8月の予定

歳時記

続・小綬鶏

〈わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 マタイ6:11

先週、小綬鶏について述べましたが太田愛人先生は二羽の小綬鶏をいとも簡単に絞めたようです。流石に長野の辺境の地で長い間自給自足の生活をされていただけあって鶏の絞め方も熟知されていたのですね。実は私も鶏を絞めた事があります。疎開先で小学一年生の時でした。卵を産まなくなった鶏を母は病み上がりの妹のために栄養をつけたかったのでしょうか。東京育ちの母にはどうしたらいいのか分かりかねていたので僕がやると勇んで件の鶏を膝に押さえ込んで首を思い切りねじってみました、そのうちに鶏がぐったりしてきたので脇の鉈を振り上げて首を目掛けて降り下ろしましたが鶏は首を元通りにするとけたたましい叫び声をあげながら逃げて行きました。母と妹たちも一緒になって追いかけてやっと捕まえて私の手に返しました。今度は初めから鉈で首を叩き切りましたが妹たちは「トトコ可哀そう/\」と言っていましたが料理が出来て食べ始めると盛んに「美味しいね/\」とにこにこしながら食べていました。後で大人から教えられたのは鶏を絞める時は捻った後に少し首を引っ張ると良いと教わりましたが生憎その後がありませんでした。

 

7月の予定

歳時記

 

小綬鶏(コジュケイ)

 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。

                                                   ソロモンの雅歌2:12

朝の散歩で桜美林教会の生垣まで来ると時々、鳩より少し大きい二羽の鳥を見かけます。コジュケイではないかとカメラを用意すると、すうーっと生垣の中に消えてしまいます。撮るのが難しい鳥ですが鳴き声はけたたましく「チョットコイ /\」と叫ぶように啼いています。過日、教会の門の所で捜していたコジュケイと思しき二羽がいました。彼らも驚いたのか慌てふためいてうろ/\していました、これ幸いと撮った写真がこれです。敬愛する太田愛人牧師のエッセイに清泉女子大に講演に行った折に鴨料理を伝授しようと思ったが生憎鴨が手に入らず困っていたら外の方からチョットコイ /\と呼ばれたので行って二羽のコジュケイを捕まえて来てコジュケイを捌き鴨料理を始めましたら回りにいた女子大生が可哀そうと言っていましたが料理が出来て食べ始めると美味しい/\と嬉しそうに食べたそうです。コジュケイを見るとこの話を思い出しています。

 

歳時記

アヴぇリア

〈8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく及びざくろのある地、油のオリブの木、および蜜のある地、
9 あなたが食べる食物に欠けることなく、なんの乏しいこともない地である 。 申命記8:8,9

道路脇に綺麗に刈り込まれているアヴぇリアの植え込みをよく見かけます。何時頃からか流行り出したのか今では通りを飾るアヴぇリアですが散歩の途中で清掃工場の目隠しにでもしていたのかアヴぇリアの植え込みを見上げながら通り抜けます。此処のアヴぇリアは路傍の植え込みと違って一度も刈り込まれた事がないようで枝を伸ばしほうだいになっていました。花の季節になると沢山の蜂が集まってきます、芳香の強い花なので辺り一帯に甘い香りを漂わせていました。白州で農園を営んでいる井手さんが最近蜂蜜も手がけていますがアヴぇリアの蜂蜜だけは出来ないようです。アヴぇリアは矢張り都会の花で野生の花ではなかったようです。

 

歳時記

 

 

アカンサス(葉アザミ)

あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。(マタイ7:16

藕絲館の庭にアカンサスの花が咲きました。アカンサスは古代からヨーロッパデザインの元になっています。その源流はギリシャ、ローマ建築の柱頭の飾りに用いられました、建築科に入学した当時教室の隅に先輩たちが描き残していったコリント式柱頭のスケッチがありました。幸い私たちにはこのような不毛の修練はありませんでした、でも改めてアカンサスの葉を見ているとW・モリスの壁紙を思い出したりして何故か少し残念な気持ちになりました。

 

2026年7月5日(日)10時半 聖霊降臨後第六主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年7月5日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書11章16~30節

                    

説教題:「今の時代を何にたとえたらよいか」 

今日の聖書はマタイ福音書1116節~19節、2530節です。16節から見ますと、「今の時代を何にたとえたらよいか、広場に座って他の者にこう呼びかけている子供たちに似ている。」イエス様のこの話の場面を理解するのに、まずバプテスマのヨハネの事を見た方がわかりやすいでしょう。イエス様の目から見ればこの時、時代の大きな転換の時代であります。11章の始め2節から見ますと、バプテスマのヨハネは牢の中でキリストのなさっている事を聞いた。そこでヨハネは弟子をイエス様のもとに遣わしているのです。イエス様はいま実際に行っている活動を語ってゆかれる。4節から見ますとイエス様はお答えになった。「行って見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。目の見えない者は見え、足の不自由な者は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。」

7節、ヨハネの弟子たちが帰るとイエスは群衆に向かってヨハネについて話始められた。バプテスマのヨハネは今でこそ捕らわれの身になっていますが、イエス様がガリラヤ伝道に乗り込まれる前には悔い改めを叫びヨルダン川で洗礼を授け、華々しい活動をしていた。マタイ356節にあります。このヨハネは救い主であるイエス様の活動の前に準備する神からの大切な使命を授かった最後の大預言者でもあった、と最大の誉め言葉で語っています。13節を見ますと「全ての預言者と律法が預言したのはヨハネの時までである。」さて、これからは新しい時代が大きく変わってゆく。それは、これから神の御子イエス様が働かれる時代となってゆくのだ。ところが実際の今の時代はどうか、こうして今日の聖書である16節から語っておられるのであります。

イエス様は此処で「今の時代を何にたとえたらよいか、と問われて、それは広場で子供たちが遊んでいる姿に似ている。と言われます。この子供たちは始めは結婚式のような祝いの場面を演じようとして「笛を吹いたのに誰も相手になってくれない。次に葬式ごっこをしますが、それも相手になって乗ってこない。」そのようにブツ/\と不平を並べています。このような相手にされない無視された遊びの譬えを語ってイエス様は何を言おうとされているのか。ユダヤの人々が快楽生活を求めたのにバプテスマのヨハネがその笛に乗らず、むしろ慎み深い宗教生活を呼びかけ悔い改めを迫ってきた。次には人々がしめやかで荘厳な救いの日を期待したのにメシアであるイエスは平気で飲み食いし罪人や徴税人と言った連中と共に飲み食いし期待していたメシアらしからぬ振舞いに対してブツ/\と不満を抱いていたのであります。この譬えの解釈にとって大切な事実をルカは福音書7章29節~30節で書いています。

「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは彼から洗礼を受けないで自分に対する神の御心を拒んだ。」イエス様が子供の遊びに譬えて言われた「今の時代」と言うのはこのように神の御心を無視したファリサイ派の人々や律法学者たちの事であります。つまり、彼らは”結婚ごっこをしよう”とか”葬式ごっこ”をしようと決めてしまった事に調子を合わせてくれないと怒っている子供のようである、と言う事です。彼らは”預言者なら、こう言って欲しかった”とか”メシアならこういうふうに救って欲しい”と決めつけているのです。要するに彼らは自分たちの心で作り上げたイメージ、偶像を崇拝しているのです。もう一つの点は、ファリサイ派の人々や律法学者たちは自分たちの都合の良いように理屈をつけて変えてゆく。それこそ、子供たちの遊びのように結婚ごっこをしたかと思えば葬式ごっこに変えてゆく。ああ言ったかと思うとこう言う。実に定めなき我儘で権力を奮っているのです。バプテスマのヨハネが命がけで「悔い改め」を叫び、真の救い主イエス様の天の御国の働きのため、その準備の道備えの役を果たしているのに彼らにはこの最大の預言者であるバプテスマのヨハネの本当の働きを分からないのでいるのです。分かろうともしない、かえって邪魔をして敵対してゆくのです。それで、19節で言われているのはヨハネのような悔い改めの使者を送られた神の知恵、また罪人の友となる救い主イエス様を遣わされた神の知恵の正しい事はその働きそのもので証明しているのです。イエス様があらゆる病を癒し奇跡を起こしてゆかれる働きこそメシアとしての働きの結果であり、それは神の知恵の作品であると言う事です。

さて、後半の25節から30節ではイエス様は「私のもとに来なさい」と言って下さっています。まず25節を見ますとイエス様は「天地の主である父よ、あなたを褒め称えます」と語りだしておられます。ルカ福音書の方では10章21節で「聖霊によって喜び溢れて言われた」と記しています。神の御国の福音をイエス様が一生懸命に宣べ伝えてもイスラエルの社会を支配し権力で神の民を苦しめているローマ帝国の指導者、また宗教をもって支配する律法学者やファリサイ派の連中から敵対視されているにもかかわらず、イエス様は聖霊に満たされ喜びと賛美をもって語りだしておられるのです。「あなたを褒め称えます。」この「褒め称える」という言葉には「承認する」とか「告白する」と言う意味も含まれていると言われています。周りの状況が悲観的であってもイエス様が神様を賛美できたのは天地の主なる父を自分の内に納得して承認しておられるからこそ賛美に溢れる事が出来るのです。そうして27節で「全ての事は父から私に任せられています。」と言っておられます。父の事は御一人子イエス様だけが一番よく知っておられます。ですから天地の中の何者も賢い人でも知恵ある者であっても、この天地の父なる神の僕に過ぎないのです。誰も神と対等の場に立って論じたり神を探求しうる者はいないのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちが何故バプテスマのヨハネの悔い改めに従わず洗礼も受けなかったのか。或いはイエスの弟子たちが伝道に出かけても何故かカナペウムやコラジンやベッサイダの町の人々が弟子たちの神の国の救いを無視したのか。究極的には神が彼らの心から「これらの事を隠された」からに他ならない。そうして、一方では無学な庶民や徴税人が洗礼を受け幼な子のような者に神のみ心はお示しになるのです。全ての事はみ心のままに、全く神のなみ手の内に事を表し、なしてゆかれるのであります。

つまり、人間の側の何かが決めてとなるのではないのです。専ら神の主権的な啓示だけが決めてであると言う事です。その事を27節にシンプルな言葉で語られました。「全ての事は父から私に任されています。」そこには神からの全幅の信頼がイエス様に与えられていると言う事です。「全ての事」は「救い」も「審き」も魂の事も世間一般の何もかも全ての事が含まれているのです。さて、最後の28節から30節に於いて、神の御心と神の救いの全ての権限を父から授かっておられるイエス様が三つの事を語られています。第一、「私のもとに来なさい。」第二、「私のくびきを負いなさい。」第三、「私に学びなさい。」イエス様を通してしか”神と救い”とを知ることが出来ないのであれば「私のもとへ来なさい」。重荷を負うて苦労している者は誰でも招かれています。そして「あなた方を休ませてあげよう」と約束して下さっているのです。そうしてイエス様と同じ「軛(くびき)」を共に負うのです。

「私の軛は負いやすく軽い。それは、あなた方にとっては有益であり喜ばしい事です。」そして第三の「私に学びなさい。」何を学ぶのでしょうか。「私は柔和で心の減り下った者である」という事を学ぶのであります。イエス様ご自身が柔和でへりくだった方であるからイエス様を手本として学びなさい。打ち砕かれて真に心へりくだる人について第二イザヤと言われる預言者が神の言葉を次のように告げています。<イザヤ書57章15節>「いと高く、崇められて永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。私は高く聖なる所に住み、打ち砕かれてへりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン