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説教題:「信頼できる」
祈り・聖書日課:パイヴィ・ポウッカ 宣教師
聖書日課:イザヤ 56章1、6−8節、ローマ 11章1−2a、29−32節、 マタイ15章21~28節
賛美歌:187:2 246 371:3 333:2
音楽:マルッティ・ポウッカ、谷八智子
ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ
礼拝はスオミ・キリスト教会ではなく、YouTubeだけで配信し、後でもそこで見ることが出来ます。YouTube放送、8月16日10時30分~ アクセス
https://www.youtube.com/channel/UCttMNU_tjIJmcbWUM0X7haA
説教題:「恐れることはない」
聖書日課:列王記上19章9~18節、ローマ10章5~15節、マタイ 14章22~33節
賛美歌:187 240 371 333
礼拝はスオミ・キリスト教会ではなく、YouTubeだけで配信し、後でもそこで見ることが出来ます。
YouTube放送、8月9日10時30分~ アクセス https://www.youtube.com/channel/UCttMNU_tjIJmcbWUM0X7haA
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課の個所は、イエス様の有名な奇跡の業についてです。お腹をすかせた5千人以上の群衆にわずか五切れのパンと二匹の魚でみんなをお腹いっぱいにしたという奇跡です。これと同じ出来事についての記述が今日のマタイ13章の他にマルコ6章、ルカ9章、ヨハネ6章にもあります。他にも大勢の群衆をわずかな食糧で満たした出来事が、マタイ15章に4千人以上を相手にして七切れのパンと少しの魚で行ったことが記されています。これと同じ出来事はマルコ8章にもあります。人数は5千人から若干少なくなり元手のパンも5切れから少し増えますが、それでも想像を超える話には変わりありません。言われる人数も、女子供は除いてということですから、実際は5千人、4千人よりもずっと多かったでしょう。
一体この出来事は何なのでしょう?自然の摂理に反しすぎています。目の前にいるのは5千人以上の群衆。手元にあるのは5切れのパンと2匹の魚。5人に分け与えてもお腹いっぱいになんかならないでしょう。これを読んだ人は誰だって、こんなこと起こりっこない、大昔の人のファンタジーだと言うでしょう。ただ、話は聖書という宗教の本に載っていることなので本当かどうかは大事ではない、宗教の教祖というのは不思議な力を持って慈悲深い者であると描くのは古今東西どこにでもある、ここもそれなのだと言って、ありえないと騒ぎ立てることもしない、そういうのが普通の受け止め方ではないでしょうか?
しかしながら、この話が群衆の空腹の満たしで終わらず、残ったパン屑を集めたら籠12個分が一杯になったというのを聞くと、あっけに取られてしまいます。これじゃ、最初の5切れよりも増えてしまったじゃないか?これは一体何なんだ?命と体のために必要なものを消費する。ところが、消費したはずのものは無くならないで、逆に消費すればするほど増えしまう。ここまでくると、教祖の慈悲深さを超えて、自然の法則を足蹴にして鼻で笑っているような感じさえします。
私も含めてキリスト信仰者の多くは、全員ではないかもしれませんが、そういう信じられない出来事が実際に起こったのだと言います。それは、私たちが科学的に無知でイエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、現実世界に目をつぶっているということではないと思います。もちろん、このようなことは普通はあり得ないとわかっているので科学的に無知ではありません。ただ、この場合は普通あり得ないことが起こったのだ、と言うだけです。そういう例外を認めることが無知ということになるのであれば無知でもいいです。また、イエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、あり得ないことを起きたことにしているのでもないと思います。イエス様が慈悲深いというのはその通りと思いますが、人間が病気や食べ物がないから可哀そうだから助けてあげるという人道主義を超えたことがあると考えています。というのは、もしイエス様のこの世での活動が人道主義で説明できるのなら、30そこそこの年齢で活動を打ち切ってさっさと十字架刑にかけられる道には進んだのはどうしてでしょうか?せっかく超能力に溢れているのだから、もっと長生きして世界各地に赴いて人道支援を続けた方が理に適っていると思います。なぜイエス様はあの時点で打ち切って受難が待ち受けるエルサレムにわざわざ向かって行ったのでしょうか?
全てのことは、イエス様の活動の主眼が「神の国」にあったということで説明がつくと思います。そういうわけで本日の説教では、イエス様の教えや業が「神の国」に結びついていることを明らかにしていこうと思います。
イエス様がこの地上で活動した時の主眼は人々に「神の国」について知らせ、人々の目と心をそれに向けさせることにありました。
活動を開始した時、イエス様は「悔い改めよ、神の国は近づいた」と宣べていました。どんな意味でしょうか?「悔い改める」と言うと、悔恨の念を持って一人で暗くねちねち反省しまくっているようなイメージがわきます。何か、日本の職場や学校で反省文を書かされるようなイメージと結びつけられてしまうかもしれません。しかし、ギリシャ語のメタノエオーという動詞の基本的な意味は「考えを改める」です。そして、その動詞の背景にあるヘブライ語のシューブは、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるということです。ねちねちなんかしていられません。神の意思に反する生き方をしてしまった、それは罪なのだ、だからこれからはそれをやめて神の意思に沿うように生きなければ、と言って、エイ、ヤーと方向転換するのです。
ただし、ことはそう単純ではないことも事実です。方向転換とは言っても、神の意志に反していたことはどうなるのか?神は、そんなこともういいよ、と気安く言ってくれるのか?神がそんなに手軽で手ごろな方だったら、誰がもう罪を犯さないように生きようなどと思うでしょうか?逆に、もし神が罪を簡単には赦さない方ならば、どうしたらいいのか?何か償いをしなければならないのか?神が、お前の償いは完璧だから赦してやることにする、と言ってくれても、その後の人生でいいことがなければ、そんな神に方向転換したことを後悔するでしょう。逆に、いいことがあって、それで神の方を向き続けることが出来たとしたら、それでは足元はおぼつかないでしょう。
実は、イエス様は人間が神に向かう方向転換がおぼつかないものではない、完璧なものにしてくれたのです。そのことを後で見ていきます。悔い改めなさい、方向転換しなさい、と言うのは、これからそれが出来るようにしてあげよう、だから、私のところに来て私の教えることを聞きなさい、私の行うことを見なさい、ということです。
イエス様は併せて、「神の国は近づいた」と宣べました。これは驚くべきことです。神の国というのは本来は、終末の時、天と地が新しく創造し直されて、今の世が新しい世に生まれ変わった時に現れるものだからです。
「神の国」に終末論が関係することについて少し触れておきましょう。ここ数週間の説教でもお教えしてきたことですが、聖書には終末論の観点があります。今のこの世が終わり新しい天と地が創造され、新しい世が始まるということです。終末論とは言いますが、正確には終わりだけでなく始まりも考えられます。新しい世では「神の国」が唯一現れる国となり、再臨するイエス様が最後の審判を行い、誰が「神の国」に迎え入れられ誰が入れられないかを決めます。その時、死者の復活が起こり、迎え入れられる者たちはこの世で纏っていた朽ち果てる肉の体にかわる神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられます。
「神の国」がどんな国かを考える時、黙示録21章4節で言われていること、つまり神が迎え入れられた者たちの目から全ての涙を拭われた国であり、死も悲しみも嘆きも労苦もない国であることに着目すべきと先週申し上げました。死も悲しみも嘆きも労苦もないので、安心安逸な天国そのものです。それに加えて、神が拭われる涙はギリシャ語原文で「全ての涙」なので、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結させられ完全なものにされるということです。神の正義が完全と言うのは、人間は他人のことのみならず自分のことさえも知り尽くすことはできません。それなので人間が下す判断はいつも偏って不完全です。人間のことを知り尽くしているのは、人間を造られて一人ひとりの髪の毛の数まで知っておられる創造主の神だけです。その神が下す判断が偏らず完全で、それが隅々まで行き渡っている国が神の国です。
イエス様はその「神の国」が近づいたと言ったのですが、それじゃ、もうその時は終末だったのか?しかし、あの時から今日まで天と地は全然変わっていないじゃないか?そういう疑問が起きます。イエス様は何を意味したのか?
それは、「神の国」がイエス様と共にあった、というか、イエス様の背後に控えるようにしてあった、ということです。どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業を思い出しましょう。無数の病人の癒し、悪魔の追い出し、自然の猛威の静め、そして今日の個所のように、わずかな食糧で大勢の人たちを満たすことがありました。健康、安心、安全、魂の守り、全て神の国に当たり前のようにあるものです。イエス様の奇跡の業と言うのは、「神の国」がどういう国であるかを人々に垣間見せた、味わわせたという意味を持ちます。もちろん、イエス様が慈悲深い方で困っている人を助けないではいられなかったと言うことも否定はしません。しかし、それならば、もっと大勢の人たちを助けるためにもっと地上にいてもっと多くの国々を回った方がよかったではないかということになります。イエス様は、まず当時の人々に「神の国」で当たり前にあることに与らせることをして、人々の目と心を神の国に向けさせました。後世の人は、それらの証言や記録に触れることで目と心を向けることが出来るようになりました。
イエス様は人々の目と心を神の国に向けさせただけに留まりませんでした。人々がそこに迎え入れられる手はずも整えたのです。イエス様の十字架と復活の出来事がその手はずでした。
人間に神の意思に反する罪が備わっていることは、世界や自分の周りに起きている痛々しい出来事を見ればわかります。自分自身を振り返ってみてもわかります。また自分は周囲に対して何も迷惑をかけていないと、優等生のつもりでいても、十戒の掟を鏡として自分を見れば、神の意志に沿うものでないことがわかります。人間はそのままの状態では、神の目から見て相応しい者ではないのです。神とイスラエルの民との間の旧い契約に基づけば、人間は神から与えられた掟を守れば、神の目から見て相応しい者になれるということでした。ところが、神が求めているのは外面的な行いだけでなく心の中の清さもそうなので、それは人間には不可能なことが明らかになりました。
そこで神が採った策は、誰かに人間の罪を全て償ってもらい、人間の罪を帳消しにした状況を創り出して、人間をその中に入れて人間を神の目に相応しい者に変えていこうというものでした。それでは、誰が人間の罪を償う役割を果たすのか?それが神のひとり子のイエス様だったのです。神聖な神の神聖なひとり子です。これ以上の身代わりはないという犠牲でした。これがイエス様のゴルゴタの丘の十字架の死の出来事の真相だったのです。人間は、この神の策による罪の償いが自分に対しても行われたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪を赦された者として見られるようになり、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むようになります。神の目に相応しくなろうとして自分で何かを成し遂げたのではなく、神のひとり子にそうしてもらったのです。畏れ多いことです。自分がしたことと言えば受け取るだけで、他は何もしなかったのに、天地創造の神が毎日、私の傍にいて祈りや願いを聞いてくれる神になったのです。
それからは、神のこの深い恵みに背くような生き方は出来なくなります。 もちろん、キリスト信仰者になっても弱さはあるし、隙をつかれることもあります。しかし、たとえ神の意思に反することがあってどうすれえばいいのか、ということになっても、一度打ち立てられた十字架の贖いの力は消えません。罪の赦しがそこにあるのだと確認できれば、また前に進んでいくことができます。その時の方向転換は本物です。進んでいく先とは「神の国」です。そして、この世を去った後、復活の日に目覚めさせらる時、神は、このように絶えず十字架に戻りながら前に進んでいたことを覚えていて下さるのです。
イエス様が奇跡の業を行ったのは「神の国」を垣間見せた、味わわせた、ということであり、それは人々を、当時の人も後世の人も皆、「神の国」に導くためでした。しかも、イエス様は、十字架と復活の業を通して、その導きを具体的なもの、現実のものにして下さったのです。ただ単に超能力を行使していたということではなかったのです。もしそれだったら、人々の目は「神の国」になど向かず、イエス様を教祖として拝むだけでしょう。
イエス様は、奇跡の業で私たちの目を「神の国」に向けさせるだけではありませんでした。教えを通しても、神の国がどのような国であるかを知らせました。先々週と先週のたとえの教えは、まさに「神の国」とそこに迎え入れられる者はどういう者かについて教えるものでした。「からし種」と「パン種」のたとえでは、朽ち果てる肉の体を纏った、取るに足らない私たち人間が、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで、最後には神の栄光を映し出す復活の体を纏う者に変わるということが教えられていました。「畑の宝石」と「真珠」のたとえでは、人間は神のひとり子の血を代償として神のもとに買い戻されるという位、神に高価なものと見なされて、神の国が現れる日までずっと守られているということが教えられていました。「良い麦と毒麦」と「魚を捕る網」のたとえでは、終末の時、神の国に迎え入れられる者と入れられない者の選別があるということが言われ、特に、最初迎え入れの候補者だった者も除外される可能性があるということ、だから、まさに今これからイエス様が果たした償いを受け入れて、十字架に戻りながら前に進むことを始めるかどうかにかかっているということが教えられていました。
イエス様の「神の国」を教えるたとえには、神の正義について教えるものもあります。マタイ20章にあるブドウ園の所有者と労働者のたとえでは、朝から晩まで一日中働いた者と夕方に来てちょっと働いた者の賃金が同じになることがあります。これは、神の国への迎え入れということについて、子供の時からキリスト信仰者として信仰ゆえにいろいろ苦労があった人も、晩年にイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてそういう苦労がほとんどなかった人も、神の招きに応じたのだから神の目から見て同じくらい相応しいということを意味します。神の国への迎え入れに関しては、神がイエス様を用いて用意したことを受け取るかどうかが本命になります。そこには人間社会の正義の尺度からはみ出すものがあるのです。
以上から、本日の日課の5,000人以上の空腹を満たす奇跡の出来事も、他の奇跡も全て、イエス様を救い主と信じて「神の国」に向かって進む者にとっては起きて当然のものになることがわかって頂けるのではないかと思います。「神の国」に向かって進んでいない人にとっては、あり得ない話に留まるでしょう。
本説教の最後の部分です。本日の旧約の日課はイザヤ書55章の個所でした。一見すると、お金がなくても神が食べ物と飲み物を与えてくれるような内容です。4節と5節を見ると、諸国民に対する証人、諸国民の指導者、統治者とあるので、イエス様のことを指しているとわかります。そうすると、この個所は5,000人の奇跡を暗に意味していると考えることが出来ます。そこで、5,000人の奇跡が単なる空腹の満たしの超能力ではなく、「神の国」を知らせ迎え入れに導く奇跡であれば、このイザヤ書の個所も同じです。
1節で「穀物を求めて、食べよ、来て、銀を払うことなく穀物を求め」の「求め」はヘブライ語原文では「買う」です。お金がないのに「買う」というのは変なので「求め」に訳したのではないかと思われますが、要は「タダで手に入れる」ことです。私たちは罪の償いと神の国への迎え入れを神からタダで頂きました。2節で「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」というのは、せっかく神が無償で与えてくれる救いがあるのに、人間は違うものに救いがあると思って、それに自分の持っているものや労力を費やそうとしている。そこで、神は、私に聞けと命じます。「聞け」が何度も繰り返されます。と何度も繰り返されます。
2節の中ほどに「わたしに聞き従えば」とありますが、ここはヘブライ語原文は命令形です。それもとても強調された言い方の命令です。それで、「しっかり聞くんだ!」としておきます。実はここのところをヘブライ語で読んでいくと、シムアー・シャーモーアと読みますが、いきなりイザヤ書6章9節に引き込まれます。というのは、そこにも同じ言い方があるからです。ただし、使われ方は180度正反対です。6章9節は、神の意思に反する生き方をするイスラエルの民に神が罰を下すところです。「しっかり聞け!しかし、お前たちは理解するな」と命じるのです。神との旧い契約が破綻したことを示しています。
それとは対照的に55章2節の「しっかり聞け!」は、「そうすればお前たちは良い物を食することが出来、魂に命を吹き込むことが出来る」と続きます。続く3節では新しい契約について言われます。新しい契約とは何か?それは、律法を守ることで神の目に相応しくなろうとするのではなく、神のひとり子が果たしてくれた罪の償いを受け入れることで神の目に相応しくなることです。神の目に相応しいものにされた以上は、これからは神の意思に沿うようにと自分を方向づけていきます。そこでは神に聞くことが重要になります。
神に聞くこととは、聖書を繙くこと、説教で御言葉の説きあかしを聞くことです。聖餐式のパンと葡萄酒は、神の国に向かって進んでいく時に起きてくる霊的な空腹を満たすものです。神が無償で与えて下さる糧です。消費すればするほど満たされ、消費してもなくなることもありません。まさに聖餐式は、全てが満たされている神の国を先取りするものです。聖餐式で私たちは神の国を味わい垣間見ることになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
列王記上3章5-12節、ローマ8章26-39節、マタイ13章31-33、44-52節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先々週から福音書の日課はマタイ13章のイエス様のたとえの教えです。先々週は「種まき人」のたとえ、先週は「良い種と毒麦」のたとえでした。今日は、短いたとえがいくつかあります。まず、「からし種」と「パン種」の二つのたとえ、これは群衆を前にして語られました。その後でイエス様は群衆と別れてある家に行き、そこで弟子たちに四つのたとえ、「畑の宝物」と「良い真珠を探す商人」と「魚取りの網」、そして「天の国のために弟子になった律法学者」のたとえを話されました。最後のたとえは、新共同訳では「天の国のことを学んだ学者」ですが、ギリシャ語原文の正確な訳は今申した通りです。
今日は合計六つのたとえがあることになりますが、先週の「良い種と毒麦」と今日の最後のもの以外の五つは全部、イエス様が言うように「神の国」をたとえるものです。ただし全部について「神の国」とは言わず「天の国」と言われています。これは、マタイが「神」という言葉を畏れ多くて使わず、「天」に言い換えていることによります。「天の国」も「神の国」も同じことです。後で「神の国」について見ていきます。
イエス様はこれらのたとえを神の国が理解できるために語られました。私たちは、これらを聞いて神の国がどういう国であるか理解できるでしょうか?そういうわけで本日の説教では、これらのたとえをもとにして神の国を理解してみようと思います。まず説教の第一部は、聖書で言われる神の国について少し一般的なことを述べておきます。そうすると後でたとえの教えがわかりやすくなると思います。第一部ではまた、本日の旧約の日課、列王記上の個所が役に立つと思います。第二部では、本日のイエス様のたとえの教えをみます。第三部では、神の国を信じる者はこの世をどのように生きることになるかということについて見ていきます。そこでは、本日の使徒書の日課、ローマ8章が役に立つでしょう。
先週の説教でもお教えしましたが、聖書には終末論の観点があります。今のこの世が終わり新しい天と地が創造され、新しい世が始まるということです。終末論とは言いますが、正確には終わりだけでなく始まりも考えられます。新しい世では神の国が唯一現れる国となり、再臨するイエス様が最後の審判を行い、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないかを決めます。その時、死者の復活が起こり、神の国に迎え入れられる者たちはこの世で纏っていた朽ちる肉の体にかわって神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられます。
神の国がどんな国かを考える時、黙示録21章4節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」とあるので、安心安逸な世界、天国そのものとわかります。ただ同じ節に、神は御許に迎え入れられた者たちの目から涙をことごとく拭われると言われているので、そこにも着目します。この涙は、痛みや苦しみの涙だけではなく、無念の涙も含まれる、文字通り「全ての涙」です。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結に至らされ完全なものにされるということです。正義というのは、とても難しいことです。大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても補償や償いが見合わないということがあります。逆に、本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求めるということもあります。そういうことは日々のニュースを見ても気づかされるし、私たちの身の回りにもよくあります。このように人間同士が行うことは、不釣り合いで不完全なことばかりなのです。釣り合いが取れた完全な判断というものは、全ての人間の全てのことを知り尽くしている者でないと出来ません。そのような者は、人間そのものを造られ、人間一人ひとりの髪の毛の数まで知っておられる神をおいて他にありません。神の国とは、神の判断が隅々まで行き渡っている国なので完全な正義があるのです。
本日の旧約の日課の個所でソロモン王が神にお願いしたことは、そういう神の正義を求めるものです。ソロモンは父ダビデからイスラエルの国と人民を受け継ぎました。彼はこの勢いある国をちゃんと統治できるか自信がありませんでした。もちろん権力があるので、自分の好きなようにやることは可能です。自分にたて突く者は排除し、自分に媚を売る者を周りに集めてやりたい放題できます。しかし、王はそれを望みませんでした。「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい」(3章9節)と願い出ました。長寿も富も敵の命も要らない、本当に正しい決定を行える心を望んだのです。国を統治する時、多くの決定を下さなければなりません。いろんな利害や対立を解決しなければなりません。その時、いろんな声を聞かなければならなくなるでしょう。人間が把握できることは限られています。全てを把握しようとすると無制限になってしまって何も決められなくなります。見切り発車したら多くのことを見落としてしまい、ある人たちは満足しても別の人たちはしないということになります。
しかし、全てを把握している全知全能の神は誰が見てもこれ以上のものはないという決定を下せます。私たちはそういう超えた判断をされる方がおられるとわかった時、例えば、自分が得た利益は他人に犠牲を強いたものだったかどうか振り返ってみることができます。また他人の重荷を軽くするために自分はこれくらいの犠牲は担えると言うこともできます。ソロモンはまさに人間的な思いが入り込まない、神の思いを自分の思いにして決定を下したかったのです。どうしてそう言えるのかというと、3章11節で神がソロモンに、お前が望むのは(ヘブライ語で)”ミシュパート”が分かるということだな、と言っているからです。”ミシュパート(משפט)”というのは、ずばり「正しい決定」、「正義」を意味する言葉です。新共同訳では「訴え」と訳されていますが、正確ではありません。このソロモンの望みが神の御心に適っていたのは言うまでもありません。神はソロモンに知恵を与えました。ソロモン王の治世の間、イスラエルの王国は繁栄の頂点に達しました。ただ、繁栄に伴って富や名声も膨れ上がり、やがて人間的な思いが入り込むようになって神の思いが脇に追いやられていきます。それが後に禍のもとになっていきます。そのことについてはまた別の機会にお話しすることになるでしょう。
以上、神の国とは、新しい天と地のもとでの新しい世に現れる国であり、神の栄光を映し出す復活の体を纏われた者たちが迎え入れられる国、痛みも苦しみもない天国そのものであるだけでなく、神の意志と判断が隅々まで行き渡り正義が完全に実現される国であることを見てきました。その国をイエス様は本日のたとえでどう教えているでしょうか?
神の国は新しい世に現れるからと言って、今の世にまったく何もないということではありません。先週の「良い種と毒麦」のたとえの教えでもお教えしましたように、「人の子」イエス・キリストは今は父なるみ神のもとにいながら、今この世で行われている福音伝道や教会生活を通して将来神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てています。神の国が目に見える形で現れるのは将来のことですが、それは今は目には見えない形で始まっているのです。それでは何が始まって、今どう進んでいるのでしょうか?
確かにこの世の段階では、復活の体を纏った者たちが集い、正義も健康も安全も全てが完全になっている国は夢物語です。今あるのは何かと言うと、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で果たして下さった人間の罪の償いがあります。それから、それを受け入れて神との結びつきを回復して神の国に向かう道を進んでいる者たちがいます。彼らはまだ復活の体を纏っておらず肉の体ですので、神の意思に反することにいつも晒されてしまいます。それで心はいつもイエス様の十字架の下に立ち返り、神から罪の赦しを確認してもらいながら、また進んでいくという生き方です。キリスト信仰者はまだ不完全な状態ですが、イエス様の十字架による罪の償いという完全な償いを持てています。今、神の国という完全な国に向かう道を神との結びつきを持って歩んでいるということです。不完全なものが完全なものになる前に完全なものに結びつけられているということです。
そこで、「からし種」と「パン種」のたとえを見てみましょう。まず、「からし種」のたとえ。神の国は今は目に見えないものであるが最後には結果がはっきり現れるというのは、数ミリ位のあるかどうかわからない「からし種」が成長して最後には鳥たちが巣を作るくらいの木になるのと同じだということになります。天の鳥たちが木の枝に巣を作るというのは、旧約聖書の預言で神の国をたとえるものとして言われています(ダニエル4章9、18節、エゼキエル17章23節、31章6節)。
「パン種」というのは、以前に作ったパンの生地の小さな残りを発酵させて、次のものを作る時に生地に混ぜると、良い香りがしてパンも膨らむというものです。三サトンというのは小麦粉39リットル位の量でそれから出来る生地なので、かなり大量のパンが出来ます。小さな発酵した生地のかけらは、それ自体では何の価値もないのですが、それがふっくらした香ばしい大きなパンを生み出すのです。これも、取るに足らないものから大きく目に見える素晴らしいものが現れるということで神の国にたとえられています。
ここで私は見方を拡げて、パン種もからし種も復活の体を纏わされた者たちのことも指していると考えます。取るに足らない、それ自体何の価値もないようであるが、撒かれて神に成長を与えられて立派な木に育つ、または捏ねられるように神に手をかけてもらってふっくらした香ばしいパンに変わる。これは、朽ち果てる肉の体が神の栄光を映し出す復活の体に変えらることと同じです。神の国とは、そのような者たちを構成員とする国なのです。
次に「畑の宝物」と「良い真珠を探す商人」。これらのたとえが解釈される時は普通、宝物と真珠は神の国を意味する、つまり神の国がそれほど素晴らしいので登場人物は自分の全財産を売り払ってまでして購入する。そういう神の国の何ものにも代えがたい素晴らしさを語っているのだと考えられることが多いと思います。神の国が素晴らしい価値あるものというのは私も同意見ですが、今回はこう考えたらどうかという解釈の提案をいたします。それは、宝物を見つけた人や商人が全財産を売り払ってまで購入したというのは、これは神がひとり子イエス様を犠牲にしてまで私たち人間の罪を償って下さったことを意味するのということです。人間はイエス様が十字架で流された血を代償として、罪と死の支配下から神のもとへ買い戻されました。それ位、私たち人間は神の目から見て価値あるものと見なされたのです。- どうか多くの人がこの素晴らしい真理に気づくことが出来ますように - そうすると、たとえの宝物や真珠はイエス様に罪を償ってもらった価値ある人間ということになります。これを高い代価を払って買い取ったのは神ということになります。神は畑ごと買うので、誰もそこに足を踏み入れることが出来ません。これはまさしくイエス様を救い主として受け入れて罪の償いを自分のものにしたキリスト信仰者が復活の日まで守られていることを意味します。
次の「魚を捕る網」のたとえは、先週の「良い種と毒麦」のたとえと同じ内容です。最後の審判の時に誰が神の国に迎え入れられ誰が迎え入れられないかということが決められる、その日が来るということです。せっかく同じ網にかかっても投げ捨てられてしまうというのは、「良い種と毒麦」にあったのと同じ問題提起があります。それは、神の国に迎え入れられる予定の者だったのに神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということでした。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分自身のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。神からの罪の赦しの中にとどまって神との結びつきを守る者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように、また器に入れられる良い魚のように神の御国に迎え入れられるという保証はありません。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それで今後も火に投げ込まれる毒麦や悪い魚のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。
最後のたとえ「神の国のために弟子になった律法学者」はわかりにくいかもしれません。それを見ていきましょう。「律法学者が神の国のために弟子になると皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す屋敷の主人のようになる」というのはどいういうことでしょうか?律法学者とはモーセ律法の専門家で、神とイスラエルの民との間で結ばれた契約について熟知している専門家です。彼らが今度はイエス様が教える神の国を受け入れると、こういう屋敷の主人のようになるというのです。イエス様が教える神の国を受け入れるというのは、イエス様の十字架と復活は本当に起きたのだ、それは神の計画の実現であり、人間が神の国に迎え入れられるようにするために行われたのだ、そう信じることです。イエス様を救い主と信じることで神との結びつきが生まれるとそれは神との新しい契約になります。こうして律法学者の専門知識には古い契約と新しい契約の両方が入ることになります。新しい契約が来たからと言って十戒の掟が廃棄されることはありません。十戒は新しい契約の中で新しい役割を果たすようになります。守らなければ神の罰を受けるぞと人間を追い込むものではなくなりました。かわりに人間が神の意志に沿えない罪深いものであることを映し出す鏡になって、人間に罪の自覚を生み出してイエス様の贖いの業の必要性を覚えさせて 人間をイエス様の下に送り出す役割を持つようになりました。
そういう律法学者が実際にいたかどうかは聖書からではわかりません。ある律法学者がイエス様との問答で最も大事な掟は何かと聞いて、イエス様が神を全身全霊で愛し、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛せよ、と答えたことがあります。その答えに感銘を受けた律法学者はそれを復唱し、イエス様から「お前は神の国から遠くはない」と言われたことがあります(マルコ12章34節)。「遠くはない」だから、まだ神の国の弟子にまでは至らなかったようです。でもそれは無理もないことでした。まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きていなかったのですから。
以上、本日のイエス様のたとえを見てきました。神の国やその構成員は、今のこの世では取るに足らないものであるが、神は手をかけて育てたり捏ねたりして、最後には必ず結果が目で見えるものになって現れるということ。さらに神は、私たち人間のことをひとり子を犠牲に供してもよいと考えるほど価値あるものと見なし、イエス様を救い主と信じて受け入れた者を復活の日まで守って下さり、その守りの中に留まる限り必ず神の国に迎え入れて下さることがわかりました。
復活の日まで守って下さると言われて、その通りだと信じますとは言ったものの、本当にそうだろうか、守ってもらっていないのではないかと思う時があります。また、守ってもらっていながら、自分は神の意志に反することばかりではないか、いつ守りの手を離されてもおかしくない、実はもう離されてしまったのでは?と心配することもあります。そんな時は、本日の使徒書の日課ローマ8章の個所を見てみると、そんなことはない、神は私から手を離さないばかりか、私自身がその手を離さないように力を下さっていることがわかります。
先週8章に入りました。洗礼を受けた者には、神の霊、聖霊が宿っているということが言われました。聖霊が肉の体に楔のように打ち付けられているので、その通りに出来るかできないかは別として、神の意志に沿おうとする意志と心があります。それが内面の戦いを生み出し、キリスト信仰者はため息をつくようなことばかりだが、将来神の栄光を現わす復活の体を纏わされて神の国に迎え入れられる希望を持っています。この希望を持っている限り、もう救われた、神の国に迎え入れられるから心配するなということになります(8章24節)。この希望がないとどこに向かっていけばいいかわからなくなり、救われないことになります。
希望があって向かうべきところがわかって進むと、今度はそれを邪魔するようなことが起きてきます。悪魔がキリスト信仰者の心と目を罪だけに向けさせて赦しがあることを忘れさせようとします。この世の誘惑や迫害が信仰を捨てさせようとします。それで、本日の個所では聖霊が弱い私たちを助けてくれるということが言われます。先週、私たちには聖霊があるので一人孤独の中で進んでいるのではないことがわかりました。本日の個所では聖霊とイエス様が私たちの祈りを父なるみ神に取り次いでくれていること、そして神自身も私たちを本当に手をかけて守り導いて下さっていることが強調されます。「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」と言います(8章28節)。この訳では万事が益になるのは自動的になるような意味です。その訳も可能ですが、神自身が益をもたらすとはっきり言う訳も可能です(後注)。それに基づいてギリシャ語原文を訳すと次のようになります。「神が万事において影響力を行使して最善のものにしていく。
私たちは、イエス様が果たして下さったことは全て神の御心によるものであったとわかって、それで神を愛するようになると、神はその者を守り導きます。たとえ今起きていることはその人にとって最善のものになっていないかもしれないが、神は全てのことを驚くべき仕方で組み換え組み合わせてよいものに変えて下さるのです。
このような神がキリスト信仰者の側に立っていて下さるので、本当はもう怖いものはありません。本日の個所でパウロが言っていることを忘れないように毎日読み返しましょう。神はひとり子のイエス様を私たちに贈って下さったくらいに、私たちを罪と反対の義なる者にしようとされたのです。もし私たちを罪に定めることが目的なら、ひとり子など送らなかったはずです。だから、私たちには神の愛、キリストの愛が疑いもなく注がれており、何ものも私たちをこの愛から引き離す力を持っていません。私たちの目と心を惑わすことは出てくるかもしれませんが、それは惑わされた目と心がそう感じただけの話で、神の愛自体は全然変わっていないのです。そのことを忘れないようにしましょう。神の愛が全然変わっていないことは聖書の御言葉からいつも確認できます。聖書を繙き説教を聞くことも忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
(後注)動詞συνεργειの主語をπανταとすれば、新共同訳のような訳になります。主語を神θεοςとすれば、ここで申し上げたような訳になります。その場合、πανταは名詞ではなくなり、「万事において」という副詞用法になります。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
主日礼拝説教 2020年7月19日(聖霊降臨後第七主日)
本日の福音書の日課は先週に続いてイエス様のたとえの教えです。良い種と毒麦のたとえです。先週は「種まき人」のたとえでした。マタイのバージョンでは種は福音を聞いた人を意味しました。迫害や誘惑に遭っても信仰を保ち続け、神の意志に沿う生き方をすることで善を生み出す、そのことが良い土地に撒かれて実を結ぶということにたとえられているとお教えしました。ルカのバージョンでは種は神の御言葉であり、マルコのバージョンでは神の御言葉と人間の双方を意味するので、教えの内容も視点が変わってくるということも申しました。
