お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
マクラメでクリスマスの飾り物を作ってみませんか。
今回はマクラメのテクニックを使ってクリスマス・リースとクリスマス・スターを作ります。リースの方は3つのマクラメの結び方で作ります。リースに付ける飾りとして、毛糸で可愛いヨウルトントゥを作ったり、マクラメで鐘を作ったりして付けることができます。どんな飾り付けにするかはご自由にお決め下さい。
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできます。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費は材料費の500円-1000円です。作るものによって変わります。
今回は、スオミ教会の前の宣教師ポウッカ先生ご夫妻も参加されます!
お子さん連れの参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1745199194iamg@1745199194arumi1745199194hsoy.1745199194iviap1745199194
福音ルーテル・スオミ教会 新宿区鶴巻町511ー4-106 03-6233-7109
無神論者とキリスト教徒が一致するところ
以下の文章は、トム・ホランド Tom Hollandという英国の無神論者の歴史家がキリスト教について論評したものを、ステフェン・ジェフコ―ト Stephen Jeffcoatという米国の牧師が引用したものです(同牧師の2021年6月18日付のFacebook投稿から)。因みに、欧米で「無神論者」と言ったら、たいていはキリスト教を標的にする人たちのことです。
『あなたがキリスト教に賛同しようがしまいが、無神論者の歴史家ホランドが次のような興味深い論評をしているのです。彼は古代世界を研究して、あることに気づいたと記しています。それは、古代人はただ単に残酷なだけで、彼らの価値観は自分にとって全く異質なものだということでした。スパルタ人にとって”不完全な”子供の始末は日常のことだったし、奴隷の身体は権力を持つ者たちの肉体的な快楽のアウトレットのように扱われていた、嬰児殺しは広く行われていた慣行で、貧しい者、弱い者には何の権利もなかったと。
我々はどのようにしてそのような世界から脱することができたのか?キリスト教があったからだ、とホランドは書いています。キリスト教は男たちに自身をコントロールすることを要求し、あらゆる形態の強制性交を禁止して、性と結婚に革命を起こしたのだと。キリスト教が人間の性的営みを一夫一婦制の中に封じ込めたのだと。そして、ホランドも指摘しているように、皮肉なことは、今日キリスト教が嘲笑を浴びる原因になっているのが、他でもないこれらのスタンダードであるということ。しかし、いずれにしても、キリスト教が女性の価値を高めたことは否定できない事実である。簡単に言えば、キリスト教は世界をすっかり変えてしまったのだと。(了)』
同じような結論は、フィンランドの聖書学者エルッキ・コスケンニエミ Erkki Koskenniemiの研究書「古典時代ギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習に対するユダヤ・キリスト教の戦い」にも見られます。コスケンニエミはキリスト教徒。無神論者とキリスト教徒が同じ結論に達する位、キリスト教は古代世界の性モラルを根底から変えたのでした。
スオミ教会のシンボル - 白樺の十字架
11月の家庭料理クラブは11日に開催しました。これまで暖かい秋の天候が続いていましたが、この朝は少し寒くて冬の季節に変わる感じでした。今回は「クリスタル・コーヒー・ブレッド」Kristallipullaを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にコーヒー・ブレッドの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れて小麦粉を加えます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。発酵してる間に中身のバニラ・バターを作ります。生地は大きく膨らみ、コーヒー・ブレッドの形作りをします。綿棒で生地を長方形に伸ばしてその上にバニラ・バターを塗ります。
細く切った生地を花の形にしていくと、「わぁー、こんな形にするんだ!」と驚きの声があがりました。参加者の皆さんは一生懸命花形を作って、きれいな形のコーヒー・ブレッドがどんどん鉄板の上に並べられていきます。それから二回目の発酵をさせます。
コーヒー・ブレッドの生地はあっという間に大きく膨らみ、オーブンに入れるタイミングです。少し経ってから教会の中に美味しそうな香りが広がり、皆さん、早く味わってみたいと待ち遠しそう。きれいな焼き色がついたコーヒー・ブレッドを少し冷まして、その上に溶かしたマーガリンを塗ります。バニラシュガーでトッピングすると、水晶のようにキラキラ輝く「クリスタル・コーヒー・ブレッド」の出来上がり!
