お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
ストールを編んでみませんか。
2月の手芸クラブは1月に始めたストール編みの続きです。表面が網のようになるテクニックを使ってストールを編みます。
フィンランド語で「Silmukannostoneule」という編み方です。詳しくはクラブでご説明します。
持ち物: モヘア毛糸40g
メリノ毛糸または他のウールの毛糸30g
毛糸に合わせて編み棒2本
参加費: 1000円
毛糸のご用意が難しければ、こちらで用意しますので、お好みの色をお知らせ下さい。申し込みの際にご連絡くだされば幸いです。
手芸クラブは、お子さん連れの参加も歓迎です。 皆様のご参加をお待ちしています。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話もあります。
お問い合わせ お申し込み *protected email*
電話03-6233-7109 福音ルーテルスオミ・キリスト教会
聖書ルカ6章17~26節 2025年2月16日(日)
題:「まことの幸に生かされる」
今日の聖書はルカ福音書6章17節~26節です。17節を見ますと「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」とあります。山から下りてこられ、とあるのは、その少し前の12節を見ますと、その事情がよくわかります。12せつには「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」とありますようにイエス様は人里離れた山に登って夜を明かして祈りに没頭されたのです。何を祈られたのでしょうか。今日の聖書のところで多くの病人や精神的に苦しみの中にある悪霊に取り付かれた人々をも、次々と病を治されていますから、多くの人々の救いを求めるのに対する哀れみの思いがいっぱいにあって夜通し父なる神にお祈りをされたのではないでしょうか。一人の人間では限界があり、そこにイエス様と共に協力して働きまたご自分の後を次いで行く弟子という者を12人選んで使徒と名付けられた。ルカはその弟子と選ばれた人の名をきちんと書き記しています。(6:14)にあります。
さて、夜が明けてイエス様は山を下り山腹の平らな所にお立ちになった。そこには数多くの弟子たちとユダヤ全土から、また都のエルサレムから、そして異邦人の地ツロやシドンの海辺の地からも群集がイエス様のもとに集まって来た。そうしてイエス様から病を癒してもらいたい、またイエス様の教えを聴きたいと群集は我も我もとひしめき合ったのです。そして、汚れた霊に悩まされた精神病者さえもが、たちどころに癒されていったのです。飼う者のいない羊のような群衆の様を哀れんでイエス様はそのひと時を病の治療の業に超多忙な時を過ごされたでしょう。それが一段落ついたところでイエス様は目を天にあげ、そして弟子たちを見て語りだされたのです。それが「山上の垂訓」として知られる教えでありました。イエス様は、まずどんな人が幸福であるか、どんな人が不幸であるか、というこの問題から語り始められたのです。
幸福な人はどんな人か、「貧しい人々」「いま飢えている人々」「いま泣いている人々」「人々に憎まれ、また人の子のために追い出され、罵られ汚名を着せられている人々」であると言われます。これに反して不幸な人は「富める人々」「いま満腹している人々」「いま笑っている人々」「全ての人々から褒められている人々」であります。以上ここで上げられた人々に対するイエス様の痛烈な言葉は甚だしく常識とは異なるもので意表をついた言葉でありました。しかもそれは余りにも人々の持っていた人間の常識とは異なる内容でありましたから人々の魂に深く突き刺さった言葉であります。これらのイエス様の教えの語り方というものが逆説的な言い方で人々の注意をひく語り方でありました。一言で言えばイエス様の教えは人々の常識とはとても似ているとは言えない厳しい断言であります。更には幸福な人々と不幸な人々についてその理由がずばりと単純に示して語っておられるのであります。
まず幸福の方では。
次に不幸となる人々について。
こうして見て来ると現在と将来に於ける位置が転倒しているのです。ここでイエス様が言っておられる「いま」と言うのは何時であろうか。また将来とは何時のことであろうか。
<例えば>
2)番目に言われた、いま飢えている人々と言っても現在はそうであるかもしれない…で
も後に将来には食物を得ているかもしれない。同じように、いま泣いている人についても色々変化するかもしれない。…様々です。端的に言って「いま」と言われる事はこの世の事です。「将来」は天の御国であります。この世での貧しき人々が所有するのは結局「神の国」です。また迫害される者の受ける報酬は天に於いて大きな測り知れない報酬を受ける事もなります。不幸となる人々はこの世で富める者、満腹している者、笑っている者、これらの人々はやがて将来、死後に於いて満腹していた者が飢えるようになり、笑って威張っている者たちは泣き悲しみ苦しむ事になる。確かにいま現実のこの世で貧しい人々はまず食べる事に困っている。着るもの衣服も充分でなく、住む所も困っています。お金さえあれば…と嘆きます。しかしこの世でのものは天の国に於いて逆転ししまう。ここで思い出しますのは、ルカ福音書16章19節から31節にあります、「金持ちとラザロ」のたとえ話です。この例えでみられます、金持ちは金で自分の欲するものは何でも手に入れられ贅沢に暮らしていた。けれども死んだ後の世界では金で買えるもの、欲望を満たす全ての物という物は何も無いのです。人がこの世を終え死んだ後あるのは魂だけです。まことの幸せは聖なる霊の愛に生きる事です。そこでこの世でいま生きている者に向かってイエス様は教えられます。弟子たちに向かって語られています。権力がなくても、お金がなくても、貧しい人々よ耐え忍びなさい。やがて天のン野国はあなた方のものです。真の幸福そのものです。
