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2022年1月2日(日)降誕節第二主日 主日礼拝
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているでしょう。ただ、よく見ると、この「ことば」は漢字では「言」と書かれています。普通の「言葉」ではありません。普通の言葉ではない特別な言葉だから、違う言い方をしているのです。それでは、この「ことば」は普通の言葉ではない、「言」であるとすると、それはどんな「ことば」なのでしょうか?これはもう、日本語をこねくり回しても解決出来ない問題です。ギリシャ語の原文に立ち返って、その言語の世界の視点から事柄を眺めてわかるようにして、そして日本語の世界に戻ってわかりやすい言葉に直すしかないです。この言はギリシャ語でロゴスと言います。
ところで、日本語の世界から飛び出すと私たち日本人に関係ないことになってしまう、と思う人がいるかもしれません。特に今は新年で大多数の日本人は神社仏閣に参拝に行く時です。新年早々日本的でないことに手を染めてしまうと怪訝な顔をする人も出てくるかもしれません。しかし、これを見ていくと、事は日本とかギリシャとかを超えたこと、日本とかギリシャとかを全部含めてそれらを超えたことに関わっているとわかってきます。どうしてそうなるかと言うと、聖書の神の意思というのは民族を超えた普遍的なもので、それを神は人間に知らせる時にある特定の地域の人たちにその人たちが生きた時代の中で知らせたからです。それがたまたまギリシャ語の世界だったからギリシャ語云々という話になるのです。事をもっと広く見ると、天地創造の神は旧約聖書が形成される時代はずっとヘブライ語やアラム語を用いる人たちを通して自分の意思を伝えました。その人たちが住み生活する地域がギリシャ語の文明圏に組み込まれると、今度はギリシャ語を通して伝えるようになったのです。
本日の福音書の日課ヨハネ1章1~18節を見ると、イエス様のことを言い表わす言葉として言ロゴスの他に光フォースも出てきます。この二つは何度も出てきます。ロゴスは4回、フォースは6回。さらに、それらを指す代名詞が何回も出てきたり、主語を省いた動詞だけというのもあるので、ここはロゴスとフォースのオンパレードです。イエス様はロゴス言、フォース光であるというのです。私たちは、日本語で言葉、光と聞いてそれらの意味はわかります。しかし、ここの「言葉」は特別な言葉、言です。「光」も後で見るように特別な光です。じゃ、どんな言葉なのか?光なのか?もう日本語では太刀打ちできないので、ここから神が御自分の意思を伝えたギリシャ語の世界に入っていきます。それから日本語の世界に戻ります。
ヨハネ福音書の記者ヨハネはイエス様のことをロゴスと呼びました。彼はなぜそう呼んだのでしょうか?ヨハネは、あの十字架にかけられて死なれるも3日後に復活された方、その後1カ月少し自分ら弟子たちと共におられそして天の父なるみ神のもとに戻られた方、あのイエス様のことをどう表現したらいいだろうか?彼は福音書を書く時に考えました。あるいは既に考えついていたのかもしれません。ヨハネは旧約聖書を守るユダヤ民族の一員です。旧約聖書の預言を思い出し、イエス様と共にいた日々を思い出して出た結論が、イエス様とはロゴスなのだということでした。どうしてそういう結論に至ったのでしょうか?
ヨハネはイエス様の復活を目撃しました。それでイエス様は本当に神のひとり子で、今は再臨する日まで天の父なるみ神のもとにいながらも聖霊を介して私たちの身近におられるとわかっています。そして、彼が父なるみ神のもとにいるというのは、復活して初めているようになったのではなく、もともとは神のもとにおられたのだが神が前もって定めたように乙女の受胎を通して人間の姿かたちを取ってこの世に生まれ出てきた、そういうもともとは神のもとにおられた方なのだ。人間として生まれてきた時にイエスという名前をつけられたが、それ以前の父の御許におられた時の有り様はどんなだったか?イエスという名前をつけられる前の神のひとり子をどう呼んだらいいか?それを考えた結果、ヨハネはロゴスと呼ぶことにしたのです。それで14節で次のように言ったのです。「ロゴスは肉となって、私たちの間に住んだ。」
それではなぜ神のひとり子をロゴスと呼ぶことにしたのでしょうか?ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味があります。まず、紙に書き記して文字になる「言葉」や(昨今ではキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味します。これは私たちが日本語で「言葉」と言っているのと同じです。この他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味します。また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったらこういうふうに別々の言葉で言い表す事柄も全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語文化圏のある哲学の考え方として、世界の事象の全て森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた考え方もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるでしょうか。
このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話です。それは、もともとはユダヤ教やキリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出された概念です。聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を明らかにしたり伝えたりして人間はそれを受け取るという立場です。つまり、大元にあるのはあくまで神である、という立場です。哲学では人間の頭が大元ということになります。
こうして見るとヨハネは、神のひとり子イエス様というのは森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたようにみえてきます。しかし、ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をそのままイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、あくまで旧約聖書の伝統とイエス様が教え行ったことに立ってイエス様を捉えようとするが、このとてつもないお方を今自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。
では、旧約聖書のどんな伝統がイエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたのか?それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造以前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の際にも父と同席していたと言われています。しかしながら、神のひとり子の役割は同席だけではありませんでした。ヨハネ福音書の1章3節をみると「万物はロゴスによって成った。成ったものでロゴスによらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に天地創造の大事業を担ったのです。どうやって担ったでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように神が発する言葉も天地創造になくてはならないアクターだったと気づけば、ひとり子をロゴス言葉と呼ぶことで彼も創造の役割を担ったことを言い表せます。 このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であると言っていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。
それならヨハネはなぜイエス様を「知恵」と呼ばなかったのか、という疑問が起きるでしょう。それは、アラム語というヘブライ語に近い言語の使い手であるヨハネがギリシャ語世界の人たちにどう言ったらイエス様のことを正確に伝えられるかを考えた結果です。知恵はヘブライ語でחכמהと言います。ギリシャ語でソフィアと言います。この、天地創造の時に既に父なるみ神のもとにいてその「言葉」として創造の業を担ったという途方もない方をギリシャ語の「知恵」と言ったら言い尽くせない、やはりあの方はロゴスでいいのだ、ということになったのです。
この世に生まれ出てイエスと呼ばれた方は実は天地創造の時に父なるみ神と共におられ、父と共に創造を行っていたというのは想像を絶することです。イエス様とは本来はそういう方だったとわかると、「はじめに言ロゴスありき」の「はじめ」というのはいつのことかもわかります。多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるでしょう。実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしの「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。このように時間をずっとずっと遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに言ロゴスとヨハネが呼ぶ神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。
ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう途方もない方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。
この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてきてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地創造が成って時間が始まった後もまだしばらくは父のもとにおられました。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られてきました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。
ヨハネはイエス様のことを光フォースとも呼びます。それがどんな光なのかを見てみましょう。4節を見ると「ロゴスには命があった」と言われています。「命」とは、ヨハネ福音書では死で終わってしまう限りある命のことではなく死を超える永遠の命を意味します。ロゴスは死を超える永遠の命を内包していた。これに続いて次のことが言われます。「ロゴスが内包する永遠の命は全ての人間の光であった、その光は闇の中に輝く光である。」新共同訳では「人間を照らす光」と言っていますが、少し注意が必要です。原文では「人間を照らす」とは言っておらず、ただ「人間の光」、人間は複数形なので全ての人間の光です。どうして「人間を照らす光」と言ってはいけないのか?闇の中に輝いているから暗い夜の証明のように照らすと言ってもいいではないか、と思われるかもしれません。しかし、ここは注意して見ていく必要があります。この光は単なる照明器具のような光ではありません。
同じことが9節でも言えます。新共同訳では「世に来て全ての人を照らす」と言っています。しかし、ここの動詞φωτιζωの正確な意味は「人を照らす」ではなく、「人間に輝きを与える」、「人間を輝かせる」です。それで4節の「全ての人間の光」とは「人間に輝きを与える光」、「人間を輝かせる光」です。10節から12節を見ると人間は、ロゴスであり光である方を受け入れる人と受け入れない人に別れてしまうことが言われています。受け入れる人は神の子になれると言っています。
それでは、人間を輝かせる光とはどんな光でしょうか?人間をどう輝かせるのでしょうか?それをこれから見てみましょう。それがわかるために、ここで言われている光と闇は普通言われる光と闇と違うものであることをわからないといけません。今あちこちで見られるイルミネーションを思い浮かべてみましょう。大体クリスマスの頃が一番多く見られますが、まだやっているところもあります。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間が懐中電灯を持たなかったり、照明のない所を歩いたという不用意不用心によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じです。それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。
ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っています。闇の目的は、人間から造り主である神との結びつきをなくそうとすることです。闇がその目的を果たした出来事が創世記の3章に記されています。最初の人間が悪魔に巧みに誘導されて造り主である神に対して不従順になって神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間は神との結びつきを失い死する存在となってしまったのです。しかし神は、人間が神との結びつきを回復して、それを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に御許に迎え入れられる道を開きました。その道を、御自分のひとり子をこの世に贈って、彼に十字架と復活の業を果たさせることで道を開いて下さったのです。闇の力を上回る光が闇の中にいる人間に与えられたのです。人間がその光を受け取って持つことが出来るようになったのです。
ここで5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。ここの訳は各国の訳で別れます。これはギリシャ語の動詞カタランバノーがいろいろな意味を持つからです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。しかし、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、全ての人間の罪の償いを神に対して果たして下さいました。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、悪魔は私たちをもはや罪の罰に繋ぎとめることは出来なくなりました。もし十字架の出来事がなかったら人間はそれに繋ぎとめられるしかないのです。しかも父なるみ神が一度死なれたイエス様を復活させたおかげで、死を超える永遠の命の扉が開かれました。こうしてイエス様のおかげで罪の償いを受けて赦された者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。
悪魔は罪を活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てます。しかし、それはイエス様の十字架と復活の業で完全に破たんしてしまいました。なぜなら、闇は死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。それなので5節の訳はやはり暗闇は光を支配下に置けなかったというのがピッタリではないかと思います。
そういうわけで、イエス様の光、ロゴスの光は、人間が永遠の命を持てるようにするという意図と目的を持つ光で、人間が受け取ることができる光です。受け取っても目の前が真っ暗になってしまう時もあります。受け取ったはずの光が見えなくなってしまうのです。しかし、それは私たちが勝手に見えなくなっているだけで、大元の光は相も変わらず輝いています。それは闇が支配下に置けない光だからです。どうしたらそれを私たちはまた見ることが出来るでしょうか?そういう時は、どこでイエス様に出会え、その声を聞くことが出来るかを思い出します。聖書のみ言葉をひも解くところでです。礼拝の説教を通してです。聖餐式に与る時です。罪の自覚から逃げず勇気を持って罪の赦しの宣言を受け入れる時です。そのようにしていつも洗礼の地点に立ち返ります。こうすることで一旦は閉じた私たちの目はまた開きます。
このようにロゴスの光は神との結びつきを回復させるだけではなく、回復した結びつきが失われないようにし一層強める目的も持っています。このような光を私たちは与えられているのです。どうかこの新しい年も私たちがこのロゴスの光を持って歩むことができますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
2022年1月1日(土)主の命名日の礼拝(ビデオ小礼拝)
新年の小礼拝の説教
1. 西暦2022年の幕が開けました。新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。しかしながら、今はコロナ禍が足掛け2年目となってしまい、日本でもオミクロン株のために感染がまた拡大するのか心配されている時です。それで個人的な願いもそうですが、それを超えて感染が拡大しないように、本当に終息に向かうようにこの礼拝を通しても父なるみ神に祈ってまいりましょう。
新年の時、日本では大勢の人がお寺や神社にいって、そこで崇拝されている霊に向かって手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。神社仏閣に参拝する人数を合計すると日本の総人口より多くなるということを聞いたことがあります。それ位ひとりでいくつもの場所を駆け回る人が大勢いるということなのでしょう。今はコロナ禍なので総人口より少ないと思われますが、いずれにしても新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間です。
キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後が、このひとり子がイエスの名を付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日と重なります。このイエス様の命名の出来事を通しても聖書の神、天地創造の神とはどんな方か、そしてそのひとり子のイエス様はどんな方かがわかりますので、新年のこの日そのことについて見ていきましょう。
2. まず誰でも知っているイエス・キリストという名前について。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていると聖書の神が身近な存在になります。「イエス・キリスト」の「キリスト」は苗字のように思う人もいるのですがそうではありません。新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとは実はメシアのことだったのです。
そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。旧約聖書の預言にはそういう終末論があると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時が来ると「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。いずれにしても、イエス・キリストの「キリスト」は苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。
次に「イエス」の方を見てみましょう。これも、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は、「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ヨーシャアッ」יושע救って下さる。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われました。それでこちらが本名です。そういうふうに、イエス・キリストという名はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語ではイエス・キリスト)になったのでした。
3. さて、イエスの名前の意味が「主が救って下さる」ならば、誰を何から救って下さるのでしょうか?天使がヨセフにこの名を付けなさいと命じた時、その理由として「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何かということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。
「神が救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが神は天使を通して、救われるのが国の外敵からではなく、罪と死という人間の敵からであるとはっきりさせたのです。「罪から救って下さる」というのは、端的に言えば、罪がもたらす神の罰から救って下さる、神罰がもたらす永遠の滅びから救って下さる、そういう罪がもたらす呪いから救い出すという意味です。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主である神に対して不従順になったことがきっかけで人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込みました。それで神と人間の結びつきが失われて人間は死する者になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と言うのかといつも疑問を持たれてしまうのですが、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。自分の造り主である神の意思に反しようとする性向です。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っているのです。
イエス様が人間を罪から救い出すというのは、人間が罪の罰を神から受けないで済むようにすることでした。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられようにし、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせてもらって次に到来する世の神の国に迎え入れられるようにすることでした。それを実現するために、イエス様は人間に向けらる神罰を全部引き受けて私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれました。イエス様は神のひとり子として神の意思に完璧に沿う方であるにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者であるかのようになったのです。誰かが身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにさせられた理由です。
4. 神の定めた律法に服するようにさせられたというのは、本日の福音書の個所にあるように割礼の儀式を受けたということです。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の御国の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきた時は、旧約聖書に約束されたメシア救世主として、その旧約聖書の伝統を守る民族の只中に乙女の胎内から生まれてきました。人間の救い主となる方が特定の民族の伝統に従ったのは、もちろん、その方がその民族の一員として生まれてきたことによります。しかし、それだけではありません。先ほど述べたように、人間を罪の呪縛から救うために一旦、人間に罪があることをはっきり知らせる旧約聖書のもとに服させる必要があったのです。
イエス様の十字架の死と死からの復活の後すべてが一変しました。イエス様が十字架で果たして下さったことはこの私にもあてはまると受け入れて彼を救い主と信じて洗礼を受けることで神との結びつきが回復するようになりました。洗礼が天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。使徒パウロが、人間が罪の呪縛から救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってである、と主張したのです。それで人間は信仰と洗礼でもって創造主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。
このように私たちには、人間を罪の呪縛から解放するために民族の違いを超えてご自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神がおられるのです。そしてその神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を身をもって実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様もおられます。このような神と結びついてこの世を歩めることを私たちは心から喜び感謝することができますように。
このような神との結びつきを持ててこの世を歩めるというのは、暗闇の中で光を見失わないことと同じです。私たちは身近な願いや希望が叶えられると嬉しくなります。叶えられないと目の前が暗くなったような感じがします。しかし、キリスト信仰者には身近な願いや希望が叶う叶わないに左右されずにある大元の嬉しさ、喜びがあります。イエス様の十字架と復活の業のおかげで私たちは神の目に相応しい者になれるということからくる嬉しさ、喜びです。
どのくらい神の目に相応しくなっているのかと言うと、今のこの世の次に到来する新しい世において神の御許に迎え入れられるくらい、天のみ国に迎え入れられるくらいに相応しいということです。神社やお寺で、天国に行けますように、などと声に出して祈ったら、周りの人から、この人少しおかしいんじゃないか、早く死にたいのか、と思われるでしょう。しかし、キリスト信仰者には、もちろん身近なこの世的な願いや希望もありますが、同時に神に義とされて神の国に迎え入れられるという希望があります。しかも、その希望はイエス様のおかげで既に叶えられているから大丈夫という安心があります。もちろん、身近な願いや希望が叶えられず、どうして?神は何か私に怒っているのか、不満なのか、それで聞き入れてくれないのか?そういう疑いはキリスト信仰者でも抱く時があります。しかし、神は、そうではないのだ、イエスを救い主と信じるお前を私は怒ってなどいない、お前は天の国に至る道に置かれて、私とその道を歩んでいる、物事がお前の思う通りに進まなくても、私の思うとおりに進むから、心配するな、私の目はお前に注がれているから安心しなさい、何も恐れることはない、と神は言って下さるのです。
そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、今年も主なる神にあって大元の嬉しさと喜びがあることを忘れずにこの新しい年を歩んでまいりましょう。
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
本日の福音書の日課の箇所ルカ2章の終わりは、12歳のイエス様が両親と共にエルサレムの過越祭に参加した後で一緒に帰らなかったため、両親が慌てて探しに行き、神殿の中で律法学者たちと議論をしていたところを見つけたという場面です。神童ぶりを発揮したということでしょうか。イエス様は神のひとり子なので文字通り神童ですが、ここは、子供のイエス様が既に人々を驚かせる才能を持っていたことを示すエピソードに留まりません。この出来事はよく見ると、私たちキリスト信仰者の信仰にとっても大事なことを教えています。特に母マリアとイエス様のやり取りがそのカギになっています。今日はこのことを見てみましょう。
その前にこの出来事を見るとイエス様のこの世での生涯がどういうものかがよりわかるので、それを見ておきましょう。イエス様の言行録である福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つがあります。マルコ福音書とヨハネ福音書ではイエス様の記述は大人になってからです。まず洗礼者ヨハネが登場して、それに続いてイエス様が登場します。マタイ福音書とルカ福音書はイエス様の誕生から始まります。双方ともイエス様の誕生後の幼少期の出来事も記されています。ヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れたことや割礼を受けたこと、神殿でシメオンやハンナの預言を聞かされたことなどがあります。その後は今日のルカの箇所で12歳の時の出来事が記されているだけで、あとはマルコやヨハネと同じように洗礼者ヨハネの登場まで何もありません。イエス様がゴルゴタの十字架にかけられるのは大体西暦30年前後のこととされているので、この12歳の時の出来事が幼少期と大人期の間の長い空白期の唯一の記述です。それでも、この短い記述からでも、その前後のイエス様の様子や状況が少し見えてきます。
一つは、マリアとヨセフは毎年過越祭に参加していたことが大事です。ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまで直線距離で100キロ、道はくねくねしている筈ですから百数十キロはあるでしょう。子供婦人も一緒ならば数日はかかる旅程になります。イエス様は小さい時から両親に連れられて毎年エルサレム神殿で盛大に行われる過越祭に参加していたのです。皆さんは、今日の個所を読んで、帰路についた両親がイエス様がいないことに1日たった後で気づいたということを変に思いませんでしたか?あれ、エルサレムを出発する時に一緒にいないことに気がつかなかったのだろうか?これは、旅行が家族単位のものではなく、それこそナザレの町からこぞって参加するものだったことを考えればわかります。マリアとヨセフはイエス様が「道連れの中にいる」と思ったとあります。また「親類や知人の間を捜しまわった」とあります。「道連れ」というのは、ギリシャ語のシュノディアという単語ですが、これはキャラバンの意味を持ちます。つまり親類や知人も一緒の旅行団だったのです。そうすると中にはイエス様と同い年の子供たちもいたでしょう。子供は子供と一緒にいた方が楽しいでしょう。あるいは何々おじさん、おばさんと一緒にいたいということもあったかもしれません。いずれにしても、マリアとヨセフは出発時にイエス様がいなくても、また誰それの何ちゃんのところだろうと心配しなかったと思われます。もう何年も同じ旅行を繰り返しているので同行者も顔なじみです。二人が気にしなかったことからイエス様がどれだけこの旅行に慣れていたことがわかります。このようにテキストを一字一句緻密に見ていくとイエス様の幼少期から12歳までの様子の一端がうかがえます。
しかしながら、この12歳の時は勝手が違いました。今までになかった予想もしなかったことが起きてマリアとヨセフはパニックに陥ったのです。 この出来事の後のイエス様の様子はどうでしょうか?51節に「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」。「仕えてお暮しになった」というと何か、もう両親に心配かけないようにしようと心がけていい子に生きたという感じがします。ここはギリシャ語のヒュポタッソーという動詞がありますが、両親に服するという意味です。もちろん両親に「仕える」こともしたでしょうが、要は十戒の第4の掟「父母を敬え」を守ったということです。当時のユダヤ教社会では13歳から律法に責任を持つとされていました。12歳までは子供扱いなのでした。エルサレム旅行から帰って程なくして13歳になったでしょうから、律法を守る責任が生じました。それで、エルサレム旅行の時に両親と緊張する場面があったが、その後は第4の掟に関しても他の掟同様、何も問題なかったということです。
洗礼者ヨハネが登場するまでの十数年の間の期間は平穏で祝福されたものであったことが52節から伺えます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」「背丈も伸び」というのは、私の使うギリシャ語の辞書では「年齢を重ね」という意味もあり、フィンランド語の聖書ではそう訳されています。「神と人とに愛された」も、「神や人々が彼に対して抱く愛顧も増していった」です。「愛された」と言ってもいいのかもしれません。いずれにしても、本当に誰からも好かれ頼られる非の打ちどころのない好青年だったのでしょう。その彼が、人間と神の間を切り裂いている罪と死の問題を解決するために自らを犠牲にしなければならなくなったのでした。
以上、少年期、青年期のイエス様の様子が少しわかってきたところで、エルサレムでの出来事に戻りましょう。12歳のイエス様とマリアの対話の中に私たちの信仰にとっても大事なことがあります。
マリアが問い詰めるように聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」「心配して」とありますが、ギリシャ語のオドュナオーという動詞はもっと強い意味です。気が動転した、とか苦しくて苦しくて、という意味です。これは私も経験上、特別支援の息子が4回ほど迷子になったことがあるので痛いほどよくわかります。2回は大きなお店の中で店内呼び出しをしなければなりませんでした。2回目の時は息子に先を越され、悦才くんのお父さん、悦才君がお父さんをインフォメーションで待っています、すぐ来てください、と言われて、私が迷子扱いになったようでした。店の外に出なければ大丈夫なので、出ないでくれと必死で祈りながら探しました。ところが3回目と4回目の時は外でした。これは本当に恐怖でした。4回目の時は携帯があったので話しながらお互い近づいて最後は落ち合うことが出来ました。バッテリーがなくなる前に見つかるようにと必死で祈りました。3回目の時は携帯がなく、しかも日が沈んで暗くなり始めてしまい、警察に届けなければなりませんでした。ただ、息子は家に帰る道順を覚えていたのでマンション前で待っていた母親に抱きかかえられてゴールインでき事なきを得ました。暗くなって人通りも少なくなった時に、子供が泣きながら歩いていたら今の時世何が起きるか考えただけで気が気でなく、私は本当にパニック状態でした。
マリアとヨセフの場合は携帯も交番もありません。1日分の帰路をエルサレムに戻らなければなりませんでした。その間の二人の思いはどんなものだったか考えただけで心が苦しくなります。エルサレムでも少なくとも丸2日間捜さなければなりまんでした。当時人口5万人位だったそうです。しかも、過越祭の直後でまだ大勢の巡礼者たちが残っていたでしょう。そんな中を一人の少年を捜し出すというのは雲をつかむような話です。丸3日以上の二人の気持ちを考えただけでこちらの胸も張り裂けそうになります。イエス様は無事でした。しかし、二人は無事を喜ぶよりも苦渋の表情を見せました。なぜなら、見つかった息子は、両親の顔を見るなり、お父さん、お母さん、会えてよかった!と泣きながら懐に飛び込んでくるような子供ではなかったのです。親の心配をよそに神殿で律法学者と平然と議論していたのです。両親はなんだこれは、と呆気に取られて大いに困惑したでしょう。彼らに再会の喜びは起きなかったのも無理はありません。
そこでマリアの問いに対するイエス様の次の答えが重大です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」残念ながら、この訳ではイエス様の真意は見えてきません。ギリシャ語原文では「どうして捜したのか」と言っていません。そういうふうに訳すと、あなたたちは捜す必要はなかったんですよ、なのにどうして捜したですか、と言っていることになります。イエス様はそんなことを言っていません。じゃ、何を言っていたのか?原文を直訳すると「あなたたちが私を捜したというのは、一体何なのですか?」その意味はこうです、あなたちが私を捜したというのは、私が迷子になったということなのか?私は迷子なんかになっていない、私は自分がどこにいるかちゃんとわかっている、という意味です。じゃ、どこにいるかというと、「父の家」ということなのですが、「父の家」とはイエス様の本当の父である神の家、すなわちエルサレムの神殿を指します。ところが、ここの訳も訂正が必要です。ギリシャ語原文では「父の家」とはっきり言っていません。「父に属する事柄、父に関わる事柄」です。神殿もそうした事柄の一つですが、他にもあります。何でしょうか?それを見る前にまず、ここの文を直訳すると「私は父に属する事柄/父に関わる事柄の中にいなければならない、そのことをあなたたちはわからなかったのか?」です。それでは、「父に関わる事柄、父に属する事柄」とは何か見てみましょう。
エルサレムの神殿では律法学者たちが人を集めてモーセ律法について教えることをしていました。公開授業のようなものです。モーセ律法について教えるというのは、天地創造の神の意思について教えることです。創造主の神が人間に何を求め何を期待しているかについて教えることです。過越祭に参加していたイエス様は神殿で彼らの教えを耳にしたのでしょう。神のひとり子ではありますが、人間としては12歳です。言語能力、語彙力も12歳です。しかし、両親が敬虔な信仰者で家庭でも祈りをし旧約聖書の話をしてシナゴーグの礼拝に通っていれば信仰上の言語や語彙を習得していきます。12歳のこの時、律法学者の話を耳にして言語的に語彙的に接点が今までになく多くあったと思われます。以前は抽象的過ぎて馬の耳に念仏みたいだったのが、この時はいろいろ耳に入ってきて何が問題になっているかいろいろわかったでしょう。 さて、どんなわかりかたをしたでしょうか?イエス様は神のひとり子です。天の父なるみ神のもとにおられた時はどのような姿かたちを取られていたか私たちは全くわかりませんが、マリアから生まれ出て人間の姿かたちを取りました。12歳の彼の言語能力と語彙力は30歳や40歳の学者よりは限られているかもしれませんが、神の意思についてはイエス様は心と体で100%わかっています。逆に律法学者の方は、言語能力と語彙力は12歳より大きいかもしれませんが、神の意思についてはひょっとしたらほんの少しかわかっていなかったでしょう。抽象的な話に入っていける年ごろになったイエス様は、学者たちがこれが神の意思だと言っていることに大いに違和感を覚えたに違いありません。神は彼の父で、しかもこの世に生まれ出る前はずっとずっと父のもとにいたので神の意思は被造物である人間なんかよりよくわかっています。それで公開授業に飛び込んで、ああでもないこうでもないという話になったのです。イエス様の言葉は学者が使うものとは違うけれど、抽象的な言葉や言い回しで誤魔化すことがなく、全てをわかっているので質問も答えもストレートだったでしょう。人々はこの子は理解があると驚いたのは当然です。
ここからわかるように、イエス様が神に関わる事柄の中にいなければならない、と言ったのは神殿にいなけらばならないという意味ではなく、神の意思が正確に伝えられていないところに行ってそれを正さなければならないという意味なのです。このことは後に大人になったイエス様が活動を開始した時に全面的に開花します。その時のイエス様はシナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読を任される位になっていました。律法学者並みの言語能力と語彙力があります。しかも、神の意思を100%心と体でわかっています。そのような方が神の意思について教え始めたらどうなるか?マタイ7章28節で言われます。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」人間の知識人との差は歴然としていたのです。
ここでイエス様を捜す、見出すということについて私たちの場合はどうか考えてみましょう。私たちは罪が身近に来て私たちと神との結びつきを弱めようとする時、また私たちに起きてくる苦難や困難の時に、父なる神や御子なるイエス様に助けを祈り求めます。ここで、どちらに祈るのがいいのか、両方に祈らなくていいのか?といういうことについて一言述べておきます。どちらか片方に祈っても、キリスト信仰者は次のように祈るので結局は両方に祈ることになります。祈る相手が父なる神の場合は必ず終わりに「私の主イエス様の名によって祈ります」と言います。「イエス様の名によって」というのは「イエス様の名前に依拠して」ということで他の何者の名前を引き合いに出しません、それ位イエス様は私の主ですということを父に知らせます。では、なぜイエス様が主であるかと言うと、彼が十字架にかかって私の罪の罰を代わりに受けて下さったからです。そして死から復活されたことで私に復活の体と永遠の命に至る道を切り開いて下さり、その道をいま共に歩んで下さるからです。助けを祈り求める相手がイエス様の時は、イエス様が約束した通り、祈りを父なる神に取り次いでくれることを肝に銘じて祈ります。
さて、このように祈っても苦難や困難がなかなか終わらないと、イエス様は世の終わりまで一緒にいると言ったのに、一緒にいてくれないような気がしてきます。イエス様は一体どこに行ってしまったのか?キリスト信仰では、救い主イエス様がそばにいたら苦難や困難はない、それらがあるのはそばにいないからだという見方はありません。イエス様を救い主と信じ洗礼によって結ばれたらイエス様は苦難や困難があろうがなかろうが関係なくそばにおられるという見方です。そばにいるのに苦難や困難がなくならないのはなぜか、ということにはキリスト信仰はあまり注意を払いません。祈り願い求めているのに助けがないのはなぜかという質問をたてて答えを得ようとすると、日本のコンテクストではすぐ祟りとか呪いとかいう話になっていくと思います。キリスト信仰ではそういう問いのたて方はしません。苦難困難がなくなるのにどれだけかかるかはわからない、もちろん早く終わるにこしたことはないが、別に早く終わらなくても、それらがなくなる方向を目指してイエス様が一緒についていってくれるからそれでいいという信仰です。
イエス様が一緒についてくれていることがどうしてわかるのか?そこは彼がマリアに言った言葉「私は神に関わる事柄の中にいなければならない」を思い出しましょう。神に関わる事柄の中にイエス様はいらっしゃいます。聖書のみ言葉が神に関わる事柄です。そこにイエス様はいらっしゃいます。教会の礼拝も神に関わる事柄です。特にその中でも御言葉と説教と聖餐式は集中的に神に関わる事柄ですので、イエス様が共におられる密接度が高まります。苦難困難の最中でも御言葉と礼拝と聖餐式を通してイエス様はすぐそばにおられます。捜しに行くまでもありません。日々、聖書のみ言葉を繙きそれに聞き、礼拝に繋がっていればいいのです。祈りは父なるみ神に届いています。解決に向かってイエス様が一緒に歩んで下さるというのが祈りの答えです。それなので私たちは独りぼっちでこの暗闇のような世の中で立ち往生はしないのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
降誕祭前夜礼拝説教 2021年12月24日 クリスマス・イブ
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今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれます。世界中の全てのキリスト教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読される箇所です。「クリスマス福音」は聖書の1ページ程の長さですが、内容は深いです。それで毎年クリスマス・イブの礼拝でこの聖句をもとに説教する人は毎回テキストから新しい発見をします。私も今回はイエス様を出産したマリアの表向きは静かではあるが内面に大胆不敵さが見れたので、そのことに焦点をあててみようと思います。
まずイエス様の誕生の出来事のあらましを見てみましょう。現在のイスラエルの国がある地域の北部にガリラヤ地方と呼ばれる地域があって、そこのナザレという町にヨセフとマリアという婚約者がいました。ある日、マリアのもとに天使が現れて、あなたに神の力が働いて男の子を産むことになる、それは神聖な神の子であり、ダビデの王座に就く王となり、その王権は永遠に続く、と告げます。案の定マリアは妊娠し、それに気づいたヨセフは婚約解消を考えますが、彼にも天使が現れて、マリアを妻に受け入れるようにと言います。生まれてくる子供は人間を罪の支配から救う救い主になる、だからマリアを受け入れなさい、と。ヨセフは言う通りにしました。ちょうどその時、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが勅令を出して、帝国内の住民は自分の出身地にて租税のための登録をせよという命令です。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあったので、皇帝の命令には従わなければなりません。それで、ヨセフとマリアはナザレからユダ地方の町ベツレヘムに旅に出ます。なぜベツレヘムかと言うと、ヨセフはかつてのダビデ王の末裔だったので、ダビデ家系の所縁の地ベツレヘムに向かったのです。グーグルマップで調べたらナザレからベツレヘムまで156,7㎞あり徒歩で31時間かかると出ました。(ちなみに自動車で2時間5分、電車で3時間45分、自転車なら9時間2分だそうです。)身重のマリアは間違いなくロバに乗せたでしょう。日中明るい時に歩きどおしで3日はかかったでしょう。マリアにとっては辛い旅だったと思います。そうまでして行かねばならなかったのは、それ位、皇帝の命令は絶対だったということです。
さてベツレヘムに着いてみると、同じ勅令のためだったでしょうか、町は旅人でごった返しして宿屋は一杯でした。マリアは今にも子供が生まれそうです。ヨセフが必死になって宿屋の主人にお願いする様子が目に浮かびます。そこで宿屋併設の馬小屋に案内され、そこで赤ちゃんを産みました。生まれた赤ちゃんは布で包まれて馬の餌を置く飼い葉桶に寝かせられました。天地創造の神のひとり子で神の御許にいた時は神聖な輝きを放っていた方は人間の救い主となるためにこのような生まれ方をしたのでした。
このイエス様誕生の場面はよく、微笑ましい、何かロマンチックな出来事のように描かれます。子供向けの絵本の聖書を見ますと、「きよしこの夜」の歌のごとくすやすや眠る赤ちゃんイエスとそれを幸せそうに見守るマリアとヨセフ、3人の周りを馬や牛やロバが微笑んで見守るという挿絵が多いと思います。しかし、馬小屋で出産するというのは、そんなに微笑ましいものではないと思います。妻のパイヴィの実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。最初の頃は興味本位で行きましたが、その後は子供たちが行ったきり出てこないので連れ戻すために仕方なく行きました。牛舎は牛の水分補給や栄養摂取がコンピューターで管理され、乳搾りも機械化されていますが、臭いだけはどうにもなりません。牛はトイレに行って用を足すことをしないので、全て足元に垂れ流しです。汚物は床下の汚水槽から外の貯蔵池に流れていきます。ベツレヘムの馬小屋はそういう作り方はしていなかったでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。
それでも、その時のマリアとヨセフの気持ちとしては、ただただホッとしたというものだったでしょう。場所はともあれ雨露しのげる屋根の下で赤ちゃんを出産させることができた、赤ちゃんを包んで寝かせてあげる床も出来た、本当に助かったというのが素直な気持ちだったでしょう。なんでまたこんな場所で、と不貞腐れたりブツブツ文句言うなんてことはなかったでしょう。赤ちゃんを無事に誕生させられたことに心が一杯になっていたでしょう。そういうマリアとヨセフの気持ちを考えれば、イエス様の誕生というのはまさしく闇と汚れに満ちた周りの事物を背後に追いやってしまう位の光の出来事と言ってよいでしょう。
2.
マリアとヨセフが劣悪な環境を気にせずに誕生した赤ちゃんのに心を傾けられたのは、出産を無事済ませられたことだけではありませんでした。彼らには既に、この赤ちゃんはどういう者か、天使のお告げを聞いていたのです。その子は神聖な神の子で、将来ダビデの王座について永遠の王権を打ち立てると言われていました。また、人間を罪の支配から救い出すとも言われていました。永遠の王権を打ち立てるというのはどういうことなのか?それは、ユダヤ民族を支配するローマ帝国を打ち破って民族自決の王国を復興させ、それが未来永劫まで続くということなのか?ならば、人間を罪の支配から救い出すとはどういうことか?確かに旧約聖書には、罪という神の意思に反しようとする性向が人間に備わってしまったことが記されている。人間が罪を持つようになってしまったために神の御許にいることが出来なくなって神との結びつきが切れてしまい死ぬ存在になってしまったことも記されている。人間を罪の支配から救い出すというのは、人間が神との結びつきを回復して神の御許に戻ることが出来るようになることを意味するのか?ということは、人間は死を超えた永遠の命を持てるということなのか?そのようなことを成し遂げる者がユダヤ民族の王国を再建するのとどう結びつくのか?一方では人間全ての救いについて言って、他方では一民族の解放について言っていて話がかみ合わないのではないか?
今、布に包まれて飼い葉おけの藁の上ですやすや眠っている赤ちゃんを見ていると、民族の解放者か人間の救い主かわからないが、そういうことはとても遠いことに感じられます。もちろん、神のみ使いからそう言われた以上は、この子にはこれから何か大変なことがいろいろ起こるのだろう。ローマの皇帝の権力は絶対だし、今いるユダヤの王はローマの傀儡のくせに空威張りの権威を振りかざしている。この子は将来それらを相手に一戦交えることになるのだろうか、想像もできないことだ。考えただけでも恐ろし。しかし、マリアは天使の言った通り処女のまま赤ちゃんを生んだではないか、それで万物の創造主の神がこの子と私たちのことに目を注いでおられることはわかった。神に注視されていることがわかると、将来に対する心配は馬小屋の暗闇と汚れが背後に退いたようたように退きます。マリアとヨセフは生まれたばかりの赤ちゃんをそれこそ闇の中に輝く光のように見続けていたでしょう。
その時です。周囲が騒がしくなり、光と闇の静寂を破って大勢の人たちが馬小屋に入ってきました。先頭にいた羊飼いたちが言いました。「ここだ!ここだ!その赤ちゃんはここにいるぞ!天使が言った通りだ、布に包まれて飼い葉おけに寝かされている!」羊飼いたちの他にも人がいたことは18節からわかります。羊飼いたちは大声で言ったのか、声を押し殺しながら言ったのかはわかりません。イエス様が起きて泣き出したのか、起きずにすやすや眠り続けていたのかもわかりません。いずれにしても羊飼いたちは自分たちに起こったことをマリアとヨセフそして一緒に来た人々に話し始めました。
郊外の野原で羊の番をしていた時でした。神のみ使いが突然、私たちの目の前に現れて、神の栄光の輝きが私たちを覆いました。恐れおののく私たちにみ使いは言いました。「恐れることはない。旧約聖書を持つイスラエルの民全員に大きな喜びの知らせを告げよう。今日ダビデの町で救い主がお前たちにお生まれになった。その方はメシアであり主である。その印として、お前たちは布に包まれて飼い葉おけに寝かせられた赤子を見つけることが出来るだろう。」天使がそう言うと、今度は大勢の天使が現れて神を賛美して言いました。「いと高き天には栄光、神に。地には平和、御心に適う人に。」すると天使たちは天に帰っていなくなり、辺りはまた静かな闇に変わりました。しかし私たちは、すぐベツレヘムに行って神が知らせてくれたことを見に行こうと羊ともども出発しました。飼い葉おけと言うから、どこか馬小屋に違いありません。でもどこにあるかわからないので、町の人たちを起こしながらやっと探し当てました。
一緒について来た人たちは羊飼いの言うことにただただ驚くばかりです。メシアが馬小屋にいると言うからついてきたら、何だ赤ん坊じゃないか!いや、天使が言った通りのことが起きたのだから、やっぱりメシアじゃないか?みんな半信半疑です。イエス様を出産したマリアはどうだったでしょうか?「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(19節)。」この箇所のギリシャ語原文の意味合いは少し違います。正確を期すると原文の趣旨はこうなります。「しかし、マリアはこれら全ての事柄を一つも漏らさず総合して考えて心の中に保管していた。」「これら全ての事柄」とはイエス様の誕生にまつわる全ての事柄、最初の天使のお告げから高齢のエリザベトの妊娠そして今回の羊飼いたちに起こったことの全てです。それを全部を総合して考えたというのはマリアは事の全体像を理解したということです。つまり、マリアはイエス様の誕生の背景に神の何か周到な計画があるとわかったのです。それを心の中に保管していたというのは、どういうことか?今マリアの周りでは羊飼いたちが、天使の言ったことは本当だった、と大喜びしていて、その他の人たちは半信半疑でいるという正反対な状態にいます。そうした中でマリアは彼らに対して口を開かなかったということです。羊飼いと一緒に喜び合うこともせず、半信半疑の人たちに説明や説得することもせず、マリアはただ、全ては神の計画によるものとわかったことでよしとして静かに赤ちゃんを見つめていたということです。
メシアという言葉について。当時はユダヤの人たちにもその意味は明確ではありませんでした。それなのでこの時マリアが、この子はメシアです!と言わなかったのは賢明でした。いずれ、イエス様がどういうメシアであるかはっきりするのですから。今はただ、神は羊飼いを通してもお告げをして下さった、この子を通して神の何か計り知れない計画が実現することがわかった、その計画の具体的な内容はまだわからないが、自身の計画を実現させるために神は間違いなくこの子と私たちと共におられ、私たちのことを絶えず見守っていて下さる、そのことがわかった。それで十分でした。その時のマリアは神への信頼が一層強まり、何も恐れることはないという心でした。このように何かとてつもなく大きなことをわかっていながら口数が少なく物静かというのは圧倒させるものがあります。逆に何もわかっていなくて口数が多く騒がしいというのは軽い感じがします。
3.
創造主の神はこの私に目を注いで下さる、私が歩む道で具体的に何が起こるかは先立って何もわからない、しかし、神が私と共にいて私を守り導いて下さることは確かなので心配はいらない。これがこの時のマリアの静かな大胆不敵さの内容でした。私たちも同じような静かな大胆不敵さを持つことが出来るでしょうか?それは、イエス様が私たちにとって本当の意味でのメシアになることで出来ます。
先ほども申し上げましたように、当時メシアの意味は旧約聖書を持っていたユダヤ民族の間でも明確ではありませんでした。それは民族を外国支配から解放してくれる王様なのか、それとも一民族を超えた全人類を共通の敵である罪と死から解放してくれる救い主なのか。この世に人間として誕生された神のひとり子イエス様は後者であることを明らかにしました。
イエス様はこの世にあった時、まず旧約聖書の内容を正確に人々に教えました。彼の教えの中で最も大切なことの一つは「神の国」でした。それは今ある天と地が終わって新しい天と地が創造される時に現れる国です。その時、死者の復活が起きて、復活の体と永遠の命を与えらる者は神の国に迎え入れられます。イエス様は数多くの奇跡の業を行い、将来の神の国がどのような国であるかを人々に垣間見せました。黙示録で預言されているように、飢えも渇きも病も痛みも苦しみもなく、この世での全ての無念が晴らされて全ての涙が拭われるところです。しかし、イエス様は神の国について教えただけではありませんでした。なんと、人間が神の国に迎え入れられるようにすることもやってのけたのです。人間がそこに迎え入れられるのを不可能にしていた罪の問題を人間のために解決して下さったのです。それがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。イエス様は人間の罪を全て背負って十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれ人間が受けないようにと盾になって下さったのです。あとは、人間の方が、イエス様は本当に自分を犠牲にしてまで私の罪を神に対して償って下さったとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。罪の償いを済ませた者にしてもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたのだから、神との結びつきを回復してこの世を生きられるようになります。この結びつきは自分から手放さない限り失われることはありません。
さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、復活の体と永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を進むことになります。日々の生活と人生の課題の中で神の意思に反することに気づかされる時があります。その時はいつもイエス様の十字架のもとに戻って罪の赦しに留まる自分を神に確認してもらいます。このように神のひとり子が自分を犠牲にしてまでこの私に良いもの大切なものを与えて下さった恩義に恥じないように生きようと心がけ続けていけば、この世から別れた後、復活の日に復活の体と永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられます。
このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、自分に対する神の計画の全容が明らかになります。神との結びつきが回復し、その結びつきを持ってこの世の人生を歩むことになります。自分が置かれた道は神の国に通じるものです。神は私たちをそこに至らせたいので、順境の時であっても逆境の時であっても神との結びつきは変わらずにあります。いつも神に見守られているのです。道を進んでいく時に、具体的にどんなものに遭遇するかは先立ってはわかりません。人間はいつも事後的に神の導きと見守りがあったと気づくだけです。そのため見えない先のことを考えると少し不安になります。しかし、神の計画の全容ははっきりしています。それは周到な計画で、具体的に遭遇すること一つ一つを全て合わせたものよりも遥かに大きなものです。だから具体的に何かに遭遇する前に静かに大胆不敵にしていられるのです。マリアと全く同じです。願わくば、出来るだけ多くの人が、マリアのような静かな大胆不敵さを持てて、この不穏と悪に満ちた世にあっても「腰に帯を締め雄々しく」していられるように。イエス様という大元の光を見つめながらその光を映し出す「世の光」となれますように。
主日礼拝説教 2021年12月12日待降節第3主日 ゼファニア3章14-20節フィリピ4章4-7節、ルカ3章7-18節
今日の説教題「洗礼の結ぶ実」を見て、あれっ、「聖霊の結ぶ実」の間違いじゃないのと思われた方もいらっしゃると思います。使徒パウロはガラテア5章で「聖霊の結ぶ実」と言っていて、それは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であると言っています。実は「洗礼の結ぶ実」も同じことです。洗礼がどんな実を結ぶかがわかると「聖霊の結ぶ実」もよくわかるようになると思います。
今日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネが出てきます。呼び名のごとく人々に洗礼を授けました。大勢の人たちが洗礼を受けにきました。人々は神の怒りの日が来ることを恐れ、神の怒りから免れる手立てになると思って洗礼を受けに来たのです。神の怒りの日というのは、旧約聖書の預言書のあちこちに「主の日」なる日が来ると預言されていますが、それと同じ日です。神が怒りを込めて裁きを行うという日です。誰をなぜ裁くかと言うと、まず、ユダヤ民族内部の神の意思に背く人たちです。もし背くのが民族全体ならば全員です。罰の与え方としては、強大な大国を呼び寄せてユダヤ民族を攻めさせて滅ぼしてしまうということがあります。紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚がその例です。さらに、ユダヤ民族を滅ぼして得意がっている外国も滅ぼされます。その例は枚挙にいとまがありません。
紀元前6世紀終わりにバビロン捕囚が終わり囚われの民が祖国に帰還できてエルサレムの町と神殿を再建します。その後の時代になると、神の怒りの日はユダヤ民族や周辺民族だけに関わるものではなくなって全人類に関わるスケールの大きなに理解されるようになります。その背景には、旧約聖書の預言書に終末論の見方がはっきり出るようになったことがあります。イザヤ書の終わりの方65と66章を見ると、天地創造の神は今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造するという預言があります。またダニエル書7章や12章では、この地上の歴史が終わる時、神と共に人類を裁きにかける「人の子」が到来して、死者の復活が起きて神の栄光を受けられる者と受けられない者の選別が行われるという預言が出てきます。これがいわゆる最後の審判です。今日の洗礼者ヨハネの言葉からも明らかなように、神の怒りは神の意思に沿う者と沿わない者を選別し、沿わない者は永遠の炎の中に投げ込んでしまうという怒りです。
このようにユダヤ民族を主役にして考えられていた神の怒りの日は全人類に関わるものになりました。しかし、それは旧約聖書を貫く観点からすると当然なことでした。というのは、人間はユダヤ民族かどうかに関係なく全員が創造主の神に造られ、最初に造られた人間が神の意思に背くようになって罪を持つようになってしまった、だから罪は全ての人間に受け継がれている、そういう人類普遍の観点が聖書に貫かれています。ひとつ参考までに、本日の旧約の日課ゼファニア3章を見てみます。15節「主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた」は、一見するとユダヤ民族を虐げる敵対民族を撃退するということでバビロン捕囚からの解放を預言しているように見えます。「お前に対する裁きを退け」も、神がユダヤ民族に罰としてバビロン帝国を送って攻撃させたという神の裁きが撤回されたことを意味しているように見えます。しかし、ヘブライ語のミシュパートは日本語訳の聖書ではよく「裁き」と訳されますが、辞書(Holladayのです)を見るとjudgementの意味は出ていません。ここでの使える意味は「訴訟」とか「告訴」です。その意味でいくと、人間と神の間を引き裂く力である悪魔が人間のことを、この者は罪がある、だから裁くべきだ、と神に訴えるのです。その悪魔の告訴が退けられ、人間の敵である悪魔が追い払われるという預言になります。こうなるとゼファニアのこの箇所はユダヤ民族を超えて人類普遍なことになります。どのようにして悪魔の告訴は退けられたのか?イエス様が成し遂げたことによってです。それについては後ほど詳しくお話ししましょう。
さてヨハネはユダヤの荒野から出てきて「悔い改めよ、神の国は近づいた」と大々的に宣べ始めます。旧約聖書の内容を知っていた人たちはこれはイザヤ書40章(特にギリシャ語訳の)の「荒野の叫ぶ声」だと察知しました。神の国が近づいたということは新しい天と地が再創造される日が近いということだ、そうすると、今ある天と地はもうすぐ崩壊する、神の裁きもすぐ来る、これは大変だ、と思ったのでしょう。それで人々はこぞってヨハネが勧める「悔い改めの洗礼」を受けに来たのです。ヨハネの洗礼を受けたら神の怒りを免れて永遠の炎に投げ込まれずに済んで神の国に迎え入れられると考えたのです。ところがヨハネは、自分の洗礼にはそんな力はないと認めました。もうすぐ自分よりも偉大な方が来られ、その方は聖霊と火で洗礼を授けると言ったのです。その方とは言うまでもなくイエス様のことです。イエス様が設定する洗礼こそが神の怒りを免れる洗礼であると。聖霊と火が伴うイエス様の洗礼とはどんな洗礼でしょうか?そのことをこれから見ていこうと思います。
イエス様の洗礼をよくわかるために、もう少しヨハネの洗礼がどういうものか見てみます。ヨハネは洗礼を受けに来た人にかなり厳しいことを言います。お前たちは蝮から生れ出た者だなどと。「悔い改め」に相応しい実を結べ、結ばないと火に投げ込まれる、つまり、神の怒りをもろに受けると言います。「悔い改め」に相応しい実を結ぶとは具体的には何をすることでしょうか?取税人に対しては、定められた額以上を取り立てるなと言います。このことから、当時は定められた額以上に取り立てていたのが普通だったことがうかがえます。兵隊たちには市民から強奪するな、貰っている給与でよしとせよと。当時は強奪は日常茶飯事だったのでしょう。一般市民に対しても、自分が持つ物を持たざる者に分け与えよ、と言います。これからするに当時は、持たざる者はほおっておけばいいというような、今風に言えば新自由主義的な自己責任論がまかり通っていたのでしょう。蝮から生れ出たと言われるのも無理はありません。
ここで、ヨハネはこれらの行いを洗礼の条件にしたことが見て取れます。12節を見ると、取税人たちが洗礼を受けるためにヨハネのもとにやって来て、私たちは何をすべきでしょうか?と聞きます。それに対してヨハネは規定以上に取り立てるなと命じます。神の怒りから免れようと洗礼をもらいにやって来て、受ける前にそのように言われたら、普通だったら、はい、その通りにいたします、と約束して受けることになるでしょう。そうすると、定められた行いをすること、ないしはすると約束することが洗礼の条件としてあります。これら悔い改めに相応しい行いを行って相応しい実を結んだことを示してから、ないしはそれを約束してから洗礼を受ける、そうすれば洗礼が中身を伴ったものになる、逆に行いなしで洗礼を受けたら中身を伴わない形だけのものになってしまうということです。その意味で、ヨハネの洗礼は正しい行いとセットになって有効性がある洗礼と言うことが出来ます。
ヨハネの洗礼はまた、「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」とも言われます(ルカ3章3節)。悔い改めにふさわしい正しい行いをしてヨハネから洗礼を受けると罪の赦しに至ると言うのです。「罪の赦しに至る」というのは微妙な言い方です。ギリシャ語原文がそういう言い方をしているのですが、それは行いをして洗礼を受けたら即罪が赦されるのか、それとも行いをして洗礼を受けたら将来罪の赦しを得られる軌道に乗るということなのか、どっちの意味も可能です。ここではどうも罪の赦しは将来のことのようです。というのは、ヨハネは自分の後に自分より強力な方が来られる、その方は聖霊と火を伴う洗礼を行うと言うからです。その方とは言うまでもなくイエス様です。ヨハネの洗礼では即罪の赦しは得られない、イエス様の洗礼で得られるようになることを意味したのです。それなので、ヨハネの洗礼は罪の赦しに至る軌道に乗せるものだったのです。
それでも人々はヨハネから洗礼を受けると即罪の赦しを得られると信じて受けにきました。そう信じる背景には、当時のユダヤ教社会には水を用いた清めの儀式があったことがあります。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、それは本当はあり得ないことでした。マルコ7章の初めにイエス様とユダヤ教社会の宗教エリートたちとの論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、ということでした。宗教エリートたちが重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。その目的は外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間は本質的に神の神聖さに相反する汚れに満ちている。律法の掟を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないので神の意思に沿ったり実現することには程遠く、将来最後の審判をクリアーして神の国へ迎え入れられることを保証するものではない、とイエス様は教えるのです。
人間は自分の力では罪の汚れを除去できないというのがもう真理ならば、どうすればいいのか?除去できないと、最後の審判の時に神聖な神を前にしてなす術がありません。この人間にとって行き止まりの状態を突破するために神が編み出した方策は次のものでした。ひとり子をこの世に贈り、本当だったら人間が受けるべき罪の罰、神罰を全部彼に受けさせて人間の罪の償いをさせる、この身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そこで人間が、神がひとり子を犠牲に供したのはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると彼にしてもらった罪の償いはその人のものになります。その人は神のひとり子に罪を償ってもらったのですから、神からは罪を赦された者と見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから、神と結びつきを持ってこの世を生きることになります。
さらに神はイエス様を想像を絶する力で死から復活させました。これで死を超えた永遠の命が本当にあることがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。神との結びつきを持って進む道は、永遠の命が待っている神の国に至る道です。たとえ、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、復活の体という神の栄光を映し出す体、朽ちない体を着せられて神の国に迎え入れられることになります。
ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。神が人間に贈り物のように与える罪の赦しはまだ確立していません。それなので、ヨハネから洗礼を受けても、それは罪の赦しに至る軌道に乗せるものにしかすぎませんでした。これとは別に神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要でした。イエス様の身代わりの犠牲がもたらした罪の赦しがそれだったのです。
イエス様が設定する洗礼には、ヨハネの洗礼のように良い実を結ぶという条件はありません。イエス様のことを救い主とわかって信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができ神から罪を赦された者として見てもらえるようになる。これがイエス様の洗礼です。何か良い業をして洗礼を受けるということはありません。そんなことしたらイエス様が果たしたことは何か不足があることになってしまいます。神から罪の赦しを頂くにはイエス様の十字架の業だけでは足りないということになってしまいます。そういうわけでキリスト教会の洗礼というのは実に、神から罪の赦しを頂けるためにはイエス様がこの私に果たして下さったことで十分ですと観念することと言っても過言ではないでしょう。本当に罪の赦しは神からのお恵みとして頂くものなのです。それじゃ、キリスト信仰者は良い実は結ぶ必要はないのかという疑問が起こると思います。この疑問に対する答えを見つけましょう。
ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2ー3節)、罪からの浄化を意味します。しかし、本当に罪から浄化されるでしょうか?
実を言うと、洗礼を受けてキリスト信仰者となっても、神の意思に反しようとする罪はまだ残ります。それじゃ、精錬されていないじゃないか、イエス様の洗礼には力がないじゃないか、と言われるかもしれません。洗礼受けても罪を持ち続けるのなら、最後の審判をクリアーできないじゃないか、キリスト教会の洗礼には意味がないのか、と言われてしまうかもしれません。
洗礼には意味があります。洗礼を受ける前と後で決定的な違いが起こります。それは、罪の側ではなく神の側に立って生きるようになることです。神に背を向ける生き方でなく神の方を向いて生きるようになることです。十戒の掟は、なんじ殺すなかれにしろ、なんじ姦淫するなかれにしろ、そういうことをしないで済んだら合格というような甘いものではありません。イエス様が言われたように、兄弟を罵ったら同罪、異性をみだらな目で見たら同罪になるほど天地創造の神は私たちの心の有り様まで問うてくるのです。キリスト信仰者になれば、神の意思に敏感になるので心の中に神の意思に沿わないことが出てくるとすぐ気がつきます。その時、どうしたらいいのか?洗礼を受けたくせに神の意思に反することに心を許してしまった、イエス様の尊い犠牲を汚してしまったので神は失望し怒るだろう、そう思って落ち込むしかないのでしょうか?いいえ、そうではありません。そういう時のキリスト信仰者の立ち振る舞い方はこうです。まず神の意思に反するものがあると気づいたら、見て見ぬふりをせず、すぐ神のみ前に跪きイエス様は私の救い主です、彼の尊い犠牲に免じて罪を赦して下さいと祈ります。その時、神はこう言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じて赦すから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい」と、ヨハネ8章でイエス様があの女性に言ったのと同じ言葉を私たちに言って下さいます。そして、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて罪の赦しが間違いなくあることを確認させて下さいます。私たちは、あの十字架が歴史上打ち立てられた以上は赦しは間違いなくあり、その赦しの中に留まって自分からはみ出さない限り、神との結びつきは失われることはなく、復活の日に至る道を迷うことなく進んでいることがわかります。あの十字架が打ち立てられて洗礼を受けた以上はそうなのです。このように人間に罪のあることを気づかせるのも、また、ゴルゴタの十字架を目の前に見せて洗礼の時の立ち位置に戻してくれるのも、みんな聖霊の働きによるものです。
キリスト信仰者の人生は、洗礼の時に注がれた聖霊の働きに自分を委ねて罪の自覚と神からの赦しを得ることを繰り返していく人生です。この繰り返しということが大事です。というのは、繰り返しは私たちが罪の側ではなく神の側に立って生きることそのものだからです。まさに罪から贖われた者の生き方です。火の精錬、罪からの浄化も同じことです。洗礼を受けて一気に精錬された、浄化されたのではなく、洗礼を受けることで精錬されていくこと浄化されていくことに身を投じたのです。罪の自覚と赦しを得ることを繰り返してきたということは、イエス様が果たしてくれたことを最大限活用したということです。そうなると最後の審判の時、神としてもあなたが神の側に立って生きてきたことを認めないわけにはいきません。その時、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて、精錬と浄化の長いプロセスは完了します。もう自覚すべき罪もなく赦しを得る必要もなくなります。
パウロがガラテア5章で「聖霊の結ぶ実」と言っているものは、まさに洗礼を受けた後、罪の自覚と赦しを得ることを繰り返していくうちに実ってくるものです。洗礼を受けた後で自分自身を聖霊が働く場にすると実ってくるものです。だから「洗礼の結ぶ実」と言っても同じです。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が言われていますが、これら漢字で書かれた単語は言葉としてはわかるのですが、まだ抽象的すぎると思います。それらをもう少し具体的にわかりたいと思えば、ローマ12章でパウロが教えていることを見ればよいと思います。
悪を嫌悪せよ、善に留まれ、お互いに対して心から兄弟愛を示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たちと共にいるように努めよ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和な関係をもてるかどうかがキリスト信仰者次第という時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が損なわれた時は神の怒りに委ねよ、神が報復されるのだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝つことがあってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。
以上、~しなさいと命令文ばかりで、これでは自分の力で頑張って実らせなければならない感じがします(少し細かいことを言うと、ギリシャ語原文は全部が命令形で書かれていません。一部は~しなさいと命令文ですが、大部分は分詞形で書かれています)。パウロの趣旨は、頑張ってこうせよ、ではありません。洗礼を受けて聖霊を与えられて、罪の自覚と赦しを得ることを繰り返す生き方をすれば、こういうふうになるのが当然なのだ、それを忘れるな、とリマインドしているのです。リマインドされて、どうもパウロの言うことが遠くに感じられるのであれば、それは罪の自覚と赦しを得ることを繰り返すことを怠っていたと気づかなければなりません。怠ったまま、パウロが言っていることをしようとすると苦しくなります。というのは、パウロの上記の教えの中には、お気づきのように、その通りにすれば自分が不利になるようなこと、お人好しが過ぎることがあります。それでそれらのことをやろうとすると仕方なくやる、嫌々することになっていきストレスがたまります。
ところが、罪の自覚と赦しを得ることを繰り返していくと、たとえお人好し路線でも神の意思がそうならばそれでいいという感じになります。それで当然のことになるのです。
主日礼拝説教 2021年12月5日待降節第二主日 マラキ3章1-3節、フィリピ1章3-11節、ルカ3章1-6節
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先週の主日にキリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。クリスマスまでの4つの主日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は2千年以上前の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主をお贈り下さった天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスを迎えお祝いします。
待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申し上げましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることを忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。待降節やクリスマスを過ごして、ああ今年も終わった、また来年、と言って済ませてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心があるか確認して一年間それを維持してまた確認するという具合に再臨に向けて気を緩めず備えなければなりません。
とは言っても、主の再臨の日というのは、この世の終わりの日、今ある天と地に替わって新しい天と地が再創造される日、さらには最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは父なるみ神以外は誰も知らない、とイエス様は言われます。それゆえ、その日がいつ来ても大丈夫なように、不意をつかれないようにいつも「目を覚まして」いなければならないと教えられたのです。
先週の礼拝説教でこの、主の再臨に向けて目を覚ましているというのはどういうことか、お話ししました。それは、この世の終わりはいつなのか、最後の審判はいつなのか、などと心配して怯えて生きることではないと。それは、この世で生きる自分には創造主の神の意思に反する罪が宿っている、それを自覚して神から罪の赦しを繰り返し頂くこと、それが主の再臨に向けて目を覚ますことであると申しました。また、罪の自覚と赦しの頂きを繰り返していくと、人間関係において自分をヘリ下させたり、正しいことのために損をする役割を引き受けたりすることがいろいろ出てくるが、そうすることも目を覚ますことであると申しました。そういう生き方になればなるほど最後の審判は有罪判決を受ける場ではなくなって無罪判決を受けて神の国に迎え入れられる場になる、だからそういう生き方をする人はヘリ下ることや損をすることを別に何とも思いません。
このように最後の審判をクリアーできることが視野に入ってくるので、罪の自覚と赦しを繰り返し頂く人生、損を顧みないお人好し人生、そうした人生はイエス様の再臨を待ち望む心がある人生です。再臨を待ち望むから再臨に向けて目を覚ましているのです。主の再臨さん、どうぞいつでも来て下さい、そういう気持ちで今は手元にある課題や果たすべきことを果たしていくのです。そう言うと、この世が終わると言う時に課題なんかやってられるか、と言う人もいるでしょう。しかし、宗教改革のルターは次のように言っていました。この言葉はルター本人が言ったかどうか異論がありますが、ルターなら間違いなく言いそうだという言葉です。ある人が「ルター先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?」と聞きました。ルターの答えはこうでした。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」
明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?
それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという、本当は新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論なのです。永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完結したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。例えば、この世で悪と不正に対して戦うことが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。ルターの明日この世がおわるという時にリンゴの木を植えるの大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に対して戦うこと、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。
以上から、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来ることが明らかになったと思います。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来ると言ってもいいでしょう。
前置きが長くなってしまいました。今日は福音書の日課を中心に説き明かしをしていきます。本日の箇所は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。ヨハネはエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこに留まりました。その日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。
ここでヨハネの洗礼は復活されたイエス様が命じた洗礼とは異なることについて述べておきます。イエス様の洗礼は、受けると神から罪の赦された者として見てもらえるようになるという洗礼です。ヨハネの洗礼はまだそこまで行かず、神さま、私には罪があります。赦して下さい、と告白することで神に背を向けていた生き方をやめてこれからは神の方を向いて生きますという印です。罪の赦しを実際に与えるのはイエス様の洗礼です。
大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。ルカは、旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことはこのことだったとわかって、それを引用して書き出しました。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
洗礼者ヨハネの活動は、イエス様の到来に備えて人々に罪の自覚を呼び覚まして罪の赦しを願い求める心を起こすことでした。そのような心を起こすことで人々がイエス様を受け入れるように準備することでした。
ところがイザヤ書の引用を見ると、心を準備するということは見えてきません。見えてくるのは、谷を埋めて山を低くし、曲がった道をまっすぐに、でこぼこの道は平らに、と言っていて、あたかもイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているようにみえます。人々の心の準備を整えるのではなく、イエス様が活動しやすい環境を整えよと言っているようにみえます。
ところが、このイザヤ書の個所は目を見開いて見るとやはり心の準備のことを言っていることがわかります。まず、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っていますが、これは、~せよ、と命令形です。その次に「谷は全て埋められ、山と丘はみな低くされる」と言っていますが、ここからは全部未来形で将来に起こることを言っています。つまり、道筋を真っ直ぐにせよ、そうすれば、谷は埋められ、山は低くされ、人は皆、神の救いを見ることになるだろう、と命令したことをすれば、そういうことが起こるだろうと言っているのです。
そこで命令した後に起こることを見ていくと、「山と丘は低くされる」と言います。「低くされる」のギリシャ語原文の動詞(ταπεινοω)は「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人や心を意味し、それをヘリ下させるということです。人の心を暗に言っていることがわかります。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っているのか見えてきません。ところが、イザヤ書40章4節のヘブライ語原文を見ると、ここのところは「埋める」という動詞は使われておらず、「高くする」という動詞(נשא)です。ヘブライ語では「谷底を高くする」という言い方で、低くされた者を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。
次に「曲がった道はまっすぐに」とありますが、ルカ福音書のギリシャ語原文、イザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで道と解する必要はありません。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見ても(σκολιος、עקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味します。それが「まっすぐになる」というのは、単語の意味を調べると(מישור)、真っ直ぐな、公正な、正しい、義に満ちたという意味があるので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っています。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命令して、その後に、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道について言っているようですが、実は心のことを言っていて、心が神の救いを見るのに相応しくなかったが相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があります。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」というのは、神や神が贈る救い主が遠方から私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。
私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物は何でしょうか?それを私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言った言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。これが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです(6章23節)。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。
これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から別れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう考えて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのです。
神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の力で罪を自分から除去することができません。出来ない以上、人間は罪にまみれ罪の力に服したままで、それでは神との結びつきを失ったままこの世を生きることになります。この世から別れた後はもう永遠に自分の造り主のもとに戻れなくなります。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせて死なせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。
このようにして遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に贈ることで、そしてその彼を通して私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復してこの世を生き抜いて、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるようにするためでした。
それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?
それは私たちが、このような神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けて行われたもので、だから、この自分に対しても行われたのだとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受けることで神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道は真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。洗礼を受けることでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分にその通りになって、それで自分は罪を償ってもらった者になります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見なしてもらえます。神から罪を赦された者として見なしてもらえるというのは、もう罪の側について生きるのではなく、神の側について生きるということです。
神の側について生きるということについて。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したということではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見ていてくれるのか、不安になることが沢山出てきます。しかし、キリスト信仰者というのは、自分の内にある罪に気づいたとき、見て見ぬふりをしたりせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈り求めます。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。キリスト信仰者は実にこうしたことを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向かう道を進んでいくのです。
このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。このようにイエス様の十字架の死と死からの復活により頼んで生きてきた者は最後の審判の時、「お前は神の側について生きてきた」と裁き主から認められます。まさに神の救いを見ることになるのです。
最後に、本日のルカの記述から聖書の神は人間の歴史そのものと歴史のただ中で生きる人間に働きかける神であることについて述べておきます。ルカは洗礼者ヨハネが活動を開始した時を「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」であったと記しています。
ここから明らかなようにルカは、天地創造の神というのは人間の歴史にも働きかける神であるという旧約の信仰を受け継いでいます。旧約聖書を繙くと、誰々王の治世何年に神の言葉が誰々に降った、という言い方が沢山出てきます。神は天地創造を行った後は天の御国に引きこもって、あとは堕罪に陥った人間が勝手にしていればよいなどと御国で隠居生活を送っていたのではありませんでした。神は堕罪に陥った人間が再び自分のもとに戻れるようにしようと決意し、そのために時と場所と民族を選び、あとは人間の歴史の流れと共に歩み、絶えず自分の意思や御心を人間に発信し続けました。そしてその時が来た時、すると決めていたことを実行に移したのです。人間を罪と死に支配された状態から救い出すためにひとり子を犠牲に供することに踏み切ったのです。このような計り知れない知恵と力と愛を持つ神は、とこしえにほめたたえられますように。
主日礼拝説教2021年11月28日 待降節第一主日 聖書日課 エレミヤ33章14節-16節、第一テサロニケ3章9-13節、ルカ21章25-36節
今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。
今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、今日初めて聞く方もいらっしゃるのでお話ししますと、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の教会讃美歌の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。
その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、当時の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。画面は何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。今年は、一旦おさまっていたコロナがまた拡大してしまったので、今日の教会の人の入りはどうなるでしょうか?スオミ教会のホームページにエスポ―大聖堂の6年前のホサナ斉唱のビデオを紹介していますので、ご覧になれる方は雰囲気を味わってみて下さい。
さて、スオミ教会のホサナですが、昨年から日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年はマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。今日のルカ21章も同じ内容です。説教者としてちょっと戸惑います。以前ですと、聖霊降臨後の終わりの頃はイエス様の終末の預言や最後の審判に関するものが中心で、待降節に入ってガラッと雰囲気が変わってイエス様の降誕に目が向くという流れになったものです。それが今は、待降節になってもまだ終末テーマで続けなければならないというのは気が重くなります。パイヴィも、ホサナの日だからフィンランドと同じ聖書日課にしたら?などと言って、私も迷いました。しかし、やはり「郷に入っては郷に従え」だろうと思い、定められた日課に従うことにしました。
でも、よく考えてみると、待降節に終末テーマがあるのはあながち場違いではありません。待降節というのはクリスマスのお祝いを準備する期間です。では、クリスマスは何をお祝いする日なのか?人によってはサンタクロースが来る日をお祝いすると思う人もいるのですが、サンタクロースはクリスマスのお祝いの付属品です。付属品なので、別に来なくてもクリスマスのお祝い自体に影響はありません。クリスマスとは、天の父なるみ神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれてきたという、信じられないことが2000年少し前に今のイスラエルの地で起こったことをお祝いする日です。その当時、メシアと呼ばれる救世主の到来を待ち望んでいた人たちがいました。マリアに抱かれた幼子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされたシメオンやハンナはそうした人たちでした。それで待降節とは、そうしたメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いにする期間です。私たちもメシア・救世主が必要だろうか、なぜ必要だろうかと考えてみる期間です。
ところが、この「待ち望む」思いはクリスマスが終わったら終わるものではありません。本当はイエス様を待ち望むことはまだ続くのです。待降節ではそのことも覚えなければなりません。どういうことかと言うと、イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられましたが、それ以前に自分は再び降臨する、つまり再臨すると言っていたのです。最初の降臨は家畜小屋で起こるというみすぼらしい姿でした。天使が羊飼いに知らせなかったら誰にも気づかれなかっただろうというものでした。次の再臨は、本日の福音書の個所やマタイとルカの個所でも言われるように、眩い程の神の栄光の輝きを伴って天使の軍勢を従えて全世界が目にするものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地を創造してそこに神の国が現れ、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないか最後の審判が行われる、そういう想像を絶する大変動が起きます。しかも、その審判を行うのが再臨の主イエス様だというのです。
そういうわけで今私たちが生きている時代と空間というのは、実にイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間であり空間です。さあ、大変なことになりました。今私たちがいる時代と空間はイエス様の再臨を待つ時代と空間だという。しかも、再臨は最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の家畜小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話ではない。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の気持ちではないでしょうか?イエス様は今度は赤ちゃんではなく、その時点で生きている人と既に死んでいる人全部を相手に神の国へ入れるかどうか判定する裁き主として来られるのです。
天地創造の神の手元には「命の書」なる書物があってそれが最後の審判の時に判定の根拠になることが旧約新約の両聖書を通して言われています。全知全能の神は私たちの髪の毛の数も数え上げているくらいの方です。命の書には、地上に存在した全ての人間一人一人について全てのことが記されていると言ってよいでしょう。詩篇139篇を繙けばわかるように、神は人間の造り主なので人間のことを徹底的に知り尽くしています。つまり、神は私たちのことを私たち自身よりも良く知っているのです。だから、私たちが自分のことをよりよく知ろうとするなら、遠回りに聞こえるかもしれませんが、私たちの造り主である神について教えてくれる聖書を繙くのが手っ取り早いのです。
このように考えていくと最後の審判は恐ろしいです。神聖な神の目から見て自分には至らないところが沢山あったことを神は全て把握している。神とイエス様の御前で私は潔白ですなんてとても言えないのではないか。しかしながら、最後の審判は視点を変えると違って見えてくることも知らなければなりません。例えば、社会の中でいわれのない誤解や中傷を受けたとします。今のようなSNSが悪用される時代では名誉回復の可能性はどんどん難しくなっているような印象を受けます。それだけ悪い思いと力がITを駆使して巧妙、狡猾になっているからです。加害者なのに被害者を装ったり、被害者を加害者に仕立てるような倒錯がまかり通っています。残念なことに誤解を正すことや中傷からの名誉回復はますます至難の業になっているように思えます。しかし、たとえどんなに至難の業でも、聖書の神を信じる者にはまさに全知全能の神、真実や真相を全て把握している神がついていてくれます。その神が誤解や中傷を受けた人たちの名誉回復をどんなに遅くとも最終的に最後の審判で果たして下さいます。黙示録21章で神は全ての目から涙を拭い取られると言われる通りです。このように最後の審判の裁きというのは、人を有罪に定めるだけでなく、神が「お前は潔白であると私は認める」と言って無罪にすることも出来るのです。ところが、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を持っています。そんな人間が神から潔白だと言われることがあり得るでしょうか?
それを「あり得る」にするために神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのでした。イエス様は人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて下さいました。そこで本当は人間が受けるべき神罰を代わりに受けられて死なれました。イエス様は人間の罪の償いを神に対して果たして下さったのです。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命への道を人間に切り開いて下さいました。
このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償って私を永遠の命に向かわせるためになされたのだとわかって、それでその大役を果たしたイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けるという段取りになります。そうすると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。罪を償ってもらったのだから、その人は神から罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたのだから、これからは神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。先ほども申しましたように、どんな誤解や中傷を受けても、それは真実ではないと全てを知っている神がそばについていて下さいます。神はまた真実の側に立つ人間や天使も助っ人に送って下さいます。このように神と結びついている限り天涯孤独にはなりません。
この世を去る時もキリスト信仰者は天涯孤独ではありません。その時も神との結びつきは途切れることなく保たれています。まず、復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠ることになります。そして、復活の日が来たら目覚めさせられて、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会が待っている場所です。このように信仰と洗礼によって築かれた神との結びつきは、実にこの世と次に到来する世の双方にまたがる結びつきです。
ここで、復活の体について一言申し上げておきます。ルカ21章28章でイエス様は言われます。天地の大変動と自分の再臨が起きる時、怖気づかず勇気をもって顔をあげよ、と。なぜなら、お前たちの解放の時が近づいたからだ、と。「解放」とは何からの解放でしょうか?苦難からの解放、罪からの解放、いろいろ考えられます。それらは間違いではないですが、もっと焦点を絞ることが出来ます。アポリュトローシスというギリシャ語の言葉ですが、同じ言葉がローマ8章23節で使われています。新共同訳では「体の贖われること」と訳されていますが、誤解を与える訳です。正しくは「肉の体からの解放」ということで、肉の体に替わって復活の体を着せられることを意味します。ルカ21章28節の解放も同じことを意味します。お前たちの解放の時が近づいたというのは、復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる日が近づいたということです。
そうすると、キリスト信仰者にとって神の国への迎え入れは確実と言っていることになります。最後の審判をクリアーできるというのです。本当に大丈夫なのでしょうか?罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したのではないことは経験から明らかです。確かに、神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持てて生きられるようにはなりました。そのように神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても自分に出てきてしまう。そういうジレンマがキリスト信仰者について回ります。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さないで済んでも心の中に現れてきます。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。それなのにどうして最後の審判をクリアーできるのでしょうか?
それは、キリスト信仰者というのは罪を圧し潰す生き方をするからです。信仰者は自分の内にある罪に気づいたとき、それをどうでもいいと思ったり気づかないふりをしたりせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈り求めます。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道を進んでいくことができます。
このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していく時、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。このように生きてきた者が裁き主の前でする申し開きは次のようになるでしょう。「主よ、あなたは私の罪を全部償って下さったので真に私の救い主です。それで私は罪の赦しのお恵みを頂いた者としてそれに相応しく生きようと心がけて生きてきました。ぶれたときもありましたが、その度にいつもこの心がけに戻りました。」これは誰も否定できない真実なので、裁き主は「間違いなくお前は罪を破綻させる側について生きた」と認めるでしょう。実に私たちがイエス様を自分の救い主にしている限りは、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられるのです。それで神の前で何も恐れる必要はないのです。
本日のルカ21章33節でイエス様は「天地は滅びるが私の言葉は滅びない」と言われます。「私の言葉」と聞くと、大抵の人はイエス様が語った言葉を考えるでしょう。そうすると聖書の中でイエス様が語っていない言葉はどうなってしまうのか?イエス様が語った言葉より弱くて滅びてしまうのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。「イエス様の言葉」というのは、イエス様が持つ言葉、イエス様に帰属する言葉という意味もあります。イエス様が管轄している言葉です。パウロやペトロの教えもイエス様の管轄下にあるので「イエス様の言葉」で天地が滅びても滅ばない言葉です。イエス様が人間の罪を償って人間を罪と死の支配から贖いだして永遠の命に至る道を歩めるようにして下さった、そのことを証しする聖書の言葉を持つ者は天地が滅びても滅びず新しい天地の下の神の国に迎え入れられます。聖書の言葉が滅ばないから、そうなるのです。
最後に、罪を圧し潰す生き方をすると、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てくることについて述べておきます。どうしてかと言うと、罪を圧し潰す生き方をする人は、パウロがローマ12章で命じることが当然のことになるからです。悪を嫌悪せよ、善に留まれ、お互いに対して心から兄弟愛を示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たちと共にいるように努めよ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和な関係をもてるかどうかがキリスト信仰者次第という時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が損なわれた時は神の怒りに委ねよ、神が報復されるのだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝つことがあってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。
このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しの繰り返しをしていけばこんなふうになるとわかってはいるが、時としてなんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになることがあります。しかし、主の再臨の日、信仰者はあの時迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて本当に良かった、とわかってうれし泣きしてしまうかもしれません。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり待ち遠しい日です。
イエス様は再臨の日がいつ来ても大丈夫なようにいつも目を覚ましていなさいと命じます。目を覚ますというのはどういうことでしょうか?主の再臨はいつかだろうか、この世の終わりはいつかだろうか、最後の審判はいつかだろうか、といつも気にかけることでしょうか?そんなことしていたらこの世で生活が出来なくなると言われてしまうでしょう。先ほど申しましたように、最後の審判をクリアーするというのは、この世で罪の自覚と赦しの繰り返し人生を送り、人間関係の中でお人好し路線を取るということです。最後の審判のクリアーが視野に入っているので、罪の自覚と赦しの繰り返しとお人好し路線を取ること自体が主の再臨に向けて目を覚ますことになっています。つまるところ、主の再臨を待ち望む生き方というのは、この世で倫理的に意味のある生き方をするということです。
主日礼拝説教2021年11月14日 聖霊降臨後第25主日 ダニエル12章1-3節、ヘブライ10章11-25節、マルコ13章1-8節
キリスト教会のカレンダーは聖霊降臨祭の後は聖霊降臨後第何主日と言って数え、次主日21日が今年の聖霊降臨後の最後の主日になります。28日からは待降節に変わりイエス様の降誕を祝うクリスマスの準備期間となります。
毎年同じことの繰り返しですが、聖霊降臨後の季節も終わりに近づくと聖書の日課は最後の審判とか復活に関係するテーマが多くなります(考えてみたら本スオミ教会の説教は年がら年中そのテーマで話しているかもしれません)。北欧諸国のルター派教会では聖霊降臨後の最終主日は「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」とは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えて再臨する時に起こることです。私たちが礼拝の中で唱える使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨する主が「生きている人と死んだ人を裁く」という最後の審判のことです。その時はまた、創造主の神が今ある天と地に代わって全く新しい天と地を創造するという天地の大変動も起きます。さらに死者の復活ということも起きて、審判の結果、神に義と認められた者は復活の体、神の栄光を映し出す朽ちない体を着せられて新しい天地のもとにある神の国に迎え入れらえるということが起こります。じゃ、それまでに死んでいれば最後の審判は関係ないかというとそうではなく、その時既に死んでいた人も眠りから起こされて、その時点で生きている人と一緒に審判を受けるのです。まさに「生きた人と死んだ人とを裁かれる」のです。
最後の審判がいつなのかは、マルコ13章の終わりの方でイエス様が言います。天の父なるみ神以外には誰にも知らされていないと(32節)。それで、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日、新しい天と地が創造される日、それらがいつなのかは誰にもわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられるだけです(33ー37節)。
教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることは、最後の審判に今一度心を向けて、今自分は復活と永遠の命に至る道を歩んでいるのだろうかと自省する意味があります。これが心の準備をすることであり目を覚ますことです。しかしながら、最後の審判とか裁きとかいうのは、あまり景気のいい話ではありません。はっきり言って恐ろしいです。それででしょうか、「裁きの主日」を定めている肝心の北欧諸国をみても、自省なんかしないでさっさとクリスマスの準備に入ってしまう人が大半ではないかと思います。しかし、忘れてはならない大事なことは、イエス・キリストの福音は、裁きの恐れを上回る勇気を与えてくれるということです。最後の審判は怖くないという勇気を与えられたら、今度は返す刀でこの世で怖いものもなくなります。理不尽な上司も権力者も脅しも祟りも誘惑もみんな空振り三振のバッターのようになります。イエス・キリストの福音とはそういう勇気を与えるものだということがわかるためにこそ、最後の審判に目を向けることは必要なのです。
イエス・キリストの福音は最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれることを、今日の旧約の日課ダニエル12章と使徒書の日課ヘブライ10章をもとに見ていこうと思います。福音書の日課はどうしましょうか?マルコ13章の初めの部分ですが、福音の勇気を得るためにその部分だけでは少し足りないと思います。私としては13章全部を日課にしてほしかったです。そもそもマルコ13章は「キリストの黙示録」とも呼ばれる、イエス様の預言の言葉です。預言の内容はとても複雑です。一方でイエス様の十字架と復活の後イスラエルの地で起こる直近の出来事の預言、他方ではもっと遠い将来全人類にかかわる出来事の預言、これら二つの異なる預言が入り交ざっています。それらを解きほぐすように読まなければなりません。それは容易ではありません。破茶滅茶な解釈が起きないように、かつ全てを昔の人のファンタジーと片付けてしまわないように熟達したバランス感覚が必要です(同じことは黙示録でも言えます)。
マルコ13章を少しだけ見てみます。冒頭でイエス様は、エルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃が起きてその通りになりました。預言が気になった4人の弟子が、それはいつ起こるのか、その時どんな前兆があるのかと聞きます。それに対する答えとしてイエス様の詳しい預言が語られていきます。預言は語られるうちに、エルサレム神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。
神殿破壊の前兆として、偽キリスト、戦争やその噂、地震、飢饉が起こると預言されます。西暦70年の前にこれらのことが実際に起こったことは歴史を細かく調べれば出てくると思います。一例として、14節の「憎むべき破壊者が立ってはいけない所にたつ」というのを見てみます。これはダニエル書11章や12章の預言に出てくるものです。こういう歴史的事件がありました。イエス様の十字架と復活の出来事から10年程後にローマ皇帝カリギュラがエルサレム神殿に自分の像を建てようとして、ユダヤ人たちが必死の外交努力で撤回させたという事件がありました。しかし、これがきっかけとなってローマ帝国とユダヤ民族の相互不信が一気に高まってしまい、ついには西暦70年のエルサレム攻撃に至ってしまったのです。このように預言されたことは歴史的に突き止めることが可能です。
3章19節で、天地創造以来一度もなかった災いが起こるというあたりから、預言の内容はイエス様の再臨の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。どんな災いかは具体的には述べられていませんが、主がその期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいの災いである、と言うから凄まじいものです。しかし、主は選ばれた者たちのために既にその期間を短く設定したと言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、聖書の観点ではもちろんキリスト教徒ということになります。こう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まったと思われてしまうかもしれません。「選ばれた者」などと優越感に浸りやがって、と。ここで、キリスト教徒とはいかなる種族の者か考えてみましょう。まず、キリスト教徒とは洗礼を受けた者です。しかし、せっかく洗礼を受けても最後の審判の恐れを上回る勇気を得ていなかったら、この世で神以外のものを沢山恐れて生きていたことになります。それは、洗礼をただのアクセサリーにしてしまったことになります。アクセサリーでは最後の審判や天地の大変動の前に立ち往生してしまいます。洗礼から吹き付けてくる力をかわしたり逃げたりせず、それを全身全霊で受け止めて力を身につけないといけません。そうするキリスト教徒が「選ばれた者」なのです。詰まるところ、キリスト教徒とは最後の審判が怖くてビビっているから勇気をもらわないとダメな種族なのです。別に優越感になんか浸っていません。
マルコ13章全体の詳しい説き明かしは別の機会に譲り、今日はダニエル12章とヘブライ10章をもとにイエス・キリストの福音が最後の審判の恐れを上回る勇気を与えることを見ていきましょう。
先週の礼拝の説教で、キリスト信仰では死というのは復活までの眠りにしか過ぎず、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられるということを申しました。まさにキリスト信仰の死生観です。本日のダニエル書の日課はまさにその死生観をはっきり言い表しています。2節で「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」と、復活とはまさに死からの目覚めであることがはっきり言われています。
2節ではまた、ある人たちは永遠の命に与り、別の人たちは永遠の恥と憎悪の的となると言われます。選別が行われるので最後の審判があることを示唆しています。永遠の恥と憎悪とは、創造主の神から見て恥ずべき者、神の憎悪を永遠に受けてしまう人たちのことです。恐ろしいことです。ひるがえって、永遠の命に与る人たちのことを3節で「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」と言っています。これらの人々が輝くというのは、使徒パウロが第一コリント15章で述べているように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられることを意味します。
ここで、「目覚めた人たち」というのは正しい訳ではありません。「理解できる人たち」とか「見ることが出来る人たち」です(動詞שכלの動名詞形)。そう訳すとは、じゃ、理解できる人たちとは誰?ということを考えなければならなくなり話が難しくなります。それで、どうせ復活して目覚めさせられる人たちのことだから、目覚めた人でいいや、とやってしまったのではないかと思います。本当かどうかわかりませんが、もし本当なら情けない訳です。
それでは「理解できる人たち」、「見ることが出来る人たち」は誰のことかわかるのかというと、これはダニエル書がどういう書物か考えればそんなに難しくはありません。ダニエル書というのは、神の秘められた計画を神の使者が人間に明らかにしてくれる事例集です。神の秘められた計画は人間の力では理解できず見えもしません。それで、神が遣わした者が人間に明らかにして理解できるようにしてくれる、見えるようにしてくれるのです。キリスト信仰の観点に立ってみると、理解できる人、見ることが出来る人というのは、イエス様のおかげで神の秘められた計画を理解できるようになった人、見ることが出来るようになった人のことです。その人たちが復活の体を着せられて永遠の命を持って生きることになるのです。最後の審判をクリアーしたのです。
3節にはまた、最後の審判をクリアーする人たちとして「多くの者の救いとなった人々」というのもあります。これも原文を直訳すれば、「多くの人を神のみ前で無罪になるように導いてくれる人々」です。キリスト信仰の観点に立ってみれば、そういう導きをする人はイエス・キリストの福音を周囲に伝える人のことです。そして、福音を伝えられて受け入れた人は最後の審判で無罪扱いになる。これはまさに福音が福音である所以を言い表しているとても大事なことです。だから福音を伝えられて自分のものにすることが出来ると最後の審判の恐れを上回る勇気を得られるのです。このことを見ていきましょう。
最後の審判の日、裁き主は一人一人を十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうか判断します。もし殺人姦淫その他行為によって人を傷つけた者は法律上の刑罰を受けたかどうか以上に問われることがあります。それは、神が与える罪の赦しを受け入れたかどうか、受け入れたらそれで神に背を向ける生き方をやめたかどうかが問われます。さらにイエス様は、行為に出さず法律上の問題にならなくても、心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけで神の目に適う者になれないと教えられました。そういうふうに心の有り様まで問われたら、誰も神の前で、私は潔癖です、などと言えません。だから最後の審判は恐ろしいのです。
しかしながら、神は人間が完全に神の目に適う者にはなれないことをご存じでした。堕罪の時から全て人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったので自分の力ではなれないのです。そこで神は、それならば私の力で適う者にしてあげよう、目に適う者になれて私と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせて復活の体を着せて私の許に永遠に迎えてあげよう、そう決めてひとり子をこの世に送られたのです。そして、ひとり子イエス様に人間の全ての罪を負わせて、あたかも彼が全責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。自分のひとり子に人間の罪の償いを果たせたのです。しかも神はその後、想像を絶する力でイエス様を死から復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。この出来事の全容を知らせるのが福音です。
あとは人間がこの福音の知らせを聞いて、イエス様の十字架と復活はまさに自分が神と結びつきを持ててこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにするためだったんだとわかって、それでその大役を引き受けたイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにできるのです。洗礼を受けるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを全身全霊に吹き付けられて償いに染められてしまうことです。罪を償ってもらったということは、神の目から見て罪を赦された者になったということです。
神から罪を赦された者と見られるとどうなるのか?それは本日のヘブライ11章17節で言われています。それはエレミヤ31章34節の引用です。神はお前の罪を思い出さないと言われます。これが神の罪の赦しの本質です。罪を赦すと言うのは罪を許可することではありません。許可など断じて出来ないが、それで裁いてしまったらお前は永遠の恥と憎悪に投げ込まれてしまう。そうならないために、お前はこの世だけでなく次に到来する世も生きられる新しい命を得なければならない、そのために私はイエスを贈ったのだ。そのイエスをお前は救い主と信じ洗礼を受けて罪の償いを自分のものにしたのだ。だから、お前が犯した罪は、私はもうとやかく言わない。犯した事実は書き換えられないが、さもなかったかのようにする、だからお前は与えられた新しい命に相応しく生きよ。そう神はおっしゃられるのです。これが罪の赦しです。
ところが、このように神の力によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながらも、実際にはこの世で生きる限り神の目に相応しくないことがどうしても起きてきてしまいます。行為に出さなくても心の中に現れてきてしまいます。どうしたらよいでしょうか?その時は、すぐその罪を神に認めてイエス様の名に依り頼んで赦しを願います。心に痛みを伴うかもしれませんが、神に背を向けずこのように神の方を向くことを怠らなければ神は約束通りイエス様の犠牲に免じて罪を赦されます。こうして復活と永遠の命に向かう道に留まりそれを歩み続けることが出来ます。このように罪の赦しを心の中に貫かせている人は十戒をもう体の外側に持っていません。心の中に持っています。まさにヘブライ10章16節で引用されているエレミヤ31章33節の御言葉、神は十戒を心に与え刻み付け給う、が実現しているのです。十戒を心の中にではなく外側に持っていたら外面的に守っていることで満足して心の有り様は問わなくなります。最後の審判では心の有り様まで問われるのです。
やがてかの日が訪れ、神のみ前に立つことになる時、キリスト信仰者の申し開きはこうなります。確かに私には至らないことが沢山ありました。しかし、イエス様が果たしてくれた罪の償いにいつもしがみついて生きて参りました、いつもそこに戻るように生きてきました。それ以上のことはできませんでした。そう裁き主に言えばいいのです。神がそれで不十分と言うわけはありません。そんなことを言ったら、ひとり子の犠牲では不十分だったということになるからです。そんなことは絶対にあり得ません。ヘブライ10章14節で言われるように、この方の唯一の犠牲によって罪を不問にしてもって罪から清められた者たちが完全な者、最後の審判をクリアーできる者にされたのです。この方の前にも後にもそのような犠牲はありません。この方のだけです。 兄弟姉妹の皆さん、イエス・キリストの福音とはこのように最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれる知らせです。洗礼は私たちの人生をその勇気の中で生きる人生にするものです。最後の審判を恐れない心があるならば、この世で何か怖いものがあるでしょうか?理不尽な上司や権力者が怖い、脅しや祟りや誘惑が怖い、それで間違ったことを間違っていると言えなくなることがあります。しかし、よく考えてみて下さい。その怖いと言っているのは神ではないのです。日本語では神でないものを神と呼ぶことが多いので紛らわしいのですが、その恐れる人やものの正体は考えればわかります。その人やものがあなたを造って命と人生を与えたのですか?違うでしょう。その人やものはあなたがこの世から別れた後、あなたを復活させる力があるりますか?ないでしょう。その人やものはあなたが言う通りにしないとあなたを地獄に落とすことが出来きますか?できません。その人たちこそ創造主の神の前で崩れ落ちる運命にあるのです。神を差し置いてそんな人たちを恐れるというのは話にならないとわかるでしょう。
最後にもう一言。このように私たちがこの世で怖いものがなくなって間違っていることを間違っていると言えるようになった時、言い方にも注意しなければなりません。ローマ12章でパウロが教えるように、相手を自分より優れた者のように振る舞い、自分はヘリ下って、少なくとも自分の側からは平和を保つように話さなければなりません。パウロもルターも十戒の第4の掟に基づいて父母やこの世の権威には敬意を払わなければいけないと教えています。敬意を払いながら間違いは間違いと言うのです。この点は、熱くなりやすい性格の人は意識して振る舞わないといけないので訓練が必要でしょう。聖書にはそのための手引きが沢山あります。イエス様や使徒たちの教えがそれです。また実例集も豊富にあります。例えばヨセフやダニエルが理不尽な人たちに対してどう振る舞ったかを見るのは大いに参考になります。 そういうわけで皆さん、これからも聖書をたくさん読んでいきましょう。
主日礼拝説教 2021年11月7日(全聖徒主日) 聖書日課 イザヤ25章6-9節 、黙示録21章1-6a節、ヨハネ11章32-44節
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中でもシナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないのではないかと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。それじゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心細くなる人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが先ほどの黙示録21章の中で言われるように、神に全て新しく造り直される時が来る。それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは実は「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。使徒パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることです。ところが、イエス様が生き返らせた人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。加えて4日経ったとは言っても、実は3日だった可能性があります。というのは、当時の日数の数え方は出来事の最初の日も入れて数えるからです。イエス様は金曜日に十字架にかけられ日曜日に復活されたので私たちから見たら2日目ですが、聖書では3日目と言います。
いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。
本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を蘇生させる奇跡の業を行ったのか、それが復活信仰とどう関連するのかということを考えてみようと思います。
復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者たちは神の御許に迎え入れられます。その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天すなわち神の御許から神と共に下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。
特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。キリスト教徒を冗談ではなく真面目にやっていたら、この世の不正や不正義を被るリスクが一気に高まります。創造主の神を唯一の神として祈り赦しを願い、神を大切なものとして礼拝など守っていたら、そうさせないようにする力が襲い掛かります。またイエス様やパウロが命じるように、害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、これらのことを行ったら、たちまち逆手に取られてどんどんつけ入れられます。
しかし、創造主の神の御許に迎え入れられる日、この世で被った不正や不正義が大きければ大きいほど、清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。
このため復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者たちはこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神ががこの世での労苦を全て労って下さるのです。これ以上の労いはありません。そこで本日の旧約の日課イザヤ書25章6節でも祝宴のことが言われています。この節はヘブライ語の原文で読むと韻を踏んでいる詩的な文章です(新共同訳では「酒」が提供されると言っていますが、ヘブライ語原文を見ると「ぶどう酒」です。取り違えてはいけません。こういう訳をするから大酒飲みの牧師が出てくるのです)。
これは一見すると何の祝宴かわかりません。歴史的背景を考えて理解しようとすると、ユダヤ民族を虐げた国々が滅ぼされて、その後で催される勝利の祝宴を意味すると考えられるかもしれません。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、これは復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いないでしょう。
そのように理解すると難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?と誰もが思うでしょう。頑張って理解しようとする人は想像力を駆使して自分なりの結論を見つけるでしょう。しかし、聖書は神の言葉です。自分の想像力にぴったりな意味が神の言わんとしていることだなどという思い込みは捨てなければなりません。そういうわけで、自分の思いは脇に置いて神が言わんとしていることに迫ってみましょう。
7節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそう言えるのかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われているのに、新共同訳では「組み立てられる」に変えられています。イザヤ書25章7節でも同じ動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。
人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩でしょう。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の幕屋が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに神からの幕屋が復活の日に現れることが今日の黙示録の日課の中ではっきり言われるのです。21章3節です。ギリシャ語原文をパウロの意図を汲んで訳すとこうなります。「見よ、神の幕屋が人々と共にある、神は人々の上に幕屋を張り共に住まわる。」つまり、復活の体を纏わらせてもらった人たちが神の御許に迎え入れられたということです。
ここで余談ですが、なぜヘブライ語の原文ではこのように復活について言われているのに、翻訳ではそれが見えにくくなるように訳されてしまうかということについて。これは、旧約聖書を翻訳する人が、たとえ復活信仰を持つキリスト信仰者であっても、同時に聖書の学会の学説に縛られる研究者でもあるということによります。学会の定説では、復活信仰というのは紀元前2世紀頃に現れた思想ということになります。そうなると、それ以前からある旧約聖書の書物の中で復活を言っているように見える個所は実は復活信仰を言い表しているのではない、例えばユダヤ民族の復興を比喩的に言っているということになります。今ある天と地に代わって新しい天と地が創造される時に起きる、そういう全人類な出来事を言っているのではないのだと。それで、旧約聖書の中で復活を言っているように見える個所に出くわしても、復活を出さないように訳してしまうのです。
ところが、パウロもペトロもヨハネも各々の手紙や使徒言行録の中で言っていることを見ると、みんな旧約聖書のそういう個所をことごとく復活を意味していると言うのです。現代の聖書の学者たちが見たら歴史認識が欠如していると呆れかえるでしょう。ところがイエス様も同罪なのです。イエス様は復活なんかないと主張するサドカイ派の人たちに対して、いや復活はある、その証拠に神はモーセに「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言ったではないか、と出エジプト記3章6節を根拠に掲げたのです。これは紀元前2世紀どころではない、かなり太古の時代の話です。
こういうふうに旧約聖書から復活信仰をくみ取るというのは、イエス様と使徒たちがとったアプローチ法です。私たちが手にする翻訳からでは見えてこないことを、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語の原文を前にしてイエス様と使徒たちと同じ観点に立って見るといろんなことが見えてきます。人間の想像力など用いなくても神が言わんとすることに迫ることができるのです。学会の学説は一つの見識として片耳に挟む程度にして、私としては、これからもキリストと使徒の観点と原文を手掛かりにしてみ言葉の説き明かしに努めていきたく思います。そうやって説教を準備するといつも何か新しい発見があります。それで説教の業においては私もまだまだ発展途上なのです。
話が横道にそれました。イエス様が死んだ人たちを生き返らせる奇跡を行ったことが復活信仰とどう関連するか見ていきましょう。
そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に信じる者を復活させ永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)」。実に興味深い答えです。というのは、マルタはメシアについて当時一般的だった考え方、ユダヤ民族を他民族の支配から解放する英雄の王がメシアという考え方ではなかったからです。マルタがメシアを復活や永遠の命を人間に与える全人類的な救世主と捉えていたことを伺わせる答えでした。
マルタの答えで興味深いことがもう一つあります。それは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではこの動詞の意味は「過去の時点から今日の今までずっと信じてきました」という意味です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって初めて信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということなのです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。私たちにとっても大事なことです。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会するということはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持つ者でも悲しくつらいものです。これは何かの間違えだ、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえいでしょう。
しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。それでは、どうしたら復活があると信じることが出来るのでしょうか?それは、神がひとり子のイエス様を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。聖書の観点に立ってみると、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているということが見えてきます。そうした罪は人間なら誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は造り主のもとに永遠に戻れるようにする、そのためには結びつきを持てなくさせようとする罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼が人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けることで罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったということは、これからは神からの罪の赦しのお恵みの中で生きるこということです。頂いたお恵みに心と人生を方向づけられて歩んでいくことになります。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずその中に留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。
マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになっていました。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消滅しないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失い鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。これが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。
律法学者がイエス様に聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。
律法学者というのはユダヤ教社会の中で起きてくる様々な問題を律法すなわち神の掟に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりませんでした。神の掟とは、まず私たちが手にする旧約聖書の中にモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒があります。その他にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。これだけでもずいぶんな量なのに、この他にも文書化されずに口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれです。ファリサイ派というグループはこれらも文書化された掟同様に守るべきと主張していました。
これだけ膨大な量の掟があると、信仰生活や社会生活の中で解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用したらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、そういう問題が頻繁に起きたでしょう。そればかりか、膨大な掟に埋もれていくうちに、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きました。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養の義務を免れるというような言い伝えの掟がありました。イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判しました(マルコ7章8-13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実でした。現代というのは創造主の神など持ち出さなくていいという時代ですが、こういう問いかけは自分の生き方の方向を考え直す時に大事な視点になるのではないかと思います。
イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。本日の旧約の日課、申命記6章からの引用でした。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様はそれに続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。これはレビ記19章18節からの引用でした。イエス様は実に旧約聖書の上に立っているのです。
さて、二番目だから少し重要度が低いかというと、そういうわけでもなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟ということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。
ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてくる、ということです。
この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。皆様もご存知のように十戒の初めの3つは、天地創造の神の他に神をもったり崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、でした。この3つの掟は神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の所有するものを妬んだり欲したり損なったりしてはならない、また隣人の妻など隣人の家族を構成する者を妬んだり欲したり損なってはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間の関係を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。
このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということに行きつく。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということに行きつくというのです。
さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿に参拝して規定通りに生け贄や貢物を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神を全身全霊で愛することがなければ、また隣人を自分を愛するが如く愛さなければ、そんなものは神からみて何の意味もなさない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者がこの真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」
これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、そうではありませんでした。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」。「神の国に入れた」とは言っていないのがミソです。「神の国に入れる」というのはどういうことでしょうか?それは、人間がこの世から別れた後、復活の日に目覚めさせられて復活の体という朽ちない神の栄光に輝く体を着せられて自分の造り主である神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。そのようにして、今のこの世の人生と次に到来する新しい世の人生の二つを合わせたとてつもなく大きな人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への全身全霊の愛、二番目に重要なのは隣人愛である。それらをより具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらを土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。
それでは人間はどうすればイエス様が教える神への全身全霊の愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それを次に見てみましょう。
まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきます。全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、ひとり子イエス様をこの世に送られた父なる神。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?
その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても「唯一の主」として保たれるように心や力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということです。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外に自分の命が委ねられているなどと微塵にも考えないことです。嬉しい時にはこの神に感謝し、苦しい時にはこの神に助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないということです。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったり言葉にした時は、すぐこの神に赦しを願うことです。こうしたことが神を唯一の主として保つことです。
実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然に備わっていません。私たちに備わっているのは、神の意思に反しようとする罪です。それでは、どうしたら神への愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで持てます。それを知れば知るほど神への愛は強まってきます。それでは、神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。ところが残念なことに、人間が悪魔に隙を見せてしまったために神の意思に反しようとする罪が備わってしまいました。それで最初にあった神との結びつきはが失われてしまったのです。しかし、神は失われた結びつきを人間に取り戻して人間が自分との結びつきを持って生きられるようにしようと決意されました。まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして本当なら私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様にかわりに受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を切り開かれました。そこで人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しを受け取ることになります。神から罪の赦しを受けたことになるので、その人は神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩むことができ、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に自分の造り主のもとに迎え入れられるのです。
このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかると、この神にのみ願いをかけ祈るようになり、この神にのみ自分の運命を委ねるようになり、この神にのみ感謝し助けを求めるようになり、この神にのみ赦しを願うようになるのです。まさに神を全身全霊で愛するようになるのです。
次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?
隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべます。しかし、人道支援という隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、また無信仰者・無神論者でもできます。そのことは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたように、神への全身全霊の愛の上に立っているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。仮に創造主の神は唯一なんかではない、という考えで行ったとしても、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。
イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っていることです。自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないのです。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくてもいい、一般的な当たり前の倫理になります。そこでイエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。
イエス様は隣人愛を述べた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えています(マタイ5章43-48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別がつかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、そういう包括的な「隣人」の誰かが良からぬことをしたり迫害することも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者は愛さなければならないとはどういうことなのでしょうか?
イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と教えました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったら、彼らは一気に滅びてしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が神に背を向けた生き方を方向転換して神のもとに立ち返ることを望んでいて、それを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に向かう道を歩む群れに加わるのを待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、なにか無原則な気前の良さを言っているのでは全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。
ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の支配状態から救い出すために十字架にかけられる道を選ばれたのは、全ての人間に向けてなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて罪の赦しというお恵みを受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられます。一体全体、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害者を滅ぼして下さい」とお祈りするのは神の御心に適うものではありません。もし迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが遠回りかもしれませんが効果的かつ神の御心に適う祈りでしょう。
このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかをわかればわかるほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心になります。その神が実は敵や反対者に対しても罪の赦しというお恵みをどうぞ受け取りなさいと差し出しているのです。それがわかると敵や反対者というものは神のお恵みを受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになり、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。
こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかります。神は御自分のひとり子をらいに私のことを愛して下さった、神はそれくらい私のことを愛するに値する者として扱って下さっている、それなので私はこの神の愛に留まり、これから離れたり外れたりしないようにしよう。これが「自分を愛する」ことです。神の愛が自分に注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように祈ったり働きかけたりすることになります。隣人が既にキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中に留まれるように助けてあげることです。
このように、神を全身全霊で愛する愛、隣人を自分を愛するがごとく愛する愛、自分自身を愛する愛、これらの愛は、神がひとり子を用いて私たち人間に大いなる救いをもたらして下さったという愛があってこそ起こってくる愛です。そして、その神の愛の中に留まり続けることで強まっていく愛です。このことに立ってヨハネの次の言葉を心に刻んでおきましょう。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、 わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、 わたしたちも互いに愛し合うべきです。」 (第一ヨハネ4章10~11節)
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
全知全能の父なるみ神よ。
あなたは私たちに日々、罪の赦しのお恵みを新しくして下さり、祝福を豊かに与えて下さいます。あなたが私たちをどれだけ愛して下さっているか、もっと気づけるようにして下さい。感謝のうちにあなたと隣人を愛し、喜び仕えることができるように導いて下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン