お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
次回はフィンランドの伝統的なクリスマス・オーナメントの”ヒンメリ”Himmeliを作ります。 ヒンメリはフィンランドで最も古いクリスマスの飾りの一つです。天然の藁で作るヒンメリは、僅かな光が当たっても白い控えめな輝きを放つので、暗い冬の季節のお部屋で不思議と心を和ませてくれます。
そんなヒンメリをご一緒に作ってみませんか?
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費: 1200円
お子さん連れの参加も大歓迎です!
次回は、スオミ教会の前宣教師のポウッカ先生ご夫妻も参加されます!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み *protected email* ℡ 03-6233-7109 スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
全知全能の父なるみ神よ。
主イエス様は、世の終わりまでいつも私たちと共におられ、再臨の日には私たちを目覚めさせて御国に迎え入れて下さると約束されました。このように、この世と次の来たるべき世の双方でイエス様が共にいて下さることが私たちにとって大きな励ましと慰めになるようにして下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン
秋半ば
<神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。コヘレト3:11>
裏の木立にもやっと秋が来ました、ヤマボウシの紅葉、コブシ、エゴノキの黄葉・・・イロハカエデの紅葉にはもう少し先でしょうか、桜は既にすっかり葉を落としていました。西側の窓先のイロハカエデはやっと先端が色付きました、南側のベランダから見える桜の木立は今が盛りとばかりに美しく色付いた葉を見せています。今朝は隣の家のすっかり葉を落とした木の枝に夏の間は殆ど姿を見せなかった四十雀もやって来ました、野鳥たちが冬に備えて餌を求めて忙しく飛び回る季節でもあります、一年で最も美しい季節の秋が今年もやって来ました。
講演者 堀越洋一氏
本日は、堀ノ内病院(埼玉県新座市)の地域医療センターで在宅診療に携わる堀越洋一医師をお迎えして上記の題目で講演会を行いました。 エンディングノートと聞くと、大方は、ただ人生の最終段階に向けた準備と受け取るのではないでしょうか?実は、それを記入することは、自分らしく今をより良く生きるためのヒントを見いだす前向きな活動であるということを堀越医師はわかりやすく丁寧にお話し下さいました。
今回の講演では、新座市が市民向けに発行・提供しているエンディングノートを具体例にして解説して下さいました。
エンディングノートの内容はいろいろな分野に分かれています。(1)自分自身について記入する章、(2)人生の最終段階における医療やケア・介護についての考え方や希望を記入する章、(3)亡くなった後の葬儀や財産その他の事務的なことについての考え方や希望を記入する章、(4)大切な人へのメッセージを記入する章。今回の講演では、(1)と(2)を中心にお話しして下さいました。
1は、自分史を記入するところから始まって、自分の夢、今の健康状態、自分と関りのある人たちについて記入するところです。
2は、以下の項目について選択肢の中から答えを選びます。介護が必要になった時に希望する介護者、介護してほしい場所、介護費用、人生の最期を迎えたい場所、重大な病気になった場合の告知の有無、判断能力が低下した場合の対応方、生き続けることは大変かもしれないと自分が思う状況。それと、生きられる時間が限られている場合に何を大切なことと考えるか、自分で決められなくなったら治療ケアを誰に代わりに決めてほしいかのリストを記入するところもあります。
これらの記入項目について、堀越医師は自分だったらこう記入します、と例を示しながら解説して下さったので、聞く方にとっても記入することが身近に感じられるようになったのではと思いました。
これらの記入は、エンディングノートの最初の「活用のポイント」にもあるように、何度でも書き直しが出来るように鉛筆書きが推奨されます。熟慮を重ねて、自分にとって最良のもの納得のいくものが書ければいいのです。