テーブルのセッティングをして、皆さん席に着いて焼きたての「クリスタル・コーヒー・ブレッド」をコーヒーや紅茶と一緒に味わいました。甘いコーヒーブレッドの他に、カット野菜をのせたクラッカーも頂きました。歓談のあとで、フィンランドの「父の日」や、聖書の神が「天におられる私たちの父なる神さま」と呼ばれることについてお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝します。
次回は待降節(アドベント)の期間の12月9日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。
皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドではいろんな種類のコーヒー・ブレッドを作ります。今日皆さんと一緒に作ったクリスタル・コーヒー・ブレッドはフィンランドで最も人気があるものの一つです。このコーヒー・ブレッドの特徴は中身のバニラ・バターとトッピングのバニラ・シュガーです。バニラ・シュガーが水晶のように輝くことからクリスタル・コーヒー・ブレッドと名付けられました。フィンランド語でKristallipullaといいます。
Kristallipullaは特に季節に関係なく作られますが、今の季節によく合うのではないかと思います。これからフィンランドはだんだん寒くなって気温が氷点下に下がるようになります。その時、木の枝の水滴が凍るので太陽の光が当たると枝が水晶のように輝いて見えます。Kristallipullaもキラキラして見えます。フィンランドは秋になると日が短くなって暗い時間が長くなるので、人々は色んな方法を考えて周りの雰囲気を明るくしようとします。コーヒータイムのkristallipullaはその一つです。
フィンランドでは11月の第2日曜日は特別なお祝いの日です。今年は明日ですが、それは「父の日」です。日本と違ってフィンランドでは「父の日」は秋の寒い季節のお祝いです。暗い季節を明るくするお祝いの一つです。この日はどのよう過ごすでしょうか。お父さんにプレゼントやカードを渡したり、飾りつけたケーキを作ったり、家族皆でレストランに行って食事をしたりします。お父さんに朝のコーヒーをベッドまで持って行くこともあります。
「父の日」は大事なお祝いの日でもありますが、これはお父さんにとって子供を育てる役割の大切さを考えさせる日にもなっています。フィンランドの普通の家庭ではお母さんもお父さんも仕事に行っています。このため子育ては母親だけでなく父親の役割も重要です。現在フィンランドでは父親は赤ちゃんの世話をしたり、子供と一緒に遊んだり、習い事に連れて行ったり、保護者会等に参加します。父親も子育てに責任を持つと、子どもとの関係は強くなります。
私の父はもう85歳になりました。父の年代の父親たちはみな仕事で忙しかったので、子育てにあまり参加出来ませんでした。それは母親の仕事でした。しかし私の父にとって父親になったことは大きな賜物でした。今年の夏父が次のように言っていたことを思い出します。「子どもが7人もいるが、一人でも多すぎたと考えたことはなかった。」
ところで、父の日や母の日になると多くの親たちは果たして自分は相応しい親なのかどうか少し考えてしまうことがあります。聖書の中に父親についてイエス様のたとえの教えがあります。イエス様はこのたとえを通して、天の私たちの父なる神さまはどんな方か教えられました。これは聖書の中でも最も有名なたとえの一つです。
ある家に息子が2人いました。弟の方は好きな勝手なことばかりやって暮らしていました。ある日弟が外国に行きたくなって、父親に言いました。「お父さん、あなたが死んだら僕のものになる財産を今すぐ分けてよ。外国に行ってしたいことがあるんだ。」父親が何を言っても息子は聞きません。父親は自分勝手な息子のことを悲しく思いましたが、財産を分けることにしました。弟はそれを全部お金に換えると遠い国に旅立ちました。
息子はそこでとても華やかな生活を送りました。高価な服を着て、そこで出来た友人たちと毎日遊び暮らしていました。しかし、いつしかお金はなくなってしまいました。ちょうどその時、その国にひどい飢饉が起こって息子は食べ物に困り始めました。だれも助けてくれる人はなく、息子は一人ぼっちになってしまいました。
それで息子は仕事を探しました。やっと豚の世話する仕事をもらえましたが、お腹はいつもペコペコでした。冷たく汚い豚の餌を食べたいと思うくらいでしたが、持ち主はダメだと言いました。その時、息子は父親の家には温かい食べ物も暖かい部屋もあることを思い出し、もう帰ろうと思いました。でも、父親の財産を無駄に使ってしまった自分はもう息子と呼ばれる資格はないとわかっていました。それで、家の雇い人の一人にしてもらえるように頼んでみようと思いました。父親の前でこう言おうと考えました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」そうして出発しました。
