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「イエスの神殿崩壊預言」 2022年11月13日
木村長政 名誉牧師
聖書 ルカによる福音書21章5~19節
<私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。>アーメン
今日の聖書は、イエス様の預言と弟子たちへの警告の話です。イエス様はご自分の十字架の死が近づいて来たことを、だんだん深刻に感じ始めておられます。どうしても、今弟子たちに大切な事を伝え、弟子たちがその使命に耐えて行けるように訓練と警告を告げられています。そこで、ユダヤ教の最大のシンボルであり礼拝の場である神殿へイエス様は毎日のように行って弟子たちに教えておられます。ルカ19章47節に「毎日イエスは境内で教えておられた」とあります。ユダヤ教の祭司長、律法学者たちが総力をあげて守っているエルサレムの神殿です。弟子たちは神殿の壮大な建物と高価な装飾品に思わずうっとりして感嘆の声をあげて見たいたのでした。そこへイエス様が来られて言われた。6節に「あなた方はこれらの物に見とれているが一つの石も崩されずに他の石の上に残る事のない日が来る。」この頑丈で壮大な神殿が粉々に崩壊してしまう日が来る、と預言されたのです。これを聞いて弟子たちはびっくりしたでしょう。更に7節には「彼らはイエスにたずねた。『先生、ではその事はいつ起こるのですか。またその事が起こる時にはどんなしるしがあるのですか。』」と問うています。イエス様にたずねた彼らというのは実はマルコ福音書13章1節によれば「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人が密かにたずねた」、と記しています.イエス様は最も信頼している四人の弟子に預言されている、このことは秘密の様式であったらしいのです。何故かと言うとこの神殿を管理していたのはユダヤ教の祭司長たち、律法学者たちでした。ルカ19章の終わりのところには、「祭司長たち、律法学者たちはイエスを殺そうと謀っていた。」とあります。そういう危険の中で今イエス様がやがてこの神殿はことごとく破壊されてしまうなどと予言されたことは、もう大変な事でした。ですから、今は密かに信頼のおける四人の弟子だけに秘密裏に告げておられるのです。祭司長たち及び律法学者たちは何とかイエスの言葉尻を掴んで捉えてやろうと次々に難問を吹っかけてきています。特にルカ19章の終わりの方45節を見ますと、「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出してしまわれた。」とあります。この事件以来彼らはますますイエスを殺そうと息巻いています。境内で商売をさせて、陰で金を儲けていたわけですから、そうとう頭に来ているわけです。彼らに対してイエス様は外側は立派に見えている神殿も粉々に破壊されるぞ、と預言されているのですから、ここに真っ向から激突する時が切迫しつつあるのです。このような、激しい危機的状況の中で弟子たちは、これから大切な福音の担い手となって世界へ向けて使命を果たして行かねばならない。こうした時代を悟らせ彼らの信仰を堅くしておくための訓練と警告を告げておられるわけであります。更には弟子たちが想像もしていなかった終末が来る、その直前に大変な苦難と迫害がくることも預言されているのです。考えてみますと、イエス様の十字架の死と弟子たちを取り巻く危機的状況は現在の私たちの世界の危機的状況でもある、と言えるでしょう。まず、新型コロナウィルスが流行し想像だにもしなかったスピードで世界中に蔓延して行きました。何百万人という人が死ぬという、ひどいウィルスです。色々型を変え未だに収まりません。それから連日テレビ、新聞などで報道されているウクライナ侵攻の戦争が起こって未だに続いています。恐ろしい事は、ロシアとウクライナだけの戦いではなく、背後にウクライナを応援しているアメリカを始めヨーロッパの民主国家が一つになってロシアと世界戦争にまでなってしまうことの懸念です。更には核爆弾という一瞬にして何百万何千万の人々が死んでしまう、それによって地球上の放射能汚染によるあらゆる生き物まで死滅し続けて行く、世の末が起こってしまうのではないか、まさに世紀の危機に直面している時代です。イエス様の神殿崩壊の預言は歴史の中で事実となって起こってしまいました。
紀元70年ローマ帝国によってエルサレム神殿は包囲され神殿はことごとく破壊されました。(ユダヤの歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトスによる記録もあります。)弟子たちはイエス様の預言と実際の滅亡となって行く過程のすべてを苦しみ味わった事でしょう。弟子たちがエルサレム滅亡の前にどんなことが起こりますかとイエスに問うた時、イエス様は10節以下にあるように、具体的に起こる事を答えておられます。「民は民に、国は国に敵対し立ち上がる。そして大きな地震が起こり、飢餓や疫病が起こり恐ろしい天体現象が現れる。」12節では「しかし、これらの事が起こる前には、人々はあなた方に手をかけ迫害し、会堂や牢に引き渡す。私の名のために、王や総督の前に引っ張って行く。」更に16節以下を見ますと、「あなた方は親兄弟、親族、友人にまで裏切られる。また、私の名のために、あなた方はすべての人に憎まれる。」とあります。イエス様は弟子たちに恐ろしい預言を告げるだけでなく、これらの苦難に対してどう生きて行くかを示されます。「イエス様の名を名のる偽預言者が現れるから惑わされないように気をつけなさい。戦争や暴動の事を聞いても怯えてはならない。主の前に出されたら、それは証しする機会と思って大胆に語れ、語るべき言葉と智恵は与えられるから大胆に語れ、臆する事無く勇気を持って語れ。」と言われる。やがて、イエス様の十字架の死後、弟子たちはどうしたか、と言うと一丸となって祈り、聖霊の力が注がれて、数々の迫害に会っても死に物狂いで戦って行ったのでした。
26節には「人々はこの世界に何が起こるのか、と怯え恐ろしさのあまりに気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。大地震が起こって生活も町も根底から揺り動かされて恐怖に落ちてしまう。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。」とあります。驚きと恐怖の連続です。そこでは、人間のいかなる力も科学の力も機械の力も、なすすべがありません。大自然の襲ってくる力にはどうすることも出来ない。毎年やって来る台風の嵐、夥しい山火事、地球温暖化による海水の増加で海面が上がり町の大半が水浸しとなってしまう、こうした事が起こっています。地球全体の規模で大異変が現実に起きている中、人間の力は無力です。それは、全能の神の怒り、罰が下されているのでしょうか。エルサレムの滅亡は地上に住む国々の民に対し、終わりの日の警告であり、人類の大いなる艱難の日であります。「しかし、エルサレムの滅亡をもって、直ちに世の終末が来るのではない。」とイエス様は言われます。エルサレムの滅亡によって、ユダヤの民が、神の真理の担い手である時代は終わった。神の救いの福音はキリストの弟子たちによって、広く世界へ、異邦人へと向かって行く。全世界へと福音が宣べ伝えられる時代が始まる。エルサレムの滅亡はこの意味において、大きな時代の一大転換期であり、人類の歴史の重要な一段階であります。マタイによる福音書の方を見ますと、24章13~14節でイエスは警告しておられます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国の、この福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」とあります。神の選びによって導かれて来た神の強力な力はユダヤ人の主導的地位から失われ、それから後は異邦人によって神の救いの道は移り、救われるべき異邦人の数の満ちるに及んで人の子が来る。(その様子はマタイ24章29節以下にあります。)世の終わりが来て、キリスト再臨による大いなる審判が行われる。(マタイ福音書25章31節に記されています。)そうして、全く新たな神の国が地上に現れるのであります。全能の神の御心のままに全てはなって行くのであります。
<人知では、とうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなた方の心と思いをキリストにあって守るように。> アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
スオミ教会の子ども料理教室は曇り空の11月5日に開催しました。今回は、幼稚園の小さなお子さんから小学校6年生の子どもたちまで、 お母さんお父さんも一緒に参加して、 教会の集会室はぎやかな雰囲気に包まれました。この日みんなで作ったのは、スナックマフィンです。
子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。4つのグループに分けて、最初にマフィン生地を作ります。生地の中に入れるパプリカとハムを細かく切り、粉類を正確に計って材料をボールに入れて混ぜます。別のボールに卵や牛乳などの材料を計ってよく混ぜてから粉類の中にかき混ぜるとスナックマフィンの生地の出来上がりです。生地をスプーンでマフィンカップに入れて、ミニ・トマトとすりおろしチーズでトッピングをします。みんな一生懸命生だったので、生地はあっという間に出来上がりました。スナックマフィンをオーブンに入れて焼き始めます。
焼いている間にテーブルを片つけて、それから少し子どもたちに遊ぶ時間が出来ました。その時台所から美味しそうな香りが広がって、スナックマフィンが焼き上がりました!もう食べたいよ、という声も聞こえましたが、マフィンを冷ます間にみんなで子供讃美歌を歌って、フランネルの聖書劇「木に登ったザアカイ」を一緒に観ました。イエス様がイチジクの木に登ったザアカイに向かって叫んだところです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まりたい。」ザアカイにとって、イエス様に出会ったこの日は人生の中で最も大切な日になりました。
ザアカイは喜んでイエス様を迎えました。私たちもイエス様に出会うと、ザアカイと同じように大きな喜びを心の中に持てて悪いことをやめて良いことをするようになります。そんな喜びは神様が与えてくださいます。神様に感謝しましょう。
フランネル劇が終って、みんなで食前のお祈りをして、さあ、自分たちで作ったものをいただきましょう!子供たちは食べるのに黙々と集中。大人たちはコーヒー紅茶と一緒に味わい、歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室はみんなで暖かい一時を分かち合うことができました。
次回の子供料理教室は12月に予定しています。詳しい案内は追ってお知らせします。どうぞ教会のHPをご覧下さい!
フィンランドでは11月最初の土曜日は「全聖徒の日」という国の祝日です。キリスト教の伝統に基づく祝日です。 キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。 加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は昨日の11月5日でした。
その日フィンランド人は何をするかと言うと、大方の人は教会の墓地にロウソクを持って行って火を灯します。風で消えないようにガラスの瓶に入っているロウソクです。日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランドでも墓に花を飾るので、それを見た日本人は、ああ、キリスト教徒も供え物をするんだな、などと考えます。宗教は違っても人間の思いは同じなんだな、と。確かに表面上はそう見えますが、実はフィンランド人には「供える」という意識も感覚もありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、何かを唱えたり、または見えない誰かに何かを呟くこともしません。墓はあくまで家族の記念碑のようなものです。表面上の類似性の下には途方もない違いがあるのです。どうしてそんな違いがあるのかについて、本日の説教を聞けば明らかになります。
「全聖徒の日」にフィンランド全国の教会墓地は全てと言っていいほど墓の前にロウソクが灯されます。白夜の季節が終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「白い衣を着けた大群衆」を思い起こさせます。
東京も秋が深まり朝晩は寒く感じられるようになりました。10月のスオミ教会の手芸クラブは朝の冷たい空気を陽の光が温めてくれるような雰囲気の中で開催されました。
今回の作品はマクラメのテクニックを使ったクリスマスの飾り物でした。
初めに飾り物のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回参加された皆さんはクリスマス・リースに興味を持ってそれを作りました。まず、糸の長さを測って結び始めます。マクラメの一つの基本の結び方を用いました。リングの上にマクラメを結んでいくと、マクラメは自然にねじれていきリングをどんどんカバーします。参加者の皆さんは手早く結べるようになったので、リングはあっという間に薄緑のマクラメに覆われました。
次はリースの飾りつけです。鈴や赤リボンやキラキラ星で飾り付けるとリースはクリスマスの装いになりました。可愛いらしいクリスマス・リースが出来上がりです!
参加者の皆さんにとってマクラメのテクニックは初めてだったので今回のクリスマス・リースはとても興味を引き付けました。時間が経つのも忘れて作業に集中したためか、時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。そこでモニターから映し出されるフィンランドの秋の景色を眺めながらヴィヴァルディの「四季」の中から「秋」の演奏を聴き、コーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。少し歓談の時を持ってから聖書のお話がありました。
次回の手芸クラブは11月30日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はクリスマスの飾り物を作りましたが、クリスマスまではあと2か月なので少し早すぎると思われるかもしれません。しかし、クリスマスの準備の期間アドベント、日本語で待降節は11月27日から始まりますので、そこまではあと4週間位だけです。それでクリスマスの飾り物を少しづつ作り始めても良いと思いました。
今日はマクラメのテクニックを使ってクリスマスの飾り物を作りましたが、もちろんマクラメ以外にもいろんな素材やテクニックを使って作れます。また、特別の季節に飾られるものだけではなく、一般的にいつでも飾られる飾り物もいろいろあります。飾り物は家の壁にかけたり、服に付けたりして雰囲気を作ります。特に誕生日のお祝いのように、にぎやかな飾りつけは子どもたちにとって大事なことです。飾り物は自分だけでなく相手も喜ばせます。美しい飾り物は目を引き付けて力を与えられます。美術でも視覚に訴えることは重要です。また、自然の中で美しいものや景色を見ると、それはずっと目に焼き付いて私たちを力づけてくれます。私は夏のフィンランドで白夜の太陽が沈みそうになる場面や、太陽の光が海や湖の水面にあたってキラキラする美しさが今でも目の前にあります。日本は今はあちらこちらで美しい紅葉の景色を見ることが出来ます。自然の中の美しい花、新緑、紅葉などは私たち人間が造るものではありません。それは、天地を創造された神さまが造られたということがよく分かります。天の神さまは私たちに美しいものをいろいろ与えて下さる神さまです。
旧約聖書の創世記には神さまが天地を創造したことが書いてあります。天の神さまは天と地と全ての植物、動物、太陽、月など、そして最後に人間を造られました。神さまは造られたもの一つ一つを見て全てについて、「よく出来ている、これでいい」と言われました。このように天の神さまは全てのものを良い相応しいものに創造されました。造られた人間の最初の男の人と女の人もこの良さと相応しさの中で暮らしていました。この良さと相応しさがあることが美しいことなのです。
しかし、この美しさはずっと続きませんでした。どうしてでしょうか。それは最初の男の人と女の人が造り主である神さまの言われたことを守らずに破ってしまったからです。このために神さまが創造をされた時にあった良さと相応しさは壊れてしまいました。それで世界には美しくないものがたくさん現れてしまったのです。犯罪や戦争が起こるようになったのもそのためです。私たちも神さまが言われたことを守ることが出来ません。
しかし、神さまには人間が壊してしまったことを回復する計画がありました。その計画は世界中の全ての人々のためのものでした。どんな計画でしょうか?それは、私たち人間がまたいつか神さまが最初に創造された時と同じように良さと相応しさに満ちた美しい大地に住むことが出来る計画です。それを実現するために神さまと人間の関係を直さなければなりませんでした。それはどのようにして出来たでしょうか?それは、神さまがひとり子のイエス様をこの世に送って実現させました。イエス様は、私たち人間の悪いこと、罪を全部十字架の上まで背負って持って行って下さって、そこで私たちに代わって神さまから罰を受けて死なれました。そして3日後に神さまの力で死から復活させられました。イエス様の十字架と復活のおかけで、私たち人間の悪いこと、罪が全部許されて、神さまと人間の関係は元通りになりました。イエス様のおかけで私たちはこの世では神さまの美しい大地を目指して歩むことが出来ます。そして、この後に来る次の世で、その美しい大地に迎え入れてもらえます。
今、私たちは良さと相応しさに満ちた美しいものを周りに見つけることが出来るでしょうか?私たちが天の神さまの御手の業を見ることが出来るように、神さまが私たちの目と心を開いて下さるようにお祈りしましょう。
「やもめと裁判官のたとえ」 2022年10月16日(日)
ルカによる福音書18章1~8節 スオミ教会礼拝。
今日の福音書は、読んだだけで、その内容についてはすぐ、わかる、たとえ話です。たとえの内容はわかりやすいのですが、このたとえの話で、イエス様は何を弟子たちに語っておられるのでしょうか。ルカ18章1節で、こう書いています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちに『たとえ』を話された。」イエス様は弟子たちが気を落とさず絶えず祈れ、と言っておられる。弟子たちのこれから先、ずうっと先まで、生涯かけてイエス様の福音を宣べ伝えて行かなければならない。大切な大切な使命を果たして行くのに、幾多の困難が山ほどあるだろう。その困難と迫害の只中で絶えず祈れ、と教えておられるのです。
そこで、イエス様はやもめと裁判官のたとえ話を持って語られたのであります。2節をみますと、「ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた。ところがその町に一人のやもめがいて裁判官の所に来ては『相手を裁いて私を守って下さい』と言っていた。」裁判官というのは裁判をする権力を持っています。政治をする為政者も又権力を持っていて、たいてい権力を持つとその力をひけらかして自分の力でどうにでもなるという誇りや高慢になります。そうして差別や偏見の目を持って不正なことも平気でやってしまいます。
このたとえの裁判官もそうとうの悪のようです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官だったとありますから、想像できます。この裁判官は神を畏れないのです。そこでは信仰の話は通じません。
又、この裁判官は「人を人とも思わない。」のです。人間らしい気持ちなど全くない。それどころか人権とか人間尊重と言った感覚は全くゼロに等しいのです。しかもそういう人が権力を持ち、この町を治めているのです。本来、裁判官というのは正義と不正義とを律法に照らして判定する役なのです。
旧約聖書 申命記16章18~20節には次のようにあります。「あなたは、裁きを曲げてはなりません。人を偏り見てはなりません。賄賂を取ってはなりません。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからです。ただ、公義のみを求めなければなりません。」これが正しい裁判官、また政治をする人のありかたです。さらにパウロはローマ人への手紙13章でこう書いています。
「彼は善を行うために立てられた神の僕なのです。・・・彼は神の僕であって悪を行う者に神の怒りを表すために罰を持って報いるのです。」と、これが理想的な裁判官、政治家のあり方です。
しかし、理想であって現実のこの世では権力を我が物にして自分の力を過信して行く、ついに恐ろしいほどの人を人とも思わない権力者となってしまうのです。神を神とも思わない、高慢な、我がままで正義感のない者となってしまう。民衆のためにあるのではない。自分のために固着するしかない。権力は民衆を恐れ神を忘れ自己達成を目指す、やがて腐敗しはじめます。権力の上には神がいて神の支配のもとでないと崩壊します。いつの時代でも戦争で多くの命が踏みにじまれて悲惨な世の中はいつもある。現代の世界で独裁者が権力をふるっています。まさにプーチン大統領もそうです。やがて滅んで行くでしょう。これが現実の私たちの生きている世界、この世です。
さて、たとえ話では、その町にやもめがいて裁判官のもとに行って「私の訴訟相手を裁いて私を守て下さい。」と言っています。このやもめの姿は無力な私たちの姿のようです。このやもめは賄賂を使う金もなければ、つてもない、助けてくれそうな人もない、全く無力です。それに今彼女は訴えられています、被告です。日本に初めてキリストの教えを広めようとした宣教師の人々も迫害にあい苦難を受け、神に召されました。権力には無力です、弱い者です。
やもめの彼女は繰り返し、繰り返し訴えて裁判をしてくれるように頼んでいますが裁判官は取り合ってくれない。彼女は無力です。唯一つ、正義の神様がいます。このお方が必ず正しいことを通して下さる。この信念があります。パウロはコリントの第2の手紙12章9節でこう書いています。
「私の力は弱いところに完全に現れる。」彼女が持っているもの、この状態は決してあるべき姿ではない、という確信です。
主の祈りにあります。「御心の天になる如く地にもなさせ給え。」という祈りです。彼女はただこの祈りを持って悪い裁判官に立ち向かいました。彼女をそうさせたのは正義感ではありません。彼女は取られようとしている彼女の財産が無くては生きて行けないのです。正義の意志というものだけでは弱いものです。いかなる権力にもひるまず、訴えている。その根底には実にそのことが自分の生命の問題だからです。抽象的な正義感だけでは生命の問題とはならないのでう。裁判官は長いこと彼女の叫びを聴き入れようとしませんでした。
この純真な要求は聴き入れられない。幾度も、幾度も熱心に訴えても要求は聴き入れられませんでした。もし、この要求が生命の問題にまでなっていなかったら、途中であきらめるか、自分で又新たな理屈をつけて叫び直すしかない。この悪い裁判官はなぜ聴き入れようとしないのか。それは、「神を畏れず、人を人とも思わないからです。正義の感覚など、微塵も持ち合わせていないからです。」この裁判官がついに聴き入れたのは単なる理論や正義の感覚ではない。理論だけでは悪魔に対抗することは出来ません。悪魔はいつも、もっと巧みな理論を用意しています。
そこに、しばらく聴き入れない期間があります。そのような期間というものがあるのです。そこで諦めたら終わりです。(※裁判官が勝手に思って作っている期間ではありません。)私たちの祈りも神様にすぐ聴き入れられない期間というものがあります。そういう時があるのです。裁判官は依然として神を畏れないし人を人とも思わない。その事態は変わらない。しかし、今その裁判官がその後自分自身で言いました。「私は神を畏れないし、人を人とも思わないが、このやもめは私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう。そうすれば、とことんまでやって来て私を苦しめることがなくなるだろう。」
イエス様のたとえ話は5節までです。そうして6節で主イエスは即ち言われました。「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい。」イエス様は問われます。「彼の言うことを聞きましたか。」他でもない、この不正な裁判官がついに神の正しい裁きをする、と言うのです。その不思議な事実を聞くのです。ここでは、極悪の地上の裁判官が正義の神になぞられているのです。では、何に耳を傾けなくてはならないのでしょうか。それは悪い裁判官がついに正義の神の裁判を行うという不思議な事実をです。
この裁判官は依然として「私は神を畏れないし、人を人とも思わない。」がと念を押すように言っています。つまり、彼の本質は変わらないのです。「この悪い裁判官が急にやもめの祈りを聞いて、その熱心さに涙を流して悔い改めた。」とは書いてありません。権力者の利己的な動機などは変わりません。しかし、彼は「この、やもめは私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう。」と言い始めるのです。「うるさくて、うるさくて、俺を煩わすから。」と言っているのです。
裁判官を正義の裁判官に変えることは出来ない。それは人間の仕事ではありません。しかし、驚くことに、この権力の利己主義を通しても神の正義が実現して行くのです。しかし、絶えず、ぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し、ただ、それのみによって動かされるのです。
旧約聖書、出エジプト記2章23節以下にこうあります。「多くの日を経てエジプトの王は死にました。イスラエルの人々は、その苦役のゆえに、彼らの叫びは届きました。神は彼らの、呻きを聞き
アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの民をかえりみて下さいました。」
神が働いてくださったのです。
悪い裁判官が世界を動かしているかにみえます。しかし、そうではありません。人間には、その時その時でいっぱいあります。即ち人間の徳、権力の不正、私たちの弱さ、不安、動揺・・信仰、不信仰・・あらゆるものを貫いて、ただひとつ、神の御旨のみが勝利するのです。旧約聖書の箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計画がある。しかし、神の御旨のみが立つ。」
神は夜、昼、神に呼ばわる選びの民に裁きをしないで忍耐ばかりさせ給うだろうか。いや、神は速やかに裁きをして下さるでしょう。しかし、人の子の来る時、果たして地上に信仰を思い出すでしょうか、8節で問うておられる。これは、信仰の課題です。週末の時、どうなっているか、私たちにはわからない。神の遅き、というものは遅いのではない。神は速やかに裁きをされる、と約束しておられるのです。それは又、人の速さは速いのではない。
神の時というものがあります。我々の持っている時と神の時は違います。20世紀の最大の神学者、カール・バルトが言っていることです。神の時は全く次元の違う霊の世界の時です。神の時が我々の持つ時の只中に来て下さった。救い主、イエス・キリストとして神の御子が神の時そのものを持って人の世の時に宿って下さった。神の御子は人の世にあって、ついに十字架の死を遂げ、三日目に蘇って、今も私たちと共に生きて下さる。これを信じることが信仰です。信仰はただ、この神に基ずくのです。たとえ、天地が崩れ去るとも、崩れることのない土台の上に立っているのです。
ある時は、神は私たちから全てを奪って行くかに見えます。神は私を見捨てられたのだろうかと思える。ヨブもそう思ったでしょう。しかし、全てを与えられます。それは突如として与えられます。気付かないうちに、ある時突如としてです。神は必ず働いて下さる。
神様はいないか、に見えます。神は時として沈黙し給う。そうです、沈黙しておられる。そういう時というものが必要だからでしょう。しかし、信仰はこの不正な裁判官の背後に生ける神を見ます。神は選びの民の義を守り給うのです。それは、その民が神に選ばれた民に相応しく神の真理にしっかりと結び合っている時であります。私たちの祈りも、願いも全てを貫いて、神が御旨をなさるのです。神様の側でなさることであります。私たちは、あの貧しいやもめと共に、ただ感謝であります。
<アーメン・ハレルヤ>
クラスは【初級】【中級】の2つです。初級はフィンランド語が全くはじめての方向けです。中級はフィンランド語の基本を学んだ方向けです。
授業は19から20時までです。その後10分くらい聖書日課を読んだり、讃美歌を歌ったりします。
参加費 1000円
秋の予定は 10月19日の次は11月16日、12月14日です。 人数制限がありますので、申し込み順で受け付けます。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1745294397iamg@1745294397arumi1745294397hsoy.1745294397iviap1745294397
03-6233-7109
日本福音ルーテル スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
スオミ教会・家庭料理クラブは10月9日、秋の爽やかな気候の中で再開しました。 今回はこの季節にフィンランドの家庭でもよく作られるリンゴのケーキを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキのトッピング用の生地を作って冷やします。次に他の部分の準備。材料を計ったり、リンゴをスライスして、卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てます。白く泡立ったら他の材料を中に加えて生地を作り、それをパイ皿に流し込みます。その上にスライスしたリンゴをたっぷりのせて、さらにリンゴの上にシナモンシュガーをたっぷりかけ、トッピング用の生地ものせてオーブンに入れる準備完了。これを焼き始めます。
今回の料理クラブはお子さんと一緒に参加された方もいて、親子で可愛いエプロンをかけて一緒に材料を計ったり生地を混ぜたりして、親子が共通して何かに取り組めるひと時になりました。
ケーキがオーブンで焼けている間、子どもたちの遊ぶ声や参加者の楽しそうな会話が教会中に広がっていきました。もちろん、シナモンの香りも。
ケーキは焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのリンゴのケーキの上にバニラアイスをのせてコーヒー紅茶と一緒に味わう歓談の時を持ちました。同じ時に、フィンランドのリンゴと聖書に出てくるぶどうの木のお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月12日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
日本ではこの季節になると、お店にりんご、なし、ぶどう、かきなどいろいろな美味しそうな果物がたくさん並びます。日本で育つ果物の種類は多いですが、北欧のフィンランドでは育つ果物の種類はあまり多くなく、ベリー類を除けば、りんご、西洋なし、プラムくらいです。フィンランドの夏は短く、冬は長くて寒いので他の果物はあまり育つことが出来ません。一番多く育てられる果物はりんごです。りんごはフィンランドの南の地方でよく育てられますが、寒い北のラップランドでは育てることは出来ません。
夏私たちはフィンランドに一時帰国しましたが、今年の秋のリンゴの収穫は去年程よくありませんでした。去年は庭のリンゴの木は枝が折れそうになるくらいにリンゴで一杯でしたが、今年のリンゴは少なかったです。しかし今年も実家のリンゴを取ってそのまま食べたり、リンゴのケーキを作ったりして楽しみました。
フィンランドのりんごは日本のように大きくなく豪華な感じがしませんが、フィンランド人は自分の家の庭にりんごの木を植えて育てるところが日本と違います。りんごの木は庭の女王みたいに見られ、大事に育てられます。五月の終わりになると、木には白い花が一杯さいて、花の香りが遠くまで広がります。フィンランド人はこの季節が好きで、りんごの花が咲くのを毎年楽しみにしています。
9月になるとフィンランドの家の庭のりんごの木は赤めと緑色の実が実ります。出来具合は、はじめにも言ったように、年によって変わります。春が寒かったらリンゴの実は木に何個しかできません。そして受粉者、ハチも必要です。美味しくて虫がつかないりんごが出来るためには、ピヒラヤという木の実が関係しています。ピヒラヤの木に赤いベリーが沢山出来きる年は、美味しいりんごも沢山出来ます。しかし、ピヒラヤにベリーが出来なかったら、良いりんごも出来ません。どうしてかと言うと、ピヒラヤのベリーを食べる虫が関係するからです。もしピヒラヤのベリーがあまり出来ないと、虫はピヒラヤのベリーの変わりにりんごの中に入ってりんごを食べてしまうからです。今年はピヒヤラの実はとても少なかったので、リンゴもあまり出来ませんでした。
フィンランドではリンゴの木は3種類あって、夏リンゴ、秋リンゴ、冬リンゴがあります。夏リンゴの実は一番早く出来て、味は甘く、そのまま食べて美味しいリンゴです。秋リンゴの実は固めでジャムやジュースを作るのに用いられます。冬リンゴの実は酸っぱくて、木から採った後、何週間か地下においてから食べます。冬リンゴの実はよくクリスマスの時に食べられます。フィンランド人は自分の好みの味のリンゴを選びます。皆さんはどんな味のリンゴが好きですか。
リンゴの木や他の果物の木は美味しい実が出来るために適温、栄養、水分、日光など、適切な気象条件が必要です。木の手入れも大事です。美味しいリンゴや果物が出来るために人間はいろいろ手間をかけますが、天の神様は人間が実を結ぶことができるようにもっと手間をかけます。
聖書の中にはぶどうの木について有名な話があります。そこでイエス様は、神様やご自分について次のように教えられます。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」ヨハネによる福音書15章1節です。ここでイエス様は、私たち人間はぶどうの木に繋がっている枝であると教えられます。天と地と人間を作られた天の神様は農夫の役割をして、ぶどうの木を世話するように私たちの世話をしたり、私たちを育てられます。私たちに必要な食べ物、衣服、住まいなどを与えられます。それらは天の神様の贈り物です。しかし私たちにとってそれらは当たり前のようになっています。今世界中に起きていることを見ると、それらは当たり前ではないと思うようになるかもしれません。私たちが今持っている生活の必要な物は天の神様が与えて下さるものなのです。
同じヨハネの箇所でイエス様は次のように教えられます。「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないように、あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。」ヨハネによる福音書15章4節です。リンゴや他の果物の木を育てると、栄養や水分は根や枝を通して実に入ります。そして枝は木の幹に繋がっていなければなりません。これは私たち人間とイエス様の関係のことを言っています。イエス様は、枝が木に繋がっているように私たちもイエス様に繋がるようにと教えます。繋がっていれば、どんなことがあっても大丈夫になります。
イエス様と繋がることはどのようにして出来るでしょうか?それは、天の神様の独り子イエス様のことを知って信じることで出来るのです。知って信じるとは、どういうことでしょうか? 天の神様は、ご自分の独り子、イエス様をこの世に送られました。どうして送られたのでしょうか?それは、私たち人間が神様の言われたことをしっかり守ることが出来ないからです。そのためにイエス様をこの世に送られ、イエス様は十字架の上で、私たちの罪の罰をかわりに受けてくださいました。このように神様は、私たち一人一人を愛して罪の罰を受けないで済むようにして下さったのです。さらに、神様は一度死んだイエス様を復活させられて、死を超えた永遠の命があることを世に示されました。イエス様を救い主と信じる者はイエス様という木に繋がる枝として人生を歩むようになります。イエス様と繋がっていると、信仰の実が生まれます。イエス様を信じる信仰の実が生まれると、本当の喜びや平安が心の中で生まれます。
私たちが食べるリンゴや果物はビタミンなど健康にも良いものが含まれていますが、イエス様に繋がってできる信仰の実は魂の栄養になります。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。」ヨハネによる福音書15章5節です。
ルカ17章11-19節
2022年10月9日
(いずみ教会共同体講壇交換説教)
浅野 直樹
「誰よりも信頼できるお方」
暦は10月の第二週、いつのまにか一年の終盤にさしかかっています。教会の暦も聖霊降臨後の主日が18週となりました。終わりへと向かう暦にあわせて、きょうの福音書もそれをほのめかす一節で始まっています。
11節「イエスはエルサレムへ上る途中」とあります。イエスがエルサレムへ向かう、これは聖書では何度か出てきますが、とても象徴的なひとことと言えます。イエスにとってのエルサレムというのは、十字架を指していますので、イエスはいよいよ十字架へと向かうというということを、この言葉から聞き取るべきなのです。
エルサレムへと向かうとき、イエスはサマリアとガリラヤのあいだを通っていきました。そこで十人の重い皮膚病を患っている人とイエスは出会います。「重い皮膚病」と訳されています。口語訳聖書のときはらい病と書いてあったり、ハンセン氏病と書き換えられたりしましたが、聖書学者によるとここに出てくるツァーラートという単語は、必ずしも特定の病気に限定することはできないということで、「重い皮膚病」という訳になっています。最も新しい訳の教会共同訳では、ちょっと奇妙な訳になっていて「規定の病」と訳されていました。訳する人たちがこの一言にとても悩まされ、苦肉の策で訳したんだろうなと思えます。
12節「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま」とあります。遠方から立ったままイエスを出迎えたのです。近づいてはいけない、近づいたら感染してしまうと思われていたので、彼らは遠くにいたのです。イエスの時代がそうだっただけでなく、近代の日本でも、らい病についてはそういうふうに言われ続けてきました。そこから差別や偏見が生まれました。けれども今はほとんど感染しないことがわかっています。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。彼等は遠くのほうから声を張り上げて懇願しました。イエスはその人たちを見るとひとことこう言います、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。「治れ」と言葉をかけるとかはいっさいなく、ここにあるのは、ただ「祭司に体を見せなさい」でした。そして彼等十人は、イエスのいうとおりにしようと祭司のところに出かけていく途中で癒されたのです。聖書には「清くなった」というルカの言葉を記しています。ただれた皮膚がきれいになったということでしょう。イエスによって癒しの奇跡が起こったのです。
ここでわたしたちの疑問は、なぜイエスは「祭司にみせなさい」と言ったのかです。当時のユダヤ社会では、ユダヤ教の議員、祭司、律法学者といった人たちというのは、一般庶民からしてみれば絶大な権力者でした。神様のことをいちばんよく知っていて、いちばんちゃんととそれを守って、そしていちばん神様に対していちばんきちんとしていた人たちだったのです。いわば神様の代理人。なんでもできる人、なんでもわかっている人なのです。医者であり、弁護士であり、大学の教授なのです。
祭司もそうした権力者の一人でした。祭司に見せて祭司が皮膚の状態を確認し、「治った」と宣言すれば、それが診断書となり、完治した証拠になったのです。ですからイエスはこのように言ったのです。
まだ皮膚がただれて治っていない状態のとき、彼等はイエスに、「わたしたちを憐れんでください」と願い出ました。病人の「憐れんでください」は、「私の病を癒やしてください」と同じです。まだ癒やされていない、そういうタイミングでイエスは、「祭司に体を見せなさい」と言うのです。まだ良くなっていないと思っている段階から、イエスさまはもうすでに「あなたがたは癒やされた」と言っているのです。このことはとても大切です。なぜならここに信仰の実態がよく表れているからです。信仰を持つ、洗礼を受ける、そして教会生活を始める。これは人生における大変化です。ただそれによって私たちの日頃の生活が大きく変わったでしょうか。悔い改めて心を入れ替えたことで、すぐ腹を立てていた自分が次の日から急に優しい性格になるかというと、そうでもないでしょう。自分が自分を知る限りにおいては、私たちはなんら変わらないのです。洗礼を受けて「あなたは救われました」と牧師から宣言される。救われたという実感は、洗礼を受けたそのときは喜びを感じることでしょう。けれどもそうした喜びがいつまでも続くわけではなく、再び普段の日常を送ることになります。日常においては救われているという実感も特にないでしょう。けれども主イエスは私たちに向かって「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」とすでに宣言しておられるのです。まだ皮膚がただれているにもかかわらず、「祭司に体を見せなさい」と宣言したように、「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」というイエスの言葉はもうすでに実現しているのです。
一人だけがイエスのところに戻ってきて、「先生、治りました」と感謝の言葉を伝えに来ました。ほかの九人もおそらく治ったのでしょう。けれども喜びと感謝の応答をしたのは一人のサマリア人でした。皮膚病が治ったとしても、ユダヤ人にしてみれば近づきたくないサマリア人だけでした。ここからもう一つの出来事が始まります。
彼らは皆癒されました。全員が祭司のところに行って皮膚が清くなったことを見せた、はずです。そして治ったことの証明をもらったのです。イエスは、治ったら私のところに戻ってきて神様を賛美するように、などと言ってはいません。戻って報告に来なかったからといって、別に責められるわけでもありません。ただ18節をみると、「この外国人のほかにはいないのか」と言っているので、ユダヤ人がだれも戻って来なかったことをイエスが残念がっている様子が伝わってまいります。
注目はサマリア人に集まります。皮膚病が癒されても、ユダヤ人からすれば穢れていると偏見の目で見られていたサマリア人です。イエスの足許に彼はひれ伏して感謝をしました。ひとえに嬉しかったからです。そのとき彼は自分がユダヤ人から差別を受けているとか、嫌われた民だということもすべて忘れていたのではないでしょうか。ただひとえに癒された喜びを素直に表して、それがイエス様のところに戻ってきて「ありがとうございます」という言葉となったのです。その喜びの大きさはどれほど大きかったことでしょう。
イエスはサマリア人にこう言いました、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」このように聞くと、サマリア人にはイエスをきちんと信じる信仰があったのだ、そんなふうに思えてきます。わたしたちが信仰というとき、それは聖書を読んで学んだことがあるとか、主の祈りを言えるとか、使徒信条をちゃんと唱えることができるとか、そんなことを考えるかもしれません。信仰という日本語が、そういうふうに思わせるのです。新しい聖書協会共同訳でも同じです。「あなたの信仰が」となっています。
ところがもうひとつの聖書があって、これはもう少し聖書学的見地を重視した聖書で、岩波書店が訳した新約聖書というのがあります。それをみるとちょっと違っていてこう書いてあります。「あなたの信頼が、あなたを救った」。信頼という言い方だと宗教的なニュアンスがそれほどなく、少し違った見方ができます。サマリア人にとっても聖書は大切な書物であった点は同じですが、聖書をどこまで読み込んで理解しているかとか、どういう解釈をしているかということよりも大切で見落としてはいけないこと、それはこのサマリア人がイエスのことをとことん信頼していたということなのです。「イエス様、どうか私を憐れんでください」と真剣に願い、大声で神様を賛美して、イエスの足許にひれ伏す姿から、サマリア人がイエスを心底信頼していたのだとわかります。
誰よりもサマリア人を受け入れるイエス、そして誰よりもイエスを信頼し感謝をささげるサマリア人。この両者の在り方のうちにこそ、信仰とは何かが表れています。形式ではなく、血筋でもなく遺伝でもなく、はたまた社会の常識やしきたり、特定のものの見方ではありません。無条件に受け入れていくイエスの愛に信頼すること、それが信仰です。そのイエスを素直に信頼する心が、私たちを主イエスと結びつけてくれるのです。
テーマ「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」
聖書箇所 ローマ10章1~11節
1.はじめに
ローマ10章9~10節でパウロは「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公けに言い表して救われるのです。」と言います。これをどのように理解したらよいでしょうか?9月25日の聖書研究会の質疑応答の時、これは迫害を前にした時のキリスト信仰者の心構えと理解できるという意見がありました。私は、ここは、律法を行うことで神から義とされ救われるというユダヤ教の伝統から決別した信仰の有り様を表現していると教えました。迫害の心構えの役割を持つようになったことは否定しませんが、それは後のことで、パウロがこれを記述した時点では、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様であったということを以下に見ていきます。
2.10章4節
新共同訳では「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」とあります。「目標」と言っているギリシャ語の言葉テロスの意味は「終わり」とか「終着点」です。それで、
「キリストは律法の終わり/終着点です。信じる者全てに義がもたらされるための」となります。「律法の終わり」とは、律法が廃棄されるとか消滅することではありません。ローマ3章から7章までを振り返ればわかるように、「律法の業を行うことで神から義とされる」という有り様が終わりということを意味します。このようにこの節は前に述べられたことが凝縮されています。これを踏まえないと後に続く箇所がわからなくなります。
3.10章5~8節
新共同訳では「(5)モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。(6)しかし、信仰による義については、こう述べられています。『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。(7)また、「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。(8)では、何と言われているだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
「キリストを引き降ろすことにほかなりません」と聞くと、キリストを引き降ろしてはいけないと言っているように聞こえます。キリストは天にいなければならないのだと。これはその通りかなと思わせますが、「キリストを死者の中から引き上げることになります。」はどうでしょうか?キリストを死者の中から引き上げてはいけないと言っているように聞こえ、キリストは死者の中にいなければならないような感じがします。これは完全におかしいです。この5~8節が正しく理解できないと、問題の9~10節も理解できません。
5~8節の理解には、パウロがここで土台にしている申命記30章11~14節を見ないといけません。
申命記30章11~14節(新共同訳)
(11)わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
(12)それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない.
(13)海のかなたにあるものでもないから、「誰かが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
(14)御言葉(※)はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
※ ヘブライ語のダーバール。意味は「言葉」の他に「もの事」、「事柄」、「出来事」です。ここでは神の戒め、律法を指すことは11~13節を見れば明らか。
この申命記の個所で、律法は遠くにない、とても身近にある、口と心にある、だから行える、それ位身近にあるということを言っています。一つ注釈すると、ヘブライ語の原文は「行うことができる」ではなく、「行うことができるように口と心にある」が正確です。新共同訳は少し楽観的かなと思います。
この申命記の個所を土台にすると、ローマ10章5~8節で、キリストを引き降ろすとか引き上げるとか言っているのは、キリストは引き降ろすには及ばない位に身近にある、引き上げるに及ばない位に身近にあるという意味であることが分かります。それでその個所をギリシャ語原文に忠実に訳すると以下のようになります。
(5)モーセは律法に由来する義について次のように書いた。
「律法の掟を行う人は掟によって生きることができる。」(レビ18章5節)
(6)しかし、信仰に由来する義は次のように言う。
「心の中で『誰が天に上がっていくことができのか?』などと聞いてはいけない。そんなことを言うと、キリストをそこから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)
(7)また、『誰が深い所に下って行くことができるのか?』などと聞いてもいけない。そんなことを言うと、キリストを死者のところから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)
(8)そんなことではない!(申命記に)何と言われていたか?
「御言葉(※)はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。」
すなわち、これが私たちが宣べ伝えている信仰の言葉(※)なのです。
※「御言葉」も「言葉」も両方ともギリシャ語のレーマです。「言葉」なのに有名な「ロゴス」でないことに注意。レーマの意味は広く、「語られた事」から転じて「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「物事」、「事柄」の意味を含みます。パウロは申命記30章14節のダーバールにこのレーマを当てはめました。というより、旧約聖書のギリシャ語訳で既にレーマと訳されていたのです。
「御言葉はあなたの近くにあり」の「御言葉」は何を指すか?6~7節から明らかなように「キリスト」です。パウロは6~9節で、「キリスト」と「イエス」を使い分けています。「イエス」と言うと、地上にいた時のイエス様の意味になります。「キリスト」と言うと、十字架と復活の業を遂げて今天の父なるみ神の右に座して将来再臨する方という意味が強くなります。
この「御言葉」は、「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「事柄」なので、キリストそのものを越えてキリストが十字架と復活の業によって成し遂げた贖いを含みます。それを象徴するものとしてのキリストです。そのキリストの贖いが申命記の律法に代わって、口と心にある位に身近になったのです。大きな入れ替えかもしれませんが、言葉上はダーバールがレーマという同義語に代わっただけになっています。
そこで、8節終わりの「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」について。この「言葉」は先ほどの「御言葉」と違います。「御言葉」はキリストとその贖いを指しました。ここの「言葉」、これもレーマですが、なんの「事柄」でしょうか?
新共同訳のように「信仰の言葉」とすると、前にある「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」が「信仰の言葉」になります。そこで、これを「信仰の事柄」とすると、「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」は「信仰の事柄」ということで、「信仰の内容」とか「信仰の有り様」ということになります。つまり、「キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある」というのが信仰の内容、信仰の有り様になるのです。
「私たちが宣べ伝える信仰の言葉」はまた、「私たちが宣べ伝える事柄すなわち信仰」とも訳せます。そうすると、「『キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。』これが私たちが宣べ伝えている事柄すなわち信仰なのです。」この場合も、キリストの贖いが口、心の中にある位に身近にあるというのが信仰の有り様であることを言っています。
4.10章9~10節の理解
以上のように8節は、イエス・キリストの十字架と復活の業による贖いが洗礼を通してキリスト信仰者の内に注がれて口と心の中にある、それ位身近にあることが信仰であると言っています。あとは、キリストの贖いをそのまま口や心の中に留めて身近なものにしていれば救われるのです。口にあるからそれを公けに言い表すのは自然なこと、心の中にあるから心で信じているのは自然なことなのです。言い表すことと心で信じるということは口や心の中に留めていることなので救われていることなのです。これが9節の意味です。10節はユダヤ教の伝統から決別したことを念頭に置いて見たら次のように言い換えることが出来ます。「かつて律法を行うことで人は義とされ救われるとされていたが、キリストが贖いを成し遂げて洗礼が設定されてから以後は、人は心で信じ口で公けに言い表して義とされ救われるのである。」
5.終わりに
以上、ローマ10章9~10節は、申命記に照らし合わせて見ていくと、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様を言い表していることが明らかになったと思います。この大転換は、パウロが手紙を書いた当時の人たちだけではなく、その後の時代の人たち、現代を生きる私たちにとってもキリスト信仰を理解する大事なポイントであり続けていると思います。
それから、この個所が迫害を前にした心構えになるということについて。パウロがローマの信徒たちに手紙を書いたのは西暦50年代です。皇帝ネロの治世の西暦64年にローマで大火災が起こり、キリスト教徒が犯人扱いされ大きな迫害が起こりました。伝説によれば、パウロの殉教はこの迫害の時とも言われています。キリストの贖いが口と心の中にあるのが信仰であるという教え、そして、その口にあるもの心にあるものを言い表しつつ信じることで、律法がなしえなかった義認と救いを得られるという教えは、迫害を前にしたパウロ本人をはじめ、この手紙から学んだローマの信徒にとって心構えになったのは間違いないでしょう。
現代を生きる私たちも、このユダヤ教の伝統からの大転換をわかった上で、口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じると、本当にキリストの贖いが口と心の中にあるというふうになるでしょう。(了)
教会員の皆さん、「魂ケア」にどうぞ
フィンランドの大学の神学部には「魂ケア」という科目があります。 何を学ぶかと言うと、悩み事その他なにか心に引っかかるものがあって一人ではなかなか平安を得られなくなってしまった人の話し相手や聞き役になって一緒に解決の糸口を見つけるということです。牧師が授業を担当し、学生同士で事例について話し合い、最後は病院に派遣されて実習をします。
これを聞くと、それは日本の神学校で行われてる「臨床牧会教育(CPE)」や「牧会カウンセリング」のことではないか、と思われるでしょう。授業には、「悲しみと向き合う作業」という課題もあり、これなども近年日本でもよく耳にする「グリーフ・ケア」のことでしょう。
私個人としては、「臨床」とか「カウンセリング」と聞くと、専門医学的な感じがして身構えてしまうのでフィンランド的に「魂ケア」の方がしっくりします。それに加えて、コンテクストの違いもあります。フィンランドでは国民の大多数はルター派国教会の会員なので話をする相手は間違いなくキリスト信仰者ということになります。それなので「魂ケア」は、話す側も聞く側もルター派のキリスト信仰の枠組みの中にいて共通の言語を用いることが出来るということがあると思います。ところが、日本ではキリスト信仰者は全人口の1%という圧倒的少数派な上、教派も様々です。「枠組み」とか「言語」においてフィンランドとは比べものにならない難しさがあると思います。それで日本では、「臨床」とか「カウンセリング」という学術専門的な言い方が相応しくなるのかもしれません。
そうは言っても、フィンランド社会もこの20~30年の間に大変貌を遂げました。私が神学部で勉強していた2000年代初めは国教会所属率はまだ80%台、「魂ケア」の教科書も所属率が90%以上の頃に書かれたものでした。今では所属率は60%台、ヘルシンキ首都圏では50パーセント台です。きっと、「魂ケア」の科目も変貌したと思います。
とは言っても、教会員の皆さんは同じ枠組み、共通の言語を手にした方たちです。それらを活用し鍛えない手はありません。是非「魂ケア」にどうぞ!(ヨシムラ)