2023年2月12日(日)顕現節第六主日 主日礼拝

「神との和解」  2023・2・12(日)

マタイ福音書5章21~34節

今日の御言葉は、有名な「山上の垂訓」と呼ばれる、マタイ福音書5章です。 1節の始めを見ますと、「イエスは、この群衆を見て山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで口を開き教えられた。」とあります。「山に登られた」とありますが,ガリラヤ湖を望む高原の小高い丘であります。ここを読む毎、私はイスラエルの旅でこの場所に立った時の事を思い出します。周りを木々に囲まれた森のような下で、世界中から訪れるクリスチャンが皆な手を取り合って輪になって祈り合っています。教会が建てられ眼下にガリラヤ湖が広がって素晴らしい所です。この場所でイエス様は弟子たちに大切な教えをなさったのです。さて、今日の聖書は5章21節からです。実は17節から20節までのところでは「十戒」についての大変きびしい教えです。律法の中心は十戒です。そして、今日の聖書の21節から48節までは、その十戒の中の五つだけを取り上げて語っておられます。その一番初めに「殺すな」という戒めについて教えられています。21節から見ますと「あなた方も聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」人を殺す、と言うことはどんな意味でも決して許されるものではありません。ところが現実の世界を見てください。戦争という名のもとに多くの人々が殺され家を壊され、人の生活が破壊されています。しかも、何年も続いている。次にイエス様は何と言われたかというと、22節「しかし、わたしは言っておく、兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院に引渡され『愚か者』と言う者は火の地獄に投げ込まれる。ここで、イエス様は誰でも怒った者は裁きに合う。と言われました。怒った者は殺したも同然だ、とは言われてない。しかし、両方とも裁かれるのだ、と言っておられます。ここには人を憎んだら、とは言われません。怒ったら、と言うのです。怒ることは憎むことよりもっと悪いことは言うまでもありません。もし、そうであるなら私たちはどうでしょうか。たびたび怒ってしまいます。頭に来た!とか、腹がたつ!と感情的になってしまいます。そうすると、イエス様の言葉からすると、私たちもたびたび殺人に等しい罪を犯している。怒ったから、と言って殺人にまで発展する事はありませんが、イエス様は同じように裁きを受けるのだ、と言われます。大変きびしい言葉であります。人を殺した者が裁きにあうことは分かります。当然です。しかし、怒った人が裁きにあう等と言うことは私たちには、とても考えられない。この当時、ユダヤ人の間では怒った者は裁判にかけられた、というのです。しかもその怒りと言うものは、いつまでも忘れない怒りであります。そこのところが大切な事です。怒ると、どうして殺した、事と同じになるのか、理屈ではない。どちらも神の裁きにある、ということです。普通の常識では考えられない、ことでありますが、ただ信仰を持っている者だけが信じる事のできることです。信仰者にとってはどちらも神の前に行われることでことでありまして、怒られた人も又神によってつくられた兄弟であり一人一人尊い人格を持った人でありますから、従って、怒ったら神に対して責任を取らねばならない事だからです。イエス様が神の目を持って人間に対して鋭く神の世界、信仰の世界から言われるのです。神に対しての責任からして、神の裁きを受けるのだ、ということ。神の裁きということが信仰生活の中で何か古い事のように思われて、私たちの実感として、どれ位あるのか問われているわけです。私たちは神のことを第一にする、と言いますが神様の生きた働きがはっきりと実感として、受けとめられた生活であるか、どうか問われています。「裁き」というのは、神が私たちの中で、私たちのすること、なすことに正しく判断なさる、自分に都合のいいような、曖昧な事はなさらない方である、という事です。神が「私の中に生きておられる」ことを信じる、ことであります。神の裁きがある、と言っても、いつもびくびくして、生きるということではありません。神が生きておられる、 このこ事を信じて生きることです。この事をイエス様は、この教えの中ではっきりさせたい、と思われているのです。

次にイエス様は言われます。「兄弟に向かって、愚か者、と言う者は議会に引き渡されるであろう。」そうすると、怒るというのは「兄弟に対して愚か者」と言うことと同じになります。しかも、「愚か者」と言ったら議会に引き渡されるのですから、怒った者が裁きに会う、というのは、やはりユダヤ人たちの裁判にかけられる、ということであります。ユダヤで議会というのは国会のようなものです。この当時ではユダヤ人たちの生活の中心になっていた所です。祭司が議長になって、全部で71人で構成されていました。いずれにしろ、怒ったり、愚か者と言う者は何れかの社会的制裁を受ける、という時代であったのです。イエス様は、そういうユダヤの現実社会の事実を取り上げて、御自分の考えと神の子の権威を示そうとしておられます。その後、又、又凄く厳しい言葉を言われます。「ばか者、と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」と。これは大変な事であります。なぜ、イエス様はこれ程まで、厳しく言われるのでしょうか。どんな意味がそこにあるのでしょうか。この事は5章21節から5章の終わりまで十戒の内の五つの戒めを引き合いに出して同じ形式で言っておられます。みんな通じる事です。その形式は「あなた方も聞いているとおり、と『十戒の戒め』をあげて、しかし私は言っておく、と宣言して厳しいイエス様の常識では考えられない厳しい言葉をもって踏み込んで宣言しておられます。例えば、「敵を愛しなさい」と言われる。43~44節を見ても同じ形式です。あなた方も聞いているとおり「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイが、この福音の中で証し示そうとしたのは、そうした「厳しい言葉を宣言される、お方が来られた」という事であります。このお方は律法に対してさえ「わたしは言う」と言って全く同じ権威を持っている事をお示しになったお方でありました。4章17節で、イエス様はガリラヤ伝道を始められる時、「天の国は近づいた」と言われた。天の国、つまり「神の国が来た」ということは文字通り大変なことであります。それは、「神の支配が来た」ということだからです。今まで、この世界は誰が支配していましたか。ヘロデ王ですか、ローマ皇帝ですか。或いはこの世を支配しているのは政治家ですか。いや、やっぱり金が支配しているのだ、と言うかもしれません。律法学者の律法かもしれません。ところが、いまや、神が支配されることになった。と言うのであります。神の御子が神の国をもたらす時が来た。このお方は神の支配を口にし、神の支配をもたらし、実行し、ついには十字架の死と復活をもって、証明する、そういうお方が言われているのです。「わたしは言う」と、ここに権威があるのです。それは、ただ口先で「神の国は来た」と言われるのではありません。このお方の全生涯を通して、実行されて行く背景があるのです。その背景は神の御子イエスの歴史であって、天の御父が、彼と共に従順を通して復活まで共に行かれたものです。「わたしは言う」と言われる言葉の力はここにあるのです。それは、神の御子であられるイエス・キリストの歩まれた道、でわかる、ということです。それを、もとにして「わたしは言う」と言われるのであります。5章から7章までの「山上の教え」の全ての言葉がこれにかかっているわけです。私たちの「兄弟に対して愚か者」と言うなら地獄の火の裁きを受けねばならない。これを言われたら絶望してしまうでしょう。そういう絶望してしまう弱い立場の者の事をみな知った上で、それに対する救いをも、もたらして下さる、十字架の死をもって、その罪を身代わりに受け、復活して、永遠の生命を与えて下さる、その用意をされて告げておられるのであります。イエス様は神の裁きの厳しい宣言を誰に語っておられるか、と言いますと、山上の説教を聞いている人々、特に弟子たちに語られている。もっと言いますと、この言葉は神によって生きる信仰をもった人々、つまり後の教会生活をする信仰者、すべての人々に向かって言われる言葉であります。

だから、マタイは兄弟という言葉を度々使っています。それは、教会の中の兄弟でもあります。信仰者の間で「ばか者」と呼ばわりするような者は地獄の火の裁きである、ということです。教会ではお互いに愛し合う兄弟姉妹です。従ってキリストにあって罪があることを知らされ、キリストによってそれが赦された、ことを知って互いに愛し合うのであります。それならば、「殺さない」ということは勿論のこと、「怒らない」ことも兄弟に対して「愚か者」と言ったりしない生活ができるのは教会の中であります。ところが、現実には信仰者は教会の枠を超えた、この世の只中に生きている、そこに生けるキリストも共に働いて下さる。パウロは、ローマ人の手紙の中で4章8~15節に次のように書いています。「私たちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死にます。だから、生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のもの、なのです。キリストは死んだ者と、生きている者の主となるために死んで、復活されたのです。それだのに、あなたは、なぜ兄弟を裁くのですか。なぜ、ばかにするのですか。キリストは兄弟のためにも死なれたのです。」イエス様は腹の立ついやな奴のためにも十字架に死なれたのです。私たちは、どうしても赦せない恨みでイエス様を苦しめてしまったのです。そこで、次にマタイ5章23~24節を見ますと、イエス様は仲直りをせよ、と言っておられる。前の方で怒る者は裁きにあう、と言って後の方では恨みを受けるなら供え物をする前に和解しなさい。と言っています。「殺すな」という戒めから話がこのように進んできた。よく考えてみると裁き、と和解とは決して関係がないもの、ではない。むしろ裁きは当然、和解を求めるはずでありましょう。裁きは裁きだけで終わるはずがありません。何故ならそれでは何の救いもない、結果は破滅に向かうだけだからです。戒めは「殺すな」ということであっても、滅びに終わるはずはないのです。「殺すな」と言って、ただ殺さなければ良いと言うものではない。その戒めが深刻に扱われれば扱うだけ救いに近づくことになるはずであります。重要な事は、それが礼拝と結びついている、ということであります。「殺すな」という戒めを考えた、そこから「怒るな」ということになって、それを礼拝の前に持って行けばどうなるでしょう。イエス様は、わたしは言っておく、と言って「愚か者」という者は火の地獄に投げ込まれる。23節で、突然、だから「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを、そこで思い出したら・・・・」と書いてあります。「そこで思い出したら」とあります。祭壇の前では私たちに隠されていた多くの事が突如として頭に浮かんでくる、と言うのです。礼拝の話が語られて行くのです。礼拝では今まで考えていなかった事が急に思い出される。つまり、神の前に、あらゆる意味で自分の罪の深さを、改めて思わされる、というのです。それで、礼拝に於いて一番初めに罪の告白をいたします。実際に礼拝に於いて、思い出す事は、恨みや、憎しみ、自分のした事、罪として告白すべき、いろいろな事であります。そういうことを、ここで思い出す、ことは何のためか、と言いますと、自分が犯した罪によって神の裁きに会わねばならない、という問題があるからです。もし、そうであるなら、それは怒った時と同じです。怒ったら裁きに合うのだ。そしてついには神の裁きに合うという事になるはずであります。そこで、礼拝に於いて裁きを受けねばならない立場にある、自分が神から赦していただくことであります。つまり、神との和解と言っても良いでしょう。なるほど、私たちは罪を赦されているにちがいない。罪を赦された、と言うのはいつでも赦しの言葉を聞いている、ということです。絶えず、礼拝の度に赦しの声を聞き、それを信じていることであります。洗礼を受けて信仰に入っている、と言うことは、いつでも悔い改めて、神からの恵みを新たに信じる用意が与えられている、ということです。ある人が言いました。「神の赦しを真剣に求める者は兄弟に向かって、行った正しくない事をも考える。このような思い出しこそ、神礼拝が私たちにもたらす祝福である」と。どこまでも、まことの赦しは、神からのみ出るのであります。神との和解が人との和解へと変えて行くところに祝福があるのです。  アーメン

人知では、とうてい測り知る事の出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最初の家庭料理クラブは2月4日に開催されました。10年来の厳しい寒さが続く日々の朝でしたが、昼間は太陽が眩しく輝き清々しさを感じさせました。 今回の料理クラブでは、今の季節のフィンランドで全国どこのお店や喫茶店でも並べられるルーネベリ・タルトを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初に生地に入れるシナモン・クッキー(ピパルカックです)を細かく潰します。次に粉類を計って潰したクッキーと一緒に混ぜます。別のボールにマーガリンと砂糖を混ぜると、教会はハンドミキサーの音が響き渡りました。白く泡立ってから卵などの材料を加えてケーキ用の生地が出来上がりです。生地をマフィンカップに入れてオーブンで焼き始めると「いい香り!」という声が聞こえてきます。

焼き上がったタルトの上にアップルジュースを少しかけて冷やします。終わりはタルトの上にラズベリージャムをのせて、その周りをアイシングで飾りつけ。これで、美味しそうなルーネベリ・タルトの出来上がりです!

早速みんなでテーブルのセッティングをして席に着き、出来たてのルーネベリ・タルトをコーヒー紅茶と味わう歓談の時を持ちました。その時にルーネベリ・タルトとフィンランドの有名な作家ルーネベリとの関係、ルーネベリが作詞した讃美歌とそのもとにある聖書についてのお話も聞きました。

帰る時もまだ明るくて、日が少しづつ長くなって春が近づいていることが分かりました。次回の料理クラブの時はすっかり春めいているでしょうか?

今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月11日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

2023年2月4日ルーネベリ・タルト

今日はフィンランド人が好きなルーネベリ・タルトを作りました。フィンランドでは新年を迎えたあと少しすると、どのお店や喫茶店でもルーネベリ・タルトが並ぶようになります。もちろん家庭でも作ります。ルーネベリ・タルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、今日皆さんと一緒に作った形のもので、生地につぶしたクッキーとアーモンドを入れたり、タルトの上にラズベリージャムをのせて周りにアイシングをするものです。この形の他にも最近ではロールケーキやケーキの形のものも作られるようになりました。生地に入れる材料もいろいろ変化しています。

ルーネベリ・タルトはどうしてフィンランドの今の季節のお菓子でしょうか?それは、明日の2月5日はフィンランドでは「ルーネベリの日」という日だからです。この日は昔は休日でしたが、今はそうではなく、ただ国旗を掲げるだけの祝日です。

Albert Edelfelt [Public domain]ルーネベリとはどんな人だったでしょうか?彼はフィンランドの有名な作家で、1804年に生まれました。詩や小説をたくさん書いて、彼の最も有名な詩「わが祖国」はフィンランドの国歌になりました。彼は書いた詩や小説を通してフィンランドの美しい自然や国民の理想的な像を描きました。また彼は教会のことにも熱心で、60曲近い讃美歌の詩も書きました。今フィンランドの国教会で使っている賛美歌集の中にはルーネベリが書いた賛美歌がまだ15曲のっています。

どうしてフィンランド人がルーネベリを記念する時にルーネベリ・タルトを食べるのかというと、それは彼がこのお菓子が大好きで、朝食の時にも食べたくらい好きだったからです。このお菓子の始まりについては、いろいろな説があります。ある説によると、ルーネベリ・タルトは初めはスイスで作られて、そこからフィンランドのルーネベリが住んでいた町に伝わって、町の喫茶店で売られていたということです。ルーネベリはこのお菓子がとても気に入って、よく食べるようになりました。それで奥さんのフレディリカもこのお菓子を作るようになりました。

このようにルーネベリは後世にルーネベリ・タルトの伝統を残しました。しかし、彼が後世に残したものはお菓子の伝統だけではありません。詩や小説、讃美歌も沢山残しました。ルーネベリ・タルトは冬の季節のお菓子ですが、彼が書いた詩や小説、讃美歌は季節に関係なくいつでも読まれたり歌われたりします。これから、ルーネベリが書いた讃美歌について少しお話したく思います。

ルーネベリが書いた讃美歌の一つに「人が地上の人生を歩む時」というのがあります。この讃美歌を通してルーネベリは人生を旅にたとえています。讃美歌の意味を短く説明すると次のようになります。人生の旅には喜びや感謝もあれば、試練や悲しみもある。しかし、天の父なる神さまがいつも導て下さることを忘れずに神さまに信頼していけばいつも安心を得られる。私たちの父である天の神さまは私たちが歩んでいる道を誰よりも一番よくご存じなので、私たちに一人ひとりに相応しい助けをいつも与えて下さる。人生の道に危険がある時は神さまは知恵を与えて安全な道に導いて下さる。このように人生の旅は神さまが守り導いて下さる旅である。だから私は神さまに感謝をする。大体こういう内容です。

この讃美歌は長くて8節までありますが、4節だけ訳して紹介します。

「このことを忘れないでほしい
あなたがどこに向かって歩んでいく時も、
あなたの神は恵み深く、いつもあなたの脇についていて下さる。
だから、たとえ危険が迫っても、
父なるみ神はあなたの歩む道を知っておられ、
あなたの行く手を守って下さる」

ルーネベリはこの讃美歌を1850年頃に書きましたが、讃美歌のメッセージは現代の私たちにとっても励ましになります。神さまはいつも私たちと共に歩んで下さって、私たちのことを全てご存じで相応しい助けをいつも与えて下さいます。このように言うことは簡単ですが、本当に神様は信頼出来るお方でしょうか。聖書には神さまが本当に信頼できる方であることを沢山の人が証言しています。旧約聖書の詩篇を書いた人は次のように言いました。
「主は人の一歩一歩を定めて下さり、み旨にかなう道を備えて下さる。たとえ倒れることがあっても、それは神に打ち捨てられたということではない。主なる神がその人の手をとらえて下さるからだ。」詩篇37章23-24節です。

私たちの生活の中にはいろいろ大変な時がありますが、そのような時でも父なる神さまは助けを与えて導いて下さるというのが聖書が伝えるメッセージです。親が小さい子どもの手を握って歩く時、子どもは遠くに走らないで親の側を歩きます。親は子どもを守ります。天の父なる神さまは親と同じように私たちの手を握って一緒に歩んで守ってくださいます。私たちは神さまが一緒に歩いてくれることを望んでいるでしょうか?時々子どものように親の手を離して好きな道に行こうとしてしまうかもしれません。そのような時は、先ほどの詩篇の言葉を忘れないようにしましょう。「たとえ倒れることがあっても、それは神に打ち捨てられたということではない。主なる神がその人の手をとらえて下さるからだ。」。このような神さまの手を離さずに、私たちは神さまを信頼して人生の道を歩んで行きましょう。

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宣教師の週報コラム SLEYの全国大会へ!

