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「私は教会に命を預けにきたのだ」
スオミ教会の前に赴任していたY教会での出来事。週日の夕刻に隔週でギリシャ語とヘブライ語のクラスを開いた。ギリシャ語は4~5人の参加者、ヘブライ語は1人。うちキリスト信仰者はY教会の方と他のルーテルH教会のSさんの二人。SさんはK大学のドイツ語の教授を務められた方で、引退を機にH教会で小教理問答の学びをされて晴れて受洗。ドイツ語とドイツ文化を専門とされていただけに、それでルターやルター派教会に対して関心を抱くようになってキリスト教会の門を叩くようになったのではないかと思われた。
ところが、ある日そのSさんが唐突に、私はルーテル教会をやめました、別の教派の教会に移籍しましたと。一体どうして?なんでも、H教会で講演会が催され、ある神学校の教授が講師を務められた。話の内容は、聖書の神と日本の神道の神々には共通点が沢山あるというような話で、いろんな逸話を身振り手振りで楽しく興味深く話して聞かせたと。会堂で一緒に聴いていた教会員たちも惹きつけられて、みな目を輝かせて面白い素晴らしいと絶賛。「吉村先生、私は教会に命を預けるつもりで来たんです。それなのに、もうこんな遊びの教会にはいられないと思いました。」講演の内容のどこが問題だったか詳しいことはもう記憶にないが、Sさんの「教会に命を預けにきた」という言葉が今でも頭に残っている。
教会に命を預けるとはどういうことか?人によっては、カルト宗教にはまって財産を失ったり、通常の生活が出来なくなるような印象を持ってしまうかもしれない。しかし、そういうことでは全くない。フィンランドのようなキリスト教が国の伝統になっているところでは(近年は変わってしまったが)、子供が生まれたら洗礼式、思春期の堅信礼、青年期の結婚式、子供が生まれたら洗礼式、その子の堅信礼や結婚式、そして自分自身の葬式という具合に、この世の人生の初めから終わりまでが教会の中にあり、教会が伴走してくれる、そして最後は主の復活の約束を本人にも肉親にも確認して送り出してくれる、本人はその約束を希望の源として送り出され、まだこの地に残る者はその希望を抱いて歩み続ける、こういうことが教会に命を預けることではないかと思っている(この「希望」をフィンランドでは復活の日の「再会の希望」jälleen näkemisen toivoと言います)。
もちろん、日本のように大人になってから洗礼を受ける人も同じです。イエス様もたとえの教えで(マタイ20章)、夜明けに仕事を始めた労働者も、9時や12時や15時や17時から始めた労働者も皆同じ賃金を支払われると教えていることはこのことです。教会に繋がっていたのが人生の全期間であっても、終わりの時であっても、神から見たら命を預けた点では同じなのです。
桜美林教会の土手
ヒメオウギスイセン(hime ougi suisen swan crocosmia , giant montbretia)
<11 見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、 12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。 雅歌2:11・12>
何時もの散歩コースである尾根緑道の最高点が桜美林教会です、教会の敷地内に標高141.3mの三角点もある稀な教会です、その教会の土手に季節の草花が咲いて道行く人々を楽しませてくれています。先日、猛暑の中万全の支度をして散歩に出かけました。お目当ての教会の土手にはヒメオウギスイセンが今を盛りとばかりに咲きそろっていました、懐かしい旧友にあった様で嬉しかったです。
主日礼拝説教 2025年7月13日(聖霊降臨後第四主日)スオミ教会
申命記30章9~14節
コロサイ1章1~14節
ルカ10章25~37節
説教題「永遠の命と隣人愛」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今日のイエス様のたとえの教え「善きサマリア人」は、聖書を読む人なら誰でも知っている教えの一つです。そこでイエス様は何を教えているでしょうか?まず、困っている人を助けてあげなければならないと教えているとわかります。盗賊に襲われて半殺しにあった人が道端に横たわっていました。そこをエルサレムの神殿の祭司と祭司に仕えるレビ人が通りかかりました。しかし、二人とも無視して行ってしまいました。神殿のエリートたちがそんなことをするのです。ところが、サマリア人という、当時ユダヤ民族が見下していた民族の人が走り寄って助けました。これを聞いた人はどう思ったでしょうか?見下していた人が正しいことをし、偉いと思っていた人がしなかった、あの民族はレベルが低い、立派な行動などとるはずはないと決めてかかるとしっぺ返しをくらうことになる。逆に自分の民族はレベルが高いのだと鼻を高くしていると遜らなければならなくなってしまうことになる。このようにイエス様の教えは、困っている人を助けることを教えると同時に異なる民族に対する偏見は愚かなことだと教えているように見えます。こういう教えは、ちょうど今、参院選挙の真っ最中の日本で各党の主張やSNSに溢れる声を聞く時に少し考えさせる材料になるかもしれません。
ところが、イエス様の教えはもっと深いことも教えているのです。もし、困っている人を助けることが大事とか、偏見は捨てよ、という教えだけだとしたら、そういうことは別にキリスト教徒でなくても、他の宗教の人でも、また宗教を持たない無神論的なヒューマニズムの人でもわかります。イエス様が教えるもっと深いこととは何でしょうか?イエス様の教えの発端は、律法の専門家が、何をすれば永遠の命を得られるか?と聞いたことがありました。イエス様のたとえはこの問いに対する答えなのです。なので、このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いを忘れては理解出来ないのです。(2世紀から3世紀にかけて活躍した有名な神学者にオリゲネスという人がいます。彼はこのたとえについて有名な解釈を残しています。教会の説教でも牧師がよく取り上げたりします。詳しいことはここでは割愛しますが、オリゲネスの解釈は私から見たらイエス様が本当に言おうとしたことを飛躍して拡大解釈しているにしか見えません。もし、永遠の命に関する答えを明らかにしていれば解釈は妥当であると申しましょう。)
2.永遠の命
このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いに対する答えとしてこのたとえがあることを忘れてはなりません。当時のユダヤ教社会では、どうしたら永遠の命を持てるかということが関心事になっていました。ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章に金持ちの青年がイエス様のもとに走って来て、何をすれば永遠の命を持てるでしょうか?と尋ねたことからも明らかです。また、イエス様が活動を始める前に洗礼者ヨハネが現われて、悔い改めよ、神の国は近づいた、と宣べ伝えると、大勢の人たちが洗礼を受けるためにヨハネのもとに集まってきました。これも永遠の命を得るためでした。当時、聖書に基づいて次のような考えが持たれていました。この世は神が創造して始まったが、始まりがあったように終わりもある、今ある天と地は新しい天と地に造り変えられる、その日は神の怒りの日であり裁きの日である、神に義と認められた者は怒りと裁きをクリアーできて新しい天と地のもとで永遠の命を持つことができるという考えです。人々はヨハネの洗礼でクリアーできるようになると思ったのです。ところがヨハネは自分の後に偉大な方が来られると言って、人々の心をイエス様に向けさせたのです。
金持ちの青年の質問に対してイエス様はどう答えたでしょうか?まず、十戒の掟を守りなさいと言います。それに対して青年はそんなものは子供の時から守っている、まだ何が足りないのかと聞きます。イエス様は答えます。お前には足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に施せ、そして私について来なさい、と。金持ちの青年はそれが出来ず悲しみにくれて立ち去って行きました。
今日の教えも同じです。律法の専門家は、何をすれば永遠の命を得られるのかと聞きました。それに対してイエス様は律法に何が書いてあるか、それをお前はどう理解しているかと聞きます。男の人は律法の専門家だけあって、十戒の教えを旧約聖書に基づいて二つの項目にまとめました。一つは、神を心を尽くし魂を尽くし力を尽くし理解力を尽くして愛せよ。これは申命記6章5節にあります。もう一つは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ。これはレビ記19章18節にあります。イエス様は専門家の答えを良しとし、その通りにすれば永遠の命を得られると言いました。ところが、専門家は自分が神の目に相応しい者であることを認めてもらおうとさらに聞きました(後注)。私の隣人とは誰のことか?と。なぜ、この質問が神の目に相応しい者であることを認めてもらうための質問だったのでしょうか?
