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静かに雨が降る梅雨の最中の6月28日に手芸クラブを開きました。雨雲のため外は少し暗かったでしたが、会場となった教会の2階はライトの光で明るくなりました。
手芸クラブは、最初にお祈りをして始めます。
今回の作品は、つまみ細工です。はじめに作品のモデルを見て、どんなつまみ細工を作りたいのかを考えます。きれいな色や模様の布を沢山並べると、どれも作ってみたくなり、選ぶのが難しくなりました。布と形を選んで、それから作り始めます。楽しく話をしながら、花びらが少しずつ増えていき花の形になっていきます。時々参加者のお子様の声も聞こえます。そうしているうちに、子供に可愛いカラフルなクルミボタンも出来上がりました。一人一人違う色と形の花を作って、素敵な髪飾りやブローチの出来上がりです。
片つけをしてからコーヒータイムに入ります。そこで、フィンランドの春と初夏の花の紹介と聖書のお話がありました。
「今日は、つまみ細工できれいな花の形の髪飾りやブローチを作ったので、フィンランドの春と初夏の花を少し紹介したいと思います。
3月と4月、まだ雪が全部溶けてない時に咲き始める黄色い花はEsikkoという花です。これは太陽がよく当たる道端や水路の周りで咲きます。この花を見ると、長い冬を超えて、やっと春になったと、ほっとした気持ちになります。
エシッコの次にSinivuokkoという花が咲きます。シニヴオッコは春、雪が溶けても、まだ夜は氷点下になる時に咲き始めます。それは四月の終わり頃です。それはまだ地面や木に緑がない時です。私はこの花の濃い青い色が大好きです。そしていつも不思議に思うのは、生命が感じられない茶色だけの地面からきれいな花が咲いてくることです。この花が咲く森の地面はあちこちで青く輝きます。
その次にValkovuokkoという花が咲き始めます。これはシニヴオッコと似ていて親せきの花です。Valkovuokko はフィンランドの南の方によく咲きますが、最近は気候は暖かくなったために北の方でも咲くようになりました。特に5月の第2日曜日の母の日にきれいに咲きます。その頃、森の地面はこの花で真っ白になります。
Kieloすずらんは5月の終わりから咲き始めます。すずらんはとても香りの良い花で、フィンランド人が大好きな花です。この花はフィンランドの国の花、国花になっています。この花は小さなすずの形をして、とてもかわいいです。
Tuomiというかんぼくに咲く花があります。それは時々木のように高く育ちます。Tuomiは学校が終わって夏休みに入る頃、6月の初めに咲きます。かんぼくは咲いている花が一杯になり、とてもきれいです。花の香りは強く、遠くまで拡がります。
りんごの木の花はTuomiと同じ時に咲きます。りんごの花が咲く時には葉っぱはまだありません。それで、少し桜と似ています。花の色は白かピンク色で、香りもとてもいいです。
Syreeniというかんぼくもあります。Syreeniは昔から家の庭に植えられてきたかんぼくです。私の実家の庭にも、子どもの時から今まだきれいに咲いているSyreeniがあります。Syreeniはとても長く持ちます。花の色は紫か白です。この花は夏至祭、ユハンヌスの頃に咲きますので、、ユハンヌスの花の一つです。
ユハンヌス・ルースというバラもあります。これもユハンヌスの頃に咲いて、バラの香りは遠くまで広がります。
日本にもきれいな花が沢山咲きます。私が不思議に思うのは日本で花が咲くのは春、夏だけではなく、1年中それぞれの季節の花が咲くことです。それもとてもきれいだと思います。
このように花は私たちを喜ばせてくれますが、これも神様が造られたものです。万物は神様が造られたものだからです。花は美しいですが、美しさは長く持ちません。しばらくすると枯れてしまいます。旧約聖書のイザヤ書には「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが私の神の言葉はとこしえに立つ」と書いてあります。 私たちはこの世で評価されるものを価値あるものとして求めると思います。私たちが求めるものはどんなものでしょうか?それは時代によって変わると思いますが、財産、お金、評価される仕事、若くいられること、美しさ、などが価値あるものと考えられているでしょう。これらのものを得られたら、とても幸せと思われるかもしれません。このような価値観はどうでしょうか?こうしたものは、いつかは失うことになってしまうのではないでしょうか?変わることのない価値あるものはあるでしょうか?どうすればそれを得られるでしょうか?
今読んだイザヤ書には変わらない、いつまでも続く価値あるものについて書いてありました。それは聖書に書いてある神様のみ言葉です。聖書のみ言葉は時代が変わっても変わらないものです。み言葉を通してイエス様を信じる信仰が生まれます。「神が永遠の命を私たちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子に結ばれている人にはこの命があります」と、「ヨハネの第一の手紙」5章に書いてあります。イエス様と結ばれている人は、今のこの世でも、またこの世の後の次の世でも、いつも永遠に神様が一緒にいて下さるようになることが出来ます。
きれいな花を見ると、それを造られた創造主の神様に感謝の気持ちが起きてきます。そして、神様のみ言葉が心の中に入れば、もっと大きな感謝に満たされて、今のこの世と次の世をずっと生きる力が与えられます。」
次回の手芸クラブは秋になります。詳しくは教会ホームページの案内をご覧ください。
梅雨入りしたのに、ギラギラの太陽が輝く土曜日の午後、今年度前期最後の家庭料理クラブは「Munkki」を作りました。
プッラ生地で作るイーストドーナツは、オーブンを使わずに作れるので、暑いシーズンやオーブンのないお宅でも、作れるフィンランドのおやつです。
最初に、吉村先生のお祈りでスタートしました。今回は10ヵ月の赤ちゃんや小学生のお嬢さんの参加もあり、計量や生地作り、発酵へと賑やかに作業が進みました。
リングの成型に歓声があがったり、丁重に揚げていく作業に、納得されたりして、Munkkiは完成しました。
試食タイムは、パイヴィ先生が用意してくださった、フィンランドの自家製レモナードSimaと一緒に、Munkkiを頬張りました。
パイヴィ先生からは、 フィンランドのVappu、メーデーやユハンヌス、夏至祭の楽しい様子を聞かせて頂きました。
・・・「もう一つユハンヌスの伝統的なことを紹介したいと思います。これは毎年ユハンヌスの礼拝で歌われるきれいな賛美歌です。この初夏の賛美歌の最初の1番から3番は北欧の初夏の美しい自然や渡り鳥について歌われます。私はこの賛美歌を歌うと一つ聖書の箇所を思い出します。それはマタイによる福音書6章26節から34節までです。この箇所でイエス様は、神様が私たちをどのように見守って養って下さるかということについて教えます。神様は、働きもしない花や鳥にも生きるための必要な食物を与えてくださいます。神様はまた、人間にも必要なもの、ご飯、飲み物、衣服などを全部与えてくださいます。それで、私たちに与えられる生活の必要なものは全て神様からの贈り物です。ご飯や住まいや衣服などは私たちにとって当たりまえのようになっていて、神様に感謝することなど忘れてしまいます。でも、神様はどうして私たちをこのように守ってくださるのでしょうか?それは、私たちが神様のことを知るようになって、信じるようになるためです。神様が私たち人間をどれほど愛して下さっているか、それを神様は全世界の人々に伝わってほしいと思っています。
生活に必要な良いものは、いつかは無くなるかもしれません。しかし、神様と人間の間に、死を超えて永遠に続く繋がりができる可能性があります。そのような神様と人間の繋がりはどのようにして得られるでしょうか?それは、神様の子イエス様の十字架や復活の出来事を通して得られます。イエス様は私たちの罪を全部十字架の上に背負って持って行って下さって、そこで死なれました。しかし、3日目に死から蘇られました。この出来事のおかけで、私たちの罪が全部許されて、この世の中でも、またこの世の次の世でも、いつも永遠に神様が一緒にいてくださるようになりました。このように神様は本当に人間を愛して下さっているのです。
賛美歌「花咲き誇る季節来たり」は多くのフィンランド人にとって懐かしい、安心感を与える歌です。しかし、イエス様を通して得られる神様との繋がりはもっと深くて長く、永遠まで続きます。この繋がりを神様は私たちに贈り物としてくださいました。これらのことを神様に感謝していきましょう。」
参加の皆様、お疲れ様でした。次回の家庭料理クラブは、 9月16日(土曜日)を予定しています。
5月14日日本福音ルーテルむさしの教会にて「いずみの会」(むさしの教会、スオミ教会、市ヶ谷教会から構成)の合同修養会として、吉村博明宣教師による講演会が催されました。以下は、その要旨です。
2017年5月14日 いずみの会(スオミ教会、むさしの教会、市ヶ谷教会)合同修養会
SLEY(フィンランド・ルター派福音協会)宣教師・吉村博明
講演会の要旨、PDFファイル
― 教会史の視点北欧の宗教改革の推進者たちの神学や教義の分析ではなく、教会史として論じる。もちろん北欧諸国の一般史の知識も重要。― 試論、序説として北欧史の講座のある大学でも教会史を扱うところはあまりないのではないか?また神学部や神学校でも、北欧に特化した講義はあまりないのではないか?おそらく稀な試みなので叩き上げられておらず、至らない部分がある。よりよいものは後日に期す。― スウェーデン・フィンランドが中心講演者が北欧の言葉はスウェーデン語とフィンランド語しか出来ないため(ニューノルスクは音読してスウェーデン語から推測する読み方になってしまい時間がかかってしまう)。
― 北欧の「先進性」についてのいくつかの指標 ― 各国幸福度ランキング(国連持続可能開発ソリューションネットワーク)2017年発表 1位 デンマーク 3位 アイスランド 4位 ノルウェー 5位 フィンランド10位 スウェーデン (日本は46位)
― 1人当たりGDP名目/購買力(USドル2016年)3位 ノルウェー(70,392) /7位 ノルウェー(69,249)7位 アイスランド(59,629)/17位 スウェーデン(49,836)9位 デンマーク(53,744) /18位 アイスランド(49,136)17位 フィンランド(43,169)/29位 フィンランド(42,165)(日本は38,917ドルで22位)/(日本は41,275ドルで30位)⇒ 意外なことにGDPは、福祉国家の北欧諸国も「経済大国」の日本もそれほど高くない。ただし、北欧の場合は残業はせず、1カ月以上の夏休みを取ってこの結果。日本の場合は長時間労働で休みもなくてこの結果。
― 報道の自由度(Reporters without Borders – press freedom index)2017年発表 1位 ノルウェー 2位 スウェーデン 3位 フィンランド 4位 デンマーク10位 スウェーデン(日本は10年位前は11位だったが、今年発表では72位)
― 男女平等ランキング(WEF The Global Gender Gap Report) 2016年 1位 アイスランド 2位 フィンランド 3位 ノルウェー 4位 スウェーデン 19位 デンマーク (日本は111位)
― 国会の女性議員割合ランキング(列国議会同盟)2016年 6位 スウェーデン(43,6%) 8位 フィンランド (42,5%)11位 アイスランド (41,3%)13位 ノルウェー (39,6%)17位 デンマーク (38%) (日本は11,6%で147位)
― 北欧諸国の「ルター派性」について 各国のルター派「主要」教会の正式名称と信徒(洗礼を受けた者)の国民に占める割合 ― スウェーデン Svenska kyrkan(スウェーデン教会) ⇒ 63,2%(2015年) ― フィンランド Suomen evankelis-luterilainen kirkko/Evangelisk-lutherska kyrkan i Finland(フィンランド福音ルター派教会) ⇒ 71,9%(2017年1月1日) ― デンマーク Den Danske Folkekirke(デンマーク国民教会) ⇒ 76,9%(2016年) ― ノルウェー Den norske kirke/Den norkse kyrkja (ノルウェー教会) ⇒ 71,5%(2016年) ― アイスランド Hin evangeliska lúterska kirkja/(the National Church)(アイスランド福音ルター派教会/国民教会) ⇒ 71,6%(2016年) ⇒ 各国とも国民の60~70%がルター派教会の洗礼を受けた教会員。教会員数600万の「スウェーデン教会」は世界第二位、欧州最大のルター派教会。
⇒ 一見すると北欧諸国の「先進性」と「ルター派性」は何か関係がありそうに見える。「ルター派」だから「先進的」?「ルター派」には社会を「先進的」にする何かがある?果たしてそうか?
― 各国のルター派教会の近年の動向および各国民の教会に対する態度 ― 各国とも最近30年の間、教会所属率は90%台から減少し、歯止めがかからない。 ⇒ スウェーデン、フィンランドの1980年の所属率は、それぞれ92,9%、90,3%。デンマークは1984年に91,6%、ノルウェーは2000年に85,9%、アイスランドは1998年に90%。 ― 同様に各国とも新生児に対する洗礼が減少している。 ⇒ フィンランド全国で2010年は80%、2016年は69,5%の新生児が洗礼を受けた。ヘルシンキ監督区では2006年に61,7%だったが、2016年は42,7%。市民の非キリスト教化が進んでいる。 ― 規則正しく主日礼拝に通う信徒はどこの国も10%以下。 ― 教会に所属する信徒でも、世論調査から、自分の都合や好みで所属する態度「教会が教えるようには信じない」が明らかに。
― 北欧各国人のアイデンティティーの構成要素としての「ルター派性」 ― かつて国民の90%以上がルター派教会に属していた頃は、属していないと「普通の」スウェーデン人等々に見なされない雰囲気があったと思われる。スウェーデン人等々であればルター派教会に属するのが当たり前というような。 ― 仮に各国人のアイデンティティーの構成要素を①母語、②北欧 の「先進性」に対する誇り、③ルター派キリスト教徒の3つとすると、③が弱くなってきていると言える。教会所属率がこのまま減少すれば、いつかはルター派教会に属していなくとも、「普通の」スウェーデン人等々でいられることになり、構成要素は①と②だけになるのではないか?
⇒ 「ルター派性」が「先進性」をもたらすというような関連性は、少なくとも近年は見られないのではないか?安易な結びつけは禁物。 ― 最近の「先進性」の例として、同性婚の承認とそれぞれの教会の対応について。 ― 北欧各国は2000年代に入って、同性婚を認める法律を制定。その後を追うようにして各国の教会も認める決定をした(フィンランドは今年春の教会会議にて審議入り)。 ― スウェーデン教会ストックホルム監督区のエーヴァ・ブルンネ監督は世界初の女性かつ同性愛者の教会監督として知られるが、クリスチャン・トゥディ紙(ネット版2015年10月9日付)によると、ストックホルム市内の教会から十字架等キリスト教シンボルを撤去すべきと提言。理由はイスラム教徒の気分を害するから。
⇒ もし、国と教会が「先進的」であることが、同時に国民の大多数が過去同様に教会に属し、かつ「自分の都合」でなく「神の都合」に合わせて神を信じるのであれば、国や教会の「先進性」は「ルター派性」と関連があると言えるだろう。しかし、少なくとも教会所属率が減少しているこの30年間はそういう関連性は見られない。
― 北欧のキリスト教化― 中世カトリック教会での教会生活 ― カルマル連合(1397-1523) デンマーク、スウェーデン(フィンランド)、ノルウェーの同君 連合
― 経緯 1522 「ストックホルムの血浴」事件1523グスタフ・ヴァーサ、国王に選ばれる。カルマル連合終わる。 1526 スウェーデン語訳の新約聖書 1527 ヴェステロース議会の決定及び国王令 ― 教会財産の没収、教会は王権に服することに。国教会としてのルター派教会の歩みが始まる。 1529 オーレブロー会議1531 ラウレンティウス・ペトリ、初の非カトリックの大司教(大 監督?)に就任。按手式を執行した司教がローマ法王の按手 を受けた者だったので、ペトロ以来の「使徒承継」は保持さ れることに。 ⇒ 「司教」、「監督」という用語について。日本語では異な る言葉に訳仕分けるが、英語、スウェーデン語、フィンランド語は皆同じ言葉(bishop, biskop, piispa)である 1536 教会会議 ― スウェーデン語ミサが義務化、聖職者の独身制廃止 1541 グスタフ・ヴァーサ版聖書 1544 ヴェステロース議会の決定 ― スウェーデン全土は「福音的/福音主義的」と宣言 ⇒ 「福音的」、「福音主義的」という用語について。北欧のキリスト教のコンテクストでは、聖書に基づかない伝 統や慣習や制度には権威を認めないという意味合いが強 く、その意味で「非カトリック」ないし「プロテスタント」と同義。現代アメリカの「福音派」と同一ではない。 1593 ウプサラ会議の決定 ― 国教会は、国王の信仰に関係なく福音ルター派であり続ける。 ― カトリック的伝統への対応、ルター派の教義の解釈・理解をめぐる対立の解消をはかる。 ― 聖書が全ての土台、聖書自体にない事柄を付け加えてはいけない。国教会の信条集を採択。 フィンランドの動向 1530年代 改革志向の司教シュッテが優秀な若者をヴィッテンベ ルグ大学に送る。その一人がミカエル・アグリコラ。 1548 年 アグリコラの手によるフィンランド語訳新約聖書 1554 年 アグリコラ、グスタフ・ヴァーサ王によりトゥルク監督 区の「監督」に任命される。
― 経緯 1536 クリスチャン3世のもと、デンマーク-ノルウェーはルター派と宣言。教会財産を没収。法王側にとどまった司教、聖職者は投獄、国外追放。 1537 ヴィッテンベルグ大学のルター派神学者ヨハンネス・ブーゲンハーゲンがデンマークにてルター派教会の組織化、制度化を進める。
― スウェーデン 1660年代、議会がLiber concordiaeを王国の信仰の基礎に定める。 1686 議会が制定した教会法の中に、使徒、二ケア、アタナシウス三信条、アウグスブルグ信条、1593年のウプサラ会議の決定に加えてLiber condordiaeを国教会の信条集に定める(つまりはLiber concordiaeとウプサラ会議の決定ということ) ― フィンランド スウェーデン王国の一部なので上に倣う。1809年にロシア帝国の大公国となった後、1869年議会が制定した教会法では上記からウプサラ会議の決定が除外(つまり、Liber concordiaeのみということ) ― デンマーク、ノルウェー デンマーク王はLiber concordiaeに署名せず。それで、両国教会の信条集は、使徒、二ケア、アタナシウス、アウグスブルグ、ルターの大小教理問答書のみ。
スウェーデン ― オラウス・ペトリ― ランレンチウス・ペトリ― ランレンチウス・アンドレア
フィンランド― ミカエル・アグリコラ(「フィンランド語の父」)
(1) ルター派正統主義の時代(1600年代)
(2) 啓蒙時代と敬虔主義(1700年代)
(3) 神学の多様化とリバイバル運動(1800年代以降) ― 1809年 フィンランド、スウェーデン王国からロシア帝国の自治的「大公国」として同帝国に編入 ― 1814年 ノルウェー、デンマーク統治からスウェーデン王国と同君連合に ― スウェーデンとフィンランドにおける敬虔主義的なリバイバル運動に対して、それから決別する形で、フィンランドに「福音主義的」ルター派のリバイバル運動が誕生。1873年に「フィンランド・ルター派福音協会(SLEY)」を結成。敬虔主義が信仰の「主観化」を目指したのに対して、福音主義的ルター派は、イエス・キリストによって打ち立てられた救いを「客観的」なものとして信仰を捉えなおした。
(4) 岐路に立つ北欧のルター派国教会(現代)
― 1905年 ノルウェー、独自に国王を選出してスウェーデンから独立 ― 1917年 フィンランド、国家権力を議会に移譲する法律制定。ソヴィエト・ロシアが離脱を認めて独立。一時君主制を目指すが、1919年に共和国憲法を制定 ― 1944年 アイスランド、デンマークとの同君連合を解消して共和国として独立 ― 国家権力との結びつきをやめる方向 ― スウェーデン 2000年に国会が関与する「教会法」の制度を廃止して、教会会議が決定権を持つ「教会令」に替える。これで同国のルター派教会は、原則的には、福音ルター派的な一「宗教団体」となる。 ― フィンランド 2000年の憲法改正で、監督の任命権は大統領から大監督に。ただし、国会が関与する「教会法」の制度は存続。 ― 国家権力の正統性が民主主義に基づくことから来るジレンマ 例として、婦人牧師制、同性婚 ― スウェーデン 第二次大戦後、教会会議にて女性に牧師職を認めるか否かが議論されるが、1957年に政府がそれを可能にする法案を国会に提出すると、翌年の教会会議は婦人牧師制を採択。 ― 各国国会は同性婚を認める法律を制定。各国の「主要」ルター派教会もそれに倣う。以下は各国の法律制定年(カッコ内は教会が承認した年)スウェーデン2009年(2009年)、ノルウェー2009年(2017年4月)、アイスランド2010年(確認できず)、デンマーク2012年(2012年)、フィンランド2015年、施行2017年(2017年審議入り)。 ⇒ 教会が認められないと言っていたことも、国家側が民主主義で決定すれば、教会内の勢力関係は容易に逆転し、認められることになる。
⇒ スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語では、「宗教改革」は、英語、ドイツ語同様にReformationを使うが、フィンランドでは「信仰浄化」を意味するUskonpuhdistusが一般的。それらの意味については、講演者が2016年11月15日に日本福音ルーテル神学校の夕刻礼拝にて行った説教「AD FONTES - 源へ」を参照のこと。
― 各国には「主要」教会の流れに与しない小さなルター派教会が「主要」教会のような公的な地位を持たず、宗教団体として存在する。― SLEYは国教会と摩擦を繰り返しながらも、現在国教会の公認ミッション団体の地位はなんとか保てている。SLEYの最近の動向と挑戦について。― フィンランドにはSLEY以外にも国教会の公認ミッション団体の地位を保てている、比較的新しいルター派リバイバル運動体もある。⇒ スウェーデンやフィンランドでは、「リバイバル」を意味する言葉は「目覚め」(väckelse/herätys)を用いる。英語圏の「リバイバル」と同一視できないのでは?ところで、講演者の見方としては、フィンランドの新しい「リバイバル」運動は、アメリカ的な「福音派的」なところがあるようにも思える。
― 北欧各国人のアイデンティティーの構成要素として“ルター派性”は薄れて、いつかは消滅するのか?― それとも、“ルター派性”自体が自由自在に変容して構成要素であり続けられるのか?その場合、変容した“ルター派性”は“ルター派的”と言えるのか?誰がそれを決めるのか?― 変容を認めない人(例としてSLEY)は、将来の北欧各国人のアイデンティティーから見て異端なものになっていくのか?
(了)
桜の開花が近づいた頃、新聞や電車の広告に伊集院静氏の新刊「さよならの力」が目に留まった。氏が執筆している「大人の流儀」シリーズの第7巻で、同シリーズは既に160万部売れていると言う。私も、「さよなら」には、別離がもたらす辛い現実に足を踏み出させる力があると思っている。ただ私の場合、そう思うのは、キリスト信仰と関係があるからとわかっているのだが。もし伊集院氏がキリスト信仰者でなければどういう道筋で「さよならの力」を見いだしたか興味がわき、それで本を手にした。氏がキリスト信仰者でないことは、本書の内容からすぐわかる。
青年期に弟を事故で失い、大人になってからは妻を病気で失った伊集院氏は、深い喪失感の中で苦しみ抜いて考え続けた結果、次のことに思い至る。「いつまでも俺が不運だ、不幸だと思っていたら、死んでいった人の人生まで否定することになってしまう。短くはあったが、輝いた人生だったと考えないといけない。」(p.183)
他にも同じような知恵ある言葉があるので引用する。「たとえ三つで亡くなった子供だって、その目で素晴らしい世界を見たはずです。だから『たった三つで死んでしまって可哀想だ』という発想ではなくて、『精一杯生きてくれたんだ』という発想をしたい。そうしてあげないと、その子の生きた尊厳もないし、死の尊厳も失われてしまうのです。
やがて、歳月は、私たちに彼等、彼女たちの笑ったり、歌ったりしているまぶしい姿を、ふとした時に見せてくれるようになります。」(p.186)
長い間、去って行った人たちが、どこかで独り淋しくうつむいているのではと憂えていた感情が、今は、彼、彼女の笑顔が浮かぶ時さえある。」(前書き中)
これらの言葉を生み出した背景には、氏の個人的な体験のほかに、東日本大震災をはじめとする近年日本を襲った自然災害の犠牲者や被災者に対する氏の共感があることは言うまでもない。
もちろんキリスト信仰にあっても、亡くなった人の過去の思い出を何ものにも替え難い貴重なものとして心に抱く。ただし、キリスト信仰の場合それは、死者が復活させられる日が来るという復活の信仰と表裏一体になっていると私は考える。どういうことかと言うと、人間は死ぬと、宗教改革のルターも言うように、復活の日が来るまでは安らかに眠る。痛みや苦しみから解放された心地よい眠りの時を持つ。そして復活の日が来ると、朽ちない復活の体を着せられて、天の御国に迎え入れられる。
そして、そこは、懐かしい人たちとの再会が待っているところである。亡くなった人は復活の日が来るまでは眠っているだけなので、仏教で言われるように仏の世界に到達するための修行の旅に出るということはない。亡くなった人が仏の世界に到達できますようにと、一生懸命香を焚いて釈迦を宥める必要もなく、お腹が空くだろうか喉が渇くだろうかなどと心配する必要もない。安らかに眠っているのだから。
そう言うと、キリスト教は死者をほったらかしにする冷たい宗教と言われてしまうかもしれない。しかし、キリスト信仰では、亡くなった人の過去の思い出を何ものにも替え難い大切なものとして心にしまっておく。その人と共に過ごした日々を与えてくれた天地創造の神に感謝する。神が与えて下さった日々だから、思い出はなおさら貴重なものとなる、と言うか、亡くなった人は安らかに眠っているだけなので、関わりを持てるのは過去の思い出しかなくなってしまうのだ。それも、飛び切りの、いつまでも輝きを失わない思い出が全てになるのだ。そういうわけで、キリスト信仰は過去の思い出以外には何も残らないと観念してしまうのであるが、仏教では亡くなった後もその人とコミュニケーションや結びつきを懸命に保とうとすることが大きく異なるのではないだろうか。加えてキリスト信仰では、亡くなった人がこの世にいる者たちを見守ったり、助けたり導いたりすることもない。その役割は全て天地創造の神に任せられているからだ。
過去の思い出だけでは空虚さを満たせないのではないか、亡くなった人とのコミュニケーションや結びつきを保ち続けないと生きていく力が生まれないのではないか、と思われるかもしれない。しかし、復活の信仰がある限り、そんなことはないと思う。復活の日、それまで「思い出」という形にしかすぎなかった懐かしい人が再会の時、体を伴った現実の人に変わり、かつて引き裂かされてしまったものが縫い合わされて、神に全ての涙を拭ってもらう(黙示録21章4節)、そういうふうに信じるのが復活の信仰である。そういうわけでキリスト信仰者というのは、亡くなった人の思い出を何ものにも替え難い貴重なものとして心に抱き、その人と共に過ごした日々を神に感謝し、復活の日の再会の希望を抱いて今を生きる者なのである。
伊集院氏は素晴らしい思い出の大切さを強調する一方で、お母上が仏壇の前で亡き次男に語りかけることに違和感を覚えない。また、思い出の人が自分の身体の中に生きていてそれが生きる力を与えているとも考える。キリスト信仰から見れば、まだ「さよなら」と言いきれていないのではないか、と思われるかもしれない。見えない相手に語りかける場合、キリスト信仰では天地創造の神以外にはないからだ。復活の信仰がないところでは、思い出を大切にすることと、亡くなった人とのコミュニケーションを保とうとすることは両立するということか。それから、キリスト信仰では、思い出の人が身体の中に内在化することもない。というのは、生きる力を与えるのはあくまで三位一体の神だからだ。
亡くなった人の素晴らしい思い出を大切にすることと、復活の信仰がしっかり結びついていることをよく示す例として、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の最終場面をあげることができる。この小説は、いろんなジャンルの小説が合体したような壮大な小説で、いつだったか村上春樹氏がインタビューで自分は三回読んだと言っておられた。(私はまだ二回である。ところで「騎士団長殺し」の各章のタイトルが長めなのは「カラマーゾフ的」?)。
問題の最終場面とは、カラマーゾフ家の三兄弟の運命がそれぞれ決まった後のところである。無頼漢の長男ドミートリイは本当は無実なのだが父親殺しの判決が下ってしまいシベリア流刑となる。無神論者の次男イワンは理性を超える神の摂理を受け入れられず、宗教からの自由を追求すればするほど逆に別のものに束縛されるジレンマに陥り、ついには精神に異常をきたしてしまう。三男のアリョーシャはロシア正教の信心深い青年で、兄たちの運命を見届けたら故郷の町を出て行こうと決心する。
最終場面は、イリューシャという結核で死んだ少年の葬儀である。柩の埋葬を終えて参列者は墓地からイリューシャの自宅へ向かう。中学の同級生たちは皆、大泣きに泣いている。実は彼らはかつてイリューシャをいじめていたのであるが、アリョーシャが間に入るようになってから次第に態度を変え、病気の可哀そうな同級生を励ましてあげようとしだす。しかし病状は好転せず、少年は死んでしまう。
イリューシャの思い出の場所にさしかかった時、アリョーシャと少年たちは立ち止まる。そこでアリョーシャは思い出の尊厳ということについて話し始める。今みんながイリューシャを本当に愛していたことがよくわかった、彼のことを決して忘れないようにしよう、本当に素晴らしい少年だった、と。すると同級生たちは皆口々に、あの子は父親の名誉のために一人で大勢に立ち向かった勇敢な親思いの本当に高潔な少年だった、と言う。そこでアリョーシャは、みんながイリューシャのこと、この葬儀の日のことをしっかり覚えていれば、将来大人になって何か悪いことをしそうになった時、それを思い止まらせる力になる、とさえ言う。あの時自分はあんなに素晴らしい少年を知っていたではなかったか、そして彼のことを一生忘れないようにしようと誓い合ってみんなの心が一つになったではなかったか、それを思い出せばきっと悪いことを思い止められる。そんな力があるのだ、と。そしてアリョーシャは続ける。
「この善良な素晴らしい感情で僕たちを結びつけてくれたのは、いったいだれでしょうか、それはあの善良な少年、愛すべき少年、僕らにとって永久に大切な少年、イリューシェチカ(イリューシャのこと)にほかならないのです!決して彼を忘れないようにしましょう、今から永久に僕らの心に、あの子のすばらしい永遠の思い出が生き続けるのです!」少年たちは口々に忘れないことを誓う。その時 少年たちの目には「涙が光っていた」のであるが、この涙は先ほどの埋葬の後の涙とは別の新しい涙だったに違いない。
ここで一人の少年が突然、驚くべきことを言う。それは、まさに思い出を大切にすることと復活の信仰が結びついていることを示すものであった。驚きなのは、それを言ったのがコーリャという少年で、彼は同級生グループがイリューシャをいじめた時にも励ました時にもリーダー格だった。大人顔負けの頭の良いませた少年で、このまま行けば自己の能力を過信する無神論者になってもおかしくはなかった。その彼がアリョーシャに向かって、こんなことを言ったのだ。
「僕たちはみんな死者の世界から立ちあがり、よみがえって、またお互いにみんなと、イリューシェチカとも会えるって、宗教は言ってますけど、あれは本当ですか?」
感激してしまったアリョーシャは答える。「必ずよみがえりますとも。必ず再会して、それまでのことをみんなお互いに楽しく、嬉しく語り合うんです。」
「ああ、そうなったら、どんなにすてきだろう!」と叫ぶコーリャ。ここでアリョーシャは少年たちに向かって、さあ、イリューシャの家に葬儀の会食をいただきに行こう、みんなが大好きなホットケーキが出されても、うしろめたい気持ちを持たなくていいんだよ、と促す。アリョーシャと少年たちは皆、元気よく手をつないで歩き出す。こうして、この壮大な小説は幕を閉じる。
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イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことについては、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とラザロ(ヨハネ11章)の例が詳しく記されている。両方の場でイエス様は、死んだ者は「眠っているにすぎない」と言って生き返らせる。もちろんヤイロの娘の場合もラザロの場合も、将来の復活の日に起こる蘇りが起きたのではない。娘もラザロもその後寿命が来て「眠り」についたのであり、今は本当の復活の日を待っているからだ。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったかと言うと、それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはいないということを前もって具体的に人々にわからせるためであった。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」― 兄ラザロの死を悲しむマルタにイエス様がかけた言葉(ヨハネ11章25節)
「この世のたび 終わるそのとき主のみ国に うけ入れたまえ。わがからだは 墓に在りていと安けき 眠りにつかん。
終わりの日に 墓はひらかれ眠れるもの よみがえらさる。わがからだの 朽ちぬものに変えらるるは いともうれし。」― 教会讃美歌366番「愛のいずみ」4節と5節
「カラマーゾフの兄弟」からの引用は、新潮文庫の原卓也訳による。
肌寒さの残る春の日、スオミ教会手芸クラブは「白樺のピンクッション」を作りました。
最初にパイブィ先生のお祈りで始まりました。
用意された白樺の皮は美しく、滑らかな肌触りで、完成品を見ながら、丁重な説明にワクワク感が募りました。ボンドや小道具を使って形を作り、沢山の原毛をチクチクして、針山は完成です。原毛の色や質で雰囲気は違いますが、可愛いい完成品は嬉しいお土産になりました。
パイブィ先生からは、白樺細工の写真やお話、そして聖書日課を聴かせて頂きました。
聖書の箇所はフィリピの信徒手紙4章6節です。私たちは、遠慮しないで心配事の重荷を神様に引き渡したり、投げつけたりしていいのです。願い求めて感謝することの他にしなければならないことはありません。私のこの心配事を神様は、どのように解決して下さるだろうか、しっかり見届けてやろうという信頼の気持ちを持って待っていればいいのです。
5月の手芸クラブは、おしゃれな「つまみ細工」を予定しています。
桜の花に新緑の葉が映える、春たけなわな土曜日、イースターの料理クラブが開催されました。
最初に吉村先生のお祈りでスタートです。
今回は子供と大人それぞれ違うメニューになりました。
子供達は最初にヒヨコ作りに挑戦です、お母さんやお父さんと一緒に頑張り、羽根飾りのついた可愛いヒヨコ達の行列ができました。
