宣教師の週報コラム

 使徒的伝統に立って福音書を繙こう その1

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先主日(5月7日)の礼拝説教にて、4つの福音書を文学作品のように読むと信仰にとって問題がある、使徒的伝統に立って読むべきである、ということをお話ししました。どういうことか、コラムの場を借りて説明いたします。

この問題は、神学の中の「釈義学」分野の話です。釈義学とは、聖書中の書物がそれぞれ歴史的にどのように成立したか、また成立時の歴史状況を研究する分野で、旧約釈義学、新約釈義学に別れます。歴史学、批判的文献分析、考古学等とも結びつき「歴史的聖書学」とか単に「聖書学」とも呼ばれます。その研究成果は、聖書の解釈や聖書への向き合い方にさまざまな影響を与えてきました。

1800年代終わりのドイツ語圏の釈義学で、マルコ福音書が一番古い福音書であることが定説となり、同福音書を通して実際のイエスに近づけると考えられて、歴史上のイエスはこうだったという説が数多く現れました。それに対して、福音書を通しても実際のイエスは分からないという見解が強まり、代表的なものはW.ヴレーデ「Das Messiasgeheimnis in den Evangelien」(日本語翻訳見つからず)の、イエスが自分のメシア性を公けにしないように語る記述は福音書著者の創作という説です。この説は、1970年代のH.ライサネンの反論(2つのドイツ語論文)が出るまでは、特にマルコ福音書の解釈において世界中で大きな影響力を持ったと言われます。もう一つは、R.ブルトマンの「Die Geschichte der synoptischen Tradition」(「共観福音書伝承史」という翻訳あり)。福音書中のイエスの教えは、福音書が書かれた時代状況(例えばキリスト教とユダヤ教が反目し合っている状況)で機能するように書かれている。なので福音書の記述をみても実際のイエスはわからないというものです。

1953年にブルトマンの弟子の一人E.ケーゼマンが学会講演で師の教えに挑戦するまで聖書学会は歴史的イエス研究が途絶えた時代と言われています。そのような時代に神学教育を受けた人たちは、福音書をどう読みどう教えたでしょうか?これはイエス様が言われた教えであると堂々と言うのは難しかったのではないか?代わりにマルコの考えは、マタイの考えは、というふうに著者の考え方の分析紹介に重きが行ってしまったことはないでしょうか?イエス様が何か小説の登場人物のように扱われてしまわなかったでしょうか?(続く)

2023年5月14日(日) 復活節第6主日 主日礼拝

[私たちの父なる神とシュイエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように]

 ヨハネ14章15~21節                 スオミ教会2023.5,14(日)

「聖霊を与える約束」

今日の聖書はヨハネ福音書14章15~21節であります。まず、13章23節から見ますとここにイエス様は弟子たちに別れの予告をされています。

13:33「子たちよ、今しばらく私はあなた方と共にいる。あなた方は私を捜すだろう。私が行く所にあなた方は来ることができない。」そうすると36節ではシモン・ペトロはイエスに言った「主よ!どこへ行かれるのですか」。イエス様の答えは、こう言われた。14:2~3に「あなた方のために場所を用意しに行く。」行ってあなた方のために場所を用意したら戻って来て、あなた方を私のもとに迎える」。と約束しておられます。6節では、とても大事なことを語られています。イエスは言われた「私はであり真理でありである。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と宣言されています。イエス・キリストこそ、神の国の命そのもの、それは神の真理である。神の国へ行くにはイエス・キリストを通らなければ行けない。イエスこそ道そのものである。と言われました。

こうした展開から、今日のみ言葉である14章15~21までになります。イエス様が去って行かれた後、弟子たちは世界中に出て行ってイエス様が示された福音伝道の大きな業が出来るようになるために、必要な三つを挙げて説明しておられます。第一は13節から14節で「イエスの名によって願う」祈りの力であります。次に第二は15節から17節まで、でイエス様が去る事によって送られてくる「別の助け主」、つまり真理のみ霊が送られる、と言うこと。それから、第三は18節から21節にかけて、約束されている通りイエス様ご自身が「帰って来る」ので弟子たちを決して孤児にしない、という約束のことです。

さて、第一の13節~14節のところの要点は13節の言葉です。「私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光を受けるためである。」イエス様と短い期間、約3年を共に過ごした弟子たちがイエス様が去って行かれた後、全世界に出て行って伝道してゆかねばならない状況がこれから先やって来る、その時弱くて力のない彼らが、どうやって行けるか。そのことを全部見こしてイエス様は「何事でも私の名によって願うなら、私はそれをかなえてあげよう」と約束されているのですから弟子たちはどんなに心強く励まされた事でしょうか。ここでは詳しく申しません。さて、本日の聖書は第二番目14節からであります。「あなた方は私を愛しているならば、私の掟を守る、そういうあなた方に私は父にお願いしよう。そうすると父は別の弁護者を遣わして永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である。そういう約束をしてくださっているのです。ここで注意したいことはイエス様は「父にお願いしよう」と言っておられる。その言ってくださるのは何処で言っておられるのか。イエス様が捧げるお願いは地上にいる弟子たちの前🄬のイエス様が天の神様に向かって「助け主を送ってください」と願う、という意味ではありません。

そうではなくして、イエス様が復活して、この地上から昇天して父の右に座して、そして天に於いて神様である父を説得して、その天からみ霊を送るように取り計らってやろう・・・・・という意味であります。その事は16章7節以下を見ますと、はっきりと分かります。「私は本当の事をあなた方に言うが、私が去って行くことはあなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方の所に助け主は来ないだろう。もし、行けばそれをあなた方に遣わそう」。ここで、はっきり説明されているように、「父に願う」というのは、イエスご自身が父のそばまで行って天から助け主を送るようにしていただく。と約束してくださっているのです。ここは非常に神秘的なことが展開しています。天の世界で行われる、霊の中での業が語られている。ですから、地上での事柄ではない。天と地の次元がちがう中の事柄でありますから、もう、ちっぽけなこの世の我々の聞く展開ではないのです。霊のっ世界の秘義に私たちの心が開かれて行く!「父は別に助け主を送ってくださる」とこういわれます。新共同訳の聖書には、父は別の弁護者を遣わして・・・・」というふうに訳してあります。助け主と言った方が分かりやすいと思います。ここで「別に」というのは何に対して「別に」なのかふつうには「あなた方」とは「別」に「助け主」も送ってくれる、という意味に理解します。やがてイエスが弟子のもとを去って行かれます。そうすると、弟子たちは、これから孤軍奮闘して、この世と戦い悪魔と戦って行かなければなりません。”でも心配するな!君たちは一人ぽっちで戦うのじゃない、君たちとは「別に」助け主が送られてくるんだから・・・”というように理解するわけです。ところが、もう一つの考えがありまして、それは、イエスとは「別に」代わりの助け主が送られてくる。というように理解するわけです。間もなくイエスは弟子たちのもとから去って行かれます。助け主はいなくなってしまいます。”しかし、心配することはない、私とは「別に」助け主がっちゃんとついてくれる”というふうに理解する方が良い。そのように送られてくる「助け主」は17節で「心理のみ霊」つまり真理を伝えるみ霊であると言われます。イエス様は」既に6節のところで、実は私がその真理である、とおっしゃっていたのです。ですから、ここで約束されている別の助け主、すなわち真理を伝えるみ霊とは、真理そのものであられるイエス様を弟子に伝えるみ霊なのです。そういう意味からみてもイエス去ってゆくがイエスとは別にイエスを伝えるみ霊がちゃんと、あなた方の所へ来る、ということです。

 これには一つの事が必要であります。すなわち、今までの、生前のイエス様も「助け主」であった。ということです。

ヨハネの第一の手紙2章1節に、同じ言葉を使って昇天なさったイエスが助け主である。と言っています。「私の子たちよ、これらの事を書きおくるのは、あなた方が罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには私たちの助け主、すなわち義なるイエス・キリストがおられる」ここでは「天に昇られた栄光のキリストが、いま助け主であり給う・」とあります。ところで、ここで「助け主」と訳されている言葉は、どういう意味なのだろうか。非常に難しい言葉といわれます。

ギリシャ語で「パラクレートス」と呼ばれていますが、その本来の意味は「傍らに呼びよせる者」と昔のキリスト教の教父たちは、そのように理解していた、というのです。「パラ」というのは「傍らに」、「クレートス」とは「呼びよせる者」つまり、しょげ返って悲しんでいる人を、傍らに呼びよせて元気をつけてやる、という意味です。そういうことで慰め主というように説明しています。

