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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように。 アーメン
2024年12月15日(日)
聖書:ルカ福音書3章7~18節
説教題:「悔い改めに相応しい実を結べ」
今日の聖書はルカ福音書3章であります。神から遣わされたヨハネという人が荒野に現れて「悔い改めよ」と叫びました。その声はユダヤの全土に鳴り響きました。このヨハネの叫びは人々の心を鋭く刺激する権威を持ったものでしたからヨハネの叫びを聞いた民はみな自分の生活を顧みて道徳的にも良心に訴えられる反省すべき点を見つめたのでしょう。また神の審判の近いことを感じ恐れおののいたかも知れません。彼らはユダヤの全土からヨルダン川へやって来てヨハネから「罪の許しを得る悔い改めのバプテスマ」を受けたのでした。バプテスマのヨハネはこれらの群衆向かって言ったのです。それが今日の聖書に書いてあります。3章7節からの言葉でありました。「蝮の子らよ!差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがお出来になる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる」・・・・。
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これはもう刺激的な言葉であります。ユダヤ人の群衆に向かって「お前たちは蝮の子らだ」と言うのです。神の怒りの下にあると言うのです。蝮と言うのは荒野の岩穴に潜んでいる毒蛇であります。人々もよく知っている恐ろしい蛇であります。神様から特別に選ばれている民族である誇りに思っているユダヤの民に向かって「蝮の裔(すえ)だ」と呼んでいるのです。来らんとする神の怒りを逃れられる、とでも思っているのか。各人は自己の生活を悔い改めて良い実を結べと迫って叫ぶのであります。罪を悔い改めなければ民族の伝統をいくら誇ってもユダヤ人であれば誰であれ切り倒されて滅亡の火に投げ込まれるのだ!と叫んでいるのです。悔い改めるならユダヤ人たちが軽蔑する異邦人であっても信仰的には「アブラハムの裔(すえ)」として神の救いを受けられるであろう。このようにしてヨハネの言葉を聞いた群衆は自己の良心に心打たれ感動の言葉に心開かれ人々は言いました。「では私たちはどうすればよいのですか」・・・・。そこでヨハネは答えて言います。11節以下を見ますと「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ」。私たちはヨハネのこの言葉をどのように思うでしょうか。現代の日本に生活している私たちからすると下着一枚も持っていない人にやりなさいと言われるのはピンとこないでしょう。ところがイエス様の時代です。2000年以上も昔です、しかもバプテスマのヨハネは荒野で生きて来たのです。一口で言いますととにかく暑いです。日本人の感覚からは想像を絶する程の暑い中にいるのです。私は実際イスラエルに旅して荒野をバスで通りました。ごつごつした岩、石ころだらけ、気温35度以上どころではありません。バスの中はクーラーをがんがんかけていますがバスから出た途端に物凄い暑さです。もう大変な暑さでカラカラで、とにかく水が無いのです。聖書の中でイエス様が言われる一滴一滴の水の有難さ、まさに命の水です。実際に行ってみないと分からない、実感が湧かない。ここでヨハネが言っている言葉も私たちの日本での感覚からかけ離れた風土の中で語られている言葉です。一枚の下着がどんなに貴重なものであり下着を持っていない人々が沢山いると言う事でしょう。更に食べ物を持っている者も同じようにせよ。充分に食べ物もない、いつも腹ペコペコでやっと水や野菜や草で食いつないでいる人々の状況の中で言われているのです。他のところでイエス様も言われています。そこには人と人との心からの信頼し合って生きねば生きられない。その土台があって[互いに助け合いなさい。][愛し合いなさい。]という事であります。今日生きられるか明日死ぬかもわからない、何も持っていない過酷な状況の中で響く重い生きた言葉です、イエス様の命令です!ヨハネの荒野での禁欲生活の体験から出している実践的真理を訴えて言っているのです。そして更に徴税人に対しては規定以上のものは取り立てるな。兵隊に対しては誰からも金を強請り取ったり騙し取ったりするな、と言っています。自分の給料で満足せよ。きわめて具体的な不正や権力を持っている者が弱い者をないがしろにした社会に対する鋭い警告と悔い改めであります。人間誰もが持っている欲を鋭く突いていると言えるでしょう。時代を超えて昔からユダヤ人の間で横行していたであろう騙し取りや強請り取りの悪がはびこっていたと思われます。これらの一貫して言えることは「あなた方は貪るなかれ」とヨハネは訴えたのです、欲を捨てよ!です。
ヨハネのこれらの鋭い指摘を受けた群衆はヨルダン川において一度全身を水中に沈めて再び浮かび上がるという水による洗礼をうけました。この洗礼によって全身を川の水に一たび全てを沈めることでこれまでの諸々の悪い思いや罪の一切を一瞬にして捨ててしまって再び新たな信仰生活の出発を全身で水を浴びて体験する、これは悔い改めの象徴であります。そこには罪の許しを受け新生の感覚を持って主と共にある信仰の希望を生きるのであります。この体験は一生忘れない印象深い恵みでありましょう。今日でもバプティスト教会は特別の意味を持って聖壇の下にあるプールの中で全身水に浸って新たな信仰の覚醒をする洗礼式が行われています。なぜヨルダン川でのバプテスマのヨハネ悔い改めの叫びにユダヤ全土、彼方此方から人づてに群衆がやって来て洗礼を受けたのでしょうか。このヨハネが現れる前の時代BC16年?~BC37年頃マカベヤ時代といわれた時代、ユダヤ国が倒れた後、歴史的にメシア待望の時代のうねりが高まり民族の間に救い主メシアの出現を期待する思いが強くありました。そこへヨハネが荒野から現れ悔い改めを迫ってヨルダン川で洗礼を授けましたのでこれこそ待望のキリストではあるまいかと群衆が考え始めたのです。16節から見ますと、そこでヨハネは彼らの心を知って皆々に向かって言ったのです。
「私はあなた達に水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる。・・・」ヨハネははっきりと自分はキリストではない。即ちあなた方の期待しているメシアはナザレのイエスであることを明らかにしたのであります。そして二人の違いは次の二つの点にあると言います。
第1に ヨハネは水でバプテスマ施すがイエスは聖霊と火でバプテスマを施す。聖霊のバプテスマはその人に全く新しく、魂に至るまでの生まれ変わり、生き方が変えられるのである。そうした神からの力を持つ。一方水のバプテスマは象徴的意味をもつにすぎない。
第2に ヨハネは斧が木の根元に置かれていると言ったけれどもヨハネ自身が斧を振るうのではない。彼はただのの事実を指摘したに過ぎないのです。しかしイエス様はその手に箕を持って自らこれをふるい給うのであります。従って斧を振るう者も又当然イエス様であります。こうしてイエス様とヨハネの間には審判を行う者とそれを指し示す者との差があったのです。これはもう天と地ほどの次元の違う差があったのです。ルカ福音書3章ではヨハネの出現した事について旧約聖書イザヤ書40章を引用しています。ヨハネは救い主イエス様の登場前に道を整え準備する者である事を書いています。その事はヨハネが生まれた時既にその父ザカリヤが聖霊に満たされて預言したところであった。バプテスマのヨハネは罪の許しに至る「悔い改め」の道を宣べ伝えたのでした。[罪の赦しを得させる者は]ヨハネではなくイエス様の救いでありました。ヨハネは水による洗礼で形式的象徴であってイエス様の救いは聖霊によってする永遠的効果のある実力であったのです。こうした違いがある事をヨハネ自ら「私はあなたのために水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない」という表現で言ったのです。
今日のメッセージで私たちはバプテスマの叫びを心に受けて自分の人生をこれから何をしたら良いのでしょうか。イエス様は33年の生涯で最後の僅か3年間を激しく神の国の心理を語り神の力を爆発させて数々の奇跡の業を起こし数知れない病人を救い、そして遂には十字架の死をもって信ずる全ての人の罪を贖ってこの世を終えられました。バプテスマのヨハネは神の子イエスの前を歩き僅か30年の生涯を殆ど荒野で過ごした後ユダヤの民に「悔い改め」を叫びヨルダン川で水による洗礼を授けを最後は牢獄で死を遂げたのであります。我らはこのヨハネの叫びを聞き何をなすべきか?彼は今日も叫んでいるのであります。
来週の礼拝はクリスマスです。私たちはバプテスマのヨハネの叫びを受けとめ罪赦された神の愛を受けて神を褒めたたえたい!詩編103篇の作者のように「我が魂よ主を褒めたたえよ」と喜びの賛美を挙げてクリスマスを迎えましょう。
人知では測り知ることの出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
先週キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。クリスマスまで4つの日曜日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主の降臨を待つ期間です。クリスマスの日になると私たちは救い主を贈られた天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生をお祝いします。この救い主の降誕を待つ期間、私たちの心は2千年以上の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生に向けられるのです。
このように待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申しましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。クリスマスをお祝いして、ああ今年も終わった、また来年、と言って飾りつけと一緒に片づけてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を思い起こしてそれを保っていかなければなりません。そういうわけで今日も、本日定められた聖書の個所を通して再臨を待ち望む心を思い起こしましょう。
本日の福音書の日課は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。神の言葉がユダヤの荒野にいたヨハネに降り、ヨハネはそこから出てヨルダン川流域の地方に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。そして、大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。この福音書を書いたルカは、これこそ旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことの実現だとわかって、それを引用して書き出します。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
荒れ野で叫ぶ声とは洗礼者ヨハネの宣べ伝えの声です。ヨハネが整えよ、まっすぐにせよ、と命じた「主の道」の「主」とはイエス様のことです。イエス様の道を整えよ、その道筋を真っ直ぐにせよとは具体的に何を意味するのでしょうか?ヨハネは続けて、「山と丘はみな低くされる、曲がった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らになる」と言います。聞いていると、なんだかイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているように聞こえます。イエス様はでこぼこ道や曲がった道を歩くのが苦手だったということでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。ここのイザヤ書の引用はイエス様の足について言っているのではなく、イエス様を迎える立場にある私たちの心のことを言っているのです。それがわかるために、まず、「道を整えよ、道筋を真っ直ぐにせよ」と命じた後に来ることを見てみましょう。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と言います。全部未来形で将来起こることを言っています。
「山と丘は低くされる」と言う時、「低くされる」のギリシャ語原文の動詞(ταπεινοω)は「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人やその心を意味し、それをヘリ下させるということです。暗に人の心を言っているのです。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っていないようにみえます。ところが、引用元のイザヤ書40章4節のヘブライ語の原文を見ると、「埋める」という動詞は使われていません。「高くする」という動詞(נשא)です。「谷底を高くする」という言い方です。ちょっと変ですが、要は、低くされた人を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。
「曲がった道はまっすぐに」ですが、ルカ福音書のギリシャ語の原文、引用元のイザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで「道」と理解する必要はないのです。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見ても(σκολιος、עקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味するのです。それが「まっすぐになる」と言うのは、これも単語の意味を調べると(מישור)、公正な、正しい、義に満ちたという意味があります。なので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っているのです。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命じて、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道のことを言っているようですが、実は心のことを言っていて、神の救いを見るのに相応しくなかった心が相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があり、日本語の理解をさらに進めてくれます。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とは、神と神が贈る救い主が私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。私たちの側でバリアフリーにしなさいということです。
私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを私たちはどうやって取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。それが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロがローマ6章23節で、罪の報酬は死であると言っている通りです。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。
これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から離れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのでした。
神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の内に居座るようになってしまった罪を自分の力で追い出すことができません。それで人間は罪にまみれ罪の力に服したまま、神との結びつきがない状態でこの世を生きることになります。この世から離れる時も神との結びつきがないまま離れることになってしまいます。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。
このようにして、遠いところにおられる神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、その彼を通してご自身の愛と恵みをもって私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを持てて今のこの世だけではなく次に到来する世も合わせた大いなる人生を生きられるようにするためでした。
それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?
