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ホルトの木
〈わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。ヤコブの手紙3:12〉
近くの商店街の入り口に何の木か分からずに見過ごしていた木があります、近くに多くのクスノキがあるのでそれの仲間と思っていたのかも知れません。過日、朝の散歩でその木に不思議な花が咲いているのを見つけました。長年見ていましたが花を見たのはこれが初めてでした、家内も余程珍しかったのか一輪採ってきました。調べてみたら”ホルトの木”でした。ホルトとは江戸時代にポルトガルの事をホルトと呼んでいました。平賀源内がこの木をポルトガルのオリーブの木と間違えて名付けたようです。確かに実はオリーブの実に似ていますが全く別種で日本の在来種の木です。何時も何気なく見過ごしていた木が源内先生のミスリードの木だったとは、つゆ知らずでこれも灯台下暗しでした。
司式 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)
説教 同 上
聖書日課 列王 記上19章9~18節(旧 566頁)
ローマ10章1~15節(新288頁)
マタイ14章22~33節(新 28頁)
説教題 「主イエスの恵みのうちに遣わされる幸い」田口 牧師
讃美歌 188 271 375 260 403
特別の祈り
全知全能の父なるみ神よ。 どうか、永遠の大祭司イエス様に守られる群れの中に迎え入れられた私たちが今度 は福音の証し人として、あなたの召(め)しに誠実(せいじつ)に応(こた)え、あ なたの救いの約束を世界に告げ知らせる者にならせて下さい。 あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエ ス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン
鉈の思い出
〈わたしはいにしえの日を思い出し、あなたが行われたすべての事を考え、あなたのみ手のわざを思います。 詩編143:5〉
先週の話の中に鉈が出てきましたがあの鉈にも苦い思い出があります。鶏の首を切り落として変な勇気が出たのか一年坊主の私はやたらに鉈を使うことを覚え振り回していました。或る日、何を切ろうとしていたのか覚えていませんが何かを押えて鉈を振り下ろした先に左手の親指がありました。小学一坊主の親指はあっけなく切られましたが幸い鉈の刃はなまくらだったので切断には至らずに皮一枚でつながっていました。母は血の滴る指を手拭いで縛り学校に駆けつけました。幸い校医がいて見てくれましたが指が小さすぎて縫うこともかなわずに広い部屋(講堂?)に腹ばいにさせられて母と医者に押さえつけられて親指に注射(麻酔?)を打たれて何やらやっていましたが痛くて思い切り泣きわめきました。漸く治療が終わり消毒して包帯でぐるぐる巻きにしておしまいでした。八十五歳になった今でも両手の親指を並べて見ると左の親指の先端に小さな突起が見えます。この小さな突起は小学一年坊主の時の私の親指の名残です、小さな指をしていたなと今でも時々眺めています。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン
2026年8月2日(日)スオミ教会
聖書 マタイ福音書14章13~21節
説教題:「五千人に食べ物を与える奇跡」
今日の聖書はマタイ福音書14章13節から21節までであります。聖書の有名な箇所です。イエス様が五千人以上もの大勢の群衆をたった五つのパンと二匹の魚で空腹を満たされた、と言う奇跡の出来事であります。常識ではどんなマジックを使っても出来ない事!全く考えられない驚くべき奇跡を大群衆の一人々が我が身に感じたのですから彼らの間で非常に強力な印象で語り継がれていったでしょう。ですから、四つの福音書全部にこの出来事を記しているわけです。今日のマタイ福音書の方は比較的短く簡潔に記されていますがマルコの方が順序良く詳しく記しています。マルコ福音書6章6節以下には「伝道に派遣された弟子たちが帰ってきてイエス様に自分たちが行った事、教えた事を残らず報告した。」と記されています。それに対してイエス様は彼らを労って「さあ、あなた方だけで人里離れた所へ行って暫く休むがよい」と言われた。マタイ福音書の方では「イエスは舟に乗ってそこを去り一人人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はその事を聞き方々の町から歩いて彼を追った。イエスは舟から上がり大勢の群衆を見て深く憐れみその中の病人を癒された。」とあります。マルコの方は「舟から上がったイエスが大勢の群衆を見て飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみいろいろと教え始められた。」とあります。此処には救いを渇望する人間の側の実感が伝わってきます。旧約聖書から言われてきた神とイスラエルの関係を羊飼いと羊に譬えて言われてきたように群衆のイエス様に期待し慕い求めて集まっている現状を示しています。当時のユダヤ教の律法主義から見れば彼らは神の国に入る資格のない人々であったでしょう。週末が近づくと聞かされ、なす術もなくただイエス様の語る福音に心惹かれて、またイエス様の病人を癒される業に驚きイエス様が語られる一言/\ に聞き入っている大群衆です。イエス様の熱の入った神の国の救いの教えに時は過ぎて夕方に差し掛かってきたのです、そこで弟子たちがイエスのそばに来て言った。「此処は人里離れた所でもう時間も経ちました。群衆を解散させてください。そうすれば自分で村へ食べ物を買いにゆくでしょう。」この弟子たちの群衆を心配する言葉はもっともな言葉です。極めて世俗的な空腹を心配してゆく場面へとなります。群衆の神の国へと導かれる霊の世界の魂の救いという壮大な深い真理の世界の人間が根本的に救われなければならない、目に見えない望み、心が乾いて求めてゆく。そうした群衆の求めに今イエス様は立っておられるのです。時も忘れて疲れも忘れて福音を教えられておられるのです。それに対して、もう日も暮れかかってきた。人間の肉的な求めを心配する弟子たちです。この弟子たちにイエスは言われる。16節で「行かせることはない。あなた方が食べる物を与えなさい。」!! 何というイエス様の言葉でしょうか、目の前の五千人以上の大群衆に食べる物をどうして与えることが出来ましょうか。マルコの方では「私たちが二百デナリオンものパンを買ってきて皆に食べさせるのですか。」と言っています。此処で言う一デナリオンのお金は労働者の一日分の賃金だと言われていますから二百デナリオンは相当の大金です。この弟子たちの言い分を誰も責めるわけに行かないのは当然でしょう。しかし、イエス様は弟子たちが食べ物を与えるべきだとされたのです。マルコ福音書の方で見たように、伝道から帰ってきた弟子たちに報告を聞いたイエス様は疲れを労って休養を取るようにとまで言って下さったのに「大群衆に食べ物をあなた方で与えなさい」と言うたいへん理不尽な要求ではないでしょうか。弟子たちの反発、不満の言葉で返しています。しかし、イエス様には弟子たちがその事を到底できない事もご承知の上で言っておられたのでしょう。弟子たちが周辺の村や里も何処へ出かけたからと言ってこれだけの大群衆の飢えや渇きを癒す糧が入手できる可能性はゼロであります。肉眼に見える必要な事ばかりでなく目に見えない心の糧、人々が心から待ちわびて望んでいる飢えや渇きを癒してくれる魂の救いに至っても弟子たちにはお手上げです、何一つ出来ない。イエス様はこの次元に救いの問題をもう一度立ち帰らせて弟子たちに問い掛けておらるのです。弟子たちが伝道に出掛けて行って病を癒したりイエス様の教えを語ったり懸命にやって来た事より、もっと本当は神の民であるはずの人々の、この心の底からの救い、飢え渇きが弟子たちの休息をとる以上に緊急なことではないかと主イエスは弟子たちに教えようとされている、訓練を与えて行かれる。どんな立派な伝道報告を弟子たちにがしたとしても今、目の前に救いを必要として村々からイエス様に走り寄って来ている群衆、時も忘れてイエス様の口から語られる救いと教えの言葉を食い入るように聞いている。肉体の空腹も心配だけれどももっともっと心の癒し、魂の救いの重要さに心の目を向けようとして行かれる。「あなた方があなた方の手で食物をやりなさい。」このことは教会に対して「あなた方の手で彼らに食べ物を与えなさい。」どのようにして?「与える食べ物、霊の糧は神様が与えて下さる。」のです。「神の国から見てあなた方には何がありますか?僅かばかりの取るに足りない物でしかない。」弟子たちは言いました。「此処にはパンが五つと魚が二匹しかありません」。
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今の時代の中で私たちが教会へと召されている、その私たちにある物は何ですか?イエス様は言われています。僅かばかりのパンと魚をイエス様のもとに持って来なさい。イエス様を目いっぱい信じて差し出しなさい。主イエスは天を仰いで賛美の祈りを唱えられると何とイエス様の手から五つのパンと二匹の魚が次々と弟子たちに渡され五千人以上の群衆は満腹して残りのくずを集めると十二のかごいっぱいになった。何という驚くべき奇跡の業がイエス様の手から繰り広げられていったのであります。どうして?理屈ではない事実!。五千人の人々は十分に食べて満腹したのであります。とても/\考えられない事、人間の思いを遥かに超えた神の御業がイエス様の手によってもたらされたのです。問題は単なる見える食べ物だけの事ではない。目に見えない食べ物、人間が真実に生きてゆくのに必要な糧であると言う事です。群衆の真の飢え渇きとはなんであったでしょうか。彼らの罪の故に律法学者や祭司長たちが人を判断する尺度では神の国には入れないと言う現実にありました。そこには救いはないと言う事です。誰がどうやって罪人たちを救ってくれるのか。そういう人があればその方こそメシアであるに違いない。そうした中へ五千人以上もの群衆をまずは彼らの腹を満たすと言う神の業を現わされたイエス様。弟子たちの手で与えなさい、と言われても自分たちの力で何一つ出来ない。群衆の飢え渇きを癒す事など考えられない事であったのです。イエス様がなさった天を仰いで賛美の祈りを唱えパンを裂いて弟子たちに配られた。と言うこの「パンを裂き配る」と言った事が初代教会の中で古くからの定式化されてきた聖餐式の用語を想起させます。そうしてみると此処で語られているのは生前のイエス様のなさった癒しが何時でも罪の赦し、救いの「印(しるし)」であったように、此処でも五千人以上の人々に食べ物を供えられたと言う奇跡は主イエス様が十字架の上で人々の罪を贖うために死なれた事、その主イエス様の贖いによって罪人である私どもが救いを与えられ、また主の復活によって新しい生命を与えられる事の「印(しるし)」として語られるのではないか。従ってこの日ガリラヤの湖畔でイエス様がパンを裂き弟子たちが分配し人々が満ち足りたと言う光景は他ならぬ神の国の祝宴を先取りしたものと言えましょう。律法によっては神の支配に入る事が出来ず、飢え、渇き救いを求めて彷徨っていた人々が今やイエス様が十字架上に裂かれた体、流された血によってその罪は贖われ赦され、神の国の食卓に連なり満たされ喜びに溢れる日が主イエス様によって備えられたのであります。神の支配はイエス様の奇跡によって地上に始められたのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
続・小綬鶏
〈わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 マタイ6:11〉
先週、小綬鶏について述べましたが太田愛人先生は二羽の小綬鶏をいとも簡単に絞めたようです。流石に長野の辺境の地で長い間自給自足の生活をされていただけあって鶏の絞め方も熟知されていたのですね。実は私も鶏を絞めた事があります。疎開先で小学一年生の時でした。卵を産まなくなった鶏を母は病み上がりの妹のために栄養をつけたかったのでしょうか。東京育ちの母にはどうしたらいいのか分かりかねていたので僕がやると勇んで件の鶏を膝に押さえ込んで首を思い切りねじってみました、そのうちに鶏がぐったりしてきたので脇の鉈を振り上げて首を目掛けて降り下ろしましたが鶏は首を元通りにするとけたたましい叫び声をあげながら逃げて行きました。母と妹たちも一緒になって追いかけてやっと捕まえて私の手に返しました。今度は初めから鉈で首を叩き切りましたが妹たちは「トトコ可哀そう/\」と言っていましたが料理が出来て食べ始めると盛んに「美味しいね/\」とにこにこしながら食べていました。後で大人から教えられたのは鶏を絞める時は捻った後に少し首を引っ張ると良いと教わりましたが生憎その後がありませんでした。
小綬鶏(コジュケイ)
〈 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。
ソロモンの雅歌2:12〉
朝の散歩で桜美林教会の生垣まで来ると時々、鳩より少し大きい二羽の鳥を見かけます。コジュケイではないかとカメラを用意すると、すうーっと生垣の中に消えてしまいます。撮るのが難しい鳥ですが鳴き声はけたたましく「チョットコイ /\」と叫ぶように啼いています。過日、教会の門の所で捜していたコジュケイと思しき二羽がいました。彼らも驚いたのか慌てふためいてうろ/\していました、これ幸いと撮った写真がこれです。敬愛する太田愛人牧師のエッセイに清泉女子大に講演に行った折に鴨料理を伝授しようと思ったが生憎鴨が手に入らず困っていたら外の方からチョットコイ /\と呼ばれたので行って二羽のコジュケイを捕まえて来てコジュケイを捌き鴨料理を始めましたら回りにいた女子大生が可哀そうと言っていましたが料理が出来て食べ始めると美味しい/\と嬉しそうに食べたそうです。コジュケイを見るとこの話を思い出しています。