、今の世はSNSに書かれたことが原因で人の命が失われるような時代です。もし投稿する人が皆、このような心を持っていれば、SNSは素晴らしい文明の利器になるでしょう。
最後に、神の愛に立って隣人を愛するとは言っても、キリスト信仰者は十戒に示された神の意思に敏感になるので自己採点はどうしても厳しくなります。しかし、それで苦しくならないためにイエス様の十字架と復活の出来事が起きたことをいつも思い起こしましょう。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神の愛を受け取りました。それは人間的でない完璧な神の愛です。それなので私たちは第一ヨハネ4章17節の聖句から大きな励ましを得ます。新共同訳ではこう言っています。「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちもイエス様のようであるからです。」
これを原文に忠実に解説的に訳すと以下のようになります。「パウロが随所で言うようにキリスト信仰者は洗礼を通してイエス様を衣のように頭から被せられています。その衣の神聖さの重みで私たちの内に残る罪を圧し潰していきます。これが、私たちがこの世でイエス様のようになっているということです。それで愛は私たちのもとで完璧なものとしてあるのです。そういうふうになっているのは、私たちが最後の審判の日に堂々としていられるようになれるためなのです(後注)。」新共同訳では「確信を持つことができます」ですが、何の確信かはっきりしません。ギリシャ語原文では「勇気を持てる、物怖じしない」という意味です。つまり、神の愛に立つ限り、最後の審判で何も恐れる必要はない、堂々としていられるのです。
(後注)第一ヨハネ4章17節 ”Εν τουτω τετελειωται η αγαπη μεθ’ ημων, ινα παρρησιαν εχωμεν εν τη ημερα της κρισεως, οτι καθως εκεινος εστιν και ημεις εσμεν εν τω κοσμω τουτω” をこのように訳したのは、οτι以下をτουτωの内容と考えたからです。οτι以下を理由の文に考えると全体的に上手くいかないように思えます。
主日礼拝説教 2021年4月7日 復活節第四主日 聖書日課 ヨハネ10章11-18節、使徒言行録4章5-12節、第一ヨハネ3章16-24節
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本日の福音書の日課の個所は、イエス様が自分のことを命がけで羊を守る良い羊飼いにたとえる教えです。羊とはイエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。そうすると、キリスト信仰者はいつもこのようにイエス様に命がけで守られて何にも害を被らないで済むのかと驚かれるかもしれません。しかし、キリスト信仰者だって、大きな病気をしたり事故に遭ったりします。それじゃ、なんだ守られていないじゃないか、イエスは調子のいいことを言ってと思われてしまうかもしれません。しかし、病気になったり事故に遭ったりしても目の前が真っ暗になりっぱなしにならない、必ず前方に光を灯してくれてそこを目指して歩めるようにして下さる、光が見えるまでは暗闇の中で傍にいて支えるように一緒に歩いて下さる、そのようにイエス様は導いて下さる、それで守られていると言うのです。
そういう暗闇の中にもあるイエス様の導きや守りというのは、本日の日課の個所だけからではなかなか見えてきません。実は本日の個所は、10章1節から始まる大きな一まとまりの中の一部です。イエス様はまず、羊の囲いについて話しをします。その後で自分のことを「囲いの門」であると言い、その次に今日の「自分は良い羊飼い」と言うのです。この全部を見ないとイエス様が自分のことを良い羊飼いと言っている意味の全容はわかりません。それに加えて16節で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない」と言っています。、いきなり「この囲い」と言われても困るのですが、「囲い」については10章の最初で言われているので、本当にそこから見ないと今日の個所はわかりません。日本のルター派教会の区分の仕方がこうなっているためですが、文脈を無視して今日の区分だけに特化して説き明かしするのは無理があります。そういうわけで、本日の福音書の日課はヨハネ10章の11節からですが、1節から見ていこうと思います。11節から18節までは先ほど読んだので、補足として1節から10節までを拝読します。
(ヨハネ10章1~10節の朗読)
イエス様はまず1節から5節まで羊の囲いについて話します。羊の飼育が重要な産業になっているところでは塀の囲いを作って、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。塀は木材や石で造られました。泥棒が「乗り越える」と言うのをみると、それなりの高さがあったと言えます。さらにイエス様の話しから判断すると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたようです。羊飼いが、さあ、これから自分が所有する羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、囲いの門番に所有者である本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の羊を呼び集める。羊は生まれた時から同じ羊飼いに飼われていれば自分の羊飼いを声で聞き分けられたでしょう。別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がったでしょう。こうして、羊飼いはどれが自分の羊かわかり、羊も誰が自分の羊飼いかわかって、一緒になって牧草地を目指して囲いの外に出て行きます。
以上の話は、当時の人が聞いたら、身近であたりまえなことの描写でした。イエス様は何のためにこんな話をし始めたのでしょうか?イエス様がこの話をしたのは、ある安息日の日に盲目の人の目を開く奇跡を行った後でした。人々の間でイエス様のことを、こうした奇跡が行えるのは神から送られた者だからだと言う人もいれば、逆に、安息日には仕事をしてはならないという律法の掟を破ったのだから神由来などではないとか賛否両論が沸き起こりました。ファリサイ派という当時のユダヤ教社会の宗教エリートたちは、イエス様が神から送られた方ということをどうしても信じようとしない。それでイエス様は彼らの心の目は盲目であると指摘したのでした(9章39ー41節)。このやり取りの続きとしてイエス様は羊の囲いと羊飼いの話をされたのです。
羊の囲いの話は、当時の人なら誰にでも思い浮かぶ身近な光景でした。ただ、イエス様は何か大事なことをわかりやすく教えるために人々にとって身近なことを取り上げたのです。その大事なこととは、自分が何者で何のためにこの世に送られてきたかを明らかにすることでした。宗教エリートたちは6節で言われるように、この話が何を意味するのか理解できません。そこでイエス様は話しを説き明かします。まず自分は羊の囲いの門であると言い、次に自分は良い羊飼いであると言います。門も羊飼いも話の中にありました。キーワードです。イエス様が羊の囲いの門である、良い羊飼いであるというのはどういうことかわかれば、イエス様が何者で何のためにこの世に贈られてきたかがわかります。
イエス様はヨハネ10章9節で次のように言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」日常身近なこととして考えれば、確かに、門を通って囲いの中に入る羊は危険から免れて安全な状態にいます。そして囲いを基地として今度は羊飼いに導かれて出て行けば牧草地にたどり着けます。ここの霊的な意味は絶大です。新共同訳では「門を出入りして」と言って、行ったり来たりの感じがしますが、ギリシャ語原文を見ると「門の中に入って、そして外に出る」と言っていて、行ったり来たりの感じはありません。「中に入って、そして外に出る」だけです。
イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れの中に入ることを意味します。どんな群れかというと、万物の創造主である神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者の群れです。そして、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に迎え入れられる者の群れです。このようにこの世においても、この次に到来する世においても天地創造の神との結びつきを持って生きる者の群れです。
このようにイエス様という門を通って群れの中に入って神との結びつきを持つようになったら、今度は「外へ出て、牧草地を見いだすことになる」と言います。これは、群れに加わった者がイエス様という良い羊飼いを先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行くことを意味します。そして、この群れは最後には緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達します。渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という労いと安息の地が約束されているのです。
このように、この世においても、この次に到来する世においても天地創造の神との変わらない結びつきを持てて生きられること、これが「救われる」ということです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、まさにイエス様という門を通って救われた者の群れに加わるということです。
それでは、なぜ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることが、そのような神との結びつきを持てて救われることになるのか?それは、人間には神聖な神の意思に反しようとする性向、罪があるためで、この罪の呪縛から人間を解放するためにイエス様が働かれたのでした。父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に送って、彼があたかも全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に他人の罪を全て負わせて、その神罰をゴルゴタの十字架の上で受けさせたのです。つまり、人間の罪の償いをご自分のひとり子に果たさせたということです。それで今度は人間の方が、このことは自分のためになされたのだとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので神から罪を赦された者として見なされます。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを持てるようになっています。神との結びつきが持てるようになれば、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれて、その道を歩むようになります。イエス様が死から復活させられたことでそこに至る道が開かれたのです。
イエス様のことを通らねばならない門であるということは、イエス様自身、別の個所でも述べていました。ヨハネ14章6節です。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ギリシャ語の原文では、「道」、「真理」、「命」それぞれの単語に定冠詞ηがついています。英語で言えばtheです。イエス様は天の父なるみ神のもとに到達できる道、真理、命の決定版ということです。そういうわけで、救いに与る者たちの群れに加われるためには、イエス様は真に通らなければならない門なのです。
「わたしよりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)と言う時の盗人とか強盗とは何か、考えてみましょう。これは、人間を救いの群れから連れ去って、神の国に向かう道から外してどこか別のところに引っ張って行こうとする者たちです。そして引っ張って行った先で屠ってしまい滅ぼしてしまう。「滅ぼしてしまう」というのは、せっかく神との結びつきを持てて生きられるようになったのに、それが全て失われてしまうことを意味します。何が救いの群れの中にいる者をこのような滅びに陥れるのでしょうか?この世には、神との結びつきを壊そうとするもので満ち満ちています。私たちはイエス様の十字架のおかげで神から罪の赦しを日々与えられているのに、それを与えられないようにするものがいろいろあるのです。
もしキリスト信仰者が神の意思に沿うように語ったり行ったり思ったりすることが出来ない自分にガッカリしてしまう時があれば、それは霊的に健康である証拠です。なぜなら、その時その人は心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが今も打ち立てられたままであることを見て、神への感謝と畏れを新たにして歩み始めることが出来るからです。ところがこの世は、神の意思に沿えなくても、そんなことはいちいち悲しんだりしなくてもいいんだよ、とか、神はそんな厳しいことは言っていないよ、神は愛だから何でも認めてくれるよ、とかいうような声で満ちています。まさしく創世記3章に出てくる蛇の手口と同じです。そういう惑わしに乗ってしまえば、もう罪は気づかないものになってしまいます。罪に気づかなければ、赦しの必要性も感じられなくなります。そうなれば、イエス様の十字架と復活は自分とは関係のない出来事になってしまい、それでイエス様は自分の救い主ではなくなります。まさにこの時、神との結びつきは失われてしまいます。
盗人、盗賊とは、このような惑わす声をもって近づいてくるもの全てを意味します。私たちは、そのような声に耳を傾けず、イエス様の声に耳を傾けるべきです。イエス様の声とは、まず聖書の中に記されているイエス様の言葉があります。それから直接イエス様から世に遣わされた使徒たちの教えもイエス様の声の延長です。これらに加えて、イエス様の言葉や行いの裏付けになるものが旧約聖書の至るところにあります。それらにも耳を傾ければイエス様の声がよりよく聞こえてきます。
ここでイエス様が16節で言われたこと、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」、これについて見てみましょう。「この囲いに入っている」羊と「入っていないほかの羊」がいて、イエス様は両方の羊のグループを荒地の向こうにある緑豊かな牧草地に導いていく、つまり、この世の荒波の海路の向こうにある永遠の安息地、神の御国に導いていく、ということです。囲いに入っている羊と入っていない他の羊とは何を指すのでしょうか?
囲いに入っている羊と言うのは、ユダヤ人の中でイエス様を約束の救世主メシアと信じた者たち、つまり「ユダヤ人キリスト教徒」です。ペトロもヨハネも他の12弟子もイエス様の母マリアも、それからパウロも皆、ユダヤ人キリスト教徒です。囲いに入っていない他の羊と言うのは、ユダヤ人以外の諸民族で後になってイエス様を救い主と信じた人たち、「異邦人キリスト教徒」です。彼らは初めの頃はまだ囲いに入っていませんでしたが、やがてイエス様という門を通って囲いに入って神との結びつきを持つ群れに加わり、そしてイエス様という「良き羊飼い」に導かれて、最初のグループと一緒に牧草地を目指すようになりました。この異邦人キリスト教徒のグループは具体的には、初めはローマ帝国内の諸民族、やがてヨーロッパやアフリカやアジアの諸民族に広がっていきます。イエス様は、この「ユダヤ人キリスト教徒」と「異邦人キリスト教徒」の二つのグループを一つの群れとして、神の御国に導くと言われるのです。
意外に思えるかもしれませんが、聖書のなかで人間界を二分している主要な境界線は、キリスト教徒か非キリスト教徒かではありません。そうではなくて、ユダヤ人かまたは「その他大勢」かです。この「その他大勢」が俗にいう異邦人と呼ばれるものです。そのなかには、日本人だけでなく、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アフリカ人も、中国人も韓国人もみんな全部一緒くたに含まれます。「エフェソの信徒への手紙」2章で使徒パウロが教えるように、キリストは十字架で人間を罪の支配から贖う業を行って、この二つのグループ、つまりユダヤ人と「その他大勢」を一つの体として神と和解させたのです。
さて、イエス様という門を通って救われた者の群れに加わったら今度はイエス様を羊飼いとして囲いを出て牧草地を目指して進んで行きます。ここでは、良い羊飼いと雇い人とが対比されます。雇い人は、羊の所有者に代わって羊の番をする者ですが、狼が現れるなど危険が生じると羊をおいてさっさと逃げてしまう。ところが、良い羊飼いはそのような場合でも逃げはせず、羊を守るためだったら、自分の命さえも惜しまないと言うのです。実際、イエス様は人間が罪の支配から解放されるために人間の全ての罪を引き取って、それから生じる全ての神罰を受けて自分を犠牲にされました。イエス様は十字架に掛けられる前の晩、この犠牲を引き受けることができるかどうか自問自答して苦しみますが、それが自分をこの世に遣わした父なるみ神の御心である以上、それに従って引き受けますと言ったのです。
ここで狼が何を象徴しているか見てみましょう。盗人、強盗の場合は、人間を救いの群れから連れ去って、神との結びつきを失わせて滅びに導くものでした。狼の場合は、羊を盗んだり連れ去ることが直接の目的ではなく、羊やその群れを即破壊することを目的とします。その意味で狼は、罪の支配力、罪の呪いそのものを象徴しています。しかし、イエス様は十字架の死を遂げることで抱き合わせの形で罪の力を無にし、人間をそれらから救い出して下さったのです。
次に雇い人ですが、これは本当の羊飼いではない偽りの羊飼いです。本当の羊飼い、良い羊飼いのイエス様は自分の命と引き換えに人間が神との結びつきを回復できるようにしました。御自分の流した血を代価・身代金として、人間を罪の支配下から解放した/買い戻した/贖い出したのです。偽りの羊飼いである雇い人には同じことはできません。偽りの羊飼いについて、ユダヤ民族の歴史には具体例がありました。エゼキエル書34章をみると、神は、自分の民を羊の群れ、その民の指導者を牧者にたとえて、牧者が羊の群れを養わずに自分自身を養っているだけの無責任を非難します。そして、無能な牧者に代わって真の牧者を起こすと約束します(エゼキエル34章10、23節)。イエス様がこの世に送られたというのは、この預言の実現だったのです。
さて、キリスト信仰者は自分の命を投げ出してまで守ってくれるイエス様を救い主と信じて復活の日を目指して進んで行くのですが、それでも大きな病気になったり事故にも遭遇する。そうなると守ってもらえなかったということなのか?そうではないということが、これまでの説き明かしで明らかになったのではと思います。
少し振り返りますと、牧草地を目指して進むというのは、復活の日の神の国を目指して進むことでした。人間が神の国に迎え入れられるようになるために、イエス様はそれを妨げる罪の力を自分を犠牲にして無力にしました。そうして罪の償いと罪の赦しを自分のものにしてその中に留まる人たちが誕生しました。彼らを復活の主が神の国へと導き、道中を守って下さるようになりました。
その道中が害悪の一切ない常時平穏無事な世界でないことは、例えば詩篇23篇4節でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を行くとも禍を恐れじ。」イエス様に守られて導かれる者でも、「死の陰の谷」を進まなければならないことがあるのです。しかし、「禍を恐れじ」。なぜなら、暗闇の時にも「汝、我と共にあり」だからです。暗闇なのにどうやってイエス様が共にいて下さるとわかるのかと言うと、もし道を外しそうになったら、羊飼いが杖で叩いてそっちじゃないと気づかせてくれるように、気づかせてくれると言うのです。「汝の鞭、汝の杖、我を慰む。」一瞬痛みを感じたかもしれないが、主はちゃんと傍におられるとわかる安心が痛みなどなかったようにします。
そういうわけで目の前が真っ暗になりっぱなしにならない、イエス様は必ず前方に光を灯してくれて、そこを目指して進めるようにして下さる、光が見えるまでは暗闇の中でもちゃんと傍にいて支えるように一緒に歩いて下さるのです。イエス様がそんなに身近におられるのがわかる人というのは、聖書の御言葉を身近なものにし聖餐に与る人です。今コロナで聖餐式を持てませんが、その分み言葉を身近なものにすることが大事になっています。主にあって兄弟姉妹である皆さん、このことを忘れないようにしましょう。
特別の祈り
どうか、あなたに罪を赦して頂いたので十戒を喜んで受け入れる心と、それをしっかり守れない私たちのためにひとり子イエス様を送って下さったあなたの愛に感謝する心を与えて下さい。そして、感謝のうちに、あなたを全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する心もお与えください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン
聖書日課 使徒言行録3章12~19節、第一ヨハネ3章1~7節、ルカ24章36b~48節
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先週申し上げましたように、日本のルター派教会の聖書日課は復活祭から聖霊降臨祭までは第一の日課は旧約聖書ではなく使徒言行録からです。フィンランドでは通常通り旧約聖書からです。どうして違いがあるのかわかりませんが、日本にいるので日本のやり方に従って説き明かしをしていきます。とは言っても、説教の中で旧約聖書に立ち戻ることはいつもあります。新約聖書は旧約聖書を土台にしているので、旧約に立ち返らずに新約を教えることは不可能です。
本日の3つの日課はどれもイエス様の復活が中心にあります。使徒言行録の個所では、ペトロが足の不自由な人を癒した後で驚く群衆に向かってどうして癒しが起こったのか説明します。そこでイエス様の復活を信じることが決め手になっていることを話します。第一ヨハネの個所では、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は神の子とされており、将来復活の日にはイエス様と同じようになるのだと言います。そして福音書のルカの個所は、ずばり復活したイエス様が弟子たちの目の前に現れた時の出来事です。このように本日の日課は、というか本日の日課も、イエス様の復活はキリスト信仰にとって大事なことなのだと私たちに言い聞かせています。そういうわけで本日の説教でもイエス様の復活と私たちの将来の復活について深めていこうと思います。本説教では、3つの異なるテーマについてお話しようと思います。一つ目は、イエス様の復活によって旧約聖書がユダヤ民族にとっての神聖な書物から全世界の民族にとって神聖な書物になったということ。二つ目は復活の体について。三つ目は復活したイエス様の名前が持つ力についてです。
復活祭から聖霊降臨祭までは復活節と呼ばれる期間です。約2000年前のその時は復活したイエス様が昇天するまで40日間地上にいて弟子たちを初め大勢の人たちに姿を現し、弟子たちに旧約聖書を正確に教えた期間でした。本日のルカ24章44節でイエス様は次のように言われます。モーセ五書と預言書と詩篇の中で自分について書いてある事柄は全て実現されなければならないということ、これこそが十字架の出来事の前にお前たちに言っていたことなのだ。その次の45節を直訳するとこうです。イエスはこれを言って弟子たちの閉じていた理解を開いてあげて聖書がわかるようにしてあげた。つまり、弟子たちは旧約聖書の随所にイエス様のことが書かれていることがわからず、その意味で旧約聖書がわかっていなかった。それをわかるようにしたということです。
そうしたイエス様について書かれていながら、そうと理解されていなかった事柄の例として、次のことを述べます。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」これは旧約聖書のいろんな個所をまとめてくっつけたようなものです。分解すると、まず神から遣わされた神聖な方が人間の罪の償いのために身代わりとなって神から罰を受け苦しみを受けて死なれたということ。これはイザヤ書52~53章にかけてあります。また、ダビデの子孫の死の苦しみについては詩篇22篇にあります。イエス様が3日間葬られた状態でいた後に復活されたことは、預言者ヨナが大魚の腹の中に3日間閉じ込められた後で脱出できたことが暗示していました(マタイ12章39~40節)。ホセア書6章2節では、3日後の復活が暗示されています。またイザヤ書49章6節を見ると、神に遣わされた神聖な方が諸国民の光となって神の救いが世界の果てにまで及ぶようにすることが述べられています。
弟子たちの旧約無理解の是正はエマオの道の出来事にも起きます。これは今日のルカの個所の直前にある出来事です。二人の弟子が沈鬱な表情でエマオに向かっていました。そこに復活したイエス様が合流しますが、なぜか二人はイエス様とはわからない。彼らは困惑した様子で話します。民族の解放者と期待されていたイエス様が死刑にされてしまった上に彼の遺体が墓になかった。墓に行った女性たちが天使からイエス様は生きておられると告げられた。これらは一体何なのだ、全くわけがわからない。そこでイエス様はいかにも呆れたという様子で返します。お前たちは旧約聖書を全く知らないからそうなってしまうのだ、メシアが苦しみを受けた後で神から栄光を受けると書いてあるではないかと。そして弟子たちに旧約聖書について講義を始めるのです。旧約聖書にはイエス様に起こったことを言い当てた御言葉が沢山あることが教えられます。このようにイエス様の十字架と復活の後で旧約聖書はイエス様を知るための書物として立ち現われたのです。
弟子たちが旧約聖書をそのように理解していなかったのは、当時「メシア」の理解の仕方がユダヤ民族を異民族支配から解放してくれる王様というものが一般的だったからでした。確かに旧約聖書のメシアに関係する個所はそのように理解できました。しかも、バビロン捕囚後のユダヤ民族がずっと大国の支配に置かれ続けたという歴史状況の中ではそういう救国の王様への期待が強まるのはやむを得ないことでした。しかし、聖書にはそのような理解では意味不明になる個所が多くありました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみのうちに死ぬ「神の僕」とは一体誰か?「衣を取ろうとしてくじを引く」(詩篇22篇19節)とはなんのことか?「渇くわたしに酢を飲ませようとする」(詩篇69篇22節)とはなんのことか?
ところが天地創造の神の最大の関心事は、ユダヤ民族を他民族の虐げや支配から解放することではなく、民族に関係なく人間全てを支配している罪と死から解放することだったのです。
どうして神はそんな解放を目指したのでしょうか?それは、もともと人間は神に造られた当初は罪と死の支配下になかったからでした。それが、創世記の最初に記されているように、人間が神の意思に反しようとする性向すなわち罪を持ってしまったために神聖な神との結びつきが切れてしまい、人間は死ぬ存在になってしまったのでした。人間を造られた神としては、なんとか結びつきを回復してあげようと計画を立てそれを実行に移したのでした。まず、ひとり子をこの世に贈って人間として生まれさせて人間の痛みや苦しみがわかるようにしました。次に、ひとり子を通して人間に神の意思を正確に教え、また今の世が終わった後に到来する神の国についても教えました。そして解放の業を成す時が来ました。神のひとり子は人間と神の結びつきを断ち切ってしまった原因である罪を全部自分で引き受け、ゴルゴタの十字架の上でその神罰を全て受けて死なれました。イエス様の十字架の死はまさに人間に代わって罪の償いを神に対して果たして下さったことだったのです。
実に復活されたイエス様が旧約聖書とはそうした神の人間救済計画について教える書物であることを明らかにしたのでした。これで弟子たちにも合点がいきました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみ死ぬ「神の僕」とはまさにイエス様のことであり、「衣を取ろうとしてくじを引く」も「渇くわたしに酢を飲ませようとする」もみな、イエス様が十字架にかけられたことについて言っていることが明らかになったのです。こんなのは序の口と言えるくらい数多くの聖句がイエス様の活動や彼に起こった出来事について言っていることが明らかになりました。これでメシアの意味が民族の解放者から人間を罪と死の支配から救う救い主に結晶化したのです。 このようにイエス様の復活によって旧約聖書は人間に救いをもたらそうとする神の意思を表す書物であることが明らかになりました。それなので救いの実現のために大きな役割を果たす神のひとり子について述べるのは当然なのです。
イエス様の復活は旧約聖書の性格を大きく変えただけではありません。彼の復活により死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、また永遠の命が待つ神の御国に至る道が人間に開かれたのです。人間はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものに出来れば罪を償ってもらった者になります。罪を償ってもらったら、神から罪を赦された者として見てもらえ、罪を赦されたら、もう神との結びつきを切り裂くものはなくなってその結びつきの中で生きられます。万物の創造主の神と結びついて生きていければ神以外に何も恐れるものはなくなります。万が一この世から別れることになっても恐れなく神に全てを委ねて眠りにつき、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられ永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられます。本当にイエス様の復活のおかげで私たちにこのように永遠の命に至る道が開かれました。
そこで、どうすればその道に入れてそこを進めるようになれるかと聞かれるでしょう。それにはイエス様の果たされた罪の償いを自分のものにすることがないといけません。それでは、どのようにして自分のものにすることが出来るのでしょうか?それは、イエス様が私の身代わりになって罪の償いを果たして下さった、だから彼は私の救い主ですと信仰告白して洗礼を受けることによってです。そうすると罪の償いがその人の内に入って、その人は永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。
本日の使徒書の日課、第一ヨハネ3章でキリスト信仰者は復活の日にイエス様と同じようになると言われています。イエス様と同じようになるとはどうなるのでしょうか?それを知る手掛かりとして復活されたイエス様がどのようであったかを見てみます。イエス様の復活については、2週間前の復活祭の説教で詳しくお教えしましたが、今日は少し違った角度から見ていきます。
