説教「キリスト信仰者よ、新しい光の世を先取りしてこの世を歩もう」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書24章36-44節

主日礼拝説教2022年11月27日 待降節第一主日
聖書日課 イザヤ2章1-5節、ローマ13章11-14節、マタイ24章36-44節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と罪の赦しの恵みの中に留まられますように。

 今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。その日の福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。

 その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、イエス様の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うのです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。

 さて、スオミ教会のホサナですが、北欧の国と同じようにしたかったのですが、2年前に日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年と一昨年はルカ21章とマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。そういう話は聖霊降臨後の終わりの頃に相応しいと思うのですが、待降節になってもまだ終末テーマを続けなければならないというのは少し気が重いです。しかし、それでも今日の聖書の箇所はイエス様の再臨にどう備えるかという内容なので、それはそれで主を迎えることに関係することと思い、日本の日課に従うことにしました。

2.イザヤ2章1~5節

 最初に旧約の日課イザヤ書2章を見ていきます。これは、この世の終わりの時に何が起こるかについての預言です。主なる神の神殿のある山が地上のあらゆる山の中で一番高くそびえて、他の山々は揺り動かされてしまうが、主の山だけは揺るがない。そこを目指して諸民族が大河のようにやってくる。彼らは次のように言う。「主の山に上り、ヤコブの神が住まわる神殿に行こう。神は私たちが神の意思に従って生きられるように私たちを教えられる。なぜなら神の掟はシオンから、神の御言葉はエルサレムから出てくるのだから。」そう諸民族は述べてやって来る。一つ余計なことですが、新共同訳では、諸民族が言う言葉は、私たちはその道を歩もう、までです。しかし、正しくは「なぜなら、主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」までです。接続詞「なぜなら」が抜け落ちているので付けてあげて、カギかっこを後ろに移動します。

 諸民族がそう言いながら天地創造の神のもとにやって来る時、神は裁きを行う。諸民族の間に正義を打ち立てるが、多くの者は裁かれるという書き方です。諸民族が持っていた武器は農具に変えられ、もうお互いに対する武力行使はなく戦について学ぶこともない、そういう時が来る、だからヤコブの家の者である我々は主の光の中を歩もうではないか。そういうことが述べられています。

 さて、この世の終わりに世界の諸民族がエルサレムに上って行くとか、主の掟と御言葉はシオンやエルサレムから出るとか言うのを聞くと、本当に諸民族が一斉にあの中東の地に向かって飛行機か何かに乗って行くのだろうかと疑わしくなります。ヤコブの家などと言うと、ユダヤ民族のことを言っているように聞こえます。しかし、そうではありません。黙示録を見ればわかる通り、今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される日に現れるエルサレムとは、今の世界地図にあるイスラエル国の都市ではなく、天上のエルサレムのことです。天地創造の神から義と認められた人たちが迎え入れられるところです。そこに向かう諸民族の大移動ももうこの世の移動手段によらない、何か霊的な移動です。ヤコブの家というのは狭く考えればユダヤ民族ですが、新約聖書の観点から見ると、イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた者の集合体です。血筋上のユダヤ民族ではなく、信仰によって神の民の一員とされた者たちです。

 また、ここでは裁きのことが言われているので最後の審判があります。最後の審判では旧い世で損なわれたり中途半端になってしまった正義が回復して完全なものになります。イザヤ2章はそのことについて、個人レベルの正義ではなく民族や国レベルの正義について言っています。かつて旧い世では、正義の実現のため、などと言って振りかざしていたあらゆる武器が新しい世で農具に変えられます。武器なんかでは正義は実現しない、農具の方が正義に相応しいということです。農具に変えるというのは、新しい天と地の世で農耕文明が始まるということではなく、武器を作るくらいの暇と力があるのなら最初から農具にしていれば旧い世はパラダイスになったのに、そうしなかったのは実に愚かなことだったと思い知らせるシンボル的な意味があります。

 そういうふうに考えると、人間はどうしてそうすることが出来ないのか?今の世界情勢を見るにつけ嘆かわしくなります。ひょっとしたら、今の戦争を機に人類は武力に凝りて軍縮を一生懸命にやるようになるだろうか?その時、武器に費やした巨額のお金を気候変動や貧困や疫病の対策に向けられるようになるだろうか?どうでしょうか?そんなのユートピアすぎて非現実的だ、と言ってしまったら、もう無理だとあきらめることになります。聖書が言うように、新しい天と地の再創造の後にそうなることを信じ期待して、今はもうなるようになれと落ちるところまで落ちるしかないのか?

 聖書が今の世に対してそういう投げやりな態度の書物でないことは5節の言葉から明らかです。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」「ヤコブの家」とは、神から義と認められた人たちを意味します。まさに「神の民」です。神に義と認められた人たちとは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちです。ひょっとしたら、全人類が心を入れ替えて一致団結して叡智を働かせて戦争や気候変動をストップさせることができるかもしれない。もちろんそうなることにこしたことはありません。しかし、たとえそうなっても、今の天と地がいつか終わって新しい天と地に再創造されて最後の審判を経て神の御国への迎え入れがあることに変更はありません。逆に、人間が頑張っても危機を解決できない場合でも天地の再創造と神の御国への迎え入れは起こります。危機の回避か突入か、どっちを経由しても再創造と迎え入れに至るわけです。それでどっちになるにしても、今は主の光の中を歩まないといけないのです。既にイエス様を救い主と信じている人はこの光の中に留まって歩むこと。光を失わないようにすること。まだその光の中に入っていない人はこれから入るようにするということです。それでは、主の光の中を歩むとは具体的にはどういうことでしょうか?それが、今日の使徒書と福音書の日課で明らかにされています。

3.ローマ13章11~14節

 この個所は天地の再創造と最後の審判の時に起こる復活に向けての心構えを教えています。それが、主の光の中を歩むとはどういうことかを明らかにします。まず、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と言います。「覚めるべき」と言うと、今寝ぼけた生き方から目を覚ませ!と言っているように聞こえます。しかしパウロが第一コリント15章で言っているように、復活とはこの世から死んだあと眠りにつき、そこから起こされることです。それなので、ここはこの世で寝ぼけた生き方をやめよという命令ではなく、もうすぐ眠りから目覚めさせる時、すなわち復活の日が来るという必然について言っているのです。

 次に、「今、救いが近づいた。あなたたちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時よりも近づいた」というのは当たり前のことです。時間が経過したのですから。キリスト信仰には今の天と地が新しい天と地に取って代わられる日が来るという終末論と新生論があり、その日がいつかは神しか知らないが、とにかくその日は来る、だから、私たちが一年一年過ごしていく度にその時に近づいていることになります。パウロが言う「救い」とはローマ8章23節で言っていた「体の解放」、つまり今纏っている肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられることです。このように、パウロはここで復活の日が近いことを言っているのです。パウロはその期待が強かったようです。しかし、実際はどうだったでしょうか?パウロがこの世を去って2000年近く経ちましたが、同じ天と地はまだ続いています。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは今の世は続くと言っていました。当時の人たちにとって世界は地中海とその周りが全てでしたから世界は今より小さく見られていました。しかし、いまだ福音が宣べ伝えられていなかったり自分の言語で聖書を読めない民族は世界に多く残っているので、今の世の終わりは当分まだなのでしょう。

 「夜は更け、日は近づいた」というのも同じ考えです。今のこの世の有り様が夜の暗闇に例えられています。日と言うのは新しい世のことです。今の世の有り様が終わりに近づいている、復活を経た新しい世の到来が近いということです。そのように今はまだ夜で暗いが、夜が終わって夜明けが来るのと同じように復活と新しい世も来る。それで、もうすぐ光の中を歩むことになるのだから、今はもうすぐ終わる暗闇に従うことを止めて、暗闇の力に対抗できる光の武具を身につけよ、とパウロは喚起します。光の武具を身に着けるとはどういうことか、パウロはそれを説明します。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」「品位をもって」というのは、すぐ後に酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみというものが言われるので、それらの対極として品行方正の意味に訳にしたと思います。もちろん、酒宴、酩酊、淫乱や好色は日中よりは暗い夜に行うことが多いと思います。しかし、ここで日中と言うのはあくまで暗闇の今の世に対する光の新しい世のことを意味します。それなのでここのパウロの意図は、新しい世はまだ来ていないが、今は既にその中にいるがごとく、そういう者として歩もうということです。光の新しい世はまだであるが、キリスト信仰者はもう一足早くその光の世にいるがごとく、今はこのもうすぐ終わる暗闇の世を生きなさい、ということです。それが光の武具を身に着けるということになります。一足早く光の世にいるようにして光の武具を身に着けるとはどういうことか?二つの大事なことがあります。一つは隣人愛で愛すること、もう一つは罪に反対して生きることです。その二つについてみてみます。

 まず、隣人愛で愛することについてですが、実はそれについて今日の個所の直前で言われています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいと言う言葉に要約されます(13章9節)」等々。パウロは今の世がもうすぐ終わることを次の所で言う前に、隣人愛で愛せよと命じるのです。さて皆さん、今の世がもうすぐ終わるということをわかった上で本当に隣人愛で愛することができるでしょうか?どうせ世界が終わるのに無意味なことを言っていると思う人もいるかもしれません。もし自分の命があと少ししかないと前もって分かったら、取り乱したり無力感に陥ったり自暴自棄になるかもしれません。しかし、人生の最後を人のために尽くそうという心も生まれることもあります。黒澤明の古い映画「生きる」の主人公がその例です。余命僅かと告げられた主人公は最初は快楽に走りますが、最後は人のために尽くそうと必死になりました。死を目前にした者が自分の生き方が無意味にならない、意味のある生きた方になることを他人のために尽くすこと他人が喜ぶ顔を見ることで見出したと言ってもよいでしょう。

 パウロの隣人愛で愛せよという教えはどうでしょうか?「生きる」の主人公のように、この地上での残された時間を意味のある生き方をするのだ、そのために隣人愛で愛するのだということでしょうか?そういう面もあるかもしれませんが、キリスト信仰の場合は、映画の主人公と違って、地上の残された時間の先を見ています。光の新しい世では愛と正義が完全なものになっている。それらを損なったり汚すものはもう存在しない。自分はイエス様のおかげでそこに迎え入れられて完全な愛と正義に包まれて生きることになるのだから、今はあたかも既に迎え入れらた者のようにこの世で立ち振る舞おう、新しい光の世を先取りした者としてこの世を生きよう、パウロは言っていることはそういうことです。黒澤明の映画はこの世を超えたことはないので人間中心主義です。文字通りヒューマニズムです。キリスト信仰の場合はこの世を超えたことを視野に入れています。何主義と言ったらよいでしょうか?皆さん、何か言葉を考えて下さい。

 光の武具のもう一つ大事なことは、罪の自覚を持ち罪を告白し罪の赦しを受ける生き方をすることです。パウロは14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。これは、洗礼の時にイエス様を白い汚れない衣のように頭から被さられて、神からはさも罪の汚れがない者のように見なされることを象徴して言っています。既に洗礼を受けてこの神聖な衣を身に纏った人はそれを手放さないようにしなさい、まだ纏っていない人は暗闇の世が終わるまでに早く纏いなさいということです。

 イエス様という汚れのない衣を被されたとは言っても、私たちの内には神の意志に反する罪がまだ残っています。それなので、洗礼の後はこの衣の神聖な重みで罪を圧し潰していく生き方が始まります。どういうことかと言うと、罪の自覚が起きるたびに神のみ前で罪を告白して(神のみ前です、人間の前ではありません)、聖霊からゴルゴタの十字架を心の目に映し出してもらって、罪の赦しが揺るがずにあることを確認して罪の赦しの中に留まることです。その時、父なるみ神は言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることは分かっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦された。これからは注意しなさい」と。この時キリスト信仰者は襟を正し、畏れ多い気持ちと感謝に満たされて日常生活に戻ります。このような罪の自覚と告白と赦しはこの世を去る時まで繰り返されますが、神はこれを罪に与さずに生きた証、罪に反抗して生きて証、罪を圧し潰す生き方をした証しと認めて下さいます。そして復活を果たした後はこの繰り返しはもうありません。罪がなくなっているからです。

4.マタイ24章36~44節

 ここでは、イエス様の再臨のことが述べられています。イエス様の再臨というのは天地の再創造と最後の審判と復活にくっついている出来事です。イエス様は、キリスト信仰者はその時に備えて目を覚ましていなければならない、準備が出来ていなければならないと言います。ノアの洪水のことが例として言われます。ノアは目を覚まして準備が出来ていた人の例です。目を覚まして準備をしていれば、箱舟に入って洪水から守られたように守られて神の御国に迎え入れられると言うのです。反対に目を覚ましておらず準備もしていないと悲劇的なことになると。

 畑にいる二人の男と臼を引く二人の女の話は分かりにくいと思います。これは、神の国に迎え入れられるというのは選別があるということ、みんながみんな天国に行けてハッピーになるわけではない、なぜなら最後の審判があるということを意味しています。二人のうち一人というのは、50%の確立と言っているのではなく、迎え入れられる者と入れられない者の二つに分かれるということです。もう一つ気を付けなければならないことがあります。畑にいる二人の男の人も臼を引く二人の女の人も両方とも同じ仕事をしています。外側から見たらみんな同じ仕事をしていて一体何の違いがあって何の落ち度、デメリットがあって、一人は迎え入れられて、一人は迎え入れられないのかわかりません。これは、神は、人間の目で外から見て気がつかないこと、見えないことを全てご存じであるということを意味しています。神は造り主で私たちの髪の毛の数まで把握しておられる方ですから、私たちの行いや言葉について人には知られないこと、心の中のことまでご存じです。

 そこまで言われると、自分は神のみ前ではもうだめかと思ってしまいます。しかし、さっき言ったことを思い出しましょう。罪の自覚と告白と罪の赦しの繰り返しに生き、神の罪の赦しのお恵みの中に留まり、被されたイエス様の衣を手放さないように歩んでいれば何も心配ないのです。それが目を覚ましていること準備していることになります。泥棒に入られないように起きているというのも、泥棒とは罪のことです。自覚と告白と赦しがあれば、罪に支配されることはありません。イエス様の衣をしっかり握りしめれば握りしめるほど、罪は圧し潰されて行きます。

 以上、キリスト信仰者は新しい光の世を先取りして、このもうすぐ終わる暗闇の世を進んでいけることについてお話ししました。先ほどの映画「生きる」の主人公についてもう一つ述べておくことがあります。それは、主人公が快楽から人のために尽くそうとする転機になったことについてです。彼の職場を辞めて別の仕事に就いた若い女性がとても活き活きして仕事をしているのを目撃して、自分もあのように輝きたいと思ったことが転機でした。キリスト信仰は輝きを与える信仰です。その輝きは、新しい光の世の輝きであり神の栄光の輝きです。復活の日に自分もその輝きを映し出す復活の体を与えられて神のもとに迎え入れられます。キリスト信仰者は私自身も含めてですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって新しい光の世を先取りしていることにもっと気づくべきだと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人の信仰」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書23章33-43節

主日礼拝説教 2022年11月20聖霊降臨後最終主日
聖書日課 エレミヤ23章1-6節、コロサイ1章11-20節、ルカ23章33-43節

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.メシアと神の国

 本日の福音書の個所はイエス様が十字架にかけられた場面です。イエス様の両側に犯罪人が二人、一人は右側に、もう一人は左側に十字架にかけられました。三人とも五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。後は息を引き取るのを待つだけです。真に残酷な場面です。

 犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。イエス様の十字架の上には「この男はユダヤ人の王」という札が掲げられていました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていローマ帝国の官憲にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとなこうなるぞ、という具合に。

 このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られていたのです。ところが当時、このような民族解放と王国復興の期待について少し異なる期待の仕方もありました。どんか期待の仕方かと言うと、復興される王国というのは、民族自決国家というようなこの世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わって新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。それは、この地上の有り様を飛び越え新しい有り様の世のことです。さて、地上の国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代のユダヤ民族にはこの世的でない超越的な王国とメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない数多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国が地上の国ではなく将来の新しい有り様の世であることをはっきりさせたのです。

 イエス様を罵った犯罪人は、イエス様のことを地上の王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったと思われます。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのでしょう。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様の方は「あなたの御国」、つまりイエス様が王である国にイエス様が入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上の国ではない、今の世を超えたところにある国であり、イエス様はその王であると信じたのです。つまり犯罪人は超越的な国とメシアの存在を信じたのです。

 それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかという疑問が起きます。なんだか苦しみを和らげるための気休め言葉か、イエス様みたいに権威のある方が言えば、苦しみの中にあっても耐えられるありがたい励まし言葉ということなのか?そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園にいることになる、と言っているのです。息を引き取ってこの世から別れたら一緒に楽園にいることになる、ということです。

 そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあって、神以外誰も知らない将来の時、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、イエス様の再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?そういうプロセスを経て天の御国に入ることが出来るのではなかったのか?今日中に楽園にいることになると言ってしまったら、プロセスはなくなってしまうのではないか?

 この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚まさられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。それなので、イエス様が今日中に楽園にいることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので間違いではありません。

2.犯罪人の罪の告白と赦しの宣言

 イエス様に「私のことを思い出して下さい」という犯罪人の言葉ですが、これはよく目を見開いて何度も読んでみると、これはキリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白それに信仰者が受け取る罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。

 最初の犯罪人がイエス様を罵った時、彼は諫めて言いました。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。」この訳は不十分です。ギリシャ語原文を忠実に見るとこうなります。お前がこの方と同じ罰を受けているからという理由で、この方をお前と同等に扱うようなことを言うなんて、お前はなんと大それたことを言うのか、お前は神を恐れないのか、という意味です。ユダヤ教社会の指導者たちもローマ帝国の兵士たちも、イエス様に対して「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と繰り返し言っていました。この犯罪人はイエス様に対して「自分を救ってみろ」だけではなく、「自分と俺たちを救ってみろ」と、自分たちのことも入れたのです。

 これに対してもう一人は、それは間違っている、神を冒涜することになると否定したのです。なぜなら、自分たちは犯罪を犯して刑罰を受けて当然の報いを受けている、しかし、イエス様の場合は何も悪いことをしていないのに自分たちと同じ刑罰を受けている、だから同等に扱うのは間違っているというのです。そして、その犯罪人は、イエス様がこの世の王国を超えた新しい世の王であると信じています。別の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世の王国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、こっちの犯罪人は、イエス様は新しい世の王でもうすぐそこに入ることになると信じています。イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われている。イエス様のことを自分たちのように本当に犯罪を犯して罰を受けている者と同等に扱うのは神を冒涜することになる、と。

 この犯罪人にはイエス様が王として新しい世の国に入ることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこのような言葉をかけて下さる方がおられるというのは何と勇気づけられることでしょうか!

 この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。方や犯罪人、方やキリスト信仰者、果たして同じと言えるのか?疑問を抱く方がおられるかもしれません。同じだとわかるために、ここで少し罪と罰の問題を考えてみます。キリスト教は罪を赦すと言っているから、犯罪を犯しても罰を与えないということなのか?それでは犯しても構わないということにならないか?などと聞く人がいます。そういうことではありません。神は十戒で殺すな、盗むな等々と命じています。それらは神の意志なのでやってはいけないこと、許されないことなのです。やったら神の意志に反したので罰せられることなのです。

 社会の法律が罪や罰について規定する時、それは人間が人間に対して行った罪についてです。人を傷つけたら、それは人間に対して罪を犯したことになり、法律が想定している社会の安定を損ねたことになります。それに対して賠償なり刑罰が課せられます。課せられる賠償や刑罰の大きさは社会によって異なり、何が妥当かについて議論は絶えず起こります。キリスト信仰の場合、罪は人間に対して犯したというだけでなく、人間に対して犯したことを通して神に対して犯したということが出てきます。神に対する罪の罰は神罰です。神罰とは、人間が造り主である神と切り離された状態でこの世を生きなければならないということです。そして、この世から別れた後は切り離された状態が永遠のものになってしまうということです。

 社会の罪と罰とキリスト信仰の罪と罰の違いについて、神に対する罪ということの他にもう一つ重要なことがあります。それは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の神の掟は、行動だけでなく心の中でも破ったら、同様に神に対して罪を犯したことになり神罰の対象になるということです。法律の規定だけでしたら、人間に対する罪は行動や言葉で現れるものが罰の対象になります。キリスト信仰の場合は心の中で神の意志に反するものを抱いたら、それでもう神罰の対象になるのです。人間は心の中まで見通せないので法律をもってしても心の中にあるものを罰することはできません。キリスト信仰では神は人間を造られた方なので心の中も全てお見通しです。神の意志に反することが心の中にあれば、それも罪になり神罰の対象になるのです。

 しかし、人間が神罰を受けることは神の御心ではありませんでした。神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげたい、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげたいと思いました。それを可能にするためにひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、人間のために永遠の命に至る道を開かれたのです。

 そこで人間が、これらのことは本当に起こったことだ、それでイエス様は自分の救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きていくことになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままなので、復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。

 ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中に神の意志に反するものがいつも渦巻いています。それに気づいた時、キリスト信仰者は失望したり不安に陥ったり時には絶望しそうになります。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の壮大な計画によってあの十字架が歴史上に打ち立てられた以上は、あの方は自分の救い主であり続け、神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もう失望や不安や絶望に浸る必要はないのです。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世の道を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味しています。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、神の罪の赦しのお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。

3.神の祈りの学校

 本日の福音書の個所は、犯罪人が息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けたという出来事です。それに関連して、ある方が言われたことを思い出しました。その方はキリスト信仰者ではないのですが、ミッション系の学校に通ったことがあり、聖書のこともよくご存じの方でした。ある日、その方に洗礼を受ける考えがあるか尋ねたところ、自分は死ぬ寸前にイエス様助けてと言うからそれで十分、今は縛られないで生きていたいということでした。確かに、本日の福音書の個所の犯罪人の例があるので、最後の瞬間の前にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性も否定できません。しかし、ここには考えなければならないことが二つあります。

 まず、洗礼を受けると聖霊が授けられるということがあります。少し別の言い方をすると、洗礼によって聖霊が常駐するようになるということです。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけですと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけですと、イエス様のことを、自分がこの世と次に到来する世の双方の世を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の立場です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。

 もう一つ問題点があります。それは、「神の祈りの学校」の生徒としての研修期間がなくなってしまうということです。「祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間で口にされる言葉の一つです。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならなずに失望や挫折もあるかもしれない、しかし、そういうことを通しても神は人間の願いよりも大きなことを教え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。研修期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば本当に何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

説教「聖書の神があなたの神になる時、あなたは復活の日に復活する」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書20章27-38節

主日礼拝説教 2022年11月6日(聖霊降臨後第22主日)
聖書日課 ヨブ19章23-27a節、第二テサロニケ2章1-5、13-17節、ルカ20章27-38節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.キリスト信仰の復活について

 本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。キリスト信仰の死生観の土台と言ってもよいでしょう。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。この個所については3年前にも説教しましたが、今日は少し視点を変えて説き明かしをします。結論は全く同じです。

 ところで、復活だの死ぬだの、どうしていつも暗い話ばかりするのか、もっと現世的な明るい話題を取り上げてハッピーな気分にできないのかと言われてしまうかもしれません。誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、または自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたなと思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して前に進めなくなるということもないし、逆にそんな問いには来てもらいたくないと必死に避けることもしない。問いが来たら来たで、確認してハイ終わり、です。そういうふうに確認するものがあるというのはいいことです。

 本日の説教は福音書の個所の説き明かしが中心になります。本題に入る前に、復活について要点を復習しておきます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それと、イエス様を救い主と信じる者たちが与る、将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度復活するということはありません。それで、将来のある時とはいつかと言うと、それは今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される時です(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)。それはまた、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時です(「ヘブライ人への手紙」12章27ー28節)。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

 黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神が裁判官になって裁判を行います。神の手元には全ての人が旧い世でどんな生き方をしたか記録した書物があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがその復活に与ることになります。

 また、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様と結びついている死者たちが復活させられる。それと、再臨の時点でまだ生きている信仰者たちが彼らに合流して神のもとに迎え入れられる。このようにパウロは、イエス様再臨の時点で生きている人たちにも目を向けています。

 ここで、復活について二つ注意すべきことを申し上げます。一つは、パウロが第一コリント15章で言うように、復活させられる者は皆この世の肉体のように朽ちる体ではなく、神の栄光を現わす復活の体を着せられるということです。つまり復活させられる者は、既に死んでいた者も、その時点で生きている者も、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられることはありえないということです。みな同じ復活の体を着せられるのです。誰もこの世の姿かたちで天の御国には迎え入れられないので、皆がこの世の肉体から離別するということになります。

 このことは、本日の旧約の日課ヨブ記の中でも言われています。ただ、日本語訳は何か抜け落ちていたりしてはっきりしません。実は、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳もまちまちで、ここは各国の訳者にとってやっかいな箇所のようです。そこで、19章の23節から27節の前半までをヘブライ語の原文に出来るだけ忠実に訳すと次のようになります。

「(25)私は知っている、私を贖って下さる方は生きておられると。将来、その方はこの滅びゆく大地の上に立ち上がる。(26)私の皮膚が引き裂かれた後で、私は肉体から離れた状態で神を見る。(27a)その方を私自らが見るのだ。私の目が見るのだ。その方はよそよそしい方ではない。」

 このように、ここは復活の時の有り様がこの世の有り様と違うことが言われているのです。さらに贖い主つまりイエス様の再臨のことも言われています。聖書の学会では普通、ヨブ記は知恵文学に属すると言われるのですが、このように復活という黙示文学の要素も持っているのです。聖書の書物を~文学、~文学とジャンル分けすると、他のジャンルの要素があっても気に留めなくなる危険があると思います。各国の訳者は案外、この危険に陥って黙示文学の要素などあり得ないという視点で訳したのかもしれません。

 復活に関してもう一つ忘れてはならないことは、迎入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

 復活は将来に一括して起きること、人間一人一人死ぬたびに起こることではないなどと言うと、じゃ、死んだ人たちは将来起こる復活の日まではどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところで我が国日本では普通、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が大半です。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 そう言うと今度は、死んだ人が本気で眠ってしまったら、誰が起きていて見守ってくれるのかと心配する人たちが出てきます。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、祟りだの、ナントカ商品だのと言われてもびくともしなくなり、この日本も安心して住める国になるのにと思わざるを得ません。

 そこで、天の御国への迎え入れが起こるのは復活の日だからそれまで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

2.イエス様の論点(1)- この世での有り様と復活の有り様

以上、復活の要点を復習しました。これから本日の福音書の個所の説き明かしに入りましょう。サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに議論を吹っかけました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問なんです、と無垢を装う演技派だったでしょうか?

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。一つは、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということです。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみます。

 人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた新しい世になります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、先ほど見た第一コリント15章のパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」であると言われます(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きるようになる。この、復活した者が「神に対して生きる/神のために生きる」ということが第二の論点のところで鍵になります。

 以上、イエス様の第一の論点を見てみました。サドカイ派は復活を正しく理解していませんでした。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。もし復活を正しく理解していれば、そんな質問は出なかったでしょう。

3.イエス様の論点(2)-「神に対して生きる/神のために生きる」とは?

 イエス様の第二の論点は出エジプト記3章6節です。そこで神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。

 ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの根拠になっていることです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブは将来の復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられたと考えることができます。以前の説教では、3人が復活の日まで眠っていてその日に復活させられる可能性について考えてみました。今回は3人が既に神の御許にいる可能性に立って話を進めます。

 イエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になります。実はこの個所はそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、その意味で「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、その言い方はこの復活について教える個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。文というものは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文が置かれた文脈と無関係だったら意味を成さなくなるのです。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」です。これも注意しないといけません。文脈から遊離してはいけません。

 それでは、このイエス様の言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど素直に直訳的に「神に対して」とか「神のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」byとは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

 次に「神に対して生きる/神のために生きる」というのは、どういう生き方かをわからないといけません。わかりそうでわかりにくい文です。イメージとして、神にお仕えするように生きるということが思い浮かぶかもしれません。もっと具体的にわかることができるでしょうか?それができるのです。「神に対して生きる/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章10~11節にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。このようにギリシャ語で読むと両方とも同じ言い方をしているとすぐわかるのに、日本語訳では一方は「神によって」、他方は「神に対して」と違う言い方で訳されてしまうので関連性が見えなくなってしまうのです(後注2)。そこでローマ6章の「神に対して生きる/神のために生きる」がどんな生き方かを言っているかがわかれば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

 ローマ6章のパウロの教えは、スオミ教会の聖書研究会の復習になりますが、こういう流れです。神の意思を表す律法は、人間が神の意志に反しようとする性向、罪を持つことを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされるようになる。まさに罪の赦しが神から「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪が暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を復活と永遠の命に導くようになった。

 そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人が出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きることなど不可能なのだ」(6章2節)。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、それは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪の言いなりになる生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということなのです。そのことが十字架という歴史上の出来事をもって未来永劫にわたって起きたのです。

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様のことだけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまります(後注3)。キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す器として生きるというのはどういう生き方か?本教会の説教でも毎回のように教えています。罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。そのようにして罪に背を向け神に向く生き方を貫くと、復活の日に神の栄光を現す復活の体を着せられて罪との戦いは終結します。

4.神は復活に向かう者の神

 イエス様の言葉「神に対して生きる/神のために生きる」は、パウロの言い方からわかるように、罪の赦しのお恵みに留まって、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す生き方をすることです。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、既に神の御許に迎え入れられた者たちだけでなく、今そこに向かって進んでいる者も含むのです。「生きている者」というのは、ただ単にこの世で生存している者のことではなくて、まさに復活に至る道に置かれてその道を歩む者のことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~は既に神の御許に迎え入れられた者だけでなく、そこに至る道を歩んでいる者も含むのです。

 兄弟姉妹の皆さん、その~に自分を当てはめてみて下さい。皆さんが聖書の神つまり創造主でありイエス・キリストの父である神を「私の神です!」と言うと、皆さんはその神の御許に向かって歩んでおり、復活の日に神が自分を復活させてくれると確信していると告白することになります。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。

 

説教「我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにあり」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書19章1-10節

主日礼拝説教 2022年10月30日(聖霊降臨後第21主日)
聖書日課 イザヤ1章10-18節、第二テサロニケ1章1-4、11-12節、ルカ19章1-10節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課は徴税人ザアカイについての話です。徴税人についての話は先週もありました。エルサレムの神殿で徴税人が神に罪を告白する祈りをしたという話です。ただそれは、イエス様のたとえの教えだったので架空の人物でした。今日の話は、イエス様がエルサレムに向かう途上で通りかかったエリコという町で実際に起こった出来事です。架空の話と実際に起こった話といういう違いはありますが、本日の話は先週の話と繋がっています。

 どう繋がっているかと言うと、イエス様は先週のたとえで、神に義とされる者、つまり神に相応しいとされる者は、自分が罪深い人間であることを認めて神に憐れみと赦しを心から祈れる者であると教えました。そこでイエス様は、神の掟をちゃんと守って神に相応しい者になれるというやり方を否定したのです。果たして、人間は神に自分の罪を告白して赦しを乞う祈りで神に相応しいとされるのか?その通りであることを私たちにわからせるためにイエス様は十字架と復活の業を成し遂げられたのです。それで、十字架と復活の出来事の後は、人間は十字架にかけられたイエス様を心の目で見ることができれば罪が赦されて神に相応しいと認めてもらえるようになったのです。そうなるために私たちは神のみ前で自分が罪ある者であると認めて赦しを祈らなければならないのです。それなので、神に相応しいと認めてもらう際には掟を守ることには意味がないのです。意味があるのはイエス様の十字架と復活の業とそれを人間が受け入れることなのです。そういうわけで先週のイエス様の教えは、十字架と復活の出来事の後の正しい祈り方を前もって教えるものだったのです。

 本日の個所は、イエス様のおかげで神に相応しいと認められたら、続いて何が起きるかということを示しています。何が起きるかと言うと、神の意志に沿うように生きようという心が生まれるということです。今日はこのことを見ていきます。最初に注意すべきことを述べておきます。イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言っているところです。二つのことに注意します。一つは「救い」とは何かとうことです。普通、病気とか何か困難や苦難が解決したり解消したりすると「救われた」と言います。ところがキリスト信仰では、「救い」はこの世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生きられることです。また、この世の人生を終えた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御許に迎え入れらることでもあります。それで今はそこに至る道を神との結びつきを持って歩めることが「救われている」ことになるのです。道の歩みの上で病気になったりいろんな困難や苦難に遭遇します。しかし、なかなか解決が得られなくても、神との結びつきを持てて復活を目指して歩んでいる限りはキリスト信仰者は「救い」がなくなったなどと考えません。「たとえ死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我と共に在せばなり」という詩篇23篇の心意気でいるのがキリスト信仰者です。

 もう一つの注意事項は、イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言ったのは一見すると、ザアカイが財産を貧しい人に施します、だましとったお金は4倍にして返しますなどと改心したことに対するご褒美として言ったように聞こえます。それで、救いは善行の見返りとして与えられるという見方が生まれると思います。ところが、全然そうではないのです。先週も見たように、イエス様は掟を守ったり何か良いことをして神に相応しいと認めてもらうやり方を否定しました。今日の出来事もその延長線上にあります。このことがわかるためには、この個所を先週の個所とあわせて何度も何度も読み返さないとわかりません。一回読んでわかったような気分でいると、イエス様が本当に教えようとしていることと反対の理解になってしまいます。

2.葛藤する徴税人たち

 神に相応しいと認められたら、今度は神の意志に沿うように生きようとする心が生まれるということを、これから本日の個所をもとに見ていきます。その前に、徴税人について先週お話ししたことを少し復習しておきます。徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人たちです。彼らは決められた徴収額以上に取り立てて私腹を肥やすような人たちでした。それなので、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人は同胞の裏切り者とみなされて憎まれていました。

 そうした一方で、福音書に登場する徴税人たちは貪欲で悪質なタイプとは少し様子が違うことにも気づかされます。ルカ3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが神の裁きの日が近いことを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。先週の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらも、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。この他にも、マルコ2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

 以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければといういう気運があったことが読み取れます。本日のザアカイも、イエス様に並々ならぬ関心があったことからすると、洗礼者ヨハネの宣べ伝えが影響を及ぼしていたと考えられます。ヨハネは、もうすぐ神の裁きの日が来る、誰も逃れられない、だから神に背を向けて生きる生き方をやめて神に立ち返る生き方をしなさいと宣べ伝えました。同時に、自分の後に偉大な方が来られるとも宣べました。それがイエス様でした。イエス様は奇跡の業をもって来るべき神の国の実在を示し、自分が罪の赦しの権限を持つことを示されました。その時はまだ十字架と復活の出来事が起きる前でしたが、神の裁きを心配した人たちにとってイエス様は救いの道を示して下さる希望の光に映ったでしょう。

3.ザアカイ、イエス様を受け入れる

 イエス様が弟子たちと大勢の支持者たちを従えてエリコの町に入ってきました。ザアカイはイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かった上に群衆に遮られて見ることができません。それで先回りして木に登り、上から見ることにしました。そこをイエス様一行が通りかかります。イエス様はザアカイに気づいて彼を名前で呼びます。さすが神のひとり子です、まだ会ったことのない人の名前をご存じでした。ということは、ザアカイがどんな素性の者かもご存じだったでしょう。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」当時は一緒に食事するというのはとても強いきずながあることを意味しました。それで、「なんであんな罪びとの家に?」と言う周囲の不満や失望は理解できます。

 ここから先ですが、一回読むと、ザアカイが財産を分け与えますとか言うところは、まだいちじく桑の木の下でのやり取りのように見えます。しかし、よく目を凝らして何度も読むと、木から降りたザアカイは喜んでイエス様を迎えたので実際は家に連れて行ったのです。ギリシャ語原文を見ても、群衆はイエス様の滞在中ずっとぶつぶつ言っていたという書き方です。それなので8節の「ザアカイは立ち上がって」というのは、イエス様が家から出発する場面と考えられます。「立ち上がって」とありますが、ザアカイが座った状態から立ち上がったみたいですが、そうではありません。ギリシャ語の言葉は立っている状態でも使われる言葉なので「立ち上がる」と訳すのは誤りです。どんな日本語に直せるのかは少し難しいですが、感じとしては、これから喋る人にスポットライトを当てるような感じです。ここは「イエス様と向かい合って」という意味でしょう。

 以上から、ザアカイは、イエス様の呼びかけを聞いて木から降りて、イエス様を家に迎え入れて一緒に過ごす時を持ちました。そこでイエス様の人となりを見、その言葉を聞いたでしょう。どんな言葉であったかはルカ福音書には記されてはいないのでわかりません。しかし、大事なのはイエス様を受け入れて一緒の時を持った後で、財産の半分を貧しい人々に分け与える、だましとったものを4倍にして返すという決心をしたということです。その後でイエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。ザアカイの決心の背景には、イエス様を自分のもとに受け入れたことがあります。このことに気づくと、ザアカイはイエス様から救いを保証してもらうために決心したのではないことがわかります。それで今度は、ザアカイがイエス様を受け入れたことを少し詳しく見てみます。

4.神とイエス様の側の受け入れ

 ザアカイがイエス様を受け入れて家に招く前に、イエス様がザアカイを受け入れて家に招くようにと命じていました。つまり、イエス様が最初ザアカイを受け入れザアカイはそれに応じたのです。イエス様の受け入れを受け入れたのです。イエス様がザアカイを受け入れる前、ザアカイの方では特にイエス様に受け入れられるというつもりはなく、ただイエス様を一目見たいというだけでした。その時のザアカイは金には全く不自由しないという羽振りの良さでしたが、民族の裏切り者、罪びとの最たる者というレッテルをはられていました。金さえあれば、そんな不名誉は痛くもかゆくもないという態度だったと思います。そこに洗礼者ヨハネが現れて神の裁きと神への立ち返りということが公けに言われるようになりました。神の裁きが起これば、いくら金を積んでも何の役にも立たないこと位はザアカイにもわかったでしょう。実際、大勢の徴税人たちがヨハネのもとに行って洗礼を受け、徴税人を辞める者さえ出ていたのです。さあ、自分はどうしたら良いか?

 その時、このエリコの町にあのイエスがやって来ると聞きつけます。あの、洗礼者ヨハネが自分の後に来る偉大な方と言っておられた方、数多くの奇跡の業を行い、いつの日か到来する神の国について教え、また罪の赦しの権限を持つと自ら言われる方、その方が今来られるのだ。ザアカイが関心を抱くのは当然でしょう。ただ木の上から見ることができたらその後のことは何も考えていなかったでしょう。ところが、そのお方が彼に目を留め、名前で呼び彼の家に立ち寄りたいなどと言ったのです!イエス様は、心に葛藤を抱えていたザアカイを見つけて彼を呼びました。イエス様は心に葛藤を抱えていた彼、まだ善い行いをするに至っていない彼をそのまま受け入れたのです。ザアカイはその受け入れに応じたのです。その後でイエス様と共に過ごす時を持ち、その後で財産を捨てる決心をしたのです。全てはイエス様が悩む彼を受け入れたことから始まったのです。

 イエス様が悩む者を受け入れるとその人に新しい心が生まれるというのはキリスト信仰にそのまま当てはまります。もっと正確に言うと、イエス様が受け入れてくれたことに応じる、つまりイエス様の受け入れを受け入れることで新しい心が生まれるのです。まさにザアカイがその模範例となりました。先週もお教えしましたようにキリスト信仰では、神の掟を守ったり善い業を行ってそれで神に認められる、神に相応しいとされるという考え方をしません。人間には神の意志に反しようとする性向、罪があるので神の意思に完全に沿うことが出来ないのです。

 ではどうしたらよいのか?そのままでは人間は救われない状態に留まってしまいます。それを分かっていた神は、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はこのイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。私たちの造り主である神のもとに戻れる道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て神が自分のためになして下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。

 こうして人間は、イエス様が果たして下さったことと彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しいとされ、神との結びつきを持ってこの世を歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので逆境の時も順境の時と変わらない助けと良い導きを神から得られます。また、この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。このようなこの世と次に到来する世にまたがるような大きな救いを、ひとり子を犠牲にしてまで与えて下さった神に私たちはただただひれ伏して感謝し、これからは神の意思に沿うように生きようと志向し出します。その時、神の掟を守り善い業を行うことが当然のことになります。そこでは、掟を守ることや善い業を行うことは神に認めてもらうための手段ではなくなっています。こっちは何もしていないのに神に先回りされて先に認められてしまったので、その結果そうするのが当然という心になってするのです。

 このイエス様の十字架と復活の業が実は神が人間を受け入れる業だったのです。もし神が罪を持つ人間など絶対受け入れないという態度だったら、ひとり子を贈って十字架と復活の業を成し遂げさせることなどはしなかったでしょう。人間を受け入れるから贈ったのです。そしてその次に大事なのは人間がその神の受け入れに応じるかどうかです。神の受け入れを人間が受け入れるかどうかです。人間が神の受け入れに応じて受け入れるというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の受け入れを受け入れた者は、神との結びつきを持って復活の日に至る道を歩み始めます。初めにも申しましたように、本当に「死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我とともに在せばなり」になるので、もう安心と信頼しかないという感じになります。それで神の意志に沿うように生きるのが当然という心になります。

 ただし、キリスト信仰者といえども、この世で肉の体を纏って生きている以上は神の意志に反する罪をまだ持ち続けます。しかし、信仰者は神の受け入れを受け入れたので神から相応しい者とされます。ひとり子のイエス様のおかげでそのように見てもらえると思うと、畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで一杯になり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうなるとかえって神の意思に敏感になりますが、まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という先週の徴税人の祈りがあるのです。そして祈りは必ず聞き遂げられるということは、心の目をゴルゴタの十字架に向けられる時にわかります。あそこに首をうな垂れたあの方がおられる。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫であることが厳粛にわかります。

 ザアカイの場合は、もちろん、十字架と復活の前の出来事なので、イエス様のことを復活の救い主と信じる信仰も洗礼もまだありません。しかし、ザアカイが辿ったプロセスにはキリスト信仰の原型があります。まず神は、葛藤を持つ私たちを受け入れて下さる。イエス様はザアカイを名前で呼んで受け入れました。神はイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせることで私たちを受け入れてくれました。イエス様に受け入れられたザアカイは、その受け入れに応じてイエス様を自分の家に迎え入れました。私たちは、神の受け入れを信仰と洗礼をもって受け入れて神と御子を心の中に迎え入れます。ザアカイはイエス様の受け入れを受け入れて、彼の人となりを見、その御言葉を聞いて、神の意志に沿うように生きようとする心を持ちました。私たちも、神の受け入れを受け入れて聖書の御言葉を通してイエス様の人となりを知り御言葉を聞くことで神の意志に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するがごとく愛そうという心を持つようになります。

 このようにイエス様がまずザアカイを受け入れて、ザアカイもイエス様の受け入れを受け入れて、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になった、イエス様はこのプロセス全部を指して「救いが訪れた」と言われたのです。私たちの場合も同じです。神がイエス様の十字架と復活の業を通して私たちを受け入れて下さった、この神の受け入れを私たちが信仰と洗礼で受け入れる、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になる、このプロセスにあれば私たちに「救いが訪れた」ことになるのです。

 我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入 れることにある。

 救いは我々が何かを成し遂げた褒美として与えられるものではない。

 我々は善い業を神のイニシアチブを受け入れた後でするようになる のである。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教 「キリスト信仰者の自己肯定感といわゆる「信仰の成長」について」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書17章5-10節

主日礼拝説教 2022年10月2日(聖霊降臨後第十七主日)

ハバクク1章1~4節、2章1~4節、2テモテ1章1-14節、ルカ17章5-10節

説教をYoutubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の最初の部分は、イエス様の有名な「からし種」の話です。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は、何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。

 からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが3~4メートル位の木に育つと言われています。それなので、イエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言ってることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?

 もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?そんな疑問が生まれます。からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。果たしてそうなのか?以下に見ていきましょう。

2.キリスト信仰者の自己肯定感

最初に、召使いを労わない主人のたとえを見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指しているからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇用者と被雇用者、親と子、先生と教え子の関係ではありません。

 神が命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、突き詰めて言うと、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。これでは、自己肯定感なんか生まれません。

 ところが、神は、私たちにとって労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても私たちは全然平気だ、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はイエス様を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この与えられた神のひとり子の償いを手放さずにしっかり携えてこの道を歩み続けると、かの日、創造主の神のみ前に立たされる時、大丈夫、何もやましいところはない者として見てもらえると安心して立つことができます。本当を言うと、失敗だらけ至らないことだらけだったのだが、その度にいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを祈った。すると、一度打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにある、だから心配しなくてもよい、といつも神から言われた。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで満たされて再び永遠の命の道を歩み始めることが出来た。永遠の命の道とは、このように繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道を歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでその人はかの日に神のみ前に心配せずに立つことが出来るのです。

 ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰を携えて歩めたおかげで、神のみ前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はこの私にイエス様を贈って下さったのだ。

 このことがわかると、やるべきことをして労われて誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を犠牲にしてして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ。これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しないでいられる自己肯定感です。別に見返りなんかなくても平気でいられる自己肯定感です。

 もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。それなので、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきた時、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。

 本日の旧約の日課ハバクク書の箇所には、周囲は不正と暴力が溢れ、正義が歪曲されてしまった状況が描かれています。その中で、神の義に生きる者はどうしたらいいのかという問いに対する答えがあります。それは、神の救いの約束はなかなか実現しないように見えても、必ず実現するから、神の意志に反する者たちの言うことを聞くな、神の意志に従えば永遠の命に与れるということを明らかにしています。このことは、イエス様が来られる前の時代には確信を持つことは難しかったかもしれません。しかし、イエス様が来られた後は神の約束は実現すると確信が持てるようになったのです。この確信を得たキリスト信仰者は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を与えられているとパウロは本日の使徒書の日課第二テモテの個所で述べています。

 それなので、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の関係から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、果ては選挙で投票してもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。自己肯定感のためにやっていたはずのことが、いつの間にか肝心の自己が周囲や便宜を図る者に造られていっていまうのです。

3.からし種のように成長するのは信仰か?

次にからし種のたとえの教えを見てみましょう。イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうのではと思わせます。それで、お前たちは、せめてからし種くらいの信仰を持て、そうすれば奇跡を起こせるぞ、と言っているように聞こえます。イエス様は本当にそういうことを言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?

 まず、イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。後の文と一緒にしてみると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示します。そうすると、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、あなたがたにはないことを前提に言っていることになります。高校の英文法で言えば、事実に反することを暗示する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。つまり、ここは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っていないとも持っているとも言っていないのです。そして不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを暗示しています。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろうが、実際にはお前たちは命じないだろうから、桑の木も実際にはそういうことをしないだろう」という意味です。

 さあ、混乱してきました。今まで多くの方が理解していた理解がぐちゃぐちゃになってきたと思いますので、整理してまいりましょう。

 からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。

 このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長することに関係しているということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。ここで問題になるのは、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは、神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う者が持てないような「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。

 それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、キリスト信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神のみ前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところはないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。「恵みの賜物」は異なっていても、これだけは全員同じです。

 そこでもう一つ大事なことを申し上げます。「信仰が成長する」とよく言われますが、正確には「信仰を携えて私たちが成長する」ということです。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰ですが、それが成長するのではなく、それを携えた私たちが成長するということです。どういうことかと言うと、先週スオミ教会の礼拝の後で聖書研究会を行いました。学んだ箇所はローマ10章1~13節。かつてモーセは、律法は難しくない、それは人間が行えるようにと口と心の中に置かれているのだ、と教えました。それに対してパウロは、人間を罪の支配から贖い出して下さったキリスト自体が信仰と洗礼を通して人間の口と心の中に置かれているのだと教えました。それで、かつては、口と心の中にある律法を行うことで人間は神から義と認められて救われるということだったが、今度は、口と心の中にあるキリストの贖いを、口にあるからそのままイエスは主である言い表し、心の中にあるからそのままイエスは死から復活したと信じれば義と認められ救われるのだ、と教えたのです。パウロにとって信仰とは、キリストの贖いが口と心の中にある位に身近にあって、それで口でその通りに言い表して心でその通りに信じることなのです。

 それなので、キリストの贖いを口と心の中に持つキリスト信仰者は口でその通りに言い表し心でその通りに信じることを、この世の人生の中で行う。これが信仰を携えて成長することです。それはあたかも、口と心の中にあるキリストの贖いという大きなものに小さな自分を適合させていくようなことです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出すという繰り返しがあります。その繰り返しをすることもキリストの贖いを口と心の中で携えて成長することです。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になります。その時が復活の日なのです。

 こういうふうに見ていくと、イエス様の主眼とするところは、だんだん、奇跡の業を起こせることで信仰が大きいとか小さいとか判断することをやめよ、ということになっていきます。先にも申しましたように、奇跡の業を起こせることは「恵みの賜物」の領域で人間が立ち入ることは出来ません。奇跡の業を起こせて信仰が大きい起こせなくて小さいという問題ではないのです。イエス様は弟子たちに、お前たちがそんな考えにとらわれているんだったら、これでどうだ、と言わんばかりにこのからし種の話を出してきたことがわかります。奇跡の業を起こすのは別に大きな信仰なんかではないと思い知らせるために、奇跡の業をからし種のような極小のものに結びつけて見方をひっくり返す。そして、奇跡の業の例として取り上げたものも、たまたまその辺に生えていた桑の木を指さして、その木が自分から抜け出して海に行ってそこで生えるというような、あまり意味のないどうでもいいものにする。このように見ることができれば、イエス様の主眼は一般に言われるような、お前たちはからし種位さえの信仰もないので奇跡は起こせない、せめて、からし種位の信仰を持て、そうすれば起こせる、ということではありません。そうではなくて、奇跡の業を起こすのが大きな信仰ではない、信仰者にとって大事なのは神から与えられたキリストの贖いの信仰を携えてからし種のように成長することである、ということなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注1)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεになるべきでしょう。

(後注2)εχετε - ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk–Svensk Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

2022年8月14日 聖霊降臨後第10主日 主日礼拝はフインランドからのヴィデオ礼拝になります。

司式・説教 ティモ・ハヴカイネン宣教師

説教題 「キリストの火」

礼拝をYouTubeで見る

聖書 エレミヤ23:23-29

   ヘブライ11:29-12:2

   ルカ12:49-56

讃美歌 238,131,467,154

音楽 マリ・リ-サ・ハヴカイネン

   ティモ・ハヴカイネン

ヴィデオ編集 ティモ・ハヴカイネン

2022年8月7日 聖霊降臨後第9主日 主日礼拝はフインランドからのヴィデオ礼拝になります。

司式・説教 ティモ・ハヴカイネン宣教師

説教題 「婚宴から帰って来た主人」

礼拝をYouTubeで見る 8月7日10時30分~

聖書 創世記15章1-6節

   ヘブライ11章1-3節

   ルカ12章32-40節 

讃美歌 244,236,200,371

音楽 マリ・リ-サ・ハヴカイネン

   ティモ・ハヴカイネン

ヴィデオ編集 ティモ・ハヴカイネン

 

説教「将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書9章51~62節

主日礼拝説教 2022年6月26日(聖霊降臨後第三主日)
聖書日課 列王記上19章15~16、19~21節、ガラテア5章1、13~25節、ルカ9章51~62節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 これまでガリラヤ地方を主な活動舞台にしてきたイエス様が、ついに運命的なエルサレム行きを決意し、そこを目指して歩み始める。本日の福音書の箇所の冒頭は、このことを記しています。イエス様は、既に弟子たちに前もって告げ知らせていたように(ルカ9章22節、44節)、エルサレムでどんな運命が待ち受けているか、自分でもよく知っていました。行けば、苦しみを受け殺される、しかも普通の人間が被る死とは異なる、もっと重い死を被ることになる。それを知って向かうのです。しかし、それは、神の人間救済計画の実現のためにしなければならないことでした。まさにそのために、イエス様は、天の父なるみ神のもとからこの世に贈られてきたのですから。

 さて、ガリラヤ地方からエルサレムに行こうとすると、その間にサマリア地方があります。そこに住むサマリア人たちとユダヤ人たちは、歴史的・宗教的な理由からお互いに反目し合っていました。サマリア地方は古くは、ダビデの王国が南北に分裂した後は北王国の中心でした。しかし、北王国は次第に、天地創造の神でありまたイスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出した神から離れ、カナンの地の土着の霊であるバアルの信仰に染まっていきます。この辺の事情は、預言者エリアの孤独な戦いについて列王記上の中に記されています。神から離れた北王国は紀元前700年代にアッシリア帝国に滅ぼされます。国の主だった人たちは占領国に連行され、代わりに異民族が送られてきます。そうして、サマリア地方は宗教的・民族的な純粋さを失っていきます。サマリア人たちは、旧約聖書のモーセ五書は持ち続けましたが、預言書は無視しました。また神に生け贄を捧げる場所としてゲリシムという山を選び、エルサレムの神殿も無視していました。そういうわけで、ユダヤ人たちはサマリア人を毛嫌いし接触を避けていました。ユダヤ人のそういう態度は福音書の随所に出てきます。本日の福音書の箇所で、イエス様一行がサマリアの村に宿と食事の提供を願い出て拒否されますが、その理由として、イエス様がエルサレムを目指して進んでいたからと記されています。サマリア人としては、誤った礼拝場所に巡礼に行く者たちをどうして世話しなければならないのか、ということだったのでしょう。この拒否に怒った弟子たちが、こんな村は神の力で焼き尽くされるべきだといきり立ちました。これに対してイエス様は、そんなことを言ってはいけないとたしなめ、その村はそのままにして、別の村を経由して行きました。

 このサマリア地方での出来事に加えて、本日の福音書の日課では、イエス様に付き従うことについての教えがあります。三人の男の人が登場します。そのうち二人は自ら志願します。一人はイエス様が付き従いなさいと声をかけます。しかし、いずれの場合もイエス様は、付き従うことに二の足を踏ませるような厳しいことを言います。特に、イエス様が自分で付き従いなさいと声をかけた人に対して、その人がまず死んだ父親を埋葬してから来ます、と言ったのに、イエス様は、埋葬は他人に任せて、あなたはただ神の国を言い広めなさい、と命じます。これは、日本のように死んだ人の霊を崇拝する伝統が強いところでは、キリスト教はなんとひどい宗教だという反感を生み出すことになります。このイエス様の教えについて、本説教の後の方で見てみます。

 サマリア地方の出来事は一見すると、イエス様は慈悲深い愛に満ち方であることを言っているように見えます。イエス様につき従うことの教えの方は逆に、彼の弟子になることにとても厳しい条件を課しているように見えます。しかし、そういうイエス様の優しさとか厳しさという理解はまだまだ浅い理解です。このサマリアの出来事と弟子の条件の教えは、一見すると関連性がないみたいですが、実はあります。それを理解するカギは今日の個所に2回出てくる言葉「神の国」です。人間と「神の国」の関係が今日の日課の中で問題になっているとわかると、イエス様は心優しいお方とか厳しいお方とかいうような頼りない理解を突き破って堂々とした理解に入ることができます。

2.「神の国」とはどんな国?

 そのためには、まず「神の国」がどんな国かわからないと話になりません。特に一般的また俗に言う「天国」と大きく違うことがわからないといけません。両者を混同してはいけないのです。俗に言う「天国」は人間が死んだら天使のように空に舞い上がって行くところで、亡くなった方が上からこちらを見下ろしているとか見守っているとかいう所です。ところが、キリスト信仰の「神の国」は全く異なります。聖書では、「神の国」は人間が「行く」ところではありません。そっちの方がこちらに「やって来る」ものです。

 例えば、イザヤ書の終わりの方で(65章17節、66章22節)、今ある天と地が新しい天と地に再創造される日についての預言があります。黙示録21章ではまさにその再創造の日に「神の国」が新しい天と地のもとに降りてくると預言されています。「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地と全ての被造物が共に激しく揺さぶられて崩壊していくなかで、ただ一つ揺さぶられずに現われるのが「神の国」であると言っています。黙示録21章はまた「神の国」がどういう国か次のように述べています。そこは「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章3‐4節)。神が全ての涙を拭うというのは、痛みの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。「神の国」が現われる天地の大変動の時はまた、最後の審判が行われます。それなので、前の世で被ってしまった不正義は全て最終的に清算されて完全な正義がやっと実現する国です。さらに「神の国」は黙示録19章で盛大な結婚式の披露宴にたとえられます。つまり、この世の労苦がすべて報われて労われる国ということです。

 「神の国」がそういう遠い将来に新しく再創造された天と地のもとにやって来る国となると、誰がそこに迎え入れられるかという問題があります。不正義は入り込む余地がないことから、誰もがということではないことが明らかです。誰が将来到来する「神の国」に迎え入れられるかという問題に取り組んでいるのが聖書です。その問題の解決策として、天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが聖書の一番伝えたいことです。

 聖書の立場は、人間はそのままの状態では「神の国」に迎え入れられないというものです。ヨハネ3章でイエス様がはっきりそう言っています。どうしてかと言うと、人間には最初に造られた人間の時から神の意志に反しようとする性向、罪を持ってしまっているからです。そのため、人間は神との結びつきを失ってしまい、死ぬ存在になってしまったと創世記に記されています。人間はそのままの状態では神との結びつきを持たないでこの世を生きることになり、この世から去った後も神のもとに戻ることは出来ません。それで神は、人間が再び自分との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう、この世から去った後も天地再創造の日に復活を遂げさせて永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子を贈られたのでした。そのひとり子イエス様を贈って何をしたかと言うと、神と人間の結びつきを失わせている罪を全てイエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで人間に代わって罪の罰を受けさせたのです。つまり、人間に代わってイエス様を断罪して、この神のひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。

 そこで今度は人間の方が、十字架の出来事は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しをお恵みのように頂けます。神はまた、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。それで、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて罪の赦しを受け取った者は、その道に置かれて歩み出します。行き先は、天地再創造の復活の日に復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられる地点です。それが「神の国」です。

 それなので、キリスト信仰にあっては、「神の国」は死んでフワフワ上がって行ってそこから下を見下ろす所ではありません。遠い将来にそれが到来する日を目指して進んでいくところです。イエス様が祈りなさいと命じた「主の祈り」の中でも「御国を来たらせたまえ」と祈ります。ここにキリスト信仰とそれ以外の死生観の大きな違いがあります。

 ここで起こって来る疑問は、この世で「神の国」が到来する日を目指しながら歩んでも、その日の前に死んでしまったらどうなるのかということがあります。キリスト信仰にあっては、その日までは安らかに眠っているのです。イエス様もパウロも、キリスト信仰者にとって死は復活の日までの眠りに過ぎず、その日に復活の主であるイエス様が来て起こしてくれると言っています。眠っているから、下を見下ろしたり見守るということもありません。ここにもキリスト信仰の死生観のユニークさがあります。

3.サマリアの人たちは方向転換した

 それでは、福音書の日課に戻りましょう。イエス様は、エルサレムを目指し始めました。それは、受難と十字架の死と死からの復活を全てこなして神の人間救済計画を実現するためでした。それを実現すれば、人間はたとえ罪の汚れを持っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、神聖な神の国に迎え入れることができるようになります。

 このような全人類史的な意義を持つ任務を負ったイエス様をサマリア人の村が受け入れを拒否しました。憤慨した弟子のヤコブとヨハネは天から火を送って焼き払ってしまったらどうですか、イエス様に聞きます。彼らの言葉づかいは、列王記下の1章で預言者エリアがバアル崇拝に走る国王の使者を天からの火で焼き殺した時の言葉を思い出させます。実際、弟子たちは、この出来事が脳裏にあったのでしょう。しかし、イエス様は、拒否したサマリア人の村はそのままにしておきなさい、と言われる。なぜでしょうか?

 イエス様が心優しい慈愛に満ちた方だからと言うのは、まだ核心を捉えていません。イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげたい、そしてゴールとして「神の国」に迎え入れてあげたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるようお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる気前の良い方だということなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか神に背を向けた生き方から方向転換して神に立ち返る生き方に入って神の国に迎え入れられるようにしようと猶予期間を与えているのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、方向転換の可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いい気になって、いつまでも方向転換をしないで済ませていいはずがない、と気づかなければならないのす。もし、この世の人生の段階で方向転換がないと、それは神罰を受けないで済むための「罪の赦し」を拒否したことになります。

 それでは、このサマリア人の村はどうだったのでしょうか?猶予期間を与えられて方向転換したでしょうか?それがしたのです!使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムにおいてキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムから脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことを認めなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が「神の国」に迎え入れられることが全てに優先されるということがあったのです。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されたのです。イエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、「神の国」に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。

4.将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう

 次に、イエス様に付き従うことも、神の国に迎え入れられることに関係することを見てみましょう。

 三人の男の人が登場します。最初の人は、イエス様に付き従うことを志願します。それに対するイエス様の答えは、付き従いの生活はそんなに甘くはない、というものです。エルサレムまで一緒に上っていく途上で、いつもマリアやマルタの二姉妹のような支持者から食事と床を提供される保証はない、場合によっては食べるものもなく、雨風にさらされて寝ることにもなる、そのようにしてエルサレムまで行って、イエス様の十字架と復活につきあって目撃者となったら、あとはどうなるのか?復活後のイエス様は天に上げられてしまう。そうなると、もう付き従うイエス様はいらっしゃいません。イエス様につき従うこともそれで終わってしまうのか?実はイエス様の発言は、昇天以後のことも視野に入っていたのです。一度、神の国に迎え入れられる道に置かれてそれを歩み出したら、今度は他の人もそこに迎え入れられるように働きかけをしなければならないのです。なぜなら、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようになることは神の御心だからです。そうするとこの働きも、イエス様と一緒にエルサレムに上っていくことと同じように、安逸の保証がないものになります。いつも支持者や賛同者に囲まれるとは限らず、いつも寝食が満足に得られる保証もないのです。

 このことが、二番目の男の人のところで明確に出てきます。父親の埋葬には行かず、神の国を言い広めよ。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言うのは、死体を死体のところにほおっておけというような、死体遺棄ではありません。「死んでいる者たち」とは、神との結びつきを回復していない人たちを指します。永遠の命に至る道を歩んでおらず、この世から死んだら、復活を果たせず永遠の滅びに陥ってしまう人、これを「死んでいる者たち」と言っているのです。父親の埋葬はそのような人たちに任せて、あなたのなすべきことは、「神の国」について教え伝えることだとイエス様は言うのです。つまり、人々が「神の国」に迎え入れられるように働きなさいということです。人々が神との結びつきを持って生きられるように助けなさい、永遠の命に至る道に入って歩めるようにしなさい、つまり、「死んでいる者たち」をそのように生きる者にしなさいということです。

 こうして見ると、ここのイエス様の教えは、キリスト信仰者は親の葬儀をするな、軽んじろ、ということではないことがわかります。葬儀をするにしても、人々を「神の国」に迎え入れられるように導きなさい、ということです。その意味でキリスト教会の葬儀はこの任務に取り組んでいます。故人にゆかりのある人たちが集まって、その方の死を悲しみ、遺族の悲しみと個人の懐かしい思い出を心を一つにして分かち合い、また遺族に慰めの言葉をかけて励まし合う、ここまではキリスト教に限らず他の宗教も同じでしょう。しかし、この先は大きく異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰では、死は復活の日までの安らかな眠りに過ぎず、復活の日に復活を遂げられたら、今度は懐かしい人との再会があるという希望があります。復活の体と永遠の命を持つ者同士が合いまみえるという希望です。キリスト教の葬儀では、悲しみの中でもこの再会の希望が確認されます。そのようにして、参列する人たちが「神の国」に迎え入れられることを再確認し合い、参列者がキリスト信仰者でない場合は、「神の国」がどのようなものであるかを伝える伝道的な意味を持つ、これがキリスト教の葬儀です。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という主の命令は、そこでも守られているのです。

 ここで日本のキリスト信仰者にとって重い課題となるのは、参列する葬儀がキリスト教式でなかったらどうすべきか、ということです。これも、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」が原則になります。つまり、まだ「神の国」に向かう道を歩んでいない人たちに、自分がまさにその道を歩んでいることを証し、さらにその人たちをその道に導いていくことができれば、この原則に沿ったものとなります。その時、死んだ者の葬りを死んだ者に任せるくらいに「神の国」を言い広めることになっています。しかし、証しや導きは具体的にはどういう形をとるでしょうか?本説教では、こうしなさい、ああしなさい、ということは言わず、皆さんお一人お一人の心に問題提起をすることにとどめておくことにします。

 さて、三番目の男の人の場合です。「鋤に手をかけて後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主は言われました。ここで早合点してはいけないのは、イエス様は家族を見捨てろと言っているのではないということです。イエス様の原則からすれば、家族ももちろん「神の国」に迎え入れられるように導く働きかけの対象です。その意味で、家族のもとには留まれるのです。この三番目の男の人のところで問題になっていることは、家族に対して「神の国」に向かう道に導く働きかけをしないで家族のもとに留まると、自分自身が道を踏み外してしまうリスクがあるということです。家族の絆というのはそれ位強力なものです。しかし、家族の人たちが「神の国」に迎え入れられるように働きかけをすれば、絆は保っていても「神の国」に相応しいのです。そうは言っても、家族の人たちがイエス様に関心があるとか、救い主として受け入れる準備があるとか、そういう理想的な場合はなかなかないでしょう。イエス・キリストの名を口にしただけで嫌な顔をされてしまうのが大半なのではないか?それなら、まず祈ることから始めます。私たちの愛する人たちが私たちと一緒に「神の国」に向かう道を歩めるように、一緒に復活を遂げて将来そこに迎え入れられるように父なるみ神に知恵と力と勇気をお願いします。

 兄弟姉妹の皆さん、以上からおわかりのように、イエス様の厳しい教え、葬式に出るなとか家族を捨てろと言っているように見える教えは、そうすることが目的なのではなく、「神の国」を証しし言い広めることが真の目的なのです。そのために「神の国」がどういう国かわからないと話になりません。今日の説教でもそれがわかるようにお話しした次第です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「神が三位一体であることと私たち」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書16章12-15節

主日礼拝説教 2022年6月12日(三位一体主日)
箴言8章1~4、22~31節、ローマ5章1~5節、ヨハネ16章12-15節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

聖霊降臨後の最初の主日である本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天地創造の神を三位一体の神として崇拝します。先週は聖霊降臨祭で聖霊を覚える主日でした。それで父、御子、聖霊が出揃ったということで今日の礼拝は三位一体を覚えるのにちょうど良い日です。

三位一体とは一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているということです。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神です。今日は、本日与えられた聖書の日課に基づいて三位一体に迫ってみましょう。

ところで宗教学では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という世界三大一神教には類似性があるとよく言われます。ユダヤ教は旧約聖書を用いるし、イスラム教は新約聖書と旧約聖書を全く独自の仕方で用います。しかしながら、三つの一神教が同じ種に属するという話は神学的に無理があります。なぜなら、キリスト教では神は三位一体で、ユダヤ教とイスラム教はそうではないからです。共通の聖典を持っているとは言え、三位一体があるために、キリスト教は他と分け隔てられるのです。それなので、共通の聖典などない他の宗教とキリスト教の間なら、類似性を論じる可能性はもっとなくなります。

キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどに分かれていますが、分かれていても共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体とします。共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。分かれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があります。また、分かれた教会が一致を目指す時の土台にもなります。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

2.三位一体は旧約からある

ところで、神が三位一体というのは、キリスト教が誕生した後で作られた考えだという見方があります。その見方は正しくありません。三つの人格を持ちながらも一人の神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

その例として本日の旧約の日課、箴言の8章は重要です。その22ー31節を見ると、神の「知恵」は人格を持つ方であることがわかります。まず「知恵」は自分のことを「わたし」と言って語ります。さらに、「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言います。30節を見ると、「わたしは巧みな者」と言っていますが、ヘブライ語のאמוןという言葉は「職人」を意味します。「知恵」が父と一緒に創造の作業を行っていたことを示唆する言葉です。それで、箴言のこの個所を読んだ方は、あれっ、イエス様のことを言っているみたいだ、と思うでしょう。コロサイ1章15節を見ると、御子は全ての被造物に先立ってあった、そして天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも造られた、と言っています。また、ヨハネ福音書1章ではイエス様のことを神の言葉、ギリシャ語でロゴスと言っており、それは天地創造の前から存在して、やはり天地創造に関与していたことが言われています。そうなると、神の「知恵」は後に「イエス」の名を付けられる神のひとり子と同一ではないかと思われます。

もちろん、神の「知恵」と神のひとり子を一緒にするのはどうかと思われる人もいるかもしれません。その理由として、二ケア信条では神のひとり子は「造られたのではない」と言っているのに、「知恵」の方はは「造られた」(22節)と言っているからです。これはヘブライ語をよく見ないといけません。「知恵」が造られたと言う時の「造られた」はקנהという言葉です。ところが、神が天地創造を行って被造物を造った時の言葉はבראと違います。日本語では両方葉を「造られた」と訳してしまって一緒くたになってしまいました。ヘブライ語ではそうならないように区別して違う言葉を用いているのです。それで、「知恵」は被造物のように造られたものではないのです。

これと同じことが「生まれる」という言葉についても言えます。二ケア信条では、神のひとり子は造られたのではなく「生まれた」と言っています。神の知恵も箴言8章24節と25節で「生み出された」と言います。この箴言の「生み出される」はヘブライ語でקדהです。ところが普通、母親が子供を産む時にはילדという言葉を使います。このように違う言葉を使うことで「知恵」が「生み出される」ことは被造物の生殖作用と異なる生じ方であることを意味しているのです。

このように天地創造の前から存在していた「知恵」とひとり子は重なってきます。イエス様自身、自分はソロモン王の知恵より優れた知恵であると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると意味したのです。

箴言の「知恵」がひとり子にもっと同一性を持つことがあります。30節と31節です。新共同訳では「楽を奏し」などと訳していて、まるで神の知恵が音楽の才能を持つかのように言われていますが、この訳は良くありません。良い訳は次の通りです。

「私は造り主のもとで職人であった。― つまり、創造に関与した。― 私はそこで世々限りなく喜びを体現する者、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとした。私は地上の人々に親切にするだろう。」これなら、神の知恵は神のひとり子にぐっと近づくでしょう。

ここで、どうして新共同訳で神の知恵が楽器を演奏するなどと言っていることについてひと言述べておきます。問題となっているヘブライ語の言葉שחקは、「幸せである」とか「楽しませる」と言う意味を持ちます。それがもっと特定化されて「ダンスをする、楽器を演奏する」という意味も持ちます。新共同訳はそっちを取ったので神の知恵はなんだかダンス・バンドのようになってしまいました。他にも注釈すべきことがありますが、ここでは深入りしません。

いずれにしても、神の知恵は造り主の許で職人であった、そこで代々限りなく喜びを体現する者で、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとしていた。そして、いつの日か、地上の人々に親切にする日が来ると言うのです。こうなると神の知恵は神のひとり子のイエス様に限りなく近づきます。

旧約聖書のヘブライ語原文の中には、単語の意味と文法からみて神のひとり子・イエス様のことを言っていると思われるものが沢山あります。しかし、翻訳や解釈をする人は必ずしもそう訳するとは限りません。その理由は、イエス・キリストは旧約聖書の書物が生まれる何百年前以上の人なので、旧約聖書を記した人たちはまだ知っているはずがない。彼らが書いたものは彼らの歴史的文脈の中で理解すべきで、後世の事柄を解釈や翻訳にむやみに持ち込まないという態度なのです。私は、もちろん単語の意味や文法的に無理なら当然しませんが、可能であればなるべくするようにします。宗教改革のルターも、イエス・キリストは旧約聖書に見出すことができるし、そうすべきだと言っています。

旧約聖書にイエス・キリストを見出さないようにする聖書の解釈・翻訳の例としてスウェーデンのルター派教会が2000年に公式採用した聖書があげられます。そのイザヤ7章のインマヌエル預言を見ると、「処女がみごもって男児を産む」はなくなり、「若い女性がみごもって男児を産む」になりました。処女受胎が消えたのです。また、三位一体の関係で言えば、創世記の最初で「神の霊が水の表を動いていた」がなくなって「神の風が水の表を吹いていた」になりました。聖霊が天地創造の前に存在していたことが消えたのです。このような聖書を読んで育ったら、どんなキリスト信仰が生まれるでしょうか?

話がわき道にそれましたが、神の知恵が神のひとり子・イエス様と同一であるとすると、今度は次のような疑問が起こります。ヨハネは福音書の冒頭でイエス様のことを「言(ことば)」ロゴスと呼んでいるぞ、「知恵」ではないぞ、なぜ「はじめに知恵ありき」ではなくて「はじめに言ありき」なのか?

もっともな質問です。そこで、もし私がヨハネだったら次のように考えたでしょう。イエス様は本当に神のひとり子で天地創造の前から存在し、父なるみ神と一緒に天地創造に携わった方だ、まさに箴言の「知恵」と同じ方だ。この方をギリシャ語文明の人たちにどう言ったらよいのだろう?ヘブライ語で知恵はホクマーだ。ギリシャ語では普通ソフィアと訳されている。イエス様をソフィアと呼んでギリシャ語圏の人たちは我々と同じようにイエス様のことを理解してくれるだろうか?ソフィアは女性名詞だし、仮にイエス様をそう呼んでみたら、なんだか哲学者みたいにならないだろうか?旧約聖書に出てくる「知恵」は人間の知恵や理性を超える神の知恵だ。困ったなぁ。そうだ!ギリシャ語には人間の知恵や理性を超えたもっと偉大なものを意味する言葉があった。ロゴスだ!しかも、ロゴスには「言葉」という意味もあるぞ。神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を造り上げていった。それで、イエス様を神の「言葉」ロゴスと呼べば、神の創造の業に関わったこともはっきりするぞ。よし、決めた。イエス様をロゴスと呼ぶことにしよう!

このように、神のひとり子をロゴスと呼ぶことは、神の壮大で深遠な「知恵」と神の力ある「言葉」の両方を意味するのにぴったりだったのです。

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」であるひとり子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています(スウェーデン語の聖書では神の風になってしまいましたが)。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。

3.「どのようにして三位一体なのか」ではなく「なぜ三位一体なのか」

そうは言っても、三位一体はわかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?頭で理解しようとすると、三つの人格がどのようにして一人になるのかということに頭を使ってしまい、これは行き詰ります。それならば、なぜ神は三つの人格を備えた一人の神でなければならないのか?これを考えると、聖書はこの「なぜ」の問いには答えを出していることがわかります。神が三位一体であるというのは、私たちに愛と恵みを注ぐために神はそうでなければならない、三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらいに神は三位一体でなければならないのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪の時にできてしまいました。神に造られた最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになって死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロがローマ5章で明らかにしているように、死ぬということは人間は誰でも罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのです。人間は神との結びつきを失って、結びつきのないままこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去って神のみもとに戻ることが出来なくなってしまいました。

しかし神は、私たちが神との結びつきを回復してこの世の人生を歩めるようにすべく、そして、この世を去った後は復活の日に復活を遂げて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと、神は溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされました。その救いの手がイエス様でした。本日の福音書の箇所の中でイエス様は弟子たちにこう言いました。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「理解できない」と。ギリシャ語の言葉βασταζωは「背負いきれない」、「耐えられない」という意味です。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を神から切り離している罪と死から救い出すために、イエス様がこれから十字架刑にかけられて死ぬということです。このことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それを受け入れることができるようになりました。まず、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死ななければならなかったのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲だったということがわかりました。さらに、イエス様の復活によって私たち人間に永遠の命に至る道が切り開かれた、そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその道に置かれれ、神との結びつきを持てて神に見守られ導かれてその道を歩めるようになりました。弟子たちは、以上のことを真理として受け入れることができるようになったのです。それができるようになったのは聖霊が働いたためです。それらのことは人間の理解力、理性では理解できないことです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

ところが、聖霊の働きは真理を理解させることだけに留まりません。13節のイエス様の言葉は理解した後のことも言っています。新共同訳の訳は少し狭すぎます。その文は次のように訳すべきです。「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「聖霊はあななたちを真理全体の中に留まれるように導いてくれる」とか「聖霊はあななたちを真理全体へ導いてくれる」です。聖霊は真理をわからせてくれるだけでなく、私たちが真理にしっかり留まって生きられるように助けてくれるのです。これは、すごいことですが、どうやってそんなことが出来るでしょうか?

私たちは洗礼を受けてイエス様を救い主と信じていても、私たちにはいつも罪の自覚があります。神の意思に反しようとするものが自分の内にあることにいつも気づかされます。それで、神と自分との関係は大丈夫なのだろうかと心配になったり悲しくなったりします。しかし、聖霊はすかさず私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も打ち立てられたままであることを示して下さいます。私たちは安心して、この永遠の命に向かう道を進むことができます。

また私たちは、罪と直接関係がないことでも、困難や試練に遭遇し不運に見舞われます。その時、神との関係を疑ってしまいます。神はこんなことが起きないようにしてくれなかった、神は私を見捨てたのだなどと思ってしまいます。そのような時にも聖霊は聖書の御言葉をてこにして私たちの心の目と耳を開いて本当のことを示してくれます。本当のこととは、神との関係、結びつきは試練や困難な時にも平時同様、何等変更はないということです。それがわかると、試練や困難は私たちを打ちのめすものでなくなります。それらは私たちが神と一緒に通過するプロセスに変わります。一人で通過するのではなく、神と一緒にです。その時、詩篇23篇のみ言葉「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を恐れじ。汝、我とともにいませばなり」、これが真理になります。

このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に至る道を歩めるように守り導いて下さり、復活の日に私たちを御自分のもとに迎え入れて下さいます。これは全て神の愛から出てくることです。この神の愛は三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。

まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪を持つようになってしまったために、ひとり子を贈って私たち人間を罪と死の支配から引っこ抜いて下さり、みもとに迎え入れられる地点へと続く道に置いて下さいました。こうして、私たちは神との結びつきを持ってこの道を進むこととなりました。人生の中で道を踏み外しそうになると聖霊から指導を受けられるようになりました。

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて、神の意思に沿うようにと心を常に神に向けたまま生きられるようにして、この世だけでなく次に到来する世にまたがって生きられるようにすることです。三位一体のすごさは、私たちにあるべき姿を示すだけでなく、そうなれるようにする力そのものであることです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「神の愛に挟まれて」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書13章31-35節

主日礼拝説教 2022年5月15日復活後第五主日

聖書日課 使徒言行録11章1-18節、黙示録21章1-6b節、ヨハネ13章31-35節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課の個所はイエス様が十字架にかけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしている場面です。よく「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去りました。その時イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。裏切る者が目的を果たそうと立ち去ってイエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とはどういうことでしょうか?それを言った後で今度は弟子たちに新しい掟を与えると言って「互いに愛し合いなさい」と命じます。

 裏切る者が出ていってイエス様が栄光を受けることになるというのは、わかりにくいことです。そしてその後すぐに、互いに愛し合いなさいと言われる。この二つは一見関係ないように見えますが、実は深く結びついています。イエス様が栄光を受けることがどういうことかわかると、キリスト信仰の愛がどういうものかもわかるのです。逆に、イエス様が栄光を受けることがわからないとキリスト信仰の愛もわからないのです。今日はこのことをわかるようにしていきましょう。

2.イエス様が栄光を受けるとは?

 裏切る者が目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことか?それはまず、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定したということがあります。それでは、死ぬことがどうして栄光を受けることになるのか?しかもそれで、神も栄光を受けることになるのか?

 イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。それはどんな意味でしょうか?人間は創造主の神に造られた最初のアダムとエヴァの時から罪というものを代々受け継いできてしまいました。それでイエス様はこの罪から人間を解放するために自分を犠牲にしたということです。確かに、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われてしまうかもしれません。特に生まればかりの赤ちゃんは無垢そのもので、それも罪を持っているなどと言うのは酷いと思われるかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間誰もが罪を持っているということなのです。たとえ一時の間、悪い言葉や思いや行いが出なくとも人間だれもが神の意思に反しようとする性向を持っているというのが聖書の立場です。

 人間はこの罪をそのままにしておくと、いつまでたっても神との関係は切れたままです。この世から別れた後も神のみもとに戻ることはできません。それで神は、人間が自分と結びつきを持ててこの世の人生を生きられ、この世から死んだ後は復活の日に自分のもとに迎え入れてあげよう、それによって永遠の滅びに落ちないようにしてあげようと決めました。それで、ひとり子イエス様をこの世に贈り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方を取ったのです。少し法律的な言葉で言うと、本当は有罪なのは人間の方なのに、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実のひとり子に背負わせて有罪者が背負わないですむようにした。有罪者は気がついたら無罪になっていたのです。

 罪は、人間が神との結びつきを持てなくするようにする力を持っています。また、人間がこの世から別れた後で復活を遂げられず神のみもとにも迎え入れられないようにする力も持っています。人間をこの悪い力から解放するために神は、ひとり子を犠牲に供してその犠牲に免じて人間の罪を赦し神罰に定めないという手法を取ったのです。そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業なのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、神が打ち立てた罪の赦しが自分の中に入ってきます。そして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、この世から別れた後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられるようになったのです。このように罪はキリスト信仰者に対してはかつての力を失ったのです。加えて、イエス様が死から復活させられたことで死を超える永遠の命が人間に打ち立てられました。罪と死はキリスト信仰者に対しては支配する力を引き抜かれたのです。

3.神の愛に挟まれて

 このようにイエス様が受難を受けて死ぬというのは、神による人間の救いが実現するということなので、それでイエス様は栄光を受けることになるというのです。このような救い方を考えて実行した神も栄光を受けることになるのです。つまり人間のためになることが起こることで神とひとり子が栄光を受けるというのです。聖書の神は一体なんという神でしょう!私たち人間は、この救いを神に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、本当に罪を赦されて罪の支配から脱せられるのです。そして神との結びつきを持てて復活と永遠の命に向かう道を歩むようになるのです。もちろん、道中いろんなことが起こります。それでも神との変わらぬ結びつきがあるから何があっても大丈夫、いつも導きと力を頂けます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて永遠にみもとに迎え入れられます。

 これだけの途方もないこと、今のこの世と次に到来する世の双方にまたがるスケールの大きなことを父なる神とひとり子イエス様はこの私のために成し遂げて下さったのだ、とわかった時の安心感と感謝の気持ちと言ったらないでしょう。この安心と感謝があると、この場合の神の意思はどうだったかといつも思い起こして、それに沿うように生きようという姿勢になります。これが神に対する愛です。神が与えた掟を守ることが自然で当たり前になっているのです。これとは逆に、神が自分に途方もないことをしたということがわからないと、神への本当の感謝もなく本当の安心もありません。そのような状態で掟を守ろうとしたら自然で当たり前に守ることになりません。イヤイヤで無理に守ることになります。

 このように、神がイエス様の十字架と復活という、歴史の過去にこれほどのことをして下さったとわかると安心と感謝が生まれ、そこから神の意思に沿うように生きようと向かいだします。それ加えて、神は将来何をしてくれるのかも知っておくと神の意思に沿おうとする心に勇気が加わります。本日の黙示録21章の日課では、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されて死者の復活が起こる日、神がみもとに集めた者たちをどうされるかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3ー4節)」。

 目から「全ての涙」(παν δακρυον)を拭われるというのは、この世の人生で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできます。しかし、それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、正義も残念ながら実現に至らないことがあります。いろんなことがこの世の段階でやり残ってしまい、未解決のまま無念の思いでこの世を去らねばならないことが多くあります。ところがキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると神の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されるのです。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。キリスト信仰者はそういう時が来ると知っているので、この世でおよそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、また信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の至るところに「命の書」という、最後の審判の時に開かれる書物が登場します。それは、全ての人間に関する神の記録書です。そのような書物があるというのは、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたか全てご存知で、何も見落としていないということです。誰も自分のことをわかってくれないと悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っているのです。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人自身以上よりもその人のことを知っているのです。

 復活の日は神の国で全てのことが清算され報われる日ですが、その日は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録19章5ー9節、マタイ22章1ー14節、黙示録21章2節も参照)。つまり、この世での労苦が完璧に永久に労われるということです。

 キリスト信仰者というのは、過去に神がひとり子イエス様を用いて「罪の赦しの救い」を打ち立ててくれたことを知っているだけではありません。将来自分が死から復活させられる時、神がこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれることも知っています。このように過去に神がしてくれたこと、将来してくれることの両方に挟まれるようにしていると、神に大きな感謝、深い安心と強い勇気を持つことができます。それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。

4.隣人愛のための視点

 神の愛に挟まれるようにして生きるキリスト信仰者は神の意思に沿うように生きようとする。このように神の愛を受けて神に対する愛が生まれる。それでは、隣人に対する愛はどのように生まれるでしょうか?隣人を愛せよと言うのは神の意思です。それなので、神の意思に沿うようにしようとすれば隣人を愛することも当然のことになります。しかし、それでも難しいことがあります。相手が神の場合は神が大きなことをして下さったので神を愛する心が生まれます。相手が隣人の場合はいつもいいことをするとは限らないし、逆の場合もあります。それなのに愛せよというのは難しい感じがします。どうしたら隣人を愛せよと言う神の意思に沿うことができるでしょうか?ここでは2つの視点をあげてみましょう。

 まず一つは、神が自分にどれだけのことをして下さったかをもう一度確認することです。マタイ18章にイエス様の一つのたとえの教えがあります。50億円の借金を抱えた男が主人に泣き叫んで帳消しにしてもらったのに自分に50万円の借金ある者を赦さずに牢屋に送ってしまった、それを聞いた主人は激怒して、私はお前の多額の負債を帳消しにしてやったのだからお前も同じようにすべきではなかったかと言って牢獄に送ってしまうという話です。50億円を帳消しにしてもらったら50万円を帳消しにするなんて容易いことではないかという話です。キリスト信仰の有り様も大体これと同じですが、ただ桁数が違いすぎます。人間が永遠の滅びに落ちないで復活を遂げて永遠の命に入れるように神のひとり子が犠牲になって罪という負債を帳消しにしたということです。これだけ大いなる帳消しは50億と50万の比どころではありません。永遠の命がかかっているので1千兆円と1円の比以上です。それだけの赦しを受けたら自分も隣人を赦してあげるのが当然になるのではないでしょうか?

 ただ問題が深刻な場合もあります。相手が与えた害悪が重大すぎる場合とか、相手が自分には全然問題がないと思っている場合です。どうしたらよいでしょうか?このような場合は、キリスト信仰の基本的なスタンス、大いなる赦しを得たので自分も赦すというスタンスにとどまります。ただなかなか気持ちは収まりません。その場合でも、社会の秩序が保たれるために法律的に解決しなければならないことはします。自分自身だけでなく自分の周りでも十戒が破られることを放置してはいけないからです。ただしその場合でも、パウロがローマ12章で教えるように復讐心で行ってはいけません。それは、先ほども申したように最後の審判で神が正義の不足分を全て最終的に完全に清算されるからです。

 もう一つの視点は、キリスト信仰者というのは宗教改革のルターも言うように、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者であるという自覚です。つまり、皆が皆、何かしら支援を必要としているということです。そこをわきまえていないと完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのためにパウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です27節)。このことについて宗教改革のルターは次のように教えています。

「主にある兄弟姉妹が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。あるいはまた、それを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうだろう。その時はもう手遅れだ。どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」

5.キリスト信仰者の隣人の場合、信仰者でない隣人の場合

 以上の述べてきたことはキリスト信仰者同士の愛についてでしたが、相手が信仰者でない人の場合はどうなるでしょうか?それでも基本的なスタンスは同じだと思います。自分は父なるみ神から莫大な赦しを受けたので、今この世の人生を神との結びつきを持てて生きられる、この世から去った後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられる道を歩んでいるというスタンスです。それと、歩んでいる自分はこの世にいる間は不完全なままで罪の自覚がありそれで神に赦しを祈る、イエス様の十字架と復活がある以上、赦しは確実にあることを確認しながら生きていくというスタンスです。

 このスタンスに立った場合、信仰者でない人たちに対する隣人愛も目指す方向が出てきます。それは彼らも罪の赦しを得られるようにして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてこの世を去った後も復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられる道を歩めるように信仰者は導いてあげるということです。どうしてそんな方向が出てくるのでしょうか?

 それはイエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると火を見るよりも明らかです。イエス様の愛の実践は、人間と造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、それを妨げていた罪の力を無力にして罪から来る神罰を私たちに代わって全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いをもたらしたということがその出発点にあり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールとしてあります。それなので、隣人愛と聞いて普通頭に浮かぶ、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、キリスト信仰の場合はこの出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になると言っても言い過ぎではありません。

 そうなると、キリスト信仰の隣人愛とは、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人が相手の場合は、その人が受け取った救いにしっかり留まれるように助けることが視野に入ります。まだ受け取っていない人の場合は、受け取るように導いてあげることが視野に入ります。受け取っていない人の場合はいろいろ難しいことがあります。もしその人がキリスト信仰に興味関心を持っていれば、信仰者は教えたり証ししたりすることができます。しかし、興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それは難しいです。それでも信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるように導いて下さい」と一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近な課題にして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン