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5月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨の近づきを感じさせる雨多い週でしたが、ちょうどその日は太陽が輝くすがすがしい日になりました。
今回は先月に続いてコースターを編みました。前回同様に初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。少しチャレンジを増やして先月と違ったモデルを選ばれた方もいらっしゃれば、その日初めて来られて少し簡単なモデルを選ばれた方もいらっしゃいました。各自、モデルに従って編み続けていきます。皆さん異なるモデルだったので、それを見るのも楽しかったです。おしゃべりをしながら楽しく編み続けていくと時間が経つのも忘れてしまいます。
大体の方は出来上がったので、コーヒータイムの時を持ちました。今回も手芸クラブと同じ時間帯に「チャーチ・カフェ」を開きました。壁掛けのモニターに映し出されるフィンランドの景色を眺め、讃美歌に耳を傾けながら、ムーミンマグカップのコーヒーとフィンランド風菓子パン”プッラ”が味わえるひと時です。コーヒータイムの時に旧約聖書の詩篇121篇の天の神様の守りについてお話を聞きました。
次回の手芸クラブは6月22日に予定しています。
今回の手芸クラブでは先月に続いてコースターを編みました。かぎ針で編むコースターは簡単に早く作れて、可愛いものが出来上がりますので、テーブルの飾り物にもなります。レストランや喫茶店などのコースターはカートンかプラスチックの安いものが多いです。それにはよく会社の広告がのって客さんが持って帰っても大丈夫なものです。それである人たちはコースターを趣味として集めます。コースターはカートン、プラスチック、木、コルク、布などいろんな材料で作られます。コースターはただの飾り物ではありません。コップの下に置くことにはちゃんとした意味があります。テーブルに冷たいか暑い飲み物のコップをそのまま置くと、しばらくするとコップの染みがテーブルに残ります。コースターはテーブルに染みが残らないようにしてテーブルを守るのです。
同じように私たちの身近にあって、普段はあまり気がつきませんが私たちを守る物がいろいろあります。傘はその一つでしょう。もうすぐ雨の日が多い梅雨の季節に入ります。私たちは塗れないように傘を持って出かけます。傘は大事な守りものです。傘がなかったら体は塗れてしまって簡単に風邪をひいてしまします。
私たちの身近にあって私たちを守る物はいろいろありますが、物だけではありません。子供を守る一番身近な存在は親です。しかし、私たち人間には知恵と力に限りがあります。親も人間です。私たちは全てのことは出来ません。
ところが聖書は、私たちを守ってくださる、私たち人間よりもっと知恵や力がある方について教えます。それは天と地と人間を造られた神さまです。旧約聖書の詩篇には神様の守りについてたくさん書いてあります。「主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。主はあなたを守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」詩篇121篇の3節と5節です。
私たちは生活の中で問題がなく全てがうまく行く時、私たちは神さまのことなど簡単に忘れてしまいます。私たちは「神様はいなくてもうまく生活出来る」という態度です。しかしこれは私たちが命と人生のことを深く知らないからそう考えてしまうのです。全てがうまく行っているようでも、それは一時的なことでいつかは試練が起こります。その時のためにいつも心がしっかりしていることが必要です。どうしたらしっかりした心を持てるでしょうか?それは今言った詩篇のみ言葉、天の神さまは私たちが試練にあっても私たちから離れることはなく、眠ることなく働かれ私たちを守ってくださる方だと、神さまを信頼することです。「主はあなたを覆う陰」と言うので、神さまが私たちと一緒にいることは見ることが出来ないし感じることも出来ません。しかし、聖書に書いてあるから本当のことなのです。聖書には神さまがひとり子のイエス様を私たちに送って、イエス様は私たちのために十字架にかかり死から復活したことも書いてあります。これは本当に起こったことなので、私たちは神さまを信頼することができるのです。
皆さんも、このように神さまの守りを信頼することが出来るでしょうか?