本日の福音書のルカ24章で復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。弟子たちの驚きようから察するに本当に突然彼らの間に立っていました。ヨハネ20章ではさらに詳しく、扉には鍵がかかっていたのに、いつの間にかイエス様が弟子たちの間に立っていました。弟子たちが、幽霊が出たとパニックに陥ったのは当然です。しかし、イエス様は、幽霊ではないと否定し、その証拠に手と足を見て触ってみよ、幽霊には肉と骨はないが自分にはちゃんとある、確認しなさいと命じます。このようにイエス様には一応体があります。ただ自由に空間移動をするので私たちの体とは異なっています。しかし、幽霊のように体があるのかないのか不確かな存在ではありません。さらに、食べ物はないかなどと聞いて、みんなの見ている前で食事もする。ここまでくると、復活したイエス様は少なくとも私たちと同じ食欲を持つ存在です。しかし、それでも私たちと異なり自由な空間移動が出来るので、今ある天と地の中で働いている重力Gのような自然法則に支配されていません。
使徒パウロは、第一コリント15章で、体には今のこの世での体と将来の新しい世での「復活の体」の二つがあることについて詳しく教えています。復活の日が来ると、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(52-53節)。また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)と言います。イエス様はズバリ、死者の中から復活する者は天使のようになるのだと言っています(マルコ12章25節)。
またイエス様は十字架刑の時に被った手足の傷を見せます。これは復活後のイエス様は死ぬ前のイエス様と同一人物であることを如実に示します。イエス様は、体の有り様はこの世的なものから「復活の体」へと全く異なるものにはなったけれども、復活後も同じイエスとしての自我を持ち、死ぬ前の出来事を完全に過去のものとして、今は全く新しい現実に生きる者となっている。このように、神から復活させられる者は死ぬ前と同じ人格と自我を持ち、他方で体は全く新しい「復活の体」という存在になるのです。
このことは実は、日本の仏教の間でごく一般に抱かれている死生観と大きく異なる点ではないかと思います。そこでは、人は死ぬと成仏に至る何十年かの修行の道への歩みを始めるとされます。キリスト信仰では復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠り、復活の日に目覚めさせられます。また、仏教で修行の道を歩む者は住職から戒名という新しい名をもらいます。
聖書の観点では、「名前」というのは単なる名称にとどまりません。人の名前はその名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味します。それなので「神の名により頼む」とは「神により頼む」の意味で、「神の名を侮辱する」とは「神を侮辱する」です。またよく使われる「父と子と聖霊の御名によって」というのも、考えるとわからなくなってきますが、要は「父と子と聖霊と繋がって、結ばれて」です。または、「父と子と聖霊の影響下に服して」と言ってもいいと思います。そういうわけで「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を受けると、それは三位一体の神に本気で結びつけられてしまうことになります。洗礼とは本当に大変なことなのです。
話が少しそれましたが、キリスト信仰では亡くなった方がこの世の体から離れて復活の日の体を待っている状態においても、同じ人、同じ人格なので新しい名前を付ける必要はありません。
このようにキリスト信仰では、死からの復活とは新しい体を伴う復活であり、死ぬ前と復活後の人格は同一で復活後も自我を持つということがはっきりあります。そのように復活した者が自分の造り主、自分に命を与え罪と死の支配から解放してくれた神のもとに迎え入れられる。これがキリスト信仰者の死生観です。
ところで、2000年前のイエス様の復活と将来の私たちの復活の間には大きな違いがあります。イエス様の復活は、今あるこの世の中で起きました。つまり、私たちが今生きている天と地の下で起きました。私たちの将来の復活は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節)、そして、造られたものは全て揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが現れる時(ヘブライ12章26-28節)に起こります。その時がいつであるかは、神以外に知ることは許されていません(マルコ13章32節)。その時、イエス様は天使の軍勢を従えて再臨し、この世の人生で彼を救い主と信じる信仰にしっかり留まった者たちを神の国に迎え入れます。その時、既に死んでいて眠りについていた人たちは復活させられてから、御国に迎え入れられます。
こうして復活の体と命を得た者たちが一堂に会する神の国は、大がかりな結婚式の祝宴にもたとえられます(黙示録19章7、9節)。それは、この世の人生に起きたあらゆることについての完全かつ最終的なねぎらいを受ける時です。先ほど見たように復活の体は食欲を持つので、祝宴ではこの世離れした最上級のものが供されるでしょう。どんなメニューか考えただけでもワクワクしてしまいそうです。こんなことを考えるのは不謹慎でしょうか?
先ほど聖書の観点では名前は単なる名称に留まらず、名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味すると申しました。この観点は、本日の使徒言行録の個所の理解にとって大事です。ペトロが足の不自由な人を癒す時、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言います。「イエス・キリストの名によって」というのは、「イエス・キリストと繋がって、結びついて、その影響下に服して」ということです。足の不自由な人は歩けるようになりました。イエス・キリストと繋がる、結びつく、影響下に服するとはどういうことか考えてみましょう。その前に、イエス・キリストという名前ですが、キリストは新約聖書が書かれているギリシャ語のクリストスです。クリストスは旧約聖書が書かれているヘブライ語ではムシィーアハ、メシアです。つまるところイエス・キリストというのは、メシアのイエスという意味です。メシアの意味は、先ほど見たように人間を罪と死の支配から解放する救い主です。
「イエス・キリスト」、「メシアのイエス」と繋がる、結びつく、影響下に服するというのはどういうことか?それがわかる手がかりが本日の使徒言行録の中にあります。ペトロが群衆に対してどうしてこの人の足が治ったかについて説明しているところです。16節でペトロはこう言います。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」
名前が強くしたり癒したりするというのは分かりにくいですが、先ほど見たようにイエス様そのものイエス様の本質が強くした癒したという意味です。ここで思い出さなければならないことはイエス様そのものとか彼の本質とは言うまでもなく、彼が神のひとり子であること、十字架の上で人間の罪を償い罪の人間を死に陥れる力を殺いだこと、そして死から復活されて死を超えた永遠の命を持って生きておられること、これらがイエス様そのもの、彼が彼である本質です。そのような本質を備えた方がこの足の悪い人を強める力があったのです。
しかしながら、イエス様そのものにそのような力があるとしても、それだけでは不十分であることをペトロは同じところで言っています。「それは、その名を信じる信仰によるものです。」「その名を信じる信仰」とはずばり、その名前を持つ方、イエス様を信じる信仰のことです。つまり、癒しは二つの条件が重なって起こったのです。まず、イエス様は今は天の父なるみ神の右に座してはいても地上で癒しを行う力を持っているという条件。それと、イエス様を救い主と信じる信仰があり、その信仰がイエス様の力を受け取る受け皿になっているという受け手側の条件。この二つの条件は人間の救いにもあてはまります。イエス様は十字架と復活の業で人間の救いを実現されたのではありましたが、人間の側で信仰の受け皿でそれを受け取らないとダメなのです。受け取らないでいたら実現した救いは人間の外側によそよそしく留まってしまいます。だから、福音の伝道と洗礼は大事なのです。
ペトロの言葉の後半ではこう言われていました。「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」「イエスによる信仰」とはわかりにくいと思います。各国語の訳も苦労しています。それらについてはここでは立ち入りません(後注)。ここは直訳すると「イエスを経由してある信仰」とか「イエスを手段にしてある信仰」です。つまり、「他の者を経由しない信仰」、「他の者を手段にしない信仰」です。そうすると、やはりイエス様を唯一の救い主と信じる信仰ということになります。ペトロは、イエス様が持つ力と彼を唯一の救い主と信じる信仰がその力の受け皿になっているということ、この、力と受け皿が一緒に働いて癒しが起きたと言っているのです。
それでは、イエス様に癒しを与える力があり、私たちの方でイエス様を救い主と信じる信仰があって、イエス様の力を受け取る受け皿を持っていたら、同じような癒しは必ず起こるのか?これはとても気になるところです。イエス様には力があり、こちらもイエス様を救い主と信じて力を受け取る受け皿はある、それなのに力が来ないで癒しが起きなかったらどうしようと心配もします。その時は次のように考えたらよいでしょう。確かにイエス様には癒しを与える力があり、私も彼を救い主と信じて癒しを受け取る態勢はできている。もし癒しがすぐ起きなくても、それは直ぐには起こさないから引き続き祈りなさいと時間をかけさせようというお考えなのでしょう。あるいは、神は目前の癒しではなく別のことで力を与えたのであり、その別のことで神の栄光を現わしなさいということでしょう。いずれにしても、力ある方と信仰という受け皿の両方がそろっていれば、病気をはじめ他のあらゆる事柄に神の栄光が増し加わる何かが必ず起きます。それなので力ある方が私たちの一番期待していることに働いてくれなくとも、別のことで働かれるので大丈夫です。それで大丈夫と言うのが、復活の希望を持って生きるキリスト信仰者です
