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主日礼拝説教 2020年1月3日(主の顕現)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.本日の福音書の日課の箇所は有名な「東方の三賢」の話ですが、本当にこんなことがあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来たとか、王子様の星を見たことが彼らが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。以前この個所について説教をした時にいつも申し上げたことですが、ここに書かれた出来事はおとぎ話で片付けられない歴史的信ぴょう性があります。今回もそのことについておさらいをします。
ところで、出来事がおとぎ話ではない、信ぴょう性があるとわかっても、それでイエス様を救い主と信じる信仰に至るかというと、人間とは身勝手なもので、そんな程度ではまだまだだというのが大半ではないでしょうか?実は、イエス様を救い主として信じて受け入れるというのは、聖書に記された出来事の歴史的信ぴょう性とは別のところに鍵があります。その鍵とは何かと言うと、それは自分を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。自分と自分の造り主である神との関係はどんなものか考えてみることです。そのことも以前申し上げてきました。本説教でもそのことについて述べますが、時間も経ったのでまた新しい視点で見ていきます。
ここで信仰と歴史的信ぴょう性の関係というのは恐らく次のようなものではないかということを述べておきます。自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直して、その結果イエス様を救い主と信じるようになる。その時、おとぎ話みたいな出来事はきっと歴史的に何かがあると考え始めて、いろんな可能性を検証するようになっていく。それとは逆に、自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直しこともせず、イエス様を救い主と信じる信仰に至らなかったら、こんな出来事はありえないというバイアスがかかって可能性の検証には向かわなくなる。つまり、信仰が信ぴょう性に道を開くのであり、逆ではないということです。そして、イエス様を救い主と信じる信仰は、自分を造り主の神との関係に照らし合わせて見つめることから始まるのです。
2.まず最初に本日の福音書の箇所の出来事の歴史的信ぴょう性について振り返ってみます。不思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、私はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。
1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めていました。他方で、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があります。そこから古代の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。実は昨年12月22日に木星と土星が400年振りに大接近をしたというニュースがありました。私は後で知ったので確認はできなかったのですが、世界各地で二つの星がほぼ一つに重なるのが肉眼でも確認できたとのことです。
そこでイエス様の誕生年についてみると、マタイ2章13-23節によればイエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ルカ2章にあるローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。
次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで星の動きが緻密に観測されて、その動きもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れでと考えられました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星について、もし東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。それで、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。
そこで、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみると、イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失いませんでした。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは旧約聖書のエステル記からうかがえます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ」などと隣近所はささやいていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。
学者のグループは宗教画などにはよく3人描かれています。しかし、福音書には人数は記されていません。複数形で書かれているので何人かいたのは確かですが、3人と考えられるようになったのは、イエス様に捧げられた贈り物が黄金、乳香、没薬と3種類あったからでしょう。
学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで本日の箇所にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人です。それで、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。
以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景に見事に裏付けされるものです。しかし、問題点もいくつかあります。それも認めなければなりません。
一つ大きなものは、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。先に述べましたが、木星と土星の異常接近は紀元前7年は一回限りでなく何回も繰り返されました。それで、エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。とにかく聖書の神は太陽や月や果ては星々さえも創造された(創世記1章16節)方なのですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。
もう一つの問題点は、イエス親子のエジプトに避難していた期間とエルサレムの神殿を訪問してシメオンやハンナの預言を聞かされた時期との関係です。これについてはまた別の機会に考えたく思います。
3.次に、イエス様を救い主と信じる信仰に至る鍵は、自分を神との関係に照らし合わせて見つめることにあるということについて見ていきます。キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく、彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに、彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?
まず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからはイエス様こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならない、と脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから伝道は続けるしかありません。
そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうち信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。
では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は後世を生きる自分のためにも神がひとり子を用いて成し遂げられたのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか? イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。ご存知のように聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。
造り主の神との関係において自分を見つめると、神の前に立たされた時、自分は耐えきれないのではと気づきます。というのは、神は神聖な方であり、自分は神の意思に反する罪を持っているからです。神の意思というのは、十戒に凝縮されています。父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、嘘をついたり偽証したり改ざんしたり、妬みや嫉妬に駆られて何かを得ようしたならば、それらが行いに現れようが心で描こうが神の意思に反するので全てが罪です。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。
加えて、十戒の最初の部分は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟です。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考え方だな、そんな掟があるから自分の正義を振りかざして宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えています。その理由は「復讐は神のすることだから」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは実に人間の仕返しの権利を全部神に譲り渡すということです。そんな、やられたのにやり返さなかったらこっちが損するだけではないか、と言われるでしょう。しかしパウロは、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つと、人間は相手をなぎ倒してまで自分の正義を振りかざすことがなくなるというのが本当なのです。
このような十戒に照らし合わせて見ると自分はいかに神の意思に反することだらけということに気づかされます。自分は完璧で、神の前に立たされても大丈夫だ、何もやましいことはない、などと言う人間はいません。神の前に立たされたら自分はダメだ、持ちこたえられないと気づくと、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなると、自分を見つめることを神との関係に照らし合わせてしなくなり、別のものに照らし合わせてするようになっていきます。
まさにそのような時、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を贈られたのかを思い出します。神聖な神のひとり子が人間の罪を全部引き取って人間のかわりに神罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれました。そのようにして私たちの罪の償いを果たして下さいました。それで彼こそ救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその通りになって、神から罪を赦された者として見なされ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しの十字架は歴史上確固として打ち立てられたものです。自分を神との関係に照らし合わせて見つめて、その結果、神から遠ざかろうとする自分を感じたら、すぐ十字架のもとに立ち返ります。そうすれば、神と自分との結びつきは神の愛によってしっかり維持されているとわかって、恐れや後ろめたさは消えてなくなります。
本日の使徒書の日課エフェソ3章の12節で使徒パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べていました。少し注釈しながら言い換えると、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついていて、その信仰のおかげで神の前に立たされても大丈夫という確信がある。それで、神のみ前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。
4.最後に、東方の学者のグループのベツレヘム訪問はキリスト信仰者の信仰生活に通じるものがあるということを述べておきます。彼らは星に導かれて救い主のもとに到達しました。私たちにはそのような星はありませんが、救い主のもとに到達できるために聖書の御言葉があります。私たちには御言葉が星の役割を果たしています。
救い主のもとに到達した学者たちは捧げものをしました。私たちも救い主のもとにいる限り捧げものをします。何を捧げるのか?ローマ12章1節でパウロは「自分の体を神の御心に適う神聖な生贄として捧げなさい」と勧めます。それはどんな捧げものか?2節を見ればわかります。少し注釈しながら訳しますと、「あなたがたはこの世に倣ってはいけない。あなたがたはイエス様を救い主と信じる信仰によって物事の捉え方が一新されたのだ。だから、あとは何が神の意思であるか、善いことであるか、神の御心に適うことであるか、完全なことであるか、それらを吟味する自分へと神に変えてもらいなさい。」これが自分の体を神聖な生贄として捧げることです。どのように自分を変えて頂くか、その内容については12章でずっと述べられていきます。先ほど述べた、仕返しの権利を放棄することもその一つです。
学者たちは捧げものをした後、ヘロデ王のもとには戻りませんでした。救い主としてのイエス様のもとに到着して自分を神聖な生贄として捧げる者は、この世に倣わない者であるということが暗示されています。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
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礼拝説教 2021年1月1日新年の礼拝
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた がたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.2021年が始まりました。私たちはまだコロナ禍の只中にありますが、新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことも大事と思います。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと思って向かって行くのと、これからは今までと違うものになるのだと思って向かって行くのでは試練に対する向き合い方、ひいては試練の只中にあっての進み方も違ってくるでしょう。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に内容を与えるものになるようにと願っています。
新しい年のことを言っているのに、昨年のことを言うのは少し気が引けるのですが、こういうことがありました。一つの原稿を依頼されていて9月が締切りだったのですが、秋はずっと家族の者や自分自身の体調の問題があって教会の礼拝を守ることで精一杯になってしまい、原稿に取りかかることができなくなってしまいました。締め切りを何度も延ばしてもらったのですが、結局は手つかずになってしまい、担当の方にお詫びのメールを送りました。原稿というのはキリスト教関係の施設の記念誌で、担当者もキリスト信仰者なのですが、彼の返事はこういうものでした。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、しかもわかった時点から過去を振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい時点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。
なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、これは聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方であると信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するとは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福をお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを乞う相手はこの方以外にはない、という位に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。
それでは全身全霊がそのような神一筋になるくらいに神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう、その神が私たちにかけがえのないひとり子を贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父を私たちは子として信頼するのです。だから、試練があってもそこに踏み留まらない、埋没してしまわない、堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)次の段階に向かって進んでるという見方になれるのです。
そのことを使徒パウロは第一コリント10章13節で次のように述べています。「神は真実な方です(ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」
イエス様を救い主として受け入れていない人たちから見たら、このような見方は根拠のない楽観論にしか聞こえないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ8章28節です。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、主語は「万事」ではなく「神」で、神が万事を益となるようにすると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。そして後で全てが見事に埋め合わさった全体像を見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。
2.このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中にあっては、神の子たちに対する父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。3章11節で、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。
永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、それの説明は簡単なことではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造の神しか存在しなかったのです。神だけが存在していて、その神が万物を創造しました。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26-29節、詩篇102篇26-28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは神の国という永遠が支配する世界です。そういうわけで、今の天と地が造られて、それが終わりを告げる日までは、今の天と地は時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。
神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の世界におられる方が、限られたこの世界に生きる人間たちを、永遠の世界にいる神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えたら復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。人間が神との結びつきを持って生きられるように、またこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった、神の意思に反する罪をどうにかしなければならない。それでイエス様は、人間の罪を全部引き受けて十字架の上まで運び上げてそこで人間にかわって神罰を受けて、神に対して罪の償いを果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持ってこの世を生きることになるのです。
神はそのような永遠に属する方を私たちの心に与えて住まわせて下さいました。まさに、神はコヘレト3章11節で言うように、永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?この下りですが、ここは英語(NIV)、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳も大体同じで、「神のなさる業を見極められない」と言っています。「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは、かなり悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は、永遠を人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר、מבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which)神のなさる業を始めから終わりまで発見することはできないというものを」という訳になるのではないだろうか。そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」という意味です。イエス様という永遠の御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと考える者です。もちろん、日々の試練の中で、神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味では心に永遠を与えられても発見できないということになります。その意味でペシミズムがあると言ってもいいです。しかし、先ほど述べましたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中の時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっているということでは神のなさる業を発見できているのです。ここにコヘレトがペシミズムに留まらない、それを超えるものがあると考えます。
3.「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」として、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。
また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない。そこから出発しなければならない。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?
ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、神のみ心、神の正義、神の義が目指し向かうべきものとして見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」というように、今この世の目で見て不幸な状態にいるような人たちの立場が逆転する可能性が満ちているということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるだろう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口と言うようなもっと完璧な逆転が待っている。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。 この世は神の意思に反する罪が入り込んだ世界です。自分では神の意思に沿うように生きようと思っても、自分の罪に足をすくわれたり、また他人の罪の犠牲になってしまうことがどうしても起きてしまいます。そういう時、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られていつかそれを新しいものに変えられる方がいらっしゃることを思い起こしましょう。そして、その方が贈られたひとり子を私たちが信じ受け入れた以上は、その方は私たちに起こることを全て見届けていて、試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっているということを思い起こしましょう。日々聖書を繙き、神の御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るようにアーメン
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1. 本日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と呼ばれる日です。この日、北欧の国フィンランドのトゥルクという町で1300年代からずっと続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。目抜き通りを挟んで大聖堂の反対側にある建物のバルコニーから、トゥルク市の儀典長が巻物を広げて群衆の前でその「宣言」を声高らかに読み上げます。「平和宣言」などと言うと、世界の平和を祈願する内容かと思いきや、そうではなく、これから救世主イエス・キリストの誕生をお祝いする期間に入るので市民は相応しい仕方でお祝いしなさい、もし、このクリスマスの平和を破る者がいれば関連法令に基づいて厳しく罰せられるから注意するように、という内容です。つまり、救世主の誕生日を敬虔な気持ちでお祝いし、お祝いの秩序を乱してはならない、という当局からの通達です。(トゥルク市の「クリスマス平和宣言」はテレビで全国中継されるほか、インターネットで世界中に同時配信されています。今年はコロナのために群衆なしで行うそうです。)
「平和」という言葉は、普通は戦争のない状態を意味すると理解されます。国と国、民族と民族の利害が衝突した時、武力を用いないで解決することを平和的解決と言います。そういう衝突や対立がない状態という意味での平和があります。他方で「クリスマスの平和宣言」に言われるような、イエス様の誕生を感謝の気持ちと喜びをもってお祝いできる状態という意味での平和もあります。もちろん、そういうお祝いが出来るためには国や社会が平和であることが大事です。フィンランドの「クリスマスの平和宣言」も、第二次大戦中の1939年は空襲警報が鳴ったため中止になりました。しかしながら、国や社会が平和ならばいつも感謝の気持ちと喜びをもってイエス様の誕生をお祝い出来るかと言うと、そうとも限りません。というのは、心がイエス様以外のものに向いていたら、それは本当のクリスマスのお祝いではなく、そこにはクリスマスの平和はないからです。裏返して言うと、国や社会が平和でない時も、心がしっかりイエス様に向いているならば、クリスマスの平和はあるということです。今コロナ禍の状況の中で世界中が混乱しています。そのような時こそ、このような平和を持てれば素晴らしいと思うのですが、そんな平和は果たしてあるのでしょうか?
先ほど朗読したルカ伝福音書2章の中で、イエス様が誕生した夜、天使の大軍が夜空に現れて「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美の言葉を述べました。この、イエス様の誕生に結びつく平和、クリスマスの平和とはどんな平和なのか?これから、このことを見ていきたいと思います。
2. 初めに、イエス様誕生の歴史的背景について述べておきます。これは、出来事がおとぎ話とか空想物語と片づけられてしまわないために大事なことです。実を言うと、イエス様がこの世に誕生した年月日は歴史資料に限りがあるため100パーセント正確には確定できません。それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほどのルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデという王様はいましたが、独立国としての地位は失っていてローマ帝国の支配下に置かれる属国でした。ローマ帝国は大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのです。
さて、ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものは記録がありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前6ー7年という数字が有望になります。
イエス様が誕生した日にちはどうでしょうか?西暦100年代に1月6日が顕現日という聖日に定められました。当初は顕現日はイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念することと、イエス様の誕生を記念することの両方が祝われていました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の生々しい証言はまだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。誕生記念の方は1月6日から12月25日に移っていきますが、その詳しい経緯はわかりません。いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。
3. クリスマスというのはイエス様の誕生をお祝いする日です。それで、イエス様が歴史上、実際に生まれた日が世界最初のクリスマスになります。聖書に従えば、イエス様は神のひとり子です。そして父なる神は、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えて下さった創造主です。この創造主としての神、ひとり子としての神、それに神の霊、聖霊の三つが一つの神を成すというのがキリスト信仰の立場です。この三つを除く全ての万物は、神に造られたもの、被造物ということになります。私たちの目に見えるもの、また目に見えない霊的なものも全て被造物ということになります。天使たちもそうです。
これから考えると、世界最初のクリスマスの驚くべきことは、造り主に属する神のひとり子が人間として、つまり被造物の形を取って生まれたということです。加えて、天上の神の栄光に包まれていた方が家畜小屋で生まれたということです。皆さんは、家畜小屋がどういうところか想像つくでしょうか?パイヴィの実家が酪農業を営んでいるので、休暇の時はいつも子供たちと一緒に牛を見に行ったものでした。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。数分いるだけで臭いが服にしみつくほどです。
神のひとり子であり人間の救い主となる方が、なぜこのような仕方で地上に送られなければならなかったのか?人間に命と人生を与える造り主の立場にある方が、なぜ自ら被造物の形をとって、しかも家畜小屋で生まれなければならなかったのか?まず、神が人間として生まれたということについて見てみます。ここで大事なポイントは、もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っていただけだったろうということです。それでは神と人間の間にある問題を解決することは出来ません。神と人間の間にある問題とは何かと言うと、それは、旧約聖書の創世記にあるように、神に造られた最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反するようになって、罪を持つようになってしまったということです。そのために神と人間の結びつきが失われ、両者はいわば敵対関係に陥ってしまいました。
そこで神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしようと、そしてこの世から去った後は復活の日に目覚めさせてご自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に送ったのでした。送って何をさせたかと言うと、敵対関係を終わらせるために人間の罪を償う犠牲の生け贄になってもらったのです。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があるということも示されました。これらのことをやり遂げるには被造物はあまりにも無力でした。それを可能にする本物の犠牲が必要でした。それが出来たのは神のひとり子だったのです。神のひとり子の犠牲なのでこれ以上のものはないという犠牲でした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、神と人間の間に和解をもたらすために神自らが人間に歩み寄って自分を犠牲に供したということだったのです。それ位、神は人間のことを大事に思って下さったということなのです。
4. それでは、神のひとり子が人間として生まれるのなら、なぜベツレヘムの家畜小屋での出産というような形をとらなければならなかったのでしょうか?聖書を読むと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、有限な私たち人間を導く時、大抵は自然界と人間界にある諸条件を用いてその枠内でそうします。しかし時として、諸条件の枠を超えるような力を行使して、自然界の中で起こりえないことを起こすこともあります。それが奇跡と呼ばれるものです。例えばイエス様が医療の技術もなく不治の病を治したとか、湖の水の上を歩いたとか、5切れ程度のパンで5千人以上の人たちの空腹を満たしたとかいうものです。
人間界の諸条件の枠の内で導きをするとどういうことが起きるか?イエス様の誕生がその良い例になっています。紀元前6年頃、現在のイスラエルの国がある地域で、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡の業のために処女のまま妊娠した。ちょうどその時、彼らを支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。そこで近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。さて、旧約聖書にはメシア救世主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という預言があります。ローマ皇帝はそんな他の民族の聖典の預言など全く知らずに勅令を出したわけですが、そのおかげで預言が実現することになりました。
出産場所が家畜小屋になったことについても、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、町の郊外にいた羊飼いたちに天使が現れて、今ベツレヘムでメシア救世主が生まれた、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれである、と知らせました。これが重要なヒントになりました。なぜなら、家畜小屋を探せばよいからです。単に救世主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤ちゃんは見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。
イエス様の家畜小屋での出産の出来事から次のことがわかってきます。神はヨセフとマリアを歴史的状況、社会的状況の荒波に揉まれさせてはいるが、決して彼らの運命の手綱を手離すことなく、ずっとしっかり握っていたということです。マリアの妊娠は、戒律厳しいユダヤ教社会の中では不倫か結婚前の関係かと疑われたでしょう。事は十戒の第六の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。しかしヨセフは、神の計画ならば周囲の目など気にせず、この私が育てますと決意します。そう決心するや否や、今度は支配者の命令が下され、身重のマリアを連れて160キロ離れた町に旅をしなければならなくなります。やっと着いても泊まる所がなく、家畜小屋で子供を産むことになってしまいます。
ところが、まさにちょうどその時、神は天使を送ってイエス様の誕生を羊飼いたちに知らせ、彼らにイエス様を探し当てさせました。本日の福音書の箇所によると、家畜小屋には親子3人と羊飼いたちの他にも人々が集まっています。恐らく羊飼いたちは黙って探したのではなく、今夜この町でメシア救世主がお生まれになりました!今飼い葉桶に寝ておられます!家畜小屋はどこですか?と声に出しながら探し回ったのでしょう。羊飼いたちはヨセフとマリアと集まった人々に天使が告げたことを話しますが、人々は天使など見ていませんから、半信半疑です。しかし、天使が現れなければ羊飼いが飼い葉桶の赤ちゃんを探すこともないわけだから、嘘とも決めつけられない。聖書に書いてあるように、ただただ驚くしかありません。他方マリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを前もって知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのです。これも書いてある通りです。
以上、ヨセフとマリアは、ベツレヘムまでの旅を余儀なくされて挙句の果ては家畜小屋においやられてしまいましたが、羊飼いたちがやってきたことで、これは不運でもなんでもない、神は何時いかなる時でも絶えず目を注いで下さっている、ということがはっきりしました。このように神は、神を信頼しより頼む者を状況の荒波に揉まれさせて、何もしてくれない、助けてくれないように見えても、実はその人の運命の手綱をしっかり握っていて離すことはないのです。必ず、その人に対する神の計画が明らかになり、それまでのことは無意味ではなかったとわかるのです。
5. このように外面的には嵐と荒波があっても、心は落ち着いていられる平和がある。そのような平和について宗教改革のルターは次のように教えています。この教えは、イエス様がヨハネ14章27節で弟子たちに平和を与えると約束したことについての説き明かしです。
「これこそが正しい平和である。それは心を静めてくれる。しかも、不幸がない時に静めるのではなく、不幸の真っ只中にいて、周囲のもの全てが動揺しているときに静めてくれるのである。 この世が与える平和とイエス様が与える平和の間には大きな違いがある。この世が与える平和とは、不穏さがもたらす害悪が取り除かれることがそれである。それとは反対にイエス様が与える平和とは、外面上は不幸が続いてもあるものである。例えば、敵、疫病、貧困、罪、死それに悪魔、こうしたものはいつも我々を包囲している。しかしながら、内面的には心の中に励ましと平和をしっかり持っている。これがイエス様の与える平和である。心は不幸を気にかけないばかりでなく、不幸がない時よりも大胆になり、喜びも大きくなる。それ故、この平和は、人間の理解を超える平和と呼ばれる。 人間の理性で理解できるのは、この世が与える平和だけである。平和は害悪があるところにもあるとのは、理性には理解不可能である。理性は、どのようにして心を静めることが出来るかを知らない。なぜならば理性は、害悪が残っているところには平和はあり得ないと考えるからだ。確かにイエス様は外面上の惨めさをそのままにすることがあるが、まさにそのような時に彼は人間を強くし、臆病な心を恐れ知らずにし、恐怖に慄く良心を安心感に満ちたものに替える。そのような人は、たとえ全世界が恐怖を抱く時にも喜びを失わず、安全な場所でしっかり守られているのである。」
「これこそが正しい平和である。それは心を静めてくれる。しかも、不幸がない時に静めるのではなく、不幸の真っ只中にいて、周囲のもの全てが動揺しているときに静めてくれるのである。
この世が与える平和とイエス様が与える平和の間には大きな違いがある。この世が与える平和とは、不穏さがもたらす害悪が取り除かれることがそれである。それとは反対にイエス様が与える平和とは、外面上は不幸が続いてもあるものである。例えば、敵、疫病、貧困、罪、死それに悪魔、こうしたものはいつも我々を包囲している。しかしながら、内面的には心の中に励ましと平和をしっかり持っている。これがイエス様の与える平和である。心は不幸を気にかけないばかりでなく、不幸がない時よりも大胆になり、喜びも大きくなる。それ故、この平和は、人間の理解を超える平和と呼ばれる。
人間の理性で理解できるのは、この世が与える平和だけである。平和は害悪があるところにもあるとのは、理性には理解不可能である。理性は、どのようにして心を静めることが出来るかを知らない。なぜならば理性は、害悪が残っているところには平和はあり得ないと考えるからだ。確かにイエス様は外面上の惨めさをそのままにすることがあるが、まさにそのような時に彼は人間を強くし、臆病な心を恐れ知らずにし、恐怖に慄く良心を安心感に満ちたものに替える。そのような人は、たとえ全世界が恐怖を抱く時にも喜びを失わず、安全な場所でしっかり守られているのである。」
一体誰がこのような平和を持てるでしょうか?先ほどのルカ伝福音書2章14節の天使たちの賛美を思い出しましょう。
「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」
これは、不思議な文句です。この文句は2つの部分からなります。最初は、神の栄光について言い、次は平和についてです。「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神にあるものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは「栄光はいと高き天上の神にある」というのが正確でしょう。
「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、「神の御心に適う人」です。「平和」は、先ほども申しましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現しました。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちがこの神との平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」です。まさにこの平和は、外的な平和が失われた時であろうが、また人生の中で困難や苦難に遭遇しようが、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和です。そういうわけで、天使たちは、栄光が天上の神にあるのと同じくらい、平和もイエス様を受け入れる者にある、だから、出来るだけ多くの人がこの平和を持てますように、と願っているのです。皆さんも、この平和を持つことができますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1.2020年の待降節ももう第四主日です。今度の木曜日がクリスマス・イブ、金曜日がクリスマスです。この期間、私たちの心は2千年以上の昔に現在のイスラエルの地で実際に起きたメシア・救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を贈られた父なるみ神に感謝してクリスマスをお祝いします。今年の待降節の礼拝の説教で私は特に、キリスト信仰者にとってクリスマスというのは過去の出来事を記念するお祝いに留まってはいけないということを強調してきました。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。そういうわけで私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければならないのです。イエス様が再臨する日というのは、聖書によれば今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それは、また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは、父なるみ神以外は誰もわからないのだとイエス様は言われました。それで大切なことは、「目を覚ましている」ことであると教えられました。
とは言っても、イエス様の再臨というのは気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、なんだか微笑ましい話に聞こえますが、再臨となるとこの世の終わりとか最後の審判とか死者の復活とか物騒なことがつきまといます。誰もそんな日を待ち望まないでしょう。
しかし、キリスト信仰者は、その日は特別な意味を持つ日だと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を通して聖霊を注がれたので自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。これを繰り返していくことで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられます。そこではもう罪の自覚を持つ必要はありません。それなので、キリスト信仰者は主の再臨が待ち望むに値するものであるとわかるのです。
以上から、主の再臨を目を覚まして待ち望む者は次のことを肝に銘じていなければならないとわかります。自分には神の意思に反する罪があるという事実から目を背けないで、たえず神のもとに立ち返る生き方をすることです。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することです。
2.主の再臨を待ち望む者が肝に銘じておきべきもう一つのことを本日の福音書の個所から学んでみようと思います。本日の箇所で天使ガブリエルがマリアに、お前は救い主の母となると告げていました。天使が言わんとしていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、だから、それを信じそうなることを受け入れなさいということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていて受け入れ難いものでも、神がそう言われる以上はそうなる、だから、それを受け入れて、それを全てに優先させなさいということです。人間の本心としては、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置くというのはあまりしたくないものです。ましてや、そうすることで余計な困難や試練を抱えてしまってはなおさらです。しかし、神はまさに人の都合よりも神の意志を優先させる人と共に一緒におられるのです。この真理が本日の福音書の箇所の説き明かしから明らかになります。
このガブリエルという天使ですが、ダニエル書にも登場します(8章と9章)。神に敵対する者が跋扈する時代が来るが、それは必ず終焉を迎える、とダニエルに告げ知らせます。ガブリエルはまたマリアのところに来る6カ月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。
ガブリエルがマリアに告げたことは、彼女がまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊すなわち聖霊の働きで神の力が及んで男の子を産むということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続くということも告げました。その子につける名前として「イエス」が言われます。「イエス」と言うのは、ルカ福音書が書かれているギリシャ語ではイェースースΙησουςと言います。ところでマリアがガブリエルと会話した言葉は恐らくアラム語というヘブライ語に似た言語です。その言葉ではィエーシューアישועといいます。それは旧約聖書のヘブライ語ではユホーシェアיהושעといい、これはモーセの後を継いでイスラエルの民をカナンの地に導いた指導者の名前です。日本語ではヨシュアと言います。それは文字通り「主が救って下さる」という意味です。つまり、旧約聖書の「ヨシュア記」のユホーシェアがアラム語でィエーシューアになって、その後でルカが福音書をギリシャ語に書いた時にイェースースになって、それが日本語ではイエス、英語ではジーザスになったということです。以上、キリスト教雑学辞典でした。
さて、ダビデ家系の王が君臨する王国が永遠に続くということについてですが、世界史の教科書にも出てきますが、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいました。捕囚が終わってユダヤ民族が祖国に帰還した後はもうダビデ家系の王国は実現しませんでした。しかし、旧約聖書の中にダビデの王国は永遠に続くという神の約束があるため(サムエル下7章16節、詩篇45章7節、イザヤ9章6節、ダニエル7章14節)、ユダヤ民族の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつもありました。
しかしながら、神がダビデの家系に属する者に与えると約束した永遠の王国とは実は、地上に建設される国家ではなく、天の御国のことだったのです。ヘブライ12章や黙示録21章で言われているように、今のこの世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、唯一揺るがないものとして立ち現われる神の国がその永遠の王国だったのです。私たちが「主の祈り」を祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことだったのです。そこで王として君臨するのは、まさしく死から復活した後に天に上げられて今のところは父なるみ神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主イエス・キリストなのです。
イエス様は、人間として見た場合どこの家系に属するかと言えば、ダビデの子孫のヨセフが育ての父親だったので、ダビデの家系に属することになります。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物である人間ではありませんでした。イエス様はマリアから誕生する以前から既に父なるみ神のもとに神のひとり子として存在していました。そのことはヨハネ福音書1章に述べられています。「イエス」という名前はマリアのお腹を通って人間の体を持って付けられた名前です。父なるみ神のもとにいた時には人間的な名前は何もありません。それでヨハネはそのひとり子をギリシャ語でロゴスと呼んだのです。ロゴスは「言葉」を意味します。つまり、神のひとり子は神の言葉としての役割を果たすというのです。天地創造の時、神は「光よ、あれ」と言葉を発していって全てのものを創造しました。それで神の言葉の役割を果たすひとり子は天地創造の時に既に存在していて父と共に創造の業を行っていたのです。そのことがヨハネ1章で語られています。その神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってマリアのお腹から生まれてきたというのがクリスマスです。マリアが処女のままイエス様を産むことになったのは、神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってこの世に登場できるようにするためだったのです。
3.それではなぜ天の御国におられる方がわざわざ人間の体を持ってこの地上に来なければならなかったのでしょうか?それはひと言で言えば、人間の救いのためでした。「救い」というからには、何からの救いなのかをはっきりさせなければなりません。聖書によれば、人間と創造主の神との結びつきが失われてしまったので、それを取り戻すことが救いです。それではなぜ失われてしまったかと言うと、創世記3章にあるように最初の人間が造り主である神の意思に反して罪を持つようになってしまったからでした。その結果、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べる通り(ローマ6章23節)、人間は罪がもたらす死に服従する存在になってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金を積んでも死から自分を買い戻すことはできません。そこで創造主の神は人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにと計画を立ててそれを実行しました。これが神による人間の救いです。
それがどのような計画でどのように実行されたかと言うと、神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪から来る神罰を全て受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの丘での十字架の死でした。父なるみ神はイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。この、神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が私たちを罪と死のもとから神のもとに買い戻す代価となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペトロ1章18~19節)。さらに神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る扉を人間のために開かれました。それで今度は人間の方がイエス様こそ救い主であると信じて洗礼を受けると、この神のひとり子が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになって、神からは罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたので、もう神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。神との結びつきを持ってこの世を生きるというのは、永遠の命が待つ神の御国に至る道に置かれてその道を歩むことです。順境の時にも逆境の時にもいつも変わらぬ神との結びつきを持って歩みます。この世を去った後も、新しい天地創造の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を付与されて神の御国に迎え入れられることになります。
人間が罪の償いと赦しを得られて神との結びつきを持てるようなることが神の救いの計画だとわかったとしても、そのためになぜ神のひとり子が人間として生まれてこなければならなかったのでしょうか?それは、償いが果たされるために誰かが犠牲にならなければならなかったからです。その償いは人間には不可能です。人間が神罰を受けてしまったらもうそれでお終いです。他人の罪を償ってあげるどころか自分の罪さえも償って生き続けることは出来ません。それで神は人間の罪の償いを人間にさせるのではなく、自分のひとり子を神聖な生贄として捧げることにしたのです。
ひとり子が犠牲を引き受けるとき、天の御国にいたままでは行えません。人間の罪の神罰を全て受けるという以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法が効力を有しているところにいる存在にならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は当然、律法の上に立つ方です。上に立ったままでは罰を罰として受けられません。罰を受けられなければ罪の償いもありません。罰を罰として受けられるためには、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。それで神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。まさに使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったということが起こったのです(ガラテア3章13節)。フィリピ2章6~8節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子を惜しまなかった父なるみ神と、その救いの実現のために御自身を捧げられた御子イエス様、そして私たちが神との結びつきを持って生きられるように日々、支えて下さる聖霊はとこしえにほめたたえられますように。
4.天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初それを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)です。ギリシャ語原文をもう少し直訳すると、「神が言われることは(ρημα)神の方から全て不可能ではなくなる」です。どうしてそんなに自信満々でいられるかというと、神の力というものは34節で言われるように「いと高き方の力」だからです。これももう少し直訳すると「最も高いところの方の力」です。最も高いところの方ですので、他のものは全てこの方より低いものとなります。そうなると、あらゆるものの力はこの方の力に及びません。そのような私たちの想像をはるかに超える力を「最も高いところの方の力」と呼ぶのです。そのような力がマリアを「包んだので」(ギリシャ語では「覆った」)、神の言葉の役割を果たす方が人間として生み出されることが出来たのです。
この「最も高いところの方」の力はイエス様の死からの復活の時にも働きました。そのことがエフェソ1章19~21節で言われています。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」ました。ここで「力」という言葉が2回出てきますが、ギリシャ語原文では4回出てきます。そのうち3つは力を意味する3つの別々の言葉です。ドュナミス、クラトス、イスキュスです(もう一つは関係代名詞)。それらの力が働いてイエス様を死から復活させたという言い方です。日本語に訳すのは大変です。「神が力の力の作用をもって、私たち信仰者に向けられる力の強大さがどれだけ桁外れのものであるかを悟らせて下さるように。その力の力の作用をもって、神はキリストを死者の中から復活させたのです」。
いずれにしても、マリアの処女受胎もイエス様の死からの復活も、何か、ちちんぷいぷいのおまじないで起きたというようないい加減な話ではないのです。当時の人たちは、本当に想像を絶する力が働いて起きたということがよくわかっていたのです。それが記述の仕方に出ているのです。そして、私たちにとって重大なことは、エフェソ書の中で言われているように、この想像を絶する力が神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者に向けられているということです。
そう言うと、神の想像を絶する力が自分に向けられているのなら、どうして自分や自分の周囲にそんな力が働いていると感じさせないことばかりなのか?そういう疑問が出てくると思います。神の力など本当は何も働いていないのではないかと疑う人も出てきます。この問題は、マリアに何が起こったかを見ていくと神の力に包まれる(覆われる)というのはどういうことか分かってくると思います。
マリアはガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と答え、神の意思に従うと言います。この従いは、天地創造の神のひとり子の母親になれるという意味では大変名誉なことではありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものでもありました。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは婚約破棄を考えたのでした(マタイ1章19節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を伝えられて、神の計画の実現のために言われた通りにすることに決めました。
神の人間救済計画の実現のために特別な役割を与えられるというのは最高の名誉である反面、人間の目からすれば、最悪の恥になることもあるという一例になったのです。さらにイエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で三人はナザレに戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に「この子は神の子です、天使がそう告げたんです!」と弁明したところで人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも黙って言われるままにした方が賢明ということになったかもしれません。
いずれにしても、マリアとヨセフは社会的に辛い立場に置かれたのです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から目を注がれて一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも人間的にはおめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神の意思に従っていれば、神は共におられのです。神の意思に従う時、人間的には辛い状況になっても、実はその状況そのものが、神が共におられ神の力に包まれている(覆われている)ことの証しなのです。マリアは順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいるという生き方に入っていったのです。「神様が一緒にいてくれても逆境になるんだったらイヤ!」とか、「神様が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい」という生き方は選びませんでした。たとえ逆境を伴うことになっても神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって学ぶべきことがあります。
キリスト信仰者といえども、この世にいる限り、神の力に包まれている(覆われている)とは感じられないことばかりです。しかし、神の意思に従う限りは、そう感じられない状態にあるということが逆に神の力に包まれている(覆われている)ことの証しになっている、このことがマリアの生き方から明らかになります。この逆説的な状況は、復活の日にきれいに解消されます。というのは、神の想像を絶せする力に包まれて(覆われて)生きた者は、その日その力によって復活させられるからです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
主日礼拝説教 2020年12月13日(待降節第三主日)
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本日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネに焦点が当てられています。ヨハネは来るべきメシア救世主を人々が迎え入れるように導いた人です。少し歴史的なことを述べておくと、彼はエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章によればイエス様より半年位早くこの世に誕生しました。神の霊によって強められて成長し、ある時からユダヤの荒れ野に身を移して神が定めた日までそこにとどまっていました。らくだの毛の衣を着て腰には皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の定めた日がきて神の言葉がヨハネに降り、荒れ野からヨルダン川沿いの地方に出て行って「悔い改めよ、神の国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の群衆がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネに罪を告白し洗礼を受けました。ルカ3章によれば、それはローマ帝国皇帝ティベリウスの治世15年、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。皇帝ティベリウスはイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の人で西暦14年の9月に即位しました。治世15年というのは即位年を含めて数えるのかどうか不明なので、洗礼者ヨハネの活動開始は西暦28年か29年ということになります。
ヨハネは活動開始してからまもなく、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの不倫問題を諫めたことが原因で投獄され、無残な殺され方をします。
ヨハネのもとに大勢の群衆が集まって罪を告白して洗礼を受けました。先週も申し上げましたが、当時の人々は旧約聖書に預言されている「主の日」と呼ばれる日がついに到来したと考えたのでした。「主の日」とは旧約聖書の預言書によく出てくるテーマで、神がこの世に対して怒りを示す日、想像を絶する災いや天変地異が起こって神の意思に反する者たちが滅ぼされる日です。しかし、その後に全てが一新されて天と地も新しく創造されるので、「主の日」は今の世が新しい世に変わる過渡期とも言えます。洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人々はいよいよその日が来たと思い、神の怒りや天変地異から助かろうと、罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのでした。
当時の人たちがそういう終末論的な恐れを抱いていたことは、本日の福音書の個所の中でも窺えます。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちがヨハネに、あなたは預言者エリアかと尋ねます。これは、旧約聖書のマラキ書3章の預言に関係します。エリアはイエス様の時代からさらに800年位前に活動した預言者で、列王記下2章に記されているように、生きたまま天に上げられました。マラキ書の預言のためにユダヤ教社会では神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送られると信じていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではない、ましてはメシア救世主でもない、自分はイザヤ書40章に預言されている、「主の道を整えよ」と叫ぶ荒れ野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日やこの世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、メシア救世主が来なければならない。自分はその方のために道を整えるために来た。そうヨハネは自分の役割について証しました。
先週の説教でもお教えしたように、ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けました。それは清めのジェスチャーのようなもので、罪の赦しそのものが起こる洗礼ではありませんでした。先週の日課のマルコ1章の中でヨハネも認めたように、それが起こるためには聖霊が伴わなければならなかったのです。聖霊を伴う洗礼を授けられるのは自分の後に来られるメシア救い主しかいないのだ、と。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシアの罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものであったと言えます。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は罪を洗い清める洗礼ではなく、人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。それで、ヨハネは人間に主の道を整えさせる働きをしたのでした。それで、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救世主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。
洗礼者ヨハネの活動は普通は、イザヤ書40章3節の預言が実現したものと見なされます。それは、「荒れ野で叫ぶ声がする」と書いてあるので、ヨハネがユダヤの荒れ野で叫ぶように宣べ伝えたことと重なるからです。ところが、先週の説教でも見ましたように、そのように書いてあるのは旧約聖書のギリシャ語版で、ヘブライ語版はそう書いてありません。叫ぶ声はただの叫ぶ声で、荒れ野で叫ぶとは言っていません。「荒れ野」は、主の道を整える場所になっています。ギリシャ語版では、荒れ野で叫ぶ声がして、その声が「主の道を整えよ」と叫んでいる。ヘブライ語版では、叫ぶ声が「荒れ野で主の道を整えよ」と叫んでいる。どうしてそんな違いがあるのかということについて、先週も少し申しましたが、旧約聖書がどのようにして出来たかという大問題にかかわるので時間の限られた説教では割愛します。大事なことは、大元にあるヘブライ語の旧約聖書はどちらにでも取られる書き方をしていたということです。
ギリシャ語版に基づいて見ていくと、洗礼者ヨハネは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫んで、人々に罪の自覚を呼び覚ましました。そして、来るべきメシア救世主から聖霊を伴った洗礼を受けられるように導きました。罪の自覚とメシアの洗礼の待機の印としてヨハネの洗礼がありました。このようにしてイザヤ書40章3節の預言は実現しました。
それでは、人々はどのようにして聖霊を伴うメシアの洗礼を受けるようになったのでしょうか?イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれ、その3日後に神の想像を絶する力で復活させられるという出来事が起きました。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、これで彼の十字架の死がなぜ起こったかがわかりました。それは、神のひとり子が人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったということでした。そのことは実は旧約聖書に既に預言されていて、それらの預言が何を意味するのかがイエス様の十字架と復活の出来事で明らかになったのでした。
神がひとり子を用いて十字架の死と死からの復活の出来事を起こしたのは、人間が堕罪の時以来失ってしまっていた神との結びつきを取り戻せるようにするためでした。人間が、これらの出来事は自分のために神がなさせたものだったのだとわかって、それでイエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。これがメシア救い主イエス様の洗礼です。それを受けた人は罪を償われたので、神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきを持って世を生きていくことになります。目指すところはただ一つ、永遠の命と復活の体が待っている天の御国です。イエス様の死からの復活が起きたことで、そこに至る扉が開かれて、キリスト信仰者はそこに至る道に置かれてそこに向かって歩み出します。順境の時にも逆境の時にも変わらずにある神との結びつきを持ってただひたすら進んでいきます。
ところが、罪を赦された者と見なしてもらえるとは言っても、信仰者から罪の自覚がなくなったわけではありません。神がそれだけ身近な存在になれば、神の意思もそれだけ身近になって自分には神の意思の沿わないことが沢山ある、罪があるということに一層気づかされるようになります。行為では盗みも殺人も不倫も偽証や改ざんなどしていなくても、心の中でそのようなことを思い描いたりします。その時、神はがっかりして愛想を尽かして見捨てるかと言うと、そうはならないのです。どうしてかと言うと、洗礼の時に注がれた聖霊が信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、罪の赦しが微動だにせずあることを示してくれるからです。神のひとり子のとても重い犠牲の上に今の自分があるとわかると、もう軽々しいことはできないという気持ちになります。また今自分が生きている新しい命は微動だにしない十字架を基にしているので、自分の過去の嫌なことが来て台無しにしようとしても傷一つつけられません。傷は全部イエス様が代わりに負って下さったのです。それがわかると心は安心し平安が得られます。
罪の自覚の呼び覚ましとその後に続く罪の赦しが一つになっているというのは聖霊の働きです。聖霊が働かなければ罪の自覚は生まれません。自覚が生まれないと罪の赦しもありません。また罪の自覚が生まれても、赦しがなかったらそれは絶望にしかなりません。それは聖霊の働きではありません。罪の自覚と赦しが一つになっているのが聖霊の働きだからです。なぜ聖霊はそのような働きをするのかというと、これを繰り返すことによって信仰者と神の結びつきが一層強まっていくからです。人間が神と結びつきを持てて、それを強めるようにすることが聖霊の目的だからです。そのような聖霊は、まさにイエス様が贈られた洗礼を通して与えられるのです。
聖霊が働くままにさせて神との結びつきが強まっていけば、内に宿る罪は行き場を失い圧し潰されていきます。罪の本質は、人間と神の間の結びつきを失わせて、人間を永遠の滅びに陥れることにあります。そのような罪を悪魔は用います。それは、悪魔の目的が、人間と神の間の結びつきをなくして人間を永遠の滅びに陥れることにあるからです。しかし、キリスト信仰者は、罪には結びつきを失わせる力がなくなっているとわかっています。なぜなら神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を十字架で受けたのですから。十分過ぎるほどの償いはなされたのです。しかも、イエス様は死から復活させられたので、彼に罪を償ってもらった者には罪は本当は力を及ぼせないのです。それがわかったキリスト信仰者は罪に対して、こう言ってやればいいのです。「罪よ、お前は本当は死んでいるのだ。」
人間と神との結びつきを弱めるものとして、罪の他に私たちが遭遇する苦難や困難もあります。そのような時、人は、神に見捨すてられた、とか、神は怒っている、などと思いがちです。イエス様の犠牲を脇に置いて自分が何かをして神を宥めねばと何かをやってしまったり、または、見捨てられたからもう神と関りは持たないという考えになりします。しかし、神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を受けたという、それくらい神が私たちのことを思って下さったのなら、見捨てたとか怒っていると考えるのは間違いです。それならば、なぜ苦難や困難があるのか?どうして神は苦難や困難が起きないようにして下さらなかったのか?難しい問いです。しかし、苦難や困難がもとで私たちが神から離れてしまったら、それは悪魔や罪が手を叩いて喜びます。それなので、今こそ苦難や困難を、神との結びつきを失わせるものから、結びつきを強めるものに変えないといけません。でも、どうやって苦難や困難を神との結びつきを強めるものに変えることができるでしょうか?とても難しい問題です。一つはっきりしていることがあります。それは、神との結びつきがあれば人生は順風満帆になるという考えは捨てることです。そのかわりに、神との結びつきは順境の時も逆境の時も同じくらいにある、外的な状況や状態に全然左右されないである、ということはうよく言い聞かせることです。ゴルゴタの十字架と空っぽの墓に心の目を向けながら、言い聞かせをすることです。
キリスト信仰者の生き方は罪の自覚と赦しの繰り返しをして神との結びつきを強めていくことであると申し上げてきました。しかしながら、そう言うと今度は、この世にはいかに神との結びつきを弱めたり失わせることが沢山あることに気づかされます。それなので、神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世は闇と言うのは間違いではありません。そうすると、神との結びつきを持たせよう強めようとする力は光となります。この闇と光についてヨハネ福音書の本日の日課のひとつ前の個所で述べられています。
それは1節から8節までの個所です。そこではイエス様が乙女マリアから生まれて人間の体を持って誕生する前のことが述べられています。この世に誕生する前の神のひとり子には人間の名前はありません。「イエス」という名は誕生した後でつけられた名前です。この世に誕生する前の神のひとり子のことを福音書の記者のヨハネはギリシャ語で「言葉」を意味するロゴスと呼びました。神のひとり子が神の言葉として天地創造の場に居合わせて創造の働きを担ったことが述べられます(2~3節)。その後で、この神の言葉なる者には命があると言います(4節)。ヨハネ福音書で「命」と言ったら、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神の言葉なる者には永遠の命が宿っているということです。そして、永遠の命は「人間の光」であると言います(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文を直訳すると「人間の光」です。その「人間の光」が闇の中で輝いていると言います(5節)。闇とは先ほども申しましたように、神と人間の結びつきを失わせようとする力が働くこの世です。その中で輝く光とは、その結びつきを人間に持たせて強めようとする力のことです。まさにイエス様のことです。それで「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」でイエス様そのものです。
5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。実はこれは解釈が分かれるところです。というのは、原文のギリシャ語の動詞カタランバノーがいろんな意味を持つからです。日本語(新共同訳)と英語(NIV)の訳は「暗闇は光を理解しなかった」ですが、フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語の訳では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持っているか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解して、日本語や英語のように訳してもいいかもしれません。しかし、悪魔は罪を最大限活用して人間から神との結びつきを失わせようとしても、それはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。
さて、福音書の記者は洗礼者ヨハネのことを、この光を証しするために遣わされたと言います(6~8節)。人々はヨハネ自身がその光ではないかと思ったが、そうではなくヨハネは人々の前で、もうすぐその光が現れると表明したのでした。
この光がどれだけ素晴らしいものか、今まで申し上げたことではまだ抽象的すぎて遠い感じがすると言う人もいらっしゃるかもしれません。それならば、もう少し具体的に身近に感じられるようにお話ししてみましょう。
今はクリスマスシーズンということで、あちこちにイルミネーションが見られます。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。ネットを見ると、どこのイルミネーションがきれいかランキングなんかもあります。私たちの家族もそれを見て今年はどこのを見に行こうかなどと話し合って出かけます。今年は人が多いところは行けませんが。とにかくイルミネーションは闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。
闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間がライトを持たずに歩いたという不用意によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じで、それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。
ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っているのです。闇の目的は、人間から神との結びつきを失わせようとすることです。そして、その闇が支配下に置けなかった力強い光は、まさに人間から失われていた神との結びつきを取り戻してあげることを目的としています。取り戻したらそれが失われないようにし一層強められるようにする目的を持っています。
その光は、イエス様の十字架と復活によって現れました。それは闇が支配下に置けない位、力強い光です。
なぜなら、闇が死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。
それなので、キリスト信仰者は、冬の闇夜を照らすイルミネーションを見た時、目的を持たない光がこれだけ素晴らしいのならば、私たちのために目的を持つ光の素晴らしさはいかほどのものだろうと予感し期待に胸を膨らませることができるのです!
主日礼拝説教2020年11月29日 待降節第一主日
今日は待降節第一主日です。教会のカレンダーではこの日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を見守り、皆様自身も神の愛と恵みの中にしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みとご健康を神が豊かに祝福して下さるように。
スオミ教会では待降節第一主日に讃美歌307番の「ダビデの子、ホサナ」を歌っています。これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の教会讃美歌の一番目にある歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統がありまして、今もほとんどの教会でそうしていると思いますが、まず、朗読される福音書の日課が決まっています。イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉です。ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ている言葉で、もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。
その福音書の個所が朗読される時、歓呼の直前で朗読は一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり始めます。そこで教会の会衆が一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、当時の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うということです。北欧諸国も近年は教会離れが進み普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。画面は何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。
しかしながら、今年は残念なことにコロナの第三波のためにフィンランドも今20人以上の集会が禁止されてしまったので、教会に行けない人たちは自宅でテレビの中継かインターネットのライブを見ながら歌うしかないでしょう。スオミ教会もそうなのですが、しかし、来年こそはまた大勢で集まって一緒に歌うことが出来るように父なるみ神にお願いしましょう。(そこでお知らせですが、待降節第一主日の礼拝の後、スオミ教会のホームページにフィンランドのどこかの教会の「ダビデの子、ホサナ」の斉唱の場面を載せています。今年は過去の録画をお見せすることになりますが、いつもこんな雰囲気なんだなと味わっていただけたらと思います。)
前置きが長くなってしまいました。本題に入ろうと思いますが、実は本日の福音書の日課で困ったことが起きてしまいました。それは、例年ですと福音書の日課は先ほど申しましたように、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。マルコ11章、マタイ21章、ルカ19章の個所が毎年交替で待降節第一主日の日課になっていました。それで「ダビデの子、ホサナ」を歌ってきました。
ところが、今年の日本のルター派教会に定められた待降節第一主日の日課は先ほど朗読しましたように全然違う個所です。マルコ13章のイエス様の預言のところからです。イエス様の預言は今のこの世が終わる時に彼が再臨するという、いわゆる終末についてです。それでマルコ13章は「キリストの黙示録」とも呼ばれます。先週は聖霊降臨後最終主日で福音書の日課も定番の、マタイ25章の最後の審判についてでした。このように教会のカレンダーの最後の主日は最後の審判をテーマにして自分たちの信仰を自省して、新年の今日は景気よく「ダビデの子、ホサナ」を歌って明るく始めよう、そう期待していたのに、さすがに私も、なんだこれは、話が違うじゃないか!と思わず唸ってしまいました。誰が何の基準で決めたのか追求したい気持ちでしたが、そんな時間もなく、不本意ですがこの決められた日課に従って今日の御言葉の解き明かしをしてまいります。これはきっと、自分の思いや期待を引き下げて父なるみ神の思いに服させるための訓練なのでしょう。
ただ、よく考えて見ると、待降節に主の再臨やこの世の終わりについて心を向けるのは、あながち場違いなことではありません。待降節というのは神のひとり子が人として天の父なるみ神のもとからこの世に贈られてきた日、クリスマスのお祝いを準備する期間です。クリスマスのお祝いの準備というと、フィンランド人ならすぐ、大掃除と飾りつけ、クリスマス料理や菓子、プレゼント、カード、家族の集まりということが人々の頭を支配します。しかし、本当の意味でのクリスマスのお祝いの準備は、今から2000年以上も昔ベツレヘムの馬小屋でおとめから生まれるという形を取った救世主メシアの到来、これを待ち望むということです。
既に過去に起こったことなのに、今それを待ち望むというのはどういうことか?それは、2000年以上前にメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いとすることです。マリアに抱かれた赤子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされたシメオンやハンナと同じように待ち望むことです。大掃除や料理等は「待ち望む」ことに色を添える付属品のようなものです。もちろん、なかったら寂しい感じですが、しかし仮になくても「待ち望む」ことをしてクリスマスの礼拝を感謝と喜びを持って行えればそれで待降節の目的は達せられたというものです。そこで、同じように「待ち望む」人たちと一緒に礼拝をしたりお祝いをしたら、喜びと感謝はもっと大きくなるでしょう。
しかしながら、クリスマスが終わったらどうなるでしょうか?もう、「待ち望む」季節は終わった、また来年、ということでしょうか?実はそうではないのです。イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられました。彼は再び降臨すると約束されました。最初の降臨は馬小屋で起こり、みすぼらしくほとんど誰にも知られないものでした。次の降臨すなわち再臨は、本日の福音書の個所でイエス様自身が言われるように、誰も目も開けられないような神の栄光の輝きを放ち天使の軍勢を従えて全世界が目撃するものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地を創造し、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられるか入れられないかの最後の審判が下されるという想像を絶することが起きます。
それなので私たちが今生きている時代というのは、実はイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間なのです。再臨の日がいつなのかはイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外には誰にもわかりません。だからその日がいつ来ても大丈夫なように目を覚ましていなければならないとイエス様は言われます。その日がいつ来ても大丈夫なように目を覚ますとはどういうことでしょうか?目を覚ましていれば、そのよう想像を絶する天地の大変動が起こっても大丈夫でいられる、そんな目の覚まし方があると言われるのです。
しかし、そうは言っても、誰もそんな日を待ち遠しいなどとは思わないでしょう。イエス様が再び来てくれるのはありがたいが、今ある天と地が崩れ去るとか、最後の審判とかがあるんだったら来ない方がいい、というのが人情でしょう。しかし、聖書の観点は、今ある天地は初めがあったように終わりもある、そして終わりがあっても神は創造主なので前と同じように新しく造られるという終末論と新創造論が合わさったものです。そういう聖書の立場に立ったら、この世の将来はそうなると観念するしかありません。しかも、新しく造られた天と地に誰が入れるか入れないかという問題について、神は神聖で義なる方なので人間がこの世でどんな生き方をしたかを問うてくる。そこで、自分はそんな遠い未来の前にこの世から去るから関係ないと言っても、まさにその遠い未来に死者の復活が起こり、再臨の主はその時点で生きている人と死んだ人を裁かれます。まさに、伝統的なキリスト教会の信条集の中で唱えられている通りです。
さあ、大変なことになりました。今の時代はイエス様の再臨を待つ時代だという。しかし、それは最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の馬小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話と全然違います。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、いくら避けられないものはいえ、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の正直な気持ちではないでしょうか?出来れば自分の生きている時代には起きないでほしいというのが。しかし、本日の使徒書の日課第一コリント1章7節で言われるように、キリスト信仰者とは主の再臨を待ち望む者なのです。どうしてそんな日を待ち望むことができるのでしょうか?
そこでルターが主の再臨の日を迎える心構えについて教えているので、まずそれを見てみましょう。この教えは、ルカ福音書21章にあるイエス様の言葉の解き明しです。まずイエス様の言葉は次のものです。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21章34ー36節)
これについてのルターの教えは以下の通りです。
「これは、全くもって我々が常に心に留めなければならない警告である。我々はこれを忘れることがあってはならない。もちろん主は、我々が食べたり飲んだりすることを禁じてはいない。主はこう言われるであろう。『食べるがよい。飲むがよい。神はきっとあなたたちがそうすることをお認めになるであろう。生活に必要な収入を得ることにも努めなさい。ただし、これらのことがあなた方の心を支配して、私が再び来ることを忘れてしまうことがあってはならない。』
我々キリスト信仰者にとって、人生の目的をこの世的なものだけに結びつけてしまうのは相応しくない。人生に二つの手があると考えてみよう。左手ではこの世の人生を生きるべきである。右手では全身全霊で主の再臨の日を待つべきである。その日主は、あまりにも素晴らしくて言葉に表現できないくらいの栄光と荘厳さをもってやって来る。人間は、この世の最後の日が来るまでは家を建てたり結婚式を挙げたり、屈託なく日々を過ごすであろう。この世的なことだけに心を砕いて、他には何もすべきことがないかのように振る舞っているだろう。しかし、キリスト信仰者たちよ、あなたたちがキリスト信仰者たろうとするならば、こうしたこの世だけの生き方はせず、この世の最後の日のことに心を向けよ。その日がいつかは必ず来ると絶えず心に留めて、神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保っていなさい。そうすれば、何も慌てる必要はない。その日がいつどこで我々の目の前に現れようとも、それは我々にしてみれば永遠の幸いを得る瞬間である。なぜなら、その日全ての人間の本当の姿が照らし出され、あなたたちが神を畏れ、神の守りの中にしっかり留まる者であることが真実として明るみに出されるからだ。
以上、「神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保って」いれば、イエス様の再臨の日はなにも怖いことはなく、慌てふためく必要もない、というルターの教えでした。ここで皆さんにお尋ねします。神を畏れる心は持てるにしても、「潔白な良心を保つ」ことは果たして可能でしょうか?最後の審判の日、裁きの主は、一人一人が十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうかを見られます。もし殺人や姦淫を犯していたら、ちゃんと神の前で赦しを祈り求めイエス・キリストの御名によって赦しを与えられた者として相応しく生きたかどうかが問われます。イエス様はまた、行為で行わなくても心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけで神の目に適う者になれないと教えられました。そういうふうに行為だけでなく心の中までも問われたら、誰も神の前で自分は潔白です、やましいところはありません、などと言えません。
神は人間が神の目に適う者にはなれないことを知っていました。堕罪の時から全ての人間は内に神の意思に反するもの、すなわち罪をもつようになってしまったので、そうなれないのです。そこで神は人間を神の目に適う者にしてあげよう、そうすることで人間が神との結びつきを回復できてこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った時には復活の日に眠りから目覚めさせて復活の体を与えて永遠に神の国に迎え入れてあげよう、そう決めてひとり子のイエス様をこの世に贈られました。そして、そのイエス様が十字架にかけられて本当は人間が受けるべき神罰を受けて死なれ、私たち人間の罪の償いを神に対して下さいました。罪を償われた人間は罪と罪がもたらす永遠の死から贖い出されます。「贖う」というのは、イエス様の流した血を代価にして人間を罪と死の奴隷状態から買い戻したということです。神はそれくらいのことをしてもいいと思う位に私たちのことを価値あるものと見なして下さったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、死を超えた復活の体と永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間のために開かれました。
このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償い私を罪の支配から贖うためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の償いはその人のものになっています。罪が償われたから、神からは罪を赦された者としてみなされるようになります。神から罪を赦されたというのは、神はもうあなたの過去の罪を問わない、だからあなたはイエス・キリストの義を衣にしてそれを纏って生きていきなさい、ということです。神は私たちキリスト信仰者をその衣を纏う者として見て下さいます。これで最後の審判は大丈夫です!自分にどんなにいまわしい罪の過去があったとしても、その罪のゆえに私たちが地獄に落ちないようにと、それでイエス様は自らの命を投げ捨ててまで神罰を受けられたのです。私たちとしては神の目に適う者になれるために自分では何もしていないのに、神の方で全部してくれて、私たちはそれをただ受け取るだけで神の目に適う者にされたのです!それで神の前に立つ時、「イエス様が私に代わって全部罪を償って下さいました。イエス様以外に私には主はいません」と弁明することができます。
実に私たちがイエス様を救い主であるとしている限り、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられます。神の前で何も恐れる必要はないのです。「イエス様が代わりに全部償ってくれたので彼は私の救い主です。それでこの神の恵みに相応しい生き方をしなければと思って生きてきました。」
このように言っても、これは誰も否定できない真実です。やましいところは何もありません。まさに潔白な良心です。
そこで問題になるのは、神によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても出てきてしまうことです。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さなくても心の中に現れてくることです。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。そのような時はどうしたらよいのでしょうか?