本日のたとえも種は人間を指していますが、実る実は人間のままなので、「種まき人」で実が善であるのとは違います。加えて、種は二種類あります。つまり、二つの異なる人間のタイプがあるということです。一つは良い種でこれは麦に育つ。もう一つは毒麦になる種です。毒麦というのは、ちょっとネット情報を見ましたが、イネ科の植物で、写真を見ると、なるほど穂が出たばかりだと麦と見分けがつきにくいようです。麦がちゃんと黄金色に実ったら区別できるようです。毒麦という名前ですが、それ自体に毒性はないのだが、何か悪い菌が付きやすく、家畜が食べると中毒を起こすことからその名が付いたとのことでした。
そこで、このたとえをもう一度見てみましょう。ある人が良い種を畑に撒いた。知らない時に敵が来て毒麦を撒いて行ってしまった。麦が育って穂が出始めた時、毒麦も一緒に育っていた。僕たちが主人に毒麦を抜きましょうかと聞くと、主人は今の段階では区別がはっきりしないから麦も一緒に抜いてしまうおそれがある、刈り入れ時まで待って区別がはっきりつくようになったら、まず毒麦を抜いて集めて燃やし、麦は刈り入れて倉に納めると言います。
イエス様はこのたとえを群衆に聞かせた後で弟子たちに限ってその説明をします。それを見ますと、実にこのたとえは聖書の終末論の観点が結晶したものと言えます。まず、良い種を撒く者は「人の子」と言いますが、それはイエス様を意味します。ただし、イエス様はイエス様でも「人の子」のイエス様は、十字架と復活の出来事の前にこの世で活動されたイエス様というよりは、終末論的な存在です。どうしてかと言うと、ダニエル書7章に預言されている「人の子」とは、まさにこの世の終わりに現れる救世主だからです。イエス様は自分がそれであると言うのです。そこで終末論的なイエス様とは何かと言うと、復活された後、天に上げられて今は天の神の右に座しているが、将来この世に再臨して最後の審判を司ることになる救世主イエス・キリストということです。この方が再臨の日までずっとこの世で良い種を撒いているのです。種が撒かれる畑とは世界そのものと言われます。そして良い種とは御国の子、つまり将来、神の国に迎え入れられる者たちです。正確に言えば、迎え入れられるのは種が育った実ですので、種は候補者ということになります。つまり、天上のイエス様は、地上で行われる福音伝道や教会生活を通して将来の神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てているのです。
そこで、毒麦というのは、良い種と正反対のもので悪い者の子と言われます。正反対なので将来神の国に迎え入れられない者たちです。毒麦を撒いた敵は悪魔です。悪魔とは、創世記の初めに最初の人間に神の意思に反することをするように仕向けて神と人間の結びつきを失わせた張本人です。悪魔の目的は人間が造り主である神との結びつきを失ったままでこの世を生き、この世を去った後も永遠に神のもとに戻れなくすることにあります。それで、毒麦を撒いて、正しい麦と入り混じるようにして、正しい麦の成長を邪魔したり、また慌てた主人が急いで毒麦を刈り取ろうと正しい麦も一緒に刈り取ってしまい一緒に燃やされたら、悪魔にとって大成功なのです。しかし、そうはなりませんでした。主人は刈り入れの時を待つことにしました。正しい麦も毒麦も育つだけ育って、しっかり見分けがつくようになった時に、毒麦は毒麦で正しい麦は正しい麦で刈り取って、一方は燃やし一方は倉に納めることにしました。
イエス様は、刈り入れの時は世の終わりを意味すると言います。つまり、今のこの世が終わって新しい天と地の創造が起こって、そのもとで神の国が唯一の国として現れる時です。世の終わりとは言いつつも、実は新しい世の始まりも意味します。聖書にはこのような今の世の終わりと新しい世の到来という観点があります。イエス様の再臨と最後の審判は、この二つの世の過渡期に起こることです。最後の審判の時にはまた、眠りについている者も起こされて、誰が新しい世の神の国に迎え入れられるかが明らかにされます。神の国に迎え入れられた者たちは倉に納められた麦ということになります。彼らは太陽のように輝き、毒麦は燃えるさかる炉の中に投げ込まれると言われます。これは明らかにダニエル書12章の預言を土台にしています。
以上のように、良い種と毒麦のたとえは聖書の終末論を凝縮したような教えです。そこで問題になるのが、それでは、良い種から育って倉に納められる麦、つまり神の国に迎え入れられる者たちとは具体的に誰のことを指すのか、ということです。そして、火の中に投げ込まれてしまう毒麦とは誰のことか?「人の子」イエス・キリストが地上の福音伝道と教会生活を通して、神の国に迎え入れられる人を増やし育てようとしているので、良い種や麦の実はキリスト教徒ということになります。そうすると、火に投げ込まれるのはそれ以外の者たちということになります。こういうのは他の宗教の人たちや無宗教の人たちは顔をしかめるでしょう。キリスト教会の中でも現代の宗教対話の思潮にそぐわないと思う人がいるでしょう。そのような人は、このたとえを現代の思潮にあうように解釈するかもしれません。しかし私としては、イエス様やイエス様のことを伝えた使徒たちが思いもよらないことを、イエス様が言ったことにしてしまうのはイエス様に気の毒というか申し訳ない気持ちになるのでしません。時代の要請はそれとして、それには耳栓をして聖書の御言葉の中に潜り込んでいくことをします。そしてまた水面に浮上した時に世の中や時代はどう見えて、御言葉はどんなインパクトを与えるかを考えたく思います。もちろん、御言葉の中に潜り込むなどというのは、いくらヘブライ語やギリシャ語やアラム語が出来てもそんなに簡単なことではありません。それはよくわかっています。しかし、このようなスタンスで私は聖書の説き明かしをしているということを申し上げておきたく思います。
話が脇道に逸れましたが、このたとえがキリスト教徒とそうでない人たちの二分法で言っているということに関して、一つ注意しなければならないことがあります。それは41節でイエス様が、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものをすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」と言っているところです。つまづきとなるものとは、キリスト信仰を持つ人に対して持てなくなるようにしてやろうと躓かせることです。誘惑や迫害があります。不法とは、神の意志に反すること全てです。具体的には十戒の掟に反することです。天地創造の神を唯一の神、自分の造り主としてお祈りしないこと、神の名を汚すこと、安息日を無視すること、両親を敬わないこと、人を傷つけること、異性をふしだらな目で見たり不倫をすること、他人のものを奪うこと、偽証したり真実を曲げること、他人を妬んだり他人や他人のものに執着心を抱いてしまうこと等々です。
ここのイエス様の言葉をよく見ると、「自分の国から集めさせ」ると言います。つまり、神の国に迎え入れられる予定の者だったが、神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということです。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。キリスト教徒でも、つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように神の御国に迎え入れられるという保証はない。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それでこれからも火に投げ込まれる毒麦のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。
誰が倉に納められて、誰が炉に投げ込まれるかという問題については、ここではこれ以上のことはもう言えないので、ここでやめておきます。ここから先は、キリスト信仰者は本当につまづきとなるものをことごとく踏みつぶして神の意志に沿うような生き方が出来るのかどうかということを見ていこうと思います。これを考える際に、本日の使徒書の日課ローマ8章がよい手引きになります。
3週間前から使徒書の日課はローマ章から章を追って見ています。6章で使徒パウロは、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説きます。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になっている。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ足枷になるのは、律法の掟が罪を罪として白日の下に晒してながら鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は律法の掟を通して何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分にやはり律法の掟を通して気づかされてしまう。そのことをパウロは7章25節で自分を例にして、信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。
しかしながら、パウロは8章1節で断言します。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊が楔のように打ち込まれています。それでパウロは11節で次のように言います。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対である、と先週の説教で申し上げた次第です。
今日はその続きの12節からです。今は肉の体を纏ってはいるが、そこに聖霊が楔のように打ち込まれました。それで肉の思いに相対立する神の意思を知っています。罪の命じることに真っ向から対立する聖霊の命じることに耳を傾けるようになりました。復活の日に肉も罪も消滅して復活の体を纏うことになるので、今は何か大きな過渡期を進んでいるようなものです。この過渡期では、先にも申し上げたように、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にしなければなりません。そこでパウロは13節で言います。聖霊によって体から生じてくる業を死なせるならば、あなたがたは永遠の命に入れます、と。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」ですが、ギリシャ語の動詞タナトオ―は「殺す」「死なせる」とかなりどぎついです。しかも、「絶つ」と言ったら、エイ!ヤー!と罪を一気に断ち切ってしまうみたいですが、そんなことは無理です。そんなこと出来たら苦労はいりません。「ローマの信徒への手紙」の6章とと7章は要らなくなります。ギリシャ語の動詞の用法は死なせることが常態、日々繰り返し行われるという意味です(タナトゥーテは現在形の命令 アオリストの命令タナトーサテだったら「絶つ」の訳でいいでしょう)。罪との戦いは一気にケリがつくものではなく不断に続くものなのです。
体から生じてくる業を死なせるというのは具体的にはどういうことか?ルターが次のように教えています。まず、神の意思に反することをしてしまった、言ってしまった、思ってしまった、それは罪であると神の御前で認め、それを憎むこと。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって罪の赦しをゴルゴタの十字架にかけられた主に見出すこと。そこで神の手から罪の赦しを受け取ること。こうすることで、罪が私たちを支配下に置こうとするのを打ち破ることが出来るとルターは教えます。これが、体から生じる業を日々死なせていくことです。
この戦いは一人孤独に暗中模索で行うものではありません。パウロは、この戦いの真っただ中で聖霊が私たちキリスト信仰者を導いてくれていると言います。罪と戦っていること自体が聖霊に導かれていることの表れと言えます。パウロはこのように罪と戦って聖霊に導かれる者は「神の子」であると言います。14節からあとはこの「神の子」のテーマが教えを深めていきます。聖霊がキリスト信仰者を神の子にしていることは、信仰者が祈る時に神のことを「アッバ!」と呼びかけることから明白だと言います。「アッバ」というのは、アラム語のアッバーという父親を呼び掛ける言葉です。お父さん、父ちゃん、パパです。罪と戦って聖霊に導かれる「神の子」は神に祈る時、神を父親呼ばわりするのは当然なのです。
16節を見ると、聖霊と私たちの霊が一緒になって私たちのことを神の子であると証言していると言います。「私たちの霊」というのは何か?人間は神に造られる時、体と心という肉の部分に対して神から息を吹きかけられるようにして霊を吹き込まれて生きる者になります。こうした人間誰しもが持つ霊に加えて、洗礼を受けてキリスト信仰者になると聖霊が注がれます。それでキリスト信仰者には聖霊と各自の霊があって、それらが一緒になってキリスト信仰者のことを神の子と言うのです。
キリスト信仰者が神の子ならば、やはり神の子であるイエス様と兄弟ということになります。そうなると神の国もイエス様と一緒に相続することになります。このようにイエス様と同一の扱いを受ける者になると、今度はイエス様が苦しみを受けたことも一緒のものになると言います。イエス様と同一扱いでせっかくいい気になれたのに、苦しみも一緒だなどとは冷や水を浴びせらる感じがします。しかし、パウロはすかさず、イエス様の苦しみに与るのは、実はイエス様が受けた復活の栄光に与るためだと言います。さらにたたみかけるように、復活の栄光というのはこの世での苦しみなど色あせたものにしてしまうくらいのとてつもない価値があると言います(18節)。
19節からあとは話のスケールが急に壮大になります。神に創造されたこの世の被造物全てが、今この世で苦しむ神の子の復活の日の栄光を待っているというのです。復活の栄光が現れるのは、天と地が新しく創造し直される時ですので、その時は今ある被造物は全て消え去ってしまいます。その日を被造物が待っていると言うのです。一体どういうことでしょうか?そもそも今ある被造物は朽ち果てる運命に定められていると言います。それを定めたのは神だと言います。しかし、神がそれを定めたのは希望と抱き合わせだったと言います。どんな希望かと言うと、被造物が滅びという奴隷状態から解放されて、神の子たちが復活の栄光に変えられる解放に合流できるという希望です。神はこのような希望と抱き合わせで被造物を朽ち果てる運命に置いたのでした。
それなので、パウロはこの世の被造物は今、キリスト信仰者と一緒にため息をつき産みの苦しみにうめいていると言います。新共同訳では「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」ですが、ギリシャ語原文では後者は「共に産みの苦しみを味わう」(シュノーディネイ)で同じですが、前者は「共にため息をつき」(シュステナツェイ)です。フィンランド語訳の聖書もその通りに「ため息をつき、産みの苦しみを味わう」と訳しています。
ところが、23節からあとを見ると、希望ということが神の子に関わることとして述べられていきます。そのため希望をもって生きるのは神の子たちの方で、被造物の方は希望を与えられているのにそれを持っていないようなのです。パウロは、神の子が現れるのは肉の体が復活の体に変えられる時で、今はそれをため息をつきながら待っている状態だと言います。また「ため息をつく」という言葉が出てきました(ステナツォメン)。ため息をつくというのは、キリスト信仰者は復活の栄光に変えられる日までは、神の意志は分かっていても肉の思いに遮られる現実にため息をつく日々なのです。復活の日に必ず栄光に変えられると知っていて、その希望は持ってはいるが、希望が叶えられる日までまだ待たなければならないので産みの苦しみにうめいているのです。先ほど見た、アッバ、お父さん、と叫ぶ神の子はまだこの世の肉の体を纏っている時のことです。23節で言う神の子は肉の体が復活の体に変えられた正真正銘の神の子になった時のことです。しかし、それはまだ起こっておらず、希望の中のことです。ここでパウロは重要なことを言います。24節です。キリスト信仰者は復活の体をまだ目で見ていない状態、それを希望している状態で救われたのだ、と。どうしてそんなことが可能でしょうか?
イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、肉の体を纏いながらも聖霊が楔のように打ち付けられて、神の意志に沿うように生きようとします。肉の思いに反抗しようとします。人生の中でこれまでなかった大きな決定的な変化です。あとは復活の日まで聖霊に導かれて行きます。その日、復活の体を目で見ることになります。そうなったらもう希望することはありません。希望したことを目にしたからです。しかし、その日までは希望して生きていきます。それで今は復活の体を目で見ないで希望で感触を得ているようなものです。「希望している状態で救われた」というのは、復活の体の希望を持ったことが肉の体に挑戦状を叩きつけたことになり、神の側に立ったことを宣言したことであると言えます。この希望を持って生きると沢山のため息をつくことになるでしょう。しかし、この希望を持っている限り、つくため息はいつも次から次へと過ぎ去っていき、私たちは前に進めるのです。
主日礼拝説教 2020年7月12日(聖霊降臨後第六主日)
本日の福音書の個所はイエス様の「種まき人」のたとえの教えです。イエス様のたとえの教えの中で有名なものの一つです。同じたとえは、本日のマタイ13章の他にマルコ4章、ルカ8章にも記載されています。3つの記載にはみなイエス様のたとえの説明もついています。大体次のような内容です。神の御言葉を種のように撒くと4つの異なる地面に落ちた。まず、道端に落ちた種はすぐ鳥が来て食べて行ってしまった。これは、悪魔が御言葉を取り去ってしまうことを意味する。次は岩の上に落ちた種で、種は芽を出すが、太陽に焼かれて干からびてしまう。これは、御言葉を聞いて喜んで受け入れても、迫害とか信仰が原因で困難に陥ったら躓いて信仰を捨ててしまうことを意味する。その次は茨の茂みの中に落ちた種で、芽を出し育っていくが、勢いのある茨の方が覆いかぶさってしまい、実を結ぶことはできなかった。そして最後は良い土地に落ちた種で、これは沢山の実を結ぶ。これは、御言葉を聞いて「悟る」人だと言う。この「悟る」について後で見ていきます。
「種まき人」のたとえは、キリスト信仰者が自分はどのタイプになるのかと自問して反省する材料に用いられます。その意味ではこのたとえの教えはそう難しくはありません。しかしながら実は、これは一筋縄でいかない、とても底が深い教えなのです。ニコラス・トーマス・ライトというイギリスの有名な聖書学者が1996年に出した研究書の中で言っているのですが、このたとえの本当の意味について研究者の間で統一した見解がないというのです(後注1)。信じられないことですが、それを示すこととして聖書のいろんな解説書を見ると、このたとえに付されるタイトルがバラバラであることに気づきます。「種まき人」が多いですが、「撒かれた種の運命」とか「4つの土壌」とか、解説者がこれがたとえの主眼だと考えたものがタイトルになります。果たしてこのたとえの主人公は種を撒く人なのか、種なのか、土壌なのか?私事で恐縮ですが、2010年に私がまとめた博士論文の中でこのたとえについても調べる必要があったので調べました。その当時でも決定的な解釈はまだ出ていなかったと思います。それから10年経ちました。その間、学会の動向をフォローしませんでしたが、このたとえの本当の意味はこれだ!と言って世界中の学会もそれに間違いないと太鼓判を押すような解釈は果たして出たでしょうか?
このたとえの難しさを示すものとして、撒かれる種が何を意味するのかはっきりしないことがあります。マルコに記載されたイエス様の説明を見ると、撒かれるものは神の御言葉であると冒頭ではっきり言います(マルコ4章14節)。ところが、イエス様の説明をよく見ると、撒かれるのは人間であると何度も言われます。撒かれる種とは、果たして神の御言葉なのか人間なのか?人間が撒かれるとはどういうことなのか?(人間が撒かれるものになっているのは、日本語や英語その他の現代語の聖書訳でも確認できますが、原文のギリシャ語はもっとはっきりしています。この説教のテキストの後ろにギリシャ語がわからない人でも一目見てわかるような注を載せますので、興味ある方はホームページに掲載されるテキストをご覧下さい。後注2)
他方、ルカを見ると、「種とは神の御言葉である」と冒頭で言って(ルカ8章11節)、あとは徹頭徹尾、種イコール御言葉で通していきます。マルコのような二重の意味はありません。ところが、本日のマタイの個所では、ルカやマルコみたいに撒かれるものは御言葉であると言わず、人間が撒かれるものになっています。一度だけ、心の中に御言葉が撒かれると言いますが(13章18節)、あとは人間が撒かれるものとして何度も出てきます。
さあ、大変なことになりました。マルコは撒かれるものは御言葉と人間であると言い、ルカは御言葉だと言い、マタイは人間だと言うのです。このように福音書というのは、イエス様の教えや業について同じ出来事を扱っても記者の観点で強調点や焦点の当て方が異なってくることがしょっちゅうです。それなので福音書を読む時は、全ての観点を網羅すると全体像が得られるんだという気持ちで読むことが大事です。
本説教では、マタイ版の「種まき人」とマタイの観点を見ていきます。人間が種のように撒かれて4つの違いが出てくるという時、何が実を結ぶ、結ばないの決め手になるのか、そして実を結ぶとはどういうことなのかを明らかにしようと思います。その際、本日の旧約の日課イザヤ書55章と使徒書の日課ローマ8章も手掛かりになると思いますので、それもあわせて見ていきます。
「種まき人」のたとえについてイエス様が弟子たちに説明したことを見てみます。マタイ13章18~23節です。先ほど述べましたように19節に一度だけ「心の中に撒かれたものを奪い取る」と言って、撒かれたものが御言葉であると言っていますが、そこだけです。あとは、「道端に撒かれたものとは、こういう人である」、「岩に撒かれたものとは(…..)すぐにつまずいてしまう人である」、「茨の中に撒かれたものとは(…..)実らない人である」、「良い土地に撒かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」であると言います。
ここで「悟る」という言葉についてひと言。ギリシャ語の動詞συνιημιの意味は辞書では「バラバラなものを一つにまとめる」が基本的な意味で、そこから派生して「理解する」、「把握する」という意味で用いられます。「悟る」だと何か鋭い洞察力や直観で「見抜く」ような感じがあります。また、観念してあきらめるような時に「運命を悟った」などという言い方をします。それから仏教用語で「悟りを開く」というのがあります。それは何か心に迷いがなくなった状態で、それはキリスト信仰の平安と違います。キリスト信仰で言う平安とは、神と人間の間に平和な関係が得られていることが土台にあります。神と人間の間の平和な関係は、神のひとり子イエス様が人間の罪を全部ゴルゴタの丘の十字架で人間に代わって神に対して償った、それで人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその償いを自分のものにすることが出来る、それで神から罪を赦された者として見てもらえるようになった、ということに基づいています。イエス様の償いの業と彼を救い主と信じる信仰で、罪による神との敵対関係がなくなり、人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになりました。人間は神にとことんより頼む者になり、神にあらゆる事を打ち明けて祈り願い求め、神はそれを全部聞き遂げて、自分の良かれと思う時と仕方で答え導いて下さるという関係になったのです。このようにキリスト信仰では、ゴルゴタの十字架という歴史上の出来事のゆえに、神に対して強い深い信頼を寄せていて、その信頼と表裏一体のものとして平安があります。人間が何か修行や勤行をして何かの境地に達して心に迷いがなくなったというのとは違います。
そういうわけで、たとえの説明の中にある「悟る」も、本説教では「理解する」にします。他の国の聖書訳を見ても、英語NIVはunderstandで「理解する」、ドイツ語のルター訳も共同訳もverstehen、スウェーデン語はförstå、フィンランド語もymmärtääとみんな「理解する」です。なぜ、日本語訳は「理解する」ではダメだったのでしょうか?宗教的なニュアンスを持たせるために「悟る」にしたのでしょうか?もちろん、「理解する」と言うと、何か頭で理解するという頭でっかちな感じがして、ここで言おうとしていることを言い表せていないのではという心配もあります。ただ、理解は理解でもどんな理解が問題になっているのかがわかればいいのです。少しややこしくなってきましたが、どんな理解の仕方が問題になっているのかをわかるようにしましょう。
道端に撒かれた人は御言葉を聞いたが理解しなかった、それで悪魔に御言葉を心から奪い取られてしまった人でした。岩の上に撒かれた人は、御言葉を聞いてすぐ喜んで受け入れたが根をおろしていなかったので迫害や困難が起きると躓いてしまった。茨の中に撒かれた人は御言葉を聞いたが、思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいでしまった。そして、良い土地に撒かれた人は御言葉を聞いて「理解した」人で実を結ぶに至った、と言います。これを見ると、全てのケースで御言葉を聞いているのがわかります。ある場合は喜んで受け入れたとさえ言っています。ところが「理解する」ことがなかったために、みんな途中でダメになってしまった。御言葉を聞いて喜んで受け入れるだけではだめなのです。「理解する」ことがなければならないのです。逆に言うとこの「理解する」ことがあれば、悪魔が来ても奪い取られない、迫害や苦難が起きても躓かない、思い煩いや富の誘惑に覆いふさがれないで実を実らせることができるのです。
そうすると、御言葉を聞いて「理解した」という良い土地に撒かれた人は、御言葉を奪い取る者から守ることができ、迫害にも屈せず、思い煩いや富の誘惑にも覆いふさがれずに実を実らせるところまで到達した人になります。良い土地に撒かれたと聞くと、何も問題なく苦労も悩みもなくすくすく育った印象を受けますが、そうではありません。奪い取る者から御言葉を守り、迫害にも屈せず、思い煩いや富の誘惑にも覆いふさがれずに実を実らせることが出来たということです。そういうことをくぐり抜けて実を実らせるに至った、そういう強さを持っていたということです。そのような強さを持てたのは御言葉を「理解する」ことがあったからです。そういうわけで、この「理解する」というのは、頭で理解するというよりは、それがあるおかげで悪魔から御言葉を奪い取られないですむ、迫害や困難に遭遇しても躓かないですむ、思い煩いや富の誘惑に覆いかぶさられないで実を結ぶところまでいける、そういう力を意味します。御言葉を頭で理解することも大事ですが、ここで言う理解とはそういう力を生み出す理解です。
ところで、ルカ版のたとえでは、撒かれる種はあくまで神の御言葉で、人間は土壌です。実を結ぶのは神の御言葉です。そうすると、たとえをルカ版で読んだり聞いたりした人は自分はどのタイプの土壌だろうか、道端だろうか、岩だろうか、茨の茂みだろうか、良い土地だろうかと自問することになります。マタイ版のたとえを読んだり聞いたりした人は、自分は実を実らせるに至るような理解をしているだろうかと自問することになります。
それでは、いろんな妨害や障害を乗り越えて実を結ぶに至る力をもたらす理解とはどんな理解なのか、それを本日の旧約の日課イザヤ書55章の個所を手掛かりにして見ていきましょう。
本日のイザヤ書の個所で神が言われたことはこうでした。神の口から発せられる言葉は一度発せられたら、空しく神のもとに戻らない。それは、雨や雪がひとたび天から降れば天に戻らないで大地を潤し、芽を出させ生い茂らせ、種まく人に種を与え、食べる人に糧を与えるのと同じである。神の言葉が一度発せられたら、神の望むことを成し遂げ、言葉が発せられた目的を成功裏に果たす。それくらい神の言われることは必ず結果を生み出す、実を結ぶのだと言います。それでは、生み出される結果、結ぶ実とは何を意味するでしょうか?
12~13節を見ると「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く」とあります。実はイザヤ書の40章から55章までというのは、イスラエルの民が捕囚の地バビロンから解放されて祖国に帰還できるという預言が多く宣べられます。その帰還は実際に紀元前538年に実現します。それで12節と13節もバビロンからの帰還を意味すると考えられて、神の言葉はむなしく発せられないと言うのは、預言は実現するのだということを言っていると考えられます。
そうすると、それは過去の歴史的な出来事について言っているだけということになります。しかしながら、神の言葉は空しく発せられないというのは歴史を超えて今を生きる私たちにもあてはまる真理であることに気づかなければいけません。神は、自分は将来とてつもない大きな事を起こすし、それを起こす力もあるということを、歴史の中で大きな出来事を起こすことで前もって示したのです。どういうことかと言うと、大帝国に完膚なきまで滅ぼされて異国に連行された小さな民族が祖国に帰還できて復興を遂げられるという、普通では起こり得ないことを神は起こしたのです。これを前もって預言者に預言させ、それを紀元前6世紀終わりに実現させたのです。後世の者たちよ、こんなのは序の口なのだ、私はもっと大きなことを成し遂げる計画とそれを実現する力を持っているのだ、私が預言者たちに言わせたことの主眼はこれなのだ、そのことを忘れるな、ということです。
それでは、神は後世にどんなことを実現して、それがどう現代を生きる私たちに関わっているのでしょうか?神の発する言葉は雨雪が大地に実りをもたらすのと同じように私たち人間にも恵みを与えるというのは、何だかありがたい言葉に聞こえます。喜んで飛びつきたくなります。しかし、それで迫害や思い煩いや富の誘惑が来ても、その聖句は本当だと言って手放さないでいられる理解が生まれるでしょうか?耳に聞こえのよい言葉は自分に都合の良い解釈になって、都合悪くなったら捨ててしまうことにならないでしょうか?
実はイザヤ書55章10~13節は、そこだけ見ても理解できません。神の御言葉は空しく戻らず、必ず当初の目的を果たすということの本当の意味を理解できるためには、6節から見なければなりません。本日の個所は10~13節で区切られていますが、本当に理解しようとすれば6節~13節をひとまとまりで見る必要があります。
6節と7節で預言者は、主を見出せる時に主に立ち返れ、主が近くにおられる時に主を呼び求めよ、神に逆らう者はその道を捨て、悪を行う者はその考えを捨てよ、と呼びかけます。この呼びかけは、バビロン捕囚という神罰を受けたユダヤ民族だけでなく、時代を超えた全ての人間に対して向けられています。神に立ち返るならば、神は罪を赦して下さる。しかも、途切れることなく絶えず赦して下さると預言者は言います。なぜ、罪を赦すことが絶えずあるのかと言うと、ルターも言っていますが、人間は誰もこの世での人生の間に罪の赦しが必要なくなる段階に達することが出来ないからです。
8節から後は、神が言われることを預言者が取り次いで述べていきます。立ち返れば神は必ず罪を赦して下さることがどれだけ本当のことであるかを神自身が述べていきます。神の考えは人間の考えと同じではない。神の道は人間の道と同じではない。天が地を高く超えているように神の道は人間の道を高く超えている。神の考えは人間の考えを高く超えている。このように神の考えは人間離れしているということを8節と9節で言って、その後に本日の個所が来ます。天から降る雨や雪が大地を潤し実りをもたらすように、天の神から発せられる御言葉は目的を果たす。このように本日の個所は、罪の赦しが確実に与えられるということが主眼なのです。
それでは、神が発した御言葉が目的を果たして罪の赦しが与えられたというのは一体どういうことか?それはまさしくイエス様が果たした人間の罪の償いでした。神が遣わす僕が将来人間の罪を償う犠牲になることがイザヤ書53章で預言されていました。神が発した預言の言葉です。それが歴史上、本当に実現し神の目的が果たされたのでした。またヨハネ福音書の冒頭を見るとイエス様のことを神の言葉が肉となった方であると言われています。まさに神の御言葉そのものであるイエス様が神の目的を十字架と復活の業で果たされたのでした。ひとり子を犠牲に供して人間と神との間に平和を打ち立てるというのは、まことに人間離れした、まさに全知全能の神ならではの仕方でした。まさに神の考え、神の道は人間の考え、道を高く超えているということでした。
ここで、神の御言葉が実を実らせるというのはどういうことか見てみます。キリスト信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きます。そしてイエス様のおかげで父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられる日が来るという希望を持って生きます。まさにその時、信仰者の生き方はどんな生き方になるかということを見れば、実とはどんな実かわかります。
先々週から使徒書の日課はローマでした。使徒パウロは6章で、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説いていました。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具である。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具とせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ辛いことは、律法の掟が罪を罪として包み隠さず鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分に気づかされてしまう。そのことをパウロは7章25節で、自分を例にして信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。
しかしながら、8章1節ではっきり言います。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。肉の面でも従えれば完全ですが、それは復活の日に復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊の楔が打ち込まれているので、パウロは11節で次のように言うのです。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対です。
さて、肉の体を纏っていながらも、このような難攻不落の要塞を築いてもらった以上は、それこそ体を神の意志の武器にして戦わなければなりません。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は体を神聖な生贄として神に捧げよと言います。3節からあとは、そのために具体的に何をするかが言われます。自分を過大評価するな、悪を憎み、善から離れるな、兄弟愛を持って互いに愛せよ、互いに尊敬を持って相手を優れた者と思え、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはいけない、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、高ぶらないで身分の低い人と交われ、自分を賢い者とうぬぼれるな、悪に悪を返すな、全ての人の前で善を行え、他の人と平和に暮らせるかどうかがあなたがた次第ということであれば迷わずそうせよ、自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませよ等々、そうそうたるものです。
以上が、キリスト信仰者が自分の体を生贄として捧げる生き方です。これができる、これが当然という心になれるのは、イエス様のおかげで罪の赦しがあることを信じる信仰があるからです。ここで注意しなければならないのは、こうしたことは、神に認めてもらうためにするとか、罪を赦してもらうためにするとか、そういうご褒美を頂くためにするものではありません。イエス様の十字架と復活の業でまず神から一方的に赦しを頂いて認めてもらった、それでそういう救われた結果の実として現れてくるものです。これが神の御言葉を聞いて「理解した」者が結ぶ実です。「理解する」とはまさに、御言葉がこの私に、罪の赦しが果たされたこと、それで神との間に平和な関係が打ち立てられ神との結びつきを持ってこの世を生きられること、そして、この世を去った後は造り主の神のもとに永遠に迎え入れられること、これらのことを言っているのだとわかる理解です。この理解がないと試練や苦難に遭遇したら御言葉を保ち続けることは難しく、実を結ぶことも出来なくなるので注意しましょう。
(後注1)N.T. Wright “Jesus and the Victory of God. Christian origins and the question of God”, Vol. Twoの230ページです。
(後注2)マルコ4章14~20節の「種まき人」のたとえの説明の中で、
撒かれたものが人間である部分はアンダーラインで、
撒かれたものが御言葉である部分は太字イタリックで示しました。
14節 ο σπειρων τον λογον σπειρει.
15節 ουτοι δε εισιν οι παρα την οδον οπου σπειρειται ο λογος και οταν ακουσωσιν, ευθυς ερχεται ο σατανας και αιρει τον λογον τον εσπαρμενον εις αυτοις.
16節 και ουτοι εισιν οι επι τα πετρωδη σπειρομενοι, οι οταν ακουσωσιν τον λογον ευθυς μετα χαρας λαμβανουσιν αυτον,
18節 και αλλοι εισιν οι εις τας ακανθας σπειρομενοι ουτοι εισιν οι τον λογον ακοθσαντες,
20節 και εκεινοι εισιν οι επι την γην τεν καλην σπαρεντες, οιτινες ακουουσιν τον λογον και παραδεχονται και καρποφορουσιν εν τριακοντα και εν εξηκοντα και εν εκατον.
主日礼拝説教 2020年7月5日(聖霊降臨後第五主日)
本日の福音書の日課の終わりにあるイエス様の言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」これを聞いた人は、キリスト信仰者でなくても、この世にはこういうことを言ってくれる人がいるんだ、とありがたく感じて、イエス様の言うとおり彼のもとに行ってみようという気持ちになるのではないでしょうか?イエス様のもとに行くとはどういうことでしょうか?聖書をよく読んでイエス様のことをもっと知ろうとしたり、イエス様にお祈りしてお願いしたりすることが考えられます。もっと近づきになるために教会の礼拝に参加してみよう、洗礼を受けてみようと考える人も出てくるかもしれません。ただ、人によっては、教会なんかに行かなくても洗礼なんか受けなくても自分はイエス様のもとに行けると言う人もいるかもしれません。
さて、どんな仕方にせよ、自分では「イエス様のもとに行った」つもりだったのだが、果たして重荷はなくなって安らぎは得られたかどうか?人によっては、人生や生活の問題が解決したと言ってイエス様の言ったことは本当だという人がいるかもしれません。しかし、そうならなかったら、どうなるのか?イエスはあんな調子のいいことを言ったが、自分の重荷は相変わらずだ、彼のもとに行っても何の御利益はなかった、と言って教会や聖書から離れて別のところに安らぎを求めようとすることにならないでしょうか?
イエス様の言葉で注意しなければならないことがあります。それは、イエス様は重荷がなくなるとは言っていないということです。自分が与える荷は軽いと言っているように、彼のところに行っても何がしかの荷は背負わされる。しかし、それは軽いと言うのです。それから、軛。軛とは昔、牛や馬の頸に木の板をつけて、それを綱か何かで後ろの馬車か農作業の道具に連結させてそれらを引かせるためのものでした。軛を付けられた家畜は後ろのものを引っ張っていかなければなりません。イエス様は軛を取り除くとは言っていません。自分が与える軛は負いやすい、つまり、彼のところに行っても何がしかの軛は負わされることになるが、それは大きな負荷はかからないと言うのです。
そうなると、今の自分には何も重荷も軛もない、人生全て思い通りにいっていると思っている人はイエス様のもとに行く必要性はない、なんでわざわざ荷や軛を負わなければならないんだと思うでしょう。また、自分には重荷も軛もあって大変な人生だ、それらを全て取っ払って欲しい、軽いとは言え、新しく背負わなければならないのはいやだという人もイエス様にもとに行くのを躊躇するでしょう。もっとも、軽くなるだけでも十分ですからイエス様の与える軛と荷を下さい、という人は行くでしょう。
本日の説教では、イエス様の与える軽くて負いやすい荷とか軛とは何を意味するのかを見ていこうと思います。それが明らかになると今度は、自分には重荷も軛もない、だからイエスのところに行く必要はないと言っている人は本当にそうだと言い切れるのか?それから、重荷も軛もない人生を追い求めることは意味のあることなのか?そういうことを考え直すきっかけになるのではないかと思います。
イエス様の言う、軽い荷、負いやすい軛の意味を明らかにする前に、イエス様にまつわる誤解について触れておこうと思います。イエス様にまつわる誤解というのは、本日の旧約の日課ゼカリア書の個所と福音書のマタイ11章の16ー19節が関係します。この誤解について説明しておくと、イエス様の重荷と軛のことがよくわかるようになると思います。
イエス様にまつわる誤解について、ゼカリア書9章の個所がどう関係するかと言うと、そこで王様がロバに乗ってエルサレムにやって来るという預言があります。ゼカリアは紀元前6世紀の終わり頃に活動した預言者ですが、この預言は西暦30年プラスマイナス何年かの頃、イエス様が群衆の歓呼の中をロバに乗ってエルサレムに入城した時に実現します。しかしながら、その時の群衆の気持ちとしては、この方がもう直ぐかつてのダビデ王の王国を再興して、他民族の支配をはねのけて広大な版図を持つ王国を打ち立てて下さる待望の王なのだという期待でした。それで歓呼で迎えたのでした。ゼカリア書の個所で神が「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河の地の果てにまで及ぶ」と述べていたことがいよいよ実現すると思ったのでした。
ところが実際には何が起こったかというと、イエス様はユダヤ教社会の宗教指導層と激しく衝突します。占領者であるローマ帝国の軍事介入を恐れた指導層はイエス様を逮捕して帝国の官憲に引き渡して裁判にかけさせ十字架刑に処してしまいました。群衆はなんだ期待外れだったと背を向けてしまいました。イエス様に付き従っていた弟子たちも逃げ去ってしまいました。
ところがその後で、神が預言者たちを通して預言していたことはユダヤ民族の解放と王国の復興なんかではなく、もっと大きなことだったということが明らかになる、そんな出来事が起きました。神が言わんとした大きなこととは、人間が天地創造の神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにするということでした。そして、この世を去った後も造り主の神のもとに永遠に迎え入れられるようにするということでした。このことが明らかになった出来事とは、イエス様の死からの復活でした。創造主の神の力でイエス様は死から復活させられて、肉の体ではない復活の体をもって弟子たちの前に現れたのでした。この復活の出来事をもって、イエス様は死に繋ぎとめられない方である、よって神のひとり子であることが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも、旧約聖書のイザヤ書53章などにある預言から明らかになりました。それは、人間が神との結びつきを持てないようにしているた原因である人間の内に宿る罪を、イエス様が全部自分で引き取って神に対して償って下さったということだったのです。まさに神のひとり子の神聖な犠牲だったので、これ以上の償いはないという位の償いがなされたのでした。
そこで人間が、これらの出来事は本当に自分のために起きて、それでイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、彼がしてくれた罪の償いがその人のものになります。神聖な神のひとり子にしてもらった償いは完璧なものだったので、神からは罪を赦された者として見なしてもらえ、それで神との結びつきを持ってこの世を生き始めることとなります。この世を去った後も、イエス様を救い主として信じる信仰に生きていたことを神に認めてもらえて、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて造り主の神のもとに永遠に迎え入れられます。
ゼカリア書に預言されている平和な世というのは、今ある天と地が新しく創造し直された時に現れる神の御国を意味します。今のこの世でも戦争のない平和な時期があります。しかし、その後にまた戦争が起こって、また平和という繰り返しです。また自分たちのいるところは平和でも、他のところでは戦争があります。もちろん、この世で全世界的で永続的な平和が実現することがよいに決まっていますが、聖書の観点はそういう平和は今の次に来る世に実現するというものです。それじゃ、聖書はこの世の平和を望まないのかと言われてしまうかもしれませんが、そうではありません。ローマ12章でパウロが説くように、キリスト信仰者は全ての人たちと平和に暮らさなければならない、相手と平和な関係が持てるかどうかが自分たちにかかっている時はそうしなければならないのです。相手が応じてくれるかどうかわからなくても、こちらからはそうしなければならないのです。
ゼカリア書9章11ー12節の御言葉「またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえにわたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ」について。「契約の血」というのは、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前にこれを聞いた人たちは出エジプト記24章にあるような神とユダヤ民族の間の契約を指すと思ったでしょう。しかしながら、「契約の血」は十字架と復活の後はイエス様が十字架で流された血を意味します。キリスト信仰者は聖餐式で祝福されたぶどう酒をイエス様の血として受けますが、それは罪が償われて神との結びつきに生きるという契約を守るためにそうするのです。
それから捕らわれ人の解放と帰還のテーマがありますが、これは一見、他の預言書にあるバビロン捕囚からの解放と祖国帰還の預言と同じように見えます。しかし、ゼカリア書は紀元前6世紀の終わり、祖国帰還の後に出た預言書です。それなので、ここで言われる帰還はもはやユダヤ民族の祖国帰還ではなくて、人間一般が神のもとへ帰還することを意味します。「捕らわれた人」とは、まさに罪や罪がもたらす死に捕らわれたことを意味します。「水のない穴」とはヘブライ語の単語列の直訳ですが、辞書によれば「死者の居場所」という意味もあります。それなので、罪と死に捕らわれた人がイエス様のおかげでそこから解き放たれて永遠の命に向かって進めるようになったことを意味します。
以上のように、ゼカリア書の預言は、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は神の意図を理解するのは難しいものでした。本日の福音書の個所の最初の部分マタイ11章16~19節からも、十字架と復活の前はイエス様は理解されなかったことが言われています。洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場して、もうすぐ救世主が現れる、だから心を改めて迎える準備をしなさいと言う。それに対して、自分たちの権威にしがみつく宗教指導者たちはヨハネのことを悪魔にとりつかれた者と中傷する。続いて登場したイエス様に対しても同じでした。イエス様が一声かけると、罪びとたちは次々と心を改めて彼につき従って行きます。民族の裏切り者と目されていた取税人たちが全てを捨てて付き従ってきました(ルカ5章27~28節、19章1~10節)。イエス様はそういう回心した元罪びとたちと食事を共ににしたのですが、それに対しては、大食漢、大酒飲みという非難が付きまといました。イエス様が開いた食事会は、実は復活の日に神の国に迎え入れられた者たちが持つことになる大祝宴の予行演習のようなものだったのです。
こういう、神の計画に対する指導者たちの無理解について、イエス様はたとえを用いて描写します。それは子供たちが広場に座って「僕らは嬉しい曲を弾いてるのに君らは踊ってくれない、弔いの歌を歌っているのに泣いてくれない」とお互いに言い合っているのと同じだと言います。旧約聖書の「コヘレトの言葉」3章に、天の下の出来事には全て定められた時があると言われ、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時もそうだと言います。子供たちが自分たちの歌や演奏に君たちは乗ってこないとお互いに愚痴を言い合っているのは、この定められた時がわからないことを意味します。指導者たちは洗礼者ヨハネやイエス様が到来した時が神の定めた時であることがわからず、全く見当はずれなことを言い合っているのが、広場の子供たちが定められた時をわからないのと同じだと言うのです。
19節の「知恵の正しさは、その働きによって証明される」というのは、「知恵」は旧約聖書の箴言にあるように、神の知恵のことです。しかも、それは聖霊のように人格化されています。それでここで言う「知恵」とはずばりイエス様のことを指します。神の知恵そのものであるイエス様が神の意思に沿う方であることは、指導層の目には見えなくても、彼の行っている奇跡の業や権威ある教えから明らかだったのでした。
さて、イエス様が与える軽い荷と負いやすい軛の意味を見ていきましょう。先々週から使徒書の日課は「ローマの信徒への手紙」6章で今日は7章です。これらの個所が軛と荷の意味を明らかにするのに役立ちます。
少しおさらいになりますが、パウロは6章で、キリスト信仰者は洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様の死に結びつけられると、「罪に対して死ぬ」ことになると言います。その意味は、信仰者は罪に対して死んでしまったので罪の影響力が及ばない、それで本当は罪から自由な身であるということです。このように罪に対して死ぬと今度は返す刀で神に対して生きることになります。神に対して生きるとは、かつて罪に利益をもたらすように生きていたのを打ち切って今度は神に利益をもたらすように生きることです。つまり、服従する相手が罪から神に変わったのです。
しかしながら、イエス様の死と復活に結びつけられたと言っても、まだ本当に死んで葬られて復活していないので、「罪に対して死に神に対して生きる」というのは、まだ土台が打ち立てられた段階です。建物全体が完成したのではありません。私たちが纏っている体はまだ復活の体ではなく、肉の体です。この体は、油断するとすぐ、洗礼前の時のように神に対してではなく罪に対して生きようとします。罪に対して生きてしまうと、心は「体の欲望」の言うことに聞き従ってしまいます。「体の欲望」とは、神聖な神の意思に反するとわかっていても、口に出してしまわずにはいられない、行為に出してしまわずにはいられない、思わずにはいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としかいいようがないものです。先週もお教えしましたが、十戒でしてはいけないと言われていること、両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを口にしたり思ったり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫をしてしまうこと、他人のものを自分のものにしてしまうこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人を妬んだり、その持っているものを自分のものにできないかと思い巡らすことです。
洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられたら、罪は本当は支配者ではなくなっている筈なのに、肉の体を纏っているために肉の思いをかなぐり捨てて行ったり語ったり思ったりすることが自然に自動的に出来ないのです。まさにそのために自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるのかを知って自覚することが大事になります。それでパウロは、自分の肢体を神の意思に反することのために用いるのをやめて、神の意思に沿うことのための武器、道具にしなさいと繰り返し教えるのです。
本日の7章で話がもっと深まります。イエス様の十字架と復活のおかげで罪の償いを果たしてもらったということは、キリスト信仰者が神との結びつきを持って生きられるのは神からのお恵みということでしょう。自分で律法を守り抜いてそうなったのではありません。それで神から義と認めてもらうことに関して言えば、律法は何の意味も持っていません。ところが、神のお恵みがあるからと言って、それで人間から罪が消えて肉の思いも持たなくなって全身全霊で神の意思に沿えるようになったということではありません。律法は人間には罪があることを示す機能は果たすのです。それはキリスト信仰者であっても、肉の体を纏っている限りそうなります。
律法はとても厄介なものです。パウロも言うように、もしそれがなければ罪の自覚は生まれません。しかし、自覚がないからと言って罪が存在しないということではありません。神の意思に反する行いや思いや言葉は、律法がなくてもあるわけで、律法があると、それらは神の意思に反するものであると言い表すことができます。神の意思に反する行いや思いや言葉が罪であると言い表されると、今度は肉が待ってましたとばかり、それに加担しようとします。神から罰を受けないためには、神の意思に反する行いや思いや言葉をなんとか食い止めなければなりませんが、それは時として大自然に抵抗するような難儀さを感じます。
そこにイエス様の十字架と復活の出来事が起こりました。神罰は全部イエス様が受けて下さいました。洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられて、罪に対して死に神に対して生きることが始まりました。十字架と復活が起きる前の律法しかなかった時は、罪に対して死んでおらず、神に対して生きることもなく、罪の力をもろに受けながら、神罰を受けないように受けないようにとただただ自力でもがくだけでした。しかも、罪の力を全面的に受けながらもがくのです。これは大変な重荷であり、凄まじい軛です。しかし、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると罪に対して死に神に対して生きられます。もちろん、まだ肉の体を纏っているので律法が私たちの内に宿る罪を暴露します。しかし、そのたびに洗礼の時に注がれた聖霊が「あなたは神に対して生きる者になっています。神に対して生きているのであれば、あなたは罪に対して死んでいるのです」と思い起こしてくれます。先ほど、キリスト信仰者は洗礼によって本当はどんな状態にあるのかを知って自覚することが大事であると申しました。かつては、思い起こしをしてくれる方もなく、肝心の思い起こすべき状態そのものがありませんでした。それが今では洗礼によって新しく生まれた状態があります。それを洗礼によって注がれた方が絶えず思い起こして下さるのです。もちろん、律法がある限り罪の自覚は消えません。しかし、それは新しくされた状態と聖霊のおかげで、かつてのような重荷、軛ではなくなりました。まさに軽くされた荷、負いやすくされた軛がここにあります。
以上から、イエス様が与える軽くて負いやすい荷や軛とは何かが明らかになります。それは、洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられて、罪に対して死に神に対して生きることそのものです。そこで罪の自覚は洗礼前より一層はっきりするので、そこがきつく重くなるところですが、イエス様の罪の償いは消えてなくならないので、イエス様を救い主と信じる信仰にある限り神との結びつきはしっかり保たれています。何も心配はありません。だからイエス様の与える荷は軽く、軛はきつくないのです。信仰にあるのに罪の自覚が出てくるということ自体が、神に対して生きていることの証しです。
そうなると、イエス様が軽くすると言ったのは、人生の重荷や軛のことではなく、神と人間の結びつきにかかわる重荷や軛ということになります。これを聞いて、なんだ人生の重荷ではないのかと、がっかりする人もいるかもしれません。ところが、この人間と神の結びつきにかかわる重荷が軽くされるということは実は人生の重荷の軽減にもつながるのです。そのことを宗教改革のルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。
「信仰の教師である我々は、イエス様を救い主と信じる信仰について教えたら、次は善き業を行うことについて教える。もし君が信仰によってイエス様を自分のものとし、彼のおかげで神の御前で義なる者となれたのなら、その次は善き業を行いなさい。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛し、神に祈りを捧げ、神に感謝し敬い賛美し人前で告白しなさい。そして、隣人に仕え、自分の務めを忠実に果たしなさい。 これらの業が本当の意味で善き業になるのは、それらがイエス様を救い主と信じる信仰から生じてくる時である。罪の赦しは自分の業績によってではなくただひとえにイエス様のおかげで得られものなので、それを喜び感謝する心で行う業は全て本当に善き業なのである。その時、私たちは背負わなければならない自分の十字架や人生の重荷を全て耐えることができる。そのようにしてイエス様は私たちの荷を軽くし軛を負いやすくされるのだ。 キリスト信仰者とは、このように罪の赦しが与えられて良心が罪の重圧から解放されているので、あらゆることを楽に取り組む出来るのである。彼の心の中では全てのことが麗しいものに変わり、遭遇するあらゆる事柄に喜んで取り組み、耐え忍ぶことが出来るのである。しかし、イエス様の与えて下さる罪の赦しを持たない人にとっては、取り組み耐え忍ばなければならないことは全て重く嫌なものになる。なぜなら、彼はしたくないことを仕方なくしているだけだからだ。」
「信仰の教師である我々は、イエス様を救い主と信じる信仰について教えたら、次は善き業を行うことについて教える。もし君が信仰によってイエス様を自分のものとし、彼のおかげで神の御前で義なる者となれたのなら、その次は善き業を行いなさい。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛し、神に祈りを捧げ、神に感謝し敬い賛美し人前で告白しなさい。そして、隣人に仕え、自分の務めを忠実に果たしなさい。
これらの業が本当の意味で善き業になるのは、それらがイエス様を救い主と信じる信仰から生じてくる時である。罪の赦しは自分の業績によってではなくただひとえにイエス様のおかげで得られものなので、それを喜び感謝する心で行う業は全て本当に善き業なのである。その時、私たちは背負わなければならない自分の十字架や人生の重荷を全て耐えることができる。そのようにしてイエス様は私たちの荷を軽くし軛を負いやすくされるのだ。
キリスト信仰者とは、このように罪の赦しが与えられて良心が罪の重圧から解放されているので、あらゆることを楽に取り組む出来るのである。彼の心の中では全てのことが麗しいものに変わり、遭遇するあらゆる事柄に喜んで取り組み、耐え忍ぶことが出来るのである。しかし、イエス様の与えて下さる罪の赦しを持たない人にとっては、取り組み耐え忍ばなければならないことは全て重く嫌なものになる。なぜなら、彼はしたくないことを仕方なくしているだけだからだ。」
本日の説教は、3つの日課に従って三部構成です。3つの部には共通のテーマがあります。それは、神の真理ということです。真理というのは、時や場所に関係なく、いつどこででも本当である事柄、いつどこででも当てはまる法則のようなものです。それでは、神の真理とは何か?まず第一部で、旧約聖書の日課エレミア書の本日の個所から神の真理を明らかにしてみます。第二部では、神の真理に立って生きるとどんな生き方になるのかを、使徒書の日課ローマ6書の本日の個所をもとに見ていきます。第三部では、そのような生き方をするとこの世の歴史と社会の中でどんなことに遭遇することになるか、どんな目に遭うか、そしてそれに対してキリスト信仰者はいかに立ち振る舞うべきかということについて、福音書の日課マタイ10章の本日の個所をもとに考えてみたいと思います。
要約すると、第一部は神の真理とは何かということについて、第二部は神の真理に立つ生き方について、第三部は神の真理に立って生きるとどんなことに遭遇し、それに対してどう立ち振る舞うかということです。
本日の旧約の日課エレミア28章の個所は紀元前7世紀から6世紀の変わり目の頃の出来事です。ユダ王国にハナンヤという預言者が国民に神が敵国バビロンを打ち砕くから大丈夫だと預言したことに対して預言者エレミアが反論するところです。
この辺の歴史的背景を超特急でおさらいしておきましょう。イスラエルの民は天地創造の神に導かれてエジプトから脱出して約束の地カナンの地に定住します。紀元前11世紀に国は王制をとり、ダビデ王ソロモン王の時に最盛期となりました。その後、王国は南北に分裂、国全体が神の意思に反する生き方を繰り返し、まず北王国が紀元前8世紀にアッシュリア帝国の攻撃を受けて滅亡します。南のユダ王国は寸でのところで危機を脱しますが、その後も神の意思に反する生き方が一時の例外を除いて続き、神は罰としてバビロン帝国の攻撃を仕向けます。紀元前598年ヨヤキン王の時に大きな攻撃があり、エルサレムは陥落してしまいます。この辺の事情は列王記下の24章に詳しく記されているので、それと照らし合わせながらエレミア書を読むと預言者エレミアの活動がまさに激動の歴史と共にあったことが手に取るようにわかります。エルサレム陥落の後、ヨヤキン王はじめ王国の主だった人たちがバビロンに連行されて行きます。バビロンの王はヨヤキンの叔父ゼデキアを王に立てて引き上げます。もうユダ王国は独立国とは言えませんでした。
このゼデキア王の治世4年目に預言者ハナンヤが現れて国民の前で、2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻ると預言します。他方エレミアはハナンヤが現れる前、これも国民に対して、ユダ王国はバビロンによって徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えていました。エレミアはそれが神の計画であるということを象徴して自分の首に軛をかけることもしていました。丁度その時にハナンヤが現れて、エレミアと違うことを預言したのです。国民は既にエレミアの神の裁きの預言にあきあきしていました。ハナンヤの預言を聞いた時、こっちの預言の方がいいぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。本日の個所の後になりますが、ハナンヤはまたエレミアが首にかけていた軛を打ち砕くといパフォーマンスもします。これを見たら誰でも、説得力があると思ったでしょう。
ところが実際には歴史はハナンヤが言った通りにはなりませんでした。ゼデキア王は治世9年目にバビロン帝国に反旗を翻します。それがもとで王国はバビロン帝国の再度の大攻撃を受けます。エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は敵の大軍に蹂躙され王国は完全に滅亡させられます。エルサレムの神殿も完全に破壊され、残りの市民も皆バビロンに連行されてしまいます。紀元前538年のことでした。全てエレミアが預言した通りになったのです。
神はエレミアに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだったのでしょうか?神は天地万物を創造し人間を造られた全知全能の方です。人間に対しては罪を犯すなと命じられ十戒を与えた神聖な方です。神はそうした自分の意思を表した十戒やその他の掟を自分が選んだイスラエルの民に全人類を代表するかのようにして授けました。民はこれを大きな誇りとしました。しかし、民はそれに反する生き方を繰り返し、神が遣わした預言者の警告にも耳を貸さないようになってしまいました。そうすると、神とは自分の意思に反する者、罪を犯す者を完膚なきまで滅ぼす裁きの主ということになります。
ところが、エレミア書にはイスラエルの民の復興についても預言されています。民が連行された異国の地で心から神に立ち返って神の名を呼び求め祈りを捧げるならば神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われます(29章11~14節)。実際、紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になった時、イスラエルの民はこのペルシャ王の勅令によって祖国帰還が認められ、紀元前538年から帰還が始まります。これもエレミアが預言した通りでした。
神の計画は災いのためでなく将来と希望を与えるものであるならば、なぜ自分の民にバビロン捕囚のような大きな苦難を与えられたのか?それは、やはり神という方は罪を見過ごせない方、罪をはっきり罪と言い、それを焼き尽くしてしまうように抹消せずにはいられない方だからです。しかし、人間が罪の罰を受けて焼き尽くされてしまえばいいということではありませんでした。罪には滅びが一心同体になっているという呪いがあります。神は人間をその呪いから救い出して、罪は滅びても人間は滅ぼないようにしたかったのでした。それはどのようにして可能でしょうか?神は、イスラエルの民の祖国帰還を可能にすることで、罪を赦して新しく生きることを始めさせるという例を示したのです。
このように神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が罪のゆえに神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神の真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事の歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、罪を忌み嫌って罪から離れて生きようとする者に変えようとされる方であることもわからなければなりません。
バビロン捕囚と祖国帰還という歴史的出来事から、神は二つの大きな目的、すなわち罪に対する裁きと罪の赦しの二つの目的を持っていることがわかりました。ところで、罪の赦しの方の目的は実はまだ民の祖国帰還の時に実現してはいませんでした。もちろん当時の人たちの中には実現したと考えた人もいましたが、事はユダヤ民族に属する人だけの罪が問題だったのではありませんでした。そうではなく、神に造られた全ての人間の罪が問題だったのです。そういうわけで、ユダヤ民族の祖国帰還というのは実は、神は罪ある人間に赦しを整えて下さるという、全ての人間に及ぶ救いを歴史的出来事を通して前もって予感させるものでした。そして、全ての人間に関わる救いはイエス・キリストの十字架の死と死からの復活で実現したのです。
神は、罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもある、これが神の真理でした。この神の真理が如実に現れたのが、ご自身のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事だったのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上で断罪して彼に人間の罪の償いをさせました。そして、イエス様を三日後に死から復活させることで、御許に戻れる道を人間のために切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、神の真理に立って生きるキリスト信仰者の生き方はどのようなものになるのでしょうか?このことがローマ6章によく記されています。
使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられていると。イエス様の死に結びつけられると、「罪に対して死んでいる」ことになるとも言われます。わかりにくい言い方です。ギリシャ語の用法で、罪にとって不利益になるように死んでいるということで、要は罪が信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、それくらい信仰者は罪に対して死んでしまっているということです。
洗礼によって結びつけられるのはイエス様の死だけではありません。死からの復活にも結びつけられます。パウロは、この結びつけられということがキリスト信仰者の有り様や生き方を根本から変える意味を持っている、信仰者はそれに気づくべきであると教えます。どう根本から変えるのか?罪に対して死んだ者は、もう神に対して生きるだけになると言います。神に対して生きるというのと罪に対して死ぬというのは同じコインの裏と表です。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている。そこで神に対して生きることになると、神に利益になるように生きることで、神に従って生きることになります。洗礼を受けた者は、そういう状態にあるというのです。もちろん、イエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きないかもしれません。しかし、洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられたら、罪に対して死に、神に対して生きるという状態にある。後は本当に死んで葬られて復活を遂げるという形式的なことが残っているだけで、実質的なことはもう起きているということになります。
それなので、神の真理に立ってこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。
それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨してしまえばあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそうした状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと性的なことが頭に浮かぶかもしれませんが、それも含みますが、もっと広い意味です。神聖な神の意思に反するとはわかっていても言わずにはいられない、やらずにはいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるとすれば、十戒の第四から第十の掟を逆に考えればいいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを口にしたり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人を妬んだり、その持っているものを自分のものにできないかと思い描くこと等です。
こうした肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからである、しかし、洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので罪は本当は支配者でなくなっている筈です。しかし、信仰者はまだ肉の体を纏っているので、肉の思いを捨てて行ったり語ったりすることが自然に自動的に出来ないというもどかしさがあります。でもそれは復活の体を着せられる前のことなので仕方のないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるかを知って自覚して生きることが大事になります。それで、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えということが言われるのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫と見てもらえ焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを本当にそうだと受け取った者は神の義を持てます。
パウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と教えるのは本意ではなかったと思われます。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたら、その解放は神のお恵みです。人間が律法を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。それで「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに教えないで自然に、自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っている以上は出来ません。自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはこのことです。実にもどかしいことですが、神の真理に立って生きるとそうならざるを得ないのです。
福音書の日課マタイ10章40~42節のイエス様の教え、預言者を預言者という理由で受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人という理由で受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子であるという理由で冷たい水一杯でも与える人は弟子の報酬を得るということですが、これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。そこで、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみんな預言者にはならないことに注意しなければなりません。神の意思に沿っていないといけないからです。神の意思は聖書にあります。つまり、聖書から外れたことを言ったら、偽預言者ということになります。次に「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理に立って生きる者です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える者です。
マタイ10章はここまでキリスト信仰者が受ける迫害について述べていたので、ここも同じ文脈で理解します。そうすると、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を追い払ったりせず受け入れて世話をする人は、預言者や義人や伝道者が神から将来受ける報酬と同じものを受けるということになります。パウロを初めとする使徒たちやローマ帝国の迫害期にそのように世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。しかし、世話をした人が受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶ可能性があることを意味します。使徒言行録やパウロの手紙でそうした事例は見つけられませんが(後注)、日本のキリシタン迫害の時にはありました。先週の説教でも触れました帚木蓬生の「守教」の中で密告に対する報奨金制度が出てきます。この制度のもとでは聖職者や信者を世話したり匿った者もキリシタンと見なされて拷問を受けました。貧しい人たにはまたとない収入源でした。それで神父たちは衣食住を絶たれてしまったのでした。まさに世話する人がされる人と同じ報酬を受ける事態になったのでした。
ここで小説「守教」について、前回の説教で下巻200ページ残っていると申しましたが、先週読み終えました。とても良かったです。何が良かったかというと、昔、遠藤周作の「沈黙」を読んだ時、日本人がキリスト教徒になるとロクなことがないと言っているようで重苦しさが残ったのですが、「守教」では日本人がキリスト教徒で何が悪い!とはねのけることが出来たからです。
わき道にそれましたが、世話する人がされる人と同じ立場になるというのは江戸時代に限りません。近代日本にもありました。第二次大戦中の時、私どものミッション団体のフィンランド人宣教師8人が本国に帰国する機会を逸して戦争中ずっと日本に留らなければなりませんでした。宣教師たちが書いた記録をいくつか読みましたが、キリシタン迫害には及ばなくてもやはりキリスト教受難の時期でした。キリスト教会は国家権力の統制下に置かれ、当局の指図に従わなければならず伝道や礼拝が自由に出来なくなりました。礼拝をしても当局の回し者と思える目つきの鋭い男たちがやって来て説教の最中に質問と称して大声で意見を言い、礼拝を妨害したということもありました。ゾルゲ事件の影響と思われますが、ある日突然町中の人たちからスパイ呼ばわりされるということもありました。戦争末期には宣教師たちは軽井沢に集められて軟禁状態に置かれ、食糧難は酷く100キロの巨漢の牧師は45年に帰国した時には43キロしかなかったという位でした。彼らを支援する日本人信徒たちも大変な目にあい、宣教師たちの面倒を見たり面会をしたりした人は隣近所から「宣教師の犬」と呼ばれ顔を背けられたそうです。そういうことが江戸時代ではなく、ニ、三世代前の日本であったということです。
第二次大戦後はキリスト教に対する接し方は180度変わりました。数多くのキリスト教系の社会事業あり、学校あり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教が果たす役割や存在は無視できないものがあり、一目置かれるようになりました。それでも信徒が全人口の1パーセントというのは、やはり日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあると思います。
それについては宗教学や社会学、文化人類学からいろいろな説明の仕方があると思いますが、「守教」を読んでこういうことではないだろうかと考えさせることがありました。キリシタン弾圧が激しくなっていく時、幕府から来る命令を藩のレベルでもっと厳しくするということがありました。それは幕府に対して忠誠を示すためでした。将軍様、我が藩ではこれくらい締めあげています、ご高配賜りますようということです。なんだか現代日本政治の忖度にも通じるものを感じさせますが、そんな藩主の点数稼ぎの巻き添えを食らったキリスト教徒には迷惑千万な話です。つまり、キリスト教禁止を過酷にすればするほど思想的な根拠から遠ざかるという構図です。それから、今村の信徒たちがひっ捕らえられて後ろ縄で久留米城下を歩かされた時、見物人の中から一人の男が歩み寄って唾を吐きかけたということがあります。小説の話ですが、実際にあり得る話で、そういう人はどうしてそうするのか、それはキリスト教のどこそこが間違っているということではなく、お上が禁じていることをやっている、だから許せないということでしょう。内容的なことは何もないのです。
それから日本人がキリスト教に距離を置く背景に、信徒になると欧米に魂を売り渡しているようなイメージがいまだ持たれていることもあるのではないでしょうか?日本人は神仏を拝めばよいのだ、と「守教」の取り調べの役人も言っていました。しかし、明治維新や第二次大戦直後の頃と違って、今、キリスト教を信じることは欧米化することと同じと言える時代でしょうか?当時は欧米の圧倒的な力を見せつけられましたが、今はそのような力の差はあるのか?その肝心の欧米ではキリスト教、特に伝統的なキリスト教は教会離れ聖書離れが進んでいるというのが現状です。キリスト教が欧米経由で入った来たとは言え、聖書の内容は欧米の文物の紹介なんかではありません。それは、古代オリエント世界で天地創造の神が人間の救いの意思と計画を明らかにしたということと、それをその地域の人たちが一生懸命後世に伝えようとしたものです。私たちの命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。神の真理に立って肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが悪いのか?一体これのどこが欧米化なのか?
最後に、先ほど触れました戦時中に日本に留まらなければならなかったフィンランド人宣教師たちの名前を、彼らの名誉のためにここに述べておきたく思います。
ターヴィ・ミンキネン、
ナイミ・ミンキネン、
マルッタ・ミエロ、
パーヴォ・サヴォライネン、
ヘルヴィ・サヴォライネン、
アルットゥリ・カレーン(体重が100キロから43キロに減ってしまった宣教師です)、
アンナイレーネ・カレーン、
トゥーリッキ・コルピネンとその子息アルト・コルピネン
それから、彼らを助けて「宣教師の犬」と呼ばれた信徒は石坂真砂さんです。SLEYが設立した東京池袋教会(現日本福音ルーテル教会所属)の信徒でした。彼女はそのように呼ばれたことを名誉なことと受け取り、支援を続けたそうです。神の真理に立って肉の思いと戦いながら生きることに何もやましいことはないのです。
(後注)すみません、説教の後で、あれ、どこかでパウロをかくまった人が引き立てられたことがあったことに思い至り、使徒言行録を見直したら17章のテサロニケ滞在の時にそのようなことがありました。訂正してお詫び申し上げます。
主日礼拝説教 2020年6月21日(聖霊降臨後第三主日)
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本日の旧約の日課はエレミア書20章の預言者エレミアの告白、福音書はマタイ10章の終わりにあるイエス様の教えです。エレミア書の方は、かつて栄華極めたダビデ・ソロモンの王国が神の意思から外れた生き方をし、内憂外患に陥って最後は東方の大帝国バビロンに滅ぼされる、その直前の紀元前7世紀から6世紀にかけての頃のことです。神はエレミアに国に迫っている危機について宣べ伝えて国民が神に立ち返るようにしろと命じ、エレミアはその通りにするのですが、国民はこぞって彼に反対し、人心を惑わす者として迫害してしまいます。本日の個所でもそのことについてのエレミアの苦悩と神への愚痴が述べられています。
福音書の方を見ると、イエス様は自分のことを救い主と信じる者が将来迫害を受けることになると預言しています。エレミアの場合もイエス様の教えも、神から人々に伝えなさい、自分の信仰を知らしめなさい、と言われてその通りにすると命にかかわるような大変な目に遭うということについて述べています。しかし、両者とも、神はその者たちの魂を救うということも言われます。
そこで本日の説教では最初に、この神が守ってくれる「魂」とは一体何なのかということをみてみようと思います。魂と似た言葉に「霊」もありますが、両方ともわかりそうでわかりにくい言葉です。それらについて、旧約聖書と新約聖書ではどのような意味で使われているかを考えながら、その意味を明らかにしていこうと思います。その次に、エレミア書の本日の個所に復活の信仰が見られるのでそれを見ていきます。キリスト信仰では「魂の救済」ということを復活の信仰に結びつけて考えることは大事です。復活なくして魂の救済なし、魂の救済なくして復活なし、と言ってもいい位です。そのことを説教の第二部で見ていきます。最後の第三部では、マタイの個所が提起している問題についてです。それは、人前で自分はイエス様に繋がる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に繋がる者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定するということです。このことに関連して、実はこのほど帚木蓬生の長編小説「守教」を読みました。隠れキリシタンと呼ばれる潜伏キリスト教徒を題材にした歴史小説です。そこで、いくつか視点を得られたのでそれについてお話ししようと思います。(「このほど読みました」というのは正確でなく、下巻に入ってあと200ページ残すところで、もうこの先どうなるか気になって仕方なくなり、つまみ食いするように終わりまで一気に行って、今じわりじわりと残りを読んでいます。)
まず、「魂」についてみてみます。いろいろな定義があると思いますが、それを聖書に出てくる言葉に頭から当てはめるのではなく、聖書の中でその言葉が出てきたら、ここではこういう意味だろうか、別の所ではこうだったのではなどと考えながら、あくまで聖書の中での使われ方を意識しながら理解していこうと思います。「魂」と日本語に訳されるもとの語は、旧約聖書のヘブライ語ではネフェシュנפשと言い、新約聖書のギリシャ語ではプシュケーψυχηと言います。
本日の福音書の個所のイエス様の教えの中で「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10章28節)と言われています。人間には体の部分と魂の部分があるということです。体の部分は殺されて腐敗してしまうが、殺されず腐敗しない部分がある。それが魂ということになります。ただし、その魂も神は滅ぼすことが出来るのです。しかし人間には出来ない。人間が滅ぼすことが出来るのは体の部分までで、神に守られている者は体は滅びても魂は滅ばないということです。
魂は目で見えない部分です。体は目で見える部分です。手や足など肢体があり肉体があり骨や内臓があります。みな目で確認できます。魂はできません。そうした体の部分は死んで腐敗してしまいますが、魂はそうならないで残ります。ただし、神に守られていればの話です。そこで、目で見えない魂は本当に存在すると言えるのか?手足や骨肉内臓であれば働きも機能もあるが、魂はどんな働きをするのか?詩篇23篇を見ると、「主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」(2~3節)とあります。ヘブライ語の動詞ישוביבは、「生き返らせて下さる」と訳すと死者の復活を連想させてしまいますが、基本的には萎えた状態から立ち直らせるというような、元気回復、リフレッシュの意味です。元気回復するのは手足を含めた体全体です。ここでは「魂」が体全体を代表しているという使われ方です。それで、「人そのもの」を意味するように使われていると言ってもいいでしょう。
また詩篇130篇をみると、「わたしの魂は望みをおき、わたしの魂は主を待ち望みます」と言われています。手足と違って神を待ち望む器官がある、それが魂となります。この場合は「心」と同じと言ってもよいでしょう。
さらに詩篇121篇では、主が「あなたの魂を見守ってくださるように」と言われます。この場合、体も含めた人全体を魂という言葉で言い表して人そのものを意味しているとも言えるし、また、体とは別に魂だけに特化してその見守りをお願いしているとも言えます。その場合は魂は「命」と同じ意味になると言えます。実は、本日の福音書の個所の終わりでイエス様が「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っているところで、「命」と言っているもとの語はプシュケー魂です。それなので、ここの意味を魂にこだわって考えたら次のようになるのではと思います。「魂を守ったり滅ぼしたり出来るのは神である。それなので、人間が神抜きでそれを自分で支配しようとしても出来ない。逆にイエス様を救い主と信じる信仰にあれば、それは魂の支配権が神にあることを認めることになる。それでそれを守り通してもらえるのである。」
さて、魂は、肉体と魂の双方を持つ「人間そのもの」を言い表す言葉にもなり、「命」や「心」にも言い換えられる言葉であることがわかってきました。本当は聖書の使い方の例をもっと沢山調べた方がいいのですが、これ位でも多くのことは網羅できるのではないかと思います。そこで、魂は肉体が滅びた後も残るということですが、そうなると肉体が滅びた後も、肉体のような形は持たないがその人自身が残っていることになります。ここでキリスト信仰で大事な事柄、「復活の信仰」が重要な意味を持ってきます。復活とは、死の眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に迎え入れられる、ということです。使徒パウロが第一コリント15章で教えるように、肉体の体は失われるが、それに代わって新しい、もう朽ちることのない復活の体が与えられるのです。体は異なっても魂は滅びず守られていたので同じ人です。それなので、「私は吉村博明である」という自分が続きます。この世で纏っていた弱い朽ちる体にかわって神の栄光を映し出す輝く体を纏っているという自分に気がつくのです。
ここで「魂」と並んでよく使われるが、同じようにわかりやすそうでわかりにくい言葉、「霊」を見ていきます。ヘブライ語でルーァハרוח、ギリシャ語でプネウマπνευμαと言います。両方とも「風」という意味も含んでいます。聖書の中では、霊とは肉体と魂を持った人間が息をする生き物になるために吹き込まれるものということがあります。さらに、人間がただ単に生き物として生きるだけでなく、神から罪を赦されて神との結びつきを持って生きるようになる時に、さらに神からの霊、聖霊が注がれるということがあります。
それでは、霊と魂はどう違うのでしょうか?復活信仰の観点に立てば、魂は復活の日まで安らかに眠っていることになります。霊はちょっと違います。旧約聖書では死者の霊や霊媒と関りを持つことが禁じられています(レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。ということは、霊は眠っていないようです。さて魂と霊は、どちらが亡くなった人を代表しているでしょうか?私自身は、復活の日までは安らかに眠っていたいと思う者です。
エレミアという預言者は、初めにも申し上げましたように、神から宣べ伝えなさいと言われてその通りにすればするほどひどい目にあってしまうという悲劇の預言者でした。しかし、国は滅亡し人々は占領国に連行されてしまうが、神は悔いる民に憐れみを示して祖国帰還を実現されるという希望の預言も残します。つまり、神は罪に汚れた民をただ罰して消滅させてそれで終わりという方ではない。新しく生まれ変わらせ建て直して下さるという方でもある。だから国滅亡しても自暴自棄になるのではなく、神を信頼して時を待てというメッセージです。
加えてエレミアのメッセージには、神の御言葉を宣べ伝えたり信仰を人々に証しすることで迫害を受けることになっても、それですべてが終わりではないというものもあります。今日のところがそうです。神は必ず、その者に報い、補償をして下さる。それは、およそ神の御心に沿うものとして行ったことは無意味、無駄なものは何一つないという神の約束を意味します。この考えは旧約聖書、新約聖書の随所に見られます。本日の個所にも出てきます。
7節から10節は、神が宣べ伝えよと命じた通りにすると、どれだけ散々な目に遭うかという複雑な心境が吐露されます。ところが11節で、神は迫害者よりも偉大なのだという確信を述べます。その根拠が12節と13節で言われます。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」
ここで注意しなければならないことがあります。「わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを」ですが、「見させてください」はヘブライ語の動詞の形をすると、「私は見ることになる」というふうに将来のこと、起きてしかるべきことを意味すると思います(どうしてそうなのか、後注に記します)。それから「復讐」という語ですが、標準的な辞書(HolladyのConciseです)によれば、人間がするものなら「復讐」、神がするものならば「報い」とか「補償」と出ていました。そこで、何の「報い」、「補償」になるのかと言うと、最後の審判の時に行われる正義と不正義の大清算です。神に立ち返る生き方をした者たちがしなかった者から受けたあらゆる仕打ちや損害に対して、それこそ神の正義の尺度に基づく補償、賠償が行われて、この世でないがしろ中途半端にされてしまった正義が最終的に実現するということです。逆に、仕打ちや損害を与えた者たちには正反対の報いが待っていているということです。ローマ12章でパウロが復讐は私たちがするのではない、神に任せよ、と言うのも同じです。最後の審判で正義が最終的に実現する大清算が行われる、だから今は敵が飢えていたら食べさせよ渇いていたら飲ませよ、という行動規範が生まれます。それで相手が心を改めたら、悪事が止むのでこちらも安心でき、相手も地獄の炎に堕ちなくてすむので両方にとって益になります。しかし、もし相手が心を改めなかったら、それは将来自分に降りかかる悲惨を自分で一生懸命積み重ねることになります。
エレミアが神の補償を見ることになると言う根拠が次に来ます。日本語訳では「なぜなら」と言っていませんが、ヘブライ語にはあります。「なぜなら(כי)、自分の訴えをあなたに委ねたからです。」訴えをあなたにお委ねしますので、あとはお任せしますということで、パウロの復讐は自分でしないという考えと同じです。訴えを全て神に委ね任せたので、あとは最後の審判の時に補償してもらえるということです。
13節の「貧しい人の魂」の「貧しい」ですが、辞書では「抑圧された者、虐げられた者、迫害された者」の意味があります。金銭的な貧しさだけではありません。エレミアの状況がまさにそうでした。ところがエレミアは、神に褒め歌を歌え、賛美をせよ、と読者に勧めます。なぜなら神は虐げられた者であるこの私の魂を悪を行う者の手から救い出して下さったからだ、と言うのです。ヘブライ語では「救い出して下さった」と過去の意味です。これは興味深いことです。なぜなら、今まさに迫害の渦中にあるのに、自分の魂は既に神の手中にあるのだ、体の部分は痛い目にあっているが魂の部分は神の手中にあって守られている、だから迫害のさ中にあっても神に褒め歌を歌い賛美をするのが当然なのだと言うのです。
このような、今は理想的な状態にいるとは言えないのに、その状態にあるのと同然だということは本日の使徒書の個所ローマ6章にもあります。洗礼を受けた者がイエス様の死だけでなく復活にも結びつけられているということです。復活は将来のことなのですが、洗礼でイエス様の死に結びつけられて罪の体が葬られた、それで罪が自分をもう支配できない状況が生まれた。あとはその状況にのめりこむようにして生きるだけである。それが「神に対して生きる」ということです。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、片方の手はこの世を掴んでいるが、もう一方の手は復活を掴んでいるということになります。あとは肉の体から離れれば、両手は復活を掴んでいることになります。パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で早くこの世を去りたいと願ったのはこのためです。しかし、彼はキリスト信仰者には神から与えられた使命、課題があり、それを果たさずにこの世を去ることは許されないこともわかっていて、そこにジレンマを感じていました。このジレンマはパウロだけでなく全てのキリスト信仰者に共通のものです。
本日の福音書の個所でイエス様は、人前で自分はイエス様に繋がる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に繋がる者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定すると述べました。その場合、潜伏キリスト教徒たちのことをどう考えたらよいのか?帚木蓬生の「守教」に登場する「今村信徒」たちは踏み絵を踏み檀家制度にも組み込まれ、人前ではイエス様に繋がる者と公表しませんでした。しかし、その傍ら代々密かに洗礼を授け、主の祈り、使徒信条、天使のマリア祝詞、十戒を唱え祈りました。週の7日目は仕事を控え、クリスマスと聖金曜日は大事な日であると心に留めました(あれっ、どうして復活祭はないのかな?当時のカトリックないしイエズス会の考え方?でも、高山右近は高槻城下で復活祭を盛大に祝ったと何かの歴史書に書いてあったではないか)。教会など公けに礼拝する場所がない状況で、これらのことを250年近く代々守り受け継ぎました。公には仏教徒を装い、隠れた所ではキリスト信仰の伝統を守り伝えたわけですが、これは、イエス様が明言されたことに照らしてどうなのか?
小説は歴史上実在した人物が大勢登場しますが、あくまで小説ですのでなされた会話が全て史実ではありません。しかし、それでもこの問題を考える上で良い視点がいくつかあります。一つには、中浦ジュリアン神父、彼は天正少年使節の一人でした、彼が信徒である大庄屋に宣べた言葉ににこういうのがあります。「あなたたちは殉教しないで下さい。殉教は聖職者がすることです。あなたたちは信仰を守り続けて下さい。聖職者は必ず来ます。たとえ200年後になっても。それまでは信仰を守り続けて下さい。」同じ言葉はペドロ岐部神父も述べます。彼は単身でローマに行き、途中日本人で初めてエルサレムも訪問した人です。二人の神父は後に拷問にかけられて棄教せずに殉教します。将来聖職者が訪れる日が必ず来る、それまで隠れてでも信仰の共同体を維持することが大切な使命になったのです。
もう一つは、隠れても身の保全そのものが目的ではなく、場合によっては申し開きをしなければならない日が来ると覚悟と準備が出来ていました。権力側の執拗で緻密な捜査体制や多額の報奨金による密告制度が張り巡らされていて、隠れて洗礼や祈りを行っているとは言え、いつ発覚してもおかしくないという状況でした。それを当人たちは薄氷の上を歩いている、もし氷の割れ目に落ちたら水底が天国になるとさえ言っていました。その意味で、最初の頃に信仰を公けにして殉教してしまった人たちは一足早く氷の割れ目に落ちてしまったということになるのでしょう。
そこで、出来るだけ長く薄氷の上を歩き続ける者たちがやがて発覚したらどうなるのか?取り調べの時に拷問を避けてさっさと棄教するということはありえませんでした。実際、明治維新の1年前の1867年、今村信徒の存在が発覚して久留米城下で取り調べが行われた時、まさにそうだったのです。彼らは、ついに来るべきものが来たと覚悟を決めました。どうせ殉教が待っているのだから思うことは全部言った方が清々するという態度でした。それで役人たちから、お前たちが信奉している教えは何だ、と聞かれて、デウスは全ての創造主だから拝まなければならない、百姓も侍も皆デウスに造られたのだから、お役人様あななたちも拝まなければいけないのです、とまで言ってのけます。使徒信条通りです。
結果は、今村の信徒たちの処罰は戊辰戦争や明治の政変のどさくさでうやむやになったのでした。それとは対照的だったのは、浦上の信徒たちでした。彼らは明治6年に切支丹禁令の高札が撤去されるまで迫害を受けてしまいます。多くの殉教者を出してしまいました。今村ではかつて信徒たちを守るために自らを犠牲にした庄屋の平田道蔵の墓があったところに教会が明治14年に建てられます。小説ではペドロ岐部神父が250年近く前にそれを預言したことになっています。
以上のように潜伏キリスト教徒の場合、将来の教会の再建の種を残すという使命を託されたことや、それは命がけのことで発覚した時は信仰を公表することになるとわかっていたし実際そうしたということは考慮に入れるべきことと思います。
ところで、今村の信徒たちが取り調べの時に、あなたたちも創造主の神を拝むべきです、と言った時の役人たちの答えは「日本には神仏がある。日本人はそれを拝めばよいのだ」というものでしたが、これは実にありうる考えです。今でもこの考えは変わっていないと思います。日本人にはキリスト教は合わないという考えはかなり根深いものがあると思います。室町時代末期、安土桃山時代、江戸時代初期にかけて日本人の間にかなり浸透したにもかかわらずです。キリスト教が壊滅してしまったのは、日本人に合わなかったからではなかったのです。暴力と武力で壊滅させられたのです。遠藤周作の有名な「沈黙」の終わりで、棄教しして仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。その言い方はいかがなものか。暴力と武力で壊滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは問題のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。日本人がキリスト信仰者になると日本人でなくなったように見なされることはよくあることではないでしょうか?果たしてキリシタンの時代の信仰者は自分たちは何か日本人に合わないことをしていると思って信仰していたでしょうか?
最後に、現代日本の私たちの場合は、潜伏キリスト教徒のように表向き仏神教徒を装って信仰を隠す必要も理由もありません。教会もあります。聖職者もいます。信仰を公けにすることで公権力から処罰もされません。もちろん、キリスト信仰者が圧倒的少数派の社会に生きていますから、いろいろ気を使わなければならないことはあります。特に、キリスト教は日本人にあわないという禁教以来のイメージが根強いので肩身が狭く感じられます。でもそれは、人間が作って維持し維持されているイデオロギーのようなものです。かつての東西イデオロギー対立時のベルリンの壁のようなものです。
何よりも大事なことは、もし私たちが父なるみ神から素晴らしいもの、何ものにも代えがたいものを頂いているとわかっているのなら、ペトロの次の言葉を胸に刻んでその通りにすべきです。
「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生き方をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」(第一ペトロ3章15~17節)
キリスト信仰で「希望」と言ったら、それは復活を見据えています。キリスト信仰の希望は復活に収れんしていきます。そういうキリスト信仰の希望については、本説教でもお話ししたところです。もしこの辺のところがまだ弱く感じられる方がいらっしゃれれば、本説教のテキストが教会ホームページに掲載されるのでそれをお読み下さい。動画も残りますので再生して視聴して下さっても結構です。同じことは毎週説教で繰り返し教えています。扱う聖句は異なっても中心にあることはいつも同じだからです。
(後注)新共同訳はאראהをcohortativeに取っている訳です。でも、אראהはcohortativeならば、二つ目のאの母音は「エ」ではなく「アー」になるのではないでしょうか?ここはimperfectではないか?この点に関しては、LamdinのIntroductionは、cohortativeにする時はנהを付けるとだけあります。それだけでは足りないので、北欧の権威的参考書NybergのHebreisk gramatikを見たら、נהを付けるのはליהのタイプを除くとありました。例文が一つありますが、どう見ても訳が間違っているとしか思えず(スウェーデン語の世界になるのでここでは詳細に立ち入りません)、完全に解決できません。困りました。それなので、ここではimperfectで考えた次第です。
本日の旧約聖書の日課は出エジプト記の出来事です。イスラエルの民がエジプトを脱出して3カ月が経ち、シナイ山のふもとまで来て宿営しました。そこでモーセはシナイ山上に現れた神のもとに登り、十戒をはじめ多くの律法を授かります。本日の個所は神が律法を授ける前に次の言葉を民に伝えよとモーセに命じたところです。その中に次のような驚くべき言葉がありました。
「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちは全ての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19章5~6節)
ここのヘブライ語の原文には一見簡単そうでわかりにくいことがあります。「世界はすべてわたしのものである」に「なぜなら」כיがついていて、それが前文とどう結びつくのかがわかりにくいからです。もちろんכיには他の意味・用法もありますが、どれを採っても解決は難しいので取り敢えず基本的な意味の一つである「なぜなら」でやってみます。それから、前文の「全ての民」についている前置詞מןも考えさせられます。「~の中から」と起点・起源の意味で取るか、「~から見たら」と比較の視点で取るかというところではないかと考えました。「~から取る/選択する」の可能性も考えたのですが、その場合動詞がהיהであることが引っかかりました。新共同訳は「すべての民の間にあって」と「間にあって」ですが、それなら前置詞はמןよりもבの方がいいのではないでしょうか?以上のような次第で、次のような意味ではかと思われます。「今、お前たちが私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、お前たちは私の守るべき財産となる。世界の全ての民族の中からそのような特別な地位に置かれるのである。このような選抜を行うのは、私が全世界にとっての神だからである。そのような地位に置かれるお前たちは『神の祭司たちの王国』になり、神聖な民族になる。」
イスラエルの民は「神の宝」だけではなく、「神の祭司の王国」や「神聖な民族」にもなれると言います。私たちの新共同訳では「祭司の王国」と祭司が単数形ですが、ヘブライ語原文では複数形で「祭司たちの王国」です。つまり、特定の祭司が国を治めているのではなく大勢の祭司から構成される王国です。お前たちがそうなるのだ、とお前たちはイスラエルの民を指して言っているので、イスラエルの民全員が祭司になっている王国です。
これは驚くべきことです。というのは、旧約聖書で祭司はモーセの兄弟のアロンから始まって、その家系に属する者がなりました。彼らは民を代表して神に対していろいろな捧げもの、罪の赦しの贖罪や神との和解のため、また神への感謝のしるしとして動物の生贄や収穫物を捧げました。そうなると今日の出エジプト記19章のところでユダヤ民族みんなが「祭司たちの王国」になるというのとは少し違ってきます。神が意図したのはイスラエルの民が全員祭司であるような王国だったのですが、実際には祭司は特定の家系に属する者の専門職業集団でした。
そうかと思えば、この「祭司たちの王国」は出エジプトの出来事から1300年位経った後の新約聖書の中にまた出てきます。使徒ペトロはその第一の手紙の2章9節でキリスト信仰者のことを「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と言います。「王の系統を引く祭司」などと言うと、あれっ、ダビデ王の系統のことかな?などと思ってしまうかもしれません。しかし、そうではありません。ここの「祭司」のギリシャ語の言葉は一人ひとりの祭司(ιερευς)ではなく祭司職の集団を意味する単語(ιερατευμα)です。それなので正確には「王的な祭司の集団」です。これは出エジプト19章の「祭司たちの王国」と同じことです。キリスト信仰者がそうなのだと言うのです。また、黙示録1章6節を見ると、使徒ヨハネが次のように言います。「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が代々限りなくありますように。」ギリシャ語原文では、「私たちを王国とし、神のための祭司たち(複数形!)として下さった方」です。これも「祭司たちの王国」です。黙示録5章10節でも同じことが言われています。
このように「祭司たちの王国」が旧約聖書と新約聖書にまたがってあります。しかしながら、旧約聖書では「祭司たち」は実際には専門職業集団でした。しかし、出エジプト記19章での神の意図は民が全員祭司ということでした。それが神のさらなる命令で専門職業集団が形成されました。出エジプト記19章で神が言われたことは無効になったのでしょうか?ところが、新約聖書の時代になって、やっと全員が祭司になれた、これで出エジプト記19章の神の意図が実現したぞ、そうことをペトロやヨハネが言い出したのです。あとで見ていきますが、実はパウロも、「祭司たちの王国」という言葉は使いませんが、ペトロとヨハネと同じ見方を持っていました。
キリスト信仰者がみんな祭司であるとすると、何か儀式めいたことをしなければならないのか、でもそれは牧師や神父や司祭の仕事ではないかと思われてしまうかもしれません。そこで本説教では、キリスト信仰者が祭司ならば、どんな祭司で何をしなければならないのかについて見ていきたいと思います。
ユダヤ民族の専門職業集団の祭司は、エルサレムの神殿が出来る以前は臨在の幕屋が置かれていたところで捧げものの儀式を行い、神殿が出来てからはそこが儀式の場所になりました。神殿での儀式は、紀元前6世紀初めにバビロン帝国の攻撃によるユダヤ国家滅亡の後、一時中断されます。しかし、同世紀の終わりに民族が祖国に帰還出来て神殿が再建されると儀式も再開されます。しかし、これも西暦70年に今度はローマ帝国の攻撃で破壊されて終焉します。それ以後は神殿は再建されず今日に至っています。
エルサレムの神殿での儀式は、律法の掟に従って忠実に執り行われてはいましたが、決して問題なしということではありませんでした。神殿での神崇拝についてのいろいろな批判が預言書に現れるようになりました。なかでもバビロン帰還後に再建された神殿の時代に記されたマラキ書という預言書の中に次のような言葉があります。
「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。だが、あなたたちは道を踏み外し、教えによって多くの人をつまずかせ」てしまった(マラキ2章7~8節)。
祭司たちは、確かにカレンダーに従って神殿にて儀式を行い、定められた目的に応じて定められた捧げものとをきちんと捧げてはいたのだが、肝心なことが抜け落ちていた。何かと言うと、神の意思が記された聖書についての知識を口を通して人々に宣べ伝えることでした。それこそが人々が祭司に求めていたことだと言うのです。「万軍の主の使者」の「使者」は少しピンときませんが、ヘブライ語の単語(מלאק)の意味はメッセンジャー、つまり神の言葉を神が述べた通りに正確に伝える役目を持つ者です。それが実際には神が述べた通りのことを伝えず、聖書について正しく教えなかったということが起きていたのでした。
キリスト教会では、神の御言葉を正確に忠実に宣べ伝え教えるということは、そのために設置された職務があって、その人たちに委ねられます。聖霊降臨後に形成されたキリスト教会の歴史を新約聖書の時代に限ってみていくと、それに関連して三つの職務が出現します。それはどれも祭司という名は持っていません。祭司はヘブライ語ではコーヘーンכהן、ギリシャ語ではヒエレウスιερευςですが、全く違う言葉で呼ばれる職務が誕生します。それらを少し見てみます。
まず、ディアコノスδιακονοςと呼ばれる職務があります。奉仕者という意味があります。もともとは使徒たちが御言葉の教えと祈りに専念できるようにと、食べ物などの信徒たちの必要を満たす仕事を行うために設置された職務でした。ただし、賄いや給仕が専門というわけではありませんでした。使徒言行録6章にあるように、選考基準は信仰と知恵と聖霊に満ちていることでした。実際、選ばれた者の一人ステファノは御言葉もしっかり教えることが出来、キリスト信仰に反対するユダヤ人たちに対して大説教をしたことが原因で殉教してしまいます。彼はキリスト教会最初の殉教者です。
もう一つの職務はプレスビュテロスπρεσβυτεροςというのがあります。単語の意味は年長者で、日本語では長老と訳されます。これは第一テモテ5章17節から明らかなように御言葉を教える職務です。ヤコブ5章14節から伺えるように教会の代表者として信徒のために祈ることもします。プレスビュテロスがこのような職務を持つことがもとで、後にドイツ語で牧師を意味するPriest、スウェーデン語でもPrästになっていきます。英語のPastorはプレスビュテロスと違うところから来ていると思われます。
三つ目の職務はエピスコポスεπισκοποςです。管理者とか監督者という意味があります。使徒言行録20章28節を見ると、プレスビュテロスからエピスコポスに任命されるのでプレスビュテロスより位が高い感じがします。実際、時代が下るにつれてエピスコポスはディアコノスやプレスビュテロスを任命する権限を持つようになります。しかしながら、両者の資格についてのパウロの記述を見ると(第一テモテ3章1~7節、テトス1章6~9節)質的な違いはないのではないかと思います。実際、4世紀から5世紀に活動した教父ヒエロニムスも、また宗教改革のルターも両者の位に優劣はないと言っています。いずれにしても、エピスコポスも御言葉の職務を務めることにはかわりありません。
以上のように、キリスト教会で、ディアコノス、プレスビュテロス、エピスコポスという三つの専門職業集団が現れます。興味深いことにフィンランドのルター派国教会はディアコニア、牧師、監督の三つの職務があり、初期のキリスト教会の体制がよく受け継がれていると言えます。さて、キリスト教会でこれらの三つの専門職業集団が現れたのですが、他方でユダヤ教にあった祭司ヒエレウスは姿を消します。それは、祭司が神殿の儀式に特化した専門職業集団だったので、肝心の神殿が破壊されてしまった後は祭司も存在しなくなってしまったことによります。しかし、それにもかかわらず使徒たちはキリスト信仰者のことを「祭司たちの王国」と呼ぶのです。祭司ヒエレウスは死後ではないのです。牧師や神父や司祭はちゃんといるのに、キリスト信仰者である私たちのどこが祭司なのでしょうか?
それは、私たちキリスト信仰者は、牧師や神父や司祭であろうがなかろうが、全員がかつての祭司と同じように神に対して捧げものをしなければならないからです。それでは何を捧げるのでしょうか?かつての祭司は、罪の赦しの贖罪の捧げもの、神との和解の捧げもの、収穫の感謝の捧げものなどいろんな捧げものをしていました。
結論から言うと、キリスト信仰者にとっては罪の赦しの贖罪の捧げものと神との和解の捧げものは不要になりました。というのは、神のひとり子イエス様が私たち人間に代わって自らを犠牲の生贄として捧げて私たちの罪を神に対して償って下さったからです。この犠牲の生贄は完全無欠なものでした。それは、エルサレムの神殿で毎年の贖罪日に捧げられていた夥しい数の動物の生贄と比べればわかります。贖罪日ではまず最初に祭司たちが自分の罪の償いのために捧げものをし、そのようにして自分を罪から清めてから今度は民全体の罪の償いのために捧げました。これを毎年行わなければならなかったというのは、言うなれば罪の赦しの有効期限と言うか賞味期限は1年だっということになります。
ところが、イエス様が行った贖罪は、まさに神の神聖なひとり子を犠牲に供するもので、これ以上の犠牲はないという位のものでした。それなので今後はもう罪の償いのために犠牲をささげる必要は一切なくなったという、それ位の犠牲だったのです。それなのに、もしまだ何か追加で捧げものをしないといけない、そうしないと神は自分を受け入れてくれない、なんて考えたら、それは神のひとり子の犠牲では不足だと言っていることになり、逆に神の怒りを買うことになってしまいます。それなので神との和解を果たせるためには、イエス様がゴルゴタの十字架にかけられたのはまさに自分の罪の償いのためだったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、もう十分なのです。そうすれば、あとはイエス様のおかげで罪の償いが済んだ者となって、それで神から罪を赦された者として扱ってもらえるようになります。そのあとは、これからはもう罪を犯さないようにしなければ、神を全身全霊で愛し、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛さなければと心が新しくされます。なにしろ、ひとり子を犠牲に供してもいいと言い位に天地創造の神がこの私を価値ある者と見なして下さるんですから。そういう畏れ多い気持ちに加え感謝の気持ちに満たされてこの世の人生を歩むことになります。
以上申し上げたことが本日の使徒書の日課ローマ5章によく言い表されています。イエス様を救い主と信じる信仰により、神の目に義とされる、つまり神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられるようになる。それで神との間に敵対関係はもうなく、ただただ平和な関係にある。神と平和な関係にあれば、もう無敵で何も恐いものはない。このような信仰に立っていれば、試練があっても忍耐に転化する。忍耐は鍛えられた心に転化する。そして鍛えられた心は希望に転化する。ここで言う「希望」とは、神の栄光に与るという希望です。その意味するところは、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を着せられて神の御国に迎え入れられるということです。私たちがまだ罪びとであった時に、私たちがそのように神の栄光に与れるようにとイエス様は自らを十字架の死に委ねられたのでした。これが神の愛です。この神の愛はイエス様を救い主と信じる者の心に注がれているのです。
以上のような福音の真理を宣べ伝え教えることがどれだけ大切なことであるか、本日の福音書マタイ9章にてイエス様が述べられています。群衆が羊飼いのない羊のように打ちひしがれて見捨てられた状態にあるというのは、神との平和な関係を持たず、罪の支配の力に服してしまっている状態のことを意味します。人々がそこから脱せられて神との平和な関係を持てるように、そのために福音の真理を宣べ伝え教える働き人が必要なのです。まさにマラキ書で言われているメッセンジャーです。本当に私たちは聖書を正しく忠実に宣べ伝え教えられる働き人が多く与えられるように祈らなければなりません。
少し話が脇道に逸れました。私たちキリスト信仰者がする捧げものについて見ていきます。イエス様が私たちのために贖罪と和解の捧げものとなって下さいました。それなので私たちはその捧げものをする必要がなくなりました。そうすると捧げるものとして残るのは感謝の捧げものになります。神のひとり子の尊い犠牲の上に自分が新しくされたということに対する感謝です。それでは、一体何を捧げたらよいのでしょうか?
そのことをパウロはローマ12章で明らかにします。まず、冒頭で度肝を抜くような主題を掲げます。 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
「なすべき礼拝」などとそつなく訳していますが、正確には「理にかなった礼拝」です。難しい表現です。どういうことかと言うと、動物の生贄を捧げる礼拝はもう理に適った礼拝ではないということです。それで自分の体を生贄として捧げる礼拝が理に適っているというのです。これを読んだ人は皆ぎょっとしてしまうでしょう。体を生ける生贄として捧げるだなんて、まるで人身御供ではないかと。ところが、そういうことではないのです。パウロはこの12章で、イエス様の贖いと償いの業のおかげで神から罪を赦しを受けて和解を頂いた者はどんな生き方が当然になってくるかを述べていきます。その生き方をすることが「聖なるいけるいけにえとして自分の体を神に捧げる」ことになるのです。どんな生き方でしょうか?
まず2節で生き方の総まとめを最初に掲げます。生き方のコンセプトのようなものです。
「自分をこの世に合わせていってはいけません。神から罪を赦して頂いて心も考えも新しくされたのだから、あとは自分を神に変えてもらうに任せなさい。変えてもらうにつれ、何が神の意思であるか何が善であり神に喜ばれることか何が完全なことかを常に吟味するようになりなさい。」
そして3節からあとは、何が神の意思か、善か、神に喜ばれることか、完全なことかについてパウロが吟味したことの具体的な内容が続きます。ざっと見ますと、自分を過大評価するな、悪を憎み、善から離れるな、兄弟愛を持って互いに愛せよ、互いに尊敬を持って相手を優れた者と思え、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはいけない、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、高ぶらないで身分の低い人と交われ、自分を賢い者とうぬぼれるな、悪に悪を返すな、全ての人の前で善を行え、他の人と平和に暮らせるかどうかがあなたがた次第ということであれば迷わずそうせよ、自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませよ等々、そうそうたるものです。これらを聞くと、同じようなことは他の宗教でも言っているではないかと思われるかもしれません。しかし、根元は違います。自分で復讐してはいけない理由に神の怒りに任せるということがありました。これは、最後の審判とそれに続く復活が土台にあります。先ほどローマ5章のところで、「神の栄光に与る希望」とは、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を着せられて神の御国に迎え入れられる希望のことであると申しました。キリスト信仰者の全希望はそこに集約されています。
以上が、キリスト信仰者が自分の体を生贄として捧げる生き方です。これができる、これが当然という心意気になるのには、まずイエス様のおかげで罪の赦しがあることを信じる信仰がなければいけません。そうしないと何も始まりません。全ては信仰から始まるのです。このような生き方をすることが神に感謝の捧げものをしていることの現れであり、感謝の捧げものをしていることが祭司であるということです。これは、牧師、司祭、神父であろうが信徒であろうが、キリスト信仰者みんなの課題であり、みんなが感謝の捧げものをする祭司なのです。