2026年10月11日(日)午前10時半 聖霊降臨後第20主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

福音ルーテル・スオミキリスト教会

聖霊降臨後第20主日 礼拝

マタイによる福音書 22章 01節

「主の婚礼の宴に招かれている恵み」

田口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

1、「はじめに」

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 イエス様は今日の箇所で、例えを用いてご自身の到来と救い、そして天のみ国について教えてくれています。21章では、イエス様はエルサレムに入りました。群衆はシュロの枝を敷き「ダビデの子ホサナ」とイエスを歓迎します(9節)。しかし、そのエルサレムのある人々は、その騒ぎを怪しみました。また神殿では、両替商や動物売りが座って商売をしていましたが、イエス様はそれを見て、『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(13節)と言って、その腰掛けを倒されたのでした。一方で、そばに寄ってきた盲人や足の不自由な人々をイエス様は憐んで癒してあげました。しかし、エルサレムの宗教指導者たちは、それを見て、またエルサレムへ入る時のイエスへの歓迎を見て腹を立てます。彼らは救いの約束を与えられた民の聖書を教える指導者でありながら、つまり今日のところに照らして言えば、その約束が実現した宴に招かれているものでありながらも、イエス様に、そして、イエス様への歓迎する声や神の国のしるしに腹を立て拒んだのでした。

 このエルサレムで、イエス様はやがて逮捕され裁判を受け苦しめられ十字架にかけられ死なれます。そのような約束を与えられた民からの拒絶はそのイエス様の受難、苦しみと死の序章ともなるものです。しかしここでイエス様が語られる例えは、恐ろしくもありながら、しかし同時に、救いの恵みを教えてくれているところでもあるでしょう。

2、「婚宴の例え:神の国は喜びと祝福」

 2節、イエス様はこう語り出します。

「02節「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。

 まず、イエス様は、父である王は、父なる神、そして王子は、その子、キリストを表していることがわかります。イエス様は、ご自身が神の御子であることを例えを通して示してくれています。

 そして、イエス様は天のみ国、そして救い主であるご自身の到来を、「婚礼の宴」に例えています。これは決して新しいことではありませんでした。むしろこれは聖書が伝え約束してきたことでした。今日の旧約聖書のイザヤ書でも25章6節

「6節万軍の主はこの山で祝宴を開く。」

 と約束されました。 また62章5節でも、

「若者がおとめをめとるようにあなたを再建される方があなたをめとり花婿が花嫁を喜びとするようにあなたの神はあなたを喜びとされる。

イザヤ書/ 62章 05節

とあります。また福音書でも、マルコによる福音書2章19−20節で、ユダヤ人たちから弟子たちはなぜ断食をしないのかと問われたイエス様は「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客が断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食できない。

と答えます。またこのマタイ25章でも、灯火を持って「花婿」の到来を待ち望む乙女の例えをしています。さらにヨハネの福音書では、洗礼者ヨハネは、イエス様を指し示し「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3章29節)と言いいました。このように、神は救い主イエス様の到来、そしてイエス様による天のみ国の実現を、婚礼として見ています。つまり、それは裁きでもなければ、上からの支配とか強制とか、そのようなものとして見ていません。「教会はキリストの花嫁」とも言われますが、イエス様は世に来られた花婿として、世との和解はもちろん、結婚という「一つとなる関係」の実現として見ていることがわかります。そしてそれは婚礼の「宴」であるでしょう。つまり、キリストの到来、そこにある天のみ国の実現は祝福であり、喜びであることをイエス様は示しているでしょう。しかし、イエス様は捕らえられ苦しめられ十字架にかけられ死ぬことを分かった上でエルサレムへと入ります。それこそを目的として実現するためにエルサレムに真っ直ぐに目を向けて歩んできました。しかしその苦しみと十字架を前にして、その苦難と十字架にこそ、私たちの救い、私たちの神の国が開かれ、しかもそれは苦しみや悲しみではない、重荷でもない、それは祝福であり喜びであることをも示していると言えるでしょう。みなさん、そのイエスの十字架の死と復活による救い、私たちが受けている救いは、決して律法や重荷ではない、紛れもなく祝福であり喜びである。これがまず第一に教えられます。

3、「招かれていた客の拒絶」

 しかしです。当初招いていた人々は来ようとしなかったのでした。選びの民であるイスラエル、まさにエルサレムの宗教指導者たちは、そのように主の選び、主の約束を伝え、待ち望み、歓迎するべき人々でした。しかしそんな彼らは拒んだ、そのことをイエス様は示唆しています。さらに、こう続いています。4節以下です。

「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。

 4節の、主人が家来たちに言わせた招く言葉は、イザヤ書25章6節にリンクしています。しかし、招かれていた人々は、それを無視しました。ともに喜ぶ祝宴の時への招待です。約束の花婿、救い主の到来です。しかし、その宴に赴こうとしません。それどころか、あるものは、自分たちの仕事に費やします。21章でイエス様が述べているように、神殿は祈りの家です。神に祈り求め、救い主を期待し待ち望むところです。しかしその場所を両替や商売の家にしてしまっていたのとこれは重なります。またこの無視をして仕事に行った人々の描写は、同時に、私たちに一方的な救いを与えてくださる恵みの救い主の到来を喜ぶのではない、恵みの神の恵みと憐れみのわざと約束にすがることに背をむけ自分自身で自分の利益を求める、自分自身の力で全てを実現していこうとした、あの初めの人たちの堕落の出来事、そしてそれを受け継いでいる私たち人間の性質にも重なるようにも思わされます。そして、6節、さらに別の人々はその使いの家来たちをなんと殺してしまったのでした。このことは旧約聖書の出来事を思い起こされるのではないでしょうか?列王記上18章では、北イスラエルのアハブ王の王妃イゼベルは主の預言者たちをことごとく虐殺しました。その悲惨な出来事から命狙われ荒野へ逃れたのがエリヤでした。エリヤは40日40夜歩き続けホレブの山の洞窟にたどり着いた時に、列王記上19章10、14節にある神への嘆きの言葉を述べているでしょう。それ以外にも、歴代誌下24章で、南のユダ王国でも、ゼカリヤが王の偶像崇拝を批判した時に、彼は王の命令により民によって石打ちで殺されました。エレミヤ書2章30節には、神がイスラエルの民を非難する言葉として「あなたがたの剣は、滅ぼし尽くす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした」ともあるのです。北のイスラエルも南のユダもまさに約束を受けた選びの民であり、まさに招待されていた人々であったのですが、彼らはその神の言葉を伝え、悔い改めを教えた預言者達を殺したということが事実あったのでした。そして、このイエス様の時代でも、同じように救い主の到来を伝え、イエス・キリストこそ罪を取り除く神の子羊であると、指し示した洗礼者ヨハネを、殺してしまうでしょう。そして何より、彼らは婚礼を拒むどころか、その花婿であるキリストを殺すことにもなります。しかしこのような主の言葉への拒絶や無視や暴力性はイスラエルに限ったことではありません。ルーテル教会の一致信条書にある和協信条では、神のみ言葉を軽んじるのは、歪んだ人間の意思によるものだ。それは聖霊の手段を拒絶し歪めることだとも述べられています(和協信条、根本宣言第11条41)。拒絶は神の責任ではありません。堕落した人間、私たちに一人一人の性質でもあるのです。そして7節にある通り、招待していた人々、選びの民の拒絶に対する神の怒りは明確なのです。選びの民だから罪は見過ごされる、何をしても多めにみられる、なんてとんでもない。神の特別な民だから特別扱いである。それもとんでもない曲解です。選びの民は、神の祝福と恵みの喜びを世に取り次ぐための「宣教の民」であるよう召されました。しかし選びの民の拒絶は、そのみ旨に反するだけでなく、神の前に罪であり、何より約束の救い主への拒絶は神の怒りであり、その裁きは免れない。そのことがはっきりとわかるのです。

4、「誰でも」

 しかし神の計画は裁きでは決して終わりません。祝宴も決して延期されないしキャンセルされないのです。花婿の到来は揺るぎません。8節以下、

「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

 「見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」これは幸いな言葉ではありませんか。神様は、その婚礼の喜びを、世界中に広げたい。その想いがわかるでしょう。「誰でも」です。通りには、当時は虐げられていた女性も子供も、外国人も、貧しいものも罪人もいたでしょう。まさにこの福音書を書いた徴税人のマタイは、通りで税金を集めていた罪人でした。そのような罪人も通りにも沢山いるのです。しかし、主人は言うのです。「誰でも」です。ここに異邦人への福音宣教の主なる神、子なるキリスト、御霊なる主の御心が伝わってくるでしょう。事実、イエス様は、すべての人が避けて交わらない、そして救いには相応しくないとされていた罪人のところに行き食事をしました。彼らに悔い改めと福音を語りました。イエス様は言いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

(マタイ9章12−13節)と。マタイはそのようにして救われついてきた一人です。そして、マタイの福音書は復活のイエス様が使徒達に「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

(マタイ28章19節)と言って遣わすでしょう。まさに「誰でも」は、罪人はもちろん異邦人、全世界の人々へと向けられているのです。そのイエス様の福音がその言葉の通りに、アメリカにもフィンランドにも、そしてこの日本にも、私たち一人一人のところへと届けられているからこそ、私たちも救われている、婚礼の宴に招かれ、今その喜びにある。そのことを感謝したいのです。