その時は、すぐそれを神に素直に認めて赦しを祈り願います。神への立ち返りをするのです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている、十字架のイエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待つ神の国に至る道を進んでいきます。
このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指しているのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは一層強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。これが目を覚まして生きることです。霊的な目の覚ましです。このように霊的に目を覚まして生きていれば、最後の審判の時に主は信仰者が罪を破綻させる側についていたことを認めて下さいます。その時、本日の使徒書の日課第一コリント1章8節の御言葉「主は最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます」が本当にその通りになります。「非の打ちどころのない者」とは原文のギリシャ語(ανεγκλητους)では「罪に定められない者」、「罰を受けない者」という意味です。この世の人生の歩みにおいて罪の自覚に苛まれ続けたキリスト信仰者は、ここでもうその自覚を持つ必要がなくなります。なんという至福でしょうか?それが起きる主の再臨の日はやはり来てほしい日ではないでしょうか?
それから、罪を圧し潰す生き方をすると、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てきます。というのは、そのような生き方をするとパウロがローマ12章で命じることが当然のことになってくるからです。悪を嫌悪せよ、善にしっかり留まれ、お互いに対して兄弟愛を心から示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たち者たちと共にいることに熱心になれ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和に暮らすことがキリスト信仰者にかかっているという時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が破られた状況を神の怒りに委ねよ、復讐は神のすること神が報復するからだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、それをすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝ってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。
このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しを繰り返せばこんなふうになっていくとわかってはいても、時としてなんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになることもあります。しかし、主の再臨の日、信仰者は、あの時はいろいろ迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて本当に良かった、と本当にわかってうれし泣きしてしまうかもしれません。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり「待ち望む」日なのです。先ほど見たように、ルターは再臨の日のことを「永遠の幸いを得る瞬間」と言っていました。真にその通りです。
吉村宣教師が説教で紹介していた、フィンランドの教会の待降節第1主日の礼拝で「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)。是非、雰囲気を味わって下さい! 来年の待降節では是非スオミ教会で歌いましょう!
主日礼拝説教 2020年11月22日 聖霊降臨後最終主日
今日は聖霊降臨後最終主日ですので教会の一年は今週で終わり、新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それはまた最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。とは言っても、今のフィンランドでそうした自省をする人はどれくらいいるでしょうか?「裁きの主日」の礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くと、町々は、待ってましたとばかりにクリスマスのイルミネーションが点灯され始めます。私などいつも、待降節までまだ1週間あるのにと思ったものです。しかも近年では「裁きの主日」の前に点灯してしまうそうです。
誰も、最後の審判の時に自分が神からどんな判決を下されるか、そんなことは考えたくないでしょう。本日の福音書の個所はまさに最後の審判のことが言われています。説教者にとって頭の重いテーマではないかと思います。あまり正面切って話すと信徒は嫌になって教会に来なくなってしまうのではないかと心配する人もいるかもしれません。しかし、聖書にある以上は取り上げないわけにはいきません。そういうわけで今日はこの礼拝を通して皆さんと一緒に自分たちの信仰を自省することができればと思います。
本日の福音書の箇所ですが、最後の審判について言われていますが、これはまたキリスト信仰者が社会的弱者やその他の困難にある人たちを助けるように駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終末の時に再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮者、特に子供たちに主の面影を見て支援に乗り出して行きます。
しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かになってしまう、つまり、人間の救いは善い業をしたかどうかに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の立場と相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本には、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場があります。私がフィンランドに住んでいた時、地域の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの主日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者のインタビュー記事があり、マタイ25章の本日の箇所と信仰義認の関係をどう考えるかという質問がされました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でいたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。
問題は、ルター派を越えてキリスト教のあり方そのものに関わります。善い業を行えば救われると言ったら、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。仏教徒だってイスラム教徒だって果てはヒューマニズム・人間中心主義を標榜する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っています。それを実践すればみんなこぞって神の国に入れると言ってしまったら、ヨハネ14章6節のイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?
この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言えば、本日の箇所は善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も信仰による救いを教えていることがわかります。これからそのことをみてまいりましょう。
最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、諸国民全てを御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、この審判の場では人々のグループは二つではなく、実は三つあります。何のグループか?40節をみると、再臨の主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言っています。日本語で「この最も小さい者」、「この」と単数形で訳されていますが、ギリシャ語原文では複数形(τουτων)なので「これらの」が正解です。一人ではありません。原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは」となります。つまり、第三のグループとしてイエス・キリストの兄弟グループもそこにいるのです。主は兄弟グループを指し示しながら、羊と山羊の二グループに対して「ほら、彼らを見なさい」と言っているのです。
それでは、このイエス・キリストの兄弟グループとは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような程度の低さも意味します。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような者たちです。社会の基準からみて価値なしとみなされる者たちです。従って、主の兄弟たちは子供に限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいでしょう。
それでは、この主の兄弟グループは、もっと具体的に特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えが得られます。そこでイエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、伝道に派遣します。その際、伝道旅行の規則を与えて、迫害に遭っても神は決して見捨てないと励まします。そして、使徒を受け入れる者は使徒を派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41ー42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」(ここではτουτωνをちゃんと複数形で訳しています)、「小さい」ミクロスμικροςという単語は、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが(マタイ18章6節)、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことを言っているので、「小さい者」は子供を指しません。使徒たちです。
使徒とは何者か?それは、イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめよ、自分が行う業をしっかり見届けよ、と自ら選んだ直近の弟子たちです。さらに、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという良い知らせ、つまり福音を命を賭してでも宣べ伝えよ、と選ばれた者たちです。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。イエス様は弟子のことをどうして「小さい」とか「取るに足らない」などと言われるのか、それは、彼が別の所で弟子は先生に勝るものではないと言っているのを思い出せばよいでしょう(マタイ10章24節、ルカ6章40節)。
マタイ10章では、使徒を受け入れて冷たい水一杯を与える者は報いを受けられると言っていますが、本日の箇所も同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をして病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言っているのです。
これで、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを一般的に社会的弱者・困窮者と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは怒ってしまうかもしれません。支援の対象は福音を宣べ伝える使徒だなどとは、なんと視野の狭い解釈だ、と。しかし、これは解釈ではありません。書かれてあることを素直に読んで得られる理解です。そうなると、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう一般の弱者・困窮者の支援は考える必要はないということになるのか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということです。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申しましたように、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは、別にキリスト教徒でなくてもわかり実践できます。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。あとでそのことも明らかにしていきます。
それから、子供を助けるということに関して聖書が果たした重要な役割についてひと言述べておきます。古代のギリシャ・ローマ世界には生まれてくる子供の間引きが当たり前のように行われていました。この慣習に最初に異を唱えたのがユダヤ人でした。なぜなら旧約聖書に基づいて人間は全て創造主の神に造られ、人は母親の胎内の中にいる時から神に知られているという立場に立っていたからでした。続いて旧約聖書を引き継いだキリスト教が地中海世界に広まるにつれて間引きの慣習は廃れていきました。この歴史的過程とそこで影響を与えた聖書の個所やその他のユダヤ教・キリスト教の文書についての研究もあります。代表的なものとしてE.コスケン二エミが2009年に出した研究書があります(”The Exposure of Infants among Jews and Christians in Antiquity”)。私の記憶では、その中で本日の福音書の個所は分析の対象に入っていなかったと思います。
さて、使徒というのは、イエス様の教えをしっかり聞きとめ、彼の業をしっかり見届けた者たちです。さらに彼らは、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を宣べ伝え始めました。福音が宣べ伝えられていくと、今度は人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろ支援してあげる人たちが出てくる。他方で福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出てくる。ここで思い起こさなければならないことは、支援した人たちというのは、支援することで、逆に使徒の仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。そのような例は使徒言行録にも見ることができます(17章のヤソンとその兄弟たち)。
その意味で支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだからという同情心で助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音のゆえに彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのです。つまり、支援した人たちは福音に対して態度を決定して、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った人たちです。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちです。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのです。そういうわけで、本日の箇所は、文字通り信仰義認を教えるもので、善行義認なんかではありません。
これで、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らを支援したのは彼らが携えてきた福音を受け入れたからであることが明らかになりました。実に、神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒を支援するのが当然になるくらい福音を受け入れるか否かということになります。福音を受け入れることがポイントだとすれば、最後の審判の該当者は使徒の時代の人たちに限られません。その後の時代からずっと今の時代の人々みんなが該当者になります。使徒の時代には受け入れて守ってあげるのは、福音を携えてきた使徒たちでした。使徒たちがこの世を去った後は受け入れて守ってあげるのは、使徒たちが携えてきた福音ということになります。もし仮に使徒たちが生きているとしたら、私たちも同じように支援してあげられなければならない、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならない、さもないと神の国に迎え入れられないということです。
ここで使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて復習しておきましょう。福音とは、要約して言えば、人間が堕罪の時に失ってしまっていた神との結びつきを、神の計らいで人間に取り戻してもらったという、素晴らしい知らせです。どのようにして神との結びつきを取り戻してもらったかというと、人間は堕罪の時以来、神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなりました。この世を去った後も自分の造り主である神の御許に永遠に戻れなくなってしまいました。そこで神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部負わせてゴルゴタの十字架の上で彼に神罰を下し、人間の罪を人間に代わって償わせました。あとは人間の方が、これは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だと信じて洗礼を受けると彼が果たした罪の償いが自分のものになります。罪の償いが果たされたのだから、神から罪を赦された者と見なしてもらえます。罪が赦されたのだから神との結びつきが回復して、その結びつきを持ってこの世を生きることになります。この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。以上が使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音でした。
人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかると、もう神に対して背を向ける生き方はやめよう、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。神から受けた恩寵の大きさがわかればわかるほど、自分の利害がちっぽけなこともわかって、自分の持っているものに執着しないで、それを他の人のために役立てようという心になっていきます。真に、キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。
ここで、神の意思に沿うように生きるという時の「神の意思」について述べておきます。神の意思とは、要約すれば、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つです。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。何か願い事があればこの神にのみ打ち明けて祈り、他の何ものにもそうしないこと。感謝することがあれば同じようにこの神にのみ感謝し、他の何ものにもそうしないこと。悲しいこと辛いことがあればこの神にのみ助けを求め、他の何ものにも求めないこと。これが神を全身全霊で愛することです。このような愛は、神から受けている恩寵がわからないと持つことは出来ません。
隣人愛の方は、キリスト信仰では、神への全身全霊の愛を土台にして実践することになります。それなので隣人愛を実践するキリスト信仰者は、神を唯一の神としてしっかり保たれているようにしているかどうかをいつも吟味する必要があります。神としては、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取って将来は神の国に迎え入れられるようになることを望んでいます。キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを忘れてはなりません。
以上、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準として明らかになったのは、使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の恩寵の前では自分の利害などちっぽけなものになって自分の持っているものに執着しなくなってそれを他の人のために役立てようとします。またキリスト信仰者になると神の意思に敏感になるので自分には罪があると自覚するようになり、まさにそのために十字架に立ち返り、罪の赦しの恩寵を自分の内に新たにします。そこでまた自分の利害がちっぽけなものになり、他の人のために役に立とうとします。
ここで次のような疑問が起こります。福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?そもそも聞いていないので態度を決めること自体できなかったのに、お前は福音を受け入れなかった、だから地獄の炎に投げ込まれるのだ、というのはあんまりではないか?
そこで福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、黙示録20章を手掛かりにしてみてみます。そこでは、最後の審判の時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たち、つまり殉教者たちです(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(13ー15節)。「それ以外の者たち」とは殉教者以外の人たちですが、どんな人たちがいるかと言うと、まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守らねばならない極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。それから信仰を持たなかった人たちがいます。信仰を持たなかったというのは、ひとつには洗礼を受けたがそれが何の意味も持たない生き方をした人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全部ひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。
洗礼を受けたがそれが意味を持たない生き方をした人たちについて、次のようなことが考えられます。ひょっとしたらあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。詳細な真実は神の記録に記されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。
次に福音を伝えられたが洗礼を受けなかった人について、次のようなことが考えられます。ひょっとしたらあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に心の中で改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。
最後に福音そのものが伝えられなかった人たちについては次のようなことが考えられます。人間はこの世を去る時、未知の大いなる者に自分の全てを委ねることになると気づきます。それに気づくと、その大いなる者は果たして自分を受けとめてくれるのかどうか心配が起きます。自分には至らないことがいろいろあって、その大いなる者は受け入れてくれないかもしれない、しかし自分の力ではもう治すことが出来ない、誰かに執り成してほしい。そのように一瞬でも思えればイエス様との出会いはすぐ目の前です。
この時イエス様を受け入れる素地が出来たと言えるのですが、さて神はどう思われるか?やはり、イエス様を受け入れること自体がないとダメと言われるのか?素地だけでは不足だと?これらことは私たちにはわからないことなので、その人の処遇はもう神に任せるしかありません。
この世を去る時、未知の大いなる者に自分の全てを委ねる時、その大いなる者は自分を受け入れてくれるかどうかという問題について、実はキリスト信仰者というのは心配する必要がない者たちです。どうしてかと言うと、次のように祈ることが出来るからです。父なるみ神よ、私はイエス様が果たして下さった罪の償いと赦しを衣のように纏って、剝ぎ取られないようにしっかり纏ってきました。その衣の神聖さの重みで私の内に残っている罪を日々圧し潰してきました。神よ、これが私の全てです。今あなたにお委ねします。どうかお受け取り下さい。このようにキリスト信仰者はこの世を去る時に誰に対して何を言うべきかということがはっきりしているのです。
最後に、このイエス様の教えについて一つ忘れてはならない大事なことを述べておきます。それは、先週の3人の家来のたとえと先々週の10人のおとめのたとえが警告の教訓話であると申し上げたことです。同じことが本日の個所にも当てはまります。つまり、山羊のようにならないために今からでも遅くないから心を入れ替えなさい、ということです。そして、イエス様が果たした罪の償いをまだ自分のものにしていない人たちに対しても早くそれを自分のものとして神の国に向かう道を歩み始めなさい、そこに迎え入れられる用意をする生き方を始めなさい、ということです。
主日礼拝説教 2020年11月15日(聖霊降臨後第24主日)
1.本日の福音書の日課の個所も分かりそうで分かりにくいところです。主人が家来に財産の管理を任せて遠い国に旅に出ます。それぞれが持っている力量に応じて任せる額を決めます。ある家来には5タラントン任せました。1タラントンは当時の日雇い労働者の6,000日分の賃金です。今の金額でいくら位でしょうか?東京都の最低時給が1,000円ちょっとなので、一日8時間働いて8,000円ちょっと。その6,000日分は48,000,000円。これが1タラントン。5タラントンは2億4,000万円です。相当な金額です。二人目の家来には2タラントン、9,600万円任せ、三番目の家来には1タラントン、4,800万円任せました。主人はそれぞれの家来の力はこれくらいあると判断して、それに見合う金額を任せたのです。
その後どうなったか?一番目の家来は任せられた5タラントンを元手に働いて、さらに5タラントンの利益をもたらしました。一体何の働きをしてそんなに儲けられたのか?私たちとしてはそっちに関心がいくかもしれませんが、それについてイエス様は何も言っていません。ここは仕事の中身よりもとにかく働いたということがポイントなのでしょう。二番目の家来も任せられた2タラントンを元手に働いて、さらに2タラントンの利益をもたらしました。この二人に対して主人は、全く同じ労いの言葉をかけました。ギリシャ語原文を意識して訳しますと、「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にする。さあ、お前の主の喜びの中に入りなさい。」これは一体どんな意味でしょうか?それは後で見ていきます。
三番目の家来は土を掘って1タラントンを隠してしまいました。なぜそうしたかと言うと、彼は主人のことを種を撒いていないところから刈り取ろうとする、また耕していないところから収穫を要求するような無慈悲な人だからと言います。事業に失敗して元手を減らすようなことになったら大変だとそれで保管することにしたのか、それとも、働くこと自体したくなかったので埋めてしまったのか、どちらかです。激怒した主人がこの家来を怠け者と言って叱責したのをみると、働くこと自体いやだったようです。そうすると、主人のことを無慈悲というのは理由と言うより下手な言い訳になります。主人としては、人の気も知らずによくも言ってくれたな、という感じになるでしょう。
主人は、銀行に預ければ利子が得られて、それと一緒に返せるではないか、と言います。銀行とは現代的ですが、これは当時の両替商のことでお金の貸付けも行っていました。利子を求めるなどとは主人はやっぱり欲張りかなと思わせますが、ギリシャ語の原文を見ると、両替商も銀貨も複数形です。つまり、1タラントンという多額のお金を沢山の銀貨に分けて多くの両替商に預けることを意味します。それはそれで大変な作業になるでしょう。いずれにしてもその家来は暗闇の外に放り出されてしまいます。
以上の話の流れは誰にでもわかります。ところが、イエス様はこのたとえで一体何を教えようとしているのか?これはわかりにくいと思います。元手があればしっかり働いて利益を得なさい、お金は眠らせてはいけない、という資本主義の精神とかプロテスタンティズムの倫理を教えているのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。先週の説教でも申しましたが、イエス様の教えというのは、今のこの世の次に到来する新しい世とか、死者の復活とか、最後の審判とか、そういう今あるこの世を超えた視点を持って語られています。それを忘れてはいけません。イエス様は、この世の人生訓とか処世術とか、あるいは何か思想・哲学イデオロギーを教えるために創造主の神のもとから贈られてきたのではありません。人間が聖書をそういうものと解釈して自分に都合のよい思想を作るのは人間の勝手ですが、イエス様というのは本当は人間が将来到来する神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方がこの世で出来るようにするために贈られてきたのです。
それでは、人間が将来神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方とはどんな生き方か、それを本日のたとえはどう教えているのか?今日はそれを見ていきましょう。
2.まず、この3人の家来のたとえは先週の10人のおとめのたとえの続きとしてあることに注意します。同じ内容の教えを違った角度から教えているのです。10人のおとめのたとえでイエス様が教えようとしたことは、この世で目を覚まして生きるというのは神の国に迎え入れられるために用意することだということでした。神の国に迎え入れられために用意するとは、具体的には、まず、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様がゴルゴタの十字架で果たして下さった罪の償いを自分のものとすること。そして自分には神の意思に反する罪があることをわきまえ、イエス様が償って下さったという動かせない事実に自分の全てを毎日賭ける、そうやって罪を毎日圧し潰していくこと。そのようにして洗礼の時に植え付けられた霊的な新しい人を日々育て、肉的な古い人を日々死に引き渡していくこと。これらが神の国に迎え入れられるために用意をする生き方であるとお教えしました。
本日のたとえも神の国に迎え入れられるために用意する生き方を教えていることが見えてきます。主人が遠い国に旅に出て、かなりの期間の後に戻って来るというのは、イエス様の再臨を意味します。5タラントンと2タラントンの家来は主の喜びに迎え入れられますが、それはまさに神の国への迎え入れを意味します。そうすると、迎え入れが実現するためには、この世で何かをしなければならない、10人のおとめのたとえでは「用意をしなければならない」でした。その具体的な内容は、罪の自覚と十字架の赦しを繰り返すことで罪を圧し潰していく信仰の戦いを戦うことでした。3人の家来のたとえでは何をしなければならないと教えているのでしょうか?イエス様を通して何かを与えられる、そして、それをもとにして働いて成果を出すということ。それは一体何なのでしょうか?
まず家来に与えられたタラントンですが、これを「恵みの賜物」と考える向きは多いのではないかと思います。ローマ12章を見ると、預言する賜物があったり、奉仕をする賜物、教える賜物、人を励ます賜物、指導する賜物、施しをする賜物、貧しい者を助ける賜物などがリストアップされています。第一コリント12章にもいろいろ列挙されています。これらの賜物は神が独断でこの人にはこれと決めてお恵みのように与えるものです。人間が自分の力で獲得するのではありません。その目的も教会を成長させていくことです。賜物を授かった人間が自分を誇ったり偉そうにするためのものではありません。
もし家来に与えられたタラントンがそういう恵みの賜物であるとすると、得られた儲けとは何でしょうか?恵みの賜物の目的は教会の成長だから、儲けは教会が成長したことでしょうか?信者が増えて献金が増えたということでしょうか?再臨したイエス様は、それを見て満足して、教会をそのように大きくした者たちに褒美として神の国へ迎え入れたということでしょうか?
私は、そういうことではないと思います。まず、5タラントン儲けた家来と2タラントン儲けた家来が全く同じ労いを受けたことに注意しましょう。2億4,000万円も9,600万円もイエス様から見たら、神の国に迎え入れられる成果として違いは何もないのです。1億4,400万円の差なんて何も影響ありません。ここで仮に1タラントン任せられた家来も働いて同じように1タラントン儲けたとしましょう。主人は家来の力量に応じて額を決めたので、この者なら働いて1タラントンの儲けを得ることができるだろうと期待したのです。それで1タラントン儲けたならば、きっと他と同じ労いの言葉をかけられたことでしょう。「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にしょう。さあ、お前の主の喜びの中に入りなさい。」肝心なのは、任せられたものを元手にして働くことでした。しかし、家来は働きませんでした。
それじゃ、主人が両替商に預けて利子でもよかったと言ったのは何なのか?利子収入でいいと言うのは働かなくてもいいということではないのか?先ほども申しましたが、4,800万円分をいくつもの両替商に分散させて預けるはかなり面倒くさいことです。そんなことする位なら土中に埋めてしまった方が楽でしょう。実は1タラントンの家来のしたことの真の問題は、それを土に埋めて隠してしまったことでした。表に出さなかったということでした。あちこちの両替商に預ければ、主人から委ねられたものを少なくとも表に出すことになります。埋めて隠してしまったことがいけなかったのです。主人は1タラントンの家来の力量は小さいと見抜いていました。元手と同じ儲けが無理なら、利子でもいい、それでも神の国への迎え入れをしてあげよう、だから任せたものを少なくとも埋めて隠すようなことはしてくれるな、という思いでした。ところが家来はそうしてしまったのです。
3.ここで、主人が与えたタラントンと家来たちがした働き、しなかった働きについてもう一歩踏み込んで考えてみます。ローマ12章の使徒パウロの教えがカギになります。
パウロはそこで、罪の自覚と赦しを繰り返しながら罪を圧し潰して日々新しくされていくキリスト信仰者のこの世での生き方について教えます。罪を圧し潰す生き方についてはローマ8章で教えられていました。また、そのように生きる者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道を間違いなく進んでいることも同じ章で教えられていました。この世には神の意思に反することが沢山あります。それなので、キリスト信仰者はこの世がいろんなことを言ってきても耳を貸さず心を奪われず、あくまで神の意思に沿うように進まなければならない。そのことが12章の1節と2節で言われます。そのように進むこと自体がもう自分を神に喜ばれる神聖な生ける生贄にしていることなのです。
そこで3節から、そのような基本姿勢に立つキリスト信仰者が実際にこの世で周りの人たちとどのような関係を持って生きるかということについて教えられていきます。ここでは特に自分が他人より上だなどと思ってはならないということが強調されます。それをまず最初にキリスト信仰者の間で実践されることとして述べられます。ここで大事なことは、全てキリスト信仰者はキリストを一つの体とする体の部分部分であるということです。それぞれが神から何かお恵みの賜物が与えられています。それぞれが結びついて体全体を作り上げているので、どれが大事でどれが大事でないかということはない。すべてが全体にとってもお互いにとっても大事なのである。だから、誰も自分を誇ってはいけないのです。もし誇るのであれば、キリストを誇らなければならないのです。同じ教えが第一コリント12章でさらに詳しく述べられています。
9節からは、この、キリスト信仰者は他の人よりも上だなどと思ってはならないというスタンスに立って信仰者が人々一般とどう関わっていくかということが述べられます。愛は見せかけのものではいけない、悪を嫌悪せよ、善にしっかり留まれ(9節)。お互いに対して兄弟愛を心から示せ、互いに敬意を表し合え(10節)、熱意を持って怠惰にならず、霊的に燃えて主に仕えよ(11節)、希望の中で喜び、困難や試練の中でも持ちこたえ、祈りを絶やすな(12節)、キリスト信仰者が何か足りなくて困っている時、それを自分のこととして受け止めよ、立ち寄る者をしっかりもてなして世話をしろ(13節)、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない(14節)、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け(15節)、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たち者たちと共にいることに熱心になれ、自分で自分を知恵あるものとするな(16節)、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ(17節)、全ての人と平和に暮らすことがキリスト信仰者にかかっているという時は迷わずそうせよ(18節)、自分で復讐をしてはいけない、正義が破られた状況を神の怒りに委ねよ、旧約聖書(申命記32章35節)に書かれているように、復讐は神のすること神が報復するからである(19節)、また箴言25章に書かれているように、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、それをすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになるからだ(20節)。悪があなたに勝ってはならない、善をもって悪に勝たなければならない(21節)。以上の教えがローマ12章にあります。
ここで一つ大事なことを確認します。それは、これらのこと全ては実を言うと、神の国に迎え入れられるためにしなければならないことではなくて、罪の自覚と赦しを繰り返して罪を圧し潰していくと次第にこうなっていくというものです。これらは迎え入れを実現する条件ではなくて、結果としてそうなっていくというものです。神の国に迎え入れられるためにしなければならないこと自体は何かと言うと、罪の自覚と赦しの繰り返しで罪を圧し潰していく信仰の戦いをするということです。この戦いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時に必然的に生じてきます。なぜなら、罪の償いを神のひとり子に果たしてもらったことは真にその通りですと告白して、洗礼を受けてその償いがその人に当てはまるようになったからです。それ以後は罪の償いがしっかりあるということが真理だという生き方になります。そこでは罪の自覚と赦しが不断に続きます。
先週の説教でも申しましたが、このような他人とのかかわり方は、いくら信仰の戦いから自然に出てくるとは言え、何だかお人好しで損をする生き方に思えてしまいます。特に今の時代は、インターネットやSNSの悪用も手伝って、他人を追い落とすため自分を有利にするために偽りでさえも真実と言ってはばからない風潮です。そんな中で信仰の戦いを戦ってお人好しになっていくのは馬鹿みたいに思われるかもしれません。しかし、先週も申しましたように、神の意思に沿うことをして損をするか、それとも得するために神の意思から外れるかという選択肢に立たされたら、キリスト信仰者はこの世での損は次に到来する世での得になると考える人たちです。