やっと懐かしい家が見えました。すると、最初に父親の方が遠くからやってくる息子に気がつきました。着ている服はボロボロで、全身汚く、顔も痩せていましたが、すぐ息子だと分かりました。父親は息子に向かって走って行きました。息子は父親が走り寄ってきたのに驚きました。すると父親は息子を抱きしめたのです。驚いた息子は、抱きしめられたまま言いました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はないんです。」息子が「雇い人の一人にして下さい」と言う前に、父親は家来たちに言いました。「さあ、急いで一番良い服を持って来て、息子に着せなさい。手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから最高の食材をそろえて、盛大なお祝いの準備をしなさい。息子は死んでいたのに、生き返ったのだ。見失われていたのに、見出されたのだ。祝うのは当然のことではないか!」父親が罰ではなくこのように愛をもって受け入れたので、息子は生まれ変わることができたのです。
イエス様がこのたとえを話したのは、天の神さまがどのような方であるかを教えるためでした。たとえの父親は神さまのことです。息子は私たち人間のことを指します。私たちも神さまのもとに戻って行けば、神さまは息子の時と同じように必ず私たちを喜んで抱きしめて迎えて下さいます。このように神さまの私たちに対する愛は、私たちを赦して受け入れて下さることです。天の神さまはご自分のもとに戻る一人一人を自分の子どもとして迎え入れるのです。一人でも多すぎるということはありません。
「クリスタル・コーヒー・ブレッド」や父の日のお祝いは普段の生活を明るくするものですが、天の神さまが私たちを愛して迎え入れて下さるのはもっと大きな喜びになります。そのことを覚えて日々を歩んで行きましょう。
自分は「聖霊の結ぶ実」(※)をなかなか結べない、キリスト信仰者として失格だと意気消沈している方は、以下のルターの教えをどうぞ。 この教えはまた、自分はいい加減な信仰者と自称し、どうせ神は気前よく寛大だから別にいいのさと、神の愛と恵みを悪用している方も是非どうぞ。(※ガラテア5章22節にてパウロは「聖霊の結ぶ実」として、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、誠実、柔和、自制をあげている。)
『キリスト信仰者に十戒の掟を守って柔和で清い者になれと命じて、信仰者に聖霊の結ぶ実を要求する人がいる。しかし、それでは、そういう実を完全に結べる者がキリスト信仰者であると主張することになり、それは誤った裁きを下すことになる。そのような主張をする者は、キリストが本当におられる所にいないと錯覚しているのである。そのような主張者に何が欠けているのか考えてみよう。その者は、キリストの国がどのような国であるか全くわかっていない。その者は次のように言うのが常だ。柔和なキリスト信仰者は決して怒ったりはしないし、忍耐強くなければならない、なぜなら、そのような実が実っていなければ決してキリスト信仰者とは言えないからだ、と。
聖書のどこにそんなことが言われているのか指し示してみよ。キリストの国がどのような国か正しく知っている者は、キリスト信仰者が時として忍耐に欠けるのを目にしても目くじらを立てない。なぜなら、聖霊の結ぶ実は律法として与えられているのではないと知っているからだ。もし聖霊の結ぶ実が律法ならば、キリスト信仰者に実が完全なものとして現われてこなければキリストが否定されてしまうことになる。そういうことではない。聖霊の結ぶ実は次のように理解すべきだ。キリスト信仰者が柔和で忍耐強いというのは、それを目指していくということなのだ。肝心なのは、実を結ぶことが始まったということであり、成長していくということだ。成長していく際にキリスト信仰者が時として悪い思いに囚われることもあろう。結ぶ実が聖霊の望むものとは反対のこともあろう。キリスト信仰者は柔和でなければならないとよく言われるが、だからと言って、我々は既にそのような者であると言うことは出来ない。そうではなくて、我々はそのような者になる過程にあるのだ。(了)』
その「過程」とは、礼拝を中心にする信仰生活であることをお忘れなく。
フィンランドの祝日「全聖徒の日」に想う
キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。 加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドでは11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。国の祝日です。今年は昨日の11月4日でした。大方のフィンランド人はその日、教会の墓地にロウソクを持って行って墓に火を灯します。風で消えないようにガラスや耐熱プラスチックの瓶に入っているロウソクです。
日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランド人も墓に花を飾りますが、「供える」という意識はありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、または見えない誰かに語りかけることもしません。墓はあくまで家族の記念碑です。それに、キリスト信仰では、見えない誰かに語りかける時、相手は父なるみ神と御子イエス様以外にはありません。日本人の場合は、亡くなった方が今もまだ身近にいるような雰囲気があり、お墓や仏壇がその雰囲気を作り出す役割を果たします。