5、「キリストの義の衣を着せられて」

 そして、最後のところです。11節から

「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 最後は厳しい言葉で終わっています。しかし、これは決して律法で私たちを遣わそうとしているのではないのです。「礼服を着ていないもの」とは何を指しているでしょう。当時は、婚礼に礼服を着て出席するのですが、個人で準備するのではありません。宴会の主人が礼服を準備して、招かれたものはそれを着て宴会に出席するのです。ですから礼服を自分たちが選んで買って準備をして来ていき出席するという現代の理解とは異なります。礼服は主人に準備されているのです。しかしそれを着ないと言うのは当然、失礼なことなのですが、このことは何を意味しているでしょう。

 私たちは皆、主の婚礼に招かれています。そこに与る「ふさわしさ」はなんですか?それは信仰であり義認です。信仰も義認も神が一方的に与えてくださるものです。それは、私たちの義ではなく、キリストの義であり、それが与えられている、それが私たちに着せられている、まさに神の恵みです。それが神が準備してくださっている婚礼に出席するふさわしさです。ですから、私たちは今日も主が与えてくださった賜物である信仰をもって、主が備え与えてくださるキリストの義の衣を着せられてこの礼拝に集められています。そして、そのキリストの義の衣を着せられ、賜物である信仰をもって、それが何よりの相応しさとして聖餐に与るでしょう。それが婚礼の礼服です。救い、神の国は、花婿であるキリストが教会を花嫁としてくださっている喜びの婚礼の席です。私たちは皆、そこに招かれています。そこには何が必要ですか?何か立派な行いでしょうか?私たちがまず日常において何か立派な人間や社会に貢献でき、神の律法を完全に行って来たという自信や自慢が必要なのでしょうか?そうではありません。私たちはどこまでも罪深いものです。律法を完全に行えないものです。その律法に自分を照らすなら、何より心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして神も隣人も愛することのできない、一人の罪人であることを何よりも気付かされるものです。ルターが言うように、私たちは「聖徒であり同時に罪人」なのです。私自身一人の罪人です。しかし、神はそのような私たちのために、キリストを送ってくださった。キリストはそんな私たちの友となってくださった。そして、そんな私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださった。そしてそんな私たちのために信仰を与えてくださり、キリストの義を着せてくださり、洗礼と聖霊を与えてくださった。そして今日も変わることなく、そんな私たちに、福音の約束と聖餐を与え、十字架の罪の赦しと復活の新しいいのちを宣言してくださいます。私たちはそれらの福音を、与えるために差し出されている救いを空っぽの手にそのまま受け取ること、そしてその祝宴、その救い、その神の国を、重荷とするのでも律法とするのでもなく、福音を心から喜ぶこと、それこそ婚礼の主人である神様が何より喜んでくださり、それこそ何よりの相応しさなのです。そして福音を受け取るからこそ私たちは福音によって世に遣わされ、福音にあって隣人のために用いられていくのです。今日もイエス様は変わることなく私たちに福音を宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ喜びと平安のうちにここから今日も世に遣わされていきましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2026年10月4日(日)午前10時半 聖霊降臨後第19主日 礼拝説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年10月4日 聖霊降臨後第19主日

イザヤ5章1-7節
フィリピ3章4b-14節
マタイ21章33-44節

説教題 「神の国の実を結ぶ者は誰か?

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに - 実現済みの預言ではなく現代にもかかわるたとえ

 本日の福音書の日課は、ぶろう畑の所有者と雇われ農夫についてのイエス様のたとえの教えです。この教えは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章のぶどう畑の話を土台にしています。両者は似ていますが違いもあります。イエス様はたとえの教えをユダヤ教社会の指導的立場にある人たちに話しました。彼らは旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、すかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すとわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もしかり。指導者たちは「この預言者の再来と民衆に担がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。

イエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の状況が織り交ざっている面もありました。ブドウ畑の所有者は畑を農夫に任せて旅に出たとあります。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先になるのかと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者と労働者が異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景がわかると、農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたのは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのもの、ということです。

そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反乱について言っているように聞こえるかもしれません。しかし、イザヤ書の聖句が土台にあることを忘れてはなりません。そうすると、所有者に対する反乱は神に対する反乱であることがわかります。所有者が送った僕が殺されるというのも、イスラエルの民の歴史を振り返れば神が送った預言者たちを国の指導者たちが迫害したことだとわかります。そうなると邪悪な農夫たちは国の指導者を指すとわかります。

それならば、所有者の息子は誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それは一体なんのことか?そこで指導者たちは思い当たります。そう言えば、この男は自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…と思った、まさにその時でした。イエス様が指導者たちに質問しました。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、農夫たちをどうするか?」まだたとえの本当の意味がわかっていない指導者たちは当たり前のように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」

この答えの後でイエス様は「隅の親石」の話をします。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22

23節の聖句です。これは、イエス様の十字架と復活の出来事を知っている私たちから見れば意味は明らかです。捨てられた石は十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基、まさに隅の親石になったのです。その親石を捨てた「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの詩篇の聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた家を建てる者は愚か者であることがわかります。それは、たとえの邪悪な農夫と重なってきます。一体、この男はイザヤ書と詩篇の聖句を引き合いに出して何を言いたいのか?指導者たちはイエス様の次の言葉を固唾を飲んで待ちました。

 そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語でよく「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。イエス様はイザヤ書のたとえを土台にして彼の時代の社会経済状況を織り交ぜて話されたのでした。それは、イザヤ書の預言はまだ完結していないことを教えているのです。かつてイスラエルの民は神が期待する実を結ばなかったためにその社会は衰退と混乱に陥って最後は強大な敵国に滅ぼされて祖国を失ってしまった。それと同じように今も、もし神が期待する実を結ばなければ神の国を受け継ぐ資格を失ってしまうのだと教えているのです。イエス様の時代の700年以上も前に預言されてその後のバビロン捕囚で実現済みと思われていたことは実はイエス様の時代にもあてはまるということを教えているのです。

 これを聞いた指導者たちが激怒したのは無理もありません。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者は神です。神が送ったのに迫害され殺された僕たちは旧約聖書に登場する預言者たちです。邪悪な農夫はユダヤ教社会の指導者たちのことです。その指導者たちが神の子も殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すとでも言うのか?この男が神の子だと言うのか?これこそ神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り上げられて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!このように怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。

 しかしながら、神のひとり子が指導者たちによって殺されるということ、そして、ユダヤ民族に代わって異邦人が神の国を受け継ぐようになるということ、これらはイエス様の十字架と復活の出来事の後でその通りになったのです。イエス様の復活から50日後にキリスト教会が誕生しました。イエス様を救い主と信じたユダヤ人に加えて同じ信仰を持つ異邦人がなだれ込んで来るようになりました。さらに西暦70年にユダヤ民族の首都エルサレムとその神殿はローマ帝国の大軍の攻撃により壊滅し、その後キリスト教の主流はユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒に移っていきました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったのです。それでは、イエス様のたとえは実現済みの預言として片付けてしまっていいのでしょうか?

そうではないのです。イエス様のたとえは現代の私たちの地点から見たら確かに実現済みの預言にしか見えないかもしれませんが、実は現代を生きる私たちにどう生きるべきかを教えているのです。これからそのことを見ていきましょう。

2.神の国とは

 イエス様のたとえの教えが今を生きる私たちにも関わっていることがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられると言っていることに注目します。新共同訳では、神の国に「ふさわしい実」を結ぶ民族となっていますが、ギリシャ語原文を見ると、「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい実」ではなく、ずばり「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」は、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。つまり、ユダヤ民族かどうかに関係なく、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられると言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とは何なのか?もし「神の国にふさわしい実を結べ」と言われたら、頑張ってふさわしいものを目指さなければならないと頑張りを要求するものにならないでしょうか?ところが、「ふさわしい」がなくて、ずばり「神の国の実そのものを結べ」と言われたら、どうでしょう?何をどうすればいいのか途方にくれてしまうのではないでしょうか?実は、この「神の国の実を結ぶ」ということが、イエス様のたとえが今を生きる私たちに関わっていることなのです。どういうことか見ていきましょう。

 「神の国の実を結ぶ」がどういうことかわかるために、まず「神の国」とは何かをわかる必要があります。これはスオミ教会の説教で何度もお教えしたことです。少し復習します。

 神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を用いて認識・把握できるこの現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とこの中にあるものを造られた後は自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国は今は私たちの目に見える形で私たちのもとにはありません。しかし、私たちのもとに目に見える形で来る日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造する、そういう天地の大変動が起こる時、再臨されるイエス様がその時点で生きている、神の目に適う者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして神の国に迎え入れられます。もちろん、最後の審判があることも忘れてはなりません。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。それが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。それが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。

 このように神の国は神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとはそのような神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死の力に服する存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間に自分との結びつきを回復させようと考えました。結びつきが回復すれば人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の神の国に迎え入れられます。こうしたことが可能になるためには結びつきを失わせている罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、人間は神の意思に完全に沿うように生きられないのでそれは不可能です。

 この問題を解決するために神はひとり子のイエス様をこの世に贈りました。人間の罪を全部ひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に開かれました。そこで今度は私たち人間の方がイエス様の命じられた洗礼を受けると、彼の死と復活に結びつけられて新しい命を生きるようになります。洗礼の意味を自覚している者は、イエス様は本当に私を罪と死の支配から贖って下さった真の救い主なのだという信仰に満たされています。それでその人にはイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたのでその人は神から罪を赦された者と見てもらえるのです。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになったのでその心は感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようという心になります。

 もちろん、キリスト信仰者と言えどもこの世ではまだ肉を纏って生きていますから、まだ罪を内に持っています。しかし、信仰者は神の意思に反することが自分にあると気づくと神に背を背けずに直ぐ神の方を向いて赦しを祈り願います。すると神は信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「お前の罪はあそこで赦されている。だからもう罪を犯さないように。」そのように信仰者を新しいスタート地点に立たせてくれるのが罪の赦しです。赦しとは罪を許可することではありません。罪は犯してはいけないのです。行いや言葉だけでなく心の思いも神の意思に反することは罪なのです。そんな罪ある私たちが神との結びつきを持てるようになるために神のひとり子の犠牲がなければならなかったのです。キリスト信仰者は神の意思に反する罪をイエス様の犠牲に免じて不問にしてもらって新しく出直すことを繰り返す種族です。そのことは本日の使徒書の日課フィリピ3章の中で使徒パウロも言っています。「過去のことは顧みないで前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走る」と(13~14節)。ゴールとは、言うまでもなく神の国へ迎え入れられる地点です。

3.勧めと励まし - 神の国の実を結ぶとは?

