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説教題:「主はご自身がご計画のうちに召したものを守り導かれる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の箇所の直前では、御使いがナザレのマリヤに現れ、神様が旧約聖書の預言を通して約束してきた救い主が生まれると知らせたことが書かれてあります。しかし問題はその救い主が、まだ結婚もしていない処女マリア自身の中に聖霊によって妊り、彼女自身がその救い主となる赤子を産むという信じられない驚くべき知らせでもあったということでした。それはマリヤ自身にとっては喜びどころか、むしろ、戸惑いであり、恐れであったとも書かれています。そのようにマリヤは御使の告げることを、信じられず疑ってしまいます。けれども神の使いは、そんな信じられず怖れ不安になるマリヤを、疑って恐れているからと、救い主の母として相応しくないと責めたりはしませんでした。それどころかむしろ、御使いは「神があなたと共にいる、神にとって不可能なことはない、神が全てをなすのだ」と、どこまでも彼女を励ますのでした。そのような神様の驚くべき信じられない出来事が進められていく中で、神によって召された一人の罪深き女性は、神の慰めと励ましに支えられ、神によって与えられ召され神によって導かれる信仰の歩みを開始するのです。それは決して平穏でも薔薇色でもない「苦難の歩み」の始まりではあるのですが、真実な神様はその約束の初めから変わることなく、マリヤに絶え間ない励ましと慰めを与え続け導いているのが今日のところであると言えるでしょう。39節から見ていきましょう。
2、「エリサベトのところへ」
「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
御使いとの出来事の後、マリヤはユダの町に向かいます。それは40節にある通り、親類のザカリヤとエリサベト夫妻の家に行くためでした。そして56節にある通りに、そこで三ヶ月ほど過ごすためです。
この「マリヤのエリサベト訪問」はいくつかの理由と意味があると言えます。
まずよく言われるように、婚前の妊娠は当時のユダヤ社会では極めて不道徳なことでした。町中のさらし者になるのは避けられません。だからこそマタイ1章にある通り、ヨセフは内密に去らせようとさえしました。ですからまずナザレで予想されるその困難な状況を、このユダの町のザカリヤとエルサベトの家で三ヶ月過ごすことによって回避することができるということがあります。マタイの福音書にあるように、ヨセフが御使いからお告げを受けた後、ヨセフは御使いから言われた通りマリヤを花嫁として迎え入れ、そしてその後、マリヤだけ、ユダに行き三ヶ月過ごしたということは十分、考えられることです。
けれどもこの行動は、何よりこの直前に書かれている御使いが与えた励ましの言葉に導かれていることであると言うことこそ大事な点です。それは36節でした。マリヤが「まだ男の人を知らないにどうして子を宿すことなどあろうか」と不安を口にした時に、御使いは、マリヤを励ましました。聖霊が共にありその力が助けると。そしてこう言って励ました言葉でした。
「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
この言葉は、マリヤに対する励ましとなったのではないでしょうか。この言葉によって、マリヤは、自分と同じような神からの不思議をなんと親類のエリサベトも経験していることを知流ことになります。御使いはエリサベトにも現れたんだと。正しくはみ使いは夫のザカリヤに現れたのですが。このように御使いは、この言葉を持って、マリヤを励ますと同時に、エリサベトの家へと導いているとも言えるのではないでしょうか。マリヤはこのみ使いの言葉があったからこそ、エリサベトのもとに急いだことでしょう。
3、「神の言葉は私たちにとって何一つ無駄に語られない」
このように神様は、この救い主キリストを身ごもるという一つの出来事、計画が、一人の罪人であるマリヤにとってはとてつもない戸惑いであり恐れであるというその現実を、きちんと知ってくださっていることがわかるのです。神様は、マリヤのこと、つまり彼女の気持ちも恐れも心配も弱さも、そのようなことを一切、何も考えず、無責任に、ただお気楽に神様の喜びの計画や知らせを一方的に御使いに語らせているのでは決してありません。マリヤがこの結婚前に子を身ごもることによって、罪深い人間の社会であるナザレの村でどのような大変なことになるのかも、その不安も恐れも全てご存知なのです。同じように、恐れたヨセフが内密にマリヤを去らせようとした時に、み使いはヨセフに「去らせてはいけない。マリヤを妻として迎えなさい」と言ったことも、根拠のない無責任な言葉ではなく、神様の完全な計画のうちに、ヨセフもマリヤもきちんと導き助け、計画を成就させることをしっかりと見ていての言葉であったということが見えてくるでしょう。御使いがマリヤにエリサベトに起こっていることを伝えたことは、非常に深い意味があるのです。それはマリヤをエリサベトの元に三ヶ月滞在させ、マリヤを守るためなのです。もちろんそれは同時に、お腹の中の御子キリストをも守ることになるのです。
この事実は今日を生きる信仰者である私たちにとっての恵みでもあります。つまり、神様が私たち信仰者に、何よりも毎週、牧師による説教や、そして日々ディボーションなどを通して与えてくださるみ言葉には、私たちの思いをはるかに超えた、一つ一つ意味が必ずあるということです。そして何よりそれは、私たちを決して苦しめ恐れさせ重荷を負わせるためではなくて、苦しみや恐れや不安にある私たちを導き、守るために語りかけてくださっているということが、このところから教えられているのではないでしょうか。