キリスト信仰では、亡くなった方は思い出の中に残るので、故人の思い出/メモリーを尊重するというふうになります。フィンランドで墓にロウソクの火を灯すのは思い出をともし火のように輝かせることを象徴する行為と言えます。かの地では「故人の思い出に蝋燭の火を灯す」という言い方をします。日本人の場合は尊重するのは故人の今身近にいる霊とか魂になるので、現在も故人と繋がりがあることが意識されます。それなので、尊重するのが過去の思い出になってしまったら、今は故人との繋がりがなくなってしまうと心配する人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰があり、復活の日に懐かしい人と再会できるという希望があります。それで、あの方と共に過ごせた日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような方を与えて下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自分自身、復活の日に向かって今を生きるというスタンスになると言えます。
全聖徒の日、白夜の季節が終わった北欧の暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「小羊の血で衣を白くされた大群衆」を彷彿とさせます。
追記 全聖徒の日の前日のフィンランドのテレビニュースを見た時、墓石会社の人のインタビューがありました。今フィンランドは教会離れ聖書離れが進んでいるが、まだ故人の思い出を尊重する伝統は続いている、ただし、将来この伝統が続くかどうかはわからない、などと話していました。聞くところによると、最近国教会に属するクリスチャンの中にも、亡くなった人は今空高くどこか雲の上にいて下にいる私たちを上から見守ってくれているなどと言う人も出てきているそうです。それはキリスト教的ではありません。この世の人生を終えた方は今、神のみぞ知るところにいて復活の日まで安らかに眠っていて、その日に目覚めさせられるというのがキリスト教の復活だからです。
スオミ教会におけるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の牧会と伝道について
今から10年近く前のこと、日本の教会関係者がフィンランドを訪問して牧師同士の交流の機会を持ちました。 まだ東日本大震災から間もない頃でした。日本の牧師がフィンランドの牧師に尋ねました。フィンランドの牧師たちは原発反対運動をしないのですか?していない、との答えに、日本側は、どうしてしないのですか?その聞き方が少し強い調子だったせいか、フィンランドの牧師は少しぶっきらぼうに「私の仕事は人間を天国に送ることだ。」日本側は、こりゃだめだ、という雰囲気になりました。
もちろんフィンランドの牧師も、牧師が原発反対運動をしてはいけないという意味ではなかったと思います。ただ、日本の牧師先生の言い方が、反対運動しないと牧師に値しないという雰囲気があったので、自分の本来の仕事はこれなのだという答えになったと思います。
「天国に送るのが仕事」などと聞くと、大抵の日本人は不気味な感じがすると思います。それは、日本人の死生観に復活の信仰がないからです。この世の人生は復活の日を目指して歩む旅路だと考えるキリスト信仰者にとっては別に変でも何でもなく当たり前のことです。
スオミ教会の牧師として、またSLEYの宣教師として、スオミ教会は聖書の御言葉を正しく教え聖礼典を正しく執行する教会であることを信徒の皆さんが信頼して繋がって下さることを願っています。確かにスオミは、ハレルヤ!ハレルヤ!と叫び合うような熱気はないし、また多くの教団のように社会改革の先頭に立とうとする教会でもありません(ここで、かつて政治学者の丸山真男が発表論文を本にまとめて「後衛の位置から」というタイトルを付けたことを思い出しました。自分は「前衛」とは違う立場であるということを表明したのでしょう。)
この激動の時代の中にあって、一人ひとり置かれた境遇は異なり向き合う課題は異なるが、将来の復活の日を目指してこの世を歩み、いろんなことに遭遇し悩み考えながらも、聖書の御言葉と聖餐から歩む力と勇気と愛を受け取る、信仰の兄弟姉妹と一緒に受け取る、そうやって一緒に復活の日を目指して歩む、それがスオミ教会なのだと考えています。この一緒の歩みを支えるのが牧会、この歩みに一人でも多くの方が加われるようにするのが伝道と考え、任にあたってまいりたいと思います。
スオミ教会の新しいシンボル - 白樺の十字架
この秋最初の子ども料理教室は10月28日に開催しました。この日の朝も太陽が青空に輝き、清々しい気持ちで一日を迎えることができました。今回作るのはフィンランドのオートミール・パンです。
子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。オートミール・パンはイーストで発酵させるので、今回は一つの生地は先に発酵させて準備したので、もう大きく膨らんでいました。それですぐパン作りを始めることができます。テーブルの上に置いた生地をお子さんが一生懸命こねて細長く丸め、それからパンの大きさに切っていきます。その後は楽しい形作りです。丸形、細長い形、お子さんの年齢から取った数字の6の形など、いろんな形のパンがあっという間に鉄板を一杯にしました。これから二回目の発酵をします。
お子さんはやる気一杯、自分でも生地を作ってみたくなったので、新しい生地を初めから作り始めました。材料をレシピの通りに測ってボールに入れて小麦粉を少しずつ加えていきます。お子さんは生地をこねるのがとても楽しそう。柔らかい生地の出来上がりです。新しい生地を作っている間に発酵させたパンは大きく膨らみました。それをオーブンに入れます。パンを焼いている間に上にのせるハム、チーズ、きゅうりのカッティングをします。
もう一つの生地も大きく膨らんだので、それもパンの形にして鉄板の上にどんどん並べていきます。ちょうどその時、オーブンがある台所からパンの香りが教会中に広がりました。パンにはきれいな焼き色がつきました。どんな味に焼き上がったのかな。
味わう前に聖書のお話「五つのパンと二匹の魚」のフランネル劇をみんなで一緒に観ました。イエス様はたった五つのパンと二匹の魚で5千人の人たちに十分な食べ物を与えました。イエス様はそのパンと魚を手にとって、天を見上げて神様に感謝の祈りをさざけました。すると、イエス様のお話を聞きに集まってきた人たちは皆お腹一杯に食べることができたのです。それだけではありませんでした。食べ残しを集めると12の籠が一杯になる位の量になったのです。神さまは私たちが思っている以上のことをして下さるというのがイエス様の奇跡の業であることがよくわかるお話でした。
フランネル劇の後、みんなで食前のお祈りをして自分で形を作った焼きたてパンを頂きます!パンを真ん中から二つに切って、間にマーガリンを塗ってハム、チーズ、トマトをのせてサンドイッチにしたり、二つに切ったパンのそれぞれの切り口にハム、チーズ、トマトをのせてオープンサンドにしたり、皆さんの好みに合わせて頂きました。美味しく食べながら、幼稚園の話や趣味の話など楽しい歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。
説教をYouTubeで見る。
ヨハネ8章31節〜36節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。今日のこの福音書は、イエス・キリストが、信仰とは何か、真理とは何か、そして自由とは何か、そしてそれがどのように私たちにあるのか、を私たちに伝えてくれています。それらの言葉はいずれも聖書では、救いに結びつく大事な言葉であり、また福音でもあるのですが、それが救いのための大事な福音であるがゆえに、悪魔が何より絶えず攻撃し惑わす言葉でもあり、人間の側で都合よく理解され、正しく理解されなかったり、歪められたりする言葉でもあります。
A,「何を信じる信仰?」
聖書の伝える「信仰」。それは何を信じる信仰でしょう。それはキリストは世界に政治的社会的な変革をもたらす救い主であるという「信仰」でしょうか?イエス様の時代にも、キリストはローマからの圧政から解放してくれる政治的なメシヤという期待がありました。あるいは、信仰とは、人間の側で律法や聖書の約束を精一杯行い実現し完全に果たせば救われ神に受け入れられるという律法としての「信仰」でしょうか?これもイエス様の時代には、ファリサイ派の人々やユダヤの宗教指導者たちはそう信じ、そう教えてもいました。8章の最初では、彼らはまさに姦淫の現場で一人の女性を捕まえて石打ちにすべきではないかと言っているように、守られないものは救われないし殺されなければならないし、そして守っている自分たちは救いに一番近いし、誰でも裁くことができると信じていたし、そうすることが彼らの「信仰」でもあり信じる救いでした。そのような理解は現代のキリスト教会にさえあり、福音や救いはまだ十分ではなく不完全であり、自分たちが約束やその未完成な福音を実現し果たすことによって福音も救いも完成させるのだ、それが信仰、救いであり、そのように信仰は律法であり、救いは人間の意志の力と努力による協力で人が完全に果たされなければならないのだという教会やクリスチャンも少なくなりありません。あるいは、もう単純に、人間中心の期待や願望の通りに実現するように信じる信仰、その通りになったら信じるというご利益信仰のような「信仰」という理解も多いことでしょう。しかし、そのような信仰がイエス様の伝える信仰なのでしょうか?
B,「聖書の伝える真理とは?」
では、「真理」とは何でしょう。この相対主義的で個人主義的な傾向の強い現在は、真理という言葉は非常に立場の狭い言葉です。「真理は他者を排除するものだから、教会でもあまり言わない方が、あるいは強調しない方が良い」と教える教会やクリスチャンは沢山あります。そして言うのです。真理は人それぞれ、多種多様なんだと。今日のところで「真理は自由にする」とあり、真理は救いに関わるものであるのですが、その真理も、そのような現代の世の受け入れられやすい風潮に従ってそのような多種多様な「真理」を聖書は伝えているんだと、人間に都合の良い解釈に変えてしまい、どんな宗教のどんな真理でも自由にするんだ、結局は登山口やルートが違うだけで、どの真理から登っても、同じ頂上の救いに至るんだと平気で教え信じる教会やクリスチャンもいます。しかし聖書の伝える真理とは果たしてそうなのでしょうか?
C,「聖書の伝える自由とは?」
では今度は、「真理はあなたたちを自由にする」、その「自由」とは何でしょうか?これもさまざま理解される言葉です。自分中心で、自分の欲望の通り、好き勝手にできること、それが自由である、世の人々はそのように考えることでしょう。同じように、キリスト教会やクリスチャンの間でも、そのように好き勝手に感情のままに行動できること、聖書を解釈できることが自由だという人もいますし、あるいは、それに少し高尚な理由づけを加え、宣教や伝道、愛や隣人愛などを掲げて、その名の下に、しかし人間中心に、人間に都合よく、自由に聖書を解釈することや、自由に感じるままに感じ取ることが聖霊の働きなんだ、と非常に巧妙に、最もらしく聞こえるように自由を主張する人々もいます。しかしそれが聖書の言う自由なのでしょうか?
このように、信仰、真理、自由、それらは、救いに関わる大事な言葉であるのに、このように多種多様に理解され多種多様に用いられ、かつそれが「人の前」では支持されてもいますが、しかし、それは「神の前」では、イエス様が「ああそうか、良かった」と喜ばれる状況では決してありません。なぜなら、イエス様は、今日のこのところで、そのような罪深い人間の風潮やトレンドとは真逆の、何を信じることが信仰であり、真理とは何か、その真理が自由にするという「自由」とは何なのかを、私たちに教えてくれているからです。
今日のところの一節前の30節には、「 30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」とあります。しかし、8章11節までの姦淫の女性の話の後にイエス様が教えていることは、12節からにせよ、21節からにせよ、かなり難解です。21節以下などは、イエス様だけが知っている、ご自分が今まさに十字架にかかって死ぬことや、そしてイエス様は父と一つであるという三位一体を示すようなことを伝えており、27節では彼らは「悟らなかった」とも記されています。さらには、今日の箇所の後の37節ではその「信じた」と言っている人々を指して「あなた方は私を殺そうとしている」とさえあるのです。ですから、ここに「人々が信じた」とあるのは、おそらく、革命者であるメシアをイエスに見ていた人々と同じように、あるいは、試しにきたファリサイ派の人々ように、非常に表面的なものか偽りのものであったことでしょう。というより何よりも、人間は口でいくらでも「信じる」と口にできたとしてしも、イエスの示す真理には、罪深い肉の思いのままでは、自らでは決して理解することも到達することもできない人々の姿もまたここには表されているのです。
そのような人々へです。31節、イエスは教えるのです。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
A, 「み言葉によって真理へ」
まず教えられるのは、私たちは自ら、自らの力や意思では、決して真理を悟ることも到達することもできません。しかし、イエス様はここで、私たちがそのように自ら真理を悟り到達「しなければならない」ということも教えていないでしょう。つまり「私たちが自ら真理に至らなければいけない、そうでないと救われない、そのように自ら真理に至って自ら自由になりなさい」、というのが聖書の教え、イエス様の教えではないことがここにわかると言うことです。イエス様はそんな悟りの遅い、あるいは表面的な、打算的な信仰者であってもその彼らのためにこそ、そして、人は自らでは悟ることは決してできないからこそ、彼らに「わたしの言葉に留まるならば」と言う大事な言葉を言ってくださっているでしょう。「わたしの言葉をあなた方が自ら悟り理解したら、あなたたちは本当にわたしの弟子です」とは言っていません。「留まるなら」と言っています。英語のESVですと「abide in My word」とありますが、「abide」は我慢する、耐えるという意味の他に「住む」という意味もあります。そのように、イエスの教えることをそのまま聞き、そのまま受けとり、そしてそこに縋り、しっかりとしがみつき、イエスの言葉が心に住まい続ける時に、私たちの力ではない、そのイエス様の言葉とそこに働く聖霊によって「真理を知る」ようになるという恵み、イエス様のみわざをイエス様は教えていることがわかるのです。これはとても感謝な平安のメッセージです。この後見ていくように、真理は多種多様ではなく、イエスが与える唯一の救いの真理を伝えます。それが自由にする真理です。しかしそれは決して私たちが自ら得なければいけないということではないのです。人間の側で、頑張ってその真理を理解したらわかったら、救われるという律法をイエス様は決して伝えていません。どこまでも「わたしにとどまるなら」です。皆さん、真理を知ることは律法ではありません。真理は、イエス様のみ言葉にあり、イエス様の教えにあり、そこに留まり聞くことによって、イエス様が教え、悟らせてくださる恵みであり福音であるということなのです。
B,「何からの自由か?:誰でも罪の奴隷である」
しかし次にその真理とそして自由です。それは、先ほども言いましたように、多くのそれぞれの真理があってどの異なる登山道を通っても結局は同じ頂上の救いに至るという多元主義者がいうような多種多様な真理のことをイエス様は言っているのではありません。32節「32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 と言った後、それを聞いていた人は、まだ目が開かれていません。むしろイエス様が言おうとしている「自由」の意味を、彼らは人間的な視点での自由でしか判断できません。33節
「33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
「誰の奴隷になったこともない」と、彼らは「自由」という言葉を、物理的な身体的な束縛以上のことでは理解できないのです。そして「なぜ自由になるというのか」と自分たちは何者にも束縛されていないかのように彼らは答えるのです。ちなみに彼らは物理的には実際はローマと皇帝と親密なヘロデに服従させられているのにも関わらず自由だと言っているのですから、その言葉が彼らの虚飾と自尊心で言っている「強がり」であることも窺い知ることもできます。しかしイエス様はここで、そのような物理的肉体的な束縛や奴隷状態のことではなく、むしろ「神の前」にあっては人は何の奴隷であり、そして真理は何から自由にするのかを、はっきりと教えます。
「34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」
イエス様は、言います。罪を犯すものは誰でも罪の奴隷であると。ある人は言うかもしれません。「私は罪を犯していない」と。確かにここに聞いている人は、日本の刑法に触れることはしていないでしょうし、道徳に反することもしていない人であるかもしれません。しかしここでイエス様がいう「罪を犯すもの」はまさに神の前にある律法、十戒に照らしてあなたは罪を犯したことはないかを問うているのです。この8章の初め姦淫の女の出来事の7節ではイエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 と言った時に、律法学者たちやファリサイ派たちは「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」ました。彼らは、表向きは立派で律法を守っていると自負する人々ですから、そのような犯罪とか犯したことはない人であったかもしれませんが、しかし、彼らも十戒に照らすときに、これまで全く背いたことがない、罪を犯したことがないとは誰も言えなかったのです。それはアブラハムの家の子孫だからと家柄や地上のいかなる権威でさえも抗うことのできない現実です。37節を見ると
「37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」
そう、「信じる」といっているアブラハムの子孫である彼らのこれから成そうとする策略までも見通して、未来に至るまでも、あなた方は罪を犯さないものではないとイエス様は言っています。「信じると言っているあなた方が、わたしを殺そうとするのだ」と人間がいかに罪に縛られていて自由ではないかをイエス様は言っているのです。私たちも人の前では刑法や道徳に触れることはしていないかもしれません。「罪人だと言われても、私はそんなに悪くはない。そんなに罪罪、言わないでよ。気分が悪い」と言うかもしれません。しかし、誰でも、私自身も、十戒の前に照らし出されるときに、私たちも誰一人、姦淫の女に石を投げることができないものです。確かに行為として盗んでいません。殺していません。姦淫していません。しかし心の中の罪は計り知れません。そして何より、イエス様が十戒を要約して律法全体がこれにかかっているとして「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、神を愛しなさい、隣人を愛しさなさい」(マタイ22章36−40節)と命じていることを、私たちは誰も完全に果たせていると言える人はいません。神よりも隣人よりも自分が中心で、自分を何よりも愛するものです。創世記3章などの罪の根源である初めの人の誘惑に照らすなら、私たちは誰でも、神のようになれるという誘惑に負けて自分を神のようにする自己中心な存在ではありませんか。私自身がそのようなアダムの子孫である紛れもない罪人であり、まさに罪に縛られてどうすることもできない存在であることを認めざるを得ません。ヨハネはその最初の手紙1章でこのように私たちに教えています。
「8自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。〜10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1章8節、10節
私たちは罪人です。罪があるのです。罪の奴隷であるのです。ヨハネは罪がないと言うなら、真理も、神の言葉も、私たちのうちにはないと、今日のところに重なるように言っているでしょう。しかし、それは同時に、教えられます。私たちが神の言葉から、何に縛られ、何の奴隷であるかがわかるからこそ、その束縛から解かれなければならないことがわかり、だからこそ神の与えようとしている救いの真理がわかるようになる。その神の言葉が私たちのうちにあって真理に導いてくださるのです。そしてその時に、その自由は何であるのかも見えてくるでしょう。そう、イエス様が伝える自由は、人間が好き勝手に欲望のままに何でもできる自由では決してない。それは神とその言葉によって、罪の奴隷、罪の束縛から解かれ自由とされると言うことなのです。
C, 「イエスが伝える「真理」とは」
さあ、その神がイエスを通して与える、罪の束縛から解放する「真理」は、皆さん、もう明らかでしょう。イエス様はそのために預言で約束され、約束の通りに世にこられ、そして初めからこのことを真っ直ぐと見て、教えてきたでしょう。そうです。真理とはこの私たちの罪のための贖いである十字架と復活に他なりません。イエス様はそのためにこの地上に人としてお生まれになります。イエスはただ、道徳的な模範なんだと教える教会もあるかもしれません。私たちが自分たちの努力や意志で律法に従い律法を果たし義となるための模範を示すために来たと。しかし、それでは誰も自由にしません。イエス様が人となられたのは、私たちの罪の奴隷からの解放であり、それはそのご自身の肉体に、私たちの底なしの罪と私たちが本来負わなければならなかったその罪の報いである死と罰を、代わりに受けることによって、神の前にイエス様が罪に定められる代わりに、私たちに罪の赦しを与えるためではありませんか。そのように神はこのイエス様の十字架にあって「あなたに罪はない。義である」と罪の赦しを宣言することによって、私たちを神の前にあって罪の束縛から解き放ってキリストにあって本当に自由にするためにこの真理を与えてくださっているのです。そして、その真理も自由もどのように私たちに来るのか?それは、どこまでも御言葉を通して与えられるのであり、み言葉を通して罪を認めさせられ悔い改めさせられ、そこで人は刺し通され痛みがあり絶望するのですが、それで終わりではない、まさにその時にこそこの真理、どこまでもイエス様がしてくださった一方的な罪の赦しをそのまま信じ受け取るだけで「あなたの罪は赦されている。安心していきなさい」とイエス様は宣言してくださるのです。先ほどの罪を示すヨハネの手紙の言葉にはこのような言葉もしっかりとあります。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1章9節)
そして、第二の聖書日課の箇所ローマ3章24節でもパウロは教えています。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」
さらには、パウロはその悔い改めも、信じる信仰さえも、そのまま受け取ることさえも、それは、私たち自らの努力とか行いとか意思の力とかによるものではないことまでも教えています。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」フィリピ2章8−9節
みなさん、このみ言葉を通して、恵みによって真理を知る信仰が与えられ、その信仰によって誰でも自分の罪が赦され、罪の束縛から解放され、「あなたの罪は赦されています」「正しい」と宣言され、自由とされる。安心していくことができる。それはどこまでも一方的な神のわざ、神の恵みである。律法ではない、福音であるのです。
昨今、この真理も自由も信仰も、人間中心に考えられることによって、律法か放縦か、いずれかに偏った聖書の教えがされます。しかし、それらは律法であっても放縦であってもいずれも人の行いに依存しているのですから、どこまでも福音ではなく律法による歩みです。個々の人間自らが一生懸命獲得する真理、自由、信仰であるか、あるいは人間が好き勝手に解釈していい真理、自由、信仰であるのか、いずれかです。それはどちらも間違いであり、イエス様が与えると言われた真理も自由も平安もありません。ルターの宗教改革運動も、当時の腐敗した、人中心の間違った教えから、真の神中心、キリスト中心の「恵みのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」に立ち返り、真の真理、自由、信仰、そして平安を教会と人々に回復することでした。その改革の精神は、昔の単なるノスタルジーで今は関係ないことでしょうか?あるいは、現代風に新しく再解釈していくものなのでしょうか?そんなことはありません。今も決して失われてはいけないものではないでしょうか。私たちはいつでも永久に変わることも朽ちることのない十字架と復活の主イエス・キリストの言葉に立ち返り、すがり、留まることができ、聖書から「人が何を聞きたいか」ではなく「神が何を伝えているのか」を聞けることこそがクリスチャンの幸いでありいのちの歩みでしょう。その真理こそ今日も私たちを自由にするのです。そしてそのキリストが与える真理と自由に与るからこそ、私たちはルターが「キリスト者の自由」で「キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何者にも従属せず、キリスト者はあらゆるものの、最も義務を負っている僕であって、全てのもののに隷属している」と言っているように、真の自由と平安のうちに、今度はキリストの自由な奴隷として、本当に自己中心や自己愛などの罪な動機や思いに縛られないキリストの平安と喜びに満ちて、真に隣人に仕えていくよう用いられていくのです。
だからこそ、今日も神の前に罪人であることを認めさせられ刺し通され悔い改めに導かれる私たちですが、だからこそ十字架と復活の福音の言葉を語り、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と言ってくださるイエス様の声を聞き、自由にされ、平安のうちにここから遣わされて行こうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
今回はフィンランドの「クリスタル・コーヒー・ブレッド」を作ります。フィンランド語で「Kristallipulla」と言います。 バニラシュガーが沢山入っている「クリスタル・コーヒー・ブレッド」は多くのフィンランド人にとって最も人気のある美味しいコーヒー・ブレッドの一つです。フィンランドはこれから寒くなって気温が氷点下に下がると、木の枝の水滴が凍って水晶のように輝きます。トッピングのバニラシュガーが輝いて見えるのでこの名がつきました。
是非ご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
人数制限がありますのでご注意ください。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1745199194iamg@1745199194arumi1745199194hsoy.1745199194iviap1745199194 まで。 電話03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 www.suomikyoukai.org
この秋の最初の手芸クラブは10月25に開催されました。10月の終わりなのに寒くなく秋の爽やかな朝にスオミ教会に集まりました。
今回の作品はかぎ針編みです。かぎ針編みのテクニックを使って作ったペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きをモデル用に準備しました。最初にそれを見て参加者の作りたいものを選びます。今回は参加者の皆さんは小物入れに興味を持ってそれを編むことにしました。
まず、好みの色の糸を選びます。それからかぎ針編みの基本を思い出しながら作っていきます。初めは鎖編みでスタートして、それを丸くしてから1段から3段まで長編みと鎖編みの繰り返しをします。編んでいる内に四角の形になります。最後に四角の周りに小編みをして一枚目が出来上がりました。皆さんは可愛い色の四角を上手に2枚編みました。残りの2枚はお家で編んでもよいし、次回いらしたときに編んでも宜しいです。残りの2枚が出来てから小物入れになるように組み合わせをします。お家で仕上げられた方もいました。
今回は編み物に集中したためか、時間はあっという間に過ぎて、いつの間にかコーヒータイムになりました。そこでモニターから映し出されるフィンランドの秋の景色を眺めながらヴィヴァルディの「四季」の中から「秋」の演奏を聴き、コーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。歓談の時を持ってから、フィンランドの「編み物会」やお祈りについてのお話がありました。
次回の手芸クラブは11月29日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
この間私たちのミッション団体の雑誌を読んだ時、フィンランドの教会の「編み物会」ついて面白い記事がありました。その記事について少し話したく思います。
フィンランドでは「編み物会」という教会の活動が1800年代後半にとても盛んになりました。会の名前は「編み物会」ですが、そこに集まった女性たちは編み物だけではなく色んな手芸もしました。女性たちは教会に集まって、手芸をしたり、いろいろ話し合ったり、コーヒーや紅茶を飲んだりして、聖書の教えも聞きました。この時代、多くの女性たちの生活は家に限られていたので、「編み物会」は女性たちにとって大事な社交の場になりました。「編み物会」は、ただ集まって楽しい時を過ごすことだけが目的ではありませんでした。この活動はもっと深い意味がありました。女性たちは「編み物会」で作った手芸品をバザーで販売して海外ミッションの為にお金を集めました。教会の海外伝道すなわちミッションを支えるという役割を果たしたのです。
フィンランドのルター派の国教会は、多くの宣教師をアフリカ、ヨーロッパ、ロシア、アジアに派遣してきました。この働きのためにはお金が必要です。フィンランドの教会ではクリスマスやイースターの前にバザーが行われます。女性たちはバザーで「編み物会」で作った手芸品を売って、得た収入をミッションのために寄付しました。このため「編み物会」の名前も「ミッション編み物会」とも言われます。