それは私たちが、この神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けられたもので、この自分に対しても向けられていると気づいて、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすることでバリアフリーになって神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道が真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。聖霊が入ったことは、次のような聖霊の働きから明らかです。洗礼を受けたことでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分の償いになったのだ、自分は罪を償ってもらったのだ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見てもらえるようになったのだ、神から罪を赦された者と見てもらえる以上、自分はもう罪の側にいて生きるのではなく、神の側にいて生きるようになったのだ。こういうふうに新しい命が自分にあるのだとわかるのは聖霊が働いている証拠です。聖霊なしではわかりません。
聖霊の働きは、新しい命の自覚をもたらすことで終わりません。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したことではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見てくれるのか、心配になります。その時、キリスト信仰者は自分の内にある罪を見て見ぬふりをせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈ります。神への立ち返りをするのです。罪を見て見ぬふりをして赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。このようにキリスト信仰者が自分の内に罪があることに気づいて神への立ち返りをするというのも聖霊が働いている証拠です。
神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。この時キリスト信仰者は自分にはイエス様の償いがある、神との結びつきは失われていないとわかり、神の側にいて生きる者の自覚、洗礼の時に始まった新しい命の自覚が戻ります。このように自覚に戻れるのも聖霊が働いている証拠です。
実にキリスト信仰者は聖霊の働きにより、罪の自覚と神から赦しを受けることを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向って進んでいくのです。先週の説教でも申しましたように、これを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。そこで、私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、逆に神と私たちの結びつきは一層強められるので罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。福音書の日課の最後のところで言われるように、最終的に神の救いを見ることになります。つまり、主の再臨の日、「お前は真に神の側にいて生きてきた」と裁きの主から認められるのです。本日の使徒書の日課フィリピ1章6節で、キリスト信仰者に良い業を始めた神はイエス様の再臨の日にその業を完成させる、と言われていますが、真にその通りです。
主の再臨の日に神が完成させる善き業について、以上は神と人間の関係に関わる善き業でした。説教の終わりに、人間と人間の関係に関わる善き業について見てみます。つまり、私たちのこの世での営みや活動の善き業についても神は完成させられることを述べたく思います。宗教改革のルターが言ったのではないかと考えられている言葉に次のようなものがあります。ある人がルターに聞きました、先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?と。ルターはこう答えたそうです。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」
明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?
それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論、永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完成したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。それで、この世で悪や不正に与せず、それに反対するのが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。明日この世が終わるという時に今日リンゴの木を植えるのが大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に与せず反対すること、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。この世で始められた善い業を神は必ず完成させられるのです。
このように、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来るのです。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来るのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
聖書日課 エレミヤ33章14節-16節、第一テサロニケ3章9-13節、ルカ21章25-36節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
待降節第一主日の福音書の日課は以前はイエス様がロバに乗ってエルサレムに入城する箇所が定番でした。その場面ではイエス様を迎えた群衆がホサナと叫びます。ホサナとは旧約聖書の言葉ヘブライ語のホーシィーアンナ―、またはイエス様の時代のユダヤ民族の言葉アラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統では王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。それで、フィンランドやスウェーデンのルター派教会の待降節第一主日の礼拝では讃美歌「ダビデの子、ホサナ」を歌うことが伝統になっています。このスオミ教会でも歌ってきました。
ところが、4年ほど前に日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。先ほど読んだように、イエス様がエルサレムに入城した後でこの世の終わりについて預言する箇所になってしまいました。以前は、そういう終末論だとか最後の審判に関する箇所は聖霊降臨後の終わりの頃に集中して、待降節に入ってガラッと雰囲気が変わって心躍るクリスマスに向かうという流れでした。それが今は、待降節になってもまだ終末テーマを続けなければならない。説教者として気が重いです。
でも、よく考えてみると、待降節に終末テーマがあるのはあながち場違いではありません。待降節というのはクリスマスのお祝いを準備する期間です。では、クリスマスは何をお祝いする日なのか?人によってはサンタクロースが来る日をお祝いすると言う人もいますが、サンタクロースはクリスマスのお祝いの付属品です。付属品なので、別に来なくてもクリスマスのお祝い自体に影響はありません。クリスマスとは、神のひとり子が天の父のもとからこの世に贈られて人間として生まれてきたという、信じられないことが2000年少し前の今のイスラエルの地で起こったことをお祝いする日です。その当時、メシアと呼ばれる救世主の到来を待ち望んでいた人たちがいました。マリアに抱かれた幼子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされた老人のシメオンややもめのハンナはそうした人たちでした。それで待降節とは、そうしたメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いにする期間でもあります。
ところが、この「待ち望む」思いはクリスマスが終わったら終わるものではありません。本当はイエス様を待ち望むことはまだ続くのです。待降節ではそのことも覚えないといけないのです。どういうことかと言うと、イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられましたが、それ以前に自分は再び降臨する、つまり再臨すると言っていたのです。最初の降臨は家畜小屋で起こるというみすぼらしい姿でした。もし天使が羊飼いに知らせなかったら、あるいは不思議な星の動きがなかったなら、誰も気づかなかったでしょう。しかし、次の降臨、すなわち再臨は本日の福音書の個所で言われるように、目がくらむ程の眩しい神の栄光の輝きを伴って天使の軍勢を従えて全世界が目にするものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地に再創造してそこに神の国が現れ、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないか最後の審判が行われる、そういう想像を絶する大変動が起きます。しかも、その審判を行うのが再臨の主イエス様だというのです。
そういうわけで今私たちが生きている時代と空間というのは、実にイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間であり空間です。さあ、大変なことになりました。今私たちがいる時代と空間はイエス様の再臨を待つ時代と空間だという。しかも、再臨は最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の家畜小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話ではない。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の気持ちではないでしょうか?だって、イエス様は今度は赤ちゃんとしてではなく、裁きの主として、つまりその時点で生きている人と既に死んでいる人全部を相手に神の国へ入れるかどうかを判定する裁きの主として来られるからです。
天地創造の神の手元には「命の書」なる書物があってそれが最後の審判の時に判定の根拠になることが旧約聖書と新約聖書の双方を通して言われています。全知全能の神は私たちの髪の毛の数も数え上げているくらいの方です。命の書には、地上に存在した全ての人間一人一人について全てのことが記されています。詩篇139篇を繙けばわかるように、神は人間の造り主なので人間のことを徹底的に知り尽くしています。つまり、神は私たちのことを私たち自身よりも良く知っているのです。だから、私たちが自分のことをよりよく知ろうとするなら、心の声に聞くだとかアイデンティティーを追求するだとかはあっちに置いて、私たちの造り主である神の御言葉が詰まっている聖書を繙くのが手っ取り早いということになります。
このように考えていくと最後の審判は恐ろしいです。神聖な神の目から見て自分には至らないところが沢山あったことを神は全て把握している。神とイエス様の御前で私は潔白ですなんてとても言えないのではないか。聖書は、私たち人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持っていることを明らかにします。そんな人間が神から潔白だと認められることがあり得るでしょうか?
それを「あり得る」にするために神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのでした。これも聖書が明らかにしていることです。なぜ神のひとり子が贈られなければならなかったか?それがわかるように、聖書は人間の罪性を明らかにするのです。つまり、イエス様は人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて下さったということです。そこで本当は人間が受けるべき神罰を代わりに受けて死なれたのです。つまり、イエス様は人間の罪の償いを神に対して果たして下さったのです。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に向かう道を人間に切り開いて下さったのです。
このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償って私を永遠の命に向かわせるためになされたのだとわかって、それでその大役を果たしたイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けるという段取りになります。そうすると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。罪を償ってもらったのだから、その人は神から罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたのだから、これからは神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。
この世を去る時も神との結びつきは途切れません。保たれたままです。復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠り、復活の日が来たら目覚めさせられて、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所です。このように洗礼と信仰によって築かれた神との結びつきは、実にこの世と次に到来する世の双方にまたがる結びつきです。
ここで、復活の体について一言申し上げておきます。ルカ21章28章でイエス様は言われます。天地の大変動と自分の再臨が起きる時、怖気づかず勇気をもって顔をあげよと。なぜなら、お前たちの解放の時が近づいたからだと。「解放」とは何からの解放でしょうか?苦難からの解放、罪からの解放、いろいろ考えられます。それらは間違いではないですが、もっと焦点を絞ることが出来ます。アポリュトローシスというギリシャ語の言葉ですが、同じ言葉がローマ8章23節で使われています。新共同訳では「体の贖われること」と訳されていますが、誤解を与える訳です。正しくは「肉の体からの解放」です。肉の体に替わって復活の体を着せられることを意味します。ルカ21章28節の解放も同じことを意味します。お前たちの解放の時が近づいたというのは、復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる日が近づいたということです。
そうすると、キリスト信仰者にとって神の国への迎え入れは確実と言っていることになります。最後の審判をクリアーできるというのです。でも、本当に大丈夫なのでしょうか?罪を赦してもらったけれども、それは自分から罪が消滅したのではないことは経験から明らかです。確かに、神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持てて生きられるようにはなりました。しかし、そのように神の目に適う者とされていながら、また「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても自分に出てきてしまう。そういうジレンマがキリスト信仰者にいつもついて回ります。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さないで済んでも心の中に現れてきます。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。それなのにどうして最後の審判をクリアーできるのでしょうか?
それは、キリスト信仰者というのは罪を圧し潰す生き方をするからです。信仰者は自分の内にある罪に気づいたとき、それをどうでもいいと思ったり気づかないふりをしたりしません。すぐそれを神に認めて赦しを祈ります。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待つ神の国に向かって歩みを続けていきます。
このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは弱まるどころが逆に一層強められていくので罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。このように生きてきた者が裁きの主の前でする申し開きは次のようになります。「主よ、あなたは私の罪を全部償って下さったので真に私の救い主です。それで私は罪の赦しのお恵みを頂いた者としてそれに相応しく生きようと心がけて生きてきました。ぶれてしまった時もありましたが、その度にいつもこの心がけに戻りました。教会の礼拝を通して、聖餐式を受けることを通して。」これはもう神も悪魔も否定できない真実です。裁きの主は「お前は間違いなく罪を圧し潰す生き方をしてきた」と認めるでしょう。実にイエス様が私たちの救い主である限り、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられるのです。それで主のみ前で何も恐れる必要はないのです。説教の初めに「ホサナ」という言葉はもともと「神よ、救って下さい」と言う意味だったのが、「王様、万歳!」に変ったと申しました。私たちにとっても「ホサナ」は「神よ、救って下さい」だったのが、まさに王の王、イエス様に万歳を叫ぶ言葉になったのです。それで、主の再臨の日に私たちが主に向かって叫ぶに相応しい言葉なのです。
本日のルカ21章33節でイエス様は「天地は滅びるが私の言葉は滅びない」と言われます。「私の言葉」と聞くと、大抵の人はイエス様が語った言葉を考えるでしょう。そうすると聖書の中でイエス様が語っていない言葉はどうなってしまうのか?イエス様が語った言葉より弱くて滅びてしまうのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。「イエス様の言葉」というのは、イエス様が有する言葉、イエス様に帰属する言葉という意味もあります。イエス様が管轄している言葉です。そうするとパウロやペトロの教えもイエス様の管轄下にあるので「イエス様の言葉」で天地が滅びても滅ばない言葉です。イエス様が人間の罪を償って人間を罪と死の支配から贖いだして永遠の命に至る道を歩めるようにして下さった、そのことを証しするのが聖書です。その聖書のみ言葉を信じて生きる者は天地が滅びても滅びず新しい天地の下の神の国に迎え入れられるのです。聖書の言葉は滅ばないから、そうなるのです。
終わりに、罪の赦しという恵みに留まって罪を圧し潰す生き方をするキリスト信仰者は、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てくることについて述べておきます。どうしてそうなるかと言うと、罪の赦しの恵みに留まって生きると、パウロがローマ12章で命じることが当然のことになるからです。命じる必要がないくらいキリスト信仰者の属性になるからです。悪を嫌悪する、善に留まる、お互いに対して心から兄弟愛を示す、互いに敬意を表し合う、迫害する者を祝福する、呪わない、喜ぶ者と共に喜ぶ、泣く者と共に泣く、意見の一致を目指す、尊大な考えは持たない、地位の低い人たちと共にいるように努める、自分で自分を知恵あるものとしない、悪に悪をもって報いない、全ての人にとって良いことのために骨を折る、全ての人と平和な関係を持てるかどうかがキリスト信仰者次第ならば迷わずそうする、自分で復讐しない、正義が損なわれたら最後の審判の時の神の怒りに委ねる、神が報復する、だから、敵が飢えていたら食べさせる、渇いていたら飲ませる、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。善をもって悪に打ち勝つ。
このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しの繰り返しをしていけばこんなふうになるとわかってはいるが、時々なんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになります。しかし、主の再臨の日、信仰者はあの時迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の中の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて良かった、とわかってうれし泣きしてしまうでしょう。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり待ち遠しい日なのです。
イエス様は再臨の日がいつ来ても大丈夫なようにいつも目を覚ましていなさいと命じます。目を覚ますというのはどういうことでしょうか?主の再臨はいつかだろうか、この世の終わりはいつかだろうか、最後の審判はいつかだろうか、といつも気を張り詰めていることでしょうか?そんなことしていたらこの世で普通の生活が送れなくなってしまいます。先ほど申しましたように、最後の審判をクリアーするというのは、この世で罪の自覚と赦しの繰り返しの人生を送り、人間関係の中でお人好し路線を取ったことの終着点です。なので、罪の自覚と赦しの繰り返しとお人好し路線を取ること自体が主の再臨に向けて目を覚ましていることになります。つまるところ、主の再臨を待ち望む生き方というのは、裏を返せば、この世で自分を律して倫理的な生き方をするということです。
主が再臨される時、私たちも「ホサナ!」と歓呼の声をあげましょう。
勉強会:「信仰告白」を学ぶ
飾り付けの楽しいひと時。
主日礼拝説教2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日
聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章38-44節
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エルサレムの神殿で大勢の人が「賽銭箱」にせわしくお金を入れていました。賽銭箱というと、日本の正月の神社やお寺で大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。エルサレムの神殿の場合は、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつかあって、それぞれに動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとり次から次へとやって来ては投げ入れて行ったことになります。それで、本日のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは容易に識別できたでしょう。
金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが投げ入れたのは銅貨二枚だけでした。それは1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この福音書の記者マルコがローマ帝国の市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。それは64分の1デナリ、1デナリは当時の労働者の1日の賃金でした。今、日本で一日8時間働いた最低賃金が9千円位とすれば、その64分の1は140円。それがやめもの投げた金額となります。イエス様は、それは彼女の全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、取るに足らない額ですが、相対的にみれば、やもめの生活費全部なので取るに足らないなどととても言えません。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。それで、やもめの方が多く捧げた、多くの犠牲を払ったとことになり、一種の美談のように理解されて、あなたも同じように多くの犠牲を払えなどと教えるところも出てくるかもしれません。
しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を捧げてしまったのです。その後でどうなるのだろうか、皆さんは気になりませんか?そういうふうに考えると、この箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないか。この出来事の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて見ると明らかになります。まず、出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章をみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っていると神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが略奪の対象になっていることがあげられています。
イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのはどういうことか?夫を失った女性の地位は不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった、それに対して法律の専門家である律法学者は彼女たちを守るどころか財産を失うようなことに手を貸していたことがあったのか、少なくともそういう事態を放置していたと考えられます。イエス様はそれを批判し、その後で本日の出来事がくるのです。まさに、困窮したやもめがなけなしの金を捧げるのです。そして、本日の個所の続きを見ると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1
2節)。貧しい人が大きな痛みを伴う献金をしているのに、余裕のある人たちは痛みを伴わない程度の献金で良かれと思っている。そんな不公平を放置している神殿はもう存在に値しないというのです。そして実際に、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年後の西暦70年にエルサレムの町共々、ローマ帝国の大軍の攻撃を受けて破壊されてしまいました。
このようにイエス様はこれを美談としてではなく悲劇と捉えていると思われるのですが、それでも、やもめの捧げ物は金持ちの捧げ物よりも価値があると認めているとも言えます。やもめは金持ちよりも多く払ったと言います。裏を返せば、金持ちは少ししか払わなかった、不十分だということです。やもめは多く払った、十分払ったということです。その場合、何に対して十分なのか、不十分なのか?神に目をかけてもらって恩恵を得られるために十分、不十分ということなのでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。よく見て下さい。イエス様は全額捧げたやもめが天国に近いとか言っていません。イエス様にしてみれば、神に捧げることは大事なことであるが、ただし、捧げものをして神から恩恵を受けようとするような、そんな見返りを求める捧げ方に反対なのです。そんな仕方で捧げたら神殿の礼拝の論理とかわらなくなります。神に捧げることは大事なことであるが、見返りを得るために捧げるのではない、しかも、捧げるからには持てるもの全てを捧げることが当然になるような捧げ方、それでも見返りは求めないという、そんな前代未聞の神への捧げ、それをイエス様は考えていたのであり、それが実際に行われるようになるためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、そのような新しい捧げ方を先取りするものでした。イエス様はやもめの捧げにそれを見て取ったのです。そして、イエス様は人間の神への捧げを全く新しい方向に導くことをこの後でやったのです。一体、何をされたのでしょうか?
その答えは、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24ー28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちが記されています。まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄となる動物の血を携えて神殿中の最も神聖な場所、至聖所に入って神のみ前で自分自身の罪と民全体の罪の双方を償う儀式を毎年行っていました。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げ、十字架の上で血を流されました。神のひとり子の神聖な犠牲ですので、1回限りで十分です。数えきれない動物の生贄の血などとは比べることができない尊い血を流されたのです。それなので、もし神と執り成しをするために何かまた犠牲を捧げなければいけないと考える人は、神のひとり子の犠牲では物足りないと言うことになってしまい、神を冒涜することになるのです。それくらいイエス様の犠牲は神聖なものなのです。
そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る道を人間のために切り開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の果たした罪の償いがその人のその通りになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦されたので、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして人生、順境の時も逆境の時もいつも変わらない守りと導きを神から頂きながら道を進みます。この世から別れる時も神との結びつきを持ったまま別れ、復活の日が来たら目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられます。これがキリスト信仰の「罪の赦しの救い」の全容です。
このような計り知れない救いを受けることになった私たちはどうなるのでしょうか?もう神から見返りを受けるために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来き上がった恩恵を受け取りなさいと差し出してくれて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備して捧げを実行してしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神が恵み深いというのはまさにこのためです!
恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、どうなるのでしょうか?私たちが神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるために神はイエス様の償いと贖いを私たちに与えて下さいました。そのもとで、私たちが御国への道を歩めるように日々の糧や様々な賜物を備えて下さいます。なので、財産や賜物など自分に備わっているものは全て恵み深い神からの贈り物に他なりません。贈り物ではありますが、自分の好き勝手に使ったり浪費してよいのではなく、自分が御国への道を歩むのに必要なものに用いる、隣人がその道を歩めるために何か足りなければその人のために用いる。全ては道を歩む自分と隣人の必要のために正しく用いなさいと神から委ねられているのです。
このように財産や賜物が全て神から委ねられたものであるということは十字架と復活の後、理論的に明らかになりますが、それが実践的に行われるようになったことが使徒言行録の3章に記されています。聖霊降臨の後で最初のキリスト信仰者たちが各自、全財産を持ち寄って、人々の必要に応じて分け与えることを始めました。十字架と復活の前にイエス様がエルサレムの神殿で目に留めたやもめが行ったことを、今度は罪を償われ罪から贖われた者たちが実践し始めたのです。彼らは神から見返りの恩恵を得るためにそうしたのではありませんでした。ちょうどやもめがそうしなかったように。彼らにとって財産や賜物は全て神からの贈り物になったのです。やもめにとってもそうであったように。聖霊降臨後に誕生した最初の教会は何も財産を持たない使徒たちを中心に洗礼を受けた人の集まりから始まりました。組織も整っておらず財政的基盤もありません。群れに加わった人たちには余裕のある人だけでなく、貧しい人も大勢いたのでした。それで御国への道の歩みをお互いに支え合うことができるように急きょ私有財産の共有を始めたのでした。何か政治的、唯物論的なイデオロギーの実践ではありません。復活の体や永遠の命という、老若男女、貧しい人金持ちの人みんなが共通して持った目的地に一人も落ちこぼれずにみんなが到達できるためにそうしたのでした。
ここで、持ち金全部を捧げたやもめはどうなったか、思いを馳せてみましょう。彼女の存在はイエス様の目に留まりました。なので、彼女は神の守りと導きの手に委ねられ、きっと神が送った助け人の支えを受けたに違いない、と私は信じます。イエス様がやもめを目撃したのは十字架と復活の出来事の少し前でした。そして、最初のキリスト信仰者たちが私有財産を共有したのは聖霊降臨後間もない頃です。イエス様の復活から聖霊降臨まで50日あります。なので、イエス様がやもめを目撃してからキリスト信仰者の財産共有まで2ヶ月位あります。その間、やもめは神が送った人の助けを受けたに違いないと私は信じます。本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。エルサレムの神殿のやもめも神殿に参拝に来ていた人たちも皆この出来事を知っていたはずです。エリアの出来事が起こって聖書に記録されたのは、まさに神には不可能なことはないという信仰の証しでした。この証しを心で受け止めて、神の手足となってやもめの世話をした人はいたと信じます。
終わりに、勧めと励ましの言葉として3つのことを申し上げます。一つは、私たちには私たちのことを全てご存じな神がついていらっしゃるので大丈夫ということです。金持ちは誰一人、やもめが捧げたものは彼女の持ち金全部だったとは知りません。人間というのは、いかに多くか、どう見えるかということで物事を判断し評価してしまいます。物事がその人にどんな意味があったか、とか、その人はどんなプロセスを経なければならなかったかは見過ごしてしまいがちです。注意して見ても見極めることは出来ません。しかし、私たちの神は人間が見過ごすことも見極められないことも全て一つ残らず見届けています。まさに神のひとり子イエス様がやもめの捧げ物が彼女にとってどんな意味があったかをご存じだったように。私たちに関する全てのことは「命の書」に良く正しく完全に記録されます。人の目に見過ごされてしまったこと見極められなかったことに神は目を注がれ、過小評価されてしまったものを賞賛し、歪曲されてしまったものを訂正されます。このように私たちの恵み深い神は憐れみと正義の神でもあります。そのような神がついていて下さるのです。
二つ目は、私たちキリスト信仰者は御国の道の歩みを続けられるようにお互いに支え合わなければならないということです。今、私有財産を手にしてはいても、心の中ではこれは神から委ねられた贈り物である、もし神が時を示したら、隣人が御国への歩みを続けるのを、または道に入れるのを支えるために持てるものを捧げなければならない、と心の中で準備しておかねばなりません。
そう言うと、財産を自分の好きなことに使ってはいけないのかと言われてしまうかもしれません。そこはこう考えたらどうでしょう?例えば、時々、旅行に出かけて素晴らしい景色を見たり、美味しい料理を味わったりするのは、それが御国の道の歩みの励ましになったり慰めになって歩む力になると。そのような機会が与えられたことを神に感謝して使うのだと。とにかく自分の歩む力を強めることは、隣人の歩みを支えてあげられるために大事なことです。
三つ目は、御国の道の歩みでお互いに支え合うということは、毎週日曜日の礼拝でも実践しています。神の御言葉と説教を聞いて罪の赦しの恵みに留まる力をみんなで得ます。恵みに留まる限り、財産や賜物は全て神からの贈り物であることもその通りであり続けます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通してみんなでイエス様を頂きます。神の恵みと愛を口で味わいます。神からの霊的な糧です。そして、そのような礼拝を行う教会を支えるためにみんなで献金をします。それもお互いに道の歩みを支え合うということです。
聖書日課 イザヤ25章6-9節、黙示録21章1-6節、ヨハネ11章32-44節
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中で会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の出来事は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」と言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心配する人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが今日の黙示録21章の1節で言われるように、神が全てを新しく造り直す時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じだという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることが復活です。ところが、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。