そして、それは実際的な慰めとなってもいるのです。マリヤにとってはもちろんなのですが、エリサベトにとってもです。二人が互いに会うことは互いにとって大きな励みになるでしょう。男性には経験できないことですが、妊婦、特に初めての子の時、女性はものすごい精神的にも孤独、不安になると聞きます。そんな時に、妊婦同士の交わりや会話や情報交換によって安心したり、励まされたりすることがあることでしょう。まさにそんな二人の時となったはずです。ですから、確かに、エリサベトがやがて産むバプテスマのヨハネは、御子イエスの前に来て道を整え、イエスを指し示す預言者です。けれども、ある意味、今日のこの出来事は、それだけではなく、そのヨハネの母エリサベトが、イエスの母マリヤのために、神が備えてくださった助け手であったことも重なるように見えてくるのです。そしてそれは、マリヤがエリサベトにとっての励まし手であり、助け手であったということでもあるでしょう。みなさん、エリサベトも不安であったでしょう。高齢とはいえ、何人も子供を産んでいる女性ではありませんでした。御使いは「不妊の女」と言っています。それまで子供がなかったのでした。そして、初めての出産はもちろん、高齢であるからこその、エリサベトにとっての妊娠、出産への不安と恐れは、計り知れず大きかったはずです。けれどもそんな中で、マリヤの存在、そしてマリヤに起こった出来事は、エリサベトへの神からのまさに助けであり慰めであり希望ではありませんか。マリヤが来たことは、エリサベトにとっては間違いなく、慰めと希望になったのです。
どうでしょうか。このように、これらのことはまさにあのパウロがローマ8章28節で励ましている神の真理そのものです。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
そのように、神様は確かにご自身が愛するご計画に従って召した人のために、その人の思いを遥かに超えて、時に背後で、全てのことに働いて益としてくださることの証しが見えてくるではありませんか。そのように、神様はそのご自身の言葉を持って約束したことに必ず責任を持ってくださるのです。私たちが立ち返りたいのは、神様の言葉、約束というのは、それほどまでの確かさ、真実さがある。そして、それは全て私たちのためであり、私たちへの愛と憐れみに満ちているということが教えられているのではないでしょうか。
4、「神は信仰者の不安や恐れを喜びと幸いに変える」
そして、さらにこの後のことは、神様は本当に慰めの上にさらに慰めに満ちている方であることがわかるでしょう。マリヤがエリサベトに挨拶した時に不思議なことが起こります。41節〜45節
「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
マリヤがエリサベトに挨拶した時に、エリサベトのお腹の中の子が踊ったというのです。そして「聖霊に満たされて」彼女は喜びと賛美に溢れてそのことを証しするのでした。まず、感謝な事実は、聖霊は、エリサベトとも共にあり、導いていたということです。何度もいうように、エリサベトも不安と恐れにあったのは間違いありません。けれどもこのように、主はご自身が選び召し出した人を決して見捨てないし、聖霊にあって共にあり、そして、その約束されたことを聖霊なる主が果たすために働いていることがここには現れています。そして、決して完全な存在では無い、不安と恐れのエリサベトに、マリヤに対してもそうであったように、聖霊はその度毎に彼女に働き、慰め、励まし続けていることが見えて来ます。
しかもここで、神は実際的なしるしを通しても示してくださっています。マリヤの挨拶に、もう一人の約束の男の子は答えるのです。それは不思議なことでしたが、エリサベトににとっては主の導きでした。それによって信仰が強められ、彼女の証しと告白に導かれているのです。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
と。
まさにここにもルターの言う「聖徒であり同時に罪人である」信仰者の幸いな事実と証しがあるではありませんか。マリヤの時と同じです。繰り返しますが、私たちは皆一人一人、恵みにより義と認められた信仰者でありながらも、同時に、どこまでも罪人であり、戸惑い恐れる不完全な存在でもあります。それはエリサベト、マリヤであっても同じです。しかし、主がその彼女たちの弱さや不完全さをそのまま受け入れ、理解し、そして怒ったり、責めたり、見捨てたりするのではなく、絶えず、繰り返し、み言葉とその実現を持って励まし、慰めの上に慰めを与えることによって、主がその信仰を間違いなく、強めていることがここに教えられるでしょう。このように「信じる」ということ、信仰は決して律法ではなく、このようにどこまでも与えられる恵みであり、恵みのうちに神が進ませ神が実現する福音であるということがやはり貫かれているのです。そして、この後、46節以下で、同じように聖霊に導かれ、マリヤも賛美するわけです。喜びと希望の歌です。二人の女性に起こったことは、最初は恐れと戸惑いでした。信じられないことでした。しかしいずれも主が始め、主が計画し、主がもたらしたもの、主から天からの約束です。その主から来たもの、主から始まったものは、私たちの方で恐れと戸惑いに始まったとしても、最初は私たちの思いをはるかに超えたものであったとしても、しかし、主は約束の通り完全に私たちに働き、主が約束を必ず果たす、そして全てを益としてくださるのです。エリサベトやマリヤにそうであったように、私たちの恐れや戸惑いも、必ず、イエス様は、平安に、希望に、喜びに、賛美に変えてくださる、そのようにして、主はその恵みのうちに、福音の言葉を通して、聖霊を通して、そして具体的にしるしを通しても、働いてくださり、そのように私たちの信仰をも育て、励まし、強めてくださるのです。パウロはこう言っています。ローマ1章16〜17節
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
新改訳聖書では
「その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるから」
ともあります。
5、「救い主キリストは私たちのために世に人としてこられた」
私たちは、肉体も精神も弱り果てるものです。私たち自身は、どこまでも不完全な存在です。神の前に私たちは何もできません。罪深いものです。不信仰なものです。けれども今日見てきたことからもわかるように、神であるイエス様はそのような罪人である私たちのところに「こそ」人として生まれてくださるのです。それはヨハネ3章17節にあるように、私たちの罪を責め裁くためではありません。むしろその私たちの罪を私たちの代わりに全て背負って、十字架で死なれるために生まれるのです。しかし神がこの十字架で、神の御子に人類の全ての罪を見て、その罪の報いである死を私たちの代わりに御子に負わせ死なせたからこそ、この十字架のゆえに、そしてこの十字架のキリストを見るものを、神様はもうその罪を見ず全ての人々に「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言してくださるのです。ですからこのイエスの誕生はイエスの十字架を示しています。神様から私たちへの真のクリスマスの贈り物は、イエス・キリストであり、この十字架にかかって死なれるイエス様とそこにある罪の赦しなのです。それが福音、良い知らせです。そして、それは全ての人々の前に差し出されていてもう誰でも受け取るだけになっているのです。信じるとは受け取ることです。その受け取る信仰さえも、イエス様は絶えず「与えます、さあ受けなさい」と語りかけ招いてくださっている恵みなのです。マリヤもエリサベトも私たちと変わらない罪人でしたが、その神の言葉とそこにある恵みの約束をそのまま受け取ったからこそ、弱さや不安や恐れは、希望と賛美に変えられていきました。それは「そうならなけれいけない、そうでなければならない」という律法としてではありません。神の恵みの約束、福音にただ信頼したがゆえです。ですから同じように私たちも、何度、人生で恐れたとしても躓いたとしても、倒れたとしても、戸惑ったとしても、失敗したとしても、その時、自分自身には何の力がなくても、このイエス・キリストのゆえに、イエス様が絶えず私たちに与えてくださる救いの恵み、福音のゆえにこそ、私たちは何度でも立ち上がることができる、いやイエス様が立たせて歩ませてくださるのです。イエス様が常に、今日も、来週も、来年も、いつもまで、み言葉を与えてくださり、励ましと慰め、愛と憐れみをもって私たちの手を取ってくださる。恐れや不安、戸惑いや失望を、喜びに、希望に、平安に、賛美に変えてくださる。それが信仰の歩み、救われていることの素晴らしさに他なりません。
今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ私たちは、今日も罪赦され、この恵みの新しいいのちの道、イエス様のいのちに生かされている幸いと救いの確信を覚えながら、平安のうちにここから遣わされていきましょう。そして、その救いの確信と平安と喜びをもって、私たちは今週も神を愛し、隣人を愛していきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
クリスマス愛餐会
今年最後の家庭料理クラブは12月14日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマスの味がするスパイシー・チョコレートケーキとクリスマス・パイ”Joulutorttu”を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタート。最初にケーキを作ります。材料を測って、生地に入れるカルダモンやシナモンなどのスパイスを粉類に混ぜると直ぐスパイスの香りが広がりました。たちまち「いい香り!」との声が。卵と砂糖をハンドミキサーで白い泡になるまで泡立てます。それに粉類と溶かしたマーガリンを交互に加えると生地が出来上がります。それをケーキの型に入れて焼き始めます。ケーキを焼いている間に今度はクリスマス・パイを作り始めます。
パイシートを少し綿棒で伸ばして四角の形に切ります。それからプルーンジャムを四角の生地の真ん中にのせて、可愛い星形のパイをどんどん鉄板に並べていきます。パイを作っている間にケーキのスパイスの香りが教会中に広がりました。ケーキが焼き上がりました。
パイをオーブンに入れて、今度はケーキのトッピングを作り始めます。材料をボールに順番に入れて混ぜると、もう出来上がり。トッピングをケーキ全体に伸ばして飾りつけをします。皆さん、イチゴとクランベリーをケーキの上に綺麗に並べて素敵なクリスマス・ケーキが出来上がりました!
今回はフィンランドのクリスマス・ホットドリンク”Glögi”も用意しました。それを温めると、またクリスマスの香りが台所から一気に教会中に広がりました。
今回は、テーブルのセッティングをクリスマスの雰囲気にしました。皆さんワクワクしながら席に着いてチョコレートケーキにナイフを入れます。それからケーキ、クリスマス・パイ、”Glögi”を一緒に頂いて歓談の時を持ちました。そこでフィンランドのクリスマス料理や子供向けテレビ番組「アドベントカレンダー」をモニターで見て、あわせて聖書に記されている世界で最初のクリスマスの出来事についてお話を聞きました。料理クラブが終わる頃に教会の玄関前のイルミネーションが輝き出して、中も外もクリスマスの雰囲気に満たされました!
今回の料理クラブでは参加者の皆さんと一緒にクリスマスの喜びを分かち合うことが出来、とても感謝しています。次回の料理クラブは、年明けの1月はお休みですが、2月から再開する予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
それでは皆さま、天の父なる神さまが祝福されるクリスマスをお迎え下さい!
今日は皆さんと一緒にスパイシーなチョコレートケーキとクリスマス・パイ「Joulutorttu」を作りました。フィンランドではクリスマスの季節のパウンド・ケーキや飾りつけのケーキの種類はとても多いです。最近は新しいケーキの種類もどんどん増えてきました。新しいケーキは多くの人たちが作るように宣伝します。例えば「このケーキはクリスマスの味がします!」というのは宣伝文句の一つです。しかし、フィンランドの本当のクリスマスのお菓子の味は何でしょうか?普通は今日のケーキにも入れたスパイスの味が昔からあります。その他にはプルーン、シロップ、ドライフルーツなどもクリスマスの味がします。
この間フィンランドのクリスマス向けの雑誌をもらいました。そこにはクリスマスのメニューや飾り付けについての記事が沢山ありました。料理のきれいな写真は多かったですが、昔と同じメニューはありませんでした。お菓子も昔のお菓子と違いましたが、中に入れるスパイスはシナモンやカルダモンだったので、昔のクリスマスの味のものもありました。料理やお菓子の作り方は手間がそんなにかからないものが多かったので、現在の忙しいフィンランド人に合わせてレシピを作ったと思いました。しかし新しい美味しそうなクリスマス料理のレシピがあっても多くのフィンランド人はやはり伝統的なクリスマス料理を作りたいと思います。今年もフィンランド人のクリスマスの食卓には豚肉のオーブン焼き、ニンジンやポテトのキャセロール、ビーツのサラダなどが出されるでしょう。
ところでクリスマスの季節は子どもたちにとって特別な時期で皆クリスマスが待ち遠しいです。フィンランドでは毎年「アドベントカレンダー」という子ども向けのテレビ番組が放送されます。十分くらいの番組で12月1日から24日まで毎日放送されます。番組を通して子どもの育て方に関係する教え、例えば争いの解決や謝ることについての場面も出てきます。毎年の番組に共通してあるのはクリスマスを救え!ということです。今年のテーマは「いい子、悪い子」です。フィンランドのラップランドにあるKorvatunturiというところにサンタさんの活動拠点があります。そこでサンタさんのヘルパーたちが子どものプレセントを作ったり包んだりします。あるヘルパーは世界の子どもたちの様子を見て年をとっているマスターのヘルパーに報告します。マスターヘルパーは子どもがいい子か悪い子かカイドブックの規則を見て決めます。マスターヘルパーによると今年の子どもたちは皆悪い子です。「いい子」は一人しかいません。それで今年子どもたちはこのままではプレセントをもらえないことになってしまいます。他のヘルパーたちは困ってこの問題を解決する方法を考えています。解決出来なかったらクリスマスのお祝いは台無しで子どもたちはプレセントをもらえなくなります。それでヘルパーたちはクリスマスを救う方法を考えるのです。どんな解決になるのかこれからの楽しみです。
私たちはどうでしょうか。クリスマスの前に生活の中に何か大変なことがあったらクリスマスのお祝いは台なしになると思うかもしれません。そのような時はクリスマスのお祝いを救う方法を考えるでしょうか。そもそも私たちはクリスマスを救うことができるでしょうか。私たちにはそんなことは出来ないでしょう。というのは、クリスマスは本当は天と地と人間を造られた神さまが私たちに与えて下さったお祝いだからです。神さまは最初のクリスマスの時に起こった出来事ずっと前から計画されました。それは旧約聖書の時代の予見者たちを通して告げられたのです。
旧約聖書のイザヤ書には次のように書いてあります。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝く。」イザヤ書9章1節です。これは、天と地と人間を造られた神様がイスラエルの民に語った言葉です。どんな意味でしょうか?イスラエルの民は神様の前で悪いことを沢山していたので、それは暗闇の中を歩むことと同じでした。しかし天の神様は民が光を見て歩めるようにしてあげようと、その思いを預言者イザヤを通して伝えました。それはどんな光でしょうか?神様は特別な方を私たちに送って、その方が光輝くとイザヤは言いました。この「光」は周りがよく見えるようになるための光ではなく、もっと深い意味がある光です。その光は2千年前の初めてのクリスマスの夜に現れました。新約聖書の「ルカによる福音書」の2章1~20節に詳しく書いてあります。それによると、初めてのクリスマスの夜に神様のひとり子イエス様がベツレヘムの馬小屋でお生まれになったのです。イザヤの預言が実現してイエス様がこの世の光としてお生まれになったのです。天と地と人間を造られた神様が私たち人間を救うためにひとり子のイエス様をこの世に送ってくださいました。クリスマスは私たちが救うことではなく、神さまが私たちや世界の全ての人たちを救うためにイエス様を送ってくださったことがクリスマスです。たとえクリスマスの時にプレセントをもらえなくてもクリスマスはやってきます。神さまはイエス様を通して私たちに最も大事なプレセント、救いの道を開いて下さったというプレセントを与えて下さったのです。私たちはただそれを受け取ればいいのです。そしてそのプレセントはクリスマスの時だけではなく一年中毎日喜びを与えてくれます。
