説教「我ら、使徒言行録の続編を生くる者」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 24章44-53節

主日礼拝説教 2023年5月21日 昇天主日

聖書日課 使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節、ルカ24章44-53節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は創造主の神の計り知れない力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。そして今日は昇天日の直近の主日なので、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、現代を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。今年は使徒言行録の昇天の記述とルカ福音書の記述の両方をよく見比べて、主の昇天が私たちに大いに関係があることをお話ししようと思います。その前に、まず昇天とはどんな現象かということについて、そしてイエス様が上げられた天とはどんなところかについて毎年お教えしていることを復習しておきます。その後でルカ福音書と使徒言行録の記述から、イエス様の昇天と私たちの関係を考えてみます。

2.昇天とはいかなる現象か?

新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。イエス様の昇天を同じようなにイメージしてしまったら、同じように現実にはないものと思われてしまうのではないかと心配します。

ところが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまった印象を与えてしまうと思います。

そうなると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。それを思い出さないといけません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。

ここで聖書を読む人が思い出さなければならないことがあります。それは、天に上げられた時のイエス様の体は既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが沢山ありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかない何かがありました。それから、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物の天使と同じではありません。イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

3.天の御国というところについて

イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されたと思います。どうでしょうか?ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみます。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通キリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?

毎年述べていることですが、世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰というものと全く別世界のことだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。

ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに信仰者は、自分の命と人生はこの世だけではない、今のこの世は始めがあったように終わりもある、終わりの時には天と地が新しく再創造されてそこに神の国が唯一の国として現れる、自分の命と人生はそこで続いていくことになると考えます。この世では肉体の体をもって生きたように、この次に到来する世では復活の体をもって生きるようになる、そういうふうに人生を二つの世にまたがるものとして考えます。この人生観を持つ信仰者は、神がどうしてひとり子を私たち人間に贈って下さったかが分かります。それは、私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間が今のこの世の人生と次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。生きる舞台が今のこの世とこの次に到来する世の二つにまたがっているということは、本日の使徒書の日課エフェソの1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。

それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が大いなる人生を持てるようになるのでしょうか?それは次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に背こうとする性向、罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために罪の問題を人間のために解決することにしたのです。

どのようにして解決して下さったのでしょうか?神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生とこの次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を生きられるようになったのです。

4.我ら、使徒言行録の続編を生くる者

以上、昇天とはどんな現象か、そしてイエス様が上げられた天とはどういう所か、私たちがそこに迎え入れられるようになるためにイエス様が大役を果たされたことを見ました。それでは次に、イエス様の昇天が現代を生きる私たちとどんな関係があるかについて、ルカ福音書と使徒言行録の記述から見ていこうと思います。

ルカ福音書と使徒言行録のイエス様の昇天の出来事の記述は、同じ出来事を扱っているとはいえ、内容が少し違っていることに気づきます。使徒言行録の方がルカ福音書より詳しく書かれていますが、イエス様が弟子たちに話す内容が違っていたり、使徒言行録では昇天の時に雲や天使が出てくるのにルカ福音書にはありません。どういうことでしょうか?

ルカ福音書と使徒言行録は同じ著者によるものです。著者がルカという人物であるというのは初代の教会からの言い伝えですが、それに対する反論はなく定説になっています。パウロのコロサイの信徒への手紙4章14節、ティモテへの第二の手紙4章11節、フィレモンへの手紙24節にパウロと共に福音伝道に携わった同志として名前が出てきます。

ルカは福音書と使徒言行録をテオフィルスという位の高い人に献呈する書物であると双方の出だしで言っています。使徒言行録の出だしでは、テオフィルス様、先に私は、イエスが弟子たちに指図を与えて天に上げられる日まで彼が教えたり行ったりしたこと全てを第一巻として書き下ろしました、と言います。その第一巻とは言うまでもなくルカ福音書のことです。実際、ルカ福音書はイエス様が弟子たちに指図を与えて天に上げられたところで終わっています。イエス様が与えた指図というのは、天の神から力を受ける時までエルサレムに留まっていろということです。天の神からの力とは、聖霊が降ってきた時に受けられる力というふうに聖霊由来の力です。

 ところでルカは、使徒たちのようなイエス様の直接の目撃者ではなく、使徒たちの伝道を聞いて信仰者になって伝道に従事するようになった者です。ルカにとってイエス様は少し前の過去の人ですが、使徒たちは同時代の人です。そのことはルカ1章からわかります。そこで、自分はどのようにしてイエス・キリストの言行録を書いていくかということを述べます。目撃者の証言と信頼できる記録を集めて書くのだと。つまり、自分は直接の目撃者ではないが、信頼できる資料を集めて書き上げるのだと。使徒言行録ではそういうことは言っていません。それは、ルカが使徒たちから直接聞いたというだけでなく、自分自身使徒たちと行動を共にし使徒たちの生きざまの直接の目撃者であったからです。使徒言行録16章10節から、書き方が「私たちは~した」という言い方になり、目撃者としての立場を明らかにしています。

このような背景がわかると、どうしてルカ福音書と使徒言行録の昇天の記述が異なってきているかがわかります。ルカは、福音書の方はあくまでイエス・キリストの言行録に留めよう、イエス様がこの世に贈られてから、この世で教え行ったことの記録をまとめようと、イエス様の言行録に徹したのです。どこで終わりにするかについてイエス様の昇天で終わりにすることにしたのですが、どういうふうに昇天を記述したらいいか、続く使徒言行録の出だしとの兼ね合いで考えなければならなくなりました。もちろん、ルカ福音書の終わりに使徒言行録の出だしとそっくり同じことを書いて重複させることも可能だったでしょう。しかし、ルカはそうしませんでした。なぜか?私は、ルカが手元にある沢山の資料を福音書用と使徒言行録用に使い分けたと考えます。どういうふうに使い分けたのか?

ルカ福音書の方に、イエス様が十字架で死なれ死から復活されたことは旧約聖書の預言の実現であるというイエス様の言葉が入れられました。それでルカ福音書は彼が旧約聖書の預言の実現であることを明確にして完結させます。預言が実現したことで「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」(ルカ24章47節、新共同訳は「罪の赦しを得させる悔い改め」)、そういう神への立ち返りを人間が出来るようになった、そのことを人間に教え伝えなければならないというイエス様の言葉を載せて、使徒言行録への繋ぎとしました。

続く使徒言行録では、もうイエス様が旧約聖書の預言の実現ということは繰り返されず、新しい動きに入っていきます。それは、人間が将来到来する神の国ないし天の国に迎え入れてもらえる可能性をイエス様が開いた、今度はその可能性を人間が持てるようにする働きが始まったのです。イエス様は40日の間、弟子たちに神の国について教えたと言われます。この教えで、弟子たちは、神の国が当時考えられていたような、支配民族を打ち倒してかつてのダビデの王国を再興するというような地上の国ではないとわかったでしょう。ダニエル書に預言された死者の復活が起きた以上はこの世を超えた終末論的な国だとわかったでしょう。

ところが弟子たちは、この終末論的な神の国が遠い将来に現れるのではなく、今すぐにでも現れると考えたようです。それは彼らの「あなたがイスラエルの民に王国を再興するのは今のこの時ですか」という質問に見て取れます。イエス様は神の国について教えた時、自分はまず天に上げられて後で再臨する、その時に神の国が現れると教えなかったのでしょうか?それとも、教えたけれども、弟子たちは目の前にいる復活の主に心を奪われて、神の国の王が今まさに目の前におられる、王国はいよいよ打ち立てられると気がせく状態だったのでしょうか?いずれにしても、弟子たちの頭には主の昇天も再臨も全然入っていません。

しかしながら、この時点での神の国の樹立は神の御心ではありませんでした。そんなことしたら、せっかくひとり子を用いて全ての人間に整えた可能性、人間が神の国に迎え入れられる可能性をまだほとんど誰も受け取っていない段階で新しい天と地の創造や最後の審判を行うことになってしまいます。これからしなければならない本当のことは、神の国に迎え入れられる可能性を全世界の人間が持てるようにすることでした。そのためには最初の目撃者たちに聖霊が降って力を得てイエス様について人々に証言しなければならなかったのでした。

それでは、証言するのにどうして聖霊が降らなければならないのでしょうか?それは、ただ単にイエス様が十字架にかけられて復活したのを目撃しましたと言っても、それだけでは、すごいなあ、不思議だなあ、で終わってしまいます。十字架と復活の出来事は「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」を人間が出来るようになるために起きた出来事であるということを伝えないと何の意味もないのです。

人間に神の意思に反しようとする罪があることを気づかせるのは聖霊です。同時にイエス様の十字架と復活に罪の赦しがあることをわからせるのも聖霊です。それなので聖霊が自分の内に働くようにする人は罪の自覚を持てて赦しを願う心を持ちます。これが神への立ち返りです。この立ち返りが起これば聖霊はすぐ心の目に主の十字架を示してくれます。これが罪の赦しをもたらす神への立ち返りです。この立ち返りは聖霊が働かないと起きないし、伝えることも出来ません。イエス様は弟子たちに、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授けたが、お前たちは「聖霊を伴う洗礼」を授けると言いました。「聖霊を伴う」というのは、洗礼を受ける者に「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」が実際に起こるようになるということです。そして、洗礼を受けた者が他の者に同じ立ち返りを伝えることができるようになるということです。それで、聖霊が自分の内に働くようにしているキリスト信仰者は神への立ち返りをしながら生き、他の者に立ち返りを伝えるのです。これは最初の使徒たちが行ったことそのままです。

使徒言行録はパウロがローマに到着したところで終わっていますが、使徒言行録のテーマは終わっていません。イエス様が開いて下さった可能性、人間が将来到来する神の国に迎え入れてもらえる可能性を人間が持てるようにする働きはまだ続いているからです。とにかく主の再臨の日まで続く働きですから、私たちは使徒言行録の続編を生きているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。

 

説教「神を信じ主イエスを信ぜよ、さらば心騒ぐことなし」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書 14章1-14節

2023年5月7日 復活節第五主日 主日礼拝説教

聖書日課 使徒言行録7章55-60節、第一ペトロ2章2-10節、ヨハネ14章1-14節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。

ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。

2.道の決定版、真理の決定版、命の決定版

イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して神聖な復活の体を持つイエス様がおられるのに相応しい場所、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。そこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。どこに連れて行ってくれるのでしょうか?それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、新しい天と地のもとで新しく始まる世の中にあります。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。

そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれす。つまり、その国では旧い世の不正義の報いが完璧に果たされます。また、そこは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様はこの約束を必ず果たされると信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちを持てるのです。

しかしながら、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に復活に関係する話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。どういう決定版かというと、創造主の神のもとに至る唯一の道という意味で決定版なのです。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っているなどと誤解する人が出てきます。

このように言うと、人によっては、いや、それはこの福音書を書いたヨハネの考えであって、実際のイエス様はそんな偏狭な考えの持ち主ではないと言う人もいます。そういう人にとって、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は実際のイエス様の言行録ではなく、それらを書いた人の限りなくフィクションに近い文学作品なのです。そういう、福音書を見ても実際のイエス様の教えや業は見えてこないという考え方はドイツの有名な聖書学者W.ヴレーデやR.ブルトマンの時代から1980年代まで聖書学会に根強くありました。福音書を文学作品のように扱うと、作者の意図は何かということに関心が行きいろんな解釈が生まれます。人を感心させたり感動させる解釈が注目を集めます。文芸評論みたいになります。ただ、それが実際のイエス様と関係ないことは、福音書は作者の文学作品であるという前提から明らかです。そのような解釈が信仰にとって妥当かどうかは、キリスト信仰の土台である使徒的伝統に照らし合わせてみればすぐわかります。

話がわき道に逸れたので戻ります。イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいいが、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価を受けます。

しかしながら、至福に至る道に関してキリスト教を他の宗教と同列にできない点があることを忘れてはいけません。恐らく多くの宗教では人間はこの世を去ったらあの世に行ってそこからこの世にいる人たちを見守っているというような、この世とあの世が同時併行してあるという見方ではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地再創造があるので同時併行にならないのです。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異なる次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は新しい復活の体を与えられてそこに迎え入れられるという流れになります。もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。それで、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なるのではないかと思われます。他の宗教ではこの世から離れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような何かを行っているという見方があると思われます。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。

道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。

真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理なのです。そしてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、これは真理なのです。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場です。最後の審判が真理であるということです。

次に命の決定版ということについて見てみます。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。

3.父なるみ神と御子は一体

7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践し、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことがわかるようになったのです。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?

弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を開きました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。弟子たちの働きはイエス様が天に上げられた後で本格化します。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務として祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。

自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者とは神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難に解決を与えて解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。それに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のために、その歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の忍耐が試されるところです。

4.おわりに

イエス様は、心を騒がせるな、神を信じ私を信じなさい、と弟子たちに言われました。そこで、復活が関係する将来のことを話しましたが、まだ十字架と復活の出来事が起きる前です。弟子たちは何のことかわかりませんでした。イエス様はさらに、自分と父なるみ神は一体であることも教えましたが、それもわかりません。そこでイエス様は、言葉で信じることができなければ、イエス様の業のゆえに信じなさい、その業はイエス様と一体である父なるみ神が行うのである、それくらいイエス様と父なるみ神は一体なのであると言います。弟子たちはイエス様の行った数多くの奇跡の業を思い出したのではと思われます。

しかしながら、それで弟子たちが心を騒がせなくなったかどうかはあやしいです。というのは、最後の晩餐の後でイエス様が逮捕されてしまうと、弟子たちは逃げてしまったからです。ペトロに至っては、お前はあいつの弟子だっただろうと聞かれて、あんな人知りませんと3度も答えてしまいました。

ところが、弟子たちが心を騒がせなくなるような真の業がこの後に起こったのです。イエス様の復活がそれです。これこそイエス様と一体である父なるみ神が行う業の中で最高の業でした。復活された主を目撃した弟子たちは一変しました。権力者から、イエスの名を広めたら命はないぞと脅され続けたにもかかわらず、彼らはひるまず恐れず伝道していったのです。それでイエス様が、言葉で信じるのが難しければ業のゆえに信じなさい、と言った時の業とは復活だったことが明らかになりました。このように復活というのは、神がイエス様を通して行う業のなかで一番心を落ち着かせて勇気を与える業なのです。それなので復活の日を目指して歩むこと自体が、心騒がず勇気を持って歩める歩みになるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

説教「罪の赦しというお恵みに生きる者の覚悟と心構え」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章1-10節

主日礼拝説教 2023年4月30日 復活後第四主日
聖書日課 使徒言行録2章42-47節、第一ペトロ2章19-25節、ヨハネ10章1-10節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の個所はイエス様のたとえの教えです。日課は10節までですが、本当は16節までがひとくくりのところです。どういう流れかというと、最初1~5節までイエス様は羊の囲いについて話をします。羊飼いや羊を盗む泥棒のこと、羊飼いが羊の群れを囲いから出して牧草地に連れて行くことを話します。これを聞いた人たちは、何のたとえかわかりませんでした(6節)。それでイエス様は7節から説き明かしをします。まず、自分は羊の囲いの門であると明かします。7節から10節までです。その次に自分は良い羊飼いであると言います。11節から16節までです。

これらを聞くと、ああ、イエス様は私たちを守って下さるお方なんだ、何とありがたいお方なんだという気分になります。しかし、具体的にわかろうとすると難しくなります。イエス様が良い羊飼いのように私たちを危険から守り導いてくれると言っているのはわかりますが、イエス様が囲いの門というのはわかりにくいと思います。それに、囲いの門は何を意味しているのか?牧草地は何を意味しているのか?皆さんは直ぐわかるでしょうか?

実を言うと、これらのたとえの正確な意味は、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活と結びつけないでイエス様の教えを理解しようとすると、自分に都合の良い解釈がどんどん生まれていき、イエス様が言いたいことはこれだなどと言ってしまう危険があります。注意しないといけません。

本日の日課は、イエス様が自分を羊の囲いの門であると言うところまでです。本当は良い羊飼いと言っているところまであった方がいいのになと思ったのですが、囲いの門のたとえは本日の使徒書の日課、ペトロの第一の手紙の箇所と合わせてみると、より深く理解できることに気づきました。それで日課が囲いの門どまりであったことに感謝した次第です。

2.日常的な出来事をもとに

1節から5節はたとえそのものです。イエス様は本当に当時の社会の日常的なことを話します。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

羊の飼育が盛んなところでは、木材や石材で塀の囲いを作って、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。泥棒が「乗り越える」というから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方から、囲いの中には、複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の所有する羊を呼び集める。羊は、生まれた時から同じ羊飼いに飼われているので、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられる、別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がる、イエス様は羊飼いと羊のそんな理想的な関係について言われます。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。

以上の話は、当時の人には日常的な当たり前な話でした。イエス様が日常的な事柄を話していることは、ギリシャ語の原文を見ると、ここの動詞のほとんどが現在形であることからわかります(後注)。しかし、これを聞いた人たちは、話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになりました。それで、イエス様は自分は囲いの門である、自分は良い羊飼いであると明かしたのです。しかし、それでも、まだ十字架と復活の出来事の前ですので、イエス様がどういうふうに囲いの門なのか、良い羊飼いなのかはわかりません。しかし、私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているのでわかる立場にあります。以下それについて見ていきましょう。

3.イエス様は羊の囲いの門

イエス様は、自分は羊の囲いの門である(7節)と言って、たとえの解き明しを始めます。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ギリシャ語原文を見ると、ここの動詞は全部現在形ではなく未来形になっています。救われることも牧草地を見つけることも未来の意味になっていて、日常を超える話をしているのだというシグナルを出しているのです。ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったする日常的な放牧の営みのイメージを出しています。ところが、原文ではそうは言っていません。「囲いの中に入って、外に出ていく」と未来形で言っていて、その結果、牧草地を見つけると未来形で言っています。囲いの中に入ることも、外に出ていくことも、牧草地を見つけることも全て日常を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?答えのカギは、囲いの中に入る際にイエス様という門を通らなければならないということがあります。さあ、ここで、十字架と復活の意味を知る者の出番です。

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。どんな群れかというと、創造主の神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持ってこの世の人生を進む者たちの群れです。この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども、結局はそれらに聞き従わず、イエス様の声に聞き従った者たちです。

このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世の人生を生きることを意味します。

それでは、二つの世のまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、そのためには神と結びつきを持てることが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。どうして持てないかと言うと、もともと人間は天地創造の時に造られた時はそれなりに良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。贈って何をしたかと言うと、あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたのです。

そこで今度は人間の方が、このことは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受ければ、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになったのです。

このように、私たちが造り主の神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の両方を生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。それがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ14章6節で宣言します。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

ギリシャ語原文では、道、真理、命、それぞれに定冠詞ヘーηがついています。定冠詞とは、英語で言えば、皆さんご存知のtheです。イエス様は天の父なるみ神のみもとというゴールに至る唯一の道、真理、命であると自分で言っているのです。いろいろ沢山ある道、真理、命の中の一つではなく、自分が決定版であると、他でもないイエス様が言っているのです。

4.罪の赦しというお恵みに生きる生き方 その1

こうして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?良い羊飼いがついているから何も心配いらない、いつも安心安全な進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。ここで、主が共にいるから確かに心配はいらない、しかし、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?

それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に留まっています。もちろん、罪の赦しを頂いたので、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと恐れたり、そういう至らない自分に失望します。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者はまた神の意思に沿うようにしなければと心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。

キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、罪の赦しの確認ということを繰り返してこの世を進んでいきます。これこそが罪の赦しに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き裂こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。ある時は、お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、別の時には、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとします。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書の神を嘘つき扱いします。そういう声は特に苦難や困難に陥った時には耳に響いてきます。しかし、それらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向ける、罪の赦しに留まります。そうすることが、自分は罪に逆らっている、罪を憎んでいることを証しします。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。

5.罪の赦しというお恵みに生きる生き方 その2

このように罪の赦しに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことが罪の赦しに留まって生きることになります。

罪の赦しに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。または、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。

この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。

20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」この訳ではダメです。「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神から見れば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。確かにギリシャ語のカリスは「恵み」以外にもいろんな意味があります。しかし、「御心に適うこと」は少し離れてしまっていると思います。「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、訳した人は、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えて、それで「神の御心に適うこと」にしたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。それでは、善を行って苦しみを受けることがどうして神からすれば恵みになるのか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。そのことを見る前にもう一節見てみます。

19節「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」ここも「御心にかなうことなのです」と言っていますが、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。これに関連してもうひとつ訳の問題点があります。「神がそうお望みだとわきまえて」とあります。ギリシャ語原文を直訳すると「神に関わる良心のゆえに」です。「神に関わる良心のゆえに不当な苦しみを受ける」です。「神に関わる良心のゆえに」とは一体何でしょうか?これはもう、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています。

この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。

さあ、大変なことになりました。善を行うことで苦しみを受け、それを耐えることは神からすれば恵みである、良心が神に縛られているゆえに不当な苦しみを耐えるのは恵みであるという。どういうことでしょうか?

ここで「善を行う」と言う時の善とは何かについて確認します。これは20節の「罪を犯す」の正反対のこととして言われています。それなので、「善を行う」とは神の意思に沿うように生きることです。罪を犯すことは神の意思に背くことだからです。神の意思に沿う生き方とは、言うまでもなく、神を全身全霊で愛し、その愛の上に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。もっと具体的には十戒を見ればわかります。人を傷つけることはしてはいけない、不倫してはいけない、偽証してはいけない、妬んだりしてはいけない等々、いけない尽くめです。これをルターの小教理問答書風に言えば、これらの逆のこともしなければいけないということです。困っている人を助け、夫婦関係を大事にして守り、陰口をたたかない、悪く言われる人に良い面があることを見つけてあげる等々をしなければならないということです。

そう言うと、あれっ、キリスト教って、神から罪の赦しがお恵みのように与えられるのを福音と言っていたんじゃなかったっけ?律法を行うことで救われるという考えは取らないんだから、人間に善いことをしろと命じたら恵みは意味がなくなってしまうのでは?そんな疑問が出てくると思います。本当にその通りです。キリスト信仰では罪の赦しは神のお恵みなので、人間がいくら善い業を行っても赦しを得られることにも、確実にすることにもなりません。だから、ペトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせずご褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることや救われることと何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えらる律法とは異っています。善い業を行っても裏目に出たら嫌だな、褒められたり褒美をもらえるほうがいいなと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなるような教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。

もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。それから、わざわざ不当な扱いを受けることを目的にして善い業をする必要はありません。善い業は神の命令であって、何かの目的の手段ではないからです。

これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。

以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)ただし、「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」のところは未来形です。これは、他の者が近づくことが通常のことではなく例外的なことを表すためにその形にしたと考えられます。

 

説教「イエス様の復活を信じる心」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書28章1-10節

聖書日課 エレミア31章1節-6節、コロサイ3章1節-4節、マタイ28章1-10節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の神の力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、意味は「過越し」です。つまり、旧約聖書の「過越し祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言うのです。興味深いです。英語や日本語では別々に分けて言います。

 復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。それは何をお祝いするのでしょうか?クリスマスは、イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いします。それでは復活祭は、惨い殺され方をしたイエス様が復活して良かった良かったと喜ぶお祝いでしょうか?実はそうではありません。復活祭はイエス様の復活自体がおめでたいことの全てではありません。イエス様が復活したことで私たちにとって良いことがあるのでおめでたいのです。イエス様の復活は私たちのために起こったということ、それを今年もこの復活祭礼拝の説教で、ただ少し角度を変えて明らかにしようと思います。

2.復活とはどんな現象か?

まず、復活とは何か、それはどんな現象なのかを理解できなければなりません。それをわからないまま復活の話をしたら聖書から離れて必ず行き詰ります。

 普通、死亡が確認された人が息を吹き返すと生き返ったとか蘇生したと言います。復活はそれとは全く異なる現象です。「復活」は、死んで遺体が火葬とか土葬に付されて肉体が腐敗して消滅した後に起こることです。「蘇生」の場合は、まだ肉体があります。例えば、イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行いましたが、生き返った人たちは後で寿命が来て最終的に亡くなって肉体は腐敗して消滅しています。それなので生き返りの奇跡は「復活」ではありません。

 「復活」について、旧約聖書の中にそれを示唆する預言がいろいろあります。はっきり出てくるのはダニエル書12章です。今のこの世が終わって新しい世が誕生する時に起こるとされ、復活する者は腐敗消滅した肉の体に代わって輝く体が与えられることが言われています。新約聖書では、もっと詳しく具体的に述べられていて、特に黙示録、第一コリント、第一テサロニケに詳しく述べられています。「復活」は聖書の世界観の重要な要素です。聖書の世界観は、今あるこの世は天地創造の神が造られたものだ、造られて始まったのだから終わりもあるという見方です。それで今ある天と地はいずれ終わって新しい天と地が創造される、その時、今私たちの見えないところ手の届かないところにある「神の国」が新しい天と地のもとに唯一の国として現れるという見方です。その時、誰が「神の国」に迎え入れられるかを決める「最後の審判」が起こる。これが聖書の世界観です。

 その中で、今あるこの世が終わって新しい世に取って代わられる時、死の眠りについていた者たちが再臨の主イエス・キリストに起こされ、消滅した肉体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられる、これが「復活」です。

 ここで、あれっ、復活は消滅した肉体に代わる復活の体を着せられることだったら、イエス様はまだ肉の体があったではないか、もちろん満身創痍の痛ましい状態ではあったが、それでも体は一応あるのだから復活ではなく蘇生ではないか、そういう疑問が起きるかもしれません。しかし、復活後のイエス様の体はもう普通の肉の体ではなかったことが聖書に記されています。信じられないような空間移動がありました。鍵をかけた家の中に急に入って来て、パニック状態になった弟子たちに、幽霊ではないぞ、と言って、手足を見せます。ちゃんと触れることが出来ました。しかし、むやみに触れてはいけないこともマグダラのマリアに言いました。復活の体は神聖なので、本当は直ぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない体だからです。それでもイエス様は、弟子たちを初め大勢の人に復活が真実であることを示し、また旧約聖書の不明部分をわからせるために結局40日間この地上に留まることになりました。

 「復活」は、キリスト教が他の宗教と大きく異なる点の一つです。他の宗教ですと、死後の世界を想定する時、それはこの世の世界と同時併行してあります。それで、亡くなった人は今どこか高いところにいて私たちを見守ってくれている、などと言います。ところがキリスト教では、今の世が終わって消滅して新しい世が出来る時に復活が起こるという流れになります。復活を遂げた者は下を見下ろしても旧い世はもう存在しないのです。もちろん神の国自体は、今この現在も私たちの手の届かないところ次元の異なるところにあります。ただ、そこに迎え入れられるのは復活の日になってからと言うのです。そうすると、亡くなった人はその日までどこでどうしているのかと聞かれるのですが、それはもう、神のみぞ知る場所にいて静かに眠っているとしか言えません。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡を業を行った時、この者は眠っている、と言って生き返らせました。それは、イエス様を救い主と信じる者にとって死は復活の日までの眠りにしかすぎず、彼こそが眠りから目覚めさせる力があることを示すために行ったのでした。

 そうすると、じゃ、今、神の国は神以外は誰もいない空席状態なのかと聞かれてしまうのですが、そういう訳でもなく、聖書は復活の日を待たずして神のもとに迎え入れられた人がいることも認めています。いわゆる聖人です。カトリックでは聖人も崇拝の対象になりますが、ルター派は崇拝の対象はあくまで三位一体の神です。

3.なぜ神は復活を起こすのか?

以上、復活がどういう現象かについてお教えしました。次に、なぜ天地創造の神は復活を起こすのかについて見てみます。この「なぜ」に答えられるためには、なぜイエス様は十字架にかけられて死ななければならなかったのかがわからないといけません。

 イエス様の十字架の死は、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たしたという身代わりの死です。人間の罪などと言うと、キリスト教はすぐ罪、罪と言って犯罪者扱いするから嫌だ、という人もいます。しかしながら、聖書で言われる罪とは、神の意思に反しようとする人間の性向のことです。それは、創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から人間全てに備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。造り主の神との結びつきが切れてしまったらそうなるしかないのです。そこで神としては、人間をこの罪の支配から解放して結びつきを回復してあげよう、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去る時も結びつきの中で去ることができるようにしてあげよう、そして復活の日になったら眠りから目覚めさせて自分のもとに永遠に迎え入れてあげよう、そうすることを決めてひとり子をこの世に贈られたのでした。

 この神のひとり子のイエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになりました。そのようにして私たちの罪の償いが神に対して果たされたのです。それからは悪魔が罪を引き合いにだして人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎてうまくできません。はっきり言って悪魔の狙いは破綻してしまったのです。加えて、神が想像を絶する力でイエス様を死から復活させて、死を超えた復活の命、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。

 そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。自分が償ったのではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う先が天地創造の神であれば人間には償いなど無理です。しかも償いをした方がその神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもの軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

 罪を赦されたから神との結びつきが回復します。この結びつきは人間の方から手放さない限り、神の方でしっかり掴まっていて下さいます。順境だろうが逆境だろうが神との結びつきはいつも変わらずあります。いつも神の守りと導きの内にこの世を進んでいきます。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられます。この世と次に来る世の二つの世を生きられる人生です。罪と死の支配から解放された人生です。

 罪と死の支配から人間を解放する神の救いの計画がイエス様の十字架と復活の業をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちも将来イエス様と同じように復活させられることがはっきりしました。それで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活も可能になったことを喜び祝う日です。さらに自分自身が復活させられるという希望に加えて、復活の日にはやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた。それで復活祭は私たちにとっておめでたい日なのです。

4.復活を信じる心

以上、神はなぜイエス様の復活を起こしたのかを見てみました。これで復活の現象とその意味について知識が増えたことと思います。キリスト教はそういうふうに考えるのだなと理解が深まったでしょう。それでは、知識が身につき理解が深まったところで、復活を信じることが出来るでしょうか?イエス様の復活は歴史上、本当に起こった、それで彼を救い主と信じる者は将来本当に復活する、と信じることができるでしょうか?

 近年では、聖書に記されている不思議な出来事はキリスト教徒の間でもあまり本気で信じられなくなってきたのではないかと思います。処女が赤ちゃんを産むだとか、一度死んだ人間が全く有り様の異なる体をもって人前に現れるだとか、そんな理性と常識ではあり得ないことは、みんな古代世界の人間のファンタジーのせいにしてしまうか、あるいは言葉や表現の技法のように考えて言葉通りに受け取る必要はないと考えるようになってきているのではないかと思います。ただ、そのように考える人も、全部うそだ、作り話だと言ってしまったら、キリスト教をひっくり返すことになり元も子もなくなってしまうとわかります。それで、そういう理性や常識であり得ないことは実体的な現象とは考えず、何か人間の心の中で思い描かれたもの、心理的な現象として捉えればよい、現代のキリスト教の使命は社会変革の先頭に立つことだから、その使命を果たしてさえいれば聖書の不思議な出来事を本気で信じなくても大丈夫、矛盾しない、そういう風潮ではないかと思います。どうでしょうか?少し言いすぎでしょうか?

 そこで、イエス様の復活は本当に単なる作り話のファンタジーなのか、少し考えてみましょう。

 イエス様の復活の出来事は4つの福音書に記されています。4つ全てに共通しているのは、週の最初の日の早朝に女性たちが墓に行ってみると墓の前の石はどけられて中に遺体がなかったことです。それと天使の出現があり、空の墓と天使の目撃の後に復活されたイエス様と出会うことがあります。4つともそういう共通点がありますが、他方で、詳しく見るといろいろ違いもあります。マタイでは墓を塞いでいた石を天使がどけたことが記されています。それが起きたのは女性たちが到着する前か後か微妙なところです。他の3つは石がどけられた後に到着しています。天使がどけたということはありません。墓に行った女性も、マタイではマグダラのマリアと別のマリアの二人の名が挙がっています。マルコでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメが遺体に塗る香油を購入したとあります。ルカでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとヨハンナと他にもいたとあります。ヨハネではマグダラのマリアの名前だけがあがっています。それから、現れた天使の数がマタイとルカは二人、マルコとヨハネは一人です。

 さて、これらの違いをどう考えたら良いでしょうか?こんなにバラバラだったら、それぞれが勝手に作った話だということになるでしょうか?実は逆なのです。この問題についてスウェーデンの1960年代、70年代に活躍したボー・イェ―レツという神学者が次のように言っていました。イエス様の復活を犯罪事件の裁判と比較したらいい。事件の目撃者が4人いるとする。4人の証言が細部にわたってみんな一致していたら、裁判官は普通、これは不自然だ、4人は前もって打ち合わせて話をすり合わせたのではないかと疑うだろう。逆に細部は一致せずバラバラでも、肝心なところで一致していたら、証言の信ぴょう性は高まると裁判官は考えるだろうと。

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、ローマ帝国軍によるエルサレム破壊の年、西暦70年の後になって書かれたというのが学会の定説です。もしそうならば、イエス様の十字架と復活の出来事から40年以上も経ってまとめられたことになります。人間の人生の2世代か3世代後のことになります。その間、4つの福音書のもとにある証言や資料は最終的に福音書にまとめられるまでに証言や資料が伝播していく過程を辿ります。40年以上の過程にはいろんな場があって、それぞれ伝道の状況、信仰の状況があります。そういう過程を経る中でこの証言はここの部分をもっと強調してもいいとか、逆にここを省いてもいいということが起きてきます。

 犯罪事件の4人の目撃者が、それぞれどんな性格の持ち主か、犯罪を許さないという強い気持ちを持つ人か、自分は巻き込まれたくないと恐れる人か、大人か子供か、男性か女性か、事件当時何をしていたか、そうしたいろんな要因があるために同じ事件に遭遇しても受け止め方や反応が違って、目撃したことの描写も異なってくるということが起こります。しかし、目撃した事件そのものは同じです。イエス様の復活も同じです。しかも復活の目撃の証言は、40年以上の間に変わる部分も出てくるが、40年以上経っても変わらない大元があることをはっきりと示しているのです。

 事件の複数の目撃者の証言が細部で異なった方が信ぴょう性が高まるということを言うのは神学者だけではありません。ダニエル・カーネマンという2002年にノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者がおりますが、彼の最近の著書「Noise – A flaw in human judgement(ノイズ-人間の判断の欠陥)」の中でも同じことが言われていました。もちろんカーネマンは復活のことについてではなく一般的なこととして言っているのですが、なぜか、例として目撃者の数を4人にしているのが興味深かったです。それを読んだ時すぐイェ―レツのことを思い出しました。

 さて、イエス様の復活の出来事は信ぴょう性が高いということになりました。それでは、じゃ、イエスの復活を信じるぞということになるでしょうか?それでも足りない、100%確かでなければ信じないと言う人がほとんどでしょう。それはタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行って墓の前で見張らない限り無理です。これからもおわかりのように、キリスト教の信仰には負荷が大きくあります。他の宗教だったら、昔、教祖がこう言った、こういうことをしたと書いてある、そう言えば、大方はそれが歴史的に事実かどうか気にせずに、ありがたや、と言って信じると思います。キリスト教では4つの証言があってもまだ足りないと言うのです。今では4つあってもダメになってしまいました。

 そこで信仰についてひと言。信仰とは、出来事が100%真実だとわかったので信じると言うものではありません。その場合は、もう信じるも何も、目で見た通りですとしか言いようがありません。それは信じることではありません。信じるとは、理性や理解力で捉えられないことが目の前に横たわっていたら、それを踏み越えて向こう側に行くこと、これが信じることと言ってよいと思います。最初は踏み越えることなど無理だと感じるかもしれませんが、創造主の神がひとり子を用いてとてつもないことをして下さったことを思い起こすと、神を信頼して大丈夫という気持ちになり、踏み越えることが出来ます。そこで、向こう側に行くというのはどんなことか、それが本日の使徒書の日課コロサイ3章によく記されているので、最後にそれについて述べておきます。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれるて現れるでしょう。」

まだこの世で生きているのに「復活させられた」と言うのはパウロらしい言い方です。彼は「ローマの信徒への手紙」6章の中で洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪がその人に対して支配者でなくなってしまい無関係になってしまう、それでその人は罪に対して死んだことになり、それからは生きることは神に対して生きることになると言います。その時、復活の体と永遠の命と目には見えない繋がりが出来ていることになり、将来の復活の日に目に見える形で手にしていることになります。それで「あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている」というのです。

この「命」は地上の命ではなく永遠の命です。目には見えないが繋がりができているものです。見えない状態なので「隠されている」のです。「隠す」と言うと何か困らせる意図があるみたいなので「秘められている」と言った方がいいと思います。復活の体も永遠の命も性質上、この世では秘められたものになってしまいます。キリストも天の父なるみ神の右に座しているから地上にいる私たちからすれば秘められています。それが、イエス様の再臨の日がくると、イエス様は秘められた状態から現れた状態になり、同時に私たちの永遠の命も秘められた状態から現れた状態になります(後注!)。その時は神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので、それで「キリストと共に栄光に包まれて輝く」のです。

今この世の中を歩む者にとって、永遠の命もキリストも秘められた状態にあるが、それはいつか現れると確信して、今は見えない状態で別に構わない、なぜならかの日に現れるからという心でこの世を歩むこと。これが上にあるものを求めること、上にあるものを心に留めることです。このような心で歩んでいる時、理性や理解力で捉えられないものを踏み越えています。ところが、イエス様の復活を本当に起こったことではなく、心の中の描写だとか心理的現象と見なす人はこの踏み越えはできません。その人は、全てのことを理性や理解力で捉えようとするので、捉えられないものに出くわすと、心の中の描写だとか心理的現象と言って踏み越える必要がないようにしてしまうからです。そこには信仰はありません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

(後注!)新共同訳の「あなたがたの命であるキリストが現れるとき」は正しい訳ではないと思います。正確には「キリストが現れるとき、あなたがたの命も現れます」と思います。なぜなら、前の文で、「あなたがたの命」と「キリスト」の二つが隠されている/秘められていると言っているので、ここではその二つが現れることを言っていると解する方が自然だからです。ギリシャ語原文に省略があると考えればよいわけです