本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのかということを考えてみようと思います。
復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者は神の御許に迎え入れられる、その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天から下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。
特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。この世でキリスト教徒を真面目にやっていたら、世の反発や不正義を被るリスクが一気に高まります。どうしてかと言うと、創造主の神を唯一の神として拝んだり、神を大切に考えて礼拝を守っていたら、そうさせないようにする力が働くからです。また、イエス様やパウロが命じるように、危害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、そんなことをしていたら、たちまち逆手に取られたり、つけ入れられたりして不利益を被ります。しかし、この世で被った反発や不正義が大きければ大きいほど、復活の日に清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。
まさにそのために復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者はこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。真に究極の労いです。
本日の旧約の日課イザヤ書25章でも復活の日の祝宴のことが言われています。一見すると何の祝宴かわかりにくいです。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いありません。そうわかれば難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?この節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそんなことが言えるかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われています。なのに、新共同訳では「組み立てられる」と訳されておもちゃのレゴみたいになって織物のイメージが失われてしまいました。今見ているイザヤ書25章7節でも同じ「織物を織る」動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。
人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩です。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の衣服が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに復活の体のことです。
次になぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのか見ていきましょう。
そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に私を信じる者を復活させて永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております」。(27節)
マルタの答えで一つ注意すべきことがあります。それは、イエス様のことを神の子、メシア救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語原文の正確な意味は(ギリシャ語の現在完了です)「過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会できることはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと認めたくない、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。
しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。どうしたら復活信仰を持つことが出来るでしょうか?それは、神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。私たちは聖書を読むと、自分の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっていることが見えてきます。そうした罪は人間なら誰しもが生まれながらに持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が創造主の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしたい、この世から別れた後も神のもとに永遠に戻れるようにしたい、そのためには結びつきを持てなくさせている罪をどうにかしなければならない、まさにその解決のために神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪を全て負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせて罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける番になります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったということは、これからは神の罪の赦しのお恵みの中で生きるということです。たとえ罪の自覚が生じても、自分には罪を圧し潰す偉大な力がついていてくれているとわかるので安心して人生を歩むことができます。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずそこに留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。
マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまう程でした。今すぐ生き返ることを望むくらいでした。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、マルタはイエス様との対話を通して、一時弱まった復活と永遠の命の希望が戻ったのです。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失って鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。ここが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。イエス様はラザロを生き返らせる前に神に祈りました。その時、周りにいる人たちがイエス様のことを神が遣わした方だと信じるようになるため、と言われました。これを聞くと大抵の人は、イエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行えば、みんなは、イエス様はすごい!本当に神さまから遣わされた方だ、と信じるようになる、そのことを言っていると思うでしょう。ところが、それは浅い理解です。今まで見てきたことを振り返れば、そうではないことがわかります。イエス様がラザロをはじめ多くの死んだ人たちを生き返らせたのは、イエス様にとって死とは復活の日までの眠りにすぎず、彼には復活の日に目覚めさせる力があることを知らせるために行ったのでした。それを知ることでイエス様は本当に神から遣わされた方だと信じるようになる、そのことを言っているのです。キリスト信仰とは、つまるところ復活信仰であることを知らせるために神はひとり子をこの世に遣わし、死者を生き返らせたのです。
最後にイエス様が涙を流したことについてしてひと言述べておきます。イエス様はマリアや一緒にいた人々が泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」とあります。イエス様は何を怒って興奮したのか?ギリシャ語の原文はそうも訳せますが、感情を抑えきれない状態になって動揺したとか、深く心が揺り動かされて動揺したとか、感極まって動揺したとも訳せます。フィンランド語の聖書はそう訳しています。私もその方がいいかなと思います。イエス様はラザロと二姉妹がいるべタニアに行く前、自分はラザロを生き返らせると自信たっぷりでした(11節)。それなら、泣いているマリアや人々に対しても同じ調子で落ち着き払って「泣かなくてもよい、今ラザロを生き返らせてあげよう」と言えばよかったのです。しかし、そうならなかった。イエス様はみんなが悲しんで泣いているのを見て、悲しみを共感してしまったのです。まさにヘブライ4章15節で言われるように、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではない」ことが本当のこととして示されたのです。
イエス様は、一方で神のひとり子として死者を生き返らせる力がある、自分が父に願えば父は叶えて下さるとわかっていながら、他方ではそのわかっていることをもってさえしても、共感した悲しみを抑えることはできなかったのです。それなので、ラザロを生き返らせる前に神に祈った時は、一方で自分を覆いつくした大きな悲しみ、他方で神は大きな悲しみよりも大きなことを行ってくれるという信頼、この相反する二つのものが競り合う中での祈りだったと思います。しかし、信頼が勝ちました。それを表すかのような大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫んだのです。私たちも困難の時、神に助けを祈る時は心配と信頼が競り合います。しかし、祈ることで信頼が勝っていることを神に対しても自分に対しても示すことが出来ます。ヘブライ4章16節はまさに信頼が勝つように励ましてくれる聖句です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜になかった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
主日礼拝説教 2024年10月20日 聖霊降臨後第22主日
聖書日課 イザヤ53章4-12節、ヘブライ5章1-10節、マルコ10章35-45節
イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に聞きました。「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまり、あなたが栄光の王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いしたのです。この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言います。偉くなりたい者は皆に仕える者になれ、いちばん上になりたい者は全ての人の僕になれ(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んだ人の多くは、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人は謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。(日本は今衆院選の真っ最中です。候補者に聞かせてやりたいと思う人もいるでしょう。実はこの個所はちょうど3年前の10月にもありました。その時も衆院選がありました。天のみ神はよほどこの聖句を国権の最高機関を目指す人たちに知らしめたいのでしょう。)
しかしながら、人のために尽くすことが偉いとか、地位の高い人は謙虚たれという教え自体は別にキリスト教でなくても、他の宗教でもまたは無宗教の人にも見られる道徳です。イエス様はそういう一般的な道徳を教えるためにわざわざこの世に来られたのではありませんでした。それでは、なんのために来られたのか?答えは本日の個所の最後にあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が自分の命を身代金として捧げるというのはどういうことか?確かにイエス様はゴルゴタの十字架で死なれましたが、それが身代金を払う行為であり人に仕えることだというのは、どういうことなのでしょうか?今日はこのことを明らかにしていこうと思います。
まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について予告しました。予告は本日の日課にはありませんが、この直ぐ後で二人は閣僚ポストを要求したのです。二人はイエス様の予告を聞いて、いよいよイエス様を王に戴く神の国が実現すると直感したのでした。それでは、イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのでしょうか?3年前の説教でお教えしたことですが、駆け足で復習します。
イエス様が地上で活動された時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデのような王が現れて、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された王になる。メシアとはもともとは聖別の油を注がれた者を意味しました。その新しい王メシアがユダヤ民族を支配しているローマ帝国を打ち破って王国を再興してくれる、そして諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言、同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。
これらの預言をみれば、将来ダビデ家系から偉大な王が現れて外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。ところで、このようなダビデ家系の王が王国を復興するという考えは、現世に実現するものです。王も現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもありました。それは、今あるこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神が新しい天と地に再創造する、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らない神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。現世的なメシアと王国復興の考えとは異なる、終末論的なメシアと神の国の考えです。このような考えを示す書物が、紀元前2,3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。
どうしてそういう終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書65章、66章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、それまで現世的な王が現世的な王国を復興すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり読み込めていないことになります。
こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかし、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。彼らは神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように位の高い者と低い者の序列があると思ったようです。それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えます。お前たちの間で偉大な者になりたい者は互いに仕える者になれ、お前たちの間でいちばん上になりたい者は全ての人の僕(奴隷)になれ、と。そして、大事な言葉が続きます。「人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が多くの人の身代金として自分の命を捧げるというのはどういうことか、次に見てみましょう。
身代金とは、誘拐事件や人質事件のような忌まわしい事件が起こった時に、捕らわれた人を解放するために犯人に渡すお金を意味します。イエス様が多くの人のために自分の命を身代金として捧げたというのは、人が捕らわれた状態にあったので、そこから解放するために捧げたということです。では人は何に捕らわれた状態にあっだのでしょうか?そこから解放されたらどんな状態になるのでしょうか?
まさのこのことについて明らかにするのが聖書です。人間は罪に捕らわれた状態にあると聖書は教えます。罪と言うと、普通は何か犯罪を犯すことを考えます。何も犯罪を犯していないのに、キリスト教は人間のことを罪びと罪びとと言うので嫌がられます。しかし、聖書でいう罪とは、神の意思に反しようとする、人間誰もが持ってしまっている性向を意味します。十戒の中に「汝殺すなかれ」という掟があります。イエス様が教えたように、実際に人を殺さなくても、心の中で相手を憎んだら同罪なのです。人を傷つけることを行いや言葉に出してしまうことだけでなく、心の中でそのような思いを持つことも神の意思に反するのです。このように十戒の掟は、外見上守れたら神に認められるというものではなく、人間が内面的にも神の意思に反する存在であることを暴露する鏡なのです。
人間はこのような神の意思に反するものを堕罪の時に持つようになってしまいました。そのため、神との結びつきを失ってこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世から別れる時も神との結びつきがないまま別れなければなりません。神はこの不幸な状態から人間を救い出そうとして、御許からひとり子をこの世に送られたのです。このひとり子イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。それは人間が神罰を受けないで済むようにする犠牲の死でした。イエス様は人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されたました。
そこで人間はこれらのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。神のひとり子の犠牲を本当のものとして受け入れたので、神は、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう、と仰るのです。こうして神から罪を赦された者は神との結びつきを持てるようになります。そして、永遠の命と復活の体を与えられる復活の日に至る道に置かれ、その道を進むようになります。この道の歩みはいつもバラ色とは限りません。波風猛る時もあります。しかし、神からの罪の赦しで築かれた神との結びつきはどんな時にも波風の時も全く変わらずにあります。この世から別れる時も結びつきを持ったままった別れられ、復活の日が来ると目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。
ところで、神との結びつきを持てるようになる前の人間は、罪と結びついていたので罪の支配下にありました。それをそのままにしておくと、人間はこの世から別れる時、神との結びつきはなく、復活も神の国への迎え入れもなくなってしまいます。イエス様の犠牲の死は、文字通り人間を罪の支配から解放して神との結びつきに入れるようにする救いの業でした。だから、イエス様が捧げた命は人間を罪の支配から解放する身代金だったのです。神と結びつきを持って生きられるようになったというのは、神のひとり子の命を代価として罪の支配から神のもとに買い戻されたということです。この犠牲を伴う「買い戻し」のことを、宗教的な言葉で「贖う」と言います。イエス様はこの私を罪の支配から神のもとへと贖って下さった。「贖う」の代わりに、イエス様は自分の命を代償として私を神のもとへ買い戻して下さった、と言っても同じです。ただし、「罪を贖う」と言わないように注意しましょう。贖うのは人間です。神が人間を罪から贖う、買い戻すのです。反対に、罪は償うものです。人間を贖うのに、罪を贖うと言ったら、神は罪を買い戻すことになってしまいます。神は罪なんか買い戻したくありません。買い戻したいのは人間です。
