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どうしてキリスト信仰者はいつも喜んでいられるのか?
使徒パウロはキリスト信仰者に「いつも喜んでいなさい」と勧めます(第一テサロニケ5章16節、他にもフィリピや第二コリントなど多数)。 嫌なことがあっても、嫌なことの最中でこそ喜んでいなさいと言うのです。どうしてそんなことが出来るでしょうか?宗教改革のルターは喜んでいられるコツを次のように教えます。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 5月28日の個所から)
「この御言葉から我々は、嫌なことに遭遇した時、イエス様を救い主と信じる信仰が本当に必要だということがわかる。信仰は嫌なこと忌まわしいことを全て軽いものにする。時には麗しいものにさえする。殉教者の生き方がまさにそうである。逆に信仰がないと、全てのことは煩わしい辛いものになってしまう。たとえ、全世界の歓楽と享楽を手にしていてもだ。そのことは、憐れな人生を送った金持ちたちの生き方が示している。
次のようなことを言う者がいる。「それじゃ、嫌なことに遭遇した時、それは自分の愚かさや悪魔が引き起こしたのではなく神が引き起こしたと思えば、喜んでいられるのか?」と。何という言い草!信仰の欠如以外の何ものでもない。キリストは言われたではないか?鳩が地に落ちるのは神がそう決めた時であると。また、神は私たちの頭の髪の毛の数を一本残らず数えておられると。
罪と愚かさが原因で嫌なことに遭遇することがあるが、あなたの罪と愚かさが関わっていなくても同じような嫌なことに遭遇することもあるのだ。その場合の嫌なことは神の御心に適っている。なぜなら、罪以外のものは全て神の御心に適うものだからだ。なので、もしあなたが、あなたの罪と無関係な嫌な課題を抱えてしまったのならば、それは、あなたが取り組むようにと神がお許しになったのだ。
その時あなたの成すべきことはただ一つ、取り組みにおいて正しく立ち振る舞うことだ(※)。そして、課題の取り組みにおいて感じるであろう、なんで私がこんなことを、という反発ややるせなさは実は、あなたがまさに神の御心に適う課題に取り組んでいることの証しなのである。その取り組みの中には神が一緒におられることを忘れるな。神は悪魔があなたを試すことを許可したのだ。あなたが神に対して忠実でいて課題に取り組んでいくか、それとも放棄してしまうかを見定めるために。すなわち、神はあなたに信仰の戦いを戦う機会と信仰にあって成長する機会を与えて下さるのだ。
※訳者注 「正しく立ち振る舞う」とは、十戒の掟に従って立ち振る舞うことです。
蛍袋・ホタルブクロ
裏の叢に夏草に交じってホタルブクロが咲き出しました、僅か一輪ですが真新しいホタルブクロは生き生きとしていました。ホタルブクロを見ていて「夏の賛歌」というフインランドの美しい讃美歌(571番)を思い出しました。6月はフインランドでは「Kesäkuu. 夏(の)月」と呼ばれています。さらに夏の月に相応しい讃美歌もありました。以前、教会でも歌ったこともあったかもしれません。フインランド讃美歌571番にJo joutui armas aika→suvivirsi (夏の賛歌)という美しい讃美歌です。
Suvivirsi(夏の賛歌)をdeeplでざっくり訳してみました。歌の凡その内容は掴めたと思います。
5月の手芸クラブは22日に開催しました。梅雨が近づいているのか雨の多い日々でしたが、その日は爽やかな天候の中で開催することができました。
前回に続いて今回もクロスステッチの刺繡です。参加された方々が前回途中までだった作品をお家で頑張って完成させて、それを持ってきて見せて下さいました。たちまち、「わぁー可愛い!」「こんなに沢山頑張ったんですね!」「素敵な模様だわ!」などの声があがりました。
今回もチャレンジして作ってみたい模様を決めて、それに合う糸の色と布を選び、早速刺繡に取りかかります。細かいクロスステッチでしたが、参加者の皆さんは沢山練習したので模様の形がとても上手にあっという間にはっきり現れてきました。刺繡は細かい作業なので目が疲れやすく肩も簡単に痛みます。それで時々休憩を取ることも必要です。刺繡は完成まで時間がかかりますが、お家で完成させたものを皆で一緒に見てお互いに素敵なものが出来ると本当にわかりました。夏の間お家で完成させることは一つの楽しみになるでしょう。