それは、レビ記19章を少し広く見るとわかります。そこでは隣人とは、ユダヤ民族に属する者であることが言われているのです。大体9節くらいから、ユダヤ民族に属する貧しい人たちを助けてあげろとか、盗んではいけないとか、嘘をついてはいけないとか、裁判は公平に行えとか、同じ民族に属する者を中傷してはいけないとか、そして18節で同じ民族に属する者に復讐してはいけない、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、が来ます。隣人とはユダヤ民族に属する者なのです。ただし33節を見ると、興味深いことにユダヤ民族の中に一緒に住む異民族の人たちにはユダヤ民族と同じように愛せよとあります。つまり、ユダヤ民族には属さない者にも隣人愛を行いなさいということです。これは、実際はどうだったでしょうか?イエス様の時代、ガリラヤ地方とユダヤ地方に挟まれたサマリア地方がありました。サマリア人は純粋なユダヤ民族ではないと見下されて隣人愛の相手とは見なされなかったのです。ユダヤ人にとって隣人とはやはり同胞が中心に考えられていたのです。
律法の専門家は隣人=ユダヤ民族という一般的な理解を念頭において、イエス様に隣人とは誰かと聞いたのです。もし、イエス様がそれはユダヤ民族に属する者であると答えたら、しめたもの、専門家はきっと、はい、ちゃんとその通りにしています、と答えたでしょう。これが自分は神に相応しいと認めてもらうことでした。ところが、イエス様はたとえの中でレビ記19章の異民族に対する隣人愛をどんでん返しするように出したのです。ユダヤ民族の神殿エリートが傷ついた同胞を助けませんでした。このエリコに向かう途中で襲われた男の人は神殿のあるエルサレムから出発したので間違いなくユダヤ人です。傷ついたユダヤ人を助けたのは、ユダヤ民族が見下していた異民族のサマリア人だったのです。本当はユダヤ民族の方が異民族に隣人愛を行わなければならなかったのに、それが出来ずにいたところ、異民族の方がユダヤ人に隣人愛を行ったのです。ユダヤ人に隣人愛を行ったサマリア人がユダヤ人の隣人である、お前はこのサマリア人のようにしなければいけない、というのです。そうしなければ永遠の命は得られないというのです。律法の専門家は立ち往生してしまったでしょう。金持ちの青年が悲しみながら立ち去って行ったのと同じことが起こったのです。
イエス様は一般的に愛に満ちた優しいお方、何でも言うこと願いごとを聞いてくれる神さまみたいな方(実際、神さまですが)という見方がされます。イエス様は本当は厳しい方なのです。思い出してみて下さい、十戒の第5の掟「汝、殺すなかれ」について、イエス様は人を殺していなくても心の中で罵ったり憎んだりしたら同罪であると教えました。第6の掟「汝、姦淫するなかれ」も、たとえ不倫をしていなくても淫らな目で異性を見たら同罪であると教えました。「貪るな」という第9と第10の掟も、実際に他人のものを盗んだり台無しにしなくても、心の中で自分のものにしたいとか台無しにしてやりたいと思ったら罪なのです。こういうふうに十戒の掟というのは、行いや言葉で悪をしなければ十分というものではなく、心の中もそうでなければならないというのが十戒を与えた神の意思なのです。イエス様は神のひとり子の立場にたって父の意思をそのように伝えたのです。
さて、大変なことになりました。心の中まで問われたら神のみ前で潔癖な者などいなくなります。神の怒りと審判の日が来たら何も申し開きができません。神は全てお見通しです。イエス様、あんまりです、厳しすぎます、と言いたくなります。しかし、まさにここでイエス様が本当に愛のある方であることが明らかになるのです。イエス様は、神の怒りと審判の日に人間が絶体絶命にならないために、人間が受けてしまう罪の罰を全て自分で引き受けて下さったのです。それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は私たちの身代わりとなって神罰を受けて死なれたのでした。イエス様の厳しさと優しさは表裏一体なのです。厳しさがあるから優しさは自己犠牲の愛になるのです。ところで、事はイエス様の死で終わりませんでした。神の想像を絶する力で三日後に死から復活され、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、復活と永遠の命が待っている地点への道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは、私たちがこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いが自分のものになり、その人は罪を償ってもらったから罪を赦された者として神から見なされるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきが回復して復活と永遠の命に向かう道を進んで行くことになります。
しかしながら、永遠の命への道を歩むようになったとは言っても、自分の内には神の意思に反する罪があることにいつも気づかされてしまいます。そこで自分を偽らず、罪があることを認めて、イエス様を救い主と信じます、私の罪を赦して下さい、と神に祈り願えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦すから、これからは気をつけなさい、と言って下さるのです。神が罪を赦すというのは、不問にするから新しくやり直しなさい、と言ってもらうことです。過ぎ去ったことを執念深く突っつきまわすことはしないということです。そういうわけで、キリスト信仰者の人生は罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。しかし、イエス様の厳しさと優しさが表裏一体で優しさが厳しさを上回っていたのと同じように、罪の自覚と赦しも表裏一体で赦しが自覚を上回っているのです。それで繰り返しの人生が可能なのです。そして、繰り返しの人生は罪から完全に解放される復活の日に終了します。
このように永遠の命というのは、人間の力ではどうにもならないものなのです。神のひとり子の十字架と復活の業に全てお任せしないとだめなのです。それなのに、金持ちの青年や律法の専門家のように、人間が頑張って何かをすれば得られると考えてしまったら、イエス様が十字架にかけられて復活する必要はなくなってしまうのです。イエス様がこの世に贈られる必要もなくなってしまうのです。イエス様自体が必要ではなくなってしまうのです。
金持ちの青年は失意のうちに立ち去り、律法の専門家はおそらくふてくされた立ち去ったでしょう。それは、その時点ではやむを得なかったと思います。なぜなら、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起こっていなかったからです。出来事の後、それを聞き知った二人は、永遠の命を得る決め手は自分たちにはない、神があのひとり子を用いて成し遂げて下さったことが全てだと信じるようになったことを願うばかりです。それは決して不可能ではありません。ファリサイ派のパウロだってイエス様を信じて受け入れたのですから。
3.隣人
少し隣人についてみてみます。隣人と訳されるヘブライ語のレーアはもともとは仲間という意味でした。それなので先ほどのレビ記19章の中で使われると、どうしてもユダヤ民族を中心に考えがちになります。イエス様は、たとえをもって「隣人」のユダヤ民族中心の見方「同胞の隣人」を壊して「誰でも隣人」にしたのです。傷ついたユダヤ人の隣人になったのはサマリア人でした。二人の神殿エリートは同胞の隣人にはなれなくなってしまったのです。
永遠の命は神の力によらなければ得られない、なのに人間の力で得られると勘違いする人たちがいたのでイエス様はそれが不可能であることを骨身に染みるように教えました。つまり、本当は出来ないのに出来るとする律法主義の矛盾を暴露したのです。イエス様のたとえでは律法主義の矛盾がもう一つ出てきます。律法主義が隣人をユダヤ民族に留めてしまっているという矛盾です。イエス様はたとえの中に、ファリサイ派ではなく、祭司とレビ人という神殿エリートを登場させました。レビ記21章を見ると、祭司はよほど近い親族でない限り遺体に触れてはならないという規定があります。二人の神殿エリートは道端に横たわっている同胞を見た時、この規定のゆえに、もし死んでいたら近寄ったら汚れてしまうと思ってそそくさと通り過ぎたのです。一方で、祭司は死体に触れてはいけないという掟がある。他方で、隣人を自分を愛するが如く愛せよという掟がある。さあ、どうしたらよいか?隣人愛は、神の意思を二つの大黒柱にまとめたものの一つです。もう一つの柱は神を全身全霊で愛せよでした。祭司は死体に触れるなという掟はこの大黒柱を前にしたら脇に退かなければならないのです。神殿エリートは何が主で何が従であるか本末転倒してしまったのです。まさに律法主義の矛盾です。
このことは、安息日に病人を癒すのは罪でもなんでもないということと同じでした。イエス様は安息日にユダヤ教の宗教エリートたちの目の前でこれ見よがしに病人を癒してあげました。それは神が与えた安息日の掟を否定したのではありません。病気を治すとか命を守るとか緊急のことがない場合は安息日は守らなければならないことに変更はないからです。
イエス様は今日のたとえの中に、祭司の汚れ規定が及ばない普通のユダヤ人を登場させませんでした。あえて異民族、しかもユダヤ人が軽蔑しているサマリア人を登場させました。そこに注目します。もし普通のユダヤ人に傷ついた同胞の世話をさせたら、隣人はユダヤ人のままです。しかし、サマリア人を登場させ、彼が傷ついたユダヤ人の隣人になりました。隣人の意味がまさにユダヤ民族中心から解放された瞬間です。隣人から民族の壁を取り払って「誰でも隣人」にしたのは、イエス・キリストの福音の趣旨と一致します。人間の力のおかげではなく、イエス様の十字架と復活の業のおかげとそれをその通りと信じる信仰のおかげで罪の償いと永遠の命が得られるというのがイエス・キリストの福音です。この福音は世界の全ての民族に向けられたものです。神はこの福音をどうぞ受け取って下さいと言って、全ての人間に提供して下さっているのです。
4.勧めと励まし
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、人を助けるというのは、キリスト信仰の場合、永遠の命と隣人愛の二つが土台にあることを忘れてはいけません。それが他の宗教やヒューマニズムの人助けと違う点です。キリスト信仰者にとって隣人愛とは、信仰者同士の場合、約束された永遠の命への道を歩めるように支え合うことです。まだ道の歩みに入っていない人たちに対しては、道に入れるように導き働きかけることが隣人愛です。人を助けることにはいろいろな形態があるのに、なぜ、永遠の命に至る道をしっかり歩めるようにすること、また、その道に入れるようにすることが助けになるのか?永遠の命を約束されたというのは、今の天と地が新しい天と地に取って代わる大変動の時、神の怒りと裁きをクリアーできるという確信を得られることです。それはとても大きな安心感を与えてくれます。この大きな安心感があれば、この世で困難や苦難に遭遇しても不安や心配に押しつぶされることはありません。なぜなら、大変動の時にある苦難や困難は今のこの世の苦難や困難よりも遥かに大きなもので、その時に大丈夫ならば今の時はもっと大丈夫だからです。このような不安や心配に押しつぶされないですむ安心感を得られるようにしてあげるのも立派な助けです。助けの中の助けです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)日本語訳では「自分を正当化しようとして」ですが、ギリシャ語のディカイオオ―は「自分を義とする」、つまり、「自分を神の目に相応しい者にする」ということです。律法主義の考えの人なので「律法を守っていることで自分を神の目に相応しい者にする」ということです。
ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」7月1日の日課から
これぞ、聖書の神は人間が作りだしたものではないということの証し!
「町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか」アモス書3章6節
「預言者アモスはなぜ災いは神から来るなどと言うのだろうか?ここで注意しなければならないのは、神が自分から災いを引き起こすのではなく、他のものを通してそれが起こるのを何らかの理由で許すというのが正解であるということである。聖書は、人を永遠の滅びに追いやるのは悪魔であり、人に罪の自覚を生み出して絶望させるのは律法であると教える。しかしながら、聖書はこれらのことは神も行うと言っている。これは一体どういうことか?
その意図は、我々が神と人間の関係について定めた十戒の掟を心に留めて、唯一の神こそ神であると告白して信じるためであり、いろんな神を作らないようにするためなのである。マニ教の始祖を見よ。彼は二つの神を作った。一つの神からは善いことが起こり、もう一つの神からは災いことが起こるという二つの神を。それで、その宗教を信じる者たちに善いことが起これば、彼らはそれをもたらした神を賛美して拝み、逆に災いが降りかかれば、それをもたらした神の方を向いてそれをなだめようと拝む。しかし、聖書の神である主が我々に求めているのは、我々に善いことがあろうが災いがあろうが関係なく、我々がより頼むのはいつも主なる神のみであるということだ。
しかしながら、我々は予期しなかった時に不運に遭遇すると、神は機嫌を損ねているに違いないと恐れて神から離れてしまう。これが、我々の自然の本質である。「我々に怒っている神」などという全く異質の神を編み出すことほど、正しい信仰に反することはない。「神は恐るべき方ではなく、憐れみ深い父、あらゆる慰めと励ましを与えて下さる方、その方が唯一の神として存在する」と信じるのが正しい信仰だ。これを信じない者は、唯一の神を信じることをやめて、自分の都合と状況にマッチする神を作り出すことになる。善いことをしてくれる優しい神、災いを起こす怒りの神と言う具合に。」(以上ルターの説き明かし)
神が唯一絶対になると、「神さま、何故なのですか?」という問いをその神にぶつけ、答えが与えらるまで格闘することになります。時として神の答えはヨブの時のようにあまりにも超越したもので神の大きさと自分の小ささを思い知るようなこともあります。しかし、神と誠実に格闘すればヤコブのように勝つことができます。
合歓の花(Nemu no hana Silk tree)
裏の木立に何時の頃から一本の合歓の木が生えてきました。もう5・6mもの丈になり今年は待望の花も咲かせてくれています。皆さんは合歓の種をご覧になった事があるでしょうか。秋深くなる頃家内と合歓の種の採取に近所の公園を歩き回りました。合歓の種はマメ科なのか分不相応な大き目の鞘に納まり肝心の種は2・3mm程の平たく軽い極めて小粒の種で鞘にはせいぜい5・6粒しか入っていません。目指す合歓の木に行き、いざ種をと見上げますが既に鞘は弾けていて種はどうしても採取出来ませんでした。恐らく鳥も食べないと思いますの総て風に運ばれるかと思います。そのごく小さな種が風に運ばれて来て裏の木立の中に落ちて根付き、それが立派な合歓の木に成長した。私と家内があれほど何年もかかって探していた合歓の種が、知らないうちに裏の木立に運ばれていたのです。思わず聖書に出てくる「種」の例え話を思い出しました、この合歓の木は神からの啓示かも知れないと思っています。
主日礼拝説教 2025年7月6日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会
イザヤ66章10~14節
ガラテア6章1~16節
ルカ10章1~11、16~20節
説教題「『神の国』と『命の書』
今日の福音書の個所は、イエス様が72人の弟子たちを町々に送ったという出来事です。イエス様は以前に12人の弟子たちを各地に派遣したことがあります。いずれの場合も弟子たちの役目は大体同じでした。神の国が近づいたことを宣べ伝えること、イエス様から委ねられた力で病気の癒しや悪霊の追い出しを行うことです。派遣に際していろいろな指示が与えられました。財布も着替えも持っていくなとか。一見無茶な指示ですが、これは、行く先々で弟子たちを受け入れて世話をしてくれるところが必ずある、だから心配はいらないということです。もっと掘り下げて言えば、神がそのような人たちを用意される、それを信頼しなさいという、神への信頼が弟子たちにあるかどうかが試されているのです。
もう一つわかりにくいことがあります。それは、道中誰にも挨拶をするなという指示です。イエス様はどうしてそんな冷たい指示を与えたのでしょうか?難しいところですが、私は次のように考えてみました。当時、ユダヤ人の間で挨拶する時の決まり文句は「平和があなたにあるように」でした。平和はヘブライ語でシャーローム、当時イスラエルの地域でユダヤ人たちが話していた言葉であるアラム語ではシェラームです。これがあなたにあるように、という挨拶の仕方でした。シャーロームは普通「平和」と訳されますが、言葉の意味はもっと広くて、繁栄とか健康とか成功の意味も含みました。つまり、あなたに繁栄/健康/成功がありますように、という挨拶の仕方でした。それをイエス様は道端でしてはいけないと。ただし、弟子たちが誰かの家に入った時は「この家に平和がありますように」と言いなさいと指示しました。つまり、道端で禁じた挨拶をしなさいということです。その家に「平和の子」がいれば、弟子たちの願った平和はその人に留まり、いなければ平和は弟子たちに戻ってきてしまうと。弟子たちの願った平和が留まる人と留まらない人がいると。平和が留まる人は「平和の子」であると。
ここで、イエス様が大事に考えていた「平和」とは、神と人間の間の平和だったことを思い出しましょう。人間には神の意思に反する性向、罪がある、そのために神と平和な関係を持てなくなってしまっている。それを正すためにイエス様はこの世に贈られたのでした。それで「平和の子」とは、自分には神の意思に反する罪があると自覚して神との平和な関係を希求する人だったと言えるでしょう。しかしながら、みんながみんなそうではありませんでした。自分と神との関係は大丈夫、だって、ちゃんと律法の掟を守って神殿にきちんと捧げものをしている、と言う人はイエス様の平和の挨拶が心に届かなかったのです。弟子たちを拒否する人は彼らを送ったイエス様を拒否し、イエス様を拒否する人は彼を送った神を拒否してしまったのです。イエス様は、弟子たちを送ることは狼の群れの中に羊を送り込むようなことだと言っているので、受け入れないところでは命の危険があったのかもしれません。イエス様やその弟子たちを受け入れるところと入れないところがあるというのは、イエス様の時代に限らず時代や国を問わずいつもあるのです。自分には自分を造った創造主の神がいるとわかり、その神との関係はどうなっているか自問し、今のままではいけないと考えるようになった人は「平和の子」なのです。
72人の弟子の派遣は、イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して南下の旅を続けていた時に行われました。エルサレムはイエス様の受難と十字架の死、そして死からの復活の出来事が待っているところです。イエス様が72人を派遣したのは、彼がこれから通ることになる町や村への先遣隊のようなものでした。この72人と12人を合わせてイエス様には少なくとも84人弟子がいたことになります。72人を選んだということは選ばれなかった人もいたことになるので、弟子はもっと多かったでしょう。なので、イエス様一行を受け入れて世話をする人たちをあちこちで準備しなければなりません。72人は2人一組で派遣されたので36カ所に派遣されたことになります。それぞれの場所で何が起きたか詳しいことはわかりませんが、戻って来た弟子たちが皆、悪霊は出て行きましたと喜んで報告しているので派遣は概ね成功だったようです。ルカ19章にエリコの町で徴税人のザアカイの家に泊まった出来事があります。イエス様の一行が町に入った時、大勢の人たちが待ってましたとばかり街道に押しかけました。エリコは先遣隊を受け入れた町の一つだったのでしょう。
前置きが長くなりましたが、本日の説教では次の2つのことに焦点をあてて福音を宣べ伝えたく思います。一つは、弟子たちの役目の一つに、神の国が近づいたと人々に告げ知らせることがありました。弟子たちを受け入れる人たちにも受け入れない人たちにも知らせるのです。神の国の近づきとは一体何か?これが第一点目。二点目は、たとえイエス様から悪霊を追い出す力や、あらゆる危険を足蹴にできる力を頂いたとしても、そんなことで喜んではいけない、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさいと言ったこと。名前が天に書き記されていることが何にも優る喜びであるということは一体どういうことか?この二つに焦点をあてて見ていきます。
2.「神の国は近づいた」
イエス様は、活動を開始した時から「神の国は近づいた」と人々に告げ知らせて「神の国」について沢山教えました。そんな国が近づいたとはどういうことでしょうか?そもそも「神の国」とはどういう国なのでしょうか?
