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なぜ日本では牧師は「先生」なのか?
昔、フィンランド留学中に現地のキリスト教会(ルター派)で聖書の学びと洗礼を受けて日本に帰国する時、教会関係者から東京にあるルーテルO教会を紹介してもらった。 帰国後、早速電話すると事務の方が応対。「牧師のKさんをお願いします。」相手は少し間をおいて「牧師のK先生ですね。少しお待ち下さい。」 思わず、エーッ、日本では牧師は「先生」と呼ばないといけないのか!フィンランドでは牧師と信徒はファーストネームで呼び捨て。その東京の教会にはSLEYの牧師も宣教師として働いていて、彼とフィンランド語で話す時は、「おい、ペッカ」、「なんだ、ヒロアキ」だが、周りの人も一緒に日本語で話すと、「あの、フフティネン先生」、「なんですか、吉村さん」と全く別人格の世界を行ったり来たりするようであった。
牧師を「先生」と呼ぶのは、聖書を教えるからか?日本の神学校では牧師養成の課程を「教職」課程と呼ぶところもある。しかし、それだけではなさそうだ。14年前、SLEYの宣教師として日本に来た時、日本の協力教団(当時)のお偉方と初の顔合わせの会合の席、私の仕事の内容の打合せが始まり、最初の議題はなんと私を「先生」と呼んでいいのかどうか(当時はまだ牧師の按手を受けていなかった)。だめだ!だめだ!牧師でもない者を先生呼ばわりするのは認められない、と剣幕の人もいれば、「でもフィンランドの大学の神学部で博士号を取ったと言っているから、聖書くらい教えられるでしょ。」「でも、牧師でなければダメ!」と結局コンセンサスは得られず、その教団の中では暫く先生という人もいれば、さんづけの人もいた(次第に先生に統一されていったが)。
牧師を「先生」と呼ぶ理由として聖書を教えること以外に何があるか考えてみた。洗礼や聖餐式の聖礼典を執行するという牧師の職責、また結婚式や葬式のような宗教的な儀式も。しかし、住職や神主は「先生」と呼ばれるだろうか?それから、教会を一つにまとめ、信徒一人ひとりの信仰を御言葉と聖礼典を通して支えると共に、見舞ったり話を聞いたりお祈りしたりして支える牧会者としての役割。しかし、教会の頭はあくまでキリスト。その前には牧会者も信徒同様、一弟子にしかすぎない。
先日チャーチカフェで、私のことを昔から知っているT氏が私のことを吉村牧師と言ったり、昔ながらに吉村さんと言ったりした。彼は上記O教会の信徒。自分の教会の牧師は先生と呼んでいると思うが、昔から知っている吉村さんを吉村先生に変更すると、今まで同列にいたのが上下の序列になってしまうようで何か変、今まで通りがいい、でも牧師であることははっきりさせたい、ということなのだろうか。私はそれで良いと思った。フィンランドで例えば同じ人が「Aさん、牧師が呼んでいるよ」と言う時もあれば、「Aさん、ペッカが呼んでいるよ」と言う時もある。それに似ているのではないかとも思った。
この夏フィンランドで支援教会訪問を行った時、ある教会で礼拝の説教と聖餐式を担当しました。 説教は20分と少しの長さで、讃美歌は全部の節を歌い、聖餐式は20名(田舎の教会なので少なめ)、それで1時間15分で終わりました。スオミでは説教は今まで30分以上でしたが、これを20分位にしても1時間半位かかります。どうしてだろう?先週の役員会で長い話し合いになりました。
そこで一つ分かったのは、フィンランドの(ルター派の)礼拝は流れるような感じがあるということでした。スオミでは、合間合間に「次は~です」と言いますが、それがなく、会衆は皆、いつ立つか、いつ歌うか、朗読があるか、わかっている。初めて来た人も静かに全体の流れにあわせればよく、何度か通ううちに慣れていきます。讃美歌の個所も、金属製の数字の掲示板がどの教会にもあり(会堂の壁のあちこちに)、それを見ればいいので司式者はあえて言いません。自然に伴奏が始まり、皆で歌い始めます。聖餐式も、設定辞以外は司式者と会衆が交互に歌いながら進む感じです。設定辞のところで音楽の流れが一時止まって静まり、会衆は設定辞に全身全霊を集中させるかのようです。
そういうふうに礼拝を一つの音楽の流れのようにしていくことを考えています。説教の長さですが、20分はあくまで目安で、聖句と説き明かしがどうしても要求するものであれば、長くなることもあることをご了承ください。関西のルーテル教会で展開しているフィンランドの宣教師(SLEYとは別団体)たちは40~50分位の説教をすると聞いたことがあります。彼らは、よもやま話や高尚な世間話は一切しない、聖書一筋の人たちなので御言葉に渇く会衆にとっては大いなる恵みです。(私など一度40分位の説教したら、長すぎると怒られたことがあります。関西はいいなぁ、などと思ってしまいました。)
追記 SLEYの前海外伝道局長のフフティネン先生が、地元ヘルシンキの教会から上記の讃美歌掲示板を譲り受けて、それをスオミにプレゼントすることを考えています。ただとても大きいので金属ノコギリ等で小さくできるか思案中とのこと。
秋の最初のフィンランド語クラスは10月17日 (木) 19時~20時10分
今のところフィンランド語クラスは【初級】だけとなります。
初級はフィンランド語がはじめての方向けですが、フィンランド語が少し出来る方もどうぞ!
授業は19時~20時、その後10分くらい聖書日課を読んだり讃美歌を歌ったりします。
参加費 1000円
お問い合わせ、お申し込み moc.l1745075904iamg@1745075904arumi1745075904hsoy.1745075904iviap1745075904 03-6233-7109
スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4
フィンランドでは夏と秋はベリーの季節です。イチゴの他に、ブルーベリー、リンゴンベリー、ラズベリー、クラウドベリーなど森で自由に採れるベリーが沢山あります。森で採ったり、朝市で売っている新鮮なベリーを使って色とりどりのデザートやお菓子を作るのはフィンランドではとても普通です。次回の料理クラブでは家庭でもよく作られるベリーのケーキを作ります。このケーキはベリーそのものの味が美味しさを引き立てるだけでなく、焼きあがった生地の表面はサクサクするので香ばしさも一緒です。このフィンランドの典型的なお菓子の一つ、ベリーのケーキを是非ご一緒に作って味わってみませんか?
参加費は一人1,500円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1745075904iamg@1745075904arumi1745075904hsoy.1745075904iviap1745075904 まで。
電話03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
僕らは二つの国の国民なのさ」
フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライターのペッカ・シモヨキの曲の中に「僕らは二つの国の国民なのさ」Kahden maan kansalainenという歌があります。新約聖書フィリピ3章20節「我らの国籍は天に在り」とか「私たちの本国は天にあります」とか訳されている聖句に由来する歌です。キリスト信仰者とは、この世の国に属しながらも、天にある本国を目指してこの世を歩む者であるという心意気を歌い上げています。ご機嫌な感じのポップス・フォークソング・ゴスペルソングです。フィンランドの堅信礼のキャンプでも必ず歌われる若者向け聖歌の一つ、クリスチャンならみんな知っています。
何年か前にルーテル市ヶ谷教会で開催された一日教会祭にスオミ教会として参加した時に、急きょ日本語に訳して皆で歌いました。まだ不完全な訳ですが、一応歌える形にははなっています(単数形を複数形にしたのは誤訳ではなく、訳者の”神学的工夫”です!)。是非YouTubeで聞きながら試してみて下さい。(ペッカ自身が歌っています。同名の歌で歌詞メロディーが全く異なるものがあることにご注意!)