大人のグループは、たっぷりレモンを使ったマフィン作りです。レモンの皮をおろしたり、絞ったり、牧師館は爽やかな香りに包まれました。
マフィン生地をオーブンに入れ、焼き上げている間イースターエッグの飾りつけをしました。子供達に混じって、大人逹も参加、可愛いいイースターエッグは山盛りの出来上がりになりました。
今回のフランネル劇はイースター、イエス様の復活についてでした。「イースターは、私たちにとって大喜びの日です。イエス様は、私たちや世界の全ての人々のために十字架で亡くなられて、3日目に死から蘇られました。本当に私たちは、イエス様のおかげで新しい命を持つことができます。それが、イースターの本当の喜びです。このイースターの喜びが持てるために、私たちは卵に飾りつけをしたり、他にも飾りものを作って、楽しくお祝いをするのです。」
礼拝奉仕のため来日中のポウッカ先生からは、すばらしいフルートと独唱のプレゼントを頂き、試食タイムは、にぎやかな楽しい時間になりました。ご参加の皆様、お疲れ様でした。
春らしい青空の中、スオミ教会手芸クラブは、二回目の刺繍を楽しみました。
前回と同じ、クロスステッチとカレリア刺繍です。
パイブィ先生のお祈りから、スタートです。今回は、幼稚園児の参加もありましたが、黙々と作業が進み、可愛い作品が、誕生しました。
パターンは同じでも、色の使い方で、出来上がりの表情の違いに、楽しさも倍増でした。
パイブィ先生からは民族衣装の興味深いお話も聞かせて頂きました。「聖書にも相続者について書いてあります。「エフェソの信徒への手紙」1章11節でパウロが次のように述べています。
「キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方のご計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」
私たちはどんな価値あることの相続者でしょうか?それは、イエス様を通していただく永遠の命です。永遠の命をいただくということは、神様の天のみ国に入れることです。神様は、私たちが天のみ国を受け継ぐ者になれるように計画をたてて実行されました。この世の中では、刺繡や民族衣装のような文化的なものは美しいことです。天のみ国を受け継ぐことは、この世のことを越えた永遠のことです。これはなかなか理解できることではありませんが、私たちは文化的な美しいことに触れることで、もっと素晴らしい、美しい天のみ国の始まりを感じることができます。これらの美しいことを与えて、受け継がせてくれる天の神様に感謝しましょう。」
次回の手芸クラブは、白樺のピンクッションを予定しています。
真冬に戻ってしまったような、北風の強い土曜日の午後、家庭料理クラブは、「ルシッカレイパ」を作りました。
最初にパイブィ先生のお祈りからスタートです。
グループに別れて、計量、生地作りへと進みます。 ルシッカはフィンランド語でスプーンの事、生地をスプーンに乗せて形を作り、焼き上げます。 冷めた生地にラズベリージャムをサンドして完成です。
今回の家庭料理クラブは、ちょっとした「おもてなし」をテーマにしましたので、簡単なブォイレイパも楽しく作り、試食タイムになりました。
お腹も満ち足りてきたころ、パイブィ先生から、フィンランドのラズベリーのお話、「マタイによる福音書」6章28-30節やイースターに向かう受難節のお話も聞かせていただきました。 天の神様はご自分が造られた自然を通して、私たちにベリーや果物や野菜などを与えてくださいます。これは私たちを喜ばせ、神様に感謝の気持ちを抱かせます。しかし、神様が私たちに与えられるもっと大事なことは、イエス様の十字架と復活を通して永遠の命を与えて下さったことです。
ご参加された皆様、可愛いルシッカレイパ作り、お疲れ様でした!
4月の「家庭料理クラブ」は、 イースターが近いので、開催日等、変更がある場合も有ります、教会HPのチェックをお願いします。
北風が強い休日の土曜日の午後、家庭料理クラブは、トスカケーキを作りました。
最初に吉村先生のお祈りからスタートです。
トスカケーキは、アーモンドをたっぷり使った香ばしいケーキで、フィンランドの家庭の食卓やカフェでよく見かけます。
グループに別れて、計量から作業が始まり、18cmの丸型で焼き上げました。出来上がりは、グループ毎に個性が出て、試食タイムは楽しい時間になりました。
パイビ先生からは、トスカケーキのいわれや、フィンランドでは収穫出来ないアーモンドの使われ方や、栄養についての説明を受けたり、旧約聖書のエレミア書にも登場するアーモンドのお話しも聞かせて頂きました。
3月の家庭料理クラブは、ラズベリージャムをサンドした「ルシッカレイパ」を予定しています。ご参加お待ちしています。
梅もほころび始めた春の日差しの中、スオミ教会手芸クラブの今回のテーマは「刺繍」でした。
最初にパイビ先生のお祈りからスタートです。
今回は刺繍の初心者~ベテラン迄と、技量はまちまちで、クロスステッチとカレリア地方の刺繍の二種類が用意されました。
パイビ先生のわかりやすい指導で、それぞれ素敵な作品が出来上がりました。
コーヒータイムで、フィンランドでは「友達の日」と呼ばれるバレンタインディのお話や、イザヤ書49章15節のみ言葉、についても聞かせて頂きました。私たちのことを忘れない天の父なる神様についてでした。私たちが感じるか感じないのかに関係なく、神様の方ではいつも私たちのそばにいて、いつも一緒に歩んでくださいます。