フィンランド・ルーテル福音協会(SLEY)は、フィンランドのルター派国教会の中で活動する1873年設立の団体です。 ルター派信条集に基づく信仰が国教会の中で守られるようにすることを目的とし、賛同する牧師や教会員がその精神に基づいて地元教会で礼拝を行ったり、全国各地に「祈りの家」を建設して様々な集会を行ったり、ルター派の書籍の翻訳や出版事業を始めたりしました。このようにSLEYの活動は当初は国内向けのルター派のリヴァイヴァル運動でした。それが、海外にもルター派の信仰を伝道しようという機運が高まり、最初の伝道地に日本を選び、1900年から宣教師を派遣し始めて今日に至っています。 SLEYが日本各地に設立した教会の中で主なものは、札幌、池袋、飯田、諏訪、大岡山の教会があります。全て大正~昭和初期に建てられたものです。それらは、1960年代に「日本福音ルーテル教会」が設立された後は順次日本側に移譲、スオミ教会は1990年誕生の末っ子です。

 SLEYの集会の中で最大のものは1874年から毎年夏に開催される「福音祭」と呼ばれる全国大会です。開催地は毎年各地の持ち回り、週末の3日間に延べ2~3万人位が参加します。大抵陸上競技場がメイン会場ですが、地元の学校などの公共施設も貸切られ子供から大人まで年代層に応じた様々なプログラムが実施されます。

野外礼拝の聖餐式では長い行列が延々と続きます。

 中でも最大のプログラムは、土曜夕方と日曜朝の野外礼拝です。50~60人位の牧師の前に6,000~8,000人位の人が聖餐式に与る光景は圧巻です。日曜午後は宣教師の派遣式が盛大に執り行われます。大勢の参加者が見守る中、宣教師たちはSLEYと国教会の関係者から按手を受けます。

 SLEYが設立した日本の教会からは多くの方が全国大会に参加されました。何度も行かれた強者もいらっしゃいます。スオミ教会からはまだありません。来年2024年の全国大会はオウライネンという北の町で開催されます。神がお許しになれば、久しぶりに新しい日本宣教師の派遣式があります。さらに神がお許しになれば、スオミ教会の現宣教師の延長派遣の可能性もあります。この機会にスオミ教会からも参加があれば素晴らしいと思います。

2023年1月29日(日) 顕現節第4主日 主日礼拝

本日の説教は動画配信でご覧ください

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

ペンティ・マルッティラ牧師は、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターとともにSLEYのハメーンリンナ教会の牧師も兼任しています。SLEYで仕事をする前は「フィンランド福音ルター派ミッション(フィンランド語で「種まき人)」というミッション団体の宣教師としてモンゴルでキリスト教伝道をされたこともあります。

 

 

2023年1月22日(日)顕現節第三主日 主日礼拝

司式 吉村博明 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
説教・聖餐式 ペッカ・フフティネン牧師・SLEY元海外伝道局長
本日の説教は動画配信でご覧ください。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

宣教師の週報コラム ニーニスト・フィンランド大統領の年頭スピーチを聞いて

写真 ユハニ・カンデル(Juhani Kandell)/大統領府

毎年1月1日にフィンランドの大統領はテレビで国民向け年頭スピーチを行う。 フィンランド語とスウェーデン語それぞれ15分ずつの短いスピーチだが、前年の国内外の情勢を振り返り、新しい年の歩みを始める国民一人一人が心に留めておくのが大事と考える視点を簡潔に提示する内容である。

今回はもちろんロシアのウクライナ侵攻が話題の大半を占めた。それは無理もないことだ。フィンランドをめぐる安全保障の環境は激変し、国是だった中立政策を捨ててNATO加盟を決めたからだ。テレビ・ニュースでも、ニーニストがウクライナ戦争を1939~1940年の冬戦争に、プーチンをスターリンになぞらえたことを公言したことに注目が集まった。

そういう対外的な大問題と併行する形で、国民の日常にも目を向け、こういう時だからこそ心に留めておくのが大事と考える視点を提示していた。今回、キリスト信仰の観点から見ても興味深いと思われる点を3つほど発見した。

一つは、ウクライナ戦争の影響で世界的に経済が失速し物価高、電力不足が深刻になる中、フィンランドは比較的に経済や福祉を維持できていることに関して。フィンランドが国際的に平均値が高いことに満足してはいけない。格差が拡大すれば、平均値の下側の人たちはより困難な状態に陥ることを忘れてはいけない。彼らの状況に目を向け支援を忘れてはいけない。

二つ目は、暗い事件は国外だけでなく、国内でも身近に起きている(クリスマスに礼拝中の教会が放火される事件が起きた、あとニーニストは国内の組織犯罪の増加に警鐘を鳴らしている)。悪の力は、一般市民をストップさせて不安に絡めて前に進むことができなくなるようにする力である。しかし、不安を抱きながらでも日常を続けることに努めることが悪に打ち克つことになる。

三つ目は、あまり聞きなれない言葉、人間はepeli olemusという言葉を使った。文脈から「意外な可能性を持つ存在」という意味だと思う。もう可能性などなくなってしまったというピンチの状態は実は、それまで自分にあると気づかなかった可能性に気づけるチャンスなのだ。フィンランド国民のシス精神はまさにそれだ。

以上の視点は、もちろんお上のお達しなんかではなく、受け入れるか受け入れないか、どう批評するかは聞く人の勝手というものである。(識者のコメントの中には、SDGsや気候変動についてもっと言及すべきだったというものがあった。)それでも、危機迫る国民に危機から目を逸らさせず、それを乗り越える共通の手がかりになるものを示し、しかもフィンランド国民なら乗り越えられると自信を与える内容になっていると言える。

因みにニーニスト大統領は年頭スピーチの終わりにいつも「神の祝福が皆さんにあるように」と結び、自身のキリスト信仰を表明する。今まで大統領によっては言わない人もいたが、ニーニストは言うのだ。

2022年1月8日(日)顕現節第1主日 主日礼拝

「天からの御声」         2023,1,8(日) 木村長政 名誉牧師

マタイ福音書 3章13~17節

2023年新しい年を迎えました。

今日の福音書はマタイ3章13節から17節です。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた話です。ユダヤの国の北から南へとヨルダン川が流れています。行く先は”死海”と言う湖です。さて、マタイ3章を見ますとバプテスマのヨハネはユダヤの民に「悔い改めよ」と叫んだ。そうするとエルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネのもとに来て罪を告白し彼の質問にパスした者にはヨルダン川で洗礼を授けました。この洗礼を受けようと集まっていた民衆の中にイエスも混じって順番を待っておられた。ヨハネはイエスを発見してびっくりしたでしょう。どうして、びっくりしたかと言いますとイエスの方が自分より優れた人物であることに気づいたので言いました。「イエス様、わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに。」と思いとどまらせています。しかし、今は受けさせてもらいたいと、イエスの強い願いに負けて、ついに洗礼を授けました。イエスが岸辺に上がって祈っていると突然天が開け神の霊が下って神の御声が聞こえて来ました。「このイエスこそ、神の心にかなった救い主である。」と宣言しました。この時からイエスの救い主として活動が公に始まるわけです。この出来事について、他のマルコもルカもヨハネも福音書で記録しています。それほど、この出来事は大事な意味を持っていますので、しっかりとそれぞれの福音記者の独自の立場からイエス様の宣教の始めを計画的に書き記しているわけです。

考えてみてください。イエス様がこの洗礼を受けられた時30才でありました。ナザレの田舎で父ヨセフと大工の仕事を一緒にして家族の大きな助けをされていたのでした。ところが突如としてナザレを出てガリラヤで神の国を宣べ伝え始められました。そして、わずか3年後十字架の死をとげ、3日後に復活された。イエス様の地上に於ける生涯33年のうちの30年というほとんどの年月はナザレ村で神の福音を実行に移されるまでの大事な大事な準備の期間であったろうと思われます。その深い準備の期間、何をどう過ごされたか聖書には何も記していない。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、神の計画は準備を整えて、いよいよ天からの神の御声があったのです。この天からの声がどういう重要な内容を含んでイエス様の上に下ったのか、少しづつ見て行きましょう。

まず第1には、天の声はナザレ村で大工の長男として育って家族の中心であったイエスに対して「これからは、お前は大工の子ではない、神の子であって民衆を救うべき救い主だ。ナザレ村を出て公に神の子本来の働きをしなさい。」という神のご命令であった。神の霊が鳩のように、ご自分の上に下って来るのをご覧になった。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」これはマルコが書いている、天の声です。ルカ福音書の方はマタイと同じような意味を込めて3章22節でイエスが洗礼を受けられ、祈っておられると、その祈りに答えて天からの声があった。「あなたは、私の愛する子。」と2人称で語りかけています。ヨハネ福音書によると、この出来事はイエスにバプテスマを授けた預言者ヨハネに対して<この、イエスこそお前の待ち望んだメシアだ>ということを教えている天の声であった、というのです。そこではヨハネ福音書で言っています。1章33節で「私はこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。ある人の上に『み霊が下って、留まるのを見たら、その方こそみ霊によってバプテスマを授ける方である』私はその方を見たので、この方こそ神の子である、と証したのである。」この出来事に出会って見た多くの人々も又イエスは、ただの人ではない、神の子である、と教えられたと思います。

では、マタイはこの出来事を、どの点に力説しようと、したのでしょうか。マタイ3章17節の最後の部分で、天からのみ声があった、「これは、私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえた。この、天の声の仕方に秘密があるのかも知れません。マタイの言うのは、マルコやルカによる記録のように、「あなたは・・・・私の愛する子だ」と2人称で語りかける父親の声ではありません。マタイの言うのは、言ってみれば「これが、こういうのが、私の愛する子である」と言う客観的な宣言文です。日本語訳によると,マルコもルカも「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者である」と一気に言われた文章を記してあるかのように見えますが、実はこれは二つの文章に切れていて「あなたは私の子、愛する者である。私は、あなたを喜ぶ」となっています。これは、父親が子に対する率直な気持ちを伝える親子の語らいなのです。ところが、マタイだけはこれを一つの文章で 書いています。つまり「こういうのが、私の喜ぶところの、私の子、愛する者なのである」と。ここではイエスが神と、どういう続柄にあるか、神はどういう気持ちを抱いておられるか、というような問題ではなくて、神が喜ぶ、愛する子、とはどういう者なのか、という定義が述べられているのです。神からの宣言です。この声によって、イエスが神の子だ、という事が言われているのです。同時に、だから神の子はどういう性質のものなのか、という事までわかるのだ、とマタイは言いたげであります。

では、「私が喜ぶところの、私の子、愛する者とは」何のことでしょうか。マタイは12章17~18節のところでこう記しています。「これは、預言者イザヤの言った言葉が成就するためである。見よ、私が選んだ僕、私の心に適う愛する者。私は彼に私の霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう」。ここに、今の3章13~17節を思い出させる重要な言葉が次々と出て来ることに気づくでしょう。「私の心に適う」とか「愛する者」という二つの言葉は天の声と同じ用語です。「私は彼に私の霊を授け」という言葉も、イエスが受洗された時の天から下ったみ霊を思い出させます。「正義」という言葉も3章15節の」「正しいこと」と同じ言葉です。すなわち、マタイが3章17節に記している天からのみ声は、マタイが12章18節で引用している旧約聖書イザヤ書42節1節に他ならないのです。正確に調べると、イザヤ書42章を開いて読むと、マタイが引用した天からの声と全く同じでは、と感じられるかもしれません。それは、旧約聖書のヘブル語をギリシャ語に訳したために多少変わってしまったからです。要するに、マタイによれば、この時天からの声は旧約聖書の預言したメシア、とりわけイザヤが預言していたメシアとはこういう方である、と説明したのです。