4.さてここで、タラントンとは何か、儲けとは何かについてはっきりさせましょう。主人はそれぞれの力量に応じて、たくさん力がある人にはこのようなお人好しをする可能性をたくさん与えたのです。5タラントンの家来はそれ位の可能性を与えられ、見事それに見合う分のお人好しをしました。人々に喜ばれ賞賛されたこともあっただろうが、人間の目から見て損をしたこともあったでしょう。2タラントンの家来も同じようにしましたが、可能性も実績も5タラントンの家来よりは少なめでした。しかし、そのことは神もわかっていて、それでその人にはそれで十分と言ったのです。宗教改革のルターも言っていますが、ある信仰者に多くの試練が与えられるのはその人がそれを背負える力があると神が認めているからそうなのであり、別の信仰者に試練が少ないのは神がその人は多くは背負えないと考えたからだと言っています。ただ、そうは言っても、背負う力があると認めてもらったことは光栄だが、いつまで背負っていなければならないのか心配にもなります。その時は第一コリント10章13節のパウロの教えを思い出します。そこでパウロは次のように教えています。 「神はあなたがた信仰者を見捨てない忠実な方です。あなたがたが自分の力以上の試練を受けることをお認めにはならず、あなたがたが背負うことが出来るようにと試練と一緒に出口も備えて下さる方です。」
5タラントンの家来は多くを背負う力があると神に認められ、それに見合うお人好しの可能性が与えられ、それに見合うお人好しを行って損をし辛いことにも遭遇しました。2タラントンの家来も自分の力に合う分の可能性が与えられ、それに見合う損や辛いことに遭遇しました。これらの損や辛いことは罪を圧し潰す信仰の戦いを戦うことで生じました。だから、神の栄光を増し加えるもので、それこそまさに儲けなのです。神はそれらを「小さな事」と言い、家来はそれに忠実だったと言います。家来は確かに信仰の戦いに忠実でしたが、彼らが遭遇した損や辛いことの全てをどうして「小さい」と言うのでしょうか?それは、将来神の国に迎え入れらえるという光栄を前にしたらこの世で遭遇したことの総体は小さいものとなってしまうからです。そのことについてパウロは第二コリント4章17節で次のように教えています(ギリシャ語原文を意識した訳します)。 「私たちの艱難の一時性と軽さは、神の国の栄光の永遠さと重さに取って替わられるのです。私たちのためにそれが何百倍にもなって取って替わられるのです。」
さらにローマ8章18節でも同じように教えています。 「現在の苦しみは、将来私たちに現われ私たちが与ることになる神の国の栄光を思えば、大したことではないと私は考えます。」
これで、このたとえの主人が言ったこと「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にする」は、本当にその通りなのだとわかるでしょう。 翻って1タラントンの家来は神から与えられた可能性を潰してしまいました。神の国に迎え入れられるための用意する生き方をせず、信仰の戦いを放棄してしまいました。両替商に預ければ、何がしかの可能性を用いて何がしかの用意になったかもしれないのに。それでも神はOKと言ってくれたかもしれないのに。神は、彼に与えた可能性は無駄だったとわかり、それを最大限生かせる家来にあげることにしました。まさに、持っている者に与えられ、しかも一層与えられ、持たない者からは持っているものも取り上げられるということになったのです。
5.最後に、このたとえについて一つ大事なポイントをお教えします。それはこれも先週の10人のおとめのたとえと同じように警告の教訓話ということです。1タラントンの家来は、愚かなおとめたちと同じように一度はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いを自分のものとしたが、いつしか用意する生き方から離れ、信仰の戦いもしなくなってしまった者です。これらのたとえは、こうした者を断罪するのが目的ではありません。そうならないように、今でも遅くないから心を入れ替えなさい、ということです。そして、先週にも申し上げましたが、まだイエス様が果たした罪の償いを自分のものにしていない人たちに対しても、早くそれを自分のものとして神の国に向かう道を歩み始めなさい、そこに迎え入れられる用意をする生き方をしなさい、ということです。そうすれば、お人好しで損をする人生だと思われたことがそうではなくなり、将来現れる永遠の栄光の重みにこの世の艱難は軽くなるということが真理になるのです。
主日礼拝説教 2020年11月8日(聖霊降臨後第23主日)
結婚式の祝宴というものは、イエス様の時代にも大がかりでした。ヨハネ福音書の2章に有名なカナの婚礼の話があります。イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行った話です。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶があり、今の単位で言えば80-120リットル入る大きさのものでした。そんな大きさの水瓶が全部で6つありました。既に出されたぶどう酒が底をついてしまった時、イエス様は追加用に水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしました。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。
本日の福音書の箇所でも結婚式の祝宴の盛大さが窺われます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に行って結婚を正式に申し込みます。先方の両親からOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで祝宴が盛大に催されました。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従います。こうした付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。
本日の福音書の箇所でイエス様は、婚礼の行列に付き従うことになった10人のおとめたちに何が起きたかを話します。10人のうち賢い5人は、花婿が花嫁の家を出発するまでの待ち時間にともし火が消えないように油を準備します。愚かな5人はそうしませんでした。案の定、花婿はなかなか出て来ず、10人とも疲れて眠ってしまう。すると突然、花婿が出てきて、結婚は成立した、これから祝宴に向かって出発するぞ、と号令がかかる。はたと目が覚めたおとめたちは支度をするが、愚かなおとめたちはともし火が消えそうなのに気づいて慌てて油を買いに行く。その間に行列は出発してしまい、さっさと祝宴会場に行ってしまう。油を買って遅れて来たおとめたちは閉ざされた門の前で、中に入れて下さいと懇願するが門前払いを食ってしまう。そういう話です。
これを読むと、花婿は5人に対してなぜそんなに厳しく振る舞うのか、と大抵の人は思うでしょう。閉じた門の反対側から「お前たちなど知らない」などとは、ちょっと冷たすぎはしないか?結婚式の行列にともし火を持って付き従うというのは、そんなに花婿の名誉にかかわるものなのか?それをちゃんと果たせないというのはそれほどの大失態ということなのか?こうした疑問は、当時の民衆の生活史を綿密に調べないとわかりません。
ここで注意しなければならないことがあります。それは、この話はたとえということです。架空の話で実際に起こったことではありません。お前たちも注意しないとこの5人みたいになってしまうぞと警告する教訓話です。当時の人が身近に感じる事柄を題材にしてひゃっとさせて考えさせる手法です。ところが現代の私たちには婚礼の行列のおとめのともし火なんてあまり身近に感じられません。エキゾチックな感じはしますが。門前払いでひやっとさせる事と言ったら、私などはかつて日本の大学で必修科目の試験で遅刻して門前払いを食ったことがあります。他の単位を満たしてもそれに合格していないと卒業は出来ないので、さすがに次の年は気を引き締めました。それが最終学年の試験でなくてよかったと何度も思いました。
しかしながら、この10人のおとめの場合は門前払いを食って人生の進路の予定が狂うという次元の話ではありません。実はこれは人間の生死にかかわる話で、門前払いを食ったら永久に取り返しのつかないことになるという、かなりシビアなことを教えているのです。それでひゃっとさせることが出来たら警告は重く受け取られることになるでしょう。現代の私たちは同じようなひゃっとはないかもしれません。しかし、たとえ昔と今の感覚の違いはあっても警告は昔と同じくらいに重く受け取られるようにする、これが説教者に課せられた使命です。ここでもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、このたとえは警告の教えだけに留まらないということです。賢いおとめたちのように立ち振る舞えば祝宴に入れるということにも注目しなければいけません。彼女たちの立ち振る舞いが何を意味するのかがわかると、このたとえは希望の教えにもなります。以下そうしたことを明らかにすることを目指して御言葉の説き明かしを進めてまいります。
まず、この10人のおとめのたとえは何についてのたとえだったでしょうか?それは冒頭に言われています。「天の国」についてのたとえです。「天の国」または「天国」は聖書では「神の国」とも言い換えられますが、それがどんな国かをわからせるために、このたとえが話されているのです。それでは、このたとえから神の国はどんな国であるとわかるでしょうか?
キリスト信仰で言う「神の国」について、まず一般的なことを大ざっぱに述べておきます。これまでの説教でも何度もお教えしましたが、「神の国」は天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。「天の国」、「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間の五感や理性で認識・把握できるような、この現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、ご自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見ると神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に贈り、彼をゴルゴタの十字架の死に引き渡して、三日後に死から復活させたことです。
神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神との結びつきが失われて神のもとから追放されてしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。
神の国は、今はまだ私たちが存在する天と地の中にはありません。しかし、それが目に見える形で現れる日が来ます。復活の日がそれです。それはイエス様が再臨される日でもあり、最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、創造主の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる時です。「ヘブライ人への手紙」12章や「ペトロの第二の手紙」3章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨したイエス様が、その時点で生きている者たちとその日死から目覚めさせられた者たちの中から神の目に相応しい者を神の国に迎え入れます。本日の使徒書の日課「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章にある通りです。
その時の「神の国」は、黙示録19章に記されているように、大きな結婚式の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節も)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。
「神の国」を結婚式の祝宴として述べている黙示録19章によれば、花婿はイエス様であり、花嫁はイエス様を救い主と信じた者たちの集合体です。マタイ22章でもイエス様は「神の国」について結婚式の祝宴を題材にしてたとえを述べていますが、そこでの花婿はイエス様自身を指しています。
そうすると、本日のたとえにある結婚式の祝宴は将来現れる「神の国」を意味することが明らかになります。そうすると、ともし火に油を用意した賢い5人は神の国の入ることができた者たち、用意しなかった愚かな5人は入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、愚かな5人のようになってはならない、神の国に入れなくなってしまわないように注意しなさいと警告していることがわかってきます。ここで一つ難しいことが出て来ます。それは、イエス様がたとえの結びで「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と述べるところです。あれ、神の国に入れるために目を覚ましていなさい、居眠りしてしまったら入れなくなってしまうぞ、と言うのなら、賢いおとめたちだって眠りこけてしまったではないか、ということになるからです。賢いおとめたちは、予備の油を準備したおかげで神の国に入れたのであって、頑張って目を覚ましていたからではありません。この「目を覚ましていなさい」という命令には、文字通りの事柄ではなく、何か深い意味が込められています。それはどんな意味でしょうか?
賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」とも言われています。そうすると、「目を覚ましていなさい」というのは、文字通りに寝ないで起きていることではなくて、何か用意ができている状態にあることを意味する、それを「目を覚ます」と象徴的に言い換えていると分かります。そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」の「眠り込んでしまった」というのも、文字通りに寝てしまうことではなく、何かを象徴的して言い換えているとわかります。何を言い換えているのでしょうか?「眠り込んでしまった」という言葉はギリシャ語ではカテウドーκαθευδωという動詞ですが、これは「眠る」の他に「死ぬ」という意味もあります。本日の使徒書の日課第一テサロニケ4章13節ではその意味で使われています。さらに7節で「おとめたちは皆起きて」と言うところの「起きて」という言葉は、ギリシャ語ではエゲイローεγειρωという動詞で、これも「起きる」の他に「死から復活する、蘇る」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。
こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して死者の復活が起こる日のことについて教えていることがわかります。その日、死から目覚めさせられた者のうちある者は祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられないということが起こる。イエス様は、神の国に迎え入れられるためにはこの世の人生で用意をしなければならない、と教えるのです。賢いおとめたちが油を用意してともし火が消えないようにしたような用意をしなければならない。それでは、その用意とは何をすることなのかを考えなければなりません。
これからそれを見ていきますが、その前に一つ申し添えておきたく思います。イエス様の教えというのは、このように、今の世の次に来る新しい世とか、死者の復活とか、そういう今のこの世を超えた視点を持って語られているということをよく覚えておく必要があります。その視点を抜きに本日の箇所を理解しようとしたら、人間何事も準備が大切だ、先を見越して行動することが大切だ、というような誰にでもわかる人生訓をイエス様が述べていることになってしまいます。そんなことを教えるためにイエス様は創造主の神のもとから贈られてきたのではありません。人間が将来の神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方ができるようにするために贈られてきたのです。
それでは、「用意する」生き方とはどんな生き方かをみていきましょう。神の国の祝宴から排除されてしまった5人は賢い5人と同様に祝宴に招かれていたことを思い返しましょう。みんな婚礼の行列にともし火を持って付き従う任務を受けていました。つまり10人とも神の国への招待を受けていたのです。その意味で愚かな5人も賢い5人ももともとはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちを意味します。ところが、神の国に入れたのは賢い方でした。先月の福音書の日課にあったマタイ22章14節のイエス様の言葉を借りれば、招待を受けたのに選ばれた者にはならなかったのです。同じ出発点に立ちながら、どうして異なる結末を迎えることになってしまったのか、それがわかれば予備の油を用意すること、ともし火を絶やさずに燃え続けさせることの意味もわかります。あわせて「目を覚ます」の霊的な意味も明らかになります。
本教会の説教で何度もお教えしましたが、人はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様がゴルゴタの十字架で成し遂げられた人間の罪の償いを自分のものにすることが出来ます。イエス様に罪の償いを神に対して代わりにしてもらったことになり、それで神からは罪を赦されたものとして見なされるようになります。それはイエス様の罪の汚れのない純白さをあたかも衣のように頭から被されることです(ガラテア3章27節)。私たちの内にはまだ神の意思に反する罪があるのに、神は私たちが纏うことになった純白の衣の方に目を留められ、私たちもそう見られているのに相応しい生き方をしようとします。
ところが、神の意思に沿う生き方をしようとすると、自分にはそれに反しようとする罪があることに気づかされることになります。神を全身全霊で愛することが神の意思なのに、そうしていない自分に気づかされます。神に全ての願い事や悩み苦しみを打ち明けて祈らなければならないのに、そうしていない。神に感謝しなければならないのにそうしていない自分です。加えて、神への愛に基づいて隣人を自分を愛する如く愛さなければならないのに、そうしていない。自分は人殺しもしない、不倫もしない、盗みもしない、偽証もしない、妬みもしない、だから何も問題ないと思っているが、実は心の中で思ったり言葉で言ってしまっていて隣人愛を持っていないことを証してしまっている。その時、神は私に纏わせた純白の衣は朽ち果て色あせてしまったと見なして、私のことを罪を赦された者と見て下さらないのだろうか?
いいえ、そういうことではありません。純白の衣は純白のままです。では何が問題なのか?それは、内在する罪が衣を捨てさせようと力を行使してその攻撃を受けているということです。その攻撃を撃退するには、純白の衣を手放さないようにしっかり纏ってその重みで罪を圧し潰していくことです。どうやってそんなことができるのか?それは、罪の自覚が生まれた時、神の御前で素直にそれを認めて赦しを祈ります。父なるみ神よ、ゴルゴタの十字架で私の罪の償いをされたイエス様は私の救い主です、どうか私の罪を赦して下さい、と。そうすると神は、お前が我が子イエスを救い主と信じる信仰に生きていることはわかっている、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、もう罪を犯さないようにしなさい、と言って下さいます。これをすることで、神と人間の間を引き離そうとする罪は入り込む余地がないと思い知らされ歯ぎしりします。
実にキリスト信仰者は罪の自覚と罪の赦しを繰り返すことで罪を圧し潰していくのです。この中で聖餐式を受けると罪の圧し潰しに一層拍車をかけることになります。罪の圧し潰しは私たちがこの朽ちる肉の体から離れる時までずっと続きます。ルターは、キリスト信仰者のこの世の歩みとは、洗礼の時に植え付けられた霊的な新しい人を日々育て、以前からある肉的な古い人を日々死に引き渡すプロセスであると言っています。それで、キリスト信仰者はこの世を離れる時に完全なキリスト信仰者になると言うのです。
賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、まさに霊的な新しい人を日々育て、肉的な古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いが不断に続くことを意味します。信仰の戦いを続けることが将来の復活の日の神の国への迎え入れを用意することになります。それをすることがこの世で目を覚まして生きる生き方になります。その生き方はともし火が消えない生き方です。だから、信仰の戦いを続けることは予備の油を持つことと同じです。
翻って、愚かなおとめたちが予備の油を用意しなかったというのは、もう洗礼を受けたらそれで終わり、信仰の戦いに入っていかないか、最初は行ったけれどもいつしか離脱してしまったことです。そうなると、洗礼の時に植えつけられた霊に結びつく新しい人はもう育ちません。肉に結びつく古い人間がまた盛り返してしまいます。ともし火の火も消えます。これが目を覚まさない生き方であり、神の国への迎え入れの用意をしないことです。とは言っても、このたとえを話したイエス様の主眼は信仰の戦いをやめてしまった人たちを断罪することではありません。警告が主眼です。信仰の戦いをやめてしまった人たちに対して、こうならないために早く戦いに戻りなさいと促しているのです。信仰の戦いを生きることが大事と言うのであれば、このたとえは、まだイエス様を救い主と信じておらず洗礼も受けていない人たちに対しても、賢いおとめにならって、それに入りなさいと促すメッセージになります。
信仰の戦いなどという言葉を聞くと、なんだか宗教間の争いを想起させてあまりいい気がしない方がいらっしゃるかもしれません。しかし、この説教で聞いてきたことを思い返せば、それはあくまでキリスト信仰者の内面の戦い、神の意思に反する罪を自覚と赦しを繰り返すことで圧し潰していくことであって、外面的な争いと全然関係ないとわかるでしょう。使徒パウロがローマ12章で教えていますが、内面的な信仰の戦いを真摯に戦えば戦うほど、全ての人と平和に暮らす、自分を相手より上だと思わない、悪に対して悪で報いない、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々のことは当然なものになっていくのです。このような平和路線は、今の時代の、他人を追い落とすために自分を有利にするために偽りを真実と言ってはばからない風潮にあっては、不利で損なことでしょう。しかし、先にも申したように、キリスト信仰者はこの世を超えた視点を持ちます。それなので、神の意思に沿うことをして損をするか、それとも得するために神の意思から外れるかという選択肢に立たされたら、キリスト信仰者はこの世での損は次の世での得になると考えます。それがキリスト信仰というものです。
主日礼拝説教 2020年11月1日 全聖徒の日
今年の日本のルター派教会の「全聖徒の日」の聖書日課は変則的に旧約聖書がなくて、その代わりに黙示録からでした。その7章で著者のヨハネが天使から見せられたこの世の将来の出来事についての一場面です。万物の造り主である神と救い主イエス・キリストの御前に世界中から数えきれないくらいの大勢の人たち、しかも純白に輝く衣を纏った人たちが集まっている場面です。福音書の日課の方はマタイ5章の有名なイエス様の「山上の説教」の初めの部分で、「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。今から約2,000年前の地中海東海岸のガリラヤ地方でイエス様が群衆を前にして教えた事柄です。黙示録の方は、イエス様の時代から60年くらい経った後に弟子のヨハネが神からの啓示を受けて今の世が新しい世に取って替わる時の出来事について見せられた事柄です。二つは一見何の繋がりもないようですが、実は内容的には繋がっています。というのは、イエス様が「幸い」と言っている人たちはヨハネが見せられた大勢の純白の衣を纏った人たちのことだからです。今年の全聖徒の日の説教ではそのことについてお話ししようと思います。
まず、黙示録7章を見てみましょう。玉座には万物の造り主である父なるみ神がいます。その傍に御子イエス・キリストがいて小羊と呼ばれます。玉座を前にして純白の輝く衣を纏った世界中から集められた大勢の者たちが神と小羊を賛美している場面です。彼らは大声で叫びます。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊のものである。」これは少し注釈を要します。原文はギリシャ語ですが、文のヘブライ語の背景を考慮に入れると、「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある」です(後注1)。救いは他のところにはないということです。純白の衣を纏った者たちはその神と小羊の御前に来たのです。救いがあるところにです。この場面はまさに、今ある天と地が終わりを告げて最後の審判と死からの復活が起こって、神が新しい天と地を創造して、そこに神の国が現れて神に義とされた者たちが迎え入れられた場面です。
そう言うと一つ疑問が起きます。ここはまだ7章ではないか?最後の審判と復活は20章、新しい天と地の創造と神の国への迎え入れられは21章ではないか?黙示録というのは、こういうふうに最終的に起こることをプロセスの途中で垣間見せることがあります。19章にも同じことがあります。復活して神の国に迎え入れられた者たちがキリストと結ばれる婚宴の祝宴の場面を見せられます。この祝宴も新しい天と地のもとでの神の国のことです。このように黙示録の時系列は私たちの理解を超えるものです。あまり自分の頭で理解しようとしないことが肝要です。人間の理解力でどうにかなるような代物ではありません。一つはっきりしていることは、理解を超える時系列を通して私たちに大事なことを伝えているということです。それは、最終目的地に至るプロセスの中でどんな苦難や困難の真っ只中にあっても、お前は今垣間見せてもらった、やがて起こることになる場面の当事者なのだ、今そこに向かう道を間違いなく進んでいるのだ、だから心配するな、そう励まし力づけているということです。これで十分でしょう。
玉座の場面を見せられたヨハネは、一人の長老から、これらの純白の衣を纏う者たちに起こることを聞かされます。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽もあらゆる灼熱も彼らを襲うことはない。」これはイザヤ書49章10節にある預言です。太陽や灼熱は身体的な苦痛だけでなく、マルコ4章のイエス様の教えから明らかなように迫害も意味します。「小羊が牧者となり、命の水の泉へ導く」とは詩篇23篇の言葉です(後注2)。「神が彼らの涙をことごとく拭われる」というのは、これもイザヤ書25章8節の中にある預言です。8節全部はこうでした。「主なる神は、死を永久に滅ぼされる。全ての顔から涙を拭い、ご自分の民が受けた恥や屈辱を地上から一掃される。」
長老はヨハネに、純白の衣の者たちにこれらの預言が起こると言っているのです。彼らが父なるみ神と御子キリストの御前に立つ時には預言は全てその通りになっているのだと。飢えも渇きも迫害も苦痛もなく、命の水の源がそこにあり、涙も苦痛のだけでなく無念の涙も全て拭われていると。まさに、最後の審判と死からの復活を経て神の国への迎え入れが起こったのです。
これら神とキリストの御前に集う純白の衣の者たちは一体誰なのか?それは、イエス様の山上の説教の「幸いな者」の教えからわかります。
イエス様は山上の説教の出だしの部分で「幸いな人」について教えていますが、ここで「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意します。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」と異なる「幸せ」が意味されています。以前にもお教えしましたが、「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとって幸せだという、神の視点での幸せです。人間がこれが幸せだと言うのとどう違うのか?重なる部分もあるのですが、人間の視点では幸せとは言えない状態であっても、「幸い」な状態にあるということもあるのです。それで違うのです。それでは「幸い」とはどんな幸せなのでしょうか?
まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。以前にもお教えしましたが、この「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)をはじめ、いくつかの国々の聖書も「霊的に貧しい」と訳しています。「霊的に貧しい」というのはどういうことか?ここから先はルター派の観点で述べていきます。「霊的に貧しい」とは、万物の造り主である神を前にして至らないところがあるということです。さらに大事なことは、その至らなさを自覚しているということです。十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らし合わせると、自分は神に対して至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。イエス様は「山上の説教」の別のところで、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えています。神聖な神は人間の外面的な行為や言葉のみならず心の奥底まで潔白かどうか見ておられるのです。そうすると、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、全然なっていない自分に気づき意気消沈します。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。
なぜ、そのような者が幸いなのか?その理由が言われていています。「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」新共同訳では出ていませんが、ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。この後の「幸い」な人のところでも全部「なぜなら」と言っています。「天の国」、つまり「神の国」のことですが(マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わず「天」に置き換える傾向があります)、それが、神の前に立たされても大丈夫な者、霊的に貧しくなんかない者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと心配する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われるのです。これは一体どういうことなんだろうと考えさせられます。イエス様は同じ調子で話を続けていきます。
霊的に貧しい人に続いて「悲しむ者」が幸いと言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。一つには、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。加えて、そういう神との関係でなく、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。ここでも「悲しむ者」がなぜ幸いなのか、理由が述べられています。「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになる、だから幸いなのだと言うのです。
次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスπραυςも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えば、マリアの品性がそうだと言えます。マリアは神を信頼し、神が計画していることは自分の身に起こってもいいです、という物分かりのいい態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになっても、神が取り仕切って下さるから大丈夫という単純さでした。そうした神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純で静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入って来ると思います。
そんな柔和な人たちが幸いだという理由は、「地を受け継ぐことになるからだ」と言います。少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味します。キリスト信仰の観点では、「約束の地」とは将来復活の日に現れる「神の国」になりますので、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」を得る、そこに迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということです。
次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神に相応しい状態、神の前に立たされても大丈夫、問題ないという状態です。先ほど見た、霊的に貧しい者は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それなので義に飢え渇くことになります。そのような者が幸いだと言う理由は、「彼らは満たされることになるからだ」と言います。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して希求する者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。逆に言えば、義の欠如の自覚がなく、義に飢えも渇きもない人は満たしてもらえないので幸いではありません。
7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言います。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに神が受け入れて下さるということです。神の意思に反する罪を持つのに赦してもらえるということです。そのような罪の赦しを受けていることをよく覚えて、周りの人たちにも赦しの心で接すれば、神はご自分が与える罪の赦しを揺るがないものにして下さるのです。
8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。「心の清い」とは罪の汚れがないことです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。本日の使徒書の日課である第一ヨハネの3章で言われているように、神を目で見れるようになるのは復活を遂げて神の国に迎え入れられた時です(後注3)。
9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する」と言うと、何か紛争地域に出向いて支援活動をするような崇高な活動のイメージが沸きます。しかし、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、神の子と呼ばれる者はそうするのが当然というのです。
10節と11節を見ると、義やイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに人からあることないこと言われたりひどい場合は迫害されてしまうが、それも幸いなことと言われ、それは神の国に迎え入れられることになるからだと言います。どうやら、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているようです。神に慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということが見えてきます。それでは、神の国に迎え入れらるとはどういうことでしょうか?
イエス様の教えは当時はじめて聞いた人たちには理解不能だったのではと思われます。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味していたからでした。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫に見なされる人を意味しました。
人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
それに対してイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。人間の造り主である神は人間の心の清さも求めておられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は本当の罪の赦しはそこにはない。父なる神が預言者たちの口を通して言っていたように、毎年繰り返される生け贄捧げは形だけの儀式で心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが幸いなことなのだ。なぜなら、それがお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しだからだ。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、人間が律法を心に留められるようにして「幸いな者」にしたのでしょうか?
それは、イエス様が父なるみ神の大いなる救いの意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡すことで全ての人間の罪の神罰を人間に代わって受けられたことで果たされました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。
この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の赦しがその人に効力を発揮します。その人は朽ちない復活の体が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。イエス様を救い主と信じる信仰に入り洗礼を受けた者は、使徒パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せられるのです。黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことでした。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。
このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を神との結びつきを持って進む者です。これが「幸いな者」なのです。
ところで、この「幸いな者」は、この世ではまだ朽ちる肉の体を纏っています。それで、神の意思に反する罪をまだ内に宿しています。それなので信仰者は自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、神の小羊の血が私たちの衣の白さを保ってくれます。キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対する信頼が一層強まり柔和になっていきます。
そうこうしているうちに歩んできた道も終わり、復活の日に眠りから目覚めさせられて神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚しています。あの古い世界で神の意思に反することが自分にあった、人を見下すこと罵ること傷つけること不倫や偽証や改ざん等々、たとえ行為で出すことはなくとも心の中で思ってしまったことがあった。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりだった。あるいは、弱さのために行為や言葉に出してしまったことがあった。しかし、それは神の意思に反することとわかって悔いて神に赦しを祈り願った。その時イエス様の十字架のもとでひれ伏して祈った。本当にイエス様を救い主と信じる信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。イエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、洗礼の時に着せられた純白の衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力や汚そうとする力が襲いかかっても、お前はそれをしっかり掴んで離さず、いつも罪の赦しの恵みの中に踏みとどまった。その証拠に私は今、お前が変わらぬ純白の衣を着て立っているのを目にしている。」 そのように言われたら、私たちはどうなるでしょうか?私だったら、きっと感極まって崩れ落ちて泣いてしまうのではないか。そして立ち上がって周りにいる者たちと一緒にこう叫ぶのではないか。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある、他にはない!」
η σωτηρια τω θεω ημων τω καθημενω επι τω θρονω και τω αρνιω!
幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は!
(後注1)黙示録7章10節の群衆の叫びのギリシャ語原文のヘブライ語の背景というのは、前置詞לのことです。ギリシャ語の文はその直訳と考えられます。לは、「~のもの」と所有・所持の意味もありますが、「~のもとにある」の意味もあります。例として詩篇3篇9節「救いは主のもとにあります(新共同訳)」。
(後注2)その詩篇は預言には聞こえませんが、ヘブライ語の動詞の用法を見ると行為が完了していないことを表わしています。つまり、羊飼いは常に導く方である、間違いなく導いて下さる、という意味で預言にも捉えられます。
(後注3)新共同訳では「御子が現れる」と訳していますが、どうでしょうか?第一ヨハネ3章2節のギリシャ語原文を直訳すると以下のようになります。
「愛する者たち、私たちは今神の子なのです。しかし、(復活の日に)私たちがどのような様態になっているのかはまだ明らかではありません。私たちは知っています、(その日に)それが明らかになれば、私たちは彼と同じようになっているということを。なぜなら、私たちは(その日)彼をあるがままの姿で見ることができるからです。」
新共同訳はこうでした。
「愛する者たち、私たちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、その時御子をありのままに見るからです。」
参考までにフィンランド語訳はこうです(日本語に直訳します)。
「愛する友よ、私たちは既に今神の子ですが、私たちがどのようなものになるかはまだ明らかになっていません。私たちは知っています、それが明らかになる時、私たちは彼のようになるということを。なぜなら、私たちは彼をあるがままの姿で見ることになるからです。」
新共同訳では「現れる」のは「御子」ですが、ギリシャ語原文やフィンランド語訳では「明らかになる」のは「私たちがどのようなものになるか」です。それから、新共同訳では誰に似た者になるかという時、それは御子ですが、フィンランド語訳では「彼」は「神」を指していることは明らかです。私は、ギリシャ語原文もそうだと思います。