牧師の週報コラム 

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」3月22日の日課から

「私は神に対して罪を犯しました。」(サムエル記下12章13節)

「間違ったことをしていると知りながらそうする人たちがいる。しかも、それを何とも思わないばかりか、それを認めない神の真実というものに対して敵意を剝き出しにさえする。そのような人たちは意図的に罪を犯すのであり、悪の自覚を持って罪に留まろうとする。罪を捨てる考えなどなく、ましてや神に赦しを乞うことなど微塵にも思わない。

他方で、それとは違う仕方で罪を犯してしまう人たちがいる。ダビデの場合がそうだ。ウリヤの妻を奪おうとして彼を死なせるべく激戦地に送った時、ダビデはそれは神に対して罪を犯すことだとわかっていた。しかし、邪悪な欲望と悪魔が彼を焚きつけてしまい、罪に陥るまで引っ張って行ってしまったのだ。自分がしていることを考えてみる余裕も持てなくするような激しさで。しかし、ダビデは事後的ではあるが、罪を犯したことを神に告白したのだ。それは彼の心を突き刺したのであり、そのようなことはすべきではなかったと彼は悔い、神に赦しを乞うたのだ。

そのような罪は私たちキリスト信仰者一人一人の首回りに張り付いている。私たちは気がつかないうちにいとも簡単に罪の渦に巻き込まれ、ある時は悪魔と自分の肉が、またある時はペトロのように恐れが自分を席巻してしまって罪に陥らせてしまう。そればかりではない、警戒の怠り、愚かさ、理解の不足も私たちを席巻して罪に陥らせるものだ。もちろん、悪に対する鈍感さや驕りの心は言うまでもない。キリストが十字架に運び上げて取り除いて下さったのはこのような罪である。それは赦しのお恵みと矛盾しない罪だ。そのような罪を犯す者は、自分は間違ったことなどしていない、などとは言わない。その人は何も覆い隠すものがないと観念した裸同然であり、それゆえ、罪を犯したことを神に告白し赦しを乞うのだ。」

もちろん、最初のタイプの人も、心の突き刺さりが起こって神に罪を告白して赦しを乞えば、その罪は赦しの恵みに覆われ、最後の審判の時に追及されず、申し開きの必要もありません。ところで、自分は「真実」を掲げているのだと言って正当化する人は、真実は人を築き上げるものでなければならないということを十戒から知って、掲げている「真実」が真実に値するものか吟味しないといけません。

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スオミ教会チャーチカフェ 2025/4/5(土)11:00~16:00

チャーチカフェ

 

ティモとマリリーサの歌と演奏を是非お聴きください。

チャーチカフェでお会いしましょう!あと、お二人は、スオミ教会の3月30日の礼拝にも出席され、ティモさんが説教奉仕をされます。あわせて是非いらして下さい。

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

4月の料理クラブは12日(土)13時から開催します。

メレンゲ・タルト
今年もイースターの季節がやってきました。今回はこの季節フィンランドで作られるレモン風味のメレンゲ・タルトを作ります。このタルトは三つの層から出来ていて、下からタルト、真ん中はレモンのキーセリ、そして上はメレンゲです。レモンのキーセリはタルトをジューシーなものにし、トッピングのメレンゲはレモン味と重なることで爽やな味わいになります。ふんわりしたメレンゲとジューシーなレモン・キーセリが一緒になることでタルトは口の中で美味しくとろけます。レモン風味のメレンゲ・タルトを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

メレンゲ・タルト参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1743526667iamg@1743526667arumi1743526667hsoy.1743526667iviap1743526667 まで。

 

 

 

 

手芸クラブの報告

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3月の手芸クラブは26日、桜が咲き始めた時に開催しました。今週の暖かさで桜はすぐにでも満開になるでしょう。 これから楽しみです。

今回の作品は手芸クラブの人気ものの一つ、バンド織りのキーホルダーです。フィンランド語でNauhaと言います。はじめに参加者がキーホルダーの毛糸の色を選びます。色とりどりの毛糸から好きな色のものを選ぶのは楽しいスタートです。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るか楽しみです。

それではバンド織りに入りましょう。まずワープになる毛糸をカードの穴に通します。穴は小さいので、皆さん集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、自分の作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。以前参加された方だけでなく初めての方も手が早くて、間もなくして毛糸のきれいな色合いが見えるようになりました。可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。今回はハートの模様をバンド織りで作るNauha の準備もしました。来月出来上がったものを互いに見せ合うのは楽しみです。出来あがったNauhaに輪を入れて結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!

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今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、今年のフィンランドの手芸のテーマが「つぎあてと中古の服を直す」というものだったので、それについてとイエス様のたとえ話の教え「良いサマリア人」についてお話がありました。

次回の手芸クラブは4月23日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブ2025年3月のお話

毎年フィンランドではその年の手芸のテーマが決められます。今年はつぎあてと中古の服を直すことが全国のテーマに選ばれました。このテーマは2021年にも選ばれていて今年は二回目です。どうしてそんなテーマが選ばれるのか、驚く人もいるかもしれません。つぎあてと中古の服を直すというのは、新しいものを作るテクニックと関係ないからです。しかし、少し考えてみたらこれは今の私たちにとても良いテーマだと思います。私の子供のころ服や靴下に穴が出来たら母はつぎあてをして直したものですが、いつの間にかにつぎあての靴下は見かけなくなりました。生活が豊かになったので人々はどんどん新しい服を買うようになりました。使い捨て文化の時代になったのです。もし服につぎあてをしたりすると恥ずかしいかもしれません。私も子供の頃はそうでした。つぎあてをした服は着たくありませんでした。

しかし今はエスディージーズ(SDGs)、日本語で「持続可能な開発目標」がよく言われるようになって考え方が少し変わってきたのです。服につぎあてをしたり他の方法で直したりすると、服の寿命が延びます。服の寿命が延びると使用回数が多くなるだけでなく服の価値も上がります。生活も少しシンプルになります。実はつぎあては手芸の観点では創造的で、色んな手芸のテクニックを使って直すことが出来るのです。特別な道具の必要もありません。毛糸や針があれば靴下を直すことができます。しかしそれには時間と忍耐が必要です。今の忙しい時代の私たちに時間と忍耐があるでしょうか?私たちは何のために時間と忍耐が必要になるか時々立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか。例えば、隣人を助ける時間が私たちにあるでしょうか。

ここでイエス様が教えられた「よいサマリア人」についてお話をしたいと思います。ある偉い学者がイエス様に「私の隣人とはだれのことですか」と聞きました。イエス様は次のたとえ話を話されました。あるユダヤ人の旅人が、エルサレムからエリコという町に向かって旅をしていました。すると、突然強盗が飛び出してきて旅人の持っているものを服まで取って、その人に乱暴をして半殺しにしたまま逃げてしまいました。

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しばらくするとエルサレムの神殿の祭司がそこを通りかかりました。祭司は道端に横たわる怪我人を見ましたが、道の反対側を通って行ってしまいました。次に神殿で仕える人も同じ場所を通って来ましたが、怪我人を見ると、祭司と同じように道の反対側を通って行ってしまいました。

しばらくすると、旅をしていたサマリア人がロバに乗ってやってきました。当時ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していたので、彼らの関係は良くありませんでした。しかし、このサマリア人は、道端に倒れている人を見るとユダヤ人とわかっても、その人の傷に油とぶどう酒を注いで消毒し、christiancliparts.net包帯をして自分のロバに乗せて宿屋に連れて行ってそこで介抱しました。

翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を二枚渡して言いました。「この人を介抱してあげてください。もしお金が足りなかったら、私が旅から戻ってここを通った時に払います」と。

イエス様は、この話を終えた後で、質問した人に聞きました。「さあ、この祭司、仕え人、サマリア人のうち、誰が旅人の隣人になったと思うか?」学者は、「その旅人を助けてあげた人です」と答えました。イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。

イエス様が話されたこの「良いサマリ人」の例えは私たちにも向けられているのです。私たちはサマリア人のように敵味方を区別しないで人を隣人として、その人のために時間や力を使うことが出来るでしょうか。隣人を助けるためにどこまで忍耐があるでしょうか。そして私たちの隣人とはだれでしょうか。

聖書は無条件の愛について教えています。神さまの愛は無条件の愛でとても深い愛です。イエス様はそれを聖書のみ言葉を通して私たちに教えて下さいます。この「良いサマリア人」の例えはその一つです。イエス様が無条件の愛について教えたのは言葉だけでなく他の人たちに対する態度を通してでも教えました。イエス様はご自分の働きを通して、例えば多くの病気の人々を癒やすことで隣人愛を示されました。しかしイエス様はこれよりもっと深い無条件の愛を私たちに示してくださいました。それはイエス様の十字架の出来事です。イエス様は十字架にかかって死ぬことを通して私たちや世界の全ての人たち一人一人の救い主になりました。これより深い隣人愛、無条件の愛はこの世にはありません。このようなイエス様の全ての人々にjuujika対する愛は私たちに向けられているのです。私たちはそれを受け取ることが出来るでしょうか。それはイエス様が私たちの救い主でおられることを信じることで受け取ることが出来るのです。この愛をないなどと言って否定することは出来ません。イエス様の愛を受け取ると、イエス様はいつもどんな時でも共にいて下さいます。嬉しい時も悲しい時も共にいて下さるのです。イエス様は私たち一人一人がご自分の元に来るようにと待っておられるのです。

私たちが隣人を助けたりする時の力と忍耐は限られてしまうかもしれません。だから、私たちは十字架を背負ったイエス様の私たちに対する力と忍耐を思い出しましょう。人間が持てない力と忍耐をイエス様はお持ちで、そんなイエス様を私たちは信仰を通して持つことができるのです。

歳時記

緋木瓜(Hi boke)

<後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。 ゼカリヤ10:1>

普段はあまり通らない道ですが偶然に満開の木瓜の花を見つけました。花の色から見ると見慣れた朱色の木瓜とは違って緋色です緋木瓜と言う種類かもしれません。万葉時代には木瓜は馬酔木と書いていたようです。

(春山のあしびの花の悪しからぬ君にはしゑや寄さゆともよし  万葉集10-1926 詠み人知らず  訳:春山に咲く馬酔木の花のようにあしからぬあなたには、ままよ、人の噂で寄せられてもよい。 )

2025年3月30日(日)四旬節第四主日 主日礼拝 説教 ハヴカイネン ティモ 宣教師(SLEY)

説教の原稿は頂けませんでしたのでYou Tubeでご覧ください。 オープニング 説教 聖餐式 交わり

またお会いしましょう。

 

ハブカイネン夫妻の紹介

ティモはフィンランドのルター派国教会の青年活動主事、マリリーサは保育士、夫妻は3人の息子と共に1987年から2003年までSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の宣教師として日本で伝道活動。帰国後ティモはナーンタリ市にあるナーンタリ教会の青年活動主事、マリリーサはノウシアイネン市で保育士を務めてきました。二人ともコーラスで歌うことと自然の中を歩くことが大好き。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2025年3月23日(日)四旬節第三主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン                    スオミ教会 2025年3月23日(日)

説教題「神の前に悔い改めよ」

聖書: 聖書ルカ福音書13章1~9節

今日のみ言葉には二つの事件を引き合いにしてイエス様が警告を発しておられる。そして最後には譬え話を語って折られます。この箇所の前12章でイエス様は「あなたを訴える者と仲直りをしなさい、さもないと捌かれるぞよ!」と審判の事のついて語っておられます。そして13章になりますと、そこで丁度其の時に何人かの人が来てピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた事を告げた。当時ピラトはパレスチナを管轄していた総督でありました。何故、ピラトはガリラヤ人を虐殺するような事をしたのか。この頃ガリラヤは熱心党と言われる人々ぼ故郷でありまして活動の中心地だった。恐らくこのガリラヤ人たちはローマ帝国の圧政に反抗して度々武力闘争によってメシア時代を来たらせようと計ったんですが失敗したのでしょう。ピラトはしばしばユダヤ人の宗教感情に故意に武力によって残酷な振る舞いで傷つけていた。こうした背景があってエレサレム神殿に礼拝に来て、祭壇に犠牲を捧げていたガリラヤ人をピラトは虐殺して其の血を流したという事件が起こった。この事件はたちまちユダヤの人々にも伝わって行ったでしょう、なんと酷い悲惨な事か…・と。そうしてイエス様とその一行のもの達にも告げたのでしょう。この殺害事件のニュースをもたらしたのはパリサイ主義の者であったにではないか、そういう説もある。彼らの律法主義の考えからこような酷い目にあったのは罪の結果ではないか、という避難の声が隠されてイエス様の元へともたらされたのではないか。当時パリサイ派の人たちは因果応報の考えを持っていた、つまり行った事には報いがある。善い行いには善い報いがあるし、悪い行いには悪い報いがある。ですから災難に会った人々ぶは神の審きがあったのだ、と思ったのでした。しかし此処でイエス様はそのような考えを根本的に否定なさいました。それはちがう!と言われたのです。ルカは2節のところでこう書いています。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に会ったのは他のどのガリラヤ人よりも積み深い者だったからだと思うのか、決してそうではない。言っておくがあなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる。」続いて、全て同じような事件を引き合いに出されて、イエス様は警告を語られる。4節です、「また、シロアムの塔が倒れて死んだ、あの18人はエレサレムに住んでいた他のどの人よりも罪深い者だったと思うのか、決してそうではない、言っておくがあなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる」。イエス様の教訓の大事な点は他人の上に起こった災難の話を聞くにつけ自分自信の悔い改めがどんなに大切である、ということを気づかせておられるもです。他人は災害を被ったが自分は審きを受ける事はない、とか災害を受けた者は罪に対する罰を被ったのである、が自分にはその心配はない、とかそのように思うべきではない。他人の被った災害のニュースは自分に対する警告である、これを聞いて自分の罪を恐れ悔い改めるのでなければ、それと同じような災いが自分に落ちてくるであろう。だから悔い改めよ、と警告されているのです。現実の私たちの日常生活の中で矢張り時々あの人は何か悪い行いをしたから、今その報いとしてあのような災難に会っているのだ、と考えてしまう。そのような時私たちは自分を棚に上げて自分の事は別にして自分の罪深いことは忘れてまるで傍観者のように他人の罪を眺めています。他人の災難や不幸を非難する事で自分と言う者を気づかない内にその事で自分を隠してしまって良く見せようともします。自分は違うあんな悪い人とは違うと言いたいのであります。

パウロはローマ人への手紙3章10節から23節のところで次のように言います。「正しい人は一人もいません、一人もいません、神を求める人は一人もいません。全ての人が迷い出てみんな堕落しています」。全ての罪を犯したため神の栄光を失っています。今、本当の捌きの前に立つ時あの人は誰よりも罪深いと簡単に言えるでしょうか。神の前に悔い改めは私たち全ての事なのです。それできょうのみ言葉イエス様は言われます。「あなた方も悔い改めなければ全て同じように滅びる」私たちは「悔い改め」と言うと何か道徳的な思いが先に立ちます。そして、泥棒が悔い改めて真人間になったり、不良少年が立ち直ってまじめに回心したりする事を考えたりします。しかし、そうでしょうか。パウロが神の前に「全ての人は罪がある」と言った時決して道徳的基準をあてはめているのではありません。パウロは言っています、「私は自ら省みて何の疚しいところはない」と(第一コリント4:4)またピリピ書3:6では「律法の義については非のうちどころのない者でした」と言っています。ダマスコ途上で回心する前にはパウロは少しもやましいところがなく立派な人でした。20世紀最大の神学者カールバルトが「悔い改め」と言う説教の中で」こう言っています。「イエスは私たちをお招きになります。真理を私たちに告げようとなさいます。神を私たちに告げようとなさるのです。これを聞いて受け入れる者は悔い改めます。」悔い改めとは私たちがいつも見落としている最も近くにあるものへの立ち返りにほかなりません。私たちが何時も見えない大事な生き方中心に立ち返ることです。神は私たちの最も近くにいます。神は私たちの中心であります。私たち一人々を創られた方です。その神に立ち返る事です。この事はほかの全ての方が私たちに最も良く理解されうる以上に自然で単純で自明な事であります。悔い改めとは、ほかでもない私たちの中心へ立ち返ることです、が人間は果たしてそう簡単になるでしょうか。旧約聖書エレミヤ書31章31節から31節を見ますと「見よ、私がイスラエルの家ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。」と主は言われる。この契約はかつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時、結んだものではない。」預言者であるエレミヤが神様からの大切な言葉を告げるのですがそれは昔イスラエルの民をエジプトの地で奴隷の状態から救い出し、モーセによって40年の荒野の旅の途中シナイ山でモーセに十戒を授けられます。この律法によって神とイスラエルの民との間に契約を結ばれます。ところがイスラエルの民はこの契約を破ってしまった。そのため此処に新しい契約が立て直されなければならない。エレミヤ31章32節の続きを見ますと、「私が彼らの主人であったにも関わらず彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」エレミヤは此処に一つの大きな問題を提出しているのです。この問題は何かと言いますと人間の罪の問題です。これはイスラエルの民だけの問題ではない。人間の奥底にある根本的な問題です。パウロが信仰を宣べます時必ず課題となった問題です。

その問いは古代教父アウグスチヌスも真剣に神の前に告白して来ました。そしてマルチン・ルターも、そして20世紀最大の神学者カール・バルトもこの問題に取り組みずうっと共通の問題です。神と人が常に契約の関係に役立つため律法が行わなければならない。律法は実に人間に対する神の命令をはっきり示しているものです。ところが人間は神の命令を素直に受け入れない。神の命令をそのまま実行する事ふぁなかなか容易ではない。旧約の、あのアダムとエヴァは神の命じられた禁断の知恵の木の実を食べてしまった。蛇にそそのかされて神の命令を破ったのです、神に背いてしまったのです。人間一人々の心に天使が存在する、と共に悪魔も存在する。…うまく言ったものです。此処に人間にどうにもならない罪の問題があるのです。それ故エレミヤにとっても、この新しい契約を結ぶと言われるのです。この神の命令はそのまま実行できるかどうか!問題となったのです。パウロはローマ人への手紙7章15節にこう叫んでいます。「私は自分のしている事がわからない。何故なら私は自分の欲する事を行わずかえって自分の憎む事をしているからである。」このパウロの叫びはエレミヤの嘆きでもあった。人間は真実でなければならない、これがエレミヤのもっとうでした。この事を充分承知していながら偽りを言ったり行ったりする。何故かそれは人間が悪に染まっているからだ。とエレミヤ書17章9節で言っています「人の心はなににもまして捕らえがたく病んでいる。」。この言葉によって彼は人間性の中に潜む根本的な矛盾をどう解決するか。この解決なくしてイスラエルの民が神の民であると言えない。また神の子であり得ない。そこにエレミヤが「罪に赦し」ということを特に言わざるを得なかった。34章の最後のところで主が言われる「私は彼らの悪を赦し再び彼らの罪に心を留めることはない。」ここに福音が予言されているのです。神様の罪の赦しがある。そのために「悔い改めなさい」とイエス様は言っておられる!「あなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる。」主なる神様私たちの罪を赦そうと「悔い改める」ことを忍耐して待っておられるのです。神がどんなに忍耐しておられるか、イエス様はこの事を譬え話で語っておられます。それが6節から9節にある「実のならない無花果の木」の譬えです。ぶどうの園に植えてある一本の無花果の樹は3年になっても実らない、主人はとうとう怒って言った。「これを切り倒せ!何故土地を塞がらせておくのか」園丁は答えた「ご主人様、今年までこのままにしておいて下さい。樹の周りを掘って肥やしをやってみます。」この3年待った意味について神様は旧約時代を通じて長い年月イスラエルの民が神に従うのを待たれたのだ、と言う意味に取るのか或いは神のみ子をこの世に遣わしてイエス様が宣教を始められてから約3年待たれた、つまり洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、と叫んで斧ははや樹の根元に置かれている。善き果を結ばぬ樹は切られて火に投げ込まれる」このように叫んで既に3年、今なおユダヤ人は「悔い改め」ようとしたない、「これを切り倒せ」と命じておられる。それに対して園丁は1年の猶予を請うて悔い改めの実を結ぶように伝道に万心の力を尽くして仕えます!。

パウロはロマ書9章22節で言っています。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちにご自分の豊かな栄光をお示しになるためであった。」これがイエス様のみ心でもあるのです。なんと言う寛容と憐れみであろうか、なんと言う愛と慈哀でありましょうか。神が待っていて下さる間に、今こそ悔い改めよ、今は恵みの時である。世の終わりに於いてキリストが裁き主として再び現れ給う時世界全体に渡り全ての国民、全ての民族、全ての人が審かれる。罪を悔い改めてキリストを信ずる者は永遠の生命に入り、高ぶってキリストを信じない者は永遠の滅びに定められる。その時の来る事を予め警告しておられるのであります。今は悔い改めの時恵みの時なのであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

3月の料理クラブは15日の今にも雨が降りそうな土曜日の開催となりました。 今回はツナ&ベジタブル・ピーラッカを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にピーラッカ生地を作って冷蔵庫に入れて冷やします。次に中身の準備。みんなで玉ねぎ、パプリカを一生懸命刻みます。色とりどりの野菜をフライパンに入れて炒めると野菜の美味しそうな香りが広がります。皆さん、どんなピーラッカになるか楽しみ。炒めた野菜を冷ましている間にトッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜると出来上がります。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に油を切ったツナと炒め野菜を載せます。

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その上にトッピングを流し込んで最後にチーズをかけてオーブンに入れます。

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ピーラッカが焼けている間、皆で楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がり、皆さん興味深そうに順番にオーブンの中を覗いていました。

ツナ&ベジタブル・ピーラッカが焼き上がりました!皆さん席に着いて出来たてアツアツのピーラッカを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち、テーブルのあちこちから「美味しい!」と言う声があがりました。「こんな材料でこんなに美味しいピーラッカができるなんて」という驚きの声も聞こえました。ピーラッカを頂いた後で、フィンランドてよく食べられる魚と聖書のイエス様の弟子になった漁師についてのお話を聴きました。

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今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は4月の12日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブのお話2025年3月15日

pai今日皆さんと一緒に作ったツナ&ベジタブル・ピーラッカは簡単に作れるピーラッカの一つです。このようなものはフィンランドではパーティーやお祝いの時、夜の軽食としても出されます。ツナはマイルドな味わいでフィンランドではパイ、ピザ、サラダなどに使われます。保存食なので、使い方は簡単です。フィンランドでは魚の種類はそんなに多くないので、ツナをよく料理に使います。

フィンランドではどんな魚がよく食べられるでしょうか。日本ではお店で売っている魚の種類は多いですが、フィンランドの普通のお店で売っている魚の種類は少なく、いわしとサーモンとあと何か白身の魚が1種類くらいあるだけです。

昔はいわしをよく食べました。いわしは沢山捕れたので安く買えました。まだ冷蔵庫がない時代には、秋に家庭でいわしを多めに買って、塩づけにして保存して、冬中ずっと食べました。私の子供の頃も家でいわしを塩づけにして保存して何か月も食べました。silakkamarkkinat近年トゥルクやヘルシンキでは秋になると、いわしの市が開かれるようになって、そこではいわしだけでなく他の魚で作った料理や保存食も売っています。このいわし市は、冬に向かうフィンランドの秋の大きなイベントになって沢山の人が訪れます。

近年は湖や川で捕れる白身の魚もよく食べられるようになりました。海の魚ではいわしの他にはニシンとサーモンがよく食べられますが、一番よく食べられるのはサーモンです。サーモンはフィンランドで養殖したものか、ノルウェーの海で捕ったものかのどちらかです。高価なサーモンの料理は昔は、クリスマスのようなお祝いの時にしか食べられませんでしたが、今では普段の日にもよく食べられるようになりました。

さて、聖書の時代にも魚はよく食べられていて、漁師は普通の職業でした。今日はこれから聖書に出てくる漁師についてお話ししたいと思います。

ある日イエス様がゲネサレト湖という湖にやってくると、2人の漁師が舟からおりて、網を洗っていました。そこでイエス様は漁師の一人のペテロに「舟を少し冲に漕いで、そこで網を下ろしてみなさい」と言われました。ペテロは、「先生、私たちは夜中苦労しましたが、何も捕れませんでした。しかしお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えました。ペテロは漁師なので魚のことはよく知っていました。もし夜魚が捕れなかったら、昼はもっと捕れないと思ったでしょう。それでもペテロは、イエス様の教えをいつも尊敬していたので、言われた通りにしました。するとどうでしょう。信じられないことが起こりました。網が破れそうになるくらいに大量の魚がかかって、その重さでペテロの乗っている舟ともう一そうの舟は沈みそうになりました。

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ペテロはこれを見て、どう思ったでしょうか?彼はイエス様の足元にひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです。」ペテロはお礼を言うどころか、こう言ったのです。どうしてでしょうか?この時ペテロは、今起こったことは神様の力で起きたと信じたのです。それで自分の前にいるこの方は神聖な神のみ子で、この方の前では自分など罪深い者にすぎない、とわかったのです。それで「私は罪深いものなので、どうか私から離れてください」と言ったのです。しかし、イエス様はペテロから離れないで、次のように言われました。「恐れることはない。これからは、あなたは人間をとる漁師になる。」そこでペテロは舟を陸に上げて、イエス様は神様の子だから信頼して大丈夫な方だと信じて、全てを捨てて従って行きました。ペテロはイエス様の弟子の一人になったのです。

このようにペテロはイエス様と出会って、イエス様に従って行きました。私たちもイエス様と出会うことができます。それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時にできます。み言葉からはイエス様の呼ぶ声が聞こえてきます。それは全世界の全ての人々に向けられます。それを聞いたらどうしたらよいでしょうか。私たちは神さまの前では正しい人間ではなく心の中に悪い考えもあります。それでイエス様を従う前にもっと良い人間になってから従おうと考える人が多いと思います。しかし、このお話の漁師たちはどうだったでしょうか。彼らは仕事している途中でイエス様の呼ぶ声を聞いてすぐイエス様に従うようになりました。ペテロはイエス様と出会う時に自分の弱さ罪深さを分かりましたが、同時にイエス様は神のみ子でいらっしゃるから大丈夫と信頼しました。それでペテロはイエス様と共に歩むようになりました。

イエス様はペトロだけでなく私たちにとっても信頼して大丈夫な方です。ペテロが見たような奇跡を私たちも見ることが出来るかどうかは分かりません。しかし、イエス様は神さまの子でいらっしゃって私たちの救い主と信じると、イエス様はいつも共に歩んでくださるのは確かなことです。

2025年度の年間主題と年間聖句について

3月2日(日)主日礼拝後に2024年度の年次総会が開かれ、活動報告の総括、会計報告を行い、新年度の予算と活動計画や年間主題と聖句などの議案を採択しました。 以下、牧師報告の主要部分(実名は伏せました)と年間主題と聖句に関する議案を紹介します。どうぞご覧ください。

牧師報告(抜粋)

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである。」 
マルコ4章20節

あるキリスト教団の神学校の校長先生が述べたこと、「以前は何もしなくても教会には人が集まって来たが、今は何をやっても集まって来ない」。これは、伝統的なキリスト教会ではどこも同じ思いではないかと思います。スオミ教会だけの問題ではありません。

昔は、倫理とか正義とか生きる意味について悩み考える人にとって聖書は真っ先に手にする書物の一つだったのではないかと思います。今の時代は、キリスト教以外にも宗教的なもの哲学的なもの心理学的なものが沢山出回り、キリスト教は数あるものの一つに過ぎなくなって以前より目立たなくなったのではないかと思います。かつて問題意識を持った人たちが教会の門を叩いたのとは違い、今は悩みの解決、苦痛からの解放が関心事になったのではないかと思います。そうなれば「罪」について話すことは悩みや苦痛を軽減するどころか増やすことになると警戒されタブーになります。心理セラピーが跋扈し、キリスト教会も心理学やセラピーの手法を取り入れるようになるのは当然です。

かつて日本人にとって憧れと尊敬の的だった欧米世界もキリスト教離れが進み、逆にその反動でかけ離れた主張をするキリスト教派も出てきたりして、それもキリスト教に魅力を感じさせなくなっている一因になっているのではないかと思います。

伝統的なキリスト教会の多くで高齢化が進み、後が続かない状況にあるのは、かつて真っ先に聖書を手にした人たちが高齢者となり、その後の世代の人たちはキリスト教がかつての輝きを持たない時代に育ったということではないかと思います。(以下 省略)

2025年度の主題と主題聖句について

新年度の聖句と主題を決める際に以下のルターの聖句の説き明かしを元にしました。聖句はローマ15章4節「忍耐と聖書の慰め励ましを通して私たちには希望があります。」

「この聖句でパウロは二つのこと、すなわち忍耐と聖書の慰め励ましを結びつけている。聖書は私たちを苦痛、逆境、死から解放してくれない。逆に聖書は神聖な十字架を私たち

に負わせる。だから、忍耐が必要になるのだ。まさにその時、聖書は苦しみのただ中にある者を慰めて力づけてくれるものになる。忍耐が萎えることがないように、苦難を突き破って打ち克つことができるように聖書は力づけてくれる。私たちが喜んで勇気を持ってへりくだって苦難に臨むことができるのは、神が繰り返し語るあの御言葉を耳にするからである。『私はあなたと共にいて、あなたを守る。』

キリスト信仰者にとって忍耐強くあるというのは不可欠なことだ。なぜなら、この世の人生とは永遠の死に定められている内なる古い人間アダムを日々死なせていく過程に他ならないからだ。次に到来する世を私たちはまだ手にすることも感じることもできない。それ故、私たちには忍耐強くしがみつく何かが不可欠なのだ。それは神の御言葉に他ならない。神の御言葉に忠実でいれば、私たちは次に到来する世の人生を手に掴んでいることになり、それに繋がっていることになるのだ。私たちは神の御言葉を信頼し、御言葉に踏みとどまる。その時、私たちは安全な船で航海するが如く、この世の人生から次に到来する世の人生に向かって旅をする者となる。御言葉に留まる限り、希望が裏切られることはない。

もし聖書が、私たちが苦難にある時、悲しんでいる時、死に直面している時に私たちを慰めるものになっていれば、それは正しく用いられていることになる。それゆえ、苦しみについて何も知らない者、死を自分に関係ないもののように考えている者は、聖書の慰め励ましについて何も知らないのである。それは言葉を通してだけでは学ぶことはできない。経験を通してでないとできないのだ。」

以上のルターの説き明かしに基づいて本年度の主題は「罪の赦しの恵みに生きる者にとって逆境は聖書から慰めと励ましを得るチャンス」としました。

聖句のローマ15章4節ですが、新共同訳だと「忍耐」も「慰め」も聖書が与えるものとしています。ルターの説き明かしは、忍耐は忍耐、慰めの方は聖書由来という理解に基づいています。これは、ギリシャ語原文がそうだからです(ルター訳ドイツ語聖書の1920年版を参照)。「忍耐」も「慰め」も両方とも聖書由来という書き方は新共同訳だけでなくフィンランド語訳も英語訳(NIV)もそうでした。スウェーデン語訳はギリシャ語原文とルター訳を踏襲して補足もしてありわかりやすいので選びました。

主題聖句 ローマ15章4節

「私たちの忍耐と聖書が与える慰め励ましを通して私たちは希望を持ち続けることができるのです。」(スウェーデン語訳の聖書”Bibel2000”から)

以上

歳時記

レバノン杉

<「見よ。アッシリヤはレバノンの杉。美しい枝、茂った木陰、そのたけは高く、そのこずえは雲の中にある。水がそれを育て、地下水がこれを高くした。川々は、その植わっている地の回りを流れ、その流れを野のすべての木に送った。それで、そのたけは、野のすべての木よりも高くそびえ、その送り出す豊かな水によって、その小枝は茂り、その大枝は伸びた。」(エゼキエル 31:3-5) >

以前、桜美林大学のチャペル脇のレバノン杉の苗木を紹介しましたがあれから数年経って再度見に行きましたら結構大きくなっていました。そろそろ大樹の風格が見え始めたようです、成樹の写真を見ると成長したレバノン杉は枝が四方に広がり辺りを覆うようになるようです。このレバノン杉も成樹になった暁にはこのチャペルを覆うようになっているかも知れませんね、その姿をいまの誰にも見る事ができないのが残念です。