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主日礼拝説教 2022年3月20日 四旬節第3主日
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課のはじめの部分は、ローマ帝国の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いてどんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを殺害させて、その血を生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。
これを聞いたイエス様はある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐあの出来事かとわかるような、記憶に新しい出来事であったことが伺えます。
さて、報告した人たちは、この事件を通してイエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のガリラヤ人よりも罪深かったからと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しないのか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのでしょうか?」と聞きたかったのです。
これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定です。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかった他のガリラヤ人より罪深かったということではない、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じ位あり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになります。そういう事件に遭わないのは罪がないからということではないのです。そうなると話はもう因果応報とは無関係になります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。
イエス様はこの「決してそうではない」を、塔の倒壊事故を話す時にも使います。5節です。ここでもイエス様は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、と言うのです。両者とも同じくらい罪びとである、だから、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけである。それなので、そういう事故に遭わないのは罪がないからということではないのだ、と。ここでも話は因果応報と無関係になります。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。
ところが、どうしたことでしょう、イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。そうなると、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような目に遭う、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って因果応報を否定しおきながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?
実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しないなどと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。
イエス様は一体何を考えているのでしょうか?イエス様が因果応報の観点で言っているように聞こえてしまう大きな原因があります。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言う時、「滅びる」という動詞アポッリュミαπολλυμι があります。これを苦難困難に遭って命を落とすことと理解してしまうと因果応報に聞こえてしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。どんな意味でしょうか?
その意味がわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも「滅びる」は先ほどと同じアポッリュミです。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことと反対のことです。そこで、まず「永遠の命を得る」とはどんなことか見てみます。それは、私たちがこの世を去る時、自分自身の全てを天の父なるみ神に委ねて、神の方でしっかり自分をキャッチしてくれる、そして復活の日に目覚めさせてもらって神の栄光に輝く朽ちない体を着せてもらって神の御国に迎え入れられる、これが「永遠の命」を得ることです。それで見ると、「滅び」はこれとは逆にこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、復活の日に御国に迎え入れられないことを意味します。
このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって「滅び」は、このようなこの世で遭遇する苦難災難でした。イエス様にとって「滅び」は、この世の次に到来する新しい世で御国に迎え入れられないことでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、この世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、将来の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということもわからなければならないのだ。」
このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に到来する新しい世に関わる滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むこと、そして、歩みの途上で苦難災難に遭遇して、場合によっては命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは本当に可能なのでしょうか?
それが可能だとわかる鍵は、イエス様の答えの「悔い改める」にあります。これはギリシャ語のメタノエオ―μετανοεωという動詞ですが、もともとの意味は「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されます。ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが思慮不足や身勝手さやのために他人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」は相手の人に向けられています。ところが、キリスト信仰では、他人に謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は創造主の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に反したからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまったことを悔い改めて神に向きなおるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳すことが可能です。
そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と認めてもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?その「立ち返り」はどんなものか?そのことを少し考えてみます。
皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなこと言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。神の意思を完全に実現できる人間は存在しないのです。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、ということでした。イエス様は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、と教えます。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が神のもとへの立ち返りをしようとして手がかりになったのは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。
人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神聖な神にキャッチしてもらえません。神が手を取ってくれて一緒に新しい世が誕生する大変動を乗り越えることが出来ません。復活の日にちゃんと目覚めさせてもらって神の国に迎え入れてもらえません。それではどうすればよいのか?人間のこの大問題に対して神自らが解決策を取って下さいました。それは、自分のひとり子をこの世に贈って、本当は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという解決策でした。その後は人間の方が、この神のひとり子が果たした罪の償いはまさにこの自分のためになされたのだと受け止めて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持ち始めます。その後ですが、日々、自分の内に残る罪を罪として認め、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と神に祈り求めていきます。そうすれば神は、お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった、彼の犠牲に免じてお前の罪を赦す、だからこれからは罪を犯さないように、と言って下さるのです。
このようにして人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取り、その中に留まって生きることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認をして頂き、再び永遠の命への道を歩み出すことです。この時私たちは、罪に反対し、それを圧し潰す生き方をしています。神のみ前に立たされる日、神は私たちの生き方がそのようなものであったことを認めて下さいます。
このようにイエス様が言われる「滅び」は、今の世に関係するものではなく、この次に到来する新しい世に関係しているのです。それなので、人間がこの世で遭遇する苦難災難は「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもないのです。たとえ苦難災難のために命を落とすことになっても、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者を守ろうとされるのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神に守ってもらっているという気がしなくなるのではないかと思います。苦難災難に遭遇した時、信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。
そこで使徒パウロは、イスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者にとって反面教師になると教えます。長い大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話して守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。
パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために記されているのだ、と言います。キリスト信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情がありました。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、聖書では当たり前の観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を再創造し、再臨されるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。その時がいつ来るかは神にしかわかりません。パウロが活動した時代は、それがもうすぐ来るという切迫感がありました。それはパウロの手紙の随所に見られます。特に第一テサロニケで強く表れ、第一コリントでも若い女性や未亡人に結婚や再婚を勧めないほどです。しかし、パウロの時代から2000年近く立ちました。まだこの世の終わりは来ていません。パウロは早とちりだったのでしょうか?イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていました(マタイ24章14節等)。パウロはその言葉を知らなかったのでしょうか?パウロが活動していた頃はまだ福音書が完成していませんでした。それで、イエス様の言葉でまだ彼に伝えられていないものがあったとしても不思議ではありません。それと、パウロの頃はまだイエス様の復活の出来事から間もない頃でした。それで、イエス様に続いて死者の復活が起きるのはもうすぐと考えられたかもしれません。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では私たちは「終わりの時代」を生きていることになります。
パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐそれを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そこで大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、普通人間が受ける試練を超えるような度外れた試練はなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方だから、君たちの持てる力を超えるような試練に遭わせたりはしない。試練に遭わせるようなことをしても、出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。それでは、ここで言う試練とはどんな試練でしょうか?
13節でパウロは「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」とか「出口を用意して下さる」と言っていますが、「認めない」も「用意して下さる」も未来形で言っています。パウロは将来の試練について言っているのです。それとは対照的に、これまで受けてきた試練は普通人間が受ける試練であったと現在完了形で言っています。ということは、将来の試練は普通人間が受ける試練を超えた、度外れな試練になります。それはどんな試練でしょうか?それは先ほども申し上げた、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が再創造される大変動の時の試練を意味します。なるほど、これなら普通人間が受ける試練を超えています。しかし、イエス様を救い主と信じる者は大丈夫、試練は自分の力を超えるものにはならないし、試練と共に出口が用意されると言います。出口とは神にキャッチしてもらえるということです。
私たちは恐らくそのような大変動を迎えないで、それが来る前にこの世から別れるのではないかと思います。その場合は復活の日まで眠りにつきます。しかし、その場合でも神にキャッチしてもらえることは同じです。天地の大変動のような度外れた試練の時に神にキャッチしてもらえるならば、度外れでない試練の時はなおさら神に守られているのではないでしょうか?
最後に本日の福音書の日課のもう一つのエピソードに関連してひと言申し上げて結びにしようと思います。イチジクの木についてのイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。それを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を受けないようにと私たちをかばって下さったイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠には待ってくれないということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて神のもとに立ち返りますように。神が人々の一日も早い立ち返りを待っていることは、本日の旧約の日課イザヤ書55章でもはっきり言い表されています。
主を探し求めよ、主が見つかる時に
主を呼び求めよ、主が近くにおられる時に
神に逆らう者よ、その道を捨てよ
不正を働く者よ、その考えを捨てよ
主に立ち返れ、そうすれば主は憐れんで下さる
我らの神に立ち返れ、なぜなら神は何度でも何度でも赦して下さるからだ
דרשו יהוה בהמצאו
קראהו בהיותו קרוב
יעזב רשע דרכו
ואיש און מחשבתיו
וישב אל יהוה וירחמהו
ואל אלהינו כי ירבה לסלוח
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教 2022年3月13日(四旬節第2主日)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
本日の福音書の日課の個所は、あなたの命が狙われているから逃げなさいと促されたことに対してのイエス様の答えでした。命を狙うヘロデというのは、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。イエス様と弟子たちの一行は北のフィリポ・カイサリア地方からエルサレムに向かって南下する旅を続けているところでした。それで、この促しはガリラヤ地方を通過している時に言われたものでしょう。イエス様に促した人たちがファリサイ派というのは興味深いです。なぜなら宗教エリートのファリサイ派はイエス様と敵対していたからです。しかし、ファリサイ派というのは根は天地創造の神の目に適う者になりたい人たちで、それで律法を余すところなく厳格に守ることを是としていました。それなので中にはイエス様の教えを聞いて、この方は何も間違ったことを言っていない、本当に神から遣わされた者なのではと考えるようになった人もいました。その代表例はヨハネ福音書に登場するニコデモです。そう言えば、後にキリスト信仰を地中海世界に広めることになったパウロも元々は筋金入りのファリサイ派でした。
促しを聞いたイエス様の答えは先ほど朗読した通りです。わかりそうでわかりにくいと思います。二つのことがありました。まず、あの狐のような狡賢いヘロデにこう伝えよ、と言って、ヘロデに対する申し立てがあります。私は今日も明日も人々から悪霊を追い出し病気を癒して三日目に全てを終える、と言います。三日目に全てを終えると言うのは、言うまでもなくエルサレムで十字架の死を遂げた後三日目に神の力で復活させられることを意味しています。もちろん、聞いた人たちはこの時は何のことかわかりません。
33節で「だが、私は今日も明日もその次の日も自分の道を進まなければならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ」と言います。先ほど申しましたように、イエス様一行はエルサレムに向かって南下中です。それなのでガリラヤ地方を通過します。だからこの言葉は、自分はガリラヤ地方から出ていくが、それはヘロデが恐くて逃げるのではない、エルサレムで死を遂げなければならないという神の計画を実現するためにガリラヤ地方を離れるのだという意味でしょう。
イエス様の答えでもう一つ大事なことは、今向かっているエルサレムを嘆く言葉です。エルサレムは天地創造の神を崇拝し礼拝を盛大に執り行う神殿がある町です。当時は地中海世界きっての大都市でした。その神のおひざ元のような町が歴史を振り返ってみると、神の遣わした預言者たちを受け入れず殺してしまうという、神の御心を顧みない町になってしまったことが何度もありました。イエス様は今も変わらないことを嘆きます。神はエルサレムの人々を親鳥がひな鳥を翼の下に集めるように呼び集めようとしたのだが、ひな鳥は来ることを拒否してしまった。かつてもそうだったし今もそうだ、と。イエス様は神のひとり子なので、この神の呼びかけを自分がしている言い方をしています。
神の呼びかけに応じないとどうなるのか?かつては神罰として敵の大軍に攻められてバビロン捕囚が起きてしまいました。イエス様の時はどうなるのでしょうか?35節を見ると、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言われます。「家」と訳されているギリシャ語のオイコスは神殿の意味もあります。フィンランド語訳の聖書は神殿と訳しています。ドイツ語は「神の家」と訳され、それは神殿を意味します。英語は日本語と同じ「家」でした。私は神殿の方がいいと思います。それで35節を原文を直訳すると、「あなたたちの神殿はあなたたちに渡される」です。「あなたたちに渡される」とは分かりにくいですが、要は、神は神殿から手を引く、後はお前たちで勝手にやれ、私はもうかかわらない、と神崇拝の大事な拠点なのに神の後ろ盾を失ってしまうということです。世界史上の出来事としてエルサレムの町は西暦70年に神殿ともどもローマ帝国の大軍に破壊されてしまうので、イエス様の預言は当たってしまったことになります。
35節のイエス様の言葉で一番わかりにくいのは、「お前たちは『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない」と言っているところです。これは何か?もう少し後でイエス様は旧約聖書の預言通りに子ロバに乗ってエルサレムに入城します。その時、群衆はユダヤ民族の解放者が来たと思って歓呼の声で出迎えます。その時、この言葉「主の名によって来られる方に祝福があるように」を叫びました。それなのでイエス様はエルサレムに入城するまでは誰も自分を見ないと言っているのでしょうか?この言葉はエルサレムの住民に言っているように見えますが、実際は神の呼びかけに応じない人たち全てのことを言っています。エルサレムへの道中、イエス様は賛同者だけでなく多くの反対者にも遭遇します。中にはエルサレムから来て観察して宗教指導者に報告する者もいます。それなので、みんなイエス様をずっと見ているわけです。なのに「決して見ることがない」とはどういうことでしょうか?