今日のギリシャ語の言語学の研究では「呼びよせる」という意味ではなくて、受け身の形をとると「傍らに呼びよせられる者」と考えられてきたようです。よく分かるように言うと罪を犯した罪人が裁かれる裁判、法廷の場面で「お前はこういう罪を犯したじゃないか」と言われると、確かにもう浮かぶ瀬もありません。が、その時イエスが傍らに呼びよせられて、つまり今の言葉で「弁護士」となってくださる。被告のために力となって下さる。そういう者をパラクレートスと言うのです。ですから、新共同訳聖書には弁護者となっています。(ヨハネ第1・2章には弁護者キリストの事が詳しく記されています。)今日の新しい訳では「ヘルパー」とか「フレンド」というように呼ばれているようです。

イエス様の弟子たちは助け主としての友を困った時に呼んだのでしょう。しかし、今日2000年の時を超えて日本という国の中で私たちは目に見えませんが、いつでも「主よ」と助け主イエス様を呼び寄せる事ができる。最後に18節~21節までにイエスご自身が又帰って来ると約束されています。「私はあなた方を捨てて、孤児とはしない、あなた方のところに帰って来る」という約束です。

イエス様がここで「あなた方を孤児とはしない」と、まるでご自分が弟子たちの父であるかのように語っておられるのは珍しい事です。イエス様は既に13章33節でも、この晩餐に連なっている11人の弟子たちに「子たちよ」と呼びかけなさっていました、からここでは珍しくご自分がお父さんの立場から弟子たちを、その可愛い坊やたちに言っていらっしゃるのです。そういう意味から言って

”私がいなくなるために、あなた方が父親を失った孤児のような可哀そうな目に会うようにはさせない、と言っておられるわけです。では、イエス様が「帰って来る」と言って下さっているのは、いつ、どのようにして帰って来られるのでしょうか。20節を見ますと「その日には私は私の父におり、あなた方は私におり、又私があなた方におることが分かるであろう」と言われています。その日という表現は旧約聖書では、メシアが現れる終わりの時を表す用語でありますので文句なくイエス様が帰って来られるのは終末的な再臨のことだ、と沢山の教父たちが考えました。アウグスティヌスのように主にラテン語で勉強する教父たちは、こう唱えてきたわけです。しかし、そうじゃなくて21節の最後に「その人に、私自身を表すであろう」と言っておられるのですから終末の再臨の時なら、その人に表し、あの人に表さない、なんてのじゃなく全ての人の一瞬に見えるようになるのじゃないか。「その人に表す」とおっしゃるからには、終末の再臨の時とは考えられない。また、別の教父たち(クリストモスといった人々)に考えではイエスが復活された後、弟子たちにあちこちで顕現された、そのことを言われたのではないか、しかし、これも弟子たちに現れ、、又、いつ消えられるかわからない。イエスがここで約束しておられるのは、もう二度と再び孤児にはしない、帰って来てからもずうっと、あなた方とおり続ける、ということだから違うのではないか、とおもわれます。

結局では何かと言えば、これは16節~17節で約束されておりました、み霊という別の助け主が送られて来る、という形での「イエスが帰って来る」と言われる意味なのだ、ということです。15節から17節までに、み霊が送られて来ることを描く部分とは何かもそっくりそのまま同じ言い方で並行して記されています。

どちらの場合も、これが成就する必要条件があります。イエスを愛し、イエスの戒めを守ることです。15節と21節のどちらにも書いてあります。それから、み霊の場合もイエスの場合も「み霊が送られて来る」、「帰って来る」ということが16節と18に約束されています。17節と19節を見ますと、その時にどちらの場合もこの世は見ないが弟子たちには見るという区別があります。

その時には、もうずうっと共にいて下さる、という永遠の保証が17節にも21節のどちらにも約束されています。このように結局、同じ条件、同じ結果、同じ出来事を描いています。イエス様はみ霊が送られて来ることに於いて私たちの中に住まわれるのであります。

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ヨハネは此処に於いて、イエスの復活顕現はひと時の過度的なものであって、本当にイエスが帰って来られるのはペンテコステの日、教会に降った聖霊に於いて教会に主は来てくださるのだ。と約束しているのであります。19節の言葉を、そういう意味で見てみますと「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る。私が生きるので、あなた方も生きることになる。」聖霊が働いてくださることによって、イエス・キリストは生きているのである。それが分かるのは21節にあります言葉「私の掟を受け入れ、それを守る人は私を愛する者である。私を愛する人は私の父に愛される。私もその人を愛してその人に私自身を表す。」とあります。このことは私が帰って来て、ずううっとあなた方と一緒にいる、ということなんだ。天の父に愛される者は天のみ国へと召されて後もずうっと永遠の命に生かされるのです。天のみ国では、もう肉体の欲するものは、そこには何もない、霊の世界は魂の世界です。そこで決定的なものは愛であります。私を愛する者は、私の父に愛されるのであります。この世の次元とは全く違う、すでに天のみ国の約束であります。私たちの霊がみ霊を愛する心でないと受け入れることができないでしょう。古代、教父アウグスティヌスも言っています。み霊に於いてイエス様が私たちと共におられ、私たちの内に住み、信仰者としての大いなるみ業を起こして下さるのであります。

                          アーメン・ハレルヤ

どうか、望みの神が信仰から来る、あらゆる喜びと平安とを、あなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。  アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回の手芸クラブは5月24日(水)10時~13時に開催します。

マクラメの壁掛けフラワー・バスケット

今回はマクラメのテクニックを使ってフラワー・バスケットを作ります。以前作ったコースターを希望される方はそちらも選べます。マクラメの糸は作るものに合わせます。

マクラメの壁掛けフラワー・バスケットやコースターは可愛らしいインテリアの要素になります。

手芸クラブでは他に自分の好きな編み物をしても大丈夫です。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

材料費は500円~800円です(作るものによって変わります)。

 

お子さん連れでもどうぞ!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1745244833iamg@1745244833arumi1745244833hsoy.1745244833iviap1745244833
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)講演会

田口先生の発表された論文「ルターの『ハイデルベルク討論』の十字架の神学から見る『福音は宣教』についての考察」についての紹介と概略の説明がありました。ルター派神学について大変勉強になるお話でした。田口先生の御働きに感謝いたします。

田口先生の許可を得てこの論文のご紹介をいたします。

論文「ルターの「ハイデルベルク討論」の十字架の神学者から見る「宣教は福音」についての考察」の簡単な紹介

2023年4月30日:スオミ教会礼拝後の交わりにて

田口 聖

はじめに

 この論文は、聖書から学んだり説教したりする時に、少なくともルター派ではとても大事なこととして「律法と福音とを適切に区別する」という教えがあるのですが、それに従う時に、「宣教は律法」ではなく「宣教は福音」であるということを紹介するものです。初めから難しい言葉が出てきますが、「律法と福音の適切な区別」というのは、ものすごく簡単に言えば、みことばや信仰をどう理解するかということであり、「律法」はもちろん十戒を指すのですが、それを含めて「私たちが神のためにしなければいけないこと、あるいはしてはいけないこと」で、「福音」はその逆で、もちろん十字架の罪の赦しや復活の新しいいのちのことですが、それを含めて「神が私たちのためにしてくださったこと」です。それを正しく区別して聖書を理解することは大事なことで、説教もその区別に基づいて正しくみ言葉を伝えなければなりません。その、みことばや信仰をどう理解するのかの区別は、私たちの信仰の実践、生活や生き方にも関わることです。本当は父子聖霊の恵み(つまり、福音)として教えられなければならないものが、律法に混同されたり、あるいは律法として(つまり逆に)教えられたり理解されたりすると、それはキリスト者の信仰生活に大きく深刻な影響を及ぼします。例えば、礼拝と説教は、キリストの十字架と復活が中心であり、そこで最初に律法で悔い改めに導かれ、悔いるものに罪の赦しと新しいいのちが与えられて、福音の言葉で平安のうちに遣わされていく大事なものです。スオミ教会の礼拝はもちろん、同じような順序と式文に従って行われているルーテル教会の礼拝は基本的はそのようになっているはずです。しかし、礼拝、聖書の言葉が出てきたとしても、律法の行いによって救われるとか、それによって、人間の価値が決まるとか、律法によって生きるように教えられたり、または、キリストが語られても、キリストの十字架や復活が、恵みや平安としてではなく、ただ道徳や立派な行いの従うべき模範や目標としてだけ教えられたり、そうしなければ救われないとかクリスチャンではないなどと教えられたりすると、それは正しく区別されていません。混同されています。そしてそのまま教えられて遣わされた人も、そのように生きるようになると、キリスト者にとってとても大事な、「福音によって救いの確信を与えられ、平安のうちに遣わされる」ではなく、「律法によって、救いの確信なく、重荷を負わされ遣わされる」ことになり、そのように生きることににもなります。もちろん、十戒は大事なことですし、私たちが、従うべきものですが、誤解してはいけないのは、キリスト者は、従わなければいけないから(つまり律法で)、律法に従うのではなく、キリストが十字架と復活で私たちの救いを果たされたから(つまり福音によって)喜んで律法にしたがっていくのがキリスト者の服従であり良い行いです。それは同じ従うでも、180度違う逆の行動です。それは、律法と福音の正しい区別が教えらているかどうか、あるいは、律法によって遣わされているか、それとも、福音によって遣わされているのか、どうかによって変わってくるのです。そのように律法と福音とを正しく区別して教えられ、福音によって歩むことはキリスト者の良い行い、隣人愛、そして、伝道や宣教に関わる大事な問題です。まずこの律法と福音の適切な区別がこの論文の土台にあります。

 また言葉についての前置きがもう二つあります。まず「宣教」とありますが、宣教学の言うような厳密な定義づけはしていませんし、伝道と宣教の区別もしていません。さらに言えば、そこには、キリストの実践全体、良い行いや隣人愛まで含まれての、信仰の歩み全体を含んでいます。それは言葉を曖昧にしていると言うことでそうしているのではありません。信仰者にはそれぞれにキリストからの召命(Vocation/教会、社会、家族それぞれの場で)が必ず与えられており、福音によって遣わされる私たちが、福音に生かされ、福音から生まれる信仰生活の、派手でも劇的でもないけれども、ごくありきたりな家族との日常や人間関係、そこにある良い行いや隣人愛の全ては、決して宣教に関係のないことではなく、むしろ関わっており神に用いられており、そこにもキリストの証人としての宣教がある、という前提で用いております。ですから、宣教とあっても、宣教師や牧師だけの働きということではなく、キリスト者の実践全体まで含む書き方となっています。

 もう一つ、前置きですが、途中でルターのハイデルベルク討論が取り上げられ、そこに十字架の「神学」とか「神学者」と言う言葉があります。「神学」という、その言葉だけ聞くと、多くの信徒の皆さんは、自分とは関係のない、その言葉は、牧師先生だけの言葉、神学校内だけの言葉だと思うかもしれません。けれども、ルターにとって、神学というのは、キリスト者が、日々、み言葉を通して、信じたり、時に葛藤したり、励まされたり、一喜一憂したり、考えたり、そのように信仰の活動そのものを、神学をしているのだ、と考えます。そのように、聖書の主の声を聞きながら、キリストを信じて、祈ったり、生き、生活し、行動するキリスト者は、皆、神学者であるという意味で述べています。

2、このテーマの経緯

 前置きが長くなってしまいましたが、前置きも意味のないことではありません。私は、「宣教は福音である」ということをこの論文で紹介しています。というのも、なぜそのことを紹介したいかと思ったかというと、正直にいうと、そうではない状況が教会にあったことへの長年の苦悩からでした。私は、いわゆる、福音派と呼ばれるグループの中で、その影響を強く受けているルーテル教団の牧師です。

(ちなみに、余談ですが、「福音派」という言葉は、本来は、ルーテル教会のことで、今でもそうかもしれませんが、ヨーロッパ、特に、ドイツなどでも「福音派」というのはルーテル教会のことを指していると、聞いたことがあります。ですから、私の言う「福音派」というのは、いわゆるアメリカ型の福音派のことで、信仰復興運動の流れにある保守的なバプテスト派やホーリネス派やきよめ派のグループのことで、日本の福音派もその流れだと思われます。)

 彼らは宣教に熱心です。それはとても良いことです。しかし、その熱心がどこから出ているのかと疑問を持ちました。つまり、福音から生まれているものなのかと。というのも、私たちはよく分かっている通り、キリストの福音は、十字架と復活であり、罪の赦しと新しいいのち、そしてそれはどこまでも恵みであり、キリストが「平安があるように」「安心して行きなさい」と言っているように、信仰は平安と喜びが溢れるものであり、平安と喜びのうちに遣わされていき、平安と喜びで神に仕え人に仕えていき、そこに福音の泉が溢れ出るように(ヨハネ4章14節)私たちの宣教も隣人愛もあるはずです。しかし「福音を伝えなければ伝えなければ」と熱心さはあるのですが、そこに、平安も喜びもない、むしろ、絶えず、「しなければ」「達成しなければ」という重荷と心配と強迫観念があり、目の前に、自分が描いた期待通り、計画通りにことが進まなくなったり、望まない試練や問題に直面すると、犯人探しが始まり、牧師同士、信徒同士、教会同士、牧師から信徒へ、信徒から牧師へ、等々、裁きあいが頻繁に、しかもそうすることが正義であるかのように罪悪感もなく起こります。(逆に彼らが期待する通りにうまくいっている時は、裁きあいは起こりませんが人や人の功績を誇ることが必ず生まれますし、そしてやはりそこにも、活動に参加しなかったり、消極的であった人に、怠け者だとか、敬虔でないとか、等々、裁きや軽蔑が起こります)。それが、彼らの熱心でした。誤解のないように何度も言いますが、熱心なのはとても良いことです。しかし、それが動機や出発点が、「律法から生まれるものなのか、福音から生まれるものなのか」によって180違います。そして、福音はどこまでも平安を生み与えるもの(ヨハネ14章27節、20章19−21節)であり、不安や重荷も決して与えませんし、その不安から生まれる裁きも福音からは生まれないはずです。しかし私は、彼らが「福音、福音、宣教、宣教」と叫びながら、①その福音が与えるはずの平安がないこと(むしろ裁きと批判)、②その平安がないのに、福音を宣教と叫ぶ矛盾(平安を知らないのにどんな平安を伝えるのか?)、③つまり、平安がない熱心であること、④つまり、彼らの熱心や宣教は、福音からではなく律法からであること、⑤それはキリストが伝えている福音と宣教とは異なること、を悟りました。そのように苦悩と疑問の葛藤の苦しい期間があり、ルーテル教会に疑問を持ちましたが、しかし、アメリカのルーテル同胞教団の神学校や、神戸ルーテル神学校で、正しいルーテル教会の神学を学ぶことを通して、少なくともルターやルーテル教会にとっては、宣教は律法ではなく、宣教は福音であるということの理解へと導かれたのでした。そのルターの沢山の教えの中で、助けの一つとなったのが、ルターの「ハイデルベルク討論」でした。

3、ハイデルベルク討論の伝えること:簡単に

 ルターが命題を28の命題を掲げ、それを解説する形で書かれています。あくまでもごく簡単な概略ですが、

1)(1〜3命題)律法はどこまでも聖であり有益ですが、人間は堕落し圧倒的な罪人であるがゆえに、自ら律法を果たすことができず、義に進むどころかむしろ反対していくと教えています。ルターは、「神の前」と「人の前」という区別を用いており、「人の前」にどんなに美しく良いように見えるものであっても、罪人の行為は神の前に決して義とするものにはなり得ないと教えています。

2)(4〜12命題)人間の行いと神の行いとの間の明確な違いをルターは述べています。やはり、人の前と神の前の区別に基づいて、人の前における目に見える行いは、 どんなに良く見える、どんなに高く評価されるものであっても、神の前には義とするものではないが、逆に神のわざは、どんなに人間にとって醜く不条理に見えたり思えたりしても、それは、神の矛盾のない永遠の功績であると教えています。

3)(13〜16命題)ここでは自由意志が論じられています。ルター以前もそれ以降も、教会では程度の差こそあれ、自由意志は賛美され、教会では「自己のかぎりをなす者には神は恩恵を拒まない」というアリストテレス倫理学が前提となり教えられていました。今もそうかもしれませんが、「自分の持てる限り一生懸命に行うものに神の祝福や恵みはある」という教えは、ルター以前も以後も、「人の前」では分かりやすく、教えやすく、人を動かしやすい教えでした。しかし、ルターは、1)2)の命題に従って、むしろ「自由意志は罪の虜、奴隷とされている」と述べ、その自由は神に向き、神を信じる自由ではなく、その逆で、ただ神に背を向け反逆する自由であると教えました。

4)(17〜18命題)前半部分のまとめとして、これまでの命題(1〜16)は、ある意味、人が耳を閉ざし聞きたくない認めたくない人間の完全な堕落や自由意志の無力さなど厳しい現実を伝えてきましたが、しかしルターは、それらの命題とその現実は、決して絶望を与えるためではなく、むしろ、律法によって人間はその罪を教えられ神を恐れるようになり、天を見上げることができず、ただ「憐れんでください」というしかできないほどに人を打ち砕き、「神の前」に謙らせる事によってキリストの恵みに出会い平安を受けるようにするためだとまとめます。この前提を踏まえて、本題の十字架の神学者のことをルターは述べて行きます。

5)(19〜22命題)真のキリスト者(真の神学者)の姿であるという十字架の神学者とはどのようなものなのか、それは、その反対である栄光の神学者との比較で述べられています。ここはこの提題の核心部分なので、命題をそのまま載せます。

第19命題 「神の目に見えない本質が「被造物を通して理解されると見なす」者は、神学者と呼ばれるに値しない。(ローマ1:20)」

第20命題 「だが、目に見える神の本質と神が見られる背面が、受難と十字架によって知られると解する者は、神学者と呼ばれるに値する。」

第21命題 「栄光の神学者は悪を善と言い、善を悪という。十字架の神学者は事態をそれが現にある通りにいう。」

第22命題 「神の目に見えない本質が諸処のわざによって理解されると考える知恵は、人間を全く思い上がらせ、全く盲目にし、そして頑なにする。」 

 そこでは「神の目に見えない本質」を「被造物を通して理解されると見なす」ことができると考える人は、神学者と呼ばれるに値しないとし、それを栄光の神学者と呼びます。逆に、「目に見える神の本質と神が見られる背面」が、「受難と十字架によって知られると解する」人は、神学者と呼ばれるに値するとし、それが十字架の神学者であるといいます。このことは、神学者つまりキリスト者が、神を、あるいは、神の栄光や祝福を、どこに見よう、信じようとするのかの大事な問題を私たちに提起しています。

 難しいので説明しますが、ルターは出エジプト記33章18−23節を引用して説明しています。以下、新改訳聖書からの引用ですが、

「18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」(新改訳)

 モーセは、その目で神を見たいと願いました。ルターはモーセの求めを「あなたの栄光をお示しください」とも訳しています。神の栄光をその目で見たいと願ったのでした。けれども、神は顔を見ることができないといい、ただ「神の背中」「神のうしろ」だけを示したのでした。このモーセの求めは、人間の求めを表しています。人間は、肉の目でその願うまま、思いのままに神を、特にそのはっきりとした「顔を」見たいと思います。つまり、神のわざが肉の目に見える形で(つまりそこに人間の側の願望などの慈善概念を込めて)現されることを期待し、求め、見ようとします。しかし、それは人間中心、人間の願望や期待を中心にして神を目の前に見よう求めることと同じで、神にとってはそれは「死」でした。ルターが言ってきたように、肉の目や知識、その知恵や理性、自由意志では神は知ることはできないのです。

 むしろ、神はご自身が示された通りに、しかも神が「わたしが手を退けたら」とある通り、それはモーセが意図した時や方法でも意志でもなく、神が意図した時と方法と神の意志で、神はご自身を啓示され、それでしか人は神を見、知ることはできません。それは名指しで選び出されたモーセであっても、です。人が望まず思い描かず期待もせず、ある意味、愚かにも見え、理性では信じられない、その通り過ぎた後の、神の意志した瞬間のその隙間に見える神の背中にのみ、神はご自身を現したのでした。その「背中」に、はっきりと目で見て神だとわかる「顔」はないように、理性では神を見ることはできません。 そればかりか、人間の意志や決心の先に見ることができるものでもありません。神が手をよけた時でした。しかし、それが神がご自身を啓示するために取られた神の意志であり方法であったのでした。それは人の目には不十分な方法には見えますが、神にあっては、不十分な方法ではなく完全で御心にかなった方法でした。それはキリストを指し示しているのです。神が啓示されたキリストにこそ、そしてキリストを通してこそ、それのみを通して、私たちは神に会うことができるということなのです。事実、キリストは、「私たちに父を見せてほしい。そうすれば満足します」と願ったピリポに「わたしを見たものは父を見たのです」と答えている通りにです(ヨハネ14章8−9節)。

 そのことはキリストが世に与えられたことそのものを証ししています。実に、キリストは、人の思いや計画に従って来たのでも、人が期待した通り、願い通り、思い描いた通りに、救い主は世に与えられたのではありませんでした(イザヤ書53章)。実際、キリストは、人が王や救い主が来ると期待するような、王室や貴族の家に生まれたのでもなければ、国中の人に喜ばれて誕生したのでもありませんでした。人が誰も思いもしないような、貧しいナザレの大工の家の、普通の罪深い女性マリヤの胎を通してその聖霊によるいのちを育まれ、ベツレヘムの家畜小屋で生まれました。預言の通りではありましたが、人は誰も思いも期待もしませんでした。マリヤもヨセフも、御使いのメッセージを聞くまでは、不安と恐れしかありませんでした。世の人々も、目に見える繁栄やエルサレムの再興、あるいは、パンを食べて満腹することを期待した人々、つまり、目に見える被造物に神や神の栄光を見ようとした人々は、キリストを受け入れませんでした。期待通りではなかったことに躓き、蔑みました。むしろ信仰へ導かれたのは、神の前に、自分の罪深さを認めさせられただ謙るものや、顔を上げることもできず、憐れんでくださいとしか言うことのできないような、まさに目に見えない、肉の思いが認めたくない、自分の罪を認め、ただただ神の前の憐れみと罪の赦しにすがるものでした。そして、何より十字架と復活の出来事は、人々が拒み、躓き、拒否し、蔑み、絶望するものでした。世の価値観で期待する通りの贖いや救いではありませんでした。人はそんなイエスに、受難に、十字架に、神がいるとか、神の栄光や祝福や恵みがあるとは期待もしませんし思いもしません。人の目に見えることや価値観だけで判断するなら、十字架は敗北であり、絶望なのです。しかし、ここに神の逆説があり、神の変わることのない啓示があります。神はモーセにご自分の背中のみを示し、神が示してたところにしか神の本質を見ることができなかったように、人の前、人の目には、敗北にしか見えない、キリストにこそ、神の御心があり(イザヤ53章)、キリストこそ、神が示された、神の背中、神の栄光であり、そのキリストにこそ救いも、栄光も、救いの祝福も恵みもあるのであり、そこにキリストはおられ、神はおられるのです。

 キリスト教信仰の核心は、そのキリストの十字架と復活に神と出会い、キリストに神と神の栄光を見ることであり、その神が示されたキリストにおいてのみ、その救いの恵みは溢れていると言うことなのです。そのようにキリストの十字架と復活に神の栄光を見るものが、十字架の神学者であり、そうではなく、人間中心に、人間の肉の欲求、願望、事前概念や価値観に基づいて、その通りに実際に被造物に(つまり、目に見える形で)起こるところに神はいるとか、神の祝福があると理解する人は栄光の神学者であると言うのです。それは人中心で人基準ですから、自ずと、人が何をしたか何を成し遂げたのかで、神がそこにいる、いない、あるいは、祝福されている、祝福されていない、等々、神や神の祝福や恵みを推測するので、自ずと人間の欲や感情のままに、裁きや蔑みは起こりやすいのです。パリサイ派の人々のように。ですから、それは神(キリスト)中心の神学(Christ-centered)か、人中心の神学(Anthropocentered, humancentered)かの区別でもあります。その区別は、どこまでも聖書の正しい解釈と教えにしっかりと基づいて、理性や文化を考えるか、その逆で、今もよくある、人間の理性や文化に、聖書を従わせ、解釈や教えをどんどん変えていくのかの、問題にも関わってくることでもあります。また、これは幸いな教えでもあり、私たちの目には神がいないかのように思えるところにも、たとえば、目に見える、失敗や挫折、大きな試練や困難、罪の只中や絶望など、人の目にはあたかも神に見捨てられたかのような状況にあっても、キリストはそこにおられないのでも見捨てられたのもなく、そこにこそキリストは居られ、いつでもみことばを通して聖霊によって働いておられるということでもあるのです。

(論文では、新約聖書の箇所、マタイ4章(荒野の三つの誘惑)、ヨハネ3章27〜30節のバプテスマのヨハネの言葉、ルカ18章9〜14節(二人の人の祈り)、ルカ22章以下の弟子たちとキリストのやりとり、使徒言行録を取り上げて、聖書に証されている十字架の神学者を紹介しています。時間が足りないため、時間があるときにぜひ読んでいただけたらと思います。)

6)ルターは、ここで結びとして、十字架の神学者こそ、真の良い行いの実行者となることを述べていて、つまり十字架の福音から生まれる真の実践について論じています。先ほども触れたように、良い行いにせよ、隣人愛にせよ、宣教にせよ、人間の側で、事前概念や願望を、被造物に目で見ようとすると、自ずと律法を動機にした行為に帰結します。神の前の真の良い行いは、そのような律法を動機に、自由意志や人間の側の努力などによって達成しようとするような律法のわざではあり得ません。神の前の、真の良い行いや隣人愛は、律法からではなく、神の目に見える神の本質であり神の見える背中である、イエス・キリストの十字架を通して、キリストご自身から福音を通してくる約束と賜物によって、なされていく神のわざであり、それは律法としての信仰ではなく、 福音としての信仰によるわざであり、神ご自身、キリストご自身が福音を通して行う新しい創造だとルターは結びます。

 ですから、ルター以後の改革者たちは(もしかしたらルター派の牧師の中でも)、ルターは信仰義認を強調するが、良い行いを軽んじているとよく批判して、ルター以後のカルヴァンやその他の改革者達や、敬虔主義者達が、ルターの足りないところを完成させたんだと主張したり教えたりします。しかしそれは全くの誤解であり、ルターは、十字架と復活の福音によって生きる十字架の神学者こそ、真の良い行いや隣人愛、そして真の宣教の実行者であり、それこそ真に力強く躍動的であることを教え、むしろその真の良い行いを強調さえしています。そのように、宣教は律法ではなく、福音であるということを、ルターの正しい聖書理解から学ぶことができるのです。

(論文では、栄光の神学者の陥る、人間中心の神理解、それによる、律法と福音の混同によって生じる、様々な現代的な問題に触れています。栄光のすり替え。宣教において何を伝えるか(福音ではなく、人が期待するような、模範、道徳、自己愛の奨励、等々)。人が信条になる。栄光の神学者の隣人愛。数の束縛。などを取り上げておりますが、時間がないので、機会があればぜひ読んでください。)

4、十字架の福音から始まる実践と宣教:三つの転換

 最後に、ではどうするかという結論を述べなければなりませんが、私の論文は「こうすればこうなる」というハウツー(方法論)を提示する目的はありません。ただ、福音と十字架の神学者の理解は、見方の転換を与えてくれることを紹介しています。

1)日々の洗礼:

 日々の洗礼の理解を紹介しています。大教理問答書のルターの言葉から紹介しています。以下、一部引用です。

「洗礼は~生涯を通して私たちの内部に行われるべき事がらであり、したがって、キリスト者の生涯とは、一度、開始せられるや、絶えず続けられていくべき日毎の洗礼に他ならない。古いアダムにつけるものが常に除かれ、新しい人に属するものが現れてくるように、絶え間無くなされなけばならない。〜私がかく言うのは、私たちが長い間、思い違いしていた考えに陥らないためである。これまでは「洗礼はもう済んでしまったのだ。だから、再び墜ちた後ではもう二度と役立てることはできない」と言う風に、間違って考えられていた。これは洗礼を単にかつて起こったわざとしか見ないところからくる考えである。そしてそれは確かに聖ヒエロニムスが「懺悔は、私達がキリスト教界に入った時、乗り込んで航海して行く、船が難破した後の第二の板切れで、私達がこれにすがって泳ぎきり、岸辺につかなければならない」と記しているところに 誤解の原因がある。この言葉によって、洗礼の「正しい」用い方は止み、洗礼 はもはや私達を益することのできないものとなってしまった。だからこの言葉 は正当ではない。なぜなら、この船は(すでに述べたように)神の秩序であって、私達のものではないゆえに、決して難破をすることはないからである。けれども私達が滑って船から落ちるということはもちろんありうる。だから、船から落ちたその場合には船に泳ぎ着き、これに取り付いて、再び乗り込み、先 に開始した通りにこの船で航海を続けるように心がけるべきである。」

 このようにルターは、キリスト者の歩みは、日々、キリストの十字架と復活の罪の赦しと新しいいのちを受ける、日毎の洗礼であることを教えています。洗礼の日で、洗礼は終わったのではなく、私たちはむしろ、日毎に、律法を通して罪を示され、悔い改めによって、水に沈められ死に、水からあげられ新しく生かされる、その繰り返しであることを述べています。ですから、教会で、洗礼を受けるまではお客さんのように優しく親切にされるけれど、会員になるといきなり、教会の対応が180度変わり、あれこれと律法を強いられ、その矛盾のゆえに信仰生活が続いていかない人が多いという問題のように、主の恵みは、洗礼の日までで、洗礼を受けた後は、律法の日々が始まると言うような教会生活は、キリストの教えではないと言えます。そうではなく、日々の洗礼によって、日々平安があり、福音と平安のうちに遣わされていくことに、福音を動機とした、福音から生まれる「真のキリストの証人の日々」があるのであり、そのように、宣教は、日々、罪の赦しの福音に生かされることから生まれる、素晴らしいものだということなのです。

2)聖化の正しい理解

 聖化の理解の転換を紹介しています。きちんとしたルーテル教会の教えが教えられている教会では触れなくても良い部分かもしれませんが、ルーテル教会以外の、律法的に人間の協力や努力で実現する聖化や、目に見える人間の期待する律法的行いの成長を聖化と見るとか、特定の時と現象によって(特別な第二の回心を経験する等々)目に見える変化などを強調する聖化の教え、等々の影響が強い状況を踏まえて、この聖化の理解の転換を取り上げ触れています。ルター派の聖化は、小教理問答書にもある通り、義認にある聖化であり、日々の洗礼に重なるように、日々、悔い改め、日々、福音によって 新しくされることの、日々の繰り返しによって、すでに、聖化は日々進行していると言う理解です。つまりそれは栄光の神学者のように、目に見える形で、右肩あがりで年々、いい人間になっていくとか、何かを人に感動を与えたり目立って取り上げられるような劇的な変化や経験があったとか、聖人になったかのように罪を犯さなくなったとか、何か聖化がそのような人間の価値観中心の判断基準で測られるようなものではなく、どこまでもイエスが、福音と聖霊の働きにおいて日々、私たちの信仰のうちに進行しているのが聖化であり、キリスト者は、十字架と復活の福音にあって信仰に生きるなら、皆、聖化にあるのであり、それは重荷としてではなく、平安と希望の聖化なのです。

3)神が仕える礼拝(Gottesdienst/Divine Service)

 礼拝の理解の転換を紹介しています。この部分も、スオミ教会では当たり前のことかもしれませんが、栄光の神学者の礼拝は、人中心の律法的な理解ゆえに、人が神のために、人が思い描くように何か目に見える成果を期待して、組織や自分のために礼拝をささげる傾向にあり、教会や宣教の考え方同様に、礼拝は、聖餐なども含めて、人が神のためにたてあげるものであり、その期待も、人間的な事前概念に基づいた期待であり、ゆえに説教も「神が何を語り何を伝えているか」(神中心)、ではなく、人のニーズや価値観に応えるようなもの(人中心)になります。しかし、十字架の神学者を土台とした真の礼拝はその逆です。人がまず神に仕えるではなく、神が私たちに仕えてくださるというのが真の礼拝です(ルカ2章、マタイ2章:最初の礼拝者、ヨハネ5章17節、マルコ2章27−28節、マルコ10章45節、使徒17章24−25節、創世記22章、詩篇51篇17節、ヨハネ4章23−24節、ルカ10章42節、ヨハネ21章)。「宣教は福音」は、何より礼拝そのものにも貫かれ、礼拝から始まるのですが、それは「人が神に仕える」の礼拝 ではなく、「神が私達に仕える」礼拝(Gottesdienst:Divine Service)であり、神が私たちにまず仕えてくださりキリストがみ言葉で私たちに仕えてくださり与えてくださるものを受け、平安のうちに遣わされるからこそ、平安と喜びに満ちた真の宣教になり、宣教は福音になるのです。

5、終わりに

 「宣教は律法」では実は、「福音を宣教する」とどれだけ素晴らしいスローガンを掲げ、それをどんなに熱心におこなっても、結局は、矛盾を感じ、平安のない生活と律法的な組織活動になります。罪の赦しと新しいいのちを与え、神の前に義とされ平安のうちに遣わすのは福音だけであるので、律法を動機にし、律法を目的に、律法に駆り立てられても、それは結局、人間の力や意思にかかってしまうので、人の前では合理的であったり、うまくいくことがあったり、見た目や人間の基準で成功することがあっても、それは人の結ぶ実以上ではなく、神の前や救いや義に関わることでは、平安はなく、日々の生活はもちろん、宣教にも平安はありません。挙句の果てに、平安を伝えるどころか、宣教を声高に叫ぶその中に、裁きあいや人を誇ることが溢れるという矛盾と更なる重荷が生じるだけです。そうではありません。「宣教は福音」です。キリスト者は、キリストによる十字架の罪の赦しと日々新しくしてくださる復活の福音によって平安のうちに遣わされてこそ、真の歩み、実践があるのです。

スオミ教会・子ども料理教室の報告

今年最初の子ども料理教室は4月8日に開催しました。 春の天候が激しく変わりやすい一週間でしたが、この土曜日の朝は太陽が輝いてちょうど良い暖かさでした。イースター/復活祭の前日でもあるこの日は、みんなでミニ・ピザを作ってイースター・エッグの飾りつけをしました。