コーヒータイムで肩をリラックスさせます。今回はフィンランドのドーナツMunkkiをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。今回のコーヒータイムのお話は「練習の大切さ」について。刺繍を一生懸命に練習した皆さんにはちょうど良いテーマでした。お話の中ではまた、世の中には練習ができないですぐ臨まなければならない不確かなこともあるけれども、天の神さまはいつも確かなものを与えて下さるという聖書のメッセージもありました。
夏の間手芸クラブはお休みになります。また9月25日に再開する予定です。10月が近づき秋も深まり始めると暖かい服の季節になります。それで9月は毛糸の編み物を考えています。開催日が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。天の神さまが皆様の夏の生活と健康を守られますように。
手芸クラブでは先月も刺繡をしました。皆さんクロスステッチを一生懸命練習したので、今回は本当に上手に出来ました。
この間フィンランドの雑誌を読んでいた時に、ある俳優が本番前のリハーサルをとても大事にしているという記事を読みました。その人にとってリハーサルは本番のために勇気と自信を与える機会になるのでとても大事なことだと話していました。本番に強いという人もいますが、私は多分その俳優と同じタイプなので、リハーサルや練習はとても大事です。本番で失敗しないために前もっていろいろ練習するのは必要なことです。
フィンランドでは「練習がチャンピンを作る」という言い回しがあります。陸上選手は一生懸命走る練習をしてから自信と勇気をもって競技に参加します。練習をする方がしないよりも、本番の時にどうなるか予測しやすくなるでしょう。ところが、人生のことの全てはスポーツや音楽や劇のように練習することは難しいかもしれません。例えば新しい仕事や新しい人間関係は練習をして本番に入るというよりは、すぐ本番ではないでしょうか?私たちの将来のことも、前もって練習することはできません。練習なしで本番に入るようなものではないでしょうか?それで将来のことは予測が難しくて不確かな感じがすると思います。
このような時、私は聖書を開いて神さまのみ言葉を読みます。それは、不確かなところに確かなものを与えてくれるからです。例えば、旧約聖書の詩篇には次のように書いてあります。フィンランド語の聖書を日本語に訳します。「主を信頼しなさい。しっかり立ちなさい、勇気を持ちなさい。主を信頼しなさい。」詩編27編14節のみ言葉です。天の父なる神さまは私たちの造り主でもあります。それで、私たち一人一人の弱さや、私たちが不確かな世界の中を歩んでいることをよくご存じです。そのためにこのみ言葉を私たちに与えられたのです。神さまは私たちの将来のことも、ここを進んだらあなたにとって一番良いのだ、と私たちに一人一人に相応しい道を開いて下さるのです。それに気がつくと、神さまは本当に私たちのことを一人一人大切に考えて下さっているとわかります。それが神さまに対する信頼と道を進む勇気になるのです。
旧約聖書の箴言には次のみ言葉があります。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにして下さる。」箴言3章5-6節です。私たちは自分の将来についていろんな計画を立てますが、実際にどうなるかはわかりません。私たちは自分の生き方を全部自分の思うようにすることはできないからです。しかし、天の神さまが私たちに歩むのにふさわしい道を開いて下さり、それを歩む力も与えて下さいます。それが、神さまが歩きなさいと言っている「あなたの道」です。神さまが道筋をまっすぐにすることが私たちの歩く力になるのです。これらのことは、私たちが自分の分別を頼ってそれに全てを委ねないで、神さまに信頼して全てを委ねると、本当のことになります。そして、神さまが開いて下さる道はこの世の人生が終わる時が終着点ではありません。この道の終着点は永遠の命だからです。
私たちは、練習があまりできない本番ばかりの不確かな世で生きなければなりません。しかし、神さまに信頼して全てを委ねることが出来れば、不確かな世の中で確かなものを得られて、心の中に平安と安心を得ることが出来るのです。
5月11日の料理クラブはとても爽やかな五月晴れの中で開催しました。今回はフィンランドで人気のあるウィルヘルミーナ・クッキーとフィンランドの伝統的なデザートのベリー・スープKiisseliを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、クッキーの生地。材料を測ってからハンドミキサーでマーガリンと砂糖も一緒に泡立てます。それから順番に他の材料を加えて軽く混ぜて生地の出来上がり。柔らかい生地を固めにするために冷蔵庫に入れておきます。次はベリー・スープ。今回はブルーベリーをベースにするので、ブルーベリーをしばらく煮込んでスープ状に。それから片栗粉でとろみをつけてスライスしたイチゴを加えてKiisseli は出来上がり。「美味しそう、早く食べてみたい」との声があちらこちらから聞こえてきました。Kiisseliはひとまず冷やします。Kiisseli を作っている間にクッキーの生地は固くなりました。そこでクッキーの形作りをします。生地を丸めて長い棒にします。各自それぞれ生地の棒を作りますので、あっという間に沢山のクッキー棒が鉄板の上に並びました。それからオーブンに入れて焼きます。クッキーはオーブンの中でとても広がったので、皆さんビックリしましたが、それは生地に粉が足りなかったからではありません。茶色になったクッキーをオーブンから出して、熱いうちに小さめのクッキーの形に切っていくと、「わあー、こんなふうに作るの!」と驚きの声も。
テーブルのセッティングをして出来上がったものを頂く時間になりました。特に、ウィルヘルミーナ・クッキーはコーヒーや紅茶と一緒に味わうのが美味しい頂き方です。皆さんと一緒にフィンランド人が大好きなデザート・クッキーとベリー・スープを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。翌日は母の日だったので「フィンランドの母の日の過ごし方」や、「私たちの造り主である天の神さまは私たちを守り導いて下さる方」という聖書のお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間お休みになります。秋の再開する日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!
今日はフィンランドのお祝いのパーティーにも出されるWilhelmiina pikkuleipä とフィンランドの伝統的なデザートKiisseliを作りました。ウィルヘルミーナ・クッキーはフィンランドで人気があるクッキーの一つです。このサクサクした感じのクッキーは材料も特別なものはなく作り方も簡単ですので、家庭でもよく作られます。
Kiisseli はフィンランドの伝統的なデザートの一つです。Kiisseliはベリーのジュースに片栗粉でとろみをつけて作ります。私が子供の頃、お祖母さんは食事の栄養のバランスの為に週に何回もKiiseliを食事のデザートに作りました。今では学校の給食のメニューにもあります。Kiisseli はそのまま食べてもよいし、オートミールやライスのお粥の上にソースみたいにしてかけて食べてもよいです。Kiiseliはベリーで作るのが多いですが、他の果物、例えばプルーン、オレンジ、レモンからでも作られます。でも、やっぱり、フィンランド人は森で採ってきたブルーベリーやリンゴンベリーやクラウドベリー、庭や畑で出来るイチゴ、ラズベリー、赤スグリと黒スグリのようなベリーが大好きなので、ベリーのKiiseliが一番おいしいと思うでしょう。
今日の料理クラブではケーキは作りませんでしたが、今はお店できれいな飾り付けのケーキが沢山並んでいます。明日は母の日だからです。5月第2の日曜日はフィンランドでも世界中の国々でも母の日のお祝いです。
フィンランドでは母の日をどのように過ごすか、それを少しお話したく思います。子どもたちが小学生くらいまでの小さな時は、母の日が近づくと、学校で母の日のカードを作ったり、簡単なブレセントを作りします。私もフィンランドにいた時は、子どもたちが学校で可愛い模様を刺繡したタオルや、絵の具で手の跡を模様につけた買い物袋などをもらいました。母の日の前には子どもたちと父親はお母さんを驚かせようと、いろいろ内緒のことがあるようです。
母の日になると、子どもたちは朝早くお母さんがまだ寝ている時に起きてコーヒーを沸かし、前もって準備したケーキやプレゼントを持って、お母さんのベッドに運び、そこでハッピーバスデーのメロディーでお祝いの歌を歌ってお母さんを起こします。子どもは大きくなって独立すると、母の日に実家に帰ってお母さんにプレゼントやお花を渡したりします。フィンランドでは母の日の花はカーネイションではなく多いのはバラです。もちろん他の種類の花も贈られます。
母の日の頃のフィンランドはまだ暖かい季節ではないので、咲いている自然の花はあまり種類はありません。しかし、必ず咲いている花があります。黄色のたんぽぽです。私は子どもの頃、たんぽぽの花で冠を作って母の頭によくのせました。母の日が終わると、だんだん色んな花が咲き始めます。五月の終わりと六月の初めのフィンランドは自然の中でいろんな種類の花が一斉に咲き始めるので、色が豊かでとてもきれいな季節です。
母の日にお母さんを喜ばせる花はカーネイションやバラなどの花屋さんの花ですが、花屋さんの花も自然の花も私たちの心を慰めて喜ばせてくれます。実は全ての花は、私たち人間と同じように造り主の神さまの手によるものです。聖書にあるように、万物は神さまが造られたものだからです。
イエス様が話された有名なみ言葉があります。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」マタイ6章28-29節です。
お母さんが子どもを大切に育て世話をするのと同じように、私たちの造り主である天の神さまも私たちの世話をします。子どもが成長して独立すると、お母さんは子どもが大丈夫だろうかと心配します。今読みました聖書の箇所は、イエス様が「思い悩むのはやめなさい」と教える一つの例として話されるところです。お母さんはいつまでも子どもと一緒にはいられませんが、天の神さまはずっと一緒にいて下さいます。天の神さまは私たちの父だからです。私たち一人一人のこと、喜びや悲しみや心配事を全てご存じで、それで私たちの世話をします。私たちをどんな時でも守り導いて下さるのです。神さまの守りと導きは私たちがどう感じようが関係なく、いつもあるものです。私たちが神さまの導きを感じる時に導かれるということではありません。私たちが困難な状況にいる時も、私たちが気がつかない仕方で確かに守り導いて下さっているのです。
先ほどお読みした聖書の箇所から明らかなように、毎年春になると花が咲くのは神さまがそのように装って下さるからです。同じように神さまは私たち一人一人のことも覚えて見守って下さり、私たちも花のように咲いて良い実を結ぶことができるように必要なものを毎日与えて下さいます。神様は、困難のない生活を与えるとは約束していません。しかし神さまは私たちにどんなことが起こっても全てをご存じで私たちと共に歩んで下さいます。この世界はいつも変化ばかりですが、神さまの私たち一人一人に対する愛や良い計画は変わりません。神さまは私たちを担い背負い、そして救って下さいます。独り子イエス様をこの世に送って下さったことに、神さまの私たちに対する変わらない愛が示されています。イエス様は私たちの救い主であると信じることが出来れば、神さまは私たちを神の国までも背負って導いて下さいます。
母の日は、お母さんが私たちに尽くしてくれたことや注いでくれた愛を特別な感謝の気持ちで覚える日です。同じように神さまが私たちに示された愛を覚えて、しかも、毎日覚えて感謝の気持ちに満たされて歩んでいきましょう。
スオミ教会は本物の教会ではない?
スオミ教会が現在の所に移転した後のこと。ある雑誌社の取材を受けた。 東京中の北欧関係スポットの特集を組むということで、スオミ教会の料理クラブや手芸クラブの紹介も掲載。取材者が電話で席を外した時、話し声が聞こえてきた。「はい、今、教会です。それにしても、ここ、教会なんですって。」あれっ、ここは教会じゃないということなのかな。一般の日本人にとってキリスト教会というのは、やっぱり立派な建物で天上高く、パイプオルガンが鳴り響くところなんだろうなあ。
スオミ教会も以前は自前の“立派な“建物があったのだが、構造上の問題はもうどんな改修も解決不可能と判明。ミッション団体SLEYも日本の教団とのお金絡みの交渉では赤子も同然、気がついたら無財産の無一文に。もう自前の建物は無理、マンションの賃貸物件が礼拝を続けられる現実的な選択肢に。それでも、来る人が心に安らぎを得られるような礼拝空間にしようと内装面もいろいろ工夫努力を重ねてきたつもりだった。しかし、やはり「自前の立派な天上高くパイプオルガン….」には敵わないのだろう。移転前後に教会から離れてしまう人が続出。
ところが、フィンランドのキリスト信仰者たちはスオミ教会を「教会」と見なして支援を続けてくれているのだ。トゥルクの大聖堂が教会であるのと同じように、スオミ教会も全く同じ教会という認識なのだ。SLEYが宣教師を派遣している国にウガンダとか南スーダンもあるが、そこでは屋根のない掘っ立て小屋以下の教会もある。それも教会という認識なのだ。なぜか?フィンランドのキリスト信仰者は日本人に比べて感覚がずれているのか?
賃貸教会も屋根なし掘っ立て教会も間違いなく教会だという根拠は、ルター派の信仰告白の一つである「アウグスブルグ信仰告白」の第7条にある。「教会とは、福音が純粋に宣べ伝えられ聖礼典が正しく執行される聖徒の共同体である。」建物や外見、内装のことは何も言っていない。スオミでもアフリカの難民キャンプでも、福音の純粋な宣べ伝えに心が砕かれる。律法主義に陥らず反律法主義にも堕さず、神のみ言葉に人間の思想、哲学、イデオロギー、感情、心理学を混ぜ込まない。「聖書はそう言っているが、今はそのように考えなくてもいい」などと言わない。そのように使徒的伝統を受け継ぐ教会から正式な手続きを経て按手を受けた牧師が聖礼典を執行する。これらを備えていれば教会は本物という認識と感覚なのだ。
マタイ受難曲
バッハの「マタイ受難曲」は有名ですね。この曲が好きで毎年2・3度聞いています、3時間を超す大曲ですが何故か途中で席を立つことが出来ません。 教会でも何度か「ヴィア・ドロローサ」の寸劇でマタイ受難曲の中のコーラスのメロディを取り入れたことがありました。昔、カール・リヒター指揮・ミュンヘンバッハ管弦楽団・合唱団、ミュンヘン少年合唱団のVHSのカセットテープを持っていましたがいつの間にか紛失し、その後ネットで中古のDVDを見つけましたが2万円以上もする高額なものなので諦めていました。が最近、youtubeで同じものを見つけ感激しています。ドイツ語と日本語の訳が画面に出てきますのでとてもよくわかります。聖書で読むマタイの受難説と違って耳で聞く受難物語は思いがけない発見もします。特にユダがイエスを裏切った時の場面でイエスがユダにMein Freund・わがが友よ、と呼びかけています。たしか、イエスは弟子を呼びかける時は名前かニックネームで呼びかけていましたがこの場面ではユダを「友」と呼んでいます。聖書では何の疑いもなく読んでいましたが耳で聞くと何故かここのところが不思議でなりませんでした。
3時間超ですが宜しければお試し下さい。
次回の手芸クラブは刺繡をします。
今度はクロステージのテクニックを使って室内飾りを作ります。
静かにおしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費: 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み
*protected email*
03-6233-7109
福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
www.suomikyoukai.org
「しなければならないことをしただけです」
最近あまり耳にしなくなった言葉だが、「男女共同参画」に関する新聞のコラムでの話。ある共働きの夫婦、夫は家事を怠ける人ではないのだが、妻としては何かしっくりいかない。 なんだろう。それがわける出来事が起きた。妻が家事に追われている時、夫はソファーに座って新聞を読んでいる。妻は「ちょっと、私一人だけにさせないでよ」、それに対して夫は新聞に目を落としたまま、「何をしてほしいか言ってくれたら、手伝うよ」。それで妻は切れてしまったと。
これは私にも身に覚えのある話。読んで身につまされる思いがした。一人暮らしが長かったので炊事洗濯掃除はちゃんと身についていると自負していたのだが、結婚するや、父親が会社員、母親が専業主婦という過去の面影が息を吹き返してしまったのだろう、「言ってくれたら手伝うよ」を口にしてしまったのだ。相手はそういう昭和のコンテキストとは全く無縁。怒りに当惑が混ざったのも無理はない。家事育児は夫婦の共同事項という本当の意味は、極端に言えば、何かやり残していることはないか、それを先を競うようにして見つけ、見つけ次第さっさと率先して片づけてしまうということだったのだ。ソファーに座るのが許されるのは、「何かやり残していること」がない時なのだ。「言われて手伝う」というのは、まだ共同参画でも何でもないのだ。
これは教会も同じ。かつて講壇交換で他教会に赴くと、ある教会では大学の元理事長も週報を折ってハト箱に入れている、別の教会では著名な弁護士が壁のポスターで古くなったものを外して新しいものに貼り換えている、さらに別の教会では、某大国の大使も務められた元外交官が受付に立ち、来訪者一人一人に挨拶をして聖書と讃美歌集を手渡している。男だろうが女だろうが社会的に高い地位だろうがなんだろうが全く関係ない。みんなが、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』(ルカ17章10節)でなければならないのだ。
日時 5月16日 (木) 19時~20時10分
フィンランド語クラスは 【初級】だけとなります。
初級はフィンランド語がはじめての方向けですが、フィンランド語が少し出来る方もどうぞ!