主日礼拝説教 2022年5月22日復活後第六主日 スオミ教会
使徒言行録16章9-15節
黙示録21章10、22節-22章5節
ヨハネ14章23-29節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.イエス様が約束されたのは平和か、平安か?
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。今私たちはウクライナに平和が戻るように願い毎日祈っています。ところで、国と国が戦争しなければ国民は平和に安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば国が複数の民族から構成されていて、民族間で紛争が起きれば、それはもう国同士の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう平和に安心して暮らすことは出来ません。
イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心して暮らせると約束しているのでしょうか?残念ながら人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数にありました。キリスト信仰者といえどもいつもそうしたものに巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?
そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があり、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことがわかるために、この御言葉のルターの説き明かしを見てましょう。以下の通りです。
「ヨハネ14章27節で主が与えると約束した平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がないので心が落ち着いているという平和ではない。それは、不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。
それなので、『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とは、外面的な揺れ動きを引き起した害悪がなくなるという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうした害悪に取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束した平和である。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心は外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸の時の方が不幸でない時よりも心の中で勇気と喜びが強まるのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)なのである。
人間の理性が把握できるのは「この世が与える平和」である。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるということは到底理解できない。理性は不幸や害悪がある限り平和はありえないと考える。そのためそのような状態に陥った時、理性は心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。主は、良心の咎に苛まれた我々の心を晴れ晴れした心に変えて下さる。それで、我々の臆病な心は恐れない心に変えられるのだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世が怯える不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」
以上がルターの教えでした。外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても内面的には平和があるというのです。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語のエイレーネーειρηνηという言葉が外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含んでいることによると思います。参考までに聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーを同じ言葉(peace, rauha, Frieden)と訳しています。それらの言葉もギリシャ語のように外面的なものと内面的なもの両方を含んでいるので、それらを用いても大丈夫なのです。興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束しているものはまさに内面的な平安(frid)です。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳はみんな「平和」(fred)でなく内面的な「平安」(frid)を用いています。
日本語もスウェーデン語と同じように「平和」と「平安」と分けてあるのに全部「平和」で訳しています。ヨハネ14章27節を「平和」と訳したら内面的な「平安」が見えなくなってしまわないか?この問題の解決は説教の終わりでお教えします。
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2.神との平和
ルターの教えから、イエス様が与えると約束した内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には勇気と喜びが失われず、むしろ増し加わり、それで揺るがない安心を持つことが出来ることだとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もがも持ちたいと思うでしょう。
どうしたらそんな平安を持てるようになれるのか?答えは難しくありません。イエス様が与えるよと言っているものを、ありがとうございますと言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると今度は、イエス様が与えると言っている平安とは何か、それはどこにあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ません。それで次に見ていきましょう。
イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事が起こり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪に対する神の罰を一身に受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだとわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。
このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活の主が切り開いて下さった道、死を超える永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むとどうなるか?それは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世から去った後も、復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。
このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込んだために結びつきは失われてしまいました。その失われたものが罪が赦されることで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な方です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に供することで打ち立てられたのでした。
人間は神のこの救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのは同時代の人たちのためだけでなく後世を生きる人間全てを救おうとして行ったことだったんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂けて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。
3.心の平安
しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか?と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなります。また逆に、自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈することもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることになってしまいます。
そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのかと非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところで問い始めます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それなので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。
神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなこと出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。
ここで忘れてはならないのは、神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで終わりというようなただの傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復してかの日には復活を遂げて永遠に神の御許に迎え入れられるようにと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをしたのです。それで神は、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援です。
このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。
次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限りは、神は私たちのことを目に適う者と見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望に転化しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(14章26節)。
私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは罪の赦しを神に祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。
以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い起こさせて下さいます。その思い起こさせに自分を委ねてしまい、思い起こせばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。
まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。これでヨハネ14章27節のイエス様が約束されたのは「平和」なのか「平安」なのかという問いの答えが得られます。両方です!イエス様が私たちの救いのために十字架と復活の業を成し遂げて下さったおかげで私たちと神との間に平和がもたらされました。この平和を持てると今度は、外面的な揺れ動きにも動じない本当の心の平安がついてきます。イエス様は両方を与えると約束し、それは果たされているのです!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
