お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
今年もクリスマスの季節がやってきました!
今回の料理クラブはプッラの”ヨウル・クランシ”(クリスマス・リース)を作ります。プッラの生地を用いて、中身はレーズン、ドライフルーツ、アーモンドに加えて、シナモン、クローブなどのクリスマスのスパイスの風味で満たします。ヨウル・クランシはフィンランドのクリスマスの味覚の一つです。あわせて、フィンランドのクリスマス・スパイス・クッキー”ピパルカック”も作ります。
焼きたての”ヨウル・クランシ”と”ピパルカック”を北欧のクリスマスのホットドリンク”グリョッギ”と一緒に味わいましょう!
ひと足早くクリスマスの雰囲気をフィンランド風に味わってみませんか?
参加費は一人1,800円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1764857990iamg@1764857990arumi1764857990hsoy.1764857990iviap1764857990 まで。
焚火
<彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。 ヨハネ21:9 >
夏の間、庭を覆いつくしていた雑草を刈り取って暫く置いておいたらほどよく乾いて乾草になっていました、今回この干し草と以前に剪定してあった枯れ枝を交えて焚火で燃やしてしまう事にしました。庭に設えてある中華鍋より大き目な焚火鍋で焚火を楽しみにました。奥の家にも家族連れの一家がやって来ました。戸数僅か五軒の小さな集落も何となく賑やかになりました。その家の小さな男の子が姉とお父さんと連れだって男の子は釣り用の魚籠を持ち姉は段ボール箱を持って枯葉を集めに通り過ぎて行きました。やがて、奥の家の庭からも煙が立ち上がっていました。男の子は満足だったでしょう、此方の八十歳ほど歳の違う男も焚火に満足していました。秋は焚き火の季節でもありました。
童謡「たきび」です。
https://youtu.be/qF5C29uUSBI?si=4ZYmn8ec57xPi3Vz
司式 吉村博明 牧師 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会) 聖書日課 イザヤ11章1~10節、ローマ15章4~13節、マタイ3章1~12節 説教題 「悔い改めよ、天の国は近づいた」 讃美歌 5、271、374、259、388
特別の祈り
全知全能の父なるみ神よ。
いつイエス様がいらしても大丈夫なように、あなたの御言葉と聖霊の力で目を覚ましていられ、何があなたの御心に適い、何が適わないかをわきまえることが出来るようにして下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン
待降節第一主日は教会の新年の幕開け
今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドベントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆さま、礼拝に参加される皆さまを豊かに祝福して見守り導き、皆さま自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。
今年もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を礼拝の中で歌います。毎年お話ししていることですが、この歌はフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番最初にある歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の個所が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアンナ、またはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王さま、万歳!」というところでしょう。
その個所が朗読される時、歓呼の前で一旦朗読が停まってパイプオルガンが威勢よく鳴りだし、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、当時の群衆になり替わって歓呼を賛美歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れ聖書離れが進み、普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、なぜか待降節第一主日になると人が多く集まり、この歌を歌って国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。今映っているのは何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。(昨年の待降節第一主日のコラムから)
↓ sleyの聖心教会の第一アドヴェント礼拝の模様です、ホーシアンナ・ダヴィディンポイカを高らかに歌っています。動画の32分あたりから始まります。
https://www.youtube.com/live/j6avbcfEaQk?si=R9_5xeYtzX6GBQXu
ブランデンブルク
<天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。 (詩篇19の1~5 ) >
高村光太郎の詩に「ブランデンブルク」と言う詩があります、ご存知の方もあるかと思いますが此処に全文載せておきます。何故かというと光太郎の住んでいた岩手の山村の景色が白州の家の辺りの雰囲気によく似ているからです。三畝(30坪)の畑はありませんが栗の実が屋根に落ちる音は疎開先でもよく耳にしました。全てが寝静まった夜、トタン屋根の上にコトンと音がしてコロコロと転がって行く音は静寂な夜に相応しく楽しい音でした。翌朝、その栗を探し出し囲炉裏で焼いて妹たちとおやつ代わりに食べました。
高村光太郎 「ブランデンブルグ」
岩手の山山に秋の日がくれかかる
完全無欠な天上的な
うらうらとした180度の黄道に
底の知れない時間の累積
純粋無雑な太陽が
バッハのやうに展開した
今日10月31日をおれは見た
「ブランデンブルグ」の底鳴りする
岩手の山におれは棲む。
山口山は雑木山。
雑木が1度にもみじして
金茶白緑雌黄の黄、
夜明けの霜から夕もや青く澱で、
おれは3間4方の小屋にいて
伐木丁丁の音をきく。
山の水を井戸に汲み、
屋根に落ちる栗を焼いて
朝は1ぱいの茶をたてる。
3畝のはたけに草は生えても
大根はいびきをかいて育ち、
葱白菜に日はけむり、
権現南蛮の実が赤い。
啄木は柱をたたき
山兎はくりやをのぞく。
けっきょく黄大癡が南山の草蘆
王魔詰が詩中の天地だ。
秋の日ざしは隅まで明るく、
あのフウグのように時間は追いかけ
時々うしろへ小もどりして
又無限のくりかえしを無邪気にやる。
バッハの無意味、
平均率の絶対形式。
高くちかく清く親しく、
無量のあふれ流れるもの、
あたたかく時におかしく、
山口山の林間に鳴り、
北上平野の展望にとどろき、
現世の次元を突変させる。
おれは自己流謫のこの山に根を張って
おれの錬金術を究尽する。
おれは半文明の都会と手を切って
この辺陬を太極とする。
おれは近代精神の網の目から
あの天上の音に聴こう。
おれは白髪童子となって
日本本州の東北隅
北緯39度東経141度の地点から
電離層の高みづたいに
響きあうものと響きあう。
バッハは面倒くさい岐道を持たず、
なんでも食って丈夫ででかく、
今日の秋の日のようなまんまんたる
天然力の理法にに応えて
あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。
バッハの蒼の立ち込める岩手の山山がとっぷりくれた。
おれはこれから稗飯だ。
https://www.youtube.com/watch?v=hp53Jh6qO6Q&list=RDhp53Jh6qO6Q&start_radio=1
2025年11月30日スオミ教会礼拝説教
マルコによる福音書11章1〜11節
「主がお入り用なのです」
説教者:田口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1、「主イエスが先を行き導いた」
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
このイエス様のエルサレムへの入場のみ言葉を通して今日イエス様は何を私たちに伝えているでしょうか。これまでのイエス様と共にエルサレムへ向かう弟子たちの歩みはどのような歩みであったでしょうか?それは、イエス様が彼らを招き召し出してその彼らの歩みが始まったように、そのこれまでの歩みもまた、どこまでもイエス様が先を行かれ、イエス様が導かれ、弟子たちはそのイエス様の言葉と導きに「ついて行く」歩みでした。弟子たち一人一人は、決して聖人でも完成され立派な人間でもありませんでした。彼らは私たちと同じ罪人であり、どこまでも不完全で、彼ら自身だけでは常に恐れや惑いがありました。しかしその歩みは彼れが自分の力や意思で全てを果たさなければいけない律法の道ではなく、そんな不完全な、そして理解できない、罪深い不安で恐れる弟子達を、イエス様は常に愛し、何度でも呼び寄せ、支え、何度でも教えて来た福音の道でもあったと言えるでしょう。
2、「まだ誰も乗ったことのない子ろば」
イエス様がいよいよエルサレムへと入るこの時もまた、そのイエス様の恵みが貫かれていることがわかるのです。イエス様と一行は、まずその入場するための手前の町にやってきたのでした。1節、こう始まっています。「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、」イエス様は二人の弟子たちを使いに出すのです。それは何のためかというと、こう続いています。「言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 それはロバの子供を連れてくるためでした。それはこの後続いているように、イエス様がそのロバの子に乗ってエルサレムへと入って行くためです。しかしイエス様がその村に繋がれていると言う「ロバの子」は、イエスや弟子たちに前もって何らか伝手があって、村に知人か誰かがいて借りる予定になっていたというようなものではありませんでした。「つないであるのを、ただ「ほどいて、連れてくる、そのようなものでした。3節を見ますとこうも続いてます。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 どうやら、そのロバの子の持ち主でさえも、その行為の意味をわからず、「なぜそんな事をするのですか」と聞くような状況になるようなのでした。このように遣わされる二人も、他の弟子たちも、そして、ロバの子の持ち主も、そのロバの子供が連れていかれる目的や意味をよくわかっていないようのです。
3、「主がお入り用なのです」
しかし、イエス様がここで言っている言葉は心をとらえます。それは、「主がお入り用なのです。」 「主が必要だから。」ーイエス様にとって理由は、はっきりしています。「主がお入り用」ーそれだけなのです。そのようにして連れてこられたロバの子、イエス様がエルサレムに入場するそのために用いられるロバの子です。周りの誰も、弟子も持ち主もわからない、しかし「主がお入り用だから」ーその理由だけで用いられ、召され、連れれてこられるロバの子なのです。 「主がお入り用なのです」
A,「召し:弟子達に理由があるのではない」
このことばから教えられます。実に、イエス様について行く弟子たちの姿、その召し、招きもそうであったのでしょう。彼らは「自ら」、「自分自身の知恵や力や計画で」イエスを見いだし、何か彼ら自身に初めから確かな理由付けや達成する目的やビジョンがあってついて行ったわけではなかったでしょう。聖書に書かれている通りに、それは、主イエス様が、主イエス様の方から、声をかけ、呼ばれ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と召されたからでした。その言葉の意味さえ、彼らは何を意味するかわからなかった事でしょう。しかし主イエス様が、主イエス様の方から召し、招いてくださったからこそ彼らはついて来たのです。神の計画を具体的にはっきりと見えてはいませんでしたし、全く何のために召されたのかは誰も分かりませんでした。むしろ聖書にある通り、その中のある者は、地上の眼にみえるイスラエルという国家の復興を見て期待し、ローマからの独立や革命を期待していた人もいたでしょう。しかし、一緒に歩いていく中で、イエス様はそんな期待する政治的活動などせず、ユダヤ人が皆、忌み嫌い避けるような罪人に声をかけ交わり、友と呼び一緒に食事をしました。そして、エルサレムを前にしても、繰り返し繰り返しイエス様が弟子達に教えるのは、自分は地上に政治的革命を起こすとか、新しい地上の王国を実現するとかではなく、「自分は祭司長たちに捕らえられ、苦しめられ、十字架につけられて死んでよみがえる」ーということでした。それはついて来た弟子達にとっては訳の分からない、あり得ない、期待はずれのことばかりでした。ペテロは「そんな事があろうはずがない」とたしなめることになります。そのようにやがて弟子たちは何のために自分たちは召されたのか。「なぜ?」と思い、この先にどんな理由と答えがあるのかと思うことでしょう。そしてさらに、弟子達が自分たちを見つめさせられる時にも問題に直面させられたことでしょう。まさに自分が救い主の弟子である自分に勝手に思い描いていた期待、しかしそれとは裏腹の自分の弱さや罪深さや不完全さの現実に直面させられる時、「なぜ、こんな自分が」とその召しに疑問を持たされ壁にぶち当たることになります。まさにそれは現代のクリスチャン、私達が自分を見るときに直面させられる葛藤です。「自分には何もない。何もできない。弟子として、クリスチャンとしてふさわしくないものだ。罪深いもの。弱いもの。聖くない。だから義に値しないものだ。」そのように自分自身に葛藤するのです。
B,「主の側に理由がある」
しかしです。イエス様のことばは私達に教えているように思わされます。それは、「主がお入り用なのです」 そのことばです。私達の理性や常識や価値判断の基準では分からない。思いもよらないこと。しかしイエス様にとって理由は、はっきりとしている言葉でしょう。そのロバの子が召され用いられる理由は、人間が建て上げたり予測できるような合理的な理由があるからではない。どこまでも「主がお入り用だから」なのです。私たちの召しにおいても同じです。私たち「人間の側で私たちが建てあげ期待できるような合理的な理由や根拠があるから」とか「それに即してだからあなた方を「召します」。だから「必要なんだ」、とは父子聖霊なる神様は言わないのです。ただ「主がお入りようなのです」、それだけです。人間の方は、自分の召しにも人の召しにも色々理由づけをしたがります。それで人間の側の自分や組織の期待した通りのことに当てはまらないと「あの人は召されていない」「あの人の召しは嘘だ」「あの人は期待外れだ」と人は言うものです。教会の中でも、クリスチャン同士でもです。そのようにして主が召された牧師や自分の教会の兄弟姉妹を人間の勝手な理由付けで退けたり非難するような声を聞いた経験は残念ながら少なくありません。あるいは、自分で自分に勝手に思い描き期待するクリスチャン像に自分が合わないからと、自分の救いの召しや救いの確信を疑い、失望することも、クリスチャンは誰でも経験することかもしれません。しかし、主が用いる理由。主に召された理由。今、救われクリスチャンである理由。なぜ、どうして、何のために?それは「主がお入り用だから」なのです。それはまったく「主の」目線、「主の」思い、主の目的と計画で、「主が」お入り用だから、なのです。つまり、それはまず、私達にははっきりと完全に知る事ができない事を意味しているでしょう。しかし、「主がお入り用だから」ーそこには、主にある「確かさ」があるでしょう。むしろ「主が」必要であり、そのために呼ばれ、召されて今があるなら、自分が自分を見て不安や失望があっても、「主の目」「主の理由」であるがゆえに、決して不安や失望ではない、期待と希望があるのではないでしょか。「主の目、主の理由である」と見るならばです。「主がお入り用なのです。」ーこのことば。イエス様は、ローマ軍の将校が勇んで乗る血統の優れたカッコイイ馬ではなく、この村の名も知らない家のロバの子供を召しました。しかもまだ一度も誰ものせた事もないロバ。ロバの子供です。合理的な分析や理由付けをしようとするなら、こんな何もできないロバの子供「何ができようか?不安で、頼りない。」と人は見るでしょう。人間の合理性ではそのような判断になり退けられます。しかし、聖書の神の前にあっては、全く逆説的です。「主がお入り用だから召される。主が用いられる。「「主が」お入り用だから」なのです。
それは、私達が自分や、誰かを見ての、大きいから小さいから、できるからできないから、ふさわしいからふさわしくないから、若いから若くないから。等々。それらの人間のたてる理由は評価は一切関係ありません。「私達の目」「私たちの評価」「私たちの合理性」人間のたてる「社会の実利性」等々に基づきません。「主の目。主の理由。」ー「主がお入り用だから。」なのです。その視点を「自分が」から「主が」に転換する時にこそ、私達は、「自分がの傲慢さ、「高ぶり」からも解放されるし、他人を裁いたり、隣人の召命を疑ったり、あるいは「自分なんて」と自己憐憫からも解放される道があるでしょう。私達の存在は、「私が」「自分が」「あの人が」の理由ではなく、「主がお入り用だから」につきるのです。 アドベントのこの時、教会の暦では新年です。主の到来の恵みを覚えるこの時、今日も私たちは「主がお入り用なのです。」という私達へ向けられた「主の理由をしっかりと心に留めようではありませんか。私達一人一人は「主が必要な、お入り用な存在」として召されているのです。「主が」必要なのです。主の目、主の思いが、必要だといってるのです。そのために、救われ、召され、生かされ、導かれている私達です。それは、私達から見て良い状況ばかりではありません。私達から見て良くない状況、試練や困難さえも、しかしそれは、主がお入り用だから。必要だから。私達はそこへ召されているのです。「私が〜だから」「あの人がどうだ」ではなく、「主がお入り用だから」ーそのことばをしっかりと心にもってこの教会の新年のスタートをしましょう。
4、「イエスは十字架にかけられ死ぬために」
さあ、そのようにして、ロバは連れてこられ、イエス様はその上に乗り、エルサレムへと入るのです。7節〜10節ですが「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」」 みな「ホサナ。祝福があるように」と歓迎するのです。しかし、この所は思わされるところです。イエス様のエルサレム入場は、それは、十字架へかかるための入場でした。そして、今歓迎のことばも、このエルサレムではやがて「十字架へつけろ」に変わって行きます。このところは人間の現実を教えているように思わされます。それは、人が自らの力で行う礼拝も、歓迎も、賛美も、すべて不完全であるということです。この人々の礼拝、歓迎、ホサナという賛美も、祭司長たちへの賛同へと変わりました。まさにイエスが、人間が思い描き計画し期待する自分たちの期待通りの、自分たちの願い通りの地上の物事を満たしてくれる王様、メシヤではなかったからです。イエス様は、地上のイスラエルの再興や、独立のために来たでもありません。十字架にかかるために来ました。しかし、それは人々にはわかりません。いや分かる事ができないでしょう。人々は、その自分たちの期待を否定するイエスに失望しました。イエス様が与えようとする神の国の福音、罪を赦すための十字架の言葉は彼らにはわからず期待外れだったのです。そして、ついには人々にとっては極悪人の刑罰である十字架にかけられるイエス。人の前では敗北と大罪の象徴に直面します。恐ろしく残酷な十字架に、メシヤなど見なかったのでした。そこに私達の罪の身代わりと真の救いである罪の赦しがあるとは誰も分からないのです。弟子たちでさえもです。弟子たちは復活の後に、聖霊によって目が開かれそのイエス様のみことばと救いの意味を初めてわかるようになるのです。それから宣教が始まるのです。
人は、私達はどこまでも罪人です。そのなす業、礼拝や賛美であっても、決して、私達の業が、救いを完成するのではないのです。私たちの功績や貢献が神の国を完成させるのでもありません。いやできないのです。私達はどこまで不完全なものであり、不完全な礼拝者、賛美者にすぎません。しかし、ここでも唯一、全てを理解して、まっすぐと主の道を行き、主の御心をなすためにまっすぐに進む唯一の姿があるではありませんか?周りの群衆ではありません。弟子たちでもありません。イエス・キリスト、その方お一人です。イエス・キリストこそが、十字架へと向かい、十字架を負われました。私達ではありません。私達はむしろイエスを十字架にかけろと叫んだ方であり、かけた人々の方です。逃げた方であり、裏切った方であり、三度知らないと否定した方なのです。 私達自らでは主の事を実現する事は何もできません。主を礼拝し、歓迎し、賛美しているようでも、私自身、いつの間にか、自分勝手、自分本位になり、自分の期待通りではなかったら、主を疑い、不平をいい、否定し、十字架につけろと否定する側にいるものであることを気づかされます。実に不完全な存在です。しかし主イエス様こそ、イエス様だけがまっすぐと十字架の道を行き、十字架を負われました。私達のためにです。私達の身代わりとしてです。このイエスの名とその聖なる完全で力ある福音のみ言葉のゆえにこそ、私達の不完全な礼拝も賛美も祈りも、完全な礼拝と賛美として神に喜ばれ、受け入れられるのです。実に、私達の救い主はただ一人です。主イエス様こそ、私達のための救い主。イエス様との聖なる福音こそすべての全て。イエス様こそ先を行って導き、事を行ってくださったお方。行ってくださるお方です。イエス様こそ救いの完成者、助け主にほかなりません。ですから、聖書はいいます。ヘブライ信徒への手紙12章1−2節「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。2節は新改訳聖書ではこうあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前におかれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに、十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12章2節) どうなるか分からず、先に何があるのかわからず、「ついて来なさい」のその聖なる福音の言葉にただ従って来た弟子たちです。人から見ればエルサレムに近づくほどに、自分たちの期待とは違う方向にさえ行っていました。しかし、イエスの後について行って、イエス様の聖なる力ある真実な言葉に導かれて行く事によって、彼らもまっすぐと進んで行きました。確かに途中、弟子たちは拒んだり、逃げたり、裏切ったり、否定したりしました。しかし、そのことを悔やんで、悔い改めイエスとその言葉に向いた時、イエスの憐れみにすがった時、彼らは立ち直りました。ユダはむしろ、イエスに向かなかったから、悔やんでもイエスに立ち返らなかったから、滅びました。しかしイエスとその聖なる真実な言葉を見て、目を離さないで、何度でも立ち返っていく、そのようにして完成者であるイエス様について行く時、完成があることを、弟子たちは示しているでしょう。私達一人一人もそれと同じです。確かに「キリストの姿に変えられて行く、似せられて行く」とは聖書にはあります。しかし、それも「私達が自ら、修行と努力でなる」とは一つもかいていません。その「聖化」についても小教理問答書にはっきりとあります。聖化は、私たちの理性や力ではできない。しかしそれはその聖なる真実なみことばと聖霊による目に見えない主の業であり、完成は地上でなく、主が導く新しい天と地に至るまで、主によって変えられて行くことが聖化であるとルターは教えているでしょう。私達がなるのでは決してありません。「主が」変えてくださるのです。
5、「結び」
今日は教会の暦の新年です。仮にその一年の目標に人が「一つも罪を犯さないようにする」とか「聖書を神を完全に理解する」というのを掲げても決してできません。「完全なクリスチャンに、完全な親に、完全な夫に、完全な牧師に、完全な教会に。」と掲げても、それもできないことです。私達はどこまでも、「主があなたをお入り用なのだから」「必要だから」といって召してくださり救ってくださった主、信仰の創始者であり完成者である主を、まっすぐと見て、ついて行く、それこそ変わることのない私達の歩みであり使命です。それでも何度でもはぐれます。しかし、それでも主は私たちを何度でも呼び寄せて教えてくれるでしょう。そのために今日も礼拝に集められているし、そのために聖なる真実な神の言葉と聖餐が与えられるでしょう。その主の声に、私達たちはその度ごとに戻って、悔い改めて、ついて行く。そのような私達なのです。その救いの歩みを完全になす事ができるのは、唯一の救い主、イエス様であり、そのみことばと聖霊にほかなりません。今日もイエス様は変わることなく私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、この福音の宣言と、今日も私たち一人ひとりに変わることなく「主があなたをお入りようなのです」と言ってくださるその恵みを覚え、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
「聖書の御言葉を自由に使う」とは?
先週の礼拝の初めに詩篇98篇を朗読した時、前半は神の成し遂げた驚くべき救いと恵みの業を賛美する内容、その業はイスラエルの民の枠を超えて諸国民にも知らされるような業であったこと、そして同篇の終わりは神が諸国民を裁く日が来ることについて述べていることをお話ししました。この神が成し遂げた世界に知らしめるような驚くべき業とそれに続く裁きとは何を意味するのか?ダビデの時代なら、驚くべき業はかつての出エジプトの出来事、裁きはエジプトに対する罰という具合に過去に起こったことと理解されたでしょう。バビロン捕囚後に祖国に帰還した民だったら、帰還と神殿の再建が神の驚くべき業と理解されたでしょう。しかし、諸国民に対する罰とは?バビロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされたことか?しかし、イスラエルの民はその後もペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、ローマ帝国に支配され続け、詩篇98篇は過去の出来事と結びつけるのが難しくなるのではないか。
しかし、神の救いと恵みの業が起こったことが将来の裁きと関連するという出来事が起こったのです。イエス・キリストの十字架の死と死からの復活がそれです。この関連を使徒パウロはアテネのアレオパゴスで居並ぶギリシャの知識人や哲学者を前にして述べたのです!(使徒言行録17章31~32節)。
パウロのアテネでの証しの土台に詩篇98篇が本当にあるのか?これを証明しようとしたら、ギリシャ語ヘブライ語の文章の分析からはじめて、第二神殿期のユダヤ文書の中に詩篇98篇に関わる思考を見つけ出して体系化してパウロの証しとの関連性を論証しなければなりません。こうすれば釈義学(歴史的聖書学)の論文が一つ出来上がります。しかし、発表すればしたで批判や反論が必ず出てきます。学術的な営みとはこういうものです。このようにして学問は発展するのです。
そうすると、あらゆる批判や反論に耐えうるようなものができない限り、パウロの証しの土台に詩篇98篇があるなどと言ってはいけないのか?この手の問題について昔、フィンランドの友人の牧師と話し合ったことがあります。O.コスケンニエミという、父親はSLEYの元会長、祖父は大正時代に池袋、諏訪、飯田で教会設立に携わったSLEYの元宣教師。彼曰く、ルター派の教義に反せず、それを深めるものであれば御言葉は自由に用いていいのだ。考えてみれば、どこの教派もそれぞれの仕方で同じことをしているのでしょう。ただし、一つ忘れてはならないことがあります。パウロにしても他の使徒にしても皆、旧約聖書が血と肉と化していた人たちです。彼らが旧約聖書を理解しようとした時、イエス様の教えと出来事が理解に新しい地平を開いたということです。そしてそれはイエス様自身が前もって始めていたのです。
次回はフィンランドのクリスマス・オーナメントの一つ、「オルキ・タハティ(藁の星)」を作ります。フィンランドでは藁で作るクリスマス・オーナメントは伝統的なもので、現代でも手作りの「星」や「天使」や「ヒンメリ」は昔ながらのクリスマスの雰囲気を高めてくれます。これらの天然の藁で作るオーナメントは、僅かな光が当たっても白い控えめな輝きを放ち、暗い冬の季節のお部屋で不思議と心を和ませてくれます。今回は星に挑戦します。どんな形の星にするかは各自ご自由にお決め下さい。
オルキ・タハティ(藁の星)を是非ご一緒に作ってみましょう!
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
持参するもの:パールピン20本
参加費: 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1764857990iamg@1764857990arumi1764857990hsoy.1764857990iviap1764857990
℡ 03-6233-7109
スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106 www.suomikyoukai.org
欅 ケヤキ Kejaki
<天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1>
今年は秋の訪れが遅かったですね、もしかしたら秋はもう来ないかと訝っていましたが矢張りコヘレトの言葉通りに神は約束を違えませんでした。公園の片隅の欅の大木にも秋が来ました、普段は樹下の八木重吉の歌碑に気を取られていましたが公園の原っぱに出てみたらいつの間にか欅が秋色に染まっていました。この季節になるとどうしても一度は訪れたい重吉の歌碑です。
素朴な琴 八木重吉 この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 秋の美しさに耐へかね 琴はしづかに鳴りいだすだろう