お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
説教:内容はyou tubeをご覧ください。
聖餐式
SLEYとスオミ教会との間の諸問題について話し合いをしました。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
3月16日のスオミ教会の礼拝にて説教を担当されます(通訳付き)。
SLEYは、日本とフィンランドが外交関係を結ぶ前の1900年から日本に宣教師を派遣してきた北欧のルター派ミッションのパイオニアです。是非この機会に礼拝に御参加下さい。
V.アウヴィネン先生の略歴
次回の手芸クラブはバンド織のキーホルダーを作ります。
フィンランドの民族衣装に使われるバンド織りで、北欧のウールを使った可愛いキーホルダーをご一緒に作りましょう。
織る道具はお貸しします。
手芸クラブでは自分の好きな編み物もすることができます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1743594867iamg@1743594867arumi1743594867hsoy.1743594867iviap1743594867
03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
今回の料理クラブではパーティーの人気メニューの一つツナ&ベジタブル・ピーラッカを作ります。パイ生地の上に缶詰めのツナ、炒め野菜、チーズをのせてオーブンで焼くと美味しいピーラッカができ上がります。チーズの組み合わせでツナも滑らかな味わいになります。このパイとサラダのコンビで立派な食事になります。
是非ご一緒に作って味わってみませんか!
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1743594867iamg@1743594867arumi1743594867hsoy.1743594867iviap1743594867 まで。
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月8日の日課から
これぞ、キリスト信仰者が苦難困難に遭遇した時の心意気!
「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇118篇1節)
『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるための光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」
この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなること善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられますように。」
これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正しくて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きくて優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである。』
このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えきれない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれない出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるようになると。
2月の手芸クラブは26日に開催しました。前日までは寒い日が続きましたが、この日は朝から太陽が輝いて穏やかな天候の日となりました。
今回は1月の手芸クラブに続いてストールを編みました。初めに前回参加された方々がお家で頑張って編み続けたものを見せて下さいました。「きれいな色ね」、「可愛らしい」「暖かそう」「柔らかい」とお互いにほめたたえる声が。皆さん「Silmukannostotekniikka」が上手になってストールをきれいに編まれました。それぞれ色がきれいで、完成されたかたもいらっしゃいました。
前回参加された方はストールを編み続けます。始めて参加された方はストールを前回と同じやり方で編み始めます。始めての方もあっという間に「Silmukannostotekniikka」が編めるようになって網の模様が見えてきました。それを他の参加者に見せると「色合いが可愛い」との声が聞こえてきました。
皆さんはおしゃべりをしながら編み続け、ストールはどんどん長くなって完成させた方もいらっしゃいました。
今回、お家で編み始めた方はマフラーを持参してそれを編まれていました。長いものになっていましたが、これからどのようなものになるか楽しみです。
春に向かって暖かくなりますが、まだストールが必要な寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたストールを首に巻いたら暖かくなるでしょう。自分で編んだものだから特に暖かさも身近に感じるのではないでしょうか。
編み物に集中した後はコーヒータイムで一息入れます。今フィンランドではラスキアイスプッラの時期なので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、フィンランドのラスキアイネンの日の過ごし方やラスキアイネンから始まる受難節、イエス様が盲人を癒やす奇跡の業の出来事についてのお話がありました。今回も楽しい歓談のひと時を一緒に持ちました。
次回の手芸クラブは3月26日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドのカレンダーでは来週の火曜日はラスキアイネンと呼ばれる日です。この時期になると多くの家庭ではラスキアイスプッラを作って美味しく味わいます。ラスキアイスプッラはちょうど今の期間にお店でも喫茶店でも一番多く販売されています。
ラスキアイネンの日とはどんな日でしょうか?ラスキアイネンは「下る」という意味で、季節がイースターに向かって下って行く最初の日のことです。その日からイースターの準備期間になります。イースターの準備期間のことを「受難節」と言います。イエス様の十字架の受難の前の40日間の期間です。イースターの日はクリスマスと違って毎年変わります。今年は4月20日でいつもより遅くなります。それで今年のラスキアイネンの日は遅くて来週の火曜日となります。
ラスキアイスプッラは普通は1月頃から「受難節」の前までの期間に食べられます。フィンランドではラスキアイネンをどのように過ごすでしょうか。この日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中そりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るか競争したので、その日は学校に行く前に朝5時や6時に滑ったこともあります。
ラスキアイネンの日が過ぎたら受難節に入ります。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、人によって好きなお菓子を食べないとかSNSを使うのを減らすとか生活に変化を与えることをする人もいます。受難節を少しでも意味のあるものにしようとするのです。
受難節は自分の生活を新しい視点で見るのに良い期間だと思います。生活の中には慣れることが多くていろんなことが当たり前のことになります。当たり前のことの中に何か問題や新しい事が起きても気がつかなくなってしまうかもしれません。その時、私たちは目があっても見えない人のようになってしまうかもしれません。しかし見えるようになるために時々助けが必要です。
ここで新約聖書の「ヨハネによる福音者7章」にある、イエス様が盲人をいやす奇跡の業の出来事を紹介したいと思います。イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない男の人を見かけられました。弟子たちはその男の人を見て、「この人が生まれつき目の見えないようになったのは、彼が罪を犯したからですか?彼の両親ですか?」と聞きました。そこでイエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエス様は唾で土をこねて目の見えない人の目にお塗りになりました。イエス様はその人に「シロアムという池に行って洗いなさい」と言いました。その人はイエス様が言われたことを疑わずにその通りにしました。すると目が見えるようになったのです。この人は目で見えるようになりましたが、それだけではなく心の目も開けかれました。それではイエス様が天の神様の子でこの世に送られた方であるとわかって信じるようになったのです。
受難節は聖書を読むのに良い期間だと思います。聖書を読みイエス様を信じることには、私たちの心の目をあける力があります。生活の慣れて当たりまえになってしまったいろんなことの中で、天の神様の愛やみ心は何だろうかと考えるようになります。中には難しいこともあって、神様の愛やみ心をはっきり分からないかもしれません。でも、それは神様が私たちに祈りなさい、と勧めていることなのです。神さまの愛や御心がはっきり分かって大きな喜びに包まれたら、神様に感謝しなさい、ということなのです。
神さまが私たちの心の目を開くと、全ては新しい目で見ることが出来るようになります。
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月7日の日課から)
キリスト信仰は「する」信仰ではなくて「受け取る」信仰であること、「受け取った」後で「する」ことが出来るようになる信仰であると教える説き明かしです。
「主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう」(イザヤ62章2節)
『我々が「キリスト教徒」と呼ばれるのは、良いことを沢山するからではない。キリストから受け取り、キリストから頂くからそう呼ばれるのだ。キリストから受け取ることを止めたら、もうキリスト教徒ではなくなる。「キリスト教徒」という呼び名はひとえに「頂く」ことに基づくのであって、「する」ことに基づくのではない。キリスト以外の何ものからは受け取らないことに基づくのだ。
もちろん、人は良いことをしなければならないし、他者を助けたり、助言を与えたり、与えたりしなければならないというのはその通りである。しかし、そのために人がキリスト教徒と呼ばれるのではない。ものを白さのゆえに白と呼び、黒さのゆえに黒と呼ぶように、また大きさのゆえに大きいと言うように、我々がキリスト教徒と呼ばれるのは、我々と結びつき我々が良きもの全てを頂くお方、すなわちキリストのおかげなのである。
もし私がキリストのおかげでキリスト教徒と呼ばれるのならば、自分が行った良いことのゆえにその名を持つのではない。それゆえ、誰も行いのゆえにキリスト教徒にはならない。行いのゆえにキリスト教徒になると教える者は、はっきり言ってキリスト信仰の裏切り者である。
行いのゆえに、私のことを「断食をする者」とか「祈る者」とか「巡礼をする者」と呼ぶことができよう。しかし、それでキリスト教徒とは言えない。たとえ、私が行った良いこと全てをかき集めて、それに他の人の良い行いをつけ加えても、それでキリスト教徒になるのではない。キリストはそれらとは全く別物であり、神が命じることや人間が作った掟をはるかに超えるものである。そのキリストから受け取ることに徹すれば、私がキリスト教徒と呼ばれるのには正当な理由があるのである。』
イエス様が十字架と復活の業をもって築いて下さった計り知れないものを受け取り続けることがキリスト信仰の真髄です。本気で受け取ろうとすれば、私たちの器はすぐ一杯になります。そこから溢れ出たものが良い業になって出ていきます。十分受け取っていないのに、何かをしようとすると無理強いになって力尽きてしまいます。ここスオミ教会の礼拝でも、皆さんのキリストから受け取るものが最大限になるように努めてまいる所存です。
Huhtinen夫妻
2月2日のヘルシンキ聖心教会のミサの様子をビデオを観ていたら最後のところでHuhtinen夫妻が「この青い空の下に」を合唱されていました、始めは聞き慣れないメロディーでしたが直ぐにあの「この青い空の下に」と気がつきました。お二人の見事なデユエットに耳を澄ませて聞き入っておりました。
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月14日の日課から
重い皮膚病を患っていた10人をイエス様が癒す奇跡を行った時のこと。
「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。」ルカ福音書17章15節
以下、ルターの説き明かし
『福音書は、鍛えられて経験を積んだ信仰がどんな業を行うかについて教えてくれる。ある人たちは神のために教会を建て、別の人たちは神のために教会の鐘をならし、他の人たちは神のためにロウソクに火を灯す。あたかもそうすることで神がよく見えるようになるかのように。彼らが行う業は実は、神というのは我々から良いものとお仕えを必要とし、それらがないと何もできないような子供扱いでそうするのである。
神への正しいお仕え、正しい礼拝とはそのようなものではない。神のもとに戻り、声高に神を賛美することが神への正しいお仕えであり礼拝である。それこそ、天においてもこの地上においても最も偉大な業であり、我々が神に対して成しえる唯一の業なのである。その他のものを神は必要とはしていない。神がなさることは、我々の神に対する愛と賛美を受け取ることだけである。
神のもとに戻るというのは、神から頂いた恵みとその他の良いものを神のもとに持ち帰ることである。それらのものを自分のもとに留めないことである。それらにしがみつかないことである。それらのゆえに他人に対して優越感を抱かないことである。それらをもとにして栄光を求めないことである。いかなる点においても他の人たちよりも優れた者として立ち振る舞わないことである。それらをもとにして自分を愛することをしないことである。そういう自己愛を享受しないことである。享受、自己愛、誇り、栄光は全て、それらを与えて下さった神のところにあるのが当然である。我々のところにあるべきものではない。だから我々は、神は私たちに与えた賜物をまたご自分のもとに引き戻される方でもおられるのだということを心に留めてこの真実に下に自分を服させていよう。そして神がそうされる時も、賜物があった時と同じ位に神を賛美し愛そう。しかし、実際どれくらいの者がこのように神のもとに戻るだろうか?10人のうち一人でもいたらいい方だろう。』