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司式 吉村博明 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師 説教・聖餐式 ペッカ・フフティネン牧師・SLEY元海外伝道局長 本日の説教は動画配信でご覧ください。
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主日礼拝説教 2023年1月15日顕現後第二主日 聖書日課 イザヤ49章1-7節、第一コリント1章1-9節、ヨハネ1章29-42節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」洗礼者ヨハネはイエス様のことをそう呼びました。小羊とは可愛らしいです。白い毛の衣に被われたフワフワした可愛らしい羊を皆さんもどこかで見たことがあるでしょう。ヨハネは、イエス様のことを世の罪を取り除く小羊だと言います。それは一体どういうことでしょうか?そもそも、世の罪を取り除くとはどういうことでしょうか?世の中には悪いことが沢山あります。人を傷つけたり騙したり、自分のことだけを優先して他の人のことを顧みないということが沢山ある。それらが犯罪行為になって法律で処罰されるということが沢山あります。「世の罪を取り除く」というのは、そういう悪や犯罪をなくするということか?イエス様が取り除きをする時、それを小羊のようにするというのはどういうことか?悪や犯罪をなくすのなら、ライオンとかもっと雄々しい動物に例えた方が迫力があるのではないか?小羊では少し頼りないのでは?
それに「世の罪を取り除く」と言っても、現実にはこの世にはたくさんの悪や犯罪があります。イエス様は取り除いていらっしゃるかもしれないが、それでも減らない、逆に増える一方です。イエス様の罪の取り除きはやはり小羊並みの頼りないものなのか?実はそうではないのです。イエス様の罪の取り除きは完璧なものです。どうしてそんなことが言えるのかをこれから見ていきます。
「神の小羊」と言っているので、まず「神」について考えてみます。聖書の話ですので、あくまで聖書の神です。聖書の神は何と言っても、天と地とその間にあるもの全て、見えるものと見えないもの全ての造り主、創造主です。私たち人間も神の手に造られたというのが聖書の立場です。人間一人ひとりに命と人生を与えられました。しかも、母親の胎内に宿った時から、私たちのことを知っていました。そのことが旧約聖書と新約聖書の至るところで言われています。本日の旧約の日課イザヤ49章1節でも「主は私が胎内にいる時から声をかけ、母のお腹の中にいる時から私を名前で呼んでいた」と言っています。胎内にいるときからこうですから、生まれ出てきた後も、私たちのことをよく見て全て知っています。私たちは気づきませんが、私たちが何をしているか何を考えているか、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず神は全てお見通しです。人には隠し立て出来ても神に対しては出来ません。何しろ、私たちの造り主だからです。
聖書の神は造り主であると同時に、ご自分の意思を聖書を通してはっきり述べられる方でもあります。十戒という掟があります。それは、創造主である神こそが崇拝する対象であるとか、その名を汚してはならないとか、週一日は仕事の手を休めて神に心を傾ける日とせよとか、神との関係でこうしろああしろという掟があります。この他にも、父母に敬意を払えとか、人を傷つけたり殺したりするなとか、自分のであれ他人のであれ夫婦関係を損なうようことはするな不倫などもってもほかとか、盗むなとか、嘘をついたり他人を悪く言ってはいけないとか、他人を妬んだり他人のものを横取りしてはいけない、というふうに人間との関係でこうしろああしろ(というか、こうしてはいけない、ああしてはいけない)という掟があります。これらの掟に従っていれば、神の意思に沿う者、神の目に適う者になります。
ところが、私たち人間は完全ではなく弱さや隙があります。それで掟を破ってしまうことがあります。行いだけでなく言葉や思いでも破ってしまいます。そうなると神はどう出るか?神の意思に反したことになるので、神の失望と怒りを買って罰を受けることになります。それで何か償いをしなければならなくなります。神が償いを受け入れれば、罪を赦してもらったことになります。罪を償う仕方として、旧約聖書では動物の生贄を捧げることが定められました。レビ記4章をみると、掟を破ったのが祭司の場合だったり、共同体の場合だったり、その代表者の場合だったり、個人の場合だったりに応じて牛や山羊を犠牲の生贄に捧げることが定められています。生贄を捧げると神から罪が赦されるとあります。まさに罪の償いのための生贄です。レビ記16章をみると、第七の月の10日に贖罪日という国民的な儀式の日が定められ、この時も罪の赦しを得るために動物の生贄が捧げられました。
そうすると、神に背いたのは人間じゃないか、人間が罰せられるべきで動物を生贄に捧げるなんてちょっと身勝手で動物が可哀そうと思われるかもしれません。しかし、ここで理解しなければならないことは、人間が神から赦しを得てもう一度やり直せるチャンスを得るというのはとても大きな犠牲を要するということ、それくらいに罪というのは神にとって重いことだということです。もし人間が神罰を受けて死んでしまったら、やり直しなど出来ず元も子もありません。人間が死なないでやり直しできるためには誰かに代わりに死んでもらわないといけない、神の意思に背くというのはそれくらい命に係わる重大なことだということです。
このように創造主がいて人間はその意思に背くと創造主との関係が損なわれる、だから背いてしまったら償いをして関係を修復しなければならないということが聖書の神と人間の間にあります。ところで、聖書の外の世界を見渡すと、不幸が起こらないように霊的な何かを宥めるということがあります。日本的に言えば、バチが当たらないように、ということでしょう。しかし、聖書の場合は、創造主との関係修復というのは、不幸に陥らないバチがあたらないようにする宥めとは違います。聖書の場合は不幸に陥らないバチがあたらないということが中心的な関心事ではありません。聖書の場合は、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、結びつきを持ってこの世を別れられ、結びつきを持って復活の日に復活させられるという、いつどんな時でも神との結びつきを持てることが中心的な関心事です。いわゆる御利益宗教から見たら理解できないことかもしれません。それなのでキリスト信仰者は苦難困難に陥っても呪われたとか祟られたとか言って慌てふためくことはないし、そういうことに付け込む誘いの声は耳に届かないのです。キリスト信仰者の苦難困難の遭遇の仕方は、よし、上等だ、一緒にいてくれる神と乗り越えてやろうという心意気になります。詩篇23篇4節で「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を恐れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と言われていることがその通りという生き方です。
動物の生贄の話に戻りましょう。イスラエルの民は罪の赦しを得るために律義に動物の生贄を捧げ続けました。ところが、神との関係を保つ方法として、それは持続可能でないことが明らかになりました。民が罪の赦しのためと言って生贄を捧げても、神の意思への背きは繰り返されていました。贖罪の儀式が形式的、表面的になって、儀式を行った人の心は何も変わっていないということが明らかになりました。儀式を盛大に格調高くやっていれば別に心の中のことはとやかく言わなくてもいいというのは聖書の世界に限ったことではないでしょう。儀式が華やかで大掛かりなこと自体が何か心がこもっていることの証しのように考えられるというのはよくあることと思います。神は心の変化を伴わない儀式を目の当たりにして、きっぱりと、生贄を捧げても何も意味はない、そんなもの持ってこられてももううんざりだ、と言うようになります(イザヤ書1章11~17節、エレミア書6章20節、7章21~23節、アモス書4章4~5節、21~27節などにあります)。
つまり神は、外見だけでは意味がない、内面が変わらなければ意味がない、と言われるのです。このことは、後にイエス様が、十戒の掟は外面上守れても、内面までも守れなければ守ったことにならないと教えたことに重なります。人を殺していなくても罵ったら同罪であるとか、不倫をしていなくてもふしだら目で異性を見たら同罪である、と。
神は、せっかく自分に似せて造った人間がなんとか自分の意思に沿うようになって、自分と一緒に永遠に生きることができるようにと、そのために心が変われるようにと何か別の方法を採らなければならなくなりました。そのことがイザヤ書53章で予告されています。そこでは、人間の罪を人間に代わって背負って自分自身を罪の償いの捧げ物にして命を捨てる「主の僕」なる人物について述べられています。彼は屠り場に引かれる小羊のようであったと言われています。このイザヤ書の予告はイエス様が全て実行に移しました。彼は罪を持たない神聖な神のひとり子でした。なのに、私たち人間の罪を全部引き取って十字架の上に運び上げて、そこで人間の罪の責任は全部自分にあるかのように私たちに代わって神罰を受けられたのです。実にイエス様は、かつての動物の生贄のように人間の罪を償う犠牲の生贄となったのでした。
ところで、犠牲に供されたのは動物ではなく神聖な神のひとり子でした。これ以上の犠牲はないという位の完璧な犠牲でした。それゆえ、神に罪を赦して頂くための犠牲はこれで完了しました。エルサレムの神殿で行われていた動物を生贄に捧げる儀式は根拠を失いました。神との結びつきを持ててそれを保てるために人間の側ですることは何もなくなりました。神がひとり子を用いて全部して下さったからです。
あとは人間が、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で私たち人間の罪を償って下さったことは本当のことと受け止めて、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持つようになり、その人は罪を償ってもらった者に変わります。神のひとり子に罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者と見なしてもらえます。神から罪を赦されたから、神との結びつきを持ってこの世の人生を歩むようになります。動物の生贄は毎年のように捧げなければなりませんでした。罪の赦しには賞味期限というか有効期限があったのです。しかし、神のひとり子の犠牲はこれっきりでいいという位の完璧な永久保存のものでした。それなので信仰と洗礼を通して打ち立てられた神との結びつきは自分から捨てない限り、何があってもどんな状況にいても失われない堅固な結びつきなのです。
かつて動物の生贄を捧げていた時は、儀式が外面的、表面的なものになって心の変化が伴わなくなって神は受け入れを拒否してしまいました。それでは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神から罪を赦された者になったら、心は変化して完全に神の意思に沿うようになるのでしょうか?答えは、そうとは言えない面とそうと言える面の両方があるが、そうと言える面が勝っているということです。どういうことか見てみましょう。
人間はキリスト信仰者になっても、この世にいる限りは肉の体を纏っているので神の意志に反する罪を持っています。しかも、信仰者になる前に比べて神の意志に敏感になるので自分の内にある神の意志に反するものに気づきやすくなります。流石に行いや言葉に出すことに歯止めがかかるようになりますが、それでも弱さや未熟さがあったり隙をつかれたりして出てしまうこともあります。その時は、神の意志に反したので神に赦しをお願いしなければなりません。行いや言葉で反したのであれば誰か相手がいるので相手に対しても赦しをお願いしなければなりません。心の思いで反した場合は相手にはわからないことです。行いや言葉の罪とは勝手が違うかもしれませんが、それでも神に対して赦しをお願いしなければなりません。
神の意志に反することが自分にあると気づいたら、それに目を背けてはいけません。その時はすぐ神に赦しをお願いします。お願いの仕方は「イエス様は私の救い主です、イエス様の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい」と祈ります。そうすると神はすかさず、私たちの心の目をしかとゴルゴタの十字架に釘付けにしてこう言われます。「お前の罪は全てあそこで償われた。お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように。」このようにキリスト信仰者は罪の自覚を持って神に罪の告白をして神から罪の赦しを宣言してもらって再出発します。キリスト信仰者はこれを何度も何度も繰り返していきます。一見無意味なことを繰り返しているように見えるかもしれません。実はこうすることこそが自分は罪に与していない、罪に反抗する生き方をしていることの現われなのです。
やがてこの繰り返しが終わる日が来ます。今の天と地が終わって新しい天と地に取って代わられる日です。その日、神のみ前に立たされ、お前は旧い世で罪に与しないで反抗する生き方をしたと認めてもらえます。それで、既に消滅した肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せてもらって神の御許に永遠に迎え入れられます。ルターが、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは復活の時であると言ったのはその通りです。その時キリスト信仰者は、旧い世ではイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたにもかかわらず自分には罪が残っていて辛かった、しかし、罪は自分と神の結びつきを引き裂く力を失っていたというのは本当だった、だからここに来れたのだ、とわかるでしょう。
兄弟姉妹の皆さん、イエス様は真に私たちの罪を償い、私たちを罪の呪いから贖い出して下さった犠牲の小羊です。神が贈られたので真に「神の小羊」です。この小羊の償いと贖いの業のおかげで、罪が持つ神と人間の間を引き裂く力は無にされ、永遠の命と復活の体が与えられる地点に向かう道が人間に開かれました。そこで、どうしてこれが世の罪を取り除くことになるのでしょうか?「世の罪を取り除く」と言ったら、この世から罪や悪を取り除くことではないのか?でも実際には罪や悪はこの世に一杯あるではないか?説教の冒頭で述べたように、そういう疑問が起きると思います。しかし、イエス様が世の罪を取り除くというのは真理です。どうしてそう言えるのか、次の2つのポイントをみればわかります。