イエスが神の子だと言うが、彼と神との父子関係がどういうものであるか、そんなことは論じられていません。むしろ、マタイが今までイエスはメシアである、と論証してきた、そのメシアというのはどんな性格の方であるかをマタイは言おうろしているのです。私たちは誰が救世主であるかを知ればそれで充分なのではありません。彼が、どういう性格の救い主であるか、が分からなければ信じる事が出来ません。神信仰と言うのは、神がおられることを信じるだけでなく、どういう神がおられるか、という事まで含む信仰です。イエス・キリスト信仰もイエスという方を救い主と信ずるだけでなく、イエスという方がどういう者かという事まで含む信仰です。

では、真のメシアとはどういう性格の方でしょうか。それを、明らかにするためにマタイは他の福音書記者の切り捨てたものをちゃんと保存しています。すなわち、ヨルダン川でイエスがバプテスマを受けられる前にイエスとヨハネとの間で交わされた言葉のやり取りが、このメシアの特色をよく伝えてくれるのです。マタイ3章14~15節を見ますと「ところがヨハネは、それを思いとどまらせよう�として言った。私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私の所においでになるのですか。しかし、イエスは答えられた、今は受けさせてもらいたい。このままにして論じないままにしておいて欲しい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々に相応しい事である。これまで、預言者としてのヨハネは人々に説教をしてきました。「私の後から来る方は、私より力のある方で、聖霊によってお前たちにバプテスマを、お授けなるであろう」と。それが、今、イエスの方から何故バプテスマを授けて欲しいと言われるのでしょうか。イエスの答えは明快でした。「このように、すべての正しいこと義を成就するのは我々に相応しい事であるから」と言っておられる。理由はただ一つ、「正しい事を果たす」のが我々に相応しい、適切だからだよ。もっと言えば、この事はメシアであるイエスにとって適切だ、とか言うのではない、又、預言者ヨハネに有利だ、と言うものでもない。

◎ ただ神を信じ、神に仕える「我々に」適切なことなのです、ということです。

◎ 神様が喜ばれるのは、そうした真理と正義への率直な服従と熱心であります。」イエス様は人の肉体をとり人の心を持って、この世に来られました。十字架にかかられる前日には血の汗を流して祈られました。出来ることな ら、十字架の死の盃を取り除いて下さい。正真正銘の人の子として生きられました。

◎ しかし、彼は真理のため、正義のためには、どんな事も果たされたのです。それが十字架の死

  であっても、神の、み心であれば相手が誰であれ服従されたのです。

◎ 神の喜ぶメシアとは、こういう方なのであります。イエスがヨハネに「このことは我々に相応しい」

  と言われた、この言葉使いの中にはイエスご自身を民衆の中に徹底的に身を置こうとされる

  考えがにじみ出ています。

驚くべき事は、ヨルダン川に出て来て、神の子として活動して行こうとされるイエスが、このように人々の列の中に行列に加わることによって、悔い改めのバプテスマを受けようとする、罪びとの中にその身を置かれた、というこの事実です。告白すべき罪などない神の子がバプテスマを受けることは一体、何でありましょうか。彼はメシアでありながら、神に背く罪が自分にもある、と言いたげに、今、人生の出直しを新しく決意されているのです。彼は罪びとの最も身近な友、最も親しき罪の共犯者になろうとしておられる。バプテスマのヨハネは、どうかと言うと、もし、メシアが来られたら、きっと聖霊の火を持って罪びとを焼き滅ぼすに違いないと思っていました。しかし、そうではない。聖霊は恐ろしい、滅ぼす火のようではなく。鳩のように、ひっそりと下られました。ヨハネの後から来る方は力ある裁き主ではなかった。むしろ、力なき者の友、罪びとの友、悔い改めて泣き崩れる者の味方であった。彼こそ真の救い主なのであります。神の喜ぶメシアはイザヤの預言どおりの救い主なのだ、と天の声は断言しているのです。ナザレから出て、洗礼を受けられたイエスは、天の声で断言されたメシア、神の子の使命をこれからいよいよスタートして行かれる。天から神のみ声は大きな霊の力となってイエス様に下ったのでありました。   アーメン

宣教師の週報コラム  フィンランドの「クリスマス平和宣言」

12月24日のクリスマス・イブの日、フィンランドのトゥルク市には14世紀から続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。その日、ブリンカラという名称で親しまれる市の会館前の「旧大広場」に大勢の群衆が集まります。トゥルク大聖堂の12時を知らせる鐘が鳴ると、軍楽隊の伴奏で群衆は一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら(日本のルター派教会の教会讃美歌450番「力なる神は」)」を歌います。歌い終わると会館のバルコニーから市の儀典担当者が巻物を広げて次の宣言文をフィンランド語とスウェーデン語で高らかに読み上げます。

「明日は、もし神がお許しになるのであれば、我々の主であり救い主でおられる方の恩寵溢れる降誕の日である。それゆえトゥルク市にクリスマスの平和を宣言する。市民はこのお祝いに相応しい敬虔さをもって祝い、静かに騒ぎ立てぬよう振る舞わなければならない。なぜなら、この平和を破り、違法あるいは相応しくない行為によってクリスマスの平和を乱す者は、重大事案が生じたことになるので法令がそのために別途定めている刑罰に処せられることになるからである。終わりに、トゥルク市に居住する全ての住民にとってクリスマスのお祝いが喜びに満ちたものになるように。」

読み上げた後、再び軍楽隊の伴奏で今度はフィンランド国歌を斉唱し、最後は「ポリ市民行進曲」の演奏で終わります。大体15分位の内容ですが、テレビ中継され国民のほとんどが注視するひと時と言っても過言ではありません。ヨーロッパでは中世から同じようなクリスマスの平和宣言はどこでも行われていたそうですが、現在も続けているのはフィンランドのトゥルク市だけだそうです。(2021年12月19日初掲載)

「クリスマスの平和宣言」をYoutubeで見る

スオミ教会・家庭料理クラブの報告


12月のスオミ教会・家庭料理クラブは10日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマス料理の定番の中から「ポテト・キャセロール」Perunalaatikko と「ビーツ・サラダ」 Rosolli を選びました。あわせてデサートにクリスマス・クッキーも作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にポテト・キャセロールを作ります。今回は伝統的なポテト・キャセロールと少し違って甘味を出すためにジャガイモだけでなくサツマイモも入れました。ジャガイモとサツマイモを茹でてからハンドミキサーでマッシュします。牛乳など他の材料を混ぜて焼き方型に入れ、あまり高くない温度で焼きます。

次はビーツ・サラダの番です。茹でた野菜をサイコロ状に切って種類ごとにお皿にきれいに並べます。参加者が大勢いたおかけで色とりどりの華やかなサラダがすぐに出来上がりました。サラダの酸っぱさを和らげるクリームも作ります。生クリームをホイップしてスパイスとビーツの汁を少し加えるとピンクの可愛らしいクリームの出来上がりです。

最後はクリスマス・クッキー「ピパルカック」を焼きます。生地を伸ばして花や星やハートなどいろんな形の型どりをして沢山のクッキー生地を鉄板に並べます。鉄板をオーブンに入れると教会中クリスマスの香りで一杯になりました。

参加者の皆さんにとってフィンランドのクリスマス料理を作るのは初めてだったので、試食が楽しみでした。出来上がったポテト・キャセロールとビーツ・サラダをそれぞれのお皿に盛りつけて、さあ、頂きます!ポテト・キャセロールが入った型はあっという間に空っぽになりました。クリスマス料理やクッキーをゆっくり味わいながら、モニターを通してフィンランドのクリスマスの歌を聴きました。終わりにフィンランドのクリスマス料理やクリスマスの過ごし方、そして聖書に出てくるクリスマスのお話も皆で一緒に聞きました。

今回の料理クラブも無事に楽しく終えることができ、天の神さまに感謝です。

料理クラブは年明けの1月はお休みになります。次回は2月第2の土曜日に予定しています。日にちが近づきましたら教会のホームページの案内をご覧ください。何を作るか、ぜひお楽しみに!

それでは皆さま、天の父なる神さまが豊かに祝福されるクリスマスをお迎え下さい!

料理クラブのお話2022年

今日皆さんと一緒に作ったポテト・キャセロール「Perunalaatikko」とビーツ・サラダ「Rosolli」は昔からあるクリスマス料理です。オーブン焼きの温かいキャセロールの種類は多くて、ジャガイモの他にニンジンやルタバガと呼ばれるスウェーデン・カブのキャセロールも作られます。一番人気のあるのはポテト・キャセロールですが、作り方が少し難しいので、自分で作らないで店で買う家庭が多いです。今日は簡単な作り方で作りました。甘味を出すためにサツマイモとシロップを入れましたが、伝統的な作り方はジャガイモだけから甘味を引き出します。ジャガイモだけでどうやって甘くなるのでしょうか?それは、茹でたジャガイモをマッシュしてその中に小麦粉を少し混ぜて、大体50℃位の温度に3時間から5時間くらい置いておくと、ジャガイモのでんぷんが分解されるので甘味が出るのです。そのマッシュポテトをあまり高くない温度で焼きします。これが伝統的なポテト・キャセロールの作り方です。

ビーツ・サラダは伝統的なクリスマスサラダの一つです。サラダの名前「Rosolli」はロシア語から来たものです。このサラダはクリスマスの時だけでなく、一年のお祝いの食卓にもよく出されます。このサラダにはいろいろな野菜が入っているので、私の母は秋の収穫が終わってからよく作りました。

フィンランド人はクリスマス料理の伝統をとても大事にして、母親が作ったクリスマス料理が子供に受け継がれて、どの家庭でも昔お母さんが作ったものと同じ種類の料理を作ります。料理の味と香りを通しても、それぞれの家庭のクリスマスの雰囲気が作られると言ってもよいです。

クリスマスの時に毎年同じ料理を作ったり、同じ過ごし方でクリスマスをお祝いすることで、フィンランド人は安心感を得ていると言えます。クリスマスが近づくと、たいていの子どもたちは「今年も豚肉のオーブン焼きやポテト・キャセロールを作るの?」と親に聞きます。作りますよ、と答えると、子どもはホッとした顔をします。これで今年も同じ雰囲気のクリスマスになると感じて安心するのです。しかし、今の世界の動きはこの2、3年の間にとても大きく変わってしまって、前は当たり前だったことが今はそうではなくなってしまいました。このため、クリスマスにいつも同じ料理を作ったり同じ過ごし方でお祝いできるかどうか、来年も出来るのだろうかと多くの人々が不安を感じるようになったかもしれません。

この間フィンランドのテレビのニュースを見ていたら、今フィンランド人は誰を一番信頼しているかについての世論調査がありました。調査の結果、フィンランド人が一番信頼しているのは、国境警備隊、救急隊、救急医療センターでした。これは、今のフィンランド人が大きく変わる世界の中で安全と安心を重要なものと考えていることを表わしています。それで、安全と安心を与える機関に対する信頼が高まったのです。さて、この変化する世界で私たちは誰を信頼するでしょうか?