(後注)使徒言行録3章16節のペトロの言葉の後半にある、足の不自由な人を人々の前で完全に癒したものを「イエスによる信仰」と言っていることについて。ギリシャ語原文はη πιστις η δι’ αυτουで、直訳すれば「彼を通してある信仰」、「彼を手段にしてある信仰」。「彼」でなくて「彼の名前」の可能性もありますが、名前はその人そのものと考えれば「彼」でもいいことになります。それに「彼の名前」だったら、前半にある言い方に倣ってη πιστις του ονοματος αυτοςないしη πιστις αυτουになるのでは? 参考までに他の国の言葉ではどう訳しているか見てみますと、 英語NIVは、Jesus’ name and the faith that comes through him。 ドイツ語(ルター訳1912年版)は、den Glaube durch ihn。 スウェーデン語は、den tro som kommer genom detta namn。 フィンランド語は、usko, jonka Jeesus antaa。 英語は「名前」にこだわったので原文にないJesus’ nameをつけたのでしょう。つけないでthe faith that comes through himだけだったら原文通りになると思います。ドイツ語のihnは恐らく「名前」でしょうね。スウェーデン語はドイツ語と大体同じです。フィンランド語「イエスが与える信仰」は上手に逃げた訳ということでしょうか。考え方は間違ってはいませんが。それにしても新共同訳の「イエスによる信仰」とはどういう意味でしょうか?
イエス様が十字架の死に至るまであなたに従順だったおかげで、この世界に死と絶望を超える復活の希望が打ち立てられました。どうか、この希望を持って生きる私たちがいつも主にある喜びに満たされるように、私たちを日々見守り支え導いて下さい。
2012年4月11日 復活節第二主日 主日礼拝説教 聖書日課 ヨハネによる福音書20章19-31節、使徒言行録4章32-35節、第一ヨハネ1章1節-2章2節
本日の福音書の個所には、二つの大きなテーマがあります。一つは、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったことです。イエス様の言われる平和とは何かということが一つ。もう一つのテーマは、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになったという出来事です。その時イエス様は言いました、「私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである」と。イエス様は、見て信じるのではなく見ないでも信じられることが大切だと言います。イエス様の言われる平和、それと見ないでも信じられる幸い。この二つは実は関連しあっています。というのは、イエス様の言われる平和も目には見えないもので信じるものだからです。
見ないでも信じられるということはキリスト信仰にとって大事なポイントです。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。
このようにキリスト信仰では目で見ないで信じられるということがポイントになっています。そのことを本日の聖書の御言葉をもとに見ていきましょう。
まず、この目で見ない限り信じないと言ったトマスのことについて。彼の言ったことはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教ならどこでも考えられることでしょう。何か不思議な業を行う、医療手段を講じなくて不治の病が治るという奇跡、そういうことを行った者に対して私たちはこの人には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれるかもしれません。
ところが、イエス様がここで教えていることは、「信じる」とは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じることが本当の信じることだということです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を「信じます」とは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。
イエス様の弟子たちは主の復活の目撃者です。彼らの場合は信じるも何も目で見てしまったのでそうとしか言いようがありません。本日の使徒書の日課の第一ヨハネの個所も、私たちはこの目で見た、この耳で聞いた、この手で触れた、だから宣べ伝えているのだと言います。使徒たちの場合は、目で見たことを証言します。これが目で見なくても証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?一つには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭してまで宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあります。ところが、見ないで信じるようになった人たちも次第に最初の目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていきます。彼らも使徒たちと同じように、神のひとり子が十字架にかけられ、3日後に死から復活された、それは旧約聖書に預言されていたことの実現であったのだ、と宣べ伝え出したのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?
ところで昨年も申し上げたことですが、もしタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行くことが出来たら、ビデオ撮影をして、それをSNSで拡散することが出来ます。世界中の人が目撃できます。あっ、イエスは生き返っているぞ!壁をすり抜けたぞ、すごい、すごい、という具合に瞬く間に5,000万回、5億回と再生されて、いいね!や驚き顔の絵文字で溢れかえるでしょう。世界中の人がイエス様の復活はあったと言うでしょう。しかしながら、それは「信じる」ことではありません。使徒パウロはローマ10章9節で「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言います。「心で信じる」というのは、復活は頭では理解できないことだが心でその通りだと受け取るということです。SNSだと頭で理解する必要もないし心で受け取る必要もありません。瞬間的な反応だけです。イエス様の復活の動画を見てすごいと感じても、「心で信じる」がなければ、すぐ次に投稿されるもっと凄いものを待ち始めています。イエス様の復活はギガバイトの堆積物の中に埋もれていくだけです。こういうことを考えると、SNSというのは人間の頭と心のために本当に役立っているのか立ち止まって考えてみることも必要なのではないかと思う者ですが、どうでしょうか?
話が少し横道にそれましたが、パウロの言葉は、イエス様の復活というのは頭で一生懸命理解しようとしても受け取り不可だが、心は受け取り可ということを意味します。心で受け取ることが出来るから目撃しなくても信じることができるのです。それでは、イエス様の復活を心で受け取るとはどういうことでしょうか?
本日の使徒書の日課「第一ヨハネの手紙」の個所にその鍵があるので、それを見てみます。ヨハネは、目撃者である使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは伝えられた者が伝える者と一体性を持つためであると言います(1章3節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っています。交流関係を持つみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteys、gemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です。ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です。どの訳語も重なる部分はありますが、微妙に違っていると思います。どちらかと言うと日本語の「交わり」と英語のフェローシップは少し浅い狭い感じがします。そう言うとまた先週に続いて聖書の翻訳の日米同盟と欧州連合の対決を持ち出してしまうのですが、私としては「一体性」とか「共同体」の方があっているのかなと思います。その理由として、本日の使徒言行録の日課で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここでコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。
私たちが礼拝の中で唱える「使徒信条」は2000年近い伝統を持つキリスト教信仰告白の基本中の基本ですが、その終わり部分で信じる事柄の一つに「聖徒の交わり」というのがあります。これもギリシャ語原文を見るとコイノニアで、信仰者が一体であること、共同体を形成していることを意味します。「交わり」と言うと、スオミ教会では礼拝後にコーヒータイムを持ちますが(今はコロナで控えています)、そういう交流や歓談のひと時を連想してしまうかもしれません。しかし、コイノニアは交流や歓談を超えた、それこそ場合によっては財産の共有に至るくらいの一体性、共同性を意味するのです。
さて、ヨハネは、自分たち使徒が見聞きしたことを宣べ伝えるのは、宣べ伝えられた人たちが伝えた人たちと一体性を持つためと言います。しかし話はそこにとどまりません。そのすぐ後でとても本質的なことを言います。それは、宣べ伝える自分たちは父なるみ神とそのひとり子イエス様と「一体性・コイノニア」を持っていると言うのです(1章3節、日本語では「交わり」、英語ではフェローシップ、ドイツ語ではゲマインシャフト、スウェーデン語・フィンランド語も「一体性」を意味する言葉)。つまり、自分たちが見聞きしたことを宣べ伝えるのは、伝えられた人たちが伝えた自分たちと一体性を持てて、今度はその一体性を通して伝えられた人たちも自分たちが持っている神・御子との一体性に与れるようになるためだと言うのです。つまり伝える人たちと伝えられた人たちが共に神・御子と一体性を持つことが目指されているのです。両者が共に神・御子と一体性を持つので、両者は互いに一体ということになります。
このようにヨハネをはじめ使徒たちが目で見たことを証言するのは、それを聞いたりまたは読んだりした人たちが神・御子と一体性を持てるようになって、それを通してお互いに一体となるためでした。これが意味することは、神と御子と一体性を持てれば、別にイエス様の復活を目で見たか見なかったかはそんなに大した問題ではなくなるということです。逆に復活の主を目で見たとしても、神と御子との一体性を持てなければ、その見たことは先ほど見たようなSNSのニュース拡散と同じことになります。
ここで、神と御子と一体の関係を持つことが、復活を自分の目で目撃していなくても心で信じられるようになる条件であることが見えてきました。それでは神と御子との一体の関係はどうやって持てるようになるのでしょうか?
イエス様の復活について聞いた人たちが、どのようにして神と御子との一体の関係を持てるようになって、復活を心で信じられるようになったか?答えは、聞いた人たちがユダヤ人が非ユダヤ人かによって多少異なってきます。
まずユダヤ人の場合。彼らには旧約聖書があったので、イエス様の十字架の死と死からの復活を知らされた時、預言が実現したことがわかりました。十字架の出来事は神が遣わした神聖な方が人間の罪を償うために犠牲の死を引き受けるというイザヤ書53章の預言が実現したのだと。3日後に死から復活されることはヨナ書2章に暗示されていたと。そして、復活された主はこの世の肉の体とは異なる体を纏っていたことはダニエル書12章の預言の実現だと。イエス様の十字架と復活の出来事の前はメシアとはユダヤ民族を異民族の支配から解放する地上の王様と考えられていました。しかし、そのような理解だと旧約聖書の中に解明できないことが多く残りました。イエス様の十字架と復活の後、メシアとはユダヤ民族か非ユダヤ民族かに関係なく人間を罪と死の支配から救い出して、天地創造の神との結びつきを回復させてくれる方。人間がこの世を去った後も復活の日に目覚めさせて神の御許に迎え入れられるようにしてくれる、そういう永遠の命の救い主、それがメシアだという理解になりました。それで旧約聖書の不可解だったことが次々とわかるようになったのでした。それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになったのです。その時はもう、イエス様の復活を心で信じています。
ただし、ユダヤ人はイエス様に対する姿勢で二分してしまいます。イエス様を救い主メシアと信じるようになった人たちと、信じない人たちとにです。
非ユダヤ人の場合は少し勝手が違いました。彼らは、旧約聖書を持っていないので預言を知りません。また地中海世界の東部はギリシャ文明が浸透している地域なので、人々は多神教の考え方に慣れています。彼らは使徒たちの宣べ伝えを聞いて、どうやって神・御子との一体性を持てるようになって復活を心で信じられるようになったのでしょうか?
ユダヤ教とキリスト教では言うまでもなく、万物の創造主の神、天と地と人間を造られ人間に命と人生を与えた神が全ての中心にあります。使徒パウロがアテネのアレオパゴスにて居並ぶギリシャの哲学者・知識人を前にキリスト信仰を弁明したことがあります。使徒言行録の17章です。そこでパウロは、万物の創造主、人間一人一人の造り主である神は将来この世を正当に裁くことになると述べました。そういう裁きの日が将来起こることがイエス様の復活によってはっきりしたと言うのです。どういうことかと言うと、人間が天地を創造し自分をも造られた神を知らずに好き勝手にやる時代はもういい加減終わりにしなければならないということをはっきり示したのがイエス様の復活であった。死んだ者を新しく復活させる神は、心を改める者に同じように復活に与らせて下さるが、改めない者はこの世から死んだ後、復活に与れず滅びに落ちてしまう。そういう審判の日が来るのであると。
これを聞いたギリシャの知識人たちは、死者の復活など馬鹿々々しいと取り合いませんでした。ところが、この後で何人かの人たちがパウロを訪ねてきたのです。彼らに何が起こったのでしょうか?彼らの心が多くの神々や霊々にではなく唯一の万物の創造主に向けられるようになったのです。創造主の神に心が向くと、神が人間に対して造り主である自分に立ち返りなさいと呼びかけていることがわかります。そこでその神と自分の関係を考えると、自分には神の神聖さにそぐわない汚れがあることに気づきます。その時、神のひとり子イエス様が十字架で死なれたのは自分の汚れを引き取って下さったことで、そのおかげで自分は神の目に相応しいものになれるということがわかったのです。イエス様が私の救い主である限り、私は創造主の神と結びつきを持って生きられる、この世においても、次に到来する世においても。そういうことが彼らの心の中に起こったのでした。
このように非ユダヤ人に対しては、天地創造の神、自分自身の造り主がおられることがわかり、次にその神と自分自身の関係がどうなっているかを考えることが出発点になりました。神との関係が問題ないものになるように、そのひとり子のイエス様が十字架で自分を犠牲にされた、だから彼を救い主と信じて洗礼を受ければ神との結びつきの中で生きられることになります。今のこの世でも、次に到来する世でも、です。このようにイエス様を救い主と信じている時は既に彼の復活を心で信じています。この非ユダヤ人の事例は私たち日本人にも当てはまるのではないかと思います。
イエス様が弟子たちにあるようにと言った「平和」についてみてみます。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、この「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使われたでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומという言葉です。シャーロームという言葉はとても幅広い意味を持っていて、国と国が戦争をしないという意味の平和もありますが、その他に、繁栄とか、成功とか、健康とかいうように人間個人にとって望ましい、何か理想な状態を意味しています。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。
どういう意味かわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違っているくるでしょうか?
イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和なのです。つまり、イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげでなくなったという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は平和がない敵対関係だったということは「コロサイの信徒への手紙」1章21ー22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間が、イエス様の犠牲によって和解できる道が開かれ、イエス様を救い主と持つことで神のみ前に立たされても問題ない者とされたということです。
こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが回復した者は神と神と一体になっていて神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康などこの世的な目に見える平和シャロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は変更なく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪からの贖いを強めていけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を研ぎ澄ませていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世から別れる時、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛え上げていれば行く先を安心して神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせられて主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さいます。
それなので、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、この復活の希望はいつも心の中で研ぎ澄まされた状態にあり、それで私たちの魂は復活の日に障害物なく直結しています。パウロが目で見なくても希望している状態でもう救われているというのは真理です!
イエス様は、私たちが永遠の滅びに陥らないようにと、大いなる愛をもって十字架の上で私たちにかわって死の苦しみを受けられ、最後は復活によって死に勝利しました。洗礼を通してその勝利に与れる私たちが何も恐れることなくイエス様の愛を持って生きられるように、御言葉と聖餐を通して私たちを強めて下さい。
聖書日課 ヨハネによる福音書20章1-18節、イザヤ25章6節-9節、第一コリント15章1節-11節
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目にします。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事でした。
復活祭は、キリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。イースターをお祝いする時、英語では「ハッピー・イースター」と言います。クリスマスは「メリー・クリスマス」ですが、イースターは「メリー」ではなく「ハッピー」です。復活祭の何が私たちをハッピーにさせるのでしょうか?昔々イエス・キリストという偉い人が十字架刑という惨い殺され方をしてしまったが、三日後に見事に蘇ってみんながハッピーになったということでしょうか?マジックショーじゃあるまいし、そんな理解で済むのなら聖書なんか要らなくなります。
イエス様の十字架と復活の出来事はなぜ起きたのか、それらは一体何だったのかということは聖書全体を通してみないとわからないようになっています。聖書全体を踏まえて、それらがなぜ起きたかがわかると、たちまちそれは私たち人間のため、時代と国を超えて全ての人のために起きたということがわかり、イースターは本当にハッピー・イースターだとわかります。そういうわけでイエス様の復活は今を生きる私たちに大いに関係があるハッピーな出来事なのだ、ということを今年の説教でもお話ししていこうと思います。
まず、イエス様の十字架と復活の出来事を純粋に歴史上の事件としてみるとこうなります。現在のイスラエル国の北部ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに批判的な教えを説き多くの支持者を獲得した、そのため指導層の反感を買って当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書という書物は万物の創造主であり人間の造り主でもある神が人間にどのような思いを持ちどんな計画を持っているかを知る唯一の手がかりです。聖書をそのような書物であるとの立場に立ってみると、歴史の見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。
それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?本教会の説教でいつもお教えしていることですが、ここでも振り返ってみます。
まず、イエス様の十字架の死について。それは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしたということでした。罪と聞くと一般には何か犯罪行為とかそこまでいかなくても何か悪い行いとかを考える人が多いと思います。聖書ではそれは、人間に備わってしまっている、神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。この罪は創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。そこで神は、人間をこの罪の引き離しの力から解放して自分との結びつきを回復してあげよう、人間がその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことを実現する計画を立てたのです。
それでは、この人間を救うという神の壮大な計画とイエス様の十字架と復活とはどう関係するのでしょうか?イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになり、そのようにして彼が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さいました。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いがあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。
加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。そこで人間が、これらのことは全部自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いが自分の中に入ってきて自分のものなります。自分ではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であれば人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方がそのひとり子ということであれば、この償いはかけがえのないもの決して軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。
神から罪を赦されたのあれば神との結びつきは回復しています。そうなると神が立てた計画に従って人生を生きることが始まります。神の計画とは先ほど申しましたように、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるという人生です。キリスト信仰者は人生にこのような大きな方向性が与えられ、順境の時だろうが逆境の時だろうが全く変わらない神との結びつきの中でこの世を生きていきます。進んで行く先は永遠の命が待っている神の御許です。これが、罪と死の支配から解放されて生きるということです。
罪と死の支配から人間を解放するという神の計画がイエス様の十字架と復活をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしたのです。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わり新しい世が始まる時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭とは、イエス様が復活させられたことで実は私たちの将来の復活の可能性が生まれたことを喜び祝う日です。さらに自分自身の復活に加えて、復活の日にやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つの希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身だけのためでもなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちをハッピーにさせるのです。
次に、復活というのはどういう状態のことなのかをみてみます。これも毎年お話ししていることですが振り返ってみます。復活は超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることだけを手掛かりにするしかありません。本日の福音書の箇所で復活したイエス様とマグダラのマリアの再会の出来事がありました。毎年お話ししていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが「復活の体」を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する「復活の体」とはどんな体か?それについては使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われました(マルコ12章25節)。
復活とは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではないことに注意します。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。復活というのは肉体が消滅しても復活の日に新しい「復活の体」を着せられて復活することです。その体はもう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる完全に清い体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。その意味でイエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかったのですが、40日間も地上にとどまりました。なぜか?その期間があったおかげで弟子たちをはじめ大勢の人たちに自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。
復活したイエス様が、私たちの今の体と異なる体を持っていたことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。
復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事があります。二人がイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。このことについては、説教の終わりでもう一度お話しします。
さて、天の御国の神聖な神に相応しい「復活の体」を持つイエス様と、それにすがりつく地上の体のマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。マリアがイエス様にすがりついたのは、突然本人が生きて目の前に現れたので感極まって抱きしめたのでしょう。相手が崇拝の対象である場合は「すがりつく」というのはひれ伏して相手の両足を抱きしめることだったかもしれません。
イエス様が「すがりつくな」と言ったことについて。これもこの福音書の個所が当たる年に毎回お話ししていますが、ギリシャ語原文では「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)みな「私に触れてはならない」と訳しています。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。どっちが正しい訳でしょうか?話が少し脇道にそれますが、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書(一部アラム語もあります)が現代語でどう訳されているか比べると、ドイツ語・スウェーデン語・フィンランド語が同じ訳をして日本語・英語が別の訳をしているということがしばしばあります。何だか聖書の翻訳に欧州連合と日米同盟の対決があるみたいですが、今日の個所について言えば欧州連合に軍配が上がると思います。というのは、イエス様が復活の体という、まさに天のみ神のもとにいることができる体でいることを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思われます。
さらにイエス様は「私はまだ父のもとに上がっていないのだから」(17節)と言って、触れてはならない理由も述べていることに注目します。自分に触れるなと言って、その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本来なら自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上の存在なので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。これで全てつじつまが合います。
しかし、ここで疑問も生じます。それは、ルカ24章で復活したイエス様が疑う弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているからです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろと命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここはギリシャ語原文の動詞の使い方によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです(後注)。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。
神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこには、かつてモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。何だか思い浮かべただけでこちらまで泣けてしまいそうな感動的な場面です。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。そのことは、イエス様の次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。
ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」
先ほど、旧約聖書の復活の預言がイエス様の復活が起きたことで現実味を帯びたと申しました。旧約中の復活の預言としてダニエル書12章をあげました。本日の旧約の日課イザヤ書25章の個所も復活の預言です。神が死を滅ぼしたり、全ての涙を拭ったり、神に属する民が受けた恥辱を地上から抹消するということは大体、黙示録20章と21章に出てきます。黙示録を記したヨハネはイザヤ書25章が最後の審判と死者の復活についての預言だとわかったのでした。
イザヤ書25章の今日の個所の中で分かりにくいことは、神が全ての民の顔を包んでいた布と国々を覆っていた布を滅ぼすと言っていることです。これはヘブライ語原文を直訳すると、神が滅ぼすものは「全ての民に被さっている目に見える覆い」、「全ての民に被さっている織りなされた覆い」です。少し難しいですが何か外面的なものです。「織りなされた覆い」ですが、詩篇139篇15節を見ると人間が神に造られる時「織りなされる」と言って同じ動詞נסךが使われています。またパウロは、第二コリント5章で肉の体を天幕つまり布切れにたとえています。そういうわけでイザヤ25章で滅ぼされる布というのは私たち人間のこの地上の肉の体のことです。イザヤ書の個所はまさにパウロが第一コリント15章で言っていること、すなわち肉の体は朽ち果てて復活の日に復活の体を着せられることを意味しているのです。
さらに、イザヤ書25章で神が盛大な祝宴を開くことが言われていますが、これも黙示録19章にあります。復活に与った者たちが席につくことになる天の御国の祝宴です。イザヤ書を見ると、脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒と言いますが、本当にその通りのメニューになるかどうかは不明です。実はこれは、祝宴で最上のものが振る舞われることを表現するために、当時の人たちの感覚で最上のものが引き合いに出されたということです。それなので、脂っこい料理が苦手な人も自分は天国に入れないどと心配するには及びません。それから「えり抜きの酒」ですが、この訳はいただけません。ヘブライ語の単語シェメルשמרは辞書を見るとぶどう酒に関係する意味です。「酒」は訳しすぎです。焼酎やウイスキーやビール等も入ってしまいます。フィンランド語訳の聖書も「ぶどう酒」です。日本語の翻訳者はお酒が好きでそう訳してしまったのでしょうか?