第一のポイントは、「取り除く」と言っているギリシャ語の動詞アイローは「運ぶ、背負う」という意味と「死なせる、滅ぼす」という意味を持っているということです。マルコ2章4節で「4人の男が中風の人を運んできた」の「運ぶ」はアイローです。マタイ16章24節で「自分の十字架を背負って」の「背負う」もアイローです。イエス様は世の罪を十字架の上に背負って運び上げたのです。ヨハネ11章48節で祭祀長とファリサイ派が心配して「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と言った時の「滅ぼす」もアイローです。イエス様は、神と人間の結びつきを失わせる罪の力を無にしたのです。罪を滅ぼしたのです。そういうわけでイエス様が「世の罪を取り除く」というのは、イエス様が罪を十字架の上に背負って運び上げて滅ぼしたことと同じことです。これが第一のポイントです。
第二のポイントは、やはり「世の罪を取り除く」は実際にこの世から罪を除去することを意味するということです。なぜなら、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者が増えていけば、罪に与しない罪に反抗する生き方がこの世に増えていくことになるからです。この世は神の意志に反することが沢山溢れています。神との結びつきを持てないようにしようとする力が猛威を振るっています。そのような世に対してイエス様は罪を十字架に背負って運び上げて滅ぼしました。それは、罪が滅んだ状況を作ってそこに人間を導き入れて神との結びつきを持って生きられるようにするためでした。それは、神との結びつきを失っている全ての人間に向けられているのです。そのことが本日の旧約の日課イザヤ書49章ではっきり言われています。
イザヤ書40章から55章までは第二イザヤと呼ばれ、そこに登場する「神の僕」とは、バビロン捕囚から解放されて祖国に帰還するユダヤ民族を指すとよく言われます。しかし、49章は一民族の歴史上起こった祖国帰還ではなく、全世界の人たちの歴史を超えた神の国への帰還が視野に入っているのです。5節と6節が大事です。5節は新共同訳では「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力」が節の初めに来ています。ヘブライ語原文では節の後ろです。なので、ここは、「今や、主は言われる、母の胎にあった私をご自分の僕として形作られた主は。主が私を僕に形作られたのはもともとはヤコブを御許に立ち帰らせるためであり、そうすることでイスラエルはもう取り去られることはなく、私も主の目に栄誉ある者となり、私の神が私の力になるはずだった。」それで6節に行くとその神が驚くべきことを言います。お前はイスラエルの民の祖国帰還なんかで満足するなと言わんばかりのことを言うのです。まさにここで「主の僕」は祖国帰還する民を意味せず、救い主メシアを意味することがはっきりします。新共同訳では「だがそれにもまして」とあって、祖国帰還の仕事もしてもらうがそれに加えて救いを地の果てにもたらすこともしてもらうと二つの仕事があることを言っています。しかし、原文はもっと迫力があります。こうなります。「主はこう言われる。『ヤコブの諸部族を立ち上がらせてイスラエルの残りの者を連れ帰らせる程度のスケールの小さなことでお前を僕なんかにはしない。わたしはお前を諸国民の光とし、私の救いを地の果てまで及ぼす者とする。』
人間と神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世を闇とすると、闇の力を無にしたイエス様は本当に闇の中で輝く希望の光です。キリスト信仰者はその光を持っているので何も恐れることも心配することもないのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
2023年1月1日降誕節第二主日 主日礼拝 聖書日課 イザヤ書63章7~9節 (旧1164頁)、ヘブライ2章10~18節(新402頁)、 マタイ2章13~23節(新2頁)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。
初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難しました。そして王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは初代のキリスト教徒たちがそう見て、マタイが福音書を書いた時にそれに倣ったということかもしれません。
二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイないしは初代のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみたのです。
三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ひとつ明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と関係があります。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰を神の僕がかわりに受けて苦しむという預言があります。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した人たちは、エッサイの若枝ネーツェルとはイエス様のことだとわかりました。このようにイエス様が「ナザレの人」と呼ばれたのが預言の実現だったというのは、彼が住んでいた町がナザレだったということよりも、ネーツェル預言があったからでした(「ナザレ」については、この他に民数記6章1-21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)
ところで、本日の福音書の中で一番難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるかもしれません。もし、その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちを導いてヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。
そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナの戦争もコロナも東日本大震災もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。
そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。
もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この問題についてキリスト信仰者はどう考えるかということを以下に述べていきたいと思います。
聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に沿うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまったことが、創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたい神と張り合いたいという考えを持ったことが間違いの元だったのです。
ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志とは十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪があることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの証なのです。
このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にそれはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。
それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められています。その呪いをイエス様が全部自分で請け負って、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下ったことで人間が陥らないですむ状況を作って下さったのです。
そういうわけでイエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節の言葉を借りれば、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいて罪の奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。それでは人間を解放した後はどうなるのか?罪の奴隷状態から解放されるのはわかった、じゃ、どこへ解放されるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになって、この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられる、そういう神との永遠の結びつきへと解放させられるのです。
もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本当の罰受けになって人間の罪を償うことが出来ました。ヘブライ 2章17節で言っている通りです。そして18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。
イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させました。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったので二重の打撃です。
神はこのようにして人間に救いを整備して下さいました。今度は人間のほうが、神が整備した死に至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整備した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整備された状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためであった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していきます。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらって、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。
このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを歩んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。
以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、という見解になります。もちろん、これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを果たして下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。
終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場です。黙示録20章4節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心に従って造り上げたものに対して、また神が御心に従って与えて下さるものに対して、それらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。
人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判的になる人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うようにしようとするものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。
最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも、このような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるということです。
2022年12月4日(日)待降節第2主日 主日礼拝 聖書日課 イザヤ11章1~10節、ローマ15章4~13節、マタイ3章1~12節
本日の福音書の日課の箇所は洗礼者ヨハネの活動開始についてです。これは旧約の日課イザヤ書11章と使徒書の日課ローマ15章と結びつけて見ると内容がとても深くなります。限られた時間で全部をお話しすることはできませんが、特に今日大事と思われることをお話ししようと思います。
洗礼者ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年です。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その年を数え入れて15年目なのかどうかは定かではありませんが、いずれにしても西暦28年か29年の出来事です。このように洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。
洗礼者ヨハネのスローガンには二つのことがありました。一つは「悔い改めなさい」、もう一つは、悔い改めなければならない理由として「天の国が近づいたのだから」でした。まず「悔い改め」とはどういうことか見ていきます。「悔い改め」と聞くと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、もとのギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)にはもっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改める、生き方を方向転換して神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。それなので、この説教ではこれからは「悔い改め」という言い方はしないで、「神のもとに立ち返る」という言い方をしますのでご了承ください。
次に悔い改めなければならない理由としてある「天の国が近づいたのだから」を見ていきます。「天の国が近づいた」ということは何のことでしょうか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が「天国」と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地のいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?
「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国でしょうか?「ヘブライ人への手紙」12章に次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされないものとして現れるのが「神の国」です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時、神の国が見える形で現れることが預言されています。
このようにキリスト信仰はこの世には終わりがあるという立場をとります。しかし、終わっても終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が到来する、それで今のは終わるということです。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。この壮大な天地大変動の時にイエス様が再臨して審判を執り行うのです。イエス様が行う審判のことが今日の洗礼者ヨハネの言葉、麦の殻は永久に消えない火に投げ込まれるという言い方で言われています。これとは逆に神の国に迎え入れられる者はパウロが第一コリント15章で言うように「復活の体」という創造主の神の栄光を映し出す体を与えられて迎え入れられます。黙示録21章4節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。 この将来到来する神の国と審判を行う者については今日の旧約の日課イザヤ11章でも預言されています。どのように預言されているか見てみましょう。
まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡したことを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒廃し民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できました。しかし、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、それがダビデ家系に属する者として生まれたイエス様だったのです。
そのイエス様が最後の審判で裁きを行う時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も助言も力も知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。
「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」というのは、旧い世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされるということです。「「この地の貧しい人」というのはヘブライ語の辞書を見ると、貧乏な人たちでなく「神の前にへりくだった人たち」のことです。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢い」というのは辞書を見ると、「口から吐かれる息(ברוח)」で、それが強風のように神に逆らう者たちを永遠の死に吹き飛ばすという意味になるでしょう。
最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼できること、頼れること」という意味です。最後の審判者はいでたちからして、文字通り正義を体現して信頼しきって大丈夫な方だということです。
6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩のような美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。それはあたかも水が海を覆い満たしているのと同じであると。このように「神の国」では、神を知らないことが存在しないので、神の意志に反する罪も存在しません。ここで野獣や猛獣が草食動物のようになっていますが、新しい世の有り様がかつての天地創造の最初の状態に戻ったことを表しています。創世記1章30節を見ると、堕罪が起きる前、獣もみな草を食べていたことが言われています。
10節「その日」、つまり新しい世が到来する時です。それは、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時です。その時、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、ユダヤ民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。(この10節をパウロが本日の使徒書の日課ローマ15章12節で引用しています。双方をよく比べて見るといろいろ違いがあることに気づかされます。これは、パウロが引用しているのはギリシャ語版の旧約聖書だからです。ヘブライ語の方は諸民族の動きに焦点が置かれていますが、ギリシャ語の方はエッサイの芽つまりメシアのイエス様の動きに焦点が置かれています。)
最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。
さて、そんな夢のような国が2000年前に洗礼者ヨハネが「近づいた」と言ったのです。これは一体どういうことなのでしょうか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?ヨハネの時代から今までを振り返ってもそんなことは起きなかったではないか?
実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それなので、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が終わって新しい天と地が再創造される日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、神の国を人々に体験させられる方が来られる、その方が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。
そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主である神に背を向けていた生き方をいい加減やめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。
ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、神の怒りと裁きから助かるためには、神の意思に反する罪を犯してしまったと正直に認めて赦してもらわなければ、と人々が考えたのは無理もありません。皆こぞってヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。
人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、ヨハネの意図は全く別のところにありました。彼が言うように、罪の問題の解決のために自分よりも強力な方がもうすぐ来られると。つまり、神の国に迎え入れられるために神の怒りと裁きから助けられるのはその方である、自分はその方が成し遂げる解決を人間が受け取ることが出来るように、そのために人間を罪の自覚と告白に導く役割を果たすということだったのです。それがイエス様の到来に備えて道を整えるということだったのです。
それでは、イエス様はどのように罪の問題を解決して下さったのでしょうか?それは、彼が神から贈られた神聖なひとり子でありながら、否、神聖なひとり子であるがゆえに、これ以上のものはないという位の神聖な犠牲の生贄になって私たち人間の持っている神の意志に反する罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。イエス様は私たちに代わって罪の神罰を受けられたのです。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦し神罰を受けないで済むようにするという手法を取ったのでした。そこで人間が、このことはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いを自分のものにすることができます。それでその人は罪を赦された者と神から見なされるようになります。
しかしながら、洗礼を受けたとは言っても、人間はまだ肉を纏っているので神の意志に反する罪を内に持っています。それでは、洗礼の後はどうしたらいいのでしょうか?それは、罪の自覚を持ち、神に対してそれを告白して、神から罪の赦しを頂く、これを繰り返していくことです。自覚と告白のたびに神は洗礼の時に与えた聖霊を通してゴルゴタの十字架にかけられたイエス様を私たちに示して下さいます。そこに罪の赦しが確実にあることを教えて下さいます。この時人間は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに満たされて罪の言いなりにならないようになる力を頂きます。これを繰り返していくのです。繰り返しをすることで神は、あなたが罪に反抗する生き方をしていると認めて下さいます。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。先ほど申したように人間は洗礼を受けても罪を内に持っています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの中で生きることになり、罪の自覚と告白と赦しの繰り返しの人生が始まります。罪から浄化されるプロセスに入るのです。やがて、このプロセスが終結する日が来ます。肉の体に代わる、神の栄光を映し出す体を着せられる復活の日がそれです。
終わりに、ヨハネが結びなさいと命じている「悔い改めに相応しい実」とは何かについて述べておきます。この説教では「悔い改め」とは「神への立ち返り」のことだとしたので、「神への立ち返りに相応しい実」です。これはいろいろな内容を含みますが、何にしても、この「実」を考える際に忘れてはならないことがあります。それは、「神への立ち返り」とは何かを覚えていることです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の罪の赦しのお恵みの中で生きることがそれです。その中で生きるとは、罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることを繰り返して生きることです。これが神への立ち返りです。ここからどういう「実」が実るのかを考えるのです。
私は、ローマ12章から後に書いてあることにその具体的な内容があると思います。今日の日課はその15章ですので、今日はそれに限定して「実」の内容を見てみます。日課は4節からですが、この区切りは良くなく、1節から見るべきです。「実」を理解するカギは7節にあります。パウロの言葉を借りると、次のことが「実」であることがわかります。
キリストは、もともと神の民・ユダヤ民族に属さない異邦人であるあなたがたを受け入れた。それは、神の栄光がこの世で一層明らかにするためであった。だから、あなたがたもキリストに倣ってお互いを受け入れなさい。そうすることで神の栄光がこの世で一層明らかにされるのだ。このように、キリストに倣ってお互いを受け入れることで神の栄光をこの世に現わすことが「実」なのです。
そこでキリスト信仰者がお互いを受け入れるというのはどういうことかが1節からの箇所にあります。
力ある者は、ない者の弱さを辛抱してあげること、自分のことだけを考えないこと、隣人にとって何が良いかを考えて隣人を強めてあげられるようにすること、隣人が蔑みを受けたら代わりに受けてあげること。つまり、キリストがあなたにしてくれたことを思い起こして、相手にも同じようにしてあげること。このようにキリストのことを思い起こして、仲たがいなどせず、皆で思いを一つにすること。これが「実」です。
「思いを一つにしている」は、次のように出来ていれば、そうなっていることになります。お互い同じ復活の希望を持っているのだ、それでお互い同じ喜びと平安を持っているのだとわかって、それで一緒に、この罪の赦しのお恵みの神に感謝し、一緒に神を賛美すること。これが「実」です。そうすると、今まさに皆さんがしているように、心から礼拝に参加することが実を結ぶことになるとわかるでしょう。
主日礼拝説教2022年11月27日 待降節第一主日 聖書日課 イザヤ2章1-5節、ローマ13章11-14節、マタイ24章36-44節
今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と罪の赦しの恵みの中に留まられますように。
今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。その日の福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。
その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、イエス様の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うのです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。
さて、スオミ教会のホサナですが、北欧の国と同じようにしたかったのですが、2年前に日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年と一昨年はルカ21章とマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。そういう話は聖霊降臨後の終わりの頃に相応しいと思うのですが、待降節になってもまだ終末テーマを続けなければならないというのは少し気が重いです。しかし、それでも今日の聖書の箇所はイエス様の再臨にどう備えるかという内容なので、それはそれで主を迎えることに関係することと思い、日本の日課に従うことにしました。
最初に旧約の日課イザヤ書2章を見ていきます。これは、この世の終わりの時に何が起こるかについての預言です。主なる神の神殿のある山が地上のあらゆる山の中で一番高くそびえて、他の山々は揺り動かされてしまうが、主の山だけは揺るがない。そこを目指して諸民族が大河のようにやってくる。彼らは次のように言う。「主の山に上り、ヤコブの神が住まわる神殿に行こう。神は私たちが神の意思に従って生きられるように私たちを教えられる。なぜなら神の掟はシオンから、神の御言葉はエルサレムから出てくるのだから。」そう諸民族は述べてやって来る。一つ余計なことですが、新共同訳では、諸民族が言う言葉は、私たちはその道を歩もう、までです。しかし、正しくは「なぜなら、主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」までです。接続詞「なぜなら」が抜け落ちているので付けてあげて、カギかっこを後ろに移動します。
諸民族がそう言いながら天地創造の神のもとにやって来る時、神は裁きを行う。諸民族の間に正義を打ち立てるが、多くの者は裁かれるという書き方です。諸民族が持っていた武器は農具に変えられ、もうお互いに対する武力行使はなく戦について学ぶこともない、そういう時が来る、だからヤコブの家の者である我々は主の光の中を歩もうではないか。そういうことが述べられています。
さて、この世の終わりに世界の諸民族がエルサレムに上って行くとか、主の掟と御言葉はシオンやエルサレムから出るとか言うのを聞くと、本当に諸民族が一斉にあの中東の地に向かって飛行機か何かに乗って行くのだろうかと疑わしくなります。ヤコブの家などと言うと、ユダヤ民族のことを言っているように聞こえます。しかし、そうではありません。黙示録を見ればわかる通り、今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される日に現れるエルサレムとは、今の世界地図にあるイスラエル国の都市ではなく、天上のエルサレムのことです。天地創造の神から義と認められた人たちが迎え入れられるところです。そこに向かう諸民族の大移動ももうこの世の移動手段によらない、何か霊的な移動です。ヤコブの家というのは狭く考えればユダヤ民族ですが、新約聖書の観点から見ると、イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた者の集合体です。血筋上のユダヤ民族ではなく、信仰によって神の民の一員とされた者たちです。
また、ここでは裁きのことが言われているので最後の審判があります。最後の審判では旧い世で損なわれたり中途半端になってしまった正義が回復して完全なものになります。イザヤ2章はそのことについて、個人レベルの正義ではなく民族や国レベルの正義について言っています。かつて旧い世では、正義の実現のため、などと言って振りかざしていたあらゆる武器が新しい世で農具に変えられます。武器なんかでは正義は実現しない、農具の方が正義に相応しいということです。農具に変えるというのは、新しい天と地の世で農耕文明が始まるということではなく、武器を作るくらいの暇と力があるのなら最初から農具にしていれば旧い世はパラダイスになったのに、そうしなかったのは実に愚かなことだったと思い知らせるシンボル的な意味があります。
そういうふうに考えると、人間はどうしてそうすることが出来ないのか?今の世界情勢を見るにつけ嘆かわしくなります。ひょっとしたら、今の戦争を機に人類は武力に凝りて軍縮を一生懸命にやるようになるだろうか?その時、武器に費やした巨額のお金を気候変動や貧困や疫病の対策に向けられるようになるだろうか?どうでしょうか?そんなのユートピアすぎて非現実的だ、と言ってしまったら、もう無理だとあきらめることになります。聖書が言うように、新しい天と地の再創造の後にそうなることを信じ期待して、今はもうなるようになれと落ちるところまで落ちるしかないのか?
聖書が今の世に対してそういう投げやりな態度の書物でないことは5節の言葉から明らかです。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」「ヤコブの家」とは、神から義と認められた人たちを意味します。まさに「神の民」です。神に義と認められた人たちとは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちです。ひょっとしたら、全人類が心を入れ替えて一致団結して叡智を働かせて戦争や気候変動をストップさせることができるかもしれない。もちろんそうなることにこしたことはありません。しかし、たとえそうなっても、今の天と地がいつか終わって新しい天と地に再創造されて最後の審判を経て神の御国への迎え入れがあることに変更はありません。逆に、人間が頑張っても危機を解決できない場合でも天地の再創造と神の御国への迎え入れは起こります。危機の回避か突入か、どっちを経由しても再創造と迎え入れに至るわけです。それでどっちになるにしても、今は主の光の中を歩まないといけないのです。既にイエス様を救い主と信じている人はこの光の中に留まって歩むこと。光を失わないようにすること。まだその光の中に入っていない人はこれから入るようにするということです。それでは、主の光の中を歩むとは具体的にはどういうことでしょうか?それが、今日の使徒書と福音書の日課で明らかにされています。
この個所は天地の再創造と最後の審判の時に起こる復活に向けての心構えを教えています。それが、主の光の中を歩むとはどういうことかを明らかにします。まず、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と言います。「覚めるべき」と言うと、今寝ぼけた生き方から目を覚ませ!と言っているように聞こえます。しかしパウロが第一コリント15章で言っているように、復活とはこの世から死んだあと眠りにつき、そこから起こされることです。それなので、ここはこの世で寝ぼけた生き方をやめよという命令ではなく、もうすぐ眠りから目覚めさせる時、すなわち復活の日が来るという必然について言っているのです。
次に、「今、救いが近づいた。あなたたちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時よりも近づいた」というのは当たり前のことです。時間が経過したのですから。キリスト信仰には今の天と地が新しい天と地に取って代わられる日が来るという終末論と新生論があり、その日がいつかは神しか知らないが、とにかくその日は来る、だから、私たちが一年一年過ごしていく度にその時に近づいていることになります。パウロが言う「救い」とはローマ8章23節で言っていた「体の解放」、つまり今纏っている肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられることです。このように、パウロはここで復活の日が近いことを言っているのです。パウロはその期待が強かったようです。しかし、実際はどうだったでしょうか?パウロがこの世を去って2000年近く経ちましたが、同じ天と地はまだ続いています。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは今の世は続くと言っていました。当時の人たちにとって世界は地中海とその周りが全てでしたから世界は今より小さく見られていました。しかし、いまだ福音が宣べ伝えられていなかったり自分の言語で聖書を読めない民族は世界に多く残っているので、今の世の終わりは当分まだなのでしょう。
「夜は更け、日は近づいた」というのも同じ考えです。今のこの世の有り様が夜の暗闇に例えられています。日と言うのは新しい世のことです。今の世の有り様が終わりに近づいている、復活を経た新しい世の到来が近いということです。そのように今はまだ夜で暗いが、夜が終わって夜明けが来るのと同じように復活と新しい世も来る。それで、もうすぐ光の中を歩むことになるのだから、今はもうすぐ終わる暗闇に従うことを止めて、暗闇の力に対抗できる光の武具を身につけよ、とパウロは喚起します。光の武具を身に着けるとはどういうことか、パウロはそれを説明します。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」「品位をもって」というのは、すぐ後に酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみというものが言われるので、それらの対極として品行方正の意味に訳にしたと思います。もちろん、酒宴、酩酊、淫乱や好色は日中よりは暗い夜に行うことが多いと思います。しかし、ここで日中と言うのはあくまで暗闇の今の世に対する光の新しい世のことを意味します。それなのでここのパウロの意図は、新しい世はまだ来ていないが、今は既にその中にいるがごとく、そういう者として歩もうということです。光の新しい世はまだであるが、キリスト信仰者はもう一足早くその光の世にいるがごとく、今はこのもうすぐ終わる暗闇の世を生きなさい、ということです。それが光の武具を身に着けるということになります。一足早く光の世にいるようにして光の武具を身に着けるとはどういうことか?二つの大事なことがあります。一つは隣人愛で愛すること、もう一つは罪に反対して生きることです。その二つについてみてみます。
まず、隣人愛で愛することについてですが、実はそれについて今日の個所の直前で言われています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいと言う言葉に要約されます(13章9節)」等々。パウロは今の世がもうすぐ終わることを次の所で言う前に、隣人愛で愛せよと命じるのです。さて皆さん、今の世がもうすぐ終わるということをわかった上で本当に隣人愛で愛することができるでしょうか?どうせ世界が終わるのに無意味なことを言っていると思う人もいるかもしれません。もし自分の命があと少ししかないと前もって分かったら、取り乱したり無力感に陥ったり自暴自棄になるかもしれません。しかし、人生の最後を人のために尽くそうという心も生まれることもあります。黒澤明の古い映画「生きる」の主人公がその例です。余命僅かと告げられた主人公は最初は快楽に走りますが、最後は人のために尽くそうと必死になりました。死を目前にした者が自分の生き方が無意味にならない、意味のある生きた方になることを他人のために尽くすこと他人が喜ぶ顔を見ることで見出したと言ってもよいでしょう。
パウロの隣人愛で愛せよという教えはどうでしょうか?「生きる」の主人公のように、この地上での残された時間を意味のある生き方をするのだ、そのために隣人愛で愛するのだということでしょうか?そういう面もあるかもしれませんが、キリスト信仰の場合は、映画の主人公と違って、地上の残された時間の先を見ています。光の新しい世では愛と正義が完全なものになっている。それらを損なったり汚すものはもう存在しない。自分はイエス様のおかげでそこに迎え入れられて完全な愛と正義に包まれて生きることになるのだから、今はあたかも既に迎え入れらた者のようにこの世で立ち振る舞おう、新しい光の世を先取りした者としてこの世を生きよう、パウロは言っていることはそういうことです。黒澤明の映画はこの世を超えたことはないので人間中心主義です。文字通りヒューマニズムです。キリスト信仰の場合はこの世を超えたことを視野に入れています。何主義と言ったらよいでしょうか?皆さん、何か言葉を考えて下さい。
光の武具のもう一つ大事なことは、罪の自覚を持ち罪を告白し罪の赦しを受ける生き方をすることです。パウロは14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。これは、洗礼の時にイエス様を白い汚れない衣のように頭から被さられて、神からはさも罪の汚れがない者のように見なされることを象徴して言っています。既に洗礼を受けてこの神聖な衣を身に纏った人はそれを手放さないようにしなさい、まだ纏っていない人は暗闇の世が終わるまでに早く纏いなさいということです。
イエス様という汚れのない衣を被されたとは言っても、私たちの内には神の意志に反する罪がまだ残っています。それなので、洗礼の後はこの衣の神聖な重みで罪を圧し潰していく生き方が始まります。どういうことかと言うと、罪の自覚が起きるたびに神のみ前で罪を告白して(神のみ前です、人間の前ではありません)、聖霊からゴルゴタの十字架を心の目に映し出してもらって、罪の赦しが揺るがずにあることを確認して罪の赦しの中に留まることです。その時、父なるみ神は言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることは分かっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦された。これからは注意しなさい」と。この時キリスト信仰者は襟を正し、畏れ多い気持ちと感謝に満たされて日常生活に戻ります。このような罪の自覚と告白と赦しはこの世を去る時まで繰り返されますが、神はこれを罪に与さずに生きた証、罪に反抗して生きて証、罪を圧し潰す生き方をした証しと認めて下さいます。そして復活を果たした後はこの繰り返しはもうありません。罪がなくなっているからです。
ここでは、イエス様の再臨のことが述べられています。イエス様の再臨というのは天地の再創造と最後の審判と復活にくっついている出来事です。イエス様は、キリスト信仰者はその時に備えて目を覚ましていなければならない、準備が出来ていなければならないと言います。ノアの洪水のことが例として言われます。ノアは目を覚まして準備が出来ていた人の例です。目を覚まして準備をしていれば、箱舟に入って洪水から守られたように守られて神の御国に迎え入れられると言うのです。反対に目を覚ましておらず準備もしていないと悲劇的なことになると。
畑にいる二人の男と臼を引く二人の女の話は分かりにくいと思います。これは、神の国に迎え入れられるというのは選別があるということ、みんながみんな天国に行けてハッピーになるわけではない、なぜなら最後の審判があるということを意味しています。二人のうち一人というのは、50%の確立と言っているのではなく、迎え入れられる者と入れられない者の二つに分かれるということです。もう一つ気を付けなければならないことがあります。畑にいる二人の男の人も臼を引く二人の女の人も両方とも同じ仕事をしています。外側から見たらみんな同じ仕事をしていて一体何の違いがあって何の落ち度、デメリットがあって、一人は迎え入れられて、一人は迎え入れられないのかわかりません。これは、神は、人間の目で外から見て気がつかないこと、見えないことを全てご存じであるということを意味しています。神は造り主で私たちの髪の毛の数まで把握しておられる方ですから、私たちの行いや言葉について人には知られないこと、心の中のことまでご存じです。
そこまで言われると、自分は神のみ前ではもうだめかと思ってしまいます。しかし、さっき言ったことを思い出しましょう。罪の自覚と告白と罪の赦しの繰り返しに生き、神の罪の赦しのお恵みの中に留まり、被されたイエス様の衣を手放さないように歩んでいれば何も心配ないのです。それが目を覚ましていること準備していることになります。泥棒に入られないように起きているというのも、泥棒とは罪のことです。自覚と告白と赦しがあれば、罪に支配されることはありません。イエス様の衣をしっかり握りしめれば握りしめるほど、罪は圧し潰されて行きます。
以上、キリスト信仰者は新しい光の世を先取りして、このもうすぐ終わる暗闇の世を進んでいけることについてお話ししました。先ほどの映画「生きる」の主人公についてもう一つ述べておくことがあります。それは、主人公が快楽から人のために尽くそうとする転機になったことについてです。彼の職場を辞めて別の仕事に就いた若い女性がとても活き活きして仕事をしているのを目撃して、自分もあのように輝きたいと思ったことが転機でした。キリスト信仰は輝きを与える信仰です。その輝きは、新しい光の世の輝きであり神の栄光の輝きです。復活の日に自分もその輝きを映し出す復活の体を与えられて神のもとに迎え入れられます。キリスト信仰者は私自身も含めてですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって新しい光の世を先取りしていることにもっと気づくべきだと思います。
主日礼拝説教 2022年11月20聖霊降臨後最終主日 聖書日課 エレミヤ23章1-6節、コロサイ1章11-20節、ルカ23章33-43節
本日の福音書の個所はイエス様が十字架にかけられた場面です。イエス様の両側に犯罪人が二人、一人は右側に、もう一人は左側に十字架にかけられました。三人とも五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。後は息を引き取るのを待つだけです。真に残酷な場面です。
犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。イエス様の十字架の上には「この男はユダヤ人の王」という札が掲げられていました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていローマ帝国の官憲にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとなこうなるぞ、という具合に。
このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られていたのです。ところが当時、このような民族解放と王国復興の期待について少し異なる期待の仕方もありました。どんか期待の仕方かと言うと、復興される王国というのは、民族自決国家というようなこの世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わって新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。それは、この地上の有り様を飛び越え新しい有り様の世のことです。さて、地上の国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代のユダヤ民族にはこの世的でない超越的な王国とメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない数多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国が地上の国ではなく将来の新しい有り様の世であることをはっきりさせたのです。
イエス様を罵った犯罪人は、イエス様のことを地上の王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったと思われます。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのでしょう。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様の方は「あなたの御国」、つまりイエス様が王である国にイエス様が入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上の国ではない、今の世を超えたところにある国であり、イエス様はその王であると信じたのです。つまり犯罪人は超越的な国とメシアの存在を信じたのです。
それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかという疑問が起きます。なんだか苦しみを和らげるための気休め言葉か、イエス様みたいに権威のある方が言えば、苦しみの中にあっても耐えられるありがたい励まし言葉ということなのか?そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園にいることになる、と言っているのです。息を引き取ってこの世から別れたら一緒に楽園にいることになる、ということです。
そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあって、神以外誰も知らない将来の時、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、イエス様の再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?そういうプロセスを経て天の御国に入ることが出来るのではなかったのか?今日中に楽園にいることになると言ってしまったら、プロセスはなくなってしまうのではないか?
この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚まさられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。それなので、イエス様が今日中に楽園にいることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので間違いではありません。
イエス様に「私のことを思い出して下さい」という犯罪人の言葉ですが、これはよく目を見開いて何度も読んでみると、これはキリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白それに信仰者が受け取る罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。
最初の犯罪人がイエス様を罵った時、彼は諫めて言いました。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。」この訳は不十分です。ギリシャ語原文を忠実に見るとこうなります。お前がこの方と同じ罰を受けているからという理由で、この方をお前と同等に扱うようなことを言うなんて、お前はなんと大それたことを言うのか、お前は神を恐れないのか、という意味です。ユダヤ教社会の指導者たちもローマ帝国の兵士たちも、イエス様に対して「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と繰り返し言っていました。この犯罪人はイエス様に対して「自分を救ってみろ」だけではなく、「自分と俺たちを救ってみろ」と、自分たちのことも入れたのです。
これに対してもう一人は、それは間違っている、神を冒涜することになると否定したのです。なぜなら、自分たちは犯罪を犯して刑罰を受けて当然の報いを受けている、しかし、イエス様の場合は何も悪いことをしていないのに自分たちと同じ刑罰を受けている、だから同等に扱うのは間違っているというのです。そして、その犯罪人は、イエス様がこの世の王国を超えた新しい世の王であると信じています。別の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世の王国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、こっちの犯罪人は、イエス様は新しい世の王でもうすぐそこに入ることになると信じています。イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われている。イエス様のことを自分たちのように本当に犯罪を犯して罰を受けている者と同等に扱うのは神を冒涜することになる、と。
この犯罪人にはイエス様が王として新しい世の国に入ることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこのような言葉をかけて下さる方がおられるというのは何と勇気づけられることでしょうか!
この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。方や犯罪人、方やキリスト信仰者、果たして同じと言えるのか?疑問を抱く方がおられるかもしれません。同じだとわかるために、ここで少し罪と罰の問題を考えてみます。キリスト教は罪を赦すと言っているから、犯罪を犯しても罰を与えないということなのか?それでは犯しても構わないということにならないか?などと聞く人がいます。そういうことではありません。神は十戒で殺すな、盗むな等々と命じています。それらは神の意志なのでやってはいけないこと、許されないことなのです。やったら神の意志に反したので罰せられることなのです。
社会の法律が罪や罰について規定する時、それは人間が人間に対して行った罪についてです。人を傷つけたら、それは人間に対して罪を犯したことになり、法律が想定している社会の安定を損ねたことになります。それに対して賠償なり刑罰が課せられます。課せられる賠償や刑罰の大きさは社会によって異なり、何が妥当かについて議論は絶えず起こります。キリスト信仰の場合、罪は人間に対して犯したというだけでなく、人間に対して犯したことを通して神に対して犯したということが出てきます。神に対する罪の罰は神罰です。神罰とは、人間が造り主である神と切り離された状態でこの世を生きなければならないということです。そして、この世から別れた後は切り離された状態が永遠のものになってしまうということです。
社会の罪と罰とキリスト信仰の罪と罰の違いについて、神に対する罪ということの他にもう一つ重要なことがあります。それは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の神の掟は、行動だけでなく心の中でも破ったら、同様に神に対して罪を犯したことになり神罰の対象になるということです。法律の規定だけでしたら、人間に対する罪は行動や言葉で現れるものが罰の対象になります。キリスト信仰の場合は心の中で神の意志に反するものを抱いたら、それでもう神罰の対象になるのです。人間は心の中まで見通せないので法律をもってしても心の中にあるものを罰することはできません。キリスト信仰では神は人間を造られた方なので心の中も全てお見通しです。神の意志に反することが心の中にあれば、それも罪になり神罰の対象になるのです。
しかし、人間が神罰を受けることは神の御心ではありませんでした。神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげたい、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげたいと思いました。それを可能にするためにひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、人間のために永遠の命に至る道を開かれたのです。
そこで人間が、これらのことは本当に起こったことだ、それでイエス様は自分の救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きていくことになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままなので、復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。
ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中に神の意志に反するものがいつも渦巻いています。それに気づいた時、キリスト信仰者は失望したり不安に陥ったり時には絶望しそうになります。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の壮大な計画によってあの十字架が歴史上に打ち立てられた以上は、あの方は自分の救い主であり続け、神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もう失望や不安や絶望に浸る必要はないのです。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世の道を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味しています。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、神の罪の赦しのお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。
本日の福音書の個所は、犯罪人が息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けたという出来事です。それに関連して、ある方が言われたことを思い出しました。その方はキリスト信仰者ではないのですが、ミッション系の学校に通ったことがあり、聖書のこともよくご存じの方でした。ある日、その方に洗礼を受ける考えがあるか尋ねたところ、自分は死ぬ寸前にイエス様助けてと言うからそれで十分、今は縛られないで生きていたいということでした。確かに、本日の福音書の個所の犯罪人の例があるので、最後の瞬間の前にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性も否定できません。しかし、ここには考えなければならないことが二つあります。
まず、洗礼を受けると聖霊が授けられるということがあります。少し別の言い方をすると、洗礼によって聖霊が常駐するようになるということです。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけですと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけですと、イエス様のことを、自分がこの世と次に到来する世の双方の世を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の立場です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。
もう一つ問題点があります。それは、「神の祈りの学校」の生徒としての研修期間がなくなってしまうということです。「祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間で口にされる言葉の一つです。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならなずに失望や挫折もあるかもしれない、しかし、そういうことを通しても神は人間の願いよりも大きなことを教え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。研修期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば本当に何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2022年11月6日(聖霊降臨後第22主日) 聖書日課 ヨブ19章23-27a節、第二テサロニケ2章1-5、13-17節、ルカ20章27-38節
本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。キリスト信仰の死生観の土台と言ってもよいでしょう。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。この個所については3年前にも説教しましたが、今日は少し視点を変えて説き明かしをします。結論は全く同じです。
ところで、復活だの死ぬだの、どうしていつも暗い話ばかりするのか、もっと現世的な明るい話題を取り上げてハッピーな気分にできないのかと言われてしまうかもしれません。誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、または自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたなと思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して前に進めなくなるということもないし、逆にそんな問いには来てもらいたくないと必死に避けることもしない。問いが来たら来たで、確認してハイ終わり、です。そういうふうに確認するものがあるというのはいいことです。
本日の説教は福音書の個所の説き明かしが中心になります。本題に入る前に、復活について要点を復習しておきます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それと、イエス様を救い主と信じる者たちが与る、将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度復活するということはありません。それで、将来のある時とはいつかと言うと、それは今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される時です(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)。それはまた、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時です(「ヘブライ人への手紙」12章27ー28節)。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。
黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神が裁判官になって裁判を行います。神の手元には全ての人が旧い世でどんな生き方をしたか記録した書物があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがその復活に与ることになります。
また、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様と結びついている死者たちが復活させられる。それと、再臨の時点でまだ生きている信仰者たちが彼らに合流して神のもとに迎え入れられる。このようにパウロは、イエス様再臨の時点で生きている人たちにも目を向けています。
ここで、復活について二つ注意すべきことを申し上げます。一つは、パウロが第一コリント15章で言うように、復活させられる者は皆この世の肉体のように朽ちる体ではなく、神の栄光を現わす復活の体を着せられるということです。つまり復活させられる者は、既に死んでいた者も、その時点で生きている者も、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられることはありえないということです。みな同じ復活の体を着せられるのです。誰もこの世の姿かたちで天の御国には迎え入れられないので、皆がこの世の肉体から離別するということになります。
このことは、本日の旧約の日課ヨブ記の中でも言われています。ただ、日本語訳は何か抜け落ちていたりしてはっきりしません。実は、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳もまちまちで、ここは各国の訳者にとってやっかいな箇所のようです。そこで、19章の23節から27節の前半までをヘブライ語の原文に出来るだけ忠実に訳すと次のようになります。
「(25)私は知っている、私を贖って下さる方は生きておられると。将来、その方はこの滅びゆく大地の上に立ち上がる。(26)私の皮膚が引き裂かれた後で、私は肉体から離れた状態で神を見る。(27a)その方を私自らが見るのだ。私の目が見るのだ。その方はよそよそしい方ではない。」
このように、ここは復活の時の有り様がこの世の有り様と違うことが言われているのです。さらに贖い主つまりイエス様の再臨のことも言われています。聖書の学会では普通、ヨブ記は知恵文学に属すると言われるのですが、このように復活という黙示文学の要素も持っているのです。聖書の書物を~文学、~文学とジャンル分けすると、他のジャンルの要素があっても気に留めなくなる危険があると思います。各国の訳者は案外、この危険に陥って黙示文学の要素などあり得ないという視点で訳したのかもしれません。
復活に関してもう一つ忘れてはならないことは、迎入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。
復活は将来に一括して起きること、人間一人一人死ぬたびに起こることではないなどと言うと、じゃ、死んだ人たちは将来起こる復活の日まではどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところで我が国日本では普通、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が大半です。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。
そう言うと今度は、死んだ人が本気で眠ってしまったら、誰が起きていて見守ってくれるのかと心配する人たちが出てきます。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、祟りだの、ナントカ商品だのと言われてもびくともしなくなり、この日本も安心して住める国になるのにと思わざるを得ません。
そこで、天の御国への迎え入れが起こるのは復活の日だからそれまで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。
以上、復活の要点を復習しました。これから本日の福音書の個所の説き明かしに入りましょう。サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。
サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに議論を吹っかけました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問なんです、と無垢を装う演技派だったでしょうか?
これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。一つは、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということです。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみます。
人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた新しい世になります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、先ほど見た第一コリント15章のパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」であると言われます(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きるようになる。この、復活した者が「神に対して生きる/神のために生きる」ということが第二の論点のところで鍵になります。
以上、イエス様の第一の論点を見てみました。サドカイ派は復活を正しく理解していませんでした。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。もし復活を正しく理解していれば、そんな質問は出なかったでしょう。
イエス様の第二の論点は出エジプト記3章6節です。そこで神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。
ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの根拠になっていることです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブは将来の復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられたと考えることができます。以前の説教では、3人が復活の日まで眠っていてその日に復活させられる可能性について考えてみました。今回は3人が既に神の御許にいる可能性に立って話を進めます。
イエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になります。実はこの個所はそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、その意味で「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、その言い方はこの復活について教える個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。文というものは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文が置かれた文脈と無関係だったら意味を成さなくなるのです。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」です。これも注意しないといけません。文脈から遊離してはいけません。
それでは、このイエス様の言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど素直に直訳的に「神に対して」とか「神のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」byとは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。
次に「神に対して生きる/神のために生きる」というのは、どういう生き方かをわからないといけません。わかりそうでわかりにくい文です。イメージとして、神にお仕えするように生きるということが思い浮かぶかもしれません。もっと具体的にわかることができるでしょうか?それができるのです。「神に対して生きる/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章10~11節にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。このようにギリシャ語で読むと両方とも同じ言い方をしているとすぐわかるのに、日本語訳では一方は「神によって」、他方は「神に対して」と違う言い方で訳されてしまうので関連性が見えなくなってしまうのです(後注2)。そこでローマ6章の「神に対して生きる/神のために生きる」がどんな生き方かを言っているかがわかれば、本日のイエス様の言っていることもわかります。
ローマ6章のパウロの教えは、スオミ教会の聖書研究会の復習になりますが、こういう流れです。神の意思を表す律法は、人間が神の意志に反しようとする性向、罪を持つことを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされるようになる。まさに罪の赦しが神から「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪が暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を復活と永遠の命に導くようになった。
そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人が出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きることなど不可能なのだ」(6章2節)。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、それは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪の言いなりになる生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということなのです。そのことが十字架という歴史上の出来事をもって未来永劫にわたって起きたのです。
さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様のことだけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまります(後注3)。キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す器として生きるというのはどういう生き方か?本教会の説教でも毎回のように教えています。罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。そのようにして罪に背を向け神に向く生き方を貫くと、復活の日に神の栄光を現す復活の体を着せられて罪との戦いは終結します。
イエス様の言葉「神に対して生きる/神のために生きる」は、パウロの言い方からわかるように、罪の赦しのお恵みに留まって、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す生き方をすることです。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、既に神の御許に迎え入れられた者たちだけでなく、今そこに向かって進んでいる者も含むのです。「生きている者」というのは、ただ単にこの世で生存している者のことではなくて、まさに復活に至る道に置かれてその道を歩む者のことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~は既に神の御許に迎え入れられた者だけでなく、そこに至る道を歩んでいる者も含むのです。
兄弟姉妹の皆さん、その~に自分を当てはめてみて下さい。皆さんが聖書の神つまり創造主でありイエス・キリストの父である神を「私の神です!」と言うと、皆さんはその神の御許に向かって歩んでおり、復活の日に神が自分を復活させてくれると確信していると告白することになります。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。
(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格
(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。
(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。
主日礼拝説教 2022年10月30日(聖霊降臨後第21主日) 聖書日課 イザヤ1章10-18節、第二テサロニケ1章1-4、11-12節、ルカ19章1-10節
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本日の福音書の日課は徴税人ザアカイについての話です。徴税人についての話は先週もありました。エルサレムの神殿で徴税人が神に罪を告白する祈りをしたという話です。ただそれは、イエス様のたとえの教えだったので架空の人物でした。今日の話は、イエス様がエルサレムに向かう途上で通りかかったエリコという町で実際に起こった出来事です。架空の話と実際に起こった話といういう違いはありますが、本日の話は先週の話と繋がっています。
どう繋がっているかと言うと、イエス様は先週のたとえで、神に義とされる者、つまり神に相応しいとされる者は、自分が罪深い人間であることを認めて神に憐れみと赦しを心から祈れる者であると教えました。そこでイエス様は、神の掟をちゃんと守って神に相応しい者になれるというやり方を否定したのです。果たして、人間は神に自分の罪を告白して赦しを乞う祈りで神に相応しいとされるのか?その通りであることを私たちにわからせるためにイエス様は十字架と復活の業を成し遂げられたのです。それで、十字架と復活の出来事の後は、人間は十字架にかけられたイエス様を心の目で見ることができれば罪が赦されて神に相応しいと認めてもらえるようになったのです。そうなるために私たちは神のみ前で自分が罪ある者であると認めて赦しを祈らなければならないのです。それなので、神に相応しいと認めてもらう際には掟を守ることには意味がないのです。意味があるのはイエス様の十字架と復活の業とそれを人間が受け入れることなのです。そういうわけで先週のイエス様の教えは、十字架と復活の出来事の後の正しい祈り方を前もって教えるものだったのです。
本日の個所は、イエス様のおかげで神に相応しいと認められたら、続いて何が起きるかということを示しています。何が起きるかと言うと、神の意志に沿うように生きようという心が生まれるということです。今日はこのことを見ていきます。最初に注意すべきことを述べておきます。イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言っているところです。二つのことに注意します。一つは「救い」とは何かとうことです。普通、病気とか何か困難や苦難が解決したり解消したりすると「救われた」と言います。ところがキリスト信仰では、「救い」はこの世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生きられることです。また、この世の人生を終えた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御許に迎え入れらることでもあります。それで今はそこに至る道を神との結びつきを持って歩めることが「救われている」ことになるのです。道の歩みの上で病気になったりいろんな困難や苦難に遭遇します。しかし、なかなか解決が得られなくても、神との結びつきを持てて復活を目指して歩んでいる限りはキリスト信仰者は「救い」がなくなったなどと考えません。「たとえ死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我と共に在せばなり」という詩篇23篇の心意気でいるのがキリスト信仰者です。
もう一つの注意事項は、イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言ったのは一見すると、ザアカイが財産を貧しい人に施します、だましとったお金は4倍にして返しますなどと改心したことに対するご褒美として言ったように聞こえます。それで、救いは善行の見返りとして与えられるという見方が生まれると思います。ところが、全然そうではないのです。先週も見たように、イエス様は掟を守ったり何か良いことをして神に相応しいと認めてもらうやり方を否定しました。今日の出来事もその延長線上にあります。このことがわかるためには、この個所を先週の個所とあわせて何度も何度も読み返さないとわかりません。一回読んでわかったような気分でいると、イエス様が本当に教えようとしていることと反対の理解になってしまいます。
神に相応しいと認められたら、今度は神の意志に沿うように生きようとする心が生まれるということを、これから本日の個所をもとに見ていきます。その前に、徴税人について先週お話ししたことを少し復習しておきます。徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人たちです。彼らは決められた徴収額以上に取り立てて私腹を肥やすような人たちでした。それなので、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人は同胞の裏切り者とみなされて憎まれていました。
そうした一方で、福音書に登場する徴税人たちは貪欲で悪質なタイプとは少し様子が違うことにも気づかされます。ルカ3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが神の裁きの日が近いことを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。先週の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらも、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。この他にも、マルコ2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。
以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければといういう気運があったことが読み取れます。本日のザアカイも、イエス様に並々ならぬ関心があったことからすると、洗礼者ヨハネの宣べ伝えが影響を及ぼしていたと考えられます。ヨハネは、もうすぐ神の裁きの日が来る、誰も逃れられない、だから神に背を向けて生きる生き方をやめて神に立ち返る生き方をしなさいと宣べ伝えました。同時に、自分の後に偉大な方が来られるとも宣べました。それがイエス様でした。イエス様は奇跡の業をもって来るべき神の国の実在を示し、自分が罪の赦しの権限を持つことを示されました。その時はまだ十字架と復活の出来事が起きる前でしたが、神の裁きを心配した人たちにとってイエス様は救いの道を示して下さる希望の光に映ったでしょう。
イエス様が弟子たちと大勢の支持者たちを従えてエリコの町に入ってきました。ザアカイはイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かった上に群衆に遮られて見ることができません。それで先回りして木に登り、上から見ることにしました。そこをイエス様一行が通りかかります。イエス様はザアカイに気づいて彼を名前で呼びます。さすが神のひとり子です、まだ会ったことのない人の名前をご存じでした。ということは、ザアカイがどんな素性の者かもご存じだったでしょう。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」当時は一緒に食事するというのはとても強いきずながあることを意味しました。それで、「なんであんな罪びとの家に?」と言う周囲の不満や失望は理解できます。
ここから先ですが、一回読むと、ザアカイが財産を分け与えますとか言うところは、まだいちじく桑の木の下でのやり取りのように見えます。しかし、よく目を凝らして何度も読むと、木から降りたザアカイは喜んでイエス様を迎えたので実際は家に連れて行ったのです。ギリシャ語原文を見ても、群衆はイエス様の滞在中ずっとぶつぶつ言っていたという書き方です。それなので8節の「ザアカイは立ち上がって」というのは、イエス様が家から出発する場面と考えられます。「立ち上がって」とありますが、ザアカイが座った状態から立ち上がったみたいですが、そうではありません。ギリシャ語の言葉は立っている状態でも使われる言葉なので「立ち上がる」と訳すのは誤りです。どんな日本語に直せるのかは少し難しいですが、感じとしては、これから喋る人にスポットライトを当てるような感じです。ここは「イエス様と向かい合って」という意味でしょう。
以上から、ザアカイは、イエス様の呼びかけを聞いて木から降りて、イエス様を家に迎え入れて一緒に過ごす時を持ちました。そこでイエス様の人となりを見、その言葉を聞いたでしょう。どんな言葉であったかはルカ福音書には記されてはいないのでわかりません。しかし、大事なのはイエス様を受け入れて一緒の時を持った後で、財産の半分を貧しい人々に分け与える、だましとったものを4倍にして返すという決心をしたということです。その後でイエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。ザアカイの決心の背景には、イエス様を自分のもとに受け入れたことがあります。このことに気づくと、ザアカイはイエス様から救いを保証してもらうために決心したのではないことがわかります。それで今度は、ザアカイがイエス様を受け入れたことを少し詳しく見てみます。
ザアカイがイエス様を受け入れて家に招く前に、イエス様がザアカイを受け入れて家に招くようにと命じていました。つまり、イエス様が最初ザアカイを受け入れザアカイはそれに応じたのです。イエス様の受け入れを受け入れたのです。イエス様がザアカイを受け入れる前、ザアカイの方では特にイエス様に受け入れられるというつもりはなく、ただイエス様を一目見たいというだけでした。その時のザアカイは金には全く不自由しないという羽振りの良さでしたが、民族の裏切り者、罪びとの最たる者というレッテルをはられていました。金さえあれば、そんな不名誉は痛くもかゆくもないという態度だったと思います。そこに洗礼者ヨハネが現れて神の裁きと神への立ち返りということが公けに言われるようになりました。神の裁きが起これば、いくら金を積んでも何の役にも立たないこと位はザアカイにもわかったでしょう。実際、大勢の徴税人たちがヨハネのもとに行って洗礼を受け、徴税人を辞める者さえ出ていたのです。さあ、自分はどうしたら良いか?
その時、このエリコの町にあのイエスがやって来ると聞きつけます。あの、洗礼者ヨハネが自分の後に来る偉大な方と言っておられた方、数多くの奇跡の業を行い、いつの日か到来する神の国について教え、また罪の赦しの権限を持つと自ら言われる方、その方が今来られるのだ。ザアカイが関心を抱くのは当然でしょう。ただ木の上から見ることができたらその後のことは何も考えていなかったでしょう。ところが、そのお方が彼に目を留め、名前で呼び彼の家に立ち寄りたいなどと言ったのです!イエス様は、心に葛藤を抱えていたザアカイを見つけて彼を呼びました。イエス様は心に葛藤を抱えていた彼、まだ善い行いをするに至っていない彼をそのまま受け入れたのです。ザアカイはその受け入れに応じたのです。その後でイエス様と共に過ごす時を持ち、その後で財産を捨てる決心をしたのです。全てはイエス様が悩む彼を受け入れたことから始まったのです。
イエス様が悩む者を受け入れるとその人に新しい心が生まれるというのはキリスト信仰にそのまま当てはまります。もっと正確に言うと、イエス様が受け入れてくれたことに応じる、つまりイエス様の受け入れを受け入れることで新しい心が生まれるのです。まさにザアカイがその模範例となりました。先週もお教えしましたようにキリスト信仰では、神の掟を守ったり善い業を行ってそれで神に認められる、神に相応しいとされるという考え方をしません。人間には神の意志に反しようとする性向、罪があるので神の意思に完全に沿うことが出来ないのです。
ではどうしたらよいのか?そのままでは人間は救われない状態に留まってしまいます。それを分かっていた神は、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はこのイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。私たちの造り主である神のもとに戻れる道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て神が自分のためになして下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。
こうして人間は、イエス様が果たして下さったことと彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しいとされ、神との結びつきを持ってこの世を歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので逆境の時も順境の時と変わらない助けと良い導きを神から得られます。また、この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。このようなこの世と次に到来する世にまたがるような大きな救いを、ひとり子を犠牲にしてまで与えて下さった神に私たちはただただひれ伏して感謝し、これからは神の意思に沿うように生きようと志向し出します。その時、神の掟を守り善い業を行うことが当然のことになります。そこでは、掟を守ることや善い業を行うことは神に認めてもらうための手段ではなくなっています。こっちは何もしていないのに神に先回りされて先に認められてしまったので、その結果そうするのが当然という心になってするのです。
このイエス様の十字架と復活の業が実は神が人間を受け入れる業だったのです。もし神が罪を持つ人間など絶対受け入れないという態度だったら、ひとり子を贈って十字架と復活の業を成し遂げさせることなどはしなかったでしょう。人間を受け入れるから贈ったのです。そしてその次に大事なのは人間がその神の受け入れに応じるかどうかです。神の受け入れを人間が受け入れるかどうかです。人間が神の受け入れに応じて受け入れるというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の受け入れを受け入れた者は、神との結びつきを持って復活の日に至る道を歩み始めます。初めにも申しましたように、本当に「死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我とともに在せばなり」になるので、もう安心と信頼しかないという感じになります。それで神の意志に沿うように生きるのが当然という心になります。
ただし、キリスト信仰者といえども、この世で肉の体を纏って生きている以上は神の意志に反する罪をまだ持ち続けます。しかし、信仰者は神の受け入れを受け入れたので神から相応しい者とされます。ひとり子のイエス様のおかげでそのように見てもらえると思うと、畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで一杯になり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうなるとかえって神の意思に敏感になりますが、まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という先週の徴税人の祈りがあるのです。そして祈りは必ず聞き遂げられるということは、心の目をゴルゴタの十字架に向けられる時にわかります。あそこに首をうな垂れたあの方がおられる。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫であることが厳粛にわかります。
ザアカイの場合は、もちろん、十字架と復活の前の出来事なので、イエス様のことを復活の救い主と信じる信仰も洗礼もまだありません。しかし、ザアカイが辿ったプロセスにはキリスト信仰の原型があります。まず神は、葛藤を持つ私たちを受け入れて下さる。イエス様はザアカイを名前で呼んで受け入れました。神はイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせることで私たちを受け入れてくれました。イエス様に受け入れられたザアカイは、その受け入れに応じてイエス様を自分の家に迎え入れました。私たちは、神の受け入れを信仰と洗礼をもって受け入れて神と御子を心の中に迎え入れます。ザアカイはイエス様の受け入れを受け入れて、彼の人となりを見、その御言葉を聞いて、神の意志に沿うように生きようとする心を持ちました。私たちも、神の受け入れを受け入れて聖書の御言葉を通してイエス様の人となりを知り御言葉を聞くことで神の意志に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するがごとく愛そうという心を持つようになります。
このようにイエス様がまずザアカイを受け入れて、ザアカイもイエス様の受け入れを受け入れて、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になった、イエス様はこのプロセス全部を指して「救いが訪れた」と言われたのです。私たちの場合も同じです。神がイエス様の十字架と復活の業を通して私たちを受け入れて下さった、この神の受け入れを私たちが信仰と洗礼で受け入れる、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になる、このプロセスにあれば私たちに「救いが訪れた」ことになるのです。
我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入 れることにある。
救いは我々が何かを成し遂げた褒美として与えられるものではない。
我々は善い業を神のイニシアチブを受け入れた後でするようになる のである。
主日礼拝説教 2022年10月2日(聖霊降臨後第十七主日)
ハバクク1章1~4節、2章1~4節、2テモテ1章1-14節、ルカ17章5-10節
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本日の福音書の日課の最初の部分は、イエス様の有名な「からし種」の話です。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は、何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。
からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが3~4メートル位の木に育つと言われています。それなので、イエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言ってることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?
もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?そんな疑問が生まれます。からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。果たしてそうなのか?以下に見ていきましょう。
最初に、召使いを労わない主人のたとえを見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指しているからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇用者と被雇用者、親と子、先生と教え子の関係ではありません。
神が命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、突き詰めて言うと、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。これでは、自己肯定感なんか生まれません。
ところが、神は、私たちにとって労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても私たちは全然平気だ、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はイエス様を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。
さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この与えられた神のひとり子の償いを手放さずにしっかり携えてこの道を歩み続けると、かの日、創造主の神のみ前に立たされる時、大丈夫、何もやましいところはない者として見てもらえると安心して立つことができます。本当を言うと、失敗だらけ至らないことだらけだったのだが、その度にいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを祈った。すると、一度打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにある、だから心配しなくてもよい、といつも神から言われた。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで満たされて再び永遠の命の道を歩み始めることが出来た。永遠の命の道とは、このように繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道を歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでその人はかの日に神のみ前に心配せずに立つことが出来るのです。
ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰を携えて歩めたおかげで、神のみ前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はこの私にイエス様を贈って下さったのだ。
このことがわかると、やるべきことをして労われて誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を犠牲にしてして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ。これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しないでいられる自己肯定感です。別に見返りなんかなくても平気でいられる自己肯定感です。
もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。それなので、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきた時、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。
本日の旧約の日課ハバクク書の箇所には、周囲は不正と暴力が溢れ、正義が歪曲されてしまった状況が描かれています。その中で、神の義に生きる者はどうしたらいいのかという問いに対する答えがあります。それは、神の救いの約束はなかなか実現しないように見えても、必ず実現するから、神の意志に反する者たちの言うことを聞くな、神の意志に従えば永遠の命に与れるということを明らかにしています。このことは、イエス様が来られる前の時代には確信を持つことは難しかったかもしれません。しかし、イエス様が来られた後は神の約束は実現すると確信が持てるようになったのです。この確信を得たキリスト信仰者は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を与えられているとパウロは本日の使徒書の日課第二テモテの個所で述べています。
それなので、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の関係から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、果ては選挙で投票してもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。自己肯定感のためにやっていたはずのことが、いつの間にか肝心の自己が周囲や便宜を図る者に造られていっていまうのです。
次にからし種のたとえの教えを見てみましょう。イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうのではと思わせます。それで、お前たちは、せめてからし種くらいの信仰を持て、そうすれば奇跡を起こせるぞ、と言っているように聞こえます。イエス様は本当にそういうことを言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?
まず、イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。後の文と一緒にしてみると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示します。そうすると、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、あなたがたにはないことを前提に言っていることになります。高校の英文法で言えば、事実に反することを暗示する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。つまり、ここは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っていないとも持っているとも言っていないのです。そして不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを暗示しています。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろうが、実際にはお前たちは命じないだろうから、桑の木も実際にはそういうことをしないだろう」という意味です。
さあ、混乱してきました。今まで多くの方が理解していた理解がぐちゃぐちゃになってきたと思いますので、整理してまいりましょう。
からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。
このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長することに関係しているということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。ここで問題になるのは、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは、神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う者が持てないような「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。
それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、キリスト信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神のみ前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところはないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。「恵みの賜物」は異なっていても、これだけは全員同じです。
そこでもう一つ大事なことを申し上げます。「信仰が成長する」とよく言われますが、正確には「信仰を携えて私たちが成長する」ということです。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰ですが、それが成長するのではなく、それを携えた私たちが成長するということです。どういうことかと言うと、先週スオミ教会の礼拝の後で聖書研究会を行いました。学んだ箇所はローマ10章1~13節。かつてモーセは、律法は難しくない、それは人間が行えるようにと口と心の中に置かれているのだ、と教えました。それに対してパウロは、人間を罪の支配から贖い出して下さったキリスト自体が信仰と洗礼を通して人間の口と心の中に置かれているのだと教えました。それで、かつては、口と心の中にある律法を行うことで人間は神から義と認められて救われるということだったが、今度は、口と心の中にあるキリストの贖いを、口にあるからそのままイエスは主である言い表し、心の中にあるからそのままイエスは死から復活したと信じれば義と認められ救われるのだ、と教えたのです。パウロにとって信仰とは、キリストの贖いが口と心の中にある位に身近にあって、それで口でその通りに言い表して心でその通りに信じることなのです。
それなので、キリストの贖いを口と心の中に持つキリスト信仰者は口でその通りに言い表し心でその通りに信じることを、この世の人生の中で行う。これが信仰を携えて成長することです。それはあたかも、口と心の中にあるキリストの贖いという大きなものに小さな自分を適合させていくようなことです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出すという繰り返しがあります。その繰り返しをすることもキリストの贖いを口と心の中で携えて成長することです。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になります。その時が復活の日なのです。
こういうふうに見ていくと、イエス様の主眼とするところは、だんだん、奇跡の業を起こせることで信仰が大きいとか小さいとか判断することをやめよ、ということになっていきます。先にも申しましたように、奇跡の業を起こせることは「恵みの賜物」の領域で人間が立ち入ることは出来ません。奇跡の業を起こせて信仰が大きい起こせなくて小さいという問題ではないのです。イエス様は弟子たちに、お前たちがそんな考えにとらわれているんだったら、これでどうだ、と言わんばかりにこのからし種の話を出してきたことがわかります。奇跡の業を起こすのは別に大きな信仰なんかではないと思い知らせるために、奇跡の業をからし種のような極小のものに結びつけて見方をひっくり返す。そして、奇跡の業の例として取り上げたものも、たまたまその辺に生えていた桑の木を指さして、その木が自分から抜け出して海に行ってそこで生えるというような、あまり意味のないどうでもいいものにする。このように見ることができれば、イエス様の主眼は一般に言われるような、お前たちはからし種位さえの信仰もないので奇跡は起こせない、せめて、からし種位の信仰を持て、そうすれば起こせる、ということではありません。そうではなくて、奇跡の業を起こすのが大きな信仰ではない、信仰者にとって大事なのは神から与えられたキリストの贖いの信仰を携えてからし種のように成長することである、ということなのです。
(後注1)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεになるべきでしょう。
(後注2)εχετε - ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk–Svensk Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。
司式・説教 ティモ・ハヴカイネン宣教師
礼拝をYouTubeで見る
聖書 エレミヤ23:23-29
ヘブライ11:29-12:2
ルカ12:49-56
讃美歌 238,131,467,154
音楽 マリ・リ-サ・ハヴカイネン
ティモ・ハヴカイネン
ヴィデオ編集 ティモ・ハヴカイネン