 イエス様は神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられると言われました。罪の赦しという神からのお恵みを頂いて神の国への迎え入れを目指して歩むキリスト信仰者に神の国が与えられているのです。迎え入れの日はまだ先ですが、洗礼を受けることでゴールに到着できると神から約束してもらえました。途中で息切れすることがあっても聖餐式が呼吸を整えてくれます。迎え入れの日はまだでも神の国は聖餐に与かるキリスト信仰者の中で始まっているのです。では、キリスト信仰者はどのようにして神の国の実を結ぶのでしょうか?次の2つの仕方で結びます。

 まず、キリスト信仰者は罪の赦しという恵みを頂いたので神の意思に沿うように生きようと志向します。神の意思に沿うようにしようとするのは、神に目をかけてもらうためとか、何か褒美を期待してするのではありません。全く逆です。こちらはまだ何もしていないのに一足先に神の方が私に目をかけて罪の赦しをお恵みのように与えてしまった、だからもう神の意思に沿うように生きるしかないと観念する。そのように神の意思に沿うことが手段ではなく結果になっていることが神の国の実を結ぶことです。パウロが本日のフィリピの手紙の中で義について述べていました。義とは、神聖な神の御前に立たされても大丈夫でいられる、焼き尽くされない状態のことです。律法を守ることで人間が自分の力で獲得しようとする義とイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神が与えてくれる義の二つが言われていました。信仰のゆえに与えられる義はまさに救いの結果として神の意思に沿うことになる義です。律法を守ることで獲得しようとする義は神の意思に沿うことを救いを得るための手段にする義です。パウロはそれをゴミと言います。

 もう一つの大切なことは、罪の赦しという恵みの中で生きると、罪を自覚し赦しを祈り願い、イエス様の犠牲に免じて赦しを頂いて新しく出直す、このことを何度も何度も繰り返す生き方になります。そうすることで神の意思に反することに与しない、罪に反抗する生き方をしていることを証しすることになります。これも神の国の実を結ぶことです。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しという恵みに留まって神の国の迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「罪の赦しという神の恵みに満たされてこの世を生きる」 吉村博明 牧師 、マタイによる福音書18章21-35節

主日礼拝説教 2026年9月13日(聖霊降臨後第十六主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

今日のイエス様のたとえの教えはこうでした。王様に多額の負債があった家来が泣きついて借金を帳消しにしてもらった。ところが、その家来は自分に少額の借金がある仲間の家来に対しては泣きつかれても耳を貸さず牢屋に入れてしまった。それを知った王様はこの家来に怒り、自分がしたように情けをかけるべきではないかと言って牢屋に入れてしまったという話でした。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら他の人にもそうしなければいけないと教えているんだと思うでしょう。

ここに出てくる金額を少し具体的に見てみます。そうすると情けをかけることが当然ということがよくわかります。情けのない家来が仲間の家来に貸していた額は大体100万円です。その彼が王様に負っていた負債額は6,000憶円。(これらの金額の算出方法はホームページに説教文を載せる時にそこで説明します)。情けのない家来は6,000億円の負債を帳消しにしてもらったのに、他人の100万円の借金は免除してあげなかった。これだけ莫大な借金を免除されたら、普通だったら、解放感とこれからは新しい人生を歩めると希望や感謝に満たされて、誰かが少しの借金の返済を待って下さいとお願いしたら、そんなものはもういいですよ、という気持ちになるのではないだろうか?それなのにこの家来はそうしなかった。イエス様はなぜこの情けのない家来の話をしたのでしょうか?

このたとえは、イエス様がペトロの質問に答えてその続きに来ます。ペトロの質問は、兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげるべきか、7回までかというものでした。つまり、赦しには限度があってそれを越えたらもう赦さなくていいのか、ということです。それに対するイエス様の答えは、7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、つまり490回でした。イエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。

キリスト信仰者は罪を犯した兄弟を無制限に赦さなければならない。なぜなら、信仰者が神から罪の赦しを受けたというのは1万タラントンの負債を帳消しにされたことと同じことで、兄弟の犯した罪など6,000憶円に対する100万円くらいのちっぽけなものにすぎない、だらか兄弟の罪を無制限に赦すのは当然のことになるからです。それではどうして当然のことにならなかった家来の話をしたのでしょうか?今日はそのことを考えてみましょう。

2.「兄弟」とは?「罪」とは?「赦す」とは?

まず初めに3つの基本的な事柄を整理しておきます。一つ目は、「私の兄弟が罪を犯したら」と言いますが、兄弟とは誰のことか?二つ目は、罪を犯すとはどんな悪さをすることか?そして三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?についてです。

まず、「私の兄弟」とは、先週の説教でもお教えしたように、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者から罪を犯されるという問題について論じているのです。

次に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」とはどんな悪さをすることでしょうか?「罪を犯す」などと言うと、何か法律上の犯罪を犯すことを連想します。しかし、これはもっと広い意味があります。要は、十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな等々を行為だけでなく、言葉に出してしまったり、心の中で持ってしまうことです。このように神の意思に反することを行為のみならず、心の中で持ってしまったり、言葉で言い表してしまうことが罪を犯すことです。

三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?キリスト信仰で罪を赦すというのは、相手が神の意思に反することをした時、された側は、先週の説教でお教えしたように、それは神の意思に反することだということを気づかせて、相手がそれを認めて謝ったら、それを受け入れて、受け入れたら今後は取りざたしない、不問にするというのが赦しです。イザヤ書43章25節で、神は言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」思い出さないことにするというのが赦すことです。エレミヤ書31章34節でも神は同じように言われます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」もう心に留めないというのが赦すことです。ミカ書7章19節で預言者は言います。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」神は民の罪を表ざたにしないで奥深く沈めてしまう、これが罪の赦しです。神の意思に反する罪が起きてしまった、それはもう打ち消すことができない事実である、しかし、それをさもなかったかのようにするから、新しく出直しなさい、と。そういうふうに、神の罪の赦しには罪を犯した者が新しく出発できるようにするということが一緒になっています。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。私も時々聞かれるのですが、キリスト教は罪を赦すので処罰はなにもないのか、犯罪を犯しても、さもなかったかのようにしてしまったら、犯罪は野放しになってしまうではないか、というものです。罪を赦すとは、してもいいよと罪を許可することではありません。日本語の「ゆるす」は二つの異なる漢字があるので混同されやすいと思います。罪は神の意思に反することなのでしてはいけないのです。心の中で思っても口に出してもいけないのです。もし犯したら、「命の書」に書き留められて最後の審判の時にお前はこうだったと突きつけられるのです。まさに、本日の使徒書の日課ローマ14章で言われるように、かの日には各自一人一人が神の前に立たされて自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。果たして神に対して申し開きなど出来るでしょうか?

ヨハネ8章でイエス様は罪を犯したために石打の刑にかけられそうになった女性を助け出して次のように言いました。「わたしもあなたを裁かない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」新共同訳では「罪に定めない」ですが、ギリシャ語原文では「裁かない」です。イエス様が裁かないと言うのは、お前の罪は「命の書」に書き留められてしまったが、最後の審判の時にとやかく言われることはなく、申し開きの必要もないということです。なぜそうなったかと言うと罪が赦されたからです。イエス様からそのような赦しを受けて、「もう犯したらだめだよ」と言われたら、本当にその通りにしなければ、と思うでしょう。このように罪を赦すというのは罪を許可することと全く正反対な方向に向かうのです。

犯罪は処罰しないのかという疑問が残ると思います。それについて私は次のように考えます。社会には法律があり、犯罪について規定があり、刑罰や賠償について規定があります。それらに従って犯罪を確定して刑罰や賠償が課せられるのは当然です。なぜなら神は、殺すな、傷つけるなと命じているので、そのようなことが社会で好き勝手に行われるのを放置してはいけないからです。そう言うと、なんだ、赦していないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、犯罪の場合、赦しと刑罰は別々に考えるべきものと思います。赦しは被害を受けた人の心に関わることです。処罰や賠償は、社会が正義に基づいて成り立つために定められたものです。なので処罰や賠償は社会の安定に関わることです。

ここで罪の赦しは心に関わるということを少し見てみます。キリスト信仰では、完全な正義は最後の審判の時に最終的に実現するという立場です。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は自分で復讐をしてはならない、神の怒りに任せよと言います。神の怒りに任せよというのは、最終的な判決、処罰、賠償は最後の審判の時に神が行うのでそれに任せよということです。最終的な判決、処罰、賠償をこの世で目指すと自分を神に置き換えて自分で復讐することになってしまうと思います。自分で復讐しないで最後の審判の神の怒りに委ねつつ、この世で正義を実現しようとすると次のようになると思います。まず、社会の法律や規定は万能薬ではないと観念する。なぜなら、こんな処罰、賠償では甘すぎる!とか逆に、行き過ぎではないか?ということが出てくるからです。そうした法律や規定を神の意思に沿うように運用して、最善の正義を目指すということになると思います。そういうふうにキリスト信仰者は正義を目指しつつも、パウロが教えるように敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませます。実際に行動に移せるようになるために心の有り様はそうなっていなければならないのです。処罰や賠償が社会の安定に関わるものなら、赦しは心の安定に関わるものです。

それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰でこのような心は生まれるでしょうか?本日のイエス様のたとえは、それが生まれることを教えます。

3.罪の赦し = 神に対する莫大な負債の帳消し

まずイエス様は本日のたとえの教えで、キリスト信仰者にとって罪の赦しは莫大な負債を帳消しにされたのと同じだと言っていることを見てみましょう。このたとえを最初に聞いた弟子たちは、莫大な負債を帳消しにしてもらったら他人の小さな借金など取るに足らないものに感じるというのはわかったでしょう。しかし、それが罪の無制限の赦しとどう結びつくのか?お前たちは莫大な負債を帳消しにしてもらったのだ、だから兄弟の罪など小さな借金と同じだ、兄弟の罪を無制限に赦してやるのは当然だ、そう言われても、自分たちにとって莫大な負債の帳消しとは一体何なんだ?ということになってしまいます。兄弟の罪に対する無制限の赦しと自分たちの莫大な負債の帳消しの結びつきが見えてきません。

ところが、それがはっきりわかる日が来るのです。イエス様の十字架の死と死からの復活の日がそれです。イエス様が神の想像を超える力で死から復活されて天の神のもとにあげられたのを目撃した弟子たちは、あの方こそ、かつてダビデ王が私の主と呼んだ方で、父なる神の右に座すことになった方なのだ、つまり神のひとり子だったのだということが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかかって痛々しく死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間の代わりに受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。このように全てのことが事後的に旧約聖書を介して次々とわかるようになったのです。十字架と復活の出来事の後に全てがわかるようになった使徒たちは次のように記しました。

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)まさに罪の赦しは神の恵みなのです。

ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)彼らはイエス様が十字架の出来事の前に言われた次の言葉の意味がわかりました。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)

神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として人間が罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が開けたのでした。神の子の命が身代金になったのです。その価値は6,000億円など取るに足らない、まさに地上から見上げる天のような高さの価値なのです。私たちがこの世で神との結びつきを持って生きることを妨げていたもの、そして、この世の人生の後で神の国に迎え入れられることを妨げていたもの、すなわち罪という負債を神は御子を用いて帳消しにしたのです。

このようにして人間は自分では何の償いもしていないのに、神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで罪を償ってもらい、償ってもらったから罪を赦された者として見てもらえる、そういう状況が生み出されました。

そこで今度は人間の方が、イエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて、この罪の赦しの状況に入れることとなりました。この中に入った人は、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起きたのだとわかり、それでイエス様は真に自分の救い主だと知っています。その人は死を超える永遠の命に向かう道に置かれてその道を歩み始めます。そして、この世を去る時が来ても、安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。本日の使徒書の日課ローマ14章でパウロが、キリスト信仰者は生きる時も死ぬ時も主のものとしてあると言っている通りです。復活の日までの眠りの時もずっと主のものであり続け、復活の日に目覚めさせられて永遠に造り主の神の御許に迎え入れられるのです。このようにキリスト信仰者はイエス様の十字架と復活の業のおかげと彼を救い主と信じる信仰によって、罪の赦しという神の恵みに満たされて、この世と次に到来する世の双方にまたがって生きていきます。

4.勧めと励まし

これでキリスト信仰者は莫大な負債の帳消しが自分に起こったことがわかります。罪という神に対する負債で、そのままにしておくと、この世で神との結びつきを持てず、次に到来する世で神の国に迎え入れられなくなってしまうという負債です。それを神はひとり子を犠牲にして帳消しにして下さったのです。このような帳消しは、兄弟が犯した罪などを小さなものにし、赦しを「心から」するものに変えていきます。たとえの家来は、少額の借金の家来が猶予を求めても聞き入れず牢屋に送ってしまいました。これは、罪を犯した兄弟が赦しを求めても赦さないで裁いてしまうことを表します。情けのない家来が牢屋に入れられてしまったように、赦さない信仰者は裁かれてしまうのです。

それにしても、どうして赦すことができないということが起こるのでしょうか?それは、永遠の生死にかかわる莫大な負債の帳消しが神のひとり子の犠牲の上に成されたこと、それがどれほど尊い犠牲であるかが心に刻まれていないからそうなるのです。イエス様がこの家来の話をしたのは、キリスト信仰者が果たして罪の赦しという神の恵みに満たされているかどうかを自問するためなのです。

最後に、もし罪を犯した兄弟がそれを認めず謝罪もない場合はどうすべきでしょうか?その場合は赦さなくてもよいのでしょうか?いいえ、そうではありません。これは、先週お教えしたことを思い出せばよいでしょう。そのような心の頑なな兄弟は、害を被った信仰者にとって異邦人か取税人のようになればいい、ということでした。ただし、その趣旨は断罪的ではないと申しました。その兄弟の問題は神との結びつきが揺らいで天の国への歩みに支障が生じたということです。だから、それを元に戻せるようにすることが目指されなければなりません。それで害を被った兄弟は証人や教会の代表者と一緒に祈ることから始めなければならないと申しました。これは裁くことと正反対のことです。まさに心から赦す準備ができていることです。なので異邦人か取税人のようになればいいと言うのは、目下のところはそのようなものでいるのは仕方ないが、時が来れば兄弟に戻ると信じているということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「教会の中でも隣人愛が増し加わるために」 吉村博明 牧師 、マタイによる福音書18章15-20節

本日は礼拝の動画配信はありません。説教はテキストをご覧下さい。

主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十五主日)

聖書日課 エゼキエル33章7-11節、ローマ13章8-14節、マタイ18章15-20節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所でイエス様は、あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか教えます。「あなた」と「あなたの兄弟」は両方ともイエス様を救い主と信じる者です。問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので二人とも教会に属する者です。つまり、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したら、どう対処すればよいのでしょうか? そもそもキリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯すとはどういうことでしょうか?

「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟は一括りにすると「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」に尽きると言います(9節)。これと同じ教えは既にイエス様が教えていました(マルコ12章31節等)。パウロがイエス様の教えを忠実に受け継いでいるのは明らかです。隣人を自分を愛するが如く愛さない、つまり、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。要約すると、「罪を犯す」とは神の意思に反することを行為、考え、言葉で表してしまうことです。本日の個所では、神の意思の中でも人間関係に関するもの、隣人愛が言われているのです。

ところで、「隣人」とは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、本当は自分が属している民族その他共同体の境界を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただし、本日の福音書の個所の教えでは対象が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛の掟を破ったら、どうするかということです。

2.赦された者として相手に赦しを願う心を呼び覚ます

まず冒頭の「兄弟があなたに対して罪を犯したら」について、聖書の訳によっては「あなたに対して」がないものがあります。つまり、「罪の犯し」が「あなた」を越えて第三者に及ぶのです。どうしてそういう違いがあるのかと言うと、古代の写本にあるものとないものがあり、どっちを元にするかで違いが出るのです。どっちを選んだらよいか困るところですが、本日の個所の後でペトロがイエス様に「私の兄弟が私に対して罪を犯したら何回まで赦してあげるべきですか?」と聞いているので、ここも「あなたに対して」で行きます。

さて、信仰者は隣人愛を破った相手に対してどう出るべきか?イエス様は、まず当事者同士で「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり伝えるべきと教えます。具体的な言葉遣いはこの通りでなくても、趣旨がきちんと伝わる言い方を考えます。まさに私たちの日本語の能力が問われるところです(私も含めて)。もし相手が「おっしゃる通りです、申し訳ありませんでした」と認めて赦しを願えば赦してあげる。相手は、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正したことになるので、信仰の兄弟を取り戻したことになると言うのです。

この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節の神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」を土台としています。罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまうというのです。相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人に責任はないのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7-9節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

以上から「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手順ではないことがわかります。それは、隣人愛を破った者にそれは神の意思に反することだと気づかせて赦しを願う心を呼び覚ますように導くということです。信仰者はそういう導きをする大事な役割を持つということです。

さらに大事なことは、相手が気づいて自分のしたことを悔いて赦しを願う時は、信仰者は赦さなければならないということです。それも神の意思です。どうしてか?それは、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しという恵みの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。神は失われた結びつきを人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去る時も結びつきを持ったまま去ることができ、復活の日には永遠に神の御許に迎え入れらます。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにして下さいました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は私たちの身代わりとして死なれましたが、神は彼を三日後に死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る扉を私たち人間に開いて下さったのです。

そこで今度は人間がイエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて古い自分は死に新しい自分が生き始めます。この新しい自分は、罪は全てイエス様に償ってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だという信仰に満たされています。こうして信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。

罪の赦しという神の恵みを受け取ってその中で生きるようになった者は、赦しを願う者に対して自分も神からしてもらった以上は赦してあげないといけないのです。あと、罪が何だかわからず赦しを願う心がない者に対しては神の恵みを受け取ることが出来るように祈り導いていかなければならないのです。

赦しを願う者を赦すというのは、その者に対して何か優位に立つということではありません。この自分こそが神から赦しを与えられた取るに足らない者であることに思い至らなければなりません。そして、赦すというのは、赦した後は罪は以後不問にするということです。ミカ7章19節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪を取り除くというのは、まさにこのことです。罪を神の意思に反することであるとはっきり言い、そこから赦しを願う心を呼び覚まして赦しを与えることで罪を消滅させていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

3.断罪はしない

イエス様の教えの次を見てみましょう。残念なことに当事者だけでは教え戒めることが功を奏せず、相手が耳を貸さなかった場合はどうするか?私は神の意思に反していない、君の方こそ過剰反応ではないか、話を捻じ曲げている、などと言った時です。その場合は、証人として信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり神の意思に反することだったということを確認してもらうことになるとイエス様は教えます。この証人を立てるという教えは申命記19章15節の神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。

さて、証人から見てもやはり隣人愛を破ったと認めざるを得ないということになりました。これで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて信仰の兄弟を取り戻したことになります。でも、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員全員の前で吊し上げするような感じがしますが、そうではありません。最初は当事者だけ、それがだめなら二人か三人の証言でと言っているように、イエス様の教えは罪を大っぴらにしないという方向性がはっきりあります。神の意思に反した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話をすることになります。

そこで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神を信じず、イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の租税官吏となったユダヤ人のことです。彼らは権力を笠に着て同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしたので民族の裏切り者と見なされていました。神の意思に反したことを最後まで認めない、心が頑なな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。果たしてそうでしょうか?

ここで、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文は次のような意味で書かれています。「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ。」日本語訳の「見なしなさい」は害を受けた人にそうしろと言う命令ですが、そうではありません。三人称単数形の命令なので「なってしまえ」が正確です。「あなたにとってそうなってしまえ」と、「あなたにとって」と限定的に考えているのです。全ての人にとってそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。それなので、問題兄弟と神との結びつきの回復可能性を考えることができます。実はこのことについて神自身が本日の旧約の日課エゼキエル33章11節で言っているのです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。その一つ前の10節でイスラエルの民は罪の重荷の苦しみを述べています。民が自分たちの罪を認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!

それなので、隣人愛を破られた人は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に地獄に堕ちてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。相手が気づいて悔い改めるように、証人になった人も教会の代表者も一緒に祈らなければならないのです。

4.使徒の権限

18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」とは、18章の冒頭から明らかなようにイエス様の弟子のことです。「つなぐ」「解く」という言葉のペアは、イエス様が話をしたアラム語の言葉のペア、シェラー、アーサルが土台にあります。意味は「禁止する」、「許可する」です。イエス様は以前16章で同じ「地上でつなぐこと、解くこと」を言い、それを彼をメシアと告白したペトロに委ねると言いました。今日の18章ではやがてイエス様をメシアと宣べ伝えることになる弟子たちに委ねると言っているのです。ペトロを中心とした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上でダメと言ったり、OKと言ったりすることは天の国でもお墨付きを得るということです。なぜ使徒たちにこんな権限が与えられるのかと言うと、それは彼らがイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になったからです。その後は迫害にも屈せず命を賭してまで見聞きしたことを証ししイエス様が救い主メシアであると宣べ伝える役割を担ったからです。イエス様の昇天の後、神の意思は何かを地上で明らかにする権限は彼らに委ねられたのです。

19節と20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神は叶えて下さるというような一見、願い事は何でも叶うと言っているように見えます。これも注意が必要です。これは今言った使徒の権限の続きです。19節の意味は原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする事柄全部について合意して祈り求めれば、それは天の父なるみ神のお墨付きを得て実現する」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でも叶うということもあるかもしれませんが、全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、沿っていないかを明らかにしなければならない、その時、二人以上の使徒がイエス様の名前のもとに集まって合意して祈り求めたら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。

5.勧めと励まし

そうすると、ここで言う「あなたたち」は使徒のことで、私たち信仰者への呼びかけではないのかという疑問が起きると思います。もちろん、私たちへの呼びかけでもあります。ただし、私たちには使徒のような権限はありません。ただ、それとは別に二人以上の信仰者が集まって祈り求めることはできます。例えば、本日の個所のように隣人愛を破って心を頑なにしている兄弟のような、当事者一人では解決できない課題です。そのような場合は別の信仰者に来てもらったり牧師のところに行って事情を話して理解してもらって一緒に解決を祈り求めます。第三者と話し合えば、祈るのに相応しい言葉も見つかるでしょう。この祈りは、掟を破った兄弟のためにもしなければなりません。

ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記19章15節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる人たち祈る人たちはみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認、告白します。

こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には神との結びつきを確認、告白しようとしても何か決め手がなかったことになります。まだ十字架と復活の前だから仕方ありません。イエス様の名前が付くと、彼の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったので、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人愛を破った兄弟に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2026年8月16日10時半 聖霊降臨後第十二主日 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年8月16日スオミ教会礼拝説教

マタイによる福音書15章21−28節

説教題 「主の手から溢れる憐れみを受ける幸い」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

 

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の福音書は、主イエス様の憐れみと恵みは溢れ出るほど大きく、私たちはそのイエス様からの恵みをそのまま受け取るだけでいい、その信仰の素晴らしさを教えてくれています。

 この15章は、イエス様のところにやってきたファリサイ派との議論から始まっています。ファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちが、習わしとして清めのために食事の前に手を洗わないのはなぜかとイエス様を問い詰めます。それに対して、イエス様はファリサイ派に、神様は十戒で「父と母を敬え」と教えているのに、あなた方教師は自分たちで勝手に解釈した慣習を作り出し、結果として父と母を敬わないことを人々にさせているのではないかと、彼らの矛盾を指摘するのです。イエス様は彼らを偽善者とさえ呼び、そして、旧約のイザヤの預言を引用して、「8『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」と言ったのでした。それはファリサイ派の人を躓かせ反感を抱かせたのでした。そんな出来事の後です。21節、こう始まっています。

 

2、「カナン人の女の叫び」

「21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」

 イエス様は「ティルスとシドンの地方に」行かれたとあります。ティルスとシドンの地方は、現在のイスラエル北部からレバノンの沿岸地域にあたります。そこでの出来事です。22節こう続いています。

「22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。」

 カナン人は、かつてその偶像礼拝ゆえに神の怒りをかって裁きを受けた人々です。イスラエル人から見ると異邦人です。そんな異邦人の女が出てきてイエス様に助けを求めます。

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」

 ダビデの子、それは約束の救い主、メシアの呼び名でした。この異邦人であるカナンの女はイエス様のことを聞いていたのでしょう。そしてイエスが約束された救い主であることを信じていました。そして叫びます。「憐んでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と。イエス様に縋るのでした。何より彼女は「憐んでください」と言います。彼女は自分がダビデの子である救い主イエス様から、憐みを受けなければならないような存在であることを知っているのです。カナン人の歴史、神に背き偶像礼拝に走り、神の怒りを受けた、罪深い民であることを知っているのです。彼女はそのように自分は卑しい罪深い存在であることを認めているのです。しかし彼女はイエス様はキリストであると信じていました。キリストは憐れんでくださるお方であると。

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」

 その信仰がまずこの言葉に見ることができるでしょう。しかしです。23節

「23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。」

 まずイエス様は彼女に答えません。彼女は叫び続けます。弟子たちはそれを見て彼女を追い払うようにお願いします。イエス様はそこで口を開きます。

 

3、「この時の目的と宣教全体の計画」

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」

 イエス様は何て冷たいんだと思うでしょうか。確かにそう見えます。しかしこの言葉はある意味事実です。イエス様は最初はイスラエルの人々へと神の国の福音を伝えていました。しかし、この事実もこのイエス様の言葉も決してイエスが世に来られた究極の目的ではありません。この時点でのイエス様の使命でした。しかしそれはイエス様の宣教や計画の全体ではなく一部分、あるいはある段階での使命、目的であったと言えるでしょう。なぜなら、イエス様の誕生を祝った、東方の賢者たちは異邦人であり異教の民であったでしょう。しかし神は、そんな彼らを星を用いて導き、そして礼拝者として受け入れることが神の計画でした。そして、事実、イエス様はイスラエルだけでなく、ローマ人、そして世のすべての人々のために十字架にかかって死なれるでしょう。それだけではない、イエス様は天にあげられる前にこう言っています。マタイ28章19−20節

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

 イエス様の宣教の究極は、すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けて弟子とすることでした。それはルカによる福音書と使徒の働きにも一致しています。イエス様は、約束の聖霊を受ける時に、クリスチャンは地の果てまでキリストの証人となると約束しました。その通り、聖霊を受けた時に、使徒達は様々な国の言葉で話だしペテロの最初の説教で宣教は始まって行きます。そしてイエス様の約束した通り、教会は散らされますが、その散らされたクリスチャンによって、エチオピアの宦官が洗礼を受けます。ローマ人将校コルネリオのもとにペテロは遣わされコルネリオと家族は洗礼を受けるでしょう。そして更なる人の思いを遥かに超えた神様の計画は、キリストを迫害するものの頭であったパウロを異邦人へと遣わすとイエス様ご自身が召し出して遣わしているのです。ですから、イエス様の救いの計画、福音の宣教の真の目的は、イスラエルだけではない、全世界の人々への宣教であり救いなのです。しかし、マルコの福音書の並行箇所であるマルコ7章27節を見ると「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。」と「まず」と、ありますように、この時は、まだイスラエルへ向けて語る時であったと言うことなのです。

 それでも彼女は、そんなことはわからないでしょうから、突き放されたように思って当然でしょう。けれども、25節です。

「25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。」

  彼女は諦めません。引き下がりません。イエス様に求めます。イエス様の憐れみを彼女は信じるのです。しかしです。イエス様はそれでもこう答えます。

「 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 」

 イエス様は、このカナン人の彼女を「子犬」に例えているように聞こえます。それは侮辱的な言葉とも言われたりしますが、あるいは、これは諺のような言葉であるため、必ずしも彼女を指して「子犬」と言っているのではないとも言われています。その真偽はイエス様にしかわかりませんが、いずれにしても彼女にとってはなおも突き放す言葉なのです。しかし彼女はそんなイエス様の言葉にこう答えるのです。

 

4、「カナン人の女が見ていた自分と神の憐れみ」

「27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 

 これに対してイエス様は言うのです。

「28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。」

 イエス様は彼女の言葉を聞き、その信仰を「立派だ」と賞賛されました。では、そのイエス様が賞賛された彼女の信仰とは、いったい、どんな信仰でしょうか?ある人々は、これは主への謙遜が教えられており、私たちが主へいつでも謙遜を表すことが信仰なんだと解釈して教えます。しかし、これは私たちへ求められている単なる謙遜の勧めなのでしょうか?その謙遜の態度をイエス様は「立派だ」と言ったのでしょうか?ここでは「この彼女の謙った態度は素晴らしい、謙りなさい、謙遜になりなさい」と言う道徳を教えているのでしょうか?つまり、それは謙遜を求めるという私たちへの律法です。そのように、ここでは、そのような謙遜であるべき、謙遜になるべきという律法の信仰を教えているのでしょうか。

 みなさん、このイエス様の賞賛する信仰、ここで教えられていることは、決して私たちへの単なる謙遜の勧めや律法ではないでしょう。イエス様の賞賛は、彼女のどこまでもダビデの子の憐れみに縋りたい思い、「主よ、カナン人の私ですが、神の怒りを受けた民の末裔ですが、こんな罪深い私ですが、主よ、どうか私を、娘を、憐んでください。」その思いです。彼女は実に「食卓から落ちるパン屑」でも受けたいと言います。つまり、聖書に約束されている通りに、その救い主は憐れみの神であり、その憐れみはこぼれ落ちるほどあることを彼女は見ているでしょう。「ダビデの子、憐れみの救い主はこんな異邦人の神の怒りであった民さえも憐んでくださる。いや、どうか憐んでください。その子供へ現された溢れるばかりの憐れみからこぼれ落ちるわずかなパン屑の如きわずかな憐れみでさえも欲しい。そのこぼれ落ちる恵み、憐れみでも娘は助かる、それでもイエス様の憐れみを喜んで受ける」、そんな彼女の信仰ではないでしょうか。

 

5、「真の謙った心」

 しかし、みなさん「主よ憐んでください」の信仰は、それはもちろん、謙った心があるからこその言葉です。しかし、聖書では、その謙りは、私たちが神の憐れみを受けるために、その前に、自分たちで絞り出し、作り出さなければならないような心としては書かれていないでしょう。いやむしろ神の前では私たち人間は自分たちで謙った心、そして悔い改めは自ら作り出すことはできないものです。つまり、やはり、憐れみを受けるために、その前に、何かしなければいけない律法を要求されているのではないと言うことです。

 今日の旧約のイザヤ56章6−7節の言葉にこうありました。

「6また、主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり

安息日を守り、それを汚すことなくわたしの契約を固く守るなら7わたしは彼らを聖なるわたしの山に導きわたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 主はイザヤの時代からすでに異邦人への憐れみと救いを計画し約束していました。そして、その約束は「わたしの契約を固く守るなら」とあります。それはただ「神の律法を守るなら」と言うことではないでしょう。神はむしろ私たちが律法を守れないからこそ救い主キリストを真の人として送ると計画し約束してくださったでしょう。ですから「契約」、つまり、神様から異邦人を含めての人類への約束を守るなら、つまり福音ではありませんか。その福音を守る、つまり、その約束をしっかりと受けて賜物としての信仰に生きることです。そうすれば異邦人も皆、主の家の喜びの祝宴に連なるのだという意味です。ですからこのイザヤの約束は律法の要求ではなく福音を約束しているでしょう。では7節の後半はどうなんだと思うでしょう。

「彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。」

 これは「生贄を捧げろ」と、律法ではないか、そう思うでしょう。しかしイザヤ書を見ると主は真の生贄、真の捧げ物についてこう言っています。57章15節

「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

66章2節にもこうあります。

「これらはすべて、わたしの手が造りこれらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。「わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」

そして詩篇でもはっきりとこうあります。51篇19節

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」

 これはダビデがバト・シェバとの罪を犯した時に、預言者ナタンを通しての神の言葉によって罪に気付かされ打ちのめされた時の詩篇です。それはダビデが、自分が罪を犯している時に、預言者ナタンを通して神の言葉を受ける前に、自分で罪に気付いて謙った、悔い改めた、というその言葉ではありません。まさに罪に浮かれその最中にいるときに、神がナタンを遣わし、律法のみ言葉を与えた、そのみ言葉を通してこそ罪を知らされ、この言葉に導かれています。

 このように、主に喜ばれる、主への真の生贄は、打ち砕かれた悔いた謙った心です。しかしそれは決して私たちは自ら搾り出すことはできません。私たちは自分が神の前に罪人であることも知らないし、気付かさないし、認めることもできません。しかし神がみ言葉を通して、律法の言葉を通して示してくださるからこそ知ることができ、悔い改めに導かれます。打ち砕かれた悔いた心は、神のみ言葉と聖霊のわざです。神のみ言葉が私たちに語り、私たちは悔い改めのために導かれるのです。

 

6、「悔い改めに導かれるからこそ十字架は救いの光となる」

 確かに、そのように、私たちが聖書を通して罪を知らされるのは、神の厳しい語りかけではあるのです。その時は確かに打ちのめされます。ペンテコステの日の朝のペテロの説教を聞いた群衆が経験したように、心が刺し通されるようなものです。

 しかし、だからこそです。このようにただ神の前に、悔いた砕かられた心に導かれ、自分は神の前にただ罪深い存在、その罪の前に何もなすことのできない、救いのために、何も持てるものではない何もできない自分であることを知るからこそ、「神よ、憐んでください」と、その思いが心から出てくるでしょう。悔いた砕かれた心に導かれるからこそ、その心への溢れ溢れるばかりの神の憐れみがわかるのです。

 私たちへの福音は、十字架のキリストです。その十字架のキリストとそのキリストの義のゆえに、罪が赦される事、キリストがこの十字架と復活のゆえに、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と罪の赦しを与えてくださり平安のうちに遣わしてくださる、それこそいつまでも変わることのない私たちへのプレゼント、それが福音です。しかしその十字架の真の意味、そこにある神の愛、そして、与えられる罪の赦しも、私たちが神の前にどんな存在かを知らなければ決してわかりません。そう神の前にどこまでも罪深い存在、ただただ憐れみを受けなければいけない存在である、そのことです。しかし神がみ言葉を通して、心を砕き悔いた心を与えてくださるからこそ、私たちは心から「主よ憐んでください」と求めることができる。そしてそのイエス様の手から溢れるばかりに、こぼれ落ちる、いや、今や主から一人一人の手に与えてくださる、わずかなこぼれ落ちるものではないイエス様が一人一人に差し出してくださっているその福音の恵みを感謝と喜びを持って受け取ることができる。そしてそこにこそイエス様の救いを見て、私たちはここから安心して出ていくことができるのではないでしょうか?今日のみ言葉が語ってくださっている私たちへのメッセージです。

 今日もイエス様は変わることなくこう宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひその福音、そして聖餐をそのまま空っぽの手に受け取り、安心してここから遣わされていきましょう。

 

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2026年8月9日 聖霊降臨後第十一主日 説教田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年8月9日 礼拝説教

マタイによる福音書14章22−33節

「主イエスの恵みのうちに遣わされる幸い」

 

田口 聖

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

 

1、「遣わされるとは?律法か?」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の福音書では、イエス様は弟子たちだけで彼らを船に乗せ遣わします。それは弟子たちにとって弱さと恐れを覚えた派遣でもありました。今日の第二に聖書朗読ローマ10章15節でパウロは、「良い知らせ、福音を伝えるもの」、つまり、説教者、牧師、宣教師の「その足はなんと美しいことか」とイザヤ書52章7節の言葉を正しく解釈して引用して伝えています。またそれはただ説教者だけではなく、使徒の働きの1章、天に昇られる前にイエス様が「あなた方は地の果てまでわたしの証人」となりますと言われたように、キリストの証人として救われ、召命を与えられたクリスチャン一人一人のことでもあります。クリスチャンは皆、キリストを証しするために遣わされている一人一人であり、キリストを証しするクリスチャン一人一人の「その足もなんと美しいことか」とパウロは示してくれています。

 私たちは牧師であってもそうでなくても、皆、イエス様によって召され、イエス様によって世に遣わされています。私であれば牧師、説教者として、そして全てのクリスチャンはキリストの証し人としてです。

 しかし皆さん。その「派遣」、遣わされれるということ。それは律法でしょうか?どうでしょう?「あなた方は遣わされています」という時、皆さん、どう感じますか?何かを自分たちだけで達成しなけれなならないと、重荷だと感じるでしょうか?何もできないと感じるでしょうか?あるいは、私には無理だと感じるでしょうか?

