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今年は11月28日からクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントが始まります。 キリスト教会のカレンダーでは待降節第一主日は教会の新年の始まりです。 この日フィンランドの教会では教会讃美歌第1番「ダビデの子、ホサナ」を歌うことが伝統になっています。新年の幕開けにふさわしい元気溢れる讃美歌です。この日フィンランド全国でこの歌が響き渡ります。スオミ教会でも毎年歌っています。是非礼拝にいらして、時差7時間あるフィンランドに先駆けてご一緒に「ダビデの子、ホサナ」を歌いましょう!
「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)
東京も紅葉が深まる晩秋の11月24日、スオミ教会の手芸クラブが開催されました。
今回はマクラメのクリスマスツリーと編み物でした。クリスマスツリーは糸の長さを測ってから結び始めます。マクラメの二つの基本の結び方を用いました。二本の糸でスタートした後どんどん糸を増やしていくとツリーの枝は長くなっていきます。結びの途中で飾りのパールを入れて可愛らしいクリスマスツリーの出来上がりです。
編み物は以前始めたルームシューズの続きでした。好みの色で四角の形を16枚編み合わせると一足のルームシューズが出来ます。作り目を編んでから表網で編んでいきます。
参加者の皆さんにとってマクラメのテクニックは初めてだったのでクリスマスツリーは興味を引き付けました。編み物の方も四角の枚数はどんどん増えていきました。時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。そこで歓談の時を持ってから、マクラメや聖書の詩編の139篇についてお話がありました。
次回の手芸クラブは新年が開けた後の1月です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしております。
今日はマクラメのテクニックを使ってクリスマスツリーを作りました。マクラメのテクニックは簡単で糸を結ぶだけです。マクラメの結び方はいろいろありますが、基本の二三の結びだけ出来るようになると、いろんな模様がある商品、飾り物、バック、クッションなどが作れます。マクラメの結びが出来るようになると、もっといろんなものを作りたくなり、きっと夢中になると思います。
マクラメは古い手芸のテクニックで、1200年頃アラブ人たちが始めたそうです。1800年頃マクラメはイギリスで盛んになってヨーロッパ中に広がりました。マクラメはフィンランドでは1970年までよく作られましたが、その後しばらく忘れられたようです。2017年マクラメのテクニックがその年の手芸のテーマに選ばれて、注目され若者もマクラメの商品が好きになりました。
マクラメのテクニックで作った物は織物と似ています。そのせいか、私はマクラメのものが好きでいろいろ作っています。マクラメの結びを作っている時に一つの聖書の箇所をよく思い出します。それは旧約聖書の詩編の有名な箇所です。それを紹介したく思います。
「あなたは、私の内臓を造り母の胎内に私を組み立てて下さった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ深い地のそこで織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。」 詩編139編13-15節
この詩編のみ言葉から、私たち一人一人は天の神様の御手の業で造られたということが分かります。私たちは母の胎内から生まれましたが、織りなされたのは天の神様です。神様は私たち一人一人を愛を込めて造られて、同じような人間は たった一人だけで 他はこの世界にはいません。世界中の全ての人々は神様にとって価値がある人間です。私たちは、私たち自身のことは自分だけが一番知っていると思いますが、本当はそうではありません。神様は私たち一人一人を造られたので、私たちのことを私たちよりもよくご存じで、私たちが見えない骨までも知っています。
天の神様はこのように私たちのことをご存じですので、私たちも、わたしたちの造り主である神様を知ることが重要です。赤ちゃんが生まれると、親と赤ちゃんの良い関係を造るのは大事です。同じように私たち人間と造り主の天の神様の関係も重要です。天の神様はどんな方か、どのように私たちを世話するのかを知ると、人間と神様の関係は強くなると思います。良い関係があると私たちは神様に信頼することも出来ます。しかし私たちは神様と人間の関係の重要性を分からない時もあります。その時私たちは神様から離れて生活するようになります。そのような時はどうでしょうか。神様も私たちのことを忘れてしまうでしょうか。そうではありません。私たちが神様から離れても神様は私たちの近くにおられ、私たちが神様のもとに戻るようにいつも待っています。私たちは神様から離れることに気づくと、神様を見つけて神様の元に戻れることがいつでも出来ます。イエス様は新約聖書の言葉でこのように教えられます。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」マタイによる福音書7章7-8節です。
天の神様は私たち一人一人を愛を込めて造られました。それをいつも覚えて感謝しましょう。そのために神様との関係を忘れないで、神様を求めたり、探したり、門をたたいたりして行きましょう。
2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日礼拝説教(スオミ教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書18章33〜37節
お久しぶりです。もう何年振りでしょうか。スオミ教会がこの地に移転した時には来させて頂きましたが、まだこの会堂ではお話ししたことがなかったと思います。
今日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦としては、今年一年の最後の主日となる。ですので、聖書のテキストも、終末…、つまり世界の終わりに関わる箇所が取り上げられていました(毎年のことですが)。先週もそうでした。マルコ福音書にある「終末の徴」についてでした。そこでお話しした一部を、ここスオミ教会でもまずはじめにお話ししたいと思います。
言わずと知れたこのコロナ禍で、私たちは大変な生活を強いられました。もちろん、そうです。未曾有の出来事。多くの方々が職を失い、精神的にも追い詰められてしまいました。そのこと自体を決して軽視するつもりはありませんが、私の中ではどうしてもこういった問いが生まれてならなかったのです。このコロナ禍だけなのだろうか、と。ある方の一言が、そんな私の問いを後押ししてくれたようにも思います。「私は全然危機感を抱いていない。戦争はこんなものではなかった」、そう戦争を体験された方が告げられたからです。
繰り返しますが、決して軽視するつもりはありません。本当に大変な方々が多くおられるのも事実です。そういった方々に対するセーフティーネットをもっともっと拡充していく必要があるのではないか、それこそが政府・政治の役割ではないか、とも思う。私たちにも出来ることがあるのではないか、とも問われる。反省も無力さも感じる。そうです。本当にそうです。しかし、私自身は、どうしてももう一つのことに思いが向かうのです。私たちは「終末論」の信仰をどうも見失ってしまっていたのではないか。この「終末論」の信仰を伝えるのを怠ってしまっていたのではないかと、今更ながら反省させられてもいるのです。
「終末論」とは、世界の終わりのことです。この世界はやがて終わりを迎える。そこに向かって、戦争、天変地異、飢饉、迫害などの徴が現れる。そう聖書は語ります。確かにそれは、あまり触れたくないところです。しかし、「終末論」とは、それだけを伝えるのではありません。新しい世界の到来を告げるものです。その新しき世界とは、まさに愛なる神さまが御支配されておられる世界。救いの完成の時。死も苦しみも悩みも痛みもなく、全てから解き放たれて、祝福だけが満ち溢れている世界。そう、この世の労苦が報われる世界です。
現代社会の課題は、希望が見えなくなっているところです。非正規雇用は非正規雇用のまま、どうせ未来などない。こんな給料じゃ家庭なんか持てない。子どもなんて育てられない。どうせ先が見えているなら、何も変わらないなら生き続ける意味などあるのだろうか。そんな世界。気持ちが分からない訳じゃない。しかし、最初にお話した問いが私の中に浮かんでくるのです。このコロナ禍だけなのだろうか。人類の歴史とは、ずっとそうだったのではなかったか。むしろ、もっと過酷な世界を生きてきたのではなかったか。では、それらの人々は希望を持つことができなかったのだろうか。いいや、違う。たとえ、今は、この世では恵まれない人生だとしても、満たされない人生だとしても、不遇の人生だとしても、必ず救ってくださる方が、報いてくださる方がいてくださる。この私を、幸いな世界へと招き入れてくださる方がいてくださる。だから、耐えていける。我慢していける。今を生きていける。そういった希望があったのではないか、と思うのです。
もちろん、この社会はもっと改善されるべきです。弱者に優しい世界へと変革されるべきです。しかし、いくら社会が変わっても、どうしても恵まれない人は生まれてしまうのだと思う。だからこそ、その視点が、その信仰が今でも必要なのだと思えてならないのです。新しき世界を見つめる目が。今の労苦が必ず報われるという信仰が。
今朝の福音書で、イエスさまはこう語られました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」。ここについては、さまざまな理解の仕方があるでしょうが、要は、この世界であっても、あるいは新しき世界であっても、イエスさまの国は、この世とは全く一線を画するということでしょう。イエスさまの国は、この世とは相容れないもの。なぜならば、それは神さまの国でもあるからです。神さまが御支配されている世界。この私たちの世界は「武力」に代表されるように、弱肉強食の世界です。いくら社会が変革し、制度が変わっても弱者の上に強者が君臨するといった図式は変わらないのです。そこに、現代社会の歪みも起こっている。しかし、イエスさまが目指される国は、決してそうではないのです。イエスさまが目指される国は、99匹をたとえ野に残しておいても、見失われた1匹を探し求められる世界です。一人一人が真に尊重され、愛される世界です。だから、必ず報われるのです。たとえ、どんな些細なことであったとしても。たったいっぱいの水を差し出したに過ぎないとしても。
そのイエスさまはこうも語られる。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。ヨハネ福音書では、この「真理」という言葉がよく出てきます。それほど重視している、ということでしょう。では、「真理」とは何でしょうか。カトリックの雨宮神父はこのように語っておられました。「聖書にとって『真理』とは、『いつでも、どこでも通用する妥当な知識や認識』(おそらく、これが日本人が抱く「真理」の意味ということだと思いますが)というよりは、『堅固で、信頼ができ、永続するもの』を指します」。「真理」とは堅固・確かで、信頼ができ、永続するもの、つまり、イエスさまそのものであり、福音ということです。
先ほど、ヨハネ福音書ではこの「真理」という言葉が多用されていると言いましたが、皆さんはこの言葉も思い浮かべられたのではないでしょうか。ヨハネ14章6節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である』」。ここでイエスさまは、ご自身で「わたしこそが真理である」と言っておられる訳です。しかし、注意していただきたいのは、この言葉には続きがある、ということです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われていることです。先ほどの「道」「真理」「命」はよく耳にしたり目にしたりしますが、個人的にはこの句が外されていることに大変違和感を感じています。ともかく、イエスさまはご自身のことを、神さまへと通じる道であり、真理であり、命なのだ、と告げておられる、ということです。そうです。イエスさまを通してでなければ、私たちは本当の神さまのお姿には出会えないのです。神さまのお姿がボケてしまうか、間違えてしまうか、だけです。
今日の福音書の箇所は、イエスさまが十字架にかかられる前の裁判の席でのことでした。つまり、「真理」である方がこれから十字架の上で死なれるのです。そして、三日目に復活なされる。それが、私たちを唯一神さまの御許へと導いてくださる「真理」である方なのです。この方が示される「終末」だからこそ希望が持てる。この方が約束してくださった新しい世界だからこそ待ち焦がれることができる。この方がご自身の身をもって明らかにしてくださったからこそ、私たちは忍耐していける。必ず報いられることを信じて励んでいける。現実の中をも生きていける。そうではないでしょうか。
私たちは、もう一度、苦難の中に生きた人々が仰ぎ望んだ希望の世界を見つめ直したいと思うのです。そして、この世界の中だけでは希望を見出せなくなってしまっておられる方々に、少しでもこの希望を届けていければと願わされています。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
クリスマスの準備も済みました。
11月のスオミ教会・料理クラブは13日と18日の2回、両日とも秋の爽やかな陽気の中で開催しました。今回はフィンランドのカフェでもよく見かけるサーモンパイです。
初めに、いつものようにお祈りをしてスタート。まず、パイ生地を作ります。
それを冷蔵庫で寝かせている間、パイのトッピングを作ります。焼いたサーモンをほぐし、他のトッピングも準備します。ディルを細かく刻むと香りが漂い出来上がりがますます楽しみになります。パイ皿に生地を伸ばして、その上にサーモンをたっぷりのせてトッピングを流しこんだ後オーブンに入れます。オーブンからサーモン、生地、ディルの合わさった豊かな香りが広がりました。
焼き上がったパイを切ってお皿にサラダと一緒にのせてみんなで美味しく楽しく味わいました。そこでフィンランドのお魚と聖書に出てくる「漁師」についてお話がありました。
次回12月11日はもう待降節・アドベントの期間です。それでフィンランドのクリスマスのお菓子を作ります。
詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしております。
フィンランドは湖や川がたくさんある国です。湖や川の魚の種類は多く、魚釣りが好きな人も多いです。昔、魚釣りは趣味ではなく、食料を得るための仕事でした。それで、魚釣りはどの家庭でも行われ、魚は一番よく出されたおかずでした。
時代は変わって、魚は家で捕るものではなくなって店で買われるようになりました。その頃から海で捕れるいわしが食べられるようになりました。いわしは沢山捕れたので安く買えました。まだ冷蔵庫がない時代には、秋に家庭でいわしを沢山買って、塩づけにして保存して、冬中ずっと食べていました。私の子供の頃も家でいわしを塩づけにして保存して何か月も食べていました。残念なことに、現在いわしを食べるフィンランド人は少なくなり、一年に一人当たり300gだけ食べるそうです。近年トゥルクやヘルシンキでは秋になるといわしの市場が開かれるようになって、そこではいわしだけでなく他の魚で作った料理や保存食も売っています。このいわし市は、冬に向かうフィンランドの秋の大きなイベントになって沢山の人が訪れます。