水曜聖句と祈りのひと時 「白樺の十字架の下で」
Youtubeで見る 5月18日19時45分~
聖句 詩篇118篇1節 「恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。」
ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ宣教師 ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師
5月のスオミ教会・家庭料理クラブは9日に開催しました。今回はパスティヤPasteija を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にパスティヤの生地を作ります。材料を計って小麦粉をマーガリンの中に混ぜていくと生地はあっという間に出来上がります。ヨーグルト風味にした生地をラップに包んで冷凍庫にしばらく入れて固くします。
生地の次は中身の番です。今回パスティヤの中身はサーモンとひき肉の二種類にしました。参加者の皆さん、一生懸命焼いたサーモンとひき肉を細かく切ったりほぐしていきます。中身も早く出来上がりました。
今度は生地を伸ばして丸い型で型を抜きます。丸い生地の上に二つの中身を別々にのせて形を作り、鉄板にどんどん並べていくと整ったパスティヤの列ができました。オーブンをつける前にパスティヤの上に卵を塗り、それから焼き上げを開始します。しばらくすると、台所から美味しそうな香りが広がってパスティヤが焼き上がったことを告げます。テーブルのセッティングも終わって皆さん席に着きました。出来たてホヤホヤのパスティヤをサラダと一緒に召し上がります。コロナのため今回歓談は静かな声で行いました。
パスティヤを味わった後で、フィンランドのカレンダーにある「名前の日」と名前に関係するる聖書のお話を聞きました。
次回の料理クラブは6月に予定していますが、コロナ感染の状況を見て日程を決めます。教会のホームページにお知らせしますので是非ご覧ください。
フィンランドは春と夏になると、お祝いが多い季節になります。フィンランドではお祝いのパーティーは普通は自宅で開きます。春と夏はお祝いの季節で、高校生の卒業式、若者の教会での堅信礼、結婚式などがあります。その時お母さんたちは一生懸命パーティーの食事の準備をします。パーティーに出すものはお菓子、クッキー、ケーキはもちろん、食事は軽食で行う時はサンドイッチ、パイ、それに今日作ったパスティヤが出されます。
パスティヤの歴史を少し調べましたが、あまり詳しく出ていませんでした。カレリア地方ではパスティヤの形の小さいパイが作られましたが、生地と中身はパスティヤと違って名前も別でした。
残念ながら、パスティヤの名前はどこから来たのかははっきり分かりませんでした。ただ、フィンランドのベーカリーのものの名前はおもにスウェーデン語とロシア語からきたものです。現在新しい名前のベーカリーのものがどんどん出てきて、名前も英語や他の国の言葉からです。それで、名前だけを聞くと、どんなベーカリーのものか想像出来ないくらいです。
フィンランドでも最近は人の名前に外国のものが使われるようになってきました。例えばアリオス、オカヴィリという名前は聞いてもどこの国のものかわかりません。日本では皆さんの名前はほとんど漢字で書くので、名前の意味が豊かになると思います。アルファベットで書く名前は漢字のような豊かな意味にするのは難しいと思います。それでも、フィンランドには名前を豊かにする伝統があります。それは何でしょうか?フィンランドのカレンダーには、毎日の日にちに数字の下に何人かの名前が書いてあります。これを「名前の日」と言います。自分の名前がある日に来ると、みんなからお祝いされるのです。毎朝のラジオのニュースと天気予報の次にその日の名前が読み上げられます。私のパイヴィの名前の日は6月16日です。その日は他にパイヴィッキとパイヴァの名前もあります。
「名前の日」はカードを送ったり花をプレゼントしたりします。職場でも簡単にコーヒーとお菓子を出してお祝いします。「名前の日」があることで、友達や同僚や親戚のことを覚えてお祝いする機会が増えるのです。
聖書の中にも名前に関係する神さまのみ言葉があります。例えば、イザヤ書43章1節には次のように書いてあります。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名前を呼ぶ。」 フィンランド人も、友達や同僚や親戚の「名前の日」をうっかり忘れてしまうことがあります。しかし天と地と人間一人一人を造られた神様は私たちのことを忘れません。神様は私たちの造り主ですので、私たち一人ひとりのことを私たちの親よりも良くご存じです。それで私たちは子どもが自分の親を信頼するのと同じように神様を信頼して安心を得ることができるのです。
ところで、私たちは時々、他人のことで良くないことを考えたり、口で言ってしまったりすることがあります。それが神さまの目から見て良くないこととわかると、自分は神様の目に届かないところにいると考えて、何も問題ないと思うかもしれません。しかし、私たちは神様の目に届かないところにいることができるでしょうか?私たちは自分でいろいろ隠れ場所を作るかもしれませんが、それは小さい子供のかくれんぼと同じです。小さい子供がかくれんぼをすると、子どもは頭を隠して、体は見えているのに、自分はうまく隠れて誰にも見つからないと思っています。捜す人が、みーつけた!と言って名前を呼ぶと、見つかった子供はどうして見つかったのかと驚きます。私たちも同じで、神様から隠れたい、目の届かないところにいたいと思いますが、神様は私たちがどこで何をしているかをご存じで、私たちを名前で呼ばれます。私たちは神様から名前で呼ばれたら、隠れている場所からすぐ出るでしょうか?
私たちは神様から隠れたり遠ざかる必要はありません。神様は私たち人間のために素晴らしい計画を実現されました。そのご計画の中で一人の名前、神様のひとり子イエス様の名前が偉大になりました。フィリピの信徒への手紙2章9~10節で次のように言われています。 「神はキリストを高くあげ、あらゆるな名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです。」
天の神様はどうしてイエス様にあらゆる名にまさる名前を与えられたのでしょうか?それは、神様が私たち人間を救う計画を持っていたからです。それはどんな計画でしょうか。天の神様は私たち人間を愛して、私たちが神さまから罰を受けないで済むようにするという計画です。そのために神様はご自分のひとり子イエス様をこの世に送られて、十字架の上で私たちの罪の罰を身代わりに受けて死なせたのです。しかし、神さまはイエス様を死から3日目に復活させられました。このように神様は私たちを罪から救うためにイエス様を身代わりにしたのです。そのため神様はイエス様を高く天のみもとに上げたのです。それでイエス様の名前はあらゆる名前の上にある名前になったのです。
私たちは神さまの目から見て何か良くないことをしたら、神さまから逃げたり隠れたりする必要はありません。このような時、イエス様を救い主と信じて神さまに赦しをお願いすれば、神さまは必ず赦して下さいます。このように私たち一人一人のことや名前をよくご存じの神様は私たちを本当に愛しておられ、私たちも信頼して大丈夫な方です。
歌 全ての名前にまさる唯一の名前がある。(フィンランド語)
Youtubeで見る 5月11日19時45分~
聖句 詩篇107篇30節 「彼らは波が静まったので喜び祝い/ 望みの港に導かれて行った。」
スオミ教会・手芸クラブは4月27日、春の爽やかな陽気の中で再開しました。前回から4カ月くらい経ってしまいましたが、やっと再開することができました。
今回の作品はかぎ針編みのコースターです。初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。毛糸にかぎ針棒を合わせて編み始め、鎖網をして輪を作ります。その後はモデルに従って編み続け、コースターはどんどん大きくなっていきます。おしゃべりをしながら楽しく編み続けていくうちにコースターはあっという間に出来上がりになりました。皆さん、素敵な可愛いコースターを編み上げました。
その後はコーヒータイムですが、今回は手芸クラブと同じ時間帯に教会に自由に入れる「チャーチ・カフェ」も開きました。壁掛けモニターに映し出されるフィンランドの景色を眺め、響いてくる讃美歌に耳を傾けながら、コーヒーとフィンランド風菓子パン”プッラ”を味わうひと時です。そこで旧約聖書の詩篇121篇についてのお話も聞きました。
次回の手芸クラブは5月25日に予定しています。
詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしております。
私たちの家族は山が好きで休みの日に時々ハイキングに行きます。私たちが登る山はあまり高くありませんが、山があるところに行って山の景色を見ると、いつも旧約聖書の詩篇の121篇を思い出します。その1節と2節にはこう書いてあります。
「目を上げて、私は山々を仰ぐ。 私の助けはどこから来るのか。 私の助けは来る天地を作られた主のもとから。」
「目を上げて、私は山々を仰ぐ。
私の助けはどこから来るのか。
私の助けは来る天地を作られた主のもとから。」
これを書いた人は高い山を見上げて、それよりも高いところにおられる神様のことを尊敬の気持ちで思いました。私は具体的に高い山を見る時、この詩篇を書いた人のように神様の偉大さと人間の小ささを感じます。聖書は神様が天と地とその間にあるもの全てを無から創造されたことが言われています。それを思う時、神様は富士山のような高い大きな美しい山も創造された、本当に大きな力がある方、何でもできる方だと強く感じます。天地を創造された神様は詩篇に書いてあるように私たちのことを全てご存じで私たちを助けてくださる方でもあります。それで神様は私たちから離れないで、いつも私たちのそばにいて守って下さいます。
私たちは高い大きい美しい山を見ても、春の美しい自然を見ても、自然の中で神様の創造の力が働いていることを強く感じます。これも神様の人間に対する愛の業です。
「主が全ての災いを遠ざけてあなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。 あなたの出て立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。 今も、そしてとこしえに。」7-8節
この箇所は、神様が守って下さることについて書いてあります。神様は私たちの全てのこと、旅のような人生で出発の時から帰りの時まで守って下さるのです。これはとても感謝すべきことです。でも私たちは、神様の守りや助けがあると分かるでしょうか?私たちは何も困難がない時は、天地を創造された神様がいるなんて忘れてしまいます。そのような時、別に神様なんかいなくても大丈夫と思う人は多いでしょう。でも人生の中に事故や病気、地震などが起こると、私たちは神様は眠っていて何もしないからこんなことが起こるのだと思うでしょう。どうして神様は助けてくれないのかと思うでしょう。天地を創造された神様は眠っていません。それもこの詩篇の 節で言われています。「 まどろむことなく、眠ることもない 」
私たちの人生の中に困難があっても神様はそれを全てご存知で、私たちのそばにいてくださいます。でも、それはどうやって分かるでしょうか?それは、神様が人間のために行った愛の業から分かります。神様は私たちを愛して、私たちを罪の悪い力から救うためにご自分の子、イエス様をこの世に送られて、十字架の上で身代わりに死なせたのです。そして、イエス様を三日目に死から復活させられました。このように神様は人間を罪の悪い力から救って下さって、人間と神様の関係をとり直してくださいました。このことから、神様は本当に神聖な方、私たちを救う力がある方と分かります。
私たちも詩篇121篇を書いた人と同じように天地を創造された神様に信頼していきましょう。
パイヴィ宣教師がイースター・マフィンを焼き上げた時ウサギのププちゃんがイースターエッグを持って教会に入ってきました。さて、これから何が起こるでしょうか?
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卵 2個 砂糖 1 dl 小麦粉 1 ¾ dl ベーキングパウダー 小さじ 1 オレンジマーマレード 大さじ1 溶かしたマーガリン 50g 生クリーム 1dl パインアップルジュース dl ¼ パイナップルスライス 1 ½ 枚 アーモンドダイス ½ dl
アイシング 粉砂糖 1dl 薄めたレモンジュース 大さじ2
1. 紙のマフィン・カップを鉄板の上に並べておく。 2. マーガリンを溶かしておく。 3. 小麦粉にベーキングパウダーを加えて、振るっておく。 4. パイナップルを細かく切る。 5. ボールに卵と砂糖を入れて混ぜる。 6. 5.のボールにオレンジマーマレードを加え、混ぜる。 7. ふるった小麦粉をパイナップルジュ-ス、2.のマーガリンと生クリームと交互に入れて軽く混ぜる。 8. 4のパインアップルとアーモンドダイスを加えて混ぜる。 9. 出来た生地をマフィン・カップに大さじで入れる。 10. マフィンを180℃のオーブンで15分くらい焼く。 11. 焼いたマフィンを冷ます。 12. アイシングを作る。粉砂糖に薄めたレモンジュースを少しづつ加えて混ぜる。 13. マフィンの上にアイシングで飾りをして、その上にトッピングをする。
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今日の礼拝出席者は26名でした。大勢の方をお迎えしてコロナに注意しながら主の復活の喜びを祝いました。
スオミ教会・家庭料理クラブは4月9日に再開しました。今回はイースター/復活祭に向けてヨーグルト風味のピーチケーキを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキの生地を作ります。ハンドミキサーで砂糖とマーガリンをよく泡立ててから他の材料を加えて生地はあっという間に出来上がります。その次は中身です。水切りしたヨーグルトに砂糖、レモン汁などを加えてクリーミーにし、缶詰めの桃を薄くスライスしておきます。ここで生地を型に伸ばしてその上に中身を注ぎ、トッピングとして桃のスライスをきれいに並べます。こうして出来た生地をオーブンに入れて焼き上げます。すると、美味しそうな香りが教会中に広がりました。ケーキは黄色に焼き上がりました。黄色はイースターの色とも言われます。ケーキを少し冷ましてから切って、参加者の皆さんと美味しく頂きました。
今回はピーチケーキの他にフィンランドのイースター・デザート、パシャ・クリームとクリシャ・パンも一緒に味わいました。
美味しく頂いた後で、パシャと最初のイースター/復活祭の出来事についてのお話を聞きました。
次回の料理クラブは5月に予定していますが、コロナ感染の状況を見て日程を決めます。教会のホームページにお知らせしますのでご覧ください。
良いイースターを過ごし下さい!
今イースター復活祭の日が近づいています。2週間の後はちょうどイースターの前の土曜日です。この季節になると、フィンランドの家庭ではイースターのお菓子、お菓子パン、ケーキなどを作ります。今日作ったピーチケーキはその一つです。黄色の桃は春の明るい雰囲気を表すので、春を迎える時に作るお菓子にピッタリ合います。フィンランドでは黄色はイースターの色とも言われるので、このケーキは特にイースターに向けてよく作られます。 イースターのお祝いは春なので前の年の夏に採って冷凍庫に保存していたイチゴやブルーベリーなどのベリーは残り少なくなります。そのため、ベリーの代わりに缶詰めの果物を使ってイースターのお菓子やケーキを作ります。
今日はもう一つのイースターのお菓子、パシャも味わってみました。パシャもピーチケーキと同じ材料、ヨーグルト、レモン、フルーツが入っています。これらはイースターのお菓子によく使われる材料です。 「パシャ」という名前は実は、フィンランド語ではなくヘブライ語から来た言葉で復活祭を意味します。パシャは元々はフィンランドのお菓子ではなく、ロシア正教会の人たちを通してフィンランドに伝わってきました。フィンランドの東にあるカレリア地方にはロシア正教会の人たちが多く、彼らを通してパシャはフィンランド全国に広がって1970年くらいから一般の家庭でもイースターのデザートとして作られるようになりました。今ではフィンランド人のイースターの食卓を飾るデザートの一つです。パシャはヨーグルトの他にバター、生クリーム、アーモンドなどが入っているのでカロリーが多いです。それで、イースターの前の40日間の受難節が終わった後で食べるデザートにピッタリかもしれません。
パシャを作る形も決まっていて、このような高いピラミッドの形です。形の意味は、昔イスラエルの民がエジプトで奴隷になっていたことを思い出させるという意味です。このようなピラミッドの形を作るための型もあります。その型には、アルファベットのXとBの文字が掘られています。この二つの文字の意味は「キリストは復活した」です。
パシャはこのまま食べるものではありません。イーストで発酵させた「クリツァ」Kulitsaという特別のパンを作ってその上にのせて食べるのです。
フィンランドのイースターの食卓の料理やお菓子を通しても、イースターが意味する「新しい命」ということがよく表わされます。イースター・エッグもその一つです。卵からヒヨコが生まれるので、卵は「新しい命」を表わします。フィンランドではチョコレートで作った卵型のお菓子も売っています。その中に入っている小さな飾り物やおもちゃは嬉しい驚きをもたらしてくれます。歴史初めてのイースターの時も嬉しい驚きがありました。
それでは、最初のイースターの日にどんなことが起きたでしょうか?聖書はこのことについて詳しく書いてあります。まずイースターの前にイエス様が苦しみを受けられたことが書いてあります。イースターの前の週の木曜日イエス様は、彼に反対する者たちに捕らえられて、沢山の苦しみを受けました。そして翌日の金曜日、イエス様は何も悪いことはしていなかったのに、十字架にかけられて殺されてしまいました。イエス様の遺体は十字架から下されて、布に巻かれて岩に掘った墓に葬られました。しかし、3日目の日曜日の朝イエス様は復活されたのです。
その日の朝、かつてイエス様の教えをよく聞いて従っていた女性たちがイエス様の墓に行きました。ところが、イエス様の体はもうそこにはありません。イエス様の弟子たちも墓に来て、遺体がないことを目撃して、誰かがどこかに持って行ってしまったと思って悲しく帰りました。しかし、マリアという女性は帰らずに墓の入口で泣いていました。その時、誰かが歩いてきました。マリアが後ろを振り向くと一人の男の人が立っていました。それはイエス様でした。しかし、マリアは最初なぜかイエス様だと分かりませんでした。イエス様はマリアに言われました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは答えて言いました。「あなたがあの方の体を運び去ったのですか?どこに持って行ったのか教えてください。わたしが引き取ります。」そこでイエス様はマリアを見つめて、「マリア」と言われました。マリアはその時はじめてイエス様であることに気づき、「先生」と言いました。マリアは、イエス様が「マリア」と言われた時にイエス様のことを分かったのです。
イエス様が十字架で死なれてからマリアと弟子たちは悲しみに沈んでいました。イエス様が一緒にいた時、彼らは幸せでした。しかし、今はただ寂しくて、これからどうなるか全然わからず、将来の希望もありません。マリアや弟子たちの喪失感はとても大きく、ただ静かなところで悲しんでいるだけでした。マリアはイエス様の墓の前で泣いていました。しかし、まさに希望がなくなっていた時にイエス様はマリアの前に立っておられたのです。神様はイエス様を死から復活させられたのです。イースターの前とイースターに起こったことは全て神様の計画でした。イエス様が罪と死に打ち勝って、その勝利に人間も与れるようにするという計画でした。マリアの深い悲しみは大きな喜びに変わり、彼女はイエス様の復活は本当にあったと人々に伝えることになりました。
私たちの人生にもいろんな試練があり緊急事態も起きます。そのような時、私たちはイエス様の姿を見ることは出来ませんが、イエス様はマリアと同じように私たちにも 「なぜ泣いているのか」と尋ねられます。イエス様は私たちの目を見て全ての答えが分かります。私たちのことを本当にわかって下さるイエス様は私たちを本当に愛してくださっているのです。私たちはこの神のひとり子を受け入れることが出来るでしょうか?
イースターの時、私たちはいろいろな美味しいものを用意して楽しい時を過ごします。これらも大事なことですが、イエス様が復活したというメッセージを通して本当のイースターの喜びが得られます。今年のイースターはイエス様のことを覚えてお祝いをしましょう。
先週金曜日(8日)子供向けのヴィデオ作成が行われました。吉村宣教師夫妻、ミリアム宣教師、富田姉、星野姉の皆さんがご奉仕されました。いまミリアムさんが編集中です、火曜日(12日)にHPに載せる予定です。