牧師の週報コラム

聖書は原語で読めなくても大丈夫

先週の礼拝の「罪の告白」の導入の時、その日の詩篇の日課36篇から6~7節を用いました。

「主よ、あなたの慈しみは天に

あなたの真実は大空に満ちている。

恵みの御業は神の山々のよう

あなたの裁きは大いなる深淵。」(新共同訳)

その時、ヘブライ語の辞書(HolladayのConcise Hebrew and Aramaic Lexicon of the OT)に基づいて以下の注釈をしました。

〇「慈しみ」と訳される語はヘセド、辞書によれば「恵み、誠実」です。

〇「真実」はエムナー、辞書によれば「揺るがないこと、頼りになること」です。

〇「恵みの御業」はツェダカー、辞書によれば「神の義」です。「神の義」は難しい言葉ですが、神聖な神の前に立たされて「私は何も言えません」という状態にならしめる神の本性としておきます。

〇「裁き」はミシュパート、辞書によれば「仲裁による解決、(そこから派生して)正義」です。新共同訳はミシュパートをほとんど自動的に「裁き」と訳しているようです。フィンランド語訳の聖書では「裁き」はなく、辞書通りの「正義」が多いです。

これらの他に、「空に満つ」は字句通りに訳すと「雲にまで至る」です。「神の山々」は、mighty mountainsと出ていたので「聳え立つ(または雄大な)山々」とします。以上を踏まえて訳し直すと次のようになります。

「主よ、あなたの恵みは天高く、

その揺るがぬ頼り甲斐は雲にまで届く。

あなたの義は聳え立つ山々のよう

あなたの正義は大いなる深淵。」

どうでしょうか、私たちは上に昇って行くと「神の恵み」や「頼り甲斐」に行き当たり、前に進むと「神の義」に行き当たり、下に降って行くと「正義」に行き当たる、それくらい私たちは「神の恵み」、「頼り甲斐」、「義」、「正義」に囲まれているのです。なのに人間は囲いなど存在しないかのように、その中にいないかのように振る舞っています。それで、礼拝で罪を告白して赦しの宣言を受けることは、自分がその中にいることを認めて神の前にヘリ下り、神を信頼して生きていくことになります。

こういうふうに、原文にあたって辞書や文法書と睨めっこしながら見ていくと、訳の少しぼやけた感じが照準が定まった感じになるのではないでしょうか。ただ、原文では、原文では、などと言うと、日本語で聖書を読む人が、日本語で読んでもはっきりわからないのかと心配になってしまいます。しかし、そうではないのです。聖書は原語で読めなくても大丈夫なのです。どうしてそんなことが言えるのか、次週お話しします。

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2025年1月26日(日)顕現節第三主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

 

主日礼拝説教 2025年1月26日顕現節第三主日 スオミ教会

ネヘミヤ8章1~3,5~6,8~10節、

1コリント12章12-31a節

ルカ4章14-21節

説教題 「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 以前の説教でも申し上げましたが、本日の福音書の日課は区切りが良くありません。ルカ4章は、14節から32節までがひとくくりの出来事です。それなのに今日の日課は21節までです。まず、出来事の全容をお話ししましょう。イエス様が育ち故郷のナザレを訪れてユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読を担当する。読み終わった後で、聖書に書かれている預言は今日その通りになったと言う。さらに神の恵みについて教え始め、会衆はそれに驚く。しかし、会衆の中に、あれはヨセフの子ではないか、と言う者もいて、その途端、イエス様は何か会衆の気に障ることを言い始める。会衆は激怒してしまい、イエス様を崖から突き落とそうとする。そういう出来事です。それにしても会衆の急変ぶりには驚かされます。一体イエス様は何をそんなに怒らせることを言ったのでしょうか?お前たちは私が他の町でやっている奇跡の業をナザレでもしろと言うだろう、しかし、旧約聖書の預言者エリアとエリシャが奇跡の業を異邦人にしてあげてユダヤ人にしなかったのに倣って、私もお前たちにはしない、などと言います。かなり挑発的です。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」などと自分で言いますが、自分でそうなるように仕向けたのではないか?イエス様はナザレの人たちになぜこんなに手厳しいのか?

 実はこの出来事は、私たちがこの世を生きる時に身につけなければならないものについて教えています。どうしたらそれを身につけられるか、それを身につけないとどうなってしまうか、ということを教えているのです。その身につけなければならないものとは何か?結論を先に言うと、肉眼の目と異なる「信仰の目」です。私たちは肉眼の目を持っています。その目が働かないと生活に支障をきたします。信仰の目は、この世の荒波を乗り越えていくのに必要な目です。肉眼の目だけだと荒波はよく見えますが、それだけだと怖くなってしまいます。信仰の目があると、怖い視点を超える視点が与えられます。それでは、信仰の目とはどんな目で、どうしたら身につけられるのか、そのことを今回と次回の説教でお教えしたく思います。事は旧約聖書にまで広がるスケールの大きなものになります。

2.イエス様のイザヤ書朗読の謎

 イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神から聖霊が降って特別な力が備えられました。特別な力とは、神の人間救済計画を実行に移す力です。その後すぐユダの荒野にて40日間、悪魔から試練を受けます。イエス様はこれを全て旧約聖書の神の御言葉を盾としてはねのけます。この後、舞台はガリラヤ地方に移ります。イエス様は各地の会堂を回って、神の国が近づいた、人間の救いがまもなく実現するという福音を宣べ伝えます。そして神の国が架空のものではなく実在するものであることを示すために多くの奇跡の業を行います。イエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりす。イエス様が故郷の町ナザレに戻ったのはちょうどその時でした。イエス様はここでも町の会堂に入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。

 ここで、当時の会堂シナゴーグの礼拝について少し背景説明をします。礼拝ではヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読し、その後でアラム語で説き明かしすることが行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、ユダヤ民族はもともとはヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉もヘブライ語で記述されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚で民族の主だった人たちは異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、彼らはだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。

 さて、紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を打ち倒して古代オリエント世界の覇者になります。ユダヤ人はペルシャ帝国の計らいで祖国帰還を許されます。彼らは廃墟となったエルサレムの町と神殿の再建にとりかかります。その当時のユダヤ人の苦難と信仰の試練については、旧約聖書のエズラ記とネヘミア記に記されています。先ほど朗読されたネヘミア8章では祭司エズラが民にモーセの律法を朗読する場面がありました。そこでレヴィ族の人たちが「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読した後でアラム語に翻訳して解説したということです。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖かつ最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代にも続いていたのです。

 さて、ナザレの会堂の礼拝に戻りましょう。会堂長は、その日の聖書の朗読と説き明かしを誰にお願いするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は会衆で一杯だったでしょう。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる形の本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形の書物です。

 イエス様は立ってヘブライ語で朗読します。神に油注がれた者とありましたが、これは文字通りメシアです。メシアとはもともとは油注がれた者という意味だからです。そのメシアが神の霊を受けて、何かに囚われた状態にある人に解放を告げ知らせる、心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人が見えるようになるという喜びの知らせを伝える、神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる、そういう内容の個所を朗読しました。

 これは、旧約聖書を知っている人ならイザヤ書のあそこだとわかる個所です。少し雑学的なことですが、聖書の書物は初めは章立ても節わけもありませんでした。ところどころ段落分けや余白はありますが、基本的に文章はだらだらと続くものでした。章立て節わけが施されるのはずっと後世になってからです。それなので、シナゴーグの礼拝では、私たちの礼拝のように、本日の日課は何々書の何章何節から何節までです、と言うことは出来ません。しかし、旧約聖書をよく知っている人なら、イエス様が読んだところを聞いて、あれはイザヤの終わりの方だとわかったでしょう。私たちならイザヤ書61章1節から2節までと言うでしょう。ところが、よく見るとイエス様の朗読はイザヤ書の当該箇所と少し違っています。イエス様の朗読は正確ではないのです。ヘブライ語の原文を見ると、そこには「目の見えない人が見えるようになる」というのはありません。別に原文を見なくとも、日本語訳のイザヤ書61章を見れば誰でもわかります。実は、「目の見えない人が見えるようになる」というのはイザヤ書の42章7節にあります。とすると、イエス様は朗読している時に別の章の個所を何気なく挿入したのでしょうか?

 イエス様がイザヤ書61章の朗読の際に42章7節を挿入したということが一つ可能性として考えられます。他に考えられるのは、朗読の後の説き明かしで「目の見えない人が見えるようになる」ということを述べた、しかし、この出来事の目撃者が後で朗読と説き明かしを混ぜ合わせて覚えてしまった、それがルカに伝えられたということも考えられます(後注)。

 イエス様が朗読の時に挿入したにしても、または説き明かしたの時に言ったにしても、どっちにしても、彼には「目の見えない人が見えるようになる」ことに特別なこだわりがあったことがわかります。イエス様に、目の見えない人が見えるようになることのこだわりがあったことは、皆さんもご存じのように、彼が目の見えない人の目を見えるようにする奇跡を何度も行ったことからもわかります。イエス様にとって目を見えるようにするというのは活動の中で大事なことだったのです。このことは預言者イザヤの時代から旧約聖書の歴史を貫くようにしてある問題に照らし合わせてみると、目を見えるようにする奇跡の意味が明らかになります。

3.十字架と復活の業によって信仰の目を開けられる

 そのカギはイザヤ書の6章にあります。紀元前8世紀のことでした。神の意志に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が神からの罰として心が一層頑なにされて目も見えないようにされる、そういう罰を言い渡されます。これは肉眼の目を塞ぐということではなく、霊的な目、信仰の目が塞がれてしまうということです。神の意志がますます見えなくなって滅びの道をまっしぐらに進んでしまうという罰です。ところが、イザヤ書6章の終わりを見ると、国が滅んだ後に今度は目が開かれて神の意志がわかる、そういう「残りの者」が現れるという預言もあります。さて、イスラエルの民はいつ信仰の目が開かれるようになるのでしょうか?バビロン捕囚から解放されて祖国帰還できた者たちが目が開かれた「残りの者」になったのか?これも否でした。イザヤ書の終わりの方にある63章17節を見ると、祖国帰還を果たしても神が依然として民の心を頑なな状態に留めていることを嘆くところがあります。そういうわけで、イエス様の時代にも民はまだ信仰の目が開かれていない状態にある、それをこれから開くようにするというのが神の意図だったのです。

 この背景がわかると、イエス様が信仰の目を開くことを重視したことがよくわかります。奇跡の業で肉眼の目を見えるようにしましたが、それは、そういう具体的な業を通して抽象的なことを理解させる手っ取り早い方法だったのです。「私は復活の日に死者を目覚めさせることが出来る

といくら口で言ってもわかってもらえないから、死んだヤイロの娘もラザロも「これは眠っているだけだ」と言って生き返らせました。それと同じことです。「私は罪を赦す権限がある

と言っても、そんなの口先だけだと騒ぎ立てるから、それならこれでどうだ、と全身麻痺の人を歩けるようにしたのも同じです。このように具体的な見える業を通してイエス様は人間の信仰の目を開ける力があることを示しました。そして信仰の目が大々的に開かれる出来事を後で起こしました。言うまでもなく十字架の死と死からの復活の出来事です。イエス様の十字架の死とは、人間が神から神罰を受けて罪と一緒に滅んでしまわないために人間に代わって人間の罪を償って、人間を罪の滅びから切り離す業でした。そしてイエス様の死からの復活とは、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開く業でした。このためにイエス様の十字架と復活の業はユダヤ民族の信仰の目を開けるためだけのものでなく、人間全ての信仰の目を開ける業だったのです。それが神の人間救済計画だったのです。そういうわけで、信仰の目を開けられた人とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪からの切り離しを手にした人です。そして、復活と永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む人です。

 そのように人間の信仰の目を開くためにこの世に贈られたイエス様ですから、会堂の礼拝で「見えない人の目が見えるようになる」ことをイザヤ書61章のメシア預言に結びつけて述べても全然おかしくないわけです。

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。会堂の人たちの視線が一斉にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」これを言った後でイエス様の説き明かしが続くのですが、その内容についてはルカ福音書では記されていません。22節をみると、会衆みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあります。なので、イエス様が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、説き明かしの冒頭でイザヤ書の預言が実現したと宣言した時、イエス様は、油注がれたメシアとは私のことである、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの私である、と証したのです。その後で会堂の人たちが怒り狂うようなことが起きてイエス様を崖から突き落とそうとします。一体何が起こったのか、ナザレの人たちにどんな問題があったのか、同じ問題は私たちにもあるのか、次回お話ししましょう。

4.勧めと励まし

 終わりに、信仰の目を開かれたキリスト信仰者たちはお互いどういう関係になるかということについて本日の使徒書の日課、第一コリント12章が教えているのでそれを見ておきたいと思います。パウロの教えです。パウロは、キリスト信仰者というのは、キリストの体という一つの体の部分部分なのだと教えます。それで信仰者はお互いを煙たがったりせず大切な仲間として助け合いなさいと言うのですが、道徳論のように受け止める人もいるかもしれません。また、キリスト信仰者の中には、信仰とは自分と神との結びつきだから、と言って、信仰者同士の結びつきをあまり考えない人もいるかもしれません。しかし、パウロが述べていることは道徳論なんかではありません。

 13節でパウロは、神の一つの霊ということを言います。洗礼を受ける人は何人もいても聖霊はお一人です。洗礼を受ける一人一人に別々の霊がつくのではありません。たったお一人しかいない聖霊にそれぞれが結びついて洗礼を受けるから一つの体になると言うのです。どの民族・人種に属しようが、社会的な地位・立場が何であろうがみんな同じ聖霊を注がれるので一つの体のお互い結びついた部分になると言うのです。それなので、信仰は自分と神の問題と言って、同じように神と結びついている他の人との結びつきを考えない人は、聖霊を分割してしまうことになってしまいます。信仰の目とは、神と自分の結びつきという縦の関係と、同じ結びつきを持っている他の信徒たちとの結びつきという横の関係という、二つの関係を見ることが出来る目です。この縦と横の二つの関係が同時に現れる瞬間が聖餐式、主の血と肉に与る時です。

 自分と神との結びつきは、もちろん自分の罪と向き合って赦しの中に留まるという極めて個人的な面もあります。しかしながら、他の信仰者たちとの間で、私は目、あなたは足です、または、私は耳、あなたは手です、という場面は無数にあります。横の関係があって、各自の神との縦の関係が支えられるということも忘れてはいけません。目が自分は自分で支えられるから他はなくてもいいとは言えないのです。だから、各自、お互いに相手の縦の関係を支えてあげられるように振る舞いや言葉遣いを考えなければなりません。それを損なうような振る舞いや言葉遣いは避けなければなりません。それが聖霊をお一人としてキリストの体の部分として生きるということです。

 それではキリストの体とは具体的には何か?教会ということになりますが、これもいろんな層があります。まず、復活と永遠の命に向かって歩む信徒たちの集合体、組織を超えた世界大の教会があります。スオミ教会のように個別の具体的な教会もあります。個別の教会が属している教派や教団もあります。別の教会の信徒とは祈りを通して支えたり支えられたりする関係は築けます。しかし、やはり、聖餐式の場である個別の教会は振る舞いや言葉遣いを磨ける一番身近な場です。自分がキリストの体の部分であることを一番身近なものにすることが出来る場です。兄弟姉妹の皆さん、そのことを忘れないようにしましょう。

聖餐式

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

2月の料理クラブは8日(土)13時から開催します。

ryourikurabu本年最初の料理クラブはフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作ります。フィンランドでは玉子バター”Munavoi”をのせて食べるのが一般的ですが、そのまま食べてもよし、バターやマーガリンをぬって食パン風に食べてもよし。スモークサーモンとディルをのせて絶妙な味覚を楽しむこともできます。フィンランドでカルヤラン・ピーラッカは家庭でも喫茶店でも食堂でも食べられるまさに”国民食”です。カルヤラン・ピーラッカを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1744004341iamg@1744004341arumi1744004341hsoy.1744004341iviap1744004341 まで。

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牧師の週報コラム 

アブラハムの信仰の足跡をたどる学び
今年のスオミ教会の月第三主日の聖書研究会は「アブラハムの生涯」をテーマに創世記11章27節から25章11節までを学びます。宗教改革のルターはアブラハムのことを、イエス・キリストが現れる以前に既にキリスト信仰者であった者と言います。それはどんな意味なのか、学びを通して明らかになり、私たちの信仰の成長に資することができればと思います。以下は、アブラハムの信仰について記した「ヘブライ人への手紙」11章8節の御言葉のルターによる説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子たちへのマンナ」11月26日の日課)。
「アブラハムは、嗣業の地となる土地へ旅立つようにと神の招きを受けて、それに聞き従った。それはまさしく信仰を通してであった。どこに到着するのかも知らないまま出発したのだから(ヘブライ11章8節、フィンランド語の聖書に基づく)。」
以下はルータの説き明かし。
「どこに到着するかも知らずにアブラハムは出発した。それは彼にとって困難かつ途轍もない信仰の戦いであり試練だったに違いない。しかし結局、彼は旅立った。風が行き先もわからず吹いていくように。
神からの招きに対してアブラハムはどのように応じたであろうか?彼がしたことと言えば、次の神の御言葉だけを心に携えて旅立ったということである。すなわち、「私はお前に祝福を与える」という御言葉である。ここからもわかるように、信仰には見極めの目が伴う。光が全くない暗闇の中でも信仰は見ることができる目を持つ。信仰は、何も見えないところで見、何も感じられないところで感じるのである。
アブラハムの旅立ちが聖書に記されているのは、私たちのために他ならない。私たちも同じように神の御言葉を信仰の中軸に据えて御言葉の中に踏みとどまることを習得するためである。まさに御言葉の中で神は、私たちの身体と命そして魂までも世話し守って下さると約束されている。たとえ現実にはそう見えずそう感じられなくても、神はそうすると約束されている。だから、あなたは神が御言葉の中で約束されたことに信頼することだけに努めなさい。たとえ周りが全く逆の方向に進んでいるかのように見える時でも努めなさい。神はアブラハムに約束の成就まで長い年月を待たせたのだ。たとえ今、私たちに対しても時間がかかっても、信じることを止めてはならない。なぜなら、神は、あなたの信仰に忍耐が備って成長するように約束の成就を待たせているだけなのだから。」

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2025年1月19日(日)顕現後第二主日 主日礼拝

司式 吉村博明 牧師 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会) 聖書日課 イザヤ62章1~5節、第一コリント12章1~11節、ヨハネ2章1~11節 説教題 「カナの婚宴での奇跡」 讃美歌 49、151、358、260、352 特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたはみ子イエス様をこの世に贈られて、彼の教えと業そして十字架の死と死からの復活を通して、あなたの愛と栄光を現わし、私たちに信仰を賜物として与えて下さいました。どうか私たちが、頂いた信仰を携えてこの世を生きられるように、まだイエス様を知らない人たちに信仰を証しすることができるように知恵と力と勇気をお与え下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

牧師の週報コラム

これぞ、キリスト信仰の死生観

イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことは、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)やラザロ(ヨハネ11章)等々の事例があります。 ヤイロの娘とラザロの蘇らせの時、イエス様は死んだ者を「眠っているにすぎない」と言って生き返らせました。ただし、彼らには、将来の復活の日に起こる復活が起こったのではありません。なぜなら、二人ともその後で寿命が来てまた「眠り」についたのであり、今、本当の復活を待っているからです。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったのでしょうか?それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはないということを前もって具体的に人々にわからせるためでした。

以下は、マタイ9章24節のイエス様の言葉「娘は死んではいない。眠っているだけだ」についてのルターの説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月8日の日課から)。これぞキリスト信仰の死生観の真髄!

「我々は、自分の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストと固く結びついている者にとっては、死とは全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休息用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって墓から飛び出し、天上にいます我々の主、救い主に迎え入れられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の約束の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、眠っている間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただくことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

主の約束の言葉「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。」ヨハネ傳福音書11章25節

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ルターの御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月2日の日課から)

新年の新聞の特集に、20世紀に出現した大衆社会は国を戦争に引き込むような「勢い」を生み出してしまうことを識者たちが論じていました(朝日㋀㏢)。 「大衆」の特徴の一つに「自己懐疑の欠如」をあげる識者も。ひょっとしたらSNSはそれを助長するのではないかなどと心配になりました。そこで以下のルターの説き明かしを見れば、キリスト信仰とはいかに自己懐疑の信仰であるか、しかし、徹底した自己懐疑でありながら自己否定には向かわず自己形成に向かう信仰であるかがわかります。

「私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。」(詩篇118篇21節 フィンランドの聖書の訳から)

「神はまず初めに御言葉をもって私たちの全ての行いを裁き、私たちが持っていると思い込んでいる神聖さと知恵と力を無にされる。これほど大きな恵みがあるだろうか!神がこのようにされるのは、私たちが自身の罪性からくる罰を見ることができるためであり、また私たちの良心が震えるためであり、そして神の前に無力となった私たちがあらゆる不安と心配に晒されるためなのである。神はこのように私たちを徹底的にヘリ下させ、自分の業や知識に対する私たちの驕りと盲目な信頼を一回また一回ともみ消される。そして、それらが完全にもみ消される時が来る。私たちのこの世の人生が終わる時だ。このプロセスを忍耐強く歩み続けられる者は、神は自分にとって最善なことをされているとわかっている。それで神に感謝し賛美を捧げ、預言者イザヤと共に次のように口ずさむ。『主よ、あなたに感謝します。なぜなら、あなたはかつて私に怒りを示されましたが、今はそれを収め、私を慰めて力づけて下さったからです。』(イザヤ12章1節 フィンランド語の聖書から)

そう、怒りを転じた神は今度は私たちを慰め助けを与えて下さるのだ。それは、私たちの内にある霊と新しい人が滅びゆく肉と古い人に代わって成長するためである。このプロセスにおいて神は私たちにますます大きな豊かな賜物を与え、私たちが彼の御前でまた彼の中にあって勇気を持って立つことが出来、喜びをかみしめることができるようにと助けて下さるのだ。このように古きを脱ぎ捨て新しきを身にまとう者は次のように歌うであろう。『私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。』

このように神は私たちをヘリ下させる時、高く上げて下さるのあり、私たちを罪びとにする時、神の義を持つ者にして下さるのであり、私たちが打ち負かされるようにする時、勝利を与えて下さるのであり、私たちが泣くようにする時、喜ぶようにして下さるのであり、私たちを死に直面させる時、生ける者として下さるのである。」

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ルターの御言葉の説き明かしから(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」12月27日)

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1章23節)

「神の威厳の中には一体、どんな御心があってあなたに向けられているのか考えてみなさい。神は、惨めな状態や苦難の中にいるあなたに同情し、本当に憐れむ気持ちからあなたに、罪の状態にあるあなたに、何も条件をつけずに御自分のひとり子を贈られ、おとめの胸元に置かれたのだ。神はあなたに言われる。『見なさい、これは私の愛する子、あなたのために生まれ、あなたに与えられた子である。この子は、あなたを罪から救い、あなたを守り、助け、そしてあなたの幸いとなる。』

あなたに対して神はこのような御心をお持ちなのだ。考えてもみなさい、あなたでも誰でもいい、仮に自分のひとり子を全ての相続権と一緒に誰かに贈り物として与えたとする。そのような贈り物を与えた相手に危害を加えるようなことがありうるだろうか?私たちのために生まれ、私たちに与えられた御子を通して、私たちに神的な恵みを現わし、私たちの罪を赦し、私たちを愛することこそが神の御心なのだ。しかしながら、注意しなければならないのは、ひとり子はそれを受け取る者たちだけに、ひとり子から励ましと喜びを得ることを望む者たちだけに与えられるということである。そして、神の善性から来るこの大いなる贈り物を受け取った私たちは次のことを確信し、それを公けに言い表す。- 神はひとり子を受け取った者たちに対してもう怒りを持たず裁くこともしないということを。」

イエス様の誕生は本当に私たちにとって幸いであり神からの恵みなのです!

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フィンランドからスオミ教会に届いたクリスマスの挨拶(12月22日現在)

セイヤ&パーヴォ、イルセ&家族、カイサ&家族、ラウラ&家族・ヘイッキネン

(P.ヘイッキネン師は1993年から1999年までと2004年から2010年までスオミ教会の牧師を務めました。)

Suomi Kirkkoon kokoontunut joulujuhla väki. On ilo tervehtiä teitä kaikkia, jotka olette kokoontuneet Kuninkaan syntymäpäivä Juhlaa. Tämä Kuningas ei ole kuka tahansa kuningas. Juhlistatte henkilön syntymäpäivää, Marian Pojan, joka samalla on TAIVAAN JA MAAN KUNINGAS; ja samalla sinunkin Herrasi ja Vapahtajasi. Kaikukoon sydämestämme pyyntö: Tervetuloa!

