新年の小礼拝の説教 2026年1月1日 主の命名日 説教 吉村博明 牧師

新年の小礼拝の説教 2026年1月1日 主の命名日
スオミ・キリスト教会

民数記6章22~27節
ガラテヤ4章4~7節
ルカ2章15-21節

説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 西暦2026年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーは昨年の11月30日に始まった待降節が新年の幕開けでした。今日は、日常というのか世俗というのか、普通のカレンダーの新年の幕開けです。どちらにしても、新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。
 新年のこの日、日本では大勢の人がお寺や神社に行って、そこで崇拝されている霊に向かって手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。神社仏閣に参拝する人数を合計すると日本の総人口より多くなるということを聞いたことがあります。それ位ひとりでいくつもの場所を駆け回る人が大勢いるということなのでしょう。そういうわけで新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間です。
 キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後は、今日のルカ福音書2章の聖句にあるように、このひとり子がイエスと名付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日の今日となります。このイエス様の命名の出来事を通しても聖書の神、天地創造の神とはどんな方か、そしてそのひとり子のイエス様はどんな方かがわかりますので、新年のこの日そのことについて見ていきましょう。

2.イエス・キリストの名前の意味

 まず誰でも知っているイエス・キリストという名前について。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていると聖書の神が身近な存在になります。「イエス・キリスト」の「キリスト」は苗字のように思う人もいるのですがそうではありません。新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとは実はメシアのことだったのです。
 そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。そういう終末論が旧約聖書の預言にはあると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。そういうこの世的でない、超越した王のことです。この世的であれ超越したものであれ、メシア「キリスト」は苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。
 次に「イエス」の方を見てみましょう。これもギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は「主が救って下さる」という意味があります。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われました。それでこちらが本名です。そういうふうに、イエス・キリストという名はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語のイエス・キリスト)になったのでした。

3.律法の下に生まれ、律法の支配下にある者を贖い出す

 さて、イエスの名前の意味が「主が救って下さる」ならば、誰を何から救って下さるのでしょうか?天使がヨセフにこの名を付けなさいと言った時、その理由は「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何からの救いかということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。
 そもそも「神が救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが神は天使を通して、救われるのが国の敵からではなく、罪と死という人間一般の敵からであるとはっきりさせたのです。「罪から救って下さる」というのは、人間を永遠の滅びに陥れようとすることから救って下さることです。端的に言えば、罪の呪いから救い出すということです。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主である神に対して不従順になったことがきっかけで人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込みました。それで神と人間の結びつきが失われて人間は死する者になってしまいました。またかと思われてしまうかもしれませんが、キリスト教は何も犯罪を犯したわけではないのに「人間は全て罪びとだ」と言います。でも、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものを指します。造り主である神の意思に反しようとする性向です。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが私たちは皆等しく罪を持っていることを表しているのです。
 イエス様が人間を罪から救い出すというのは、罪の呪いの力を無にして人間が罪の罰を神から受けないで済むようにすることでした。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられようにし、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせてもらって神の国に永遠に迎え入れられるようにすることでした。それを実現するために、イエス様は人間に向けらていた神罰を全て引き受けて私たちの身代わりになって十字架にかけられて死なれました。イエス様は神のひとり子で神と同質の方で神の意思に完璧に沿う方であるにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者のようになったのです。誰かが私たちの身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにされた理由です。本日の使徒書の日課ガラテア4章で言われていことが起こったのです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」
 神の定めた律法に服するようにさせたということは、本日の福音書の個所にあるように割礼の儀式を受けたことにも示されています。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきた時は、旧約聖書の伝統を守る民族の只中にその旧約聖書に約束されたメシア救世主として乙女の胎内から生まれてきました。それで割礼という律法の掟に従ったのでした。全ては人間を罪の呪いから救い出すためでした。
 イエス様の十字架の死と死からの復活の後で全てが一変します。イエス様が十字架で果たして下さったことは、現代を生きるこの私のためでもあったとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けることで神との結びつきが回復するようになりました。洗礼が天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。使徒パウロが、人間が罪の呪いから救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってであると主張したのです。人間は信仰と洗礼でもって創造主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。
 このように私たちには、人間を罪の呪いから解放するために民族の違いを超えてご自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神がおられるのです。そしてその神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を身をもって実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様もおられます。このような神と結びきを持ててこの世を歩めることを私たちは心から喜び感謝することができますように。

4.勧めと励まし

 このような神との結びつきを持ててこの世を歩めるというのは、暗闇の中で光を見失わないことと同じです。私たちは身近な願いや希望が叶えられると嬉しくなります。叶えられないと目の前が暗くなったような感じがします。しかし、キリスト信仰者には身近な願いや希望が叶う叶わないに左右されずにある大元の嬉しさ、喜びがあります。イエス様の十字架と復活の業のおかげで私たちは神の目に相応しい者になれることからくる嬉しさ、喜びです。この礼拝の初めでベートーベンの第九の「歓喜」の歌に触れました。星空の彼方に創造主は必ず住んでおられることが大きな喜びの元にあることを表現している歌であると。創造主が必ずおられることがどうして大きな喜びになるのか、それを詩篇8篇が明らかにしてくれていると申しました。創造主の神が私たち人間を覚えてくれて面倒を見て下さるからですが、神が覚えてくれて面倒を見て下さることはひとり子を私たちに贈って下さったことに一番強く表れているのです。
 私たちはどのくらい神の目に相応しくなっているのでしょうか?それは、今のこの世の次に到来する新しい世において神の御許に迎え入れてもらえるくらいに、つまり、天のみ国に迎え入れてもらえるくらいに相応しいということです。もし神社やお寺で、天国に行けますように、などと声に出して祈ったら、周りの人から、この人少しおかしいんじゃないか、早く死にたいのか、と思われるでしょう。しかし、キリスト信仰者には、もちろん身近なこの世的な願いもありますが、同時に神に義とされて神の国に迎え入れられるという希望があります。しかも、その希望はイエス様のおかげで既に叶えられているから大丈夫という安心があります。もちろん、身近な願いが叶えられず、どうして?神は聞いてくれなかったのか?神は何か私にご不満なのか?そういう疑いはキリスト信仰者でも抱く時があります。しかし、神は、そうではないのだ、イエスを救い主と信じるお前を私は見捨ててなどいない、お前は天の国に至る道に置かれて、その道を私と共に歩んでいる、物事がお前の思う通りに進まなくても、私の思う通りに進むから心配するな、私の目は常時お前に注がれているから安心しなさい、何も恐れることはない、と神は言って下さるのです。これが神との結びつきを持って生きるということです。この結びつきは聖書を繙く時、聖餐式に与かる時に強まっていきます。
 そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちには神との揺るがない結びつきがあるゆえに大元の嬉しさと喜びがあるのですから、それを忘れずに新しく始まった年を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

新年あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

写真に写っているのは明治23年(1890年)頃の新宿区戸塚町です、現在はこの戸塚町はありませんが今の早稲田中学校のあたりです。ですからこの景色はまさにスオミ教会のある鶴巻町のごく近くです、明治時代はこんな田圃のある所だったのですね。夏目漱石の住んでいたのは早稲田通りの南側の喜久井町でした。正岡子規と一緒に散歩したのが関口町付近ですからこれも教会のすぐ近くです。正岡子規の「墨汁一滴」と言う随筆があり、その中に「稲」と「米」について漱石が東京生まれで田んぼのそばに住んでいたにもかかわらず、稲が実り米になると言う事を知らずにいたことを記したのがありますのでその一節を「・・・余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士の菽麦を弁ぜざる事は往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居いをせねばならぬ。・・・」とユーモラスに記しています。

2026年1月4日(日)10時半 降誕節第二主日 礼拝

司式 吉村博明 牧師 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団) 聖書日課 エレミヤ31章7~14節、エフェソ1章3~14節、ヨハネ1章1~18節 説教題 「恵みと真理に満ちた独り子としての栄光」 讃美歌 174、181、34、251、337 特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、あなたが造られた天体の星の動きを通して、東方の学者たちにもみ子イエス様を示され、彼らをみ子のもとへ導きました。今、イエス様を救い主と信じる私たちが、あなたの導きを受けてこの世を歩み、復活の日に栄光の主を仰ぐことができるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

2026年1月1日(木)10時半 新年礼拝

司式・説教 吉村博明 牧師

聖書日課 民数記6章22~27節、ガラテヤ4章4~7節、ルカ2章15~21節

説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」

讃美歌 49、3、467、51

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは天と地と人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。その上、罪を持つ私たちを救いの業によってあなたの目に適う者になれるようにして下さいました。どうかこの新しい年も、この救いの実現して下さったイエス様を真(まこと)の救い主と信じる信仰を携えて、日々あなたへの感謝を忘れず、あなたの意思に沿うように毎日を送れるように私たちを力づけ見守って下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

牧師の週報コラム

 宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その2)

1214日のコラムの続き)ローマ12章の意味を確認していた時、16節は新共同訳では「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」となっているが、「身分の低い人々」のギリシャ語は、私の使っている辞書では「取るに足らないこと」、つまり人ではなく事柄である(私の辞書はギリシャ語・スウェーデン語、神学を勉強した大学がスウェーデン語系の大学だったため)。「交わりなさい」も「心を注ぎなさい」だ。どっちが正しいのか?前の文の「高ぶらず」を正確に訳すと「大業なことを考えない」となる。つまり事柄を言っている。それで、二つの文は二つの事柄を対比していると考えると、ここの訳は「自分を高くするようなことは考えず、自分を低くするようなことに心を傾けよ」になるのでは、と思った瞬間、賢治の「みんなにでくの坊と呼ばれ褒められもせず苦にもされず」が響いてきた。

そこでもう一度、9節から意味を意識しながら唱えてみた。愛は見かけではいけない、悪を忌み嫌い、善から離れないようにし、互いに兄弟愛をもって心から愛し、お互いを尊敬をもってたたえ合い、怠けず熱心になり、霊に燃え、主に仕え、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、祈りを絶やさず、聖なる者の欠乏を自分事とし、完璧なもてなしを目指し、迫害する者を祝福して呪わず、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、互いに思いを一つにし、自分を高くするようなことは考えず、低くするようなことに心を注ぎ、自分は賢い者と自分で決めず、誰に対しても悪をもって悪に報いず、全ての人の前で良いことのために力を尽くし、少なくとも自分の側からは全ての人と平和な関係を築くようにし、自分では復讐せず、神の怒りに任せ、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませ、悪に凌駕されず、善をもって悪に打ち勝て、という内容だ。

自分をとことん低くして自分ファーストにならずに社会に善が増し加わり悪が廃れるように立ち振る舞い行動するというのは、雨ニモ負ケズの精神と相通じるのではないかと思いきや、すぐ違いにも気がついた。賢治の場合は最後に「そういう者に私はなりたい」と言っている。つまり、「雨ニモ負ケズ」から始まってずっと述べてきた立ち振る舞い行動様式は追い求める理想像なのだ。他方、パウロの場合は「~しなさい」、「~してはならない」と命令形なのだ。ということは、仏教徒は自分で追い求める理想像を描けるが、キリスト教徒は命令されないとわからない動かないという情けない存在なのか?(さらに続く)

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2025年12月24日(水)19時(18時開場) クリスマス・イブ礼拝  説教 吉村博明 牧師

降誕祭前夜礼拝説教 2025年12月24日

スオミ・キリスト教会

ルカ2章1-20節

説教題 「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.はじめに

 今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれますが、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。

 「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。星の輝く夜空に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。そこに突然、輝く天使が現われて救い主の誕生を告げる。すると、大勢の天使が現れて一斉に神を賛美する。賛美し終えた天使たちは天に帰り、あたりはまた闇に覆われる。羊飼いたちは生まれたばかりの救い主に会いに行こうとベツレヘムに急行する。そして、馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つける。

 これを読んだり聞いたりする人は、闇を光に変える天使の輝きと救い主誕生の告げ知らせ、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

2.聖夜の真相

 でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋や家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、パイヴィの実家が酪農をやっていたので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に輝いていた方、そして全ての人間の救い主になる方は、こういう不潔で不衛生きわまりない惨めな環境の中で人間としてお生まれになったのでした。

 問題は劣悪な環境だけではありません。クリスマス福音に書いてあることをよく注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に権力を行使する者がいて、人々の人生や運命を牛耳って弄んだことに翻弄されたことだったのです。そのことを「クリスマス福音」は明らかにしています。

 ヨセフとマリアはなぜイエス様を自分たちが住むナザレの町で出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのでしょうか?それは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。東京から軽井沢までの距離を徒歩で行く旅です。出産間近なマリアはロバに乗ったでしょうが、それでも無茶な旅です。町と町の間は荒野が拡がり、もちろんコンビニなんかありません。場所によっては強盗も出没します。しかし、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったでしょう。皇帝のお触れが出たので大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。

 やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはさらなる不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフが宿屋の主人に必死にお願いする姿が目に浮かびます。気の毒に思った主人は、馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろうと言ってくれました。さて、生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷きました。これがイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた聖夜の真相です。

3.究極の権力者が共に歩んで下さる

 しかしながら、聖書をもっと読み込める人はこれよりももっと深い真相に達することが出来きます。どんな真相でしょうか?それは、普通の人の上に権力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に権力を行使する方がおられるという真相です。上の上におられる方が下にいる権力者の運命を手中に収めているという真相です。この究極の権力者とは、まさに天地創造の神、天の父なるみ神のことです。なぜなら、神は既に何百年も前に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であることも、処女から生まれることも全て前もって約束していたのです。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、いよいよ約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません、神はその当時存在していたいろんな要素をうまく組み合わせて、約束実現の条件を自分で整えたのかもしれません。神は条件が整ったのを見いだしたのか、それとも自分でそれを整えたのか、どっちにしても、この世の権力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を弄んでやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らをご自身の目的達成の道具か駒にしていたのです。

 人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ権力者に翻弄させられたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。翻弄させられるということは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。それなので、イエス様誕生にまつわる惨めさは、神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の権力者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の権力者たちの上に立つ立場にあったのです。彼らの心の在りようを聖書の御言葉で言い表すとすれば、詩篇23篇4節が相応しいでしょう。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れず、汝、我とともにませばなり。」神とは信じたら人生を順風満帆、商売繁盛、無病息災にしてくれるものだ、と考える人は聖書の神の真実を知ったら信じたいと思わなくなるでしょう。聖書は、神を信じても死の陰の谷を進まなければならないような苦難や困難に遭遇するとはっきり教えます。しかし、それと同時に紙一重でもっと肝心なことも教えます。それは、苦難や困難の谷を究極の権力者である神が私たちの傍にいて一緒に歩んで下さるということです。苦難と困難の中で恐れと不安はある、しかし、自分の命と運命はこの世の権力者ではなく、それを超えた究極の権力者である神の手中にある、救い主を与えて下さった神であれば自分の命と人生が彼の手中にあるのは正しい場所なのだ、そういう恐れと不安を超える安心が紙一重にあるのです。マリアとヨセフはそのような心を持ってベツレヘムに旅立ったのでしょう。

 実は私たちも、マリアとヨセフと同じ心を持つことが出来ます。それは、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで持つことが出来ます。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、それは彼が十字架の死を受けることで私たち人間の罪を全部神に対して償って下さったからです。それに加えて、イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を私たちに切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、人間は神との結びつきを回復しでき、神との結びつきを持ってこの世を歩むことができるようになります。この結びつきは人生の順境の時も逆境の時も変わらずにあり、この世から別れる時にもあり、そして復活の日が来たら目覚めさせられて、神のもとに永遠に迎え入れられるのです。この神との永遠の結びつきのゆえに、キリスト信仰者はクリスマスの時に飼い葉おけに寝かせられた赤ちゃんのイエス様を心の目で見る時、透かして見るように将来の十字架と復活にも思いを馳せるのです。それで信仰者はイエス様の誕生を自分事のように喜び、神に感謝するのです。

4.天使の賛美の意味

 説教の終わりに、大勢の天使たちが歌った賛美を少し見てみます。

「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」

この賛美は少し難しいです。原文のギリシャ語を見ると、詩の形で動詞がありません。なので、天には栄光が神にある、と事実を述べているのか、それとも、栄光が神にありますように、と願望を述べているのかはっきりしません。続く言葉も、地には平和が御心に適う人にある、と事実を述べているのか、平和が御心に適う人にありますように、と願望なのかはっきりしません。そして一つ気になるのは、平和とは何かということです。神の御心に適う人、つまり神が贈られた救い主を受け入れた人は戦争に巻き込まれないで済むようになるのか、それとも彼らがそれらに巻き込まれませんようにと願望を述べているのか?

 ここで言う平和とは、戦争がない状態が全てではありません。キリスト信仰で平和と言ったら、一番目に来るのは神と平和な関係にあるということです。神との平和な関係は、イエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったことで確立しました。神と結びつきを持って生きるということが神との平和な関係にあるということです。神との平和な関係にある人が今度は、誰のおかげで神が人生の歩みのお伴になったかわかった以上は、もう誰に対しても高ぶることができなくなり、ただただへりくだった者として他者と平和な関係を築こうとする、そのことが新約聖書の使徒たちの手紙で沢山教えられます。(特にパウロの「ローマの信徒への手紙」12章にはっきり出ています。)

 さて、天使たちの賛美の歌の意味ですが、この言葉だけで考えるのではなく、賛美の前に一人の天使が知らせた「救い主の誕生」と結びつけて見れば意味がわかってきます。イエス様が救い主なのは、神と人間の間に平和をもたらし、人間が神と何があっても揺らぐことのない結びつきを持って人生を歩めるようにして下さり、この世を去る時も結びつきの中で去ることができ、復活の日に神に目覚めさせてもらえる、こうしたことを可能にしたのがイエス様です。それで彼は救い主なのです。そのような救い主が生まれたことと結びつけて天使の賛美をみるとこうなります。

「救い主がお生まれになりました。なので、天の上では栄光が神に一層増し加えられますように。

救い主がお生まれになりました。なので今こそ、地上では御心に適う人たちに平和が与えられますように。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年12月28日(日) 降誕節第二主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年12月28日(降誕節第一主日)

スオミ・キリスト教会

イザヤ63章7-9節

ヘブライ2章10-18節

マタイ2章13-23節

説教題 「全知全能の神 vs. この世の悪」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の中で難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供が犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるのではないでしょうか?その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論が起こるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちがヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。ヘロデは学者たちが戻ってこないので、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。

そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナやガザの戦争も東日本大震災をはじめとする自然災害もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。

そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。

2.全知全能の神とこの世の悪 ― キリスト信仰の観点

もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この種の問題についてキリスト信仰者はどう考えているか以下に見ていこうと思います。

聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に適うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまいました。何が起きたのかは創世記の1章から3章まで詳しく記されています。「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。これが聖書の人間観です。しかし、これには続きがあります。聖書の人間観の続きについては後で出てきます。いずれにしても、人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたいと考えたことが元々の間違いだったのです。

ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志は十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪を持っていることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの現れなのです。

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。

それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は罪の呪いのために永遠の死の滅びに定められてしまいました。その呪いから人間を救うために神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で請け負って私たちの代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであったと言われています。それを実現するためには、神のひとり子が犠牲になって死ななければならない。神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が罪の呪いのゆえに陥る運命であった死の滅びをイエス様が代わりに受けて下ったことで人間が陥らないですむ状況が生み出されたのです。

それでは人間は罪と死の滅びから解放された後はどうなるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになることです。この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられることです。まさに神との永遠の結びつきを持つ者に解放させられるのです。

もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本物の罰受けになって人間の罪を償うことが出来たのです。このような仕方で人間を罪と死に追いやる悪魔の力は無にされたのです。それで、ヘブライ2章17節で言われる通り、イエス様はおよそ神と人間の関係に関する全てのことにおいて人間に対して憐れみ深い誠実な大祭司となられ民の罪を償う方となられたのです。続いて18節で言われます。イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しんだ、それで試練を受けている人たちを助けることが出来るのだと。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。

イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。そして、もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させたのです。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったのです。まさに二重の打撃を被ったのです。

神はこのようにして人間に救いを整えて下さいました。今度は人間のほうが、神が整えた死の滅びに至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、その状況に入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整えた救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整えられた状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためでもあった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうすると、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していくだけです。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらえます。そして今度は神の栄光に輝く復活の体を着せてもらえます。

このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを進んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。

 以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救いに与れるようにと手を差し伸べているという見解になります。これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを整えて下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。

3.勧めと励まし

終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場です。黙示録20章4節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心をもって造られたものに酷い仕打ちをする者の運命、また神が御心をもって整えたものを受け取った人たちに酷い仕打ちをする者の運命は火を見るよりも明らかでしょう。

 人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを意味します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならない現実があります。それなのに来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判する人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うように行うものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。

 最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台としそれを目指す信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

歳時記

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー

<少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる。 箴言15:16>

初冬の谷戸池の畔に佇むとウオールデン池には到底およびませんがソローの事を思い出します。ソローを知ったのは太田愛人牧師の著作ででした。ヘンリー・デイヴィッド・ソローは19世紀のアメリカ合衆国の作家、思想家、詩人、博物学者として知られていました。マサチューセッツ州コンコードのウオールデン池畔に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月送りました。代表作『ウオールデン森の生活』(1854年)は、その記録をまとめたものであります。「物に溢れた文明社会に生きる私たちも、未開の辺境での生活を経験すれば、本当に必要なものとは何かを自分で知る事が出来る」この思想は後の時代の詩人や作家に大きな影響を与えました。彼の思想は画家アンドリュー・ワイエス、建築家フランクロイド・ライト、牧師マーティン・ルーサー・キング、政治家ジョン・F・ケネディ、その他マハトマ・ガンディー、マルセル・プルースト、宮沢賢治らに影響を与えたと言われています。また最近ではシンプルライフの名でヒッピー文化にも取り入れられました。

牧師の週報コラム(2025年12月21日)

フィンランドからのクリスマスの挨拶

今年もスオミ教会の元牧師、SLEYの現元宣教師などSLEY関係者からクリスマスの挨拶が届きました。今年は皆さん1130日にアドベントが始まってすぐ送られた方が多かったです。以下、SLEY関係者の方々の挨拶をご紹介します。

その前に、最近フィンランドから残念なニュースがありました。一部の心ない人たちの愚かな行為のために日本人に不愉快な思いを抱かせました。しかし、それをもってフィンランド人全員が同じ考えでいるのではないことは、国内で愚行に対する非難が沸き起こり、首相自ら日本はじめアジア諸国に公式に謝罪を表明したことに明らかです。愚行を行った本人たちも謝罪し、それらは日本でよく耳にする「もし誤解を与えたとしたら謝罪する」というようなわかりにくいものでなく率直な謝罪です。赦しを与えて然るべきものです。

今回の件でフィンランドに対するイメージに傷がついてしまったかもしれませんが、スオミ教会が礼拝や様々な集会で集中的に宣べ伝えている2000年の歴史を持つキリストの福音はたかが独立107年目の国の好感度とは全く別次元別世界のものです。ルター派では、たとえ人間の方が信仰で躓いたり罪に陥ったとしても、福音はそんなことに一切左右されず、イエス・キリストの十字架の贖いと復活の希望は微動だにせずその輝きには一かけらの陰りも起きないと考えます。だから堕ちた人間は贖いと希望の光に立ち返ればよいのです。何が起きても立ち返る地点、目指す光を持てるというのは素晴らしいことです。

 

 

以下、SLEY関係者からの挨拶です。

Pentti Marttila SLEYアジア地域コーディネーター(フィンランド語からの訳)

私たちは今、私たちの救い主キリストのご降誕を祝うクリスマスに向けて準備をしています。

クリスマスとイースター(復活祭)は、切り離すことのできない関係にあります。イエス・キリストは十字架の死を通して、私たちに罪の赦し、神との結びつき、そして神との平和をもたらすためにお生まれになりました。イエスは、世の罪を取り除く神の小羊です(ヨハネ1章29節)。

マティアス・グリューネヴァルトの有名な絵画「イーゼンハイム祭壇画」は、この福音のメッセージを深く心に訴える形で描いています。この作品の中で、洗礼者ヨハネは見る人の視線をキリスト、すなわち全世界の罪を贖うお方へと導いています。ヨハネは自分自身について語るのではなく、十字架につけられた救い主、すなわち世の罪を取り除く神の小羊をまっすぐに指し示しているのです。

この祭壇画は、アルザス地方のイーゼンハイム修道院に置かれていました。そこでは重い麦角中毒(エルゴティズム)に苦しむ患者たちの世話をしていました。この病は激しい痛み、皮膚の黒化、組織の壊死を引き起こします。グリューネヴァルトは、イエスの御体をまさに次のような姿で描いています。引き裂かれた傷、苦痛に歪む体、そして息絶えた姿です。

見る者は、キリストの御体の中に自分自身の苦しみを見いだすことができました。神は苦しみから遠く離れておられる方ではありません。むしろ、ご自身がその苦しみの中に入って来られたのです。この絵は、イエスの受難が美化されたものでも、単なる現実離れした霊的なものでもなかったことを教えます。それは現実の苦しみであり、肉体の苦しみであり、極限的な苦しみでした。キリストは、人間存在のすべての苦しみと罪の現実をその身に担われたのです。

洗礼者ヨハネの、誇張され、ほとんど不自然なほど長い指は、この作品の中心的な象徴です。その身振りは力強く宣べ伝えています。「見よ、ここに神の小羊がいる。」ヨハネは絵画の鑑賞者を見ているのではなく、キリストを見つめています。歴史的には、ヨハネは十字架の下にいませんでした。しかし神学的には、彼はそこに属するのです。彼は旧約聖書全体を代表し、キリストを指し示す者なのです。

十字架の足もとにいる小羊(アニュス・デイ)は、ヨハネの言葉(ヨハネ1章29節)を直接的に示しています。小羊の傷はキリストの傷に相当し、その血は杯へと流れています。これは罪の贖いと聖餐を示す象徴です。十字架は、単なる苦しみのしるしではなく、救いをもたらす犠牲なのです。

ヨハネの脇に記された言葉は、彼の召命のすべてを要約しています。

Illum oportet crescere, me autem minui.「あの方は栄え、私は衰えなければならない。」
(ヨハネ3章30節)

私たちの救い主イエス・キリストの祝福に満ちたご降誕を心からお祈りします。

ペンッティ・マルッティラ
Sleyアジア地域コーディネーター

 

Paavo ja Seija Heikkinen 元スオミ教会宣教師(フィンランド語からの訳)

スオミ教会の クリスマス祝会に集う皆さまへ

フィンランドでよく歌われているクリスマスキャロルに「雪が高くずっしり積もって」という歌があります。しかし、今年のクリスマスはそうではありません。少なくともここラハティ周辺では、雪はとても少ないです。1~2週間前には雪がありましたが、今日は様子が違います。ところどころに小さな白い場所があるだけです。しかし、雪があるかどうかは大事なことではありません。大切なのは、私たちの救い主の誕生のお祝いがあるかどうかということです。

今から2025年前、イスラエルの地で唯一無地で比類のない例外的な出来事が起こりました。森羅万象を司るお方の御子、イエス・キリストが人間としてお生まれになったのです。この出来事は唯一無二のものです。

少しの間、主の誕生の場所とその周囲について考えてみましょう。本来どのようであるべきだったのか、そして実際にはどのようであったのか。

まず、日本で皇室に子どもが生まれる場合を考えてみましょう。出産する病院は当然、最高水準のものであり、すべてが完璧に整えられていることでしょう。それは当然なことです。国の元首となられる方の後継者が生まれるのですから。世界中どこでも、支配者の子どもが生まれる時はどこも同じでしょう。

しかし2025年前、森羅万象の造り主であり治め主である神の御子が人間としてお生まれになりました。完全に唯一無地の出来事です。ところが、「生まれたのは誰か」を考えると、その誕生の場所は完全な驚きでした。なんと、馬小屋、動物の休む場所だったのです。天と地の支配者の御子が馬小屋でお生まれになったのです。本来なら、そうであるべきではありませんでした。水晶でできた宮殿であるべきでした。しかし、そうではありませんでした。主は馬小屋で生まれたのです。

誕生の場所に馬小屋が選ばれたことは、私たちに何を伝えているのでしょう?そのメッセージは非常に大きなものです。誰一人、外に追いやられることはないということです。主のもとに行くための敷居は低いのです。タキシードも立派な服装も必要ありません。それは偶然そうなったことではありません。天のエリートが人間としてお生まれになった神の御子は誰をも遠ざけることはありませんでした。成人して伝道の働きを始められてから、彼は学識者とも学識の無い人たちとも話し合いました。ニコデモにも名も知られぬ罪深い女性にも、イエス様は天に至る道を示されました。一緒に十字架に架けられた犯罪者も、長年聖書を学んだ専門家サウロ(後のパウロ)も遠ざけることはしませんでした。主はそのメッセージを次のように要約されたのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、彼を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を持つためである。

スオミ教会のクリスマス祝会に集われた皆さまに、心からクリスマスのお祝いを申し上げます。

セイヤ、パーヴォ、イルセ、カイサとラウラ、そしてそれぞれのご家族より

 

Mari-Liisa ja Timo Havukainen SLEY宣教師(フィンランド語からの訳)

スオミ教会のクリスマス祝会にお集まりの皆様へ!

昨年の春、3月から4月にかけて皆様と過ごした時間を心温まる思いで思い出しています。ありがとうございました!

アンナ=マリ・カスキネンとペッカ・シモヨキによる「ホサナと歌いなさい!

という歌をもって皆さんにご挨拶を申し上げたく思います。その第1節には次のような歌詞があります。

「枝や衣服が道に投げ出され、イエスはエルサレムへ向かった。今、私たちの王にホサナと歌いなさい!ホサナと歌いなさい。主は私たちのもとに来られる。」

喜び溢れる救い主の降誕のお祝いの時を過ごされますように!

ティモとマリ=リーサ・ハブカイネン

Päivi ja Martti Poukka SLEYスオミ教会宣教師(日本語で書かれました)

スオミ・キリスト教会の皆様へ

クリスマスおめでとうございます!

「ひとりのみどりごがわたしたちのために⽣まれた。ひとりの男の⼦がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、⼒ある神/永遠の⽗、平和の君」と唱えられる。」(イザヤ書/ 09 章 05 節)

7 ⽉ 4 ⽇には、私たちはみ⾔と同様に「ひとりの男の⼦がわたしたちに与えられた」と神様に感謝して喜びました。

2 番⽬の孫が無事に

⽣まれたからです。12 ⽉の下旬の今は、私たちはのみ⾔の通りに「ひとりのみどりごがわたしたちのために⽣まれた」と皆様と共に賛美します。イエス・キリストの誕⽣のお祝いを迎えているからです。何と不思議なことでしょう。神の⼀⼈⼦であるイエスは⾃分が作られた⺟親によって⼈間の姿をとってお⽣まれになりました。そして私たちのために⾃分の⺠のところへ、この世に来られました。⺟乳を飲む⾚ちゃんなのに、権威が彼の肩にありました。「驚くべき指導者、⼒ある神、永遠の⽗、平和の君」という名前の救い主をご⼀緒にほめたたえましょう!!!

残念なことに、今年は⽇本伝道旅⾏はできませんでした。何度何度も去年の懐かしい旅を思い出しました。そしてその旅⾏についてあちらこちらで報告をしました。しかし、神様のみ⼼だったら、来年の春にまた皆様に会う機会があるでしょう!

新年 2026 年に「わたしたちの⽗である神と主イエス・ キリストからの恵みと平和が、あなたがた にあるように。」(テサロニケ ⼆ 1 章 2 節) Päivi & Martti

 

高木賢 SLEYインターネット伝道担当(日本語で書かれました)

皆さんと救い主イエス様の生誕を覚えてお祝いできることを感謝します。

イエス様のおかげで、イエス様を通して、私たちは国と民族と空間と時間の境を超えて結び付けられています。

互いに祈り合うこともできています。

個人的にもとりなしの祈りをしていただいていて深く感謝しています。

これからも互いに励まし合い、祈り合い、救い主イエス様を信じて歩んでまいりましょう。

いつかまた実際にお会いできるとよいですね。

 

Tiina ja Mika Latva-Rasku SLEY宣教師、SLEYインターネット伝道担当(日本語で書かれました)

スオミ・教会の皆様、

私たちの救世主イエス・キリストの誕生を祝うとき、

皆様の心が喜びと感謝で満たされますように。

新年が素晴らしいものでありますように!

ミカ&ティ―ナ

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

(テモテへの手紙一1章15節)

 

Sirkka-Liisa ja Pekka Huhtinen SLEYスオミ教会宣教師(日本語で書かれました)

キリストにあるスオミ・教会の皆様

クリスマスおめでとうございます。スオミ・教会の兄弟姉妹と共にイエス様の海馬桶のそばに集い、天の父なる神様が全世界に示してくださった恵みと愛を感謝します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)  

「馬槽のなかにうぶごえあげ、大工の家にひととなりて、貧しきうれい生くるなやみつぶさになめしこの人を見よ。」(子供の賛美歌より)

Pekka と Sirkka-Liisa Huhtinen, Helsinki, Finland, 2025

 

Sointu ja Veli-Matti Sallinen SLEYスオミ教会宣教師日本語で書かれました

2025年12月21日(日)待降節第四主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マタイ1章1〜25節

「神はご自分の民を罪から救うために」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、はじめに

今日の福音書から語られている神の真理のみ言葉は、私たちの救い主イエス・キリストの誕生が、人の思いや知恵、あるいは人の計画や努力によるものではなく、どこまでも神ご自身が、遥か昔から約束された人類の救いの約束を、その約束の通りに実現してくださった、という素晴らしいメッセージを伝えています。

2、神の計画:罪人を用いて

A,罪人マリヤを通して

 しかしその世界を救う救い主の誕生、実に不思議ではありませんか。それはここにある通り「聖霊による」と言う不思議もあるのですが、さらにヨハネの福音書1章に「人の間に」とある通り、神はその救いを、人を用い、人の間に、しかも人として生まれるという方法で、救い主を世に与えると言う不思議です。それらは私たち人間の想像や思いをはるかに超えることでしょう。キリスト教の間でさえも、人間中心で理性信仰の神学者や牧師たちは、これは事実ではなく、神話であるのだと言ったりもします。しかしこの救い主の誕生という神のみわざとその救いの約束の成就は、まさに人間には計り知れないことの実現であるということが今日のマタイ一章にははっきり現れているのです。そしてその人の間に、人を用いてお生まれになると言うことには、もう一つ大事な事実があるのです。それは「人の間に」という時のその「人」、それは「一人の罪人」であるマリヤの胎に身籠り、そこで貧しい姿で弱々しい人間の肉体を持った赤子として生まれるということです。世の救い主イエス様は、人間が神というとすぐ思い浮かべるような目にも神々しい神の姿で来られたのではありません。あるいは、目に見えない幽霊のような姿であるのでもなければ、あるいは、見るからに神の力に溢れたような力強い姿で来たのでもありませんでした。そうではなく、一人の罪人の胎に宿り、もちろん聖書にある通り、罪はない方ですが(ヘブル4章15節)、それ以外は私たちと同じ弱さを持った人間の肉体をとり、赤ちゃんで、痛みと苦しみを通して、しかも貧しい中にお生まれになられたのです。これは人の思いや理性では信じられないことです。思いもしないし、計り知れないし、説明しつくせないことです。人間の限られたちっぽけで狭い知識の範囲では当てはまらないことです。受け入れ難いことです。確かに教会でさえも、有名な神学者でさえも、これは神話だと言いたくもなるでしょう。しかし、聖書の伝える救い主は、人間の小さな知識の枠に当てはまり理解できるような小さな神では決してない。この人間には計り知れない出来事にこそ神からわたしたちへのクリスマスの福音のメッセージがあるのです。

B, 約束の系図

 そのことはこの前の箇所も含めて、このマタイ1章全体に現れています。マタイはこの福音書の書き出しの1節、イエスのことをまさに伝え始めるその言葉を、18節にある言葉で語り出していないでしょう。とっても大事な箇所なので私は触れずにはいられないので、以前と繰り返しになってしまいますが、マタイはまず最初に、人の目には単調で、つまらない、何の意味があるのかと思うかもしれないこの系図から語り出しています。その事実、その系図は私たちに何を伝えていますか?それはまず第一に約束された救い主、真の神であるお方が、人の家系に、つまりまさしく「人の間」にお生まれになるという証に他なりません。そして系図が伝えるもっと大事なことがあります。ルカの福音書にもある系図を見るとそちらでは最初の人アダムにまで遡って書かれているのですが、何を意味して何を伝えているでしょうか。それは、まさにこの「救い主の誕生」が、創世記3章でアダムとエバの堕落の時すでに語っていた「最初の福音の約束」とも言われるあの約束につながっていると言うことです。創世記3章15節、こうありました。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。

 そうです。イエス・キリストの誕生の系図は、まさに神が、人間が堕落したその時、すぐに約束されたこの「最初の救いの約束」にまでしっかり繋がっており、その約束の成就だと言うことを示しているでしょう。ですからイエス・キリストの誕生、クリスマスは2000年のローマの時代のパレスチナにいきなり起こった出来事では決してないのです。それは天地万物の創造者である真の神である方が、堕落した人類を決して見捨てず、その救いの約束も反故にしたり忘れたりせず、その「最初の救いの約束」の通り、その計画の通り、女の子孫として、ご自身が罪深い人間の体を通して人となられ人と人との間に宿られた、来られた、お生まれになられたその驚くべき出来事なのです。これは実に不思議なことです。繰り返しますが、本当に、人の思いでは計り知れない、理解できない。まさに理性でも常識でも「信じられない」ことです。実に人間の小さな知識の枠にははまらないことです。しかし、神はこの聖書を通し、使徒であるマタイとヨハネ、福音書記者でありパウロと一緒に宣教をしたルカを用いて、これがあなた方一人一人に約束した、救い主イエス様の誕生なのだ、約束の実現なのだと、今日も、このクリスマスにも、まず私たちにはっきりと伝えているのです。

C, それは罪人の系図でもある

 さらにこの系図を見れば、実に、大いなる不思議と恵みがあります。これも繰り返しになりますがとても大事な事実です。その系図は「神の系図」ではありません。「聖人君子の系図」「完全な人間の系図」でもありません。そう、それはまさしく「罪人の系図」であるということがわかるでしょう。確かに偉大な信仰者とも呼ばれるアブラハムやダビデの名前があり、マリヤもヨセフもアブラハム、ダビデの家系であることはわかります。しかし、旧約聖書は、ダビデが巨人ゴリアテを倒した武勇伝やいかにも敬虔な綺麗事だけを記録しているのではなく、ダビデが一度ならず何度も罪を犯したことも正直に記録しています。マタイの記した系図を見ると、1章6節「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。つまりまさしく、読む人であれば誰でもわかる、あのダビデの犯した重大な罪と彼の悔い改めの出来事さえも隠さず記しています。信仰の父アブラハムでさえもそうでしょう。彼は100%完全で、罪も穢れもない、信仰も完璧な人間としては決して描かれていません。創世記を読んでください。彼は何度も弱さに葛藤し、失敗し、それでも彼が信仰の父と呼ばれるのはなぜですか?それは、彼が完全であったからではなく、神の約束とわざが完全であったからです。むしろアブラハムはどこへ行くのかわからなかった。彼にとっては自ら説明することも理解することもできなかったスタートであり歩みでした。しかし、彼ではなく神がその完全な真実な約束のゆえに、アブラハムを絶えず教え、戒め、日々悔い改めに導きながら、支え助け励まし導いた、そしてその主とその真実な言葉に絶えず立ち返り、計り知れない神とその言葉に信頼した、そんな信仰に歩んだ生涯であったからに他なりません。その孫のヤコブしかりです。彼の罪深さや欠点は溢れているでしょう。それだけではない、この系図にあるダビデの子孫のソロモンに始まる王達の歴史を見るなら、まさに罪人の歴史であり系図ではありませんか。神はその罪人の系図を知らなかったのでしょうか?そうではありません。分かっていてあえてその系図を私たちに示しています。聖書が「人の間に」と言われるとき、それは、「神の間」でもない。「神のような完全な人々の間でも、聖人君子の間」でもない、「罪人の間」にこそ救い主イエス様は宿られる。お生まれになるのです。そして、その罪人を用いてこそ神は救い主の誕生という素晴らしことをなされる、実現される、ということを私たちに示しておられるのです。以前も引用し紹介しました。ルター派のLuthran Study Bibleのこの箇所にはこうディボーションの勧めがあります。

「イエス・キリストの系図で、マタイは、罪人や恥ずべきことを隠そうとしていません。実際にマタイはそれらを目立たせています。イエスが生まれる家計には、売春婦、姦淫の罪を犯すもの、暴力的な人、そしてその他、説明できる他の罪を犯した人々をも含んでいます。このことは私たちを驚かせるかもしれませんが、事実、キリストの系図を構成しているのは、罪人に他ならなかったということです。イエスの先祖達は、私たちが救い主を必要とするのと同じくらい、救い主を必要としていたのです。もし神が、主の恵みにおいて、そのような欠点のある罪深い人々を用いることができるなら、今、救い主の罪のない生贄を証し、その主を信じている罪人を、主はどれだけ沢山、用いることができるでしょうか!主イエス・キリストよ、あなたが救うためにこられた人の間に、一人の罪人である私を加えてくださったことを感謝します。」(p1578、 Lutheran Study Bible(ESV), Concordia Publishing House, 2009)

 イエス・キリストの誕生。それは間の側の計画や思いによるのではありません。まさに神は人類が、そしてご自身が選んだ民でさえも皆罪人であることを知った上で、その罪人を救うために、その罪人のために、つまり私たちのために、そしてなんと、その罪人の間、罪人を用いて、救いと罪の赦しを実現される。神はそのことこそを遥昔からご計画とされた、そしてその通りに神が100%なさった、その証しなのです。

3、神がなさった約束の成就

A,人の側には恐れと戸惑い

 事実、今日の箇所18節以下は、そのことこそ現れています。まず、罪人である人間の側には何があるでしょうか?人間の側で何かそんな素晴らしいことをなせる何か要素、知恵や知識や、他の何らかの強さや力があるでしょうか?ヨセフにはまず恐れがありました。18節からこうあります。

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 ヨセフは神の律法に従って生きることを望んでいた人でした。ですから、まだ夫婦としての関係を持っていない状況で子を宿したマリヤとの婚約関係を解消しようとするのです。しかも「内密に」です。なぜなら、律法(申命記22章23−24節)は、婚約した女性が、姦淫の罪を犯したなら、石打ちにされなければならないと教えるくらい社会においては恥ずべき重大な罪であったからでした。ヨセフはマリヤのためにも、静かに人知れず、婚約を解消し、マリヤを静かにさらせることで解決しようとしたのでした。

B, 人の決心がなるのではない、神の約束を神がなさる

 しかしです。ヨセフのある意味、マリヤへの愛情とマリヤを守るための非常に心のこもった行動ではあるのですが、その彼の判断の通りに行われることは、逆に神の計画がならないことになり、ヨセフとマリヤの家族も存在しないことになります。神の計画の通りにならないでしょう。しかしです。そのようなヨセフの心配や恐れ、人間のそのような知恵を絞った、ある意味人間の愛ある解決が、神の計画にまさって、神の計画や約束を覆したり、邪魔したり、ならないようにしたりすることはできるでしょうか?人間理性中心の神学者たちは、人間の愛の力が神の計画や約束や言葉に勝るというかもしれません。しかし、人間の判断や決断が神の真実の約束に勝らない、神の約束を変更することは決してできないのです。まさに19節ではヨセフは「決めた」ともある固い決意にあるヨセフ、そのままでは、ヨセフとマリヤは夫婦にならず、イエスはナザレの大工の家の子としても育たなかったかもしれない、そんなヨセフの決心に、主は介入されるでしょう。20節

「 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 」

 御使いがヨセフの夢の中で現れて言います。「恐れてはいけない」と。そのように神はご自身のみ言葉によって、語りかけによって約束を必ず実現されるのです。そしてこの「恐れないで」と言う言葉。ルカの福音書でも、御使いは、マリヤに「恐れなくても良い」と語りかけています。このように神がみ言葉を与え、語りかける理由がこの言葉にはあります。それは何よりも人々の恐れを取り除くためです。世の中は罪の世ですから、人には恐れや不安が絶えません。もちろんみ言葉には確かに罪を刺し通し悔い改めに導く律法の言葉もあります。しかし律法は決して最後の言葉ではありません。神と神の言葉、何よりそのイエス・キリストの約束は、その罪の世に不安と恐れで生き、罪に刺し通され悔いる私たちに、さらに重荷を負わせ恐れさせ心配させるためではないのです。何よりもこのように「恐れなくて良い」とどこまでも平安を与えてくださるために神は私たちに語りかけるのです。

C, 御使いは律法で導かない

 そんな恐れるヨセフ、密かに婚約を解消しようとするするヨセフに、神は御使いを通して告げます。「その子は聖霊によるのだ」と。さらには具体的なことも約束しています。それは男の子だと。名前はイエスとつけなさい。皆さん、この箇所は伝えています。この「恐れないで」という言葉。あるいは聖書には命令で「恐れるな」と言う言葉も沢山あります。それは一見「命令」ですから、一歩間違うと律法と理解されます。つまり「恐るな」と神が言うのだから、それは私たちが自分の力で頑張って、恐れないようにしなければいけない。つまり「私たちが頑張って恐れないようにしよう」とか、まず私達人間の意志の力でその神に応えなければいけないかのように考えることはないでしょうか?それは「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5章16節)も同じです。それは命令だからと、律法と理解する人がいます。自分の力や意志の力で神のために、いつでも喜んでいなければいけないのだと。つまり律法なんだと。そのような教えは、救いや信仰、信仰生活は、神の恵みだけでは十分ではなく、数パーセントでも人間の意志の力の協力や努力が必要なんだ、決心と決意など意志の力が重要なんだと教えるような教会ではそう考えたり教えたりするかもしれません。しかしルーテル教会ではそれが聖書の教えであるとは教えません。なぜ「恐れるな」、または、「恐れなくて良い」と神様は私たちに言われるのでしょうか?それは、神様の、神様ご自身がこれから実現するという計画と約束がそこにあるがゆえなのです。ここでもそのことがわかります。「恐れなくていい」のは、それが人ではなく「聖霊による」ものであり、人ではなく「神が」聖霊によって、男の子をマリヤに産ませるのであり、名前も人が決めるのではなく、「神が」イエスと決めているからであり、そして何と幸いではありませんか。その子がなす救いの計画がはっきりと告げられているでしょう。「この子は自分の民を罪から救うからである」と。そう「恐るな」、あるいは、「恐れなくていい」のは、神が確かにその通りに必ず実現すると言う神ご自身の約束があるからこそ「恐れなくていい」なのです。恐れからの解放、平安、喜び、何であっても、神がそのように励ますのは、人間の側が自分の力や意志の力でそうしなければいけないという律法ではなく、イエス様の約束が100%真実であり、その通りに神ご自身が実現するから、心配しなくていい。恐れなくていい。喜んでいなさい。なのです。そのように「平安」というのは、私たちの努力や意志の力で頑張って得るものではなく、イエス様が、その約束によってもたらす平安だということなのです。イエス様自身がヨハネ14章で「わたしの与える平安」と言っているでしょう。ですから「恐れるな」も、「喜んでいなさい」も、そして何より「信じなさい」という信仰も、決して「人がなさなければならない」「律法」ではない。紛れもなくそれらは福音の言葉の力によって「神がなす」「福音」だということなのです。福音の確かな真実な約束があるからこそ、「恐るな」「心配しなくて良い」なのです。この平安や喜びは聖書は真実な言葉ではなく、信じられない理性には合わない説明できないから神話なんだ、と聖書の権威を信じない人や教会には、決して起こり得ません。それはまさにイエスが福音を通して与える信仰においてイエスだけが与えることができる真の平安の他なりません。聖書は真実であると信じればこそなのです。

D,御使いは確信を得させるためにどうするか?

 そしてこのところ使徒マタイは実にその真実なみ言葉の誠実な真の宣教師ではありませんか。ここで彼は、この福音書を読む人達に、現代のリベラルな神学者たちが、理性中心に人間の常識で理解できるような合理的な解釈で聖書を空想話で塗り固めて説明しようとはしません。あるいは、現代流行りの説教で、流行って好まれるからと人間の知恵の巧みな方法論や説得力で確信させるとか、流行りの魅力的で面白い例話に溢れさせて説明しようと安易な方法には走らないでしょう。マタイははっきりと私たちに証しします。22節

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 これは旧約聖書のイザヤ書7章14節の預言です。このように使徒マタイは、聖書を引用します。そしてその主が預言者を通して言われたことが実現するためであったと、まさに「聖書がこう言っている。聖書がこう約束してきた。聖書は指し示してきた。その聖書の約束がその通りに実現するのだ、主の約束は真実であるのだ」ということこそを指し示すでしょう。その言葉がその通り、その約束の通りに実現したのだとただイエスとその約束の言葉のみを指し示すのです。全ては神が約束した通り、聖書の通り、みことばの通りにその通りになったのだ。それが使徒的なクリスマスのメッセージなのです。

4 結び:神はご自分の民、私たちを罪から救うために

 私たちはどこまでも罪人です。生まれながらに神を信じない神に背を向けて生まれ育ち、自らでは聖書の言葉もイエス・キリストも見出すことも信じることもできないものです。自らでは、神の戒めの第一の戒め、心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くして神を愛することができない、そればかりではなく、隣人さえを愛することできない存在です。隣人を愛していると思っているようで実は、自分自身しか愛することができないことに気付かされる存在です。それは私自身が、聖書の律法に照らされる時に刺し通される自分自身の惨めな姿であり、救いようない罪人は私自身です。

 しかし皆さん。神の計画はそんな罪人を滅ぼし見捨てることでもありませんでした。神はアダムの堕落の時から女の子孫が悪魔を滅ぼすと約束しておられましたが、その約束の通り、堕落した罪深い女の子孫の罪人の系図の先に、ヨセフとマリヤがいます。神はその二人の罪人の間に、約束の通りに女の子孫を与えてくださいました。その神の最初の約束の通りにその神の言葉は実現しました。その通りに罪人の間に生まれ、その救い主は罪人の間に育ち、罪はありませんでしたが罪人と一緒に食事をし友となります。そして何よりその罪とその結果である、私たちの苦しみ、悲しみ、絶望、そして何より死を背負って、つまり、それは私たちが負わなければならない全てのものを代わりにその身に負って、私たちのために十字架にかけられ死なれるでしょう。その十字架のために、つまり私たち一人一人のためにこの御子は生まれるのです。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」とある通りに。その身代わりの十字架のゆえに、私たちの罪が赦されるため、そして罪赦され、義と認められ、私たちの義ではなくイエス様の義を受けて、そして、復活の新しいいのちによって、今日も私たちが新しくされ平安のうちにここから出ていくことができるためです。

 以前ある信徒が相談しました。自分が弱っている時にある教会の先輩から「あなたは信仰者なんだから、もっと一生懸命、心配しないで、熱心に信じないと天国に行けないよ」と言われた。と、だから自分は天国に行けないのかと不安になっている、そう言うのです。私はそれを聞いて切なくなりました。皆さん。そういう考えや励ましは間違いであり聖書の伝える福音を律法に混同し聖書の教えを歪めてしまっています。盲人が盲人の手引きをしてしまっています。皆さんは心配しないでください。皆さんは確実に天国に行けます。なぜなら、私たちの何かではありません。神の約束、神のみ言葉によって恵みとして信仰が与えられ、人の名前ではなくキリストの名で洗礼を授けられ、その私たちを新しく生まれさせたイエス・キリストの福音によって、今日も明日もいつまでも、日々悔い改める私たちに、イエス様が、その十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるからです。救いの確信は、私たちが律法を一所懸命、自分の力や理性で実現するから確信があるのではありませんし、それでは一生確信はありません。救いの確信は、イエス様の揺るぎない、朽ちることのない、真実のみことば、約束、福音のゆえです。今日もイエス様は悔い改めを持って主の前にいる一人一人に、このイエス・キリストの十字架とそのキリストの義のゆえに言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音をそのまま受け取り、救いの確信を持って、安心して、今日もここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

クリスマス祝会