今年のクリスマスは神様がイエス様を通して与えて下さる救いの贈り物を忘れずに過ごして行きましょう。
日本文化のキリスト教
昔、フィンランドの宣教師(故人)が大切にしていた日本の教会の信徒たちの短歌集を見せてもらったことがある。今でも一つの句を覚えている。
「礼拝の/恵みの手段に/与れし/祝福さやに/お茶会楽し」
時は戦前、場所は北海道。季節は不明だが、夏でなければ木造教会の石炭ストーブの音と湯気の情景が浮かぶ。礼拝の「恵みの手段」とはルター派なら御言葉と聖餐式のこと。牧師を通して祝福を受けた後の集会室でのお茶がなんと恵み深い味わいか。時代は暗雲立ち込めても、教会はともし火を絶やさない。
言葉数少なくともこんなに多くを語るとは、なるほど5、7、5は日本人にとって共感の道具であり武器でもある。ならば私も(中学の国語の授業以来の挑戦です)。
「涙もて/種を播くとも/刈り入れは/喜び溢れ/神は計らう」
ここ2週間ほど何故か頭を離れない詩篇126篇が元。キリスト信仰者は神が逆境を祝福に転じられることを、神自身の約束や(エレミヤ29章11節等々、フィリピ1章6節も)自分の経験と信仰の兄弟姉妹たちの証しから知っている(ヘブライ11章も証言集として有用)。しかし、信頼の大元にあるのはなんと言っても、アダムの堕罪をキリストによって逆転させた神の大業(ローマ5章)。アダムは楽園を去り労苦を持って耕さなければならなくなったが(創世記3章)、キリストは信仰者を豊かに実を結ぶ者に変えて下さった(ヨハネ15章等々、ガラテア5章22~23節も)。
もう一つお許しを。先日フェイスブックで初雪の八ヶ岳の写真を見て思い出したこと。以前、宣教師会議を清泉寮で行った時、自由時間にみんなで晩秋の森の小径を歩いた。なんだかフィンランドにいるみたい、と口々に皆はしゃぎ気味。話が弾み当てずっぽうに歩き続けると、突然前方が開け初雪を冠した急峻な峰々が。今いるところは母国ではないと思い知らされる瞬間。復路は口数少なく宿に戻った。そんな彼らの心情を代弁しての一句。
「清里の/行方知らずの/落ち葉道/森の故国に/山並みはなく」
待降節第一主日は教会の新年の幕開け
今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドベントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。 これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆さま、礼拝に参加される皆さまを豊かに祝福して見守り導き、皆さま自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。
今年もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を礼拝の中で歌います。毎年お話ししていることですが、この歌はフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番最初にある歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の個所が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアンナ、またはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王さま、万歳!」というところでしょう。
その個所が朗読される時、歓呼の前で一旦朗読が停まってパイプオルガンが威勢よく鳴りだし、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、当時の群衆になり替わって歓呼を賛美歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れ聖書離れが進み、普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、なぜか待降節第一主日になると人が多く集まり、この歌を歌って国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。今映っているのは何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。
このリンクをクリックすると本場フィンランドの「ダビデの子、ホサナ」斉唱を聴くことが出来ます!(カルヴィア教会2024年12月1日)
フィンランドは12月になると多くの家庭でクリスマスのお菓子が作られる楽しい季節です。 今回はスパイシーなチョコレートケーキを作ります。シナモンやクローブの風味が溢れるフィンランドのクリスマスの味覚の一つです。ケーキの中身は柔らかめでチョコレート風味を引き立てます。ホイップクリームを添えれば幾層もの味が楽しめます!
併せてフィンランドの伝統的なクリスマス・パイ「Joulutorttu」も作ります。パイ生地の上にプルーンジャムをのせた星形のパイです。
フィンランドのクリスマスのお菓子を一緒に作ってみませんか?
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1744243974iamg@1744243974arumi1744243974hsoy.1744243974iviap1744243974 まで。 電話03-6233-7109 福音ルーテルスオミ・キリスト教会
11月の手芸クラブは27日に開催しました。11月の終わりにしては暖かい陽気の日の朝、いつもより大勢の方が教会に集まりました。
今回の作品はフィンランドの伝統的なクリスマス・オーナメントの”ヒンメリ” Himmeliです。材料はフィンランドから送られた天然の藁です!今回の手芸クラブではスオミ教会の元宣教師パイヴィ&マルッティ・ポウッカ先生ご夫妻に奉仕していただきました。
最初にヒンメリの一番大きい立方体を作ります。藁三本を糸に通してそれを結ぶと三角形になります。それに追加の藁二本を糸に通すと三角形の続きが出来ます。これをあと三回繰り返します。最後に藁一本を糸に通して立方体の形ができます。これでヒンメリの一部ができました。藁の中には細目のものもあったので糸を通すのは少し難しかったですが、参加者の皆さんは一生懸命頑張りました。「わぁ、きれいな形!」との嬉しいそうな声があちこちから聞こえてきました。
ここからは参加者一人一人がマイペースで小さな立方体を作り続けます。テーブルの上はあっという間にヒンメリの立方体で一杯になりました。作っている間、マルッティ先生が歌を歌ったりピアノやフルートの曲を弾いて下さり、心が癒されました。「素晴らしい!」と皆さん感激。ヒンメリは立方体を全部繋げると大きくなり持って帰るのは難しくなるので、多くの方はお家で最後の組み合わせることにしました。さて、どんなヒンメリに仕上がるか楽しみです。それでも何人かの方は教会で完成させた方もおられました。ある参加者の方は以前手芸クラブで作ったルームシューズをお家で仕上げて、それを持ってきて見せて下さいました。
素敵なバックラウンドミュージックがあったおかげで時間はあっという間にたち、いつの間にかコーヒータイムになりました。
皆でフィンランドのシナモンロールをコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談を続けました。いつものように聖書のお話も聞きました。ポウッカ・パイヴィ先生はパワーポイントを見せながら「主の祈り」について教えて下さいました。「主の祈り」は教会の日曜礼拝でも唱える祈りです。「主の祈り」の深い意味を教えて頂きました。
「天にまします我らの父よ。 願わくはみ名をあがめさせたまえ。 み国を来たらせたまえ。 み心の天に成るごとく、地にも成させたまえ。 われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ。 われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく、 われらの罪をもゆるしたまえ。 われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。 国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。」 アーメン
次回の手芸クラブは年明けの1月29日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!
礼拝の後のコーヒータイムでは、マルッティ先生のフルートと独唱でフィンランドの讃美歌「恵みの歌」を日本語で披露して下さいました。 パイヴィ先生からはパワーポイントを用いたメッセージ「神様の三つの贈り物」、終わりにみんなで一緒にP.シモヨキの「僕らは二つの国民なのさ」を歌いました。
先週のコラムで、キリスト教の「祝福」と日本語の通常の「祝福」の違いについて述べました。同じ言葉を使っても意味が異なるという例でした。 今回は、異なる意味を持つ言葉なのに同じことを意味すると誤解されてしまっていることについてです。それは、亡くなった方との向き合い方を言う時、「慰霊」と言うのか、「追悼または追憶(メモリアル)」と言うのか、と言う問題です。
「慰霊」は文字通り霊を慰めることです。「追悼または追憶」は思い出(メモリアル)に関わることで、霊を慰めるという観点はありません。しかし、実際には日本語で「慰霊」と言っているものが英語でmemorial serviceと訳されたり(フィンランド語ではmuistotilaisuus)、逆もまたしかり。例として安倍元首相が首相時代の2015年に米国議会で行った演説を見てみましょう。第二次大戦中の米国の戦争犠牲者に言及する下りで次のように述べました。「先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます。」(I offer with porfound respect my eternal condolences to the souls of all American people that were lost during World War II.)この演説の中で元首相は硫黄島の戦いに従軍した元米軍将校が日米合同の記念式典に参加した時の発言を引用しました。元将校曰く、「(式典に参加した目的は)双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えるためです。」(to pay tribute to and honor those who lost their lives on both sides 以上の日本語訳は日本政府による)
元首相が敬意を表するのは「魂」という死者の現在の有り様。元将校の場合は、命を落とした人という過去の有り様。魂ではありません。硫黄島の記念式典も、英語の原文ではmemorial servicesという追悼・追憶の式なのに、日本語訳では「慰霊祭」に変身。フィンランドの弔辞の決まり文句の一つは、「故人の思い出に敬意を表します」です。魂でも霊でもありません。
かつて政治学者の京極純一は「日本の政治」の中で、死者の霊を慰めるとか魂を鎮めるというのは、もし怠れば霊の機嫌を損ねて祟られるという恐れと一体になっている、日本の公的・私的空間にはそういう鎮魂慰撫の影響が見られ、日本人の行動様式の無視できない要因になっていると。キリスト信仰にあっては、宗教改革のルターも言うように、亡くなった方は痛みや苦しみから解放されて復活の日まで安らかに眠っています。なので、そっとしてあげます。今はその愛すべき方と、その方と過ごせた日々を与えて下さった神に感謝し、過去の大切な思い出と将来の復活の日の再会の希望を胸に抱いて今を生きるというスタンスになると思います。
講演者 堀越洋一氏
本日は、堀ノ内病院(埼玉県新座市)の地域医療センターで在宅診療に携わる堀越洋一医師をお迎えして上記の題目で講演会を行いました。 エンディングノートと聞くと、大方は、ただ人生の最終段階に向けた準備と受け取るのではないでしょうか?実は、それを記入することは、自分らしく今をより良く生きるためのヒントを見いだす前向きな活動であるということを堀越医師はわかりやすく丁寧にお話し下さいました。
今回の講演では、新座市が市民向けに発行・提供しているエンディングノートを具体例にして解説して下さいました。
エンディングノートの内容はいろいろな分野に分かれています。(1)自分自身について記入する章、(2)人生の最終段階における医療やケア・介護についての考え方や希望を記入する章、(3)亡くなった後の葬儀や財産その他の事務的なことについての考え方や希望を記入する章、(4)大切な人へのメッセージを記入する章。今回の講演では、(1)と(2)を中心にお話しして下さいました。
1は、自分史を記入するところから始まって、自分の夢、今の健康状態、自分と関りのある人たちについて記入するところです。
2は、以下の項目について選択肢の中から答えを選びます。介護が必要になった時に希望する介護者、介護してほしい場所、介護費用、人生の最期を迎えたい場所、重大な病気になった場合の告知の有無、判断能力が低下した場合の対応方、生き続けることは大変かもしれないと自分が思う状況。それと、生きられる時間が限られている場合に何を大切なことと考えるか、自分で決められなくなったら治療ケアを誰に代わりに決めてほしいかのリストを記入するところもあります。
これらの記入項目について、堀越医師は自分だったらこう記入します、と例を示しながら解説して下さったので、聞く方にとっても記入することが身近に感じられるようになったのではと思いました。
これらの記入は、エンディングノートの最初の「活用のポイント」にもあるように、何度でも書き直しが出来るように鉛筆書きが推奨されます。熟慮を重ねて、自分にとって最良のもの納得のいくものが書ければいいのです。
それと、2に関連して、肉親等、身近な人や、医療・介護従事者も交えて、項目について話し合う「人生会議」を持つことの重要性も話されました。人生の最終段階の重要な事柄について、自分の考え方や希望をそうした人たちと共有することですが、実際には、十分余裕をもって人生会議が行われることはほとんどなく、大抵は、大きな病気をしたり介護が必要になった段階で初めて行われるとのこと。その時に、医師や介護側から会議を開くように推奨するのだそうです。もしその時までにエンディングノートに記入がされていれば、会議の話し合いがスムーズに行くことになり、その意味で人生会議の準備の役割を果たします。難しい項目についていきなり話し合うよりも、本人が前もって文章化できていれば、そういうことが可能になるのです。
実は、エンディングノートは今はどの自治体にも準備がされており、問い合わせれば誰でも入手できるものだそうです(新座市のものは300円)。
堀越医師は、ご自分が記入する際に「人生の価値」とは何かを考え、その方向づけにあるものとしてV.E.フランクル(オーストリアの心理学者でアウシュビッツ生還者)の「死と愛」の中に掲げられている3つの価値を紹介して下さいました。一つは「創造価値」で、何かを行うこと、活動したり創造したりすること、自分の「仕事」を実現すること、二つ目は「体験価値」で、何かを体験すること、自然、芸術、人間を愛すること、三つ目は「態度価値」で、自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるかという問いに対する答え。「態度価値」について堀越医師は、医療の現場の体験から見出された態度価値についてお話し下さいました。
「態度価値」について牧師の方からは、自分の可能性が制約されているというどうしようもない運命、逃れられない事実、それに対してどんな態度を取るかという問いの答えは、聖書が考える材料を提供してくれている、日曜日の礼拝も答えを見いだす一助になるはず、というコメントをいたしました。質疑応答では、いろいろ実際的な事柄に関する質問や、ご自身の体験を語って下さった方もおられ、1時間半の講演会はあっと言う間に終わった感じでした。(記録 吉村)
11月のスオミ教会・家庭料理クラブは9日、爽やかな秋晴れの中で開催しました。今回はフィンランド風三角パン(Kolmioleipä)とそれにあわせてポテトサラダも作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まずパンの生地を作ります。バジルを細かく刻むと香りが部屋中に広がりました。「いい香り!」と皆さんの心が躍ります。ボールに生地の材料を順番に入れて生地をよく捏ねて暖かい場所に置きます。そこで一回目の発酵をさせます。その間にポテトサラダの準備に入ります。まずはジャガイモをレシピ通りに切ります。切り終わる前に生地はあっという間に大きく膨らみました。パンを作るタイミングです。生地をテーブルの上で少しまた捏ねてから鉄板の上に伸ばして三角の形に切っていきます。パン生地の上に水を塗って白ゴマを上にかけてから二回目の発酵をさせます。各グループのパン生地は皆きれいな形にできています。これが焼き上がったらどんなパンになるのかな、と皆さんワクワクでした。
二回目の発酵させている間に今度はポテトサラダのドレッシングの準備をします。それから発酵した三角パンの生地をオーブンに入れます。ほどなくして教会の中はサラダのドレッシングと焼きたてのパンの香りで一杯になりました。一息ついた時に、ウクレレのレッスンから直接いらした参加者の方が演奏を披露して下さいました。食前に音楽鑑賞もあって、今回の料理クラブは格別でした!