 

説教「イエス様の十字架とキリスト信仰者の心」吉村博明 宣教師、ヨハネ18章1節~19章42節

主日礼拝説教 2023年4月7日 聖金曜日

聖書日課 イザヤ52章13節~53章12節、ヘブライ10章16~25節、ヨハネ18章1節~19章42節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。

 イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景でした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。

2.イザヤ書の預言の実現

イエス様が受けた激痛は肉体的なものだけではありませんでした。霊的な激痛も一緒でした。イエス様が受けた霊的な激痛について、先ほど朗読したイザヤ書が明らかにしています。その個所は、イエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とあります。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は人を傷つけたり欺くようなことは行ってはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とても潔白ではいられないのです。近年はますます潔白ではいられなくなっていると思います。そのために、そんな自分の都合悪いことを言う神など胡散臭いと、ますます遠ざけられていきます。

 そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの状態と奴隷の状態から自由にしてあげようと手立てを考えました。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰をひとり子に身代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。この神のひとり子が受けた罰の苦しみに思いを馳せることが出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。思うことが出来なければ心は変わらず奴隷のままです。

 イエス様自身、十字架にかけられる前、自分がこれから受ける苦しみは肉体的な苦しみを越えたもっと大きな苦しみがあるとわかっていました。マタイ、マルコ、ルカ福音書にゲッセマネというところでのイエス様の祈りが記されています。最初、父なる神よ、出来ることならこれから起こることになる苦しみの杯を飲まないですむようにして下さい、と祈ります。神のひとり子ともあろうお方が恐れるくらいの苦しみが待ち受けていたのです。何しろ人間の全ての罪の神罰を受けるのだから当然です。しかし、最後にイエス様は、父なる神よ、自分の願いではなく、あなたの御心が行われますように、と祈ります。先ほど読みましたヨハネ福音書の個所でも、弟子たちがイエス様の逮捕を阻止しようとした時、イエス様は、父なる神が与えた杯だ、飲まないわけにはいかないのだ、と言ってやめさせます。

 こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪を持ってしまっているために神との結びつきがない状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。

 あとは人間の方が、このことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だ、と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病んでしまった人間の癒しはそこから始まります。こうして人間は、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。

3.キリスト信仰者の心

神のひとり子に罪を償ってもらって神から罪を赦された者と見なされる者はどのような心になるについて、先ほど朗読した「ヘブライ人への手紙」10章の中が明らかにしています。

 17節 神は「人間の罪や背きを思い出すことをしない」と言われます。これはエレミヤ31章34節にある神のみ言葉ですが、この神の決意はイエス様の十字架の業で実際のものになりました。

 18節 「罪の赦しのあるところには、罪を償うための捧げものもない」と言われます。神がひとり子を犠牲に供して罪の赦しが起こったのだから、もう人間の方で罪の赦しの為に何か別の犠牲を捧げたり、罪の赦しが得られるように何か自分で規定を作ってそれに従って業を行うことは一切無意味になった、そんなことをしたら神のひとり子の犠牲を無駄にすることになるのです。

 イエス様の犠牲の上に罪の赦しを得た者はどうすればよいのか?19~25節は、この神の側からの罪の赦しに全てをかける者はこういう心になるのだ、ということが言われます。どんな心でしょうか?

 19節から21節では次のことが言われます。イエス様が私たちのために犠牲となって十字架で血を流されました。洗礼を受けるとイエス様の血と結びつくことになります。その血と結びついていれば、神聖な神のみ前に立たされても大丈夫、神罰を受けることはないから大丈夫だという勇気を持って神のみ前に立つことが出来ます。そのような勇気のある者になれるのです。

 かつてエルサレムの神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れませんでした。何しろ見えない神の前に立つ場所だったからです。しかし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。動物の生贄の血を振りかけて罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今ではイエス様の犠牲の血で罪の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかっていました。マタイ27章51節に記されているように、イエス様が十字架にかけられて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂けたのです。かつて大祭司は動物の血をかけられて垂れ幕をくぐり抜けて神のみ前に行くことを許されました。今、イエス様の血で汚れを落とされた者は、イエス様の犠牲の体をくぐり抜けるようにして神のみ前に立つことができるのです。

 人間にとってイエス様は真の大祭司であることが明らかになりました。神殿があった時の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、それでも大祭司自身、儀式で自分を清めなければならないレベルの低い仲介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方です。その彼が自分自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち立てたのです。これぞ真の大祭司、完璧な仲介者です。

 このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神から仕打ちを受けてしまう、神に見捨てられてしまう、というような苦しい思いから解放されています。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落とされています。それなので、イエス様は間違いなく私の救い主なんだと信じる信仰に生きれば、もう私にはやましいところはありません、私は潔白です、と言えるくらいの怖気づかない心を持つことが出来ます。その心があれば、この世を前にして堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に堂々と立つことができます。

 23節 このようにキリスト信仰者には神のみ前に立たされても大丈夫という揺るがない希望があります。それを心にとめておきましょう。これらのことを約束した方は約束に忠実な方であることも忘れないようにしましょう。

 24節 キリスト信仰者はこのような怖気づかない心、やましいところはありませんと言える心を持っているのだから、あとはお互いのことを考えて、愛と善い行いをすることを考えればもうそれで十分なのです。

 25節 キリスト信仰者にとって礼拝を大切にし守ることは大事です。なぜなら、イエス様が大祭司であること、それで私たちには怖気づかない心があり、やましいところはありませんと言える心があることを確認できるのが礼拝だからです。人によっては礼拝を大した意味のないと考えて、別に出席しなくてもいいや、他に何も都合がなくて気が向いたら行けばいいやと考える人もいるようですが、礼拝を離れてイエス様が大祭司であることや私たちの怖気づかない心をどうやって確認できるのでしょうか?キリスト信仰者がキリスト信仰者である所以は、イエス様の再臨がいつか来ると、ひょっとしたら自分が生きている間にあるかもしれないという主の再臨を待つ心です。そのような心がある信仰者は、イエス様が大祭司であること、怖気づかない心を確認し強めることは当たり前で自然なことになっています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「復活の日の再会の希望は死別の悲しみよりも深い」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書11章1-45節

主日礼拝説教 2023年3月26日(四旬節第五主日)
聖書日課 エゼキエル37章1-14節、ローマ8章6-11節、ヨハネ11章1-45節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。この出来事は、先週の日課の出来事、生まれつき目の見えない男の人の目を見えるようにした奇跡の出来事と共通点があります。先週の個所でイエス様は、男の人の目が生まれつき見えないのは神の業が現れるため、と言いました。今日の個所では、ラザロの病気は神の栄光のためである、と言います。病気や障害が神の業のため、神の栄光のため、などと聞くと、大抵の人は、目が見えるようになること、死んだ人が生き返ることが神の業、神の栄光の現われであると理解すると思います。ところがそうではないということを先週お教えしました。

 少し振り返りますと、旧約聖書の預言者イザヤの時代から人間の霊的な目が見えるようになる時が来るという預言がありました。目の見えない男の人の場合は肉眼の目が見えないことが問題だったのですが、人間の本当の問題は霊的な目が見えないこと、それがイエス様とファリサイ派の人たちとの対話からわかります。実にイエス様は肉体的な目が見えるようになる奇跡の業を行うことで、霊的な目を見えるようにする力が自分にあることを前もって思い知らせたのです。

 人間の霊的な目が見えるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事をもって始まりました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを持ててこの世を生きられることになり、永遠の命に至る道に置かれてその道を進むことになるという、肉眼の目で見えないことが見えるようになるのです。

 このように、生まれつき目が見えないのは神の業を現すためと言う時、肉眼の目が見えるようになることが神の業の現われであるという理解は理解はまだ浅く本当の理解ではありません。奇跡の業は霊的な目が見えるようになる前触れ的な出来事で、その目が見えるようになることが本当の神の業を現すものなのです。それが深い理解で本当の理解です。

 本日のラザロの生き返らせも同じです。死んだラザロを生き返らせたことが神の栄光の現われであると言ったら、それは浅くて本当の理解ではありません。では、ラザロを生き返らせることで神の栄光が現れると言ったら、何が神の栄光なのか?今日はラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解ができるようにしましょう。

2.キリスト信仰の復活について

深い本当の理解に入っていく前に、理解に役立つ予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を詳しく記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神であるというのがキリスト信仰です。

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。

 復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

 そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

3.イエス様は復活と永遠の命を手中に持つ方

それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみましょう。

 イエス様がやって来たと聞いてマルタは彼に会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。つまり、ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

 それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタは自分でハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」の場合だと今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。

 そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。

 それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる人は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりはなくならず、復活の日が来たら永遠の命そのものを持つことになります。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そうすることが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。

 イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

 これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にも見られたのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

 マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは同じ現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。現在完了などと言うと、中学高校の英語の授業みたいで嫌だと思われてしまうかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語のとは違うので忘れて大丈夫です。むしろ忘れた方が都合がいいです。マルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟ることができて信じるようになりました、ではないのです。その場合は、エピステウサになります。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。

 このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。それを明らかにします。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。

 しかしながら、復活には、死の引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているという観点に立ちます。そして、罪は人間誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。神としては、人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげたい、そのためには結びつきを持てなくさせてしまっている罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部受け負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせる、そのようにして人間の罪の償いを彼に果たさせたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。同時にそこに至る道を人間に切り開かれました。それでイエス様は復活と永遠の命を手に持っていらっしゃる方なのです。

 神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この世を去った後は、それこそ復活の日に眠りから目覚めさせられて永遠の命と復活の体を与えられて神のもとに永遠に迎え入れられます。

4.生き返りの奇跡の業の深い本当の意味

マルタはこのような復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活させて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しのお恵みにしっかり留まるだけです。

 ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

 イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼に復活の目覚めをさせる力があること、この2つを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

 以上、ラザロの生き返らせの奇跡の業は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の業の両方をもって、イエス様こそが復活と永遠の命を手中に収めており、それを私たちに与えて下さる方であることを示したのでした。これが、この奇跡の業が現す神の栄光です。これがこの奇跡の業の深い本当の理解です。

4.おわりに

最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つ目は、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書を見ても皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。

 もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている地方に行くのは危険です、と押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。

「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」

 分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある。明るさと暗さが危険とどう関係するか考えてみなさい。太陽が照る日中は明るいから転んだり何かにぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、あなた方がこの世の光である私を見て、私もあなた方の内にいると言えるくらいに私と結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。当時の弟子たちと違って私たちはイエス様を肉眼の目では見れませんが、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を霊的な目れれば、イエス様というこの世の光を持てていることになり、守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになり危険に晒されてゴールに到達できないということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「聖霊とキリスト信仰者は風のごとく往く」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書3章1-17節

2023年3月5日(日)四旬節第二主日 主日礼拝
聖書日課 創世記12章1~4a節、ローマ4章1~5、13~17節、ヨハネ3章1-17節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに ニコデモ - 自省するファリサイ派

 本日の福音書の日課の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在である、しかし、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられる、これが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はイエス様を贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救う、人間が神に国に迎え入れられるようにするということ。今日はこれらのことについて少し詳しくみていきます。

 まずニコデモという人について。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべきと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

 そこにイエス様が歴史の舞台に登場しました。彼が数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。

 全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このやり方で神の前で清くいられるだろうか、神に義とされて天の御国に迎え入れられるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するタイプのファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50

52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、ローマ帝国総督のピラトのもとに行き許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節))。

2.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。イエス様はニコデモにイエス様はいきなり言われます。

「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)

 「新たに生まれる」ということについて注意します。それは、「生まれ変わる」ということと全く違います。例えば、自分は前世では誰々だったが、今の自分はその生まれ変わりであるなどと言う人がいます。こういう考えを輪廻転生と言います。そこまで大胆でなくとも、今度生まれたら金持ちになりたいとか、有名人になりたいなどと言う人は沢山いると思います。あるいは、赤ちゃんが生まれた時、亡くなったおじいちゃんかおばあちゃんに似ているので、この子はおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うのもよく聞かれると思います。

 聖書の信仰には輪廻転生はありません。私この吉村博明はこの世から死んだ後は何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられてイエス様のおかげで(※)朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。それでは、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」とはどういうことでしょうか?(※ この「イエス様のおかげで」を礼拝の説教では「運が良ければ」と言ってしまいました。「イエス様のおかげで」ということは本説教の後で強調されることなので、ここでは冗談ぽく言っておこうという軽い気持ちでした。礼拝後のコーヒータイムで教会員から、とても気になったとご指摘を受けました。良くなかったと反省しました。お詫びして訂正いたします。)

 イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありません。どんな誕生かは、次のイエス様の言葉を聞いてみましょう。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。

 イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。

 人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきますが、それはまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが新しく生まれることです。

3.肉的な存在から霊的な存在へ

 それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 なにかとても深いことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。気流の流れによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?

 さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架の死も死からの復活も起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれるということもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。加えて、風のたとえを難しくしているもう一つの理由は、ギリシャ語では「風」と「霊」は同じ言葉プネウマということです。イエス様とニコデモは間違いなくアラム語で会話しています。それが後にギリシャ語に翻訳されて新約聖書になりますが、アラム語でも「風」と「霊」は同じ言葉ルーァハです。それで、「風は思いのままに吹く」と言うのは、「霊は思いのままに吹く」と言い換えることができます。「霊」とは神の霊、聖霊のことです。「聖霊」の場合は「吹く」と言わずに「往く」と言った方がよいでしょう。ギリシャ語の意思を表す動詞テロ―が使われているので、風の場合は「思いのままに吹く」でいいですが、聖霊の場合は「自分の意思に従って往く」という意味になります。洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者もそうであると言うのです。そうならば、聖霊もキリスト信仰者もどこから来てどこへ往くのか誰にもわからないというのはどういうことなのか?それについては後で見ることにして、今はイエス様とニコデモの対話に戻ります。

 理解できず困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。

 イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から新しく生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうすることで神の国に迎え入れらえるようになること、こうしたことが、どのようにして起こるのかについて明らかにします。

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」

 ここでイエス様は、「水と霊による新たな生まれ」を起こすのは他ならぬ自分であると教えます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」

 モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で作った蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、どのように起こるのでしょうか?

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられたのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持てるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。

 それでその後は人間が、これらのことは本当に起こった事でありイエス様は本当に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになり、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を持てて万物の主である神のもとに永遠に迎え入れられます。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。

4.聖霊とキリスト信仰者は風のように往く

 このように洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は復活の日に永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられるということがわかりました。それが、イエス様の風のたとえとどう結びつくでしょうか?先にも申しましたが、アラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。ここでイエス様は両方をひっかけて教えているのです。このたとえで教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。

 これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまる。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちも見えるし声も聞こえるから実在するのはわかる。しかし、聖霊と同じように、あくまで自分の意思に従って往くので肉的な人にはわからない。このことはパウロが第1コリント2章14~15節で言っていることと一致します。

「肉的な人は聖霊が示すものを受け入れない。なぜなら、肉的な人にとってそれは馬鹿げたことだからだ。それは、霊的な状態をもって吟味されるものである。だから、肉的な人には理解できない。霊的な人がそれを吟味する。しかし、霊的な人は肉的な人から吟味されない。」

 それでは、洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は、肉だけの人と何が違うのでしょうか?以下それを見ていきます。そこで聖霊の働くについてもわかってきます。

 キリスト信仰者は新たに生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めように、「他人のものを自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんかどうでもいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。

 まさにこの時が聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって神罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲となったおかげと、あなたにあの方を真の救い主と信じる信仰があるおかげで、神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先に赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。

神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」

 この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。しかしながら、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。実はこうすることが、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きていることの証しなのです。

 このような聖霊が働く内なる霊的な戦いは、本当に内なる戦いなので、外部の人、肉的な人には信仰者の内で何が起きているのかはわかりません。肉的な人にはそのような内なる戦いは無意味なものです。なぜなら、肉的な人にとって、例えば人を傷つけるようなことを言ったり行ったりしなければ十分である、心の中まで神の意思に照らし合わせたら身が持たないと言うでしょう。しかし、霊的な戦いに身を投じた人は、イエス様が救い主になっているので心の中まで神の意思に照らし合わせても大丈夫なのです。ここのところが肉的な人にとって理解できないところになると思います。

 たとえ肉的な人がわからなくても、キリスト信仰者は内なる霊的な戦いは全て自分をゴールに導く戦いであるとわかっています。ゴールは復活の日に神の御国に迎え入れられるところです。かの日、天地創造の神のみ前に立たされる日、神は、キリスト信仰者が旧い世で罪を内に持っていたにもかかわらず、罪の赦しのお恵みに留まって罪に与せず罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。その時、霊的な戦いは終結します。なぜなら、肉の体に代わって神の栄光を現す復活の体を着せられるからです。キリスト信仰者が受ける栄冠です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

説教「この地上の世界が天の御国と接するところ」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書17章1-9節

2023年2月19日(日) 主の変容主日 主日礼拝

聖書日課 出エジプト記24章12-18節、第二ペトロ1章16-19節、マタイ17章1-9節

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説教題 「この地上の世界が天の御国と接するところ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

本日の福音書の日課は、イエス様が高い山の上で姿が変わるという変容の出来事についてです。弟子のペトロとヤコブとヨハネがそれを目撃しました。この出来事は、私たちルター派は聖餐式をどう考えているかを理解する手助けになると思います。今日はそのことについてお話しします。

聖餐式はキリスト教会の神聖な儀式ですが、それがいかなる儀式かについて教派によっていろいろ考え方の違いがあります。ルター派の考え方は、アウグスブルク信仰告白の第10条に端的に述べられています。「聖餐式ではキリストの体と血は本当にそこにあるのであり、キリストの体と血は受け取って摂取する者に分け与えられるのである。」

「キリストの体と血」と言うように「体」と「血」を別々に言っていますが、「体」と「血」というのは合わせて人そのものを意味します。それで、聖餐式ではキリストそのものがそこにおられ、聖餐に与る者はパンとぶどう酒を口にすることでキリストを摂取するということになります。ここで理解できないことがいろいろでてくると思います。これからそれらを一つ一つ見ていきますが、まず初めに忘れてはならない一番大事なことは、ルター派にとって聖餐式とは、イエス・キリストが本当にそこにいるという儀式であるということです。確かに目には見えないが、実は本当にそこにいるというのです。ラテン語の原文で「本当に、実際に」と強調しているのはそのためです。

見えないのにいるだなんて、まるで幽霊みたいで気持ち悪いと思う人も出るかもしれませんが、でも、幽霊とかそういう問題ではないのです。それは聖餐式のパンとぶどう酒は何かがわかるとわかります。ルター派では、正当に職務に定められた牧師が聖餐式を執り行います。その時、儀式の設定のための聖句をパンとぶどう酒に語りかけると、パンとぶどう酒はただのパンとぶどう酒ではなくなって聖餐式用のパンとぶどう酒に変わる、つまりイエス・キリストがその場に本当にいることを可能にするパンとぶどう酒に変わるというのです。

それは、パンとぶどう酒を介してイエス・キリストがその場にいるということです。パンとぶどう酒を介してその場にいるということをルター派は次にように説明します。キリストがパンとぶどう酒の中におられる、パンとぶどう酒と共におられる、パンとぶどう酒という外見の下におらえる、そういう、中に、共に、下に、という三つで、キリストとパンとぶどう酒の結びつきを考えます。

なぜルター派は聖餐式をこのように考えるのかと言うと、それが、イエス・キリストの本質にピッタリあうからです。イエス・キリストの本質とは、神であり同時に人間でもある方であるということです。外見は紛れもなく人間であるが、外見の下に神のイエス・キリストもあるということです。このように、神という超越するものが人間という超越していないものと組み合わさっているというのがイエス・キリストの本質です。聖餐式でイエス様が本当にいるというのも、パンとぶどう酒という超越していないものにイエス・キリストという超越したものが組み合わさっているから本当にいるのです。

他の教派の聖餐式の考え方と比べると違いがはっきりします。カトリック教会は、パンとぶどう酒は本当にイエス様の血と肉に変質すると強調します。イエス様が、これは私の肉である、私の血である、と自らおっしゃったからです。もちろんパンはパンの味で、ぶどう酒もぶどう酒の味のままですが、聖餐式で摂取するのは本当はパンではなくイエス様の肉であり、ぶどう酒ではなくイエス様の血なのです。恐ろしい位に神聖な感じがします。しかし、そうなると、パンとぶどう酒はなくなってしまうことになり、全てのものが超越的なものになります。ルター派のポイントは、超越的なものが超越的でないものと組み合わさっているというものです。

これと対照的に宗教改革のもう一つの雄であるカルヴァン派は、聖餐式はイエス様が裏切られ十字架にかけられる出来事を記念する儀式であることを強調します。イエス様が記念のためにこれを行いなさいとおっしゃったからです。しかし、そうすると、超越的でないパンとぶどう酒はあるが、超越的なものとそれはどう結びつくのだろうかとルター派は考えてしまいます。

もちろんカトリックもカルヴァン派のどちらも聖書の中のイエス様の言葉に基づいて聖餐式を考えます。イエス様はこれは私の肉である、血であると言っているし、また、記念のために行いなさいとも言っています。じゃ、ルター派はそれらの言葉をどう考えるのか?この問題について、ルター派は彼らのような明快な答えは出せないと思います。それでも、ルター派はやはり、イエス・キリストは神であり同時に人間であるお方であるということにこだわって聖餐式を考えます。それなので、イエス・キリストはパンとぶどう酒を介して本当にそこにいるという立場を取らざるを得ないのです。このように聖餐式の考え方の違いがキリスト教会を分裂させているというのは残念ながら本当のことです。私は、ルター派の立場で話を進めていきます。

2.

さて、聖餐式でイエス・キリストが本当にそこにいるとなると、一つ大きな疑問が起きます。それは、イエス・キリストは復活して天に上げられて今は最後の審判と天地の再創造の日まで天の父なるみ神の右に座している、と毎週礼拝の使徒信条で唱えているではないか、それとどうかみ合うのか?という疑問です。天のみ神のところにいるはずなのに聖餐式の時に降って来るのか?しかも、聖餐式が同じ日に多くの教会であったら、イエス・キリストはそのどこにでもいるということなのか?それでは分身の術を使っているみたいではないか。天にいるはずなのに聖餐式の時になると降って来て、しかも同時多発的に降って来て、聖餐式が終わるとまた一斉に天に戻るということなのか?

もちろん、そういうことではありません。イエス・キリストはもちろん聖餐式の時も天の父なるみ神の右に座したままです。それならば、聖餐式の時に本当にいるというのはどういうことなのか?この種の疑問は信仰歴が長い方はさほど問題に考えていないと思います。人間の理解力では理解できないが、そういうものなのだ、と受け入れているからです。ルター派はそういう諦めのよさがあると思います。およそ神に関することは人間の理性や理解力では把握できないことだらけである、もし把握できてしまったら、それは神が人間並みになってしまうことだ、だから、こうとしか言いようがないことはそうしかない、イエス・キリストは天の父なるみ神の右に座していると同時にこの地上での聖餐式にも本当におられる、そこには時間と空間を超えた途轍もないことがある、そう観念してしまうのです。そうすることで、自分を神よりもはるかに劣った者に、神を自分よりもはるかに高い方に留めておくのです。私もそのように観念するようになっていったのですが、聖書のみ言葉そのものがそう観念するように導いたと思います。今日の高い山の上での出来事も、よく見ると、天にいるイエス・キリストが聖餐式の時にもいるということは可能であると納得させてくれるところです。これからそれを見ていきましょう。

3.

高い山の上で何が起こったでしょうか?イエス様が変容して光り輝き出しました。そこにモーセとエリアが現れて弟子たちの見ている前でイエス様と話し始めました。ペトロが三人のために幕屋を建てますと言った時、輝く雲が三人を覆って、雲の中から神の声が轟きました。「これは我が愛しむ子なり、わが悦ぶものなり、汝ら之に聴け」と。弟子たちは恐れおののいて地に伏してしまいました。するとイエス様が彼らの所に来て、手でさするか軽く叩くかして安心させるように言いました。「起きて立ちなさい。恐れなくてもよい。」弟子たちが恐る恐る目を開けてみるとイエス様の他にはもう誰もいませんでした。イエス様も変容する前のイエス様に戻っていました。以上が、山の上での出来事でした。山から下る時、イエス様は弟子たちに、この出来事は自分が死から復活した後で公けに話すようにと命じました。

初めに、イエス様が白く輝いたことについて。イエス様の顔が太陽のように輝き出して、着ているものも白く光り出しました。黙示録1章16節を見ると、ヨハネが天の父なるみ神のもとにいるイエス様を目撃します。その顔は太陽のようであったと言います。私たちは太陽を目で見ることはできません。ほんの瞬きする間くらいしか見れません。その色は白に近いですが、輝きが強烈すぎて見極めることのできない白です。イエス様の顔も着ているものも白く輝いたというのは、このヨハネが目撃した、天のみ神のもとにいるイエス様と同じです。つまり、山の上でイエス様は神としての本性を現わしたのです。人間の外見が外されて、外見の下に隠されていた本性が現れたのです。

そこにモーセとエリアが現れました。二人の出現はこの出来事を理解する上でとても大事です。かたや紀元前1300年代、かたや紀元前800年代の遥か昔にこの世を去った人たちです。これは幽霊でしょうか?でも、幽霊だったら、ペトロたちはきっと恐怖に慄いたでしょう。彼らはイエス様が死から復活して目の前に現れた時、幽霊だと思ってパニックに陥りました(ルカ24章36~43章)。しかし、山の上ではそうなりませんでした。どうしてでしょうか?

当時、ユダヤ民族の間ではエリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10ー11節、マルコ9章11ー12節)。この世の終わりが近づくと、天からエリアが再臨して神の裁きを準備するというのです。つまり、エリアは天のみ神のもとにいて待機しているのです。でも、これは変です。聖書には死者の復活ということが言われているのではなかったか?この世が終わる時に最後の審判があって、死んだ者と生きた者が一緒に裁かれる、そこで神の目によしとされた者は復活の体を与えられて神の国に迎え入れられる。そうすると、最後の審判の日の前にこの世を去った者たちは神のみぞ知る場所にいて眠りについていることになります。眠りから目覚めさせられるのが復活ということになります。これが聖書の立場です。それなので誰が天国に行けるのか行けないのかという問題は、この世の終わりまで待たなければわからないのです。それなのに、モーセとエリアが天から来たというのは、この世の終わりを待たずに天国に入れたということになります。

エリアに関して言えば、その点は問題ないと思います。というのは、列王記下2章にあるように、エリアは生きたまま神のもとに引き上げられたからでした。それでエリアは既に天のみ神のもとにいて、世の終わりの時に再臨すると信じられたのです。このように聖書は、将来の終末や復活の日を待たずして既に天に迎え入れられた者があるということを認めているのです。ところが、モーセの場合は少しやっかいです。申命記34章を見ると、彼はモアブの地で死んだとありますが、神自身が彼を葬ったので誰も彼の埋葬地を知らないと謎めいたことを言っています。それで、モーセは一度死んだが復活の日を待たずして神のみ許に引き上げられたと考えることが可能です。実際、イエス様の時代のユダヤ教社会にはモーセは既に天に上げられたと伝える書物「モーセの昇天」があったのです。ただし、その書物は一部分しか現存しておらず、肝心のモーセの昇天のところは欠けていて、残っているのはモーセがヨシュアに預言を述べる部分だけです。

そうなると高い山の上での出来事は、復活の日を待たずにして天に迎え入れられたモーセとエリアが神の本性を現わしたイエス様と一堂に会しているということになります。そして輝く神の雲が現われ、その中から神の声が轟きました。天の御国がすぐそばにあったことになります。高い山の上で、天の御国の扉が開いたのです。ところで、神がおられる神の国は天の国と呼ばれるので、いつも空の上にあるようなイメージがわきます、しかし、それは高度何万メートルの高い所とか宇宙空間にあるのではありません。天と言っているのは、私たちの手に届かない所にあるということを象徴的に言っているのです。神の国は、目で見えて触ることができるこの世の反対側にある世界だとイメージしたほうがいいと思います。こちらの世界の裏側に天地創造の神がおられる世界がある、と言うか、あちらが表でこちらが裏と言うのが正解でしょう。とにかく、そんな次元が全く異なる世界があるのです。その世界が高い山の上で間近にあった、あたかもその世界の扉が高い山の上で開いたのです。

イエス・キリストが聖餐式に本当におられるというのも、山の上の出来事と同じように考えてよいと思います。正当に職務に定められた牧師がパンとぶどう酒に御言葉を語りかけて聖餐式が始まる段になると、そこで天の御国の扉が開いてイエス・キリストがそこにおられるのです。全ての聖餐式が行われるところで扉が開き、全てが一つの御国におられる一人のイエス・キリストに通じるように接するのです。同時多発的に降って来るなんてことはないのです。御言葉を語りかけられて聖餐式用に変えられたパンとぶどう酒、それらが御国の扉を開いてイエス・キリストに接近できるという途轍もない状況を生み出しているのです。真に聖餐式の場はこの地上の世界と天の御国が接するところです。

4.

実に、この途轍もない状況を生み出しているパンとぶどう酒を私たちは頂くのです。アウグスブルク信仰告白の第10条では、「キリストの体と血は、これを受け取って摂取する者に分け与えられる」と言われます。私たちが本当にいるイエス・キリストを摂取するというのはどういうことでしょうか?イエス様を食べてしまったら、いなくなってしまうではないかと心配する人もいるかもしれません。それになんだか人食い人種みたいです。

そういうことではありません。イエス・キリストを摂取するというのは、イエス様が自分の命と引き換えにしてまで私たち人間に果たしてくれたものを摂取するということです。彼が命を犠牲にしてまで私たちに果たしてくれたものとは、人間の罪の償いであり、人間を罪の呪いから贖うことです。イエス様はこれをゴルゴタの十字架の上で果たされました。

私たち人間は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって、これを自分のものにできます。罪を償われ、罪から贖われたので、神から罪を赦されたものと見なされて神との結びつきを持ってこの世を生きることができるようになります。

しかしながら、キリスト信仰者と言えども、まだ肉をまとっており、それは神の意思に反しようとする性向、罪を宿しています。そのためにキリスト信仰者は罪の自覚とそこから来る罪の赦しの祈り、それに続く罪の赦しを頂くことを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消えないから罪に負けているように感じます。しかし、この繰り返しは、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きている証しです。この繰り返しは実は、罪を手段にして神との人間の結びつきを失わせようとする悪魔にとって痛手になるものです。繰り返しをやめるようにとあの手この手を使って人間をそそのかしたりやる気を失わせようとします。

これに対して聖餐式のパンとぶどう酒は、キリスト信仰者が洗礼の時に自分のものにした罪の償いと罪からの贖いを手放さないようにする力を与えます。罪の自覚と赦しの祈りと赦しを頂くことの繰り返しを続ける力を与えます。聖餐は真にキリスト信仰者の霊的な栄養なのです。私たちが聖餐を受ければ受けるほど悪魔は苦しくなって叫び声をあげます。詩篇23篇の5節で「主は私の敵の前で私のために食卓を整えて下さる」と言っているのはまさに聖餐式のことです。新共同訳では「私を苦しめる者を前にしても」ですが、それでは聖餐式のことを言っているのか見えにくくなります。せっかくヘブライ語の言葉ははっきり「私の敵」と言っているのだから、そう訳すべきでした。

最後に聖書の原語からもう一つ、聖餐式の神秘に近づける発見があるのでお教えします。新共同訳ではイエス様と三人の弟子が「高い山に登られた」と言っています(1節)。ギリシャ語原文では、イエス様は三人を「運び上げた」と言っています。単に「登った」というのは無責任な訳だと思います。「運び上げた」のです。「運び上げた」とはどういうことでしょうか?舞台になっている「高い山」は間違いなく、現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山という標高2814メートルの山です。麓のフィリポ・カイサリアの町から出発したら標高差2000メートル以上を登らなければなりません。目的も告げられず登山につき合わされた三人の弟子たちはなんでまたこんなことを、とブツブツ言いながら登ったのか、それでイエス様はおんぶとまではいかなくとも、叱咤激励しながら登ったので「運び上げた」という言い方をしたのか?真相はわかりません。ただ、一つはっきりしていることは、イエス様は三人をこの地上の世界が天の御国と接する場所に連れて行った、そのことを「三人を運び上げた」という言い方は意味しているのです。

同じことは聖餐式でも起こります。聖餐式を行いなさいと命じたイエス様は、聖餐式に与る私たちキリスト信仰者をこの地上の世界と天の御国が接する場所に運び上げて下さるのです。聖餐式に与る度に、何度も何度も運び上げて下さり、最後は本当に天の御国に到達できるようにして下さるのです。そこには、神の神聖さに焼き尽くされないように守ってくれる雲はもうありません。肉の体に代わる復活の体を着せられた私たちにはもうそのような防御壁はなくても大丈夫だからです。パウロが、旧い世でおぼろに映ったものを見ていたことはなくなり、顔と顔を合わせてみることになると言っている通りになるのです(第一コリント14章12節)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

説教「キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり - 然らば、地の塩、世の光たるべし」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章13-20節

主日礼拝説教 2023年2月5日(顕現節第五主日)

聖書日課 イザヤ58章1-12節、第一コリント2章1-16節、マタイ5章13-20節

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説教題 「キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり - 然らば、地の塩、世の光たるべし」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちに君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言う個所です。弟子たちに言われたということは、私たちキリスト信仰者にも向けられた言葉です。「地の塩」、「世の光」とは具体的に何を意味するでしょうか?何か世の中のためになるもの、人々の模範になるような立派なものではないかという感じがします。16節に「立派な行い」なんて言っているからです。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。キリスト信仰者はもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?イエス様がそう言う以上、よーし、そうなるぞー、と気合いが入る人もいれば、逆に自分には無理と尻込みする人もいるかもしれません。しかし、気合いを入れるにせよ尻込みするにせよ、キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」というのは、イエス様が言う通り、既にそうなのです。だから、そういうものとして生きるしかないのです。それでは、「地の塩」、「世の光」とは何なのか?何か立派なものなのか?これについて後ほど見ていきます。

「地の塩」、「世の光」のことを言った後で、イエス様は自分のことを律法や預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために贈られたのであると。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は守ろうにも適用する対象がありません。ところが、人間の罪の償いのために犠牲の生贄が必要ということがあります。イエス様の十字架の死はそのための犠牲だったのです。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は適用できなくなっても、罪というものは神に対して償いをしなければならないということ、人間は罪の呪いから贖われなければならないということ、これは神殿がなくなっても、そのままです。だからイエス様の十字架の死と死からの復活は人間の救いのために今もなくてはならないものです。

このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様はさらに二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。

イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思に反する罪を持たない方、神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現している方です。預言とは、神と人間の断ち切れてしまった結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が贈られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書の中にある神の意思と計画を実現した方です。

ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫、申し分ないと認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。

2.「地の塩」とはどのような者か?

それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。

塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。

ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰が伴う状態で洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になる、するとそれはもう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。

本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に属する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント2章14節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた計画という神の知恵の現われであり、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた知恵なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の秘められた計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。

3.「世の光」とはどのような者か?

次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代にはイスラエルの地にもギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸から20~30キロ程のところにヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然と輝く光であるということです。

輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然としてある光です。

イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市や燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じように全ての人の前で光を放つのがキリスト信仰者であると言われます。そして、立派な行いがその光であると言います。人々は、キリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?

そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(58章6~8節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないことになると言っているのでしょうか?でも、そう言ってしまったら、人助けをしたくても、病気だったり障害があったり、または困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?

人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には、信仰者でない人にはない特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっている事情です。キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」になっているというのはこの事情があるからです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味しています。それなので、病気や困窮してしまって人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で困窮していない余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広いものが良い業であるということです。

光のように輝く良い業が人助けに限られないということは、本日のイザヤ書の箇所をもっと先まで読むと明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。

「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンはヘブライ語の辞書を見ると、魔術的な意味があるかどうかはクェッスチョン・マークと書いてあります。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。「有害な言葉」を神に向ければ第1から第3までの掟にも関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。

さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイザヤ書の狭い歴史の枠の中で考えると、イスラエルの民を外国の支配から解放して王国を復興させる時が来るという預言に解することができます。そうではなくて、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、この預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失って廃墟のようだった人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現したイエス様はもちろん、使徒たちのようなイエス様の良い業を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導く人たちも光を放つのです。

このようにキリスト信仰で良い業は人助けだけでなく十戒全体と結びついています。それに加えて、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。

4.ファリサイ派や律法学者の義に勝るキリスト信仰者の義

イエス様は、お前たちは「塩」である、「光」であるとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を言い表す言葉を付け足していったのです。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。

それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。この、神との結びつきが失われている地上にあって、この世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めます。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。

このことがわかったキリスト信仰者は、こんなすごいことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きるのが当然という心になります。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。

ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。だから、罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければという心を新たにします。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。

このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに踏みとどまって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。

ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために掟を守るというものです。だから、人間由来の義なのです。彼らは、掟を守る時に自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったら優越感にも浸ります。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、先に神から義と認められてしまう義です。ファリサイ派や律法学者のように人間由来の義ではありません。神に由来する義です。だから、勝っているのです。神に由来する義でそれを神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が自信の源になってしまっては、宗教的な行為を行っていても、肉だけの状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

 

 

2023年1月29日(日) 顕現節第4主日 主日礼拝

本日の説教は動画配信でご覧ください

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

ペンティ・マルッティラ牧師は、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターとともにSLEYのハメーンリンナ教会の牧師も兼任しています。SLEYで仕事をする前は「フィンランド福音ルター派ミッション(フィンランド語で「種まき人)」というミッション団体の宣教師としてモンゴルでキリスト教伝道をされたこともあります。