子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。最初にピザの生地を作ります。小麦粉の量を計ってボールに入れ、別のボールにお湯、塩、ドライ・イーストを入れてそこに小麦粉を少しずつ加えていきます。子どもたちは楽しそうに生地を捏ねて柔らかい生地が出来上がりました。生地を発酵させる間にトッピングの準備をします。発酵させた生地をテーブルにひっくり返すと、「面白い、おもちみたい!」と驚きの声が聞こえてきました。ピザの生地をちぎって一つ一つ丸くして手や綿棒を使って伸ばしていきます。その上にひき肉などのトッピングをのせてすぐにオーブンに入れて焼き始めます。

ピザを焼いている間にイースターエッグの飾りつけをします。可愛らしい模様のラッピングで卵をくるんでお湯の中に入れると、ラッピングは卵にピタッとくっつきます。くっつく度に「わー不思議!」と声が聞こえてきます。可愛い模様のイースター・エッグが出来上がりました。

ピザの香りが教会中に広がって、ピザはきれいな焼き色がつきました。どんな味になったか楽しみです。

その前にイースター/復活祭の時に何が起こったのかをみんな一緒に聖書のフランネル劇を観ました。イースターの前の週イエス様は私たち人間が救われるために多くの苦しみを受けて死ななければなりませんでした。しかし、次の週の始めの日、日曜日にイエス様は神さまの力で死から復活したのです。イースターの時、私たちはこの出来事を覚えて喜んでお祝いするのです。そしてイエス様を復活させて下さった神さまを感謝するのです。

フランネル劇が終って、みんなで食前のお祈りをして、さあ、自分たちで作ったピザをいただきましょう!子供たちは黙々と食べることに集中。大人たちはコーヒー紅茶と一緒に味わい歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。

イースター祝会とフィンランドからの挨拶

今年もイースターは礼拝、祝会と共に大勢と方とお祝いすることができ感謝です。 祝会はまだコロナ以前のようなポットラックのご馳走は控えましたが、音楽、スピーチ等のプログラム、テーブルもコーヒー紅茶プッラ、旅行先の名産品、有志の方が準備された軽食が並び大分昔の雰囲気が戻りました。 以下は祝会で紹介されたフィンランドからの挨拶です。

♰ ペンティ・マルッティラ SLEYアジア地域コーディネーター

(フィンランド語からの訳)

「キリスト信仰はイエス様の歴史上起きた死と復活に基づきます。自らの死をもって主は罪と死と悪魔の支配を打ち破り勝利しました。キリストの復活は、イエス様を救い主と信じる者全てがかの日に永遠の命へと復活を遂げることの保証です。イエス様が最初に永遠の命に復活されました。キリストのものである者たちがかの日それに倣います。」

『しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』 第一コリント15章20節」

   

♰ セイヤ&パーヴォ・ヘイッキネン 元スオミ教会SLEY宣教師、 ラハティにて

(フィンランド語からの訳)

「フィンランドのルター派教会の復活祭讃美歌の歌詞をもってスオミ教会の皆様にご挨拶申し上げます。

『心怯える多くの人が、あたかもイエス様がまだ墓の中に安置されているかのように、悲しみを心にため込んで通り過ぎていく。多くの人が独りぼっちで希望を失ってため息をついてる。しかし、それは、復活されて私たちと共におられるイエス様が私たちの心を満たす時までのこと。』

私たちの主は本当に死から復活されました。今は喜びの時です!」

   

♰ ティ―ナ・ラトヴァ-ラスク SLEY宣教師インターネット伝道部門

 ミカ・ラトヴァ-ラスク 元SLEY宣教師

(原文は日本語)

「スオミ・キリスト教会の皆様、

主のご復活のお慶びを申し上げます!イエス・キリストが私たち一人ひとりの心に真の平安・生きる喜びと希望を与えられますように。」

 

♰ パイヴィ&マルッティ・ポウッカ元SLEYスオミ教会宣教師

(原文は日本語)

イエスは生きておられます。ですからキリスト者は希望を持っています。

時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(ペトロの手紙一1:3-4)

イースターの喜びと希望を皆さんにお祈りいたします!!!

 

♰ 高木賢 SLEY宣教師インターネット伝道部門

 アンナカイサ・タカキ 元SLEYアジア地域コーディネーター、 ヘルシンキにて

(原文は日本語)

スオミ教会の皆さん、イースターおめでとうございます。

神の御子イエス様の十字架の死と復活は私たち人類にとって唯一の罪の赦しであり救いであり揺るがぬ希望です。洗礼を通して神の子どもとされ信仰をもって天の御国への帰り道を終わりまで歩み続けましょう。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」

(「使徒言行録」4章11〜12節、口語訳)

♰ シルッカ-リーサ&ペッカ・フフティネン 元SLEYスオミ教会宣教師、元SLEY海外伝道局長、元SLEYアジア地域コーディネーター

(原文は日本語)

イースターおめでとうございます。
スオミ教会の兄弟姉妹に久しぶりに会うことが出来ましたことを感謝します。一人一人の上にそして吉村先生とPaivi先生の上にイエスキリストの復活の力と喜びがありますように。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」コリントの信徒への手紙一 15:54-55

宣教師のコラム フィンランド・イースター・ノスタルジー

イースター、CC0

フィンランドでは、イースター/復活祭はクリスマスに並ぶ教会の大きなお祝いの時です。前週の「枝の主日」から受難週に入り、金曜日から復活祭翌日の月曜日までの4日間は国の祝日となります。木曜日はまだ平日なので聖木曜日の礼拝は夕方にあります。イエス様が十字架にかけられる前夜の晩餐を記念して聖餐式が行われます。礼拝が終わるや否や、聖卓の上にあるものは花瓶も蝋燭立ても全て片付けられて、黒い布が敷かれます。その上にイエス様の受けた傷を象徴する赤いバラの花が5本置かれます。

聖金曜日の礼拝は、黒い布をかけられた聖卓を前にして、讃美歌斉唱もオルガンの伴奏なしという暗い沈んだ雰囲気の中で守られます。礼拝後は会衆は交わりの時を持たずに直ぐ帰宅、教会は静まり返ります。

復活祭は盛大に祝われます。深夜に礼拝を行う教会と行わない教会がありますが、どちらの場合も朝の聖餐式礼拝を行います。聖歌隊も出て、私たちの救い主イエス・キリストの復活を喜び祝います。礼拝後は家庭でお祝いします。クリスマスと同じ連休なので実家に帰って親族と会う機会になります。皆で一緒に食事をして、マンミやパシャというイースターのデザートを楽しみます。翌日月曜日も礼拝がありますが、流石に出席者は少いです。

あと、キリスト信仰とは関係ないのですが、この季節に子供たちが魔女の格好をして、家々を回ってネコヤナギの蕾がついた枝を渡して、お菓子をもらう風習があります。私たちが住んでいたトゥルクのある南西地方では「枝の主日」の午後、パイヴィの実家のある南ボスニア地方では聖土曜日に行われ、地方によって日が違います。その日は町角や住宅地のあちこちで箒と小枝を持った小さな魔女のグループに出くわします。私たちはイースター連休はいつも実家に帰省したので、ウチの子供たちはこの「お菓子ねだり」を毎年2回していたことになります。あまりにも信仰に関係ないので、訪問先で復活テーマの子供讃美歌を歌いなさいと言ったことがあります。そうしたら、夫に先立たれたばかりのご婦人が涙を流して喜んでくれたそうです。

スオミ・キリスト教会 復活祭・イースター

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手芸クラブの報告(2023年3月29日)

今月の手芸クラブは桜が満開の時期の中での開催でした。朝はまだ少し肌寒い感じでしたが昼間は太陽が輝いて暖かい春の陽気でした。

前回に続いて今回もマクラメのコースターを作ります。

初めにコースターのモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回の作品は太目や細目の糸のどちらでも作ることが出来ます。参加者はモデルに合わせて糸を選び必要な糸の長さを測ります。各自マクラメを結ぶ場所を準備して結び始めます。今回も二つの基本の結び方を用いました。初めは巻き結びで一段を結びます。次は平結びでコースターのメインの結びです。参加者の皆さんは結びに集中しつつも、おしゃべりや笑い声も聞こえ楽しい雰囲気の中で作業ができました。完成された方やまだ途中の方もおられましたが、皆さんのコースターはレースのようなきれいな模様が現れていました。コースターのフリンジはお家に帰って仕上げることにしました。

作業を終えてコーヒータイムに入りました。今回は先週のチャーチカフェでも出されたバタープッラも一緒です!皆さん、温かいプッラを美味しく頂きました。今回はフィンランドから海外ミッションのボランティアとして日本に来たロサさんも一緒だったので、歓談は賑やかになりました。終わりにロサさんの「信仰の証」を皆で聞きました。ロサさんはこの日が帰国の日で、夕方ヨシムラ宣教師の家族が成田空港まで見送りに行きました。

次回の手芸クラブは4月26日に予定しています。日程が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。

 

手芸クラブのお話 2023年3月   ロサ・グレネ

皆さまこんにちは。今日の手芸クラブの終わりに聖書に関係している小さなお話をしたく思います。私はまだ日本語が話せないので、パイヴィさんに通訳をお願いしました。私はスオミ教会の礼拝、料理クラブやフィンランド語クラスに参加して、もう何人もの方と知り合いになりました。この教会に通われている方々はみんなとても素敵な方たちで、お会いできてとても嬉しく思います。将来また皆さんとお会い出来たら嬉しいです。今日は初めてお会いする方もいらっしゃるので、少し自己紹介をします。私は24歳でフィンランドからミッションのボランティアとして日本に来ました。私は日本での伝道に関心があり、ミッションの働きを知ることができればと思って来たのですが、もう今日の夕方フィンランドに帰ります。フィンランドのクリスチャンは将来に関係していることについて話す時によく言う言葉があります。それは、「もし神さまの御心であれば」という言葉です。それで私も、天の神さまの御心であれば、またいつか日本に戻ることができると信じます。

今日はマクラメのテクニックを使ってコースターを作りました。マクラメは手芸のテクニックの一つで、いろんな結びを使って装飾的な模様が出来ます。マクラメの作品はフィンランドでは人気がありますが、多くの人たちはマクラメのテクニックはどこから来たのか知りません。マクラメの歴史はとても古いです。何千年も前のバビロンとアッシュリアの遺跡から見つかった石の板にマクラメの結びの絵が描かれていました。マクラメのテクニックの発明者は一人ではなくて、様々な国の人たちが何世代にもわたって、マクラメの模様をいろいろな材料や使い方のために作っていったのです。マクラメの結びは粗い糸を使っても実用的で素敵なものができます。パイヴィさんが私に手芸クラブのお話をお願いした時、私はすぐ話のテーマが分かりました。

3週間前、私は日本に来るとき飛行機に13時間半も乗っていました。とても緊張しました。一人で世界の向こう側に旅行をするのは私にとって初めてだったからです。飛行機の中でいろいろ考えるようになりました。どんなことから始めたらいいのか?日本語が出来ないので、東京での生活は大丈夫だろうか?考えるととても疲れましたが、なかなか寝ることは出来ませんでした。

夜、飛行機が飛んでいる時に乱気流がありました。中国の上空で飛行機はとても揺れるようになりました。私の隣に座っているドイツ人の女性は手を合わせてお祈りをしました。その時、私も勇気を出してカバンの中から聖書を取り出して飛行機の中で読み始めました。その時、開いたページには次のように書いてありました。「恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」イザヤ書43章1~3節です。

30分後に飛行機の揺れはおさまり、私は浅い眠りに落ちました。その後また乱気流が始まりずっと続きましたが、この時は私はもう落ち着いていました。私は神さまを信頼しているので、もし神さまの御心ならば悪いことは何も起きないと信じることが出来ました。だれでも恐れることはありますが、私たちクリスチャンは神さまが助けて下さることを信じています。親が子どもを助けてくれるように、神さまは私たちをいつも助けてくださいます。

先ほど読んだ聖書の箇所で言われているように、神さまは私たちをまとめて一緒にではなく、一人一人に個人的に語りかけて下さいます。神さまは「 私はあなたの名を呼ぶ」と言われます。神さまは私たち一人一人を名前で呼ばれるのです。親は子どもを呼ぶ時、もちろん名前で読びます。呼ぶ理由がいろいろあります。子どもがご飯を食べに来るようにとか、学校に行くようにとかですが、子どもを呼ぶ最も大事な理由は、親は子どもを愛しているからです。

天の神さまは親と同じように私たち一人一人を愛して名前で呼んで下さいます。どうしてでしょうか?それは、私たち人間が造り主である神さまをもっと知って信じるようになるために、そのために一人一人を名前で呼ばれるのです。それは、私たちが百点満点を取る学生だからではなく、また完璧に仕事をこなす者でもなく、素敵なマクラメの装飾品を作れるからではありません。それは、天の神さまが私たちを愛してくださるからです。

この話を通して皆さんも天の神さまとご自分の関係を考えてみたら良いと思います。神さまは皆さんのことも一人一人名前で呼んで下さいます。皆さんはそのことを信じることができるでしょうか?皆さんは今日手芸クラブに参加したのは偶然でしょうか?それとも神さまの道びきでしょうか?これらの質問を皆さんお一人お一人心の中で考えてみてください。私は皆さんとこれからずっと会うことが出来ないかもしれませんが、フィンランドに帰ったら皆さんのことをお祈りするときに覚えたく思います。

説教「私たちの王は義なる方、勝利者、へりくだった方」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章1-11節

聖書日課 イザヤ書50章4-9a節、フィリピ2章5-11節、マタイ21章1-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日から受難週です。今日はイエス様が大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。

 受難週最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様が受難の舞台となるエルサレムに入る際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に群衆は「ホサナ」という言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホーシーアーンナーという言葉で、意味は「救って下さい」と神にお願いするものでした。同時に、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。日本語で言えば、さしずめ「王様、万歳」ということでしょう。そのホーシーアンナ―が、当時イスラエルの地域で話されていたアラム語という言葉でホーシャーナーになりました。

 ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説します。ヘブライ語は旧約聖書のもともとの言語です。その使い手だったユダヤ民族は紀元前6世紀のバビロン捕囚の出来事があって異国での捕虜生活の間にアラム語化していきます。イスラエルの地に帰還した時にはアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝ではヘブライ語の聖書が朗読されましたが、それをアラム語で解説していました。イエス様を迎えた群衆がヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーで叫んだのは間違いないでしょう。この出来事は最初アラム語で言い伝えられました。後にギリシャ語でマタイ福音書が書かれた時、マタイは群衆の歓呼の声ホーシャーナーを「王様、万歳」とギリシャ語に翻訳せず、アラム語の音声をそのままギリシャ文字に置き換えてホーサンナにしました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。そういうわけで、私たちが聖書のこの個所を開くと当時の群衆の生の声が響いてくるのです。「王様、万歳」と訳したら意味は分かりますが、声は聞こえてきません。マタイは現場の生々しい雰囲気を後世に伝えたかったのでしょう。

 そうすると、ホサナの歓声を上げた群衆はろばに乗ったイエス様をユダヤ民族の王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城がある自分の町に入る時は、大勢の家来や兵士を従えて白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。ちぐはぐな感じがします。どうしてロバなんかに乗って来るのでしょうか?

 さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰も乗ったことのないものを、と言います。まだ誰も乗っていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味です。もし既に誰かに乗られていたら使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行動を神聖なものと示すのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳と歓呼で迎えられつつも、ロバに乗って、これは神聖な行動であると、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何なのでしょうか?

2.私たちの王は義なる方、勝利者、へりくだった方

このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真剣で人類の運命に関わる重大な神聖な出来事でした。イエス様のこの行動は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」に注意します。ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利者、へりくだった者」です。マタイはこれを引用した時、なぜか「柔和な者」としか書きませんでした。ヘブライ語原文で「義なる者、勝利者、へりくだった者」と言っているのになぜ「柔和な者」だけになってしまうのか?こういう時は、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳を見てみます。マタイは福音書をギリシャ語で書いたので旧約聖書もギリシャ語版で見たのかもしれない。ところが、ギリシャ語訳は「義なる者、救う者、柔和な者」です。「柔和な者」が出てきます。「義なる者と救う者」もあります。どうしてマタイはギリシャ語版の「柔和な者」だけを採用してあとのものを省いたのでしょうか?マタイ11章29節を見ると、イエス様が、労苦する者、重荷を背負う者は皆、私のところに来なさい、休ませてあげよう、私は「柔和で心からへりくだった者」なので、わたしの軛を負い、私から学びなさい、そうすれば、あなた方は魂に休養を得ることが出来る、と言っています。マタイは、人間が魂に休養を得られるカギはイエス様の柔和さとへりくだりにあると考えて、それで「柔和な方」に全てを集約してしまったのではないかと思われます。果たしてこの説明が正しいかどうかはわかりませんが、本説教ではイエス様が王であると言う時、ヘブライ語原文通りの「義なる者、勝利者、へりくだった者」ということで見ていきます。

 最初に「義なる者」について。「義なる者」とは、神に義と認められた者、神聖な神に相応しい者です。イエス様は神のひとり子で罪を持たない神聖な方なので間違いなく義なる者です。加えて、イエス様は神の意思に反する罪を持ってしまっている私たち人間を罪の支配から解放して、私たちも義なる者となれるようにして下さいました。十字架と復活の業を果たすことで、それを可能にしたのです。このようにイエス様が義なる者であると言うのは、自らが義なる者であることと、他者にも義を与える者であるということです。しかしながら、当時の群衆からすれば、まだ十字架と復活の出来事が起きる前ですので、イエス様が自ら義なる者ではあるとわかっても、他者を義なる者にして下さるとは誰もわからなかったでしょう。

 次に勝利者について。イエス様が勝利者であると言う時、それはどんな勝利者でしょうか?イエス様は十字架と復活の業を果たすことで罪と死を無力にし、人間を罪と死の支配から解放する道を開きました。それでイエス様は罪と死に対する勝利者です。しかし、まだ十字架と復活の出来事を見ていない群衆は、そこまではわかりません。イエス様が勝利者という時、群衆の目に映っているのは、これから占領者ローマ帝国の総督とその軍隊そして彼らに付け入る同胞の支配層を追い払うという民族の英雄です。とても罪と死に対する勝利者、人間を罪と死の支配から解き放ってくれる解放者にまで思いは及びません。

 「へりくだった者」というのは、本日の使徒書の日課フィリピ2章で言われている通りのことです。ここでパウロは当時フィリピの信徒の間で口ずさまれていたキリスト賛歌を引用しています。6節の「キリストは、神の身分でありながら」から11節の「父である神をたたえるのです。」までのところは、ギリシャ語原文では段落が別になって行も短くなっていて引用であることを示しています。このキリスト賛歌はパウロ自身の作である可能性もあります。

 パウロがこれを引用した意図はこうです。パウロは、キリスト信仰者とは相手にけんか腰になったり高慢に振る舞ったりはしないのだ、相手を自分より優れたものと考えてへりくだるのだ、しかも、各自自分の利害に目を向けるのではなく他人の利害に目を向けるのだ、と勧めます。どうしてそうしなければならないのかと言うと、イエス・キリストがそうだったからと言うのです。私たちの救い主がそういう方だったのにあなたがたはそんなの嫌だとは言えないではないか、ということです。イエス様が果たしてそういう方であったかどうかは、広く唱えられているキリスト賛歌からも明らかでしょ、今ここで引用するからへりくだることについてよく自己反省しなさい、ということなのです。

「キリストは神の形をしていながら、神と同等であることにしがみつかず、そのような自分を空にして、奴隷の形を取って人間と同じようになられました(後注1)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 しかしながら、へりくだりについても、十字架と復活の出来事はまだです。それで、神のひとり子ともあろう方が人間の救いのために神と同等であることを捨てて、十字架の死を受け入れるくらい神の意思に従ったこと、これがへりくだりの真相だとわかった人はいなかったでしょう。むしろ、民族の解放者になる偉大な王様がロバに乗ってやって来るという、何か威厳さとか権威とかそういうものの正反対の様子がへりくだりを表していると思ったでしょう。

3.旧約聖書の本当の意味

このようにゼカリア書9章の預言は広い深い内容を持つものでしたが、ロバに乗ってエルサレムに入るイエス様を見た人々はそこまではわかりません。ついに民族解放の日が来たと期待を強く抱いたのでした。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?イエス様の華々しいエルサレム入城は、全く予想外の展開を遂げて行きます。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。神殿から商人を追い出して当時の礼拝体制に真っ向から挑戦しました。また、彼が公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国に反乱の疑いを抱かせて軍事介入を招いてしまうという懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に出てくる終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と自称したことも指導層にとって許せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。

 イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。イエス様が神の想像を絶する力で死から復活させられたことがそれです。これによって死を超えた永遠の命があることが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活が本当に起こるものであることが明らかになりました。

 そこを起点として旧約聖書の謎が次々と明らかになりました。イエス様は死に引き渡されたまま放っておかれることのない神の子であることが明らかになりました。それでは、なぜ神のひとり子ともあろう方が十字架で死ななければならなかったかのか?それについては、イザヤ書53章にある預言が成就したことがわかりました。人間が持ってしまっている神の意思に反しようとする罪を神の僕が人間に代わって神に対して償うという預言です。罪を持たない神に相応しい僕が人間の受けるべき神罰を自ら受けて、人間が受けないで済むようにするという預言です。罪に傷つき心が病んでしまっている人間の癒しはそこから始まるのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命が本当にあることがこの世に示され、その命に至る道が人間に開かれました。イエス様の十字架と復活の業によって人間が罪の呪いから解かれて永遠の命を生きられる可能性が開けたのです。

 そこで今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされます。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。行き先は、永遠の命が待つ復活の日です。その日が来たら眠りから目覚めさせられてイエス様と同じように復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられるのです。

 このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム入城は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあることが明らかになりました。罪と死の支配からの解放、造り主である神との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命を持って生きること、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。

4.イザヤ50章とキリスト信仰者の心構え

最後に本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所が、イエス様を救い主と信じる私たちの心構えについて教えているので見ておきます。この個所は一読するとイエス様が処刑される前に暴行を受けたことを預言しているとわかります。イエス様は人間を罪と死の支配から救い出して神との結びつきのうちにこの世と次に来る世の双方を生きられるようにしてあげようとしている。それなのに神の真の意図をわからない者たちはイエス様を危険な者として迫害する。イエス様は迫害の最中でも自分は神の立場に立つ者とわかっているので何も怖くはありません。暴行は痛いし辛いが、自分の立場は神を裁判官にした裁判では潔白以外の何ものでもない。神を裁判官にした裁判が8節と9節で言われます。

8節「私の潔白を証明する方はすぐそこにおられる。」神がイエス様を死から復活させて、彼が罪と死を滅ぼした神の子であることが明らかになります。そのようにイエス様の潔白は人々の前で証明されます。

「誰が私を訴えるのか?一緒に立とうではないか!」日本語訳では、私の協力者と一緒に立つという訳し方ですが、正確には、協力者ではなくて、訴える者のことで、それで、上等だ、一緒に法廷に立とうではないか、ということです。法廷とは神を裁判官とする法廷です。同じ趣旨のことが続きます。

「誰が私に対して訴えを起こすのか?私の前に出てこい。」それでここは訴えを起こす者に対してひるまない姿勢を一貫して言っているのです。

9節「見よ、主なる神は私を助けて下さる。見よ、私を訴える者はみな着古された衣のように擦り切れて朽ち果てて、虫に食いつくされてしまう。」

「主なる神は私を助けて下さる」は7節にもあります。神が助けて下さるから、私は迫害を受けても動揺しないし恥にも感じないというのです。4節から9節まで「主なる神は」という言い方が4回出てきます。「主なる神は、弟子の舌を私に与えた」、「主なる神は、私の耳を開かれた」、「主なる神は、私を私を助けて下さる」、「主なる神は、私を助けて下さる」。みな、「アドナーイ(主よ)、ヤハヴェ」で始まります。「ヤハヴェ」は神聖な名前なので口にしてはいけないので「アドナーイ」に言い換えます。「アドナーイ、アドナーイ」と、神が本当にそばにいて働きかけていることを意識していることを感じさせる箇所です。

 同じ意識はキリスト信仰者にも当てはまります。この日本では、さすがに暴力を振るってまでして信仰を捨てさせるようなことはありませんが、キリスト信仰に対する誤解や中傷は起きると思います。キリスト教を名乗って社会を騒がせる団体がいろいろある昨今ではなおさらです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰で生きる以上、神を裁判官とする裁判では潔白なので、動揺せず恥ともせずに、フィリピ2章にある心構え、人々にへりくだって、自分より優れた者として接して、自分の利害を脇において他人の利害を考える、またローマ12章にある心構え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、悪に対して悪で報いず善で報いる、敵が飢え乾いていたら食べさせ飲ませる、を続けていけばいいわけです。

 非難や中傷は他の人から来ず、心の中で責める声がする時があります。お前には罪がある、神の前で潔白でなんかあり得ないと。悪魔の声です。悪魔のことをサタンと言いますが、その意味は告発する者、責める者という意味です。しかし、この場合も心配いりません。確かに私には神の意思に反する罪があるが、その罪はイエス様が神に対して償って下さったのだ、それで私は神から罪を赦された者として見てもらっているのだ、と思い出して、そこに踏みとどまればいいのです。神がイエス様を通して私に与えて下さった罪の赦しのお恵みを私は手放すつもりはないと悪魔に言い返せばいいのです。私は罪の赦しのお恵みを神から差し出されて受け取って携えて生きている、それで神は私を潔白な者と見なして下さる。だから、私は潔白なのだ。悪魔よ、お前も、イザヤ書50章9節にある虫に食いつくされてしまう古着なのだ(虫に食いつくされてしまう古着は51章9節にも出てきます)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

後注1 ギリシャ語のモルフェ―が日本語訳で「身分」と訳されていますが、基本的意味は「形」とか「形態」です。身分や立場とは違う意味です。フィンランド語の聖書は「形」と訳しています。また、 ギリシャ語のドゥ―ロスが日本語訳で「僕」と訳されています、基本的意味は「召使い」の他に「奴隷」の意味もありまる。フィンランド語の聖書は「奴隷」と訳しています。