人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神に贖われた者、罪の支配から解放された者になります。そうするとキリスト信仰者は罪のない無つみの者になったのかというとそうではありません。信仰者になっても、神の意思に反するものが自分に残っていることに何度も気づかされます。それじゃ、キリスト信仰者になっても何の意味もないじゃないかと言われるかもしれません。しかし、そうではないのです。神聖な神のひとり子の尊い犠牲をもって罪を償ってもらったので、今度は罪に背を向けて生きるようになります。罪は忌まわしいもので間違っているとわかり、それに迎合しないように生きようとします。自分の内に神の意思に反するものが出てきてしまったら、慌てずに心の目をゴルゴタの十字架に向け、そこに罪の赦しが打ち立てられていることを確認します。神聖なひとり子の犠牲の上に今の自分があるとわかれば、もう軽率なこと愚かなことはすまいと心の襟を正します。これがパウロがローマ8章で言う、聖霊の力で肉の業を日々死なせるということです。まさに霊的な戦いです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神は私たちが罪の赦しという神のお恵みに留まって生きていたことを認めて義とされ、御国に迎え入れて下さるのです。私たちが完全に無つみになれたから義とされるのではありません。無つみに向かう道を恵みに留まって踏み外さずに歩んだことを義とされるのです。
終わりに、仕える者になれというイエス様の命令についてひと言。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人は復活と神の国に至る道に置かれて今それを歩んでいます。その道を歩む者はお互いに仕え合うようにして歩まなければならないということです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言います。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛に欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さると教えます。
この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。
信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国に向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、それも支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない。きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そういうふうに考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのが決まっています。それ位、イエス様に背負ってもらっておきながら他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。
以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかです。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるようにとひとり子を贈られたのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教2024年10月13日 聖霊降臨後第21主日
聖書日課 アモス5章6-7,10-15節、ヘブライ4章12―16節、マルコ10章17-31節
本日の福音書の個所のイエス様の教えには難しいことが二つあります。一つは、金持ちが神の国に入れるのは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しいと言っていることです。ああ、イエス様は、金持ちは神の国に入ることはできない、と言っているんだな、と。じゃ、貧乏人ならできるのかと言うと、そうでもないことが弟子たちの反応からうかがえます。金持ちが神の国に入るのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しいのだったら、いったい誰が救われるのだろうか?と。つまり、金持ちでさえダメなんだからみんな無理だという反応です。しかし、イエス様は人間には不可能でも神には不可能ではないと言われます。ということは、神の国に入れることを神が可能にしてくれるということです。神はどのようにそうするのか?後ほど見ていきます。
もう一つの難しい教えは、イエス様が親兄弟家財を捨てないと永遠の命を持てないぞと言っているように見えることです。なんだか危ない宗教団体のように聞こえます。それだけではありません。十戒の第四の掟「汝、父母を敬え」はどうなるのか?家財はともかく親兄弟を捨てよなどとは「父母を敬え」に反するのではないか?しかし、イエス様の教えには反社会的なことも矛盾もないのです。このことも後ほど見ていきましょう。
まず、「神の国」とか「永遠の命」とは何かを確認しなければなりません。意味をあいまいにしたまま話をするととんでもない方向に話は行ってしまいます。最近のキリスト教会では、「神の国」や「永遠の命」は将来本当に起こることではなく、キリスト信仰者が心の中で描く像のようなものだ、とか、この世の何か大切なものを象徴して言っているだけだ、などと教えるところもあります。しかし、このスオミ教会で私はイエス様やパウロが教える通りに、将来本当に起こることとして教えていきますので、ご了承ください。
男の人は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか?と聞きました。「永遠の命」と聞くと、普通は死なないこと、不死を思い浮かべます。この世で何百歳、何千歳になっても死なないで生き続けることです。ところが、聖書で言われる「永遠の命」は不死とは違います。なぜなら、それは一度この世で死ぬことを前提としているからです。だから、不死ではないのです。キリスト信仰では、いつか将来今のこの世が終わって新しい天と地が再創造される日が来る、その時すでに死んで眠りについていた人たちが起こされて、神から義(よし)と見なされた者は復活の体という、神の栄光を映し出す体を着せられて創造主の神の御許に永遠に迎え入れられる、そういう復活の信仰があります。このように復活を遂げて神の御許に迎え入れられて永遠に生きる命が「永遠の命」です。
復活した者たちが迎え入れられる神の御許が「神の国」です。そこはどんなところかは聖書に言われています。まず、盛大な結婚式の祝宴に例えられます(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)。これは、この世の労苦が完全に労われるところということです。また、「全ての涙が拭われる」ところとも言われます(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ25章8節)。「全て」ですから、痛みの涙も無念の涙も全部含まれます。この世で被った不正義や悪が神の手で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ12章19節、イザヤ35章4節、箴言25章21節)。もう復讐心に引き回される苦しみも泣き寝入りの辛さも遠い世界になるところです。さらに、フィンランドの教会の葬儀ではいつも「復活の日の再会の希望」が言われます。つまり、「神の国」は懐かしい人たちとの再会の場所であるということです。
復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では「神の国」とか「天の御国」とか「天国」と言います。そういうわけで、永遠の命を受け継ぐいうのは復活させられて永遠に「神の国」に迎え入れられることです。
さて男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきかと聞きました。男の人はお金持ちだったので、永遠の命も何か正当な権利があれば所有できる財産か遺産のように考えたのでしょう。何をしたらその権利を取得できるのか?十戒の掟も若い時からしっかり守ってきました、もし他にすべきことがあれば、おっしゃって下さい、それも守ってみせます、と迫ったのです。これに対してイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればお前は天国に宝を持つことになる/持つことができる(εξεις未来形)。それから私に従って来なさい」と。「天国に宝を持つ」とは、まさに永遠の命をもって神の国に迎え入れられることを意味します。地上の富と対比させるために永遠の命を天国の宝と言ったのでした。
男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の富を取るかの選択に追い込まれてしまいました。一見するとこれは、人間というのは天国の宝という目に見えないものよりも目に見え手にすることができる地上の富に心が傾いてしまうものだ、という宗教・文化を問わずどこにでもありそうな教訓話に聞こえます。しかし、ここにはキリスト信仰ならではのもっと深い意味があります。それを見てみましょう。
まず、この男の人は私利私欲で富を蓄えた人ではありませんでした。イエス様のもとに走り寄ってきて跪きました。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるために何をしなければならないのですか、本当に知りたいのです、と真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守っています、と。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというよりは、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきました、という信仰の証しです。イエス様もそれを理解しました。新共同訳には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてあります。「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」とは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていました。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しだったのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。
それでは、この男の人の問題は一体なんだったのでしょうか?それは、神の掟を守りながら財産を築き上げたという経歴があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美とか祝福と考えるようになることがあります。それで弟子たちが驚きの声をあげたことも理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それほど祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころかディノザウルスが針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさいというイエス様の命令は、今まで神の祝福の現れと思われていた財産が永遠の命に直結しないことを思い知らせるショック療法でした。永遠の命は、人間の力や努力で獲得できるものではないということを金持ちにも弟子たちにも思い知らせたのでした。
それでは、永遠の命を得て神の国に迎え入れられるのはどうやって可能でしょうか?イエス様は言われます。人間には不可能だが神には不可能ではない、と。つまり、人間の力で出来ないのなら、神が出来るようにしてあげようということです。どのようにして出来るようにするのでしょうか?
神はそれをイエス様の十字架と復活の業をもって出来るようにしました。人間が持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、すなわち罪が人間の神の国への迎え入れを不可能にしている、その罪の壁を打ち破るためにイエス様は身を投じたのです!それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。人間は、イエス様の身代わりの死は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けるとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになります。罪を償われたら神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦してもらったから、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しという神のお恵みの中にとどまっている限り、この結びつきはなくなりません。結びつきがあるおかげで逆境の時も順境の時も全く変わらない神の守りと導きを受けて生きることができます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、復活したイエス様と同じように神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。この大いなる救いは人間が成し遂げるものではなく、神がひとり子を用いて人間のために成し遂げたものです。人間はただそれを信じて受け取るだけでいいのです。そういうわけで、人間の力では不可能だった「永遠の命」の受け継ぎと「神の国」への迎え入れは、神の力で可能になったのです。本当に神にしか出来ないことでした。だからイエス様は、神が唯一の善い方であると言われたのです。
しかしながら、この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、人間には不可能でも神には不可能でないと言われても、まだ理解できません。ペトロの言葉はまだ理解できていないことを示しています。イエス様、あなたは金持ちの男に対して、全てを捨てて貧しい人に施せば永遠の命を得られると言われました。その人は捨てられませんでしたが、私たちは全てを捨ててあなたに従ってきました。それならば、私たちは永遠の命を得られるのでしょうか?という具合です。これに対してイエス様は、私のため福音のために親兄弟家財を捨てる者は永遠の命を得ると言ったことになっています(新共同訳では)。これだと、ペトロたちは得られると言っていることになります。しかし、それだと永遠の命も結局は、人間がエイヤー!と気合を入れて親兄弟家財を捨てたら得られるものになってしまいます。人間の力が決め手になってしまいます。これでは人間に不可能なことではなくなってしまいます。話が滅茶苦茶になります。
この混乱は問題の個所のギリシャ語の原文が少し複雑なために起きます。二重否定があったりして少し厄介な原文ですが、素直に訳すと次のような流れになります。ペトロが、私たちは全てを捨ててイエス様に従いました、私たちは永遠の命は大丈夫でしょうか?と聞きます。それに対してイエス様は次のように答えたのです。「もしこの世で捨てたものを100倍にできず、次の世で永遠の命も得られないのなら、この世で私と福音のために親兄弟家財を捨てたことにならない。」つまり、もしこの世で捨てたものを100倍にできて、次の世で永遠の命も得られるのなら、この世で親兄弟家財を捨てることになる、というのです。この世で100倍のものを得て次の世で永遠の命を得ることが先で、その次に親兄弟家財を捨てることが来るというのです。普通は逆に考えます。親兄弟家族を捨てたら100と永遠の命が来ると。ご褒美だからです。しかし、原文の素直な訳はその逆で、先に100と永遠の命を得ないと、親兄弟家財を捨てることもないと。本日の福音書の個所の最後のところでイエス様は、後のものが先になり先のものが後になる、と順序が逆転することを言っていますが、それと見事にかみ合うのです!(素直な訳がどうしてこのようになるかについて、本説教のテキストの終わりに解説をつけて教会ホームーページに載せます。興味ある方はご覧下さい。)
ペトロは、私たちは全てを捨てました、永遠の命は大丈夫ですか、と聞いたのに対して、イエス様は、先に永遠の命を得ないと捨てたことにならないと応じました。それでは、どのようにして先に100倍と永遠の命を得られるのか?言うまでもなくそれは、十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとそうなるのです。神と結びつきを持って生きられるようになることが、捨てたものを100倍にして得られることです!この結びつきを持って生きる者に永遠の命が約束されているのです。それでは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者は本当に親兄弟家財を捨てているのでしょうか?ここで宗教改革のルターに登場してもらいます。ルターが問題の個所を素直な訳で考えていることは明らかです。
ルターは、親兄弟家財を持っていてもイエス様を救い主と信じる信仰と衝突しない限り持っていいのだ、律法の掟に従って父母を敬い、財産を隣人のために役立てよと教えます。ただし、持つことと信仰が衝突して、どっちかを選ばなければならなくなったら親兄弟家財を捨てるのだ、と言います。この心構えを持っていれば、衝突がない時でも既に「心で捨てている」ことになると言うのです。「捨てる」とは「心で捨てている」ということなのです。「心で捨てる」なんて言うとなんだか真心がこもっていない冷たい感じがします。しかし、そうではないのです。先週の説教でもお教えしたように、親兄弟家財は全て神から世話しなさい守りなさい正しく用いなさいと託された贈り物です。贈り主がそう言って贈った以上は感謝して受け取って一生懸命に世話し守らなければならない。肝心なことは、贈り主が贈り物よりも上にあるということです。これが「心で捨てる」ことです。もし、贈り物が贈り主を捨てろと言ってきたら、信仰者は贈り物を捨てなければならないのです。
それでは、もし贈り主と贈り物が衝突したらどうなるでしょうか?もし肉親がキリスト信仰に反対して捨てろと言ってきたら、どうしたらいいのか?もう心の中ではなくて文字通り捨てて家を出るということになるのでしょうか?イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども身の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思います。現代の日本ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んで永遠の命と神の国への道を歩んでいれば、それに反対する肉親を心で捨てているということは起きています。ただ、同じ屋根の下にいて「心で捨てている」などと言うと、何か冷え切った人間関係の感じがします。しかし、信仰者の側ではそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。
これは以前にもお話したことですが、私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次の質問したことがあります。「もし親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり信仰をやめさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても取り乱さずに落ち着いて自分の立場を相手にも自分にもはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられるという事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち取れるかもしれない。場合によっては親に信仰の道が開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に自分の思いと願いを打ち明け祈りなさい」。使徒パウロはローマ12章の中で、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は高ぶることや偉ぶることと無縁であると教えます。使徒ペトロは第一ペトロ3章の中で、キリスト信仰の希望について説明を要求されたら穏やかに敬意をもって正しい良心で弁明しなさいと教えています。誠にその通りです。
問題となっているマルコ10章29~30節
ουδεις εστιν ος αφηκεν οικιαν η αδελφους η αδελφας η μητερα η πατερα η τεκνα η αγρους ενεκεν εμου και ενεκεν ευαγγελιου,
εαν μη λαβη εκατονταπλασιονα νυν εν τω καιρω τουτω οικιας και αδελφους και αδελφας και μητερας και τεκνα και αγρους μετα διωγμων, και εν τω αιωνι τω ερχομενω ζωην αιωνιον.