最後に、先ほども触れましたが、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐ本人と気がつかないことがあるということについて私の思うところを申し上げて今年の復活祭の礼拝説教を締めようと思います。
復活の再会の時、再会の相手はどんな容姿をしているのでしょうか?例えば、高齢でこの世を去ったら、天の御国で再会する時もこの世を去った最後の瞬間の容姿、高齢の容姿なのでしょうか?そうだとすると亡くなる人は高齢の方が多いから天の御国は圧倒的に高齢者が多い超高齢者化社会ということになります。逆に、もし小さな子供や赤ちゃんの時にこの世を去ったのであれば、復活の再会の時も子供のまま赤ちゃんのままなのでしょうか?さらに、もし大きな怪我や病気のために容姿が大きく変容してしまったら、再会の時その人はその痛々しい姿で現れるのでしょうか?しかし、イエス様の事例を見ると、復活の再会の時の容姿は必ずしもこの世を去る瞬間の容姿と同じではないことが見えてきます。
復活したイエス様は確かに傷は残っていたが、それは何の痛みも持たない、ただ単に過去にこんなことがあったと示すだけの干からびた痕跡にしかすぎませんでした。そうすると、復活の再会の時に目にするのは、この世を去る瞬間の容姿ではなく、その方の何かベストな状態の容姿ということになるのでしょうか?もし、それがこの世を去る時の直近のベストな状態だとしたら、それは一目でその人だと分かってしまいます。一目見てもわからないというのは、その人が辿ってきたいろんな年齢・段階の面影が一つに重なり合っている、ないしは混ざり合っているからではないかと考えるようになりました。そのような重層的な面影を一目見た時どうなるか?見た人はまだその方がこの世を去る時の容姿が頭にあるから、すぐにはわからない。ところが、何かがかみ合うとその人だと納得できる。そういうことなのではないかと考えるようになりました。
過去のいろんな面影と言ったら、苦しい時、辛い時の面影もあるでしょう。しかし、黙示録21章を見ると、復活後は涙もなく死もなく悲しみも嘆きもないと言っています。それで、復活の体が映し出す面影は全てベストなものではないかと思います。イエス様が「天使のようになる」と言うのは、こうことではないかと思います。
ベストな面影とは言っても、受けた傷、心の傷、体の傷は消えずに残っているかもしれません。復活のイエス様にも十字架の時に受けた傷が残っていました。しかし、それはもう痛くも痒くもない干からびた痕跡のようなものでした。私たちの心の傷や体の傷も復活の日にそういうものになっているのでしょう。
赤ちゃんや小さな子供の場合ですが、遡れる年数が少ない分、面影も少なくなり一目見たらすぐ分かってしまうかもしれません。しかし、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐには誰かわからないということにこだわったら、こういうことになるのではないかと考えます。すなわち、その子は、もし死なずにそのまま順調に育っていたらこういう面影を持つようになっただろう、つまり復活の再会は面影の先取りのようなこともあるのではないか。もちろん、そうなると親としては子供が死んだ後の成長を見ていないのでベストの面影を映し出す子供を見てもなかなか誰かわからないかもしれません。しかし、心配には及びません。親のことを短い生涯でも精一杯見続けた子供の方から、お母さん!お父さん!と声をかけてくれるでしょう。
主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん、どうです、復活の日の再会が待ち遠しくなってきたでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注) ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。
ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。
もし、あなたが誰かのおかげで命にかかわる危険から助けられたとしたら、その命の恩人に対しては感謝以外のなにものでもないでしょう。例えば、道路を渡っている時、よく見なかった反対側から急に車が出てきて、しまったと思った瞬間、素早く走り寄ってきた誰かがドンと跳ねのけてくれたので車に引かれないで済んだら、その方に本当に大きな感謝でしょう。
ところが、もし跳ね除けてくれたその人が車に引かれて死んでしまったら、助かった人は感謝もあるかもしれないが自分の不注意のせいでこんなことになってしまったと申し訳ない気持ちで一杯になってしまうでしょう。自分が生きていられるのはその人の犠牲の上に立っていると思っただけで、それからの人生はもう軽々しい生き方はできなくなるでしょう。
イエス様の十字架の死は犠牲の死でした。そのことは本日の旧約の日課イザヤ書の個所からも明らかです。その個所はイエス様の受難を預言しています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(53章4節)と言われていました。また、「彼が受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」(同)とも言われていました。さらに、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(11節)とはっきり述べられていました。
しかしながら、イエス様の犠牲の死は、先ほどの交通事故で誰かが自分を犠牲にしたおかげで自分が助かるという出来事に比べたら、あまり身近な出来事に感じられないかもしれません。交通事故の事例では、今自分が生きていられるのは、あの人が身を投げ出してくれたからだとはっきりわかります。それに対して、今自分が生きていられるのはイエス様が自分を犠牲にしたからだとわかることが出来るでしょうか?
イエス様が自分を犠牲にしたのは、人間が内に持ってしまっている罪すなわち創造主の神の意思に反しようとする性向、その罪のせいで人間が造り主との結びつきを失っている、それを取り戻してあげようとしたからでした。人間が罪の罰を受けて滅びてしまわないように、それで神罰を人間に代わって受けて罪の償いを代わりに神に対して果たして下さったのでした。これがゴルゴタの十字架の出来事の真相だったのです。
「今自分が生きていられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ」と言うと、それは交通事故の事例に比べて遠い感じがします。そこで、視野を拡大してこう言い換えます。「今自分が神との結びつきを持って生きられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ」と。さらに続けて、「この結びつきがあるおかげで私には順境の時も逆境の時も常に変わらぬ神の守りと導きがあり、万が一この世を去らねばならない時が来ても復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになった。これらのことは全てイエス様が自分を犠牲にしたから可能になったのだ。」こうすると遠い感じがしなくなり、イエス様も身近な「命の恩人」になります。正確には「『永遠の命』の恩人」です。
このように、命というものを今のこの世での命に留めず、この世が終わった後に到来する次の世にまでまたがるものと考えると、イエス様が「永遠の命の恩人」であることがはっきりします。
加えてイエス様は、受難を受けることは大きな苦痛を伴うものと知りつつ、敢えて受難の道に入って行かれました。ゲッセマネの園で、これから受けることになる痛みと苦しみを何か飲み干すべき杯に例え、出来ることなら飲まないで済ませたいと祈るくらいでした(マタイ26章39節)。結局は杯を受けることにしますと父なるみ神に打ち明けますが、その時のイエス様は苦しみもだえ汗を血が滴り落ちるように地面に落としていたと伝えられています(ルカ22章44節)。これから起こることは、神と人間の間を引き裂いている罪を全て人間に代わって償い、そのために罪の罰を全て受けることであると自分でわかっていたのです。全知全能の神のひとり子である方がこれほどまでの苦悩と葛藤を通り抜けなければならない位に人間の罪の償い、罪からの贖いというのは途方もないことなのです。そのことを私たちはイエス様の苦悩からわからなければなりません。これは本当に神と同質である方の純粋な苦悩です。本当なら私たちが苦悩しなければならなかったことを神がひとり子にさせたのです。イエス様はそれを全部引き受けて下さいました。だから「永遠の命の恩人」なのです。
イエス様が受けた苦しみについてルターが次のように教えているので、最後にそれを引用して本説教の締めといたします。
「イエス様はなぜこのような苦しみを受けなければならないのか?彼は、神の意思に反する罪を持たない、まさに神聖で神の義を持つお方ではないか。しかし、全てはこの世の罪のために起こらなければならなかったのだ!父なるみ神は、この世の罪を全て彼の両肩に押し付けて彼を圧し潰されたのだ。この事実を前にして私たちはどうすればよいのだろうか?次のことを本当のことと信じて受け入れるしかない。すなわち、神が私の罪を私から取り去ってイエス様に押し付けた、それで私は罪から自由な身にされた、ということだ。どうかこのことが、主の受難を聞く私たちにとって深い慰めとなるように。なにしろ、イエス様が私たちの罪を代わりに引き受けて下さって、私たちに代わってそれを背負って神に対して償って下さったからだ。このことは彼の十字架を心の目で見つめる時にはっきりとわかる。イエス様自身、この世の全ての罪を背負うことがどんな痛みと苦しみをもたらすかを前もって全てご存じだったのだ。
そこで、もし君の罪がイエス様の両肩に圧し掛かっているのなら、君は本当は安心してよいのだ。なぜなら、その時、罪は正しい場所に置かれているからだ。君の両肩は正しい場所ではない。なぜなら、君も他の全ての人もそれらを背負う力はないからだ。もしひとかけらの罪でも背負ったら、その重みで永遠の滅びに落ちてしまうだろう。だから、君の罪々は全部イエス様の両肩に圧し掛かっていていいのだ。そして、見よ、彼が全力を尽くしてそれらをどこに運び上げたかを。十字架の上にだ。そこで我々の罪の罰を受けられたのだ。
しかし、イエス様は三日後に罪と死と悪魔を凌駕する者として、それらに対する完全な勝利者として立ち現われた。それらのものが主を滅ぼそうと力を奮ったが、全ては無駄に終わった。この事実は君を慰め勇気づけてくれる。ここに言葉では言い尽くせない神の恵みがある。だから神に感謝するのだ!君を地獄の深みに落そうとした罪という重荷を君から取り去って、御自分のひとり子に背負わせて下さった神を。」
聖書日課 イザヤ50章4〜9a節、フィリピ2章5〜11節、マルコ11章1〜11節 讃美歌 189(1)、77(1)、77(5)、200 ビデオ編集 パイヴィ・ポウッカ
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あなたは、私たち人間の救いのためにみ子イエス様をこの世に送られ、彼を十字架の死に渡されました。どうか、イエス様を救い主と信じる私たちが、彼のあなたへの従順さに倣い、彼がもたらした罪と死に対する勝利に留まることができるようにして下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、 主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン