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私とパイヴィが日本に派遣されたこの13年間、日本では牧師というのはキリスト教会の中では絶大な権威があることがよくわかりました。 以前、赴任していた教会で、牧師先生の聖書の教えがどうも良くなく、新奇をてらいたいのか、聖書で言われていることと明らかに関係ないことを関係あるように言われる。しかし、信徒さんたちは皆、「聖書のプロ」が言うことだから真理だと思って受け入れる。ある人は講義のごとく賢明にノートを取っている。本当に聖書はそんなこと言っているのかな?と疑問を抱く瞬間があっても、すぐああ、そういう理解の仕方もあるんだ、さすが牧師先生!と牧師の方を持ち上げてしまう。(また、人間味溢れることを示すためか、牧師同士や信徒と一緒に酒を飲むなど、権威のソフト面を怠らない人もいました。)
このような日本における牧師の権威を考えると、今回、牧師の按手を受けた者として聖書を教えるというのは大きな危険が伴うことをよく自覚しています。どうしたらいいのか?ルター派の牧師としてなすべきことははっきりしています。律法と福音の説教を続けるのみです。牧師の中には説教の中で罪に言及しなかったり、したとしても過去の遺物か、ただのお飾り言葉になってしまう人もいます。キリスト教徒になったとは言っても、私たちがどれだけ神の意思に反する存在であるか、それを心に思い起こさせることはせず、そのまま神の愛とか恵みとか言ってしまうのです。しかし、ルター派の律法と福音の説教は、自分がどれだけ神の意思に反する存在であるか思い起こさせた返す刀で信仰者の目をゴルゴタの十字架に向けさせます。その瞬間、信仰者はキリストの償いの業のゆえに罪の赦しは本物で、自分はそれを受けていると確信でき、これからは神に背を向けず神の意思に沿うように生きようという心になります。それが律法と福音の説教です。そういう心を生み出すことをせずに神の意思に従わせようとするのが律法主義です。
聖書の御言葉には耳障りのいい言葉だけでなく耳の痛い話も沢山あります。耳障りのいい話だけ集めて教えるのは確かに信徒さんたちの人気と信望を勝ち得る最短の道ですが、耳の痛い話があってこそ神の愛と恵みが本当に神的なものであること、人間的なものを越えているとわかる道です。まさにそれがルター派の説教が目指すところのものだと考えます。
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ルターの聖句の説き明かしから
フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」(1878年初版)から
「あなたは兄弟の目に埃があるのを見て、自分の目に材木があるのを気がつかないとは一体どういうことか?」 マタイ7章3節(フィンランド語の聖書からの訳)
もし君がしっかり目を覚ましているのなら、君くらいの沢山の罪を他の者に見出すことは決してない。他の者に沢山の罪、1年分ないし2年分の罪を見出すとする。ところが君は自分の内に一生分の罪を見出すのだ。特に他の人たちが知らない酷い行いに気づき、君は自分を恥じずべき存在だと思い知る。また、たとえ隣人の中に何か悪いものを見つけても、君は背を向けてはいけない。逆に、その人の良い面に目を向け、君が神から受けた賜物で助けてあげ、悪いものを覆ってあげて、その人に関することを良い方向に捉えてあげて、助言をしてあげなければならない。
たとえ君が最も敬虔な人間だとしても、他の者を裁くことで最も悪い者になることを知らねばならない。君は自分をおだてるために神から賜物を与えられたのではない。隣人が必要としている時に助けてあげるために与えられたのだ。君の力で隣人の弱さを支えてあげよ。君の敬虔さと栄誉をもって隣人の罪と恥を覆ってあげよ。神はキリストを通して君にそのようにして下さったのだ。今も毎日毎日そうして下さるのだ。もし君がそのようにせず、他の人たちを蔑むのなら、君は他の者の目に埃を見る時、実は神のみ前で大きな材木を目に入れた者であることを知るべきである。
夏の後のフィンランド家庭料理クラブは10月14日、秋の爽やかな気候の中で再開しました。今回はフィンランドの秋の季節に合わせてベーコン・キノコパイを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にパイ生地を作って冷蔵庫に入れておいて冷やします。次に中身の準備。参加者みんなでキノコ、ベーコン等を一生懸命刻みます。色とりどりの中身をすぐフライパンに入れて炒めると、だんだん美味しそうなキノコの香りが広がります。皆さん、どんなパイになるか興味が高まりました。中身を冷ましている間、トッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜて出来上がりです。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に冷やした中身を載せます。その上にトッピングを流し込んで、最後にチーズをかけてオーブンに入れます。
パイが焼けている間、楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がると、皆さん興味を持って順番にオーブンの中を覗いてみていました。
ベーコン・キノコパイは焼き上がってからしばらく冷まします。皆さん席に着いて出来たてのパイを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」と言う声がテーブルのあちこちからあがりました。このパイをまさに秋の季節に皆さんと一緒に作って味合うことが出来て良かったと思いました。パイを頂きた後で、フィンランドの森のキノコと聖書の中にある種蒔き人のお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドの森では、何百もの種類の食用キノコが育ちます。8月と9月はキノコ狩りの季節です。その頃、多くのフィンランド人が森にキノコ狩りに行きます。キノコを採るのを趣味にしている人も大勢います。秋の森は紅葉が美しく、涼しい季節なので蚊や蠅もいなくなり、森の中を歩くのはとても楽しいことです。キノコを採る際には、いくつか覚えておかなければならないことがあります。そのためにキノコ狩りの講習会も開かれます。
キノコを採るときは、雨の日ではなく天気のよい日を選びます。雨にぬれたキノコとカラッとした天気のキノコは見た目は違うし、雨に塗れたキノコは早く悪くなるからです。キノコを採りに行くとき、持って行く道具として、入れる物やキノコ狩り用のナイフも大事です。キノコをつぶさないためにカゴは大きめのものにします。キノコは、キノコ狩り用ナイフを使って地面から掘り出し、ナイフに付いているハケで土やほこりを落としてきれいにします。キノコは、バラバラにならないように、全体のままカゴに入れます。全体のままのキノコは、後で食べられるかどうか確認するために大事です。キノコを採るときにはいつも、食べられるかどうか見分けがつくものだけを採ります。
フィンランドは毒キノコの種類も沢山あるので、それを見分けるためにキノコのカイドブックがあります。キノコ狩りをする人たちは普通、ガイドブックを持って本を見ながらキノコを採ります。
多くのキノコは調理をする前にお湯でゆでなければなりませんが、アンズタケはゆでないで直接フライパンでいためたり、ソースをかける料理の中に入れることができます。アンズタケは、フィンランドで一番おいしいキノコと言われます。もう一つとてもおいしいキノコはヤマドリタケです。これも、アンズタケと同じようにゆでないで直接調理に使えます。私の実家がある地域ではアンズタケとヤマドリタケはあまり育ちませんでしたが、アカチチタケは多くてそれをよく採りました。それは料理する前にゆでる必要があります。家ではアカチチタケのサラダをよく作りました。
キノコの収穫は年によって変わります。もし雨が多い温かい夏でしたら、キノコが沢山できます。フィンランドのことわざに、もし何かが沢山あることを言い表わす時、「きのこが雨の中で沢山できるくらいにある」と言います。
キノコが好きな人たちは、たくさん採って一年分くらい食べる量を保存します。キノコはどのようにして保存したらいいでしょうか?一番伝統的な方法は塩で保存することです。簡単なのは冷凍することです。他の保存方法は、ヴィネガー漬けにしたり、乾燥します。
私は、秋、森の中を歩いている時にキノコが見えると、いつも不思議な感じがします。それは、夏、同じ森を歩いている時、キノコはまだ何も見えません。しかし、夏の間キノコの胞子が土の中にあって、秋になるとキノコが土の中から出てきます。それは土にはキノコが育つ為に必要な栄養素や水分が蓄えてあるからです。森の中のキノコは人間が育てるものではなく自然に育つものです。しかし、本当はキノコや他の自然の植物も育てられるものです。誰によって育てられるのでしょうか?それは天と地と人間を作られた天の神さまが育てるものです。
私はキノコを見ると、イエス様が話された種の話を思い出します。それは、種まき人が一度種をまくと、あとはその人が知らないうちに種はぐんぐん成長していくという話です。
「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず、茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。 (マルコ4章27-28節)
このたとえをよく見てみましょう。ある人が種を土に蒔きました。種は芽を出して成長し始め、茎、穂、そして穂に豊かな実を結びました。そうなったのは種を蒔いた人が肥料を与えたからでしょうか?いいえ、不思議なことに蒔いた人が知らないうちに種が成長していったのです。人が何もしなくてただ寝起きている間に土は実を結ばせたのでした。
イエス様はこのたとえで何を教えているのでしょうか?種とは、天の神さまのみ言葉です。神さまのみ言葉は聖書の中にあります。土は私たち人間の心を意味します。私たちが聖書のみ言葉を読んだり聞いたりすると、土に蒔かれた種と同じようにみ言葉が心に蒔かれます。神さまはみ言葉が蒔かれた心に成長を与えます。心の成長は、私たちの自分の力や努力で与えることは出来ません。天の神さまが、私たちの知らないうちに与えて下さるものです。このように私たちの心の成長は完全に神さまの働きです。神さまの働きがあると、私たちは神さまを信頼するようになって全てのことを神さまに委ねるようになります。この時、私たちは神さまのことをもっとよくわかろうとして聖書を読んだり、み言葉に聞いたりして神さまとの繋がりを強めます。神さまとの繋がりが強まると、心の中に喜びが生まれます。神さまも、私たちを導いてよい実を実らせるようにしてくださいます。
森の中を歩く時、キノコはどこで育つかは私たちには見えませんが、神さまはキノコの胞子があるところをご存じで成長を与えます。同じように神さまは私たちの心を知っておられ、聖書のみ言葉を通して私たちに心と信仰の成長を与えます。
牧師の週報コラム - SLEYは150歳になりました!
「フィンランド・ルーテル福音協会」(Suomen Luterilainen Evankeliumi-yhdistys -SLEY)は1873年にフィンランドのルター派国教会の中で活動する団体として結成されました。今年は150周年の記念の年です。
団体結成に至る背景は、1700年代のドイツや北欧のルター派教会をめぐる状況があります。当時のヨーロッパのイデオロギーの潮流は信仰よりも人間の理性に重きを置く合理主義が主流でした。それに対してルター派教会の中は、宗教改革の教義を厳密に体系化した正統主義が主流でした。そのような時に、信仰の危機を見て取った人たちが、信仰者個人の内面の敬虔さや「悔い改め」の体験を追求する「敬虔主義」と呼ばれる信仰復興運動を起こしました。これがドイツや北欧でまたたく間に広まりました。
フィンランドは1809年にスウェーデンからロシア帝国に併合されましたが、国教会制度はそのまま存続したので信仰面ではドイツ・北欧の影響下にありました。そのような時にF.G.ヘドベルイという牧師が、敬虔主義の主観的な救い観に対して、たとえ信仰者が罪に堕ちて敬虔さが傷ついても、主の十字架の贖いの業には何の影響もなく罪の赦しの恵みは微動だにしないということをルターの神学から見出して主張。それが多くの牧師と信徒の賛同を得て「福音派」と呼ばれる信仰復興運動が誕生しました。その運動が1873年にSLEYとして結成されたのでした。SLEYはまた国内伝道だけでなく海外伝道も始め、最初の伝道地として日本を選び1900年から宣教師を派遣して現在に至っています(「福音派」といっても現代の北米などの福音主義とは異なります)。
客観的な恵みと救いを強調すれば、聖書の御言葉も人間が勝手に手を加えられないものになり、SLEYは本質的に保守的です。フィンランドの国教会は近年リベラル化が進み、SLEYとは多くの軋轢があります。しかし、国教会の中には教会の現状を憂えSLEYに賛同する人たちも大勢いるのです。
先週の週末は全国各地のSLEYの教会や国教会の教会で150周年の記念礼拝や行事が一斉に行われました。ヘルシンキではSLEYの2つの教会の他に、観光名所として知られるテンペリアウキオ教会でも音楽聖餐式礼拝が行われ、若者を中心に700人もの出席がありました。Youtubeで見る
今回はかぎ針編みをします。かぎ針編みは現在も人気がある昔からの手芸テクニックの一つです。かぎ針編みで可愛い手芸がいろいろ出来ます。 今回はペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きを作る予定です。作りたいものをお選びください。
材料費は編み物により変わります。500円~
好みの糸や毛糸を持っていらしても大丈夫です。
手芸クラブは他に自分の好きな編み物をしたい方も参加できます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
お子さん連れでもどうぞ!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1745211076iamg@1745211076arumi1745211076hsoy.1745211076iviap1745211076
www.suomikyoukai.org
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
本日、礼拝後スオミ教会の今後を決める大事な会議がありました。結果スオミ教会は日本福音ルーテル教会としての組織を解散してSLEYと行動を共にすることになりました。 前途多難が待ち構えている事と思いますが兎に角船出しました。どうか主よ我らを守り給え。
以下は、第1ヨハネ5章4節「世に勝つ勝利は我らの信仰なり」のルターの説き明かしです。
『信仰の奥深い業と力は、見えないことを見るということにある。さらに、感じることを見ない、圧迫するもの苦しめるものさえも見ないということにある。翻って、不信仰は感じることだけを見、感じないことは一切信用しない。それゆえ神が事を成し遂げると、信仰はちっぽけなことと関りを持たず、この世が仰天するようなことに関りを持つようになるのである。
例えば、この世は死に耐えられない。死を恐れ、その下に屈服してしまう。反対に信仰は屈強で、この世をしゃぶりつくす死の前に立ちはだかる。信仰は、あの命の引き裂き屋を飲み込んでしまうのだ。さらに、この世は肉の思いを抑えることが出来ない。肉はこの世の隅々まで支配している。常に肉の思いのままに全ては起こる。だから、この世は肉的なのだ。反対に信仰は肉、つまり堕ちた自然に体当たりして倒し、それを監督下に置く。
人間は誰一人としてにこの世の反対や侮辱に最後まで耐えることは出来ない。この世が人間を占拠して勝利者になってしまうのだ。反対に信仰はこの世を見下して足蹴にしてしまうのである。同じように人間は誰一人としてちっぽけな罪に対しても反抗できない。罪は良心に噛みつき、もう地獄に落ちるしかないという位に揺さぶり尽くす。この世全てがその人を慰めようとしても何の役にも立たない。しかし、信仰は真の英雄である。それは全ての罪に勝利する。たとえその罪が全世界が犯した位の大量の罪であってもだ。』
(以上)
「見えないことを見るのが信仰」というのは、ローマ8章24~25節、第2コリント5章7節、ヘブライ11章1節を思い起こさせます。死に対する勝利は第1コリント15章、肉を監督下に置く信仰はローマ6章と8章。不信仰は感じることだけを見てしまうというのは、湖の上を歩けたペトロが波風を見て溺れてしまう出来事そのものです。信仰と不信仰を対比させる象徴的な出来事だったのでしょう。これらの他にもまだいろいろあると思います。このようにルターの説き明かしは聖書のいろんな箇所が編み上げられて出来ていると言えます。さすが「聖書を読みぬいた男」と言われるだけあります。キリスト信仰者としての私たちの成長を助ける説き明かしはこのようにして出来ると思います。因みに「信仰」とはイエス様を救い主と信じる信仰です。お忘れなく。
6月の手芸クラブは蒸し暑い日の開催になりました。
今回はマクラメのテクニックを使ってブレスレットを作りました。初めに見本を見て各自、自分の作りたいものを選びます。今回の材料はワックスコードとビースです。参加者の皆さんは好みの色のワックスコードとそれに合わせてビースの色も選びます。皆で作り方を見てから早速、見本に合わせてワックスコードの長さを測って作り始めます。今回の結び方は以前と同じ平結びですが、ワックスコードは細いので引っ張る強さに注意しなければなりません。それでも皆さん、あっという間に出来るようになりました。おしゃべりをしながら楽しい雰囲気の中でコードを結んで作業を進めました。皆さんはそれそれ違う色のワックスコードとビースを選んだので、どんなものになるかお互いに楽しみです。結んだコードを手の周りに合わせるとピッタリの長さになりました。その後はワックスコードを一本一本を切ってコードが抜け出さないように一本一本を火でとかします。指がやけどしないように注意しないといけません。最後にブレスレットの閉め部分を作って出来上がりです!皆さん素敵な夏用のブレスレットを手首にかけました。
作業の後はコーヒータイムです。コーヒーとフィンランド風菓子パン「コルヴァプースティ」を味わいながら参加者みんなで楽しい歓談の一時を持ちました。歓談の後、モニターでフィンランドの夏の景色と音楽のビデオを鑑賞しました。最後に聖書のお話がありました。
帰る時、ドアを開くと思わず「サウナみたい!」との声があがりました。それ位、外はとても暑かったです。皆さん、本当にお疲れ様でした。手芸クラブはしばらくお休みになります。次回は9月に開催予定です。その時は暑さも少し和らぐといいのですが。日程が近づきましたらまたホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。それでは皆さん、お身体に気をつけて暑い夏を無事に乗り切られますように。また秋にお合いしましょう!
今日はマクラメのテクニックを使ってブレスレットを作りました。皆さん作ることに夢中になって時間はあっという間に経ってしまいました。この手芸クラブの時間が皆さんにとってリフレッシュできる時間になったら良いと思います。リフレッシュできることは新たな力を得ることになります。
この間私はフィンランドの新聞に出ていた面白い記事を読みました。そのタイトルは「時間を奪うもの」というものです。この記事の内容について少しお話します。この記事は現在の私たちの時間の使い方についてでした。一日の24時間の使い方は普通は仕事、仕事以外の活動、休みの3つに分けられて一つ一つは大体8時間というのが基準です。しかし現在の人たちの休む時間はどんどん短くなって、多くの人は忙しい生活をして疲れています。それはどうしてでしょうか?時間を奪うものがあるからです。それは何でしょうか?
記事によると私たちの時間を奪うものは様々な電子メディアです。私たちは例えば携帯電話でメールを読んだりいろいろ情報を調べたりすることが一日のうちで何回位あるでしょうか?携帯電話だけではなくてパソコン、タブレットやテレビ等も同じです。小さいことでもそれは時間をとります。フィンランドでは大きな流れは小さな流れから生まれるということわざがあります。携帯電話やパソコンでいろいろ調べると、やっている内に目的から離れることは多いと思います。そうなると時間の無駄な使い方になってそれで休む時間は短くなります。私にもそのようなことがあります。
休みは私たちにとって大事です。それは人間にとって最も必要なことの一つです。現在の私たちの生活の大きな課題は時間の使い方です。生活の中の優先順位を考える時、力が戻るために休みが必要であることは忘れていないでしょうか?休みがないと、力はだんだん失わられて、いろいろ病気になったり事故も起こりやすくなります。このようなことが起きて休みの必要性がわかるようになったら遅すぎです。定期的に休むことも重要です。
聖書にも休みの必要性について書いてあります。神のひとり子のイエス様は肉体的な休みや精神的な休みの必要性を教えられました。イエス様も時々疲れて静かな場所に行って一休みされました。ある時弟子たちは伝道から帰ってイエス様の所に集まってきて、自分たちが行ったことや教えたことについて報告しました。弟子たちは多くの人たちに神様について教えたので、イエス様に詳しく報告したかったのです。しかし、イエス様は「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。イエス様と弟子たちの周りにはいつも大勢の人たち、神様について教えを聞きたい人たちや癒しを求める病気の人たちなどが集まってきました。この時も大勢の人たちが来たり行ったりして、弟子たちは食事をする時間もありませんでした。このようにするべきことがたくさんあってもイエス様は弟子たちに休む時間を持たせました。イエス様は弟子たちの肉体的な休みの必要性を良く知っておられたからです。弟子たちは休んでから元気づけられて、新たな力でまた人びとに教えることが出来ました。イエス様と弟子たちの例にならって、私たちも休まなければなりません。私たちにとっても休むことはイエス様の時代の人たちと同じように重要です。
私たち人間は肉体的な休みのほかに精神的、霊的な休みも重要です。霊的な休みとはどんな休みでしょうか?イエス様はこのことについても教えています。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイによる福音書11章28節の御言葉です。イエス様は世界の全ての人々が自分のもとに来るようにと招かれます。私たちはイエス様の姿を見ることは出来ませんが、聖書を読んだり、お祈りすることでイエス様のもとに行くことが出来ます。イエス様はご自分のもとに来る人に休みを与えると言われるのです。イエス様が与える休みとはどんなことでしょうか?
イエス様が救い主としてこの世にいらっしゃったと信じることが出来れば、私たちは心の中にイエス様が与える平安を得ることが出来ます。それは、イエス様が与えて下さる休みです。私たちは、生活の中にいろいろ心配することがあっても、イエス様に繋がっていれば彼から平安が心の中に与えられるのです。そしてイエス様をこの世に送られた神様を信じることが出来れば、全てのことを神様の御手に委ねることが出来ます。神様に全てのことを委ねることができれば、心は平安で満たされます。その時、心は本当に休むことができます。
私たちもこれから毎日の生活の中で休むことが出来るように時間の使い方をよく考えて生活して行きましょう。イエス様が言われた言葉「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」、これをいつも思い出して行きましょう。
ルターの薔薇の紋章
宣教師の週報コラム - 宗教改革は何をどう改革する改革か?
宗教改革は英語、ドイツ語、スウェーデン語でReformationと言います。それぞれ発音の仕方は異なりますが、日本語のカタカナではリフォーメーションです。宗教改革は何を改革する改革だったのでしょうか?
大学の神学部に入学したての頃、基礎科目の一つに「宗教現象学」なる科目がありました。そこで何を学んだか、一つだけ覚えていることがあります。授業で講師が、リフォーメーションと聞くと、普通は古いものを新しいものに変えるイメージが持たれるが、ルターの宗教改革はむしろ逆である、カトリック教会が歴史の過程で作ったもので聖書に根拠がないものは廃止する、つまりカトリック教会が歴史の中で始めた新しいことをやめて教会を原点に戻そうとするのが運動の本質であった、ということでした。因みにフィンランド語では宗教改革はUskonpuhdistus「信仰浄化」という言い方が一般的です。
ルター派にとって、教会の原点とは「信仰義認」であり、しかも律法主義に陥らず反律法主義にも堕さない信仰義認です。言うのは簡単ですが、ルター自身、この信仰義認は「滑りやすい」教義だと言っています。
ルターの宗教改革を国としていち早く採用したのはスウェーデンでした。16世紀の同国の教会会議の歴史を見ると、「今会議でローマの何某の伝統を廃止して『福音的になる』ことを決定した」ということがよく出てきます。ここからも「福音ルター派(福音ルーテル)」が何を意味するかがわかります。カトリックの伝統から離れる際にルター派的に離れるということが、ルター派にとって「福音的」なのです。よく巷に聞かれる「福音派」とか「福音主義」とは異なるのです。
今日ルター派教会の内部でも、教会が保持してきた伝統を変えて改革していかなければならないという声をよく聞きます。その場合、変えなければいけないと言われる伝統は聖書に根拠がないからそうすべきなのかどうか深く考えなければなりません。変えること自体が価値ではないからです。
今回はマクラメのテクニックを使ってブレスレットを作ります。マクラメのワックスコードやパールを使って可愛らしい夏向きのブレスレットが出来ます。
以前作ったコースターやフラワー・バスケットを希望される方はそちらも選べます。マクラメの糸は作るものに合わせます。
材料費は500円~800円です (作るものによって変わります)。
手芸クラブは他に自分の好きな編み物をしたい方も参加できます。 おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1745211076iamg@1745211076arumi1745211076hsoy.1745211076iviap1745211076 03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106