1)素直な解釈は、主節文をουδεις εστιν (…)του ευαγγελιουまでとして、εαν 以下は英語のifの文と同じように考えます。
「親兄弟家族を私と福音のために捨てた者はいない、もし(捨てたものを)この世で100倍にして得ず、次の世で永遠の命を得ないのならば。」
この解釈だと、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼で永遠の命を先に得たのなら、親兄弟家財という贈り物はいつでも捨てられる、心で捨てている、ということになります。ルターはここをこのように解釈したのではないかと思います。
2)親兄弟家財を捨てたら永遠の命を得るという理解は、εαν 以下を関係節ος αφηκεν (…) の中に含めてος(αφηκεν …)εαω μη λαβη (…) と見なす解釈ではないかと思います。
「親兄弟家財を私と福音のために捨てて、それらをこの世で迫害は伴うが100倍にして得ない者、次の世で永遠の命を得ない者は誰もいない。」
これだと、捨てないと得られないということになり捨てないといけないというプレッシャーがかかります。
2024年10月6日 聖霊降臨後第二十主日 主日礼拝説教
聖書日課 創世記2章18~24節、ヘブライ1章1~4節、2章5~12節、マルコ10章2~16節
ファリサイ派の人たちがまたもやイエス様を窮地に追い込んでやろうと質問してきました。今回はモーセの律法集の中にある規定の一つで、夫が妻に離縁状を書いて別れてもいいという規定についてです。申命記24章1節にあります。別の所でイエス様は、不倫以外の理由で妻と別れたら、その妻を姦通の標的にしてしまうとか、夫と別れた女性と結婚する者は姦通の罪を犯すことになると教えていました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは広く知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか?申命記24章1節で言われていることは、妻に何か恥ずべきことがあって夫が気に入らなくなったら離縁状を書いて追い出していいと言っている、なのにこのイエスは神の掟をいたずらに厳しく解釈して人々を不安に陥れている。神の掟とイエスの教えが食い違っていることを公衆の面前でさらけ出してやろう、そういう魂胆でした。
これから見ていくイエス様の答えは、いかに私たち人間は神の創造の秩序を深く考えないで、自分たちの思いを優先させてきたかを思い知らせるものでした。思い知らされた私たちは、どうすればいいのかと心配になります。イエス様の目的は私たちを心配させることではなく、私たちの心が彼の十字架と復活の業に向くようにすることでした。今日はそのことを見ていきましょう。
妻と別れてもいいのかと聞かれてイエス様は、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。別れてもいいという根拠はここにあるのだと。そこでイエス様は神の意思を明らかにします。律法に離縁状の規定があって離婚を認めているのは、人間の心がかたくなになっていることを神が考慮した結果なのだと。新共同訳では「心が頑固」と言いますが、「頑固」だと何だか頑固おやじみたいで、ちょっと微笑ましくもあり、あまり深刻な感じがしなくなってしまいます。ギリシャ語のσκληροκαρδιαは「心がかたくなな状態」という意味で、とても深刻な状態を意味します。どう深刻かと言うと、イザヤ書6章10節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下すと宣言した時、民の心を一層「かたくなにせよ」と言いました。それは、神の御言葉や業を見たり聞いたりできなくなるようにするということでした。それで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになることで、神に背を向けて神の御心を知ろうともわかろうともしない状態のことを言います。
それでは、結婚に関して何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそうなのかというと、神の創造の秩序がそうだからと言うのです。では、神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれているギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言います。結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した父と母から離れて父と母がそうであったように一緒になることです。その一緒というのは神の目からすれば合体と言ってもいいくらいの結びつきです。それが神の意思であり、それに基づいて結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。
それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?そこが問題の核心でした。それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間にあるからだ、とイエス様は言います。そのために神の御心を知ろうともわかろうともせず、その結果、安易な理由で別れたり、または相手を裏切って別の相手と一緒になるということが起こる。申命記24章1節の離縁状の条件は、「伴侶に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時」でした。この「恥ずべきこと」というのはヘブライ語でエルヴァト ダーバールと言いますが、「性的に不適切なこと」という意味です。いろんなふうに解釈される可能性があります。しかし、イエス様は、これを伴侶に対する裏切り、つまり不倫の1点に絞ったのです。そのようなことが起これば離縁状はやむを得ないと言うのです。そういうことがないのに伴侶のここが気に入らないとか、ましてや別の相手と結ばれたいというのが本心で嘘の離縁状を書いてはいけないと言うのです。神の創造の秩序を損なうようなことが相手側に起きてしまった時にやむを得ないものとして認められると。ところで、創造の秩序を損なうことは、伴侶を裏切ることの他に、DVのような伴侶に命の危険をもたらす事態も入れてよいと思います。十戒の第5の掟から明らかなように、命の危険をもたらす事態は神の意思に反するものだからです。そういう重大なこともないのに別れるのは、神の創造の秩序を損なうことになるのです。
ここで私たちは一つ大事なことに気がつかなければなりません。それは、人間の心からかたくなさが取れて、神に背を向けた生き方をやめよう、神の意思をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?
そのような心を持てるために私たちキリスト信仰者は、創造主の神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを思い返します。ひとり子のイエス様は十字架の死を遂げることで、私の神の意思に反しようとする性向、罪を神に対して償って下さいました。人間は、この神のひとり子の身代わりの死は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。罪を償ってもらったら、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから、神と揺るがない結びつきをもってこの世を生きられるようになります。この結びつきはひとり子を犠牲にして神が与えて下さったものです。ちょっとやそっとのことで切れるものではありません。人生の中で「死の陰の谷」と言われるような苦難や困難の時が来ても、神が私たちと共に歩んで下さることが本当のことになります。この世から別れる時も結びつきを持って別れます。そして、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せられて、永遠に神の国に迎え入れられます。今日の福音書の日課の終わりでイエス様は、子供のように神の国を受け入れないとそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちはどのように受け入れたのでしょうか?イエス様の元に行くことが神の国の受け入れでした。私たちにとって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることがイエス様のもとに行くことです。
イエス様のおかげで自分は神から罪の赦しの恵みを受けて生きられるようになったとわかった人は、パウロがローマ12章の中で言うような心と態度を持つようになります。他人に対してへりくだる、高ぶらない、悪に対して悪で返さない、善を持って悪に勝つ、喜ぶ者と喜び、泣く者と泣く、少なくとも自分の方からは全ての人と平和な関係を保つようにする、自分で復讐しない、神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる等々。このような心と態度は、そうしないと神に認めてもらえないぞ、というような脅かしではなく、イエス様のおかげで先に神に認められてしまったからこのような心と態度が続いてくるのだ、それを忘れるなというとても重い注意喚起です。
そうは言っても、未熟さや力不足で人間関係、夫婦関係で火花が散ってしまうこともあります。そんな時はいつもゴルゴタの十字架に立ち返ります。そこは、赦すことが自分にとっても相手にとっても大事だとわかるところです。私たちは自分が受けた大いなる赦しを、いつも思い出さなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。自分への言い聞かせは、聖書の御言葉の宣べ伝えを聞いたり(ちょうど今みなさんされているように)、自分で聖書を繙いて罪の赦しの恵みが自分の内に根付くように祈ることです。そして、私たちキリスト信仰者には聖餐式があります。それは、洗礼の時に注がれたこの恵みが自分の内に一層根付くようにする恵みの手段です。
イエス様は離婚はいけないと言うだけでなく、離婚した後の再婚は姦通、姦淫になるなどと驚くべきことも言われます。日本語の「姦淫」とか「姦通」と言う言葉は、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語ではとても単純明快でずばり「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉です(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の言葉はadulteryで、英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、「不倫」です。
離婚後の再婚を姦淫と言うのは少し言い過ぎではないかと言いたくなります。正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのでは?しかし、イエス様はそうは見ない。なぜでしょうか?それは、先ほど見た神の創造の秩序があるからです。
男性と女性がそれぞれ生まれ出てきた父と母のもとを離れて神が結びつけて一つの肉になる、これが結婚です。そこに外部のものが入ってきて神がせっかく結びつけたものを壊してしまうのが姦淫です。しかし、離婚の場合は結びつきを解消したのだから再婚しても姦淫にならないのではと思われるのですが、イエス様はそうだと言われる。それは、一度一つになったら人間の目では別々になっても、神の目から見たら、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は原則消せないということのようです。つまり、神が結びつけたものは神の記録に記される、人間が解消できたと言ったら、自分には神の結びつけの力よりも強い力があると言うことになります。これは、神は認めないでしょう。離婚の後の再婚をイエス様が姦淫と言うのは、神の記録に記されたことを人間は無効に出来ないということの裏返しです。
しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の厳しい教えを守っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと言われます。それを神の意志に反するなどと言われてはたまらない、そんな神は相手になんかしないという気持ちを引き起こします。あるいは、自分の信じたい神様はそんな偏狭な方ではない、もっと物わかりのいい方だ、と自分都合の神を持ち出してしまうかもしれません。どっちにしても創造主の神に対し心をかたくなにすることです。どうしたらよいでしょうか?
