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教会員の皆さん、「魂ケア」にどうぞ
フィンランドの大学の神学部には「魂ケア」という科目があります。 何を学ぶかと言うと、悩み事その他なにか心に引っかかるものがあって一人ではなかなか平安を得られなくなってしまった人の話し相手や聞き役になって一緒に解決の糸口を見つけるということです。牧師が授業を担当し、学生同士で事例について話し合い、最後は病院に派遣されて実習をします。
これを聞くと、それは日本の神学校で行われてる「臨床牧会教育(CPE)」や「牧会カウンセリング」のことではないか、と思われるでしょう。授業には、「悲しみと向き合う作業」という課題もあり、これなども近年日本でもよく耳にする「グリーフ・ケア」のことでしょう。
私個人としては、「臨床」とか「カウンセリング」と聞くと、専門医学的な感じがして身構えてしまうのでフィンランド的に「魂ケア」の方がしっくりします。それに加えて、コンテクストの違いもあります。フィンランドでは国民の大多数はルター派国教会の会員なので話をする相手は間違いなくキリスト信仰者ということになります。それなので「魂ケア」は、話す側も聞く側もルター派のキリスト信仰の枠組みの中にいて共通の言語を用いることが出来るということがあると思います。ところが、日本ではキリスト信仰者は全人口の1%という圧倒的少数派な上、教派も様々です。「枠組み」とか「言語」においてフィンランドとは比べものにならない難しさがあると思います。それで日本では、「臨床」とか「カウンセリング」という学術専門的な言い方が相応しくなるのかもしれません。
そうは言っても、フィンランド社会もこの20~30年の間に大変貌を遂げました。私が神学部で勉強していた2000年代初めは国教会所属率はまだ80%台、「魂ケア」の教科書も所属率が90%以上の頃に書かれたものでした。今では所属率は60%台、ヘルシンキ首都圏では50パーセント台です。きっと、「魂ケア」の科目も変貌したと思います。
とは言っても、教会員の皆さんは同じ枠組み、共通の言語を手にした方たちです。それらを活用し鍛えない手はありません。是非「魂ケア」にどうぞ!(ヨシムラ)
宣教師のフィンランド国内支援教会訪問について
フィンランドのルター派国教会の海外伝道の仕方は、それぞれの教会が宣教師を派遣するという形ではなく、 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)のような国教会公認のミッション団体が宣教師を養成・派遣し、国教会内の教会がそれを支援するというやり方を取っています。国教会内で私たちヨシムラの日本伝道を支援する教会は12あります。その他にも3教会が派遣宣教師に関わらずスオミ教会を支援し、あとSLEY傘下の3教会もスオミを支援しています。
今年は、ヨシムラを支援する教会を7つ(オウライネン、ヴァ―サ、ユルヴァ、ライティラ、マスク、ヴァハト、パイミオ)とスオミを支援する教会を1つ(コウヴォラ)を訪問しました。今年の訪問先は、北のオウライネンが滞在地トゥルクから550キロ、東のコウヴォラが350キロと拡がったため、移動距離は延べ3,500キロになりました。
教会訪問で何をするのかと言うと、訪問日が日曜日の時は礼拝の説教を担当し、平日ならば小礼拝や各教会の海外ミッション行事を担当します。今年は2つの教会で説教が予定されていましたが、一つは都合により交替になったので、教会堂での奉仕は説教1つ、平日小礼拝1つでした。
海外ミッションの集会は、プログラム本体は大体2時間位で、最初30分位のコーヒータイム、讃美歌、牧師の挨拶とメッセージ、吉村から日本一般及びキリスト教会の動向の報告、讃美歌、パイヴィからスライド写真を交えてのスオミ教会の伝道の報告、讃美歌、質疑応答、祈り、讃美歌という内容がどこでも同じです。開始の30分前までに到着しなければならず、終わった後も参加者との懇談は続くので実質4時間位の仕事になります。今年は2日がかりの行事が2教会でありました。
この他にも、教会の地元の小中学校や高校や施設の訪問、教会役員との懇親会等もあります。今年は学校訪問はありませんでした。近年では、国教会と言えども公立学校に宣教師を招くというのは信教の自由からよろしくないという見方が、国教会所属率が低下している南部を中心に強まってきています。(ヨシムラ)
「光の子らよ、目覚めよ」 2022年9月18日(日)スオミ教会
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。 アーメン
聖書ルカ福音書16章1-13節
今日は、経済の話をします。経済と言ってもですね、物価高とかインフレと言った、ふつう、私たちが考える経済じゃあありません。
聖書の中で話された「イエス様のたとえ話」です。
イエス様は時々、難しい話をされました。
今日の福音書で、弟子たちに語られたたとえ話も、まさに最も難解な箇所と言われるところです。
ある牧師はこう言っています。
「イエスのいくつかのたとえ話のうちで、最も議論を呼び、最も危険を含んだものの1つである」と。
イエス様が語っておられるたとえ話を聞いているのは、どんな人たちであったでしょう。
もちろん、イエス様といつも一緒にいた、12人の弟子たちです。その他にも多勢いの人々がいました。
ルカは15章の始めの所で書いています。
【徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、言い出しました。「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」と不平を言いだしたのです。
そこで、イエスは次の「たとえ」を話された。」とあります。
たとえの始めには「ある金持ちに一人の管理人がいた。」とあります。この当時、管理人というのは、地主が遠くにいて、その土地を小作人に貸したり又その代金をいろんな型で管理する、その権威の一切をまかされていたのです。ですから大事な財産の一切をまかせるからには主人は絶大な信頼をおいていた事になります。
ところが、この男が「主人の財産を無駄使いしている」とつげ口する者があった。いわば不正をしていた事がバレて、訴えられたわけです。主人は彼を呼びつけて言いました。「会計報告をだしなさい、もう管理を任せておくわけにいかない」。あれほど信頼して一切をまかせたのに裏切られたわけです。
もうここでは主人に対して釈明する余地がありません。全く信頼できない。後任へ引き継ぐための報告書を出しなさいと断言しているんです。さて管理人は困りました。そして考え込んだのです。
これから、どうしようか。肉体労働する力もないし、かと言って物乞いするのもはずかしい。
そうだ、こうしよう、と彼は一計を案じたのです。管理人の仕事はクビになった。でも自分を家に迎えてくれるような友を作ればいいのだ。あとはそれから考えていけばいい、とぐらい思ったでしょう。
そこで、彼は主人から借りていた者たちをひそかに1人1人呼び出して、最初の者に言うわけです。「私の主人にいくら借りがあるのか」すると「油100パトスです。」彼は言いました「これがあなたの借りている証文だ、急いで50パトスと書き直しなさい。」100パトスという量がどれくらいなのか。
この当時の油100パトスは今で言えば約2300ℓというすごい量です。
そして、次の者に「あなたはいくら借りがあるか」と言うと「小麦100コロスです。」ではそれを80コロスと書き換えなさい。両方とも巨大な量を約半分にしてあげているわけです。
もともと管理人だった彼は不正な財産管理をして横流しして自分のふところに入れていた、それに
加えて借金の証文を書き換えさせるというとんでもないことをしていて、とてもほめられるべき行為ではない。危機に直面してなりふりかまわず、生きのびる道を画策したのです。
現代の私たちはこの不正な管理人を許せない!と思う。どうでしょうか。