さて、焼きあがったばかりの香ばしいパンにマーガリンを塗って、ポテトサラダと一緒に味わう時間になりました。「やっぱりパンは焼きたてが最高!」との声があちこちから聞こえてきます。皆さんと一緒に美味しくて本当に満ち足りた歓談の時を過ごしました。そこでフィンランドの「収穫感謝の日」や聖書が教えている感謝についてのお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回はもう待降節(アドベント)の期間の開催になります!12月14日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はフィンランド風の三角パンを作りました。料理クラブではもう何回もフィンランド風のパンを作りましたが、今日みたいなパンは初めてでした。今日のパンは一個一個の形を作らなくて大丈夫なので、忙しい時でも簡単に作れます。忙しい時に焼きたてのパンを味わったら、ホッとして幸せな感じがするのではないでしょうか。
今日のパンは生地の中に細切れのバジルも少し入れたので、バジルの風味もします。バジル風味のパンはバターかマーガリンだけでもとても美味しいです。
ところでフィンランドでは毎年、「今年の野菜」を選んで、多くの人がその野菜をもっと食べるようにというキャンペーンがあります。「今年の野菜」に選ばれたのはバジルでした。
フィンランドではバジルはパセリとディルの次に最も使われているハーブです。ハーブの王とも言われます。パスタ、鶏肉、魚、トマトを使った料理によく合います。バジルの香りが保たれるように料理が出来上がり少し前の段階に入れます。バジルは健康にも良く、例えば消化を促進したり、コレステロールを下げる効果があります。このためフィンランドではバジルがもっと使われるようにキャンペーンをします。バジルは寒さに弱いのでその収穫は秋の前に終わります。
ところで、秋は収穫の季節です。秋になると野菜、果物、麦が熟する順番に集まります。フィンランドでは冬は日本より早く来るため、これらの収穫は8月と9月です。麦やジャガイモの収穫が終わると、「収穫感謝の日」という日が10月の終わりにあります。その日、教会学校の子供たちは、ジャガイモや人参、リンゴや麦の束を教会に持って行って聖壇の前に飾ります。こうして飾られた作物は、教会を訪れる人々の目に、収穫を通して生まれる神への感謝の気持ちが具体的に表れたものとなります。この習慣はフィンランドでは昔からあり、今でも続いています。この間私は、私の実家の教会で行われた「収穫感謝の日」の行事についての地方新聞の記事で読みました。日本でも教会によってはお祝いするところもあります。私が以前働いていた日本の教会で感謝祭のお祝いがありました。その時教会学校の子どもたちがジャガイモ、ニンジン、大根など野菜を持ってきて、教会の中庭で皆で一緒に豚汁を作りました。
出来た豚汁はとても美味しく何回もおかわりをした子供もいました。もちろん大人の方々も皆美味しく頂きました。この行事を通して、子どもたちが野菜や果物などは天と地を造られた神様からの贈り物であると教える目的がありました。子どもたちも大人も皆、美味しい豚汁を頂いたので、感謝の気持ちも生まれたでしょう。このように「収穫感謝の日」は感謝について考えさせる機会です。
ところで、感謝の気持ちはどこから生まれるでしょうか?日常生活の中には感謝することが沢山あると思います。例えば健康、家族、毎日のご飯、衣服、住まいなどです。しかし、それらは当たり前のことなので、感謝の気持ちは忘れてしまうかもしれません。しかし深く考えると、それらは当たり前のことではなく、全ては天と地と人間を造られた神さまから頂いたものと気づくようになります。それで神さまの方を向く感謝の気持ちが生まれるのです。
聖書の中に感謝について次のように書いてある箇所があります。「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです」使徒パウロが書いたテサロニケの信徒への第一の手紙の5章18節です。
私たちはパウロが教えるように、どんなことにも天の神さまに感謝することが出来るでしょうか?神さまは私たちが感謝することを望んでおられます。私たちにそのような気持ちはどこから生まれるでしょうか?生活の中に嬉しい、素晴らしいことがある時に感謝するのは簡単です。しかし、当たりまえのようになったら感謝するのを簡単に忘れてしまうのではないでしょうか?また、生活の中に困難がある時には感謝することなどできないでしょう。
ここでリーナ・サンデルというスウェーデンの女性の作詞家のことを紹介したいと思います。サンデルさんはスウェーデンとフィンランドの教会の讃美歌や聖歌の詩を沢山書きました。彼女の讃美歌や聖歌は今でもフィンランドの教会の礼拝でも歌われています。サンデルさんが書いた讃美歌の一つに「神よ、恵みと全てのことをあなたに感謝します」という歌があります。サンデルさんは若い時に親や兄弟と死に別れました。その悲しみはずっとサンデルさんの心に残っていました。それなのにこのタイトルのような感謝の讃美歌の詩を書いたのです。彼女の神さまに対する感謝の気持ちはどこから生まれたのでしょうか?彼女は悲しみの中でも神さまの良い導きがあることを信頼していつもお祈りしていたのです。お祈りの中で全てのことを、喜びも悲しみも全て、神さまに委ねることが出来るようになって、神さまから平安を心の中に頂いて感謝の気持ちが生まれたのです。神さまを信頼する信仰はサンデルさんの感謝の源になったのです。
私たちもサンデルさんのように神さまを信じて信頼することで感謝の気持ちが生まれます。神さまから良い導きがあると信頼することが出来れば、全てのことを神さまの御手に委ねることができます。生活の中に素晴らしいことだけではなく困難がある時にも天の父である神さまにお祈りして全てを委ねることが出来れば、神様に感謝の気持ちが起こります。この時、私たちは心に平安を得られます。神様が与えて下さる平安です。
「収穫感謝の日」は野菜、果物など全てのものは神さまから頂くものということを思い出させます。私たちの感謝は全ての造り主である神さまに向けられるのは相応しいことです。