神の国とは、まず、天地創造の神、私たちの周りの森羅万象を造られた創造主がおられるところです。神はこの世を造られた後、引きこもってしまって、あとは勝手にどうぞ、とは言いませんでした。そうではなく、この世に対していろいろ働きかけをしてきました。どんな働きかけがあったかは、聖書を見ればわかります。全ての人間に対してご自分の意思を示す律法を、ご自分が選んだ民に委ねたこと、そのイスラエルの民の歴史を通してご自分の考えやご自分がどのような方であるかを知らしめたことがあります。神はご自分の意思に反することを罪と言い、それを焼き尽くさないではいられない神聖な方であるが、同時に罪を持つ人間が悔い改めて神のもとに立ち返れば罪を不問にして新しく生きられるようにして下さる憐れみ深い方でもある、そういうお方であることを知らしめました。そして、神の働きかけの中で最大のものは何と言っても、ひとり子を私たち人間の救いのために贈ったということです。
聖書は、「神の国」は将来、私たちの目の前に現れて、私たちはそれを自分の国として受け継ぐことが出来ると知らせます。「神の国」が現れる日とは、今のこの世が終わり、今ある天と地が新しい天と地に造り変えられる時です。このように聖書は終末論と創造論がセットになっています。ヘブライ12章では、今のこの世のものは全て揺り動かされて除去されてしまうが、揺り動かされない唯一の国が現われる、それが「神の国」であると。黙示録21章では、新しく創造された天と地のもとで神の国が現われ、そこは苦しみも嘆きも死もない、全ての涙が拭われる国であると言われます。全ての涙というのは、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世でないがしろにされてしまった正義が最終的に完全に実現し、全ての不正に対して借りを全部返す大清算が行われるのです。
ところで、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、本当に近づいたのでしょうか?まだ、この世が終わるような天と地の大変動は起きなかったではありませんか?実はこれは、イエス様が行った無数の奇跡の業を通して神の国の近づきが明らかになったということです。難病の癒し、自然の猛威を静めたこと、何千人の人たちの空腹を超自然的な仕方で満たしてあげたこと、一度息を引き取った人たちを蘇らせたこと、これらはどれを取っても嘆きも苦しみも死もない「神の国」の有り様でした。つまり、「神の国」はイエス様と一緒に抱きあわせの形で来ていたのでした。
しかしながら、人々は難病が癒されても、自然の猛威から助けられても、空腹を満たされても、生き返らせてもらっても、それでまだ「神の国」に入れたわけではありませんでした。人間はそのままの状態では「神の国」に入れない障害がありました。それは、神の意思に背く性向、罪を人間は持っているということでした。人を傷つけてはいけない、他人のものを妬んだり横取りしてはいけない、真実を曲げてはいけない、不倫をしてはいけない等々の神の意思に反することを行いや言葉で出してしまったり、考えで持ってしまいます。反対に、しなければならない正しいこと良いことをしなかったり、言葉に出さなかったり、考えなかったりするのも神のみ前では立派な罪になります。罪のために人間は神との結びつきがない状態に置かれ、この世を生きる時もこの世を去る時も結びつきがない状態になってしまいます。神はこの状態を直して、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世を去った後も復活の日に眠りから目覚めさせて「神の国」に迎え入れられるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に贈られたのでした。
神は、本当なら私たちが受けなければならない罪の罰をひとり子に全部受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。もし私たちが神罰を受けてしまったら、私たちは永遠の滅びに陥り「神の国」に迎え入れられなくなるのです。イエス様は私たち人間の罪を命をもって償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。それで、私たち人間は、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。罪が償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。そして、復活の日に現れる「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩む人生が始まります。
キリスト信仰者はこの世ではまだ「神の国」に迎え入れられてはいませんが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそれを受け継ぐ者になっているのです。さらに、聖書の御言葉と聖餐式があるので「神の国」に至る道を踏み外さずに歩むことができるのです。聖書の御言葉は生ける神のみ言葉です。なので、信仰の目を持って読み、信仰の耳を持って聞けば、聖霊が働いて父なるみ神とみ子イエス様を身近な存在にして下さいます。聖餐式では私たちの口を通してイエス様を体の内に取り込みます。だから、人生の状況がいかなるものであっても、御言葉と聖餐に繋がっている限りは、道は確か道で、歩みも確かな歩みです。何も心配はありません。
3.命の書
天のみ神のもとに何か書物があって、そこに名前が記されていることが大きな祝福である、しかし、名前が記されていなかったり削除されるのは悲劇であるという、そういう書物が存在することは旧約聖書の出エジプト記32章32節、詩篇69篇29節、イザヤ書4章3節、ダニエル書12章1節で言われてます。新約聖書もその伝統を受け継いでいて、本日の福音書の日課でも明らかなようにイエス様自身がそのような書物があると言っているのです。新約聖書の中では他にフィリピ4章3節、ヘブライ12章23節、黙示録3章5節で言われています。これらの中で、ダニエル12章1節とヘブライ12章23節と黙示録3章5節を見ると、この「命の書」と呼ばれる書物に名前がある者は復活の日に「神の国」に迎え入れられる者を意味していることがわかります。
さらに黙示録20章を見ると、「命の書」の他に全ての人間の全ての行いが記された書物があることも言われています。最後の審判の時に神の国に迎え入れられるか、それとも滅びに陥るかの判決はその書物に記されたことに基づいて下されるとあります。今ある天と地のもとに存在した人間全て一人一人の全ての事柄について記録など膨大過ぎてあり得ないと思われるかもしれません。しかし、神は人間を一人一人造られ、母親の胎内にいる時からみんな知っていたという位の創造主です。イエス様も言われたように、髪の毛の数も一本残らず数え上げるくらい私たちのことを知り尽くしてい方です。そうなると私たちは神に対して何も隠し事はできなくなります。審判の日に神の意思に反してしまったことを一つ一つ指摘されてしまったら、取り繕うことも申し開きも一切できません。絶体絶命です。それにしても神に対して申し開きしなくて済むような完璧で潔癖な人間なんて存在するのでしょうか?
実に神は、私たちが申し開きしなくてすむようにひとり子のイエス様を贈って下さったのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで罪を赦された者として生きることが始まりました。ところが、神の意思に反することが自分の内にあることにいつも気づかされてしまいます。その時は、聖霊がいつも私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、大丈夫、あの方のおかげであなたは罰を免れている、あなたの生きることはあの方の尊い犠牲の上に成り立っているのだと思い出させて下さいます。その時、私たちは畏れ多い気持ちと感謝に満たされて、これからは軽々しく立ち振る舞わないようにしようと襟を正します。審判の日に神は、このように罪の赦しの恵みに留まって生きたことがキリスト信仰者の真実であると認めて下さるのです。確かに神の意思に反するものを持ってしまったことがある、しかし、その度に罪を罪として認めて赦しを願い祈り、赦しがあることを確認してもらった。これこそ罪に与しない、罪に敵対する生き方であった。こっちの方が罪を持ってしまったことよりもキリスト信仰者の真実なのです。神はこれを認めて下さるので、キリスト信仰者は申し開きする必要はないのです。ここからもわかるように罪の赦しの恵みというのは人間にとって生命線なのです。
勧めと励まし
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神のもとには「神の国」に迎え入れられる者の名前が記された「命の書」と、全ての人間の全てについて記された書物があります。罪の赦しの恵みに留まって生きる者は審判の日に神に申し開きする必要がありません。罪の赦しの恵みには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって入れます。罪の赦しの恵みに留まって生きられるために、聖書の御言葉と聖餐式が与えられているのです。これらをよく用いない手はありません。
神の国が現われる日、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わられる、想像を絶する天変地異の時であり、神の審判が行われる時です。神の恵みに留まって生きたキリスト信仰者は想像を絶する苦難や困難を全てクリアーできるのです。それなのでキリスト信仰者が持っている安心感と言ったら相当なものです。そんな安心感を持てれば、この世で苦難や困難に遭遇しても、本当は平気なはずです。なぜならこの世の終わりの苦難や困難に比べたらこの世の苦難や困難は小さいものだからです。それでキリスト信仰者というのは、本当は大胆不敵で肝が据わっている種族なのです。
6月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨に入ってもずっと蒸し暑い晴の天候が続いていましたが、この日の朝は久しぶりに朝が降りました。
今回の作品は前回に続いてかぎ針編みでスマホケースでしたが、ラリエットやコースターも作りました。バンド織りを希望する方はそれも出来ました。初めにモデルを見て自分の作りたい作品を選びます。お家で素敵なスマホケースを完成された方が作品を見せてくれました。みんな感心して同じように出来たらいいなと思いました。皆さんの編み物はおしゃべりをしながらどんどん進みます。バンド織りの方も一生懸命織って、Nauhaはあっという間に長くなりました。
かぎ針編みやバンド織りに夢中になると目が疲れます。そこで一休みして他の方々が作られる作品を見てみました。「可愛い!」「きれいな色合いね」、「模様が素敵!」などなどいろいろな声が聞こえてきます。かぎ針編みやバンド織りはおしゃべりをしながら楽しく続けていくうちにどんどん出来てきます。秋はどんなものを作りましょうかというお話にもなりました。皆さんの心はもう秋の手芸クラブの作品に移っています。
今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランド的なドーナツを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、キリスト教系の老人ホームで行われている「心の時間」や「天の神さまはいつも私たちの側にいて下さる」というお話がありました。
夏の間は手芸クラブはお休みになります。再開は9月24日の予定です。開催日が近づきましたらホームページに案内を載せます。どうぞ是非ご覧ください。天の神さまが皆さんの夏の生活をお守り下さいますように。
私の家の近くにキリスト教系の老人ホームがあります。そこで毎月「心の時間」という小礼拝が行われています。博明はそこで年に数回聖書のお話を担当しています。私もいつも一緒に参加します。入居者さんたちが一階のロビーに集まって礼拝の時を一緒に持ちます。小礼拝が終わってから入居者さんの方々と少しお話をすることが出来ます。一人の方は毎回参加されて紙で作った色とりどりのきれいな花を牧師に渡してくださいます。私も何度もその花を頂いただきました。花を作るには指先の器用さが必要なので、リハビリとしてもとても良い活動だと思います。
先日行われた「心の時間」に参加した時もこのお祖母さんは礼拝にいらっしゃって花を下さいました。そしてご自分のことを少し話してくださいました。「私は以前山形県に住んでそこでお茶の先生をしていました。山形県では有名なお茶の先生だったので、どこに行っても皆が私のことを知っていました。でも東京に引っ越してきたら誰も私のことを知りません。ここでは一人ぼっちの普通の人です。」とおっしゃいました。お祖母さんの話し声に少し孤独感を感じました。
特に「誰も私のことを知らない」という言葉は私の心に深く残りました。私にも似たような経験があります。学生時代に勉強のために実家から400キロくらい離れた町に引っ越したことを今でもよく覚えています。そこには親戚や友達は誰もいなかったので、とても寂しい思いをしました。皆さんもこのような経験をされたことがありますか。引っ越した時の寂しさや孤独感は自然なことだと思います。
ところで孤独感というのは周りに親戚や人達がいても感じることがあります。例えば、その人たちと関係があまり良くないとそうなります。このような孤独感についてメディアなどを通して耳にすることもあると思います。孤独感に陥らならないように私たちの生活の中で人間関係を築くことはとても大切だと思います。良い友達関係は生きる力にも繋がります。
私は孤独感を感じた時に天の神さまのことをいつも思い出しました。友達は近くにいなくても、神さまは私と共にその場におられると信じています。それを知っているだけで大きな力になります。その経験を通して天の神さまの関係を築き、それを保つことの大切さが分かりました。
神さまとはどのようにして関係を築くことが出来るでしょうか。それは聖書を読んだり、聖書のお話を聞いたり、神さまにお祈りすることを通してです。そうすることで神さまは本当に私たち
のことを全てよくご存じで、いつも私たちと共にいて下さることが分かって信じることができるようになるのです。使徒パウロも次のように教えています。「実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒言行録17章27節
神さまは遠くに離れた存在ではなく、いつも私たちのそばにいて下さいます。私たちは決して完璧な人間ではなく、ときには神さまのみ心の反することもするでしょう。しかし、それでも神さまは私たしたちを見捨てることなく、私たちが神さまの元に立ち返るならば神さまは赦しを与えてくださり私たち一人一人と共にいて下さいます。なぜなら、神さまは私たちや世界の全ての人々を愛しておられるからです。その愛のゆえに、神さまはいつも私たちをご自分の元に招いておられます。
天の神さまの御前では私たち一人一人は等しく大切な存在です。社会的な地位や名声に関係なく全ての人は神さまの御前で平等なのです。それで天の神さまの救いのご計画は全ての人々に向けられています。新約聖書の「テトスへの手紙」には次のように書かれています。「実に、全ての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」テストへの手紙2章11節。
私たちは少し寂しい時があっても天の神さまがそばにいて下さることをいつも覚えて行きましょう。
6月21日に開催された「チャーチカフェ&コンサート
の牧師のチャーチカフェ・スピーチの抜粋
本日は北欧の国々では夏至祭の休日です。スウェーデンではミドソンマルと言い、これは英語のミッドサマーと同じです。ところがフィンランドでは「ヨハンヌス」の日という言い方が公式になってます。これは新約聖書に登場する洗礼者ヨハネを意味します。ルカ福音書1章によれば、ヨハネはイエス様よりも半年前に誕生したので、イエス様の誕生を12月とするとヨハネは6月になり、夏至祭の日が彼を覚える日に定められたのです。
洗礼者ヨハネはいかなる人物だったでしょうか?彼は、人々に罪の悔い改めを勧めて洗礼を授けました。旧約聖書を受け継ぐ人たちは、この世は始まりがあったように終わりもある、それは神の怒りの日で神は逆らう者を滅ぼすと信じていました。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、その日がいよいよ来ると思ったのです。それで大勢の人たちが洗礼を受けにヨハネのもとに来たのでした。洗礼を受けた人たちは、神に対してやましいところは洗い清められた、もうこれで大丈夫と思ったかもしれません。
ところがヨハネは、そうではないと言ったのです。彼の後に偉大な方が来られる、その方が大丈夫にして下さるのだと。実は彼が施した洗礼は、人が自分には神に対して罪ある者と認める印であり、だから神の裁きから守ってくれる方を必要としていますという印だったのです。その守って下さる方を神は私たちに贈って下さったのです。それがイエス様でした。
私たちがイエス様を受け入れて自分のものにすることが出来れば、たとえこの世が終わろうとも守られて乗り切ることができるのです。このような安心を持てれば、この世の人生で苦難や困難があっても揺るがない安心があります。なぜなら、この世の終わりの苦難や困難の大きさと言ったら、この世の苦難や困難とは比べものにならないもので、そこで大丈夫ならこの世ではもっと大丈夫だからです。
さきほど、カンテレグループのSointu&Tuuliの皆さんが素晴らしい演奏を聴かせて下さいました。その中の一つは、有名なバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」でした。ドイツ語の題名は「イエスは私の喜びであり続ける」(Jesus bleibet meine Freude)だそうです。その歌詞を見たら、イエス様を受け入れて自分のものにすることができるとどんなに心を励ましてくれるかを歌い上げていることがわかりました。その趣旨に沿って歌詞を訳してみましたので、以下にご紹介します。(日本基督教団の讃美歌第二編に228番「こころに主イエスを」としてあります。)
私にとって幸いなことは、
私にはイエスがあるということ、
ああ、どんなに私は彼にしっかり
掴まっていることか、
私が病気の時、悲しみにある時に
彼は私の心を爽やかにしてくれるからだ。
私にはイエスがある、
私を愛し、私のものになるようにと
ご自身を捧げられたイエスが、
だから、私がイエスを手放すことなど
ありえない、今すぐ心が砕けても。
イエスは私の喜びであり続ける、
私の心の慰め、潤いであり続ける
イエスは全ての苦しみから守って下さる、
彼は私の生きる力、
私が目にすることができる楽しみ、太陽、
私の魂の宝、嬉しさ、
だから、私はイエスを手放さない、
心と目から遠ざけない。
訳者からのお勧めです。ドイツ語は英語と違ってローマ字読みで割といける言語なので、歌ってみてはいかがでしょう。ドイツ語の歌詞は、https://classic-fan.com/jesujoy-of-mans-desiring/ で見つかります。
発音について細かいことを言えばキリがないのですが、この歌に関してなら、以下の三点だけでも注意したら結構いけると思います。一つ目は、EIをエイと読まずアイと読むこと、二つ目は、CHを英語みたいにチ(Church)やキ(Christ)と読まず、ここではただヒと読むこと、三つ目は、Jesusは英語のジーザスではなくイェーズス。これだけで随分ちがいます。別にドイツ人やドイツ語が出来る人に聞かせる必要はありません。この歌は自分で意味を知って口ずさむだけで気分が上向きになること請け合いです!
木苺(kiichigo Rubus )
<43悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。44木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。 ルカ6:43・44>
歯医者の帰りに久しぶりに尾根緑道に登ってみました。緑陰の濃い道は暑さのせいか歩く人も少なく快適な散歩を楽しみました。途中、道路脇の藪を覗いたら嬉しい事に木苺がいっぱい生っていました。この先には桑の大きな木もあります、以前来た時こちらも今年は豊作とみえて黒い実がたわわになっていました。木苺を充分堪能し、次は桑の実と先を行きましたが桑の実はすっかり食べ尽くされたようで木の下の草むらが踏み荒らされていました。桑の実を食べる人がいる事を知り少し嬉しかったです。
ルカによる福音書9章51−62節
律法ではなく福音による「従う」恵みと幸い。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
1、「はじめに」
今日のところ、特に57節以下を注目して見ていきますが、難しい箇所のように思えます。「イエスに従うことは良いことなのに、なぜイエスはそれを受け入れないのだろうか。なぜ従うのにこんな厳しいことを言うのだろうか。これでは誰も従うことなどできないではないか」等思うかもしれません。あるいはこれまでこの箇所から「私たちが従うには、これぐらいのことをしなければいけないんだ。従うということはこれぐらい責任と重荷があることなんだ。」というような律法の説教や勧めを聞いたこともあるかもしれませんし、そのように読む方もいることでしょう。けれどもこのところが伝えていることもまた律法ではなく福音と恵みに他なりません。そして主なる神イエス・キリストにあって、「従う」ということは本当はどのようなことなのかを教えられるのです。
2、「自から「従います」ー自信」
今日のところには、54節のヨハネとヤコブも含めて様々な「服従」「従う」が書かれていますが、57節からの三人に注目して見ましょう。まず一人目、57節。
「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」(57節)
私たちからすれば、この人の言葉は非常に献身的な声に聞こえます。しかしイエスは答えます。
「イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 」(58節)
事実、イエスの宣教の旅には定まった自分の家がありませんでした。イエスや一行に場所を提供し、食事などをもてなしてくれる人々のところに滞在しながらの宣教の旅でした。ですから、もし「おいでになる所、どこにでも」と言う時には、まさにそのような旅になることを意味しています。彼に対するイエス様の答えは何か厳しい返答のように聞こえます。しかしここにはどのようなメッセージがあるでしょうか?弟子たちとイエス様との宣教は、確かに、そのような枕するところが定まっていない歩みではあるのです。しかし、その旅はこれまでも日々、その旅の必要は満たされて来て、神は必要な物を備え与えて下さってきた歩みでした。つまり、イエス様の言葉の背景には、人の目には十分ではなく貧しそうで枕するところもないような歩みに見えたとしてもです、そのように、イエスご自身の歩みも、そしてイエスと一緒の旅も、「天にあって」、神の前にあって、つまり、常に必要を満たしてくださる神への信仰にあっては、いつでも豊かで確かで不安のない恵みがある歩みであることをも示唆しているでしょう。つまり信仰の歩みは「天の神の恵みとその確かさへの信頼が、イエスとの旅の大事な持ち物である」ことを伝え用途してくれているのです。このイエスのことばを聞いて、この人はどう理解し答えたのかは書かれていません。
3、「「ついてきなさい」という天のプレゼント」
二人目はどうでしょう。
「そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
59節
今度の人は、イエスが「わたしに従いなさい」と言っています。しかしその人は、まず父を葬らせてくださいと言うのでした。この人は拒んでいるわけではありません。父を葬ったらついて行くという意味でしょう。それに対しイエスは言うのです。
「 60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
60節
A, 「召しゆえに従う恵み」
これもまた何か非常に厳しい言葉です。お父さんを葬ってからついて行くのは別に良いことのように私たちは思うのです。しかし鍵は、後半の「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」にあります。そして「イエスが」「ついてきなさい」と招いていることも重要な鍵です。思い出すことができますが、イエスの弟子達は、自分から「従います。ついて行かせてください」といって従っている弟子達ではありません。皆、イエスの方から、彼らに声をかけました。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブは漁師で、湖の畔で、漁を終えて、網を洗っているところにイエスがやってきました(ルカ5:1〜11)。そこでイエスは、イエスの方からまずしるしを与えて自分が神であることを示しました。前の晩に魚が一匹もとれなかったのに、イエスは舟を出させて網を下ろすようにいいます。ペテロ達は誰も取れるとは思っていませんでしたが、その通りにした時に、舟が沈みそうな程の魚が取れたという出来事がありました。その後で、イエスが彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言って召した、そして彼らがそれに従ったのが、弟子達とイエスの歩みの始めでした。取税人レビはどうであったでしょうか(ルカ5:27〜32)。レビの所にも、イエスの方からやってきて、イエスが彼に「わたしについてきなさい」と声をかけて招いているでしょう。ヨハネの福音書にあるナタナエルもそうですし、他の弟子達一人一人もそうであったでしょう。「イエスが」「ついてきなさい」と招いて彼らは従っているのです。このように「従う
というのは、まず「イエスの召し、ことばがあってこそ
なのです。
B, 「自信、自信過剰ではなく」
しかし、今日の箇所のまず最初の人と、そして61節の三人目は、自分から「従います」と言っています。しかしこの「従う」の言葉は「自信」や「自信過剰」という意味がともなっています。しかしイエスに「従う」というのはそのように私たちの「自信」が伴う行動なのでしょうか?イエスにあってはそれはノーでした。むしろ「従う」ということは、私たちの側からの何か、自信によって従うということでは決してないと言えるでしょう。私たちに自信があるから、自分には従うことが出来る。あるいは、そのように自身の根拠となるような従える何かを自分は持っている。そのような何かが自分にあるから従える。従えてる。ということでもないでしょう。むしろイエスは彼らの敬虔そうな「従います」という言葉には「彼らの「自信」」を見ていたことでしょう。その表向きの言葉や自信は人の前では立派なことかもしれません。しかしそれは神の前では違います。神の前での「従う」とはそういうことではないのです。イエスに「従う」ということ、それはどこまでもイエスが「ついてきなさい」と召してくださる招き・召命と、そこにある約束が伴ったものです。イエスがみ言葉を与えて彼らを「ついてきなさい」「従いなさい」と招いた時には、彼らには何もなくこれから何が起こるかさえわからなくとも「あなたは人間を取る猟師になる」という「神の約束」が伴っていたでしょう。創世記12章でアブラハムへの「いきなさい」「従いなさい」の言葉があった時にも、神様のあなたの子孫を祝福するという約束が伴っていたでしょう。モーセもそうですね。彼は自分は従いたくない、他の人を行かせてくださいと言ったでしょう。しかし、そんなモーセに「わたしがする」という神の約束がありました。つまり神の前の「従う」は「私たちの自信」や、私たちの持っている何かによるのでは決してないのです。事実、既についてきている弟子達は何か優れていたわけではありません。いや皆、彼らは不完全な罪人です。9章ではそのような姿が何度も出てきます。まさにこの前の所、49節以下でも54節以下でも、ヨハネやヤコブのまさに弟子としての特別意識、傲慢さ、まさに自信過剰さえ見えるのです。今日のところにある三人とは変わらない一人一人でもあります。しかし彼らが弟子であり、彼らがついてきているのは、彼らに何か才能があり敬虔であるから云々ということは一才関係ない、いや彼らにはそのようなものはありません。どこまでも罪人の彼らでしたが、まさに、イエスが「ついてきなさい」と招いたその召しとイエスが全てのことをなすという約束があるから彼らは従ってきているでしょう。イエスのことばが、そして約束があるからです。これは私たちの「従う」もそうなのです。自分たちの何かではない。自分の自信でもない。私たちも罪深い一人一人、しかしそのような私たちをイエスが「わたしについてきなさい」とみことばを持って招いてくださった。み言葉を与えて下さったからこそ、私たちは今、従っているのです。
C, 「神の所有として使わされる召しの恵み」
そして、そこに約束も溢れているでしょう。そのように「召され」従うことは、それは主ご自身が全てをなすということ、そして、神が私たちを神の所有としてくださり救ってくださる約束を伴っておりキリストの責任と恵みと計画、そしてキリストの力と実行のうち、つまり天からの恵みのうちに歩むことを意味しています。そうであるなら二番目の人への言葉は、決して意地悪ではなく、天の恵みにある歩みへの招きの言葉とも言えます。「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と。この「神の国を言い広めなさい」というのは、まさに天からの使命であり約束でもあります。もちろん父を葬ることも大事なことですが、しかしそれは地上の営みです。イエスは「その地上のことは地上の営みに任せなさい。それ以上に、わたしが、あなたを招いているのだから、あなたにはそれ以上の私の計画があり、天からの恵みの使命がある、それを与えよう」とイエスは彼を遣わそうとしているのです。イエスが、従うように召し、招くということは、実にこのようなことです。恵みであり約束なのです。地上の物事、地上の限られた枠や限界や営みに納まること以上の計り知れない天の恵みに招かれて、天の使命が与えられている。そのようにイエスが「ついてきなさい」と言って召してくださっている、そしてその召しゆえに従うものとされていることの、はかり知れない程、大きな素晴らしさがあるのです。つまり地上にあっては非常に大事で崇高な営みである「葬る」ということさえも小さくなる位、それよりもはるかに大きなプレゼント、恵みこそを、私たちは天からイエスから受けている、頂いているということなのです。それは「わたしに従いなさい」そして「天の恵みを、キリストの与える平安を、自由を、神の国を広めなさい」と、みことばによる召しと、その従うという約束と恵みのうちに歩んでいることなのです。「従う」ということは、決して私たちから出たものではない。私たちの自信や決心でもないのです。
4、「従うとは、自分の決心でもない」
三番目の人は、最初の人と同様、自分から「従います」と言いました。しかし加えて「まず家族にいとまごいに行かせてください。」ともいいました。これも私たちの目から見ると「別にかまわないのでは」と、思うのですが。しかしイエスは、
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない
62節
と言います。彼は「鋤を手にかけた」、つまり、彼には「従います」という「決心」はありました。しかしそれはやはり「彼の決心」であったのです。人間の決心、それは決して完全ではありません。むしろ誰でも決心しても後ろを見てしまうものではないでしょうか。むしろ彼は私たちから見ればそんなに後ろを向いてはいません。家族に別れを言うだけのことです。本当に私たちから見れば素晴らしい「彼の」決心です。しかし、イエスはそのような彼自身から出た「人間の決心」が神の国にふさわしいとは言わないのです。つまり従うということは、私たちの決心にかかっているのではないのです。私たちの決心は不完全です。私たちは決心しても「うしろを見てしまう」のです。
5、「神の国のふさわしさとは?」
A, 「私たちの自信や決心はもろい」
今日のところは何を伝えているでしょう。それは、もし従うということが、私たちから出たことにかかっているなら、つまり、もし私たちの自信や決心で、キリストに従うということが求められているのであるなら、それでは誰も「神の国にふさわしくない」のです。そうでしょう。弟子達の「決心」はどうでしょうか。まず弟子達の「従う」というのは、先程も述べました、イエスが、弟子達のそのような不完全さ、罪深さを全てご存知で、全て受け入れられて「わたしについてきなさい」とイエスが召してくださった恵みでしょう。そしてついて行きました。まさに恵みによって彼らは弟子とされたのです。しかしそれを忘れ始めたのでしょうか。イエスが有名になり、その弟子であることの特権意識という「彼らの自信」は何を生みましたか。49節以下、ヨハネとヤコブは、自分たちの弟子ではないものが、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを勝手に、当然のように、自分にその責任と権利があるかのようにやめさせました。さらに54節以下、イエスを受け入れないサマリヤの町に対して、天から火を呼び下し焼き滅ぼしましょうとも言いました。そして「彼らの決心」はどうでしょう。十字架の出来事の前に、彼らはイエス様が誰かがご自身を裏切ると告げられた時に、他の誰が裏切っても自分は最後までついて行く、死にまでも従うと、彼らは言い、まさに「自信」を持って「決心」するでしょう。しかしその彼らの決心は、その通りに「従う
ことができたでしょうか?彼らはみな逃げたでしょう。ペテロの「決して知らないなど言わない」という「決心と自信」も、まさに脆くも崩れ去ったではありませんか。私たちは、自らでは、イエスに従うことに、まったく無力です。私たちは皆、自分の意志や力で決心しても、後ろを見るものです。決心の通りにできない、無力なものです。私たちは自らでは、そのままでは皆、神の国にふさわしくないもの。自分たちでは「従います」と従えないものなのです。
B, 「イエス・キリストこそ全てー「従う」それは律法ではなく福音・恵み」
しかし福音書はまさに私たちに、イエス・キリストの恵みを指し示しているでしょう。イエス・キリストこそ全てである。救いである。恵みであると。弟子達は立派ではない、十字架のときまでもそれ以後も罪深かったけれども、そのような弟子達をご存知の上で「わたしについてきなさい」と言って招いてくださった。そしてそのイエスとの一緒の歩みにおいては、まさに定まった家も食事をする場所もなかったけれども、神がイエスを通しイエスのことばをとおして、全てを満たし乏しいことはなかったでしょう。イエスにあって彼らはいつでも緑の牧場に、憩いの水の畔に導かれたように、全てを満たされた歩みとなるでしょう。そして実にその究極は、その罪深い弟子達、拒む人々、イエスを罵り唾をかけ鞭打ち十字架につけるその全ての人々、いやこの何千年の人類の歴史の中で生きてきた全ての人々、つまり私たちのためにも、イエスはその全ての罪、私たちが神の前で負うべきであったその十字架を代わりに負って死なれるでしょう。私たちはその罪のゆえにまさに神の国に、神の前にふさわしくないものでした。しかしイエスはその十字架によって、私たちに罪の赦しという人間にとって神の前で一番なくてはならない必要なものを、そして神の国を一方的に与えて下さったではありませんか。ふさわしくない私たちに、イエスはこの十字架と復活で、私たちに罪の赦しを与え、それによって神の国に、神の前にふさわしいものとしてくださったでしょう。ただイエス・キリストのゆえにです。「従う」ということ、「神の国のふさわしさ」、それは律法では決してないどこまでも神からの恵み、福音なのです。イエスが「ついてきなさい」と召してくださったからこそ、私たちは今がある。イエスがただ与えて下さったものをそのまま受けるからこそ、私たちは救われている。誰でも救いはその人のものになります。私たちの自信、決心ではありません。今日も、イエスがみことばによりここで宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ信じて喜んで安心してこのイエスが与えて下さる福音を受けようではありませんか。そしてぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。