聖書には信頼について沢山書いてあります。今教会のカレンダーはアドベントの期間に入ったので、クリスマスの前やクリスマスの時に起きた出来事について聖書に書かれてあることを見てみたいと思います。その中で、イエス様の母親になるマリアとマリアの夫になるヨセフが天の神さまに対して持っていた信頼は私たちの心を動かします。

CC0昔ナザレという町にマリアという若い女性が住んでいました。彼女はダビデ家のヨセフと婚約していました。ある日天使のガブリエルがマリアに現れてこう言ったのです。「おめでとう、恵まれた方。神さまはあなたと共におられます。」とても驚いたマリアに対して天使は続けて言いました。「あなたは神さまから恵みを与えられました。これからあなたは神の力で身ごもって男の子を産むことになります。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者になり、いと高き神の子と呼ばれる。彼に神はダビデの王座を授ける。彼は永遠に神の民を治め、その支配は終わることがない。」天使の言葉はマリアには完全に理解できないことでしたが、それは旧約聖書の預言が関係しているとマリアにはわかりました。マリアも旧約聖書に預言された救い主はいつ来られるかと待っていたからです。マリアは神さまがメシアを送る約束を果たす日がついに来たのだと分かったのです。それで天使に次のように言ったのです。「私は主にお仕えする者です。お言葉の通りにこの身になりますように。」マリアは神さまを信頼していたので覚悟が出来ていました。しかし、婚約者のヨセフがこのことをどう思うか心配があったでしょう。

Dennis Jarvis from Halifax, Canada, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, via Wikimedia Commonsマリアの妊娠に気づいたヨセフは結婚をやめることを考えました。しかし、ヨセフには天使は夢の中に現れて次のように言ったのです。「マリアのお腹の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は将来、人間を罪から救い出す。だからマリアと別れてはならない。結婚しなさい。」ヨセフも旧約聖書に預言されていた救い主を待ち望んでいました。それで、その時がついに来たのだ、それは自分とマリアを通して本当のことになるのだとわかりました。ヨセフはマリアを妻として迎えることにしました。

マリアとヨセフの将来の見通しは最初に考えていたことと大きく変わってしまいました。この先何が起こるのか予想がつかず、二人とも不安を感じたかもしれません。それでは、なぜ二人は神さまが与える課題を受けいれたのでしょうか?それは、神さまが本当に信頼して大丈夫なお方であることを旧約聖書から学んでいただからです。神さまが救い主を送って下さるという約束を必ず守ると信じていたからでした。

旧約聖書の詩篇62篇9節には次のように書いてあります。「力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神は私たちの避けどころ」。このみ言葉は私たちにも向けられています。今世界が大きく変わっていてどこに向かっているか誰もわからない時でも、私たちは神さまが示される道を進んで行くことができます。その道はいつも平らではなく坂道もあれば曲がり道もあります。しかし、神さまのみ言葉が生きる土台にあれば、神さまは信頼して大丈夫な方と分かり、神さまが示される道を歩むことが出来ます。たとえクリスマスの過ごし方が前と違うものになっても、イエス様が私たちの救いのためにこの世にお生まれになったというクリスマスの本当の意味は変わりません。変化が激しい世の中で、変わらない神さまの愛とみ言葉は本当に信頼できるものです。クリスマスの本当の喜びは、本当に信頼できる方を持つことがで見いだすことが出来るのです。

 

宣教師のコラム   キリスト信仰者と戦争 - フィンランドの視点

12月6日はフィンランドの独立記念日。毎年その日のニュースに必ず出てくるのは、 「あなたにとって独立は何を意味しますか?」と聞く街頭インタビュー。老若男女問わず必ず返って来る答えは「自由」である。この「自由」は、外国の支配からの自由だけではない。国内で自由と民主主義の体制が守られることも意味する。フィンランド人は第二次大戦で両方の自由を守ったという自負が強くあるのだ。(そう言うと、あれっ、フィンランドは枢軸国ではなかったの?と疑問に思う人が出てくるかもしれない。フィンランドは実は戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた国だったのだ。そんな国がなぜ後半はナチス・ドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)

 この自由を守ることは国民の義務で、場合によっては武力を用いてでも守らなければならないということを示すのが徴兵制である。パイヴィの兄弟姉妹たちの男の子たちも高校を卒業すると皆、大学入学前までに当たり前のように兵役を済ませていた。二重国籍の息子にも”召集令状”が来たが、障害があるため医師の診断書で免除となった。女性は志願制だが年々増加しているという。予備役の再訓練の参加率も高まっていて、2014年のロシアのクリミア半島併合以来の傾向だと聞いた。

 ところで、キリスト信仰者が銃を取ることは許されるのだろうか?国教会の堅信礼教育で十戒を教える時に問題になるところだ。第5戒「汝殺すなかれ」。教師を務めた時、私はいつもその項目の担当を外してもらった。フィンランドの中学2年の子供たちに外国人の私が、銃を取って宜しいとか、逆に兵役は罪を犯すことになるとかとても言える立場ではない。

 最初の堅信礼合宿の時、この問題で牧師と夜遅くまで話した。彼は次のように自分の立場を説明した。ローマ13章などにあるようにキリスト信仰者はこの世の権力に従うことを基本とする。ただし、使徒言行録4章19節などにあるように、神の言うことと権力の言うことが対立したら聞き従うのは神である。第2次大戦はフィンランド国民にとって、まず権力が銃を取るよう命じたので従ったという面がある。それと、敵国のソ連という国は、もし占領されてしまったら信仰の人生が不可能になってしまう相手であったという面がある。彼は授業でも、自分はこのように考えていると、押し付けるのではなく自分の考え方を紹介する仕方で子供たちに語っていた。僕はこう考える、あとは君たち自身で考えてみてくれ、という具合に。そうは言っても、牧師の説明はフィンランドのキリスト信仰者の間では広く共有されていると思う。

 しかしながら、フィンランド国民の90%以上が国教会に属していた時代はもう過去になってしまった。私が牧師の話を聞いた頃はまだ80%台だった。昨年は66%まで落ちた。生まれてくる子供の洗礼率も今では半分位だそうだ。この傾向が続けば2040年には国教会の所属率は50%を切るということだ。兵役の是非を考える際にかつてのように信仰と関連づけて考えることは、もう一般的ではないのかもしれない。それでは彼らは今、何に関連づけて何に拠って考えるのだろうか?かつては神のみ言葉が価値でそれを自由と民主主義が保証していたのが、今は自由と民主主義自体が価値になったということか?