イエス様は、人間にとっての「新しい出会い」、「人生の再出発」は神の意志に反することだと言われる。他にも心の中で描いただけでも罪だなどと言われる。そこまで厳しいことを沢山言って、人々を後ろめたい気持ちにさせて、イエス様は偉そうにふんぞり返っていたでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は人間が持つ神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべての面で神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間が神との結びつきを持てなくなってしまった状態を変えようとして身を投じたのです!それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けて人間が受けないで済むようにして下さったのです。
イエス様を救い主と信じる心には神から罪の赦しの恵みが注がれています。イエス様のことも神の意思についても何も知らずに新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みを受けて生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神との結びつきを持てて神の守りと導きの中で生きられるようにしようと、ひとり子を惜しまなかった神の愛です。私たちがしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を犠牲にしなければならないほどの重大なことだったとわかれば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きるか、行うか、考えるか、言葉にするか、全てにおいて神に背を向けず、神の方を向いてするようになります。そうすれば神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しに相応しいものに変えられるはずです。
最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚の結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ19章12節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。
使徒パウロは未婚者とやもめに対して結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います(第一コリント7章)。そうかと思えば、結婚しても罪を犯すことにはならない、してもいい、とも言います。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、もうすぐ最後の審判や死者の復活が起きる、そういう緊迫した雰囲気が当時のキリスト信仰者の間で強くありました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちました。今ある天と地はまだそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではありません。イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ24章14節など)。
それでも、キリスト信仰者はイエス様が命じるように(マタイ24章44節など)いつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは何か矛盾があるように感じます。この世の終わりが来ると言うのに何の意味があるのかと。その場合は、ルターのように考えます。家族とか伴侶とか子供というものは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って忠実に世話し守り愛し育てる。もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は有限とわかればとても大事なものとわかります。贈られたものと一緒にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そして、キリスト信仰は「復活の日の再会の希望」を持つ信仰です。終末と復活が裏表になっていることがわかれば、有限でもこの世で愛情を注ぐべきものがあることは素晴らしいことだとわかります。
2024年9月29日 聖霊降臨後第十九主日 主日礼拝説教
民数記11章4~6、10~16、24~29節、ヤコブ5章13節~20節、マルコ9章38~50節
今日の福音書の日課には二つの異なるテーマがあります。一つは、38節から40節まで、キリスト信仰者ではなくてもキリスト信仰に好意的肯定的な態度を取る人のことを神はどう見るかという問題です。
イエス様の弟子グループに入っていない人がイエス様の名前を使って奇跡の業を行っていました。弟子たちは、グループに入っていないのだからやめさせるべきと考えましたが、イエス様はやめさせるべきではないと。イエス様グループに反対しない者はグループの側に立っている、つまりキリスト信仰に反対しない者は信仰の側に立っているというふうに聞こえます。
さらに40節では、イエス様の弟子たちに水一杯を飲ませる者は神から報いがあると言います。相手がキリスト信仰者だという理由で飲ませる、と言っていることに注目します。キリスト信仰者に助けの手を差し伸べるのが何か問題になる状況が前提されています。言うまでもなく、迫害の状況です。困っているキリスト信仰者を助ける方は困っていないので迫害を受けていない、ということはキリスト信仰者でない人です。キリスト信仰者でない人があの人はキリスト信仰者だとわかって助けると報いがある。報いというのは、善いことをしたら、ご褒美に何かいいことがあるというようなこの世的ご利益ではありません。マタイ5章11節で「天には大きな報いがある」と言っているように、「報い」とは、将来、天の御国、神の国に迎え入れられることです。さて、キリスト信仰者でなくても信仰者を助けたらそれで天国に入れるということになります。そうなると、イエス様を救い主と信じる信仰以外にも道があることになります。本当にそうなのでしょうか?このことを後で見ていきます。
もう一つのテーマは41節から50節まで。信仰を躓かせるもの、つまりキリスト信仰者を神の意思に反するように導いてしまうものがあることについてです。そういう者は重石を抱き合わせにして海に投げ込んでこの世から消してしまうのがいい、その方が信仰者が神の意思に反するようになるよりもはるかによい、と言います。しかし、実際にはそういう海への投げ込みは起こりません。イエス様は、ただ、その方がましだ、と言っているだけです。海に投げ込まれた方がよさそうな者たちが大手を振っているのがこの世の現実です。なので、キリスト信仰者はそういう者と手を合わせて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わなければなりません。イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは
り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。とても極端なことを言っているように聞こえます。果たして私たちキリスト信仰者は、体の部分を切り取らずに五体満足の状態で天の御国に迎え入れられることができるのでしょうか?このことも後で考えてみます。日課の最後は塩について言われています。キリスト信仰者が神の意思に反しようとするものと戦うこと、これが、自分の内に塩を持っているということです。このことも説教の終わりで見ていきます。
イエス様の弟子のグループに入っていない人がイエス様の名前を使って悪霊を追い出していました。弟子たちはやめさせようとしましたが、イエス様はそのままにしておいてよいと言われました。その理由は、「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい」でした。これは、どういう意味でしょうか?直ぐ後でイエス様の悪口は言わないということは、一時したら言うようになるということなのか?イエス様はそれでもいいと言っているのか?ここのギリシャ語の原文はとても微妙です。可能性を表す助動詞の未来形がさりげなく使われているからです。この助動詞がある場合とない場合でどう意味が異なるかを考えながら、この個所を何十回も読み返してみました(後注)。恐らく次のようなことではないかと考えるに至りました。「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で私の悪口を言う可能性はない。」つまり、すぐ後で悪口を言う可能性はないが、一時したら言う可能性がある。言う可能性があるということは、言わない可能性もある。つまり、一時したら必ず悪口を言うようになるとは限らない。悪口を言わないまま続く場合もあるということです。イエス様の反対者になる可能性はあるが、イエス様と一緒になる可能性もあるということです。
イエス様の反対者になる可能性としてどういう場合が考えられるでしょうか?神は何らかの理由で弟子でなくてもイエス様の名前を出したら奇跡を起こさせることをされました。しかし、神はそれをやめさせることも出来るのです。やめさせられたらその人はイエス様に背を向けるようになるでしょう。いつ神はやめさせるでしょうか?それは、その人がいい気になって、自分が何か言えば全部イエスは聞き従ってくれると錯覚するようになった時です。
実際、イエス様の名前を出しても、奇跡が起きないという事例が使徒言行録19章にあります。ユダヤ人の祈祷師たちが悪霊に取りつかれている人に「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言いました。すると、悪霊は次のように言い返したのです。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして悪霊に取りつかれた人が祈祷師たちに襲い掛かったのです。イエス様を救い主と信じる信仰がなければ、イエス様の名前を出しても効果はなく、逆に危険なのです。
イエス様に属していなくても彼の名前を使って奇跡を起こした人が反対者にならないでイエス様に属するようになるというのは、どういう場合でしょうか?それは、その人がイエス様の名前を使うと神の力が働くのを目の当たりにして、この名前の持ち主は一体どんな方なのだろうと真面目に考えるようになることです。その方は十字架と復活の業を遂げた救い主であるとわかって、イエス様を救い主と信じるようになることです。神がどういうわけかこの私を選んで奇跡の業を起こさせたことに対して畏れ多い気持ちになって信仰に入ったということです。このようなプロセスに入らないで、ただイエス様の名前を使って奇跡を行い続けることは神の意図するところではありません。遅かれ早かれ打ち切られるでしょう。
以上は、イエス様に属する者ではなかったが、属するようになる可能性があることについてでした。次に、キリスト信仰者でなくても、信仰者が困っている時に助けてあげると天の御国に迎え入れられるということについて見てみます。17世紀の日本のキリシタン迫害の歴史を見るまでもなく、迫害というのはいつも恐ろしい位に徹底していています。キリスト教徒や宣教師を匿ったり世話をしたことが発覚したら、キリスト教徒でなくても全く同じ拷問を受けます。こういうふうに迫害というのは、水一杯を飲ませることさえ命にかかわることなのです。それにもかかわらず、相手がキリスト信仰者だとわかって、命にかかわるとわかって助けてあげるというのは、天の御国に迎え入れられるという報いに値するのだと言う。これは、善い業を行ったらキリスト信仰者でなくても救われるということなのでしょうか?私たちルター派の場合、救いは善い業に基づかない、救いを果たしたイエス様を救い主と信じる信仰に基づく、それとイエス様がもたらした救いを洗礼を通して自分に注ぎ込むことに基づくということを強調します。この考え方とどうかみ合うでしょうか?
この問題で一つ思い出したことは、ルカ福音書23章でイエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられた時、犯罪人の一人が神を畏れてイエス様を救い主と信じる言葉を口にしたことです。これを聞いたイエス様はその人も神の国に迎え入れられると告げました。信仰を告白することが神の国という報いと結びついているのです。そこでキリスト信仰者でない人が自分に降りかかる危険を顧みずに信仰者を助けるというのは、どういうことか考えてみます。イエス様はそれが神の国の報いと結びつくと言っています。つまり、神はこの助ける業を信仰の告白と同等に見なされるのです。ここで注意すべきことは、信仰を告白することは、救いを得るためにする業ではないということです。イエス様を救い主と信じます、なぜならイエス様は罪がもたらす滅びから私を救って下さったからです、私に救いを与えて下さったからです、それで信じますというのが信仰の告白です。救いを得るためにする業ではありません。救いを得たからする業なのです。ルカの犯罪人は、イエス様は罪がもたらす滅びから救い出してくれる唯一の方だと信じ、それ以外のことは見えなくなったのでした。マルコの危険を顧みないでキリスト信仰者を助けることは、真に恐れるべきものは創造主の神であって、迫害を行う権力者やそれに加担する社会ではないということがわかったということです。迫害を受けているキリスト信仰者を見て、神こそが真に恐れるべき方だとわかる、それで助けることは信仰の告白になるのです。それでこの助けは人道支援ともヒューマニズムとも違うものなのです。
ここで少し脇道に逸れますが、マタイ12章30節でイエス様は、私の側についていない者は私に反対している、私と一緒に集めない者は散らしていると言い、イエス様と一緒にいない者を反対者扱いします。この言葉は、イエス様が悪霊を追い出している時に、イエス様に反対するファリサイ派の人たちが、あいつは悪霊の頭の力を使って追い出していると中傷した時の反論です。今日のマルコのイエス様の名前を使って悪霊を追い出している人の場合は、キリスト信仰に入る前の段階のことで、イエス様はその人が信仰に入る可能性があることを言っていました。マタイの場合は、イエス様が言うように、ファリサイ派は聖霊を冒涜しています。既にこの時点でイエス様に背を向けてしまっているのです。それで、厳しい言い方になったのでしょう。
次に信仰に躓きを与えるもの、神の意思に反しようとさせるものとどう戦うかについて。最初に申し上げたように、この世は神の意思に反するように導く力が沢山働いています。それなので、キリスト信仰者はそういう力と結びついて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わないといけないのです。どう戦えばいいのでしょうか?イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは切り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。しかし、汚れた部分は切り取って残ったきれいな部分だけで天の御国に行くことは可能でしょうか?それは不可能です。なぜなら、人間は全身全霊が神の意思に反するもの、罪に染まってしまっているというのが聖書の立場だからです。いちいち切り取っていたら、何もなくなってしまう位に染まってしまっているのです。イエス様もそのことはわかっています。人間は自分の力で救いを得ることは出来ないということをイエス様はこの極端な言い方で教えているのです。私たちは救いのために自分の力では何もできないと思い知ります。
だから、父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。私たちが罪の罰を受けないで済むようにひとり子に罪を負わせて代わりに罰を受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。しかもそれで終わらず今度はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。私たちがこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、イエス様が打ち立てた罪の償いと罪の赦しを自分のものにすることができます。そして永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきの中で歩むようになります。この世にある限り、肉を纏う私たちの内にはまだ罪が残りますが、そんなのおかまいなしに、洗礼を通してイエス様の無罪(むつみ)、神聖さ、義を衣のように頭から被せられます。この神聖な衣をはぎ取られないように、しっかり掴んで歩むのがキリスト信仰者の人生です。この衣を手離さないでしっかり纏い続けることが、罪に反対して生きていることの証になります。たとえ、神の意思に反することが出てきてしまっても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、あそこに罪の赦しがあるとわかります。あの方のおかげで体の部分を切り取らなくてよいと安心し、感謝に満たされます。このように罪の赦しという神の恵みに留まることが出来れば、罪の鋭い棘はどんどん鈍くなっていきます。まさにイエス様の神聖な衣を被せられて、その重みで罪を圧縮していくのです。イエス様の神聖な衣をしっかり纏っている限り、私たちは何も切り取る必要はなく、五体満足で天の御国に迎え入れられるのです。
本日の日課の終わりのところで塩について言われていました。「火で塩味をつけられる」というのは、その前にある地獄の火とは全く異なる火です。人が塩を持てるようにする火です。その塩を持てれば互いに平和に過ごすのが当然になると言うのです。塩は何を意味するのでしょうか?パウロは「ローマの信徒への手紙」の中で、キリスト信仰者とはイエス様を救い主と信じる信仰によって神から義と認められた者、洗礼を通してイエス様の十字架の死と復活に結びつけられて罪に背を向け永遠の命に向かって生きるようになった者であると言います。そのキリスト信仰者がこの世でどういう心と態度を持つようになるかについて同じ手紙の12章で詳しく述べられています。他人に対してへりくだる、高ぶらない、悪に対して悪で返さない、善を持って悪に勝つ、喜ぶ者と喜び、泣く者と泣く、自分で復讐はしない、神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる等々あります。今日の日課の終わりと同じ、全ての人と平和な関係を保てということもあります。そういう心と態度のことです。これらは、キリスト信仰者はしなければ神に認められないと言っているのではなく、神に認められたからこのような心と態度を持つようになるのだ、忘れるなという注意喚起です。こういう心と態度が塩です。火で塩味を付けるというのは、恐らく洗礼を暗示していると考えられます。洗礼者ヨハネは、イエス様は聖霊と火を持って洗礼を授けると予告しました。聖霊降臨の時、弟子たちの上に炎のような舌が分岐して下ったとあります。洗礼を通して、私たちの全身全霊は新しい心と態度を持つように焼き直されたのです。兄弟姉妹の皆さん、私たちにはこの塩が備えられていることを忘れないようにしましょう。
(後注)
原文は以下の通り。可能性を表す助動詞がδυνησεταιあります。
ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και δυνησεται ταχυ κακολογησαι με
原文からこのδυνησεταιを取りのぞいたら次のようになります。
ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και ταχυ κακολογησει με こちらの方が、「奇跡の業を行った直ぐ後でイエス様の悪口を言わないが、一時したら悪口を言う
の意味がはっきりすると思います。原文のようにδυνησεταιがつくとどう違ってくるかということを考えに考え、説教文にあるような見解に達しました。
主日礼拝説教
2024年9月22日 聖霊降臨後第十八主日
聖書日課 エレミヤ11章18~20節、ヤコ3章13節~4章3、7~8a節、マルコ9章30~37節
イエス様と弟子たちの一行はエルサレムに向かって南下する旅をしています。今日の日課の出来事は、一行がガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来た時の話です。少し前にイエス様は自分がエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕らえられて殺される、しかし、三日後に復活すると予告していました。それを聞いて驚いたペトロがそんなことがあってはならないと反対すると、イエス様はペトロを厳しく叱り、お前は神のことを思わず、人間のことを思っている、と言われました。弟子たちにとってイエス様は期待のヒーローでした。イエス様の権威ある教えを聞いて無数の奇跡の業を味わった人たちも思いは同じでした。当時ユダヤ民族はローマ帝国に支配されていたので、いつかそれを打ち倒してかつてのダビデ王の王国を復興させてくれる王の到来を期待していたのです。イエス様に注目が集まったのも無理はありません。
私たちは、メシアという言葉が救世主を意味すると知っています。もともとの意味は「香油を頭に注がれて聖別された者」で、ユダヤ民族の伝統では王様がメシアの代表格でした。それでイエス様の時代、メシアを民族を超えた全人類の救世主と考える向きはほとんどありませんでした。なので、イエス様をメシアと言って担ぎ出してしまうと、ローマ帝国から反乱者と見なされて弾圧されてしまいます。神が定めた救世主の目的を果たすまでは邪魔されてはいけないのです。十字架と復活の出来事が起きる前、なぜイエス様は自分がメシアであることを公けにするのに消極的だった理由がわかります。ガリラヤ地方に来た時、人々に知られたくなかったのも、このように理解できるでしょう。
本日の福音書の個所で、イエス様は再び自分の受難と復活について予告します。弟子たちは恐れて何も言えません。このイエス様の驚くべき予告を聞かされた弟子たちは混乱してしまったようです。これから、ユダヤ民族の将来にとって何か途轍もないことを起こす偉大な方が、自分は殺されてしまう、しかし復活する、などと言われる。これは一体何なんだ?この方は自分たちが考えるような偉大な方ではなかったのか、それともやっぱり偉大な方なのだが、それは自分たちが考えるのとは違う偉大さなのか?それで、誰が偉い者かという議論が起こったと考えられます。
それに対するイエス様の答えはこうでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、子供を真ん中に立たせて抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
これを読んだ人は、ああ、イエス様は、人間謙虚さが大事、高い地位にふんぞり返っている者は偉くもなんともない、自分を低くして他人に仕える者が本当に偉いのだ、と道徳論をぶっていると思うでしょう。子供を受け入れなければならないと言っているは、聞く人によってはイエス様は子供の人権擁護の先駆者だと考える人もいるかもいれません。しかし、そういうことではないのです。聖書とは、キリスト信仰について教える書物であると同時に、読む人をキリスト信仰に導く神の御言葉です。イエス様のことを道徳論者とか人権擁護者に理解する読み方は、別にキリスト信仰がなくても読める読み方です。イエス様を道徳論者とか人権擁護者に仕立て上げると、古今東西無数にいる道徳論者や人権擁護者の一人にすぎなくなります。
私たちキリスト信仰者は聖書をキリスト信仰なしで読むことはしません。信仰をもって読む者です。それで、今日の福音書の個所も、道徳論、人権論とは全く異質なものが見えてくるのです。今日の説教では、この異質なものを明らかにしようと思います。次の3つのことに焦点を当てて明らかにします。一つは、キリスト信仰にとって「仕える」とは何なのか?二つ目は、「わたしの名のために子供を受け入れる」と言う時の「わたしの名のために」とはどんな意味なのか?三つ目は、キリスト信仰にとって「受け入れる」とは何なのか?