今フィンランドではどんな魚がよく食べられるでしょうか?まず、湖や川で捕れる白身の魚がよく食べられます。海の魚ではいわしとニシンとサーモンがよく食べられますが、一番よく食べられるのはサーモンです。サーモンはフィンランドで養殖したものか、ノルウェーの海で捕ったものかのどちらかです。サーモンは昔は高価な魚だったのでクリスマスのようなお祝いの時にしか食べられませんでした。しかし、今では普段の日にもよく食べられるようになりました。サーモンを使った料理のなかで、サーモンスープが伝統的なものですが、オーブンやフライパンで焼いたり、スモークサーモンにしたり、生のものを塩漬けにしたりして食べます。
私は、日本のお店で売っている魚を見て、種類の多さにびっくりします。フィンランドの普通のお店で生で売っている魚の種類は少なく、いわしとサーモンとあと何か白身の魚が1種類くらいあるだけです。日本の方がフィンランドに旅行すると種類の少なさにきっとびっくりするでしょう。
さて、聖書の時代にも魚はよく食べられていて、漁師は普通の職業でした。今日はこれから聖書に出てくる漁師についてお話ししたいと思います。
ある日イエス様がゲネサレト湖という湖にやってくると、2人の漁師が舟からおりて、網を洗っているのを見かけました。そのとき、大勢の群衆がイエス様の教えを聞こうとして、彼の周りに集まって来ました。イエス様は漁師のシモン・ペテロの舟に乗って、少し岸から離れた場所まで行って、そこから岸辺にいる群衆に向かって神様について教えました。
話し終えてからイエス様はペテロに「舟を少し冲に漕いで、そこで網を下ろしてみなさい」と言われました。ペテロは、「先生、私たちは夜中苦労しましたが、何も捕れませんでした。しかしお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えました。ペテロは漁師なので魚のことはよく知っていました。もし夜魚が捕れなかったら、昼はもっと獲れない、と思ったでしょう。それでもペテロは、イエス様の教えをいつも聞いていてイエス様を尊敬していたので、言われた通りにしました。するとどうでしょう。信じられないことが起こりました。網が破れそうになるくらいに大量の魚がかかって、その重さでペテロの乗っている舟ともう一そうの舟は沈みそうになりました。
ペテロはこれを見て、どう思ったでしょうか?彼はイエス様の足元にひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです。」ペテロはお礼を言うどころか、こう言ったのです。どうしてでしょうか?この時ペテロは、今起こったことは神様の力で起きたと信じたのです。それで自分の前にいるこの方は神聖な神のみ子で、この方の前では自分など罪深い者にすぎない、とわかったのです。それで「私は罪深いものなので、どうか私から離れてください」と言ったのです。しかし、イエス様はペテロから離れないで、次のように言われました。「恐れることはない。これからは、あなたはこれからは、あなたは人間をとる漁師になる。」そこでペテロは舟を陸に上げて、イエス様は神様の子だから信頼して大丈夫な方だと信じて、全てを捨てて従って行きました。ペテロはイエス様の弟子の一人になったのです。
このようにペテロはイエス様と出会って、イエス様に従って行きました。私たちもイエス様と出会うことができます。それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時にできるのです。聖書のみ言葉を読んだり聞いたりすると、私たちは神様のみ前では罪深いものであることがわかります。しかしイエス様は私たちから離れないで、一緒にいて下さるのです。どうしてでしょうか?それは、イエス様は私たち人間を救うためにこの世に来て下さったからです。私たちは神様の計画によって、天の神様のみもとに行くことが出来るようになります。それはどんな計画でしょうか?私たちが罰を受けないようにと、イエス様は私たちのかわりに十字架にかけられて死なれました。それから三日目に復活させられて天に昇られました。これが神様の計画です。神様はイエス様の十字架のおかけで私たち人間を許して下さるのです。このように神様の人間に対する愛は罪を赦す愛なのです。
イエス様はペトロだけでなく私たちにとっても信頼して大丈夫な方です。ペテロが見たような奇跡を私たちも見ることが出来るかどうかは分かりません。しかし、イエス様が十字架の業を受け入れてイエス様を救い主と信じると、神様のみもとに迎え入れてもらえるというのは確かなことです。イエス様は十字架の業を世界の全ての人々のために成し遂げて下さいました。それで私たちもそれを受け取ることが出来るのです。「あなた方をお招きになったなった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」テサロニケの信徒への第一の手紙5章24節です。イエス様は私たち一人一人を愛して下さり、ご自分に従ってついてくるように、と招いて下さいます。
フィンランドでは11月の最初の土曜日は「全聖徒の日」という国の祝日です。キリスト教の伝統に基づく祝日です。 キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は昨日11月6日でした。
その日フィンランド人は何をするかと言うと、大方の人は教会の墓地にロウソクを持って行って火を灯します。風で消えないようにガラスの瓶に入っているロウソクです。日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランドでも墓に花を飾るので、ああ、キリスト教徒も供え物をするんだな、と日本人は考えます。宗教は違っても人間の思いは同じなんだな、と。確かに表面上はそう見えますが、実はフィンランド人には「供える」という意識も感覚もありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、何かを唱えたり、または見えない誰かに何かを呟くこともしません。墓はあくまで家族の記念碑のようなものです。表面上の類似性の下には途方もない違いがあるのです。
どうしてそうなのかについては後ほどの説教の中でお話しします。
「全聖徒の日」にフィンランド全国の教会墓地は全てと言っていいほど墓の前にロウソクが灯されます。白夜の季節が終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「白い衣を着けた大群衆」を思い起こさせます。これから歌います教会讃美歌496番「白雪おおえる」は、まさにその白く輝く大群衆について歌うものです。北欧ノルウェーの讃美歌で作曲家グリーグの編曲によるものです。
次回の手芸クラブはマクラメのテクニックを使ってクリスマスツリーを作ります。
前回の刺繍飾りや編み物ルームシューズの続きも行うことができます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
材料費 作るものによって500円-1000円
人数制限がありますので、ご注意ください。
お子さん連れの参加も歓迎です。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1745360502iamg@1745360502arumi1745360502hsoy.1745360502iviap1745360502 03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・ キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町 511-4-106 www.suomikyoukai.org
この秋初めての手芸クラブが10月20日爽やかな陽気の中で開催されました。前回5月の開催から5ヵ月近く経ってしまいましたが、前回の参加者たちが参加されて長い空白を感じさせませんでした。
今回の作品は刺繍と編み物でした。刺繍は、春に始めたフィンランドのカレリア地方の伝統的な細かい刺繍の続きです。クロステージのテクニックを使って濃い青と赤の毛糸の模様がどんどん形になっていきました。
編み物は以前始めたルームシューズの続きです。好みの色で四角の形を16枚編むと一足のルームシューズが出来ます。作り目を編んでから表網で編んでいきます。四角の編み物はどんどん増えてきました。
おしゃべりをしながら楽しく作業しているうちに時間はあっという間に過ぎて、コーヒータイムに入りました。そこでパイヴィ宣教師からフィンランドの秋や聖書に出てくる「平安」についてお話がありました。
次回の手芸クラブは11月24日です。刺繍、棒網、かぎ針編みなど、各自のお好みの手芸を行います。
詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。 皆さんのご参加をお待ちしております。
今年の夏私はよく森に散歩に行ってフレッシュな空気を吸って自然の中で静かな時を多く過ごしました。これは良い力の回復になりました。フィンランドは早く秋に変わってもう9月の始めから木や低木の葉っぱの色は変わり始めて9月の中ごろは紅葉がとてもきれいでした。今年の夏は雨の日が少なかったせいか、葉っぱはよく黄色、オレンジ、赤に変わりとてもきれいでした。私はフィンランドの紅葉を11年ぶりに見ることが出来て本当に良かったと思いました。フィンランドは秋になると夏の賑やかな雰囲気は消えて静かな雰囲気に変わります。これも久しぶりの経験でした。
私は静かな秋が好きです。9月散歩した時、きれいな紅葉、自然の香りと穏やかさを通して心の中で平安を感じて、心と体のリフレッシュになりました。自然を通しても、天と地と人間を造られた神様は私たちをケアし新たな力を与えてくださいます。それで自然の中で心の平安を感じることが出来ます。
ところで、心の平安とはどんな事でしょうか?日々の生活の中に何か試練があると心の平安なんか簡単に消えてしまうと思います。そうすると私たちはどんなことがあっても消えない平安など持てないのでしょうか?
新約聖書にある「フィリピの信徒への手紙」は消えない平安について教えています。
「どんなことがあっても、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち開けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」 フィリピの信徒への手紙4章6-7節です。
このみ言葉はあらゆる人知を超える「神の平和」について言っています。
私たちは試練があると、落ち着かない心になってしまいます。しかし、このみ言葉は、そのような時に私たちはすべてのことを神様に祈りを通して打ち明けなさいと言っています。一人で思い悩むのではなく、神様に打ち明けて、それだけ神様を信頼していれば、神様は必ず導いてくださいます。その導きは、私たちが期待したものと違うことがよくあります。しかし、神様は私たちに一番良いことを与えてくださる方なので、期待したことと違っても、後になってそれで良かった、神様は本当にずっと私のことを考えて見て下さっていた、とわかります。
このように神様は私たちの願いにすぐ答えて下さるか遅く答えるか、すぐにはわからなくても、神様は必ず聞いて下さり導いて下さると信頼する人は心に消えない平安があります。この平安は私たちの中から出てくるものではないし、自然から得られる平安でもありません。それは神様と平和な関係にある人が持てるものです。神様と平和な関係は、神のひとり子のイエス様が与えてくださいます。どのようにして与えて下さるのでしょうか?
イエス様は神様について人々に教え、また困っている人や苦しんでいる人たちを奇跡の業で助けました。イエス様は十字架にかけられて死なれましたが、それは、私たち人間が持っている、神様の目から見て悪いことを全部背負って、私たちのかわりに神様の罰を受けられたのでした。しかし神様は、イエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命への道を私たちに開かれました。それで、イエス様を救い主と信じると罪が赦されて、神様との間に平和な関係が生まれるのです。これは神様がイエス様を通して与えられた平和です。
イエス様を救い主と信じるとイエス様は私たちの心の中に留まります。その時、私たちは神様と平和な関係にあるので外は嵐でも心には平安があります。イエス様は世界じゅうの人々の心の中に留まることを願っています。イエス様が心の中に入れるように私たちが心を開くことは大事です。フィンランドのゴスペルソングの一つに、「私たちが心を開けば、イエス様はそこに住む家を建てるのだ」という歌があります。イエス様が私たちの心の中に家を建てて住むようになれば、私たちはどんなことがあっても消えない平安を持って生活することが出来ます。
次回の手芸クラブは刺繡です。
クロステージのテクニックを使って室内飾りを作ります。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう! 。
材料費: 500円
お問い合わせ、お申込み moc.l1745360502iamg@1745360502arumi1745360502hsoy.1745360502iviap1745360502 電話 03-6233-7109
日本福音ルーテル スオミ・キリスト教会、東京都新宿区鶴巻町511-4-106
礼拝を見る
司式・説教:T.ハブカイネン宣教師
アシスタント:マリ・リーサ
聖書の箇所:ハブカイネン先生のメールには記載されていませんが週報ヘルパーでは。
第1の日課 エレミヤ書 23章1-6節 〈旧約1218頁〉 第2の日課 エフェソの信徒への手紙 2章11-22節 〈新約354頁〉 福音書 マルコによる福音書 6章30-44節 〈新約72頁〉です、以上参考まで。
讃美歌:244、238、131,467
説教題:「未来と希望」
祈り・聖書日課:パイヴィ・ポウッカ 宣教師
聖書日課:アモス 7:7-14、エフェソ 1:3-14、マルコ 6:14-29
賛美歌:188 371:2 154 198
音楽:マルッティ・ポウッカ
ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