それと、2に関連して、肉親等、身近な人や、医療・介護従事者も交えて、項目について話し合う「人生会議」を持つことの重要性も話されました。人生の最終段階の重要な事柄について、自分の考え方や希望をそうした人たちと共有することですが、実際には、十分余裕をもって人生会議が行われることはほとんどなく、大抵は、大きな病気をしたり介護が必要になった段階で初めて行われるとのこと。その時に、医師や介護側から会議を開くように推奨するのだそうです。もしその時までにエンディングノートに記入がされていれば、会議の話し合いがスムーズに行くことになり、その意味で人生会議の準備の役割を果たします。難しい項目についていきなり話し合うよりも、本人が前もって文章化できていれば、そういうことが可能になるのです。
実は、エンディングノートは今はどの自治体にも準備がされており、問い合わせれば誰でも入手できるものだそうです(新座市のものは300円)。
堀越医師は、ご自分が記入する際に「人生の価値」とは何かを考え、その方向づけにあるものとしてV.E.フランクル(オーストリアの心理学者でアウシュビッツ生還者)の「死と愛」の中に掲げられている3つの価値を紹介して下さいました。一つは「創造価値」で、何かを行うこと、活動したり創造したりすること、自分の「仕事」を実現すること、二つ目は「体験価値」で、何かを体験すること、自然、芸術、人間を愛すること、三つ目は「態度価値」で、自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるかという問いに対する答え。「態度価値」について堀越医師は、医療の現場の体験から見出された態度価値についてお話し下さいました。
「態度価値」について牧師の方からは、自分の可能性が制約されているというどうしようもない運命、逃れられない事実、それに対してどんな態度を取るかという問いの答えは、聖書が考える材料を提供してくれている、日曜日の礼拝も答えを見いだす一助になるはず、というコメントをいたしました。質疑応答では、いろいろ実際的な事柄に関する質問や、ご自身の体験を語って下さった方もおられ、1時間半の講演会はあっと言う間に終わった感じでした。(記録 吉村)
11月のスオミ教会・家庭料理クラブは9日、爽やかな秋晴れの中で開催しました。今回はフィンランド風三角パン(Kolmioleipä)とそれにあわせてポテトサラダも作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まずパンの生地を作ります。バジルを細かく刻むと香りが部屋中に広がりました。「いい香り!」と皆さんの心が躍ります。ボールに生地の材料を順番に入れて生地をよく捏ねて暖かい場所に置きます。そこで一回目の発酵をさせます。その間にポテトサラダの準備に入ります。まずはジャガイモをレシピ通りに切ります。切り終わる前に生地はあっという間に大きく膨らみました。パンを作るタイミングです。生地をテーブルの上で少しまた捏ねてから鉄板の上に伸ばして三角の形に切っていきます。パン生地の上に水を塗って白ゴマを上にかけてから二回目の発酵をさせます。各グループのパン生地は皆きれいな形にできています。これが焼き上がったらどんなパンになるのかな、と皆さんワクワクでした。
二回目の発酵させている間に今度はポテトサラダのドレッシングの準備をします。それから発酵した三角パンの生地をオーブンに入れます。ほどなくして教会の中はサラダのドレッシングと焼きたてのパンの香りで一杯になりました。一息ついた時に、ウクレレのレッスンから直接いらした参加者の方が演奏を披露して下さいました。食前に音楽鑑賞もあって、今回の料理クラブは格別でした!
さて、焼きあがったばかりの香ばしいパンにマーガリンを塗って、ポテトサラダと一緒に味わう時間になりました。「やっぱりパンは焼きたてが最高!」との声があちこちから聞こえてきます。皆さんと一緒に美味しくて本当に満ち足りた歓談の時を過ごしました。そこでフィンランドの「収穫感謝の日」や聖書が教えている感謝についてのお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回はもう待降節(アドベント)の期間の開催になります!12月14日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はフィンランド風の三角パンを作りました。料理クラブではもう何回もフィンランド風のパンを作りましたが、今日みたいなパンは初めてでした。今日のパンは一個一個の形を作らなくて大丈夫なので、忙しい時でも簡単に作れます。忙しい時に焼きたてのパンを味わったら、ホッとして幸せな感じがするのではないでしょうか。
今日のパンは生地の中に細切れのバジルも少し入れたので、バジルの風味もします。バジル風味のパンはバターかマーガリンだけでもとても美味しいです。