ところが、8節を見ますと、このたとえで主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を「ほめた、」とあります。主人の財産をうまいこと横どりして自分のものにしている、あげく、証文を書き換えさせている、というのに主人がなぜほめているのでしょうか。私たちには納得できない難しいところがあります。このたとえ話をどう解釈したらいいのでしょうか。そこに難しさがあり、危険性もある、というわけです。私たちは、この当時の時代背景を知らないとこの難しい経済はわからないのです。
律法学者たちを代表するユダヤ教の世界では同胞に対して利息を取ることは禁じられていました。
しかし、金銭や食物等による商取引の場合には利息を含めて貸借をする習慣があったのです。
律法の精神は貧しい者から搾取してはならない。しかし、相互に利益になるようであれば、利益を相互に分け合うのだから禁じられてはいなかった。つまり、ある人が貸し与えられた以上は彼は
何ほどかの物を持っているわけだから貧しいとは言えない。
例えば、このたとえ話で、小麦100コロス貸し与えられた者はその小麦を持っているわけで貧しいのではない。その貸し与えられたものに、利子が含まれるのは当然のことです。ところで、小麦の場合100のうち20はすでに利子分として含まれているから証書には利子分は記されていない。
20の利子を含んだ100の全量として書かれているのです。通常、こういう取引にはいちいち主人に報告せず管理人の裁量にまかされていたのです。
この解釈によると、このたとえ話で管理人が解雇されるという危機に直面して取引証書を持ち出して、負債者が利子を払わなくてよいように利子分を書き改めさせた、といことになることで油の証文を100→50に直しています。つまり割引いたのは利子分であった、ということです。油が半分は利子であった、のは油の取り扱いで陰でよく水まし等されていたから利子の率が高いのが普通であった、というわけです。100のうち半分は利子であった、というわけです。
彼は利子の分を書き直させ、負債者は大喜びです。彼の将来の自分の地位と身の安全を負債者からあがない取ったのです。つまり恩を売ったのです。さて、主人はどうですか、利子の分は別として実質的に何も失ったわけではない。友人の便利をはかってやって援助してやった、ということで主人は周りからありがたがられているわけです。たとえ利子が管理人のふところに入ったとしても
貪欲の避難を受けないため主人は管理人の行為をいちいちとがめない。主人の利子分を差し引いたな、等と言われない。主人は太っ腹のふりして見て見ぬふりするしか他になかった。そういう習慣がこの当時あったのです。それで八方丸くおさまったわけです。
だれも損しない。そこで主人はこの管理人の「利口なやり方」をほめたのです。
たとえ話は7節までで8節後半はこのたとえ話をされたイエス様のコメントが記されています。
つまり、イエス様はご自分の12人の弟子に向けてこれからの生き方への姿勢にきびしい警告をなさっているわけであります。8節b「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」そして9節の言葉には、こうあります。「そこで私は言っておくが不正にまみれた富で友だちを作りなさい。そうしておけば金が無くなった時、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
つまり、友人のために富を尽くした者には天使たちが迎えに来て、永遠の住まいに入れられるだろう。富は元来、自分のためではなく、友だちのため、まわりの必要としている人々のために用いてこそ、それは自分の永遠の安らみが用意されていることになる。
矢内原忠雄という先生の解説にはすばらしいものがあります。
この世の子らは、主人顔して時代の中で勢力を占めているがいきすぎ行くこの世だけである。永遠の神の国に於いては彼らはもはや威張ることはできない。この世の子ら、すなわち神を信じないこの世の人々はこの世のことに於いては実に巧妙に振る舞うのである。一方、神を信じる光の子らは、この世渡りの巧妙さにおいてはとうてい彼らに及ばない。しかしこの世の子らが、この世の生活において持つ用意に比べて、光の子らは神の国の生活に対して持つ用意が劣るようではならない。
見よ、あなた方は、いつ、あなた方の「富める人」すなわち神からあなた方に託されている財産の管理状況を求められるかわからないのである。神からあなた方に託された、あなたの命、あなたの体。あなたの精神、あなたの学問、あなたの信仰、あなたの財産、すべて、あなたは自分の利益のために使いこみはしなかったか。その不始末に対してあなたは神のさばきを免れないであろう。
あなたが、この世を去るべき日が来るであろうその時、あなたは、あなたの身をよせるべき安住の場所を準備していますか。
あなたを家に迎えてくれる友を得るために心を働かせよ。それだけの知恵と用意をあなたは払うべきではないか。あなたにとって友の中の友は誰ですか。あなたの真の友、それはイエス・キリストであります。この世でのあなたの生涯の富も、財産も、力も、知恵も、体も、精神も、そのすべてをキリストを友とするために働かせなさい。この世で、たよりとしていたすべての富が失せる時、なくなった時、あなたの永遠の住まいに迎えてくれる最大の友はイエス・キリストであります。さて、イエス様は1節から9節のたとえを語られて更にこの話をきいている弟子たちに大事なことを語られます。それが10~13節です。なぜ不正な管理人は主人からほめられましたか。それは彼の巧妙さを感心されたのであって忠実ではない。彼は主人の所有物を取ろ扱うことにおいて忠実ではなかった。彼は主人をうらぎったのです。
この世の事だから、これを管理し、処理するのに不忠実であっても良いということではない。この世の事は神の国の事に比べて小さい事です。しかし、
小事に忠実でないものは大事についても忠実ではない。この世の事柄の処理に於いて忠実な人は神の国の事柄についても忠実であります。自分に託された仕事が、いかに小さい、この世の事柄であっても、それを忠実に果たす心のある者に神の福音を宣べ伝える任務が託されるのです。
あなた方に管理を託された「不義の富」すなわちこの世の富は本来あなた方のものでなく、この世の人の財産の所有であります。すなわち、人のものであります。しかし、それを扱うについて忠実でなければ、あなた方のものである「真の富」すなわち、神から出る永遠の生命を与えられることはない。
あなた方の主人は神である。従ってあなた方のこの世に於ける生活の目標は神に仕えることでなければならないのです。「神と富に仕えることはできない。」と13節にあります。しかし、神に仕えるということは、この世に於ける働きには身をいれて忠実に働かなくてよい、ということではありません。
神に忠実に仕える者はこの世の小事にも忠実な僕となる、ということです。
これに反して富を主人として、これに仕える者は、ただ神の国の永遠の生命をつがないだけでなくこの世の富についても忠実には管理しない者です。たとえで言うあの不正な管理人が主人の財産の管理に忠実でなかったのは彼が真の神に仕える信仰をもたず神の国に於ける永遠の生命を目標として生きなかったからです。従って彼は主人の利益を害してでも自己の利益を計ろうとしたのです。この不忠実な自己の利益のみ頭がいっぱいで、まことの主人をないがしろにした事は決してゆるされることではありません。
イエス様の弟子たちへのメッセージ です。「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。だから、ひぁりの子らよ!目を覚ませ!この世の子らより、賢く、主人である神さまから賜っている宝を、光り輝かすため、充分に用いて活かしなさい。」
<祝福>
人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
河田優 牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)
説教題
ルカ15:1‐10 「誰一人取り残さない」
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
(説教者は初めに)私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
ルーテル学院大学・神学校でチャプレンをしております河田です。本日は与えられた日課から、このように共に福音を分かち合う機会を与えられて感謝です。
本日は福音書の個所から「誰一人取り残さない」という説教題をつけさせていただきました。これは国連が呼びかけているSDGsの取り組みへのキャッチフレーズでもあります。
皆さんもよくご存じだと思いますが、まずはこのSDGsの取り組みついて簡単に紹介します。
国際連合は2015年から「持続可能な開発目標」のアルファベット頭文字を取って、SDGsと名付けた取り組みを始めました。それは、世界中の人々にとってよりよい、より持続可能な未来を築くための活動です。
まずは現代の世界にある課題を17の項目としてまとめます。そしてそれらの課題の解決を目指して、継続して具体的に取り組んでいくのです。
この17にのぼる項目を少し紹介すると以下のようなものです。
貧困をなくそう
飢餓をゼロに
すべての人に健康と福祉を
質の高い教育をみんなに
などです。
それぞれが現在の世界の諸課題であることは一目瞭然なのですが、ここで気づかされることはそれぞれの諸課題というのは、なにがしかの形で関連し合っていることです。
たとえば、貧困と飢餓の問題は密接に関連していますし、そのために社会の中で福祉が整えられていく必要があるでしょう。その時には人権が重んじられますし、平等が唱えられ、誰もが正しく学ぶ機会が与えられて行かなければならないでしょう。
つまり、ここにあるように一つ一つの課題は、相互に関連しているのです。
ですからSDGsの取り組みとしては、これらの課題のいくつかだけを選択して解決していくのではなく、これらの課題のすべてに目を向けつつ、それらの課題の中に生きざるを得ない人たちの誰一人取り残すことなく働きかけていくことを目指しているのです。
このことは、すべての課題が解決に向かうことは、一つ一つの課題の取り組みの結晶であるし、逆に言うとその課題の中で誰か一人の人が取り残される限り、すべての課題の解決とは言えないこととなるのです。
今回の説教題はこの「誰一人取り残さない」というSDGsのキャッチフレーズからつけさせていただきましたが、それは本日の日課、特に「見失った羊のたとえ
としてよく知られているこの聖書個所を考えるうえで大きなヒントになると思ったのです。
それでは、聖書個所を振り返りましょう。
今日の福音書はまずファリサイ派の人びとや律法学者たちが、徴税人や罪人と一緒に食事をしているイエスに対して不平を言うところから始まっています。
ここに登場する徴税人や罪人は、律法によると神の救いに相応しくない人たちとされていました。そのような人たちと食事をするとは何事か、けしからん、というようなことです。イエスは新しい教師として人々を教え、導いているが、律法学者たちは、自分たちが重んじる律法に適わないイエスの行為にいら立っているのです。
そこでイエスは「失われた羊」のたとえを語るのです。
ある羊飼いが登場します。この羊飼いに100匹の羊が飼われています。ところがある時、そのうちの一匹がこの群れから迷い出てしまうのです。
イエスが語るこのたとえ、失われた羊を捜し求める羊飼いはイエスご自身のことでしよう。そしてこの羊飼いに飼われている羊たちはこの時代の人々のこと、特にユダヤ人たちを表しているでしょうが、私たちがこのたとえを聞くとき、この羊とは今を生きる私たち自身のこととして受け止めることができるでしょう。
この羊の群れから一匹の羊が抜け出し、羊飼いは野原に他の羊を残してまでも、その失われた一匹の羊を捜しに行くというがこのたとえです。
4節には「見つけだすまで捜し回る」の言葉があります。これは、羊飼いは失われた羊をけっしてあきらめない。最後には必ず捜し当てる。ということです。そしてイエスはご自分こそ、そのような羊飼いであると告げるのです。迷子になった一匹の羊を自分の姿になぞらえる私たちは、この言葉に大きな慰めを受けるのです。
また、このたとえの面白いところは、いなくなった羊とは特に優れていた羊とも何とも書いていないことです。この羊は、他の羊に比べてみて羊飼いから特別扱いを受けていたわけでもなさそうです。名もなき小さな存在でしかなかったのです。
でも羊飼いは、他の99匹の羊を野原に残しておいても、この一匹を捜し出すのです。
私たちの生きる世界では、むしろこのようなことはあり得ないことではないでしょうか。
99匹の羊が残されてしまうと言うことは、その羊たちにも危険が迫ると言うことです。ばらばらに迷い出るかもしれません。居なくなった羊は特別な羊ではなかったのですから、冷静に考えると99匹を守り、迷子の羊を諦めてしまう方がより賢いやり方と思われます。
ただその中で、このイエスの教えが私たちの心に響いてくるのは、この羊飼いは、たった一匹の羊のことがどうしても心配で、決して一匹でも自分の前からいなくなってしまうことが悲しくて寂しくて、この羊を捜しに行かずにはおれなかったということです。
そのように考えたときに、この迷いでた一匹の羊の救いは、野原に残った99匹の羊の救いにもつながることが分かります。迷い出た羊は特別ではなかった。ちっぽけな存在だった。でも羊飼いは見捨てなかった。大切な存在として愛しぬいた。つまり残された99匹の羊たちも束にして数えられる羊ではなくて、一匹一匹がこの羊飼いに愛されている羊なのです。
今度はいつ、この自分が迷い出てしまうかもしれない。でもこの羊飼いはそのような名もなき羊を最後まで捜し続けてくださる。ここに大きな喜びがあります。
そしてそのことが律法によっては救われないとされてきた徴税人や罪人たちと共に食事をすることだとイエスは語るのです。そして誰一人取り残さないことがすべての者の救いであることをイエスは教え、まさにその羊飼いこそ私であると語るのです。
本日、読まれたテモテへの手紙にはパウロが自分のことを記していました。
彼はかつて、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。
律法の面では正しい者であったでしょうが、神の目から見れば主イエスのもとから外れた羊、けっして神の宴席に招かれることのないであろう罪人であったでしょう。
しかし、パウロも復活のイエスに捜し出され、そこで出会い、捕らえられ、その生き方が全く変わってしまうのです。
主の福音を世界中に伝える使徒としての働きを担う者とされるのです。
彼は次のように告白します。
1:14-15「私たちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たる者です。」
罪人として最たるものであるパウロを主イエスはけっして諦めなかった。彼を捜し出し、捕らえ、ご自分の羊とされるのです。
まさに「誰一人取り残さない」、その思いは主イエスの思いなのです。
そしてこのたとえに語られていることは、主なる神が私たちに向けられた思いであるのです。
羊を自分の姿になぞらえたとき、私たちは時折、主のもとから遠く離れ去っている自分の姿に気づくことがあります。いと小さき自分、信仰の弱い自分、この自分のことを主は思い返してくれるだろうか、そのような不安に陥るようなこともあるでしょう。
しかし、この失われた羊のたとえは、そのようなあなたのことをけっして諦めない。ご自分のもとに連れ戻すために最後まで捜し出してくださる主の姿を私たちに教えているのです。
そしてイエスはこのたとえを次のように結ばれます。
驚くべきことは、この「喜ぶ」という言葉の主語は見つけ出された羊ではなくて、見つけ出した羊飼いにあるのです。
私達は思います。「見つけ出された羊はさぞ喜んだことだろう。」
これは神様の救いをいただいた小さき自分自身の喜びを重ね合わせてそのように考えるのです。
しかし、イエスは「あなたを見つけ出した喜びは私の喜びである。」と告げます。
このように小さなわたしを見つけ出し、ご自分のもとに連れ戻すことをご自分の喜びとしてくださる、そのお方こそ私たちの主です。私たちはこのお方を私の羊飼いとして従ってまいりたいのです。
あなたが主の姿を見失い、悲しみにある時も主はあなたを捜し求めておられます。そしてあなたが主の姿を再び見つけたときは、あなた以上に主は喜んでくださいます。「誰一人取り残さない主」はすなわち「あなたを決して取り残さない主」であり、すべての者の救い主なのです。
(説教の最後に)人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
スオミ教会礼拝説教
ルカによる福音書13章10〜17節
2022年8月21日
説教者:田 口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「会堂にいた彼女」
今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。
まず10節、会堂にいるイエス様ですが、イエス様は、安息日にはこのユダヤ人の会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていましたが、この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。
「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」11節
とあります。もちろん全ての病気がそうだというのではありませんし、私たちにとっては馴染みのない、また理解し難い言葉ではあるのですが、その病気は霊によるものであったことがわかります。「病の霊」の働きで、腰が曲がってしまって、伸ばすことができない、そんな状態を、彼女は患っていたのでした。しかもその時間があまりにも長いです。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。
しかし彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていた、つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、
2、「この女はアブラハムの娘なのです」16節
「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」
と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味していません。もしそうであるなら、全てのイスラエル人もアブラハムの子孫です。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、アブラハムから連なる「信仰による義」の相続者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、義は主を信じる信仰にあったのであり、主はその信仰こそを見て、義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。それはパウロもローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節
「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」
と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。
3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」
けれども、病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。
ここで不思議に思う方もいるのかもしれません。それは、信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような人は、何か罪を犯したからだ、律法に背いているからだ、神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられるのが一般的でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。カリスマ系の教会や、熱狂主義的な教会、律法的に導く教会などでは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だから信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい」と教えられたりすることがあるのです。
そうではなくても、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練は、祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そう考える人は少なくないとも言われます。
しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病と彼女の業や信仰とをつなげません。むしろ彼女のその信仰のみをイエス様は見て言うでしょう。
「この女はアブラハムの娘なのです。」
4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞
みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉でしょう。「アブラハムの娘なのです」と。素晴らしい言葉です。もちろん私たちの目から見るなら、人間ですから、誰でも不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるのは当然です。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、それが私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、そこから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかがわかるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰生活というのは決して、私たちが何かをしなければいけないという律法ではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。
5、「祝福のはかりは律法ではない」
つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、患難がありますと言いました。その中で、私自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできないときも必ずあります。まさに彼女のようにです。それらの事柄がすぐに解決ができず、18年、いやそれ以上、かかるときもあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、そのようなときも現実的にあるでしょう。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも、罪の世を生きているし、なおも罪人であるのですから。救われて義と認められても、義人にして同時になおも罪人でもあります。聖書にある通り、古い人と新しい人の両方があるのですから。
しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもありません。むしろそうだというなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節からいうなら、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いの中、サタンの誘惑や攻撃の中で、日々、戦って生きていき、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。
6、「福音の実」
しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも神の前にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところにある通りであると証ししているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、まさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵みであるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、彼女にそのようなイエス様の実らせる実が実ることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。
皆さん、それは派手でも劇的でもありませんが、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全で苦しみの中、神にすがっているだけです。しかしそれが「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。
7、「律法を基準とする会堂管理者」
けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節
「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているかのその自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。
8、「イエスの目は福音の目」
けれども、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16節
「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」
安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では
「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。』」マルコ2:27〜28
と。ヨハネの福音書でも、イエス様は
「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』 」ヨハネ5:17
と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。
9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」
私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されてここに集められていることでしょう。しかしそれはそのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。イエス様は罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、それでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。
事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性がある理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあり、私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。
今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
今日の聖書のおはなし
ルカによる福音書12章13〜21節
「神の前に豊かになるように」
2022年7月31日:スオミ教会礼拝説教
1、「はじめに」
この12章でもイエス様は、エルサレムへと真っ直ぐと目を向けて向かっています。今日の箇所の前には三つの話があり、イエス様は、ファリサイ派のパン種の話など、これから、彼らの偽善や敵対に直面し、これから御自身のみならず、弟子達にも起こる艱難を伝えています。しかしイエス様は、その苦難を通してこそ神の御心が表され、神の国と福音に与る者たちへの本当の幸いがあるという恵みを伝え励ましています。それらのイエス様の教えの土台となっているのは「地上の事柄」ではなく「天の御国」であり、イエス様は、キリスト者は地上では艱難があり、人はキリストの名のゆえに弟子たちに害を加え殺すであろう。しかし、天の神が、その全てを知っていて神の国の約束を与え、イエスが神の前で認めてくださると励まし、その天からの賜物、贈り物である信仰と聖霊によって道は確かにさるのだと、何よりも天の「神の国」を指し示しているメッセージでもあったのでした。今日のところでは、その群衆のなかにいた一人の人がきっかけになっていますが、そこでもイエス様のメッセージは、世の事柄や「人の前」の議論ではなく、やはり「神の前」「神の国」を土台にし、神の国の視点で、人々に、弟子たちに、そして私たちに福音を、指し示しているのです。
2、「仲介者」
「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』」13節
その人の問題は、家庭、兄弟の問題です。遺産を巡っての兄弟同士の争いがあったことがわかるのです。彼はイエス様にその仲裁に入って欲しいとお願いするのです。当時の人々が、このような問題をラビと呼ばれる律法の教師達に持って行って仲裁してもらうということは良くあったようです。しかしそれに対してイエス様はこう答えます。
「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』」14節
これを聞いて、おや?と思う方がいるかもしれません。「イエス様は仲介者、仲裁者としてきたのではないのか」と。あるいは、「神であるのだから裁判官でもあるのではないか、むしろ正しい裁判官であるのでは?」と、思うかもしれません。
けれども聖書はこう言っていることを思い出したいのです。第一テモテ2章5節の言葉ですが、4節から6節まで読むとこうあります。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」第一テモテ2章4〜6節
確かに仲介者とあります。けれどもそれは「人と人との間の」仲介者とはありません。「神と人との間の仲介者」であるとパウロは教えています。それは、人と人の間のこと以上に人間にとって重大なこと、それは、すべての人が救われて、真理を知ることのための「仲介者」であることを伝えているでしょう。そしてその仲介の方法までパウロは述べてくれています。それは「すべての人の贖いの代価として」と。十字架の死と復活です。このように、パウロは、そのような方法で「神と人との間の仲介者」となるために、人となられたキリスト・イエスを指し示し、その人となられた神であるイエス・キリストによってのみ、神からの救いが私たちにあるのだと、教えているのです。
イエス様はここで彼と群衆に、まさにパウロが伝えた、「人と人との間の問題」以上に、もっと大事な「神と人との間のこと」、そして、そのことを通して、何よりご自身がそれを与えるために来られた、と言う、「天の御国」「神の国」「救いのこと」を伝えようとしているのがこのところなのです。イエス様はこう続けます。
3、「貪欲に注意しなさい」
「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』 」
貪欲に注意して警戒せよ。イエス様はそういいます。貪欲とは、満足しない欲、あるいは満足を知らない欲とも言われます。それは人の心にあるものですが、それは得ても得ても、与えられても与えられても満足できない。十分ということをしらない。「足りない、もっともっと」となる欲です。それが過度になりコントロールが効かなくなることとして、現代ですと「中毒」とか「依存症」いう言葉も連想されます。この「もっと欲しい、満足できない。」ーそのように貪欲が人間の心を支配する、まさに、満足を知らない欲、貪欲というのは、人間の深い問題です。イエス様は、その遺産の分け前についての兄弟同士の争いに、おそらく、すでに富んでいる家族にあってもなおも争ってでも財が欲しいという、そのような貪欲を見ていたのかもしれません。そして、その貪欲は結局、神が与えてくださった家族という恵みの中で、争いという良くない結果をも生み出してしまっています。だからこそ、イエス様は、そのように神の前に何ら良いものを生まない貪欲に、注意し、よく警戒しなさいというのは、当然のことだと言えるのです。
4、「いのちは財産にあるのではない」
けれども、このところのメッセージは、イエス様はそれをただ道徳や倫理、あるいは律法や戒めを理由や目的としてだけ言っているのではありません。その理由をこう言っています。
「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
別の聖書の訳ですと、
「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
ともあります。つまり、それは、単なる道徳や倫理ではない、むしろ、いのちの問題であるといいます。確かにお金は必要な大事なものです。そしてお金や財産が沢山あれば、いつでも食に困らず食べることができ、良い医療も受けられる、などなど、人々はいのちが、財産、お金、富にあるように思うかもしれません。事実、お金中心で世の中は動き、お金が人の人生の良し悪しを支え保証しているような価値観で、世の中は溢れてはいるのです。
けれどもイエス様は、「いくら有り余るほど持っていても」「豊かでも」、「人の命は財産によってどうすることもできない」「人のいのちは財産にあるのではない」とはっきりと言います。どういうことなのでしょうか。それを説明するためにイエス様は例え話を話すのです。16節以下ですが、ある金持ちの話です。彼はお金持ちです。持てるものを持っています。そしてそればかりではありません。彼の畑は豊作です。さらなる富と豊かさ、発展、繁栄が豊作には現れています。けれども彼は「心の中で」、さらなる心配とそれに対する計画を立て、そして実行をします。まず豊作の作物、財産を蓄えておく場所がないと。心配、恐れです。そして、計画です。これまでの倉を取り壊して、もっと大きいの立てよう、そこに豊作の作物と財産を保管しよう。そのような計画を考え付きます。非常にできる優秀な人です。まさに金持ちになるべく富むべく知恵がある人です。そして彼が心の中で心配し彼が心の中で考え思い描いた計画に、今度は彼は「自分に言ってやるのだ」別訳では「自分のたましいに言おう」と、言わば自己陶酔し、そこに明るい希望を見ています。19節ですが、
「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。 」
ここは肝となるたとえでイエス様は皮肉を込めて言っています。彼の言葉は誰かに言っているように見える、つまり、一見、複数人の会話のように見えるこのやり取りですが、しかし彼は「心の中で」、「自分に言ってやる」あるいは「自分のたましいにこう言おう」とあるように、すべて一人、彼自身の心の中のことです。そして彼は、自分のたましいに「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言っているのです。このように、貪欲の構造をイエス様は表しています。すべて自分自身の心の中の心配と、自分自身の予想、計画と期待と満足であると。けれども貪欲のさらなる事実は、満足を知らない欲です。結局、待っているのは、 「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と、自分に言い聞かせても、それでも安心できない、満足できないわけです。しかし、イエス様は、ここでただ、そのような貪欲の構造、人間の心の欲の底なしの様だけを言いたいのではありません。それだけが「注意しなさい」の理由ではありません。20節に、イエス様の「いのちは財産にあるのではない」ということの理由があります。
5、「いのちはどこに?」
「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」
イエス様の言っていることはハッとさせられるのです。財産はもちろん一時の満足と安定は与えてくれて、一時の健康の維持にも力ともなるでしょう。しかし、究極的には、つまり死という圧倒的な現実を前にして、いのちを支えることはできないということです。いのちということは死ということと隣り合わせです。死があっていのちの意味、生きているということを考えることができるでしょう。生きることをもちろんお金はある程度補償はできるのです。しかし死を前にして、財産は全く意味がありません。いい葬儀やお墓は準備できるかかもしれませんが、どんなに財産があっても死を避けることはできないのです。しかしイエス様が言いたいのはそれだけではありません。そこでは「いのちは取り上げられる」と言っています。つまり、いのちを握っているのは、つまり聖書が「生きるのに時があり、死に時がある」と言っているように、生も死もすべて神の御手のなかにあって、神が定めている、神が与え神がいのちを取りあげる、取り去られるという、圧倒的な事実をイエス様は突きつけているでしょう。そう、それこそがいのちの支配者です。いのちは財産にあるように人は思うのですが、しかしイエス様にあって真理はそうではない、いのちの真理、それはいのちは財産ではなく、神の御手にあるということです。そして、そのいのちも死も、私たちはお金でも力でもコントロールできないのです。しかも、その豊かな財産を死後どこかに持っていくこともできないのです。その時、その取り去られることが本当に起こった時に、イエス様が、「一体誰のものになるのか」と言っているように、そのような彼の心の中で心配し計画し用意していたもの、その財産も倉も、満足も、それらはその人の物にはならないのです。その人は神にいのちを取り去られて、その先にその財産を持っていくことができません。地上の財も富も死の先に持っていくことはできないのです。むしろ財産は他の人の手に渡ってしまうようなものですし、その人の手からまた他の人の手に、時にそれは敵の手に渡ったり、悪用されたりします。まさに、この場面です。お父さんが残した遺産を子供達が争って奪い合うという現実があるではありませんか。そしてその財産も形あるものは、やがては朽ちて消えていきます。地上の財産、そして貪欲は、そのような現実にあるものです。イエス様はいいます。人のいのちは財産には決してありませんと。人のいのちは、神の手に握られていると。だからとここで誤解してはいけない補足ですが、昔からそして今も世を騒がしているキリスト教の異端やカルトが良く彼らの常套手段で、律法的に脅迫するように、だからその財産は神に教会に全て捧げなさい、ということが、正当なキリスト教の教えではありませんし、イエス様のここでの教えもそのようなことを言いたいのでは決してありません。むしろ献金は、律法ではなく、恵みへの応答ですから、自由な心で喜んでささげるものであることは忘れてはいけません。ここでは決して律法のメッセージをイエス様は言いたいのではなく、ここで何より私たちに言いたいことがあるのです。こう結んでいます。
6、「神の前に富むこと」
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ここでも「人の前」ではなく「神の前」とありますが、イエス様がいいたこと、それは「神の前に富むこと」の大切さです。では「神の前に富む」とはどういうことでしょうか?イエス様の山上の説教はこのことの意味がよくわかるところです。マタイ6章19節以下に同様のイエス様の教えがあります。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」マタイ6章19〜21
自分のために蓄える目に見える形ある地上の宝。それはいずれ虫と錆で、傷物になる。盗人が穴を開け忍び込んで盗んでいく。それは事実でしょう。しかしむしろイエス様は「神の前で富むこと」を言います。「富は天に積みなさい」と。別の聖書の訳ですと「宝は天に蓄えなさい」ともあります。それは虫もつかない、錆びることもない、盗人があけて盗むこともないと。やはり初めに言いました。イエス様はここでも「天」を人々に指し示しています。一貫しています。ルカ12章8節でも、「人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言う
と、イエスに「知っている」と認められることに、救いのすべてはあることを伝えています。そして、その知ってもらう道は何より信仰のことを意味しています。どんな艱難や苦しみ、それが死であっても、一羽のスズメを忘れないほどに、決して見捨てることも忘れることもなく、憐れみ、愛し、友と呼び、そして十字架で私たちのすべてを担われる神の御子キリストを、私たちが信じること、信頼することこそ、何より必要なことであると言うのが、イエス様が福音書を通して伝えるメッセージの核心なのです。ですから、まさに神の前で富むことは、何かというと、それは、信仰のことだと言うことです。宝を天に蓄えること、それも信仰です。信仰に生きることです。信仰にあって、神を信じ、その神からの救いを喜び安心するがゆえに、喜んで応えていく、つまり、神を愛し隣人を愛することです。引用したマタイの福音書でも、そうです。この19節の前には、主の祈りが教えられています。先週お話ししました、イエス様がこう祈りなさいと与えてくださった福音の祈りです。そして、その後は、断食や祈りをするのにも、人に見られるようにではなく、隠れたところの見ている天の父に見られ父に報われるようにと教えています。それも人に見られるためではない、人にどう見られるかどう思われるかでもない、ただ神への信仰による行いを教えています。そして21節の続きの結びは、神の国とその義とをまず第一に求めなさい、と、信仰を示しています。
天に宝を積むこと、蓄えること、神の前で富むこと、つまり信仰、それがいのちの道、真理の道、救いの道であることこそ、イエス様が今日も、このところから、私たちに伝えるメッセージなのです。
イエス様は一見、この人を、批判しているように見えるかもしれません。しかし最も大事なことをイエス様はこの人に伝えているのです。もちろん「人の前」では、この人の期待している通りの答えではありませんでした。けれどもまさにここにいのちがあるというイエス様の福音のメッセージが彼に語られたのです。それがイエス様の彼への愛であるともいえるでしょう。
7、「おわりに」
幸いではありませんか。天に宝を積むことができる幸いに私たちがあることは。イエス様は、決して地上の必要はどうでもいいとは結んでいません。マタイの福音書の山上の説教の有名な言葉、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」も、信じなさい。そうすれば、それに加えて、「これらのもの
、つまり何を着ようか何を食べようかということを言っているのですが、それらのものはすべて与えられるとも、イエス様は言っています。大事なことは、信じることです。イエス様こそ私たちのいのちのすべてであり、救いであると。イエス様とイエス様の言葉こそ真実であり、恵みによって取り囲まれた人生であり、そのイエスの福音とその恵みこそ、新しい命の日々の歩みを本当の豊かにする宝であると、信じ、救いを確信することです。その信仰さえ、恵みとして与えられる賜物であると、聖書は教えています。その信仰こそ、喜び、平安、感謝が溢れさせ、何より神の前で富むこと、天に宝を積むことなのです。今日もイエス様は私たちにその罪の赦しと新生の福音と恵みを、そのまま受けるようにと、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、福音をうけ、今日も信仰を新たにされ、平安のうちに、私たちの救いの道、いのちの道に遣わされていきましょう。
6月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨の季節ですが、ちょうどその日は雨が降らず傘を使わないで教会に来ることが出来ました。
今回もコースターの編み物を続けました。前回のように初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型や色を選びます。前回いらして既に編んだ方たちは今回は違うモデルを選びました。出来上がりの楽しみが増えます。もちろん今回初めて参加された方たちにも出来上がりは楽しみです。皆さん、モデルをよく見ながら一生懸命編み続けていきます。皆さんが選んだモデルや色はみんな異なっていたので、お互いのものを見るのも楽しかったです。おしゃべりしながら楽しく編み続けていくと時間が経つのも忘れてしまいます。手芸クラブと同じ時間帯にチャーチカフェも開きました。
手芸クラブもコーヒータイムに入ることにしました。その週はフィンランドでは夏至祭のお祝いが近づいていたので、フィンランドで夏至祭の時によく歌われる「夏の日、カンガスアッラにて」という曲のピアノ演奏をモニターを通して聴きました。モニターから映し出されるフィンランドの景色を眺めながら演奏を聴き、コーヒーとお菓子パン・プッラを味わいました。チャーチカフェに来られた方もいて、教会の集会スペースは賑やかな雰囲気になりました。コーヒータイムの時に「毎日、神様の御手に守られて」というフィンランドの聖書日課からみ言葉を聞きました。この日の日課の箇所は「フィリピの信徒への手紙」4章6節でした。
手芸クラブはしばらくお休みになります。夏が終わってからまた再開する予定です。案内をホームページにのせますので、どうぞご覧ください。
日本は暑い夏になると思います。皆さま、どうぞ気をつけてお過ごしください。
ユハ・ヴァハサルヤ(Juha Vähäsarjaフィンランド聖書学院講師) 「毎日、神の御手に守られて」(Joka päivä Jumalan kämmenellä)2010年
フィリピの信徒への手紙4章6節(フィンランド語の聖書からの和訳) 「何事についても心配に身を任せるのではなく、必要なものはいつも神に打ち明けなさい。祈りながら、願い求めながら、そして感謝しながら、そうしなさい。」
私たちは誰も、心配したり案じたりすることがあまりにも多く、心配する能力に長けていると言ってもいいくらいです。もちろん、心配するのは、現実にちゃんとそのための理由があるからなのですが。しかし、心配の重荷に絶えず身を委ねていたら、それが生きる喜びを押し潰し、奪ってしまうことになります。
聖書の神の御言葉は、「何事についても心配に身を任せてはいけない」と言っています。それは、「心配しない人間になれ」という命令と受け取るよりは、「心配するのはわかるが、その必要はないのだ」という励ましに受け取るべきです。どんなことがあっても、神は状況を打開して私たちが前に進めるように助けて下さる、心配するのはわかるが、それに身を任せるのは無駄なことなのだ、と約束してくれているのです。聖書の他の箇所にも記されているように、神は私たちの世話を焼いて下さると約束しておられます。天と地と人間を造り、人間に命と人生を与え、また独り子イエス様をこの世に送られた神がこうだと約束されている以上、この地球上で、これより確実なことは存在しないのです。
だから、私たちは、遠慮しないで心配事の重荷を神に引き渡したり、投げつけたりして構わないのです。願い求め、感謝すること以外にするべき必要なことはありません。私の心配事を神は今回、どのような仕方で解決に導いて下さるのだろうか、しかと見届けてやろうという信頼の気持ちで待っていればよいのです。
「かぎ針のコースター」を編みます。
かぎ針のコースターは早く簡単に作れる手芸の一つです。色は何色でもよいので、残り毛糸の良い使い方にもなります。可愛い、きれいな色のコースターはテーブルの飾り物にもなります。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
材料費 500円
人数制限がありますので、ご注意ください。
お子さん連れの参加も歓迎です!
お問い合わせ、お申込み moc.l1745314433iamg@1745314433arumi1745314433hsoy.1745314433iviap1745314433 Tel 03⁻6233‐7109
コーヒーやプッラ(フィンランド風菓子パン)を味わいながら、モニターでフィンランドの讃美歌や風景に触れて、心休まるひと時をお過ごしください。
手芸クラブに参加されない方でもご自由にお好きな時間帯にお立ち寄り下さい。
ご希望あれば礼拝スペースにて一人静かにお祈りすることもできます。 (コーヒー・プッラ準備費として300円ご協力お願いします。)
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4―106
6月のスオミ教会・家庭料理クラブは11日、どんよりした梅雨空の下での開催でした。今回は「ドリーム・ロールケーキ」Unelmakääretorttu を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。
「ドリーム・ロールケーキ」はケーキと中身が大事なので、まず参加者の方々をケーキを作るグルーブと中身を作るグルーブに分けます。
ケーキ・グルーブは、材料を計って卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てることから始めました。白い泡になってから粉類を中に加えると生地になります。それを鉄板に広げてオーブンに入れて焼き始めます。あっという間ケーキの焼き香りが広がり、ケーキは焼き上がりました。
中身・グループも、材料を計ったりバターなどをハンドミキサーで泡立てます。ふわふわの中身ができました。
それからケーキ作りに入ります。まず、冷ましたケーキの上に中身をのせて広げます。その上にホイップした生クリームをのせて広げます。その次は、いよいよケーキをロールします。ケーキが割れないように少しづつ注意しながらロールします。ロールし終わると、やった!の嬉しい声が上がりました。
最後はロールケーキの上にホイップした生クリームで飾り付けをして、その上にフルーツ、みかんとスライスしたキウィをのせてきれいな夢のような「ドリーム・ロールケーキ」が出来上がりました!
今回の料理クラブは台所からハンドミキサーの音が多く聞こえてやかましかったでしたが、礼拝堂からはお子さんの遊ぶ声が聞こえてきて和やかな雰囲気になりました。
テーブルのセッティングをして皆さん席に着き、出来たての「ドリーム・ロールケーキ」をコーヒーと紅茶と味わって歓談の時を持ちました。この時、「ドリーム」夢や、聖書に出てくる将来の望みについてお話を聞きました。
スオミ教会のフィンランド家庭料理クラブはこれからしばらくお休みになります。秋また10月から再開の予定です。詳しい日時は、コロナ感染の状況を見ながら決めます。教会のホームページにお知らせしますので是非ご覧ください。暑い夏の季節はもうすぐです。皆さん、健康に注意してお過ごし下さい。
今日皆さんと一緒に作った「ドリーム・ロールケーキ」はフィンランドのコーヒー・テーブルの人気者の一つです。このロールケーキはフィンランドで伝統的なもので多くの家庭で作られます。私の母も大好きでよく作りました。このロールケーキは材料はそれほど多くなくて作り方も難しくありません。それでも、普段のコーヒータイムだけでなく、お祝いのテーブルでも豪華なものとして出されます。今日つくったものは小麦粉を入れていませんので、グルテンフリーでアレルギーの人たちにも合います。
この「ドリーム・ロールケーキ」の味のポイントは中身です。伝統的な中身のクリームはバターで作られましたが、現在は少し軽くしてバターの他にヨーグルト、クリームチーズ、クリームなどを入れるようになりました。中身を変えることで普段の日のお菓子になったり、お祝いの時の出しものになったりします。ロールケーキの名前ですが、「ドリーム・ロールケーキ」はケーキと中身の組み合わせの美味しさから始まったかもしれません。また、ドリームはフィンランド語でウネルマと言いますが、ウネルマはフィンランドの女性の名前でもありますので、ウネルマという女性がこのロールケーキを作り初めた可能性もあります。名前の始まりについてははっきり分かりませんが、とにかく面白くて可愛い名前だと思います。このロールケーキを食べると、「ドリーム」、いろいろな夢を描けるかもしれません。
「ドリーム」夢は私たちが将来望んでいることや希望することです。夢は生活にインスピレーションを与えて生活の意味を深めます。逆にもし夢がなかったら生活はつまらなくなるかもしれません。若者は夢が沢山あって夢見ることは上手です。しかし、夢見るのは若者だけでしょうか?いいえ、夢見るのは本当は年令とは関係ないと思います。年配の方々にも夢があります。皆さん夢がありますか。どんなことについて夢見るでしょうか。
普通は夢と言ったら、進学する学校とか、どんな仕事に就きたいとか、どこに旅行したいとか、家庭を持ちたいとか将来に関することです。フィンランドの女性誌の記事によくある話ですが、私たち人間にとって自分の心によく聞いて持っている夢を実現することは大事なことだとよく言われます。しかし、私たちが持っている夢はいつも実現出来るとはかぎりません。実現するためにとても努力しても夢が叶わなくてがっかりすることもあります。
聖書にはそういう将来の夢について直接は書いてありませんが、将来の望みについてはたくさん書いてあります。旧約聖書の箴言には次の言葉があります。 「人の心には多くの計らいがある。主のみ旨のみが実現する」箴言19章21節です。 私たちがいろいろな夢を持つのは大事なことですが、それらが実現するかしないのかは私たちが決めることではありません。それは天と地と人間を造られた神様が私たちをどのように導いてくださるかによることです。もし私たちの持っている夢が神様の目から見て私たちに相応しくないとお考えになったら、夢は実現出来ないかもしれません。その場合は神様は何か違うことを考えて与えてくださいます。もし私たちの夢が実現したら、それは私たちの努力だけで実現したのではなく、神様の良い導きがあったからだと理解して感謝するのは大事です。
聖書には、神様はどのように一人の人間や一つの民全体を導いて下さるかについてたくさん書いてあります。一つの例は、イスラエルの民です。イスラエルの民は外国に攻められて捕虜になって遠い国に連れて行かれました。彼らの夢はまたいつか自分の故郷に帰りたいというものでした。神様は、イスラエルの民は必ず帰ることになると約束の言葉をたくさん述べられました。神様はイスラエルの民をどのように故郷に導いてくださるかということが、旧約聖書のイザヤ章とエレミヤ書にたくさん書いてあります。また、神様がかつてイスラエルの民をどのように導いてくださったかということも忘れないようにとたくさん書いてあります。 「我が主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることはなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から『これが行くべき道だ、ここを歩け右に行け、左に行け』と」 これは、イザヤ書30章20-21節のみ言葉です。イスラエルの民はいろんな試練を受けなければなりませんでしたが、神様の導きで最後は故郷に戻ることができました。
このイザヤのみ言葉は私たちにも向けられています。神様は私たちが持っている夢をよくご存じです。それがその通りに実現するかしないかは私たちには分かりません。私たちの生活の中にもイスラエルの民みたいにいろいろ災いや苦しみがあるかもしれません。しかし、それは神様が私たちを見捨てたということではありません。そのような時があっても天の神様は隠れておられることはなく、その時も導いてくださいます。だから私たちも夢を持つ時は、私たちを導かれる神様の声を聖書から聞いて従っていきましょう。