いま、イエス様は押し寄せてくる群衆の病を癒し、力を与えて言われました。弟子たちに向かってはこの世の困窮には耐え忍び、また迫害されても、その苦しみに耐え、天の御国のまことの幸いを宣べ伝える者になりなさいと、教え給うたのであります。群集は病の治療を求めて来ます。しかし一時的な救いであります。結局は人の肉体は病気の前に屈服して死ぬ事は免れない、誰でもいつかは死を迎えます。一方イエス様が弟子たちに与えて行かれるものは永遠的なもの、絶対的なもの、天国の福音であります。弟子たちはこの福音を教えられ、自らまことの幸福者になって人々にその福音を伝え、まことの幸福者とらせること。彼らはその使命をイエス様から託されたのです。イエス様はユダヤ全土から続々と集まって来ていま身許にいる群衆を哀れみ、その苦しみ、病を癒し教えを語り給うた。これらの民衆はその身に負うている病と、その貧しさ、その人生の様々な苦難を背負っていま救い主イエスのもとに来てイエス様に触れイエス様の救いに接することが出来たのであります。その意味に於いて彼らは宮殿に座して錦の着物を着ている者たちよりもまことに幸福でありました。これに反して富んでいる人々、食べるものに飽きるくらい好みの飲食に満たされている人々、或いは人生を快楽と栄誉の中に過ごしている人々。彼らはイエス様のもとに来る動機も持たず、金など自分の思いのままに何でも出来るのですから、イエス様の救いに触れる機会も全く無い。天国の福音を聴く機会すらも全く無い。機会すらないのです。束の間のこの世の快楽も死を持って終ります。それ故彼らにはまことの幸福はない。むしろ災いと不幸でしかないのであります。人が幸福か、不幸であるかはイエス様の身許に来るチャンスを持つかどうかで決まるのあります。
現代で言うならば、天の御国の救いに神の言葉である教説が語られている教会に来る事が出来るか、神の御言葉に触れ聖霊の導きによって信仰へと導かれ、これまでの古い人生から全く新しい人生の生き方へと変えられることが決定的な天の御国の約束と希望に満たされる真の幸福者となる事であります。この世は金と物質、ものが支配する世界です。嗚呼
お金があったらどんなに幸福か、その、この世は既に過ぎ去り死を迎えたら物質の支配は一切ありません。魂の世界、霊の世界です天の御国の支配に一番大切なものは、ただ愛の世界であります。救い主キリストを信じてキリストの愛に生かされるために、この世は愛も訓練の場でしかありません。愛を持って栄光をあらわす永遠の時であります。だから、イエス様は教え給うのです。嗚呼なんと幸せな人々、貧しい人々よ、神の国はあなた方のものです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
聖餐式
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
空の道
<私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。(詩篇121篇1節―2節 )>
このところの寒気で丹沢にも雪が降りました。丹沢の最高峰の蛭ヶ岳も雪化粧です、元気な頃は南側から登り北側の、今見えている尾根で下山しました。頂上で見かけた五十雀が山毛欅 の古木の枝の裏側を自由に走り回っていました、これが本当の裏業ですね。下山途中で日没となり植林帯の暗闇の中を歩きましたが、昔読んだ岳人牧師・大田愛人の本に森で道を失ったら空を見よを思い出し、空を見上げましたら黒々とした森を分けて一筋の星空が見えていました、地上の道が空にもありました。
今年最初の家庭料理クラブは2月8日に開催されました。今回は寒い季節にも合うフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作りました。カルヤラン・ピーラッカは日本でも近年よく知られるようになったので多くの方々が興味をもって参加されました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にピーラッカの生地を作ります。材料を順番にボールに入れて捏ねていくと生地の出来上がりです。それを、作るピーラッカの個数に分けて一つ一つを丸め、麵棒で薄く伸ばします。参加者の皆さんはカルヤラン・ピーラッカ用の麵棒で生地をよく伸ばせるようになって、薄い皮がどんどん増えていきます。その次は、丸形の薄めの生地の上にお米のお粥をのせて広げます。それから、ピーラッカの周りの皮を人差し指で閉めていくとピーラッカの形になっていきます。
きれいな形に作るのは難しいですが、皆さんとても上手に作っていました。そうして、鉄板にはきれいな形のピーラッカがあっという間に沢山並びました。ピーラッカは300℃くらいの高い温度のオーブンで焼きます。しばらくして台所から美味しそうなピーラッカの香りが漂ってきたので味わうのが待ち遠しくなってきました。ピーラッカを焼いている間に玉子バターを準備します。焼き上がったピーラッカに溶かしたマーガリンを塗って出来上がりです。
お皿の上に玉子バターとサーモンをきれいに盛りつけてピーラッカを美味しく頂きながら歓談の時を持ちました。最後にカルヤラン・ピーラッカの歴史やカルヤラの人たちが大事にしていたもてなしの心、そして聖書の「マルタとマリア」のお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝します。次回の料理クラブの日程は未定です。決まりましたら教会のホームページに案内を載せますのでどうぞご覧ください。
カルヤラン・ピーラッカはフィンランドの食文化のシンボルです。それは歴史を辿ってフィンランドの国民食になりました。カルヤラン・ピーラッカは、フィンランドの東にあるカルヤラという地方から始まり、もともとはただピーラッカと呼ばれていました。そのピーラッカはどのようにフィンランド全国に広がって国民食になったでしょうか?
第二次大戦でカルヤラ地方の一部はソ連に取られてしまいました。そこに住んでいた人たちは自分の故郷を去らなければなりませんでした。当時フィンランドでは他のヨーロッパの国々と違って難民の人たちに一時的な住まいを建てることはしませんでした。彼らをフィンランドの西の地域の家庭に分散して住まわせたのです。それで東と西の地方の人たちは一緒に暮らすようになって、ここから二つの文化の出会いが始まったのです。食文化はその一つです。新しい地域に移住したカルヤラの人たちはカルヤラン・ピーラッカやパンを自分の故郷と同じように作るようになりました。出来上がりのカルヤラン・ピーラッカを住まいを提供している家族の人たちにも分けて一緒に食べました。フィンランド人は最初はカルヤラン・ピーラッカをそれほど美味しいとは思いませんでした。彼らは「パンはパンとして、お粥はお粥として食べるものだから。」と言っていました。カルヤラン・ピーラッカのようにパンとお粥を一緒にした食べ物には馴染みがなかったからです。しかし彼らもカルヤラン・ピーラッカの味覚が好きになっていつの間にか全国に広がっていきました。そして、カルヤラ地方の伝統的な食べ物だったカルヤラン・ピーラッカは、今ではフィンランド全国にとって伝統的な食べ物になったと言える位、とても一般的な食べ物になりました。
カルヤラの人たちが食文化の他に大事にしていたことがあります。それが、彼らがもてなしがとても上手でもてなしは彼らのライフスタイルと言われていました。1925年に出版された雑誌には「カルヤラの人たちにはもてなしの心がある」と書かれていました。彼らは自分の故郷を去らなければならなず、いろいろなものを失われましたが、滞在した場所でももてなしを大切にして作ったものをいつも分けて一緒に味わいました。カルヤラの人たちを通してフィンランド人のもてなしが豊かになったかもしれません。
フィンランドでは昔は近所の人たちはお互いに尋ね合ったりしてもてなしを大事にしていました。お客さんにいつもコーヒーの他にお菓子を何種類も出しましたが、「家には何もないんです」などと言っていました。
現在はもてなしの仕方はもっと簡単になったと思います。
もてなしは聖書の中にもよく出てきます。一つ有名な「マルタとマリア」のお話を紹介したいと思います(ルカによる福音書10章38-42節)。
ある日イエス様は弟子たちと一緒にマルタとマリアという姉妹の家を訪問しました。マルタとマリアはイエス様の親しい友達でした。イエス様と弟子たちは家の中に入ると、お姉さんのマルタは美味しい食事を出したかったので、すぐもてなしの準備を始めました。マルタにとってイエス様は有名なお客様だったので、良いもてなしをしたかったのです。でも妹のマリアはどうしたでしょうか?マルタが驚いたことに、マリアは食事の準備を手伝わないで、イエス様の足元に座って、弟子たちと一緒にイエス様の教えを聞いていたのです。忙しくしていたマルタは、イライラしてしました。それでマルタはイエス様のところに行って、マリアも一緒に食事の準備をするように言って下さい、とお願いしたのです。この場面を考えると、マルタの気持ちがよく分かります。一生懸命もてなしの準備をしていたのに、マリアが手伝わないでただイエス様の足元に座っていたのです。これではイライラしてしまうのは当然でしょう。もし私がマルタの立場でしたら、同じように考えたと思います。
イエス様はマルタにどのようにお答えになったでしょうか?「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それはとりあげてはならない。」このように優しくお答えになりました。イエス様の答えはきっとマルタを驚かせたでしょう。イエス様の答えは何を意味しているでしょうか?イエス様はマルタのことを批判することではなく、マルタがやっているもてなしの準備をやめなさいとは言いませんでした。それではなくて、「しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」とおっしゃったのです。料理とか、もてなしとか、生活の中で必要なものは私たちにとって大事ですが、それらよりもっと重要なことがあります。それはイエス様が教えられたように天と地と人間を造られた神様について知って信じることです。マリアはイエス様の足元に座ってイエス様のお話を聴いていたのはこの為だったのでした。
イエス様がおっしゃった「良い方を選んだ」とはどんな意味でしょうか? それは天の神さまの側にいて神さまのお話を聴いてその話を通して癒されることです。そして、神様の計りしれない愛を知ってイエス様を通して与えて下さる救いを受け取ることです。神さまは愛と救いを聖書のみ言葉を通してもっと豊かに与えて下さいます。イエス様が言われたように「取り上げてはならない」ものです。
故郷を失ってカルヤラの人たちがカルヤラン・ピーラッカを作って住まいを提供してくれた人たちに分け与えたのは美しいもてなしでした。イエス様は私たちをみ言葉を通して私たしの魂に栄養を与えてくださいます。イエス様はみ言葉を通して私たちをもてなして下さるのです。そのことを忘れないように行きましょう。
聖書は原語で読めなくても大丈夫(その3)
今回は、聖書を原語で読むことの落とし穴についてです。前々回の時、原文にあたって見ると、訳の少しぼやけた感じが照準定まった感じになると申しました。一つ例をあげると、使徒言行録2章37節に「人々は心を打たれ、」とあります(新共同訳)。これは読んで違和感を覚えるところです。というのは、ペトロは群衆に向かって、イエスを十字架につけたのはお前たちだ、と言っているのに、「心を打たれ」と言ったら、群衆はそれに感動してしまったみたいだからです。ギリシャ語の動詞カタニュッソーは「突き刺す」という意味です。それで、ここは「人々は心に突き刺さるものを感じて」と理解します。
こういうふうに照準が定まることが多い反面、逆に収拾がつかなくなることも多くあります。辞書を開けば、一つの単語に沢山の異なる意味があって、どれを選んだらいいのか?文法書を開けば、この属格は主語的用法?目的的用法?所有的?部分的?材料的?解釈的?この未完了形の意味は未完了のままか間接的命令か?辞書や文法書で解明できたと思っても、次は、この句はどこにかかるか?等々。選び方次第で解釈に違いが生じるということが出てくるのです。昔、W.バウアーの世界的権威の聖書ギリシャ語・ドイツ語辞書を使って調べものをしていた時、何の単語が忘れましたが、数多くある意味の一つに「この意味はあまりにもルター派すぎる!」などと括弧書きで注釈がしてありました。
原語で読んで、どれを選んだらよいかという時はどうしたらいいのか?私はさっさとキリスト教の伝統的な信条集プラス、ルター派の信条集を意識してそれらからはみ出ないことを心がけて選ぶようにしています。そんなのは正統主義の威を借りるやり方だ、と蔑む人もいるのですが、私は、別にいいじゃん、と思っています。正統主義に囚われずに訳を追求することは偉大な挑戦です。でも、それは命がいくつあっても足りない世界なので、私は限られた寿命の中で出来ることはこれと思って今のやり方で行きます。
人によっては、偉い学者が書いた参考書をそのまま引用披露する方もいますが、それではその学者が選んだ結果を拝借するだけで自分が無さすぎます。説教者はやはり自分で悩むこともあった方がいいと思います。
あと、自分で原語で読んで理解が現代語から離れすぎていると気づいたら、他の国はどう訳しているか覗き見もします。私が対応できる現代語の聖書は日本語の他は、フィンランド語(ルター派国教会の)とスウェーデン語(Bibel2000)と英語(取りあえずNIV)とドイツ語(新約のみ、ルター訳とEinheitsübersetsung訳)の4つだけですが、必ず同志に出会えます。覗き見で一つ気がついたことがあります。日本語で説教するようになってまだ15年足らずでサンプルは十分ではないかもしれませんが、日本語と英語の訳が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とドイツ語がそれとは違う意味で一致していることが多いと思います。もちろん、これとは異なる一致の組み合わせもありますが、大体60~70%はそんな感じです。聖書の翻訳には、日米同盟と欧州連合の対決があるみたいで面白く感じています。
主日礼拝説教 2025年2月9日顕現節第五主日 スオミ教会
イザヤ6章1-8節
第一コリント15章1-11節
ルカ5章1-11節
説教題 「『人間を捕る漁師』になる必要はない、使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのだ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の個所は、イエス様が漁師のペトロに「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言って、ペトロだけでなく他の漁師もイエス様に付き従っていく場面です。これと同じ場面がマルコ福音書とマタイ福音書にもありますが、違う書き方をされています。マルコとマタイでは、大量の魚がかかったことやペトロが罪を告白することは書かれていません。彼らが把握していたのは漁師たちがイエス様につき従ったという結果だけだったようです。ルカは結果に至るまでに何があったかも把握していたのでそれを書いたということです。今日の説教はルカの個所をもとに説き明かしをしていきます。
「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?なんだか熱心な宗教団体の勧誘員みたいに聞こえてきます。人を獲物扱いする宗教なんか誰も近づきたいと思わないでしょう。ペトロや他の弟子たちは本当にそういう勧誘員だったでしょうか?今日は、「人間を捕る漁師」とは何か考えてみましょう。
2.神聖な神を前にした時の罪の自覚と神への恐れ
舟も沈まんばかりの大量の魚が網にかかったのを見てペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫びました。ペトロはなぜ罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが告白の原因になっています。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?
少し出来事を振り返ってみましょう。イエス様は湖の岸辺で群衆に教えていました。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から次のような内容だったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないこと、人間は神の意志を正確にわかって悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないことです。
岸辺では大勢の群衆がイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。ちょうどその時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっていました。漁師たちが網を洗っているところでした。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教えました。ひと通り教えた後でペトロに、もう少し沖合まで漕いで網を投げるよう命じました。
しかし、ペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと言います。ペテロの応答にはイエス様の指示に対する懐疑が窺われます。何しろペトロはプロの漁師です。ナザレなんて山の上の町から来た者に漁のことがわかるか、そういう思いがあったかもしれません。だけど、このお方は今や律法学者を超える旧約聖書の教師として名をとどろかせている方だ。それで、あなたのお言葉ですからやってみましょう、と言う通りにしました。。
半信半疑で網を投げたところ大変なことが起きました。網が破れんばかりの夥しい量の魚がかかったのです。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、二そうとも沈んでしまいかねない位の大量の魚で舟は溢れかえりました。まさに想定外の事が起きてペトロは怖くなって叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何を恐れたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白になったのです。
それでは、どうしてペトロは神に罪の告白をしたのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことを見たからです。神の力が働いたのを見たということは、神が自分の間近にいたということです。
本日の旧約の日課イザヤ書6章では、神聖な神を間近にすると自分の内には神の意思に反する罪があるという自覚が呼び覚まされること、神聖さというのは本質上、罪の汚れに対して容赦しないものであること、それで神を間近にしたら自分は焼き尽くされるか消滅するという恐怖を抱いてしまうこと、そうしたことがよく描かれています。ペトロが抱いた恐れも同じでした。それでイエス様に、お願いだから私から離れて下さい、と叫んだのです。
ここで預言者イザヤに起こったことを見てみましょう。イエス様の時代から700年以上も昔のことでした。ユダヤ民族の南北の王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する道を進んでいました。その時、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の中に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)。」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まさに神聖な神を目の前にして起こる罪の自覚の悲痛な叫びです。神聖な神と罪の汚れを持つ人間の絶望的な隔たりが一気に浮かび上がる瞬間です。神の神聖さには、自分の意思に反するものを汚れとして焼き尽くす炎の力が備わっています。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇に押し当てられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。
このように、人間が真の神を間近にする時、神聖さと全く逆の汚れある自分を思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方です。なので、神を間近にしてしまった時、自分を神の意思に照らし合わせる人が恐れを抱くのは自然な反応です。他方で、神の意思を知らない人や知っていても自分には関係ないと言って照らし合わせをしない人は恐れを抱きません。こう言うと、私は恐れなんか抱いて生きたくないから、そんな神はいりません、と言う人も出てくるかもしれません。そこで、人間を捕る漁師になった使徒たちは何をしたのでしょうか?神への恐れと罪の自覚を呼び覚ますことだったでしょうか?
3.神に関わる真実は無かったことにはできない
イエス様につき従ったペトロや弟子たちは熱心な宗教団体の勧誘員になって人々をイエス様のもとに引き連れていったでしょうか?人々を集めたのはむしろイエス様自身でした。弟子たちが伝道のために町々に派遣されたことがあります。ただ、その時の派遣先はユダヤ民族に限られていました。活動内容も神の国が近づいたと告げ知らせることと、その近づきが本当であるとわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちが伝道した町々の人々がぞろぞろイエス様のもとにやってきたという感じはしません。どちらかと言えば、もうすぐしたら起こる十字架と復活の出来事に備えて心の準備をさせる活動だったと思われます。
ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こると様子が変わります。ペトロと弟子たちは、自分たちの目で見て耳で聞いたことに基づいて、あのお方は本当に旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と公けに証言し始めたのです。人々は、このような弟子たちが見聞きしたことと旧約聖書に基づく証言を受け入れてイエス様をメシア、神の子だとどんどん信じるようになっていきました。最初、彼らは一緒に神を賛美して祈り、お互い持ち物を分け合う位に支え合う共同体を形成します。この使徒たちの教えや共同体の生活態度を見てそれに加わる人たちがどんどん増えていきました。それが瞬く間のうちにユダヤ民族の境界線を超えて地中海世界へと広がっていったのです。
こうして見ると、イエス様がまだ地上におられた時のペトロたちの任務は、イエス様が教えたこと行ったこと、また彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったと言えます。そしてイエス様が天のみ神のもとに帰られた後は今度は、自分たちが見聞きしたことと旧約聖書をつき合わせたら見事に整合性がとれて、あの方こそ約束のメシア救世主であるとわかって証言し始めたのです。ユダヤ教社会の指導層やローマ帝国の官憲からやめろと脅しをかけられ妨害されても怯まないで証言していったのです。
使徒たちが権力者に脅されても怯まずに証言することが出来たのはどうしてでしょうか?一つには直接の目撃者としての責任があります。あれだけ明白な事実だったのに無かったなどと、とても言えません。真実は曲げられないという心です。しかしながら、責任感だけだったら、命はないぞと脅されたり、または、出世に響くぞ、家族が路頭に迷うぞ、もっと大人になれ、などと言われたら心は揺れ動いてしまうでしょう。しかし、使徒たちの場合は責任感を揺るがないものにすることがありました。それは、彼らの証言する真実が天地創造の神、私たち人間を造られた神に関わる真実だったということです。それなので、自分は神に造られた者という自覚を持つと、神に関わる真実はますます無かったことにできなくなります。それで、出世なんかどうでもいい、お仕着せの大人なんかにはならない、命だって復活の日の永遠の命がある、それを諦めるようなことはしない、そういう心になるのです。
無かったことにできないという神に関する真実をもう少し詳しくみてみましょう。あのお方は十字架にかけられて死なれたが三日目に神の想像を絶する力で死から復活させられた、それを自分たちはこの目で見たということが土台にあります。それで死からの復活というのは旧約聖書の単なる文章上の事ではなく本当に起こることなのだとわかりました。あの方が復活されたことで死を超える永遠の命が本当にあることがわかりました。それで、自分たちもこの世からの死で全てが終わって消滅してしまうのではない、将来、復活の日にイエス様のように復活させられて神の御許に迎え入れられることがわかりました。この一連のわかったことが曲げられない無かったことにできない真実でした。それではどうして使徒たちはイエス様の復活があったので自分たちも復活させられる、そして神の御許に迎え入れられるとわかったのでしょうか?
それは、人間を永遠の命から締め出している原因である罪、神の意思に反しようとする性向、すなわち罪の問題をイエス様が私たちに代わって解決して下さったとわかったからです。あの方の痛ましい十字架の死は実は私たち人間の罪の神罰を代わりに受けて下さった贖罪の死であったこと、神はそのようにして私たち人間の罪の問題を解決して下さったことがわかったからです。使徒に続く人たちは、これらのことが全て本当に起こったとわかって、しかも、それらは旧約聖書で預言されていたことの実現として起こったとわかって、それで神はなんと私たちのために約束を果たす忠実なお方であるかと敬愛し、神罰を受けて下さったイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ける、そうすればイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いをそっくりそのまま自分のものにすることができる。その時、自分は復活に至る道に置かれてその道を歩み始める。ここからも明らかなように、神は信仰と洗礼の目的として復活の日に私たちを御国に迎え入れることを定めているのです。それなので、神が私たちをその道に置いた以上は、神は私たちが道を進むのをいつも何があっても守り導いて下さるのです。
4.勧めと励まし
神聖な神を間近にしたら人間は罪の自覚と神への恐れが生じます。間近になることがなくても、かの日に神の御前に立たされることを考えたら自覚と恐れを感じます。しかしながら、神への恐れで終わらないのがキリスト信仰です。神への恐れがあっても、それがすかさず神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰なのです。罪の自覚と神への恐れがあるからこそ神への愛と生きる希望が出てくると言ってもいいです。罪の自覚と神への恐れがなかったら生きる希望も神への愛も出てこないというのがキリスト信仰なのです。こう言っても、まだピンとこなければ、こう言ったらどうでしょう。罪の自覚と神への恐れが重くて下に沈めば沈むほどバネの反発力が強まってより高く生きる希望と神への愛に飛び立っていけるのだと。そのバネがキリスト信仰です。その信仰がなければ、恐れと絶望の重みに沈み込んでしまうだけか、または、そんな馬鹿々々しいことに付き合ってられないと言って離脱するかのどちらかです。キリスト信仰者は、それは馬鹿々々しいどころか、本当の生きる希望はここにあるんだとわかってそれを見つけるのです。また、神への愛を強く意識できるから、自分をヘリ下させることができて、高ぶったり苛立つ必要はなくなり、神にお任せして隣人に接することができるのです。
このように罪の自覚と神への恐れが神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰です。そうすると、人間を捕る漁師というのは、まさに罪と恐れの底に沈んでしまった人を愛と希望の岸辺に引き上げてくれる者ということになります。人を底から岸辺に引き上げる網のような道具は、聖書の御言葉です。使徒たちが目撃したこと、イエス様から見聞きしたこと、イエス様の十字架と復活を通して旧約聖書がわかったこと、使徒たちはこれらを無かったことにできない真実として人々に伝えました。彼らの命を顧みない証しや伝道を聞いた人々は真実を受け入れてイエス様を救い主と信じていきました。彼らの無かったことにできない真実が漁師の網だとすれば、その真実は全て聖書に収められています。それで聖書は使徒という漁師の網なのです。
多くのキリスト教会では今日の日課について説教する時、イエス様は人間を捕る漁師になれと言って弟子を集めた、だから我々クリスチャンは人間を捕る漁師にならなければならないと説教するのではないかと思います。兄弟姉妹の皆さん、私たちは人間を捕る漁師になる必要はありません。本当の人間を捕る漁師は直接の目撃者である使徒たちです。その証言と教えをもって新約聖書を作り上げた使徒たちです。私たちは直接の目撃者ではありません。聖書も形作っていません。私たちは、聖書という使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
椿
<しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 マタイ6:29>
生垣の椿の蕾が開き始めました、初々しい色をしています。照葉樹は古代から日本列島を覆っていましたがこの照葉樹林も現代ではほぼ全滅したらしいと環境庁の発表です。椿の花を見る度にこの歌を思い出します。
巨勢山《こせやま》の つらつら椿 つらつらに 見つつ思《しの》ばな 巨勢の春野を ~坂門人足《さかどのひとたり》 『万葉集』 巻1-0054 雑歌
聖書は原語で読めなくても大丈夫(その2)
どうして聖書は原語で読めなくても大丈夫なのか?それは、聖書は日本語ででも全体を繰り返して読んでいくと、わからない個所の理解は別の個所が助けてくれるように出来ているからです。 まさに、聖書の解釈は聖書にしてもらうということです。先週、新共同訳はヘブライ語のミシュパートをほとんど自動的に「裁き」と訳していると申しました。「裁き」とは、もともとの意味は有罪か無罪かを決めることでしたが、「お前を裁いてやる」という言い方があるように、実際には断罪の意味が強いです。それで、旧約聖書で「裁き」という言葉に出くわすと、どうもしっくりいかないことが多い。しかし、旧約聖書全体を何回も読んでいくと、これは断罪ではないと感覚的にわかってきます(因みに、私の使っているヘブライ語・英語の辞書では「正義」、フィンランド語の聖書もそう訳すことが多いです)。