ところでフィンランドでは毎年、「今年の野菜」を選んで、多くの人がその野菜をもっと食べるようにというキャンペーンがあります。「今年の野菜」に選ばれたのはバジルでした。
フィンランドではバジルはパセリとディルの次に最も使われているハーブです。ハーブの王とも言われます。パスタ、鶏肉、魚、トマトを使った料理によく合います。バジルの香りが保たれるように料理が出来上がり少し前の段階に入れます。バジルは健康にも良く、例えば消化を促進したり、コレステロールを下げる効果があります。このためフィンランドではバジルがもっと使われるようにキャンペーンをします。バジルは寒さに弱いのでその収穫は秋の前に終わります。
ところで、秋は収穫の季節です。秋になると野菜、果物、麦が熟する順番に集まります。フィンランドでは冬は日本より早く来るため、これらの収穫は8月と9月です。麦やジャガイモの収穫が終わると、「収穫感謝の日」という日が10月の終わりにあります。その日、教会学校の子供たちは、ジャガイモや人参、リンゴや麦の束を教会に持って行って聖壇の前に飾ります。こうして飾られた作物は、教会を訪れる人々の目に、収穫を通して生まれる神への感謝の気持ちが具体的に表れたものとなります。この習慣はフィンランドでは昔からあり、今でも続いています。この間私は、私の実家の教会で行われた「収穫感謝の日」の行事についての地方新聞の記事で読みました。日本でも教会によってはお祝いするところもあります。私が以前働いていた日本の教会で感謝祭のお祝いがありました。その時教会学校の子どもたちがジャガイモ、ニンジン、大根など野菜を持ってきて、教会の中庭で皆で一緒に豚汁を作りました。
出来た豚汁はとても美味しく何回もおかわりをした子供もいました。もちろん大人の方々も皆美味しく頂きました。この行事を通して、子どもたちが野菜や果物などは天と地を造られた神様からの贈り物であると教える目的がありました。子どもたちも大人も皆、美味しい豚汁を頂いたので、感謝の気持ちも生まれたでしょう。このように「収穫感謝の日」は感謝について考えさせる機会です。
ところで、感謝の気持ちはどこから生まれるでしょうか?日常生活の中には感謝することが沢山あると思います。例えば健康、家族、毎日のご飯、衣服、住まいなどです。しかし、それらは当たり前のことなので、感謝の気持ちは忘れてしまうかもしれません。しかし深く考えると、それらは当たり前のことではなく、全ては天と地と人間を造られた神さまから頂いたものと気づくようになります。それで神さまの方を向く感謝の気持ちが生まれるのです。
聖書の中に感謝について次のように書いてある箇所があります。「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです」使徒パウロが書いたテサロニケの信徒への第一の手紙の5章18節です。
私たちはパウロが教えるように、どんなことにも天の神さまに感謝することが出来るでしょうか?神さまは私たちが感謝することを望んでおられます。私たちにそのような気持ちはどこから生まれるでしょうか?生活の中に嬉しい、素晴らしいことがある時に感謝するのは簡単です。しかし、当たりまえのようになったら感謝するのを簡単に忘れてしまうのではないでしょうか?また、生活の中に困難がある時には感謝することなどできないでしょう。
ここでリーナ・サンデルというスウェーデンの女性の作詞家のことを紹介したいと思います。サンデルさんはスウェーデンとフィンランドの教会の讃美歌や聖歌の詩を沢山書きました。彼女の讃美歌や聖歌は今でもフィンランドの教会の礼拝でも歌われています。サンデルさんが書いた讃美歌の一つに「神よ、恵みと全てのことをあなたに感謝します」という歌があります。サンデルさんは若い時に親や兄弟と死に別れました。その悲しみはずっとサンデルさんの心に残っていました。それなのにこのタイトルのような感謝の讃美歌の詩を書いたのです。彼女の神さまに対する感謝の気持ちはどこから生まれたのでしょうか?彼女は悲しみの中でも神さまの良い導きがあることを信頼していつもお祈りしていたのです。お祈りの中で全てのことを、喜びも悲しみも全て、神さまに委ねることが出来るようになって、神さまから平安を心の中に頂いて感謝の気持ちが生まれたのです。神さまを信頼する信仰はサンデルさんの感謝の源になったのです。
私たちもサンデルさんのように神さまを信じて信頼することで感謝の気持ちが生まれます。神さまから良い導きがあると信頼することが出来れば、全てのことを神さまの御手に委ねることができます。生活の中に素晴らしいことだけではなく困難がある時にも天の父である神さまにお祈りして全てを委ねることが出来れば、神様に感謝の気持ちが起こります。この時、私たちは心に平安を得られます。神様が与えて下さる平安です。
「収穫感謝の日」は野菜、果物など全てのものは神さまから頂くものということを思い出させます。私たちの感謝は全ての造り主である神さまに向けられるのは相応しいことです。
キリスト教の「祝福」は祝意とは全く別物
米国大統領選の直後、負けた候補者が勝った候補者に電話して「おめでとう」を述べたというニュース(NHK)を見た時のこと。“I congratulated him.”と言った下りを「私は彼を祝福しました」と字幕で訳されていて仰天。確かに日本では「祝福」という言葉は祝意を意味するものとして使われることは知っている。結婚式に参列した人が、私は新郎新婦を祝福しました、などと言うのを聞いたことがある。漢字の「祝」と「福」が組み合わさっているので、おめでたいことこの上ない。しかし、それだとキリスト教で言う「祝福」の本当の意味が見えなくなってしまう。
「祝福」は聖書の至るところに出てくる、キリスト信仰ではとても身近な言葉だ。しかし、それは祝意とは全く別物である。「祝福」とは要約して言うと、好ましいことをもたらす影響力を神から人間に伝達すること。好ましいこととは、健康、裕福、長寿のような具体的なもの目に見えるものを指すことが多い。しかし、そればかりではない。今は否定的・無意味なことでも、神を信頼して歩んで行けば、予想もしない時、予想もしなかった仕方で肯定的・意味あることに変貌する。たとえそれが健康、裕福、長寿の形を取らない場合でも、肯定的・意味あることに変貌することがある。そういう変化も神の祝福のなせる業である。
なので、「祝福」は神からの人知を超えた影響力の伝達で、聖職者など神が立てた者を通して人間に伝えられるもの。「祝福」の源はあくまで神である。人間同士の祝意の表明とは全く別物なのである。長子が受けられる「祝福」を弟ヤコブに奪われたエサウがなぜあれほどまでに失望と憎悪で爆発してしまったかがわかるというものだ。祝い言葉のように考えたら全く理解できないだろう。
キリスト信仰者は食前の祈りで、「食べ物を祝福して下さい」と神にお願いするが、食べ物をお祝いして下さい(?)という意味ではない。それは、これからお腹に入る食べ物を通しても神さまの良い御心が働くようにして下さい、というお願いなのだ。狭く考えれば、栄養や健康を与える役割を果たしますようにというお願いだが、広く考えれば次のようになる。この食べ物が栄養・健康の他にも、もっといろんな分野で神の良い御心が働く手段になりますように。そうなると、食べ物はますます感謝して頂くのが当然になる。
そういうわけで、負けた候補者が勝った候補者を「祝福する」というのは、キリスト信仰ではありえないことなのだ。
柿
<11 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 12地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。創世記 1:11・12>
先日、山梨の家の冬支度に出かけた折に大好きな柿を買い込んできました。甘柿、渋柿、大きい柿、小さい柿、普通の柿。甘柿は毎日せっせと食べていますが大きな百目柿の渋柿は手間を厭わず皮をむいて干し柿にしました。約一か月後に立派な干し柿になります、正月に集まる娘家族たちの土産に持たせてやります。 里古りて 柿の木持たぬ 家もなし (芭蕉)
説教題「終末の徴」 2024年11月17日(日)
マルコ福音者13章1~8節
今日、世界の彼方此方で悲惨な戦争が続いています。イスラエルという国はもう長年中東戦争に明け暮れています。神様が旧約聖書の時代からイスラエルの民を神は選ばれて人間の救いの舞台とされて来られた、その民族が戦争をしているのです。世界中の政治と経済に大きな影響を与えるアメリカ大統領にトランプ氏が選ばれました。世界はどうなるでしょうか。
さて今日の聖書でマルコは章のはじめにイエス様がエルサレムの神殿で弟子たちにあまりにも壮大な素晴らしい神殿を見て驚きため息をついて見ているのをご覧になって「これらの大きな建物もやがて全て崩れて壊れてしまう」と予告されたのです。弟子たちは吃驚したでしょう。どうしてそんな事が起こり得ようかと思ったでしょう。この神殿は紀元前20年から建築が始まってイエス様の時代にはまだ完全には出来上がっていなかった、と言われています。この神殿は巨大な石によって基礎作りがなされ、大理石の柱も遠くから運ばれ人々の目を驚かせるほどの素晴らしいものでした。建物全体が相当の量の金の板で覆われていて、日の出の時は眩しくて目を覆うほどであったと言われています。ガリラヤ地方から都エルサレムに出て来た弟子たちは強烈な印象を受けたことでしょう。弟子たちだけでなくごく自然に多くの人々も又まばゆく輝くばかりの壮大な神殿に見とれたことでしょう。過ぎ越しの祭りには彼方此方の外国にいたユダヤの民もこの神殿に来て礼拝したことでしょう。イエス様は弟子たちの神殿を見て驚いている、その様子を見て言われたのです。「これらの大きな建物を見て驚いているのか、しかし一つの石もここで崩されず他の石の上に残ることはない」と言われました。イエス様はエルサレム神殿が悉く崩壊されてしまう、と予告されたのであります。イエス様の予告通り紀元70年にローマ軍によってエレサムは滅ぼされ神殿も崩壊しました。そこでこの歴史的な事実をイエス様は40年も前に予告されたことになるのです。弟子たちの目は神殿建築の大きさ、そこに見る材料に目を奪われていました。しかし、イエス様はあなた方はこの大きな建物だけを見ているのかと問うておられるのです。この神殿にも勝るお方がここにおられる。という事実になぜ目が開かないのかと問うておられるのです。神が私たちの救いのために御子を遣わしになりその十字架の死によって、私たちのすべての罪を完全に贖って下さり、終りの日に私たちをも御子イエス・キリストの復活に与からせてくださる、という永遠に変わることのない神のご計画に目を開かなければならないのです。そうでないとイエス様の言われる言葉がわからない。
3節から場所が変わりまして今度はイエス様と弟子たちはオリブ山から神殿を見ております。そこで4人の弟子が密かにイエス様に尋ねました。「そのことは何時起こるのですか、又その事が実現する時にはどんな徴があるのですか」。はじめの「その事は」いつ起こるのですか、と言う時のその事という意味は勿論神殿崩壊の事です。後の質問の「その事がすべて実現する時、どんな徴があるのか」その事がすべてと言うのは結論的に言えば世の終わりのこと、或いは主の日が近づく時の事でありましょう。ユダヤ人は「主の日」を待望していました。そういう思想が民族に浸透していたと言って良いでしょう。その事は旧約聖書の中でもイザヤ書13章6~13節に表されていると言われています。イザヤ書に「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる。・・・見よ主の日が来る、残忍な怒りと憤りの日が。大地を荒廃させそこから罪人を絶つために。天の諸々の星とその星座は光を放たず太陽は登っても闇に閉ざされ月も光を輝かさない。・・・イザヤ書13:6~13」ユダヤ人は自分たちが神に選ばれた民であると確信していました。終わりの日に神が直接ユダヤ人に栄光を与えて下さる。しかし、その前に恐怖と苦難の時がある、という事をユダヤ人は考えていました。大国の支配を受け苦しい時代に「主の日」の待望はますます強烈なものとなりました。ですからユダヤの人々には大変身近なものであったのでこの思想を多くの比喩的表現を用いて述べてきました。イエス様もお用いになったのであります。
そうしてイエス様は話始められた。5節から8節にマルコは書いています。終わりの日が来る時の徴は何かという弟子たちの質問に対して、イエス様はまず第一に多くの苦難があることを予期せよ、と言われました。その苦難は何かというと偽のキリストの出現である。6節「私の名を名乗る者が大勢現れる、そして多くの人を惑わすだろう。」だから偽りの救い主に惑わされないように警戒せよ。次には戦争や地震、飢餓が起こる。と言うのであります。これらに対して決して慌てるなと言われております。こう言う事は起こるに決まっている。必ず起こると言う。これらの苦しみはどうしても避けられないのだ。と主は言われるのです。しかもこれらの事が起こっても「まだ世の終わり」ではない。と言うのです。弟子たちは何か徴を見ることが出来ればと安易に考えたのでありましょうがイエス様はそういう願いは捨てなさい!信仰を持って耐えなさい、と言われるのであります。まだ終わりは来ないのです。苦しみは悪い方に増すかもしれないがそれはほんの始まりにすぎない。8節で「これらの産みの苦しみの始まりである」という。ユダヤの女性にとって子供を産むということは神の大きな祝福でありました。これまで子供は与えられないと諦めていたのに子供が与えられたという事は大きな喜びであります。その大きな喜びのための苦しみが産みの苦しみであります。この表現は苦しみに耐えるという真に暗示的な表現であります。主の日を迎える前にこれらの苦しみはどうしても耐えなければならないものなのです。
ではその「主の日」を迎える前に起こる様々な出来事、困難な苦しみに耐えるのに具体的にどうしたら良いかをマルコは9節以下23節に渡ってイエス様が警告された言葉を書いています。「あなた方は自分の事に気を付けなさい。あなた方があうであろう様々な迫害に耐えて福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。必ず聖霊が助けてくださる。どんなに苦しい迫害が迫っても福音が宣べ伝えられることを止める事は出来ない。神のご計画は進められるのであります。神がこれをなさる! 終わりの日まで神はこれをなさるのです。キリスト者が迫害にあって捕らえられ証を迫られる時も取り越し苦労をする必要はない、との約束を与えておられます。語るべきことを聖霊が共にいて主イエス・キリストが教えてくださるのであります。それ故最後まで耐え忍ぶであります。14節から具体的場面に遭遇したらどのように行動したら良いのかが力強く語られています。まず偽預言者、偽救い主が立ってはならない、聖所で立って語り始めたら「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と主は言われます。一刻を競って危険から逃げなさい。という具体的な勧告です。物を取りに家の中へ入るなとか、屋上にいたら下へ降りるな、兎も角自分の命を粗末にしてはならない。許される限り生き延びよ、と主は言われます。主はご自分の者とするためキリスト者を一人残らず救うため苦難と危機の時を縮めてくださる。ルカ福音書21章28節には「このような事が起こり始めたら身を起こして頭をあげなさい。あなた方の解放の時が近いからだ」。とあります。私たちはこの世で過ごす一週間,一週間を主イエス様が厳しく警告された、言葉の一つ一つを受けとめ信仰によって聖霊の導き助けを持ってあらゆる備えをしてゆかねばならない、という事であります。 アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
映画「東京物語」を観て
今年の夏フィンランド滞在中、現地のテレビで日本の映画を観る機会があった。3つほど放映され、そのうちの一つは小津安二郎監督の「東京物語」。 戦後間もない1953年の制作。現地の新聞の映画評で5つ星だったので、何十年ぶりかで観てみた。(先週のコラムでは3つの中のもう一つ、是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」について書きました。)
ストーリーは、尾道に住む老夫婦が東京の息子・娘の家族を訪問しに上京した時の出来事。息子・娘たちは一見親孝行に見えたものの結局は自分の都合を優先して両親の世話をたらい回し。ただ、戦死した次男のまだ若い未亡人だけが仕事を休んでまで献身的に義父母の世話をする。そういうコントラストはあるのだが、老夫婦を中心にした輪のようなものの中の凹凸程度なもので、全体としては言葉が通じ合い心が通い合う一つの小世界(コスモス?)を形成していると言ったら言い過ぎか。
そのコスモスに魅かれるように自分もほとんどその一部のような雰囲気で見ていると、キリスト教徒はここまで、ということが。それは、尾道に帰った後で老母が旅の疲労が原因で急逝してしまうのだが、お寺で盛大な葬式が行われる場面。何人もの僧侶が総出で延々とお経を唱える。そこで三男がやるせなさそうに外に出てしまうのだが、次男の嫁が声がけして中に戻る。この通じ合いのコスモスから出てはいけないのだ。とてもキリスト教など入り込む余地はないと思い知らされた。
ところが、終戦から戦後間もない頃の日本はキリスト教ブームだったのだ。1950年代のSLEYの宣教師の記録を見ても、どこの教会も人で、特に若者で満員だったと。コスモスから抜け出られたということなのか?そんなことを考えながら葬式の場面を見ていて突然思い出したのは、黒澤明監督の「生きる」の一場面。区役所の職員たちが、今は亡き課長がなぜ公園づくりに命を懸けていたのかを仏壇の前で話し合う。葬式の儀式は見せなかったと思う。なので葬式は背景扱い。「東京物語」と対照的ではないかなどと思った。ちなみに黒澤監督の作品に「我が青春に悔いなし」という、戦時中に反政府活動を行ったために牢獄で獄死した男の内縁の妻の半生を描いたものがある。その制作後の監督の言葉、「僕は、日本が新しく立ち直るのに大切なのは自我を尊重することだと信じていた。今でも信じている。そういう自我を貫いた女を僕は描いたんだ。
(ドナルド・リチ―著「黒澤明の映画」三木宮彦訳から)
今はどうだろう?かつて栄えたキリスト教会は戦後間もない世代の人たちが高齢化してなかなか後が続かず、この先どうなるかという状態。祟りや穢れで人心を惑わす宗教団体だと人や金が集まるのに。あの麗しきコスモスは?官製の郷土愛、愛国心に取って代わられていないか?小津監督が生きていたらどう思うだろう?「秋刀魚の味」の中で、かつて撃沈された駆逐艦の元艦長に「日本は負けてよかったんだ」と言わせた。さて、今の嵐吹き荒れる大世界の中でのあなたの立ち位置は?