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主日礼拝説教 2021年3月21日 四旬節第五主日
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
ここ数週間の礼拝説教で十戒について教えることが多かったと思います。特にキリスト信仰者にとって十戒とは何か、それにどう向き合うかということが大きな問題としてありました。本日の旧約の日課エレミア書31章の個所も、キリスト信仰者にとって十戒とは何かということを教えています。今日もこの問題について本日の聖書の日課をもとにして深めていきたいと思います。キリスト信仰者にとって十戒とは何か?それにどう向き合うか?
まず十戒について少し復習しておきましょう。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。大きく分けて二つの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名を引き合いに出して誤った誓いを立ててはいけない、また神の名を不正や偽りにかこつけて唱えてはならない、神聖な名を汚してはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。
第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。第9と10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。
十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。ところがイエス様はもっと深いところ、すなわち十戒を与えた神の本当の意図について教えました。有名な山上の説教のところです。たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪であると(マタイ5章21-22節)。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。天地創造の神は人間に内面の潔白性までも求めているのです。全ての掟がそのようなものならば、十戒を完全に守ることができるのは誰もいなくなります。このことは使徒パウロも深刻に受け止めました。ローマ7章です。十戒の掟があることで自分にはそれに反するものがあると気づかされると言うのです。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は守れない自分を気づかせるという、人間の真実の姿を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。
さらにイエス様は、十戒の土台にあるものについても教えました。マルコ12章28ー31節です。神と人間の関係を律する最初の3つの掟について、その趣旨は神を全身全霊で愛することであると教えました。それで3つの掟はこの趣旨に従って理解し守らなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することであると教えました。それで7つの掟についてもその趣旨に従って理解し守らなければならなくなりました。このような土台があるために宗教改革のルターは第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入るのだと教えたのです。さらにイエス様は、神への愛の掟と隣人愛の掟の関係についても教えました。彼によれば、神への愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えたのです。
以上、人間は十戒を守り切れない。心の中まで問われたらとても難しい。しかも、守ることが神への愛、隣人への愛に基づいていなければならない。さらに隣人への愛は神への愛に基づいていなければならない。イエス様はそう教えられました。少しこんがらがってきましたが、どうやらそういう愛を持てないと十戒は守れない、守ったつもりが守ったことにはなっていない、そんな愛があるというのです。それはどんな愛なのでしょうか?どうしたらそんな愛を持てるのでしょうか?エレミア31章の神の言葉は実は、そのような愛を持てる日が来ることを言っています。まず、その御言葉を見てみましょう。
エレミア31章の神の言葉は、神がイスラエルの民と新しい契約を結ぶ時が来ると言っているところです。新しい契約の前に古い契約がありました。それは、出エジプトの時に神と民の間に結ばれた契約でした。「契約」と言うと、賃貸契約、売買契約のような取引関係を思い起こさせますが、そうではありません。ヘブライ語の単語ブリートは「同盟」の意味があります。それで聖書で「契約」という言葉が出てきたら、神と人間の「同盟関係」とか「契り」というふうに考えます。神は、イスラエルの民を世界の諸民族の中から選んで自分の民とすると宣言しました(申命記7章6~7節)。つまり、万物の創造主である神から守りと導きと祝福を受けられる民になれるということです。相手は万物の創造主ですから、これほど名誉なことはありません。それにしても、なぜイスラエルの民がこんな破格な扱いを受けられたかと言うと、それは民が偉大で優秀だったからではありませんでした。ただ単に神の一方的な思い、つまり民を憐れんで愛したからでした(申命記7章8節)。
ただし、イスラエルの民が天地創造の神の守りや導きや祝福を受けられる「神の民」でいられるために、民の側にもしなければならないことがありました。それが十戒の掟でした。旧約聖書の初めのモーセ五書を繙くと、神が与えた掟は十戒の他にもそれから派生して無数の掟があります。特に将来建てられる神殿での礼拝に関する規定は沢山あります。これらの掟を称して律法と言います。十戒はその中心です。
さて、イスラエルの民は約束の地カナンに移住し、敵対する民族の攻撃をはねのけながら、その地に根付いていきます。紀元前11世紀半ばに王制に始め、サウル、ダビデ、ソロモンという王を輩出しました。しかしながら、その後は王国は南北に分裂し、民の心や生き方は神や律法から離れていきます。これははっきり契約違反でした。神は預言者を遣わして民が神のもとに立ち返るよう警告しますが効果はなく、民は神の祝福を失い、まず北王国が紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、残る南王国も紀元前587年にバビロン帝国によって滅ぼされてしまいます。
本日のエレミア31章の神の言葉は南王国が滅亡する直前に語られたものです。古い契約は民が律法を破り続けて神のもとに立ち返ろうとしなかったため民の方から破棄されてしまった。それで、国が亡びるのは当然のことでした。しかし、ここで注目すべきことは、神はかつて自分の一方的な思いでイスラエルの民を選んだ、その思いを捨てないのです。イスラエルの民を見限って別に掟を守れそうな民族を選ぶということはしない。そもそも、どの民族をとっても結果は同じでしょう。しかし、神は今度はイスラエルの民が律法を守れるような民族にしてあげよう、自分の力で守れないのなら、こっちで守れるような者に変容させてあげよう、と言うのです。それが新しい契約ということでした。この新しい契約は実は、イスラエルの民という一民族を超えた世界の全ての民族にとっても重要な意味を持つものになりました。神はそれをイスラエルの民を通して世界中の諸民族に及ぼそうとされたのです。
新しい契約とは何か?それは、「わたしの律法を胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」というものでした。新共同訳では「胸の中」ですが、ヘブライ語の単語ケレヴを辞書で見るとthe inward part of bodyなので胸だけでなく体の内面的な部分全体です。律法を人間の外側部分にではなく内側部分に授ける、心にそれを書き記すというのです。古い契約の時は律法は内側部分ではなく外側部分に授けられ、書き記されたのは石の板でした。人間はそれを読んだり聞いたりして守ろうとしたのですが、それが今度は律法が人間に内面化して、内側から守るようになるというのです。ここで「律法」という言葉についてひと言。これはヘブライ語のトーラーでモーセ五書の掟集全部を指すこともあります。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事が起きた後、そしてエルサレムの神殿が消滅した後は、十戒に絞って考えるのが妥当です。
さて、十戒が人間に内面化するというのは、それがあたかも血と肉と化すということです。十戒は人間に対する神の意思ですから、神の意思そのものが内面化して血と肉と化すると言うのです。本当にそんなことが起きれば、人間は無理して掟を守ろうと苦労することはなくなります。血と肉と化しているのだから、自然に守れるようになります。新しい契約ではそういうふうになると言うのです。その証拠に、隣人同士、兄弟同士が「主を知れ」と言って教え合うことはなくなると言います。もう神の意思が自然にわかるし、それに従って生きることも自然に出来るようになります。人間をそのようなものに変容させる契約とはどんな契約なのでしょうか?そのような契約を結ぶ日が来ると言っていますが、それはいつなのでしょうか?
エレミア31章33~34節をもう少し詳しく見てみます。神が十戒を人々の心に書き記し、それで人々は神の民となり神はその人たちの神となる。その時、人々はお互いに「主を知れ」と教え合う必要がなくなる。人々がそこまで神のことを知ることが出来るようになるのは、神が十戒を人の心に書き記したからです。以前は、石の板に書き記したものを読ませて守るように命じたけれども、結局は守れませんでした。それを今度こそは守れるようにと心に書き記すのです。十戒を自然に守れるように心に書き記すということは本当に起こったのでしょうか?それが起こることを示す神の言葉があります。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」人間が神の意思に反する罪を持ったり行ったりしても、神がそれを赦して不問にするすと言うのです。神の罪の赦しと十戒の内面化が関連しあっていることが見えてきます。両者を結びつきたのがイエス様でした。どのように結びつけたのか、それをイエス様の本日の福音書の言葉をもとに見ていきましょう。
ギリシャ人が自分に会いたがっていると聞いたイエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言いました。さらに「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」と言いました。ここでイエス様は「死ぬ」ということを言います。32節では「私が地上から上げられる時」と言います。これは言うまでもなく、イエス様が十字架にかけられて地上から上げられることを意味します。神の栄光を現わす時が来たと言って、それは自分が十字架にかけられて死ぬ時に起きると言うのです。これはどういうことでしょうか?
イエス様がゴルゴタの十字架で死を遂げたというのは、人間の罪から来る神罰を私たちの代わりに受けられたということでした。つまり、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。まさに人間が神罰を受けないで済むようにするための犠牲の生贄になったのです。イエス様は全人類の罪を十字架の上にまで運び上げて罰を受けたので罪はイエス様と抱き合わせの形で滅ぼされました。それで罪の人間を支配下に置こうとする力は無にされました。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられました。それによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。
そこで人間がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いと罪の支配からの贖いがその人にその通りになります。その人は神から罪を赦された者と見てもらえ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待っている神の御国に迎え入れられるようになります。31節でイエス様が「この世の支配者が追放される」と言いますが、「この世の支配者」とは目に見える具体的な権力者ではなく、目に見えない霊的な支配者、悪魔のことです。人間が神との結びつきを持てなくなるようにしようとする者です。その一番大事な道具である罪が役立たずになってしまいました。悪魔としては歯ぎしりするしかありません。
キリスト信仰者は洗礼を通してイエス様のおかげの罪の償いと罪からの贖いを自分のものにした者ではありますが、そうは言っても、罪すなわち神の意思に反することを行ったり言葉に出したり心で思ってしまう可能性は残ります。そうなってしまったら、どうなるのか?イエス様の犠牲を台無しにしてしまったのでまた罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?そうではないということをここ数週間毎回述べてきました。そのような時、その人はすぐ我に返って父なるみ神に「私の身代わりとなって死なれたイエス様は真に私の救い主です。彼の神聖な犠牲に免じて私を赦して下さい」と願い祈れば、神はイエス様の犠牲に免じて本当に赦して下さるのです。それくらいにイエス様の犠牲は完全なものです。その人はまた復活と永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻ることができ、それを進み続けることが出来ます。このようにキリスト信仰者は罪にはまることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いに戻ってそこに留まる限り、神は罪を赦しそれを不問にして下さいます。まさにエレミア31章34節で神が罪を赦す、思い返さないと言っている通りのことが起こるのです。
このようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを持つキリスト信仰者は、パウロがガラテア3章27節で言うように、イエス様を罪の汚れのない純白な衣のように着せられた者です。神聖な神は罪を忌み嫌い、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、信仰者がこの衣を手放さないでしっかり纏っているのを見て義とされるのです。キリストを着せられる前は、自分には罪があるから神に相応しくないということでした。ところが着せられた今は、イエス様のおかげで神に相応しい者に変えてもらいました。それで、罪は自分には相応しくないという自覚が生じて罪を足蹴にします。
キリスト信仰者がイエス様という衣を手放さないでしっかり纏うというのは罪の告白と罪の赦しにしっかり留まるということです。キリスト信仰者は十戒を持っており、しかもイエス様が教えた神の意図も知っています。それで、それらに照らせば自分には神の意思に反するものがあるとすぐ気づきます。その時は罪の告白をして罪の赦しを頂きます。それで、自分にはこんな罪があるのにイエス様のおかげで神に受け入れられていることに再び感謝します。その時、罪は自分に相応しくないという自覚が戻り、罪を足蹴にします。しかし、一時するとまた自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで罪の告白をし赦しを受ける。そして神に受け入れられていることがわかり罪を足蹴にする。罪の告白と罪の赦しを繰り返せば繰り返すほど、罪を圧し潰していくことになります。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これが、十戒が心に書き記されて血と肉になった者の生き方です!人によっては、罪を告白するんだったら十戒を守っていないことじゃないかと言うかもしれません。しかし、罪を足蹴にし圧し潰していくのは、十戒が血と肉になっているからです。十戒を内側から守っているのです。
そもそもキリスト信仰者が被せられているイエス様というのは十戒が完全に実現されている方でした。信仰者は罪の自覚、神への告白と赦し、これを繰り返すことで自分を着せられている衣に合わせていくのです。これがイエス様が25節で言う、「この世で自分の命を憎む」生き方です。自分の命を憎むなどと言うと自己否定に聞こえますが、そうではありません。この世で目や心を引き付けるものに自分を合わせていかないで、イエス様の衣に自分を合わせていくのです。否定するのはこの世と結びついた自分です。神と結びつきを持ちイエス様という衣を纏っている人はそれが自己になっています。自己否定などありません。罪の告白と罪の赦しを繰り返せば繰り返すほど、罪の償いと罪からの贖いを自分の内に最大化していくことになります。そのような生き方がイエス様が26節で言う、彼に仕える生き方なのです。
私たちの造り主である父なるみ神は、私たちの側で何か顧みてもらえるようなすごいことをしたわけではないのに、父の方から一方的にひとり子を私たちに贈られて罪の償いと罪からの贖いを果たして下さいました。このことのゆえに私たちは神のこの一方的な愛に心を動かされて神を愛するようになります。また神が私たちにしたように私たちも隣人に対して一方的に善いことをしよう、赦しを与えようという心を持てるようになるのです。この愛があるおかげで、十戒を愛以外の動機や目的に基づかせて守ろうとすることがなくなっていきます。愛に基づかせて守ろうします。その時、十戒は間違いなく心に書き記されて血と肉になっています。
最後に、本日の福音書の個所でギリシャ人がイエス様に会いたがったことがありました。このことについてひと言述べておきましょう。当時地中海世界の東側はギリシャ語が公用語になっていました。いろんな民族の人がギリシャ語を話していたので、彼らをひっくるめて「ギリシャ人」と呼んでいました。そうした諸民族の中からユダヤ教に改宗する人たちも大勢出ました。なにしろ、多神教が主流の世界で唯一の神を崇拝するというのは斬新なことでした。しかも、人間はこの唯一の神に造られ、胎内にいる時から見守られている、などと言うのです。当時の地中海世界というのは、生まれてくる子供を大人の都合で間引きすることが普通だったところでしたから、このような生命感は革命的なことでした。こうしたことのために人々は聖書の神にひきつけられたのです。イエス様に会いたいと言ってきたギリシャ人は過越祭を祝うためにエルサレムに来ていたので改宗者だったのでしょう。彼らは旧約聖書を知っているのでメシアの到来も信じていました。イエス様のことを聞いて、もしかしたらこの人かもしれないという予感がしたのでしょう。
さて、十字架と復活の出来事の後、あの方こそ旧約聖書に預言されていたメシアだったという知らせが使徒たちの伝道の働きを通して地中海世界に瞬く間のうちに広まりました。あの時、ギリシャ人が会いたいと言っているのを聞いたイエス様は、これから果たすことになる罪の償いと罪からの贖いの業がユダヤ民族の境界を越えて拡がっていくのは間違いないと確信したのでした。そして、それは彼の十字架と復活の出来事の後でその通りになりました。まさに一粒の麦が死んで多くの実を結ぶということが起こったのでした。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
特別の祈り
全知全能の父なるみ神よ。 あなたは、イエス様の十字架の業によって、私たちを罪と死の支配から贖(あがな)い出して下さいました。 あなたから頂いたこの「罪の赦しの救い」、そして死を超えた「永遠の命の希望」を身近な人たちにも伝えることができるよう、私たちを強めて下さい。 あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン
主日礼拝説教 (2021年3月7日 四旬節第三主日)
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本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名を引き合いに出して誤った誓いを立ててはいけない、また神の名を不正や偽りにかこつけて唱えて神聖なその名を汚してはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。
第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。そして、第9と10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。
十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。ところがイエス様は十戒について、それを与えた神の本当の意図について教えました。有名な山上の説教のところです。たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21ー22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27ー30節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。天地創造の神は人間に内面の潔白性までも要求しているのです。全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいないでしょう。このことは使徒パウロも深刻に受け止めました。ローマ7章です。十戒の掟があることで自分にはそれに反するものがあると気づかされると言うのです。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は守れない自分を気づかせるという、人間の真実の姿を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。
そうすると、神は一体私たち人間に何を求めているのか疑わしくなります。まさか私たちが守れない自分に気づいてがっかりするのを期待する意地悪な方なのか?それとも本当は私たちが守れるようになることを望んでいるのか?でもどうしたら守れるようになれるのでしょうか?
その点に関してイエス様は次のようにも教えています。マルコ12章28ー31節です。十戒のうち神と人間の関係を律する最初の3つの掟について、その趣旨は全身全霊で神を愛することに尽きると教えました。それで3つの掟はこの趣旨に沿って理解し守らなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することに尽きると教えました。それで7つの掟についてもその趣旨に沿って理解し守らなければならなくなりました。まさにこのことがあるので宗教改革のルターは第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入るのだと教えたのです。さらにイエス様は、神に対する愛の掟と隣人愛の掟がどうお互い結びついているかも教えました。彼によれば、神に対する愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えました。
それらからすると、守れない自分に気づいてがっかりして終わることが神の目的ではないことがわかります。それは守らなければならないのです。しかし、外面上は守れていても、内面ではイエス様が言うように守れていないことがあります。例えば、本心では気乗りしないのだが、神に義と見てもらうためとか、周りの人に義人に見てもらえるようになるためとか、そういう自分の利益で掟を守るということがあります。ここでイエス様が、神と人間の関係についての掟は神を愛することで守る、また人間同士の関係の掟は隣人を愛することで守る、そのように言われる時、まさにそういう自分の利益のために守るということを吹き飛ばしているのです。それでは、自分の利益を全く顧みないで掟を守ることが愛と言うのなら、私たちはそのような愛をどうしたら持てるでしょうか?本日の福音書の個所でイエス様が自分のことを神殿と言っていることに、その鍵があります。今日の説教ではそのことを見ていきましょう。
本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、モーセを指導者とするイスラエルの民が神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には生贄用の羊や牛が売買されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたというのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物の購入や神殿への納めのために通貨を替える必要がありました。
このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が本当に神の意思に沿っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。罪のゆえに壊れてしまった神と人間の関係を修復できる方、また罪の赦しを与える方はまさに創造主の神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復して赦してくれて当然というような傲慢な態度も生まれてきます。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11ー17節、エレミア書6章20節、7章21ー23節、アモス書4章4節、5章21ー27節など及びイザヤ29章13節も)。
イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。彼がどうしてそこまで憤ったかと言うと、本当ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。興味深いことに、この「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞エゲイローεγειρωが使われています。三日で建て直すことと三日で復活することが掛け合わされています。
神殿というのは本当なら、人間が神から罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまっている。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?
復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って神の意思に反する性向を持つようになってしまいました。その性向を聖書では罪と呼びますが、それを持つようになってしまったために人間は、神聖な神の御許にいられなくなってしまい神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から死んでも復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげようと決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子のイエス様に受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になりました(第一コリント5章7節、ヘブライ9ー10章)。
イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24ー28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。
イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりません。イエス様は全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪されました。その時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。イエス様が人間の罪の償いを人間に代わってして下さったので、罪は人間を縛り付ける力を失いました。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。ここまでお膳立てされたのですから、あとは人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の償いが洗礼を受けた人にその通りになり、そうしてその人は罪の支配下から脱せて神との結びつきを持って生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、難しい言葉で贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子が十字架で流した血でした。
そういうわけで、キリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを洗礼を通して自分のものにした人ということになります。ただ、そうは言っても、キリスト信仰者が罪、神の意思に反することを行ったり言葉に出したり心で思ってしまう可能性は残ります。そうなってしまったら、どうなるのでしょうか?イエス様の身代わりの犠牲を台無しにしてしまうことになるのか?それでその人はまた罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?そうではない、ということを先週も先々週もお教えしました。そのような時、その人はすぐ我に返って父なるみ神に「私の身代わりとなって死なれたイエス様は真に私の救い主です。彼の神聖な犠牲に免じて私を赦して下さい」と願い祈れば、神は本当にイエス様の犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいにイエス様の犠牲は完全なものなのです。その人はまた復活と永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻ることができ、歩み続けることが出来ます。
このようにキリスト信仰者が罪にはまることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いにしっかりとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。そういうわけで、イエス様はエルサレムの神殿が果たそうとして出来なかったことを果たして下さったのです。十字架の死を遂げて復活させられたイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを実現して神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。
イエス様という神殿を持ちその中で生きるキリスト信仰者は、自分の内にはまだ神の意思に反しようとする性向、罪を持ってはいるが、イエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを持つ者です。それはパウロがガラテア3章27節で言うように、キリストという罪の汚れのない純白な衣を着せられるということです。神聖な神は罪を忌み嫌い、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、信仰者がこの衣を手放さないでしっかり纏っていることを見て義とされるのです。キリストを着せられる前は、自分には罪があるから神に相応しくないということでした。ところが着せられた今は、イエス様のおかげで神に相応しい者に変えてもらいました。それで、罪の方こそ自分には相応しくないのだ、という自覚が生じて罪を足蹴にします。
キリスト信仰者がイエス様という衣を手放さないでしっかり纏うというのはどういうことでしょうか?キリスト信仰者は十戒を持っており、しかもイエス様が教えた神の意図を知っているので、それに照らせば自分には神の意思に反するものがあるとすぐ気づきます。その時は、先ほども申しましたように、罪の告白をして罪の赦しを頂きます。それで、自分にはこんな罪があるのにイエス様のおかげで神に受け入れられていることに再び感謝します。その時また、罪は私には相応しくないのだ、という自覚が戻り、罪を足蹴にします。しかし、一時するとまた守れないで自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで罪の告白をし、赦しを受ける。そして神に受け入れられていることを確認し、罪を足蹴にする。こうしたことがこの世を去る時までずっと繰り返されます。パウロはローマ8章13節で、キリスト信仰者が聖霊の導きを受けながら罪の業を死なせていくのならば、復活と永遠の命に与れると言っている通りです。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」と訳していて、「絶つならば」とはまるでエイ、ヤーと一回で断ち切ってしまう感じですが、ギリシャ語の動詞は「死なせる」で、その時制は毎日毎日死なせていくという日常的な営みです。ルターは、キリスト信仰者が完全になるのは、まさにこの世を去って罪を宿す肉が朽ち果てる時と言っていますが、同じことです。
そもそもキリスト信仰者が被せられているイエス様というのは十戒が完全に実現されている方です。罪の自覚、神への告白そしてイエス様の犠牲に免じた赦し、これを繰り返すことで自分を十戒が完全に実現された状態にあわせていくことになります。それで、自分が着せられている衣に自分を合わせていくのがキリスト信仰者の生き方です。それにそぐわない余計なものは削ぎ落されていきます。自分の利害をもとにして神に対する掟を守るとか隣人に対する掟を守るとかがなくなっていきます。そうなっていくのはまさに、父なるみ神が、私たちの側で神に対して何か顧みられるようなことをしたわけではないのに、神の方から一方的にひとり子を私たちに贈られて罪の償いと罪からの贖いを実現して下さったこと、これによるのです。これがあったので私たちは神のこの一方的な愛に心を動かされて神を愛するようになり、また神が私たちにしたように私たちも隣人に対して一方的に善いことをしようとする心を持てるようになるのです。ヨハネが第一の手紙4章で言っていることはまさにこのことです。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちのうちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(7~11節)
全知全能の父なるみ神よ。
あなたはみ子の生涯、十字架の死そして死からの復活によって、この世に天のみ国の希望をもたらされました。 どうか私たちがその希望に満たされて、あなたのみ言葉に聞き従い罪から離れて、この世であなたの愛を現す生き方ができるようにして下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン
主日礼拝説教 (2021年2月23日 四旬節第二主日)
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本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っている有名なイエス様の教えです。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ8章34ー37節)。」
これを読んだ人はたいてい、ああ、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているんだな、と理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値あるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。誰にでもわかる一般常識をイエス様は教えているのだと。そうするとこれは同じ個所で言っていること、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とどう結びつくでしょうか?「自分の命を救いたいと思う者はそれを失う」とは、人間、どうせいつか死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?
それと、「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救う」とはどういうことか?大方の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだなと理解するのではないでしょうか。そうすると、最初に言っていること、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というのは、殉教の道を進めと言っているように聞こえてきます。そうなると一方で、命は地球より重いのだ、などと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのOKというのは矛盾しているのではないかと思えてきます。どうでしょうか?
実はイエス様は矛盾したことは何も言っていません。では、どうしてそう聞こえるかと言うと、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」この部分を先ほど見た一般常識、「命は地球より重い」で理解してしまうからです。この部分を新約聖書が書かれたギリシャ語原文に遡って、かつルター派の視点で見ていくと、そこは一般常識とは違うことを言っていることが見えてきます。ここには一般常識ではなくてキリスト信仰の常識があるのであり、それで見ていくとイエス様が言っていることは矛盾なく筋の通ったものになります。そういうわけで本日の説教では皆さんを一般常識からキリスト信仰の常識に駆けのぼっていけるようにしていこうと思います。
まず、本日の福音書の日課ですが、ここは一括りになっている8章27~38節の中の中盤から終わりの部分です。8章27~38節という個所はマルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで8章27~38節の出来事があり、その後でその地方の「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させます。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、8章27~38節はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい出す出発点です。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて自分の受難と復活について預言します。
そこで、8章27~33節を見ると、まずイエス様が人々は自分のことを何者と言っているかと質問をします。弟子たちの答えから、人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが明らかになります。それに対してペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることを明らかにします。そこでイエス様は自分の受難と死からの復活について預言します。それを聞いたペトロは敬愛するイエス様が殺されることなどあってはならないと思って否定します。それに対してイエス様はペトロのことをサタン、悪魔と言って叱責します。「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」大抵の人はイエス様の強い語調に驚くでしょう。しかし、神による人間救済を全世界の人々に及ぼすべくこれから十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのはまさしく神の計画を邪魔することになります。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないというのは悪魔に加担することと同じになってしまいます。それでイエス様は強く叱責したのです。ペトロが思わない「神のこと」とは、まさしく神の人間救済のことです。
それでは神の人間救済の計画とは何か?毎回説教でお教えしていることですが、それがわかると本日の日課でイエス様が言われていることを一般常識を超えてキリスト信仰の常識で理解することが出来まるようになります。それなので少しおさらいをしておきましょう。
キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまったという大問題が立ちはだかります。どうして壊れてしまったかと言うと、創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、それを聖書では罪と言いますが、それを持つようになってしまったからでした。人間は神聖な神のもとにいられなくなって死ぬ存在となりました。使徒パウロがローマ6章23節で言うように、死ぬというのはまさに罪の報酬なのです。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできてしまったのです。
これに対して神は、人間がそうなってしまったのは自業自得だと冷たく突き放すことはしませんでした。人間が再び自分との結びつきを持ててその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても復活の日に目覚めさせて復活の体と永遠の命を付与して造り主である自分のところに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この計画はどのように実現したでしょうか?罪が人間の内に入り込んで神との結びつきが失われてしまったのだから、それを人間から除去しなければならない。しかしそれは、イエス様がマルコ7章で当時の宗教指導者たちと論争した時に明らかにしたように人間の力では不可能です。人間が自分の力で罪を除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世で神と結びつきを持って生きることも神のもとに戻ることもできません。
この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送って、人間の罪を全て彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運び上げさせ、そこで罪の神罰を受けさせて死なせたのです。つまり、ひとり子イエス様に私たち人間の罪の償いを果たさせたのです。そこで私たち人間がこのことは歴史上、本当に起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを回復できて、この世を順境だろうが逆境だろうがいつも変わらない神との結びつきの中で歩むことができるようになりました。
イエス様が果たしたことは罪の償いだけではありませんでした。十字架の死から3日後、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちのために開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進んでいるのです。神との結びつきを持ちながら進んでいくのです。
ところで、神から罪を赦されたと見なされるようになったとは言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。確かに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた以上は注意深くなって罪を行為や言葉で表に出してしまうことはなくなるかもしれませんが、心の中で持ってしまいます。イエス様は、神は心の中まで潔白さを問うと教えたのです。それにどんなに注意していても、人間的な弱さのためにまた隙をつかれてしまって罪が行為や言葉で出てしまうこともあります。そのような時はどうなるのでしょうか?イエス様が果たして下さった罪の償いを台無しにしたことになり神から赦しをキャンセルされてしまうのでしょうか?神から赦してもらえない者になって神との結びつきは失われてしまうでしょうか?
そうではない、というのがキリスト信仰であると先週申し上げました。パウロがガラテア3章27節で言うように(ローマ13章14節も)、洗礼を受けた者はイエス様を汚れのない純白な衣のように被せられます。神はその人を見る時、その人の内にある罪よりもその人が纏っている衣の方に目を向けます。それなので、自分に罪があるとわかったら、すぐそれを神の御前で認めて、イエス様を救い主と信じますから赦して下さいと祈ります。そうすると神も、「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあのゴルゴタの丘の十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられ微動だにしていない。わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、これからは罪を犯さないようにしなさい」と応じて下さいます。そうしてキリスト信仰者は再出発のスタートを切ることができるのです。
この世でキリスト信仰者は、肉を持って生きるので神の意思に反する罪を内に抱えたままです。それで自然、罪の告白と赦しを繰り返すことになります。毎週日曜日の礼拝の初めで司式者と会衆が一緒に神のみ前で行っていることがそれです。もちろん、他にも信徒が牧会者や他の信徒と一緒にもっと具体的に個別に行うものもあります。罪の告白と赦しを繰り返すというのは、洗礼の時に被せられたイエス様の衣を手放さずにしっかり纏うことです。繰り返せば繰り返すほど、内に宿る罪はイエス様の衣の神聖さの重みで圧し潰されていきます。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者のこの世の人生というのは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスです。例えば、怒りや憎しみとか、舌を制御することができないとか、地位や立場で人を選別したり自分も選別されることを期待するとか、そういう愛のなさが染みついている古い人、これを神から頂く罪の赦しとイエス様の神聖な衣を重石にして圧し潰していくプロセスです。
そして、このプロセスが終わる日がきます。その時点で生きている者も既に死んでいた者も全ての者が創造主の前に立たされる日です。その時、各自に審判が下されます。これは最後の審判なので申し開きや弁明する機会はなく判決だけが言い渡されます(マタイ25章を見ると判決の理由は聞くことが出来るようです)。その時、「お前は罪を圧し潰す側に立って生きていた」と認められればよいのです。そう認められた者は、もう自分には圧し潰すものがなく、自分自身の体が神の栄光を映し出して輝いていることに気づきます。これが復活の体です。ルターが言うように、キリスト信仰者が本当に完全な信仰者になるのはこの世を去って肉の体を脱ぎ捨てた時なのです。
以上、神の人間救済の計画とそれがどのように実現したかについて述べてきました。本日の課題に戻りましょう。イエス様がつき従う者、つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?