授業は19時~20時、その後10分くらい聖書日課を読んだり讃美歌を歌ったりします。
参加費 1000円
申し込み順で受け付けます。 お問い合わせ、お申し込み *protected email* 03-6233-7109
スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4
キリスト信仰の「平和」と「平安」
イエス様は、「私はあなた方に平和を残しておく、私の平和をあなた方に与えるのだ。私は平和をこの世が与えるようには与えない」と言われました(ヨハネ14章27節)。 今、世界を見渡すと悲惨な戦争ばかり。戦争がない国でも人が人を傷つることが氾濫してしまっています。 イエス様の平和の約束は空しく聞こえるかもしれません。
しかし、キリスト信仰で言う「平和」の一番大元にあるものは、神と人間が平和な関係にあることです。人間が持つ罪のために神と敵対関係に置かれてしまっていたが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで平和な関係を持てる可能性が開かれた。人間はそれを受け取ると内に揺るがない「平安」を得て、波風猛る世にあっても雄々しく進むことが出来るようになる。どうして出来るのか?宗教改革のルターが次のように教えています(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 4月30日の個所から)。
『イエス様が言われる「平和」は、不幸がない時に心を安らかにするというものではない、不幸のただ中にあって、外面的には全てが動揺している時に心を安らかにするものだ。
この世の「平和」とキリストの「平和」の間には大きな違いがある。この世の「平和」とは、動揺を引き起こした悪がなくなることである。これとは逆にキリストの「平和」は、外面上は不幸が続いている状態、敵や疫病や欠乏や罪や死や悪魔が取り巻いている状況でも、内面的には心に慰めと励まし、「平安」があるというものだ。その時、心は不幸を意に介しないばかりか、不幸がない時以上に勇気と喜びに溢れて駆け上がっていく。それゆえ、この「平和」と「平安」は人知を超えていると言われるのだ。
理性が把握できる「平和」はこの世の「平和」だけである。理性は、悪がまだ残っているところに「平和」があるなどと理解できない。理性は心を安らかにする術を知らない。なぜなら、悪がある限り「平和」はないと考えるのが理性だからだ。キリストが私たちを顧みて下さる時、ひょっとしたら私たちの外面的な惨めさは取り除かれていないかもしれない。しかし、主が確実になさることは、キリスト信仰者を強くし、怯える者を恐れない者に、動揺する良心を落ち着かせることである。それで信仰者は、この世全てが恐れおののき青ざめる時でも、よく守られ喜びを失わないでいられるのだ。』
注 上記文の中で「平和」と「平安」と二つ類語が出てきますが、ギリシャ語の原文では両方ともエイレーネ―という一つの同じ言葉で言い表します。訳し分けたのは、「平和」と言うと、日本語ではどうしても戦争の反対の意味で捉えられてしまうからです。エイレーネ―は内面の「平和」すなわち「平安」も含みます。英語のpeaceやフィンランド語のrauhaも、外面的な「平和」と内面的な「平安」を両方含んでいます。面白いことに、スウェーデン語は日本語と同じように二つに区別しているようです。例えば、ローマ12章18節でパウロが全ての人と「平和な」関係を保ちなさいと言う時、fredという言葉を使い、イエス様が「平和」を与えると言う上記ヨハネ14章27節では、fridという言葉を使っています。大体、外面的な「平和」はfredが用いられています(例えばルカ14章32節)。しかしながら、神との「平和な」関係について述べているローマ5章1節ではfredではなく、fridを用いているので、そこでは外面的なものと内面的なもの両方が含まれていると考えられていると思います。