手芸クラブの報告

10月の手芸クラブは21日に開催しました。10月なのに夏が戻ったような蒸し暑い一日でした。

今回は少し早めにクリスマスに向けてフィンランドのクリスマス・オーナメント「オルキ・タハティ(藁の星)」を作りました。材料はフィンランド直送の天然の藁です!

初めに星のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。それから水で柔らかくした藁を星の形に合わせて8本か12本の束にします。束をパールピンでプレートに取り付けてから星の形に作ります。プレートのパールピンはどんどん増えていきますが、形はまだはっきり見えてません。それでも、参加者の皆さんは楽しくおしゃべりをしながら赤や白い糸で藁を結んでいくと、星の形がはっきり見えてきました。皆さんの手の動きは早くて藁の星はあっという間に出来上がりました。それぞれの個性的な形の星を作り上げると、「わあ、可愛い!」「なんて、きれいな形!」と嬉しそうな声が上がりました。

今回も楽しくおしゃべりしながら藁の星を作って時が経つのを忘れてしまうほどでした。あっという間にコーヒータイムの時間になりました。

テーブルのセッティングをして、フィンランドのお菓子パン「Pulla」をコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの酪農で子牛のためによく作る藁の「避難場所」や聖書が教える私たち人間の「避難場所」についてのお話を聞きました。

次回の手芸クラブは11月25日に開催予定です。開催日が近づきましたらまたホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!

手芸クラブのお話2026年10月

今日はまだ10月ですが、少し早めにクリスマスに向けて皆さんと一緒にクリスマス・オーナメントを作りました。11月の手芸クラブでも同じテーマを予定しているので、今年のクリスマスは皆さんのご自宅は様々な藁のオーナメントで飾られることになりそうです。

藁はさまざまな用途を使われてきた伝統的な素材です。昔はオーナメントだけではなくマットを織ったり布団の中身として使ったりしました。また藁は農業や庭の植物の栽培にも利用される重要な素材です。

私は農家で育ったので、農業で藁がどのように使われていたかをよく目にしました。昔は牛や子牛の休む場所を乾燥した状態に保ち、柔らく快適にするために刻んだ藁を敷きました。実家の牧場では乳牛の乳しぼりの仕事が終わってから子牛の為に新しい藁を敷いてあげました。その時、子牛たちはもう待っているような様子でした。藁を敷くと、子牛は飛び跳ねたり走り回ったりして大喜びでした。それから藁の上に横になり気持ちよさそうに眠りました。子牛たちは母親から離れたので少し不安だったのかもしれません。でも、藁が敷かれた寝る場は暖かくて、安心して眠りました。藁で作った休む場所は子牛たちにとって避難所のような安心できる場所でした。

私たちも子牛と同じように暖かくて安心できる場所にいたいと願っているのではないでしょうか。特に不安を感じる時にそのように願うでしょう。私たちが生きている世界ではさまざまな変化が起こります。戦争や自然災害など、私たちに不安を感じさせる出来事も沢山あります。自然災害が起きれば私たちは安全のために指定された避難所に行くでしょう。

しかし私たちが不安を感じるのはそのような非常事態の時だけではありません。悲しみ、試練、病気、混乱など、さまざまなことが私たちの心を不安におとしれます。そのような時はどうすればよいでしょうか。私たちを不安から守ってくれる安全で安心できる避難場所はどこにあるでしょうか。

旧約聖書の詩編にはそのような避難場所についてこのように書いてあります。
「神様のそばにいることは私の幸せです。
神様は私の避難場所。
私は神様の御業を全て語り伝えます。」
詩編73章28編。

このダビデの言葉によると私たちの避難場所は天と地と人間を造られた神さまです。それはどういうことでしょうか。私たちは天の神さまと繋がりを持つことによって避難場所にいるのと同じ安心感を得られるのです。神さまと繋がりを持つことが出来たら神さまは私たちのそばにいて下さることになります。

それでは私たちはどのようにして神さまのそばにいて神さまとの繋がりを持つことができるでしょうか。それは神さまを心から受け入れて信じることによってです。聖書のみ言葉を読んで、天の神様にお祈りして、神様は必ず祈りを聞いてくださると信じることが出来れば神様がそばにいて下さるという安心感を得られます。み言葉と祈りを通して神さまとの繋がりが強められます。さらに、神さまが私たちを救ってくださるという計画も明らかになって神さまに対する信頼が生まれます。この信頼があると、生活の重荷も軽く感じられるようになります。

私たちの歩む道はいつも平らとは限りません。悲しみや困難や試練に直面することもあります。しかしそのような時にも天の神様が共にいて下さるとわかっています。問題の解決も、神さまに対する信頼があるので、いつ、どのように解決されるかは神さまの御手の中にある、だから大丈夫という安心があります。

ひよっとしたら神様は私たちが信頼して一緒に歩むために試練や困難を与えられるのかかもしれません。しかし、神様は私たちに喜ばしいことも沢山与えてくださいます。だから私たちはそれらは神さまの贈り物としてその一つ一つを感謝して受け取ります。

私たちにはさまざまな状態がありますが、どんな状態にあっても神さまに信頼すれば、神さまは私たちにとって安全な避難場所となります。その避難場所は揺らぐことがなく私たちの生活の確かな土台になります。

天と地と人間を造られた神さまが私たちの避難場所になって下さったら、私たちは暖かな藁の休む場で眠る子牛のように安心に包まれます。

フィンランドの聖歌の中にこのような歌があります。
「神さまのもとに避難する者は、ほかと比べないよい安全な場所に身を置くことになります。その人は、天に輝く星のようであり、また、母鳥の翼の下にいるひなのようです。」
(フィンランド語の賛美歌の歌詞)

2026年10月25日(日)午前10時半 宗教改革主日 礼拝

司式・説教 吉村博明 牧師 聖書日課 エレミヤ31章31~34節、ローマ3章19~28節、ヨハネ8章31~36節 説教題 「キリスト信仰にとって真理とは?自由とは?」 讃美歌 450、240、121、259、245 特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

イエス様が十字架にかけられたことで、あなたの大いなる愛が示されました。どうか私たちが、あなたから愛と恵みをいつも注がれていることを忘れず、あなたを信頼してこの世の人生を歩めるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン

歳時記

ホトトギス

〈1わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。
2おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。 雅歌2:1,2〉

ホトトギスはユリ科ホトトギス属の秋の花ですが秋の七草には入れてもらえません。でも私は勝手に秋の八草と称して秋の花の仲間に入れています。日陰を好む事からお思わぬ所でこの花に出会います。何時もの散歩道の一号遺跡の入り口の木陰でもこのホトトギスを見つけました。鳥のホトトギスの鳴き声を聞く時も、花のホトトギスを見つけた時も何故かハッピーな気持ちになります。今年はベランダの鉢にも一輪だけですが咲いています、よく見ると脇から二本目の茎が伸びてきました。鉢いっぱいになったら何処かの日陰に移植しようと思っています。

ホトトギスは古来から色々な文字で表されてきました。ネットで調べてみましたらこんなにありました。日本語で最も漢字表記の多い鳥のようです。

杜鵑(とけん)
中国由来の表記で、ホトトギス類の総称として使われる。

  • 時鳥(ほととぎす/ときどり)
    鳴き声が田植えの時期を告げるとされたことに由来。
  • 不如帰(ふじょき)
    「帰り去くに如かず」という中国故事に基づく表記。
  • 子規(しき)
    「鳴いて血を吐く」という伝説にちなむ。正岡子規の俳号として有名。
  • 杜宇(とう)
    古代蜀の望帝・杜宇が死後ホトトギスになったという伝説に由来。
  • 蜀魂(しょっこん)
    蜀の魂が鳥になったという伝承。
  • 霍公鳥・郭公
    カッコウとの混同から生まれた表記。
  • 沓手鳥(くつてどり)
    鳴き声の聞きなしに由来。 

牧師の週報コラム

神学か?文学か?

先日ある教派の神学校を卒業した方の来訪を受けて話をした。彼曰く、その教派の説教は型にはまりすぎて面白くなくなった、 もっと人を感動させる説教をしないと。それに対して私は、別に感動させる必要はない、私など毎回、主の十字架の贖罪と復活を繰り返すので、新味がないと呆れられて礼拝を辞めた人もいる位だ、フィンランドのSLEYの礼拝ではそれを言わないと逆に呆れられてしまうと。彼はさらに、もっとマタイやマルコetcが教えることをちゃんと教えないといけないと。私は、あれっ、イエス様が教えることではないのかと思ったが、話が長くなるのでコメントを控えた。

ドイツを中心にして見ると18世紀までの神学は主に、神とは何か、三位一体とは、聖礼典とは等々を新旧約聖書の至るところから根拠を見つけて体系づける「体系神学」(日本の教派によっては「組織神学」と言うところもあるが、それではワケがわからん)。聖書に書いてあることは全て歴史そのもので真実というのが大前提にあった。ところが19世紀になると「歴史批判」とか「文学批判」が釈義学界を席巻するように。書かれてあることを歴史そのものだと鵜呑みにしない、書かれてあることを文学作品のように分析するというものだ。そこから1899年にA.ユリヒャーが高らかに宣したような、福音書から使徒的伝統を取り払ったところに本当のイエスが見えるという考えが広まり、伝統から自由ないろんなイエス像が編み出されることに。その流れにストップをかけたのがR.ブルトマン。彼は、今あるテキストからは実際のイエスは突き止められない、釈義学ができることはテキストをバラバラにしてそれぞれの部分が初期の教会でどういう役割を果たしたかを見ることだけと。そうなると、マタイもマルコも皆バラバラの資料を継ぎ合わせただけにすぎなくなる。

ところが第二次大戦後ブルトマンの弟子のE.ケーゼマンらが、福音書の記者は独自の視点を持って福音書を書きあげた、各福音書は各記者の一貫した方針の元で生まれた作品なのだと。大事なのはその方針を解明して、それと緊張関係にある部分に実際のイエスの手がかりがあると主張。再びいろいろなイエス像が生まれることに。ただ、使徒的伝統から自由という点では最初の時と同じ。ところが、1980年代から死海文書など第二神殿期のユダヤ文書をふんだんに取り入れた研究が増え、あのN.T.ライトが言ったように歴史的イエス研究は第三段階に入ったと言われるように。興味深いのは、第二神殿期ユダヤの思潮と後の使徒的信仰を発展的な連続体で見てその中にイエスを位置づける研究も出て、そこではイエスは必ずしも浮いた存在ではないということ(私が属していたT.ホルメーン主導の研究グループはまさにそれ※)。

私の結論 マタイ、マルコetcはかくかくしかじかの方針でそれぞれの福音書を書き上げたと論じる本が出たとする。論じられた方針が使徒的伝統と軌を一にしていれば、その本は使徒的伝統のマタイ版、マルコ版etcを明らかにしたと言える。もし使徒的伝統から外れる論じ方であれば、それは神学に関係のない文学作品と言ってよいだろう。優れた文学作品が使徒的伝統に立つ信仰を磨き上げるとは限らないのだ。

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パイヴィ・ヨシムラ著 「北欧のテーブル Pohjoismainen ruokapöytä

 フィンランド人宣教師の恵みのレシピ」

パイヴィ宣教師がスオミ教会のフィンランド家庭料理クラブで教えてきた料理のレシピと料理にちなんだ聖書のメッセージから24つを選んで本にまとめ上げました。「幸福度世界一」の国からの心とおなかを満たすレシピ集です。

全国のキリスト教書店にて好評発売中。定価1,430円

スオミ教会にて著者割引の1,100円で購入できます!

歳時記

合歓の種

〈主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、 イザヤ書30:23〉

家内の好きな詩人、石垣りんのエッセイに”ベランダの鉢植えの合歓の木に花が咲いた”というくだりに誘われて自分もベランダで合歓の花が見たいと数年前から近所の公園を合歓の種を探し回っていました。何処の合歓の木も秋になると来るのが遅かったのか種は既に地に落ちていて風邪に飛ばされたのか、雨に流されたのか見つける事が出来ませんでした。最近になって風の丘公園の途中に格好の合歓の木を見つけました。花の時期も終わりやがて種が出来ました。公園に行く度に種の観察を続けていましたが先日、種の採取に手ごろな時期がきたようで三つほど大きめの種の入った鞘を持ち帰りました。鞘を透かして見ると種らしい影が見えています。鞘は脆く少し力を入れるとあっ気なく壊れ種が出てきました。大豆ほどの大きさで扁平な種です、全部で二十粒ありました。ネットで播種の時期を調べたら三月頃が良いとありそれまでは冷蔵庫で保管するべしとありました。冷蔵庫には”駿河台匂い”の桜の種もあり、こちらも三月に播く予定です。早くも春が待ち遠しいです。

2026年10月18日(日)午前10時半 聖霊降臨後第21主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会) 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年10月18日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書22章15~22節

説教題:「神のものは神に返しなさい」

 

イエス様のこの世での生涯は、お生まれになった時から十字架の死に至るまでの三十三年間、何時も戦いの連続でした。イエス様の命を狙う勢力があの手この手で挑んできました。今日の聖書の箇所ではその戦いの一つです。大きな勢力はユダヤ教の指導者たちで、イエス様の働きがユダヤ教の全体を揺るがすような型破りの行動や教えとに加えて民衆を驚かす奇跡の業を大胆に成してゆかれたからでした。今日の聖書のマタイによる福音書22章15~22節を見ますと。納税の問題で挑戦してきました。15節、それから、ファリサイ派の人々は出て行ってどのようにしてイエスの言葉尻を捉えて罠に掛けようかと相談した。そして、その弟子たちを遣わして尋ねさせたのです。「先生、私たちはあなたが真実な方で真理に基づいて神の道を教えを、誰をも憚らない方である事を知っています。人々を分け隔てをなさらないからです。」今回、イエス様の前に来て質問したのはファリサイ派の人々とヘロデ派の人々でユダヤ教の指導者たちではありません。彼らはもうイエス様に顔を知られていますから、名前も顔も知られていない新人の各々の派閥の弟子たちを送ったのです。何故かと言いますとイエス様に警戒心を起こさせないで問答をさせようとしたのです。目的は質問に答えられるイエス様の言葉尻を捉えて罠にはめ、イエス様を捕らえようとするためであります。表面的には些細な問題を持ち出しているようですが、彼らが持ち出した納税の問題はその時代の国家権力に服従するかどうか、という実は危険千万なものであったのです。つまり、イエス様の答え次第によってその言葉尻を捉え国家権力への反逆罪をひきだしたかったのです。しかも、イエス様に挑戦してきたファリサイ派とヘロデ派は実は反対同士の者たちです。

ファリサイ派というのはユダヤ教の一派で神様から自分たちは選ばれた民という意識が強く熱心党ほどではないにしてもローマ帝国やローマ帝国の領主ヘロデに税を納めたくない人々でした。

それに対してヘロデ派はエドム族出身のハスモニア家の血筋を引くヘロデ家を何とかして先代のヘロデ大王時代の繁栄を取り戻したいと願っている人々です。ですから、彼らもまたローマ帝国の支配そのものには好意を持ってはいませんでした。それでも、ヘロデ家を盛り立てるためにはローマ帝国に忠誠を尽くしてカイザルに税を納めて良い心証を与えたいと考える人々です。ですから、ファリサイ派とヘロデ党の者たちとはローマ帝国への納税については全く相反する考えを持っていたのです。相反する立場の者たちをイエス様のところに送って来たのですからイエス様がそのどちらに転んでもイエス様を無事に済ませないためでした。彼らの質問は「皇帝に税を納めるのは律法に適っているでしょうか」と言うものでした。さて、このような質問に対してイエス様はどのような態度をとられたでしょうか。イエス様は彼らの悪意を見抜いて言われました。『偽善者ども、どうして私を試みるのか。税金に納める銀貨を見せなさい』。それで、彼らはデナリオン銀貨を持ってくるとイエス様は彼らに言われた。『これは誰の肖像で、誰の銘か』。彼らは答えた。「皇帝のものです」。するとイエス様は言われた。『それでは皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』。イエス様は此処ではっきりと納税の義務を主張しておられます。イエス様は税金を納める事によって皇帝に服従すべき事を命じられました。これを聞いたファリサイ派の者たちは怒ったでしょうね。自分たちの期待とは違った事であったのです。神に選ばれた誇りを持っていたユダヤの民が皇帝によって国が占領され高い税金によって苦しめられている。そんな苦難も十分承知の上でイエス様は支配されている限り皇帝に服従すべきである、という事を言われました。イエス様はこの義務を教えるために一つの実物教育をされました。税金を納める貨幣を取ってそれが『誰の肖像で、誰の銘か』を尋ねられ、それが皇帝のものであることを彼らにはっきりと認めさせて『それでは、皇帝のものであれば皇帝に返せ。』更に『神のものは神に返しなさい』と言われたのです。実に見事な、反論も出来ないイエス様の言葉です。質問した彼らは税金を納める事が良いのか悪いのかを問うたのに対してイエス様は税金というものは「納める」ものであって、つまり「与える」ものではなく、「返す」ものと答えておられるのです。

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納税は本来の所有者への返済金に他ならないのであると。これが納税義務の根拠である、と言っておられる。そして、此処で皇帝と言われている時代のこの根拠は現代の民主主義国家であったとしても国民が選出した政府や地方の議会であったとしても本質的には変わらない、という事です。私たちは、この世にあって、この国の国民として生きる限りこの国の下に生活しなければならない。納税された民の税金が国の働きのため、国民の生活のためにどのように正しく幸せになれるように使われてゆくか、と言うことも大切な事として考えてゆかなければならないでしょう。イエス様は『皇帝のものは皇帝に返しなさい。』と言われて更に大切な事を言われました。それは、最後に語られたイエス様の言葉が決定的にその事を示しています。それは、『神のものは神に返しなさい』と言われたのです。『皇帝のものは皇帝に返しなさい』と言う言葉と並べて言われているのと同じように、神のものは神にと言う場合も同じに神の所有権のもとにある、という根拠から神にお返しする義務が生ずるのだ、と言う事です。それでは、神のものには神の肖像は何処にあるのか。つまり、神の形があるとは何を指しているのでしょうか。それは、言うまでもなく私たち人間の事です。神は人を創られた時、神に似せて創られたからです。私たちは神の肖像です。それでは、納税と言う面から、皇帝にはデナリオンという貨幣を返せば済むかもしれませんが、神には神の形に創られた人間、つまり私たちという人格そのものをお返ししなければなりません。そしてその場合、皇帝に対する場合のように完全に納めるという事は有り得ないでしょう。どうしても、脱税があったり不正申告もあるでしょう。そうであるなら、神のものは神にという場合、私たちの人格そのものをどのようにして神へお返しとして何をなすべきか。そこにはどうしても脱税をしている面もあるでしょうし、不正申告や或いは無視して自分の事だけを考えてしまっているでしょう。この世の事で神への献身という神への思い、神にどのような事をしてお返しをしているでしょうか。それは、神様への行いと金銭の上では完納しても脱税行為なるものを何処かでしている。私たちは自分が神のものを神に返してこなかった事への神の前に於ける反省を求められていないでしょうか。どうしても、此処に神様からの助けを求めてゆくしかない自分を見て祈ってゆく事であります。最後に。パウロはローマ人への手紙13章4~5節でこう印しています。「権威者はあなたに善を行わせるために神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣(つるぎ)を帯びているのではなく神に仕える者として悪を行う者に怒りを持って報いるのです。」だから、良心のため権威者に従いなさいと言っています。たとえ、異邦人の王であろうとも人の立てた制度と権威であっても神の秩序として尊び従いなさい。と言っているのであります。私たちキリスト者は地上では旅人でありますが、何時も神の守りと恵の中にあって神の秩序の中にあるものであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

料理クラブの報告

秋の最初のフィンランド家庭料理クラブは青空ひろがる秋晴れの10月10日に開催しました。今回のメニューはフィンランドの家庭でもよく作られるラズベリー・ケーキです。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にそれぞれの材料を計って準備します。それからマーガリンと砂糖をハンドミキサーで泡立て、白く泡立ったら卵などを加えます。出来上がった生地を冷蔵庫にしばらく置いておきます。次はフィリングの準備です。水切りヨーグルトなど順番にボールに入れて混ぜると出来上がります。

それから生地をパイ皿に伸ばしてその上に冷凍のラズベリーをパラパラとのせます。その時「ラズベリー美味しそう!」という声があちこちから聞こえてきました。最後にラズベリーの上にフィリングを流し込んでオーブンに入れて焼きます。

ケーキをオーブンに入れてしばらく経つと、台所から美味しいそうな香りが教会中に広がります。出来上がりはどんなものになるだろうかと皆さん待ち通しそうにしていました。

ケーキをオーブンで焼いている間、ケーキの香りと一緒に参加者の皆さんの楽しそうな会話も教会中に広がりました。皆さんは、どんなケーキになるかなぁ、と興味をもって何度もケーキの焼き具合を覗いては、「きれいに膨らんでいるわ」「美味しそうね」などと話されていました。

ケーキが焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのラズベリー・ケーキをコーヒー紅茶と一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。今回も楽しい歓談の時を持ちました。歓談の時にはまたフィンランドのラズベリーの話と天の神さまの祝福についてのお話を聴きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回は11月7日の予定です。11月は第1の土曜日になりますのでご注意ください。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

料理クラブのお話2026年10月10日

今日はラズベリーのケーキを作りました。料理クラブではこれまでに、ブルーベリーやイチゴのケーキを作ったことがありますが、ラズベリーのケーキは初めてです。フィンランドではラズベリーは比較的高価なベリーでブルーベリーやイチゴほどケーキなどに使うことはありません。日本ではラズベリーは簡単に手に入らないので、ラズベリーを使ったお菓子やデザートは高価で珍しいです。

フィンランドではラズベリーは、野生のものと庭で栽培されるものと二つの種類があります。私が子どもの頃は、庭でラズベリーを栽培する家庭はまだそれほど多くなかったので栽培されたラズベリーはあまり食べたことがありませんでした。その代わり野生のラズベリーは殆ど毎年実ったので夏によく採りに行きました。現在ラズベリーは庭でもよく育てられるようになりましたが、それでもフィンランド人は、野生のラズベリーをよく採ります。私の父は、収穫の良い年には20リットル以上も採ったことがあります。野生のラズベリーがよく育つ場所は、森の端っことか、日差しが良い畑の横にある水路の周りです。野生のラズベリーの実は庭のラズベリーより小さいですが、味は甘くて、ラズベリー本来の美味しい風味が感じられます。収穫時期は7月の終わりから9月の初めころまでです。実は熟すると手で簡単に摘まむことが出来ます。しかし時々、実の中に虫が入ることがあるので、実を摘む時によく確認しなければなりません。虫は特に雨の多い夏によく出てきます。

今年の夏フィンランドでは野性のラズベリーが沢山実りました。私は、実家の近くで今まで見たことがないほど沢山の赤いラズベリーが実っている場所を見つけました。そこで沢山摘んで久しぶりにラズベリーのジャムを作ったり冷凍したりしました。

今年のフィンランドの夏は特別でラズベリーだけではなく他のベリー、ブルーベリーやリンゴンベリーなども沢山実りました。リンゴも、枝が折れそうになる位に沢山実っているのを見ました。この間、実家の地方の新聞で89歳の男性が102キロもリンゴンベリーを採ったったという記事を読みました。これはとても珍しいことです。このように今年の夏ベリーやリンゴが沢山実っているのを見て「天の神さまが祝福して下さったことだ」と考えて感謝しました。神さまの祝福は素晴らしいことだと思いましたが、少し後で祝福とはどんな意味があるのだろうかと考えました。

祝福という言葉は生活の中でも良く聞きます。皆さんも聞いたことがあるでしょう。フィンランドでは収穫の豊な年や仕事がうまく行った時などに「神さまが祝福して下さった」とよく言います。また、クリスチャン同士のメールの終わりや会って別れる時の挨拶としても使われます。これはどんな意味なのでしょうか。それは「イエス様がこれからもあなたと共に歩んでくださいますように」という願いの挨拶です。

聖書にはイエス様が人々を祝福された話がいろいろあります。例えば親たちが子どもたちをイエス様の元に連れてきた時イエス様は子どもたちを祝福されました。また、イエス様が天に上がられる前にイエス様に従ってきた弟子たちを祝福された美しい場面があります。その時イエス様は「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる。」と約束されました。それは私たちにも向けられた約束です。イエス様は今も同じように私たちを祝福して下さいます。

祝福には他の意味もあります。神さまの良いみ心が目に見える形や見えない形で現れることも意味します。神さまの良いみ心が目に見える形で現れるものとして自然の美しさや豊かさがあります。私たちの日常の生活の中にもあります。私たちが当たり前のように持っている食べ物、服、住まい、健康にも神さまの良いみ心が現れています。しかしもし食べ物に困ったり、病気になったりしたら神さまの良いみ心がなくなってしまったということなのでしょうか。イエス様を信じる人はそのように考えません。信じる人は食べ物に困ったり、病気になった時にも、神さまは助けて下さると信頼してお祈りしながら歩み続けます。困っている時にも神さまの良いみ心が見えない形で働いていると信じているからです。どうしてそのように信じられるでしょうか。使徒パウロがローマの信徒への手紙の中でこう言っています。

「私たち全ての為に、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」
ローマの信徒への手紙8章32節

神さまの良いみ心は私たちの生活の中で目に見える形でも見えない形でも働いています。それが天の神さまから与えられる祝福なのです。友達同士の祝福の挨拶はこのような深い意味があるのです。