 今日の福音書。最初、イエス様は弟子たちだけで船に乗せ行かせています。弟子たちだけで遣わしました。しかしここを見ていくときに、イエス様は決して弟子たちを一人にしないということ、そしてその派遣は決して律法ではない。むしろ彼らはいつでもイエス様に思われ、祈られ、そしてイエス様が共にいて、イエス様が彼らを助け、導き、そして、イエス様がその航海、歩み、働きをなしてくださる。遣わされる、ということは、決して律法ではない、そのように「遣わされる」とは、どこまでもイエス様の恵みのうちにある福音なんだということを教えてくれているのです。22節、こう始まっています。

 

2、「弟子たちだけ、強いて」

 「22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 」

 イエス様は弟子たちだけで船に乗せ向こう岸へと行かせます。しかも「強いて」です。そこに偶然ではないイエス様の意図が思わされるのですが、それは、一人、山に登り祈るためでした。イエス様はしばしばこのように山に登り一人で祈ってきました。それは、ご自身が人となられたその目的である、ご自分がかけられる十字架への備えであったことでしょう。しかしそれだけではありません。そのイエス様の十字架と復活は、全ての人々の贖いとなるためであり、救いの約束の実現のためでした。そしてその救いは、やがて遣わされる使徒達の信仰告白の上に建てられる教会で、福音の説教と洗礼と聖餐を通して全ての人々へ与えられるものです。ですから、イエス様の祈りはまさに教会と宣教のための備えでもあったでしょう。二週先にマタイ16章で見て行きますが、イエス様はすでに罪の赦しの宣教が使徒達の信仰告白の上に立つ教会から始まることを約束しています。そして、ヨハネ17章のイエス様が十字架にかけられる直前の祈りからもわかるように、まさに、イエス様が一人で祈る時の祈りは、使徒たちのため、教会のため、そして全ての弟子たち、キリストの証人であるクリスチャン一人一人のために祈ってくださっていたことを窺い知ることができるのです。

 ですから、この場面、強いて船に乗せ弟子たちだけで遣わしているようには見えます。確かに目に見える現象的にはそうでしょう。しかし、イエス様は弟子たちのために祈るために一人で山に登ったのですから、決して弟子たちのことを見捨てたのではない、忘れたのでもない、軽んじているのでもないのです。ひと時、見えなくなっても、イエス様の思いと祈りの中に弟子たちはしっかりとあるのだということを忘れてはいけません。

 

3、「イエス様の目的」

 そして、この弟子だけで遣わすことには、さらなる意味があるでしょう。24節こう続いています。

「24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」

 弟子たちは逆風、ヨハネの福音書の6章を見ると「強風」ともありますが、その風ゆえの波、大きな波に悩まされていました。行きあぐねていたのです。しかも夜です。周りは真っ暗で強い風と大きな波です。進むのは非常に困難であったでしょう。もう岸から離れているので戻ることも簡単ではないことでしょう。そして、弟子たちの中には漁師もいました。船の漕ぎ方は知っているとはいえ、自然の恐ろしさも漁師だからこそよく知っていたでしょう。風と波で、漁師でさえも進むことができない。皆、怖かったのではないでしょうか?漁師ゆえの経験や理屈を頭から振り絞っても、まさに「悩まされ」るしかない状況がわかるのです。

 ここにイエス様が彼らだけで行かせたのは祈るためだけではないことを窺い知ることができます。この後の出来事からもわかりますが、イエス様は彼らが弟子たちだけでこの波と風が強い状況でも向こう岸まで渡ることを達成しなさい、成し遂げなさいと、送り出し遣わしているのではないでしょう。イエス様はむしろ船に長けた漁師たちでも悩むほどの風と波を知っていたことでしょう。そしてこの今日の出来事でのイエス様の目的は何ですか?それは、33節にこうあります。

「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

とあります。そう、まさにイエス様はこの日、この時、弟子たちだけで何かイエス様の命令を成し遂げることを望んでいるのではないでしょう。イエス様の目的は、弟子たちが「本当に、あなたは神の子です」とイエス様を崇めること、イエス様をこそ信じ、信頼し、求めるように、そのイエスこそキリストであるという信仰をますます強めることです。ですから、わかるのです。弟子たちだけで行かせたのは、まさに彼らだけではできない、イエス様なしには、イエス様の御心や計画を前に、どこまでも不完全であり、時に悩み、時に恐れ、時に壁にぶつかる、そして時に無力さを覚える。時に不信仰になる、その現実、神の前での自分たちの罪深い現実と何もできないことを知るようにさせることにあるのではありませんか?その弱さや不完全さを知るからこそ私たちは「イエス様、憐んでください、助けてください」と求めるでしょう。それが「本当に、あなたは神の子です」という告白へとつながります。自分の罪深さを知ることなく、「イエス様、罪深い私を憐んでください、罪を赦してくてください」とはなりません。そのこと無くして、十字架の本当の意味も、十字架に現された神の愛もわかりません。しかし自分の罪深さを知るからこそ十字架の救いはわかり「本当に、あなたは神の子です」になるのです。そう、そのための導きなのです。

 

4、「イエスは安心させるために」

 ですから、イエス様は決して弟子たちを忘れてはいません。そのように風と波に何もできない弟子たちのところにイエス様は不思議なしるしを現しながら、来られるのです。

 「25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」

 イエス様が湖の上を歩いて弟子たちのところへ来られたのは、まさにご自身こそ真の神であり救い主であることを示すための一つのしるしですね。しかし、暗闇の中に突然現れたイエス様に、彼らは亡霊だと思い、恐怖と叫び声を上げたのでした。「悩み」というのが軽いものではない、追い詰められた心の様が現れているような反応です。しかし幸いです。イエス様は決して悩ませ、恐れさせようとして弟子たちのところにやってきたのではないでしょう。そして、そんな弟子たちに「あなた方は自分たちで何もできないではないか、役割を果たせないではないか、向こう岸へ渡りきれなかったではないか」と言わないのです。もし弟子たちだけで行かせたことが、彼らが彼らだけで達成しなければいけない律法として行かせたのであるなら、イエス様は「ダメじゃないか、達成できないじゃないか」と叱り責めることでしょう。しかしどうでしょうか。イエス様を見てください、イエス様の声を聞いてください。27節

「 27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 イエス様は弟子たちに会った時、「向こう岸まで渡りきらないからダメだ、役目を達成できないからダメだ」とは言わない。恐れていることも「恐れていてダメじゃないか」とも言わないですね。はっきりと書いています。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 感謝ではありませんか。ここにイエス様の彼らへのメッセージがあります。弟子たちだけは無力です。遣わされても自分たちでは達成できません。色々なことに悩まされます。恐れます。弟子たちは不完全で罪深い一人一人です。それは使徒の時代も決して変わりません。しかし、そんな弟子たち、使徒達を派遣した方の遣わされた一人一人への変わらない言葉がここにあります。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 イエス様はなぜ世にこられましたか。安心させるためです。ヨハネ3章17節にある通り、私たちの罪を責めるためではありません。裁くためではありません。私たちに律法で重荷を負わせ何かを達成させるためでもありません。罪を赦すため。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と安心を与え、その平安のうちに「行きなさい」と遣わすためです。それはエリヤの時代も変わりません。エリヤも遣わされました。しかしエリヤでさえも弱さで打ちひしがれました。そして列王記上19章10節、14節と2度も

「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 と繰り返し叫ぶほどです。しかし主はそんなエリヤをさらに鞭打って果たせとは言わないでしょう。「エリヤ、あなたではない。わたしがする」と、主ご自身が全て計画し果たすと約束を与え遣わすでしょう。そしてその通りに主はなされるのです。パウロも「良い知らせを伝えるものの足は美しい」と確かに言います。しかし、パウロはその前後、伝えるため証しするために派遣はしても、口に信仰告白を与え救いを与えるのは神の言葉だ、キリストの言葉に聞く事だと、み言葉の力、神の力、神がなすものだととパウロは言っているではありませんか。その「良い知らせを伝えるものの足は」、神のなす神の宣教(missio Dei)のために神が召し神が用いているだけであり、成すのは神だと言っているのです。派遣は決して律法ではない、宣教も決して律法ではない、派遣も福音、恵みであり、宣教も福音なのです。

 

5、「ペテロが成すのではない、主と主の言葉がなす」

 この後のペテロのエピソードは象徴的です。28節から

「28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

 ペテロの28節の言葉は見ようによっては敬虔な言葉に見えます。熱心な言葉でもあります。イエス様がいれば自分でもできるだろう。信仰的にも見えます。しかし、半分は、自分がなそう、自分にもできるという意志もそこにはあるでしょう。なぜなら、イエス様の「きなさい」という言葉がペテロをも事実、湖の上を歩かせるのですが、まさに周りの強い風、沈みかけたという現実に、イエス様の言葉への信頼ではなく自分でできるかどうかと意思や感情が心を支配するでしょう。それによって沈みかけるのです。そう湖の上を歩くのは、彼の熱心さや彼から出る敬虔さ、意思の強さや情熱ではないのです。彼自身の力ではありません。それをなさせるのはイエス様の言葉でした。しかし、まさに自分の何かに頼ることへの不安と恐れの中で、自分の意思や熱心さや情熱や行いの無力さ不完全さを知るからこそ、ペテロから「主よ、助けてください」の言葉が出てくるのです。そう、イエス様が望んでいるのは、「私は湖の上を渡りきりました。あなたのように歩きました。」という自信ではないのです。イエス様による派遣に必要なのは、自信ではないのです。神の前に弱さ、無力さ、罪深さ、恐れる自分、不完全な自分、何もできない自分を、むしろ認めることです。砕かれた心で悔い改めることです。それこそ神は喜ばれるとも聖書にはあるでしょう。その心で「主よ助けてください」「主よ憐んでください」と叫び、主イエス様にすがり頼り求める信仰です。そのような「主よ助けてください」「主よ憐んでください」こそ何よりも敬虔な言葉、叫び、信仰の告白だとも言えるでしょう。そしてイエス様はその恵みによってご自身の真の目的である信仰と賛美にこそ彼らを導かれているではありませんか。33節

「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

 

6、「結び:派遣」

 今日もイエス様は変わることなく私たちに福音を語り目にみえる福音を与え、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様が私たち一人一人に差し出してくださっている福音をそのまま受け取り、平安のうちに遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2026年8月2日(日)10時半 聖霊降臨後第十主日 礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年8月2日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書14章13~21節

説教題:「五千人に食べ物を与える奇跡」 

今日の聖書はマタイ福音書14章13節から21節までであります。聖書の有名な箇所です。イエス様が五千人以上もの大勢の群衆をたった五つのパンと二匹の魚で空腹を満たされた、と言う奇跡の出来事であります。常識ではどんなマジックを使っても出来ない事!全く考えられない驚くべき奇跡を大群衆の一人々が我が身に感じたのですから彼らの間で非常に強力な印象で語り継がれていったでしょう。ですから、四つの福音書全部にこの出来事を記しているわけです。今日のマタイ福音書の方は比較的短く簡潔に記されていますがマルコの方が順序良く詳しく記しています。マルコ福音書6章6節以下には「伝道に派遣された弟子たちが帰ってきてイエス様に自分たちが行った事、教えた事を残らず報告した。」と記されています。それに対してイエス様は彼らを労って「さあ、あなた方だけで人里離れた所へ行って暫く休むがよい」と言われた。マタイ福音書の方では「イエスは舟に乗ってそこを去り一人人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はその事を聞き方々の町から歩いて彼を追った。イエスは舟から上がり大勢の群衆を見て深く憐れみその中の病人を癒された。」とあります。マルコの方は「舟から上がったイエスが大勢の群衆を見て飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみいろいろと教え始められた。」とあります。此処には救いを渇望する人間の側の実感が伝わってきます。旧約聖書から言われてきた神とイスラエルの関係を羊飼いと羊に譬えて言われてきたように群衆のイエス様に期待し慕い求めて集まっている現状を示しています。当時のユダヤ教の律法主義から見れば彼らは神の国に入る資格のない人々であったでしょう。週末が近づくと聞かされ、なす術もなくただイエス様の語る福音に心惹かれて、またイエス様の病人を癒される業に驚きイエス様が語られる一言/\ に聞き入っている大群衆です。イエス様の熱の入った神の国の救いの教えに時は過ぎて夕方に差し掛かってきたのです、そこで弟子たちがイエスのそばに来て言った。「此処は人里離れた所でもう時間も経ちました。群衆を解散させてください。そうすれば自分で村へ食べ物を買いにゆくでしょう。」この弟子たちの群衆を心配する言葉はもっともな言葉です。極めて世俗的な空腹を心配してゆく場面へとなります。群衆の神の国へと導かれる霊の世界の魂の救いという壮大な深い真理の世界の人間が根本的に救われなければならない、目に見えない望み、心が乾いて求めてゆく。そうした群衆の求めに今イエス様は立っておられるのです。時も忘れて疲れも忘れて福音を教えられておられるのです。それに対して、もう日も暮れかかってきた。人間の肉的な求めを心配する弟子たちです。この弟子たちにイエスは言われる。16節で「行かせることはない。あなた方が食べる物を与えなさい。」!! 何というイエス様の言葉でしょうか、目の前の五千人以上の大群衆に食べる物をどうして与えることが出来ましょうか。マルコの方では「私たちが二百デナリオンものパンを買ってきて皆に食べさせるのですか。」と言っています。此処で言う一デナリオンのお金は労働者の一日分の賃金だと言われていますから二百デナリオンは相当の大金です。この弟子たちの言い分を誰も責めるわけに行かないのは当然でしょう。しかし、イエス様は弟子たちが食べ物を与えるべきだとされたのです。マルコ福音書の方で見たように、伝道から帰ってきた弟子たちに報告を聞いたイエス様は疲れを労って休養を取るようにとまで言って下さったのに「大群衆に食べ物をあなた方で与えなさい」と言うたいへん理不尽な要求ではないでしょうか。弟子たちの反発、不満の言葉で返しています。しかし、イエス様には弟子たちがその事を到底できない事もご承知の上で言っておられたのでしょう。弟子たちが周辺の村や里も何処へ出かけたからと言ってこれだけの大群衆の飢えや渇きを癒す糧が入手できる可能性はゼロであります。肉眼に見える必要な事ばかりでなく目に見えない心の糧、人々が心から待ちわびて望んでいる飢えや渇きを癒してくれる魂の救いに至っても弟子たちにはお手上げです、何一つ出来ない。イエス様はこの次元に救いの問題をもう一度立ち帰らせて弟子たちに問い掛けておらるのです。弟子たちが伝道に出掛けて行って病を癒したりイエス様の教えを語ったり懸命にやって来た事より、もっと本当は神の民であるはずの人々の、この心の底からの救い、飢え渇きが弟子たちの休息をとる以上に緊急なことではないかと主イエスは弟子たちに教えようとされている、訓練を与えて行かれる。どんな立派な伝道報告を弟子たちにがしたとしても今、目の前に救いを必要として村々からイエス様に走り寄って来ている群衆、時も忘れてイエス様の口から語られる救いと教えの言葉を食い入るように聞いている。肉体の空腹も心配だけれどももっともっと心の癒し、魂の救いの重要さに心の目を向けようとして行かれる。「あなた方があなた方の手で食物をやりなさい。」このことは教会に対して「あなた方の手で彼らに食べ物を与えなさい。」どのようにして?「与える食べ物、霊の糧は神様が与えて下さる。」のです。「神の国から見てあなた方には何がありますか?僅かばかりの取るに足りない物でしかない。」弟子たちは言いました。「此処にはパンが五つと魚が二匹しかありません」。

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今の時代の中で私たちが教会へと召されている、その私たちにある物は何ですか?イエス様は言われています。僅かばかりのパンと魚をイエス様のもとに持って来なさい。イエス様を目いっぱい信じて差し出しなさい。主イエスは天を仰いで賛美の祈りを唱えられると何とイエス様の手から五つのパンと二匹の魚が次々と弟子たちに渡され五千人以上の群衆は満腹して残りのくずを集めると十二のかごいっぱいになった。何という驚くべき奇跡の業がイエス様の手から繰り広げられていったのであります。どうして?理屈ではない事実!。五千人の人々は十分に食べて満腹したのであります。とても/\考えられない事、人間の思いを遥かに超えた神の御業がイエス様の手によってもたらされたのです。問題は単なる見える食べ物だけの事ではない。目に見えない食べ物、人間が真実に生きてゆくのに必要な糧であると言う事です。群衆の真の飢え渇きとはなんであったでしょうか。彼らの罪の故に律法学者や祭司長たちが人を判断する尺度では神の国には入れないと言う現実にありました。そこには救いはないと言う事です。誰がどうやって罪人たちを救ってくれるのか。そういう人があればその方こそメシアであるに違いない。そうした中へ五千人以上もの群衆をまずは彼らの腹を満たすと言う神の業を現わされたイエス様。弟子たちの手で与えなさい、と言われても自分たちの力で何一つ出来ない。群衆の飢え渇きを癒す事など考えられない事であったのです。イエス様がなさった天を仰いで賛美の祈りを唱えパンを裂いて弟子たちに配られた。と言うこの「パンを裂き配る」と言った事が初代教会の中で古くからの定式化されてきた聖餐式の用語を想起させます。そうしてみると此処で語られているのは生前のイエス様のなさった癒しが何時でも罪の赦し、救いの「印(しるし)」であったように、此処でも五千人以上の人々に食べ物を供えられたと言う奇跡は主イエス様が十字架の上で人々の罪を贖うために死なれた事、その主イエス様の贖いによって罪人である私どもが救いを与えられ、また主の復活によって新しい生命を与えられる事の「印(しるし)」として語られるのではないか。従ってこの日ガリラヤの湖畔でイエス様がパンを裂き弟子たちが分配し人々が満ち足りたと言う光景は他ならぬ神の国の祝宴を先取りしたものと言えましょう。律法によっては神の支配に入る事が出来ず、飢え、渇き救いを求めて彷徨っていた人々が今やイエス様が十字架上に裂かれた体、流された血によってその罪は贖われ赦され、神の国の食卓に連なり満たされ喜びに溢れる日が主イエス様によって備えられたのであります。神の支配はイエス様の奇跡によって地上に始められたのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン