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主日礼拝説教 2024年3月24日 枝の主日
聖書日課 イザヤ63章15節-64章7節、第一コリント1章3-9節、マルコ15章1-47節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は教会のカレンダーでは「枝の主日」です。イエス様がろばに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城した出来事を覚える日です。群衆はイエス様が進む道の上に衣服や木の枝を敷き詰め、王様を迎えるように出迎えました。このエルサレム入城の後、イエス様は十字架の受難の道に進んで行かれます。しかし、群衆は今、王としてお迎えしている方にそんなことが起こるとは夢にも思っていません。彼らは、この方こそ、ユダヤ民族を占領しているローマ帝国とそれに取り入る民族の指導者たちを追い払って、民族に真の独立と解放をもたらして下さると期待したのでした。その期待は見事に外れましたが、その代わりに一民族の期待をはるかに超える全人類の運命に関わる大きなことが起こりました。
このように今日はイエス様のエルサレム入城を覚える「枝の主日」の日ですが、ルター派教会のカレンダーでは、受難週の最初の日という扱いにもなっています。今日から始まる週はイエス様が受難の道を進まれる週であり、その頂点としてイエス様が十字架にかけられたことを覚える聖金曜日があります。イエス様は死なれた後、墓に葬られて金曜日、土曜日そして日曜日の朝まで葬られた状態にいます。そして日曜日の早朝に神の力によって復活させられます。
今日の福音書の個所は、ルター派教会の聖書日課を見ると2つ選択肢があります。一つは「枝の主日」の日課で、イエス様のエルサレム入城の出来事を扱ったマルコ11章ないしヨハネ12章。もう一つは、受難週の最初の日の日課で、最後の晩餐から十字架にかけられるところまでを網羅したマルコ14章と15章が定められています。今回、どっちを選ぼうかと迷いました。以前は「枝の主日」を選んでいました。しかし、今年はやり方を変えようと思いました。というのも、スオミ教会は小さな教会なので平日に礼拝を行うと集まる人はとても少なくなります。それは聖金曜日も同じ。フィンランドだとイースター期間は金曜日から翌週の月曜日まで休みですが、日本はそうではありません。聖金曜日の礼拝に出席できないと一つまずいことが起きます。枝の主日でイエス様が歓呼の中で迎えられて、次の日曜日には復活してしまって、めでたしめでたしになってしまう。受難なんかどこにもありません。何だか全てが春のおめでたいカーニバルのようになってしまいます。
そこで、スオミ教会で受難週の平日の夕刻に礼拝をやってもある程度人数が集まる日が来るまでは「枝の主日」はお預けにして、受難週の最初の日でいこうと思います。そうすると、マルコ14章と15章の2つの章を見ることになりますが、これを全部読むと30分以上かかります。これと別に説教の時間も考えないといけません。二つ合わせたら、ちょっと長すぎかなと思いました。幸運なことに、ルター派の聖書日課では、マルコは15章だけでもよいという選択肢もありました。それで、今回はそれを選んだ次第です。ただ、それでもイエス様の受難の前半部分が抜け落ちてしまいます。そこで、本説教ではまず、イエス様がエルサレムに入城するマルコ11章から逮捕される14章の終わりまでを駆け足で振り返ってみて、その後で15章を少し詳しく見てみようと思います。受難週の時、聖書を繙きながらイエス様と一緒に歩むように一日一日を過ごしていくと、主の再臨の日を待つ心構えが出来てくると思います。
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イエス様がエルサレムに入城した後で何が起きたか?エルサレムの神殿で商売をしていた人たちを追い出した出来事が大きなものとしてあります。イエス様の行動は一見すると、神聖な神殿で金儲けなどけしからんと言っているように見えます。しかし、そうではありません。エルサレムの神殿は、人間が神との関係を正常にするために神の意思に反する罪を償わなければならない、それを動物の生贄を捧げて果たす場所でした。そのような儀式はそれはそれで人間に罪があることを自覚させ、罪はそのままにしてはいけないということを思い起こさせるものでした。しかし、規定通りに儀式を行ったら罪が消えて神のみ前に立たされても大丈夫でいられるかと言えば、そうではなかったのです。
そのような人間の手による罪の償いは不完全なものだからもう終わりにする、それに代えて神が完全な償いを人間に備えてあげよう、それでイエス様をこの世に贈ったのでした。神殿から商人を追い出したイエス様は当然のことながら宗教指導者たちから非難を受けます。商人と言っても、彼らはお土産屋さんを営んでいたのではなく、神殿で捧げる生贄用の動物を売っていた人たちです。その意味で彼らは神殿の宗教システムの一部だったのです。マルコ14章を見ると、イエス様が大祭司の前で取り調べを受けた時、彼が神殿を破壊して三日で新しいものを建てるなどと言ったという証言があります。ヨハネ福音書を見ると、宗教指導者たちに神殿を破壊してみろ、そうしたら私が三日で新しいものを建てると言っています。イエス様が破壊するのではありません。三日で新しい神殿を建てるというのは、まさに、人間が造った神殿では完全な罪の償いは不可能だったが、イエス様の十字架の死と三日後の復活によって可能になるという意味でした。
ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、イエス様の活動に心穏やかではありません。あの男は旧約聖書の教え方があまりにも凄すぎる。人々はみなその通りだと信じていく。しかも、奇跡の業も行う。人々はますます彼を信奉し、偉大な預言者とか、かつてのダビデ王の王国を復興してくれるユダヤ民族の王などと担ぎ上げている。このままでは我々の権威が揺らいでしまう。さらによくないことは、占領国のローマ帝国とはせっかく波風立てずにうまくやっているのに反乱の疑いを持たれたら軍事介入を招いてしまう、そうならないうちに早く始末しなければならないと考えるようになっていました。そこに、神殿からの商人追い出しの事件が起きました。これは現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦でした。指導者たちはイエス様を捕まえて死刑にすることに決めました。ユダヤ民族の解放と王国の復興を待ち望む人々の期待が高まっている時に、事態は正反対の方向に進んでいたのです。しかし、その正反対の方向がまさに神が考えていた正しい方向だったのです。なぜなら、それによって十字架と復活の出来事が起きたからです。
神殿からの商人追い出しから逮捕までの間、イエス様は人々に教え続けます。教えはよく見ると、どれもが将来イエス様を救い主と信じるようになる者たちは彼が再びやって来る再臨の日までどういう心構えを持つべきかを教えているとわかります。マルコ11章から12章までです。
イエス様が通りかかった時、実を実らせなかったイチジクの木は枯れてしまいました。イエス様が来る日に実がなっているように準備をしていなければならないのです。そのような準備には祈りが必要であると教えます。祈りを絶やさないことが準備をしていることになるのです。ただし祈る時、心の中で誰かを赦せないということがあってはならないとも教えます。イエス様の犠牲のおかげで神から罪の赦しを受けられて、それでイエス様を救い主と信じるようになったのであれば、彼の再臨を待つ者の心構えとして他者を赦すことは当然のことになるのです。
イエス様はまた、たとえの教えで、ぶどう畑の小作人が所有者の息子を殺害して罰として滅ぼされてしまう。そして、ぶどう畑は別のものに与えられる話をします。これは、罪の赦しの救いを地上で管理する者が神殿儀式のユダヤ教からキリスト教会に移ることを意味します。キリスト教会は主の再臨の日まで罪の赦しの救いを世の人々に伝え、かつそれを受け入れた人たちがその救いを携えてその日まで歩めるように支えなければならないのです。
イエス様はまた、神に選ばれたユダヤ民族は占領者のローマ皇帝に税金を納めていいのかどうかという挑発質問に対して、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せばよいと答えました。この世の権威と権力は絶大なものに見えても、その上に立つもっと絶大な権威に目を向けなければならないということです。主の再臨を待つ者は、いつかは衰退して消え去るこの世の有限な権威権力に目を奪われず、その上に立つ永遠に栄光に輝く神の無限の権威に目を向けていなければならないのです。
さらに、死者の復活などないと言う宗教指導者たちに対してイエス様は、彼らがいかに旧約聖書をいい加減に読んでいたかを暴露します。主の再臨を待つ者は聖書を繙く時、聖書と復活と永遠の命は切っても切れない関係にあることを忘れてはいけないのです。
イエス様はまた、ユダヤ教社会の膨大な数の掟の中で、一番重要な掟は二つ、神を全身全霊で愛することと、神への愛に立って隣人を自分を愛する如く愛することであると教えました。膨大な掟集が二つに集約されてしまいました。しかし、そのためにこの二つの掟は途轍もなく広い深い掟になったのです。そのような偉大な掟に自分のあるがままの姿を照らし合わせると、神の意思に沿うことができない無力な自分に気づかされます。実はこれが罪の赦しの救いの入り口に立つことになります。イエス様は、この二つの掟に納得した律法学者のことを、お前は神の国から遠くない、と言ったのはまさにそのことです。主の再臨を待つ者は神の前に無力な存在であることを忘れてはいけないのです。だから、そんな自分を神の御前で大丈夫にして下さるイエス様が待ち遠しくなるのです。
さらにイエス様は、メシアの意味について、当時一般的に考えられていた民族の王様の意味を越えていること、かつてダビデが主と呼ぶくらいに越えている方であると教えます。人間の罪を償い、人間を罪の支配下から贖い出して復活を遂げた主、そして、いつか再臨される主は本当の意味でのメシアなのです。
イエス様はまた現行の神殿システムが宗教エリートを特権階級にしてしまうことや、神殿への捧げものの価値が外見で評価されてしまって、捧げる心が顧みられない現状を批判します。主の再臨を待つ者は、神によく見られるようになるために捧げるのではなく、神から罪を赦してもらったから捧げます、という心にならなければならないのです。
以上の教えはマルコ11~12章にあります。今見てきたように、どれもが、イエス様の再臨を待つ者のこの世で生きる心構えについて教えています。次の13章でイエス様は、イスラエルの地の近い将来の出来事から始めて、今のこの世が終わりを告げてイエス様が再臨する日までのことについて預言します。「キリストの黙示録」と呼ばれる箇所です。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫でいられるように目を覚ましていなさいと命じます。主の再臨の日まで目を覚ましているというのは、今まで見てきたような再臨を待つ者の心構えを持ってこの世を生きることです。
一連の教えが終わった後、事態は急速に受難に向かって進んで行きます。ある女性が非常に高価な香油を惜しみなくイエス様に頭からかけます。本当は遺体に塗って亡くなった方に最大の敬意を払うものでしたが、女性はイエス様がまだ生きている時に行いました。イエス様の受難と死はもう回避できないという印でした。イエス様はこの世の王として君臨するのではないことがはっきりしました。しかし、無残な殺され方をされるが、実は高価な香油を塗られるに値する高貴なことなのだと、無残さの裏側に大きな真実があることを示す行為だったと言えます。
そして、イエス様は弟子たちと一緒に過越し祭の食事をとります。イエス様はイスカリオテのユダが宗教指導者たちと組んでイエス様を引き渡す役を引き受けたことを知っています。また、イエス様が逮捕されたら他の弟子たちも逃げ去ってしまうことを知っています。これから全く一人で通過しなければならない受難が待っていると知っています。しかし、全てをやり遂げたら、人間はイエス様の犠牲のおかげで罪の償いを自分のものにすることができるようになります。このように罪を償ってもらった人はイエス様を救い主と信じる信仰を携えて世を神の子として歩めるようになります。信仰者が主の再臨の日まで信仰に留まって歩むことが出来るように、歩む力を得られるように、イエス様は最後の晩餐の時に聖餐式を設定して下さいました。主の再臨を待つ者にとって洗礼に並ぶ大事な儀式です。
食事の後、イエス様は弟子たちと一緒にゲッセマネに行ってそこで祈ります。イエス様はこれから起こる受難がどれほど辛く苦しいものであるかよく知っています。なぜなら、誰か一人の人間の罪ではなく、全ての人間の全ての罪の罰を神から受けなければならないからです。最初イエス様は、それを避けられる可能性を神に祈ったほどでした。しかし、神の意思が実現することが自分の思いよりも大事だと祈り直します。イエス様は全てを神の御手に委ねたのです。弟子たちは疲れ果てて眠ってしまいました。イエス様も同じ位疲れていたでしょう。しかし、イエス様は立ち上がって進みました。このように私たちが弱くても、イエス様は私たちのために立ち上がって私たちの代わりに進んで下さるのです。
まさにその時でした。指導者たちの回し者が押し寄せてきました。イエス様は逮捕されてしまいました。弟子たちは逃げ去ってしまいました。イエス様は最高法院に連行され、大祭司のもとで尋問を受けました。訴えは食い違いが多く、筋の通った決定的なものがありません。業を煮やした大祭司がイエス様に聞きます。お前はメシアなのか?そうだ、とイエス様は答え、さらに、人の子は神の右に座して、天の雲と共に到来すると、自分の再臨について述べます。怒り狂った大祭司は、イエス様が神を侮辱したと叫び出し、一同は死刑に処するべきと一致します。イエス様に容赦ない暴行が加えられました。遠くから様子を伺っていたペトロは、お前はあの男の仲間ではないかと聞かれ、三度、イエス様との関係を否定してしまいます。そしてイエス様が言った通りになってしまったと気づきました。あれほどどんなことがあってもついて行くと言ったのに、なんという失態!ペトロは激しく泣いてしまいます。イエス様を信じた者が周りに対する恐れから否定してしまうというのは途轍もない後悔を引き起こします。しかし、後でペトロは罪を赦され、信仰を公けにする者に変わります。主の再臨を待つ者とは、信仰を公けにする者なのです。
イエス様は最高法院からローマ帝国のユダヤ総督のピラトの元に送られます。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあり、死刑は支配国の法律に基づいて行われたからです。ピラトはイエス様がひょっとしたらユダヤ民族の王かもしれないと思ったようです。宗教指導者たちがイエス様を引き渡したのは、彼が多くの人たちの支持を受けたため、自分たちの権威が脅かされると恐れたからだとわかっていました。別にこの男が王だとしても、ヘロデもローマに服従したし、誰が王になってもローマは服従させる自信はあります。
さて、過越し祭の時にはユダヤ人の希望を聞いて死刑囚を一人釈放する慣行がありました。今ピラトの前に宗教指導者たちが集めた人たちがいます。ピラトが提案しました。ユダヤ人の王イエスを釈放しようか?しかし群衆は釈放するのはバラバだと叫びます。十字架刑はイエスだ、と。彼らは指導者の指示通りに叫んだのです。驚いたピラトが、イエスは一体どんな悪事を働いたのかと聞きますが、群衆はただ十字架につけろと叫ぶだけです。ピラトは十字架につけるのはイエス様に決め、バラバを釈放しました。そこからは屈強なローマの兵士たちがイエス様に対して容赦ない暴行を加えます。その後、イエス様は自分が吊るされる大きな十字架の木を背負わされて処刑場まで運ばされます。恐らく半殺しのような状態だったのでしょう、背負いきれなかったので、兵士たちは通行人のシモンに命じて一緒に運ばせました。
ゴルゴタの処刑場に着くと、さっそく十字架につけられました。両腕を左右に引き伸ばし、両方の手首と一つに重ねた足首に五寸釘を打ち付けるのです。激痛といったらなかったでしょう。当時十字架刑は最も残酷な死刑の仕方でした。十字架の上で苦しんで死んでいく様子をずっと公けにさらしものにするのです。通りがかりの人が見て、指導者たちと一緒になってイエス様に嘲りと侮辱を叫びます。民族の解放者のように騒がれていたのに、なんだあのざまは、と。ついこの間、ロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムの町に入城した面影は全くありません。
イエス様が十字架につけられて3時間ほどたった正午の頃でした。大地が突然暗くなるという事態が起きました。イエス様が神罰を受けて苦しまれている状態を象徴する現象でした。暗い状態は午後3時位まで続きました。ちょうど暗さが収まって明るくという境目の時に、イエス様が母語のアラム語で叫びました。「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのか?」これを聞いた人たちは、昔生きたまま天に上げられた預言者エリアが来て彼を天に上げてくれるように頼んでいると誤解しました。イエス様が直ぐ息を引き取らないようにと海綿に酸いぶどう酒を含ませて棒に付けて飲ませようとしました。しかし、イエス様はそのまま息を引き取られました。
ちょうどその時、神殿では大変なことが起きました。神殿の中の最も神聖な場所で、大祭司だけが入れて神と対峙する至聖所の前にかかっている垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。イエス様が十字架につけられて激痛の中を苦しんでいる時、大地が暗闇に覆われた時、イエス様は人間の全ての罪の罰を受けたのであり、同時にイエス様と抱き合わせの形で罪も滅ぼされたのです。暗闇が終わってイエス様が息を引き取ったのと同時に、罪ある人間と神聖な神を分け隔てていた垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。まさにイエス様の体を神聖な犠牲として捧げたので、人間と神を分け隔てていたものがなくなったことが明らかになった出来事でした。不思議な暗闇の中でイエス様の前に立って一部始終を見ていたローマの軍隊の隊長はイエス様が息を引き取るや否や暗闇が終わったことに恐れを抱いたのでしょう。この方は本当に神の子だったと叫んだのです。
イエス様の十字架刑の細かい出来事を見ると、例えば、兵士たちがイエス様の服を分け合うためのくじ引きを引いたこと、酸いぶどう酒を飲ませようとしたこと、またイエス様が最後に叫んだ言葉、これらはみな旧約聖書に預言されていたことでした。イエス様の受難は全て神の計画通りに進んだということです。
さて、イエス様が亡くなられた後、最高法院の議員ヨセフがピラトのもとに行ってイエス様の遺体の引き取りを願い出ました。彼は神の国を待ち望む人でした。つまり、イエス様が神の国について熱心に教えたことを信じたのです。ということは、今の世が終わる時に起こる死者の復活も信じていました。復活に与る者が神の国に迎え入れられます。今イエス様は死なれました。この後どうなるのか?あの方は3日後に復活すると言っていたそうだが、今の世がまだある時に復活が起こるのだろうか?しかし、今はまだ何もわかりません。しかし、今しなければならないことは、イエス様の遺体が宗教指導者に引き取られて打ち捨てられるようなことがあってはならない。彼は勇気を出して占領国の総督ピラトの元に行きました。幸いなことに引き取りは認められて、イエス様の遺体を埋葬します。彼が埋葬したおかげで、3日後の空の墓の出来事が起こりました。イエス様の復活の重要な証拠になったのです。このように、主の再臨を待つ者は、他人がどう見ようが何を言おうが、イエス様が教えたことを信じて彼に敬意を抱いて行動すると、神は予想もしない大きな業をもって返して下さるのです。
主の再臨を待つ者の心構えは、福音書の受難の出来事の他にも、本日の旧約の日課イザヤ書50章と使徒書の日課フィリピ2章にも示されています。
イザヤ書50章は、イエス様が暴行を加えられる場面を想起させます。しかし、この主の僕は、神が自分の正しさを認めてくれているとわかっています。暴力をもってしても曲げられないと。主の再臨を待ち、神の罪の赦しの恵みの中で生きる者は、誰かが私を訴えようとしても、天地創造の神が私の無実の証言者になってくれているので、私にはやましいところはないという気概を持てるのです。
フィリピ2章は、パウロがキリスト信仰者は自分のことだけを考えるのではなく、他の人たちのことも考えなければならない、それはイエス様がそうだったからだと言います。どのようにそうだったかと言うと、『神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたからです。この世で、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だったからです。』主の再臨を待つ者は、自分のことだけを考えるのでなく他の人たちのことも考える時、イエス様を身近な例として持っているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2024年3月10日 四旬節第四主日
聖書日課 民数記21章4-9節、エフェソ2章1-10節、ヨハネ3章14-21節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
旧約聖書と新約聖書は互いに密接に繋がっています。旧約聖書に来るべき救世主のことが預言されていて、それがイエス様の出来事で実現して新約聖書に記されました。それで、旧約、新約はそれぞれ天地創造の神の人間救済について計画段階と実現段階を述べていると言うことができます。このように聖書は全体として神の人間救済についての書物です。
旧約と新約が互いに密接に繋がっているということは預言の実現だけではありません。それは、旧約にある出来事は将来のイエス様の出来事を初歩的な形で先取りしていたということがあります。その一つの例は、エルサレムの神殿で行われていた礼拝でした。イスラエルの民は神殿で毎年、罪を償う儀式として大量の牛や羊を生贄にして神に捧げました。それが、イエス様が十字架の上で死なれたことにより、人間の全ての罪の償いが果たされたということが起こりました。それで何かを犠牲にする必要はなくなり、神殿の存在理由がなくなってしまったのです。神殿の儀式は罪の償いの実物ではなく、実物はイエス様の十字架でした。神殿の儀式はそのミニアチュアのようなものだったのです(礼拝の説教中に一つ思い当たり、ひょっとしたら自動車のコンセプトカーと実際に生産販売される自動車の違いのようなものではないかとも申しました)。神殿では大量の生贄を毎年捧げなければならないので、神に対して罪を償うというのはとても大変なことだということは誰にでもわかりました。それが神のひとり子の一回限りの犠牲で未来永劫しなくていいということになったのですから、イエス様の犠牲の力の凄さと言ったらありません。
本日の福音書の個所のイエス様の教えにもミニチュア/コンセプトと実物の関係があります。遥か昔モーセがシナイの荒れ野で蛇の像を掲げて、それを見た者が毒蛇の毒から救われた、それと同じように十字架に掲げられたイエス様を信じることで人間は永遠の滅びから救われるという教えです。これもイエス様の十字架が実物でモーセの蛇の像はそのミニチュアという関係にあることを示しています。今日はこの関係をよく見て神の私たちに対する愛と恵みをより深く知るようにしましょう。
本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1ー21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛と人間の救いについて、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについて教えられます。
まず、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げた出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にありました。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では、作った蛇を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥ、プラス前置詞エルは辞書によると英語のlook at、gaze atです。「見上げる」、「仰ぐ」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。
イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたという共通点にとどまらない深い意味があります。
本日の民数記の個所に「炎の蛇」が2回出てきます。最初は神がイスラエルの民に対する罰として「炎の蛇」を送ります。その次は神がモーセに「炎の蛇」を作りなさいと命じます。興味深いことに各国の聖書は最初の蛇を「炎の蛇」と訳さず「猛毒の蛇」と訳しています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。ところが、ヘブライ語の辞書を見ると「猛毒の蛇」はなく、「炎の蛇」です。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて辞書にはない「猛毒の蛇」で訳したのではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、合理的な解釈をしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、その欧米で作られた辞書に「炎の蛇」とあるのだから、別に「炎の蛇」でいいじゃないか。それと、神がモーセに作りなさいと言った「炎の蛇」も、各国の訳はそう訳していません。素直じゃないと思います。
さて、モーセは「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりました。これは一体どういうことでしょうか?次のように考えたらよいと思います。
モーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを言われた通りに旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。これが堕罪の出来事です。
イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うというのは、まさに神の意思に反する罪を犯すと、罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いことを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、冷たくなった蛇の像が現している罪の無力化がその通りになって死を免れたのです。
これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを回復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。イエス様は全ての人間を代表して全ての罪を神に対して償って下さったのです。それと、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力です。人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありません。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。復活が起きたことで死を超える永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。
このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部果たし、罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは歴史上、本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。荒れ野の民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた罪の無力化がその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それで、モーセの蛇の場合と違って、イエス様の十字架の場合は「見つめる」ではなく「信じる」と言うのです。しかし、イエス様を信じるというのはゴルゴタの十字架を心の目で見つめることでもあります。次にそのことを見てみましょう。
イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時に起こります。肉眼の目を通して見たわけではないのに、まるで肉眼の目で見たのと同じように頭の中に映像があるのです。もう心の目を通して見ているとしか言いようがありません。
そこで、イエス様の十字架を心の目で見つめることは洗礼の時の一回だけで終わらないこと、洗礼の後も何度も何度も繰り返して見つめることになることを忘れてはいけません。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったと言っても、神の意思に反する性向、罪はまだ残っているからです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも頭の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない
注意があって罪を言葉や行いで出してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?イエス様が果たしてくれた罪の償いと贖いを台無しにしてしまったことになり、神罰を受けるしかないのでしょうか?
いいえ、そうではない、ということを毎週、本教会の説教で申しています。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で認めて赦しを願い祈ります。「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで今も打ち立てられて微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦す、だから、これからは罪を犯さないようにしなさい。」
こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることができたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることの繰り返しです。それで、十字架を見つめることは何度もします。そうやって何度も再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛です。そのことをヨハネ3章14~16節はよく言い表しています。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。それほどに神は世を愛された。それで、独り子をお与えになった。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(後注)。」
ヨハネ3章の本日の箇所の後半(18ー21節)で、イエス様は自分を信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても少し気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。
3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたら穏やかではないでしょう。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険にある。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正します。信じなければ状況は何も変わらず、滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。
3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。
3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒されたくないからだと言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るのではと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教は本当は独善的でも何でもない。そのことがわかるために、キリスト信仰者とそうでない人の違いを見てみます。そうでない人は造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。
キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口にした言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからもわかるように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。
このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。
翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、神の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないようにするというのは、詰まるところ人々が心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超える永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(後注)ヨハネ3章16節の訳し方について。ουτωςを後ろのωστε~と結びつけて考えると、「神はひとり子を送るほどに世を愛された」となります。これは一般的な読み方です。
もう一つの読み方は、ουτωςを前の14節と15節で言われていること、つまり、「モーセが荒れ野で蛇を上げたのと同じように人の子も上げられなければならない、それは彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった
、ουτωςはこれを受けているという見方も可能です。そうすると訳は、「彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった。そのように神は世を愛した。それで、ひとり子をこの世に送られた」になります。
どっちがいいか、是非皆さまでご検討下さい。
主日礼拝説教 2024年3月3日 四旬節第四主日
聖書日課 出エジプト20章1-17節、第一コリント1章18-25節、ヨハネ2章13-21節
本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。十戒には、創造主の神の意思が明確に示されています。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた創造主の神の意思です。それなので十戒は神に造られた全ての人間に関わる掟です。神はそれをモーセを通してイスラエルの民に、あたかも全ての民族の代表者のようにして与えました。それでイスラエルの民は自分たちこそ全知全能の神に選ばれた、神に一番近い民という誇りを持ったことは当然のことでした。
十戒はキリスト信仰者の皆さんはよくご存じのものですが、信仰者でない方もこの説教を聴いたり読んだりするので、少し内容を見ておきます。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係についての掟です。第4から第10までの掟は、人間同士の関係についての掟です。神と人間の関係についての掟を見ると、第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名前を引き合いにして誤った誓いを立ててはいけない、また不正や偽り事に神の名前を引き合いにして唱えるのは神聖な名前を汚すことになるのでしてはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。
人間同士の関係についての掟を見ると、第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にしようとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。まさにSNS時代に相応しい掟です。第9と第10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。
私たちのルター派の教会では大人の方がキリスト信仰者になるべく洗礼を受けようとする時は、前もってルターの小教理問答書を学ばなければなりません。ルター派以外の教会から転入する人も同じです。小教理問答書の内容は、十戒の他に使徒信条、主の祈り、洗礼、聖餐式、罪の告白と赦しについての教えがあります。十戒の解説を見ると、一つ一つの掟の最初に次の言葉が来ます。「あなたは神をおそれ、愛さなければならない。」その後に掟の解説が続きます。神をおそれ、愛さなければならないというのは一体どういうことでしょうか?神をおそれるというのは、神を怖いと思う恐れの意味と、神を高く祀り上げて自分を低くする、畏れ多いという意味の二つが合わさっています。そんなおそれるべき神をどうして愛することができるでしょうか?十戒の一番最初の掟で、それはできる、だからそうしなければならないと言うのです。それを見てみましょう。
まず、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と神は言われます。「わたしを否む者」というのは、ヘブライ語のもともとの意味は「わたしを憎む者」です。天地創造の神以外の神を拝む者は天地創造の神を否む者です。それは神を愛していないことになり、それで憎む者と言われるのです。そのような者が犯した罪は三代目、四代目の子もその責任を負うことになると言うのです。まさに罪の呪いです。そういうことを言う神は真に恐ろしい方です。
ところが神はすかさず言われます。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」先ほどの、神を否み、神を憎む者の反対のことが言われます。神を愛する者とは、創造主の神のみを神として崇拝する者です。神の戒めを守ると言う時の「戒め」はヘブライ語は複数形なので十戒の全部の掟を指します。神を愛し崇拝し十戒の掟を守る者には幾千代にも慈しみが及ぶ。「慈しみ」はヘブライ語のヘセド、神の恵み、親切、見捨てないことという意味があります。それで、永久と言えるくらいに神から恵みと親切を受けられ、見捨てないでずっとついていてくれると言われたら、神は真に愛すべき方です。
神は神を愛さず罪を犯す者にとっては恐ろしい方であり、神を愛し十戒を守る者には愛すべき方です。そうなると、罪を犯す者にとっては愛すべき方ではなく、逆に、十戒を守る者には恐ろしい方ではありません。しかし、私たちは神を恐れると同時に愛さなければならないというのはどうしてでしょうか?罪を犯す者が神を愛するようになることは可能なのか?十戒を守る者が神を恐れることはあるのか?エゼキエル書33章を見ると、神は十戒に背く者が神に立ち返って守るようになることを強く望んでいることが言われます。33章16節では、背く者が掟を守るようになり不正をしなくなれば神はその者の過ちを思い起こさない、不問にするとまで言われます。なので父が罪を犯しても、このように生き方を変えれば罪は問われなくなる。もし三代目、四代目の子孫もこの方針を続けていれば、問われなくなった父の罪は何の影響もありません。なので、罪を犯す者にとっても神は愛すべき方なのです。エゼキエル書の同じ33章では逆のことを言っています。もし神の掟を守る正しい人が「自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ」(13節)。そうなれば、3代、4代先の子孫まで影響を及ぼす事態になります。なので、掟を守る者にとっても神は恐るべき方なのです。
そこで一つ問題が出てきます。十戒の掟を守ると神は恵みと親切を与え見捨てないでいて下さる、掟を守る者は神を愛しているから守る。そうすると、人間がまず神を愛して掟を守って、神から見返りに恩恵を受けるということになる。そうすると、第一ヨハネ4章10節で言われていることと相いれなくなります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神が先に私たちを愛したのであれば、私たちが掟を守ることは恩恵を受けるためではなくて、神から愛されたから守るということになります。ここにキリスト信仰の十戒の守り方の真髄があります。これからそれを見ていきましょう。
本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、イスラエルの民がモーセの指導の下、神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。その主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には生贄用の羊や牛が売買されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物の購入や神殿税の納入のために通貨を両替する必要がありました。
このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が本当に神の意思に沿っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。罪のゆえに壊れてしまった神と人間の関係を修復できる方、罪の赦しを与える方はまさに創造主の神です。しかし、形式的に儀式をこなせば神は修復して赦してくれて当然というような態度は傲慢です。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11-17節、エレミア書6章20節、7章21-23節、アモス書4章4節、5章21-27節など及びイザヤ29章13節も)。
イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。どうして彼はそこまで憤ったのか?それは、本当ならばユダヤ民族だけでなく全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけをする場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞エゲイローεγειρωが使われています。神殿というのは本当なら、人間が神から罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまっている。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?
復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、すなわち罪を持つようになってしまいました。そのために人間は、神聖な神の御許にいられなくなってしまい神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から死んでも復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげようと決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子のイエス様に受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になったのです(第一コリント5章7節、ヘブライ9-10章)。
イエス様の犠牲は、それまでの神殿の牛や羊などの動物の生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24~28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。
イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄だけにとどまりませんでした。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪されました。その時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の支配下から脱して神との結びつきを持って生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代価が、神のひとり子イエス様が流した血でした。
そういうわけで、イエス様を救い主と信じ受け入れたキリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを洗礼を通して自分のものにした者ということになります。まさにエルサレムの神殿が果たそうとして出来なかったことをイエス様が果たして下さったのです。そういうわけで十字架の死を遂げて復活されたイエス様は真に、人間の罪の赦しを実現して神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。
ここで十戒に戻りましょう。イエス様は十戒について、とても本質的なことを教えました。有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21-22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。造り主の神は人間に心の中までも潔白性を要求しているのです。全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいません。ローマ3章10節で使徒パウロが、神に相応しい義を持つ者は誰一人としてもいないと断言したのはそのためでした。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。
神聖な神がこのような人間に不可能な完全さを要求するならば、人間はどうすればよいのでしょうか?掟をちゃんと守れないので神罰を恐れて神から逃げるか、または神は人間の本性を理解できない酷い方だと反発するかのどちらかでしょう。どっちをとっても神に背を向けて生きることになってしまいます。
ところが、イエス様という神殿を持ち、その中で生きるキリスト信仰者は神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。ただしそれは、信仰者が十戒を内面的にもしっかり100パーセント守り切る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、神の神聖なひとり子が自分を犠牲にしてまで私たちの罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金にして私たちを罪の支配下から買い戻して下さったこと、これらのことを洗礼を通して頭からすっぽり被せられているからです。だから十戒の鏡で罪を照らし出されても恐れや反感を抱かずに神に向き合うことができるのです。
イエス様が果たしてくれたことを自分のものにしていない人は、罪を照らし出された時、自分は罪があるから神に相応しくないとわかります。しかし、イエス様が果たしてくれたことを自分のものにした人は、彼のおかげで自分は神に相応しいものにかえてもらった、という喜びがある自覚になります。その時、十戒の掟を守ることは神に罰せられないために仕方なく守るという消極的な守り方でなくなります。神から恩恵を受けるために守るという報酬主義もなくなります。こちらが何もしないうちに恩恵を与えてもらったので、イエス様を贈って下さった父なる神に感謝し愛することの現れとして神の意思に沿うように生きよう、十戒を守ろうという積極的な守りになっていきます。
しかしながら、十戒の守り方が積極的になっても、再び罪を十戒の鏡に照らし出される時があります。その時は、罪の赦しの恵みの王座の前で罪を認めて告白し、ひとり子の犠牲に免じて罪が赦されるという神の恵みをまた受けます。そうしてまた恵みを受けた感謝と喜びがあって、神を愛する現れとして十戒を守るようになります。キリスト信仰者は人生の間、何度も何度も罪の赦しの恵みを受け、何度も何度も神を愛して十戒を守るようになることを続けていきます。この繰り返しは、復活の日に最終決着がつくのです。
イエス様は十戒について、心の中の潔白さも問うものであると教え、十戒を表面に留まらないとても深いものにしました。それで十戒は罪を照らし出す鏡のような働きがあるのです。イエス様はさらに、十戒の「してはいけない」ことは実は「しなければならない」ことも視野に入れていることを教えました。それで十戒はとても広いものになったのです。イエス様は人間同士の関係を律する7つの掟について、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することであると教えました。それで7つの掟をその趣旨に照らして見ると、小教理問答書の中でルターも教えるように、「殺すなかれ」はただ殺人を犯さなかったら十分というのではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入ると教えました。他の掟も同じように広くなりました。このようにイエス様は、十戒の掟を広く深くして完全なものにしたのです。それが神の意思だったのです。十戒を広く深いものにして私たちが受け入れて守れるようにする、しかも感謝と喜びをもって守れるようにする、そのためにイエス様は十字架と復活の業を遂げられたのです。
主日礼拝説教2024年2月25日 四旬節第二主日
創世記17章1‐7、15‐16節、ローマ4章13‐25節、マルコ8章31ー38節
本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っている有名なイエス様の教えです。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これを読んだ人はたいてい、ああ、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているんだな、と理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値あるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。誰にでもわかる道徳をイエス様は教えているのだと。
ところがイエス様はこの言葉の前で何と言われていたでしょうか?「わたしの後に従いた者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。
皆さん、しっくりいくでしょうか?「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救う」などと聞くと、大方の人は、ああ、迫害を受けて殉教した人は天国に行けることを言っているんだなと理解するでしょう。そうすると、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というのは、殉教の道を歩めと言っているように聞こえてきます。そうなると一方で、命は地球より重い、それくらい価値あるものなのだ、などと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのはOKというのは矛盾しているのではないでしょうか?
実はイエス様は矛盾したことは何も言っていないのですが、なぜ矛盾しているように聞こえるのかと言うと、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」、この部分を「命は地球より重い」という一般的な道徳で理解してしまうからです。この部分をよく目を見開いて見ていくと、一般的な道徳とは違うことを言っていることが見えてきます。ここには一般的な道徳ではなく、キリスト信仰の道徳があるのであり、それが見えてくるとイエス様が言っていることは筋の通ったものになります。そういうわけで本日は皆さんを一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へと道案内したく思います。
まず、本日の福音書の日課マルコ8章31~38節ですが、その少し前の27節~30節を見ると、イエス様が弟子たちに、人々は私のことを何者と言っているかと質問をします。どうやら人々はイエス様のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていたようでした。それに対してペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、メシア・救世主と信じていることを明らかにします。
そこで今日の31節が来ます。イエス様は自分の受難と死からの復活について預言します。それを聞いたペトロは敬愛するイエス様が殺されることなどあってはならないと思って否定します。それに対してイエス様はペトロのことをサタン、悪魔と言って叱責します。お前は「神のこと」を思わず、人間のことを思っている、と。これを読む人はイエス様の強い語調に驚くでしょう。その場にいたペトロや弟子たちに至っては大ショックだったでしょう。しかし、神の人間救済計画を全世界の人たちのために実行すべくこれから十字架の死を受けなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのはまさしく神の計画を邪魔することになります。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないというのは悪魔に加担することと同じになってしまいます。それでイエス様は強く叱責したのです。ペトロが思っていない「神のこと」とは、まさしく神の人間救済計画のことです。
それでは神の人間救済の計画とはどんな計画か?それがわかるとイエス様が教えていることは一般的な道徳を越えてキリスト信仰の道徳であることがわかってきます。当教会の説教で毎回教えていることですが、復習しましょう。
キリスト教信仰では、人間は誰もが創造主の神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまったという大問題が立ちはだかります。どうして壊れてしまったかと言うと、創世記に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、それを聖書では罪と言いますが、それを持つようになってしまったからです。人間は神聖で永遠の神のもとにいられなくなって死ぬ存在となりました。使徒パウロがローマ6章23節で言うように、死ぬというのはまさに罪の見返りなのです。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできてしまったのです。
これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持てて生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても復活の日に目覚めさせて復活の体と永遠の命を付与して造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この計画はどのように実現したか?罪が人間の内に入り込んで神との結びつきが失われてしまったのだから、それを人間から除去しなければならない。しかしそれは、イエス様がマルコ7章で宗教指導者たちとの論争で明らかにしたように人間の力では不可能です。律法という神の意思を表す掟があります。しかし、人間はそれを行いだけでなく心の中でも完全に永続的に守り通すことはできないのです。律法は、人間が不完全で罪があることを示してしまうのです。人間が自分の力では無罪(むつみ)の状態になれないとすれば、どうすればいいのか?なれないと、神聖な神と結びつきを持つことも神のもとに戻ることもできません。
この問題に対する神の解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に贈って、彼に人間の罪を全部背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運び上げさせ、そこで人間の身代わりに神罰を受けさせて死なせたのです。つまり、ひとり子イエス様に私たち人間の罪の償いを果たさせたのです。そこで私たち人間がこのことは歴史上、本当に起こった、それでイエス様は本当に救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを持てるようになって、この世をその結びつきの中で歩むことができるようになります。
イエス様が果たしたことは罪の償いだけではありません。十字架の死から3日後、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちのために開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになったのです。神との結びつきを持ちながら進んでいくのです。
ところで、神から罪を赦された者と見てもらえるようになったとは言っても、この世にいる間は私たちは肉の体を纏っているので私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。確かに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた以上は注意深くなって罪を行為や言葉で表に出してしまうことはなくなるかもしれませんが、心の中で持ってしまいます。どんなに注意していても、人間的な弱さのため、また隙をつかれて罪が行為や言葉で出てしまうこともあります。そのような時はどうなるのか?イエス様が果たして下さった罪の償いを台無しにしたことになり神から赦しをキャンセルされてしまうのでしょうか?神との結びつきは失われてしまうでしょうか?
そうではないのです。もし自分に罪があるとわかったら、すぐそれを神の御前で認めて、イエス様を救い主と信じますから赦して下さいと祈ります。そうすると神は、「お前は心の目をあのゴルゴタの丘の十字架に向けて見よ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられている。わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないようにしなさい。」そうおっしゃって下さいます。そうしてキリスト信仰者は再出発します。
キリスト信仰者といえども神の意思に反する罪を内に抱えています。それで自然、罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すことになります。罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すというのは、イエス様の十字架の下に行くことです。また自分が受けた洗礼の地点に戻ることです。洗礼の地点に戻って十字架の下に立つというのは、私は罪に与しない、罪を忌み嫌って生きているということの偽りのない表われです。なので、罪を認めることと赦しを受けることを繰り返せば繰り返すほど、内に宿る罪は圧し潰されていきます。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者のこの世の人生というのは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスです。怒りや憎しみ、口を制御することができないとか、えこひいき自分もひいきされることを望むとか、そういう愛のなさが染みついている古い人。これを神から頂く罪の赦しを重石のようにして圧し潰していくプロセスです。
やがて、このプロセスが終わる日がきます。生きている人も死んでいた人も全ての者が創造主の前に立たされる日です。その時、各自に審判が下されます。その時、「お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと認められれば、それで十分です。そう認められた人は、その時もう自分には圧し潰すものがなくなっていて、自分自身の体が神の栄光を映し出して輝いていることに気づきます。これが復活の体です。ルターが言うように、キリスト信仰者が本当に完全な信仰者になるのはこの世を去って肉の体にかわる復活の体を着せられた時なのです。
以上が神の人間救済の計画とそれがどう実現したかについてです。それでは、イエス様がつき従う者つまり私たちキリスト信仰者に背負いなさいと言っている十字架とは何かに?それについて見ていきましょう。そして、命を救う、失う、と言っていることはどういうことか、それも見ていきましょう。
まず、キリスト信仰者が背負う十字架について。これは、イエス様が背負った十字架と同じでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって人間の罪を全部引き受けてその神罰を全て受けて人間の救いを実現しました。私たち人間が同じような十字架を背負うことは出来ないし、そもそも救いの十字架は一度打ち立てられて完結したのです。
それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど、キリスト信仰者の人生は罪を圧し潰していくプロセス、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスだと申しました。
それで、「自分を捨てる」というのは、まさに古い人を死なせ、新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。つまり捨てるのは肉に結びつく古い人です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まりました。ただこれはプロセスですので、この世を去るまでは捨てることは続きます。「自分を捨てる」と言うと、何だか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえます。また逆に、自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえるかもしれません。一般的な道徳の耳で聞くとそういうふうに聞こえるのです。しかし、そういうことではありません。罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すことで古い人が圧し潰されて衰えて代わりに新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てること、これがキリスト信仰の道徳から見た「自分を捨てる」です。
そういうわけで、私たちが十字架を背負うというのは、洗礼を受けた時に始まる、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いを戦うということになります。戦いの内容は、それぞれが置かれた状況によって異なってきます。人間関係の中で死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てきます。人を妬むことで古い人が強まります。あるいは、キリスト信仰者であると公けにすると立場が悪くなってしまうから黙っていよう、などと言ったら、新しい人が育たなくなります。このように背負う十字架は中身は違っても、新しい人を育て古い人を死なせるという点ではみな同じです。そういうわけで、「十字架を背負う」とか「自分を捨てる」というのは殉教そのものではありません。罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がなくても日常生活のどこにでもあります。
このように、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入ることだとわかると、続く35節と36節で「命」(後注)を救うとか失うとか言っていることもわかってきます。次にそれを見ていきましょう。
35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは前の繋がりで見ると、自分の命を救いたいと思う者とは、自分を捨てることもせず自分の十字架を背負うこともせず、従って罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入らなかった人のことです。それなので、復活の体と永遠の命が待つ神の国に向かって歩んでおらず、この世での命が全てになってしまう人です。そのような人にとって新しい世での新しい命などありえないことですから、この世での命にしがみつくしかありません。まさに、「自分の命を救いたいと思う」人です。しかし、この世での命は永遠に続きません。だから、「それを失う」のです。
次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」先ほど、自分の十字架を背負い自分を捨てるというのは殉教そのものではない、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあると申しました。しかしながら、信仰を捨てるか命を捨てるかのどっちかを選べ、と権力者から迫られたらどうするかという問題は歴史上あちこちでありました。今日でもあります。たとえ罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いが殉教で中断させられてしまっても、命落す日まで戦いを続けたことは父なるみ神の「命の書」に記されます。最後の審判で、お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと必ず認められるでしょう。
そして36~37節です。イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」ここの「命を失ったら」の「失う」ですが、前の35節に二回出てくる「命を失う」と原語のギリシャ語の動詞が異なります。35節はアポリュミαπολλυμιという動詞で、それは文字通り「失う」という意味がありますが、36節はツェーミオオーζημιοωという動詞で、その正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため辞書によっては、イエス様のここの言葉を「命を失う」と訳してはいけないと注意するものもある位です。新共同訳ではそう訳してしまっています。ここは「命に傷がついている、ダメージを受けている」という意味です。そうなると、イエス様は「命は地球より重し」という一般的な道徳を教えていないことになります。一体イエス様は何を教えているのでしょうか?
36~37節の意味はこうです。「人はたとえ全世界を手に入れても、命が傷つきダメージを受けていたら、そんな命は何の役にも立たない。なぜなら、どんなにこの世で永らえようとしてもいつかは時が来るのだし、その時、手に入れたもので命を買い戻そうとしても無駄である」ということになります。ここでの問題は「命に傷がついている、ダメージを受けている」とはどういうことかということです。
それは、ここで言われている「代価」がカギとなります。人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。それによって人間は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩みだします。このようにイエス様は私たち人間を罪と死の支配下から神のもとに買い戻して下さったのです。神聖な神のひとり子が十字架で流された血を代価として私たち人間を神のもとに買い戻されたのです。買い戻されたというのは難しい言葉で「贖われた」とも言います。「代価」と訳されるギリシャ語の言葉アンタラグマανταλλαγμαは「身代金」の意味を持ちます。人間は罪と死に売り渡されたも同然だったが、神が痛い身代金を払って買い戻して下さった、人間を罪と死の支配から御自分のもとに贖い出して下さったのです。
それで、傷ついている、ダメージを受けている命というのは、贖われていない、買い戻されていない状態のことです。そのような状態の人が死を間近にして慌てて自分が手に入れた全世界でも、財産でも、名声でも業績でも何でも、代価にして死を免れようとしても、そんなものは神のひとり子の犠牲に比べたら何の力にもならないのです。そういうわけで、ここは、一般的な道徳では命が大事と言っているように見えていたのが、実はイエス様の犠牲、彼が十字架で流した血が大事と暗に言っているのです。それがなぜそんなに大事かというと、言うまでもなく、私たち人間を罪と死の支配から解放して、復活の日に復活を遂げられて死を超えた永遠の命に与ることが出来るようにするからです。これがキリスト信仰の道徳です。
(後注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)
主日礼拝説教 2024年2月18日 四旬節第一主日
聖書日課 創世記9章8節-17節、第一ペテロ3章18-22節、マルコ1章9-15節
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本日の聖書日課は旧約と使徒書がノアの箱舟に関係する箇所でした。福音書はイエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたこと、荒れ野で40日間、悪魔から誘惑の試練を受けたこと、その後で本格的に活動を開始したことについてです。使徒書と福音書の個所を見ると、おやっ、と思わせることがあります。使徒書、第1ペトロの3章、では、十字架にかけられて死んだイエス様が陰府に下って死者の霊に福音を宣べ伝えたことが言われます。これは理解が難しいところです。これについては6年前の四旬節第一主日の説教で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は4章6節まで見ないと理解は不可能です。ただし今回は、そこまで見なくても大事なことはお話しできることがわかりました。大事なこととは、洗礼には私たちを悪いものから守る力があるということです。このことについて後で見ていきます。
福音書の方の「おやっ」は、イエス様の荒れ野の試練です。マタイ福音書とルカ福音書では詳細に書かれているのに、本日のマルコ福音書ではたったの二節です。どうしてこんな違いが出たのかと言うと、荒れ野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので目撃者がありません。それで、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語ったものと考えられます。マタイとルカには詳細に語られたものが伝承されて記載されて、マルコには要約された形のものが記載されたと言えます。要約とは言っても、マルコの記述にはマタイとルカにないことがあります。それは、「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた」の「野獣と一緒にいたが天使が使えていた」というところです。これは一体何を意味するのか?これをよく見ていくと、神の御言葉には本当に私たちを悪いものから守る力があるということがわかります。
そういうわけで、本日の説教では、この2つの「おやっ」と思わせるところをもとにして、洗礼と神の御言葉には私たちを悪いものから守る力があるということを見ていこうと思います。
まず、最初にイエス様の荒れ野の試練を見てみましょう。「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいた、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在してチンプンカンプンです。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。
そこでマタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。なので、このマタイの順番を守ってマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後で野獣の真っ只中にいたが、天使たちに仕えられていた。
新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」という意味もあります。それでいくと、荒野で野獣の真っ只中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語とスウェーデン語の聖書では「野獣の真っ只中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)悪魔の誘惑の試練の後、イエス様は荒れ野で野獣の真っ只中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。
そうすると、悪魔から試練を受けていた時のイエス様は天使の仕えがなかったことになります。それは、誘惑を受けていた時、天使の助けはいらないと自分で言っていたことからわかります。ここで、イエス様はどのようにして悪魔の試練を乗り越えたのか振り返ってみます。
皆さんも既にご存じのように、イエス様は聖書にある神の御言葉を武器にして悪魔の誘惑を撃退しました。悪魔が空腹状態のイエス様に、お前が神の子なら地面の石にパンになれと命じてみろ、と言いました。それに対してイエス様は「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から語られる言葉によって生きる」と申命記8章3節の御言葉を盾にしました。次にイエス様を神殿の高い屋根の上に立たせて、お前が神の子なら、ここから飛び降りて天使たちに助けさせてみろと言いました。それに対してイエス様は、神を試してはならないと申命記6章16節の御言葉を盾にしました。神を試してはならないというのは、神よ、俺のためにこれをせよ、あれをせよ、しないと信じてやらないぞ、という態度のことです。もう一つの誘惑は、イエス様に全世界の豪華絢爛を見せて、悪魔にひれ伏したらこれを全部くれてやろうというものでした。それに対してイエス様は、神のみを敬え、神のみに仕えよ、という申命記6章13節の御言葉を盾にしました。それで悪魔は太刀打ちできないと観念して退散したのでした。
このように悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。」そして、イエス様は、見事に悪魔に打ち勝ちました。その後で野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちが来るのを許して仕えさせたのです。
荒れ野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の仕えというのは、ただ単に荒れ野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指していると言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。
ところが、十字架の受難が始まると、イエス様はまた守りがない状態になってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53ー54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?
それは彼自身が言った通り、聖書の神の預言の言葉が実現するためでした。預言とは、天地創造の神が計画した人間救済の計画を実現することでした。人間には神の意思に反する悪いもの、罪がある。罪はほおっておくと人間を永遠の滅びに陥れてしまう。そこから人間を救い出すという計画でした。この救いを実現するために、神はひとり子をこの世に贈られ、そのひとり子を私たち人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせたのでした。神のひとり子がまさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしそのイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのでした。
このようにイエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたのでした。悪魔の誘惑の試練の時、神の御言葉には悪魔の攻撃を撃退する力があることが明白になりました。私たちキリスト信仰者はそのような力のある言葉を自分のものにしているのです。さらにイエス様が天使の守りを求めないで十字架の受難の道に入られたことで神の人間救済の計画が実現しました。神の預言の御言葉が実現したのです。それで、御言葉は単に将来起こることを待ち望むものでなくなって、本当にその通りの御言葉になりました。来るべき救い主について預言した旧約聖書と救い主が来られて預言が実現したことを伝える新約聖書の両方を持てば、もう怖いものなしです。預言が実現する前の御言葉にも悪魔を撃退する力がありました。預言が実現した後の御言葉の力はいかほどのものか、推して知るべし言わずもがなです。
私たちを悪いものから守るものとして神の御言葉の他に洗礼があります。それについて使徒書の日課、第一ペトロ3章をじっくり見てみましょう。まず、18節と19節です。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」
初めにイエス様が受けた苦しみが何のための苦しみであったかが述べられます。神の目から見て罪びとにしかすぎない人間、罪のゆえに神の義を持てない人間、そんな人間が罪を赦されて神の義を得ることが出来るようにイエス様は途轍もないことをして下さった。神聖な神のひとり子でありながら、人間の罪を全部自分で引き受けて、それを十字架の上にまで運んで、そこで神罰を人間の代わりに受けて死なれた。このイエス様の身代わりの犠牲のおかげで、人間は神から罪の赦しを得られる可能性が開かれた。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ罪の赦しを受けられるようになった。この「イエス様の犠牲のおかげで」ということがある限り、人間は、これからは神に背を向ける生き方ややめてよう、神を向いて生きる生き方をしよう、罪を憎み、それに与しないようにしよう、神の意思に沿うように生きよう、という心を持ちます。実際にどこまで出来るか足りない部分は多々あるが、その心には偽りはありません。「イエス様のおかげで」がある限り、神は心に偽りがないことを認めて下さる。だから、神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのです。「あなたがたを神のもとへ導く」というのは、まさに神聖な神のみ前に立たされても大丈夫なものにして下さるということです。
18節の「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされた」というのは、イエス様は肉体の面では死んだが、霊の面では生きる者にされたということです。具体的に言うと、十字架にかけられて死なれたが、三日後に天地創造の神の想像を絶する力で復活させられて、もう普通の肉体の体ではない、神の栄光を現す復活の体を持つ、霊的な存在として生きる者になったということです。
さらに「霊において、キリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」とあります。これは、イエス様が十字架の死の後、三日後に復活するまでの間、陰府に下った、ということです。このことは、伝統的なキリスト教会の礼拝で唱えられる使徒信条の中でも言われています(後注)。
陰府というのは死者が眠りにつく場所です。よく誤解されますが、炎の地獄とは異なります。聖書によればキリスト信仰には死者の復活と最後の審判というものがあります。それなので、亡くなった方は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて眠りにつきます。「陰府」と言うと、暗い陰気な感じがしますが、これは人間が墓に葬られるのでどうしても地下のイメージで描かれるからでしょう。しかし、地面をいくら掘っても、死者が眠っている世界など出て来ませんから、これは天の御国と同じように、私たちの五感や科学的な数値では解明できない次元・空間です。ルターは復活の日までの眠りのことを痛みや苦しみから解放された心地よい眠りの時と言っています。とにかく、神のみぞ知る場所としか言いようがないのです。復活の日が来ると復活させられて神の審判を受けます。天の御国に迎え入れられるか、炎の地獄に投げ込まれるか、決定が下されるのです。他方で聖書には、復活の日を待たずして神の御国に迎え入れられたと考えられる人物もいます。しかし、基本はあくまで復活の日までは眠りにつくということです。
イエス様は十字架の死の後、復活までの間、陰府に下り、そこで宣教した、と言われます。イエス様は陰府で何を宣べ伝えたのでしょうか?それは、神のひとり子の犠牲の死と死からの復活が起こったということです。そして、そのおかげで人間を永遠の滅び陥れようとする罪は力を失い、人間に対して永遠の命の扉が開かれたということです。眠っている者たちに言っても聞こえないのではないかと思われるかもしれませんが、大事なポイントは次のことです。つまり、亡くなった者たちが眠りについているところでも、死と罪に対する勝利が響き渡った、死と罪に対する勝利が真理として打ち立てられたということです。生きている者がいるこの世に響き渡って打ち立てられたのと全く同様に、死んだ者の世界でも響き渡って打ち立てられたということです。生きている者がこの真理と無関係でいられなくなったように、死んだ者も無関係でいられなくなったのです。
ペトロは続けて陰府の中にいる、「捕らわれていた霊たち」が誰であるかを明らかにします。それは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」です。どうして急にノアの箱舟のことが出て来るのでしょうか?それは、イエス様の時代のユダヤ教社会の人たちの関心事の一つとして、ノアの時代に洪水に流されて滅んでしまった者たちは今どうしているか、ということがあったのです。どうしてそんな関心事があったとわかるのかと言うと、当時ユダヤ教社会に出回っていた書物の中にそのことが書かれていたからです(そのような書物にエノク書という書物があります)。
創世記6章にあるように、ノアの時代、この世の状態は非常に悪く、悪が蔓延していた。それで神は全てのものを一掃してしまおうと大洪水を起こすことを決めた。その大洪水で滅ぼされた者たちの霊が「捕らわれた霊」です。そのような霊のいるところにまで行って、死と罪に対する勝利を告げ知らせたのです。こうして、死んだ者が眠っている陰府にも勝利が響き渡り打ち立てられました。罪と死は陰府でさえも力を持てなくなったのです。22節に「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服している」と言われている通りです。「権威」「勢力」というのは、霊的なものを意味します。
そこで、大洪水に巻き込まれずに箱舟に乗り込んだ8人だけが水の中を通って救われたと言われます。21節「この水で前もって表わされた洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです。」ここで注意が必要です。「水で前もって表された洗礼」とは意味がよくわかりません。ギリシャ語原文ではアンティ・テュポスと言う言葉です。テュポスとは、類型とか型、日本語でもタイプと言います。アンティとは「逆」とか「反対」を意味します。つまり、大洪水の水は人間を滅ぼす神の裁きの水であったが、洗礼の水は逆に人間を神の裁きから救う水であるということです。
神はノアの時代、大洪水を起こしてこの世の悪を一掃しようとしました。まさに最後の審判に匹敵する裁きでした。しかし、洪水の後で神はもう二度と同じような滅びの洪水を起こさないと約束します。それは、今の天と地がある間はそのような全世界的な裁きはしないということです。しかし、聖書には、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されるということがあります。その終わりと始まりの間に最後の審判が来るのです。この天地の大変動と最後の審判を乗り越えられるために洗礼があるというのです。それで水は、かつては裁きの水だったのが、今度は逆に裁きから救い出す水になったのです。かつての水は全ての陸地を無慈悲に覆いつくす恐ろしい威力を持つ水でした。私たちが受ける洗礼は、水滴を頭にかけるか、または教派によっては全身を水に浸すかのどちらかですが、果たしてその程度の水で天地の大変動と最後の審判を乗り越える力があるのか?しかもペトロは、洗礼は肉の汚れを完全に取り除くことは出来ない、洗礼とは正しい良心を神に願い求めるものでしかないなどと言います。そんな頼りないもので乗り越えられるのでしょうか?
それが乗り越えられるのです。先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、イエス様の犠牲のおかげで心が新しくなり、それで最後の審判の日に神の御前に立たされても、やましいところがない者として前に進み出ても大丈夫な者なのです。それだから、洗礼とは神の前に立つことができる良心を神に願い求めるものなのです。さらにペトロは洗礼にはイエス・キリストが伴っていると教えます。死から復活し死を超えた永遠の命を持ち、彼に続く者たちにも同じ命を与えられる方、今は再臨の日まで天の父なるみ神の右に座していて、既に霊的なものを全て、天使も権威も勢力も足元に服従させている方が、洗礼を受けることで一緒にいて下さるようになるのです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちはこのように史上最強の神の御言葉と洗礼を自分のものにしているのです。一体、何を怖れる必要があるでしょうか?
後注 「霊において」は訳が違うと思います。英語訳NIVとドイツ語ルター訳はこの訳でいっていますが、ドイツ語共同訳とスウェーデン語訳とフィンランド語訳はそう訳していません。ギリシャ語原文のこの箇所εν ωは接続詞句と見るべきです。「霊において」という訳ならば、ここはωでよかったと思います。
マルコによる福音書9章2−9節
「変容の栄光のうちに指し示されるのは何か?」
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今朝与えられている聖書の御言葉は、イエス様の姿が白く光り輝く姿に変わられた「主の変容」と呼ばれる出来事です。この出来事は並行箇所であるルカの福音書9章では「栄光に包まれ」とか「栄光に輝く」とか書かれている通りに、イエス様がその姿をモーセとエリヤと共にその「神の栄光の内」に、3人の弟子へ、そしてその3人を通して私たちへと表されている出来事でもあります。そしてこの出来事はこの前の箇所と深く関係しております。この前の8章の後半部分では何が書かれているかと言いますと、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねています。イエスからの大事な質問でした。そこでペテロは「あなたはメシアです」と答えました。マタイの福音書の方では「あなたはメシア、生ける神の子です」とペテロは答えており、イエス様はその「信仰の告白」を明らかにしたのは人ではなく天の父なる神ご自身であるといい、さらにはその神の与えた岩の如き信仰告白の上にイエス様はご自身の教会を建てるという約束と、その教会に地上で繋ぐことも解くこともできる鍵を与えるという約束を与えています。その直後に、マタイもマルコも共通していますが、イエス様はご自身が苦しみを受け、殺されることと三日目に復活することを伝え始めるのです。「救い主が苦しんで死ぬ」なんて理解できないペテロはイエスを諌めますが、イエス様はペテロを「下がれサタン」と厳しい言葉で叱責し、そして、自分に従う者は自分を捨て自分の十字架を背負って従いなさいと伝えているのです。その後の出来事が今日の箇所になり、今日のこの「変容」の出来事はそれまでの一連の出来事から続いているのです。いわば、イエスの「あなた方はわたしを何というか」「わたしは誰であるのか」という問いの、弟子たち、そして私たちへの、天の父なる神からのさらなる確証とも言える回答が、この「変容」に表されているとも思われるのです。2節から見ていきますが、その日から六日目、こう始まっています。
2、「姿が彼らの目の前で変わる」
「2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていくと言う場面は福音書にはいくつか記録されていますが、それはイエス様にとっては「ゲッセマネの祈り」の場面など鍵となる場面が多いです。今日のところもそうでした。そこでは2節の終わりからこう続いています。
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
マタイの福音書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17章2節)とあります。 そのような、イエスの姿が変わる、しかも顔が太陽のように輝き、衣も白く光った、というのはこれまで見たことのない光景であったのでした。
4つの福音書全てが証しし、そしてフィリピ書のパウロの言葉からも分かるように、イエス様は「神の身分でありながら〜自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ〜人間の姿で現れ」た、私たちと同じ肉体、同じ姿となられ共に生きられた「真の人」でした。ですから、真の人となられ生活しているイエス様がそのようなあり得ない姿に変わるなどなかったことであり、弟子たちも当然、見たことがなかったのです。しかもそこには、
3、「エリヤがモーセともに栄光に包まれ」
A,「栄光の中で」
「4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
4節
とあるのです。エリアもモーセも、ペテロ、ヤコブ、ヨハネにとっては偉大な預言者ですが、過去に存在していたけれども今や地上には生きていない偉大な預言者でした。ですから、そのイエス様の光輝く光景のみならず、天に登った偉大な預言者が現れイエスと話しているという、3人にとっては普通ではない、信じがたい出来事が目の前に広がっていたのでした。ペテロの目には、5節以下の言葉に分かる通り、これは「素晴らしい」出来事でしたが、6節、どう言えば良いか分からなかったとある通りに、彼には何のことか理解できない素晴らしい出来事でありながらも同時に、「非常に恐れていた」とある通りに「恐ろしい光景」でもあったのでした。そのように人間には計り知れず理解できない光景ではあったのですが、神の前にはこの出来事には意味がありました。ルカ9章では、先ほども引用したように、これは天からの「神の栄光の中で」現され証しされた一つの出来事でした。しかし注目したいのは、ルカ9章31節の言葉です。
B,「イエスがエルサレムで遂げる最期について」
「31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
天の神からの栄光の現れ、しかしそこで3人が会って話していたのは、
「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」
であったのです。つまり十字架の死でです。みなさん「神の栄光」と「十字架の死」。一体それはどう繋がるでしょう。人の目には一見、相容れない言葉のように見えます。もちろんイエス様にあっては一貫していました。先ほども見ました。イエス様は、この直前から、ご自分が受けられる苦しみと死、そして、復活のことをはっきりを伝え、自分が歩む道、目的を伝えていました。「十字架を負って」と十字架をも示してもいます。他方、弟子たちはその時は何のことかわからず、ペテロはイエスに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめ、それに対し、イエス様から「下がれサタン」と厳しく叱責されました。叱責されてもそれでもペテロは理解できなかったことでしょう。そして、この素晴らしい変容の光景も理解できませんでした。しかし目には輝かしい光景に「素晴らしい」と感動し、幕屋をそれぞれのために建てようと彼は言うのでした。彼はその目に見える神の栄光の現れを見たまま素晴らしいと「肯定的に理解」しているのです。
しかし、その「人の目」の前に広がる神の輝かしい光景、天からの栄光が現れる素晴らしい出来事ですが、しかし「人の目の栄光の素晴らしさ」とは裏腹に、その栄光の本質、核心、中心は、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後、捕えられ苦しみを受けられ死ぬと言うことでした。まさに十字架の出来事を、モーセとエリヤに話し、語っているのです。そしてこの後、事実、神がイエス・キリストにおいて実現する神の栄光、神の救いと勝利は、まさしく、イエス様が苦しみを受け死なれる十字架と復活にこそ現されていくでしょう。そのことこそ4つの福音書が共通して証し、パウロをはじめ使徒たちが聖書に書き記した証しに他なりません。
C,「人が素晴らしいと思い、見ようとする栄光」
世の中の、いや、クリスチャンでもそうかもしれませんが、「栄光」という言葉に錯覚させられるのです。「人の目」にあっては「栄光」というのは、何か、自分たちの目に見ることができ、人間の価値観や理想や願望に照らして、その通りになった華やかで輝かしい繁栄や成功に「栄光」があるように思い描いたり、予想したり期待するものです。そして、人間がその心に描き出す栄光に基づいて、その栄光がなることを待ち望んだり、期待したり、実現しようと頑張ったり、そして、その通りになったり自分の力で実現するところに、神の栄光があるとか、神がそこにいるのだとか、神の祝福があるのだと、勝手に決めつけてしまっていることは実は少なくありません。そのような人間中心の栄光のための教会運営や、宣教や伝道、そして教会成長などがむしろ賞賛され、緻密で合理的なハウツー理論まで備えて、当たり前のように、それが聖書的で敬虔であるかのように教会が立法的に導かれるのは、よく耳にすることです。しかし、それはヒューマニズムや理性や感情中心を超えることのない、人間の自己実現、律法主義に過ぎないものです。神が指し示した、福音に、つまり、イエス・キリストとその十字架と復活に根ざしていないのです。罪深い人間は残念ながらその性質ゆえに、目には見えない御言葉の真理や力よりも「しるしを求める」とあるその通りに、そのような目にみえる華やかさ、しかし的外れなところに栄光を見ようとするのです。
D,「神の栄光の中にある、イエスが遂げようとするものは何か?」
しかし、天の父なる神がイエスに、そして、イエス様のもとに遣わしたモーセとエリヤとの会見の場に現した栄光の真の意味、そしてその通りに実現した栄光はどこに実現し現わされるでしょうか?それは、このイエス様の苦難と死、十字架と、そして復活に現されたでしょう?今日の箇所も、その前の出来事も、そしてこの後に続いていく頂点も、四つの福音書が示し、使徒たちがその手紙で伝え指し示しているのは、まさにそのこと、栄光は、人間が誰も予想も期待もできなかった「十字架と復活においてであった」と言うことではありませんか。ここに聖書の伝える逆説があるのです。
4、「聖書が伝える逆説的な神の恵みのわざ」
実に、ここに登場するモーセとエリヤも偉大な預言者ではありますが、彼らを通して現された神の栄光もまた人の目には逆説的であり、それは「苦難のうちに、苦難を通して」現された神の栄光であり、神の臨在と神のわざであることに共通しているでしょう。イスラエルのエジプトにおける奴隷からの解放、その後の荒野の40年、そこでのモーセは神でもなければ、完全な超人でも聖人でもなく、弱気な自信のない一人の罪人でした。「他の人を遣わして欲しい」と彼は神の召しを何度も拒みました。苦難の人生であり、苦難のリーダーシップでした。しかし神はそんな彼の罪深さと苦難のうちにこそおられ、そんな彼を通して、彼を用いて、罪深い反抗する民を導かせました。苦難の荒野を進ませ、そのようにして神は、人の期待や予想や思いを遥かにこえて、苦難の中に栄光を現されました。そのモーセがまさにイスラエルの民に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」申命記18章15節)と指し示したのが、まさにここで会見するイエス・キリストに他ならないでしょう。そして、エリヤもまた、神は彼にバアルの預言者に勝る真実をあらわしてくださったのにも関わらず、王アハブを恐れ荒野に逃げ叫びました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王記上19章4節)と。最後は天に上げられた彼ではありますが、彼も神でも聖人でもなく、彼も一人の人間、罪人であり、弱さを覚えていた苦難の人でした。しかし、神は、その苦難の中にあって、一人の罪人であっても、神ご自身が恵みによって選んだ、信仰者であり預言者であるエリヤを通して、そしてその苦難を通してこそ神の栄光を現してこられたのでした。さらに言えば、今日の箇所の出来事の後、イエス様が9節で言われた「人の子が死者の中から復活する」という救い主には起こり得ない死ということに戸惑った弟子たちは11節で「救い主の前にエリヤが来る」と約束されているのはどういう意味かとイエスに尋ねています。弟子たちはなおも「栄光の出来事」と「メシアの死」が繋がらないし理解できないのです。しかしイエス様は、その「来たるエリヤ」は、この変容の場面のエリヤではなく、バプテスマのヨハネのことを意味していることを教え「人々はそのエリヤであるヨハネを好きなようにあしらった」、つまり、殺したことに預言がすでに成就していることを教えています。まさにそのバプテスマのヨハネも「人の目」には見窄らしい荒野の預言者でその最後も悲惨で壮絶でしたが、そこに預言の約束の通り神の栄光は実現しているのです。そしてそこでは、12節にあるように、同じ聖書が「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」と伝えているのはなぜなのかと、聖書は、神はそのように救い主の苦難にこそ栄光を現されることを伝えているではないかと、人間の予想や思いとは逆の、やはり「神の逆説の真理と救い」を示していることがわかるのです。
5、「神の栄光、救い、勝利、真実さはどこへ現されるか?神はどこへにいるのか?」
皆さん。「神の栄光、神の救い、神の勝利と真実さ、そして神はどこにおられるのか?」聖書ははっきりと伝えているのです。人は目に見える人間の思いにある繁栄や栄光にそれらのことを探し求めようとします。しかし、神はそれらのことを、そこにではなく、まさに人間は誰も思いもしなかった、予想もしなかった、探さなかった、むしろ皆が目を閉ざし、見たくない、避けたい、私たちの罪のための、私たちの負うべきであった、その罪の報酬である、しかし私たちが決して負うことのできない、苦難と死である、この十字架と復活にこそ現されたのです。それが神の御心、計画であった、天からの福音、良い知らせではありませんか。そして、そのように「私たちが」ではなく「神が」、「私たちに」ではなく、その「御子に」私たちが負うべきものを負わせたからこそ、しかもそのことをただ信じ受け取るだけで、私たちは罪の赦しと新しいいのちがただ恵みのみによって与えられ、恵みだからこそ喜び安心することができるでしょう。イザヤ53章が私たちに示している通りです。
「1わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
(イザヤ書53章1節)で始まり、こう続きます彼には「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。」(同2−5節)しかしこう続きます。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。〜8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(同5−8節)しかし最後にこうあります。「10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」(同10節)
神が私たちに現された栄光、救い、勝利、真実さ、そして愛も憐れみも、みなここに、イエス様の十字架と復活にこそあります。そして私たちはどこに神を探し、求め、見出すでしょう。私たち人間が自分の力で頑張って成功し完全になった所に、あるいは、思い描いた理想や繁栄を実現した所にではありません。罪深い私たちのために、その間に来られ、その私たちの罪のための、この地上の苦難の十字架にこそキリストはおられ神の栄光を実現し愛と救いを現されたように、今も私たちの苦難の中にあって、罪深さの中にあって、日々悔い改めつつ、神にただ「憐れんでください」と十字架と復活の約束と事実を信じ、十字架と復活のイエス様を信じすがるその時に、イエス様はそんな私たちの間にこそ今もいてくださり、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださるのです。
6、「「これに聞け」:神は人に幕屋を建ててもらう必要がない。」
最後に短くもう一つの幸いのうちに遣わされていきましょう。ペテロは栄光の3人に口を挟んでいいます。5節
5「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
しかし神はそれをそのようにさせず言います。
「7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
皆さん。感謝ではありませんか。神であるイエス様は人によって仮小屋、つまり幕屋を備えられる必要はありません。人が備え建てる幕屋に住まわれるのでもありません。つまり神は人によって仕えられ、何かを準備されたり作り上げられなければ何もできない方ではありません。むしろ、イエス様は言っているでしょう。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10章45節)と。イエス様は私たちに仕えるために来ました。「私たちがまず」仕えるのではなく、「イエス様がまず」仕えてくださり、その究極が自分の命を捧げるため、十字架で死ぬためでした。イエス様がその十字架のゆえに、今日もここで最大限に私たちに仕えてくださっている、その恵みが先にあってこそ、私たちはここで礼拝しているでしょう。だからこそここでも天の神の声はペテロや弟子たちに「まずあなた方が語れ、礼拝しろ、仕えろ。何かしろ。何か条件をクリアしろ」とは決して言いません。神は言われます。それより何より
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
と。あのイエス様ご自身の洗礼の時の天からの言葉であり、そしてあのマルタとマリヤの姉妹の場面(ルカ10章38−42節)でも、マリヤはただ唯一の必要なことをしているとイエス様が言われたこと、それは「イエスの言葉に聞くこと」。それこそ神が何より私たちに求めており、それこそが必要な唯一のことなのです。それはまず神が、イエス様が御言葉を通して仕えてくださるからこそでしょう。それが礼拝の意味です。「私たちが」まず神に仕える、「私から神へ」のサービスが礼拝ではありません。「神が」まず私たちに仕えてくださる。「神から私たちへ」の御言葉によるサービス、それが礼拝なのです。そのようにイエス様が御言葉を語り仕え、私たちがその言葉を聞くからこそ、私たちは感謝を持って応答する、祈る、賛美する。遣わされていく、それも礼拝ですが、全てはイエス様がまず仕えてくださるからこそです。今日もイエス様は御言葉を持って私たちに仕えて下さり、宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひイエスに聞き、福音を受け取り、平安のうちにここから遣わされていきましょう。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
主日礼拝説教 2024年2月4日 顕現節第四主日
聖書日課 イザヤ40章21ー31節、第一コリント9章16ー23節、マルコ福音書1章29ー39節
今日の福音書の個所を呼んで、皆さんは、あれ、イエス様は困っている人に少し冷たいくはないかと思わなかったでしょうか?今日の個所を注意して見てみましょう。
まずイエス様は、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ取りました。丁度その時、悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々は、イエス様は権威ある教えだけでなく、霊的な力もお持ちであることがわかりました。イエス様のうわさはその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきました。ここまでは先週の個所でした。
そして今日の個所が続きます。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいました。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。
イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂で教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い一日になりました。本当にお疲れ様でした、と言いたくなります。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いたその途中か、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。
ここが、あれっ、イエス様は少し冷たいな、と思わせるところです。もう少しペトロの家に留まって癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったのです。もちろんイエス様には苦しんでいる人たちを助けたい気持ちはありますが、ただ、病気を治して信じるようにもっていくというご利益路線ではありませんでした。マタイ6章33節でイエス様は、何よりもまず神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはみな加えられて与えられる、と教えています。健康になりたいとか切実な願いがあるのはわかるが、それでもまず神の国と神の義を求めるべし、それに続いて神は必要なものを整えて下さる。キリスト信仰ではご利益を求める前にまず心が神の国と神の義に向けられていることが大事なのです。神の国は、イエス様の宣べ伝えた教えの中で一番大事なものでした。神の義に関しては、イエス様は後の使徒たちに比べるとそんなに語っていませんが、言葉に言い表さなくてもイエス様の教えは人間の心を神の義に向けさせるものでした。それでは、神の国、神の義とは何かを次に見ていきましょう。
神の国はイエス様の教えの中心です。人間が神の国に入れるようになるためにはどうしたらよいか?そのためには、人間が神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫な者でなければならない、それが神の義を持つということです。どうしたら神の義を持つことができるか?この質問の答えは、天地創造の神がひとり子をこの世に贈った理由がわかればわかります。
まず神の国について確認します。本教会の説教でも何度もお話ししましたが、今日もまた振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られた創造主であるというのが聖書の立場です。万物の創造主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことです。
そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。なので、キリスト信仰では神の国すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。死んだらすぐ天国に行かないのです。神の国に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。それなので、亡くなった人たちは復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠っているということになります。復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。
ところで、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはまだこの世の終わりを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論とは違う意味で言ったのでした。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章では、そこに迎え入れられた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
しかしながら、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。殺すな、盗むな、姦淫するな、偽証するな等々、十戒の掟があります。たとえ外面的にはそのような悪を行わなくても、心の中で人を見下したり憎んだり異性をふしだらな目で見たりしたら神の意思に反する罪を持っているのです。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留っているのです。また、いくら十戒の掟を外見上守っても、何か宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできないのです。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様だったのです。イエス様は私たち人間が受けるべき罪の罰を私たちに代わって十字架の上で受けてられて死なれました。まさに私たちが罰を受けないで済むようにして下さったのです。それで私たち人間が、彼の十字架の死は自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が十字架で果たしてくれた罪の償いがそのまま自分にその通りになる、罪を償ってもらったのだから神から罪を赦された者と見なされるようになる、神から罪を赦されたから神と結びつきをもってこの世を生きられるようになる、これが神の義を持つということです。人間はイエス様を救い主と信じる信仰で神から義なる者と認められるのです。
さらにイエス様が神の想像を絶する力で死から復活されたおかげで永遠の命に至る道が人間に切り開かれました。イエス様を救い主と信じる信仰で神から義と認められた者は、永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれてその道を進むことになります。順境の時だろうが逆境の時だろうが神との結びつきは何ら変わりません。たとえ、この世を去ることになっても神との結びつきを持って去り、復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられます。
このようにイエス様にとって最も大事なことは、人間が神の義を持てるようになって神の国に迎え入れられるようにすることでした。それで神の国と神の義が彼の教えの中心にあったのです。しかも、教えることだけではありませんでした。自ら命を賭してまでして十字架と復活の業を遂げて、人間が実際に神の義を持てて神の国に迎え入れられる条件を整えて下さったのです。神がイエス様を通して私たちに与えて下さった信仰が御利益信仰にならないことがよくわかります。病気が治ってそれがもとで信じることになったら、また病気になったら信仰の土台は揺らぎます。創造主の神が与える信仰は、病気だろうが健康だろうが全く関係ないものなのです。
本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節で、イエス様が多くの悪霊を追い出した時、ものを言うことを許さなかった、なぜなら、悪霊はイエス様のことを知っていたからだ、というところです。これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?同じようなことが先週の個所にもありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」悪霊はイエス様が神の神聖な方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にするなと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊に話をすることを許さなかったというのは一体どういうことでしょうか?
悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。しかし、それは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、神の国への迎え入れということが全然ないからです。キリスト信仰者の場合、神の国への迎え入れがあるから信仰告白するのです。それなので、イエス様が神の神聖な者、神の子であることを悪霊に語らせないのは、信仰告白と逆方向に向かうような暴露はするなということです。ところで、イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、その言うことに私たちは耳を貸してはならないということも意味します。ここでもイエス様が私たちを悪霊から遠ざけて関係を持たないようにして下さっていることがわかります。
イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むのはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。「裁きは神に忘れられた」はちょっと変です。裁きはないのがいいに決まっていますから、これでは嘆きになりません。ヘブライ語のミシュパートは「正しい決定」が元の意味で、そこから派生して「正義」の意味があります。なのでここは、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。神に見放されたと思って嘆いているのです。いわゆる、神が隠されてしまった状態です。しかし、外見上は神は隠されてしまったように思えても、実はまさにその時、神はすぐそばにいて一緒にいて下さるというのが聖書の立場です。それはあたかも、曇りの日に太陽が雲に遮られて見えないのと同じです。太陽が見えないからと言って、太陽が消滅したとは誰も考えません。雲に遮られて見えないだけとわかっています。それでは、それと同じように、神が隠されてしまった時に神がすぐそばにいて一緒にいて下さることをわかるでしょうか?イザヤ書40章の終わりの部分はそのことを教えています。
まず神は創造主であることを思い出しなさいと強い調子で言います。「お前たちは知ろうともせず聞こうともしないのか、初めから告げられてはいなかったのか、理解していなかったのか、地の基の置かれた様を?
(強い調子はヘブライ語原文ではっきり表れています)。また、神は「天をベールのように広げ、天幕のように張られ」、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主である」と。そして、「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」と言われます。これなどは、神がつむじ風の中からヨブに語りかけた口調を思い起こさせます。そうなると私たちとしては、おっしゃる通りです、としか言えません。その創造主の神が何をなさるか、預言者が証しします。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。
主にある兄弟姉妹の皆さん、私たちは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて、それでいつも神に守られ導かれながら神の国への迎え入れを目指してこの世を進んで行きます。この結びつきは、病気だろうが健康だろうが全く変わらない結びつきです。なので神が隠されたような時でも実はそばにいて共にいて下さっていることは当然のことになっています。つまり、私たちはいつも神に望みを置いているのです。だからこの道を歩む力をいつも与えられるのです。
マルコ1章21−28節
「人間中心の聖書解釈?それとも神の真実な言葉?どちらが拠り所?」
イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、荒野での悪魔の試みを受けられ、そして洗礼者ヨハネが逮捕された後「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と告げられ宣教を開始されます。その宣教の歩みにおいてイエス様は、今日のところだけでなく、そしてその後にもあるように、苦しむ人々を見離さず、悪霊に憑かれている者から悪霊を追い出したり、病めるものを癒されたり、数々の力あるわざをしていくことが記されていきます。そのようなイエス様の行うしるしは確かに神の約束と憐れみの素晴らしい証しです。しかし人はその罪の性質のゆえに、目に見える「しるし」のその本質を見誤り、むしろ自分に都合よく解釈し、人間はその「しるし」に魅了されます。そしてこの時代も、そしていつの時代も、そしてキリストの教会でさえも、御言葉を何か力のないものにしてしまい、そんな言葉の力よりも、人間中心に、しるしを求め、しるしに驚嘆し、そして目に見るしるしで全てを判断します。もちろん、イエス様は奇跡やしるしを表すことで、神の憐れみを具体的に現すだけでなく、ご自身が神であり、救い主であることを示されます。しかし、私たちが聖書を通して忘れてはならない大事な点は、イエス様はそれを、ご自身の力ある権威あるみ言葉を通してそのことをなされているということ、そしてそれは御言葉の力の証し、証明であるということです。それはこの前に書かれている、四人の漁師たちを弟子にするところでもそうでした。彼らの誰もがまず最初に彼らの方から自らの意思と力でイエスについて行こうと弟子になったのではありませんでしたし、それはできないことでした。イエス様の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」「わたしについてきなさい」という言葉が先にあったからこそ、その言葉の導きと力によって、それで彼らは、イエスについて行っているのです。その事実は、現代のキリストの弟子である私たちの救いと何らな変わることのない真理ではありませんか。私たちはみな、人の力ではなく、キリストの力、何よりみ言葉によって救われ、み言葉によって召されているでしょう。そして、さらにその弟子たちの招きの前のところでも、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時にも「天から」の神の言葉がありましたし、荒野の誘惑でもみ言葉に働く聖霊に導かれ、そしてマタイの福音書を見ても分かる通りに、悪魔の誘惑を退けたのも、まさに「御言葉」そのものによってであったでしょう(マタイ4章1−11節)。そのようにイエス様の宣教の働きは御言葉の豊かな働きであったように、教会も私たちの信仰生活も、このイエスの御言葉が何よりの力に他ならないのです。
2、「宣教の働き:御言葉の説教」
今日の箇所は21節からこう始まっています。
「21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」
カフェルナウムは、イエス様の宣教の初期に活動されたガリラヤ地方の町です。しかしその活動は、ただ悪霊を追い出し癒しをされるそれだけのために回っておられたのではありませんでした。イエス様は、安息日には、ユダヤ教の会堂に入って「教え始められた」とあるのです。つまり、そこでは巻物の旧約の言葉を開いて、その聖書の言葉から説教をされたということを意味しています。そして、これは、ルカの福音書を見てもわかるのですが、イエス様の宣教は主にその「安息日に会堂に入り聖書から教える、説教する」ということの繰り返しであったことがわかるのです。とかく人間は、目に見える華やかなしるしを求めますから、その華やかで劇的なしるしばかり注目が行きます。しかし、イエス様はそれだけのために行動しているのではない、いやむしろ、その行動、しるしの土台にある、神の御心を実現し、そして何より信仰を生み出し、支え、強めるみ言葉を説教すること、しかもイエス様ご自身も十戒に従い、神を神とし、そして安息日を覚えて聖としなさいとある通りに、聖書のみ言葉から「神が何を私たちに伝えているのか、教えているのか」を説教することを、イエス様は決して蔑ろにされなかった。軽んじなかった。いやむしろ大事にしておられたのでした。
3、「ご自身が権威ある者として」
しかも、その説教を聞いた人々ですが、22節です。
「22、人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
人々はとても驚きます。それはいつも会堂で教えている律法学者が説教をするようではなかったからでした。律法学者たちは、今の牧師もそうですが、「主はこうわれる」という言い方で説教をします。それは当然です。人に権威があるのではなく、み言葉に権威があるからです。しかしイエス様はご自身を権威あるものとして語られたことに人々は驚いたのでした。イエス様ご自身は命の言葉そのものであり神の御子であり権威そのものなのですから、そのように語るのです。人々にとってはそのような権威あるもののように語ることそのものが新しく驚きであったのでした。そのようにイエス様のしるしだけがイエスが神であることを示すのではなく、まさに今までにない人々を脅かさせるようなイエス様の権威ある者としてのその説教そのものもまた、イエスは真の神であること、つまり創造のはじめからおられ、全てを創造された言葉である方であり、そして約束された神の御子、救い主であることを示しているとも言えるのです。もちろんその言葉はただ権威あるもののように感じる見えるだけではありませんでした。事実、御言葉は、何者にも勝る権威であり力であることが現されていくためにこそ「しるし」が続いていくのが分かるのです。
4、「力ある御言葉によって悪霊を退ける」
23節以下、こう続きます。
「23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」
A,「洗礼後の悪魔、悪霊のイエスへの攻撃」
会堂に汚れた霊に取り憑かれた男性がいて叫びます。しかしその汚れた霊は、その言葉から、イエスがどのような存在であるのかわかっています。イエスが神の聖者であるとわかっているし、滅ぼす力があることをわかっているのです。マタイ4章の荒野の悪魔の誘惑の箇所を見ていただくと分かるのですが、荒野の誘惑の悪魔はそこで「神の子なら」とイエスが神の御子であることを知っているし、イエスが石をパンに変えることができる力があることも知って試みています。さらに言えば、悪魔はみ言葉にこう書いてあるからと言って、御言葉を用いてまで試みていたでしょう。悪霊もそれを支配する悪魔も、そのようにイエスのことや神の言葉さえもよく知った上で、人々に攻撃もするし、誘惑したり苦しめたりして、信仰を捨てさせようとしたり、惑わしたりして、そのようにして滅ぼすことに躍起になっている存在であることを思い起こされます。そしてマタイでもこのマルコの福音書でもそうですが、まさにイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊が降った直後に、荒野のサタンの誘惑に導かれ、そして、このような悪霊の攻撃が続くという事実があるでしょう。この洗礼の後に苦難や試みが続くこともまた、私たち自身にも当てはまる信仰の現実ではないかと教えられるのです。
B,「私たちも同じように攻撃にさらされている」
どういうことでしょう。それは私たちも、洗礼を受け、そこに信仰生活が始まりますが、その信仰生活は、何の問題もない、なんでも上手く行く、誘惑も罪ない、薔薇色の成功の日々があるということではありません。むしろイエス様のように、その逆ではないでしょうか。そのように洗礼によって罪の赦しを受け、聖霊を与えられ、イエスの福音による新しい命の道を導かれるからこそ、この罪の世にあっては、サタンの、信仰を弱め、捨てさせ、み言葉に信頼させないようにする巧妙な誘惑は常にあるということです。もちろん、キリストを救い主と信じて洗礼を授けられることによって私たちは救われ、キリストの十字架のゆえに、罪の赦しが与えられ、義と認められ新しく生かされて行きます。しかしそれは私たちが「義となった、完全になった」ということではありません。完全で聖であり義であるのはどこまでもキリストであり、私たちは、私たちにはない、私たちの外にあるキリストの義のゆえに信仰によって義と認められただけであり、私たちはどこまでも義人であり同時に罪人でもあります。信仰と霊にあっては、キリストの義のゆえに100%義と認められた聖徒ですが、しかし、パウロがローマ書でも言っているように、肉にあっては100%どこまでも罪人です。キリストにあっては日々新しいですが、古い人も同時にいるのです。だからこそ私たちの信仰生活は常にサタン、悪魔の誘惑との戦いであり、彼らはいつでも私たちを試み誘惑してきて、信仰を捨てさえようとしてくるのです。そして私たち自身の力、意思や理性の力、決心や努力では決してそれに打ち勝つことはできないのです。
C,「イエスはどのように退けるのか:真実な御言葉によって」
しかしそのような現実にあって、何がこのような汚れた霊、悪霊、サタン、悪魔、それによる誘惑や攻撃を退けているでしょうか。それはここでも一貫しているでしょう。25節
「 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」
それは、イエス様のその言葉でした。イエス様はその言葉によって汚れた霊に強い影響を及ぼし、退けて打ち負かし、その言葉の通り出て行かせたことがわかるのです。このように、イエス様の言葉には圧倒的な権威と力があり、その通りになる言葉であることを聖書は私たちに示しているのです。
事実、先ほども触れた「イエス様の荒野の誘惑」の場面、マルコでは荒野の誘惑についてあっさりと簡単に書かれていますが、詳しく書かれているマタイ4章を見ると、イエス様は、悪魔の誘惑、あるいは悪魔のみ言葉を都合よく引用した誘惑さえも、理性や人間の理屈とか感情ではなく、正しく解釈されたみ言葉で悪魔の誘惑を退けています。
何より聖書はその「神の言葉」の真実さと力こそを初めから証ししてきています。創世記では、三位一体の神は「み言葉」を持って創造し、その御言葉はまさに創造のはじめから働かれていた力であることを私たちは見ることができます。神が「〜よあれ」と言われると、その言葉の通りになって天地創造はなされているでしょう(創世記1章)。その通りになった言葉によって天地万物は存在し私たちも存在しています。神の言葉があってこそ私たちはいるし、神の言葉がなければ私たちも何も存在していません。天地創造は理性や常識では信じられないからと、あれは作り話だとか神話だとかいって、人間中心の理性や常識に合うように説明する、教会やそのような牧師などの説教もあるかもしれません。しかし、それだと、私たちに与えられている神の言葉は、何の力もない言葉、人間の理性や常識に服従する、権威のない言葉にすぎなくなります。しかしそうではありません。聖書はその言葉の通り、そして、それは、旧約のモーセや預言者たち、イエス様も、使徒たちも、パウロもその通りになる、「不可能なことなどない」「何でもできる」真実な生けるいのちの言葉であると教えている通りに、神様がその言葉によって天地を創造し、命を与え、神が「〜よあれ」と言われたその通りになった現実が、この世界であり私たちなのです。
そしてその言葉が、まさに人の間に来られたとヨハネの福音書の初めにはありますね。その方が、弟子たちに「ついてきなさい」と言葉で召し出しました。それは人々がこれまで経験したことのない権威に満ちた言葉でした。事実、悪霊を「黙れ。この人から出て行け」と追い出し、病むものを癒し、立たせる力ある言葉であることが今日のところに一貫して証しされているのです。
5、「その真実な御言葉は私たちに与えられている」
そしてそれは私たちにとっても決して無関係ではありません。いや無関係どころか、今も変わることなく、私たちへ、私たちのために語られている変わることのない言葉でもあるということこそイエス様は私たちに伝えています。例えば、礼拝で「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と宣言するときに、それが単に私の言葉であり牧師などの人間の言葉であるなら、何の力もありません。しかしそれがまさに聖書を通しての天からのイエス様の真実な生ける言葉であるからこそ、本当にその通りに十字架の罪の赦しとイエス様が「世が与えることのできないわたしが与える」(ヨハネ14章27節)と言われた特別な平安を与えるのです。それが真実でその通りになる言葉だからこそ、私たちを神の命と力によって、喜びと平安を与え、希望と救いの確信で満たして遣わすことができるのであり、私たちはその恵みによって世に出ていくことができるのです。そして、それはペテロの言うように「朽ちることのない」「永遠に変わることのない」言葉なのですから(ペテロ第一1章23−35節)、「これからも」変わることなく、その真実な約束でその通りに私たちにしてくださる真実な言葉なのです。だからこそ、私たちに与えられている、聖書の言葉、イエスの言葉は、確かで完全で何にも勝る権威があり、そして力があるのです。
6、「私たちの信仰生活に生きて働く御言葉」
今日のところから何が教えられるでしょう。至極当たり前のことですが、クリスチャンは、決して人の言葉、人の成功話、人の経験論ではなく、このイエス・キリストの言葉、特に福音の言葉を信じ、信頼し、これによって生かされていく存在です。しかしイエスや使徒の時代にもそうであり、いつの時代もそうかもしれませんが、特に、目に見える美しさや魅力や繁栄や成功に流されやすく、あるいは自分の理性や常識に当てはまらないと疑うことしかできない現代の人々、それは教会や御言葉を伝える牧師でさえも、そんなみ言葉、福音より、説教より、礼拝や聖餐より、人間の行いやわざの方が力があるんだ、理性こそ力なんだと教えたり、み言葉の力よりマンパワーやヒューマニズム的な成功話や経験論の方が教会や宣教に益であるかのように信じたり、教えたり、導いたりしたりされたりすることは少なくないようです。それゆえに、み言葉や約束の力への信頼や御言葉の約束にある救いの確信よりも、自分の力や行いで救いの安心や確信を得ようともします。しかし、それは必ず行き詰まります。聖書にあるように(ペテロ第一1章)、それ野の草のように朽ちゆく不完全で真実ではない人のわざであり言葉だからです。もちろん、それでも一時的に上手くいっている時は、本当に一時は良いでしょう。しかし、そのひと時の繁栄や成功が少しでも揺らいだり終わるとそのひと時の安心も自信も誇りもあまりにも簡単に揺らぎ、脆くも崩れ去ってしまいます。まさにマタイ7章にある「砂の上に建てた家」(7章24−27節)のようにです。何より、それでは決して、信仰生活に平安はあり得ないのです。いつでも不確かな人間の理性や力や行いに依存しているので、不確かさの中で生きていくしかないのです。み言葉の力、福音の力に真により頼まない、人間の理性や経験に聖書を従わせるような偽りの信仰とはそのようなもの、そのような結末なのです。
繰り返します。今日のところでイエス様は私たちにはっきりと示してくれています。イエス様の言葉には権威がある。力がある。そしてその通りになる、真実な言葉であると。私たちにはその真実な言葉が与えられており、その言葉が常に語られています。その言葉による洗礼によって私たちは救われ、その言葉による聖餐、イエス様の言葉が結びついたイエス様の体と血に、与っているのです。そしてだからこそ、私たちは救われているという確信と赦されているという平安を保つことができるだけでなく、その約束の通りに、イエス様が働いてくださるからこそ、私たちは、福音が私たちから溢れ出るように、喜びと平安に満たされて、自分のためではない真の良い行いや隣人に仕えていくことができるのです。
7、「結び:真の拠り所:人間中心の聖書解釈か、それとも神の真実な言葉か?」
事実、イエス様の力のわざは、人間にとっては驚きです。理解できないことです。27節
「27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
みなさん、私たちの信頼や拠り所を、人間の力や可能性、あるいは人間の経験におくよりも、神の言葉、イエス様の言葉、約束、福音に置く人は幸いです。そのことは実は世に遣わされる時にこそ顕著にわかることです。例えば、神とその御心を前にする時に、私たちは、私たち自身ではできない、難しいと思えることばかりに直面するのではないでしょうか。特に神がしなさいと命じている隣人を愛すること、それは何より十字架に照らせば、隣人愛の本質は敵を愛するこということ、それは「赦す」ということですが、それは人間にとって何よりも難しいことですね。しかしそのような神の御心を前にしても、人間の限界や可能性に希望や拠り所を持つのなら、希望は限定的であり、それはもはや希望ではありません。人間の力を信じるなら、限界があり不可能なのです。重荷にもなります。そうなると、神の言葉を人間の都合のいいように解釈して、自分のできる範囲の行いで敬虔なふりをすることはできますが、神の前には不信仰に過ぎません。しかし、神の言葉の前に、いつでも律法によって謙り悔い改め、そして、そこに照らされるキリストの十字架と復活の福音に希望を置き、神の言葉と約束がその通りになることを信じ、福音の力を受けながら、神の御心に従う人生を歩むなら、イエス様が行い働いてくださるのですから、希望は耐えることがありません。できないことさえもイエス様は真実な御言葉の力で人の思いを遥かに超えて導いてくださるのです。ぜひ、変わることなく、み言葉に聞き、ますます御言葉を信じ拠り所とできるように祈り求めましょう。今日も変わることなくイエス様が御言葉を持って言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの約束を受け取り、安心して、ここから遣わされていこうではありませんか。
聖書日課 ヨナ3章1‐5、10節、第一コリント7章29-31節、マルコ福音書1章14-20節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお話しします。
ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は新約聖書の原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。それでは、「福音」とはどんな良い知らせなのでしょうか?
それは次のような内容です。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしたことについての知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。この良い知らせ、福音を聞いて、イエス様を救い主と信じることと洗礼を受けることによって神から罪の赦しを頂くこと、これがキリスト信仰の奥義です。こうして、イエス様のおかげで罪を赦された者として永遠の命に至る道を神の助けと導きを得ながら歩むこと、これがキリスト信仰者の人生です。
ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオン「福音」と言うのは少し気が早いのではないか?そこで、他の国の言葉ではどういう言い方をしているか見てみました。英語訳の聖書NIVはエヴァンゲリオンを「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は一方では「神の福音」(evankeliumi)と言い、他方で「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。
十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと思われるかもしれません。そうすると今度は、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのか、さっき言ったキリスト教の「福音」とどう違うのかという疑問が起きます。(※)それについて見ていきましょう。
イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」
伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。そこで、イザヤ書の続きを見ていくと、この「平和」と「救い」の意味がわかってきます。それがわかると「神を王に戴く国」もわかります。
イザヤ書の続き52章8ー12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、周辺諸国民に自分の力を示します。それで、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力で祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するというふうに理解できます。
ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは人間の痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるようになり、まさに彼が罰を受けた傷によって人間は癒しを受けるのであると。53章11節で神は次のように言われます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられる者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら引き受けることで、人間は神の目に相応しい者になれて神との平和な関係を築けるようになるというのです。そうすると、「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が実現するという意味ではなくなります。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神との平和な関係を築けて神罰が免れるということが「救い」の内容になります。神の国もそういう罪の赦しが打ち立てられたところになります。
しかしながら、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の人々からすれば、イザヤ書の箇所で言われる「救い」とは、捕囚からの解放と祖国帰還を意味しました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。
ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。確かに歴史的にはエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は、諸国民がひれ伏すような神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56ー65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今ある天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。
そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつ預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた時でした。まさにその時、イエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。このように、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とは、神の約束が今実現することになるという知らせだったのです。その「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。
イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味します。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのです。
「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。それで、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られました。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大のものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を通して人間の救いを実現したことでしょう。
イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造する、そしてそこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。そうすると、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行くんじゃなかったの?と言う人も出てくると思います。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。
そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人なら出てくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。
それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わるという、この世の終わりを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったのでしょうか?ところがそうではないのです。
どうしてかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たしてあげたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っている人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まってもっと多くの困っている人たちを助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味わせてあげたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、不正に手を染めることなく、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえ期待通りにならなかったとしても無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国は、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもない、永遠の平和と安心があるところです。イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然の法則や社会の法則をはるかに超えた力が働く神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自分の力で神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架と復活の業でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して「福音」に結晶した出来事でした。私たち人間はイエス様の十字架と復活の業が自分のためになされたのだとわかって、それで洗礼と一緒にイエス様を自分の救い主と信じれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものになります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあるので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。これらのこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さったがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。
イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。なので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっている根暗なことではなく、実は神に向き合うという勇気ある振る舞いです。
「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。
「イエス様は彼を信じる者全てに、方向転換の悔い改めをしなさいと言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊も罪に対して反撃する。イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めと密接に結びつく。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。
方向転換の悔い改めが休止することはありえない。なぜなら、律法がこれは罪だと示すものを我々は絶えず遠ざけなければならないからだ。もちろん、罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されているので、我々を永遠の死に追いやる力を失っている。
かつてイスラエルの民はカナンの地に入った後もその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。それと同じように、キリスト信仰者になって罪に対して宣戦布告することよりも、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を追い払うことの方が難しいのである。それは、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだことからもわかる。神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。
兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、不安になった良心はゴルゴタの十字架を覚えるたびに落ち着きを取り戻して平安に満たされます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。この繰り返しを通して私たちの神への信頼が一層強いものになっていきます。神への強い信頼があることは、私たちがこの世から別れる時、自分の全てを神の御手に委ねることができるために必要です。神への信頼が築けている人は、復活の日に目覚めさせてくれる方を知っているので自分の全てを神の御手に委ねられます。信頼が築けていない人は何に委ねていいのかわかりません。そういうわけでキリスト信仰者の人生とは、その日に備えて神への信頼を日々育て強めていく人生と言ってもよいでしょう。
主日礼拝説教 2023年12月31日降誕後主日
聖書日課 イザヤ61章10節ー62章3節 ガラテア4章4節ー7節 ルカ2章22-40節
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本日の福音書の箇所にシメオンのキリスト賛美がありました。私たちはこの賛美をいつも礼拝の中のヌンク・ディミティスのところで唱えています。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも唱えます。「ヌンク・ディミティス」というのは、「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。
このキリスト賛美は、老人シメオンがエルサレムの神殿でマリアとヨセフに連れられた赤ちゃんイエスを見て唱えました。ここで、イエス様がベツレヘムの馬小屋で誕生した後の出来事の流れを少し振り返ってみましょう。
本日の福音書の個所の前のルカ2章21節をみると、イエス様が誕生8日後にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。その次に本日の個所が来て、場面が一変します。律法によれば子供の割礼後、母親は99日間清めの期間というのがあります。その間は神殿に入れず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4~8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのはこの規定のためでした。そうすると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?ここでマタイ福音書2章を見ると、生まれたばかりのイエス様と両親はヘロデ王の迫害から逃れるためにエジプトに避難したことになっています。親子三人は王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。先ほどの清めの期間の約3か月間は神殿には行けないので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。
ところが、時間的につじつまがあわないことが出てきます。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後です。王の死は紀元前4年とされています。そうするとイエス様の誕生は紀元前4年か5年になる。ところが、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年は紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に住民登録があったという記録は見つかっていない。さらに、星の異常な輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。そうなると、イエス様の誕生年は紀元前6、7年となり、親子三人のエジプト滞在は2~3年の長期になってしまいます。シメオンが抱きあげたイエス様も赤ちゃんと言うよりは2、3歳くらいの幼児になってしまいます。以前の説教でその可能性を言ったことがありますが、今回は、マタイ2章でヘロデ王が殺せと命じたのは2歳までの男の子だったことに思い当たりました。生後一か月とかではなく2歳まで対象を拡大したというのは、王が東方の博士たちの戻って来るのを暫く待っていたことを伺わせます。どれ位待ったかわかりませんが、もし3ヶ月以上だったら、親子三人はベツレヘムからエルサレムの神殿に行くことができます。
ここから次のように考えることができます。住民登録は紀元前7年のものが有望とは言っても有望と言うだけで、他に記録が失われたものがあるかもしれない。ないしは、皇帝の命令が全領土に一斉に同時執行されなくて、地域差があったかもしれない。星の輝きも、天文学的に突き止められるのが紀元前6年にあったと言うだけで、土星と木星の異常接近以外にも、彗星か何か、まだ突き止められていない星の動きがあったことも否定できません。それで、イエス様の誕生がヘロデ王死去の年に近づけば近づくほど、シメオンが抱き上げた子供は幼児ではなく赤ちゃんになっていきます。
なぜ、こんなふうに、一見かみ合わないマタイとルカの記述をあわせようとするかと言うと、説教者や神学者によっては、マタイとルカの記述は全く別の出所から来ているのであわせようとしても無駄だと考える人がいるからです。全く別の出所から来ていると考えると、どっちか一方は歴史的に本当かもしれないが、他方は本当でない作り話になってしまいます。または、両方とも作り話と見てしまう人もいます。そういう人たちが説教をすると、一種の小説評論のようになります。
私が、マタイとルカの両方をあわせようとするのは、両方とも歴史的に本当であることを前提にしてその可能性を追求しようということです。マタイとルカが一見かみ合わない記述になってしまったのは致し方のないことです。と言うのは、イエス様の大人の時と違って子供の時は目撃者に限りがあります。ヨセフが生前に周囲に語ったことと、長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心にならざるを得なかったでしょう。それぞれの観点でそれぞれの印象と記憶に基づいて語られたので、いろいろ一致しないことが出てくるのは止むを得ないのです。そういうものだと観念して、歴史的に本当だという立場に立つ者を私は保守主義と呼びます。聖書に書かれたことを大事に保全する(conserve、conservative、conservatism)からです。逆に、聖書のここは本当、ここは本当じゃない、と自由自在に切り刻んでいく立場を自由主義リベラリズムと呼びます。
イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に来て清めの儀式をした時、老人シメオンが近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が神の約束されたメシア救世主である、と。シメオンは、イエス様のことを「異邦人を照らす啓示の光」と呼びます。どんな光かと言うと、ギリシャ語原文をよく見ると、今まで現れていなかった光が現れてそれを異邦人が目にするという光です。簡単に言えば、「異邦人に現れる光」です。「異邦人」というのは、ユダヤ民族以外の全ての民族です。アメリカ人もヨーロッパ人も日本人もアフリカ人も、ユダヤ教に改宗していなければ、みんな異邦人です。その異邦人に現れる光とはどんな光なのでしょうか?それは、神の意志を人間に明らかにする光です。天地創造の神の意志は、それまでは旧約聖書を通して主にユダヤ民族に知らされていました。それが、神のひとり子イエス様がこの世に贈られて以後は異邦人にも知らされることになるというのです。そのような方が旧約聖書の預言通りにユダヤ民族の中から輩出した、それでシメオンはイエス様のことを「神の民イスラエルの栄光」と賛美したのです。
シメオンは「イスラエルの慰め」を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。
ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありません。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる
者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる、と。果たして、本当にその通りになりました。律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、自分たちこそは旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正確に理解していると思っていたのに、本当はそうではないとイエス様から突き付けられてしまいます。それで彼に躓いてしまいました。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、それがもとで十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様をマリアは自分の目で見なければならなくなります。文字通り「剣で心を刺し貫かれた」のでした。
しかしながら、イエス様はただ単に反対され躓きになっただけではありませんでした。多くの人たちを立ち上がらせることにもなったのです。イエス様の十字架の死は、ただ単に彼に躓いた者たちから迫害を受けて殺されてしまったということではありませんでした。神の大いなる計画がそのような形をとって実現したということだったのです。それでは、神の大いなる計画とは何か?それは、人間の罪に対する神罰を人間に受けさせるのではなく、代わりに自分のひとり子に全部受けさせるということです。つまり、イエス様の十字架の死というのは、人間に罪の赦しのチャンスを与えるために神がひとり子を犠牲にして罪の償いを人間に代わってさせたというのが真相だったのです。
神がイエス様を用いて行ったことは罪の償いだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る道を人間に切り開いて下さいました。人間は、これらのこと全ては神が自分のためにしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされ、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。永遠の命に至る道に置かれて、その道を進んでいきます。たとえこの世から離れることになっても、復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられます。このようにして、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も出たのです。
そこで、使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を宣べ伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者が次々と出ました。他方では、受け入れないで反対する者も出ました。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。
ところで、シメオンがイエス様を抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナというやもめの老婆がやってきました。自分の人生を神に捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきました。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιεροθσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると語り始めたのです。
ここで、シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることがあります。それは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、この出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしています。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあります。イエス様の誕生はこれらの預言の実現と理解されたのです。
イザヤ書の40章から55章までのいわゆる「第二イザヤ」の部分は一見すると、ユダヤ民族がバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できることを預言しているように見える個所です。実際にこの帰還は歴史的に起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後もユダヤ民族の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時のような勢いはなく、ほとんどの期間は異民族に支配され続けました。神殿を中心とする礼拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実は祖国帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。そうした理解はユダヤ民族の祖国帰還から500年以上たったイエス様の時代でも持たれていたことが、シメオンが「イスラエルの慰め」を、また人々が「エルサレムの救い」を待ち望んでいたことからうかがえます。
このようにユダヤ民族中心のように見える預言の言葉ですが、シメオンの賛美をよく見ると、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります(2章31節と32節)。特に32節の言葉「異邦人を照らす啓示の光」ないし「異邦人に現れる光」は、イザヤ書49章6節の預言が実現したことを意味します。「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
ユダヤ民族の祖国帰還と復興だけでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという内容です。救世主のなすべきことはユダヤ民族のことだけにとどまらず、全世界の諸国民の光となって神の救いを全世界にもたらすことだ、と言うのです。
そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味していることを忘れてはなりません。ユダヤ人であるかその他の異邦人であるかに関係なく、救いを受け取る者が真のイスラエルなのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が「天上のエルサレム」と呼ばれるのです。
イエス様が私たちに現れる光であるというのは、どんな光なのでしょうか?イエス様は光であると聞くと、大方は暗闇のような世の中で私たちが道を誤らないように導いてくれる道しるべのようなイメージがわくでしょう。それはその通りなのですが、イエス様が道しるべの光であるというのはどういうことか正確に理解しないといけません。それは、私たちがイエス様の光に照らされると、私たちの罪が明るみに出されたかのように自分で気づくことになってしまうということです。シメオンが預言したように、光になるイエス様が反対を受けるしるしになるというのは、「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」ということがあったからでした。ヨハネ3章でイエス様自身、こう述べています。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」と(19節)。
自分の心の中に神の意志に反する事柄が無数にある、例えば妬み、憎しみ、不倫、他人を見下すこと、誰かを悪者に仕立てること、嘘や誇張、偽証や改ざん、そして分け隔てない思いやりが不足していること、さらにはそうした悪いものに縛られていてもそこから脱せられるように神に助けを求めないこと等々、こうしたことが聖書の御言葉を聞く人、読む人は思い知らされます。それは御言葉を通して神の霊、聖霊が働くからです。また御言葉を読んだり聞いたりしていない時に思い知らされることもあります。それは、神が直接働きかて私たちを聖書の御言葉に結び付けようとしているからです。
しかしながら、自分には神の意思に反するものがあると示されたら、どんなな思いになるでしょうか?キリスト信仰者でない人には目障りなことに感じられるでしょう。自分は自分の考えで決める、自分が感じること欲することが自分の進む方向を決める、神の意思などにいちいち照らし合わせるなんてしたら自分の好きなことができなくなってしまう、と言うでしょう。
キリスト信仰者の場合は、神の意思に反するものを示されたら、ああ、自分は神の御前に立たされたら失格者だと心配になるでしょう。人によっては、何としてでも十戒の掟を守り抜かねばと必死になり神経質になり、結局、心の中までは守り切れていないとわかってとってもがっかりしてしまうでしょう。しかし、ここがまさにイエス様はどんな光かがわかる地点なのです。
洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、使徒パウロが何度も教えるように、イエス様を神聖な衣のように頭から被せられているのです。それで、神の目から見たら合格者なのです。もちろん、衣の下の肉体の中にはまだ神の意思に反する罪があります。しかし、それにもかかわらず神はイエス様の犠牲の死で罪の償いは完了した、それを受け取った者は償いを完了した者と見なして下さるのです。信仰者の側では償いのために何もしていないのに(そもそもそんなことは不可能です)、イエス様が果たしたことと、それを受け取ったことで神は義として下さるのです。つまり、私たちは神に先を越されてしまったのです。それなので、あと私たちがすることと言えば、神にしてもらった自分に自分を従わせていくだけなのです。
そうすると、必ずギャップに気づく時が来ます。というのは、外側は神の義を着せてもらっているけど、その下にはまだ罪が残っているからです。ギャップが明らかになる度に、罪の告白をして赦しの宣言をしてもらいます。その時、ゴルゴタの十字架で打ち立てられた罪の赦しは微動だにせずあることを確信して安心します。この安心と確信をもって、また神にしてもらって自分に自分を従わせる道に戻ります。キリスト信仰者はこれを繰り返していきます。繰り返せば繰り返すほど、内にある罪は圧し潰されて行きます。この繰り返しの先にあるのが、復活の日の目覚めと神の国への迎え入れです。イエス様が道しるべの光というのは、まさにそこに向かって進めるようにする光ということです。このことをイエス様自身がヨハネ8章12節で言っています。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩くことはない。その者は永遠の命に導く光を持つことになる。」(少し解説的に訳しました。)
このようにイエス様という光は私たちの真実を明らかにするという機能と明らかにされた私たちがどこに進むべきかを示す道しるべになるという機能の二つの機能を同時に兼ね備えた光です。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは洗礼を受けることでこの光を得ました。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きることでこの光を携えて進んで行くのです。今年は今日で終わりますが、新しい年もイエス様の光を携えて進んで行きましょう。