1.あしもとの このくにも
はてしない てんごくも
いつだって ぼくらとともさ
このくにも たいせつな
ともだちさ いつかは
わかれつげ しゅイェスのみてつかむ
(以下を二回繰り返す)
地にあしつけていきよう
その目は天国みすえ
わかるさ、どこにゆくか
こくせき天にあるのさ
2.さわやかな かぜかおり
みみあらう しおさい
まいおちる しろゆきもみた
かけあしで ときはすぎ
くらやみが ちかづく
おそれるな ふっかつはゆめじゃない
3.かたいつち ほりおこし
あらそいに まくのさ
ふくいんの へいわのたねを
すきをおく ときがきて
しゅうかくの ひまぢか
おかえりと まことのいえにつく
この秋の最初の手芸クラブは9月25日に開催しました。今まで暑い日がずっと続いていましたが、やっと少し涼しくなってホッとした朝でした。
今回の手芸は編み物です。冬に備えてフィンガーレスの手袋を編みます。参加者の皆さんは好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めにフィンガーレスの出来上がり例を見て自分の作りたいものを選びます。今回編み物は初めてだったので、編み物のいろいろな基本を練習してから始めました。フィンガーレス手袋を編む時、初めは作り目を四本の編み棒に作ります。それから四本の編み棒を付け編むと丸いものになります。始めは手首のところを表編みと裏編みを交互に編みます。十段になってから毛糸の色を変えます。編み物は完成まで時間がかかるので、今回は手首のところでストップしました。参加者の皆さんは編み物にとても集中したので、時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。次回はフィンガーレス手袋の続きを編みます。
テーブルのセッティングをして皆で席に座ると肩も目もリラックスできました。フィンランドの今の季節にピッタリなフィンランド風アップルケーキをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。そこでいつものように聖書のお話を聞きます。今回の話は、フィンランドで贈り物として頂いた素敵な靴下に教会の模様があることや、教会とはイエス様が船長でおられる船であるという内容でした。
次回の手芸クラブは10月30日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
暑い日々が終わって涼しくなりました。今フィンガーレス手袋を編むのは早いと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、涼しい秋はもうすぐです。今フィンランドではもう涼しい秋になって朝の空気は冷たく感じます。この季節に多くの人たちは自転車で学校や仕事に通いますが、少し寒いので、手袋やフィンガーレスが必要です。今フィンランドではフィンガーレスを編み始めるのは少し遅いですが、日本では今は寒い季節に備えて良いタイミングだと思います。もちろん編む速さによりますが、編み物は完成までしばらくかかります。今日始めたフィンガーレス手袋は寒くなるまで完成すると思います。そのように頑張りましょう。
フィンランドでは編み物は夏の手芸でもあります。女性たちは寒い冬の準備のために暖かい靴下や手袋を編みます。今年の夏私たちは一時帰国して私たちの日本での働きを支える教会を訪問しました。一つ訪問した教会はフィンランドの真ん中辺にあるレイスヤルヴィという町でした。そこでの集会の終わりに私たちはこのような暖かい素敵な靴下をもらいました。模様もとても多いです。靴下のデザイナーはその集会にも参加されたレイスヤルヴィ教会の会員でした。そこで女性は模様の意味を説明してくれました。靴下の真ん中の二つの模様は特別です。一つはレイスヤルヴィの教会、もう一つはレイスヤルヴィの町の紋章を表しています。デザイナーはどうしてこの模様を選んだのでしょうか。これらはレイスヤルヴィの道しるべだからです。このデザイナーにとってレイスヤルヴィと教会は大切だからこの模様にしたのです。靴下にあるハートの模様はそれを象徴します。もし皆さんがデザイナーでしたらどんな模様にするでしょうか。
私は初めて教会の模様がある靴下をもらってとても嬉しかったです。フィンランドでは教会は地域のシンボルです。フィンランドの国民の60パーセント以上はフィンランドの国教会のメンバーで、教会に深い帰属意識を持っています。教会は人々の人生の中で重要な役割を果たします。フィンランドでは赤ちゃんが生まれたら多くの赤ちゃんは幼児洗礼を教会で受けます。洗礼を通して赤ちゃんは教会のメンバーになります。子どもは15歳になると、教会で堅信礼の儀式を受けます。多くの親戚も参加します。これは若者にとって大事な節目です。教会では後、結婚式や葬式も行いますので、人生において教会は多くのことに関わっています。教会は儀式を行う場だけではありません。教会は毎週礼拝を行いそこで聖書を通して神さまのみ言葉を述べ伝えます。神さまはみ言葉を通してご自分自身のことを私たちに教えて神さまの元に導いて下さいます。み言葉を通して私たちは神さまの意思が分かるようになります。
フィンランドの南西部にある教会は会堂に大きな帆船の模型が吊るして飾ってあります。船はどんな意味でしょうか。教会とは海で揺れる船のことを意味します。教会という船には乗客も乗って船長はイエス様です。聖書の中にはイエス様と弟子たちがガリラヤ湖を船で渡った時の有名な話があります。イエス様が弟子たちと船に乗ってしばらくしてから嵐が起きて船は沈みそうになりました。弟子たちは怖くなりましたが、イエス様は船の中で寝ていました。弟子たちはイエス様に「先生、私たちがおばれてもかまわないのですか。」と言って起こしました。Nheyob, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons イエス様はどうしたでしょうか。イエス様は起きて、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、湖は静かになりました。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
船は天候の良い日に海で真っ直ぐ進んで行きますが、嵐の日も来ます。その時進みは難しく行くべき方向も分からなくなります。私たち人間も海の上に浮かぶ船に乗っているようなものです。私たちの人生の中にはいろんな時、生活は問題なく穏やかな時ですが、嵐みたいな試練がある時もあります。私たちは弟子たちと同じようにパニック状態になるかもしれません。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」イエス様は弟子たちと同じ船におられ風を静めたので、弟子たちは安心しました。イエス様は私たちと一緒にいて下さると、私たちも安心できます。このようにイエス様が共にいて下さると、試練が来ても、それは軽くなるのです。
イエス様は共にいることを私たちにも約束しています。私たちはイエス様を受け入れてイエス様は天の神さまの独り子であると信じることが出来ると、イエス様はどんな時があっても私たちと共にいて下さいます。新約聖書ヨハネ黙示録には次の言葉があります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開けるものがあれば、私は中に入ってそのものと共に食事をし、彼も、また私と共に食事をするであろう。」ヨハネの黙示録3章20節。
レイスヤルヴィで頂いた素敵な靴下は足を温めてくれますが、イエス様を信じることを通してイエス様と繋がりがあるから靴下は心も温めてくれます。
フィンランドの「道の教会」
日本の地方の一般道を車で走ると「道の駅」に出くわします。農産物をはじめ地域の食材や特産品の売店があったり、喫茶店や食堂もあったり、場所によっては温泉にも入れます。 高速道路のサービスエリアと違って、まさに地道に地方を旅している雰囲気を味わえ、立ち寄ってみたくなる施設です。
夏のフィンランドの地方を車で走ると「道の教会」に出くわします。フィンランド語でTiekirkkoと言い、スウェーデン語系住民が多い地方ではVägkyrka、夏の期間、道路庁の公認の道路標識としてあちこちに立てられます。「道の教会」とは、旅行や仕事で移動中の人が、標識のある教会に立ち寄って自由に見学してもよし、座って心を落ち着かせる時を持つのもよし、というフィンランド国教会の夏のオープンドア・イベントです。時間帯によってはオルガン等の演奏を聴かせる教会もあります。すべて無料です。