そういうわけで、聖書を原語で読むというのは、全体の繰り返し読みをしないで済まそうとする横着なやり方とも言えます。
「聖書の解釈は聖書にしてもらう」という聖書の理解法の大敵は、解釈を聖書にさせず、聖書外のものでさせようとすることです。例えば、先週の例にあげた詩篇36篇6~7節について、何か「真実」をテーマにした小説を読んで大変感動したとします。それで、詩篇36篇6節の「神の真実」もそれと同じなんだと理解してしまう。(聖句は違いますが、実際にその手の説教を聞いたことがあります。牧師曰く、「これが、今日の個所でイエス様がおっしゃりたいことではないでしょうか?」) しかし、詩篇36篇6節の「神の真実」は、正確には「神の揺るがぬ頼り甲斐」です。それで、その節が「真実」のことを言っていると思い違いして、小説に結びつけてしまったら、神が御言葉を通して言おうとしていることからどんどん離れていきます。
そう言うと、じゃ、「揺るがない頼り甲斐」をテーマにした小説を読んで感動したら、それは結びつけてもいいんだな、と言われるかもしれません。しかし、それもダメなんです。というのは、詩篇で言われるように、神の揺るがない頼り甲斐は、雲にまで至るほどの高いものです。人間の頼り甲斐は背丈ほどの高さです。なので、小説の登場人物の頼り甲斐に感動したら、神の頼り甲斐はもっともっと高いものなんだ、人間の頼り甲斐でこれだけ感動したら、神の頼り甲斐がもたらす感動は計り知れないのだ、というように予感できないといけないのです。神を人間のレベルに引き下げないことです。
そう言うと、神はひとり子を人間としてこの世に送ったのだから、神を人間レベルで扱ってもいいじゃないかと言われるかもしれません。それも違うんです。神がひとり子を送った心というのは、天にまで届く「恵み」と「頼り甲斐」、聳え立つ山々のような「義」、地の底まで覆いつくすくらいの「正義」の4つを総合したものです。人間の心とは比較にならないものです。
次回は、聖書を原語で読むことの落とし穴についてお話しします。
今年最初の手芸クラブは1月29日水曜日に開催しました。朝は寒かったですが昼間は太陽が輝く暖かくて気持ちの良い日でした。
今回は「Silmukannostotekniikka」というテクニックを使ってストールを編みます。参加者の皆さんは自分の好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。今回使う毛糸はモヘアとウールの二種類です。初めに出来上がり例を見て自分の作りたいストールの巾を決め、モヘアで作り目を編み始めます。それから表編みと裏編みで編んでいきます。二段を編んでから毛糸をウールに変えて編み続けます。この時、一つ置きの編み目を編まないで編み棒にのせるだけという、今日のテクニックの特徴で編みます。だんだん、一人一人の編み物の模様はどんなものになるか楽しみになってきました。次はウールからモヘアに変えて表編みと裏編みで編みます。それからまたウールに変えて「Silmukannostotekniikka」で編んでいきます。この時になると、「きれいな模様ね!」「可愛い!」との声があちらこちらから聞こえてきました。
今回、お家で編み始めた方はマフラーを持参してそれを編まれていました。すでに長いものになっていましたが、これからどのくらいのものになるか楽しみです。
「Silmukannostotekniikka」は多くの参加者にとって新しい編みテクニックでしたが、それでも今日はきれいなストール編みのスタートとなりました。完成まで時間がかかるので、次回は続きを編みます。
秋の手芸クラブで編んだフィンガーレス手袋を完成された方が素敵な手袋を見せて下さいました。
編み物に集中した後はコーヒータイムで一息入れます。フィンランドのコーヒーブレッドPullaを味わいながら歓談の時を持ちました。そこでいつものように聖書のお話を聞きました。今回の話は、編み物の裏側がごちゃごちゃしたものになっても、それは表側がきれいに出来上がるためにそうなっているにすぎないということ、天の神さまも私たちの人生を同じように美しいものに仕上げて下さるという内容でした。今回も楽しい歓談のひと時を一緒に持ちました。
次回の手芸クラブは2月26日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日は「Silmukkanostotekniikka」というテクニックを使ってストールを編みました。編み方は表編みと裏編みの繰り返しだけですので、あまり難しい編み方ではありません。編み方の特徴は全部の編み目は編まないで編み棒にのせるものもあります。そうすると、編み物の表面は網のように三次元になります。毛糸は二つの違う色なので表面の三次元ははっきり見えるようになります。ストールの裏側は網のようになりませんが、毛糸の色の段がはっきり見えてきれいです。
皆さんは多色の毛糸を使って編み物を編んだことがありますか。私は編んだことがありますが、あまりきれいに編めませんでした。
これは聞いたお話です。ある女の子が多色の毛糸を使って編み物を編みました。お父さんは娘が編んでいるのを見て少し心配になりました。お父さんはお母さんに言いました。「娘が編んでいるのを見たけれど、編み物は全然きれいではなかったので、ちゃんと教えてあげなさい」。しかしお母さんは娘にそのまま編み続けさせました。編み物がやっと完成しました。その時娘はお父さんのところに走って行って「お父さん、見て編み物ができました」と喜んで言いました。娘の編み物がきれいで素敵だったので、お父さんは驚きました。それはどうしてだったのでしょうか。初めにお父さんが見たのは編み物の裏側だったのです。それはめちゃくちゃだったので娘は編むことが出来ないと心配になったのです。しかし完成した編み物の表面は全く違ったのです。お父さんは娘が素敵な編み物が編める事に嬉しく驚きました。
この編み物のお話から天の神さまについて知ることが出来ます。それは天と地と人間を造られた神さまが私たちの人生をどのようにご覧になるかについて教えています。私たちは自分の人生を振り返ると、ごちゃごちゃしていて娘の編み物の裏側と同じように見えるかもしれません。娘の編み物の裏側には結びがあったり毛糸がごちゃごちゃになっていました。私たちの人生も行くべき道がはっきり見えない時があったり、あちらに行ったりこちらに行ったりして編み物の裏側と同じです。しかし天の神さまは私たちの人生が編み物の表面のように美しくなれるように導いて下さいます。
旧約聖書の詩編にはそのような神さまの導きについて次のように言われます。「わたしはあなたを目覚めさせ行くべき道を教える。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」詩編32篇8節。このみ言葉は素晴らしい励ましになります。神さまは私たちに行くべき道を教えて下さると約束しているからです。私たちが神さまのことを知って信じるようになると神さまは人生の中でもっとも大事ななこと、行くべき道を教えて下さいます。
私たちはどのようにして神さまのことを知って信じるようになるでしょうか。神さまは聖書のみ言葉を通してご自分のことを私たちに教えて下さいます。聖書のみ言葉を通して神さまを知って信じるようになると神さまへの信頼が生まれます。
神さまへの信頼が生まれると詩篇の25編に書いてあるように神さまにお祈りすることが出来ます。「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えて下さい。」詩編25編4節。私たちがこのようにお祈りすると、神さまは行く道を示して下さるのです。それは私たちが思い描く道ではないかもしれませんが、それは娘の編み物の裏側と同じです。神さまを信じ信頼して進んで行けば神さまは編み物の表面のことを見て道を示して下さいます。そして、あとで完成した編み物を見せて下さいます。このように神さまは私たちと一緒に歩んでくださいます。詩篇のみ言葉のように「あなたの上に目を注い」で下さっているのです。
私たちは人生の歩みを振り返るとお話の編み物の裏と同じようにめちゃくちゃに見えるかもしれません。しかし神さまは私たちの人生を編み物の表と同じような美しいものとしてご覧になって行くべき道を示して一緒に歩んでくださいます。神さまを信じ信頼することでそうなるのです。その神さまが送ってくださった一人子イエス様に信じると、私たちの心と魂はイエス様に向かいます。これが神さまが示す道です。心と魂がイエス様に向いて人生を歩んで行くと、裏だけではなく表もある編み物のようになるのです。
私たちもいつもイエス様に向いてこれからも歩んで行きましょう。そして今日のストールを美しいものに編みましょう。
裏の辛夷の木の芽が日毎に膨らんできました。陽当たりのあまり良くない場所ですが辛夷は少しでもと陽を求めて枝を延ばしています、そして地上には春を待ちかねたようにタンポポが咲き出しました。まだ少し早いのではないかと心配しています、これから先には雪の日もあろうにと。
ところでタンポポと聖書をネットで検索していたら次のような面白い記事がありました、ネットからの受け売りで申し訳ありませんが。ラファエロの「聖母子と幼い聖ヨハネ 」と言うの絵の中にマリア、イエス、ヨハネが草原に座っていて周りには色々な植物が描かれています。それぞれの植物には各々聖書的な意味が含まれているそうです、ここから引用「この一見、牧歌的な光景の中でも、受難が主題であることは、三者の周りに描かれている植物が示しているともいわれる。エットリンガーという学者の研究によると、マリアのすぐそばにあるカワラマツバはキリストの降誕のときに飼い葉桶のまぐさに入っていたもの、シクラメンはマリアの愛と悲しみの象徴、スミレとオオバコはマリアの謙譲を示すという。イエスとヨハネの側にあるタンポポは未来の受難の苦しみを、ウマノアシガタはイエスの死を、そして、ヨハネのひざの上のアネモネは復活を示すという(小学館『世界美術大全集』第12巻411 頁、佐々木英也氏の解説参照)。十字架の杖だけでなく、これらの植物のシンボリズムによっても、絵の主題が十字架の意味、すなわちキリストの死と復活の神秘であることは明らかである。」