イエス様を決して見ないというのは、彼がこの地上にいる時のことではなくて、復活したイエス様が天に上げられて今は天の父なるみ神の右の座している期間のことです。それで、私たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言うようになって彼を見る時とは、イエス様が再臨する日のことです。イエス様の再臨の日とは、今の天と地が終わりを告げて天と地が新しく再創造される時、死者の復活が起こって最後の審判が行われる日です。その時、神に相応しいと見なされた者は新しい天地のもとに現れる神の国に迎え入れられます。相応しいと見なされない者は迎え入れられないので、私たちとしては自分はどちらになるだろうかと今から心配の種になる日です。
それなのでイエス様が再び来られる日に「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時には、二つの異なる言い方が生じます。一つは、親鳥の翼のもとに身を寄せるひな鳥のように神の呼びかけに応じた者が言う場合です。これは神に相応しいとされた者です。この人たちは眠りから目覚めさせられた時、この言葉を、ああ、主よやっと来て下さったのですね、長い間お待ちしていました、と安堵の心で言うことになります。もう一つの言い方は、神の呼びかけに応ぜず神の意思など気にかけない生き方をした者がこの時になって事の重大さに気づいて言う場合です。その時その人たちは、生きている人と死んだ人双方をこれから裁こうとされる再臨の主を目の前にして、その権力には逆らえないと観念してこの言葉を言うことになります。
それなので、今日の日課のイエス様の言葉は、イエス様の再臨の時、私たちはどっちの意味でこの言葉を言うことになるのかを突きつけているのです。この世の人生で神の呼びかけに応じて親鳥の翼の下で守られるひな鳥のように生きてきて再臨の日に大いなる安堵の気持ちで言うことになるのか。それとも、神の呼びかけに応ぜず神の守りなどいらないと言って生きてきて、再臨の日になって主の威光をもう否定できないと観念して恐れおののいて言うのか。
イエス様の再臨の日に私たちがこの言葉を大いなる安堵の気持ちで言えるようになるためには、この世の人生で神の呼びかけに応じてひな鳥のように守られて生きることが大事です。神の呼びかけに応じて守られて生きるということについて、今日の旧約聖書の日課に出てくるアブラハムの信仰が大いに参考になります。それを見てみましょう。この時点ではまだアブラハムはまだアブラムという名前です。17章で神からアブラハムという名前にしなさいと言われます。アブラハムはヘブライ語の父、多い、民族の三つの意味が組み合わさった単語です。それで、多くの諸民族の父という意味を持ちます。
今日の日課の中に、キリスト信仰にとって決定的に大事なことがあります。それは6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」なぜこの箇所がキリスト信仰にとって大事かと言うと、ここに信仰義認の考えがはっきり出ているからです。信仰義認とは、高校の世界史の教科書にルターの宗教改革のところで出てくる言葉ですが、簡単に言うと読んで字のごとく、人は信仰によって神から義と認められるということです。この意味の裏側に、人は善い業を行うことで神から義とは認められないという意味があります。それで信仰義認とは、人は善い業を行うことでは神に義と認められるのではなくイエス様を救い主と信じる信仰によって義と認められるということです。
そこで、イエス様を救い主と信じる信仰とは何かがわからなければなりません。それは、イエス様が本当に私たちの内にある罪、神の意思に反しようとする性向を全部引き取って神の罰を私たちの代わりに受けて下さった、まさに私たちが受けないですむように身代わりになって受けて下さった、それでイエス様を救い主と信じることです。このイエス様の身代わりの罰受けはエルサレム郊外のゴルゴタの丘の十字架で起きました。加えてイエス様は、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。その道の行く先に復活があります。
イエス様がそのような凄いことを私たちにされた、だから彼は救い主なのだと信じて洗礼を受けると神から義と認められるというのキリスト信仰です。その時善い業というのは神に認められるためにするものではなくなります。先に神から義と認められてしまった、しかも神が自分のひとり子を犠牲にすることで認められてしまった、これは一体何なんだと驚きます。イエス様の十字架を思えば思うほど、そのおかげで何の取り柄もなかった自分が神から義と認められてなんと畏れ多いことか、神から義と認められたので今自分は神の守りと導きの中を復活の日を目指して歩ませてもらっている、そのことを思い知れば思い知るほど、神の意思に反することには手を染めないようにしよう、関わらないようにしようというふうになります。時として神の意思に反することを心に思ったり、ひょっとしたらも弱さや隙をつかれて言葉に出したり行為に出してしまう時もあるかもしれない。しかし、神からの罪の赦しはゴルゴタの丘の十字架で打ち立てられて揺るがなくあることはわかるので、また新しくやり直せます。このようなサイクルの中に入ると、善い業は自分でしようしようと意識してするものではなくなって、植物が育って実を結ぶように出てくるものになります。
イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しの中に留まって生きるとどういう風になるかについては、一つの例としてパウロがローマ12章で述べていることを見ればわかります。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り、迫害する者のために祝福を祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、自分を賢い者とうぬぼれず、だれに対しても悪に悪を返さず、他の人と平和な関係が築けるかが自分次第という時は迷わずそうする、復讐はしない、全ては最後の審判の神の判断に委ねる、だから敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々です。
ここで「神から義と認められる」ということを少しはっきりさせてみましょう。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」この文を少し詳しく見てみます。「アブラムは主を信じた」と言うのは前にある出来事の流れでみなければなりません。何があったかと言うと、アブラムはもう90歳近くになって子供はもう無理、相続のための家系は潰えると諦めていました。その彼に神は諦める必要はない、お前には後継ぎが生まれる、と言ったのです。アブラムに星一杯の夜空を見せて、お前の子孫はこれ位になるとさえ言います。その時にアブラムは信じたのです。それで彼が主を信じたというのは、神が言われたこと約束されたことは人間の目から見ても常識で考えてもありえないことであっても、神が言われたのであればそうなると信じたことです。自分の目で見たこと感情で感じたこと理性で考えたことよりも、目や感情や理性はそんなのあり得ないと言っていることでも神がそうだと言われたらそうなのだと信じたことです。目や感情や理性に黙ってもらい、神の声の方を聞いて神の言葉を先に立て、他のことはその後にしたということです。
アブラムがそのように信じたことを「神が彼の義と認めた」と言います。それはどういうことでしょうか?ヘブライ語の原文を少し解説的に言い換えると、アブラハムがそのように目や感情や理性に黙ってもらい神の言うことを信じた、そのことを神は彼にとっての義と認めてあげた、です。もう少しわかりやすく言うと、アブラムがそのように信じたので神は彼を義と認めた、です。目や感情や理性を脇に置いて神の言うことをその通りだと言う、それくらい神に信頼を置くと神に義と認められるのです。
そこで、神に義と認められるとはどういうことかをわかるようにしましょう。そもそも「義」とは何なのか?ヘブライ語でツェダーカーצדקה、ギリシャ語でディカイオシュネーδικαιοσύνηです。それらが日本語で「義」と訳されるのですが、漢字の「義」という言葉をみて意味が分かるでしょうか?もちろん意味を辞書みたいに説明することは出来ます。しかしそのように説明されても、わかったようでわからないというのが大方の反応なのではないかと思います。そこで、「義」の意味を説明するのではなく、神に義と認められるとどうなるかを見て「義」をわかるようにしていこうと思います。
神に義と認められるとどうなるか?神はいつも共におられ、どんなことがあっても共におられ、この世の人生でもこの世の後に来る世においても共におられるというふうになります。罪を持っているにもかかわらず私たちは神聖な神と結びつきを持てて、この世と次に来る世の双方をその結びつきの中で生きるようになります。神に義と認められるとこのようになります。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がまさにそうです。イエス様のおかげで神との結びつきを回復できて、この世の人生では神の守りと導きを絶えず受けながら復活に至る道を進み、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、これが神に義と認められた者の全人生です。
アブラムの出来事はイエス様がこの世に贈られる何千年前のことでした。しかし、アブラムの信仰はキリスト信仰と同じです。目や感情や理性よりも神に信頼を置き神の御言葉を先に立てる信仰です。イエス様が十字架にかかったことや死から復活されたことを目で見ていません。神の意思に反する罪を持っていることも時として感じることはあるが時として感じません。この世の人生の後に、この世はいつか終わりが来て新しい天と地が再創造されるなど考えられません。ましてやそこに自分が復活して迎え入れられるなどと考えられません。しかし、目や感情や理性が信じられないと言っていることを私たちキリスト信仰者は信じています。だから、私たちとアブラムは同じ立場にあります。宗教改革のルターも、アブラハムのことをキリスト到来以前のキリスト教徒と言った位です。
目や感情や理性が信じられないと言っているのに信じることが出来るというのは、イエス様を救い主と信じることの他にもいろいろあります。イエス様を信じることから始まって沢山のことが出てきます。例えば苦難や困難に遭遇した時、私たちは神の守りや導きが失われたと感じがちです。しかし、それは私たちの目や感情や理性がそう見て感じて言っているだけで、神の守りと導きはなくなっていません。イエス様を救い主と信じる信仰に生き、神の罪の赦しの中に留まる限り、神との結びつきは非常時にあっても平時と全く変わらず、復活の道を踏み外すことなく進んでいます。それなのでキリスト信仰者は、希望のない状態にあっても希望があると言えるのです。まさに詩篇23篇4節の心意気でいるからです。
たとえ我、死の影の谷を往く時も禍害を怖れじ、
汝、我と共に在せばなり、
汝の鞭、汝の杖、我を慰む。
גם כי אלך בגיא צלמות לא אירא רע
כי אתה עמדי
שבטך ומשענתך המה ינחמני
そして、主の再臨の日と復活の日を目指して進む私たちは、苦難と困難の中にあってもパウロと一緒に堂々として次のように言います。
されど我らの国籍は天に在り、
我らは主イエス・キリストの救い主として
その処より来たり給うを待つ。
ημων γαρ το πολιτευμα εν ουρανοις υπαρχει
εξ ου και σωτηρα απεκδεχομεθα κυριον Ιησουν Χριστον,
主日礼拝説教 2022年2月27日 変容主日
聖書日課 出エジプト記34章29-35節、第二コリント3章12節-4章2節、ルカ9章28-36節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節が終わって、この後イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。
イエス様の山の上での変容の出来事は、これは、と言うか、これもですが、私たちの命は今のこの世とこの次にやって来る世の二つにまたがっていることを思い起こさせる出来事です。出来事の場所となった山は、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ8章27節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。
さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。
この出来事は以前の説教でも説き明かしをしましたが、今日は旧約と使徒書の日課が以前と違うので角度を変えて迫ることができます。ただ、結論はいつもと同じになりますが。旧約の日課は出エジプト記34章でモーセがシナイ山で神の栄光を受けて顔が輝き出しそれを覆いで隠したという出来事です。使徒書は第二コリントでパウロがキリスト信仰者は神の栄光を映し出す者であると教える個所です。それで今日は、神の栄光を映し出す者になるというのはどういうことか、なぜそれは大事なことかをお教えすることになります。
最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?人によっては、聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも同じだと考える人もいるでしょう。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディア‐グレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという感じが伝わる言い方です。
モーセとエリアの出現が現実に起きたことなら、彼らは幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えていることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来みんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。
それなのでキリスト信仰の天国の考え方は他の宗教の天国とかそれに類する国の考え方と大きく異なっていると思います。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類する国と言うのは、この世の人生を終えた後すぐ、ないしは30何年間とか一定期間の後で到達できるという考え方ではないかと思います。つまり、今のこの世がまだ存在している時のことです。ところがキリスト信仰では、それは今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その日が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きると思います。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日よりも前に死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。キリスト信仰では死は復活までの眠りで、その後に永遠の安寧か永遠の滅びかの振り分けがきます。
他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上21章6節、イザヤ書8章19節です。
次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。
あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(18ー23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。
そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。
フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。また、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の天の御国での有り様を現わす出来事だったのです。
そうするとイエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなので、あの「雲」はお迎えの「雲」だったのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?
それは、私たち人間も復活の日に神の栄光を映し出して輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするために受難の道を進んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。どうしてそういうふうにしなければならなかったのでしょうか?
それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために守るものではない、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分ではない、兄弟を心の中で罵っても同罪と教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」という掟も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇でダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。
そこで神は、できない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、どうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のようなことです。
神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、不問にするから自分との結びつきを持って新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは自分のためになされたとわかり、だからイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそこを神の守りと導きのうちに歩むことになるのです。
イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という神からの贈り物を受け取ることができるようにするためでした。私たちはこの贈り物を受け取って携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になっていることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそのことを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、3章7節辺りから見ていくとわかるようになります。
神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現します。しかし、先に申しましたように、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。先にも申しましたように、十戒は人間が罪深いものであることを明らかにするからです。それで神聖で神の栄光を現す掟は人間を罰に定めてしまい、十戒だけでは人間は神聖な神の前に立たされて立ち行かなくなってしまうのです。
しかし、神の御心は人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てるようにして神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。以前は十戒が現す栄光を目指せば人間は滅んでしまうだけでしたが、神は目指しても滅ばないで永遠の命に至ることができるように栄光を変えられたのです。
そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがこの世は、イエス様の十字架と復活の出来事が起こって神から罪の赦しが与えられる時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままでこの真の栄光を見ようとしない人たちがいるとパウロは嘆きます。
しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けるので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。
12節に戻って、パウロが言う希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使えば、大体それは復活と神の栄光を映し出すことを指しています。キリスト信仰者にとってこの希望が勇気の源になると言っています。12節「確信に満ちあふれてふるまっており」というのは、この希望から大きな勇気が得られてそれを持って生きるという意味です。その勇気ある生き方の具体例が4章2節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について真理を人々に語る、そして、私たちは神のみ前ではこれ以上の者でもこれ以下の者でもないということを他の人たちにどうぞ良心で判断してみて下さい、と言う。復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われようと、人間は神ではないので恐くはありません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2022年2月20日顕現節第7主日
今日のイエス様の教えはとても難しいです。言っていることは簡単に理解できます。しかし、言っている内容は私たちには実行不可能なことばかりです。それで難しいのです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者らを祝福せよとか、汝らを侮辱する者らのために祈れとか。お前なんか地獄に落ちてしまえと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さい、などと祈らなければならないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげなければならないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返しをしないどころか、こっちの頬もどうぞ、と差し出せとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなるに越したことはないですが、果たしてそんなにうまくいくのだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないだろうか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?
これに続く教えも、そんな無茶なと言いたくなります。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者に与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければいけないのかと聞かれて、そうです、なんて答えたら、もう誰も信仰者になりたいと思わないでしょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者がキリスト信仰者である所以について大事なことを教えているのです。自分には出来ないと言って遠ざけてしまうのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が本当に教えようとしていることを考えてみなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。
この他にもイエス様の実行困難な教えは聞く人読む人の心を揺さぶる試練を与えます。その一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせると言ってもよいでしょう。
さて、イエス様は青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。イエス様はその以前に山上の説教で十戒について教えた時、殺さなければOK、不倫をしなければOKではない、兄弟を言葉で傷つけたり心の中で傷つけを考えただけでも同罪、異性をふしだらな目で見ただけでも同罪と、神は心の有り様まで問うていると教えていました。金持ちの青年の時は、そういうふうには教えませんでしたが、それでも心の有り様を突いてくることを言います。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。
このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。もう一つは、人間は賜物を与えて下さる神よりも与えてもらった賜物に固執してしまうということです。
まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったり、貧困から脱することができると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。要約して言うと救いとは、この世の人生を終えた後でいつか将来この世の天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられること、これが救いです。
そう言うと、救いとは遠い将来のことで今ある天と地がなくなって新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かう日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。神が守って下さる導いて下さるというのは、苦難や困難があるとそんなものないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。
キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世では神の守りと導きの中でそこに至る道を進むことができる、これが救いです。
そこで、救いは人間の力では獲得できないことを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようになってしまいます。それでは自分の力でできなければどうやって獲得できるのか?それは、人間が神の意思に反しようとする罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっている、その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによってです。イエス様はどうやってそれを解消したのか?それは、本当だったら人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は人間の方がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったと受け入れて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、罪を償われたから神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。そのようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを信仰と洗礼でもって受け取って自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。
人間は救いを自分の力で獲得できないことに加えて、金持ちの青年の話が教えているもう一つの大事なことは、人間は賜物を与える神よりも与えられた賜物に固執してしまうということです。神は固執する相手を是正するために時として手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執することは可能でしょうか?宗教改革のルターはキリスト信仰者の賜物に対する心は次のようであるべきと教えています。
「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからだけ得られると考えてしまう位に愛しいものになってはならない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えにならないと言うのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」
本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えについては、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に押しやって賜物に執着しないようにということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきでしょう。
敵を愛せよ、頬を差し出せも文面だけで考えず、聖書のキリスト信仰の観点で見なければなりません。イエス様は山上の説教で同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせると言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くかもしれません。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前がいいというのは悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれているとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?
しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書18章23節と33章11節を見れば明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを裏切ることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。
敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に対して、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、その人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るように導いて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。
ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けを使わなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎではないかということも出てきます。また、肝心の救済機関がちゃんと機能していないという問題もあります。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の見解の基本には復讐はしないということがあります。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされ永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされ永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。
キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活とそれに先立つ最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。
復讐心で行わないということには、神の命令があるからということの他にもう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者自身が神から罪の赦しを受けたという立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたということがどれほど大きなことかがわかると復讐心のエネルギーは削がれていきます。神が贈られたひとり子の十字架と復活の業のおかげで自分は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は自分を子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日道を踏み外さないように迷わないように守り導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。神の意思に反する罪を持ち汚れや至らないところが沢山ある自分だが、私はただただイエス様が成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さず生きている。その自分を父なるみ神は子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日守り導いて下さっている。
本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」イエス様のこの教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。これを述べた時点ではまだ十字架と復活の出来事は起きていないので聞いた人たちは何ことが意味が全然分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後は、この地上に神からの罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私は裁く、罪びとに定めてやる、赦さないと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前に与えたものをよく見なさい、私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われてしまうでしょう。イエス様の教えは私はできない、できない、絶対できないと言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて遠い世界のことに思えます。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪としてこの世では不完全かもしれないが罰せられなければなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。
本説教で、キリスト信仰者とは復活の希望を携えて神の守りと導きの中でこの世を生きる者であるということを繰り返し申しましたが、この世では神の守りと導きがあると言っても、苦難や困難があると本当にあるのか疑わしくなります。しかし、それでもあるということを本日の旧約の日課でヨセフが証ししていますので、それを終わりに見ておきましょう。
ヨセフの人生は、皆さんご存じのように波乱万丈でした。父ヤコブの寵愛を受けて兄たちの嫉妬を買い、エジプトに奴隷として売られてしまいます。エジプトの王ファラオの宮廷役人に仕えている時も神の意思に従い不正なことには手を染めなかったにもかかわらず、不倫の濡れ衣を着せられて牢獄に入れられてしまう。その後もいろいろありますが、ファラオの見た夢の意味を解き明かしたことがきっかけで王室に仕える身分となり、最後は王国の行政の長にまでのぼるつめるところまで行きます。その時オリエント世界を大飢饉が襲いました。エジプトはヨセフの食料備蓄対策が功を奏して難を免れます。カナンの地にいたヨセフの父や兄弟たちは食料に困りエジプトに支援を求めにやって来る。宮殿で兄たちは目の前にいる高官がヨセフだとわかりません。そこでヨセフは自分の正体を明かすという場面です。そこでヨセフは、自分をエジプトに送ったのは兄たちではない、肉親たちが助かるようにと前もって神が送ったのだと言います。自分をエジプトに送ったのは神だと何度も繰り返して言います。このヨセフの半生についてルターが次のように説き明かししていますので、それを引用して本説教の結びとします。
「神のこの世での統治の仕方がいかに人間の理解を超えるものであるか、そのことについてヨセフの事例も聖書の数多くの登場人物と同じように我々によく教えてくれる。実に神は、悪魔や死が目前にあると思われるようなところで実は直ぐそばにおられるのだ。ヨセフも、エジプトに売られた時はさすがに神に見捨てられたと思ったであろう。しかし、神は一時たりともヨセフから目を離さず絶えず彼の後をついて行ったのだ。ヨセフが異国に売り飛ばされて、そこで何年も何年も試練に次ぐ試練を受けなければならないようにしたのは確かに神自身であった。あたかも神などもう近くにはおられないと思わされる位にそうされたのだ。しかし、神が定めた時が来たとき、神はエジプトの国をその手に委ねるほどにヨセフを高い位につけたのだ。そこに至るまでヨセフは神を信じて忍耐強く待たなければならなかった。
父なるみ神は我々にも同じようになさるはずだ。もし、我々もヨセフと同じように神を信じて立ち続けることを学んでいさえすれば。我々にも、ヨセフの時代にこの世を統治していた同じ神がおられるではないか。我々にも同じ全知全能の神と神の約束の言葉があるではないか。神は我々を見捨てることはしないという約束だ。しかし、次のことは覚えておいてほしい。神は、栄誉を与えようとする者を最初不名誉に陥れ、大いなる喜びで満たしたい者を最初悲しみと心の苦しみで満たすということだ。こうしたことを神は特に選ばれた者たちに対して行う。神が彼らを底深い所に沈めれば沈めるほど、彼らを無価値にすればするほど、それ以上に彼らを高い所に引き上げて栄光の座につけるのである。」
主日礼拝説教 2022年2月13日顕現節第六主日
本日の聖書日課は、福音書がルカ6章のイエス様が群衆に教えを宣べるところです。内容的にマタイ5章の山上の説教と同じです。誰が「幸いな」かについて教えます。マタイでは「幸いな人」についてだけですが、ルカでは「不幸な人」についても教えます。使徒書の日課は第一コリント15章のパウロの教えです。キリスト信仰者の中に復活なんかないと主張する人がいて、それに対してパウロが、いや復活はある、と反論するところです。旧約の日課エレミヤ17章は誰が呪われた者で誰が祝福された者かについて述べています。
これら3つは語られたり書かれたりした時代を見てもエレミヤからパウロまで500年以上の開きがあるものですが、何度も繰り返し読むと共通項が見えてきます。3つとも、キリスト信仰者にとって復活の視点を持ってこの世を生きることはとても大事であることを教えています。今日はそのことを見ていこうと思います。それで説教題は「キリスト信仰者よ、復活の視点を見失うな」になりました。
まず、ルカの日課を見てみますが、今申しましたように、マタイ5章のイエス様の山上の説教と同じ出来事を扱っています。しかし、内容が少し異なっています。4つの福音書の記述を見比べると同じ出来事なのに書き方が違っていることがよくあります。これはどう考えたら良いのでしょうか?以前にもお教えしましたが、簡単に復習します。次のようなことです。本日のマタイとルカの場合ですと、二人とも自分たちが入手した記録や資料を基にしています(それらは重複しているものもあれば、個別のものもあったでしょう)。特にマタイの場合はこれらの資料の他に直接自分の目で見、耳で聞いたこともあったでしょう。それに加えて自分が知らなかったこと見落としていたことについても資料が出てきたのです。さあ、それらをどうまとめるか?
福音書の書き手が手にした資料というのは、手にするまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そうした伝承の流れの中で、ひょっとしたら自分の観点で手短にしたりとか逆に解説を施して長くしたということが起こります。そうすると書かれたことは史実を正確に反映していないのではという疑いが起きるかもしれません。
しかし、ここで忘れてならない大事なことは、伝えたり書き留めたりした人は自分の観点で手短にしたり詳しくしたりしたわけですが、どんな観点に立ってそうしたかということです。伝えたり書き留めた人たちの観点はみんな共通しています。まず、イエス様というのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であり、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。そしてそのイエス様は死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。さらに、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めていったのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性には何の影響もありません。むしろ、いろんな記述があることで同じ出来事をいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあっても同じ信仰の観点で書かれていることを忘れず、それらを全部神の御言葉として扱い、総合して全体像を掴むことが大事です。
今日のルカの個所には、復活の視点がはっきり出ています。このことを見る前に「幸いな人」と言っている「幸い」とは何か、それは「幸せ」とどう違うのかについて触れておきます。「幸せ」はこの世的な良いもの、良いことと結びつきますが、「幸い」はこの世を超えたことに関係します。聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。終末論とよく言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正確でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちを構成員とします。そこは、黙示録で言われるように、神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような神の国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道に置かれて歩む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。
この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者の場合は、復活に至る道に置かれてそこを歩むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏していたことは満たされ、涙は全て拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。こうしたことがその通りになるというのは創造主の神の約束だ、だから今の境遇は「幸せ」でなくてもそれは陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われた快活な笑いを持つ自分が見えるのです。
もちろん、復活の日を待たなくともこの世の段階で自分の努力や他人の手助けまたは社会がうまく機能して貧しさや空腹や涙から脱することも出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ空腹、涙と同じ陽炎です。この世的な幸せや不運はみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。
「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。今裕福な人たち、満腹している人たち、笑っている人たちです。これらの人たちは今すでに満足を享受している、それなので将来飢えるようになり泣くようになると未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかのと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。
このように言うと、この世の段階で裕福になったりお腹一杯になったり笑ってはいけないみたいで、誰もイエス様の言うことなど聞きたくないでしょう。先ほど、この世で不運な境遇にあっても、またそこから運よく脱せられても、復活の「幸い」から見たら双方とも陽炎のようなものであると申しました。不運な境遇それ自体が「幸い」ではないのです。幸いとは、22節でも言われるように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにしていることが幸いなのです。それがあれば不運な境遇にあっても、またそこから脱せられた境遇でも幸いなのです。不幸な人たちにも同じことが当てはまります。裕福さ、お腹一杯、笑いそれ自体が人を「不幸」にして復活と神の国への迎え入れを不可能にしているのではないのです。裕福さ、お腹一杯、笑いの底に人を不幸にする何かがあって、それで裕福な人、お腹一杯の人、笑う人を不幸にするのです。底にあるものとは何でしょうか?
26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことに耳を貸さず、偽預言者を賞賛してその言うことに耳を傾けた時代がありました。人間にちやほやされて裕福だったり満腹だったり笑ったりするのが不幸なのです。人間にちやほやされる人と言うのは、神を無視して神以上に人間に信頼を置いて頼る人です。しかし、復活の日が来たら、お前たちは神なんか頼りにならないと言って無視していたんだから今さら私のもとに来る必要はない、と言われて復活に与れなくなってしまいます。ここで、神に信頼することと人間に信頼することという問題が出てきました。まさに本日の旧約の日課のテーマです。
エレミヤ17章5~10節は呪われる者と祝福される者の対比です。以前お教えしたことがありますが、聖書の中で「祝福」という言葉に出くわしたら、それは神が人間に御顔を向けて目を注いでくれて見守ってくれている状態だと思わないといけません。というのは、日本語の「祝福」とは、結婚式で新郎新婦をみんなで祝福しました、などと言うので、祝福はお祝いすることに関係すると考えられ、人間同士の事柄のように思われるからです。聖書の祝福は神から授かるもの、神を抜きにしては語れないものです。人間から授かるものではありません。これと正反対のものが「呪い」です。人間が神から顔をそむけられて背中も向けられてしまい、もう好き勝手にしなさいと見放されてしまう状態です。
エレミヤ17章では誰が祝福される者で誰が呪われる者かがはっきり言われます。呪われる者とは、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主から離れ去っている人です。逆に、主に信頼し、主がその人の拠りどころになっている人が祝福される者です。こう言うと、人間を頼ってはいけないのか、友人も頼ってはいけないのか、天涯孤独でいなければならないのかと困惑する人が出てくるでしょう。しかし、これも先ほど申したことと同じです。貧しさ空腹さ涙それ自体が復活の日の幸いを保証しない、するのはイエス様を救い主と信じる信仰でした。また、裕福お腹一杯笑いそれ自体が復活に与れない原因ではない。神を無視して神以上に人間に信頼するような裕福満腹笑いが原因でした。つまり、人間を頼ること自体が問題なのではなく、神を無視して神以上に人間を信頼することが問題なのです。それなので、人間にも頼るが神への信頼が土台にあってそうすると言う場合は、人間への頼りは陽炎のようなものです。それを透かして見れば神への信頼が本当の信頼としてあります。神への信頼が土台にあれば、人間に頼る時も、こういう頼り方はいけないとわかって見境のない頼り方はしなくなります。
神への信頼を土台にすると、どうして人間に頼ることが陽炎のように薄れるのかというと、9節と10節で明らかにされます。「人の心は狡猾で災難をもたらす。誰がそれを知り得ようか。」新共同訳では「とらえ難く病んでいる」ですが、ヘブライ語の辞書では「狡猾で災難をもたらす」もOKです。同じ節で誰も人間の心を知りえないと言っているのでこっちの訳がいいと思います。人間の心は狡猾で災難をもたらす、誰もそれをわからない、つかみどころがない、確かに日常生活の中で他人の力を借りることはあるが、完璧な他人など存在しない、それなのに完璧な神を無視して人間を完璧なように見て人間に信頼することは祝福の正反対になってしまうというのです。
そこで神は言われます。人間は人間の心を知ることは出来ないが、私は知ることが出来る、と。10節の原文を直訳すると「私は人間の心の中を探知する主である、人間の奥深い部分もテストする主である」です。神は私たち人間の造り主で髪の毛の数まで知っておられる方なので、探知やテストなど当然出来ます。だからこそ「それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」ことができ、神の下す判断はどんな優秀な裁判官もまねできない絶対正しい判断になるのです。「それぞれの道」の「道」というのは直訳でして、「生き方」という意味があります。神はそれぞれの生き方、業がどんな実を結んだかをことごとく見極めて復活の日に各々の行く先を決められるのです。いろんな生き方、いろんな実がありますが、イエス様を救い主と信じる信仰に生きたかどうかが決定打になることは言うまでもありません。
祝福される者が水辺の木に例えられていることについてひと言。この木は、熱波が来ようが来まいが葉は青々とし、干ばつがあろうがなかろうが関係なく実を実らせ続ける木です。そこで、自分は洗礼を受けてイエス様を救い主と信じているのに現実の姿はそんな状態からはほど遠い、私は葉が枯れて実も結ばない木のようで、自分はとても祝福されたなどと思えないと言う人がいるかもしれません。しかし、先ほど申しましたように、今の不運な境遇はこの世の段階で改善される可能性はあります。しかし、改善されたにしろ、されないにしろ不運な境遇、幸運な境遇それ自体が「幸い」ではありません。神が復活させて下さるので、それを信じてその日に向かって進んでいることが幸いなのです。その時、不運な境遇も改善された境遇も陽炎のようになって、それらを透かして見ると、復活の日の栄光の体を纏う自分が見えるのです。それと同じことです。この世では実を結ばない木であろうが結ぶようになった木であろうが、それらを透かして見ると、復活の日に永遠に青葉が茂り実をたわわに結ぶ木のようになった自分が見えるのです。これが復活の視点です。
第一コリント15章は、聖書の中で復活の視点が最も集中的に現れる箇所です。ここで使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返して言います。そこで注意を引くのは、ギリシャ語原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)を用いていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌がれるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形は英語と結構違うので英語のことは忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の復活を繰り返して言う時、過去形(もちろんηγερθη、アオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのです。ここが理解の鍵になります。今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書を見て気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですみます)。
ギリシャ語の現在完了形は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているという意味です。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も効力を持って表面に現れているような感じです。パウロがイエス様の復活をこのように現在も続いているように言ったのには二つのことが考えられます。一つは、イエス様が復活されて今も生きておられることを意識したことです。使徒言行録にあるように、復活されたイエス様は40日間弟子たちと共に歩んだ後で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白で唱えられるように、父なるみ神の右に座して再臨の日まで信仰者を天から守り導き、その日が来たら再臨して眠りについている信仰者を目覚めさせて神の国に迎え入れます。パウロがイエス様の復活を現在も続いているように言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意識したことが考えられます。
もう一つのことが考えられます。これは私たちが復活の視点を持てるかどうかに関わる大事なことです。それは、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、キリスト信仰に生きる私たちみんなの将来の復活を確実にした出来事であるということをパウロは言い表しているのです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、今を生きる私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今も表にあって私たちを引っ張る力であるということです。
そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまってしまうと言っていることに注目します。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪の赦しを頂いた者です。赦しを頂いた後は自分の内に残る罪を自覚して、自覚と告白の度にゴルゴタの十字架のもとに立ち返って神から赦しがあることを確認して頂き、また前に進む、これを繰り返しながら残る罪を圧し潰していきます。もうそれをしなくても済むようになるのが復活です。その日もう自分には圧し潰す罪はありません。神の栄光に輝く復活の体を纏う者に罪などないからです。だから、復活を信じる者の内には罪が残っても罪にはその人が復活に向かう足取りを妨げる力はありません。それで復活を信じる人は内に罪が残っていても罪の中には留っていないのです。
ところが復活を信じない人は様子が違います。その人は罪のない復活の体を目指すことはありません。復活を信じないのですから。そうすると、罪の自覚があっても罪を圧し潰すプロセスが起きません。復活の体を目指さないのですから。それでパウロは復活を信じない人は罪の中に留まると言うのです。罪を圧し潰すプロセスが起きないというのは、罪の赦しの確認が得られず前に進めないということです。そうなると、イエス様の十字架から罪の赦しを得られないことになってしまいます。これは恐るべきことです。十字架を持つキリスト信仰者が復活を信じないばかりに十字架から罪の赦しを得られなくなってしまうのです。この状態は、十字架を持たない非キリスト信仰者よりも悪いと言わざるを得ません。パウロが19節で言うこと、復活を信じない人はキリストに希望を置くと言ってもそれはこの世に関係することに限られてしまい、その人は全ての人間の中で最も惨めだと言うのは誠にその通りです。
最後に20節をみます。キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」になったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げます。それが初穂と呼ばれます。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神への捧げものの意味もありますが、穀物だけではありません。動物もあります。それで「初穂」という訳は狭すぎます。ところで、イエス様は十字架の上で私たちのために私たちの罪を償って私たちを罪から贖い出すための犠牲となって神に捧げらました。まさに神への捧げものです。しかし、捧げものを意味する「初穂」という言葉を用いると、それと眠りについた人たちがどう関係するのかがはっきりしません。
そこで、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあることに注目します。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになります。罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。それで「初穂」を捧げものでなく先駆者の意味で捉えると復活を詩のように描写することが出来ます。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。(今は冬ですが)秋の澄み渡った空の下、一番最初に穂になったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。兄弟姉妹の皆さん、復活の視点と言われてピンと来なくなったら、この秋の田園風景を思い描いて下さい。
主日礼拝説教 2022年2月6日顕現節第五主日
説教をYouTubeで見る。
本日の福音書の個所は、イエス様が漁師のペトロに「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言って、ペトロだけでなく他の漁師もイエス様に付き従っていくところです。これと同じ出来事がマルコ福音書とマタイ福音書では違う書き方をされています。マルコとマタイでは、大量の魚がかかったことやペトロが罪を告白することは書かれていません。ペトロと兄弟のアンデレが魚を捕っていた時にイエス様が声をかけて従って行った、その後すぐヤコブとヨハネも続いて行った、と簡潔です。4人の漁師がイエス様につき従っていくきっかけに大量の魚がかかったことがあるのはルカだけです。どうしてそういう違いがでたのでしょうか?マルコとマタイが福音書を書いた時、把握していたのは4人がイエス様につき従ったという結果だけだった、ルカは結果に至るまでに何があったかも把握していたのでそれを書いたということでしょう。いずれにしても3つの福音書はみな、人間を捕る漁師にするというイエス様の言葉と4人が生業を捨てて付き従ったということは一緒です。
「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?なんだか熱心な宗教団体の勧誘員みたいに聞こえてきます。人を獲物扱いする宗教なんか誰も近づきたいと思わないでしょう。しかし、ペトロや他の弟子たちは実際そういう勧誘員だったでしょうか?イエス様が言う「人間を捕る漁師」とは何か考えてみましょう。
3つの福音書では、ペトロたちが「人間を捕る漁師になる」と言われてイエス様につき従っていきますが、ルカ福音書ではまず大量の魚の奇跡があって、ペトロの罪の告白とイエス様のこの言葉が続いて、それからつき従うという流れです。それでこの奇跡について少し考えてみます。
舟も沈まんばかりの大量の魚が網にかかりました。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまいます。ペトロはなぜ罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが告白の原因になっています。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?
イエス様は湖の岸辺で群衆に教えていました。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から次のような内容だったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないこと、人間は神の意志を正確にわかって悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、こうしたことが考えられます。
岸辺では大勢の群衆がイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。ちょうどその時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっていました。漁師たちが網を洗っているところでした。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教えました。ひと通り教えた後でペトロに、もう少し沖合まで漕いで網を投げるよう命じました。
ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと言います。ペテロの応答にはイエス様の指示に対する懐疑が窺われます。何しろペトロはプロの漁師です。ナザレなんて山の上の町から来た者に漁のことがわかるか、そういう思いがあったかもしれません。しかし、この方は今や律法学者を超える旧約聖書の教師として名をとどろかせている方なのだ。それでペトロは、あなたのお言葉ですからやってみましょう、と言う通りにしました。。
半信半疑で網を投げたところ大変なことが起きました。網が破れんばかりの夥しい量の魚がかかったのです。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、二そうとも沈んでしまいかねない位の魚の量で舟は溢れかえりました。まさに想定外の事が起きてペトロは恐れを抱いて叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何を恐れたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白になったのです。
それでは、どうしてペトロは神に罪の告白をしたのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことを見たからです。神の力が働いたのを見たということは、神が自分の間近にいたということです。
本日の旧約の日課イザヤ書6章では、神聖な神を間近にすると自分の内に神の意思に反する罪があるという自覚が呼び覚まされること、神聖さというのは本質上、罪の汚れに対して容赦しないものであること、それで神を間近にしたら自分は焼き尽くされるか消滅するという恐怖を抱いてしまうこと、そうしたことがよく描かれています。ペトロが抱いた恐れも同じでした。それでイエス様に、お願いだから私から離れて下さい、と叫んでしまったのです。
ここで預言者イザヤに起こったことを見てみましょう。イエス様の時代から700年以上も昔のことでした。ユダヤ民族の南北の王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する道を進んでいました。その時、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の中に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)。」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まさに神聖な神を目の前にして起こる罪の自覚の悲痛な叫びです。神聖な神と罪の汚れを持つ人間の絶望的な隔たりが一気に浮かび上がる瞬間です。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう炎の力があります。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇に押し当てられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。
このように、人間が真の神を間近に見た場合、神聖さと全く逆の汚れある自分を思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方です。それで、神を間近に見てしまった時、自分を神の意思に照らし合わせて見る人が恐れを抱くのは自然な反応です。他方で、神の意思を知らない人や知っていても自分には関係ないと言って照らし合わせなんかしない人は恐れなど抱きません。こういうことを言うと、私は恐れなんか抱いて生きるのは嫌だから、そんな神はいりません、と言う人も出てくるかもしれません。
しかしながら、キリスト信仰は神への恐れで終わりません。神への恐れがあっても、それがすかさず神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰なのです。罪の自覚と神への恐れがあるからこそ神への愛と生きる希望が出てくるのです。罪の自覚と神への恐れがなかったら生きる希望も神への愛も出てこないというのがキリスト信仰なのです。まだピンとこないでしょうか?それなら、こう言ったらどうでしょう。罪の自覚と神への恐れが重くて下に沈めば沈むほどバネの反発力が強まってより高く生きる希望と神への愛に飛び立っていけるのだと。そのバネがキリスト信仰だと言うことができます。そのような信仰がなければ、恐れと絶望の重みに沈み込んでしまうだけか、または、そんな馬鹿々々しいゲームに付き合ってられないと言って離脱するか、どちらかです。しかし、キリスト信仰者は、それは馬鹿々々しいどころか、本当の生きる希望はここにあるんだ、とわかってそれを見つけるのです。また、神への愛を強く意識できるから、自分をヘリ下させることができて、高ぶったり苛立つ必要はなくなり、神にお任せして隣人に接することができるのです。
罪の自覚と神への恐れが神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰です。そうすると、人間を捕る漁師というのは、まさに罪と恐れの底に落ちてしまった人を愛と希望の岸辺に引き上げてくれる者ということになります。それでは、ペトロや弟子たちがどのようにしてそうしたかを見てみましょう。
イエス様につき従ったペトロや弟子たちは熱心な宗教団体の勧誘員みたいに人々をイエス様のもとに引き連れていったでしょうか?人々を集めたのはむしろイエス様自身ではなかったでしょうか?弟子たちが伝道のために町々に派遣されたことがあります。ただ、その時の派遣先はユダヤ民族に限られて、活動内容も神の国が近づいたと告げることと、その近づきが本当であるとわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちに伝道された町々の人々がぞろぞろイエス様のもとにやってきたという感じはしません。どちらかと言えば、もうすぐしたら起こる十字架と復活の出来事に備えて心の準備をさせる活動だったのではないかと思われます。
ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起きると様子が変わります。ペトロと弟子たちは、自分たちの目で見て耳で聞いたことに基づけばあの方は本当に旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と公けに証言し始めたのです。このような弟子たちが見聞きしたことと旧約聖書に基づく証言を受け入れてイエス様をメシア、神の子と信じる人たちがどんどん出てきました。彼らは一緒に神を賛美して祈り、お互い持ち物を分け合う位に支え合う共同体を形成します。この使徒たちの教えや共同体の生活態度を見てそれに加わる人たちがどんどん増えていきました。それが瞬く間のうちにユダヤ民族の境界線を超えて地中海世界へと広がっていったのです。
こうして見ると、イエス様がまだ地上におられた時のペトロたちの任務は、イエス様が教えたこと行ったこと、また彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったということが言えます。そしてイエス様が天の父なるみ神のもとに帰られた後は今度は、自分たちが見聞きしたことと旧約聖書をつき合わせたら見事に整合性がとれて、あの方こそ約束のメシア救世主であるとわかって証言し始めたのです。それをユダヤ教社会の指導層やローマ帝国の官憲からやめろと脅しをかけられ妨害されても怯まないで証言していったのです。そういう、人々に伝えないではいられないという駆り立てられるような思いを持つのが「人間を捕る漁師」なのでしょう。
権力者に脅されても使徒たちが怯まずに証言することが出来たのはどうしてでしょうか?一つには直接の目撃者としての責任があります。あれだけ明白な事実だったのになかったなどとても言えない、真実は曲げられないという心です。しかしながら、責任感だけでは、命はないぞと脅されたり、または、出世に響くぞ、家族が路頭に迷うぞ、もっと大人になれ、などと言われたら心は揺れ動いてしまうでしょう。しかし、使徒たちの場合は責任感を強固なものにすることがありました。それは、彼らの証言する真実が天地創造の神、私たち人間を造られた神に関係する真実だったということです。それなので、自分は神に造られた者という自覚があると、神に関係する真実は取り下げられないのです。それで、出世なんかどうでもいい、お仕着せの大人なんかに自分はならない、命だって復活の日の永遠の命がある、それを手放すようなことはしたくない、そういう心になるのです。家族を路頭に、というのは痛いところを突かれることですが、でもルターの讃美歌に「わが命も、わが妻子も取らばとりね、神の国はなおわれのものぞ」と歌われているように、そこに行きついてしまうのです。
神に関係する真実を曲げない引き下げないという生き方になると、今度は神に関係しない日常的な真実に関しても責任感が強くなります。というのは、神に関係する真実を守ろうという生き方になると、神の意思である十戒が心に刻み付けられるからです。その中に「汝、偽証するなかれ」があります。これも神の意思として心に刻み付けられます。それで日常的な真実に関しても責任感が強くなるのです。私たちの日本も創造主の神の意思に照らして襟を正すようにならないと、情けない忖度と改ざんはいつまでも繰り返されるでしょう。
使徒たちが曲げられない引き下げられないとした神に関係する真実とは何だったでしょうか?それは以下のことです。あの十字架にかけられて死なれた方は三日目に神の想像を絶する力で死から復活させられた、それを自分たちはこの目で見たのだ。それで死からの復活というのは旧約聖書の単なる文章上の事ではなく本当に起こることなのだ。復活は起こるということをあの方自らも教えていたではないか。あの方が復活されたことで死を超える永遠の命が本当にあることがわかった。自分たちもこの世からの死で全てが終了してしまうのではない。将来、復活の日に一緒に復活させられて一緒に神の御許に迎え入れられるのだ。ここに我々キリスト信仰者の希望がある。それでは、どうしたら自分たちは復活させてもらえるのか?それは、人間を永遠の命から締め出している原因である罪、神の意思に反しようとする罪の問題をあの方が私たちに代わって解決して下さったことによる。あの方の痛ましい十字架の死は私たち人間の罪の神罰を代わりに受けて下さった贖罪の生贄の死であったのだ。神はそのようにして私たち人間の罪の問題を解決して下さった。そしてそのことは旧約聖書に預言されていて、それがゴルゴタの丘の十字架で歴史の中で成就したのだ。
創造主の神は私たち人間が罪のために神のもとに戻れなくなってしまった状態を解消するために、ひとり子を贈って私たちの力では出来ないことを代わりに成し遂げて下さった。あとは、これらのことは全て本当に現実に起こったと受け入れる。そしてそれらは旧約聖書で預言されていたことの実現として起こったとわかって、それで神を慈愛に満ちた造り主であると信じ、神罰を受けて下さったひとり子イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ける。そうすれば、神がひとり子を用いて成就した罪の償いと罪からの贖いがそのまま自分に効力を発する。その時、自分は復活に至る道に置かれてその道を歩み始める。これからも明らかなように、神は復活の日に私たちを御国に迎え入れることを信仰と洗礼の目的に定めている。それなので、私たちがその道を進むのをいつも何があっても守り導いて下さる。
時として、私たちの目は私たちの内にある罪に向く。罪から贖われた私たちに対して罪はもはや私たちを支配したり死に繋ぎとめる力を失っている。それにもかかわらず罪自体は消えず、隙を狙っては神との結びつきのない状態に引き戻そうとする。しかし、信仰の目を持つ信仰者はすぐ目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪はあそこで償われたので今、内にある罪は自分を死に繋ぎとめる力はないとわかり、感謝と畏れ多い気持ちを持って再び復活に至る道を進む。その時、私たちをこのように愛してくれる神を自分も愛そうという心を新たにする。神がそのように愛してくれる以上は私たちも隣人に対して同じようにしようという心を新たにする。この繰り返しがこの世から別れる時までずっと続く。
新しい世が到来して私たちが神の御前に立たされる時、神は私たちが前の世で罪の赦しに留まってひとり子の死を無駄にしないように生きていたことを義と見て下さいます。そして、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せて御国に永遠に迎え入れて下さいます。それなので私たちもこの世から別れる時は、このようになるのだという使徒たちの教えと証言を思い出して安心して神を信頼して自分の全てを神に委ねて旅立つことができます。このように死を超える安心と信頼があるので、罪の自覚と神への恐れはいつも神への愛と生きる希望に転化します。そして、死から復活されたイエス様は旧約に約束されたメシア救世主であるという真実はもう曲げられないのです。
主日礼拝説教 2022年1月30日顕現節第四主日
本日の説教は先週の続きです。福音書の個所は、イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読と説き明かしを担当した時の出来事でした。イエス様はイザヤ書61章の最初の部分を朗読した時、「目の見えない人がみえるようになる」という42章7節の文を挿入しました。自分が人間の信仰の目を開く者であることを知らせるためにそうしたのです。信仰の目とは、天地創造の神の意思が見える目です。神が万物と私たち人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えた方であること。その神が罪のゆえに自分との結びつきを失ってしまった人間がまた結びつきを持てるようにとひとり子イエス様を贈って下さったこと。そのイエス様が十字架の上で自分を犠牲にして神と人間の結びつきを取り戻して下さったこと。これらのことが見えて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると神との結びつきを持ててこの世と次に到来する世の二つの世を生きられるようになるのです。
とは言っても、十字架と復活の出来事が起きる前ではこのような信仰の目を人々に開くことはなかなか出来ません。そのかわりイエス様は、盲目の人たちの肉眼の目を開ける奇跡の業を行いました。旧約聖書に見えない人の目が見えるようになると言われているのは信仰の目のことですが、イエス様は肉眼の目を開けることで、人々に自分は信仰の目を開ける力があることを比喩的に知らしめたのです。人々も、旧約聖書に言われる目の開きは肉眼のことではなく信仰の目であることを十字架と復活の出来事で初めてわかるようになります。
このようにイエス様はナザレの会堂で自分の使命を明らかにするように聖書を朗読したのです。そこまでが先週の内容でした。これから続きを見ていきましょう。何が起きたでしょうか?
朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。席というのは説教者の座る所です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この言葉の後にイエス様の説き明かしが続くのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。ただ22節をみると、会衆みんながイエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、彼が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したと宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。
ところが、ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。この訳では、どうしてこの後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという転回になってしまったのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の説き明かしを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。会衆はイエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いてはいるが、あれはヨセフの子ではないか、大工ではないか、などと言い始めたのです。この方は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなは知っている、大工じゃないか、ということが真実を遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様が肉眼に映る像を超えてメシアに映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。
イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡の業でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、彼らが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということです。さらに、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、会衆はそう言いたくて仕方がないとイエス様は見破ります。
しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことを控えます。(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の御言葉とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異邦人でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異邦人に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じと言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った北王国と同じ立場にある、というのです。
これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、ゴルゴタの十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。
イエス様はなぜナザレの人たちを激怒させるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導いてあげてもよかったのではないでしょうか?先ほど申しましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験することを出発点にして信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります(同6章26節)。
信仰とは、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことを真理であると信じられることです。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るということもあります。しかし、注意しなければいけないのは、信仰が肉眼に頼るものにならないことです。肉眼に頼るものになってしまうと、奇跡の目撃や体験がなくなったら信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。
それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指さなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反する罪があるなどと認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘したのです。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。そうせずに、自分たちをかつて神の罰として滅亡した王国と同一視するとは何事か、といきり立ってしまったのです。
以上から明らかなように、信仰の目を持てて、その目でイエス様を見ることができるかどうかは、自分に神の意思に反する罪があることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるでしょう。しかし、自分を神の意志に照らし合わせて見るというのは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪までを問うものです。人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を内に宿していることの表われなのです。
しかしながら、父なるみ神は、人間がこの世の人生を終えることになっても、復活の日に目覚めさせて造り主である自分の許に戻れるようにしてあげよう、そしてその前のこの世の人生の段階では復活に至る道を守りのうちに歩むことが出来るようにしてあげよう、ということでひとり子をこの世に贈ったのです。それで、罪の神罰を全て彼に身代わりに受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架で起きたのです。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、その瞬間、イエス様の身代わりの罰受けは本当にその人に起きたことになるのです。この時、その人は信仰の目を持っています。
ところで、人間は信仰の目を持つと今度は、かえって自分の内に神の意思の反しようとする罪があるのがよく見えてきます。その時内なる信仰の戦いが始まります。キリスト信仰者が内にある罪に気づいて自分に失望したり神を恐れたりすると悪魔がどす黒い勝どき声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれを全く意に介せず、内なる罪を透かすようにして目を一直線にゴルゴタの丘の十字架に向かって注ぎます。そこにかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時、私たちは息をのみ十字架の前に首を垂れます。同時に悪魔は失神して倒れどす黒い声は止み、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように果てしなく澄んでいて冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが神の意思に沿うように生きよういう心、神を全身全霊で愛そうとする心と隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。
以上、信仰の目を持つと自分の罪を見ることができるようになるが、それが出来るから逆に神の意思に沿うように生きようという心が強まっていくことを見ました。これと同じことが本日の使徒書の日課、第一コリント13章でも言われているので、終わりにそのことを見ておこうと思います。
第一コリント13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖句の一つです。ここで言われる、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、以上は、夫婦間だけでなく一般的な人間関係の理想です。これら一つ一つに照らし合わせてみたら、今の世はなんと愛から遠ざかってしまっているかと思わされるのではないでしょうか?
ここで、愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、というのはどういうことか見てみましょう。「全てを信じる」とは、まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語(παντα)は「全てにおいて」という意味も持ち、ここはそれで訳すできでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」とは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」も、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされても大丈夫と見なされて神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは、どんなことが起きようとも、忍耐し高ぶらない嫉妬しない等々の愛を持つということです。こうして見ると、愛を持てるかどうかは、全てにおいて信じられるか希望を失わないかどうかに関わってくることが見えてきます。
愛とはそのようなものだと述べた後でパウロは、8節から永遠の視点で語ります。今の世が終わって死者の復活が起こり、今の天と地に替わる新しい天と地が創造されて神の御国が現れる。その時、預言や異言という今の世に現れる聖霊の賜物はなくなってしまう。神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは意味を失ってなくなってしまうと言うのです。
ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違い、最初から完全で全体的なものだったからです。しかしながら、それは神の側で完全かつ全体的なもので、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられる時、自分も神と同じように愛を完全かつ全体的に持てていることを目にするのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ。これら全てをかの日には持てているのです。かつてはこれらはいつも部分的、一時的にしか現れて来ず、現れては消えての繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。神と同じようにです。自分が愛そのものになってしまっていると言ってもいいでしょう。
かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはどういうことでしょうか?当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった、愛は自分にはっきりと明瞭に現れるようになった。それでパウロは復活の日、自分は愛を体現し愛そのものになっていることを次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知る」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。
ここで一つわかりにくいことがあります。「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。
「神がこの世で私のことをはっきり知っていたのと同じように、この私も将来復活の日の神の御国で自分が愛を体現していることをはっきり知るようになる。」
これは変です。私は前の世では愛を体現していませんでした。体現しているのは今、神の御国でです。なのに神は、私が前の世でも神の御国と同じように愛を体現していたと見て下さったと言うのです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。
「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたは本当に前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さっていたのですか?私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしました。高ぶったり傲慢になったりしました。」
そこで神は答えられます。
「わが子よ。お前は洗礼を受けてイエスの神聖な白い衣を纏った。それからはそれを取り去らないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。お前の内なる罪は純白の衣を被せられて日々圧搾され力を失っていくのを見て知っていた。お前がイエスを救い主と信じる信仰に生き、聖餐のパンと葡萄酒で衣を離さないように握りしめる力を保っていたのを見て知っていた。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者であると前の世で知っていた、と言ったのだ。」
パウロはフィリピ1章6節で次にように述べています。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」
兄弟姉妹の皆さん、この確信は真理です。パウロの言う通りだと思う人は信仰の目を持っています!
後注(ギリシャ語がわかる人にです)
・πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。
・καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。
主日礼拝説教 2022年1月23日顕現節第三主日
本日の福音書の日課は実を言うと区切りが良くないです。ルカ4章は、14節から32節までがひとくくりの出来事です。それなのに今日の個所は前半の21節までです。取りあえずここで出来事の全容をお話しします。イエス様が育ち故郷のナザレを訪れてユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読を担当する。読み終わった後で、聖書に書かれている預言は今日その通りになった、と言う。さらに神の恵みについて教え始め、会衆はそれに驚く。しかし、会衆の中に、あれはヨセフの子ではないか、と言う者もいて、その途端、イエス様は何か会衆の気に障ることを言い始める。会衆は激怒してしまい、イエス様を崖から突き落とそうとする。そういう出来事です。それにしても会衆の急変ぶりには驚かされます。一体イエス様は何をそんなに怒らせることを言ったのでしょうか?お前たちは私が他の町で行う奇跡の業をここでもしろと言うだろう、しかし、旧約聖書の預言者エリアとエリシャが奇跡の業を異邦人にしてあげてユダヤ人にしなかったのに倣い、私もお前たちにはしないことにする、などと言います。かなり挑発的です。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」などと自分で言いますが、自分でそうなるように仕向けたのではないか?イエス様はナザレの人たちになぜこんなに手厳しいのでしょうか?
実はこの出来事は、私たちがこの世を生きる時に何を身につけなければならないかということについて教えています。それを身につけないとどうなってしまうか、どうしたらそれを身につけられるかを教えているのです。その身につけるものとは何か?結論を先に言うと、肉眼の目とは異なる「信仰の目」です。私たちは肉眼の目を持っています。その目が働かないと生活に支障をきたします。信仰の目は、この世の荒波を乗り越えていくのに必要な目です。肉眼の目だけだと荒波はよく見えますが、それだけだと怖気づいてしまいます。信仰の目があると、怖いという視点を超える視点が与えられます。それでは、信仰の目とはどんな目で、どうしたら身につけられるのか、そのことを今回と次回の説教でお教えしたく思います。事は旧約聖書にまで広がるスケールの大きなものになります。二回にわたりますが、始めてまいりましょう。
イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神から聖霊が降って特別な力が備えられました。特別な力とは、神の人間救済計画を実行に移す力です。その後すぐユダの荒野にて40日間、悪魔から試練を受けます。イエス様はこれを全て旧約聖書の神の御言葉を盾としてはねのけます。この後、舞台はガリラヤ地方に移ります。イエス様は各地の会堂を回って、神の国が近づいた、人間の救いがまもなく実現するという福音を宣べ伝えます。そして神の国が架空のものではなく実在するものであることを示すために多くの奇跡の業を行います。イエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりす。イエス様が幼少の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどその時でした。イエス様はこれまでそうしてきたように町の会堂に入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。
ここで、当時の会堂シナゴーグの礼拝について本日の出来事がよりよくわかるために少し背景説明をします。礼拝ではヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読し、その後でアラム語で説き明かしすることが行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、ユダヤ民族はもともとはヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉ももともとはヘブライ語で記述されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚で民族の主だった人たちは異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、彼らはだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。
さて、紀元前6世紀の終りペルシャ帝国がバビロン帝国を打ち倒して古代オリエント世界の覇者となります。ユダヤ人はペルシャ帝国の計らいで祖国帰還を許されます。彼らは廃墟となったエルサレムの町と神殿の再建にとりかかります。その当時のユダヤ人の苦難と信仰の試練については、旧約聖書のエズラ記とネヘミア記に記されています。先ほど朗読された旧約の日課ネヘミア8章では祭司エズラが民にモーセの律法を朗読する場面がありました。そこでレヴィ族の人たちが「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読した後でアラム語に翻訳して解説したということです。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖かつ最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代にも続いていたのです。
ナザレの会堂の礼拝に戻りましょう。そこの会堂長は、その日の聖書の朗読と説き明かしを誰にお願いするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は会衆で一杯だったでしょう。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる方式で作った本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形式の書物です。
イエス様は立ってヘブライ語で朗読します。神に油注がれた者、これは文字通りメシアです。メシアとは油注がれた者という意味を持つからです。そのメシアが神の霊を受けて、何かに囚われた状態にある人に解放を告げ知らせる。心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人に見えるようになるという喜びの知らせを伝える。神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる。そういう内容の個所を朗読しました。
これは、旧約聖書を知っている人ならイザヤ書のあそこだとわかる個所です。少し雑学的なことですが、聖書の書物は初めは章立ても節わけもありませんでした。ところどころ段落分けや余白はありますが、基本的に文章はだらだらと続くものでした。章立て節わけが施されるのはずっと後世になってからです。それなので、シナゴーグの礼拝では、私たちの礼拝のように、本日の日課は何々書の何章何節から何節までです、と言うことはしませんでした、出来ませんでした。しかし、旧約聖書をよく知っている人なら、イエス様が読んだところを聞いて、あれはイザヤの終わりの方だとわかったでしょう。私たちならイザヤ書61章1節から2節までと言うでしょう。ところが、よく見るとイエス様の朗読はイザヤ書の当該箇所と少し違っています。イエス様の朗読は正確ではないのです。ヘブライ語の原文を見ると、そこには「目の見えない人が見えるようになる」というのはありません。別に原文を見なくとも、日本語訳のイザヤ書61章を見れば誰でもわかります。実は、「目の見えない人が見えるようになる」というのはイザヤ書の42章7節にあります。とすると、イエス様は朗読している時に別の章の個所を何気なく挿入したのでしょうか?
話をさらに複雑にすることがあります。それは、イザヤ書のギリシャ語訳を見ると、61章に問題の「目の見えない人が見えるようになる」というのが入っているのです(1節)。ここでなぜ突然、イザヤ書のギリシャ語訳なんかが出てくるのかと言うと、旧約聖書は先ほども申しましたようにもともとはヘブライ語で書かれていました(一部はアラム語でも書かれています)。この旧約聖書がイエス様の時代の2、300年位前に大々的にギリシャ語に翻訳されたのです。なぜかと言うと、先ほど触れたペルシャ帝国が今度は紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国に滅ぼされてしまい、地中海世界の東半分がギリシャ語化していったからです。ギリシャ語を話すユダヤ人のためにギリシャ語の旧約聖書が必要になったのです。
それでは、ヘブライ語の聖書を読んだイエス様がまるでギリシャ語訳聖書に倣って「見えない人の目が見える」と言ったのはどうしてなのでしょうか?次のように考える人もいるでしょう。ルカ福音書を書いた「ルカ」はギリシャ語で書いているわけだから、ルカはイザヤ書もヘブライ語原文ではなくギリシャ語訳の方を念頭に置いた、それでイエス様が朗読したヘブライ語の文章は脇にやられてギリシャ語訳にある「目の見えない人が見えるようになる」を入れてしまったのだと。しかし、そう考えると、ルカはイエス様が言っていないことを言ったことにしてしまったことになります。皆さんは、ルカが福音書の冒頭で何と言っていたか覚えていらっしゃいますか?この福音書は信頼できる目撃者の証言を集めて纏めたものだ、と言っています。とすると、ナザレの会堂の出来事も、目撃者、間違いなく弟子たちでしょう、彼らが証言したことが土台にあります。そこで考えられるのは、イエス様はイザヤ書61章の朗読の際に自分で42章7節を挿入した、または、次のようにも考えられます。イエス様は、朗読の後の説き明かしで「目の見えない人が見えるようになる」ということを述べたのだが、目撃者の方で朗読と説き明かしを混ぜ合わせたものをルカに伝えてしまったということです。
イエス様が挿入したにしても、または説き明かしたの時に言ったにしても、これは本当にイエス様が言ったのだ、と言えるためには、彼には「目の見えない人が見えるようになる」ことにこだわりがあったと言えなければなりません。実を言うと、イエス様にはそれがあったのです。皆さんも、イエス様が目の見えない人の目が見えるようにする奇跡を何度も行ったことは覚えていらっしゃるでしょう。イエス様にとって目を見えるようにするというのは活動の中で大事なことでした。このことを預言者イザヤの時代から旧約聖書とユダヤ民族の歴史を貫くようにしてある一つの問題に照らし合わせてみると、目を見えるようにする奇跡の意味が明らかになってきます。
イザヤ書6章を見ると、神の意志に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が神からの罰として心が一層頑なにされて目も見えないようにされる、そういう罰が言い渡されます。これは肉眼の目を塞ぐということではなく、霊的な目、信仰の目が塞がれてしまうということです。神の意志がますます見えなくなって滅びの道をまっしぐらに進んでしまうという罰です。国が滅んでしまった後に今度は目が開かれて神の意志がわかる、そういう「残りの者」が現れるという預言も一緒にあります。さて、イスラエルの民は果たして信仰の目が開かれるようになったでしょうか?イザヤの時代にアッシリア帝国の大軍の攻撃から奇跡的に救われたエルサレムがその「残りの者」だったか?答えは否でした。ユダの王国はその後も罪と滅びの道を進んでしまい、最後はバビロン捕囚に至ってしまったからです。それでは、バビロン捕囚から解放されて祖国帰還できた者たちが目が開かれた「残りの者」になったのか?これも否でした。イザヤ書の終わりの方にある63章17節を見ると、祖国帰還を果たしても神が依然として民の心を頑なな状態に留めていることを嘆くところがあります。そういうわけで、イエス様の時代にもイスラエルの民はまだ目が開かれていない状態にある、それをこれから開くようにするというのが神の意図だったのです。
この背景がわかると、イエス様が信仰の目を開くことを重視したことがよくわかります。奇跡の業で肉眼の目を見えるようにしたのは、そういう目に見える具体的な業を通して抽象的なことを理解できない人たちをわからせる手っ取り早い方法だったからでした。私は復活の日に死者を目覚めさせることが出来る、といくら口で言ってもわかってもらえないから、死んだヤイロの娘もラザロも「これは眠っているだけだ」と言って生き返らせました。それと同じことです。私は罪を赦す権限があると言っても、そんなの口先だけだと騒ぎ立てるから、それならこれでどうだ、と全身麻痺の人を歩けるようにしたのも同じです。このように具体的な見える業を通してイエス様は信仰の目を開ける力があることを示しました。そして人間の信仰の目が大々的に開かれる出来事を後で起こしました。言うまでもなく十字架の死と死からの復活の出来事です。イエス様の十字架の死とは、人間が神から神罰を受けて罪と一緒に滅んでしまわないようにと人間に代わって人間の罪を償って人間を罪の滅びの力から切り離す業でした。そしてイエス様の死からの復活とは、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開く業でした。このためにイエス様の十字架と復活の業はユダヤ民族の信仰の目を開けるためだけのものでなく、人間全ての信仰の目を開ける業だったのです。それが神の人間救済計画だったのです。信仰の目を開けられた人とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いと罪からの切り離しを手にした人です。そして、復活と永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む人です。
そのように人間の信仰の目を開くためにこの世に贈られたイエス様ですから、会堂の礼拝で「見えない人の目が見えるようになる」ことをイザヤ書61章のメシア預言に結びつけて述べても全然おかしくないわけです。
朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。説教者の座る席です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」これを言った後にイエス様の説き明かしが続くのですが、その内容についてはルカ福音書では記されていません。22節をみると、会衆みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあります。それで、イエス様が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、説き明かしの冒頭でイザヤ書の預言が実現したと宣言した時、イエス様は、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。その後で会堂の人たちが怒り狂うようなことが起きてイエス様を崖から突き落とそうとします。一体何が起こったのか、ナザレの人たちにどんな問題があったのか、同じ問題は私たちにもあるのか、どうしたらそれを解決できるかは次回にお話ししましょう。
終わりに、信仰の目を開かれたキリスト信仰者たちはお互いどういう関係にあるかということが本日の使徒書の日課、第一コリント12章にあるのでそれを見ておきたいと思います。パウロの教えです。パウロは、キリスト信仰者というのは、体が多くの部分から成り立っているのと同じように、キリストの体という一つの体の部分部分なのだと教えます。それで信仰者はお互いを煙たがったりせず大切な仲間として助け合いなさいと言うのですが、道徳論のように受け止める人もいるかもしれません。また、キリスト信仰者の中には、信仰とは自分と神との関係だから、と言って、信仰者同士の関係をあまり深く考えない人もいるかもしれません。しかし、パウロを道徳論者のように見るのは浅い理解です。
13節でパウロは、神の一つの霊ということを言います。洗礼を受ける人は何人もいても聖霊はお一人です。洗礼を受ける一人一人に別々の霊がつくのではありません。たったお一人しかいない聖霊にそれぞれが結びついて洗礼を受けるから一つの体になると言うのです。どの民族・人種に属しようが、社会的な地位・立場が何であろうがみんな同じ聖霊を注がれるので一つの体のお互い結びついた部分になると言うのです。それなので、信仰は自分と神の問題と言って、ほかの、神と結びついている人との結びつきを考えない人は、聖霊を分割してしまうことになるとさえ言えるのです。事は道徳論を超えて三位一体の神を認めるか否かの問題になっていきます。信仰の目とは、神と自分の結びつきという縦の関係と、その結びつきを持つ信徒たち同士の横の関係という二つを見ることが出来る目です。この縦と横の二つの関係が同時に現れる瞬間が聖餐式、主の血と肉に与る時です。
自分と神との結びつきは、もちろん自分の罪と向き合って赦しの中に留まるという極めて個人的な面もあります。しかしながら、他の信仰者たちとの間で、私は目、あなたは足です、または、私は耳、あなたは手です、という場面は無数にあります。横の関係があって、各自の神との縦の関係が支えられるということも忘れてはいけません。目が自分は自分で支えられるから他はなくてもいいとは言えないのです。だから、各自、お互いに縦の関係を支えてあげられるように振る舞い言葉遣いを考えなければなりません。それを損なうような振る舞いや言葉遣いは避けるようにしなければなりません。それが聖霊をお一人としてキリストの体の部分として生きるということです。
それではキリストの体とは具体的には何か?教会ということになりますが、これもいろんな層があります。まず、復活と永遠の命に向かって歩む信徒たちの集合体、組織を超えた世界大の教会があります。このスオミ教会のような個別の具体的な教会もあります。個々の教会が属している教派や教団もあります。遠い国の信徒とは祈りを通して支えたり支えられたりする関係は築けますが、聖餐式の場である個々の教会は一番身近に振る舞いや言葉遣いを磨ける場です。自分がキリストの体の部分であることを一番身近なものにすることが出来る場です。そのことを忘れないようにしましょう。もちろん私自身も含めてです。
2022年1月16日(日)顕現節第二主日 主日礼拝
本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業についてです。結婚式の祝宴でふるまわれるぶどう酒が底をついてしまった。そこでイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って祝宴は無事続けられたという話です。聖書のよく知られている話の一つです。嵐を鎮めたり病気の人を癒したりする奇跡に比べたら手品みたいで奇跡と呼ぶには少し大げさに思われるかもしれません。しかし、結婚式の祝宴がイエス様の時代も大がかりなものであったことを考えるとこれはやはり奇跡と言ってよいとわかります。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとあります。一つにつき80~120リットル入りということです。それが6つありました。イエス様はこの水瓶の水全部480~720リットルをぶどう酒に変えたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。そのような大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えてしまったというのは、やはり奇跡と言うしかありません。
この福音書の箇所は結婚式に関係するのでキリスト教会の結婚式や婚約式での説教にもよく用いられます。あなたたちはこのように困っているときに助けてくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような頼りになる方がついておられるんですよ、というメッセージは式全体に祝福された雰囲気をもたらすでしょう。
ところが、この箇所はよく読んでみると、助け人のイエス様のイメージに合わないことがあります。それは、イエス様の母マリアが彼に、もうぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」ぶどう酒がなくなった、と言われて、イエス様は、はい、わかりました、私が何とかしましょう、とは言いませんでした。彼の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離すものに聞こえます。何と冷たい人なのかと思わされます。しかも、自分の母親に対して、お母さん、とか母上ではなくて、「婦人よ」とは他人行儀も甚だしい。ところがマリアは、このような冷たい答えにもかかわらず、何を思ったのか召使いたちにイエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。マリアは、イエス様の答えの中に拒否ではないものを感じ取って次の動きに備えたのです。
結果は、大量の、しかも上等のぶどう酒が出てきて、助け人イエス様の面目は保たれます。それにしても最初のやりとりは一体何だったのか?イエス様はあまのじゃくで素直な方ではないと思わされます。しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくでもなんでもなく、ちゃんと意味の通る会話をしているのです。以前の説教でこのことを見ましたが、今回また新しいことが見えてきたのでそれを合わせて見ていきます。
まず、出来事の状況を把握することから始めましょう。文章から手掛かりはいろいろ見えてきます。まず、マリアもイエス様も弟子たちも祝宴に列席していますが、興味深いのは「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(2‐3節)と言っていることです。マリアとイエス様と弟子たちみんなが招かれた、とは言っていないことです。「招かれた」のはイエス様と弟子たちで、マリアは「そこにいた」と別扱いです。それと、マリアは後で召使たちに命じたりして召使たちは素直に聞き従います(5節)。そうしたことから、彼女は単なるお客様でなくて主催者側の一人として何か役割を持っていたのではないかと考えられます。それで、ぶどう酒が底をついた時の心配は他人事ではなかったでしょう。
そうすると、マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時(3節)、それは落ち着きを失って慌てふためいた言い方だったと考えられます。ここで注意すべきは、マリアはイエス様に、お願い、何とかして!と助けを求めたのではないということです。ぶどう酒がなくなってしまった、ああ、どうしよう、とおろおろしていたのです。11節をみると、このぶどう酒の奇跡はイエス様が公けに行った奇跡の最初のものと言われています。そうならば、マリアも弟子たちもイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を起こせる方だとはまだわからなかったことになります。それで、「ぶどう酒がなくなりました」というのは、助けをお願いしたのではなく、大変な事態になってしまったとおろおろした状態で事実を述べただけと言ってよいと思います。
それに対するイエス様の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?昔テレビのある時代劇でヒーローがいつも「あっしにはかかわりのねえことでござんす」と言って、いつも結局はかかわって悪者を退治するというものがありました。イエス様も最初は自分には関係のないことだと冷たく言いながら、後で助けてあげるということなのでしょうか?
以前の説教で私は、この箇所のイエス様は冷たく言い放っていませんと申しました。その後で宗教改革のルターが、これは冷たく言い放っているのだと言っているのをみてかなり焦りました。彼の論点は、マリアは冷たく突き放されてもイエス様にしがみつくように信頼を捨てなかった、本当の信仰を示したというものです。キリスト信仰というのは、神が怒っているように思える時でもそれは人間の感情からくる思いにすぎず、本当は神は良い方なのだと信じて神から離れないようにするのが本当の信仰なのだ、と言うのです。もちろん、ヤコブが荒野で神が送った者か神自身かわからないが謎の人物と取っ組み合いをして、祝福してくれるまで離しません、としがみついて祝福してもらったことがあります。また、異邦人の女性がイエス様に娘を悪霊から助けて下さい、とお願いした時、最初イエス様はユダヤ人でないからと言って聞き入れる素振りがありませんでしたが、女性がしがみつくように懇願して、犬もおこぼれに与りますなど、と言って願いがかなったということがあります。しかしながら、マリアの場合はしがみつくようなこともせず、イエス様の言葉を聞いてすぐ、まるで彼が手を打ってくれると理解したかのように召使いにスタンバイを命じたのです。ルター先生の解釈に盾をつくようで気が引けるのですが、でも結論は、イエス様を信頼してお願い事はなんでも、諦めないで提示していいのだというところで合流するので、問題はないと思いました。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」この言葉の本当の意味がわかるために、まず後半部分「わたしの時はまだ来ていません」から見ていきます。私の時はまだ来ていない、とは何のことでしょうか?おろおろするマリアに意味をなす言葉なのでしょうか?
「わたしの時」とか「時」という言葉はヨハネ福音書の中に何度も出てきます。その一つヨハネ12章23節を見てみましょう。次のような出来事です。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神と神の国について教え、ユダヤ教社会の指導者たちと激しく論争をしていた時でした。地中海地域の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23節)。さらにヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(17章1節)。
つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が受難の道に入られて十字架の上で死を遂げる時、そして死の後で神の想像を絶する力で復活させられて神の栄光を顕す時のことです。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、人間が全ての罪を神から赦していただけるようになるための神聖な犠牲の生贄となるためでした。それなので、イエス様が十字架にかけられるのは神にとっても人間にとっても本当に大事な時だったのです。そして、イエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命に至る道が開かれました。死が無力にされたのです。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、罪を赦されて神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。あとは人間がこのことを信じてイエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ければこの可能性を自分のものにすることができるのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性をもたらす出来事の時、十字架と復活の時を意味するのです。世界各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きれば、後はその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。
それで、「わたしの時はまだ来ていない」は意味は次のようになります。「今はまだ、私が十字架の道に入ってお前たちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神と神の国について教え、神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、将来到来する神の国がどんな国かを奇跡の業をもって示していかなければならないのだ。だから、十字架と復活が起こる前の今は、私はお前たちと共にいてこの教えと業を行う時なのだ」という意味になります。
さてイエス様が「わたしの時はまだ来ていない」と言った時、果たしてマリアはそういうふうに、まだおまえたちのもとにいて働きをする時だ、と理解したでしょうか?まだ十字架も復活も起きる前に聞いたので、それは無理だったのではと思います。しかし、マリアの場合は、かつて赤ちゃんのイエス様を抱き上げたシメオンが、この子は将来神と神の民の間を取り持つような何かとてつもないことをすると預言したのを聞いています。それでこの子には将来何か重大なことが起きるとわかっていたでしょう。それが何であるかはまだわからない。しかし、今はまだその時ではなく、この、聖霊の力で誕生したこの子は今のところは私たちと共にいるということなのだな、というくらいはわかります。言い方自体は、ぶどう酒の問題の解決には直接関係ありませんが、聖霊の力で誕生したこの方が私たちと共におられるという一言は、慌てふためく心を落ち着かせるインパクトはあります。そういう視点で前半の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」を見ていくと、その意味もわかってきます。つまり、イエス様の言葉全体はマリアを落ち着かせ、この子は何かをするつもりだとわからせて、召使いたちに待機するように指示するくらいの言葉だったのです。これからそれを見ていきましょう。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文を直訳すると、「婦人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」という疑問文です。わかりにくい文です。ギリシャ語原文でこれと全く同じ形を取る文が他にもあるのでそれを見てみます。マルコ1章24節です。シナゴーグで汚れた霊にとりつかれた男とイエス様が対峙するところです。汚れた霊が叫んで言いました。新共同訳ではこうです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている、神の聖者だ!」ここのギリシャ語原文を直訳すると、「ナザレのイエス、お前と俺たちの間にどんなかかわりがあるのか?我々を滅ぼしに来たのか?」云々です。
この「~と~の間にどんなかかわりがあるのか」は旧約聖書にもあります。列王記上17章18節で、預言者エリアがシドンのサレプタというところであるやもめの家で居候していた時、やもめの息子が死んでしまうという悲劇があります。その時やもめがエリアに言った言葉です。新共同訳ではこう訳されています。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか?あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか?」ヘブライ語原文を直訳するとこうなります。「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのですか?あなたは私の罪を思い出させ云々」となります。ここで、あれ、ギリシャ語とヘブライ語は違う言語なのに、どうして同じ形の文などと言えるのか、と言われてしまうかもしれません。でもこれは、ギリシャ語とヘブライ語がわかる人が見たらすぐわかるくらいに同じ形なのです。言語学を勉強している人なら統語論という言葉を使うと思いますが、統語論的に同じなのです。この辺のからくりは、本説教の原稿をホームページに載せますので、そこでお見せしますので、ここではこのまま話を進めます。
さて、サレプタのやもめ、シナゴーグの汚れた霊、カナの祝宴でのイエス様はみんな、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?と言っています。新共同訳では、どんなかかわりがあるのか?とか、かまわないでくれ?などと訳されています。そこで他の国の言葉ではどう訳されているか参考までに見てみました。私が読んで理解できるのは日本語と英語とドイツ語とフィンランド語とスウェーデン語の5つですが、結論から言うと大体、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?というのと、あなたは私に何を望むのか?というものに収まっていきます。各国語の訳もホームーページでお見せします。
そこで、「私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」と「あなたは私に何を望むのか?」という訳で見ていきましょう。サレプタのやもめ、「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあって、私の罪を思い出させて息子を死なせたのですか!」、または「神の人よ、あなたは私に何をお望みですか?私の罪を思い出させて息子を死なせることですか!」となります。シナゴーグの汚れた霊、「ナザレのイエスよ、俺たちとお前の間にどんなかかわりがあって、俺たちを滅ぼそうとするのか?」、または「ナザレのイエスよ、お前は俺たちに何を望んでいるんだ?俺たちを滅ぼそうというのか?」となります。どちらも、私に構わないで下さい、俺たちに構うな、かかわりなど持ちたくない、ほっといてくれ、となっていきます。
ところが、カナのイエス様の場合は勝手が違います。やもめや汚れた霊たちは神の力を持つ人を前にしてパニック状態になってこの言葉を述べますが、カナの時はパニック状態になっているのは言葉をかけらるマリアの方で、言葉をかける本人のイエス様は平静そのものです。だから、ここは、私に構うな、ほっといてくれ、という意味はありません。その意味を捨てて考えると、こうなります。「私とあなたの間にどんなかかわりがあるかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあななたちと一緒ですよ。」または、「あなたは私に何をお望みかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあなたたちと一緒ですよ。」こういうことでしたら、冷たく突き放したようには聞こえなくなります。むしろ、この人は何かするつもりだと感じ取らせるものになります。マリアがそう感じ取ったことは彼女の次の行動で分かります。召使いたちに、イエスが何か言いつけたらその通りにするように、と命じたのです。その時のマリアはパニック状態にあってもイエス様を信頼するということが心の中に何か芯というか核のように生まれたのです。その意味でパニックはあってもそれに支配されなくなったのです。それは実際にはパニックを脱したということになります。
ここで一つ余計なことになるかもしれませんが、言ってもいいのかなということがあります。それは、この言葉を述べた時のイエス様は案外ニヤリという表情で言ったのではないかということです。昔、大学の神学部のギリシャ語の授業で先生が言ったことですが、イエス様がニヤリと笑みを見せたところがあるという研究論文があると。どこでニヤリとしたかと言うと、ペトロがイエス様に私も水の上を歩きたい、と言って、湖の上に立つイエス様が、じゃ、こっちに来なさい、と言って、ペトロは水の上を歩き始める。しかし、波風を見て怖くなった瞬間に溺れ始めてしまい、助けを求める。イエス様は手を差し出してペトロを引き上げる時に言った言葉「信仰の薄い奴だな」、この時イエス様はニヤリと笑ったというのです。どうしてそんなことが言えるかというと、私の記憶になってしまいますが、その研究者はギリシャ古典の大家で、古代ギリシャの哲学、小説、戯曲の文体を徹底的に分析して、福音書の問題の個所の文体は主人公が笑みを浮かべるものに一致するということだったと思います。これに反論しようとするなら、同じ位ギリシャ語文献を熟知しなければならないことになります。さて、「信仰の薄い奴だな」とニヤリと笑ってペトロを引き上げてあげるイエス様。そこでカナのイエス様の場合はどうか。「私に何をお望みかな、ご婦人さん、私はまだあななたちと一緒にいるのだよ。」それをニヤリと言われたら、ますます、この方は何かをしでかす、とパニックを忘れさせる効果は大と思うのですが、どうでしょうか?イエス様をこんな風に何か大胆不敵さと茶目っ気さを兼ね備えた方のように言うのは行き過ぎでしょうか?でも、大胆不敵さは母親譲りと言えるし、茶目っ気の方も、彼のたとえの教えの中には読んで吹き出してしまうものもあります。どのたとえか別の機会にお話ししますが、ユーモアの精神も見られるのです。本人がどこまでそれを意識していたかわかりませんが。
さて、これでイエス様とマリアのやり取りは、突き放されてしがみついたというルターが言うのとは違って見えるものになってきました。そこで、イエス様の言葉は、いろんなことで慌てふためく私たちの心にもイエス様を信頼することを呼び起こす力があることを見てみます。そんなこと言ったって、イエス様はあの後十字架にかけられ復活を遂げたではないか、もう彼の時は過ぎてしまったではないか、彼は今私たちのところにいないではないか、天の父なるみ神の右に座している、といつも使徒信条や二ケア信条で唱えているではないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、「私の時はまだ来ていない」という主の言葉は、私たちにとっては、主の再臨はまだ来ていないという意味になります。再臨の日まで今天と父なるみ神のもとにおられる主は、信仰と洗礼をもって神の子とされた私たちとは聖霊を介してその日までいつも私たちと一緒にいて下さいます。だから、かかわり合いがあります。望むことを打ち明けていいのです。そうしないと、再臨の日が来たら手遅れになります。その日、私たちは復活させられてしまったら、痛みも苦しみも悩みもなく正義も完全に実現しているところに迎え入れられてしまうので、そこではもう何も望むことは出来なくなってしまいます。
だから今が、主とかかわり合いを持って生きる時、願い事を打ち明けて祈り求める時なのです。今、共にいて下さるイエス様が慌てふためている私たちにあの時と同じような平静さで、ひょっとしたらニヤリと、お前は私に何を望むのか?私はお前と共にいるぞ、とおっしゃって下さるのです。私たちは時として何も望むこともできない位に落ち込む時もあります。そういう時は、イエス様と自分の間には何もかかわり合いはないと思ってしまうでしょう。しかし、イエス様はそう思うのは間違っている、かかわり合いはあるぞ、望むものを思い出して打ち明けなさい、とおっしゃって下さるのです。
列王記上17章18節、マルコ1章24節、ヨハネ2章4節の文の形と各国訳は以下の通りです。
ヨハネ2章4節 τι εμοι και σοι, γυναι; (…)
【新共同訳】「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。(わたしの時はまだ来ていません。)」
【英語NIV】Woman, why do you involve me? (My hour has not yet come.)
【ドイツ語・ルター】Was geht´s dich an, Frau, was ich tue? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)
【ドイツ語Einheitsübersatsung】Was willst du von mir, Frau? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)
【フィンランド語】Anna minun olla, nainen. (Minun aikani ei ole vielä tullut.)
【スウェーデン語】Låt mig vara, kvinna. (Min stund har inte kommit än.)
マルコ1章24節 τι ημιν και σοι, Ιησου Ναζαρηνε; (…)
【新共同訳】「ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。(我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている。神の聖者だ。」
【英語NIV】What do you want with us, Jesus Nazareth? (Have you come to destroy us? I know who you are – the Holy One of God.)
【ドイツ語・ルター】Was haben wir mit dir zu tun, Jesus von Nazarem? (Bist du gekommen, um uns ins Verderben zu stürzen? Ich weiss, wer du bist: der Heilige Gottes.)
【ドイツ語Einheitsübersatsung】Was willst du von uns, Jesus von Nasareth? (Du bist gekommen, uns zu vernichten. Ich weiss, wer du bist: der Heilige Gottes!)
【フィンランド語】Mitä sinä meistä tahdot, Jeesus Nasaretilainen? (Oletko tullut tuhoamaan meidät? Minä tiedän, kuka sinä olet, Jumalan Pyhä!)
【スウェーデン語】Vad har du med oss att göra, Jesus från Nasaret? (Har du kommit för att ta död på oss? Jag vet vem du är, Guds helige.)
列王記上17章18節 (…) מה–לי ולך איש האלהים
【新共同訳】「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。(あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子をしなせるために来られたのですか。)」
【英語NIV】What do you have aganst me, man of God? (Did you come to remind me of my sin and kill my son?)
【ドイツ語・ルター】【ドイツ語Einheitsübersatsung】ドイツ語の聖書は、私の手元にあるのは新約聖書だけなので割愛します。
【フィンランド語】Pitikö sinun sekaantua minun elämääni, Jumalan mies! (Pitikö sinun tulla tänne vetämään minun syntini esiin ja tappamaan poikani.)
【スウェーデン語】Vad har du här att göra, gudsman? (Du har bara kommit hit för att låta min synd komma i dagen och för att döda min son!)
主日礼拝説教 2022年1月9日 顕現後第一主日(主の洗礼)
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるというのは理解しがたいことです。ヨハネの洗礼は、ルカ3章3節で言われているように「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。イエス様は神のひとり子なので罪を持たない方です。それで洗礼を受ける必要など本当はありません。マタイ3章を見ると、ヨハネはイエス様が洗礼を受けに来たことに驚き「わたしこそ、あなたから洗礼を受ける必要があるのに、あなたが私のところに来るのですか?」と言います。どうしてイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?
少しヨハネの洗礼について振り返ってみます。それは「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。「罪の赦しに至る」というのは微妙な言い方です。ギリシャ語原文がそういう言い方をしているからですが、洗礼を受けて即罪の赦しに至るのか、それとも受けた後しばらくしてから赦しに至るのか、はっきりしません。しかし、後でみるように答えは後者でした。即ではなかったのです。
それでも大勢の人が洗礼を受けにヨハネのもとにやってきました。中にはユダヤ民族を占領下においているローマ帝国の手下となって好き放題している取税人や兵士たちもいます。みな一様に何かに怯えています。なんでしょうか?それは、神の怒りの日が来ることでした。神の怒りの日とは、旧約聖書の預言書のあちこちに出てくる「主の日」のことです。それは神が人間に怒りをぶつける日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異も起こる時です。イザヤ書の終わりの方では、それこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地に創造し直す日が来ることが預言されています。人々はヨハネが「悔い改めよ、神の国が近づいた」と大々的に宣べ伝えるのを聞いて、その日が近いと思ったのです。悔い改めないと神の怒りをもろに受けて、森羅万象の大変動を乗り越えられず滅び去ってしまう、永遠の神の国に迎え入れられなくなってしまうと心配したのです。それでヨハネのもとに来て、自分たちには神の意思に反する罪がありますと告白して、悔い改めに相応しい行いをしますと誓って罪から清められようと洗礼を受けたのです。水を浴びることは清めを象徴しました。
ところがヨハネは、自分は水を使って洗礼をしているが、後に来る方つまりイエス様は聖霊と火をもって洗礼を授けると言います。火を伴うというのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリア13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2―3節)、罪からの浄化を意味します。ヨハネは自分の洗礼にはそういう浄化の力もないし聖霊も伴わない、だから神の怒りが及ばないようにする力はないと認めるのです。そこで先ほどの「罪の赦しに至る」ということについて見てみます。それは、ヨハネの洗礼で即赦しが与えられるのではなく、聖霊と火を伴うイエス様の洗礼で即与えられる、それを受ければ神の怒りが及ばないということだったのです。そういうわけでヨハネの洗礼は人々に罪の自覚を呼び覚まして告白させ、すぐ後に来るメシア救い主が設定する本物の洗礼に備えさせるものでした。人々を罪の自覚にとどめて後に来る罪の赦しに受け渡すためのものでした。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではなかったのです。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊と火の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい、その時お前は罪を赦されて神の子となれる、そうして「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救い主をお迎えする準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中の道を真っ直ぐに整えるためのものでした。ヨハネが本物の洗礼を授けるメシア救い主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのは当然のことでした。
ヨハネの洗礼がイエス様をお迎えすることが出来るようにする洗礼だとすると、イエス様がそれを受けるというのは自分で自分をお迎えするみたいでとても変です。これは一体どういうことなのでしょうか?一つの見方としては、イエス様が洗礼を受けたというのは人間に対する連帯の表れという見方があります。しかしながら、以前の説教でも申し上げましたが、人間に対する連帯の表れを言うのならば、天の父なるみ神のもとにいたひとり子が乙女マリアから人間の姿かたちを取って生まれたという受肉の出来事の方が連帯をよく表していると思います。それとイエス様がユダヤ教の伝統に従って割礼を受けた出来事も人間に対する連帯の表れとして重要だと思います。というのは、割礼を受けることで人間と同じように律法の効力の下に身を置かれ、それによってゴルゴタの十字架の上で罪の罰を本当に神罰として本気で受けられるようになったからです。
洗礼には、もちろん人間との連帯の意味も否定できないが、もっと別の意味もあるということで二つのことを申し上げました。一つは、イエス様が洗礼を受けたことでイザヤ書42章の預言が実現したということがあります。もう一つは、イエス様の洗礼に聖霊が伴ったことで私たちが受ける洗礼の先駆けになったということがあります。本説教でこの二つの意味を振り返ってみます。その後でキリスト信仰の洗礼と聖霊は切っても切れない関係にあることを見ていこうと思います。
まず、イザヤ書42章の預言が実現したことについて。イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その時、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声が轟きました。この出来事はイザヤ書42章1~7で預言されていることの成就でした。実にイエス様の洗礼はこの預言が成就するために必要な手続きだったのです。そこで、この預言の内容を、本日の旧約の日課ではありませんが、見る必要があります。
このイザヤ書の箇所で神は、将来この地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が聖霊を受けて、神から特別な力を与えられて何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?私たちの新共同訳を見ると「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが言われます。しかし、これらはわかりにくい訳です。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体どんな意味なのでしょうか?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?頭のいい人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにもありません。ここはもうヘブライ語の原文に遡ってみないと本当のことはわからないのです。
まず、参考までに各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の言葉をどう言っているか覗いてみると、英語の聖書はjustice、「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Recht、「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデン語の聖書では「権利」(rätten)、フィンランド語の聖書では「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味する単語(oikeus)です。
神の僕が携わることが、どうして日本語では「裁き」になって他の訳ではそうならないのか?それは、ヘブライ語の単語ミシュパートמשפטがいろんな意味を持つ言葉だからです。大元の意味は、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」です。その意味から出発して「裁き」とか「判決」というような意味がでてきます。しかし、それだけではありません。大元の意味を出発点として「正当な要求」「正当な主張」という意味もあるし、「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。辞書を見れば他にもあります。
それなのでイザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、他の国の訳のように「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。さらに、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳せます。そういうわけで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民(גוי、特にユダヤ民族の異邦人をさしますが)に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」です。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」です。
それでは、神の僕がもたらしたり打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何でしょうか?神の御言葉集である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか出てきたら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」でしょうか?それは、人間が自分の造り主である神の意思に反しようとする罪の力から解放されることです。罪から解放されて神との結びつきを持ててこの世を生きられることです。そして、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れられることです。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。これらは全て、神のひとり子イエス様が十字架の死と死からの復活の業をもってこの世にもたらして打ち立てて下さいました。
イエス様が洗礼を受けた時、天から預言どおり神の声が轟き、聖霊がイエス様に降りました。これでイザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。この時イエス様に神が定めた人間救済計画を実行に移す力が供えられたのです。もちろんヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のひとり子でした。しかし、洗礼を通して預言通りに聖霊と特別な力を得て、主体的に神の計画を実現させることとなったのです。洗礼を押しとどめようとするヨハネに対してイエス様が言ったマタイ3章15節の言葉、神の義を実現するために洗礼を受けなければならない、というのはその通りだったのです。
ヨハネはイエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。火を伴うとは罪からの浄化を意味します。しかし、人間は洗礼を受けて本当に罪から浄化されるかと言うと、実は洗礼を受けてキリスト信仰者になっても神の意思に反しようとする罪はまだ残ります。それじゃ、浄化されていないじゃないか、イエス様の洗礼には力がないじゃないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、洗礼には、受ける前と後で人間に決定的な違いをもたらします。それは、人間を復活に与らせないようにしようとする罪の力、神のもとに迎え入れさせないようにする力が罪から奪われるということです。なぜ罪からその力が奪われるかと言うと洗礼を受けると聖霊がその人に降るからです。
聖霊が洗礼を受ける人に降るということで、イエス様が受けた洗礼はキリスト教会の洗礼を先取りしています。ヨハネの洗礼は受ける人に聖霊が与えられる洗礼ではありませんでした。ヨハネはかなりの数の人に洗礼を施しましたが、誰にも聖霊は降りませんでした。誰にも起こらなかったことがイエス様に起こったのです。それは神がそうすると決めていたからです。イザヤ書の預言が文字通りに成就して神の救いの計画の実行を開始するためにそう決めたのです。
聖霊が人に降るなどと言うと、事情を知らない人は何か霊にとりつかれたみたいに聞こえて不気味に感じるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点は、人間は自分の力ではイエス様を救い主と信じることはできないというものです。第一ヨハネ4章2~3節では神のひとり子が肉を伴ってこの世に来られたと告白する霊は神から来る霊であると言っています。第一コリント12章3節ではずばり、聖霊を持っていなければ誰もイエス様は主であると言うことはできないと言っています。このように人間は聖霊が働かないとイエス様を救い主を信じることはできないというのがキリスト信仰の立場です。それくらい聖霊は信仰のカギになっているのです。
このことは、信仰と知識の違いを見ればよくわかります。イエス・キリストという人物が約2000年前に現在のイスラエルの地で活動して最後は十字架刑に処せられたというのは歴史の本に書いてあったので知っているぞ、と言うのは知識です。信仰ではありません。また、キリスト信仰者は処刑されたイエスが復活したと信じていて、そのイエスのおかげで神と結びつきを持ててこの世を生きられる信じている、そしてこの世から別れた後は自分も復活の日に復活させられて神の御許に迎え入れられると信じている、そういう連中なんだ、そういうふうに言うのも知識です。信仰ではありません。
翻って信仰というのは次のように言うことです。あの方があの時成し遂げた十字架の死と死からの復活は今の時代を生きる私のためにもなされたのだ、それはあの方の身代わりの犠牲のおかげでこの私が天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになるためだったのだ、この結びつきは私が自分から手放さない限り順境の時も逆境の時も変わることがないので私は常に神から見守られ導いてもらっている、もしこの世から別れなければならない時が来たらその時は復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れてもらえる、そこは懐かしい人たちとの再会の場所なのだ、このように事柄を自分事として自分自身に対しても周囲に対しても言える人、その人は事柄をもう知識で持っていません。信仰に生きています。聖霊が働いたから事柄は知識ではなくなったのです。聖霊が働かないところでは知識どまりとなります。
洗礼を受ける時に聖霊が降る、聖霊を注がれる、その時に知識が信仰になると言うのなら、洗礼を受ける前にイエス様は救い主と信じられるようになった人は聖霊が降っていることになるのではないか、その場合は洗礼はもう必要ないのではないかという疑問が起きるかもしれません。これは次のように考えます。洗礼を受ける前にも神は人間に聖霊を働かせてイエス様が歴史上の人物に留まらず、本当に今を生きる自分の救い主、自分を犠牲にしてまで私と神聖な神を結びつけて下さった方とわかるようにします。そうなれば洗礼を受ける機が熟したことになります。洗礼を受けることで聖霊の働きに完全に服することになります。受けないでいると、せっかく一時イエス様が自分の救い主と見えたのに、すぐ別のもの、例えば別の霊や人間の理性に頼ってしまい、自分の救い主としてのイエス様が見えなくなってしまい、世界史の教科書か何かの小説のイエスに戻ってしまいます。それなので洗礼は聖霊の働きを定着させる出来事と言ってもよいでしょう。聖霊の働きが定着するというのは、神との結びつきがそれこそ順境の時も逆境の時も変わらずにあるということになり、この人生大丈夫、この世と次に到来する世にまたがって生きてやろうという心が起きるということです。
それでは最後に、どうしたら知識上のイエス・キリストが自分と個人的な繋がりのある主になるのか、どうしたらそうなるように聖霊の働きが自分に起こるようになるのかを考えてみます。いろいろあると思いますが、一つカギになるのは、自分と自分の造り主であり神との関係はどうなのかを考えてみることです。造り主の神がどのような方で、どんなことを私に望んでいるかについては聖書がよく教えています。この私は神の意思に照らし合わせてみてどんな存在なのか、神のみ前に立たされて果たして大丈夫な存在なのかを考えてみます。どうしてそんなことを考えるかと言うと、神は神聖な方で罪の汚れを持つ人間はその正反対だからです。預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃した時、恐怖の叫び声をあげました。私は滅びてしまう!この目で神を見てしまった、私は汚れた口を持つ者なのだ、汚れた口を持つ国民の一人なのだ!と。イザヤ書6章です。神に選ばれた預言者にしてこうなのです。預言者でもない私たちはなおさらでしょう。
しかし、ここで思い起こします。イエス様はこの私が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられる者にして下さったということを。大丈夫な者にするために神は大切なひとり子をこの私に贈って下さり十字架と復活の業を果たさせたということを。それは神が私を愛しているからそうされたのだということを。イエス様も私を愛しているから天の栄光ある地位を捨てて人間としてこの世に降り十字架の道に進まれたのだと。そして、今天の父なるみ神の右の座におられる主は再臨の日まで聖霊を介して私とともに毎日一緒にいてくださるということを。そして、復活の日が来たらこの私をも目覚めさせて御許に迎え入れて下さるということを。
ここまでくれば、私はこの世の人生をイエス様と共に歩もう、もう私には何も不足はない、何も怖くはない、という詩篇23篇を絵に描いたような心意気になります。もうイエス様は遠い過去の人物ではなくなっているのです。このようにイエス様がそばにいる方になると、縁遠く感じた旧約聖書の御言葉も私たちに呼びかけるものに聞こえてきます。試しに本日の旧約の日課イザヤ書43章で見てみましょう。
1節 神はかつてヤコブとイスラエルの民を造り形作ったように私たちを造り形作ったと言います。それがどんなことか後で7節でわかります。「恐れるな、私はお前を贖った」と神は言います。新共同訳では「お前を贖う」ですが、ヘブライ語原文では「お前を贖った」と完了形で言っています。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者のことを言っています。信仰者でない人も信仰者になったら、そう言えることになります。私たちはイエス様のおかげで罪と死のもとから神のもとへ買い戻された、難しい言葉を使えば「贖われた」のです。それで神は私たちを名前で呼ばわる位に私たちの父になり、私たちは神の子となったのです。
2節 お前が水の中を通らねばならないような時も私は一緒にいるからお前は流されない。火の中を通らねばならないような時もお前は焼き尽くされない。なぜなら私は主なる神であり、お前自身の神だからだ。
3節 私はイスラエルつまり神の民の神だ。お前を滅ぼそうとする者から救い出す神なのだ。
4節 お前を贖うためなら、私はエジプトやクーシュやシェバやその他諸国を身代金として差し出してもいいくらいだ。それ位お前は私にとって価値があるのだ。(しかし、実際にはそんな国々など差し出さず、私はひとり子を身代金にした。お前は価値があるということの本当の意味はそれだ。)
5節 だから恐れてはいけない。私がお前と共にいる。
6節 お前が東にいようが西にいようが何処にいようが地の果てにいようがお前を呼び寄せる。誰も邪魔することは出来ない。
7節 お前は私の名で呼ばれるくらいに神の子なのだ。私がお前を造り、贖われた者に形作り、私の子へと完成させたのは、私自身の栄光を増し加えるためにそうしたのだ。
以上です。どうでしょう、旧約のみ言葉が身近になったでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。