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主日礼拝説教 2023年11月26日 聖霊降臨後最終主日
聖書日課 エゼキエル34章11-16、20-24節、エフェソ1章15-23節、マタイ25章31-46節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
説教を始めるにあたって二つ申しあげねばならないことがあります。一つは、説教題が変わりました。説教を準備している時に内容がホームページや週報でお知らせした題に合うものから変わっていき、結局、今掲げている題のものになりました。説教をお聞きになれば、どうして新しい題になったかお分かりになると思います。もう一つは、今日本語訳の聖書を読んで気づいたのですが、37節と46節に「正しい人」が出てきますが、ギリシャ語原文ではデカイオスです。ルター派だったらこの言葉を聞くと信仰義認の「義」が頭に浮かび、「正しい人」と幅広く考えず、「義なる人」と考えます。フィンランド語の聖書もずばり「義なる人」と訳しています。「義なる人」がどんな人か、今日の説教でもお話しします。
さて、今日は聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の一年は今週で終わり、新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それはまた最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。
ところで誰も、最後の審判の時に自分が神からどんな判決を下されるか、そんなことは考えたくないでしょう。本日の福音書の個所はまさに最後の審判のことが言われています。牧師にとって頭の重いテーマではないかと思います。あまり正面切って話すと信徒は嫌になって教会に来なくなってしまうと心配する説教者もいるかもしれません。牧師によっては、地獄なんかありません、と言う方もおられます。そうすると、信徒さんたちは、ああ、よかった、さすが牧師先生、素晴らしい、となります。あるいは、聖書でイエス様はこう言っていますが、本当は言っていません、とか、こう言っているけど、イエス様の本意は別のところにあります、などと言う方もおられます。私としては、聖書にそう言っている以上は、そういうものとして取り扱うしかないと観念して話を進めてまいります。そういう観点で皆さんと一緒に今日は自分たちの信仰を自省することができればと思います。
本日の福音書の箇所は最後の審判について言われていますが、これはまたキリスト信仰者が社会的弱者やその他の困難にある人たちを助けるように駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終末の時に再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮者、特に子供たちに主の面影を見て支援に乗り出して行きます。
しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かになってしまう、つまり、人間の救いは善い業をしたかどうかに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の立場と相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本には、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場があります。
問題は、ルター派を越えてキリスト教のあり方そのものに関わります。善い業を行えば救われると言ったら、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。仏教徒だってイスラム教徒だって果てはヒューマニズム・人間中心主義を標榜する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っています。それを実践すればみんなこぞって神の国に入れると言ってしまったら、ヨハネ14章6節のイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?
この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言えば、本日の箇所は善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も信仰による救いを教えていることがわかります。これからそのことをみてまいりましょう。
最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、諸国民全てを御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで以前もお教えしたことですが、この審判の場では人々のグループは二つではなく、実は三つあります。何のグループか?40節をみると、再臨の主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言っています。日本語で「この最も小さい者」、「この」と単数形で訳されていますが、ギリシャ語原文では複数形(τουτων)なので「これらの」が正解です。一人ではありません。原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは」となります。つまり、第三のグループとしてイエス・キリストの兄弟グループもそこにいるのです。主は兄弟グループを指し示しながら、羊と山羊の二グループに対して「ほら、彼らを見なさい」と言っているのです。
それでは、このイエス・キリストの兄弟グループとは誰のことか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような社会的地位の低さも意味します。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような者たちです。社会の基準からみて価値なしとみなされる者たちです。従って、主の兄弟たちは子供に限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいでしょう。
それでは、この主の兄弟グループは、もっと具体的に特定できるでしょうか?それが特定できるのです。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこでイエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、伝道に派遣します。その際、伝道旅行の規則を与えて、迫害に遭っても神は決して見捨てないと励まします。そして、使徒を受け入れる者は使徒を派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41
42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」(ここではτουτωνをちゃんと複数形で訳しています)、「小さい」ミクロスμικροςという単語は、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが(マタイ18章6節)、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことを言っているので、「小さい者」は子供を指しません。使徒たちです。
使徒とは何者か?それは、イエス様が教えることをしっかり聞きとめよ、自分が行う業をしっかり見届けよ、と自ら選んだ直近の弟子たちです。さらに、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという良き知らせ、つまり福音を命を賭してでも宣べ伝えよ、と選ばれた者たちです。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。イエス様は弟子のことをどうして「小さい」とか「取るに足らない」などと言われるのか、それは、彼が別の所で弟子は先生に勝るものではないと言っているのを思い出せばよいでしょう(マタイ10章24節、ルカ6章40節)。
マタイ10章では、使徒を受け入れて冷たい水一杯を与える者は報いを受けられると言っていますが、本日の箇所も同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をして病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言っているのです。
このように、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すとすると、これを広く社会的弱者・困窮者と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは怒ってしまうかもしれません。支援の対象は福音を宣べ伝える使徒だなどとは、なんと視野の狭い解釈だ、と。しかし、これは解釈ではありません。書かれてあることを素直に読んで得られる理解です。そうなると、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう一般の弱者・困窮者の支援は考える必要はないということになるのか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということです。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになります。先ほども申しましたように、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは、別にキリスト教徒でなくてもわかり実践できます。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。あとでそのことも明らかになります。
それから、子供を助けることについては、別に本日の福音書の個所によらなくても聖書には他にもいろいろな御言葉があります。それらの御言葉は歴史的に重要な役割を果たしたのです。古代のギリシャ・ローマ世界には生まれてくる子供の間引きが当たり前のように行われていました。この慣習に最初に異を唱えたのがユダヤ人でした。旧約聖書に基づいて、人は皆、創造主の神に造られ、人は母親の胎内の中にいる時から神に知られているという立場に立っていたからでした。続いてキリスト教が旧約聖書を引き継ぎます。イエス様自身、彼を救い主と受け入れる子供たちは大人の受け入れ方に比して何も引けを取らないと言って子供を積極的に祝福しました(マタイ18章1~4節、19章13~15節、マルコ9章33~37節、10章13~15節、ルカ9章46~48節、18章15~17節)。また、イエス様を信じる子供を躓かせる者は最低最悪だと非難するくらい、子供の価値を高めたのもイエス様でした(マタイ18章6節)。結果、キリスト教が地中海世界に広まるにつれて間引きの慣習は廃れていきます。この歴史的過程とそこで影響を与えた聖書の個所についての研究もあります。(代表的なものとしてE.コスケン二エミが2009年に出した研究書があります。その中で、影響力を持った聖書の個所がいろいろあげられていますが、本日の福音書の個所はなかったと思います。)
以上、子供を大事なもの価値あるものと考える聖書の個所としては以上の個所を見ればよく、本日の箇所は使徒に関するものと言っても大丈夫なわけです。
さて、使徒たちが福音を宣べ伝えていくと、今度は人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろ支援してあげる人たちが出てくる。他方で福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出てくる。ここで注意すべき大事なことは、支援した人たちというのは、支援することで、逆に使徒の仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。そのような例は使徒言行録にも見ることができます(17章のヤソンとその兄弟たち)。
そういうわけで支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだからという同情心で助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音のゆえに彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのです。つまり、支援した人たちは福音を受け入れて、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った人たちです。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちです。また、一時信仰を持ったかもしれないが、いつしか宣べ伝えた人たちと距離を置き背を向けるようになった人たちもいます。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、受け入れても受け入れ続けたか続けなかったか、これが神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのです。そういうわけで、本日の箇所は、文字通り信仰義認を教えるもので、善行義認ではありません。
そういうわけで、神の国に迎え入れられるか否かの基準は実に、使徒を支援するのが当然になるくらい福音を受け入れるか否か、受け入れた福音を受け入れ続けたかどうか、ということになります。
ここで使徒たちが宣べ伝えた福音とは何かということについて復習しておきましょう。福音とは、要約して言えば、人間が堕罪の時に失ってしまっていた神との結びつきを、神の計らいで人間に取り戻してもらったという、素晴らしい知らせです。人間は堕罪の時以来、神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなってしまった。この世を去った後も自分の造り主である神の御許に永遠に戻れなくなってしまった。そこで神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部負わせてゴルゴタの十字架の上で神罰を下し、人間の罪を人間に代わって償わることにした。あとは人間の方が、これは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だと信じて洗礼を受けると彼が果たした罪の償いが自分のものになる。罪の償いが果たされたのだから、神から罪を赦された者と見なしてもらえる。罪が赦されたのだから神との結びつきが回復して、その結びつきを持ってこの世を生きることになる。この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになる。これが使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音です。
人間は、この福音を受け入れた時、もう神に対して背を向ける生き方はやめなければ、これからは神の方を向いて生きようと志向するようになります。万物の創造主である神が自分の側についてくれて、この世の人生を一緒に歩んでいてくれるとわかればわかるほど、自分の利害はちっぽけなものになり、自分の持っているもの自分に備わっているものを独り占めにしないで、それを他の人のために役立てようという心になっていきます。真に、キリスト信仰にあっては、善い業とは神に目をかけてもらうために行うものではなく、一足先に目をかけてもらったので、その結果、出てくる実なのです。
以上、今日の福音書の個所は善行義認を言っているように見えるが、実は信仰義認を言っているということをお話ししました。まだ納得いかないと言う人には、ダメ押しとして次のことをお教えします。
イエス様は羊に言いました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」実はこの部分のギリシャ語原文はわかりにくく、この訳はわかりやすくするためのぶった切りです。原文をぶった切りしないで忠実に見るとこうなります。「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にあなたがたが頑張ってした分は、私にしたことになる。」これでもわかりにくいですが、こういうことです。まず、複数いる兄弟たちの一人だけでも助けてあげたことが良しとされている。全員でなくてもいいのです。そして、あなたがたが頑張ってした分がイエス様にしたことになる。つまり、良い業のリストの中で何かしなかったことがあるかもしれない。食べさせてあげることはしたが牢屋に面会にはいかなかった。でも、それはとやかく言わないで、頑張ってした分に目を留めている。そういうふうに見ていくとイエス様は、福音を受け入れた人の場合、完璧な助けではなくても、天の御国に迎え入れる位に完璧なものとして認めて下さる、完璧でないところは目を留めないで下さるということが見えてきます。
同じように、イエス様の山羊に対する言葉を見てみます。「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」これもぶった切り訳なので、原文に忠実に見るとこうなります。「これらの取るに足らない者たちの一人にあなた方が怠ってしなかった分は私にしなかったことになる。」つまり、複数いる弟子たちの一人だけでも助けてあげなかったことが非難されるのです。全員助けてあげないといけないのです。そして、あなたがたが怠ってしなかった分がイエス様にしなかったことになる。食べさせることはしたが牢屋には面会に行かなかった。良い業のリストにあることを全部しないと天の御国に迎え入れられないと言うのです。つまり、福音を受け入れない人の場合、天の御国に迎え入れられるためには完璧な助けができなければいけないと言うのです。でも、それは無理な話です。だから、兄弟姉妹の皆さん、福音を受け入れて受け入れ続けることは本当に大きな安心になるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
ファーストアドベント
主日礼拝説教 2023年11月5日 全聖徒主日
聖書日課 黙示録7章9-17節、第一ヨハネ3章1-3節、マタイ5章1-12節
今年の日本のルター派教会の全聖徒主日の聖書日課は変則的に旧約聖書の箇所がなく代わりに黙示録の7章が定められています。著者のヨハネが遠い未来の出来事を天使から見せられる場面です。万物の創造主である神と救い主イエス・キリストの御前に世界中から数えきれない位の大勢の人たち、しかも純白に輝く衣を纏った人たちが集まる場面です。そして、福音書の方は、マタイ5章のイエス様の有名な「山上の説教」の初めです。「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。今から約2,000年前、地中海東岸のガリラヤ地方でイエス様が群衆を前にして教えたことです。黙示録の方は、イエス様の時代から60年くらい経った後に弟子のヨハネが神から啓示を受けて、今の世が新しい世に取って替わる時の出来事について見せられたことです。この二つは一見何の繋がりもないようですが、実は繋がっています。というのは、イエス様が「幸い」と言っている人たちはヨハネが見せられた大勢の純白の衣を纏った人たちのことだからです。今日はそのことについて見ていきます。
まず、黙示録7章を見てみましょう。玉座には万物の創造主である父なるみ神がいます。その傍に御子イエス・キリストがいて小羊と呼ばれます。玉座を前にして純白の輝く衣を纏った世界中から集められた大勢の者たちが神と小羊を賛美している場面です。彼らは大声で叫びます。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊のものである。」「神と小羊のもの」と言ってしまうと、あれっ、私たちのものではないの、ということになってしまいます。ギリシャ語の文法書によれば、「救いは神と小羊のところにある」とも訳せるので、そう訳します。救いは神と小羊以外のところにはないということです。純白の衣を纏った者たちはその神と小羊の御前に来たのです。まさに救いがあるところにです。この場面はまさに、今ある天と地が終わりを告げて最後の審判と死からの復活が起こった時のことです。神が新しい天と地を創造して、そこに神の国が現れて神に義とされた者たちが迎え入れられた場面です。
そう言うと一つ疑問が起きます。あれっ、ここはまだ7章じゃないか?最後の審判と復活は20章に出てくるし、新しい天と地の創造と神の国への迎え入れられも21章のことではないか?実は黙示録というのは、最終的に起こることをプロセスの途中で垣間見せることがあります。19章がそうです。復活を遂げて神の国に迎え入れられた者たちがキリストと結ばれる婚宴の祝宴の場面です。この祝宴も新しい天と地のもとでの神の国のことです。このように黙示録の話の流れは単純な一直線ではありません。大事なことは、このような垣間見せがあるおかげで、最終目的地に至る途上でどんな苦難や困難に遭っても、私は今垣間見せてもらった場面の当事者になるのだ、今そこに向かって進んでいるのだ、と励ましと力づけを得られるのです。
この場面を見せられたヨハネは、これら純白の衣を纏う者たちはどうなるかについて聞かされます。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽もあらゆる灼熱も彼らを襲うことはない。」これはイザヤ書49章10節にある預言です。太陽や灼熱は身体的な苦痛だけではありません。マルコ4章のイエス様の種のたとえにも出てくる迫害も意味します。「小羊が牧者となり、命の水の泉へ導く」とは詩篇23篇の言葉です。「神が彼らの涙をことごとく拭われる」というのも、イザヤ書25章8節の預言です。8節全部はこうでした。「主なる神は、死を永久に滅ぼされる。全ての顔から涙を拭い、ご自分の民が受けた恥や屈辱を地上から一掃される。」
これを語る長老はヨハネに、純白の衣の者たちにこれらの預言が実現したと言っているのです。彼らが父なるみ神と御子キリストの御前に立つ時に預言は全てその通りになっているのだと。飢えも渇きも迫害も苦痛もなく、命の水の源がそこにあり、涙も苦痛のだけでなく無念の涙も全て拭われていると。まさに、最後の審判と死からの復活を経て神の国への迎え入れが起こったのです。
さて、これらの神とキリストの御前に集う純白の衣の者たちは一体誰なのか?それは、イエス様の山上の説教の「幸いな者」の教えからわかります。
イエス様は山上の説教の出だしの部分で「幸いな人」について教えます。9つのタイプの人たちが「幸い」と言われます。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、イエス様のために罵られ迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人です。これを読んで違和感を抱く人もいると思います。心の清い人や平和を実現する人が幸いな人というのはわかるが、悲しんだり迫害される人を幸いというのは当たっていないのじゃないかと。「幸い」というのはギリシャ語のマカリオスμακαριοςの日本語訳です。「幸せ」ではなく「幸い」と訳されました。普通の幸せではない、何か特殊な「幸せ」なので「幸い」と訳されました。以前にもお教えしましたが、「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとっての幸せだという、神の視点での幸せです。人間が自分でこれが幸せだと言うのとどこか違います。どう違うのか?重なる部分もあるのですが、人間の視点では幸せとは言えないことでも、「幸い」であるということもあるのです。それで、人間的な視点での「幸せ」からちょっと離れて神の視点での「幸い」とは何かを考える必要があります。
そこで、イエス様のこの教えを最初に聞いた群衆は9つのタイプの人が神の視点で幸せ、幸いであるとわかったでしょうか?私が思うに、彼らにはちんぷんかんぷんの教えだったのではないかと思います。どうしてかと言うと、ユダヤ教社会の伝統では「幸いな人」とは、旧約聖書の詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神から愛顧を受けられる人のことだからです。ヘブライ語でアシュレーと言います。また、詩篇の第32篇を見ると、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫な人のことをアシュレー/幸いと言っています。だから、イエス様の「幸いな人」の教えは全然かみ合わないのです。
それでも群衆は、出だしがちんぷんかんぷんだから、もうやめた、とはならないで、まだまだ続く山上の説教を最後まで聞いていきます。どうして彼らは最初で帰ってしまわず、最後まで聞いたのでしょうか?それは、イエス様の教え方がとても力強いので何かとてつもないことを言っているとすぐわかったからです。どこが力強いかと言うと、心の貧しい人たちは幸いである、正しい訳は「霊的に貧しい人たちは幸いである」です、そう言ったあとで、どうしてそういう人たちが幸いなのか、その根拠を述べるのです。「なぜなら神の国はその人たちのものだからだ」と。新共同訳では「なぜなら」が抜け落ちていますが、ギリシャ語原文ではあります。霊的に貧しい人は幸いである。なぜなら、神の国はその人たちのものだからだ、それで幸いなのだと。他のタイプも皆同じです。
悲しんでいる人たちは幸いである。なぜなら、彼らは慰められるからだ、柔和な人たちは幸いである、なぜなら、彼らは地を受け継ぐことになるからだ、と幸いであるという根拠を述べることで、霊的に貧しいこと、悲しんでいること等々、ユダヤ教社会の伝統から見て、あまり幸いと言えない状態なのが後で大逆転するようなことが起こる、それで幸いだと言うのです。普通だったら、律法を守る人は幸いである、なぜなら神はその人を祝福して下さるから、と言うところを、全く別次元の幸いについて教えているのです。群衆は、一体なんなんだ、この教えは?そういう驚きが起こったことは想像に難くありません。
ところで、律法を守るというのは、神の意思に沿うように生きるということです。そのように生きて守って、その見返りとして神に見守ってもらう、もし神の意思に反する罪があれば赦しを頂いて神との関係をしっかり保って再び神から見守られて祝福を与えられて生きる、これがユダヤ教社会にとって幸いでした。それでは、人間はどのようにして罪を赦されて神とそのような結びつきを持てるのでしょうか?ユダヤ民族の場合は、エルサレムの大きな神殿での礼拝が罪の赦しを実現するとして行われていました。律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでした。それで、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、神の意思に反した罪が赦されて神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
そこに神のひとり子イエス様が神の御許からこの世に贈られて歴史の舞台に登場しました。神とイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守り、神の意思に沿うように生きていると言っているが、実は心に留めてもいないし本当は守ってもいない。人間の造り主である神はお前たちが心の底から神の意思に沿う者であることを望んでおられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は罪の赦しはもうそこにはない。神が預言者たちを通して言っていたように、毎年繰り返される生け贄捧げの儀式はもう形だけのものになってしまって心の中の罪を野放しにしてしまっている。それなので私が本当に神の意思をお前たちの心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えてあげよう。本当の罪の赦しを与えられた時、お前たちは本当に神の意思を心に留められるようになる。その時お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが本当に幸いなことなのだ。なぜなら、それがお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しだからだ。これがイエス様の教えの趣旨でした。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、神の意思を心に留められるようにして人間を「幸いな者」にしたのでしょうか?それは、イエス様が父なるみ神の大いなる意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡すことで全ての人間の罪の神罰を人間に代わって受けられたことで果たされました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。
この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の赦しがその人に効力を発揮します。その人は「神の国」に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。イエス様を救い主と信じる信仰が伴う洗礼を受けた者は、使徒パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様をあたかも衣のように頭から被せられるのです。黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことでした。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。
このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を進みます。これが「幸いな者」です。その幸いな者が、霊的に貧しかったり、悲しんでいたり、柔和だったり、義に飢え乾いたり、憐れみ深かったり、心が清かったり、平和を実現したり、義のために迫害を受けたり、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに悪口を叩かれたりするのです。そうしてそれらが幸いなのかと言うと、全てが大逆転する神の国を今既に自分のものにしていると言える位、確実にそこに向かって進んでいるからなのです。実に9つのタイプは全てキリスト信仰者に当てはまることなのです。イエス様が山上の説教をしたのはまだ十字架と復活の出来事の前でしたので聞いた人たちが理解できなかったとしても無理はありません。しかし、十字架と復活の後で全てはキリスト信仰者の生きざまを言い表しているとわかるようになったのです。
このように「幸いな者」は、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰を携えてこの世のいろんなことに遭遇しながら、神の国への迎え入れを目指してこの世を進んでいく者です。しかしながら、「幸いな者」になったとは言っても、この世ではまだ朽ちる肉の体を持っています。それで、神の意思に反する罪をまだ内に宿しています。そのため信仰者は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。これが霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは真に私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは犯さないように」と言って下さいます。それで、神の小羊の血が私たちに被せられた衣の白さを保ってくれます。
キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。神が満たしてくれる方であるとわかればわかるほど、本日の詩篇の日課34篇や23篇に言われるように「私には欠けるものがなにもない」というのが本当になります。それくらい自分は霊的に満たされているとわかると、神に対してだけでなく隣人に対しても自分を小さく低くすることができるようになります。それが柔和さとか憐れみ深さとか心の清さということになります。ただ、現実の人間関係の中で自分を小さく低くすることができなくなることがあります。それで柔和さや憐れみ深さや心の清さを失ってしまいます。しかし、ゴルゴタの十字架に戻る度にまた霊的に満たされます。「平和を実現する人」とは、何か戦争を終結させたり、紛争の根を絶やす活動、今世界で一番求められる活動です、そんな崇高な活動のイメージが沸きます。しかし、平和の実現はもっと身近なところにあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、自分が霊的に満たされているとわかれば、自分を小さく低くすることができるのです。
そうこうしているうちに歩んできた道も終わり、復活の日に眠りから目覚めさせられて神のみ前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚しています。あの滅び去った古い世で神の意思に反することが自分にあった。人を見下すこと罵ること傷つけること不倫や偽証や改ざん等々、たとえ行いや言葉に出すことはなくとも心の中で持ってしまったことがあった。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりだ。何度も何度も十字架のもとに立ち返った。ひょっとしたら、弱さのために行いや言葉に出してしまったこともあったかもしれない。いや、あった。しかし、それを神の意思に反することとわかって悔いて神に赦しを祈り願った。本当にイエス様の十字架のもとでひれ伏して祈った。神さま、本当にイエス様を救い主と信じる信仰が私にとって全てでした、そう神に申し開きをします。イエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、洗礼の時に着せられた純白の衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力や汚そうとする力が襲いかかっても、お前はそれをしっかり掴んで離さず、いつも罪の赦しの恵みの中に留まった。その証拠に私は今、お前が変わらぬ純白の衣を着て立っているのを目にしている。」
そのように言われたら、私たちはどうなるでしょうか?きっと感極まって崩れ落ちて泣いてしまうのではないか。そして立ち上がって周りにいる者たちと一緒にこう叫ぶでしょう。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある、他にはない!」
η σωτηρια τω θεω ημων τω καθημενω επι τω θρονω και τω αρνιω!
幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は!
Μακαριοι οι λευκαναντες τας στολας αυτων εν τω αιματι του αρνιου!
主日礼拝説教 2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日
聖書日課 イザヤ45章1-7節、第一テサロニケ1章1-10節、マタイ22章15-22節
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「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。この言葉は何かとても大きなことを言っていると感じさせます。一方はこの世の権力の頂点に立つ者、他方は万物の創造主である神。イエス様は私たちキリスト信仰者に、この世の権力と創造主の神という二つのものにどう向き合うべきかについて教えています。どう向き合うべきか?今日の説教は、そのことを明らかにしていこうと思います。
まず、この言葉が出てくる原因となった質問を見てみます。イエス様に反対する者たちが聞きました。「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか。」私たちの新共同訳では「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか、適っていないか」ですが、ギリシャ語の原文を見ると「律法に適って」はありません。そういう訳をしたのは、ひょっとしたらその言葉が入っている写本があるのかと思ってチェックしたのですが、どうも見当たりませんでした。それで「律法に適って」は翻訳者が勝手に付け加えたものと言えます。それを付け加えた気持ちはわからないではないですが、私はここは原文通りに付け加えない方が本来の意味のためによかったと思います。このことについては後でまたお話しします。
それでは、どうしてイエス様の反対者はそんな質問をしたのでしょうか?ここには、とても大きな歴的背景が横たわっています。
ユダヤ民族の居住地域は紀元前63年までにローマ帝国の支配下に入ります。ローマ帝国はこの地域を直接支配せず地域の実力者を通して間接支配します。民族の実力者にヘロデというユダヤ民族出身でない者がのし上がります。彼はローマ帝国に上手く取り入って王の地位を認められ、エルサレムの神殿を大増築してユダヤ民族の支持も獲得します。このヘロデ王はベツレヘムで生まれたばかりのイエス様の命を狙うことになる王です。ヘロデ王の没後、この主権を持たない王国は二人の息子に分割され、一人はガリラヤ地方の領主、もう一人はユダ地方の領主という具合に王から領主に格下げになりました。本日の日課の中にヘロデ派というのが出てきますが、ヘロデ王朝の支持者で、要はローマ帝国のお情けのもとで権力を保持できればいいという人たちだったと言えます。ユダ地方の領主が死んだ後、同地方は帝国から派遣された総督が直接支配するようになります。要所要所に異国の軍隊が駐屯して目を光らせています。帝国には税金も納めなければなりません。ユダヤ民族の完全な解放をもって「神の国」が実現すると考えた人たちにとって許しがたい状況でした。
まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場しました。ダビデの子、ユダヤ民族の王がやって来た!と群衆の歓呼に迎え入れられてエルサレムに乗り込んできました。さぁ、大変なことになりました。ユダヤ教社会の指導層には盾をつく、群衆は民族の解放者として担ぎ上げている、あの男をこのままにしたら自分たちの権威が危うくなるだけでなく、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、なんとかしなければと、そこで出てきたのが、皇帝に税金を納めてもいいのかどうかという質問だったのです。狙いは一目瞭然です。もし、納めてもよいと答えたら、群衆は、なんだこの男もヘロデ並みか、民族の真の解放者だと期待したのに皇帝に頭が上がらない臆病者だと失望を買って支持者は離反していくだろう。もし、納めてはならないと言ったら、その時は待ってましたとばかり、反逆者として当局に差し出してしまえばいい。まことに巧妙な質問でした。反対者も群衆も固唾を飲んでイエス様の答えを待つ緊迫した様子が目に浮かびます。
先ほど反対者の質問はギリシャ語原文では「律法に鑑みて」という言葉はないと申しました。以上の背景説明からわかるように、質問は極めて政治的な内容のものです。律法に鑑みていいことかどうかという問題も含んではいますが、それを超えた意味を持っていることにも注意しなければなりません。それで、原文のように律法と無関係にいいか悪いかと聞いたというのが正解です。
さて、イエス様の答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」でした。反対者も群衆もとても驚いた様子が目に浮かびます。税金を納めてもいいことになるのだが、しかし、皇帝に頭が上がらない臆病者には聞こえません。万物の創造主である神が出てきたからです。こちらの方が人間より格が上です。神を出されたことで皇帝も皇帝に納める税もちっぽけなものになってしまう、何か大いなるものの下に置かれたような感じがします。イエス様のこの答えは質問者を黙らせ群衆を驚嘆させましたが、彼らはちっぽけに「感じた」以上のことがわかったでしょうか?私は、イエス様の十字架と復活の出来事の前では「感じた」より先には進めなかったのではと思います。私たちは十字架と復活の出来事の後の時代にいますから、イエス様の答えの内容を詳しく知ることが出来ます。以下にそれを見ていきましょう。
イエス様の答えに万物の創造主の神が出てきました。「神のものは神に返しなさい」というのはどういう意味でしょうか?「皇帝のものは皇帝に返す」というのは税金のことだから、「神のものは神に返す」は教会に献金を捧げることかなと考える人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。まず、「神のもの」と言う言葉について見ると、ギリシャ語の用法では神の持ち物、所有物という意味だけでなく、「神に属するもの」というふうにもっと広い意味になります。そこで、このやり取りの流れを思い出すといろんなことがわかってきます。
イエス様と反対者のやり取りは、その前にあったイエス様の3つのたとえの教えの続きとして出てきました。3つのたとえの教えとは、マタイ21章28~32節の二人の息子のたとえ、33~41節のブドウ園と農夫たちのたとえ、そして22章1~14節の王子の婚宴のたとえです。3つのたとえの教えで明らかになったのは、将来現れる「神の国」に宗教エリートたちは迎え入れられないということ、そのかわりに今罪びとと目されている人たちやユダヤ民族以外の民族がイエス様を救い主と信じて迎え入れられるということでした。
少し脇道にそれますが、「神の国」について当時の人たちが思い描いていたものとイエス様が教えたものは必ずしも一致していませんでした。当時の人たちにとって「神の国」とは、将来ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放し、神が直接支配する国を打ち立てる、そして諸国民は神を崇拝するためにエルサレムに集まって来る、そういう自民族中心史観の「神の国」でした。ところがイエス様の教えた「神の国」は、まず神の子が民族に関係なく全ての人間を罪と死の支配から解放する、そして、今の世が終わって新しい天と地が創造される時に神の子は再臨して、罪と死の支配から解放された者たちを「神の国」に迎え入れる、そういう神の人間救済計画のゴールが「神の国」でした。イエス様が教えた「神の国」が正しい理解だったわけですが、それがはっきりするのは彼の十字架と復活の出来事の後になってからです。
当時の宗教エリートたちは「神の国」を正確に理解できていなかったとしても、それはユダヤ民族に約束されたものと考えていましたから、お前たちは排除されるというのは受け入れられません。3つのたとえを聞いた後、早くこの男を始末しなければと決めます。そこで、今度は言葉尻を捉えて当局に訴えてやろうと、やって来たのです。そこでこの皇帝への納税の質問をしたのです。
さて、3つのたとえは皆、将来現れる「神の国」について述べていました。その延長上に今日のやり取りが来ます。このやり取りで、一方に皇帝というこの世の国の代表者、他方で神という「神の国」の代表者が対比されます。そういうわけで「神のもの」というのは「神の国」に関係するものであると気づかなければなりません。
それと、「神のものは神に返す」と言う時の「返す」ですが、これもギリシャ語の動詞αποδιδωμιは「返す」だけでなく、「引き渡す」「譲り渡す」(例としてマタイ27章58節)という意味もあります。「返す」だけにとらわれると、お金の支払いに注意が行ってしまいますが、実は「引き渡す」、「譲り渡す」という意味も入ってるんだと意識して広く考えなければなりません。
以上を踏まえると「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というのは、次のような意味になります。この地上の国のことは地上の国に服している。税金もそのようなものとして払ってよい。しかし、「神の国」にかかわることは地上の国には服さないので地上の国に引き渡してはならない、譲り渡してはいけない。「神の国」にかかわることを地上の国の思い通りにさせてはならない。イエス様の答えは、そういう地上の国の権威を超えるものがあることを予感させたのです。それでは、「神の国」にかかわることで地上の国に譲り渡さない、思い通りにさせてはならないこととはどんなことでしょうか?地上の国に譲り渡さないこととは、将来「神の国」に迎え入れられることであり、今この世で「神の国」に向かう道を歩んでいるということです。これらを地上の国に譲り渡さないということです。もし地上の国がその道を進ませないようにしようとしたら、それに屈しないということです。
「神の国」にかかわることとは、「神の国」に向かう道を歩むことである。このことは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえてみるとわかってきます。これについてもう少し詳しく述べます。
キリスト信仰者というのは、神のひとり子イエス様がゴルゴタの十字架で私の罪を全て私に代わって神に対して償って下さったのだ、だから彼は私の救い主です、と信じてそう告白する者です。信仰者はまた洗礼を受けたのでこの罪の償いが効力を発揮して神から罪を赦された者と見なされる者です。神から罪を赦されたということは、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになったということです。神との結びつきの中で生きるキリスト信仰者は、私のようなもののために神はひとり子を犠牲にすることも厭わなかったと神を畏れかしこみ、これからは神に背を向けずにその意思に沿うように生きようと志向するようになります。
しかしながら、そういう志向が生まれても、それに反しようとする性向もまだ残っています。それでキリスト信仰者は二つのものの間に挟まれて生きることになります。しかし、信仰者が罪の自覚を持たされる度に、洗礼の時に信仰者の内に駐留するようになった聖霊がすぐ信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてくれます。そこで神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪はあそこで赦されている。だからこれからは罪を犯さないように」と言って下さり、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えて下さいます。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきなどなくなってしまったと感じられる時もあります。その時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは自分から脱ぎ捨てない限り消え去ることはありません。
このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架に立ち返ることを何度も何度も繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日に「神の国」に迎え入れられることです。そもそもイエス様の復活というのは、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、その命に至る道を人間に開いたということです。キリスト信仰者はその道に置かれてそれを歩むようになった者です。
キリスト信仰者は十字架に立ち返りながら将来の「神の国」を目指し、その間はこの世でしなければならないことをします。仕事があればそれをし、なければ探し、世話をする人がいれば世話をし、戦う病気があれば戦う、それらを絶えず十字架に立ち返りながら「神の国」を目指します。その時、しなければならないことの仕方、姿勢も定まってきます。パウロが言うように、高ぶらない、自惚れない、悪を憎み、悪に悪に返さず、全ての人の前で善を行い、喜ぶ人と喜び泣く人と共に泣き、自分では復讐せず最後の審判の時の神の怒りに任せ、今は敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、そういう仕方、姿勢でしなければならないことをするのが当然になるということです。
キリスト信仰者が十字架に立ち返りながら「神の国」を目指して進む生き方をする時、日曜日の礼拝はそうした生き方にとって心臓と同じ役割を果たします。礼拝で神の御言葉に聴き、神を賛美し祈りを捧げ、聖餐に与ると霊的な清い血液が全身に送り出されて、平日の日常の中で各自が置かれた場で十字架への立ち返りと「神の国」を目指す力になります。あたかも疲れて汚れた血が再びきれいにされて心臓から全身に送り出されるように、信仰者も礼拝を通して清められて新しい週に旅立っていくのです。
そういうわけで、キリスト信仰者にとって礼拝を中心にした信仰の生き方ができれば別に皇帝がいても構わないということになります。しかし、民主主義が人間にとってベストな政治体制と考えられるようになった現代、ローマ皇帝のような専制君主がいても構わないなんて言うのはなんだかはやりません。まるで、現在、世界各地で民主主義に挑みかける権威主義体制を擁護するように聞こえてしまうかもしれません。イエス様は専制君主や権威主義を容認したことになるのか?実はそういうことではありません。そのことがわかるために、少し逆説的に聞こえるかもしれませんが、ローマ13章の教えを見てみます。
そこでパウロはこの世の権威や権力に従うべしと教えています。権力は社会秩序のために処罰を行う、だから権威を敬い、税金をしっかり納めるようになどと勧めています。権力者が聞いたらキリスト教徒はなんと物分かりがいい連中だと微笑むでしょう。しかもパウロは従う理由として、全ての権威は神によって立てられたなどと言います。これをローマの皇帝だけでなく後世のあらゆる支配者が読んだらみんな大喜びでしょう。パウロは、俺の権力が神のお墨付きと言ってくれたぞ、と。
ところが、この「神によって立てられた」というのは大変な裏があります。支配者が神によって立てられたということは、支配者の上に神があることになり、神が望めば支配者はいつでもその座から滑り落ちることになります。このことは、本日の旧約の日課イザヤ書45章でもはっきり言い表されています。キュロスというのは、ペルシャの国王でバビロン帝国を滅ぼして古代オリエントの覇者になった人です。ユダヤ人ではない異民族の人なのに聖書の神が彼を覇者の地位につかせるというのです。なぜ神はそうするのかと言うと、バビロン帝国を滅ぼすことでイスラエルの民を解放して祖国に帰還させるという昔からの預言を実現するためでした。これは歴史上、実際その通りになり、バビロンを滅ぼした後キュロスは勅令を出してイスラエルの民の祖国帰還とエルサレムの神殿の再建を許可します。紀元前538年に祖国帰還が実現します。イザヤ書45章7節で神は「平和をもたらし、災いを創造する者」と言われます。ヘブライ語の原文を直訳するとそうですが、神は地上の権力者の上に立つという観点でみたら、ここは「神は国に繁栄をもたらし滅亡をもたらす方」と訳した方がいいと思います。
このように天地創造の神は、異民族の王を用いてイスラエルの民のために預言を実現させました。ただし、日課の個所にもはっきり記されているように、キュロス自身は自分を動かしている神を知らずに、これらのことを行いました。本人はあたかも自分の力で全てのことを成し遂げているつもりだったのでしょうが、実はそうではなかったのです。宗教改革のルターも、国や民族の興亡は全て神の手に握られていて、国が興隆して栄えるのは神が風船に息を吹き込んでふくらますようなものであり、神が手を離したら最後、空気は抜けていくだけで誰もそれをくい止めることはできないと言っています。それ位、権力者というのは最後のところでは神に手綱を握られているというのが聖書の観点で、パウロもイエス様もそれをお見通しなわけです。そうであればあらゆる権力者の上に立つ神がやはり本当の権力者となり従うべき方となります。
この世の権力に従うことと神の意思に従うことが衝突しなければ問題ないのですが、歴史はそうならない事例に満ちてしまいました。まず、ペトロとヨハネがユダヤ教社会の指導部の前に連れていかれ、イエスの名を広めたら罰を受けると脅されました。それに対して二人は「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えよ」と答えます(使徒言行録4章19節)。これがこの世の権力に従う時のキリスト教徒の基準になりました。やがて権力者が、信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫って迫害が起こるようになります。この日本でも起こりました。
信仰の自由が基本的人権として保障される現代では、そのような選択を迫られることはないというのが大前提です。しかしながら、最近の民主主義国で起こっていること、特にインターネットやSNSを通してどんな意見や考えが多数派を形成するか危なっかしい時代では、信仰を守るということでも目を覚ましていなければならないと思います。その場合、信仰を守ると言う時に何を守ることが信仰を守ることになるのか今一度考えてみることは大事です。礼拝を妨害を受けずに守れること、これが大事なことは言うまでもありませんが、もっと深いところにも心を留める必要があります。何かと言うと、死生観です。
この説教でお教えしてきたことから明らかなように、信仰というのは死生観を持って生きることと言うことが出来ます。キリスト信仰の死生観とは、復活の日に眠りから目覚めさせられて、肉の体とは異なる朽ちない復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる、そういうことがあるのでこの世の歩みはそれを目指す歩みになるということです。その歩みをする際、絶えず主の十字架に立ち返りながら復活の日を目指すという歩み方になります。これがキリスト信仰の死生観です。キリスト信仰者がこのような死生観を持って生きるのは、聖書を繙いて学んでそうなのだと確信したからです。信仰の自由の侵害とはつまるところ、その死生観をやめてこっちにしろ、ということです。
キリスト信仰の死生観を捨てさせようとしたり、別の死生観を持たせようとする動きがないか注意することはいつの時代でも信仰の自由を守る基本であると言えるでしょう。
主日礼拝説教 2020年10月1日(聖霊降臨後第18主日)
聖書日課 エゼキエル18章1-4、25-32節、フィリピ1章1-13節、マタイ21章23-32節
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の個所と福音書の日課マタイの個所は全く異なる出来事が記されていますが、よく見ると共通するものが見えてきます。過去の呪縛から解放されて新しく生きるということです。
エゼキエル書の個所は紀元前500年代の時の話です。かつてダビデ・ソロモン王の時代に栄えたユダヤ民族の王国は神の意思に背く生き方に走り、多くの預言者の警告にもかかわらず、指導者から国民に至るまで罪に染まり、国は分裂、社会秩序も乱れ、外国の侵入にも晒され続けます。最後は神の罰としてバビロン帝国の攻撃を受けて完全に滅びてしまいます。民の主だった者たちは異国の地に連行されて行きました。世界史の授業にも出てくる「バビロン捕囚」の出来事です。
ユダヤ民族の首都エルサレムが陥落する直前の時でした。人々はこんなことわざを口々に唱えていました。「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」熟していない酸っぱいぶどうを食べて歯が浮くような違和感を覚えるのは食べた本人ではなく子孫だと言うのです。これは、先祖が犯した罪の罰を子孫が受けるという意味です。滅亡する自分たちは、まさに先祖が犯した罪のせいで神から罰を受けていると言うのです。民の間には、それは当然のことで仕方がないというあきらめがありました。それをこのことわざが代弁していました。先祖のせいで神罰を受けなければならないのなら、今さら何をしても無駄、自分たちの運命は先祖のおかげで決まってしまったのだと。これに対して神は預言者エゼキエルの口を通して民のこの運命決定論の考えを改めます。今こそ悪から離れて神に立ち返れ、そうすれば死ぬことはない必ず生きる、と。そして、このことわざも口にすることがなくなる、と。以上がエゼキエル書の個所の概要です。
マタイ福音書の方は、バビロン捕囚から600年位たったあとの、ユダヤ民族がローマ帝国に支配されていた時代の出来事です。イエス様が民族の解放者と目されて群衆の歓呼の中を首都エルサレムに入城しました。そこの神殿に行き、敷地内で商売をしていた人たちを荒々しく追い出しました。商売というのは神殿で生贄に捧げる動物などを売っていた人たちですが、イエス様の行動は神殿の秩序と権威に対する挑戦と受け取られました。さらにイエス様は群衆の前で神と神の国について教え、病気の人たちを癒す奇跡の業を行いました。人々は彼のことをますます王国を復興する王メシアと信じるようになりました。
これに対して民族の指導者たちは反発し、イエス様のもとに来て聞きます。「お前は何の権威でこのようなことをしているのか?」イエス様はそれには直接答えず、洗礼者ヨハネの洗礼は神由来のものか人間由来のものか、と尋ね返します。指導者たちははっきり答えなかったので、イエス様も答えるのを拒否しました。これを読むとなんだか素っ気ない感じがします。私など、洗礼者ヨハネのことなんか持ち出さないで、すぐ自分の権威は天の父なるみ神から来たと言えばよかったのになどと思ったりします。
その後に二人の息子のたとえが続きます。父親にブドウ畑に行って働きなさいと言われて、一番目の息子は最初行かないと言ったが思い直して行った、二番目のは最初行くと言ったが実際は行かなかったという話でした。イエス様は、一番目の息子は洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人や娼婦たちのことで、彼らは指導者たちに先駆けて神の国に迎え入れられるなどと言います。洗礼者ヨハネのことがまた出てきました。きっと先のイエス様と指導者たちのやり取りが続いているということなのですが、どう続いているのか繋がりがよく見えません。実は、このマタイ福音書の個所も過去の呪縛から解放されて新しく生きることを言っていることがわかると、その繋がりが見えてきます。そういうわけで、本日の説教はエゼキエル書の個所とマタイ福音書の個所を中心に見ていこうと思います。
エゼキエル書の個所で問題となっていたのは、イスラエルの民が滅亡の悲劇に遭遇しているのは先祖たちの罪が原因で今自分たちはその神罰を受けているという見方でした。そのことを皆が口にすることわざが言い表していました。先祖たちがどんな罪を犯していたか、本日の日課から外されている5~21節に記されています。それを見てみますと、偶像を崇拝したりその供え物を食べること、他人から奪い取ったり負債を抱える者に情けを示さないこと、不倫を行うこと、食べ物や衣服に困った人を助けないこと、貸す時に高い利子を付けて貸すなど自分の利益しか考えないこと、不正に手を染めること、事実に基づかないで裁きを行うこと等々、神の意思や掟に従わないことです。なんだか現代の日本の社会のことを言っているみたいですが、どうでしょうか?神は、こうしたことをやめて神に立ち返る生き方をしなさい、そうすれば死なないで生きるのだ、と言われます。
この、死なないで生きるというのは深く考える必要があります。一見すると、神の意思に沿うように生きれば外国に攻められて死ぬことはなく平和に長生きできるというふうに考えられます。しかしながら、聖書では「生きる」「死ぬ」というのは実は、この世を生きる、この世から死ぬというような、この世を中心にした「生きる」「死ぬ」よりももっと深い意味があります。この世の人生を終えた後で、永遠に生きる、あるいは、永遠の滅びの苦しみを受けるという、そういう永遠を中心にした「生きる」「死ぬ」の意味で言っています。天地創造の神は、ご自分が選んだイスラエルの民の歴史の中で、神の意思に沿えば国は栄えて民は生きられるが、逆らえば滅んで死んでしまうという出来事を起こします。そのようにして神は、特定の民族の具体的な歴史をモデルにして、自分には永遠の「生きる」や「死ぬ」を決める力があることを全ての人間にわかりやすく示しているのです。
先にも申しましたように、イスラエルの民の問題点は、自分たちの不幸な境遇は先祖の犯した罪が原因だと思っていたことにありました。そうであれば、自分たちが何をしても運命は変えられません。先祖がそれを決定づけてしまったのですから。今さら神の意思に沿うように生きようとしても無駄です。しかし、神はそのような見方から民を解き放とうとします。そこで神は言います。裁きは罪を犯した者だけに関わるのであると。だから、お前たちがこれから神の意思に沿うように生きることは無駄なことではなく、お前たちは死なずに生きることになるのだ、と。この「死なない」「生きる」は先にも申しましたように、滅亡寸前の祖国でうまく敵の手を逃れて生きながらえるという意味よりも大きな意味です。たとえ、敵の手にかかって命を落とすことになっても、永遠の滅びの苦しみには落ちないで永遠の命に迎え入れられるということです。神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めることが無意味、無駄ということはなくなるのです。
さて、罪の責任は先祖や他人のものはもう自分は負わなくてすむことになりました。そこには大きな解放感があります。もう、自分と神の関係を考える際に、先祖は神とどんな関係だったかは全く無関係になりました。日本風に言えば、先祖の祟りとか何かの祟りとか全く関係なくなったのです。だとすると、ちょっと、待てよ、そうなると自分と神の関係は全て自分の問題になるということになるではないか?つまり、今度はこの自分の罪、自分が神の意思に背いて生きてきたことが問われて、まさにそのことが自分の永遠を中心として生きるか死ぬかを決定づけることになる。これは大変なことになった。永遠の命に迎え入れられるかどうかを決定づけるのは他の何ものでもない自分自身なのです。
聖書を繙くと、今あるこの世が終わりを告げるという終末論の観点と、その時には新しい天と地が創造されると言う新しい創造の観点があります。終末と新しい創造の時には死者の復活と最後の審判というものがあります。全ての人、死んだ人と生きている人の全てが神の前に立たされる時です。その時、この私は神のもとに立ち返る生き方を始めてその意思に沿うように生きようとしたのだが、果たしてそれはうまくいったのであろうか?神はそれをどう評価して下さるのだろうか?また、立ち返る前の生き方は何も言われないのだろうか?なんだか考えただけで今から心配になってきます。ここで、マタイ福音書の個所を見るよいタイミングとなります。
ユダヤ教社会の指導者たちがイエス様に権威について問いただした時、もちろんイエス様としては、自分の権威は神から来ていると答えることが出来ました。ただ、そうすると指導者たちは、この男は神を引き合いに出して自分たちの権威に挑戦していると騒ぎ出すに決まっています。それでイエス様は別の仕方で自分の権威が神から来ていることをわからせようとします。
二人の息子のたとえに出てくる父親は神を指します。一番目の息子は、最初神の意思に背く生き方をしていたが、方向転換して神のもとに立ち返る生き方をした者です。洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人と娼婦たちがこれと同じだと言うのです。二番目の息子は神の意思に沿う生き方をしますと言って実際はしていない者で、指導者たちがそれだというのです。それで、徴税人や娼婦たちの方が将来、死者の復活に与ってさっさと神の御許に迎え入れられるが、指導者たちは置いてきぼりを食うというのです。
ここで徴税人というのは、ユダヤ民族の一員でありながら占領国のローマ帝国の手下になって同胞から税を取り立てていた人たちです。中には規定以上に取り立てて私腹を肥やした人もいて、民族の裏切り者、罪びとの最たる者と見なされていました。ところが、洗礼者ヨハネが現れて神の裁きの時が近いこと、悔い改めをしなければならないことを宣べ伝えると、このような徴税人たちが彼の言うことを信じて悔い改めの洗礼を受けに行ったのです。先ほど申しましたように、聖書には終末論と新しい創造の観点があり、死者の復活と最後の審判があります。旧約聖書の預言書にはその時を意味する「主の日」と呼ばれる日について何度も言われています。紀元前100年代頃からユダヤ教社会には、そうした預言がもうすぐ起きるということを記した書物が沢山現れます。当時はそういう雰囲気があったのです。まさにそのような時に洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したのでした。
娼婦についても言われていました。モーセ十戒には「汝姦淫するなかれ」という掟があります。それで、多くの男と関係を持つ彼女たちも罪びとと見なされたのは当然でした。そうすると、あれ、関係を持った男たちはどうなんだろうと疑問が起きます。彼らは洗礼者ヨハネのもとに行かなかったのだろうか?記述がないからわかりません。記述がないというのは、こそこそ行ったから目立たなかったのか、それとも行かないで、あれは女が悪いのであって自分はそういうのがいるから利用してやっただけという態度でいたのか。現代にもそういう態度の人はいますが、そんな言い逃れて神罰を免れると思ったら、救いようがないとしか言いようがありません。
話が少し逸れましたが、このようにして大勢の人たちがヨハネのもとに行き洗礼を受けました。その中に徴税人や娼婦たちのような、一目見て、あっ罪びとだ、とすぐ識別できる人たちもいたのでした。ヨハネが授けた洗礼は「悔い改めの洗礼」と言い、これは後のキリスト教会で授けられる洗礼とは違います。「悔い改めの洗礼」とは、それまでの生き方を神の意思に反するものであると認め、これからは神の方を向いていきますという方向転換の印のようなものです。キリスト教会の洗礼は印に留まりません。人間が方向転換の中で生きていくことを確実にして、もうその外では生きられないようにする力を持つものです。印だけだったものがそのような力あるものに変わったのは、後で述べるように、イエス様の十字架と復活の業があったからでした。
さて、人々はもうすぐ世の終わりが来て神の裁きが行われると信じました。それはその通りなのですが、ただ一つ大事なことが抜けていました。それは、その前にメシア救世主が来るということでした。メシアが人間の神への方向転換を確実なものにする、しかもそれを旧約聖書の預言通りに特定の民族を超えた全ての人間に及ぼすということ。それをしてから死者の復活と最後の審判が起こるということでした。ヨハネ自身も自分はそのようなメシアが来られる道を整えているのだと言っていました。その意味でヨハネの洗礼は、悔い改めの印と、来るメシア救世主をお迎えする準備が出来ているという印でもありました。それなので、世の終わりと神の裁きはまだ先のことだったのです。当時の人々は少し気が早かったのかもしれません。
ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた人たち、特に徴税人や娼婦たちはその後どうしたかと言うと、イエス様に付き従うようになります。彼らは、方向転換したという印をヨハネからつけてはもらったけれども、裁きの日が来たら、自分の過去を神の前でどう弁明したらいいかわかりません。方向転換して、それからは神の意思に沿うようにしてきましたと言うことができたとしても、転換する前のことを問われたら何も言えません。それに方向転換した後も、果たしてどこまで神の意思に沿うように出来たのか、行いで罪を犯さなかったかもしれないが、言葉で人を傷つけてしまったことはないか?心の中でそのようなことを描いてしまったことはないか?たくさんあったのではないか?そう考えただけで、ヨハネの洗礼の時に得られた安心感、満足感は吹き飛んでしまいます。
まさにそこに、私には罪を赦す権限があるのだ、と言われる方が現れたのです。神が贈られたひとり子イエス様です。罪を赦すとはどういうことなのか?過去の罪はもう有罪にする根拠にしない、不問にするということなのか?でも、そういうことが出来るのは神しかいないのではないか?あの方がそう言ったら、神自身がそう言うことになるのか?どうやって、それがわかるのか?口先だけではないのか?いや、口先なんかではない。あの方は、全身麻痺の病人に対してまず、あなたの罪は赦される、言って、その後すかさず、立って歩きなさい、と言われて、その通りになった。罪を赦すという言葉は口先ではないことを示されたのだ。真にあの方は罪を赦す力を持っておられるのだ!そのようにして彼らはイエス様に付き従うようになっていったのです。もちろん、付き従った人たちの中には罪の赦しよりも民族の解放ということが先に立ってしまった人たちが多かったのは事実です。しかし、罪からの解放が切実な人たちも大勢いたのです。
イエス様が持つ罪の赦しの権限は、彼の十字架の死と死からの復活ではっきりと具体化して全ての人間に向けられるものとなりました。イエス様は、十字架の死に自分を委ねることで全ての人間の全ての罪を背負い、その神罰を全て人間に代わって受けられました。人間の罪を神に対して償って下さったのです。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示しました。そこで人間がこのようなことを成し遂げられたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から見て罪を赦された者と見なされます。神は過去の罪をどう言われるだろうかなどと、もう心配する必要はなくなったのです。神は、我が子イエスの犠牲に免じて赦すことにした、もうとやかく言わない、だからお前はこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言われます。もう方向転換した中でしか生きていけなくなります。
イエス様が指導者たちに自分の権威は神に由来するとすぐ言わなかったのは、まだ十字架と復活の出来事が起きる前の段階では無理もないことでした。言ったとしても、口先だけとしか受け取られなかったでしょう。そこでイエス様はヨハネの悔い改めの洗礼を受けた罪びとたち、正確には元罪びとたちのことに目を向けさせたのです。彼らは今まさにイエス様の周りにいて指導者たちも目にしています。今、方向転換の印を身につけていて、もうすぐそれは印を超えて実体を持つようになる時が来るのです。その時になれば、イエス様の権威が神由来であったことを誰もが認めなければならなくなるのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって神を向いて生きる方向転換を遂げてその中で生きていくことになりました。そこでは、自分に弱さがあったり、また魔がさしたとしか言いようがないような不意を突かれることもあって、神の意思に反することが出てくることもあるでしょう。しかし、あの時ゴルゴタの十字架で打ち立てられた神のひとり子の罪の償いと赦しは永遠に打ち立てられたままです。そこはキリスト信仰者がいつも立ち返ることができる確かなところです。この世のふるさとよりも確かなところです。そこでのみ罪の赦しが今も変わらずあることと、神と自分の結びつきが揺るがずにあることを知ることが出来ます。
そして、いつの日か神のみ前に立つことになる時、父なるみ神よ、私はあなたが成し遂げて下さった罪の赦しが本物であると信じて、それにしがみつくようにして生きてきました。そのことががあなたの意思に沿うように生きようとした私の全てです。そう言えばいいのです。その時、声を震わせて言うことになるでしょうか、それとも平安に満たされて落ち着いた声でしょうか。いずれにしても、神は私たちの弁明が偽りのない真実のものであると受け入れて下さいます。そう信じて信頼していくのがキリスト信仰者です。
主日礼拝説教 2023年9月24日(聖霊降臨後第十七主日)
聖書日課 ヨナ3章10-4章11節、フィリピ1章21-30節、マタイ20章1-16節
先週に続いて今日の福音書の日課もイエス様のたとえの教えです。日の出から日の入りまで12時間炎天下の中で働いた人たちが最後の1時間しか働かなかった人たちと同一賃金だったので、雇用者に不平を言う。もっともなことです。ところが雇用者は朝雇う時に1デナリオンで合意したではないか、別に契約違反ではない、と。これももっともなことです。しかし、長く働いた者からすれば、一番短く働いた者が1デナリオンもらえるのなら自分たちはもっともらえて当然ではないか、と。もっともな話です。それに対して雇用者たるぶどう畑の所有者は「私の気前の良さをねたむのか」と言って自分のしたことは間違っていないと言う。ギリシャ語の原文は少しわかりにくくて、直訳すると「私が善い者であることでお前の目は邪悪なのか?」、つまり「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか?」ということです。お前は私が善いことをしたのに正しくないと言って覆すつもりか、私は間違ったことはしていない、それに反対するのは悪い心だと言うのです。
これは一体どういう教えなのでしょうか?1デナリオンは当時の低賃金労働者の一日の賃金です。先週もやりましたが、今のお金の感覚で言えば、東京都の最低時給が今年1,113円、それで12時間働いたら13,356円です。1時間働い人が同じ額をもらえたとなると12時間の人は心穏やかではなくなるのは当然です。まさか、キリスト教は自己犠牲の愛を教える宗教なので、一番長く働いて苦労した人は一番短く働いて楽した人と同じ扱いを受けて当然と思わなければいけないということなのか?でも、このたとえのどこに自己犠牲があるでしょうか?一番短く働いた人が13,356円もらえたのは、長く働いた人のおかげではありません。専ら所有者の方針によるものです。
ここのイエス様の趣旨は、私たちも給料や報酬を支払う時は同じようにしなければならないということではありません。この教えはたとえです。なにをたとえて言っているか知ることが大事です。初めに「天の国」はブドウ畑の所有者にたとえられると言います。「天の国」とは天地創造の神がおられるところです。「神の国」とも呼ばれます。マタイは「神」という言葉を畏れ多く感じてよく「天」に置き換えます。本説教では「神の国」と言うことにします。
「神の国」がブドウ畑の所有者、国が人にたとえられるのは変な感じがします。これは、「神の国」というのはこれから話すブドウ畑の所有者の方針が貫かれている国だということです。所有者は神を指します。イエス様はこのたとえで、神はどのようにして人間を神の国に迎え入れるか、その方針について教えているのです。本説教では神の方針について次の3つの点に注目して見ていこうと思います。第一点は、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を受けることによって神の国に迎え入れられる、そこでは信仰と洗礼がいつだったか、早かったか遅かったかは問題にならないということ。第二点目は、人間は自分の能力や業績や達成によっては神の国に迎え入れられない、迎え入れは神のお恵みとしてあるということ。そして第三点目は、洗礼と信仰によって神の国に迎え入れられる道を歩み始めたら、この世では罪との戦いが仕事になるということ。
神の国に迎え入れられるとはどういうことか?それは、聖書が打ち出す人間観と死生観がわかればわかります。聖書の人間観とは、人間というものは神の意思に反するものを内に持っていて、それを心に抱いたり言葉に出したり行いに出したりしてしまう。それをひっくるめて罪と呼びますが、そういうものを持っているということです。聖書の死生観とは、人間はそういう罪を持つがゆえに造り主の神と結びつきを失った状態に置かれてしまっている。もしそのままでいたら神との結びつきがない状態でこの世を生きなければならなず、この世を去る時も神との結びつきがないまま去らねばならないということです。そこで、これではいけないと思った神は、人間が自分と結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去った後も自分のもとに、つまり神の国に迎え入れられるようにしてあげよう、そのために人間の罪の問題を解決しなければ、ということで、ひとり子のイエス様をこの世に贈られました。これが人間に対する神の愛ということです。
それでは、神はイエス様を贈ることでどのようにして罪の問題を解決したのか?それはまさに、イエス様に人間の罪を全部負わせて神罰を受けさせて人間に代わって罪の償いをさせることで果たされました。ゴルゴタの十字架の出来事がそれだったのです。さらに、一度死んだイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。神の人間に対する愛がイエス様を通して示されたというのはこのことです。
そしてその次は、人間の方がこれらの出来事は本当に自分のために起こされた、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩むようになります。その人は罪を償われたので罪を赦された者と神から見てもらえます。罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生き神の国を目指して進みます。この世の人生の後、復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられます。これら全てをひっくるめたことが、キリスト信仰でいう救いです。その救いを命を賭してまで私たち人間に備えて下さったイエス様は真に救い主です。
ここで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということですが、そのタイミングは人それぞれです。親がキリスト信仰者で赤ちゃんの時に洗礼を受けて神との結びつきを持つようになり、信仰者の親のもとでイエス様が救い主であることが当たり前という環境の中で育って大人になる場合があります。また、大人になってイエス様を救い主と信じるようになって洗礼を受けて神との結びつきを持つようになる場合もあります。このように子供の時からずっとキリスト信仰者である場合があり、また、大人になってから、それこそ晩年でも死ぬ直前でもキリスト信仰者になる場合もあります。しかし、どの場合でも神の国への迎え入れということについて差は生じません。信仰者の期間が長かったから迎え入れられやすいということはありません。みな同じです。そのことを、たとえの労働者がみんな同じ1デナリオンをもらったことが象徴しています。神から頂く罪の償いと赦しは全て同じ値なのです。
そういうことであれば、晩年やこの世を去る直前に洗礼を受けることになっても何も引けを取ることはないとわかって安心します。長年キリスト信仰者の人も神の愛はそういうものだとわかっています。なので、あの人は信仰歴が短すぎるなどと目くじら立てません。全く逆で、私が神から頂いた計り知れないお恵みにあの方もやっと与ることが出来て本当に良かった、と言ってくれます。
ここで一つ気になることは、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であることがはっきりしない状態で大人になってしまう場合があることです。近年のヨーロッパではそう言う人が多いです。この場合、神の国への迎え入れはどうなるのか?この問題は本説教の終わりで触れます。
次に、神の国への迎え入れは人間の能力、業績、達成によるのではなく、神のお恵みとしてあるということについて。本日のイエス様のたとえは実は前の19章の出来事の総括として述べられています。どんな出来事があったかと言うと、金持ちの青年がイエス様のもとに駆け寄って来て「永遠の命を得るためには、どんな善いことをしなければならないのか」と聞きました。イエス様は十戒の中の隣人愛の掟を述べて、それを守れと答える。それに対して青年は、そんなものはもう守ってきた、何がまだ足りないのか、と聞き返す。それに対してイエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、それから自分に従え、と命じる。青年は大金持ちだったので悲痛な思いで立ち去ったという出来事です。
この対話の中で、青年が「どんな善いことをしなければならないか」と聞いたときに、イエス様が返した言葉はこれでした。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」善い方はおひとりと言う時、それは神を指します。イエス様は話の方向を善い「こと」から善い「方」へ変えるのです。青年は「善い」は人間がすること出来ることと考えて質問しました。それに対してイエス様は「善い」は神の属性で、「善い」を体現するのは神しかいないと言い換えるのです。そもそも「善い」を体現していない人間が神の国への迎え入れを保証する「善い」ことをすることが出来ると考えるのは的外れと言うのです。神の国への迎え入れは、神が土台にならないといけないのに、青年は人間を土台にしているのです。
このように、神が「善い」を体現していることを忘れると、人間は救いを自分の能力や業績に基づかせようとします。それはいつか必ず限界にぶつかります。青年の場合は、イエス様が全財産を売り払えと命じたことでその限界が明らかになりました。救いは人間の能力や業績にではなく、ただただ神が「善い」ということに基づかせなければならないのです。
イエス様と青年の対話から、神が「善い」方ということが救いの大前提であることが明らかになりました。神が「善い」方ということは本日のたとえの中にまた出てきます。冒頭で申し上げましたが、「わたしの気前の良さをねたむのか」というのは、ギリシャ語原文では「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか」ということでした。ここの「善い」と青年との対話に出てきた「善い」は両方ともギリシャ語原文では同じ言葉アガトスαγαθοςです。日本語訳では本日のところは「気前の良さ」と訳されてしまったので繋がりが見えなくなってしまいますが、原文で読んでいくと本日のたとえは青年との対話と繋がっていて、それを総括していることがわかります。どう総括しているかと言うと、永遠の命が待つ神の国への迎え入れは人間の能力や業績や達成に基づくのではない、神が「善い」方であることに基づくということです。神がそのような「善い」方であるというのは、ひとり子イエス様を私たち人間に贈って、彼を犠牲にしてまで私たちを罪と死の支配から解放して、私たちが神の国に迎え入れられるように全てを備えて下さったということです。これが神が「善い方」ということです。
神の国への迎え入れが人間の能力や業績に基づかず、善い神のお恵みに基づくなどと言ったら、じゃ、人間は迎え入れのために何もしなくてもいいのか?と言われてしまうかもしれません。それだったら、所有者はわざわざ何度も広場に出向いて人を雇うのではなく、夕暮れ時にみんなを集めてお金を渡してもいいではないか?しかし、1時間でも働いてもらうというからには、何か人間の側でもしなければならないことがある。それは何だろう?洗礼を受けてクリスチャンになったら、毎週がんばって礼拝に通い、ちゃんと献金して人助けや慈善活動をすることか?
そういうこともあるにはあるのですが、ここではもっと根本的なことが問題になっています。教会通いとか献金とか慈善活動はその根本的なことがあってこそ出てくるものです。それがないと教会通いなどは見かけ倒しになります。それでは、人間の側でしなければならない根本的なこととは何か?それは、神の国への迎え入れが人間の能力や業績ではなく善い神のお恵みによるものであるということ、これが自分にとって本当にその通りであるという生き方をすることです。それでは、神の国への迎え入れが神のお恵みによるものであることが自分にとってその通りであるという生き方はどんな生き方か?答えは、罪と戦う生き方です。罪と戦う時にキリスト信仰者は、神の国への迎え入れは神のお恵みによるものであることがその通りであるという生き方をするのです。
罪と戦うというのはどういうことか?キリスト信仰者は罪が償われて罪が赦されて罪から解放されたと言っているのに、まだ戦わなければならないというのはどういうことなのか?それは、キリスト信仰者とは言っても、この世にある限りは肉の体を纏っているので神の意思に反する罪をまだ内に持っています。なんだ、それではキリスト信仰者になっても何も変わっていないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、変わっているのです。神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持って生きるようになりました。なので、神の意思に沿うような生き方をしようと神の意思に敏感になり、それでかえって自分の内に罪があることに気づくようになります。イエス様は、十戒の掟は外面的に守れても心の中まで守れていなければ破ったことになると教えました。
自分の内に神の意思に反する罪があることに気づいた時、神は、せっかくひとり子を犠牲にしたのになんだこのざまは、と呆れて失望するだろうか怒るだろうか、神との結びつきは失われてしまうだろうかと不安になります。その時は、神に罪の赦しを祈り願います。イエス様は私の主です、どうか彼の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい。そうすると、神は、お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている、安心していきなさい、お前の罪はあそこで赦されている、もう罪は犯さないように、と言ってゴルゴタの十字架を指し示されます。十字架の上で首を垂れる主を心の目で見たキリスト信仰者は、厳粛な気持ちになって、これからは罪を犯さないようにしようと襟を正します。
しかしながら、この世を生きていろんなことに遭遇すると、また自分の内に神の意思に反する罪があることに気づきます。そして、また赦しの祈り願いがあり、神からの十字架の指し示しがあり、襟を正しての再出発となります。キリスト信仰者はこれを何度も繰り返しながら進んでいくのです。教会の礼拝の最初で罪の告白と赦しの宣言が毎週繰り返して行われるのも同じです。
やがてこの繰り返しが終わりを告げる日が来ます。神の御前に立たされる日です。神はこの繰り返しの人生を見て、お前はイエスの十字架と復活の業に全てをかけて罪に背を向ける生き方、罪に与しない生き方をした、罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。まさに罪と戦う人生を送ったと。そう認めてもらったら、朽ち果てた肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。その体の内に罪はなく、罪の自覚も赦しの祈り願いも赦しの宣言もなくなるのです。
このように、罪を自覚して、イエス様を救い主と信じる信仰により頼んで罪の赦しのお恵みにしっかり踏み留まることができていれば、立派に罪と戦っていることになります。戦いがこの世の人生の長い期間であっても短い期間であっても、戦う人からすればどれも、神の国への迎え入れが神のお恵みによることが本当になる戦いです。12時間働いたろうが、1時間しか働かなかったろうが、神から見たら、内容的には同じ働きをしたことになるのです。
ここで一つ忘れてはならないことを手短に述べておきます。詳しいことは後日に譲りたく思います。何かと言うと、神の意思に反する罪が内に留まらないで表に出てしまった場合はどうするかということです。言葉に出たり行いに出てしまう場合です。その場合は相手がいます。表に出してしまったことが神の意思に反するもので神に赦しを祈り願うべきものであれば、相手に対して謝罪しなければなりません。ただしその場合、神に対する罪の赦しの願いと相手に対する謝罪は別々に考えるべきと思います。というのは、もし相手の方が、絶対に許せないと言って謝罪を受け入れない場合、とても動揺し不安になります。それは残念なことですが、そのような時でも忘れてはならないことは、たとえ相手の方との関係はこじれてしまっても、神との関係はイエス様の十字架と復活の業により頼む限り大丈夫ということです。心は動揺し不安はありますが、安心して大丈夫です。その安心の上に立って、あとは取り乱さずに正しく立ち振る舞っていけばいいと思います。
最後に、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であるとわからないで大人になってしまう場合はどうなるかということについてひと言。これはやっかいな問題です。教派によっては、赤ちゃん洗礼は意味がない、イエス様が救い主であるとわかって告白してから受けないと意味がないというところもあります。私たちのルター派の場合は、救いは人間の能力や業績に基づかず神のお恵みとしてあるということにこだわるので、自分を出来るだけ無力な者として受けた方がお恵みということがはっきりする、それで、むしろ赤ちゃんの方が相応しいということになってしまうのです。しかしながら、子供に洗礼を授けることを願う親は皆が皆、イエス様が救い主であると教え育てたり、信仰の生き方をするとは限らない現実もあります。
その場合はどうしたらよいのか?これはもう、まだわかっていない人に教えていくしかありません。あなたが受けた洗礼はあなたと神を結びつけるものなのだ、それをわからず罪と戦わないままでいると、せっかくある結びつきからどんどん遠ざかっていってしまう、しかし、わかるようになって罪と戦う生き方を始めれば大きな祝福があるのだ、と。
このように教える活動があります。私とパイヴィを派遣しているフィンランドのミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会SLEY」は海外伝道だけでなく国内伝道もやっています。国内伝道とは、まさに洗礼を受けても何もわからずに生きている人たちに伝道することです。国内伝道のキャッチフレーズはまさに「おかえりなさい!Tervetuloa kotiin!」です。翻って、海外伝道はまだ洗礼の恵みに与っていない人たちにその恵みを伝えて分け与えることです。国内伝道は恵みに与っている筈なのに分からない人たちがわかるようにすることです。両方行っているのです。ただ、最近はフィンランドも、キリスト教以外の国からの移民や難民が増えたので彼らに対する伝道も行っています。またフィンランド人でも洗礼を受けない人が増えていて、ヘルシンキ首都圏では生まれてくる子供の受洗率は50%以下になってしまいました。それで国内伝道も海外伝道みたいになってきています。
主日礼拝説教 2023年9月17日(聖霊降臨後第十六主日)
聖書日課 創世記50章15-21節、ローマ14章1-12節、マタイ18章21-35節
今日のイエス様のたとえの教えはこうでした。王様に多額の負債があった家来が泣きついて情けをかけられて借金を帳消しにしてもらった。ところが、その家来は自分に対して少額の借金がある仲間の家来に対しては泣きつかれても耳を貸さず、返済するまで牢屋に入れてしまった。それを知った王様はこの情けのない家来を怒って、自分がしたように情けをかけるべきではなかったかと言って、返済するまで牢屋に入れてしまった。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら他の人にもそうしなければならないと教えているんだなと思うでしょう。なんだか当たり前な話に聞こえます。
ここに出てくる金額を少し具体的に見てみます。そうすると情けをかけることが当然ということがよくわかります。情けのない家来が仲間の家来に貸していたのは100デナリオン。1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それで100デナリオンは100日分の賃金。これを今の金額で考えてみます。少し乱暴な比較になりますが、東京都の最低賃金は今年から時給1,113円になりました。一日8時間働いたら8,904円。端数を切捨てて一日8,900円として、100日分だったら89万円。これが100デナリオン。それだけの貸しがあった。そこで、情けのない家来が王様に負っていた負債額を見ると、1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので、5,340万円になります。これが1万あるとすると、0をさらに4つつけて5340憶円になります。情けのない家来は5340億円の負債を帳消しにしてもらったのに、他人の89万円の借金は免除してあげなかった。なんとも度量の狭い人間です。これだけ大きな情けを受けたら、普通は他者に対しても同じようにするのは当たり前なことに感じられます。イエス様はなんでこんな当たり前な話をしたのでしょうか?
このたとえは、イエス様がペトロのある質問に答えてその続きとして話したものです。ペトロの質問とは、兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげるべきか、7回までかというものでした。つまり、赦しには限度があってそれを越えたらもう赦さなくていいのか、というです。それに対するイエス様の答えは、7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、つまり490回でした。聖書の訳によっては77回とするものもあります。ギリシャ語原文を見るとどっちにも取れます。どちらにしても、イエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。赦すことに制限を設けない根拠として、情けのない家来のたとえを話したのです。
キリスト信仰者は罪を犯した兄弟を無制限に赦さなければならないというのは、信仰者自身が1万タラントンの負債を帳消しにされたような罪の赦しを受けているからだ、だから兄弟の犯した罪など5340憶円に対する89万円くらいのみみっちいものにすぎない、それがわかれば兄弟の罪を赦すのは大したことではなくなるのだ、という趣旨なのです。そういうわけで今日は、キリスト信仰者は巨大な負債を帳消しにされたと言えるような罪の赦しを受けているということについて少し深く見ていこうと思います。
まず初めに3つの基本的な事柄を整理しておきます。一つ目は、「私の兄弟が罪を犯したら」と言いますが、兄弟とは誰のことか?二つ目は、罪を犯すとはどんな悪さをすることか?そして三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?についてです。
まず、「私の兄弟」とは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者から罪を犯されるという問題について論じているのです。それでは、キリスト信仰者が信仰者でない人から罪を犯されたら、どうなのか?赦さなくていいのか?いや、やはり赦すべきなのか?この問題は説教の終わりの方で明らかにします。
次に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」とはどんな悪さをすることでしょうか?「罪を犯す」などと言うと、何か法律上の犯罪を犯すことを連想します。しかし、これはもっと広い意味があります。要は、十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな等々を行為だけでなく、言葉に出してしまったり、心の中で持ってしまうことです。このように神の意思に反することを行為のみならず、心の中で持ってしまったり、言葉で言い表してしまうことが罪を犯すことです。
三つ目はとても難しい問題です。罪を赦すとはどういうことか?キリスト信仰で罪を赦すというのは、単純化して言うと、相手が神の意思に反する罪を犯した時、犯された側が、それをさもなかったかのようにする、今後は取りざたしない、とやかく言わない、というのが赦しです。イザヤ書43章25節で、神は言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」思い出さないことにするというのが赦すことです。エレミヤ書31章34節でも神は同じように言われます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」もう心に留めないというのが赦すことです。ミカ書7章19節で預言者は言います。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」神は民の罪を表ざたにしないで奥深く沈めてしまう、これが罪の赦しです。神の意思に反する罪は起きてしまった、それはもう打ち消すことができない事実である、しかし、それをさもなかったかのようにするから、新しく出直しなさい。そういうふうに、神の罪の赦しには罪を犯した者が新しく出発できるようにするということが一緒になっています。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。私も時々聞かれるのですが、キリスト教は罪を赦すので処罰はなにもないのか、犯罪を犯しても、さもなかったかのようにしてしまったら、犯罪は野放しになってしまうではないか、というものです。罪を赦すとは、してもいいよと罪を許可することではありません。日本語の「ゆるす」は二つの異なる漢字があるので混同されやすいと思います。罪は神の意思に反することなのでしてはいけないのです。心の中で思っても口に出してもいけないのです。もし犯したら、「命の書」に書き留められて最後の審判の時にお前はこうだったと突きつけられるのです。まさに、本日の使徒書の日課ローマ14章で言われるように、かの日には各自一人一人が神の前に立たされて自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。果たして神に対して申し開きなど出来るでしょうか?
ヨハネ8章でイエス様は罪を犯したために石打の刑にかけられそうになった女性を助け出して次のように言いました。「わたしもあなたを裁かない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ギリシャ語原文では「裁かない」ですが、新共同訳では「罪に定めない」です。悪くない訳です。イエス様が裁かないと言うのは、お前の罪は「命の書」に書き留められてしまったが、最後の審判者からとやかく言われることはもうない、だから申し開きの必要もないということです。なぜそうなったかと言うと罪が赦されたからです。まさに罪に定められていないということです。イエス様からそのような赦しを受けて、「もう犯したらだめだよ」と彼に言われたら、本当にその通りにしなければと思うでしょう。このように罪を赦すというのは罪を許可することと全く正反対な方向に向かうのです。
犯罪は処罰しないのかということが出たので、少し考えてみます。社会には法律があり、犯罪について規定があり、刑罰や賠償について規定があります。それらに従って犯罪を確定して刑罰や賠償が課せられるのは当然だと思います。神は、殺すな、傷つけるなと命じているので、そのようなことが社会で好き勝手に行われるのを放置してはいけないのです。そう言うと、じゃ、やはり、なかったかのようにしていないじゃないか、赦していないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、犯罪の場合の罪の赦しというのは、被害を受けた人の心に関わることだと思います。処罰や賠償というのは、社会の秩序が正義に基づくために設けられたものです。なので処罰や賠償は社会に関わることです。このように罪の赦しと処罰や賠償は別々に考えられると思います。
罪の赦しは心に関わるということをもう少し見てみます。キリスト信仰では、完全な正義は最後の審判の時に実現するという立場です。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は自分で復讐をしてはならない、神の怒りに任せよと注意喚起します。神の怒りに任せよというのは、最終的な判決、処罰、賠償は最後の審判の時に神が行うのでそれに任せよ、ということです。最終的な判決、処罰、賠償をこの世で目指すと復讐することになってしまうと思います。自分で復讐をしないで最後の審判の神の怒りに任せるのがキリスト信仰者だとすると、信仰者がこの世で正義を実現しようとすると次のようになると思います。万能薬ではない社会の規定を、神の意思から外れないように用いて、最善の正義を目指すということになると思います。そういうふうにキリスト信仰者は正義を目指しつつ、同時に、敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ、とパウロは教えます。実際に行動に移せる可能性があるかどうかは別にして、少なくとも心の有り様はこのようになっていなければならないのです。果たしてキリスト信仰、イエス様を救い主と信じる信仰で、このよう心の有り様は生まれるでしょうか?本日のイエス様のたとえは、それが生まれることを教えるものです。
そこで、本日のイエス様のたとえが、キリスト信仰者にとって罪の赦しは莫大な負債を帳消しにされたのと同じだと言っていることについて見ていきましょう。このたとえを最初に聞いた弟子たちは、莫大な負債を帳消しにしてもらったら他人の小さな借金など取るに足らないものに感じられるというのはわかったでしょう。しかし、それが罪の無制限の赦しとどう結びつくのか?お前たちは莫大な負債を帳消しにしてもらったのだ、だから兄弟の罪など小さな借金と同様だ、兄弟の罪を無制限に赦してやるのは当然だ、そう言われても、自分たちにとって莫大な負債の帳消しとは一体何なんだ?ということになってしまいます。兄弟の罪に対する無制限の赦しと自分たちの莫大な負債の帳消しの結びつきが見えてきません。
ところが、それがはっきりわかる日が来るのです。イエス様の十字架の死と死からの復活の日です。イエス様が神の想像を超える力で死から復活されて天の神のもとにあげられたのを目撃した弟子たちは、あの方は、かつてダビデ王自身が私の主と呼んだ方で、父なる神の右に座すことになった方なのだ、つまり神のひとり子だったのだということが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかかって痛々しく死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間に代わって受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。このように全てのことが事後的に次々とわかるようになったのです。十字架と復活の出来事の後にわかるようになった使徒たちは次のように記しました。
パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)
ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)彼らはイエス様が十字架の前に言われた次の言葉の意味がわかったのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)
神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が人間に開けたのでした。神の子の命が身代金になったのです。この代償の価値から見たら5342億円など1円にも満たないものです。神は、私たちがこの世で神との結びつきを持って生きることを妨げていたもの、この世の人生の後で神の国に迎え入れられることを妨げていたもの、罪という負債を帳消しにしたのです。
このようにして人間は自分では何も犠牲を払っていないのに、神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで罪を償ってもらった者、償ってもらったから罪を赦された者として見てもらえる、そういう状況が生み出されました。
そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起こったのだとわかってそれでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この罪の赦しの状況に入れることになりました。そこに入れると、人間は死を超えた永遠の命に向かう道に置かれてその道を歩み始めることになります。この世を去る時が来ても、その時は安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。本日の使徒書の日課ローマ14章でパウロが、キリスト信仰者は生きる時も死ぬ時も主のものとしてあると言っている通りです。この世を離れて復活の日までの眠りの時も主のものであり続けるのです。そして、復活の日に目覚めさせられて永遠に自分の造り主である神の御許に迎え入れられるのです。このように人間は、イエス様の十字架と復活の業によって、かつ、そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、罪と死の捕らわれ状態から解放されて神の御許に迎え入れられる地点を目指して歩む者となったのです。これがキリスト信仰者です。
ただしキリスト信仰者と言えども、肉を纏ってこの世を生きる以上は罪はまだ残っています。しかし、洗礼と信仰によって神との結びつきが生まれました。その結びつきの中で神の国に迎え入れられる日を目指して歩んでいることは、礼拝の罪の赦しと聖餐式を受けることで確実なことになりました。やはり罪は帳消しになったのです。
これでキリスト信仰者は莫大な負債の帳消しが自分たちに起こったことがわかりました。罪という神に対する負債で、そのままにしておくと、この世で神との結びつきを持てず、この世の次に到来する世で神の国に迎え入れられなくなってしまうという負債です。それを神はひとり子を犠牲にして帳消しにして下さったのです。このような帳消しを受けたら、この世で兄弟が犯した罪などちっぽけなものになるはずです。しかし、ここで忘れてはならない大事なことがあります。それは、兄弟の罪を無制限に赦さなければならないというのは、それが取るに足らないものだからそうせよ、ということではないからです。取るに足らないというのは、赦さなければならない理由ではなく、難しいことではないと言っているだけです。赦さなければならない理由は別にあります。
兄弟の罪を無制限に赦さなければならない理由とは何でしょうか?兄弟が罪を犯したというのは、その人の神との結びつきが揺らいで御国への道の歩みに支障が生じたことです。そのようになってしまった兄弟をキリスト信仰者は助けてあげなければなりません。兄弟が神との結びつきに戻れるように道の歩みに戻れるようにすることが助けることです。そのためにどうすべきか?その時はやはり、兄弟が自分自身もイエス様の莫大な犠牲を払われて罪の赦しを得たことに思い当たることが大事です。そのことに思い当たれるために無制限の赦しの態度を示すべきだというのがイエス様の趣旨だと思います。同じことは、キリスト信仰者でない人の罪の場合にも当てはまるのではないかと思います。その人の場合は、まだ神との結びつきがなく、復活の日を目指す道の歩みをしていません。キリスト信仰者の兄弟の場合は戻れることが目指されますが、信仰者でない場合は結びつきと道の歩みに入れるようにすることが目指されます。その時、イエス様の莫大な犠牲に思い当たれるために無制限の赦しの態度を示すことは大事になると思います。
以上、罪の無制限の赦しは、神との結びつきと御国への道の歩みから離れてしまった兄弟が戻れるようにすること、まだ結びつきを持たず道に入っていない隣人が入れるようにするということが目的としてあることを忘れないようにしましょう。こういう目的があることを忘れて罪の無制限の赦しを目指すと、人間が自分で自分を高潔な倫理的存在にすることになってしまい、キリスト信仰から離れて行ってしまうと思います。
最後に、罪の無制限の赦しなど果たして兄弟や隣人が神の莫大な負債帳消しを思い至らせるのに役立つだろうか、案外、悪用されたりして馬鹿を見てしまうのではないかという疑いも出てくるかもしれません。私もそうです。でも、聖書にはそういう疑いを失くさせる話が沢山あります。本日の旧約の日課でヨセフが兄たちに述べた言葉はその一つです。ヨセフの兄たちはかつて弟をエジプトに奴隷として売り飛ばしたことを後悔し、ヨセフが復讐しないように憐れみを乞います。ヨセフは今やエジプトの高官の地位につき国民を大飢饉から救った英雄です。しかし、彼は権力を振りかざすことはなく、何も心配はいらないと言って兄たちを安心させます。復讐心を剥き出しにするどころが、逆に兄たちの悔恨を聞いて涙ぐんでさえしまいます。なんと心の清い人なのでしょう。ヘブライ語原文に忠実に訳します(創世記50章20節)。
「あなたがたは私に悪を企みましたが、 神はそれを良いことと見なしたのです。 そう見なしたのは、今日において多くの 人々の命が助かるようになさるためでした。」
神は悪いことが起きてもそれを全く別物に作り替えられるのです。
パウロもローマ8章28節で同じことを言っています。
「神を愛する者たちのため、 ご決定により選ばれし者たちのため、 神は万事が良いものになるように働かれる、」
このようにキリスト信仰者は、害悪を被っても失望や絶望、悲しみや復讐心に埋没してしまわない超越的な視野と、真っ暗闇の中でも消えない光を聖書から得ることができるのです。
マタイ16章21−28節
「十字架の罪の赦しと復活に与る洗礼から始まる真に平安で日々新しいいのちの歩み」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「前回」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
先週は、イエス様の「あなたはわたしを何というか」という問いに、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた(16節)ことについて、イエスが「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と、その信仰告白は人間によるものではなく、天の父が現して下さったものなのだと教えました。さらにイエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と、神が与えて下さった岩の如き信仰告白の上に、ペテロの教会でも偉人の名の教会でもなく、「わたしの教会」つまり「キリストの教会」を立てるのだと、イエス様は教会は律法ではない、人のわざでもない、どこまでも恵みの存在である幸いを宣言したのでした。今日は、その後、続けて語られるイエス様の言葉を見ていきます。「わたしの教会を建てる」の後に、こう続いています。18節最後ですが、
2、「陰府の力も対抗できないキリストの教会」
「陰府の力もこれに対抗できない。
A,「天の国の鍵」
イエス様は「わたしの教会を建てる」と言われましたが、その「わたしの教会」は「陰府の力もこれに対抗できない」と言います。ここは新改訳聖書ですと「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」とあり、ハデスはギリシャ語の通りですが、死者の国という意味です。ですから「陰府」に近い意味になりますが、英語のESVバイブルでは、”The gate of hell”とあり「地獄の門」という意味です。いずれにしても、それは、ペテロに信仰の告白を表した「天の父」との対峙で書かれているように思われます。イエス様が言われるように、イエス様が建てる「わたしの教会」つまり真の「キリストの教会」は、地獄の門さえ対抗できない、新改訳聖書ですと「打ち勝てない」、そんな存在だというのです。しかしそれはどのようにでしょうか?イエス様はそれは、教会に与える「天の国の鍵」によるものであるというのです。19節、こう続いています。
B,「つなぐ、解く」
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
鍵で「つなぐ、解く」とはどういうことでしょうか?それは、教会に、弟子たちに、つまりクリスチャンには、天の鍵を与えられていて、教会でその鍵で、誰かをつなぐなら、天でもつながれ、その鍵で、誰かを解くなら、天でも解かれるというのです。本来、天で行われるはずの権限を、与えられた者が地上でそのまま行えば、天でも行われたこととなると言うのですから、そこまでの重大な権限が与えられているということが分かります。では、何をつなぎ、解くのでしょうか。それは21節からのイエス様の言葉にわかるように、罪の赦しのことに他なりません。教会が地上で、誰かを赦すなら、天でもその人の罪は赦されるのであり、逆に罪を赦さないでいるなら、天でもまだその人の罪は赦されないままだというのです。しかしそれは「『天の』国の鍵」であり、それが天から「与えられ、託される」のですから、人の思いのままに、自分中心に赦す赦さないということでは決してなく、どこまでもイエス・キリストのみことば、み旨に基づいて、さらに言えば、イエス様の来られた目的である十字架と復活に基づいて、それを行うということを、イエス様は、何よりも教会に、私たちに託しておられるということなのです。なぜならイエス様のこの言葉と天の国の鍵が、イエス様のこれからの教会の使命にとっていかに大事であり、結びついるのかを示すように、こう続いているからでです。21節からですが、
C,「ご自身の十字架と復活を指し示すキリスト」
「21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 とあります。「この時から」とあります。つまり、この17節以下の「わたしの教会」を建てる宣言、そして、19節の「教会の天の国の鍵の働き」を弟子たちに約束した、その時から、イエス様は、はっきりとエルサレムへと弟子たちの目を向けさせ、そこで具体的に何が起こるかまでを伝え始めるのです。それは、イエス様が、多くの苦しみを受けて殺されること、21節で「十字架」とは言ってはいませんが、この後、24節で「自分の十字架を背負って」と述べているように、イエス様は、十字架で死ぬことまでもはっきりと見て、弟子達にそのことを口にし指し示しているのです。そして、殺され、3日目に復活することまでを話し始めたのでした。まさに、イエス様は、ここで人間の罪の圧倒的現実とそのための身代わりとして死ぬことになる十字架を指し示しているのですが、それは、その目の前にいる弟子たち、そして全ての人々の罪が赦されて、救われるために他なりません。このように、天国の鍵の力は十字架と復活につながっており、だからこそそれをつなぎ解くのは罪の赦しであり、そして、そのイエス様が成し遂げる事の最大の目的とその力と権威こそが、つまり、天の国の鍵として罪の赦しこそが、弟子たち、教会に託されることにつながっていくのです。
3、「人間的な思いでイエスをいさめ、主の御心を妨げる」
しかしです。そのイエスの言葉の後、そのすぐ前には16節で、神によって現され告白をしたペテロが、同時に自らでは決して、み言葉を悟れない不完全な罪人でもあることを示すように、彼の罪深い肉の叫びが続くのです。22節
「 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
A,「そんなことがあってはならない」
宗教指導者に逮捕され苦しめられ殺される、それは恥ずべき重罪でもあり、神への侮辱ともされ、社会からも攻撃されます。ですから、ペテロが、いや他の弟子たちも含めて、この方こそ救い主だ、王様だと、解放者だと、メシアだと、信じついてきた方に、そんなことが起こるはずがない、と言うのは、ペテロにとっては当然の反応でした。他の弟子たちも戸惑ったことでしょう。そして、ペテロがイエスを諌める言葉はイエスを師として慕えばこその行動や言葉でもあったでしょう。しかし、そんなペテロにイエス様ははっきりというのです。
B,「サタン、引き下がれ」
「23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
と。17節で、ペテロのその信仰の告白に「あなたは幸いだ」とまで言った、さらには、地獄の門にまで打ち勝つ鍵も与えると約束された、イエス様ですが、それとはなんと正反対な厳しい断罪の言葉でしょうか。「サタン、引き下がれ」。なんと地獄の門を支配するサタンとまで言います。みなさん、イエス様の愛情は、矛盾しており、捻くれているのでしょうか?理不尽なのでしょうか?人間中心の感情論で言ったら、「なんて酷いことを言うんだ、イエス様は酷い方だ、愛なんてないじゃないか、等々」そう見える、聞こえて当然でしょう。しかし、イエス様は、愛情がひんまがっているのでも、捻くれているのでも、理不尽で矛盾しているのでもないのです。イエス様ははっきりとしているのです。16〜17節で、「生ける神の御子キリストです」という告白については、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言っています。それはペテロの口から出ていても、イエス様は、神の言葉から出て導かれた神の与えた告白であることをはっきりさせていますが、しかしこのイエスを諌めるペテロの言葉はその全く正反対でしょう。神の心ではなく人間の価値観によって「神はこうあるべきではない、こうあってはいけない」という人間中心の思いです。むしろ神の御心に反対する人間の思いです。なぜならイエス様もこう言っているからです。
C,「神のことを思わず、人間のことを思っている」
「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
神のことを思わず、人間のことを思っていると。ペテロにとっては、ある意味、かわいそうなことかもしれません。なぜなら、イエス様が十字架と復活のことを語っても、そこにこそ、その身代わりによって罪の赦しと新しい永遠の命が与えられる、という神様の成そうとすることを、彼はこの時まだ全く理解できでいなかったからでした。このように怒られた後でさえも、十字架の直前、復活の日の朝までも、ペテロのみならず、全ての弟子が、十字架と復活の意味を理解できず、復活の後、聖霊によって目が開かれて彼らは初めて理解することだからです。ですから、「サタン」とまで言われて、人間的には、ちょっとかわいそうな気はしますが、しかしイエス様の教えは、矛盾したり、揺れ動くどころか揺れず一貫してはっきりとしているのです。それは、人間の思いや力では、神の成そうとすることを理解できないばかりではなく、むしろ、神の計画を妨げることさえあるということです。ペテロをはじめ、その当時の人々のメシアへの期待は、目に見える王国のローマからの政治的解放とダビデとソロモンの王国のような独立と繁栄を再び、という政治的経済的な期待でした。弟子たちも、その地上の政治的王国の右に誰が着くかと論争する始末でした。彼らがイエスに見て期待していたメシアはそのようであり、ですからそんなメシアは宗教指導者たちに逮捕され苦しめられ殺されるはずがないのです。しかしそれは人間が予想でき、期待できる、事前の概念でしかありませんでした。それは、神から出たものではなく、人間の期待であり、理想であり、人間の心から生み出した幻であり、そして肉の目の前にすぐになるであろう、なって欲しい期待であり予想でした。それは人の前ではとても崇高な期待で、敬虔そうな幻であり、人から見れば、師にはそんなことが起こるはずがないと守ろう、助けよう、支えようと言う、敬虔で立派な言葉や態度になるかもしれません。しかし人の前でどんなに立派に見えても、それは、神様が計画した愛する御子を十字架で死なせ復活させることによって、罪の赦しを全世界にもたらそうとう御心には、明確に反するし、妨げようとさえする言葉であり思いなのです。それはまさしくサタンが堕落の初めから、アダムとエバに成功し多くの信仰者を誘惑しては苦しめ、躓かせてきた、そして、同じようにあの荒野の誘惑でも、イエス様を誘惑してきた、神のみ心や約束から逸れさせ、正反対のことをさせよう、という、サタンの働きそのものなのです。だからこそ「サタン、引き下がれ」なのです。
D,「神の御心だけがなり、人ではなく神がなす」
このところは大事なことを教えてくれています。
第一に、神のみ心を行うのは、人間ではなく、人間は与えられ用いられるだけで、行うのは、神と神の言葉から出て与えられた信仰とその告白のみによる行いであり、どこまでも神のわざであるということです。一方で、人間の思いや感情、願望、期待、予想、なんであれ、それらは神のことを考えない、神の言葉に立たない、御心を行えないのであり、むしろどこまでも神の思いに反抗し、妨げるということです。むしろ、私たちは、このイエス様の告白から学ぶことができます。それは、イエス様がここで告白するイエス様がこれから受けられる苦しみも十字架も復活も、私たち自身から出るものでは、何も貢献できない、私たちのわざ、行い、協力、功績、そのようなものは一才あり得ないし、それは不可能であると言うこと。そして、まさにその神の御心である十字架は、どこまでも「神が」果たすことであり、ただ一人神の一人子であるキリストご自身が全てを背負われ果たされるのであり、つまり、私たちの十字架と復活の救いは、どこまでも神のわざ、神の恵みであるということです。逆に、「私たち人間から出るものでも、何か、救いや神の国、その理想に貢献できる、しなければいけない。人の目から見れば神のそのような言葉や計画はあまりにも人間にとって合理的ではないから、イエス様、そんなことはやめましょう。そんなことはあり得ません。こっちの方がいいです。私たちのこの考えの方が聖書的で、現代の世の中や文化や風潮や流行に合っており、私たちも心地よいでし、みんなが平和です、みんな聖書に理解を示し親しめます。だからイエス様、現代ではそんなあり得ないこと言わないでください」と言って、み言葉を否定して、人に都合よく解釈して神の言葉をある意味「いさめる」のは、それがどんなに世間受けして、世の中に賞賛され、合理的でわかりやすく理解しやすい内容であっても、イエス様の声は、
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
なのです。
4、「十字架を背負って従うー日々洗礼に生きる」
確かに、この後、イエス様は、24節「十字架を背負って従いなさい」とか、27節、「行いに応じて報いる」とか、何か私たちの行いを、救いに要求しているように読み取れるような箇所もあります。だから、これらの言葉のゆえに、「十字架を背負って従え」と言っているんだから、信仰は一部分は、律法なんだ、私たちの力やわざなんだと、いう教えをする教会もあるかもしれません。しかし、私たちは忘れてはいけません。この後、誰が、十字架を負うのですか?ペテロですか?弟子たちですか?ー違います。彼らではありません。イエス様ではありませんか?そして、ペテロでもモーセやアブラハム等々、誰の十字架でもない、このイエス様の十字架の死こそを父なる神は受け入れて、私たちに罪の赦しを宣言してくださっているでしょう?このキリストの十字架のゆえに、もう罪は赦され、罪から解放されると。パウロもこう言っているでしょう。ローマ6章3−6節です。
「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
このように、全てを捨てて、十字架を背負って生きるとは、まさにこのことであり、それは律法の要求ではなく、むしろ恵みを与える手段である洗礼のことであると、パウロは教えています。「イエスのために「命を失う」ものはそれを得る」と言う言葉も、まさにここにある洗礼のことと当てはまるでしょう。洗礼でイエス様とともに罪に死んで命を一度失うから、つまり「全てを捨てる」からこそ、イエス様は、罪赦された新しい命を与えてくれる、それが救い、ニコデモも間違って理解した「新しく生まれる」ことの神秘であり真理です。事実、洗礼は私たちも十字架で死ぬことだとパウロは教えています。つまり全てを捨てて十字架で死ぬことが洗礼です。それはイエスは主であると信じて、この十字架のイエス様が全ての罪を背負ってくださっていると、そのイエス様のくびきを負って全てをイエス様に明け渡して死んで復活で新しく生きる信仰こそが、まさに洗礼から始まるイエス様の十字架を負う生き方そのものなのです。その洗礼は律法ではなく、救いの招きであり、差し出されている神の恵みそのものをなのですから、そのまま導かれるままに信じて受けるなら、イエス様が求める自分を捨て十字架の背負ってイエス様に従う歩みはすぐに始まるのです。だからこそ、それは律法の歩みの始まりではあり得ないのです。洗礼によってイエス様の恵みと福音に囲まれた信仰の日々新しく生かされる歩みが始まるのです。これが日々十字架を背負って生きることなのです。洗礼を受ける日までは恵みで、それまでは教会の人も親切にお客様のようにしてくれたけれども、受けた後から180度変わり、奉仕や献金など教会のあらゆる義務が律法のように重荷のように課せられ律法の日々が始まるように導く教会が少なくないようで、多くの新しく洗礼を受けた人々がその矛盾に躓いては信仰を捨てていくという現実が日本の教会ではあるようです。とても残念なことですし、まさにそれは律法と福音の混同の被害ですね。何よりイエス様はそのことを悲しんでおられるでしょう。洗礼は律法ではなく、恵み、福音であり、その後の信仰生活も宣教も律法ではなく、どこまでも福音なのです。むしろ日々死に、日々新しい洗礼の恵みは日々あるのですから、私たちはただ日々悔い改め、イエス様の十字架に立ち返り福音の信仰の日々に生きることで安心していいですし、そのイエスの与える安心が真の良い行いや隣人愛に導く真の天の力なのです。
5、「天の国の鍵ー互いに赦しあって」
そしてだからこそ天の国の鍵の恵みなのです。そう、このように、罪の赦しこそ、何より神が与えようとしたものであり、そして何より大事なこととして神が教会に、そしてクリスチャン一人一人に託している、大事な鍵、大事な宝です。イエス様はルカ7章で「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。皆さん、安心するでしょう。イエス様の罪が赦されていますという宣言は、安心して行くことができるでしょう。イエス様の罪の赦しは平安、安心の鍵でもあります。それを教会に、私たちに与えられていることは意味がある大事なことなのです。私は前の教会でも、礼拝の最後に「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してきました。皆、安心して派遣されますが、ある人は「何の権限があって、罪の赦しを宣言するのか」と苦情を言う人もいました。しかしイエス様は「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言っているのです。ペテロだけではない教会にです。クリスチャン一人一人にです。そして、イエス様が新しい戒めを与えてるその互いに愛し合うことの原点は、まさしくこの罪の赦しです。イエス様はヨハネの福音書で「わたしがあなた方を愛したように」と言って、互いに愛し合うことを命じているでしょう。「わたしがあなた方を愛したように」、そうそれはこの十字架ではありませんか。まず罪を互いに赦し合うことがこの新しい戒めの要であり、隣人愛の原点でありその第一条です。イエス様は聖餐を受ける前にまず和解をしなさいと言っているくらい罪を互いに赦すことは大切なことです。それは、世の中の華やかな隣人愛に比べれば、地味で目立たず、そして何より難しいことです。しかし、イエス様はそのことこそを隣人愛の基本として求めています。私たちにはできないことです。しかし、十字架のイエス様にこそそれができました。そしてイエス様が与える信仰と福音の力は、その罪を赦すと言う天のわざを私たちにもさせることがおできになるのです。だからこそ、天の鍵を福音として私たちに与えてくださっているのです。だからこそまず、私達は、今日もイエス様から罪の赦しを受けましょう。イエス様は今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださっています。そのまま受けて、安心していきましょう。イエス様は私たちを豊かに用いてくださいます。
2023年8月27日スオミ教会礼拝説教
マタイによる福音書16章13〜20節
説教題「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ
1、「初めに」
さて、これまで13章から15章に渡って、イエス様の伝える天の国とその福音の素晴らしさを見てきています。その天の国、あるいは神の国とも言いますが、それはこの地上でもイエス様の言葉が語られ、福音が宣言されているところにはすでに実現しており、つまり、この罪の世にあって、まさにイエス・キリストがおられ福音が宣言される教会こそが、その神の国の先取りであり、私たちは今まさにその恵みに与っている素晴らしさを教えられてきました。そして、今日のところでは、その神の国の先取りである、教会の礎、根拠、あるいは土台は何であるのか、そしてその土台があるからこそ、教会はいかに素晴らしい使命に与っているのかを、教えられています。13節から20節までが今日の箇所にはなっていますが、いつものように、前後の文脈が必ず関連しています。前後も踏まえてともに見ていきましょう。まず13節をもう一度お読みします。
2、「人々はイエスを誰だと言っているかー誰も自らでは正しく言えない」
「13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
A,「誰も自ら正しくイエスは誰であるのかいうことはできない」
フィリポ・カイサリアは、ガリラヤ地方の北、ヘルモン山麓南の高台にある、ヘロデ大王の息子フィリポによって建てられた新しい町でした。そこに来た時に、イエス様は弟子達に「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねます。この質問は、この後15節の、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という質問の導入とも言える質問ですが、意味深い質問です。人々は人の子、イエスを誰だと言っているか。弟子達は、14節で、ある人々は『洗礼者ヨハネだ』と言い、ある人は『エリヤだ』と言い、また他のある人は『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言っている、と、その人々が口にするイエスの評判や評価を答えています。大勢の人々にとって、イエス様の存在は、とても注目と関心の的でした。多くの奇跡を行い、病人を癒したその情報は、ユダヤ、ガリラヤ、イスラエル全土の異邦人に至るまで知られていました。しかし、イエスが誰であるのか。それは否定的な評価であっても、肯定的な評価であっても、誰も正しくイエスは誰であるのかを、いうことはできませんでした。
B, 「人間中心の判断①:目に見え期待する「しるし」に判断しようとする」
1節からは、ファリサイ派とサドカイ派の人々のことが書かれています。彼らは、イエスを試そうとしてやってきますが、「天からのしるしを見せてほしい」とあるように、彼らは、イエス様が、何か目にみえる奇跡的な現象を行うかどうかと、試そうとしています。「奇跡など、目に見えるすごいことを」それは、ファリサイ派やサドカイ派の人たちだけではなく他の多くの人々のイエスへの注目点ですし、評価の基準でした。まさに人間の目に見える、見たいもの、しかも「天からの」とあるように、普通ではない驚くべきしるしを、見せてくれれば、イエスを評価しよう、信じよう、認めよう、そのような人々が多かったのです。現代でも、何か目に見える、期待する偉大な行いやわざがあれば、あるいは、してくれれば、それを自分の信仰の根拠にしよう、信じようという声はよくあるでしょう。「こうであるなら、私は信じます。」「これを見せてくれれば私は信じます」と。しかし、それは、神を判断する基準、あるいは信仰の基準は、どこまでも自分です。ご利益信仰というのは、日本人に限らず、どの国や文化にもあると思いますが、それは人間の側で、期待する通り、願う通り、その通りになれば、神を評価しよう、信じようという、信仰や、神様への評価です。しかし、それは、どこまでも実は、人間が中心、ある意味、自分が神になっていて、信仰の対象を評価しているという大きな矛盾、皮肉、そして身勝手さがあります。それは、キリスト教会やクリスチャンの中でも様々あることで、例えば、文化的な変化や、社会の価値観の変化によって、聖書の解釈や神への理解を巧妙に都合よく変えていこうとすることも同じです。それは、まさに、しるしや目に見えるもので、神の国や救い主やみ言葉を測ろう、判断しようということですが、人間中心の価値判断であるために、人間の都合や好みで、例えそこに隣人愛などの崇高な思いがあったとしても、聖書の教えが巧妙に変えられていってしまっているのです。教会で、キリストの名を叫びながらも、人間や人間の理性が神となっているという皮肉です。
C,「真のしるしは、人が思いもしない、キリストと、そして十字架と復活のみ」
イエス様は、そのようなしるし、つまり、何か自分が期待するような奇跡的なことで、神を試そうという姿勢を皮肉ります。4節「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と。イエス様は、その前に人間は、自然のしるしから天気を予測することを挙げていますが、しかし、そこでヨナのしるしの他にはしるしを与えられない、と答えて立ち去っています。そのヨナのしるしについては遡って12章38節以下で彼らに既に述べたことで、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中で過ごして出てきたという旧約聖書の言葉から、ここにヨナに勝るものがいると、イエス様は示したのでした。つまりそれは、明らかにイエス様がこれから受けられる十字架の死と3日目に復活されることを示した「しるし」なのですが、しるしは、そのしるしだけだとイエス様は言っています。しかし思い出してください。その十字架という「しるし」は、人間が期待し、望むような、しるしではなく、人には理解も予想もできない、人の思いを超えたしるしであったでしょう。このことは、まさに人間の、期待や予想ができ、願うような、そんなしるしで、神を図り、評価できるほど、救い主キリストも神の国も、決して小さくないし、むしろ、計り知れなく大きく、人間の力では、神の正しい理解や霊的な悟りには至らないことを示しているのです。
D,「人間中心の判断②:過去の栄光や偉人に見ようとする判断」
それでも、ある人々は、イエスを見て、『洗礼者ヨハネだ』『エリヤだ』『エレミヤだ』あるいは『預言者の一人だ』とある意味、一見良い評価をします。しかし、その評価も、これまでに過去に存在し、偉大な功績を残し尊敬され、著名な優れた人間を超えるものではありませんでした。それも、また彼らが期待し待ち望んでいた、実在した過去の偉大な存在であり、むしろ、かつて、バビロンやアッシリアの囚われから解放してくれた時のように、国をローマの圧政や抑圧から解放してくる立派な指導者を超えるものではなかったのでした。そう、このように、神の国も、救い主キリストを、そのような、過去の栄光や、成功者、偉大な指導者や貢献者を基準に、同じようなものに追い求め、同じようなものを見ようとしても、正しく、見ることができず、間違って見てしまうのです。それは、現代でもありうることで、聖書よりも、過去の繁栄していた時代の教会を基準に、つまり人間の経験を基準にして、あるいは、その過去の栄光に囚われ、その時代の優れた功績を残した人をある意味、神のごとく崇め奉っているかのように、その通りの、それを基準とし、その基準や期待に合致した教会や指導者を求めたり、再度、同じ栄光や繁栄を実現することが何か宣教であるかのように勘違いして熱心に律法的に活動している教会を目にすることがありますが、しかし、過去の栄光や繁栄、そしてその時のエリヤの如き優れた預言者、説教社、指導者を追い求めるあまり、キリストとその福音がわからない、見えない、あるいは見失ってしまうのです。
「イエスは誰であるのか」、それは、罪深い人間の価値基準や経験や判断では、それを正しく答えることはできないのです。ここで、イエスは、弟子達にまさに核心となる問いかけをします。15節
3、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ
「15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
それに対して、ペテロが答えます。
「16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
A,「ペテロの告白①:ペテロも弟子達も自ら告白できる力はない」
ここで言う人がいるかもしれません。「ペテロは、きちんと答えているではないか。イエス様もそれを賞賛しているではないか。そら、人間は、きちんと修行を積めば、経験を積めば、イエスはメシアだ、生ける神の子だと告白できるではないか、だから、人間の経験の力、意志の力、なんだ、人間の力で信仰を告白できるんだ」と。そういうかもしれません。
しかし、それは違います。この後の17節を見ればわかるのですが、5節以下の弟子達のことを見ても、イエス様の言葉の意味を悟ることのできない弟子達の姿があります。イエス様は、6節で「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」といったことを、弟子たちは、パンを持ってこなかったことを注意されたのだと思い込み論じ合いました。その前のイエス様とファリサイ派達とのやり取りのことなども忘れてしまったかのように、目先のパンがないこと、食べるものがないことを、忘れてしまったことをどうしようかということに囚われ心配しています。弟子達も、ヨナのしるしが何を意味しているか当然ですが、理解できていませんし、しるしを欲しがるよこしまな時代の警告の意味もわかっていないのです。そればかりではなく、食べるもの、パンのことを、心配する必要がないことは、見てきた5千人の給食からも、その前の山上の説教からも教えられてきたことでした。しかしそれでも悟るのに遅い弟子達です。いや弟子達でさえも自らの力では、イエス様の真理には至ることができないのです。この16章でも8節以下イエス様に教えられて初めて、彼らは、最後にパン種の意味を悟っているのです。そう、弟子達がイエスと長く過ごし、経験を積んできたことによって、何か神の真理や知識や悟りに至るということでは決してないのです。事実、この後、十字架の直前まで、彼らは、誰が偉いかと論じ、イエスが誰かが裏切ることを伝えたときも、口では立派に「他の誰が裏切っても自分は裏切らない」と豪語しても、彼らは皆裏切って行きます。人間の意思の力はその通りにならないのです。そして復活の日の朝も、イエスの約束を忘れて、恐れて失望のうちに部屋に閉じこもっていたでしょう。彼らが経験を積んで、意志が訓練され強くなり、自分の意志や行いで悟り告白したにはならないのです。
B, 「ペテロの告白②:人間ではなく、わたしの天の父なのだ」
イエス様は、16節のシモン・ペトロの
「あなたはメシア、生ける神の子です」
と答えたのに対して、はっきりとその告白がどこからきたのかを教えてくれています。 「17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
「あなたはメシア、生ける神の子です」ーそのイエスは誰であるのかの告白、信仰の告白は、それを現し、明らかにしたのは、「人間ではない」とはっきりといっています。ペテロのこれまで過ごしてきた修行の賜物、経験の積み重ねから出た人間の力や意志のわざ、ではないとはっきりと言っています。あるいは「人間ではない」ということは、それは、誰か他の人間が説得してくれた、信じさせてくれた、誰かがこれだけのことをして、貢献してくれたから、その人と自分の力で信じることができた、でもないということです。もちろん、誰かが信仰を告白するに至るまで、多くのクリスチャンの証しが用いられます。しかし人は用いられるだけです。信仰の告白は人間によるのでないのです。イエス様は言います。「わたしの天の父なのだ」と。そう、天の父である、神こそが、信仰を与え、告白を与えてくださったのだと、イエス様は言っています。さらに言えば、そこに働いていたのは、まさに8節以下でも、イエス様に教えられて、つまりイエス様のみ言葉によって教えられて、目が開かれたように、天の父が、御子イエス様のみ言葉を通して、その信仰を、その告白を現してくださったと、言っているのです。人間によるのではないのです。
パウロもはっきりと言っています。エペソ2章8〜9節にこうあります。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
C,「み言葉を通し恵みのゆえに悔い改めと信仰が今日もある素晴らしさと救いの確信」
皆さん、感謝なことです。皆さんは、今日もみ言葉の律法によって罪を示され、心を刺し通され、悔い改めを持ってこの前に集められています。そして、今日も十字架と復活のイエス様の前にイエス様によって集めれています。信仰を持って、神のみ言葉に聞いています。そして今日も、信仰によってイエス様の罪の赦しの宣言を受けて、平安をもらってここから信仰にあって遣わされようとしています。しかし、その信仰は、皆さんが自分の努力で、自分の力で得たものではない、それは、天の父なる神の賜物、贈り物、プレゼント、神が下さった恵みなんだと、今日もイエス様ははっきりと教えてくれています。皆さんが、今日もイエス・キリストを救い主と告白し、祈ることができるのは、天の父が現してくださった、与えてくださった、神の賜物であり、人間によるのではないのです。つまり、私たちには決してできない、天の神が今日も私たちに明らかにしてくださった信仰という素晴らしい真の奇跡が今日もここに、私たちに起こっているのです。ですから、今日もここに恵みに生かされている事実、自ら信じることのできなかった私たちがここに今、神の言葉から、キリストを信じ告白している事実、出来事が、今日のこの時にもある。そうであるなら、ぜひ喜んでください。安心してください。なぜなら、私たちは天の父によって与えられ、今確かにイエス様と共にあり、確かに救われている。救いの道、新しいいのちの道を私たちは確実に導かれていると、主キリストにあって、約束の言葉にあって確信できるのですから。
D,「しかし信仰が律法、私たちの行いや意思の力だとするなら〜平安も確信もない」
しかしもしそうでないと言うなら、つまり、信仰は行いであり、人のわざ、意思の力であり、告白も、私たちのわざ、功績であり、経験の積み重ねであり、意志の力、決心の一歩であると言うなら、どうでしょうか。全ては私たちの行いや力や意思にかかっているというのなら、どうでしょうか。そうであるならば、私たちは、どこまでも不完全で、罪深い、自分の現実の前に、絶対に安心も確信もなく、いつでも、救われているのだろうか、天国に行けるだろうかという、不安と曖昧さの中で、生き続けなければなりません。その上、さらに努力をしなければという、達成できないおろすことのできない重荷に苦しんで生きていくことになります。それは、救いではありませんね。「重荷を下ろせ」と言われ、「平安があるように」と言われ、「いつもあなたと共にある」と言われたイエス様に矛盾するのではありませんか。しかしそのように福音ではなく律法によって派遣され矛盾に苦しむ、いやその矛盾と苦しみにさえ気づかないクリスチャンはいかに多いことでしょう。そうであってはいけません。信仰は、素晴らしい恵み、賜物、父子聖なる神様が、み言葉を通して与えてくださった贈り物、プレゼントなのです。だからこそ、あのルカ10章でイエス様は、忙しなく動き回って平安なく、ただみ言葉を聞いているだけの妹マルタを裁き、イエス様を裁く、マリヤに優しくいうでしょう。
「41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカ10章
感謝を持ってみ言葉に聞き、信仰の告白が与えられている恵みを感謝しましょう。
4、「教会は、キリストが建てたキリストの教会」
そして、最後、結びたいと思いますが、イエス様はとても大事なことを伝えます。18節以下
「18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
A,「神が与えた岩のごとき信仰告白の上に①:キリストが福音で建てる」
イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。この岩というのは、岩という名のペテロのことだとよく言われます。しかし、そうではありません。この岩とは、このペテロに現された、神から与えられた岩の如き信仰の上にという意味になります。つまり、大事な点は、その信仰は、律法としての信仰ではなく、先ほど伝えてきた、神が明らかにし現した賜物としての恵みの信仰、つまり福音としての信仰のことであるということです。皆さん、世の中の多くの教会は、ここを間違えて、律法としての信仰の上に、自らの力で教会を建てようと躍起になっています。一生懸命で熱心であるかもしれません。明るく楽しく見せはしますが、それさえ律法になり、そうすることに信仰があるかのように考えて、教会員を信仰に律法的に駆り立てます。それは、人間的に期待する成果も出し、数的にも見た目にも大きくはなり、見せることもできるかもしれません。しかし、それは神の恵みである福音による信仰の上ではなく、どこまでも人間の力の上に立つ教会ですから、砂の上に建てられた教会と同じです。それは、イエス様がいう「わたしの教会」ではなく、「人の教会」に過ぎません。真の教会は、律法ではなく、福音からくる賜物としての信仰の上に立つのです。
B,「神が与えた岩のごとき信仰告白の上に②:わたし(キリスト)の教会」
そして、イエス様は「わたしの教会」と言います。つまり「イエス・キリストの」教会であることを忘れてはいけません。正統的なコンフェッショナルなルーテル教会ではあり得ないことなんですが、福音派の教会などでは、看板はキリストとか福音とかついていても、何の疑問も抵抗もなく、牧師先生や功績のある指導者の名前をとって、「〜先生の教会」という言い方をするのをよく聞きます。実際に、キリストよりも、「その先生が建て、大きくした、その先生の教会である」と正論で当然であるかのように理解した発言を聞くと、「キリストはどこへ?」と首を傾げたくなる、そんな教会さえもあります。しかし、そのような言い方も考えも間違いです。「〜先生の教会」ではないのです。厳密に言えば、教会は、ルターの教会でも、カルヴァンの教会でも、ウェスレーの教会でもありません。どこまでもキリストが建てキリストがその言葉で成長させる「イエス・キリストの教会」なのです。イエス・キリストのものなのです。実際ルター自身が「私は、人々が私の名前に言及しないようにお願いします。自らをルター派ではなく、クリスチャンと呼ぶように」と言って、自分の名前の教会と呼ばないように言っているのです。事実、聖書は、他の誰かや有名な実績ある牧師、教皇、あるいはルターやカルヴァンが、ではなく、イエス・キリストが、そして、イエス・キリストこそ、世に与えられた罪から贖い出す約束の子羊として、私たちの罪のために、私たちが受けるべき罰の代わりに、十字架にかかって死なれ3日目に復活されたと、はっきりと伝えているでしょう。そのキリストのゆえに、その十字架と復活のゆえに、神は今日も律法によって悔い改める私たちに「あなたの罪はもう赦されています。安心して生きなさい」と福音の宣言をしてくださり、私たちは、今日も、日々新しく、罪赦された喜びと新しく生かされたことに、喜び、安心して、出ていくことができるのです。今日もイエス様は私たち一人ひとりに言ってくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。ぜひ今日も。安心してここから出て行きましょう。今日のところの鍵の権能のことは、来週のところとと併せて続けて見て行きます。
2023年8月20日スオミ教会礼拝説教
マタイ15章10〜28節
「自尊心と行いに依存する信仰の空虚、『主よ憐れんでください』の信仰にある真の平安」
さて、今日の福音書の箇所は、21節からのカナンの女の信仰の箇所だけか、あるいは、その前の1節から関係している10節から28節までなのか、いずれかが割り当てられていて、どちらかを選ぶことになっていました。いずれにしましても、21節からのカナンの女の信仰は、その前の1節から10節までのイエス様とファリサイ派との論争、そして10〜20節までのフィリサイ派について述べた箇所とは無関係ではないと思わされたので、私は10節からを今日の箇所とさせていただきました。
21節からのカナン人は、旧約聖書では、アブラハムの時代にまで遡り、偶像礼拝のゆえに神の裁きを受けた人々の末裔であり、ユダヤの民から見れば、異邦人でありますし、汚れた民とされていました。一方で、1節からと、10節から書かれている、ファリサイ派や律法学者たちは、ユダヤの上級市民であり宗教指導者の立場に近い人々です。幼い時から律法、つまり聖書の英才教育を受け、律法、つまり聖書に精通しているし、自分達は律法を十分に守れていると自負する人々でした。ですから、ファリサイ派や律法学者たちと、カナン人の女は、全く対称的です。しかし、その両者の信仰を対称的に描くことで、私たちに救いの信仰、神が喜ばれ、受け入れられる信仰は何であるのかを教えてくれているのです。カナン人の女の信仰に触れる前に、まず1節からのことを簡単に触れてから見ていきますが。
2,「昔の人の言い伝え」
そこではファリサイ派と律法学者たちが、エルサレムからイエスのところにやってきます。それは神殿を管理する宗教指導者たちから公の質問をイエスにするためにやってきたことを意味しています。しかしそのようにわざわざエルサレムから公式に遣わされ、どんな重大な宗教的なことを質問するのかと思えば、こうでした。2節からですが「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」 彼らが重要視したのは、昔の人の言い伝えを守っているかどうかでした。しかもここでは「食事の前に手を洗ったかどうか」です。「食事の前」ではありませんが、確かに「幕屋に入る前に」手を洗うという記録は、出エジプト記に書かれていました。しかし、それはアロンとその子供たちと、祭司がその勤めを行うためにしたこととして書かれているものです。しかし2節での「昔の人の言い伝え」というのは、イエス様の時代の宗教指導者たちが聖書からそのように「解釈した」ものでした。彼らは、そのような昔の人の言い伝え、伝統、しかも権威ある指導者が代々解釈し文化に定着してきたものを、聖書にならぶ権威あるもとして考えていたのでした。そして、そのような伝統を守っているかどうかも、律法を守っているかどうかに等しいものだったのです。ですので、彼らが「幕屋に入る前」から解釈して受け継がれてきた「食事の前」に手を洗ったかどうかは、彼らにとっては律法と同じ重大な問題で、手を洗わないことは律法違反で、責めるべきことであったのでした。しかし、イエス様は、彼らのそのように神が言わんとしていることを超えて、聖書を人間が好き勝手に解釈する伝統が、いかに神の言葉を台無しにしているのかを指摘します。神は十戒を与え「父と母を敬いなさい」とまさに文字通りのその意味に加え、父母を「罵るものは死罪になる」とまで言って大事なことしています。しかしファリサイ派はじめ宗教指導者達は、両親に「あなたに与えるべきものを、神に捧げる」と言えば、つまり、両親に与えるはずのものを止めて、代わり神殿に捧げるのであれば、別に両親を蔑ろにして良いという新しい規則、解釈、伝統を作ってしまい、その伝統を強調することで神の言葉に反することをさせているではないかと、イエス様は彼らを論破するのでした。そして、そのような彼らに、イエス様は7節「偽善者たちよ」と非常に厳しく言っているのです。マタイが8節以下、引用しているイザヤの預言の言葉は非常に的確にその本質をついています。
8「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
9人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」
ここでは「神の前」と「人の前」とを区別して理解することが大事です。彼らは人の前では、立派で尊敬もされていました。社会でも規律、まさに伝統も良く守り、人にも守らせ、社会には貢献していたことでしょう。もちろん人の前では、社会では、伝統が全て否定されるものではありません。社会を利する良い伝統も、いつの時代も、どこででもあるでしょうし、あってもいいのです。もちろん教会においてもです。しかし、真の神を信じるクリスチャンは、神の前にあることを知っているものですし、伝統よりもむしろ神の前と神の言葉を、何より優先させ生きる存在です。伝統に神の言葉を従わせ、伝統が優先するのではなく、その逆がクリスチャンには必要です。伝統が、神の言葉に沿っているのか、従っているのか、反していないか、そのように吟味して、神の言葉にきちんと従っていれば、伝統も、シナゴーグや教会でも価値のあるものとなるでしょう。しかし、ファリサイ派と律法学者たち、そして、彼らを遣わした、エルサレムの宗教指導者たちは、まさにそれを逆にしてしまっていました。伝統、昔の人の言い伝えを守ること、守らせることが優先することによって、それが聖書に沿わないし従っていないことも忘れてしまい、逆に、聖書に反することを教えてしまっている。聖書を大事にする、よく知っていると言っていながら、聖書に反する間違ったことを教え、させたり、出来ないと責めたり、となってしまっていたのでした。これは、神の前には、まさに偽善者であったのでした。
3、「伝統を優先ではなく、み言葉を優先に」
A, 「口に入るものは汚さない」
これは10節以下のイエス様の解き明かしでもそのことを踏まえて同じことを言っているのです。それは食べ物の伝統でした。彼らの社会では、汚れたものを食べてはいけないという、モーセ律法による慣習的な伝統があったのでした。それは弟子たちもよく知っていましたし守っていました。事実、ペテロは、使徒の働きで、あのローマの隊長コルネリオに遣わされる前に復活のイエス様から、天から吊り下げられた動物の幻を見せられ、これらを屠って食べなさいと言われた時に、自分は汚れたものを食べることができないと言っています。そのように汚れた動物の肉を食べてはいけないという「昔の人々の言い伝え」「伝統」が強くあったのでした。しかし、ここでイエス様はすでにはっきりと言っていますね。11節「口に入るものは汚さない」と。それは、口から入って外に出るだけだと。つまりイエス様は、食べ物、肉や飲み物が汚れているのではないことを伝えているのです。
B, 「口から出るものが汚す」
そうではなく、18節以下にある通り、口から出るもの、つまり、それは人間の心から出る言葉、それはまさに聖書に反する人間に都合の良い伝統や、それを用いて人を裁いたり、批判したり、背責めたりする、ファリサイ派の人々を暗に示しているのですが、そのように汚れているのは人の心であり、そこから出る言葉や行いが人を、あるいは聖書の言葉を汚すのだといい、手を洗わず食事をしても、もちろん物理的には、バイ菌が入ったりしますが、それが神の前にあって、身体や心や霊や魂を汚すもので決してないとイエス様はいうのです。
C,「ファリサイ派の反応を気にする弟子達」
弟子たちは、ファリサイ派を恐れたのでしょうか、12節で、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」とイエス様に注意を促すのです。世の中でうまく生きていくために、宗教世界で悪く評価されないために、伝統に従って行った方が良いと弟子たちは思ったのかもしれませんね。しかし、イエス様にとってはそうではありません。大事で優先されるのは、伝統ではない、昔からの言い伝えではない、どこまでも神の言葉である。そして人が何を聞きたいか、人が何を大事にしたいかではない、どこまでも、神が何を私たちに伝え、何を私たちに教えたいか、それが神の国、神の前にあっては重要であるのです。だからこそ、イエス様は、たとえどんなに自分に対するファリサイ派の反対や悪い評価があったとしても、しかもそれがやがて、逮捕と十字架につながるにしても、ここで神の前にあって毅然と聖書の真理を答え、彼らを偽善者と批判したのでした。そして、ファリサイ派の人々は盲人の道案内をする盲人であり、神が植えていない抜き取られる木なのだから、そのままにしておきなさいと弟子達を諭すのです。
D,「人が何を聞きたいか、ではなく、神が何を伝えているのか」
伝統や、昔の人々が受け継いできたものを大事にすることは決して悪いことではありません。それはどこの教会でも教団でもあることです。良い伝統は大事にしていけばいいのです。しかし、誤解してはいけないのは、私たちは伝統やその昔の人々に仕えるもの、信じるもの、従うものとしてクリスチャンではないということです。私たちはどこまでも神の言葉、キリストの言葉を信じるものであり、聖書に記されているその律法によって日々、心を刺し通され、罪を認めさせられ悔い改めさせられるものであり、しかしその時に、その救いの約束の通りに私たちの罪のために十字架にかかって死なれよみがえられた、それによって罪の赦しと新しいいのちを日々与え続けてくださるイエス・キリストとその福音を信じ、その十字架と復活の福音によって生かされるものです。それが全てであり、それが唯一の救いの道であり、それ以外にはないと告白するものです。それ以外に、加えて救いのためや教会のため、伝統が必要であり、伝統を守ることも必要であるということでは決してありません。しかし、教会は歴史的にその間違いに繰り返し逸れて行っています。そして、人が作り上げ大事する伝統が聖書に優先され、その伝統に流されていくことによって、聖書から逸れていくという結果になるのが常でした。今でも、教会や教団の伝統、昔の教団や教会に貢献した人の言い伝え、教えたこと、功績などが、それが聖書に従い、聖書の正しい教えと信仰と真の福音に沿って従っていれば素晴らしいし大事にしていけばいいのですが、そうではないそのような人間や組織に都合のいいだけの合理的で理解しやすい人が作り上げた伝統や言い伝えや教えや功績の方が、聖書や福音よりも大事にされたり、優先されたり、判断基準とされたり、等々、そのような伝統などで、律法的に教会や宣教が指導されたり導かれることもよく見られたり、聞かれたりすることがあるのです。しかしイエス様はそれは望んでいないことはわかるでしょう。それがどんなに選ばれた民であろうとも、どんなに人の前では立派で尊敬されても、それは神の国の信仰ではないのでした。それは表向きどんなに口では福音だと声だかに叫んでも、神の言葉をわかっていないのです。
E, 「盲人の道案内をする盲人」
イエス様は言われます。13〜14節
「イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。 14そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
そのような信仰は、神が植えなかった木であり、つまり神が与えていない信仰のようなものであり、それは盲目のまま。そこでどんなに敬虔そうに「福音だ!」「伝道だ!」と叫んでも、盲人が盲人の道案内をしており、正しく人を神の国に導くことはできません。それどころか二人とも穴に落ちてしまいます。それは、人の前では、どんなに立派でも本当の救いの信仰ではないのです。
4、「「憐れんでください」の信仰」
しかし、他方、イエス様は、異邦人であるこのカナンの女にこそ、その本物の救いの信仰を見るのです。21節からですが、イエスはそこを去り、ティルスとシドンの地方に行かれます。ティルスとシドンは、地中海沿岸の北の異教の地でした。そこにそこで生まれたカナンの女性がイエスのもとに来るのです。カナン人は、最初に言いました。歴史的には、偶像崇拝のゆえに神の裁きにあった民であり、ユダヤの民から見れば、異邦の民であり汚れた民、救いのない民とされていました。そんなカナン人の女性ですが、22節以下です
「22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 娘が悪霊に苦しめられているので助けてほしい。彼女は憐れんでほしいという、実に悲痛な一縷の望みに縋るように叫びます。本来は憐れみを受けるに値しないそんな自分であることを知っているというその心から出てくる、叫びです。「どうか憐れんでください」と。しかしここではイエスは答えません。一方で弟子達は、ユダヤ人ですし、カナン人は異邦人であり汚れた民とされてきた、まさにその伝統と言い伝えが染み付いていますから、イエスに近寄って願います。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と。ー弟子たちにとっては追い払ってくださいというだけの存在に過ぎなかったのでした。それに対するイエス様の言葉には疑問を抱くことでしょう。24節
「24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 「イスラエルの家の失われた羊」は、そのまま読めばが、イスラエルの人々に限られることをイエス様が弟子たちや女に答えたことがわかります。しかし、実際、イエス様は、マタイ28章の終わりで、全ての国に宣教するように命じているのですから、この時の言葉の意図を超えて、イエス様の計画には異邦人であるカナン人はもちろん全世界の人々に救いの計画があることは間違いのないことです。ですから、この時は、むしろこの女をあくまでも求めすがる信仰を試したとも取れるところです。そのイエス様の言葉に対してカナン人の女性は答えるのです。25節
「25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 イエス様の言葉はとても冷たく厳しく、排他的に聞こえます。しかし、この女の、その心から出る「憐れんでください」という思いが彼女の応答には表れているでしょう。彼女は子犬と蔑まれても、「主よ、ごもっともです。その通りです」と言います。自分が、ダビデの子の前で、実に卑しい存在であり、自分の民、祖先、そして自分自身がいかに汚れたものであり罪人であるのか、受けるに値しないものであるのかを、知っている声です。しかしそれでも、そのイエス様からこぼれ落ちるほどの、溢れる憐れみ、恵み、力を、少しでも受けたい、縋りたい、それが僅かでも感謝して受ける、いただく、そんな彼女の信仰でした。イエス様は言います。28節
「28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
5、「主が喜ばれる真の信仰」
みなさん、ここから教えられるでしょう。イエス様の前、神の前にあって、救いの信仰、真の信仰は何ですか?ファリサイ派のように、選ばれた民で聖書の英才教育を受け、社会に適し守られてきた伝統も含めてしっかりと守っていると自負し、自他ともに認める人の前に立派な、評判の良い人の、自らを誇れる、自慢できる、そんな行い振る舞いで自分は救われていると確信がもているようなそんな信仰ですか?そうではありません。それは真の信仰ではありません。偽善です。そもそもそこに確信など持てないのです。イエス様はそのような自らの行いを誇れる自信のある信仰など望んでいないし、「人の前」には価値があったとしても、「神の前」には全く何の価値もありません。むしろイエス様はそのような行いや功績を律法的に拠り所にするような信仰は、神の御心そっちのけで人間の伝統や言い伝えに逸れていき、ますます律法的になり、聖書に反することになることをイエス様は嘆きました。そうではない。むしろ神の前にどんなに卑しい存在、罪深い存在であっても、それが神の前には事実であると認めて、その神に、もう、憐れんでくださいとしか言うことのできない、そこまでも謙った心と叫び、そして、それほどまで罪深い汚れたものでも、受けるに値しないような存在であっても、その救いの恵みのほんの僅かなおこぼれにでも、縋りたい、受けたい、食べたい、そのように神が、イエス・キリストが与えて下さるものに求め、受けること、その信仰を、イエス様は立派だと言われたのでした。
皆さん、私たちはとかく逆に考えてしまいます。何かができるから、あるいは、教会のしきたり、文化、伝統、慣習に立派に答え、貢献し、周りから立派だと評価されるから、自分の信仰は立派なんだ、救いは確かなんだ、祝福されるのだと、考えてしまっていることはないでしょうか?実際に、そのような信仰の導き方をするような教会も沢山あるかもしれません。しかしそれは聖書の教え、イエス様の教えではありませんし、イエス様は望んでいません。イエス様が望んでいるのは、まず、このカナン人の女、そして、ルカ18章9節以下にある、徴税人の祈りにもあるように、どこまでも、私たちが、今日も、神の前にあって、律法によって、私たちはどこまでも罪人である、そのままでは何の救いようもない滅びるだけであった、受けるに値しないような存在であると、まずは認めさせられること、律法にあって、罪を悔いること、神の前に絶望することです。「憐れんでください」としか言えない自分を認めることです。しかし、その時、だからこそ、そんな私たちに神は御子イエス様を与えてくださっている、イエス・キリストの十字架と復活を今日も示してくださっている。この十字架にあって、イエス様は私たちに「あなたの罪は赦されている」と今日も言ってくださるのです。イエス様に、その空っぽの、無力さを知っている心で、今日も、神よ、憐れんでください。助けてくださいと、すがることこそを、イエス様は求めておられるし、その信仰をイエス様は立派だとしてくださるし、そうこの十字架と切り離せない復活のイエス様は罪の赦しと同時に、安心して行きなさいと、復活の新生と平安を与え、日々、今日も、新しく遣わしてくださるでしょう。そのイエス様の十字架と復活とそこにある罪の赦しと日々新しいいのちの平安こそが私たちに与えられている福音です。今日も変わることなく、イエス様は、そんな罪を悔いる私たちの前におられ、宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。テーブルの上からのおこぼれどころか、素晴らしい救いの恵みを、今日もイエス様は私たちの前に差し出してくださっています。そのまま受けましょう。そして、安心して、ここから遣わされていきましょう。
2023年8月6日スオミ教会礼拝説教 マタイ14章13−21節
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「『それをここに持ってきなさい』に現されている『宣教は福音』の恵み」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン 1、「初めに」 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。 先週まではマタイの福音書の13章からイエス・キリストの福音と神の国について学んできました。そこで語られるイエス様の神の国は、群衆には例えのみで語り、その意味を、弟子達に解き明かすという形で繰り返し語られており、メッセージは主に、弟子達、つまり、クリスチャンと教会へ向けられたものでした。そこでイエス様が伝える、その神の国の先取りである教会の働きは、人間の価値観で期待するようないつでも右肩上がりで成功していくようなものではありませんでした。福音の種を蒔いても全ての人がすぐ受け入れるわけではなく、多くの人は、世の中の目に見える事柄や、自分の思い優先に流されていき、神の言葉を聞かなかったり、聞いてもすぐ忘れ聞かなくなり、受け入れても、すぐに捨ててしまうなどが、普通に起こるのであり、そのように罪深い人間の心はどこまでも頑なであり、私たち人の力では、その福音を芽吹かせ成長させることはできないという現実をまず伝えていました。しかし、そのような涙を持って種を蒔くような教会の歩みであっても、「私たちが」ではなく「イエス様が」、その福音の種を芽吹かせ、実らせてくださり、収穫のために私たちを用いてくださる、そんな恵みに私たちはあるのだということを教えてくれました。さらには、先週の箇所では、そのように与えられている福音とそこに働くイエス様の力を、私たち人間の方がそれを小さなものとしてしまうけれども、それでも福音は私たちの思いをはるかに超えて豊かに働くし、そのために召された私たち一人一人も、どんなに小さな存在のように思えても、しかし、小さなからし種が大きな木になり、わずかなパン種がパンを膨らますように、イエス様がそんな小さな私たちを用いて大きなことをしてくださるのだ、ということも思い起こさせてくださいました。実は、今日のこの有名な、5つのパンと二匹の魚の奇跡も、これまでと同様の神の国の恵みを私たちに教えてくださっているのです。13節から見ていきますが、
2、「見て深く憐れみ」 「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。
「イエスはこれを聞くと」と始まっています。「これ」というのはこの前のところ1〜12節までに書かれているように、バプテスマのヨハネが捕らえられ、ヘロデに処刑される出来事を指しています。その知らせを聞いて、船に乗って人里離れたところに退かれたのですが、それは自分も捕らえられることがないようにではあるのですが、十字架にかけられるために世に来られ、十字架に向かって歩んでいたイエス様なのですから、退かれたのは恐怖とかではなく、その時は、まだその十字架の時ではないために退かれたと言えるでしょう。ルカ9章にあるように、イエスは弟子達と共にガリラヤ湖を船で渡り、湖の北東の湖岸のベツサイダの人里離れたところへ移動したのでした。しかし、そのような人里離れたところでも、群衆はイエスのことを聞きつけて、町々から追いかけてきたのでした。そのように追ってきた群衆を見てですが、14節 「14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
ここでは、イエス様は、決して、人々を避けて、人々が嫌で、そんな否定的な理由で、船に乗ってこの所へ来たのではないことがわかります。なぜなら、そのようにわざわざ歩いて追いかけてきた大勢の群衆を見て「深く憐れみ」とあります。それは、「内臓が揺り動かされるように」という意味がありますが、私たちが悲しみや苦難の時に心動かされる時の感情を表しています。そのように、イエス様は、ご自身を求めて、中には癒しを求めてやってきた人もいます。そのようにやってきた人の苦しみや悲しみと、そこにある憐れみを求める思いを、イエス様は、見て、知られ、そして、内臓が揺り動かされるほどに深く、同情し、憐れまれたことがこの言葉から教えられます。そして、その求めてきた人々に癒しを与えてくださったのでした。みなさん、この言葉の通りに、イエス様は必ずいつでも私たちをも見てくださっています。そして、それが、人には理解されない、言うことも相談することもできない、どんな思いであっても、イエス様はそれを見て、その心のうちを全て知ってくださって、同じように、深く、同情し、憐れんでくださる方であることを今日も教え、思い起こさせてくださること、そしてそんなイエス様にいつでもすがり、祈り求めることができる幸いをまずは、ぜひ感謝したいのです。
3、「不可能な命令」 そのようなイエス様の深い憐れみは、それに留まりません。時は夕暮れになります。15節からですが、 「15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
A, 「弟子たちの当たり前の判断」 人里離れたところです。夕暮れですから、弟子達はその5000人上の大勢の群衆のことを心配したのでしょう。特に、食事のことです。この人里離れた場所では、食事を買う場所もないので、弟子達は、解散を提案したのでした。それは、人間の常識や想定できる状況や理解では当然のことであり、人の前では正しい提案であったことでしょう。しかしここでイエス様は弟子達に言うのです。 B,「あなたが食べさせなさい」 「16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
なんとイエス様は、弟子達のその常識的、かつ現実的な提案に同意しません。むしろいうのです。「あなた方で彼らに食べ物を与えなさい」と。繰り返しますが弟子達の提案は、常識的でした。ここでは、人間の常識や能力から見れば、食べ物を用意することはどう考えても、不可能なのです。ではイエス様は弟子達に意地悪を言った、命じたのでしょうか。そうではありません。できるかどうか試そうとしたレッスン、あるいはどうすれば準備できそれが果たせるのかの試験なのでしょうか?そうでもありません。これは人間の力では、弟子達には、全く不可能なのです。イエス様もそれが全く不可能なことを知っているのです。不可能なことを知った上で、イエス様は、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われたのです。
4、「「あなた方が食べさせなさい」の意味」 ではその意図、意味、目的は何でしょうか?この出来事は、この後、有名な5千人以上の人々が五つのパンと二匹の魚で養われる奇跡が描かれていますが、群衆の反応は書かれていません。むしろ、群衆は、奇跡が行われたことさえ知らず食べた人が大勢いたとも言えることでしょう。つまり、ここでもやはり群衆というよりは、弟子達、つまりクリスチャンと教会へのメッセージが込められています。そして、何より、これまで見てきた13章でイエス様が教えてきたことと一貫していて、「あなたがたが果たしなさい。達成しなさい」という律法のメッセージではなく、どこまでも、イエス様が「あなた方ではなく、わたしが行う」と、弟子達に向けられた、福音の素晴らしさ、完全さ、その力を伝える、イエス様の神の国の恵みのメッセージであることがわかってくるのです。弟子達はイエス様のそんな無理難題に対してこう答えます。 A, 「神の使命の前に人間は無力であることを知らせるために」 「17弟子たちは言います。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
弟子達のこの言葉には、期待とか希望ではなく、悲壮感と不可能さしか漂っていません。「ここにはパン五つと魚二匹『しか』ありません。」と言っています。当時、パンと魚というのは、非常に貧しい食事であったと言われています。それがたったこれだけです。弟子達の言葉には、これだけで一体何ができようか、不可能であるという、思いが溢れているでしょう。そう、人間の目から、あるいは、人の基準や常識、科学的な合理的な視点から見ても、もちろん一つ一つ、人数分にとても小さくちぎれば、理論上は分けることができますが、食べさせ満足させるという意味では、これだけでこの大群衆に食べさせ、養うなど、全く不可能なのです。 しかし、ある意味、その人間の不可能であり無力であるという現実にぶつからせることこそがイエス様の目的の第一歩、第一段階なのです。その不可能さに直面した弟子達に今度は、イエス様は、その僅かばかりの食べ物を持ってくるように言います。 B,「それをここに持ってきなさい」 「18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、 19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
イエス様が解散させず、弟子達に不可能な命令をしたのは、このことのためでした。もちろん、5000人以上を食べさせ養うためではあります。しかしそれ以上に、それは、弟子達ではなく、イエス様こそが、その人間の目には不可能に見えるほんの僅かな食べ物で、5000人以上の人々を満腹にさせるという、その「主にとっては不可能なことはない」(創世記18章14節)という、ご自身の言葉の力と真実さを弟子達に、つまりクリスチャンである私たちと教会に表すためであったのです。 そう、これはまさに13章で見てきたイエス様のメッセージと一貫しているでしょう。弟子達の声は、当たり前の常識的な人間の声です。これだけで何ができようか。その通りなのです。人間の力では、「あなた方で食べさせなさい」という神様の与えた命令や使命を果たすことができません。神の命令、神の言葉、神の国、救いを前にして、私たちが自分達の現実を見るなら、あるいは、ただ自分の能力だけを見るなら、なんとちっぽけでしょうか。なんと僅かでしょうか。なんと弱々しく、なんと貧しいでしょうか。しかし、イエス様の「あなた方で食べさせなさい」と与えたイエス様の使命は、実際は、あなた方が自分のその力で、努力、工夫、等々で、果たしなさいという使命ではないことがここにわかるでしょう。何よりイエス様は、この与えている使命で、弟子達に自分にはできない。不可能であるとあえて知ることに直面させようとしているでしょう。「わずかこれだけしかありません。」そうその叫びです。その現実です。しかし、そこでイエス様がまず何より弟子たち、私たちに望んでいるのは、それを自分達で果たすことではありません。そのイエス様が与えてくださった使命の前に、そのように「自分にはわずかこれだけしかない。何もありません。何もできません。」そのように認め、イエス様に告白し答えることなのです。そして、そのように認め告白するからこそ、そんな私たちに、イエス様は、何と言っていますか?イエス様は 「それをここに持って来なさい」 と言われるのです。そのほんの僅かな、人間の目には、一体これだけで何になろう、不可能ですというそれだけのものを、そのままを、イエス様は、「ここに」、つまり、イエス様のところにそのまま持ってきなさいと言っているでしょう。その通りに、弟子達が、それだけのものを、イエス様が言われ通りに、イエス様のところに持ってきた時に、何が起こっていますか?19節以下
5,「イエスが持ってこられた僅かなものでも感謝し祝福される」 「19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
ここに私たちへの福音があります。イエス様は、人の目には、ほんの僅かで、何ができようかと見える、その僅かなものを、イエス様は、天に感謝と賛美の祈りをしています。どうでしょう。イエス様は、天に向かって「こんな僅かなものしかありません、弟子達はこれしか用意できません。何もできません、命令を果たせません。彼らはダメです、だから、彼を罰して裁いてください、祝福しないでください」等々と、天に嘆いてはいないではありませんか? そうではなく、イエス様はむしろその僅かなものを、天に感謝と賛美の祈りをするのです。人間の世界では、そのように、それはクリスチャン同士や教会内でさえも見られるのですが、人間の目に見える、自分や他人の行いや、能力や、持てるものを見て、そんなふうに、嘆いたり、自分や相手をさばいたりすることがあるかもしれませんね。より多くを持っていればより多くを出来たり達成できれば、賛美賞賛し、できなければ軽蔑し裁く、それが、教会やクリスチャン同士にさえある人間の罪深い社会の現実です。しかし、イエス様のしていることは全く逆ですね。人間にとってはわずかで、こんなものがなんになろう、不可能だと思えるようなものを、そのまま受け取り、天に感謝しています。賛美しています。祝福を祈っています。その時に、そのイエス様が祝福したパンと魚が、群衆へと与えられるときに、弟子達の思いを遥かに超えた、すばらしい出来事が現されているではありませんか。それは、弟子達が何かをしたからではありません。弟子達がその力と知恵で、使命を果たしたのではありません。イエス様が与えた使命に、弟子達は「これしかない、これだけで何ができようか」と差し出した僅かなものを、イエス様が受け取り、そして、祝福したものによって、イエス様が、ご自身の使命を果たしたことが、わかるではありませんか。弟子達は、自らではできないことを知り、そしてイエス様に持ってくるように言われたその僅かなものを持っていき、手渡し、そしてイエス様が祝福したその僅かなものを、イエス様が言われる通りに配っただけです。しかし、それがイエス様が意図したこと、目的であり、それが、教会であり宣教だということなのです。どうですか?教会も宣教も、決して律法ではないでしょう?どこまでも福音であることがここにもわかるでしょう? このように、13章からのイエス様の教えてきたことが、どこまでも一貫して弟子達に教えられており、まさに具体的なレッスンとしてここに現されているのです。種を芽吹かせ、成長させ、実を結ぶのは、人間である弟子達ではない。彼らには不可能であり、できない。しかし、イエス様がそれをなされことをここに明らかにされたのです。13章で見てきたように、小さなからし種や僅かなパン種を神の国のようだとイエス様は言われました。人間は、福音とその力を小さなものにしてしまいます。しかし、人の目には小さく見える、そのからし種が、大きな木になり、実を結ぶように、あるいは、僅かなパン種がパンを大きく膨らませるように、神の国は、その人の目には、小さなように見える福音から生まれ、芽吹き、大きくなる。そればかりではない、小さな存在を用いて、人の思いをはるかに超えた大きなことを、イエス様が福音でなさる、それがイエス様が伝える神の国でした。まさに、そのようにこの所で、このたった五つのパンと二匹の魚を通して、イエス様は、その神の国の事実を、なおも現し教えてくださっているのです。
6, 「宣教は律法ではない、宣教は福音である」 宣教は、私たちの大事な使命です。イエス様が私たちに与えてくださった使命であり、教会はそのためにあります。しかし、イエス様はそれが私たちの力や努力では決して実現できないし果たすことができないこと、私たちの力や説得では人を信じさせること、信仰を与えることもできないこと、そしてそのような私たちの力で、教会を大きくするとか、日本のクリスチャン人口を1%以上超えさせるとか、あるいは、福音をまだ完成していないもの、あるいは、不完全なものと決めつけ、だからその未完成な福音を私たちが完成させなければならないのだとか、等々、そんなことはよく聞きますし、実際に、教えられ奨励されるのですが、しかし、それらのことは罪深い人間にはできない不可能なことです。そして、何よりそのことをイエス様が誰よりも知っていますし、人間が自分の力で果たして欲しいなど思っていません。ところが、むしろ人間の方が、クリスチャンでさえも、それを認められず、自分たちにはできる、協力できる、達成できる、力がある、などなどと言い、奨励し、説教し、教えて、福音を律法にしてしまったり、律法を福音ぽく語って混同してしまいます。しかし、イエス様は、神の前にあって、その出来ない不可能な現実、無力さこそを弟子達に、そして私たちに常に分からせたい、人間は神の前に、神の使命の前にどこまでも無力であることを気づかせたいのです。なぜなら、イエス様は、私たちがその無力な存在のままでご自身のところに来て、ご自身にのみ問題を持ってくる、求めすがる、祈り求める、そのような信仰こそを求めているからです。しかし、私たちは逆をしていることがあるのではないでしょうか。イエス様が「あなた方で食べさせなさい」という命令を、何か、自分達だけで、その力や努力で、果たさなければいけない、実現させなければならない、自分達にはその能力があるかのように思って躍起になり、そのような思いや行いやわざが、立派な信仰であるかのように何か持て囃され、敬虔であるかのようにされる、熱心だと賞賛される、そして、自尊心、プライドを満たす、ある程度の達成感で自分が果たしたかのように自らを誇ってしまう。逆にできないと裁き合いが当たり前になる。そんな姿は、伝道熱心だと言われる教団、教派、教会では、よく見られることですが、しかし、イエス様はそんなことは望んでいないでしょう。むしろ、それではイエス様ご自身が果たそうとしていることが、その熱心で妨げられていますし、自分はできませんと神の前に謙り、神に全てを持っていくことが神の御心なのに、自分はできる、みんなもできなければならないと、自分を誇り、恵みはそっちのけになり、福音ではなく律法が中心になってしまっています。そうではない。イエス様は、どこまでも罪深く、今日も悔い改めを持って、主よ憐れんでくださいとしか言えない、そんな私たちこそを、今日もここに招き、十字架と復活の恵みにあって祝福してくださっています。そして、本当に大事な、本当に力があり、本当に全てをなすことができる、イエス様の完全で完成した、十字架と復活の福音による、罪の赦し、復活の新しいいのちを与え、「安心して行きなさい」と平安のうちに派遣してくださる。そのように、福音のゆえに安心した自由な信仰で行っていく私たちに、思い超えた実を結んでくださるのです。イエス様は今日も宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、そのまま受け取り、安心して行きましょう。