まず、キリスト信仰者が背負う十字架について。これは、イエス様が背負った十字架と同じでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって人間の罪を全部引き受けてその神罰を全て受けて人間の救いを実現したのです。私たち人間が同じような十字架を背負うことは出来ないし、そもそも救いの十字架は一度打ち立てられて完結したのです。
それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど、キリスト信仰者の人生は洗礼の時にイエス様を衣のように被せられて罪を圧し潰していくプロセス、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスだと申しました。
それで、「自分を捨てる」というのは、まさに肉に結びついた古い人を死なせ、神の霊に結びついた新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。つまり捨てるのは肉に結びつく古い自分です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。ただこれはプロセスですので、この世を去るまでは捨て続けます。「自分を捨てる」と言うと、何だか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえます。また逆に、自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえるかもしれません。一般常識の耳で聞くとそういうふうに聞こえるのです。しかし、そういうことではありません。罪の告白と赦しを繰り返すことで古い人が圧し潰されて衰えて代わりに新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てること、これがキリスト信仰の常識から見た「自分を捨てる」の意味です。
そういうわけで、私たちが十字架を背負うというのは、洗礼を受けた時に始まる、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いを戦うということになります。戦いの具体的な形は、それぞれ人が置かれた状況によって異なってきます。具体的な人間関係の中で死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるでしょう。自分より良い境遇にある人を妬むことで古い人が強まります。あるいは自分はキリスト信仰者であると公けにすることで仲間外れになったりすると、イエス様を救い主と信じることが揺らいで新しい人が育たなくなってしまうことも起こります。このように背負う十字架は形は違っても、新しい人を育て古い人を死なせるという点ではみな同じです。そういうわけで、「十字架を背負う」とか「自分を捨てる」というのは殉教そのものではありません。今見た通り、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあるからです。
このように、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入ることだとわかると、続く35節と36節で「命」(後注)を救うとか失うとか言っていることもわかってきます。以下、それを見ていきましょう。
35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
これは前の節の繋がりで見ると、自分の命を救いたいと思う者とは、自分を捨てることもせず自分の十字架を背負うこともせず、従って罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入らなかった人のことです。それなので、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩んでおらず、この世での命が全てになってしまう人です。そのような人にとって新しい世での新しい命などありえないことですから、この世での命にしがみつくしかありません。しかし、この世での命は永遠に続きません。これが「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」の意味です。
次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」先ほど、自分の十字架を背負い自分を捨てるというのは殉教そのものではないと申しました。罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあるからです。ところが、信仰を捨てるか命を捨てるかのどちらかにせよ、という権力者からお達しが来たらどうするかという問題は歴史上あちこちでありましたし今日でもあります。信仰を捨てずに命を落とした人もいれば、逆に信仰を捨てて命を保全した人もいました。たとえ罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いが殉教で中断させられてしまっても、命落す日まで戦いを続けたことは父なるみ神の「命の書」に記されます。最後の審判で、お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと必ず認められるでしょう。
そして36~37節です。イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」ここの「命を失ったら」の「失う」ですが、前の35節の「命を失う」に二度出てくる「失う」とは原語のギリシャ語では動詞が異なります。35節はアポリュミαπολλυμιという動詞で、それは文字通り「失う」という意味があり、35節の訳はそれの通りです。36節はツェーミオオーζημιοωという動詞で、その正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため辞書によっては、イエス様のここの言葉を「命を失う」と訳してはいけないと注意するものもある位です。新共同訳ではそう訳してしまっていますが。ここは「命に傷がついている、ダメージを受けている」という意味です。そうなると、イエス様は「命は地球より重し」という一般常識を教えていないことになります。一体イエス様は何を教えたかったのでしょうか?
36~37節を少し解説的に訳すと「人はたとえ全世界を手に入れても、命が傷つきダメージを受けていたら、そんなものは何の役にも立たない。なぜなら、どんなにこの世で永らえようとしてもいつかは時が来るのだし、その時、手に入れた全世界をもって命を買い戻そうとしても無駄である」ということになります。ここでの問題は「命に傷がついている、ダメージを受けている」とはどういうことかということです。
それは、ここで言われている「代価」に注目します。人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。それによって人間は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩みだします。このようにイエス様は私たち人間を罪と死の支配下から神のもとに買い戻して下さったのです。神聖な神のひとり子が十字架で流された血を代価として私たち人間を神のもとに買い戻されたのです。買い戻されたというのは難しい言葉で「贖われた」とも言います。「代価」と訳されるギリシャ語の言葉アンタラグマανταλλαγμαは「身代金」の意味を持ちます。人間は罪と死に売り渡されたも同然だったが、神が痛い身代金を払って買い戻して下さった、人間を罪と死の支配から御自分のもとに贖い出して下さったのです。
それで、傷ついている、ダメージを受けている命というのは、贖われていない、買い戻されていない状態を意味します。そのような状態の人が死を間近にして慌てて自分が手に入れた全世界を代価にして死を免れようとしても、そんなものは神のひとり子の犠牲に比べたら何の力にもならないのです。そういうわけで、ここは、一般常識では命が大事と言っているように見えていたのが、実はイエス様の犠牲、彼が十字架で流した血が大事と暗に言っているのです。それがなぜそんなに大事かというと、それは言うまでもなく、私たち人間を罪と死の支配から解放して、復活の日に復活を遂げられて死を超えた永遠の命に与ることが出来るようにするからです。これがキリスト信仰の常識です。
(後注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)
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あなたはかつて、あなたの民を荒野(あれの)の中を通って約束の地へ導かれました。今、この世の荒野で救い主に従って歩む民を、栄光のみ国へ導いてください。この歩みの中で辛いことがあっても、あなたへの信頼を失わず、主にある喜びを常に喜ぶことができ、あなたに感謝することを忘れない心をお与えください。
主日礼拝説教 (2021年2月21日 四旬節第一主日)
今年も四旬節/受難節の季節になりました。今年の復活祭/イースターは4月4日に定められています。その日まで主日を除いて数えた40日間が四旬節です。この間の水曜日2月17日がその始まりの日でした。そういうわけで本日は四旬節最初の主日となります。四旬節の背景ですが、古いキリスト教会の伝統として西暦300年頃から復活祭の前に主日を除く40日間に断食することが行われるようになったことがあります。どうして40日間の断食かというと、イエス様が荒野で悪魔から誘惑の試練を受けた時40日間何も食べなかったということに由来します。そもそもイエス様の生涯は人間の救いのためにゴルゴタの十字架にかけられる犠牲の死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して主の備えの生涯を身近なものにしようとしたのです。
四旬節は英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉に由来するそうです。フィンランドやスウェーデンではカトリックの時代の伝統を受け継いで「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国なので外面的な規則の順守が救いを左右するという考え「断食」と言っても名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師にもそのようなことを勧める人もいます。ただし皆さん、そういうことをして神に認められるとか、救いを確実にするとか、そんなことは全く関係ないとわかっています。好物を食べなくても食事はちゃんととるので断食には程遠いです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングのようなものです。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくても注意が向くのならしなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、いつもよりもイエス様のことに心が向くようになるということです。
本日の説教の聖書日課ですが福音書を中心に説き明かしをします。使徒書の第一ペトロの個所は死んで陰府に下ったイエス様が死者の霊に福音を宣べ伝えたという難しいところです。これについては3年前の四旬節第一主日の説教で「死者のための祈り」という題で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は少なくとも4章6節まで見ないと説教は不可能です。今回3年前の説教を読み返してみて考え方は基本的に変更はなく、もう少し洗礼の重要性を出した方が良かったかなと思ったくらいでした。それで今回は第一ペトロを取り上げず、福音書の日課の説き明かしに専念することにしました。(3年前の説教にご関心ある方は、ここをクリック! )
本日の福音書の箇所の中にイエス様の荒野の試練があります。この出来事はマタイ福音書とルカ福音書では詳細に記述されていますが、マルコ福音書ではたったの二節しかありません。荒野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がなく、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書には詳細に語られたものが伝承されて記載されましたが、マルコ福音書には要約された形のものが記載されたと言えます。たった2節をもとに説教をするというのは簡単なことではありません。しかし、ルターだったら1節だけでも1時間位は説教できたでしょう。しかも彼の場合は、聖書外のことには言及せず聖書だけで話が出来ました。私も彼を見習って説き明かしをしていこうと思います。
本日のマルコ福音書の記述は要約された形ですが、それでもマタイ福音書やルカ福音書にはないことが含まれていますので、それを見てみましょう。
「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいて、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在しています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。マタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。
この順番を踏まえてマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」
新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」とも訳すことができます。それで、荒野で野獣のただ中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書では「野獣のただ中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)
さてイエス様は、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。荒野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の守りというのは、ただ単に荒野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指しているとも言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。
マタイ福音書とルカ福音書の記述では、イエス様が悪魔からどんな試練を受け、それにどう打ち勝ったかということが詳しく記されていますが、その後の野獣の危険と天使の守りについては触れられていません。ここでイエス様の天使の守りということについてよく考えてみると、悪魔の誘惑の時にはそれはなく、それに打ち勝った後にありました。そして最後にイエス様が逮捕されて十字架にかけられる時はありませんでした。十字架の時に天使の守りがなかったということは後で見ます。このようにイエス様に天使の守りがあったりなかったりしたというのは、どういうことか見ていこうと思います。というのは、そのことが私たちキリスト信仰者にとって大きな意味を持っているからです。どんな意味かと言うと、キリスト信仰者には鉄壁の防御があるということです。
マタイとルカの記述によると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続け(特にルカ4章2節)、最後に三つの誘惑を受けます。最初の二つは「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」
というのと、「お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に向かって身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神のみ子です。だから、パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?
それは、もしそうしていれば確かに神のみ子の力を見せつけることができたでしょうが、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従うことになってしまうからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ?お前が神の子ならわけないだろ、それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でもなんでもないんだ、と巧みに追い詰めていったのです。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはしないということを貫きました。たとえそれが空腹と恐怖の中に留まることを意味しようとも。
三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、先の二つに増して、私たち人間の救いにとって決定的な意味を持ちました。というのは、イエス様は荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりでした。その時、神の聖霊が降り、また神のみ子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10ー11節)。それで、もし、その神の子が悪魔にひれ伏してしまったならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔の下になったのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなります。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともしない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。実に際どい瞬間でした。
それでは次にイエス様はどのようにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをマタイとルカの記述に即してみていくことにします。結論から言うと、誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのにイエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。
まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の御言葉ではねつけます。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神のみ言葉こそが生きるための本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。それなので、もし悪魔が空腹の満たしのような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを自分の言いなりにしようとしたら、私たちもこの申命記の言葉を突き出して悪魔に対して次のように言い返すことができます。「悪魔よ、私の命はパンがある時もない時も常に神の御言葉を拠りどころとして立つのだ。パンがあっても御言葉がなくなってしまったら、それはもう私の命ではない。このことをお前はこの御言葉から思い知るがよい。」
次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を使います。それは詩篇91篇11ー12節です。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。神の御言葉にそうあるのだからその通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。
それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑をはねつけます。それはこういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。実に荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満をぶつけました。彼らは神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに、新たな困難が生じる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、「言うことを聞いてくれないなら、もうエジプトに帰ってやるから」と、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章というのは、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時、神が40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるところです。
それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?希望した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じること。たとえ祈って与えられたものが自分の意にそぐわないものでも、それを神の導きとして受け取る、それくらいに神を信頼するということです。この申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への深い信頼を示しています。
実を言うと、イエス様の神への深い信頼は、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように言われています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2ー3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要はなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。まさしくコピー・アンド・ペーストです。しかし、そんなやり方で真理と張り合えるなどと思うのは愚の骨頂です。それにしてもコピペというのは真実のかけらを大いなるウソの塗り固めに用いてしまうものです。悪魔的な業と言ってもいいかもしれません。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちがウソを見破ることができて真理にどまることができるように日々の聖書の繙きを怠らないようにしましょう。
さて、三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑をはねつけます。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神をまさに天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた造り主として仰ぎ、天においても地においても神より力ある者は存在しないと畏れ敬うことです。たとえ神の力が働いていないように見える時でも、目に見えて働いている時と同じくらいに神は全てに優る力を持つ方であると畏れることです。神より力ある者は存在しないというのは、神に敵対する者からすれば恐怖以外の何ものでもなく、そのような者は神から逃避しなければなりません。しかし、神と平和な関係にある者からみれば、神よりも力あるものはいないのだから、神以外に何も恐れるものはなく、神のもとにいて大きな安心を得ることが出来ます。
悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持拡大できても、神に敵対していれば、この世から死んだ後は最後の審判の日に、永遠に止まない滅びの中に投げ込まれます。そこには権力も富も持ち運ぶことはできません。しかし神と平和な関係にある者はこの世にいる時は順境の時も逆境の時もいつも大きな安心が伴っています。この世を去った後はそれこそ手ぶらで大きな安心の源である神のもとに永遠に迎え入れられます。それがわかれば、悪魔がやると言った権力や富はなんと頼りない儚いものであるかがわかります。そんなもののために神との平和な関係を捨ててみろなどとは、悪魔はなんと情けないことを聞くのでしょうか?
以上のように、イエス様は聖書にある神の御言葉を用いて悪魔の誘惑をはねつけました。これからもわかるように、神の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っています。私たちも聖書の御言葉をよく学び、その力に服するようにしましょう。
さて、悪魔はイエス様のもとから退散しましたが、イエス様は今度は野獣のただ中にいて、天使に仕えられて守られた状態に入りました。これは、ユダヤの荒野にいた時の状況だけでなく、その時から始まって十字架の受難の道に入るまでの全ての状況を含むと考えてよいでしょう。どうしてかと言うと、この「野獣の危険と天使の守り」というのはよく見ると、先ほど見た詩篇91篇で言われていることの実現だからです。つまり、神は天使を通して守ってくれるということの実現です。このことを少し詳しくみてみます。悪魔が愚かなコピペをした11ー12節の中で天使の守りについて言われていました。それに続く13節には野獣の危険から守られることが言われているのです。11節から13節まで全部見てみましょう。
「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道をどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく。」
悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は、悪魔の魂胆を見抜いたので、天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。もしお前たちが来たら、私が助かった瞬間に私は悪魔に従ったことになってしまう。」そして、イエス様は、見事に一人で悪魔に打ち勝ちました。悪魔が退散した後で、野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちに来るのを許して仕えさせたのです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。
ところが、十字架の受難が始まると、イエス様は守りが全くない状態に陥ってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53ー54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?
それは彼自身が言った通り、聖書の預言が実現するためでした。それは、創造主である神が計画した人間救済計画を実現することでした。罪がもたらす永遠の滅びから人間を救い出すことでした。この救いを実現するために、神のひとり子が私たちの身代わりとなって神罰を受けられて十字架の上で死なれました。まさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのです。ちょうど本日の福音書の出来事のように、本当は回避出来るけれども、悪魔の言いなりにならないために、あえて空腹と恐怖を選んだのと同じです。
以上から、イエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたことが明らかになりました。このことが私たちキリスト信仰者にとってどんなに大きな意味を持つことかを見てみましょう。
荒野で悪魔の誘惑をはねつけた時、イエス様は天使の守りを求めず、聖書の御言葉をもってはねつけました。このように聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っているのです。ただし、御言葉がコピペのような使われ方、つまみ食いのような使われ方をしないで、御言葉をそれがある文脈に沿って正しく理解した時に撃退力は発揮されます。それなので、聖書を日々繙いて主日は説教を聞き、他の日は自分で少しずつでも聖書に習熟するようにすることが肝要です。キリスト信仰者は聖書の御言葉という強力な守り手を持っているのです。
次に、イエス様は天使の守りを求めないで、十字架の受難の道に入られました。そのおかげで神に対する私たちの罪の償いが果たされて、神罰が私たち人間に下されないですむ道が開けました。これで、神と人間の間を引き裂いて敵対関係に追い込もうとする悪魔の目論見は破綻してしまったのです。人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。それと同時に悪魔の目論見の破綻もその人にその通りになります。
このようにキリスト信仰者は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちた御言葉を持っています。また洗礼を通して罪の償いと悪魔の破綻が身に備わっているのです。主にあって兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。キリスト信仰者というのは洗礼を通して、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそこを進む者です。そこで何者かがその歩みを妨げようとしても、私たちには御言葉と罪の赦しと悪魔の破綻があるのでそれらを撃退できるのです。しかも、キリスト信仰者には守りの天使も付いています。ヘブライ1章14節で言われるように、天使というのは、神の国への迎え入れに向かって進む者たちに仕える霊だからです。
しかし、次のように言う人もいるかも知れません。何者かが神の国への歩みを妨げようとしたら、それを撃退するものが自分に備わっていることはわかった。しかし、信仰者の内に神の意思に反しようとする罪がある。自分の内にあるものが歩みを妨げる時はどうすればよいのか?それへの答えはいつも説教でお教えしていますが、いつも神のもとに立ち返って罪の告白をして赦しを頂くことを繰り返すことです。それを繰り返せば繰り返すほど、内に留まる罪は日々圧し潰されていきます。次のルターの教えを聞けば、キリスト信仰者は外側も内側も鉄壁の防御で守られていることがわかるでしょう。
「罪、高慢、利己心、憎むことその他これらに類することが我々の内にぶら下がっている。しかし、そうしたものは我々を信仰の中で成長させるためにあるのだ。我々の信仰が日に日に前に進み、最後に完全なキリスト信仰者になれるためにあるのだ。その時我々はキリストの懐に飛び込んで御国の祝宴の席につくことができる。
海の荒波を思い浮かべるがよい。大きな波が次から次へと岩に打ちつける。それはさながら、力づくで岩を打ち砕こうとするかのようだ。しかし、打ち砕かれるのは波の方で、岩に当たった後は退いて消えてなくなってしまう。罪もこれと同じだ。罪が我々の頭上から襲い掛かり、我々を絶望へと追いやろうとする。しかし、退散しなければならないのは罪の方であって、それは最後には消散してしまうのである。」
どうか、私たちが聖書を繙(ひもと)く時、御言葉を通してあなたの私たちに対する御心をお示しください。聖書の中であなたが約束されていることを私たちが信じて、アブラハムのようにあなたから義と認められ、あなたと平和な関係のうちに生きられるようにして下さい。
主日礼拝説教 (2021年2月14日 変容主日)
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1. 本日は教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースター/復活祭へと向かう四旬節の前の節目の日です。毎年この日に定められた福音書の日課はイエス様が高い山の上で「姿が変わった」(9章2節)という出来事についての個所なので、「姿が変わった」、「変容した」ということで変容主日とも呼ばれます。イエス様の「変容」は、ギリシャ語の原文では正確には受動態ですので「変容させられた」です。誰によってさせられたかというと万物の造り主である神によってです。新約聖書のギリシャ語では受動態の形で「誰によって」がない時は大抵の場合は神を指します。神を名指しすることは畏れ多いのであえて言わないのです。そういうわけで、イエス様は父なるみ神の力で変容させられたのです。これと同じことはイエス様の死からの復活にも当てはまります。普通は「復活した」と言いますが、原文では受動態なので「復活させられた」、つまり神の想像を絶する力で復活させられたのです(後注)。しかも、復活した後の体はそれまでの肉の体と異なっていました。どんなふうに異なっていたかはイースターの時にお話しすることになるでしょう。
イエス様の変容はどのようなものであったかと言うと、衣服が非常に白く輝いたことが言われています。マタイ福音書の同じ出来事を扱った個所を見ると(17章2節)、衣服だけでなくイエス様の顔が太陽のように輝き始めたとあります。ルカ福音書では(9章29節)、やはり衣服だけでなく顔のみかけが別物だったと記されています。マルコ福音書で言われているのは衣服だけですが、最初に「変容させられた」(2節)と言って、その後で衣服が白く輝きだした(3節)と言っているので衣服以外の部分も変わっているのは明らかです。ただ、衣服の白さの輝きがあまりにも尋常ではなかったので、マルコはそれを特筆したのでしょう。
この高い山の上での出来事はマルコ、ルカ、マタイの3つの福音書に取り上げられていて大筋は同じです。細部は異なっていますが、それは、福音書記者それぞれの視点があって、これを強調したい、これはしなくてもいい、ということがあるからです。そういうわけでこの出来事の本日の説き明かしは、マルコの視点に立ったものになります。
ここで言われる「高い山」について。毎年お話ししていますが、ヘルモン山という現在のシリアとレバノンの国境にある2,814メートルの山であるのは間違いないでしょう。どうして特定できるかと言うと、マルコ8章27節にイエス様と弟子たちの一行がフィリポ・カイサリア近郊まで来たとあります。そこから本日の個所まで地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北に聳えるヘルモン山の可能性が大です。
ここのギリシャ語原文を見るといろいろ面白いことに気づきます。例えば、新共同訳では「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と訳していますが、「登る」という動詞は使われていません。正確には「イエス様は3人を運び上げた」です。イエス様が3人をおんぶしたみたいですが、実際は疲れた3人を励まし続けたか、なんで俺たちにこんなきついことをさせるのか不平不満があって叱咤し続けたのか、とにかく足取り重い弟子たちをなんとか頂上まで引き連れたのが「運び上げた」ということだったのでしょう。
ここでヘルモン山の登山がどれだけ大変なものか思い巡らしてみましょう。フィリポ・カイサリアは海抜300メートル位のところなので、頂上まで標高差は2,500メートル位あります。登山する人ならどれ位の時間とエネルギーを使うかすぐわかるでしょう。私の家族はしょっちゅうと言っていいほど高尾山に登ります。麓の高尾山口から標高599メートルの頂上まで標高差は400メートル位で、それを1時間のペースで登るとかなり汗だくになります。ヘルモン山はそれを6回繰り返さなければならないので本当に大変です。ちなみに私は高校時代によく山登りしたのですが、北アルプスの剣岳を早月尾根という尾根から登ったことがあります。標高差2,200メートルです。若かった当時は休憩含めて10時間かからなかったと思います。しかも連続する岩場のスリルと目を奪う壮大な眺めのおかげで文字通り登山の醍醐味を堪能でき、それで疲れたという記憶もありません。
ところが3人の弟子たちの場合は別に登山が趣味でもなく、しかも目的も告げられていないので、何でこんな疲れることをしなければならないのかという雰囲気になったことは容易に想像できます。イエス様はこれから山の上で起こることを後々のために見届けさせようとしたのでした。何を見届けさせようとしたのか?それは一言でいうと、復活とは変容であるということです。高い山でのイエス様の変容の出来事はこのことを私たちに教えているのです。今日はそのことをマルコの視点で明らかにしていきましょう。 2.山の上でイエス様が変容した時、マルコの注意を最も引いたのは、イエス様の着ている服が非常に真っ白に輝いたということでした。どうして服が白く輝いたことが「変容」の出来事の中で最も注意を引いたのでしょうか?それは続きの文を見ればわかります。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります(9章3節)。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人です。今で言えば、漂白ということでしょう。当時はどのように漂泊したのか特に調べませんでしたが、いずれにしても古代世界においても衣服や布を純白にする専門家がいたということです。ここで重要なのは「この世のどんなさらし職人」もできないくらいに白く輝いたということです。イエス様が放った白い輝きはこの世的でない白さ、天上の白さだったということです。イエス様は乙女マリアから肉体を伴って人間として生まれたけれども、この時は神の力で神聖な神のひとり子としての神聖な姿形に変えられていたのです。神の御許にいるのに相応しい姿形です。
イエス様がこの世的でない天上の白さで輝いた時、それは私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在であるかを如実に示した瞬間でもありました。私たち人間は神の御許にいるのに相応しくない存在であるということです。どうしてそうなのかと言うと、創世記の最初に記されているように最初の人間が神の意思に反しようとする性向、それを聖書では罪と呼びますが、それを持ってしまったために神聖な神の御許にいられなくなって神との結びつきを失ってしまったのです。もちろん、この世には悪い人だけでなく良い人も沢山います。しかし、創世記2章17節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が罪を持つようになったことが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々みんな罪を汚れのように受け継いできたのです。
人間が罪の汚れから洗い清められ、神の目に相応しいものとなって最終的に復活の日に復活を遂げて神聖な神の国に迎え入れられるようになるためには、神の神聖な意思に完全に沿うようになっていなければなりません。しかし、それは不可能なことです。どうしてかと言うと、神の神聖な意思を表しているものとして十戒の掟があります。しかし、それは、使徒パウロがローマ7章で明らかにしているように、人間が神の目に相応しいと認めてもらうために実行していくものではありません。そもそも完全に守り切ることなど人間には出来ません。そうではなくて、人間が神の神聖な意思からどれだけ遠ざかった存在であるかを思い知らせる鏡なのです。詩篇のなかでダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51章4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように人間の罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。
それでは神は人間を洗い清めて下さるのでしょうか?もちろん、洗い清めて下さいます。どのようにしてでしょうか?それは次のような次第で行われました。神はひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の神罰を全てイエス様に負わせてゴルゴタの十字架の上で受けさせて死なせました。イエス様が罪の償いを私たち人間に代わって神に対して果たして下さったのです。そこで人間はこのことが本当に起こったのだとわかってイエス様を自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったので神から罪を赦された者として見なされるようになります。パウロがガラテア3章27節とローマ13章14節で言うように、洗礼を受けた者はイエス様を衣のように頭から被せられるのです。父なるみ神は私たちを見る時、私たちの内に残っている神の意思に反しようとする罪よりも、私たちに纏われたイエス様という純白な衣の方に目を向けようとされるのです。
イエス様は十字架の上で私たちの罪を償う身代わりの死を遂げただけではありませんでした。3日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る門を私たちに開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれて、イエス様の純白な衣を着せられて歩み出すこととなったのです。
3.イエス様という純白な衣を頭から被せられたと言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。イエス様の犠牲のおかげで罪を赦された者と見てもらえ、神の目に相応しい者にしてもらったとは言っても、それに相応しくないことが自分に沢山あることに気づかされます。人を傷つける行いや言葉は出さないようには出来ても、心の中で思ったりしてしまいます。神の意思についてイエス様は心の中まで問われると指摘しました。また、どんなに注意しても、人間的な弱さがあったり隙をつかれたりして罪が言葉や行いになって出てしまうこともあります。そのような時はイエス様の衣を汚したとして取り去られてしまうのでしょうか?もう神の目から見て一生失格者なのでしょうか?
そうではないのがキリスト信仰なのです。罪の思いを持ってしまった時、罪の言葉や行いを出してしまった時、その事実から目を背けずにそれを神の意思に反する罪と認めて次のように神に祈ります。「父なる神さま、せっかくイエス様が罪を償って下さったのにそれを台無しにするようなことをしてしまいました。イエス様を救い主と信じますので、どうか赦して下さい。」さあ、神はどう出るでしょうか?神は次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前の心の目をゴルゴタの丘の上に立つ十字架に向けよ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられてそれは今も微動だにしない。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい。」そう言って私たちを新しく送り出して下さるのです。その時私たちは復活された主が墓を後にして出て行ったように私たちも新しい歩みを始めるのです。
キリスト信仰者の人生はこのような罪の告白と赦しの繰り返しです。それを断ち切らないで続けることがイエス様の純白の衣を纏い続けることになります。たとえ罪が内に残っていても、神の方を向いて罪の告白と赦しを繰り返すことでイエス様の衣を手放さなずにしっかり纏い続けていくと、罪は衣の神聖な重みで日々圧し潰されていきます。そして、いつの日か神の御前に立たされる時、自分の人生は罪が内に残っていた人生だったかもしれないが、イエス様の衣を最後まで手放さなかったことで罪を圧し潰す側に立って生きていたことが明らかになります。神はこれをよしと認めて下さるのです。これがキリスト信仰者に下される審判です。この世で罪を圧し潰す側に立って生きると、馬鹿にされたり爪はじきされたりすることが多くなります。でも、それは間違いではなかったと復活の日にはっきりします。その時、信仰者にはもう圧し潰す罪がなくなっています。外側だけでなく内側も純白になって変容を遂げているのです。
4.ここでイエス様が3人の弟子たちに山の上で見たことを自分が復活する時まで人に話してはいけないと命じたことについて考えてみます。これは実は本日のテーマである、復活と変容の関係に関わります。なぜイエス様はそのようなことを命じたのでしょうか?
先週の説教でも触れたことですが、イエス様が自分は何者であるかとか、自分が奇跡の業を行った時とか、そういうことを他の人に知らしてはいけないと命じたことが沢山あります。これについて、W.ヴレーデというドイツの歴史聖書学者が120年前に発表した学説が今でも影響力を持っているということをお話ししました。ヴレーデの説は、マルコは福音書を書いた時、イエス様は自分の正体を復活の日まで秘密にするように命じ、その日に全てが明らかになるような仕掛けで福音書を書き上げたというものでした。彼の学説には沢山の反論もあり、私も与しない立場ですが、それならばイエス様のかん口令はどのように説明できるのか、これを説明できなければなりません。先週は悪霊に対するかん口令を説明しました。今日は3人の弟子たちに対するかん口令です。今日のは特にイエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと言うので、ヴレーデの説明が一番響くところです。この個所をマルコの創作ではなく、イエス様が実際に話された言葉としてみたら、どのように説明できるでしょうか?
イエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと命じた時、弟子たちは復活とは一体何なのかわからなかったとあります(10節)。弟子たちがわからなければ他の人たちもわからなかったでしょう。復活というものがわからない段階で山の上の出来事を知らせるのは時期尚早、イエス様が復活を遂げて復活というものが起こるのだとわかった段階で知らせたら復活がわかるようになるということです。つまり、イエス様の復活の後ならこの出来事は復活の理解に資するが、復活の前では資さないということです。さあ、どういうことでしょうか?
この問いに答えられるためにモーセとエリアの出現について考えることが役立ちます。遥か昔の時代の預言者が突然現れたというのは、これは幽霊でしょうか?そうではありません。二人は神の御許から送られてきたのです。ここは少し複雑なところなので、よく注意して聞いて下さい。聖書の観点では人間がこの世を去った後に神の国に迎え入れられるというのは、今の世が終わって神が新しい天と地を創造される時になってからのことです。その時までは亡くなった人たちは神のみぞ知る場所にて安らかに眠っています。その眠りから目覚めさせられるのが復活です。
ところが聖書には、そういう将来の復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた人たちがいることが言われているのです。本日の旧約の日課に出てくるエリアがその一人です。モーセの場合は少し微妙で、申命記34章では「死んだ」と言われていますが、彼を葬ったのは神自身で、その葬られた場所は誰にもわからないという謎めいた最後の遂げ方です。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしないで、復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられたと考えられます。その証拠に彼はエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきました。これは、もう幽霊などという代物ではありません。このように、聖書の観点ではこの世を去った人は原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋です。ただ、例外的に復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた者もいるということです。
さて3人の弟子たちは目の前に現れたエリアとモーセを見てどう思ったでしょうか?イエス様が復活された時、突然弟子たちの前に現れて弟子たちは幽霊だと思って大騒ぎになりました。イエス様は自分は幽霊ではないと言って、新しい復活の命を持つ自分を示して弟子たちを納得させました。しかし、イエス様の復活が起きる前のヘルモン山の上で弟子たちはまだ復活について何も知りません。彼らにとってエリアとモーセはやはり幽霊だったのではないかと思います。しかし、この二人は本当は既に神の御許に迎え入れられた者として現れたのです。その証拠に、ルカ9章31節を見ると、二人は「神の栄光に包まれて現れた」と言われています。幽霊にはそんな神の栄光などありません。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からではないので、私たちは一切関りを持たないように注意しなければなりません。それは万物の造り主である神の意思でもあります。なぜかと言うと、旧約聖書の多くの個所で神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているからです(レビ19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。日本人には痛いところかもしれませんが、これが聖書の立場なのです。
さあ、3人の弟子たちの驚きと恐れはいかほどのものだったでしょうか?神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているのに、なんとイエス様はエリアとモーセと話をしているではないか!しかし、イエス様は天上の純白さで輝き、エリアとモーセも神の栄光に包まれている。これは幽霊ではない。じゃ、一体何なんだ!という具合にです。でもこれは、私たちも復活を遂げたらエリアとモーセのように神の栄光に包まれた者に変容させられて、天上の純白さに輝くイエス様とお話ができるという、自分たちの未来像が示されていたのです。これは本当に、死からの復活、死を超えた永遠の命があることがわからないと未来像として受け取ることは不可能です。だからイエス様の復活の後でなければわからないことであり、人々に正しく伝えられるためには主の復活を待たねばならなかったのです。
5.最後に山上に現れた雲についてひと言述べておきます。登山する人は高い山では天候があっと言う間に急変すること、例えば、ちょっと前まで晴れていたのが冷たい空気が流れ始めるといつの間にか周囲は霧で真っ白になることを知っています。登山用語でガスと言いますが、それは麓から見たら山にかかる雲ということになります。それなので、ヘルモン山上で急に雲が覆ったというのは普通の自然現象としてもあり得ます。普通の自然現象を超えるような雲については出エジプト記の中で述べられています。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を受け取った時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死んでしまうと言われました(18~23節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをわきまえていなければなりません。
そういうわけでシナイ山の雲は、生身の人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山上でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、雲は同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。そして、私たちが復活を遂げて肉の体にかわる、神の栄光を映し出す復活の体を着せられる時、私たちも変容させられたのであり、その時はもう防護壁はいりません。パウロが第一コリント13章12節で言うように、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」からです。まさに復活とは変容のことなのです。
(後注)復活を意味する動詞はεγειρωとανιστημιがあり、受動態で使われるのは前者です。
あなたはあの高い山でイエス様が変容(へんよう)した時、彼に聞き従え、とお命じになりました。どうか私たちが、イエス様のおかげで天のみ国を受け継ぐことが出来るようになったことを常に覚えて感謝し、彼の教えられたことを喜んで行えるようにして下さい。
主日礼拝説教 (2021年1月31日 顕現節第5主日)
今日の福音書の個所を読んだ皆さんは、ここにある出来事は先週の出来事の続きで全部が一日の内に起こったことと分かったでしょうか?実にたくさんのことが一日の内に起こりました。少し遡ってみてみますと、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、その後で荒野で悪魔から試練を受けてこれに打ち勝ちます。その時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられたという知らせを聞き、イエス様はガリラヤに乗り込んで行きます。そこでまずペトロとアンドレの二兄弟とヤコブとヨハネの二兄弟を弟子にして付き従わせます。そして、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。この安息日に沢山のことが起こったのです。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ恐れ入ります。丁度その時、会堂にいた悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々はイエス様の教えにはそのような力が伴っていることも思い知ります。この会堂の出来事が先週の福音書の個所でした。この出来事はその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきます。
今日の個所はその続きです。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいます。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。
イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂に行って教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い安息日になりました。本当にお疲れ様でした。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いた途中だったのか、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。
これを読むと、あれっ、イエス様は少し冷たいな、もう少しペトロの家の所で癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったようです。ところで、新共同訳では「教えを宣べ伝える」と言わないで「宣教する」と訳しています。もとにはκηρυσσωというギリシャ語の単語がありますが、それは「教えを宣べ伝える」という意味です。「宣教する」も同じではないかと思われるかもしれませんが、実はそうとも言えないのです。こんなことがありまして、日本福音ルーテル教会の東教区の中央線沿線の7教会が毎年「一日教会祭」という、各教会がそれぞれのタレントをお互いに披露しあうというイベント行事を市ヶ谷教会を会場にして行っています。昨年はコロナで中止でしたが、2年前の一日教会祭である教会が教会外部のベリーダンス・グループを招いて自分の教会の出し物としてダンスを披露させました。その後で牧師と役員の会合があったのですが、私が、あの出し物は一日教会祭の趣旨に合わないのではと疑問を呈したところ、あれは立派な「宣教」なのだ、そんなこともわからないのか、と呆れかえられてしまいました。私が神学を学んだフィンランドでそういう「宣教」に類する言葉はあるかどうか考えてみたのですが思い当たらず言葉に詰まってしまいました。それ以来、私は「宣教」という言葉を使うのをやめることにしました。「福音の伝道」と言うことにしています。
話が横道に逸れましたが、イエス様が重視した「教えの宣べ伝え」を今日の説教で見ていこうと思います。イエス様が癒しや悪霊の追い出しを軽視したということではないのですが、ただそれらが「教えの宣べ伝え」とどういう関係にあるのかを明らかにする必要があります。
イエス様が宣べ伝えた「教え」とはどんな教えだったでしょうか?イエス様はガリラヤ地方で伝道活動を開始した時に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べました。2週間前の説教でお教えしたことですが、「時は満ちた」というのは「神の人間救済の計画が実行に移される時が来た」という意味です。「神の国は近づいた」というのは、「神の国がイエス様と一緒にすぐそばに来ている」という意味です。「悔い改めよ」とは、「神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きよ」と言う意味、「福音を信じなさい」は「旧約聖書にある神の約束がいよいよ実現するという良い知らせを信じなさい」ということです。イエス様の教えの中心にあるものは「神の国」です。人間が「神の国」に迎え入れられるようにするためにはどうしたらよいか?これがイエス様の教えと業の双方を理解する鍵であると言っても過言ではありません。
「神の国」については本教会の説教でも何度もお話ししましたが、ここでも振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。
そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言うと、「神の国」すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教は死んだらすぐ天国に行けないの?という疑問が起きます。実はキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。
そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これもルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。
さて、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論と違った意味で言っていたのです。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
しかしながら、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできません。自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架の上で果たしてくれた人間の罪の償いがそのまま自分にその通りになります。罪を償ってもらった者になったら今度は神から罪を赦された者と見なされて、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。イエス様の死からの復活のおかげで永遠の命への扉が人間に開かれました。キリスト信仰者はそこに至る道を順境の時も逆境の時もいつも変わらず神に守られ導かれて進みます。たとえこの世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになったのです。
以上、イエス様は教えを宣べ伝えることをとても大事にしたということと、彼の教えの主眼は人間を神の国に迎え入れられる者にすることであったことを見てきました。イエス様の教えには癒しや悪霊追い出しの力が伴っていましたが、それは神の国が彼と共にあったからということも見ました。
本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節にあります。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」
これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?悪霊がイエス様のことを知っていて、イエス様が話をすることを許さないというのは既に先週の個所にありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」ここで「神の聖者」という訳についてひと言申し上げます。「聖者」と言うと「聖者の行進」という有名なゴスペル・ジャズの歌があるので何だか死んだ人みたいに聞こえてきます。それではイエス様が可哀そうです。ギリシャ語原文を見ると「神の神聖な方」です。定冠詞がついているので「神の神聖な方の決定版」です。英語で言えばThe holy one of Godです。「聖者」ではありません。悪霊はイエス様が神の神聖なお方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にしてはいけないと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。これは一体どういうことでしょうか?
福音書を見ると悪霊の追い出し以外にも、イエス様が癒しの業を行った時に誰にも言ってはならないとか、自分が行ったこと自分が神のもとから来た者であることを口外してはならないという場面が多くあります。イエス様のこうしたかん口令について、ドイツの歴史聖書学者のW.ヴレーデという人が1901年という昔に「メシアの秘密」という有名な研究書を出しました。彼によると、マルコ福音書を書いた人は、イエス様が自分の正体を人々に隠し続け、復活の時になって全てが明らかになるという仕掛けで福音書を書き上げたと言うのです。これからわかるように、福音書というのは歴史的事実を伝えるものではなく福音書作者の文学作品という立場です。ヴレーデの学説は長く影響力を持って、学会だけでなく礼拝の説教でもイエス様のかん口令を説明する際によく使われたのではないかと思います。ただし、ヴレーデの説に対する反論も沢山あります。私も賛成しません。それでは、悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊が話をすることを認めなかったということは、どうやって説明できるでしょうか?
先週の説教で、悪霊と悪魔の区別についてお話ししました。悪魔・サタンは悪霊の頭、悪霊は悪魔・サタンの手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。ところが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神から罪の赦しを受けられる可能性が打ち立てられました。さらに、永遠の命に至る扉も人間に開かれ神の国に迎え入れられる可能性が打ち立てられました。まさにそのために悪魔と悪霊の企ては破たんしてしまいました。それにもかかわらず両者は機会を捉えては、人間が罪の赦しがあることも神の国への迎え入れの可能性も知らないようにしようとします。仮に知ることになっても忘れるようにしようします。
さて、悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方の決定版」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。ただそれは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、人間の神の国への迎え入れということが全然出てこないからです。イエス様が自分は神の神聖な者、神の子であるということを悪霊に話させないようにしたのは、信仰告白と無関係に正体の暴露はするなということです。イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、それらの言うことに耳を貸してはならないということも意味しています。ここでもイエス様が人間の神の国への迎え入れを大事に考えておられることが見えてきます。
先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むことはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。ヘブライ語原文をもう少ししっかり見ると、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。父なるみ神に見放されたと思って嘆いているのです。ところが神は、そうではないと、28~31節で言います。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。」
「主に望みをおく人」というのは、これも原文に忠実に見ると「主を待ち望む人」です。「主」というのはヤハヴェと書いてあるので、聖書の神のことです。それで「主を待ち望む」と言うのは、「神が救ってくれるの待ち望む」ことです。「神の救いを待ち望む」とは言うまでもなく、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、その時を待ち望むことです。その時を待ち望む者は、神の国に向かう道を進んでいる時に疲労しても必ず回復が与えられるということを、このイザヤ書40章の終わりで約束しているのです。主にある兄弟姉妹の皆さん、疲労回復のカギは何と言っても神の国への迎え入れを常に待ち望んでいるかどうかにかかっていることを忘れないようにしましょう。
あなたは、ひとり子イエス様の十字架の死と死からの復活によって、私たちの心の目と耳を開いてくださいました。 どうか私たちが、開かれた目と耳をもって聖書の御言葉が伝える真の希望を見出し聞こえるようにして下さい。
主日礼拝説教 2021年1月31日 顕現節第四主日
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本日の聖書日課の使徒書第一コリント8章と福音書マルコ1章の箇所は3年前の礼拝説教で説き明かしをしました。その時、これは頭の痛い厄介な個所だと申しました。というのは、マルコの方はイエス様が悪霊を追い出す奇跡を行うところで、悪霊追い出しなどというものは今どき真面目に取り上げるべきものではないと言われてしまうからです。しかし、聖書に書かれていることを単に大昔の人間の作り話なんかではないという立場で見ていきますと、やはりイエス様の悪霊追い出しは避けて通れないテーマです。
もう一つ厄介なのは、コリント8章の偶像に備えられた肉をキリスト信仰者は食べていいのかという問題です。キリスト信仰者が社会の少数派であるところでは似たような問題が起きてきます。この日本でもそうです。コリントの偶像に備えられた肉というのはどういうものか少し振り返ってみます。
コリントは現在のギリシャにある町で、そこにある教会に使徒パウロが手紙を送ったのでした。当時キリスト教は始まったばかりで、どこでも少数派でした。キリスト教が広まる地域は大体、ギリシャ神話の伝統が根強い地域で神話の神々の神殿があちこちにあり、人々はそこにお参りに行きます。当時の肉の食べ方ですが、まず家畜を神殿で生け贄に供えるものとしてそこで屠ります。それを祭事の時にみんなで食べるか、またはマーケットに出して売ります。そういうわけで肉料理と言ったら、宗教儀式を経た肉が使われたということなのです。さあ、キリスト教徒は違う宗教の儀式を経て供えられた食べ物を食してもよいのでしょうか?
第一コリント8章でパウロは、「偶像など存在しない、神々などというものはあっても、神は本当はただ一人のみ、その方が万物を造られたのだ」と言って、万物の造り主としての唯一の神を打ち出します。そういうことを言うと、多神教と言うのか多霊教と言うのか、そういう立場の人は、またキリスト教の独りよがりが始まったと嫌な顔をするかもしれません。
本日の説教は、3年前にお教えしたことを一歩先に進めるような説き明かしになると思います。3年前ははっきり出なかった視点がはっきりします。どんな視点かと言うと、神という方は私たち人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する方だということです。
初めに、偶像に供えられた肉をキリスト信仰者が食べることについてのパウロの教えを見ます。ここでまず、そもそも偶像とは何かということを考えてみましょう。パウロは4節で「世の中に偶像の神などはない」と言っています。しかし、そうは言っても世界には、これは何々神の像である、というような像は無数にあります。その意味で偶像の神はあります。パウロだってギリシャ神話の神々の像があちこちにあることは知っているはずです。なのにどうして、そんなものはない、などと言うのでしょうか?
これは、聖書の神が「生きる」神であることをわかるとパウロの真意が理解できます。旧約聖書のヘブライ語の言い方で、「~をした神は確実に生きておられる」とか「神が確実に生きておられるのと同じ確実さで~が起きる」というものがあります(חי יהוה אשר~)。神が確実に生きておられることの証明として「神は~をしたのだ」と言うのです。その神がした「~」には、例えば「イスラエルの民をエジプトの地から導いた」とか「民をバビロン捕囚から解放して祖国に帰還させた」とか、そういう歴史的に大きな事件が言われます(例としてエレミア16章14、15節)。こうした出来事は神が力を行使して起こったのだ、まさに神が生きていることの証しだというのです。
そこで聖書の中で偶像崇拝を批判する箇所を見ると、偶像は単なる像にしかすぎない、歴史的大事件を起こせるどころか、口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない、足があっても歩けない、などと手厳しいです(例として詩篇115篇4ー8節)。つまり、生きている神から見たら偶像は死んでいるのです。それで、偶像は沢山存在するのにパウロが存在しないと言っているのは、「生きている」偶像は存在しないという意味なのです。
ただ、人によっては、何々神の像は見えないということはない、聞こえないということもない、ちゃんと見ておられる聞いておられる、聖書は失礼なことを言うな、と怒るかもしれません。つまり、そうした像が魂を持っていると思って畏敬の念を覚えるのです。像が魂を持っていると思えたら、像は見えている、聞こえている、ということになります。ところが像自体は何を見ているのか聞いているのか、像を作った人間のことをどう考えているのか教えてはくれません。人はどうやって像が見ていること考えていることを知ることが出来るでしょうか?多分、像はこういうことを見ている考えていると自分で思い描いてそれを潜在意識にインプットすれば、夢にでも出て来て教えてくれるかもしれません。
聖書の神が人のことをどう見て考えておられるかということはわかります。まず聖書に記されている神の意思というものを知って、それに自分を照らし合わせて見ると、神の目から見た自分の姿を知ることができます。また神は、私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、祈り求めたことの答えや解決を御自分が良かれと思う仕方で良かれと思う時に必ず与えて下さいます。このように人間が自分の姿を知るにしても、祈り求めたことの答えを得るにしても、それはいつも神の視点で起こります。もちろん人間も自分の視点を持ちますが、それはいつも神の視点によって軌道修正させられます。聖書の神は、人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つようにと絶えず教育する方なのです。
第一コリント8章に戻りますと、パウロは5節で「天や地に神々と呼ばれるものがいる」と言います。生きた偶像は存在しないが、天や地に霊的なものが沢山あって、それらはみな「神」と呼ばれている、そういう霊的なものは存在することは認めています。これは旧約、新約聖書に共通する見方です。ところが6節をみると、これらの霊的なものは全て天地創造の神に造られた被造物にしかすぎないということが言われます。これも聖書の立場です。他の宗教が聞いたら、自分たちの神が低くランク付けされているようで、あまりいい気持ちはしないでしょう。しかし、聖書は出だしから万物の造り主の神が登場するので、立場上はそうならざるを得ないのです。
偶像や神々というものと聖書の神の違いについて見ました。ここで、キリスト信仰者は違う宗教の儀式を経由してきた肉を食べてもいいのかという問題に入ります。このコリント8章はロジックが分かりにくいと思います。というのは、パウロは一見すると、強い信仰者は食べるが、弱い信仰者は食べない、と言っているようにみえるからです。
人によってはこれは逆なのではないかと思うでしょう。つまり、異教の神々に捧げられた肉なんか死んでも食わないぞ!と頑張るのが強い信仰者で、逆に食べないと周囲からつまはじきされてしまう、だから仕方なくおどおどして食べてしまうのは弱い信仰者ではないかと思われるからです。私が初めてこれを読んだ30年以上も前の時、その頃私に聖書を教えてくれたフィンランドの神学部の学生は言ったものでした。そうじゃないよ、逆だよ、偶像なんか存在しない!異教の神々なんか天地創造の神の前では何者でもない!そういうふうに信じる者は偶像に供えられた肉を物ともせずに食べられる、ところが、食べたら偶像や異教の神々の影響が入り込んでしまうと恐れて食べられないのは、まだそういうものがあると信じているので弱い信仰者なんだよ、と教えてくれたものでした。それを聞いた私は、そういうことならキリスト信仰者は皆、強い信仰者を目指して別の宗教の儀式に関わるものを受け入れて、さらには8章10節に言われているように、その儀式に結びつく宴にも参加できるくらいになれないといけないのか、などと驚いたものでした。
ところが、この説明に私自身しっくりいかないものがあって、なかなか食べられる強い信仰者になろうという気持ちは起こりませんでした。やはり自分は弱い信仰者止まりか、でも弱い信仰者で何が悪い、という気持ちになりました。その後もずっとこの箇所を読むたびに同じ気持ちでした。だって、パウロは弱い信仰者に強くなれとは言っておらず、弱いままでいい、自分も同じように食べないから心配するな、と言っているではありませんか!パウロは、偶像や異教の神々をものともせずに供えの肉を食べられる信仰をいいとか目指すべきとは言っていません。正確を期して言えば、パウロは他宗教の儀式を経た肉を食べる人のことを「強い」とは言っておらず、ただ「知識」を持つ者と言っているだけです。パウロが食べることを推奨する意図がないことは、テキストをよく見ればわかります。
「知識」ということについて、パウロは8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と述べます。ここで言う「知識」は、先ほども述べた生きた偶像など存在しない、神々などあってもそれは全て被造物であるということを知ることです。その知識を持つことが肉を食べる前提になっています。「愛が造り上げる」というのは、キリスト信仰者というのは各自が一つの体の中の一つ一つの部分であって、それぞれがお互いを支え合いかばい合いながら一つの体として成長することを意味します(第一コリント12章12~31節、エフェソ4章16節参照)。パウロは、知識を持つだけでは肉は食べられるが高ぶってしまうと言うのです。それだけでは、お互いを支え合いかばい合う成長は起こらないと言うのです。
続く2節を見ると、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならないことをまだ知らない」、ギリシャ語原文を直訳すると、その人は知らなければならないようには知っていない(知らなければならない仕方では知っていない)、つまり、自分は知識があると言っている人の知識は神から見たらズレていると言うのです。この1節と2節から、知識を持つ者への厳しい見方が明らかです。知識を持つ者が異教の神に捧げられた肉を食べます。彼らは、生きた偶像など存在しない、神々などはあってもそれは単なる被造物で恐れるに値しない、だから食べても痛くもかゆくもない、と言って食べるのです。
ところが、食べられない信仰者もいる。なぜかと言うと、イエス様を救い主と信じて受け入れる前は、ギリシャの神々の神殿で礼拝していたので、その礼拝がどんなものかわかっています。それなので神殿の儀式を経由した肉を食べたら、その儀式の内容を一緒に摂取した感じになってあまりいい感じはしません。しかし、あの知識を持つ信仰者たちは平気で食べている、ましてや儀式が行われた神殿の宴で神殿礼拝者と一緒に食事までしている、自分も食べないと馬鹿にされてしまう、それじゃ自分も、とそれくらいの、明確な知識に基づかず風に吹かれるように食べてしまうと、はやり後で落ち着かなくなります。そのことについてパウロは10節で、「その人は弱いのに、その良心は強められて、偶像に供えられたものを食べるようになってしまわないだろうか?」と言っています。「良心は強められて」というのは、ギリシャ語原文では「良心は造り上げられて」です。さっきの1節の「愛は造り上げる」と同じ動詞(οικοδομεω)です。つまりここでは「良心は変なふうに造り上げられて」という意味で、同じ動詞を使うことでパウロは痛烈に皮肉っているのです。
パウロの結論は、自分はそうした肉は絶対食べないということでした。理由は、「弱い信仰者」が信仰にとどまれるようにするためでした。実を言うと、食べないのが正しいということはエルサレムの教会の方針でした。使徒言行録15章を見ると、パウロとバルナバがアンティオキアに派遣される時、先方の教会に対する指示が託されました。その一つがまさに偶像に捧げられた肉を食べてはいけないというものでした(29節)。
それなら、パウロはなぜコリントの知識を持つ信仰者にはっきりとダメと言わなかったのでしょうか?これはまたいろいろ調べなければ確実なことは言えませんが、今の段階で言えることは、コリントの教会は知識を持つ人や霊的に自信満々の人が多くいて、かなり好き勝手にやっていた教会であったことがパウロの手紙から窺われます。そういうところで指示通りのことを正面から言ったらどうなったでしょう?パウロは情けない奴だ、神は万物の創造者と本気で信じているのか?そう信じれば、異教の儀式で一緒にやったって痛くもかゆくもないのに。そんなふうに凝り固まっている人たちに、正攻法でいってもうまく行かないでしょう。パウロがとった論法は、コリントの知識ある信仰者たちよ、君たちは知識はあるが、それは造り上げてはいない、高ぶるのと造り上げるのとどっちが大事なのか?造り上げるのが大事だと思うのなら、私に倣いなさい。そういう論法だと思います。私に倣いなさい、というのは、食べるのをやめなさい、ということです。
次にイエス様の悪霊追い出しを見ていきます。イエス様が追い出しの奇跡をする悪霊は、本日の箇所にあるように「汚れた霊」(ακαθαρτον πνευμα)と言われるものと、ずばり「悪霊」と訳される(δαιμονιον)の二つがあります。両者は同じものです。悪霊追い出しのことが多く出てくるマタイ、マルコ、ルカの三福音書の関連箇所を見渡すと、悪霊は何か具体的な病気または病的な状態をもたらすことをしでかします。イエス様の悪霊追い出しは、それ自体が目的で行う時もあれば、何か病気を癒す奇跡を行う時に行うこともあります。いずれにしても追い出しをすると、悪霊がもたらしていた病的な状態もなくなってみんな健康な状態になります。追い出しの時に悪霊が口を聞いてくる時もあります。本日の箇所もそうです。悪霊はイエス様が神聖な神の神聖なひとり子であるとわかっていて、その力もわかっているので恐れをなしてしまいます。出て行けと言われれば、そのまま出て行くしかありません。
3年前の説教の時、私は、イエス様が行った奇跡には病気の癒しと悪霊追い出しがあることから次のように述べました。人間の病気には病気自体によるものと悪霊のような病気を超えた要因で起きるものがある、病気自体による病気を悪霊によるものと考えて医学以外のものに頼ろうとするのはよくないということです。加えて、キリスト信仰者に関して言えば、悪霊や悪魔の企ては破綻しているので、病気や苦難の時はそれらにやられていると考えないで対処すべきとも申しました。ただ、このように言うと、病気の時はただ単に医学だけを頼りにすればいいと誤解されるのではと思い当たりました。医学を用いて癒しを目指す時にも、もちろん、ベストな治療を受けられますようにとか受けた治療が良い結果をもたらしますようにと父なるみ神に祈ることは必要です。どんなに医学が発達しても神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないからです。
今私は、キリスト信仰者においては悪霊と悪魔の企ては破綻していると申しました。これはどういうことか振り返っておきます。「悪魔」というのは新約聖書ではサタナー(σατανα)とかディアボロス(διαβολος)と言われます。サタナーとはサタンのことです。ディアボロスというのは引き裂く者、バラバラにする者という意味があります。旧約聖書ではサーターン(שטן)で、非難する者、告発する者という意味があります。「神様、この者は罪深い者で神罰に値しますよ」などと神に告発する者です。神と人間の間を引き裂き、人間が救われないようにと、将来神の裁きを受けて永遠の滅びに道連れにしようとする者、それが悪魔です。悪魔は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後で荒れ野で40日間誘惑の試練を与え、イエス様がこれから神の人間救済計画を実行するのを妨げようとしました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を全て跳ね除けたので神の計画をそのまま実行に移すことが出来、十字架の死と死からの復活を遂げたのでした。
悪魔と悪霊の区別については3年前にもお教えしました。サタン・悪魔は悪霊の頭、悪霊はサタン・悪魔の手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神の罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。両者とも人間がイエス様の成し遂げたことを知らないように、知っても忘れるようにしようとするのです。
イエス様が成し遂げたこととは何だったでしょうか?それは、彼が神のひとり子でありながら、人間が持っている神の意思に反しようとする罪を全部引き受けてその神罰を代わりに受けてゴルゴタの丘の十字架で死なれたことでした。私たちの罪の償いを私たちに代わって神に対して果たして下さったのです。さらに、父なるみ神の計り知れない力で死から復活され、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さったことでした。人間は、これらのことがまさに自分のために起こったとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからには神から罪を赦された者と見なされ、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。順境の時も逆境の時もいつも神の守りと導きを得てその道を進み、この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになりました。
以上のことが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで悪魔と悪霊の企ては破たんしたということです。イエス様を救い主と信じる者に関してはそれらの企ての破綻はその通りになっているのです。
そこで一つ大きな問題になってくるのは、やはり、病気の癒しや苦難の打開を祈っても期待した結果にならない場合はどうなのかということでしょう。先ほど、どんなに医学が発達しても父なるみ神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないと申しました。それならば、祈っても望ましい結果にならなかったら神の導きや祝福がなかったということになってしまうのでしょうか?これはとても難しい問題です。例えば、何千人に一人の割合で健康上困難がある子供が生まれるという時、他のキリスト信仰者の子供はそうではないのになぜウチの子供はそうだったのか?とても不公平な感じがします。自分たちの信仰に何か問題があったのかと責めることも起きるかもしれません。さらには、イエス様を信じていなくても健康な子供が授かっているのに、信じている自分たちにはそうならなかったとなれば、信じることに何の意味があったのかという思いになるでしょう。
とても難しい問題です。ただ一つはっきりしていることは、このような不運がきっかけでイエス様を救い主と信じなくなって神に背を向けてしまったら、それは神の国に向かう道から降りてしまうことになり、悪魔や悪霊の思うつぼです。不運があっても、イエス様を信じて神の方を向いて進んでいれば、復活の日の再会があります。その時の私たちの有様はパウロが教えるように、この世の朽ち果てる体ではなく神の栄光で輝く体であり、イエス様が言われたように、みな天使のようになるのです。不運がもとで神に怒ることはあっても、神の国に至る道に留まって進むことは出来ると思います。それはきっと自分の視点を捨てて神の視点を持つようになるためのとても重いプロセスになるでしょう。それを思うと、不運を持たなかった人たちはどれだけ自分の視点を捨てて神の視点を持てるようになるか心配になってくるくらいです。
今の私にはこれ以上のことは言えません。神がこの問題を見極められる知恵を私にも皆様にも与えて下さいますように。
主日礼拝説教 2021年1月24日 顕現後第三主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお教えしようと思います。
ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせが「福音」です。それでは、「福音」とはどんな特段の良い知らせなのでしょうか?
「福音」がどんな内容の知らせかと言うと、大体以下のことです。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。この彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、十字架で一度死なれたイエス様を計り知れない力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事にかかわる良い知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。
ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオンを「神の福音」や「福音を信じなさい」と訳すのは、少し気が早いのではと思われます。エヴァンゲリオンは「福音」だけでなく「良い知らせ」の意味もあるのだから、ここは「良い知らせ」と訳した方がいいのではないか?(参考までに各国の聖書の訳を見てみると、英語訳の聖書NIVは「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は「神の福音」 (evankeliumi)、「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。)
十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと言うと、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのかという疑問が起きます。(もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発音した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしか残っていないので、それに基づくしかありません。)
イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」
伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。「平和」ヘブライ語のシャロームשלוםは意味がとても広く、「救い」も含みます。それで、ここの「良い知らせ」の内容は、「救い」と「神を王に戴く国」の二点に絞ってよいと思います。イザヤ書の続きを見ていくと、この「救い」の内容と、そして、それが「神を王に戴く国」と関係することがわかります。
続きのイザヤ52章8ー12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、自分の力を諸国民に示します。つまり、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力でバビロン捕囚から解放されて祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するということです。
ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは私たちの痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるのでだり、まさに彼が受けた傷によって私たちは癒しを受けたのであると。53章11節で神は次のように述べられます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら背負うことで、人間は神の目に相応しい者になれたというのです。そうすると、ここでの「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が到来するという意味ではなくなっています。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神罰が免れるということが「救い」の内容になって、神の国というのもそういう罪の赦しが支配しているところになります。
このイザヤ書52章7節から53章12節までの箇所で言われる「救い」ですが、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の終わりの人々にとっては、イスラエルの民の捕囚からの解放と祖国帰還がそれを意味すると考えられました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。その場合、身代わりの犠牲で人々を神罰から救う「主の僕」とは誰のことかというと、異国の地に連行された捕囚の民を指すと考えられました。イスラエルの民が長い歴史の間に重ねた罪の結果、罰としてバビロン捕囚が起きたのであり、民が異国の地で辛酸を舐めるという罰を受けることで罪の償いが果たされてまた元に戻れるようになったと考えられたのです。
ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。ということは「救い」も実現しませんでした。確かにエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は諸国民も恐れおののく神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56ー65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今の世の天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。
そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつこれらの預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた、まさにその時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。神の約束についての「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。
イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、時間の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしました。
「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけでみると、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。
そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言いますと、「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行けるんじゃなかったの?という疑問が起きます。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています(教会讃美歌366番「愛の泉」でも明確に歌われています)。
そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が安らかに眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人だったら起こってくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。
話が脇道に逸れましたが、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったということでしょうか?ところがそういうことではないのです。
どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもなく、永遠の平和と安心があるところです。さて、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して福音として結晶した出来事でした。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものとなるのです。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。神との結びつきが確立されているので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。こうしたこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さってたがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。
イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―ですが、基本的な意味は「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。信仰の言葉で言えば、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。それなので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっていることではなく、あくまで神に向き合うという勇気ある振る舞いです。
「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。
「イエス様は自分を信じる全ての者に、方向転換の悔い改めをしなさい、と言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなるのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊もまた罪に対して攻撃をする。イエス様を救い主と信じることで神から義なる者と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めに関係したものになる。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。
方向転換の悔い改めが止まるということはありえない。それは、律法がこれは罪だと明らかにするものを我々は絶えず取り除こうとするからだ。罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されたものになっていて、本当は我々を支配する力を失っている。イスラエルの民はカナンの地に入った後でもその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。
それと同じように、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を取り除くことの方が、キリスト信仰者になって罪に宣戦布告することよりも難しいのである。このために、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだのであり、神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。」
兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しの恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、敏感な良心はゴルゴタの十字架を目にするたびにヘリ下った心になり深い安堵を覚えます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。向かう先は復活の日の永遠の命です。良心がゴルゴタの十字架に続いてあの空っぽの墓を目にすると私たちの進む道は真っ直ぐに伸びていることがわかります。その最終目的地に着くともはや方向転換の悔い改めはなっています。
主日礼拝説教 2021年1月17日 顕現節第二主日
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の福音書の個所はフィリポとナタナエルがイエス様に出会った出来事についてです。イエス様はまずフィリポに付き従うようにと声をかけます。フィリポとイエス様の間に何かやり取りがあったのでしょう。その後でフィリポは自分と同じガリラヤ地方出身のナタナエルにイエス様について次のように話します。自分はモーセ律法と預言書に書かれている方を見た、ナザレ出身のヨセフの息子イエスがその方だ、と。それに対してナタナエルは、一体ナザレから何か良いものが現れるだろうか、などと疑いをはさみます。フィリポは、一緒に来て自分の目で見てみろ、とナタナエルを連れていきます。ナタナエルのこのナザレに対する疑いは何なのだろうと考えさせられます。後にイエス様が自分の故郷の町であるナザレに行って宣べ伝えを行った時、人々は受け入れなかったばかりか、ある教えに躓いて怒り狂った群衆が雪崩を打ってイエス様を崖から突き落とそうとさえしました。なんだかある国の国会議事堂に暴徒がなだれ込んだことを思い起こさせますが、そんないきり立つ気質が支配する町だったのかもしれません。
さて、ナタナエルはフィリポに言われたとおりにイエス様のところに行きました。彼が近づいてきた時にイエス様は言われました。ギリシャ語原文のニュアンスを出すとこうです。見よ、彼こそ本当にイスラエル人と呼ぶのに相応しい(後注1)。それは偽りがないからだ。イスラエル人つまり神の民の一員に相応しい。その理由として偽りがない、欺きがない、つまり神に対して自分を包み隠すことなく正直であろうとしているということです。ナタナエルは、どうしてイエス様は自分をそのような者であるとわかったのかと聞き返します。イエス様は答えは次のようなものでした。フィリポがお前に呼びかける前に私はお前がイチジクの木の下にいるのを見た、と。これがナタナエルの問いの答えになっているのかわかりにくいですが、ナタナエルは、あなたは神の子です、イスラエルの王です、と告白してしまいます。これは一体どういうことでしょうか?会う前に自分がどこにいたかを言い当てられて驚いたということでしょうか?それに対してイエス様は、お前がイチジクの木の下にいたのを見たと言ったからそう信じるのか?お前はもっと大きなことを目にすることになる。天が開き神の天使たちが人の子の上に降ったり天に上ったりするのをだ、などと言います。
このやり取りは一見すると、ナタナエルはイエス様の千里眼に驚いたので、彼のことを神の子、イスラエルの王と信じたというふうに理解できます。でも、これではイエス様はよくありがちな宗教団体の教祖とあまりかわりありません。イエス様は病気を癒す奇跡も行ったので、教祖になるのにはうってつけです。しかし、こういうイエス理解は正しい理解でしょうか?実は、イエス様とナタナエルのやり取りには、単に千里眼を見せつけられて信じるようになったということをはるかに超えた大きくかつ深いことがあります。本日の説教ではそのことを明らかにしていきたいと思います。
イエス様とナタナエルのやり取りが大きくて深いことであるがわかるためには、イエス様が弟子たちをどう呼び集めたかについて少し詳しく見る必要があります。本日の個所のすぐ前ではイエス様がアンデレとペトロの兄弟と出会った出来事が記されています。聖書をよく読んでおられる方はちょっと首をかしげるところではないでしょうか?あれ、アンデレとペトロがイエス様と出会うのはガリラヤ湖の岸辺ではなかったっけ?漁を終えた二人にイエス様が付き従うようにと声をかけ、二人は網を置いて従って行ったのではなかったか?そうマルコ福音書とマタイ福音書には記されていたではないか?(ルカ福音書はもう少し違っていて、アンデレとペトロは漁を終えていたが、イエス様の勧めでもう一度舟を出します。それでも出来事はガリラヤ湖の岸辺です。)
ところがヨハネ福音書では出会いの場所はガリラヤ湖ではありません。どこだったでしょうか?アンデレは洗礼者ヨハネの弟子になっています。洗礼者ヨハネはユダヤ地方のヨルダン川のほとりにいます。ガリラヤ地方から少なくとも50キロくらいは離れています。洗礼者ヨハネの弟子になったということは、ヨハネから洗礼を受けたということです。アンデレとペトロそれにフィリピの3人は本日の個所で言われるように皆ガリラヤ地方のベトサイダの出身です。ナタナエルもガリラヤ地方出身で町はカナです。ヨハネ21章2節にそう言われています。カナは、あのイエス様が結婚式の祝宴で水をぶどう酒に変えた奇跡を行った町です。
そうすると4人の男たちは皆ガリラヤ地方の出身者ということになります。なぜガリラヤの男たちがこの時そろってユダヤ地方にいたのでしょうか?特にアンデレとペトロは漁師です。漁をほったらかしにして何をしていたのでしょうか?アンデレが洗礼者ヨハネの弟子になったことから考えたら、4人はヨハネから洗礼を受けるためにユダヤ地方に出向いたことが見えてきます。そうすると彼らは既にそこでイエス様と出会っていたことになります。アンデレとペトロがガリラヤ湖の岸辺でイエス様に付き従うように言われて従って行ったというのは初めて会ったことではなく、既にユダヤ地方で会っていて、その時はまだ付き従いは起こらなかったが、ガリラヤ地方に戻ってきた後でイエス様の口から直接召命の声を聞いて、それでいよいよこの方と行動を共にする時が来たと覚悟を決めて付き従ったという構図が見えてきます。
弟子たちがイエス様と既にユダヤ地方で会っていたというのは、信じられない感じがするかもしれません。しかし、使徒言行録1章を見るとこんな出来事があります。12弟子の一人イスカリオテのユダが欠けたので誰かを選んで補充しようということになった。その時、選ばれる条件になったのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時から一緒だったということでした。「一緒だった」というのは、アンデレやペトロのように後日改めて付き従うことになった例もあるので、イエス様の洗礼の時からコンタクトがあった人ということでしょう。そういうわけで12弟子というのは皆、イエス様がガリラヤ地方に乗り込む以前にユダヤ地方でイエス様とコンタクトがあった人ということになります。それで、彼らはなぜその時ユダヤ地方にいたのかと言えば、それはもうヨハネから洗礼を受けるためだったとしか考えられません。
洗礼者ヨハネの洗礼については先週の説教でもお教えしました。それは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。その意味は、将来本当に罪の赦しが得られるために、神に背を向けて生きてきた生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼でした。罪の赦しそのものが得られる洗礼はまだです。それはイエス様が死から復活した後で命じた洗礼です。ところで洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人たちは、いよいよ天地創造の神の怒りが爆発する日が来たと恐れおののきました。自分たちが持ってしまっている、神の意思に反しようとする罪を告白してそれから清められようと洗礼を受けたのです。ヨハネはこうした神の怒りを恐れて罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めました。彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るということに心を向けさせました。そのようにヨハネの洗礼はまさに来たるべき救い主をお迎えする準備をさせるものでした。そういうわけで12弟子というのは、洗礼者ヨハネの洗礼を受けて救い主を迎える準備をした者たちの中でもイエス様がさらに特別な任務を与えるべく呼び出した者たちだったのです。
さあ、これで本日の個所のフィリポとナタナエルというのは、罪を告白して洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、罪の赦しを与えて下さる救い主を迎える準備ができた者たちだったということがわかりました。この背景を念頭に置いて、本日のナタナエルとイエス様のやり取りを見ていくと深いことが見えてきます。やり取りの中で、イチジクの木の下にいたということがありました。ナタナエルがまだイエス様に会っていない段階で彼がそこにいたことを見抜いたということですが、ここはそういう千里眼の能力の他に何か意味が見出せるでしょうか?それが見出せるのです。
まず、「イチジクの木の下に」ということに何か特別な意味があるのではないかと推測して、それを見つけてみることにします。聖書辞典で「イチジク」の項目を見てます。聖書辞典はいろんなものがありますが、私はフィンランドのアーペリ・サーリサロという古代オリエントの歴史言語学者のものがあるのでそれを見てみました。「イチジク」に関連する聖書の個所が沢山でてきます。その中で旧約聖書の中に「イチジクの木の下に」という表現はあるのかどうか、ひとつひとつ見ていきます。ここで旧約聖書のヘブライ語の原文の出番となります。どうして原文でないとダメなのかは後で述べます。
「イチジクの木の下に」は旧約聖書に5つありました。その中で本日のイエス様とナタナエルのやり取りに直接関係すると思われるものは3つあります(後注2)。列王記上5章5節、ミカ書4章4節、ザカリア書3章10節で、3つともヘブライ語は「ブドウの木とイチジクの木の下に」と言っています。ただし、新共同訳ではザカリア書3章10節のところを「木の下に」と言わずに「木陰に」と訳しています。しかし、ヘブライ語の句は直訳すると「木の下に」です。「木の下に」でも「木陰に」でも意味は同じじゃないかと言われるかもしれませんが、イエス様の言い方は「木の下に」です。そういうわけで、ヘブライ語の原文を見ると、イエス様と同じ言い回しをしている個所が旧約聖書に2ヵ所ではなく3ヵ所あるとわかります。一致する個所が多ければ多いほど蓋然性が高まります。
それでは、「イチジクの木の下に」にいることには何か特別な意味があるのでしょうか?列王記上5章5節では、ソロモン王の時代にユダヤ民族の王国が平和と繁栄を謳歌したことを象徴する言い方として用いられています。イチジクは葉が大きく太陽の光を遮ってくれる安らぎを与える木です。さらに栄養価の高い果物を実らせるので「イチジクの木の下に」いるというのは祝福された状態を意味するのです。ところがミカ書とザカリア書では、祝福が現状を意味するものではなくなって、未来の状態を意味するものになります。それは、ダビデ王・ソロモン王の祝福に満ちた王国が滅亡した後、王国が将来復興してイスラエルの民が再び「イチジクの木の下に」いられる状態になることを預言するものです。このように「イチジクの木の下に」は、実際にあった祝福された状態から、現在は荒廃してしまったが将来祝福された状態になるという希望を表わします。
そこで、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた人たちというのはどういう人たちかと言うと、自分自身も世界も神の意思に反する罪のために荒廃した状態にあると認め、将来罪が赦されるという恩寵が神から与えられて荒廃した状態から脱して祝福された状態に入れる、そういう希望を抱いていた人ちです。ナタナエルは神に対して自分を包み隠さず正直であろうとした人なので、その希望は人一倍強かったでしょう。まさにそのような時、そのような希望を抱いていた時に目の前に現れた方が突然、お前がイチジクの木の下にいるのを見た、などと言ったのです。イエス様がこの言葉を他でもないナタナエルに言ったというのは、ナタナエルが「イチジクの木の下に」ということを身近なものにしていたからでしょう。イエス様はそれを見抜いてナタナエルの心に訴える言葉をかけたのです。
つまり、ナタナエルは本当はイチジクの木の下にはいなかったが、ああ、いつ預言書に言われるような祝福された状態に入れるのだろうか、とため息をついていたことをイエス様に見抜かれたということです。もちろん、実際にイチジクの木の下にいて、木を見上げてそういう思いを抱いていた可能性も否定できません。いずれにしても大事なことは、人間が罪を赦されて神から祝福された状態に入るという純粋な願いをナタナエルが持っていたことをイエス様が見抜いたということです。もし場所を言い当てたという千里眼だけなら、別に何の木でもよかったでしょう。イチジクの木でなければならないという旧約聖書の事情があったのです。
さて、ナタナエルは洗礼者ヨハネに罪を告白して方向転換の印としての洗礼を受けました。あとは罪の赦しを受けて祝福された状態になるのを待つだけです。その待っている状態にある、つまりイチジクの木の下に入れる日を待っている時にイエス様は、お前がイチジクの木の下にいるのを見た、などと言うのです。本当はまだな筈なのに。これは一体どういうことでしょうか?
これは、使徒パウロがローマ8章24節で言っていること、キリスト信仰者は希望している状態でもう救われたのだと言っていることと同じです。どういうことかと言うと、まず、キリスト信仰者が希望することと言ったら、復活の日に目覚めさせられて天地創造の神からは何のお咎めもなく復活の体を着せられて神の御国に永遠に迎え入れられることです。これがキリスト信仰で言う救いです。このことを希望している状態でもう救われたと言うのはなんと気の早いことかと呆れかえられるかもしれません。希望しているんだったら救いはまだ先のことではないか、それなのに希望している状態で救われたなどと言うのはおかしいではないかと。
しかしながら、キリスト信仰では希望している状態で救われたというのは真理なのです。というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら最後、その人は復活に至る道に置かれて、自分から振り払ってしまわない限り、その道を神に守られ導かれながら進むことになるからです。無敵の神に守られ導かれるのですから、目的地への到達は確実です。だから、希望している状態でもう救われたということになるのです。ここで、希望している状態が救われた状態に転化できたのは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のおかげということを忘れないようにしましょう。
ナタナエルに話を戻します。彼は罪を告白して罪の赦しを与えて下さる方を待ち望んでいます。その意味でまだ祝福された状態にいません。イチジクの木の下にいません。それを希望している状態にいます。まさにその時、お前はもうイチジクの木の下にいる、祝福された状態にあると言われる方が現れたのです。希望している状態でもう救われたのだと言うのです。ナタナエルとしては、それが本当のことであることを体得しなければならなくなりました。でもどうやって出来るでしょうか?それはもう、そのように言ってくれた方がカギを握っていると信じてその方に付き従って何をなさるかを見届けなければならないということになったのです。そして彼が見届けたのは、神のひとり子が人間の罪を全部引き取って神罰をゴルゴタの十字架の上で人間に代わって受けたということ、そしてその三日後に神の力で死から復活させられて復活に至る道を人間に開いて下さったということでした。
このようにナタナエルがイエス様を信じたのは千里眼的な能力に恐れ入ったからではありませんでした。旧約聖書にある神の人間に対する約束が実現するカギをイエス様が握っていると信じたからでした。
希望している状態で救われたということが言えるのは、天地創造の神の守りと導きがあるので復活という目的地への到達が確実になっているからでした。でも、到達を確実にする神の守りと導きは本当にあるのでしょうか?それが本当にあるということをイエス様はナタナエルとのやり取りの終わりで述べるのです。やり取りの終わりを見ると、天が開けて天使が降ってきたり昇って行ったりするということが言われていて、神の守りや導きことは何も言われていないと言われてしまうでしょう。しかし、イエス様はここで神の守りと導きは絶対にあると言われているのです。どうしてそんなことが言えるのか?それは、この天使の昇り降りというのは、創世記28章にあるヤコブが荒野で夢を見た時の出来事であることを思い出すとわかります。ここまで言えば、聖書を読んでいる人たちは閃くのではないでしょうか?
夢を見たヤコブに神は次のように言いました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」神がこれを言った時のヤコブはどんな状況だったでしょうか?父イサクを通して受けられる祝福を兄エサウから取ってしまったことでエサウの怒りを買い命を狙われるまでになってしまい、ヤコブは命からがらの逃避行の最中でした。とても神に守られているなどと思えない状況でした。しかし、神はそうではないのだと励ましたのです。長い年月の後でヤコブは逃避先の異国の地で築いた財産と家族を引き連れて故郷に戻ります。そしてエサウと劇的な和解を果たします。神は本当に約束を果たしたのです。
そういうわけで、天使が降り昇りをするというのは神は決して見捨てないということを象徴しているのです。ヤコブの時はイエス様の十字架も復活もまだありませんでした。それでも神は見捨てず守り導きました。私たちの場合はそれらがあります。イエス様は天使の降り昇りは自分に向かって起きると言っていました。それは、神が私たちを見捨てずに守り導いて下さることにおいて、イエス様はなくてはならないということです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のおかげで神の子とされました。私たちは子なのですから、父なる神は子を見捨てず守り導いて下さるということはもっと自信をもってよいのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)αληθωςは形容詞(まことの)ではなく副詞(まことに)であることに注意。
(後注2)すみません、「イチジクの木の下に」は5カ所ではなく、ここにあげている3ヵ所だけでした。直接関係ないと言った2ヵ所は私が勘違いしてメモしてしまったものでした。お詫びして訂正いたします。
3ヵ所については間違いありません。
・列王記上5章5節 ותחת תאנתו →「イチジクの木の下に」
・ミカ4章4節 同上
・ザカリア3章10節 ואל-תחת תאנה →「イチジクの木の下に」(前置詞が二重になっていますが同じ意味です。)
主日礼拝説教 2021年1月10日 主の洗礼日
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イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとは、一体どういうことか?ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を人々に宣べ伝えました(マルコ1章4節)。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とは、将来罪の赦しが得られるために、神に背を向けて生きてきた生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼ということです。罪の赦しそのものが得られる洗礼は、イエス様が死から復活した後で命じた洗礼です。それなので、洗礼者ヨハネの洗礼はその前段階の方向転換の印です。そうすると、イエス様のように神と同質の方でそもそも方向転換などする必要のない方がどうして洗礼など必要なのでしょうか?イエス様は罪の赦しそのものを与える方です。どうしてそのような方が罪の赦しが得られるための印を受ける必要があるのでしょうか?マタイ3章をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を前にしてヨハネはとまどって言います。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」(14節)と。まことに当然な驚きです。
なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのか?これを考えることは、私たち人間の救いのためにイエス様が本当になくてはならない方であることが明らかになります。本日はこのことを見ていきます。
まず、洗礼者ヨハネの洗礼がどんなものであったか、もう少し見ていきます。ヨハネのもとに大勢の人がやって来て罪を告白して洗礼を受けました。マタイ福音書やルカ福音書を見ると洗礼を受けに来た人は皆、神の怒りを恐れていたことがわかります。旧約聖書の至る所に「主の日」と呼ばれる日の預言があります。それは神が人間に怒りを示す日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異が起こる時として言われています。イザヤ書の終わりではそれこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造する日のことが預言されています。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、いよいよその日が来たと思ったのです。それで神の怒りが及ばないようにと、そのような天変地異の大変動から助かろうと、それでヨハネのもとに来て、神の意思に反する罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのです。水を浴びることは清めを象徴しました。
ところが、ヨハネは自分の後に来る方つまりイエス様の洗礼こそが本当に神の怒りが及ばないようにする力がある洗礼と言います。そのためには洗礼に聖霊が伴わないとだめなのだが、自分の洗礼にはそれがなくイエス様の洗礼にはあると認めるのです。そうするとヨハネの洗礼は罪の赦しそのものが起こる洗礼ではなかったことになります。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシア救い主による罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものでした。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。
ヨハネの洗礼に罪の赦しも来たるべき神の怒りから救う力も聖霊もなかったのならば、なぜ彼は洗礼を授けたのでしょうか?それは、神の怒りの日を覚えて自分の罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めて、彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るとことに心を向けさせるためでした。その意味で、ヨハネの洗礼はまさしく来たるべき救い主を迎える準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中に道を整えて道筋を真っ直ぐにすることでした。それでヨハネは、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救い主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。
そのようなヨハネの洗礼をどうして神のひとり子のイエス様が受ける必要があったのでしょうか?これからこのことを見ていきます。
私は以前イエス様の受洗の日課について説教をした時、神のひとり子が洗礼を受けることで人間と同列に加わったという、神の人間に対する連帯を表わすものだということをお教えしました。神と同質の方が洗礼を受けることで洗礼を必要とする人間と同じ立場に立ったということ、これこそ神の人間に対する連帯の表れだと考えたのです。ところが今回、この日課を見直してみて、イエス様の受洗は神の人間に対する連帯もあるが、それでいい尽くすことの出来ないもっと大きなこともあるとわかったので、今日はそのことをお話ししていきたいと思います。
まず、神と同質の方が人間に対して連帯を示したということを言うならば、それは、その方が乙女マリアから肉体を持って誕生したという受肉の出来事と誕生後8日目に割礼を受けたことの方が洗礼よりも相応しいと思いました。
神と同質の方の受肉の出来事について、「フィリピの信徒の手紙」2章に次のように記されています。「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
天の父なるみ神のもとでは神の知恵ないし言葉として存在していた方が乙女マリアを通して人間の体を持つ者としてこの世に贈られてきました。それは、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになるためでした。それで人間が罪のゆえに受ける神罰をまさに神罰として引き受けることができるようになるためでした。
イエス様が誕生8日後に割礼を受けたことは(ルカ2章21ー24節)、その外的な印をもってアブラハムの子孫の一人に加えられ、モーセの律法の効力の下に置かれました。神聖で罪の汚れひとつない神のひとり子が、神聖さがなく罪の汚れを持つ人間の立場に置かれたのです。ユダヤ民族という、罪の汚れから洗われるために数多くの宗教的儀式をこなさなければならない民族の立場に置かれたのです。本来ならばそうしたことは一切不要な立場にある方なのに、全く違う立場に置かれることになり、それによって神からの罰を罰としてちゃんと受けられて、死の苦しみを本気で受けて死ぬ者になったのです。
もしイエス様がこういう人間の立場に置かれず、ずっと天の御国の神聖な立場のままだったら、死や苦しみはイエス様に近寄ることはなかったでしょう。パウロが述べたように、神のひとり子は「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア4章4節)のです。ただ忘れてはならないのは、イエス様は人間と同じ立場に置かれたとは言っても、罪を持たない神聖な神のひとり子だったということです(ヘブライ4章15節)。そのような方が、受肉と割礼を通して人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかったのです。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」2章18節に言われるように、イエス様は試練に遭う者たちのことを本当にわかって助けることができるのです。
神のひとり子が律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになったのならば、同じになってどのように救い出したのでしょうか?人間は神の意思に反する罪を持っている。神は罪を焼き尽くす神聖な方である。人間は神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう。神は人間が神罰を受けて滅んでしまうのを望みませんでした。罪は断固として認めないが、しかし人間は滅びから救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は神罰の滅びを自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が自己犠牲の愛であると言われる所以です。
しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。人間の罪の罰を全て受ける以上は罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の神聖な意思を示す掟です。それは、人間がいかに神聖さと正反対な存在であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は律法の上にたつ存在です。しかし、それでは罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければならなかったのです。まさに、このために神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。そして割礼を受けて律法の効力の下に置かれなければならなかったのです。実に、そうすることで使徒パウロが述べたように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア3章13節)。
イエス様が人間と同列に加わった連帯というのは、私たちを神の意思に反した者にしてしまう呪いから救い出すために自ら呪いを引き受けてその帰結を被って下さったのです。私たち人間が被らないように自分で被って下さったのです。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり連帯したりします。しかし、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は次元が違うものです。困窮した人たちもその人たちを助ける人たちも、神からこのような寄り添いや連帯を頂いていることがわかれば力や励みになるのではないでしょうか?
神の人間に対する連帯が受肉と割礼でよく現れていると言うならば、イエス様の洗礼は一体なんだったのでしょうか?なぜ、罪の赦しを与える立場にある神のひとり子が罪の赦しを得られるための方向転換の印を受けなければならなかったのでしょうか?
ここでイエス様の洗礼の時に何が起こったかを見てみます。洗礼を受けた時、イエス様に聖霊が降ったことが目撃されました。また、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声が轟きました。この出来事はイザヤ書42章1ー7で言われている預言の成就でした。すると、イエス様の洗礼は預言が成就するために必要な手続きだったことがわかります。そこで、この預言の内容を、本日の旧約の日課ではありませんが、見る必要があります。
このイザヤ書の箇所で神は、将来この地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が聖霊を受けて、神から特別な力を与えられて何かを実現していくことが預言されています。その何かとはなんでしょうか?
私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが言われます。しかし、これは困った訳です。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体どんな意味なのでしょうか?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?頭のいい人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにもありません。このことは以前の説教でもお教えしたことがあります。ここでもう一度振り返ってみることにします。
参考までに各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の言葉をどう言っているか覗いてみると、英語の聖書はjustice、「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Recht、「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデン語の聖書では「権利」(rätten)、フィンランド語の聖書では「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味する単語(oikeus)です。
神の僕が携わることが、どうして日本語で「裁き」になって他の訳はそうならないかと言うと、ヘブライ語の元の単語ミシュパートמשפטをどう考えるかによります。その語の大元の意味は、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」です。その意味から出発して「裁き」とか「判決」というような限定した意味がでてきます。しかし、限定した意味はそれだけではありません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」をもとにすれば、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。辞書を見れば他にもあります。
以上のようなわけで、イザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。さらに、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳せるものです。そういうわけで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民(גוי、特にユダヤ民族の異邦人をさしますが)に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」ということです。
それでは、神の僕がもたらしたり打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何でしょうか?神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」でしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が神の意思に反そうとする罪の力から解放されることであり、解放されて神との結びつきを持ててこの世を生きることであり、そして、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠に造り主の神の御許に迎え入れられるということです。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。。これらは全て、神のひとり子イエス様が十字架の死と死からの復活の業をもってこの世にもたらして打ち立てたものです。
イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおり神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神による人間救済を実行する力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のひとり子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすための必要な手続きになりました。ヨハネの洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、主体的に神の人間救済を実現させることとなったのです。そういうわけで、イエス様の受肉と割礼は神の私たちに対する連帯の中で、ひとり子を低い私たちに低める連帯であったと言えます。そして、イエス様の洗礼は低い私たちを高める連帯であると言えます。
そう言うと、次のような異論が出てくるかもしれません。イエス様がヨハネから洗礼を受けたことでイザヤ書の預言が成就できたことはわかるが、手続きとしてはどうか?そもそもヨハネの洗礼は罪の赦しに導く方向転換の印なのだ、それを受けることでイエス様が人間と同列に置かれることに目が行ってしまい、異なる次元の連帯という深いところはわかりにくくなってしまうではないか?イザヤ書の預言を見ても神の僕に聖霊が降ることがどのようにして起こるか、どのような場面で神の声を聞くことになるのか何も言っていない。ましてや洗礼を通してとか手続き的なことは何も言っていない、と。
これに対しては、次のように言えばいいでしょう。イザヤ書の預言の成就のためにはやはりヨハネの洗礼が相応しい手続きだったのだ、と。というのは、イエス様に聖霊が降ることで、これから人間を罪と死の力から救い出す十字架の業を行うことになり、また死から復活を遂げることで死を超えた永遠の命に至る道を開くミッションを始められることになったからです。そして、イエス様が私たちに設定した洗礼は、受ける者に聖霊が降って彼のミッションの果実をその人に分け与えるものになりました。だから、イエス様が受けた洗礼は私たちが受ける洗礼の先駆けとしてあるのです。イエス様の洗礼は私たちが受ける洗礼の意味をその時点で暗示しているのです。
そういうわけで、主にあって兄弟姉妹の皆さん、イエス様の受洗は、彼の受肉や割礼と同じくらいに私たちが感謝し賛美すべきものなのです!