(クリスマスをお祝いするためにスオミ教会にお集まりになった皆さま。王であられる方のご降誕をお祝いするために集まった皆さまにご挨拶申し上げられるのは喜びです。この王は普通の王ではありません。皆さまが誕生をお祝いするマリアの子はまた天と地の王であり、またあなたの主であり救い主でもあります。お生まれになる方に向かって私たちの心に「ようこそ!

が響きますように。)

シルッカリーサ&ペッカ・フフティネン(P.フフティネン師は1991年から1993年までスオミ教会の牧師を務めました。その後、P.フフティネン師はSLEYの海外伝道局長、シルッカリーサさんはSLEYの海外伝道局アジア地域コーディネーターを歴任。)

スオミ教会の兄弟姉妹の皆様

クリスマスおめでとうございます。

「いと高きところには栄光、神にあれ」(ルカ2章14節)

この喜びに満ちた賛美が、クリスマスの夜、天使と天の軍勢の口から響き渡りました。これは私たちとすべての人々に与えられた力強い賛美でした。世界中のキリスト教会は同じ賛美の歌を大声で歌うことができるように。罪の力はイエス・キリストの復活によって無にされました。

「いと高きところには栄光、神にあれ」ハレルヤ

ペンティ・マルッティラ師(SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーター兼SLEYハメーンリンナ教会主任牧師)

Älkää pelätkö! Minä ilmoitan teille ilosanoman, suuren ilon koko kansalle.

Tänään on teille Daavidin kaupungissa syntynyt Vapahtaja. Hän on Kristus, Herra.” (Luuk. 2:10-11) Jeesus syntyi Vapahtajaksi kaikille maailman ihmisille. Ensiksi ilosanoma ilmoitettiin paimenille, jotka olivat eräs oman yhteiskuntansa halveksituimmista ihmisryhmistä. Hän on tullut sinuakin varten, vaikka ehkä ajattelet, että et kelpaa Jumalalle.

(『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。』(ルカ2章10~11節) イエス様は世界の全ての人の救い主としてお生まれになりました。この喜びの知らせは、当時の社会の中で取るに足らないと見なされた階層の人たちに真っ先に告げ知らされました。この方はあなたのためにも来られたのです。ひょっとしたら、自分は神聖な神に相応しくないと思ってしまっても、そのあなたのために来られたのです。)

ミカ&ティーナ・ラトヴァラスク(ラトヴァラスク夫妻は2007年~2013年までSLEYの日本派遣宣教師、現在ティーナさんはSLEY海外伝道局インターネット伝道部門日本語伝道担当及びSLEYのオンライン聖書講座Bible Tool Boxの統括担当)

「キリストにある兄弟姉妹、スオミ教会の皆さま、クリスマスのこの素晴らしい季節に、神の愛と恵みが皆様の上に満ち溢れますように。今年も来年もこの救い主に結ばれて歩みましょう。ルカ2章10~11節を添えて。」

高木賢&アンナカイサ(高木氏はSLEY海外伝道局インターネット伝道部門日本語伝道担当、アンナカイサさんは80年代90年代にSLEYの日本派遣宣教師、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターを歴任)

「御子イエス様のお誕生を感謝します。ここ数年、日本に行く機会がなかなかありませんが、スオミ教会のみなさんと天の御国で再会できることを今から楽しみにしています。それまで、ときおりよろめきながらも、光の子として光の中を共に歩んでまいりましょう。『しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めるのである。』(第1ヨハネ1章7節)

マリリーサ&ティモ・ハブカイネン(1980年代から2000年代までSLEYの日本派遣宣教師、ティモ師は現在ナーンタリ市のナーンタリ教会の青年活動主事、ご夫妻は2025年春にSLEYが派遣する日本伝道旅行を計画しています。)

「スオミ教会の皆さん、来年の3月に会うときを楽しみに待っています。クリスマスが近づいてきました。祝福されたキリストのお誕生日を過ごして下さい。ルカ2章10~11節を添えて。」