イエス様は一番先になりたい者は一番後になりなさいと言い、一番後になるとはみんなに仕えることであると言いました。本当に偉大な者とは人々に仕えられてふんぞり返っている者ではなく、逆に全ての人に仕える者が偉大なのだと。ここで「仕える」とは具体的に何をすることでしょうか?お仕えする相手の要望に聞き従い、お世話をすることでしょうか?召使いのようになることでしょうか?全ての人々に対してそのようなことができるでしょうか?一人や二人だったらできるかもしれませんが、人数が多くなるにつれ難しくなり、全ての人というのは不可能です。
ここで、全ての人に仕えることをしたのはイエス様本人であったことを思い出しましょう。イエス様はどのようにして全ての人に仕えたでしょうか?それは、彼が予告した十字架の死と死からの復活をもってしたのです。どうして、十字架と復活が全ての人に仕えることになるのか?それは、人間が創造主の神に対して、その神聖な意思に反しようとする性向を持ってしまっている(聖書はそれを罪と呼びます)、そのために人間が神との結びつきを失ってしまった、それで人間は神との結びつきを失ったままこの世を生きなければならず、この世を去った後も神のもとに戻ることができない状態になってしまった、この状態から人間を救い出すために神はひとり子のイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせたのでした。人間が持ってしまっている神の意思に反すること、つまり罪の神罰を人間が受けて滅びてしまわないために、イエス様が身代わりになって受けて死なれたのです。これがゴルゴタの十字架の出来事でした。しかし、事はそれで終わらず、創造主の神は今度はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されました。
そこで、今度は人間の方が、これらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、それでその人は神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も結びつきは失われず、復活の日が来るとイエス様と同じように復活させられて神の御許に永遠に戻れるようになったのです。これが、イエス様が全ての人に仕えたということです。
それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者にとって人に仕えるとはどういうことになるでしょうか?イエス様は、罪の赦しの救いを全世界的に打ち立てました。しかし、人間は信仰と洗礼を通してそれを自分のものにしないと、打ち立てられた救いの外側に留まってしまいます。人間の救いを計画した神とそれを実行したひとり子イエス様の願いは、全ての人がこの救いを自分のものにすることです。なので、キリスト信仰者にとって人に仕えるというのは、人々が救いを自分のものにできるように働きかたり、考えたり、祈ることが仕えることになります。まさに神が全ての人に仕えたことを受け継ぐことです。
次にイエス様が子供を受け入れる時に「わたしの名のために」と言っていることに注目します。「私の名のために子供を受け入れる」とはどういうことでしょうか?「~のために」はいろんな意味があります。「合格するために一生懸命勉強する」と言う時は目的とか目標です。イエス様の名前が子供を受け入れる目的、目標になっているというのは意味が通るでしょうか?「悪天候のために遠足は中止です」と言う時は原因とか理由の意味です。イエス様の名前が子供を受け入れる原因とか理由になっているというのも意味が通るでしょうか?「家族のために仕事を頑張る」と言う時は何かに利益をもたらす、何かを支えてあげる意味になります。イエス様の名前は私たち人間が何かをして支えてあげなければならないようなか弱いものでしょうか?このように、日本語で何となくわかったような気分でいたことが、少し突き詰めて見ると実は何を意味しているのかわからなくなることが多くあります。
聖書でそうことが起これば、すかさず原語のテキストを見てみます。ギリシャ語でエピ(επι)という前置詞が使われています。これが「~のために」と訳されているのですが本当でしょうか?エピに続く単語は属格、与格、対格のいずれかの格変化をします。格に応じて意味も変化します。今日の個所のエピには「私の名前」が続きますが、「名前」は与格です(ονομα⇒ονοματι)。古典ギリシャ語の文法書によると(後注1)エピに与格が続くと、まず場所を表す意味や時間を表す意味があります。「私の名前」は場所でも時間でもないので当てはまりません。そこでもう一つ、比喩的な意味というのがあります。その中にもいろいろな選択肢がありますが、それらを見比べて一番当てはまると思われたのは、「~に依拠して」とか「~という条件の下で」という意味です(後注2)。イエス様の名前に依拠して、イエス様の名前という条件の下で子供を受け入れるということ。つまり、子供を受け入れる時、イエス様以外の名前には依拠しない、イエス様以外の名前を条件にしない、他でもないイエス様の名前に依拠して子供を受け入れる、イエス様の名前を条件にして受け入れる。それでは、イエス様の名前に依拠して、その名前を条件にして子供を受け入れるとはどういう受け入れなのでしょうか?
ここでイエス様が成し遂げられた救いを思い出します。イエス様は自分を犠牲に供することで神に対する人間の罪を人間に代わって償って下さいました。人間が神罰から免れて神との結びつきを持てるようになる可能性を打ち立てたのです。さらに、死から復活されたことで死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を人間に切り開かれました。イエス様の名前に依拠して、名前を条件にして子供を受け入れるというのは、まさに子供をイエス様が成し遂げた救いの中に迎え入れるということです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにすることが出来る、永遠の命、復活の命に至る道を歩むことが出来る、子供だからまだ無理だとか、早いとか、そんなことはない、大人のキリスト信仰者はそれをわかって、子供も救いの中に迎え入れなさいということです。
このような教えは、当時のギリシャ・ローマ世界にとって革命的なことでした。というのは、十字架と復活の出来事の後で罪の赦しの福音が地中海世界に宣べ伝えられていきますが、そこは子供や女性の地位が何もないような世界でした。確かに古代ギリシャ・ローマは進んだ文明も持っていましたが、生まれたばかりの赤ちゃんの間引きは日常的に行われていました。最初ユダヤ教がそれに異を唱えました。人間は神に造られた、母親の胎内の時から神に知られているという視点に立っていたからです。キリスト教も同じ視点を受け継ぎました。キリスト教が長い迫害時代の後、ローマ帝国内で地位を確立すると間引きの風習は禁止されました。イエス様は、子供たちにも天使がついていて神の御顔を仰いでいると言われました(マタイ18章10節)。大人についている天使と何ら遜色はないというのです。これも当時の人たちには衝撃的に聞こえたでしょう。
このように「受け入れる」とはイエス様の成し遂げた救いの中に迎え入れることだと言うと、それは別に子供に限ったことではないかと言われるかもしれません。その通りです。イエス様の成し遂げた救いは大人子供関係なく全ての人のために打ち立てられました。それを神はどうぞ受け取って下さいと全ての人に提供して下さっているのです。人はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してそれを受け取ります。救いが「全ての人に」向けられているということを如実に示しているのが、子供を受け入れなさいというということなのです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにできる、永遠の命、復活の命に至る道を歩める、だからイエス様の打ち立てた救いは本当に全ての人に向けられているのです。赤ちゃんや小さな子供の場合は先に洗礼を受けて救いを受け取ります。それから両親と教会が、あなたの受けた洗礼はこういう意味があるんですよ、と教え育てて、イエス様を救い主と信じる信仰を意識化していき、堅信礼へと導いていきます。(世の人はこれを聞いて、子供の人権侵害だと騒ぐかもしれません。宗教2世の問題を引き起こすものだと。悲しい世になってしまいました。)
子供をはじめ救いの外側にいる人たちをその中に迎え入れる者は、もう既にイエス様を受け入れており、イエス様を送られた神を受け入れています。それが、外側にいる人たちを迎え入れることで、イエス様と神を受け入れていることが一層証しされるのです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちも、イエス様が打ち立てた罪の赦しの救いは全ての人に提供されていることを覚えて、まだ受け取っていない人たちが受け取ることができるように働きましょう。とは言っても、今はいろんな宗教団体が社会問題を引き起こす時世ですので、誤解や警戒を生まないように何ができるだろうかと悩んでしまいます。しかし、あなたの信仰について教えてほしいと言う人が出たら、しめたもの、何も遠慮することはありません。ペトロの次の言葉の通りにしなさい。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」(第一ペトロ3章15~16節)。教えてほしいという人がなかなか出なくても、慌てる必要はありません。皆さんが、神と結びつきをもって人生を歩んでさえいれば、順境の時も逆境の時も神から変わらぬ守りと導きを受けているんだという生き方をしていれば、そして将来いつの日か自分もイエス様の復活に与ることになるんだという希望を持っていれば、それを雰囲気を感じ取った人が興味を持って聞いて来るようになるでしょう。
後注1 私が使用している古典ギリシャ語の文法書は、Jerker Blomqvist & Poul Ole Jastrup著の”Grekisk/Grækisk gramatik”です。用いている辞書は、Ivar Heikel & Anton Fridrechsen編の”Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”。
後注2 比喩的な意味の他の選択肢は、~に対する命令、(感情表現の動詞と一緒に)その感情の原因、~しようとする意図・目的。