夏の前にホームページにその年の「道の教会」が告知されます。今年は260程の教会が指定されました。フィンランドは町の郊外に出ると、小さいながら牧歌的で可愛らしい教会が無数にあります。南西部には中世の時代に建てられた石造りの教会が多く、それ以外の地域では1700~1800年代に建てられた木造りの教会が沢山あります。
それらの教会を訪れると、大抵は人はまばらか、誰もいない時もあります。売店もカフェも何にもありません。サウナもです。とにかく静かのひと言につきます。石造りの教会はやや暗くひんやりし、木造りの教会は明るく暖かい感じがします。中に入ると自然に聖卓へと足が進みます。周りの壁の装飾や絵画、石造りの教会なら壁画そして天井など上下左右を見回しながらゆっくり進みます。聖卓の前で立ち止まり、正面の十字架あるいは宗教画を見上げた後、回れ右をして戻ります。途中、少し長椅子に座ってみようかという気分になります。座っていると時間が停まったような感覚になり、都会の喧騒や心の中の騒がしさが静けさに呑み込まれてしまったことに気づきます。さて出発しようかと立ち上がろうとするのですが、慌てる必要はない、もっと座っててもいいのでは、という声が心の中でするかのようです。教会は赤ちゃんの洗礼から10代の若者の堅信礼、結婚式、葬式まで人の一生と共にあります。人の一生を包み込む神の祝福に触れることができたからでしょう。
教会の日曜礼拝は人生という旅路の休憩所
この夏フィンランド滞在中、トゥルク市にあるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)のルター教会の礼拝に参加した時のこと。 礼拝中に牧師が二人の信徒を前に呼び出して、会衆の前で質問。「あなたはなぜ教会の礼拝に参加するのか?」一人は大学生の女性、もう一人は小さな子供がいる30代の父親。
大学生の答えは、友達に会えること、若者が多い教会なので新しい友達が出来ることも期待している、と。因みにルター教会の礼拝出席者数は200~300人位あり、(クリスマスシーズンを除く)通常の礼拝ではフィンランドで最も礼拝出席者が多い教会の一つである。ヘルシンキ市にある聖心教会(これもSLEY)はさらに多く300~400人位。しかも、どちらも若者や子供連れ家族が年配者より多い。私が90年代にルター教会に通っていた頃は100人位で年配者の方が多かった。世代交代が見事に成功したのだ。90年代以後、フィンランド国民の教会離れが進み、国教会所属率は80%台から60%すれすれまで落ち、多くの教会の礼拝は人がまばらになってしまったのとは全く対照的な展開を遂げた。
若い父親の答えは、自分にとって人生とは天の御国を目指して歩む旅のようなもの、その旅路の中で日曜礼拝は荷物を下ろして休憩できる場である、聖書の御言葉と聖餐式を通して霊的な栄養を得て、また荷物を背負って歩み出せる、一週間後また休憩所で一息つけるんだとわかって歩めるのは素晴らしいと。
父親の答えには多くの聖書の御言葉が凝縮されている。大海原に船出して嵐に遭遇しつつも神に助けられて望みの港に到着するという詩篇107篇、実際に嵐を鎮める力を示したイエス様(マルコ4章など)、旅人の出発から目的地到着まで神が守って下さるという詩篇121篇、神に贖われた者たちが危険から守られて大路を進み、嘆きと悲しみが消え去る目的地に歓喜の声で迎え入れられるというイザヤ35章、苦難の時も良い羊飼いに守られ野原や水辺で憩う時を持ちながら目的地に進むという詩篇23篇、自分はその羊飼いであると証ししたイエス様(ヨハネ10章)、復活の日に復活に与ることを目指してひたすら走るというパウロ(フィリピ3章)、そして「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というマタイ11章28節の主の言葉などなど。
吉村牧師ご一家がフインランドから戻られ、三鷹教会の高村牧師夫妻が赤ちゃんの藍埜ちゃんを連れて礼拝に参加されて、久しぶりに賑やかな交わりのひと時を持ちました。感謝です
田口聖 牧師は今週からアメリカ合衆国のコンコーディア神学校フォートウエインの集中講義(5回/年間)の受講のために渡米されます。 吉村牧師留守中のスオミ教会をよく牧会され又我々を導いて下さいました。そのお働きに感謝するとともにささやかな送別会を設けました。