2026年8月16日10時半 聖霊降臨後第十二主日 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年8月16日スオミ教会礼拝説教

マタイによる福音書15章21−28節

説教題 「主の手から溢れる憐れみを受ける幸い」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

 

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の福音書は、主イエス様の憐れみと恵みは溢れ出るほど大きく、私たちはそのイエス様からの恵みをそのまま受け取るだけでいい、その信仰の素晴らしさを教えてくれています。

 この15章は、イエス様のところにやってきたファリサイ派との議論から始まっています。ファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちが、習わしとして清めのために食事の前に手を洗わないのはなぜかとイエス様を問い詰めます。それに対して、イエス様はファリサイ派に、神様は十戒で「父と母を敬え」と教えているのに、あなた方教師は自分たちで勝手に解釈した慣習を作り出し、結果として父と母を敬わないことを人々にさせているのではないかと、彼らの矛盾を指摘するのです。イエス様は彼らを偽善者とさえ呼び、そして、旧約のイザヤの預言を引用して、「8『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」と言ったのでした。それはファリサイ派の人を躓かせ反感を抱かせたのでした。そんな出来事の後です。21節、こう始まっています。

 

2、「カナン人の女の叫び」

「21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」

 イエス様は「ティルスとシドンの地方に」行かれたとあります。ティルスとシドンの地方は、現在のイスラエル北部からレバノンの沿岸地域にあたります。そこでの出来事です。22節こう続いています。

「22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。」

 カナン人は、かつてその偶像礼拝ゆえに神の怒りをかって裁きを受けた人々です。イスラエル人から見ると異邦人です。そんな異邦人の女が出てきてイエス様に助けを求めます。

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」

 ダビデの子、それは約束の救い主、メシアの呼び名でした。この異邦人であるカナンの女はイエス様のことを聞いていたのでしょう。そしてイエスが約束された救い主であることを信じていました。そして叫びます。「憐んでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と。イエス様に縋るのでした。何より彼女は「憐んでください」と言います。彼女は自分がダビデの子である救い主イエス様から、憐みを受けなければならないような存在であることを知っているのです。カナン人の歴史、神に背き偶像礼拝に走り、神の怒りを受けた、罪深い民であることを知っているのです。彼女はそのように自分は卑しい罪深い存在であることを認めているのです。しかし彼女はイエス様はキリストであると信じていました。キリストは憐れんでくださるお方であると。

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」

 その信仰がまずこの言葉に見ることができるでしょう。しかしです。23節

「23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。」

 まずイエス様は彼女に答えません。彼女は叫び続けます。弟子たちはそれを見て彼女を追い払うようにお願いします。イエス様はそこで口を開きます。

 

3、「この時の目的と宣教全体の計画」

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」

 イエス様は何て冷たいんだと思うでしょうか。確かにそう見えます。しかしこの言葉はある意味事実です。イエス様は最初はイスラエルの人々へと神の国の福音を伝えていました。しかし、この事実もこのイエス様の言葉も決してイエスが世に来られた究極の目的ではありません。この時点でのイエス様の使命でした。しかしそれはイエス様の宣教や計画の全体ではなく一部分、あるいはある段階での使命、目的であったと言えるでしょう。なぜなら、イエス様の誕生を祝った、東方の賢者たちは異邦人であり異教の民であったでしょう。しかし神は、そんな彼らを星を用いて導き、そして礼拝者として受け入れることが神の計画でした。そして、事実、イエス様はイスラエルだけでなく、ローマ人、そして世のすべての人々のために十字架にかかって死なれるでしょう。それだけではない、イエス様は天にあげられる前にこう言っています。マタイ28章19−20節

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

 イエス様の宣教の究極は、すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けて弟子とすることでした。それはルカによる福音書と使徒の働きにも一致しています。イエス様は、約束の聖霊を受ける時に、クリスチャンは地の果てまでキリストの証人となると約束しました。その通り、聖霊を受けた時に、使徒達は様々な国の言葉で話だしペテロの最初の説教で宣教は始まって行きます。そしてイエス様の約束した通り、教会は散らされますが、その散らされたクリスチャンによって、エチオピアの宦官が洗礼を受けます。ローマ人将校コルネリオのもとにペテロは遣わされコルネリオと家族は洗礼を受けるでしょう。そして更なる人の思いを遥かに超えた神様の計画は、キリストを迫害するものの頭であったパウロを異邦人へと遣わすとイエス様ご自身が召し出して遣わしているのです。ですから、イエス様の救いの計画、福音の宣教の真の目的は、イスラエルだけではない、全世界の人々への宣教であり救いなのです。しかし、マルコの福音書の並行箇所であるマルコ7章27節を見ると「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。」と「まず」と、ありますように、この時は、まだイスラエルへ向けて語る時であったと言うことなのです。

 それでも彼女は、そんなことはわからないでしょうから、突き放されたように思って当然でしょう。けれども、25節です。

「25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。」

  彼女は諦めません。引き下がりません。イエス様に求めます。イエス様の憐れみを彼女は信じるのです。しかしです。イエス様はそれでもこう答えます。

「 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 」

 イエス様は、このカナン人の彼女を「子犬」に例えているように聞こえます。それは侮辱的な言葉とも言われたりしますが、あるいは、これは諺のような言葉であるため、必ずしも彼女を指して「子犬」と言っているのではないとも言われています。その真偽はイエス様にしかわかりませんが、いずれにしても彼女にとってはなおも突き放す言葉なのです。しかし彼女はそんなイエス様の言葉にこう答えるのです。

 

4、「カナン人の女が見ていた自分と神の憐れみ」

「27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 

 これに対してイエス様は言うのです。

「28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。」

 イエス様は彼女の言葉を聞き、その信仰を「立派だ」と賞賛されました。では、そのイエス様が賞賛された彼女の信仰とは、いったい、どんな信仰でしょうか?ある人々は、これは主への謙遜が教えられており、私たちが主へいつでも謙遜を表すことが信仰なんだと解釈して教えます。しかし、これは私たちへ求められている単なる謙遜の勧めなのでしょうか?その謙遜の態度をイエス様は「立派だ」と言ったのでしょうか?ここでは「この彼女の謙った態度は素晴らしい、謙りなさい、謙遜になりなさい」と言う道徳を教えているのでしょうか?つまり、それは謙遜を求めるという私たちへの律法です。そのように、ここでは、そのような謙遜であるべき、謙遜になるべきという律法の信仰を教えているのでしょうか。

 みなさん、このイエス様の賞賛する信仰、ここで教えられていることは、決して私たちへの単なる謙遜の勧めや律法ではないでしょう。イエス様の賞賛は、彼女のどこまでもダビデの子の憐れみに縋りたい思い、「主よ、カナン人の私ですが、神の怒りを受けた民の末裔ですが、こんな罪深い私ですが、主よ、どうか私を、娘を、憐んでください。」その思いです。彼女は実に「食卓から落ちるパン屑」でも受けたいと言います。つまり、聖書に約束されている通りに、その救い主は憐れみの神であり、その憐れみはこぼれ落ちるほどあることを彼女は見ているでしょう。「ダビデの子、憐れみの救い主はこんな異邦人の神の怒りであった民さえも憐んでくださる。いや、どうか憐んでください。その子供へ現された溢れるばかりの憐れみからこぼれ落ちるわずかなパン屑の如きわずかな憐れみでさえも欲しい。そのこぼれ落ちる恵み、憐れみでも娘は助かる、それでもイエス様の憐れみを喜んで受ける」、そんな彼女の信仰ではないでしょうか。

 

5、「真の謙った心」

 しかし、みなさん「主よ憐んでください」の信仰は、それはもちろん、謙った心があるからこその言葉です。しかし、聖書では、その謙りは、私たちが神の憐れみを受けるために、その前に、自分たちで絞り出し、作り出さなければならないような心としては書かれていないでしょう。いやむしろ神の前では私たち人間は自分たちで謙った心、そして悔い改めは自ら作り出すことはできないものです。つまり、やはり、憐れみを受けるために、その前に、何かしなければいけない律法を要求されているのではないと言うことです。

 今日の旧約のイザヤ56章6−7節の言葉にこうありました。

「6また、主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり

安息日を守り、それを汚すことなくわたしの契約を固く守るなら7わたしは彼らを聖なるわたしの山に導きわたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 主はイザヤの時代からすでに異邦人への憐れみと救いを計画し約束していました。そして、その約束は「わたしの契約を固く守るなら」とあります。それはただ「神の律法を守るなら」と言うことではないでしょう。神はむしろ私たちが律法を守れないからこそ救い主キリストを真の人として送ると計画し約束してくださったでしょう。ですから「契約」、つまり、神様から異邦人を含めての人類への約束を守るなら、つまり福音ではありませんか。その福音を守る、つまり、その約束をしっかりと受けて賜物としての信仰に生きることです。そうすれば異邦人も皆、主の家の喜びの祝宴に連なるのだという意味です。ですからこのイザヤの約束は律法の要求ではなく福音を約束しているでしょう。では7節の後半はどうなんだと思うでしょう。

「彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。」

 これは「生贄を捧げろ」と、律法ではないか、そう思うでしょう。しかしイザヤ書を見ると主は真の生贄、真の捧げ物についてこう言っています。57章15節

「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

66章2節にもこうあります。

「これらはすべて、わたしの手が造りこれらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。「わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」

そして詩篇でもはっきりとこうあります。51篇19節

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」

 これはダビデがバト・シェバとの罪を犯した時に、預言者ナタンを通しての神の言葉によって罪に気付かされ打ちのめされた時の詩篇です。それはダビデが、自分が罪を犯している時に、預言者ナタンを通して神の言葉を受ける前に、自分で罪に気付いて謙った、悔い改めた、というその言葉ではありません。まさに罪に浮かれその最中にいるときに、神がナタンを遣わし、律法のみ言葉を与えた、そのみ言葉を通してこそ罪を知らされ、この言葉に導かれています。

 このように、主に喜ばれる、主への真の生贄は、打ち砕かれた悔いた謙った心です。しかしそれは決して私たちは自ら搾り出すことはできません。私たちは自分が神の前に罪人であることも知らないし、気付かさないし、認めることもできません。しかし神がみ言葉を通して、律法の言葉を通して示してくださるからこそ知ることができ、悔い改めに導かれます。打ち砕かれた悔いた心は、神のみ言葉と聖霊のわざです。神のみ言葉が私たちに語り、私たちは悔い改めのために導かれるのです。

 

6、「悔い改めに導かれるからこそ十字架は救いの光となる」

 確かに、そのように、私たちが聖書を通して罪を知らされるのは、神の厳しい語りかけではあるのです。その時は確かに打ちのめされます。ペンテコステの日の朝のペテロの説教を聞いた群衆が経験したように、心が刺し通されるようなものです。

 しかし、だからこそです。このようにただ神の前に、悔いた砕かられた心に導かれ、自分は神の前にただ罪深い存在、その罪の前に何もなすことのできない、救いのために、何も持てるものではない何もできない自分であることを知るからこそ、「神よ、憐んでください」と、その思いが心から出てくるでしょう。悔いた砕かれた心に導かれるからこそ、その心への溢れ溢れるばかりの神の憐れみがわかるのです。

 私たちへの福音は、十字架のキリストです。その十字架のキリストとそのキリストの義のゆえに、罪が赦される事、キリストがこの十字架と復活のゆえに、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と罪の赦しを与えてくださり平安のうちに遣わしてくださる、それこそいつまでも変わることのない私たちへのプレゼント、それが福音です。しかしその十字架の真の意味、そこにある神の愛、そして、与えられる罪の赦しも、私たちが神の前にどんな存在かを知らなければ決してわかりません。そう神の前にどこまでも罪深い存在、ただただ憐れみを受けなければいけない存在である、そのことです。しかし神がみ言葉を通して、心を砕き悔いた心を与えてくださるからこそ、私たちは心から「主よ憐んでください」と求めることができる。そしてそのイエス様の手から溢れるばかりに、こぼれ落ちる、いや、今や主から一人一人の手に与えてくださる、わずかなこぼれ落ちるものではないイエス様が一人一人に差し出してくださっているその福音の恵みを感謝と喜びを持って受け取ることができる。そしてそこにこそイエス様の救いを見て、私たちはここから安心して出ていくことができるのではないでしょうか?今日のみ言葉が語ってくださっている私たちへのメッセージです。

 今日もイエス様は変わることなくこう宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひその福音、そして聖餐をそのまま空っぽの手に受け取り、安心してここから遣わされていきましょう。

 

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2026年8月9日 聖霊降臨後第十一主日 説教田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年8月9日 礼拝説教

マタイによる福音書14章22−33節

「主イエスの恵みのうちに遣わされる幸い」

 

田口 聖

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

 

1、「遣わされるとは?律法か?」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の福音書では、イエス様は弟子たちだけで彼らを船に乗せ遣わします。それは弟子たちにとって弱さと恐れを覚えた派遣でもありました。今日の第二に聖書朗読ローマ10章15節でパウロは、「良い知らせ、福音を伝えるもの」、つまり、説教者、牧師、宣教師の「その足はなんと美しいことか」とイザヤ書52章7節の言葉を正しく解釈して引用して伝えています。またそれはただ説教者だけではなく、使徒の働きの1章、天に昇られる前にイエス様が「あなた方は地の果てまでわたしの証人」となりますと言われたように、キリストの証人として救われ、召命を与えられたクリスチャン一人一人のことでもあります。クリスチャンは皆、キリストを証しするために遣わされている一人一人であり、キリストを証しするクリスチャン一人一人の「その足もなんと美しいことか」とパウロは示してくれています。

 私たちは牧師であってもそうでなくても、皆、イエス様によって召され、イエス様によって世に遣わされています。私であれば牧師、説教者として、そして全てのクリスチャンはキリストの証し人としてです。

 しかし皆さん。その「派遣」、遣わされれるということ。それは律法でしょうか?どうでしょう?「あなた方は遣わされています」という時、皆さん、どう感じますか?何かを自分たちだけで達成しなけれなならないと、重荷だと感じるでしょうか?何もできないと感じるでしょうか?あるいは、私には無理だと感じるでしょうか?

 今日の福音書。最初、イエス様は弟子たちだけで船に乗せ行かせています。弟子たちだけで遣わしました。しかしここを見ていくときに、イエス様は決して弟子たちを一人にしないということ、そしてその派遣は決して律法ではない。むしろ彼らはいつでもイエス様に思われ、祈られ、そしてイエス様が共にいて、イエス様が彼らを助け、導き、そして、イエス様がその航海、歩み、働きをなしてくださる。遣わされる、ということは、決して律法ではない、そのように「遣わされる」とは、どこまでもイエス様の恵みのうちにある福音なんだということを教えてくれているのです。22節、こう始まっています。

 

2、「弟子たちだけ、強いて」

 「22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 」

 イエス様は弟子たちだけで船に乗せ向こう岸へと行かせます。しかも「強いて」です。そこに偶然ではないイエス様の意図が思わされるのですが、それは、一人、山に登り祈るためでした。イエス様はしばしばこのように山に登り一人で祈ってきました。それは、ご自身が人となられたその目的である、ご自分がかけられる十字架への備えであったことでしょう。しかしそれだけではありません。そのイエス様の十字架と復活は、全ての人々の贖いとなるためであり、救いの約束の実現のためでした。そしてその救いは、やがて遣わされる使徒達の信仰告白の上に建てられる教会で、福音の説教と洗礼と聖餐を通して全ての人々へ与えられるものです。ですから、イエス様の祈りはまさに教会と宣教のための備えでもあったでしょう。二週先にマタイ16章で見て行きますが、イエス様はすでに罪の赦しの宣教が使徒達の信仰告白の上に立つ教会から始まることを約束しています。そして、ヨハネ17章のイエス様が十字架にかけられる直前の祈りからもわかるように、まさに、イエス様が一人で祈る時の祈りは、使徒たちのため、教会のため、そして全ての弟子たち、キリストの証人であるクリスチャン一人一人のために祈ってくださっていたことを窺い知ることができるのです。

 ですから、この場面、強いて船に乗せ弟子たちだけで遣わしているようには見えます。確かに目に見える現象的にはそうでしょう。しかし、イエス様は弟子たちのために祈るために一人で山に登ったのですから、決して弟子たちのことを見捨てたのではない、忘れたのでもない、軽んじているのでもないのです。ひと時、見えなくなっても、イエス様の思いと祈りの中に弟子たちはしっかりとあるのだということを忘れてはいけません。

 

3、「イエス様の目的」

 そして、この弟子だけで遣わすことには、さらなる意味があるでしょう。24節こう続いています。

24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」

 弟子たちは逆風、ヨハネの福音書の6章を見ると「強風」ともありますが、その風ゆえの波、大きな波に悩まされていました。行きあぐねていたのです。しかも夜です。周りは真っ暗で強い風と大きな波です。進むのは非常に困難であったでしょう。もう岸から離れているので戻ることも簡単ではないことでしょう。そして、弟子たちの中には漁師もいました。船の漕ぎ方は知っているとはいえ、自然の恐ろしさも漁師だからこそよく知っていたでしょう。風と波で、漁師でさえも進むことができない。皆、怖かったのではないでしょうか?漁師ゆえの経験や理屈を頭から振り絞っても、まさに「悩まされ」るしかない状況がわかるのです。

 ここにイエス様が彼らだけで行かせたのは祈るためだけではないことを窺い知ることができます。この後の出来事からもわかりますが、イエス様は彼らが弟子たちだけでこの波と風が強い状況でも向こう岸まで渡ることを達成しなさい、成し遂げなさいと、送り出し遣わしているのではないでしょう。イエス様はむしろ船に長けた漁師たちでも悩むほどの風と波を知っていたことでしょう。そしてこの今日の出来事でのイエス様の目的は何ですか?それは、33節にこうあります。

「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

とあります。そう、まさにイエス様はこの日、この時、弟子たちだけで何かイエス様の命令を成し遂げることを望んでいるのではないでしょう。イエス様の目的は、弟子たちが「本当に、あなたは神の子です」とイエス様を崇めること、イエス様をこそ信じ、信頼し、求めるように、そのイエスこそキリストであるという信仰をますます強めることです。ですから、わかるのです。弟子たちだけで行かせたのは、まさに彼らだけではできない、イエス様なしには、イエス様の御心や計画を前に、どこまでも不完全であり、時に悩み、時に恐れ、時に壁にぶつかる、そして時に無力さを覚える。時に不信仰になる、その現実、神の前での自分たちの罪深い現実と何もできないことを知るようにさせることにあるのではありませんか?その弱さや不完全さを知るからこそ私たちは「イエス様、憐んでください、助けてください」と求めるでしょう。それが「本当に、あなたは神の子です」という告白へとつながります。自分の罪深さを知ることなく、「イエス様、罪深い私を憐んでください、罪を赦してくてください」とはなりません。そのこと無くして、十字架の本当の意味も、十字架に現された神の愛もわかりません。しかし自分の罪深さを知るからこそ十字架の救いはわかり「本当に、あなたは神の子です」になるのです。そう、そのための導きなのです。

 

4、「イエスは安心させるために」

 ですから、イエス様は決して弟子たちを忘れてはいません。そのように風と波に何もできない弟子たちのところにイエス様は不思議なしるしを現しながら、来られるのです。

 25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」

 イエス様が湖の上を歩いて弟子たちのところへ来られたのは、まさにご自身こそ真の神であり救い主であることを示すための一つのしるしですね。しかし、暗闇の中に突然現れたイエス様に、彼らは亡霊だと思い、恐怖と叫び声を上げたのでした。「悩み」というのが軽いものではない、追い詰められた心の様が現れているような反応です。しかし幸いです。イエス様は決して悩ませ、恐れさせようとして弟子たちのところにやってきたのではないでしょう。そして、そんな弟子たちに「あなた方は自分たちで何もできないではないか、役割を果たせないではないか、向こう岸へ渡りきれなかったではないか」と言わないのです。もし弟子たちだけで行かせたことが、彼らが彼らだけで達成しなければいけない律法として行かせたのであるなら、イエス様は「ダメじゃないか、達成できないじゃないか」と叱り責めることでしょう。しかしどうでしょうか。イエス様を見てください、イエス様の声を聞いてください。27節

27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 イエス様は弟子たちに会った時、「向こう岸まで渡りきらないからダメだ、役目を達成できないからダメだ」とは言わない。恐れていることも「恐れていてダメじゃないか」とも言わないですね。はっきりと書いています。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 感謝ではありませんか。ここにイエス様の彼らへのメッセージがあります。弟子たちだけは無力です。遣わされても自分たちでは達成できません。色々なことに悩まされます。恐れます。弟子たちは不完全で罪深い一人一人です。それは使徒の時代も決して変わりません。しかし、そんな弟子たち、使徒達を派遣した方の遣わされた一人一人への変わらない言葉がここにあります。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 イエス様はなぜ世にこられましたか。安心させるためです。ヨハネ3章17節にある通り、私たちの罪を責めるためではありません。裁くためではありません。私たちに律法で重荷を負わせ何かを達成させるためでもありません。罪を赦すため。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と安心を与え、その平安のうちに「行きなさい」と遣わすためです。それはエリヤの時代も変わりません。エリヤも遣わされました。しかしエリヤでさえも弱さで打ちひしがれました。そして列王記上19章10節、14節と2度も

「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 と繰り返し叫ぶほどです。しかし主はそんなエリヤをさらに鞭打って果たせとは言わないでしょう。「エリヤ、あなたではない。わたしがする」と、主ご自身が全て計画し果たすと約束を与え遣わすでしょう。そしてその通りに主はなされるのです。パウロも「良い知らせを伝えるものの足は美しい」と確かに言います。しかし、パウロはその前後、伝えるため証しするために派遣はしても、口に信仰告白を与え救いを与えるのは神の言葉だ、キリストの言葉に聞く事だと、み言葉の力、神の力、神がなすものだととパウロは言っているではありませんか。その「良い知らせを伝えるものの足は」、神のなす神の宣教(missio Dei)のために神が召し神が用いているだけであり、成すのは神だと言っているのです。派遣は決して律法ではない、宣教も決して律法ではない、派遣も福音、恵みであり、宣教も福音なのです。

 

5、「ペテロが成すのではない、主と主の言葉がなす」

 この後のペテロのエピソードは象徴的です。28節から

28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

 ペテロの28節の言葉は見ようによっては敬虔な言葉に見えます。熱心な言葉でもあります。イエス様がいれば自分でもできるだろう。信仰的にも見えます。しかし、半分は、自分がなそう、自分にもできるという意志もそこにはあるでしょう。なぜなら、イエス様の「きなさい」という言葉がペテロをも事実、湖の上を歩かせるのですが、まさに周りの強い風、沈みかけたという現実に、イエス様の言葉への信頼ではなく自分でできるかどうかと意思や感情が心を支配するでしょう。それによって沈みかけるのです。そう湖の上を歩くのは、彼の熱心さや彼から出る敬虔さ、意思の強さや情熱ではないのです。彼自身の力ではありません。それをなさせるのはイエス様の言葉でした。しかし、まさに自分の何かに頼ることへの不安と恐れの中で、自分の意思や熱心さや情熱や行いの無力さ不完全さを知るからこそ、ペテロから「主よ、助けてください」の言葉が出てくるのです。そう、イエス様が望んでいるのは、「私は湖の上を渡りきりました。あなたのように歩きました。」という自信ではないのです。イエス様による派遣に必要なのは、自信ではないのです。神の前に弱さ、無力さ、罪深さ、恐れる自分、不完全な自分、何もできない自分を、むしろ認めることです。砕かれた心で悔い改めることです。それこそ神は喜ばれるとも聖書にはあるでしょう。その心で「主よ助けてください」「主よ憐んでください」と叫び、主イエス様にすがり頼り求める信仰です。そのような「主よ助けてください」「主よ憐んでください」こそ何よりも敬虔な言葉、叫び、信仰の告白だとも言えるでしょう。そしてイエス様はその恵みによってご自身の真の目的である信仰と賛美にこそ彼らを導かれているではありませんか。33節

「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

 

6、「結び:派遣」

 今日もイエス様は変わることなく私たちに福音を語り目にみえる福音を与え、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様が私たち一人一人に差し出してくださっている福音をそのまま受け取り、平安のうちに遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2026年8月2日(日)10時半 聖霊降臨後第十主日 礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年8月2日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書14章13~21節

説教題:「五千人に食べ物を与える奇跡」 

今日の聖書はマタイ福音書1413節から21節までであります。聖書の有名な箇所です。イエス様が五千人以上もの大勢の群衆をたった五つのパンと二匹の魚で空腹を満たされた、と言う奇跡の出来事であります。常識ではどんなマジックを使っても出来ない事!全く考えられない驚くべき奇跡を大群衆の一人々が我が身に感じたのですから彼らの間で非常に強力な印象で語り継がれていったでしょう。ですから、四つの福音書全部にこの出来事を記しているわけです。今日のマタイ福音書の方は比較的短く簡潔に記されていますがマルコの方が順序良く詳しく記しています。マルコ福音書6章6節以下には「伝道に派遣された弟子たちが帰ってきてイエス様に自分たちが行った事、教えた事を残らず報告した。」と記されています。それに対してイエス様は彼らを労って「さあ、あなた方だけで人里離れた所へ行って暫く休むがよい」と言われた。マタイ福音書の方では「イエスは舟に乗ってそこを去り一人人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はその事を聞き方々の町から歩いて彼を追った。イエスは舟から上がり大勢の群衆を見て深く憐れみその中の病人を癒された。」とあります。マルコの方は「舟から上がったイエスが大勢の群衆を見て飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみいろいろと教え始められた。」とあります。此処には救いを渇望する人間の側の実感が伝わってきます。旧約聖書から言われてきた神とイスラエルの関係を羊飼いと羊に譬えて言われてきたように群衆のイエス様に期待し慕い求めて集まっている現状を示しています。当時のユダヤ教の律法主義から見れば彼らは神の国に入る資格のない人々であったでしょう。週末が近づくと聞かされ、なす術もなくただイエス様の語る福音に心惹かれて、またイエス様の病人を癒される業に驚きイエス様が語られる一言/\ に聞き入っている大群衆です。イエス様の熱の入った神の国の救いの教えに時は過ぎて夕方に差し掛かってきたのです、そこで弟子たちがイエスのそばに来て言った。「此処は人里離れた所でもう時間も経ちました。群衆を解散させてください。そうすれば自分で村へ食べ物を買いにゆくでしょう。」この弟子たちの群衆を心配する言葉はもっともな言葉です。極めて世俗的な空腹を心配してゆく場面へとなります。群衆の神の国へと導かれる霊の世界の魂の救いという壮大な深い真理の世界の人間が根本的に救われなければならない、目に見えない望み、心が乾いて求めてゆく。そうした群衆の求めに今イエス様は立っておられるのです。時も忘れて疲れも忘れて福音を教えられておられるのです。それに対して、もう日も暮れかかってきた。人間の肉的な求めを心配する弟子たちです。この弟子たちにイエスは言われる。16節で「行かせることはない。あなた方が食べる物を与えなさい。」!! 何というイエス様の言葉でしょうか、目の前の五千人以上の大群衆に食べる物をどうして与えることが出来ましょうか。マルコの方では「私たちが二百デナリオンものパンを買ってきて皆に食べさせるのですか。」と言っています。此処で言う一デナリオンのお金は労働者の一日分の賃金だと言われていますから二百デナリオンは相当の大金です。この弟子たちの言い分を誰も責めるわけに行かないのは当然でしょう。しかし、イエス様は弟子たちが食べ物を与えるべきだとされたのです。マルコ福音書の方で見たように、伝道から帰ってきた弟子たちに報告を聞いたイエス様は疲れを労って休養を取るようにとまで言って下さったのに「大群衆に食べ物をあなた方で与えなさい」と言うたいへん理不尽な要求ではないでしょうか。弟子たちの反発、不満の言葉で返しています。しかし、イエス様には弟子たちがその事を到底できない事もご承知の上で言っておられたのでしょう。弟子たちが周辺の村や里も何処へ出かけたからと言ってこれだけの大群衆の飢えや渇きを癒す糧が入手できる可能性はゼロであります。肉眼に見える必要な事ばかりでなく目に見えない心の糧、人々が心から待ちわびて望んでいる飢えや渇きを癒してくれる魂の救いに至っても弟子たちにはお手上げです、何一つ出来ない。イエス様はこの次元に救いの問題をもう一度立ち帰らせて弟子たちに問い掛けておらるのです。弟子たちが伝道に出掛けて行って病を癒したりイエス様の教えを語ったり懸命にやって来た事より、もっと本当は神の民であるはずの人々の、この心の底からの救い、飢え渇きが弟子たちの休息をとる以上に緊急なことではないかと主イエスは弟子たちに教えようとされている、訓練を与えて行かれる。どんな立派な伝道報告を弟子たちにがしたとしても今、目の前に救いを必要として村々からイエス様に走り寄って来ている群衆、時も忘れてイエス様の口から語られる救いと教えの言葉を食い入るように聞いている。肉体の空腹も心配だけれどももっともっと心の癒し、魂の救いの重要さに心の目を向けようとして行かれる。「あなた方があなた方の手で食物をやりなさい。」このことは教会に対して「あなた方の手で彼らに食べ物を与えなさい。」どのようにして?「与える食べ物、霊の糧は神様が与えて下さる。」のです。「神の国から見てあなた方には何がありますか?僅かばかりの取るに足りない物でしかない。」弟子たちは言いました。「此処にはパンが五つと魚が二匹しかありません」。

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今の時代の中で私たちが教会へと召されている、その私たちにある物は何ですか?イエス様は言われています。僅かばかりのパンと魚をイエス様のもとに持って来なさい。イエス様を目いっぱい信じて差し出しなさい。主イエスは天を仰いで賛美の祈りを唱えられると何とイエス様の手から五つのパンと二匹の魚が次々と弟子たちに渡され五千人以上の群衆は満腹して残りのくずを集めると十二のかごいっぱいになった。何という驚くべき奇跡の業がイエス様の手から繰り広げられていったのであります。どうして?理屈ではない事実!。五千人の人々は十分に食べて満腹したのであります。とても/\考えられない事、人間の思いを遥かに超えた神の御業がイエス様の手によってもたらされたのです。問題は単なる見える食べ物だけの事ではない。目に見えない食べ物、人間が真実に生きてゆくのに必要な糧であると言う事です。群衆の真の飢え渇きとはなんであったでしょうか。彼らの罪の故に律法学者や祭司長たちが人を判断する尺度では神の国には入れないと言う現実にありました。そこには救いはないと言う事です。誰がどうやって罪人たちを救ってくれるのか。そういう人があればその方こそメシアであるに違いない。そうした中へ五千人以上もの群衆をまずは彼らの腹を満たすと言う神の業を現わされたイエス様。弟子たちの手で与えなさい、と言われても自分たちの力で何一つ出来ない。群衆の飢え渇きを癒す事など考えられない事であったのです。イエス様がなさった天を仰いで賛美の祈りを唱えパンを裂いて弟子たちに配られた。と言うこの「パンを裂き配る」と言った事が初代教会の中で古くからの定式化されてきた聖餐式の用語を想起させます。そうしてみると此処で語られているのは生前のイエス様のなさった癒しが何時でも罪の赦し、救いの「印(しるし)」であったように、此処でも五千人以上の人々に食べ物を供えられたと言う奇跡は主イエス様が十字架の上で人々の罪を贖うために死なれた事、その主イエス様の贖いによって罪人である私どもが救いを与えられ、また主の復活によって新しい生命を与えられる事の「印(しるし)」として語られるのではないか。従ってこの日ガリラヤの湖畔でイエス様がパンを裂き弟子たちが分配し人々が満ち足りたと言う光景は他ならぬ神の国の祝宴を先取りしたものと言えましょう。律法によっては神の支配に入る事が出来ず、飢え、渇き救いを求めて彷徨っていた人々が今やイエス様が十字架上に裂かれた体、流された血によってその罪は贖われ赦され、神の国の食卓に連なり満たされ喜びに溢れる日が主イエス様によって備えられたのであります。神の支配はイエス様の奇跡によって地上に始められたのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

2026年7月5日(日)10時半 聖霊降臨後第六主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年7月5日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書11章16~30節

                    

説教題:「今の時代を何にたとえたらよいか」 

今日の聖書はマタイ福音書1116節~19節、2530節です。16節から見ますと、「今の時代を何にたとえたらよいか、広場に座って他の者にこう呼びかけている子供たちに似ている。」イエス様のこの話の場面を理解するのに、まずバプテスマのヨハネの事を見た方がわかりやすいでしょう。イエス様の目から見ればこの時、時代の大きな転換の時代であります。11章の始め2節から見ますと、バプテスマのヨハネは牢の中でキリストのなさっている事を聞いた。そこでヨハネは弟子をイエス様のもとに遣わしているのです。イエス様はいま実際に行っている活動を語ってゆかれる。4節から見ますとイエス様はお答えになった。「行って見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。目の見えない者は見え、足の不自由な者は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。」

7節、ヨハネの弟子たちが帰るとイエスは群衆に向かってヨハネについて話始められた。バプテスマのヨハネは今でこそ捕らわれの身になっていますが、イエス様がガリラヤ伝道に乗り込まれる前には悔い改めを叫びヨルダン川で洗礼を授け、華々しい活動をしていた。マタイ356節にあります。このヨハネは救い主であるイエス様の活動の前に準備する神からの大切な使命を授かった最後の大預言者でもあった、と最大の誉め言葉で語っています。13節を見ますと「全ての預言者と律法が預言したのはヨハネの時までである。」さて、これからは新しい時代が大きく変わってゆく。それは、これから神の御子イエス様が働かれる時代となってゆくのだ。ところが実際の今の時代はどうか、こうして今日の聖書である16節から語っておられるのであります。

イエス様は此処で「今の時代を何にたとえたらよいか、と問われて、それは広場で子供たちが遊んでいる姿に似ている。と言われます。この子供たちは始めは結婚式のような祝いの場面を演じようとして「笛を吹いたのに誰も相手になってくれない。次に葬式ごっこをしますが、それも相手になって乗ってこない。」そのようにブツ/\と不平を並べています。このような相手にされない無視された遊びの譬えを語ってイエス様は何を言おうとされているのか。ユダヤの人々が快楽生活を求めたのにバプテスマのヨハネがその笛に乗らず、むしろ慎み深い宗教生活を呼びかけ悔い改めを迫ってきた。次には人々がしめやかで荘厳な救いの日を期待したのにメシアであるイエスは平気で飲み食いし罪人や徴税人と言った連中と共に飲み食いし期待していたメシアらしからぬ振舞いに対してブツ/\と不満を抱いていたのであります。この譬えの解釈にとって大切な事実をルカは福音書7章29節~30節で書いています。

「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは彼から洗礼を受けないで自分に対する神の御心を拒んだ。」イエス様が子供の遊びに譬えて言われた「今の時代」と言うのはこのように神の御心を無視したファリサイ派の人々や律法学者たちの事であります。つまり、彼らは”結婚ごっこをしよう”とか”葬式ごっこ”をしようと決めてしまった事に調子を合わせてくれないと怒っている子供のようである、と言う事です。彼らは”預言者なら、こう言って欲しかった”とか”メシアならこういうふうに救って欲しい”と決めつけているのです。要するに彼らは自分たちの心で作り上げたイメージ、偶像を崇拝しているのです。もう一つの点は、ファリサイ派の人々や律法学者たちは自分たちの都合の良いように理屈をつけて変えてゆく。それこそ、子供たちの遊びのように結婚ごっこをしたかと思えば葬式ごっこに変えてゆく。ああ言ったかと思うとこう言う。実に定めなき我儘で権力を奮っているのです。バプテスマのヨハネが命がけで「悔い改め」を叫び、真の救い主イエス様の天の御国の働きのため、その準備の道備えの役を果たしているのに彼らにはこの最大の預言者であるバプテスマのヨハネの本当の働きを分からないのでいるのです。分かろうともしない、かえって邪魔をして敵対してゆくのです。それで、19節で言われているのはヨハネのような悔い改めの使者を送られた神の知恵、また罪人の友となる救い主イエス様を遣わされた神の知恵の正しい事はその働きそのもので証明しているのです。イエス様があらゆる病を癒し奇跡を起こしてゆかれる働きこそメシアとしての働きの結果であり、それは神の知恵の作品であると言う事です。

さて、後半の25節から30節ではイエス様は「私のもとに来なさい」と言って下さっています。まず25節を見ますとイエス様は「天地の主である父よ、あなたを褒め称えます」と語りだしておられます。ルカ福音書の方では10章21節で「聖霊によって喜び溢れて言われた」と記しています。神の御国の福音をイエス様が一生懸命に宣べ伝えてもイスラエルの社会を支配し権力で神の民を苦しめているローマ帝国の指導者、また宗教をもって支配する律法学者やファリサイ派の連中から敵対視されているにもかかわらず、イエス様は聖霊に満たされ喜びと賛美をもって語りだしておられるのです。「あなたを褒め称えます。」この「褒め称える」という言葉には「承認する」とか「告白する」と言う意味も含まれていると言われています。周りの状況が悲観的であってもイエス様が神様を賛美できたのは天地の主なる父を自分の内に納得して承認しておられるからこそ賛美に溢れる事が出来るのです。そうして27節で「全ての事は父から私に任せられています。」と言っておられます。父の事は御一人子イエス様だけが一番よく知っておられます。ですから天地の中の何者も賢い人でも知恵ある者であっても、この天地の父なる神の僕に過ぎないのです。誰も神と対等の場に立って論じたり神を探求しうる者はいないのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちが何故バプテスマのヨハネの悔い改めに従わず洗礼も受けなかったのか。或いはイエスの弟子たちが伝道に出かけても何故かカナペウムやコラジンやベッサイダの町の人々が弟子たちの神の国の救いを無視したのか。究極的には神が彼らの心から「これらの事を隠された」からに他ならない。そうして、一方では無学な庶民や徴税人が洗礼を受け幼な子のような者に神のみ心はお示しになるのです。全ての事はみ心のままに、全く神のなみ手の内に事を表し、なしてゆかれるのであります。

つまり、人間の側の何かが決めてとなるのではないのです。専ら神の主権的な啓示だけが決めてであると言う事です。その事を27節にシンプルな言葉で語られました。「全ての事は父から私に任されています。」そこには神からの全幅の信頼がイエス様に与えられていると言う事です。「全ての事」は「救い」も「審き」も魂の事も世間一般の何もかも全ての事が含まれているのです。さて、最後の28節から30節に於いて、神の御心と神の救いの全ての権限を父から授かっておられるイエス様が三つの事を語られています。第一、「私のもとに来なさい。」第二、「私のくびきを負いなさい。」第三、「私に学びなさい。」イエス様を通してしか”神と救い”とを知ることが出来ないのであれば「私のもとへ来なさい」。重荷を負うて苦労している者は誰でも招かれています。そして「あなた方を休ませてあげよう」と約束して下さっているのです。そうしてイエス様と同じ「軛(くびき)」を共に負うのです。

「私の軛は負いやすく軽い。それは、あなた方にとっては有益であり喜ばしい事です。」そして第三の「私に学びなさい。」何を学ぶのでしょうか。「私は柔和で心の減り下った者である」という事を学ぶのであります。イエス様ご自身が柔和でへりくだった方であるからイエス様を手本として学びなさい。打ち砕かれて真に心へりくだる人について第二イザヤと言われる預言者が神の言葉を次のように告げています。<イザヤ書57章15節>「いと高く、崇められて永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。私は高く聖なる所に住み、打ち砕かれてへりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

2026年6月28日(日)10時半 聖霊降臨後第五主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年6月28日(聖霊降臨後第五主日)

エレミア28章5-9節、ローマ6章12-23節、マタイ10章40-42節

説教題 「キリスト教徒で何が悪い!」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の旧約聖書の日課は二人の預言者エレミヤとハナンヤの対決場面でした。時は紀元前590年代、ユダ王国は強大なバビロン帝国に攻められて首都エルサレムは陥落。バビロンの王は自分の言うことに聞き従う者を王に仕立てて一旦引き返します。エレミヤは、国民に向かってユダ王国はバビロンによってさらに徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えました。その時ハナンヤが現れて、あと2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻るなどと逆のことを宣べ伝えたのです。国民はエレミヤの預言にあきあきしていたので、ハナンヤの預言を聞いて、こっちの水は甘いぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。それに対するエレミヤの反論が今日の個所です。

 実際に歴史はハナンヤが言った通りにはなりませんでした。ほどなくしてユダ王国は再度バビロン帝国の攻撃を受けて、エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は町も神殿も完全に破壊されて滅亡します。全てエレミヤの預言した通りになったのです。

 神はエレミヤに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだのでしょうか?エレミヤ書を通して見ると、そこには滅亡だけでなく国の復興についても預言されていることに気づきます。民が連行された異国の地で心から神に立ち返ってその名を呼び求め祈りを捧げるならば、神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われるのです(29章11~14節)。実際、歴史はそのように進みました。紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になります。イスラエルの民はこのペルシャの王の勅令によって祖国帰還が認められます。エレミヤが預言した通りになったのです。

 イスラエルの民のバビロン捕囚と祖国帰還という出来事から、神は人間に対して二つの大きな目的を持っていることが明らかになります。罪に対する裁きと罪の赦しという目的です。神は罪を忌み嫌いそれに対して神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神についての真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事や歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、人間が罪を忌み嫌うようになって罪から離れて生きようとするように変えてあげようとされる方であることもわからなければなりません。

 本日の説教では、まず、この神の真理を礎にして生きる生き方はどんな生き方かということを本日の使徒書の日課ローマ6章から見てみます。次に、その生き方をこの日本で生きるとどういうことになるかということを本日の福音書の日課マタイ10章をもとに見ていきます。

2.神の真理を礎にして生きる生き方

 神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあるという神の真理、この真理が如実に現れたのが、神のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事でした。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上であたかも彼が人間の罪の責任者であるかのように断罪して罪の償いをさせました。そして、死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させ、人間が天の神のもとに迎え入れられる道を切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、この真理を礎にして生きる生き方はどのようなものになるでしょうか?

 使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼を受けたことでイエス様の死と復活に結びつけられていると。そして、イエス様の死に結びつけられると「罪に対して死ぬ

のだと。これは、罪がキリスト信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、全て肩透かしをくらってしまう、それ位にキリスト信仰者は罪に対して冷たく死んでしまっているということです。

 罪に対して冷たく死んだ者は、今度は神に対して生きるのみだと言います。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている、罪と無関係になっている。その時、その人が関係を持つのは神になる。これが神に対して生きることになります。罪に背を向け神を向いて生きることです。洗礼を受けた者は、そういう状態になったのです。ただし、いくらイエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きません。しかし、洗礼はイエス様の死と復活に結びつけるものなので、一度受けたらが最後、罪に対して死に、神に対して生きるという状態になってしまうのです。後は、いつの日か本当に死んで葬られて復活の日に復活を遂げるという外見上のことが残っているだけです。実質的なことはもう既に起きたのです。

 それなので、神の真理を礎にしてこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。

 それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨したらあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそういう状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと何か性的なことが頭に浮かぶかもしれません。それも含みますが、もっと広い意味です。神の意思に反するとはわかっていてもやらずにはいられない、口にしないではいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるならば、十戒の第四から第十の掟を思い出すといいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、自分のものを他人のために役立てようとしないこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人の持っているものを妬んで、それを損なったり自分のものにしようと思い描くこと等々、これらが「体の欲望」、肉の思いです。

 こうした欲望、肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからですが、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので罪は本当は支配者ではなくなっているのです。しかし、キリスト信仰者もまだ肉の体を纏っているので、行いや言葉が自然に自動的に神の意思に沿うものにならないもどかしさがあります。それはまだ復活の体を纏っていないので無理もないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるか、その真実を知ってそれを自覚して生きることが大切になります。それでパウロは、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えと言うのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫でいられる状態、焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを信じて償いを自分のものにした人は神の義を持てるのです。

 ところでパウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と命じる教え方は本意ではなかったと思います。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたのだから、解放は神のお恵みです。人間が神の掟を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。だから「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに命令されないで自然に自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っているのでなかなか出来ません。やはり自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはまさにこのことです。本当は罪に対して死に神に対して生きている状態にあるのだから「~しなさい」などと言う必要はないのに、肉の弱さのために言わなければならない。実にもどかしいことですが、この朽ちる肉を纏ったまま神の真理を礎にして生きるとそうならざるを得ないのです。そういうわけで、この「~しなさい」は、律法的に捉えず、自分たちが本当はどんな素晴らしい状態にいるのかを自覚させる注意喚起と捉えるのが良いのではないかと思います。

3.日本で神の真理を礎として生きる

 福音書の日課マタイ10章40~42節のイエス様の教えは、預言者を預言者だから受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人だから受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子だから冷たい水一杯を与える人は弟子の報酬を得るということです。これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。一つ注意すべきは、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみな預言者ではないということです。神の意思に沿っていないといけません。神の意思は聖書に記されています。「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理を礎にして生きる人です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える人です。

 マタイ10章はキリスト信仰者が受ける迫害について述べています。それで今日の個所も迫害の文脈で理解します。つまり、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を受け入れて世話をする人は、それらの者が将来神から受ける報酬と同じ報酬を受けるというのです。ローマ帝国の迫害期にそのようにパウロを初めとする使徒たちを世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。世話をした人が世話を受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶことを意味します。使徒言行録17章を見ると、テサロニケでパウロをかくまったヤソンとその兄弟が当局に引っ張られていく場面があります。日本のキリシタン迫害の時もそうでした。例えば、密告に対する報奨金制度がありました。この制度のもとで聖職者や信者だけでなく彼らを世話したり匿った人もキリシタンと見なされて拷問を受けました。まさに世話する人がされる人と同じ報いを受ける事態になったのでした。しかし、次に到来する世ではポジティブな意味で神から同じ報酬を受けられるのです。

 日本で世話する人がされる人と同じ立場に置かれるというのは、江戸時代だけではありませんでした。近代日本にもありました。第二次大戦中の時、フィンランドのミッション団体SLEYの宣教師8人が帰国の機会を逸して戦争中ずっと日本に留まらなければなりませんでした。当時キリスト教会は国家権力の統制下に置かれ、自由に伝道や礼拝が出来なくなっていました。礼拝をしても当局が差し向けた目つきの鋭い男たちがやって来て、説教の最中に質問と称して言いがかりをつけて礼拝を妨害したこともありました。ゾルゲ事件の影響でしょう、宣教師が町中の人たちからスパイ呼ばわりされたこともありました。戦争末期には宣教師たちは軽井沢に集められて軟禁状態に置かれました。彼らの面倒を見たり面会をした日本人の信徒たちは周囲から「宣教師の犬」と呼ばれ顔を背けられました。そういうことが江戸時代ではなく、三世代位前の日本で実際にあったのです。

 現代の日本ではこのようなことはなくなりました。日本には数多くのキリスト教系の学校や施設があり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教の存在や果たす役割はとても大きいです。それでは、もう同じ報酬を受けるという状況はなくなったと言えるのか?最後に少し考えてみましょう。

4.勧めと励まし

 日本の総人口の中でキリスト教徒が占める割合は1パーセント未満です。社会の中での存在や役割は大きいとは言っても、日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあります。それについては宗教学や社会学、文化人類学のいろいろな説明があると思います。一つには、キリスト教は欧米の宗教で日本人の風土と精神に合わないというような議論があります。。遠藤周作の有名な「沈黙」の中で、棄教して仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。この見解はいかがなものか。暴力と武力で消滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは原因と結果のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。

 キリシタン禁制の時に日本人は全員どこかの寺に所属するという檀家制度が始まりました。所属する寺があり、そこに墓があるというのは私はキリスト教ではありませんと証明するためだったのです。最近、線香をたくことはいつから始まったのかAIに聞いてみました。答えは、仏教が日本に伝わった時に始まったが、最初は線香が高価なものだったので貴族などに限られていた、しかし、江戸時代初期に一般民衆に広まるようになったと。「江戸時代初期

とあったので、線香をたくことと檀家制度は関係があるかと聞いたら、ありますと。檀家制度の下で祖先の霊を弔うことが重要になり、そこに中国から線香を安く大量に作る技術が伝わって線香が広く普及するようになったと。つまり、檀家制度と線香をたくことは、キリスト教の否定と裏表の関係だったのです。

 もちろん、現代では檀家制度と線香にキリスト教否定の意味があるとはあまり意識されていないでしょう。菩提寺がある人も線香をたく人も、子供をキリスト教系の幼稚園や学校に入れたり、キリスト教式で結婚式を挙げたりします。江戸時代だったら拷問ものです。しかし、キリシタン禁制から400年の時が経ち、日本人には死者の霊を祀るという霊性が深く根を下ろすようになったと思います。仏教の儀式を通して仏壇や位牌や骨壺などに亡くなった方の魂が入っていると信じられます。仏壇や墓の前で目に見えない相手に話しかけたり、願いごとを打ち明けたり、見守りを感謝したりしてコミュニケーションを保ちます。そして、そういうことがキリシタン禁制のずっと前からあったかのごとく、日本の歴史そのものであるかのようなイメージが持たれるようになりました。

 そこに、キリスト教がやってきて、亡くなった方は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っている、眠っているから何もしない、だから、墓や仏壇のところでたたずんで焼香や供え物が来るのを待ったりしない、それに私たちを見守ってくれるのは私たちの造り主、天の父なるみ神だけだ、などと言ったら、なんと思いやりのない宗教だ、と言われてしまうでしょう。キリスト教が伝統的な国では亡くなった方を追悼する式をメモリアルサービス、思い出の礼拝と言います。それが日本語でしばしば「慰霊祭

と訳されます。メモリアルサービスでは、亡くなった方の霊を慰めることはしません。慰めるも何も、亡くなった方にはもう何もなしえないので、メモリアルサービスしかないのです。このようにキリスト教では亡くなった方との関係は、その方の思い出(メモリー)を何ものにも代えがたい貴重なものとして大切にするということに尽きます。これが亡くなった方に関するキリスト教の思いやりの形です。それでキリスト信仰者は、その方と過ごせた過去の日々を神に感謝し、将来の復活の日の再会の希望を胸に抱いて神に祈りながら今を生きるというスタンスになるのです。

 そういうのはキリスト教が伝統的に強い欧米の考え方で、日本人には合わないと言われるかもしれません。しかし、檀家制度や線香をたくことが確立する以前の日本で多くの日本人がキリスト教徒になったという事実はどう考えたらよいでしょうか?彼らは、日本人に相応しくないことをしていたのでしょうか?当時の日本は下剋上でまさに諸行無常の世でした。その中で、力によらない真の正義とか諸行無常に代わる永続的なものを求める心が人々の中にあったとしても不思議ではありません。キリスト教がそれにマッチしたのではないかと思います。ただし、明治期のキリスト教受容は、欧米の圧倒的な力の差を見せつけられて、自分たちもああなりたいということがあったのではないかと思います。(第二次大戦後の受容はどうでしょうか?)

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!確かに、キリスト教は欧米を経由して入ってきました。しかし、聖書の内容は欧米の文化文明の教本なんかではありません。それは、天地創造の神が古代オリエントと地中海世界を舞台に選んで人間を救おうという意思とそのための計画を知らしめたということ、それをその舞台の人たちが一生懸命、後の世界に伝えようとしたのが聖書です。私たち人間の命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。先ほど述べた神の真理を礎にして、復活の日を目指して、体の欲望、肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが欧米化なのか?これのどこが日本人に相応しくないことなのか?和辻哲郎は第二次大戦直後に著した「鎖国」という本の終わりで、キリスト教を壊滅させたツケは今次の敗戦という形で回って来たのだというようなことを言っているくらいです。キリスト教徒で何が悪い!日本にとって何にも悪いことはないのです!むしろ、今の日本にとっても必要すぎるものなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年6月21日(日)10時半 聖霊降臨後第四主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年6月21日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書10章24~39節

                    

説教題:「自分の十字架を担って神に従う」 

今日の聖書はマタイ福音書1024節から39節まで、であります。この箇所を見ますと読んだだけでは何の事を語ろうとされているもかよく分からない。24節から見ますと「弟子は師に勝るものではなく僕は主人に勝るものではない」ここまでは何となく分かります。次から分からなくなってゆきます。「弟子は師のように僕は主人のようになればそれで十分である。」・・・・

さて、今日のこの聖書の言葉はどういう場面でイエス様はどんな気持ちで語っておられるのでしょうか。34節だけ見てもイエス様はもの凄い事を言われています。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たからである。」それで、111節を見ますと「イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え宣教をされた。」とマタイは締めくくって書いています。マタイは728節のところでも同じように書いています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく権威ある者としてお教えになったからである。」つまり、マタイは5章から7章までに神の国の事、そこでの生活に関する事を教え10章では神の国の伝道に関する教えを、特に12人の弟子への訓練として非常に厳しく語っています。イエス様は12人の弟子を選んで105節で「イエスは12人を派遣するにあたり次のように命じられた。」それで、5節から15節までは、伝道の仕方を教えられ、次には16節から23節で伝道者の忍耐が教えられ、今日の聖書の箇所で24節から33節に至って伝道者の勇気が教えらています。一言で言いますと、この世の権力からイエス様の神の国と救いの福音を語る時、必ず迫害を受ける。だから、「恐れるな、死を覚悟で福音の真実を語り、明らかに広めよ」という勇気です。以上が今日のみ言葉が分かる背景の全容であります。34節以下は厳しい言葉ですがこの福音の伝道によってこれを受け入れる人々への心構え、教えであります。さて、初めの24節~25節で言われている事は「弟子は師に勝るものではない」そして「僕は主人に勝るものではない」という二つの文章は共にユダヤの諺のような言葉でイエス様はこの諺をもってきて違った意味で用いられたと言う事です。ルカ福音書640節では「弟子は師に勝るものではない。しかし、誰でも十分に修業をつめばその師のようになれる。」こう言っています。ヨハネ福音書1316節では「はっきり言っておく、僕は主人に勝らず遣わされた者は遣わした者には勝りはしない。それなのに主人でさえ僕の足を洗ったのだから僕は尚更互いに仕え合うべきである。」と言う事です。イエス様はその両方が一つに結び合わせた形で用いておられます。弟子たちは一方では私たちから献身したのであり他方では主イエスから召し寄せられた者です。当然、先生のようになりたいと願っていても又どれほど苦労をしても主人以上にはなれるわけがないのです。先生が「ベルゼブル」と呼ばれているのなら自分たちもそう呼ばれたはずです。ベルゼブルと言うのは悪魔の頭と言われてファリサイ派の人々がその名をイエス様のあだ名のように読んでいたわけです。それは悪霊を追い出されたからでした。ですから、キリスト者もキリストの如くなりたいと願ったとしてもその主人のようにはなれない。弟子たちが派遣されて伝道してゆく中で色々な苦難に合い謗られても主人であるイエス様の悪霊を追い出すほどの力、働きが出来るかどうか、矢張り主人の助けが必要でしょう、又イエス様は必ず助けてくださいます。ピリピ人の手紙129節にはこうあります。「あなた方にはキリストを信じる事だけではなくキリストのために苦しむ事も恵として与えられているのです。」ここに弟子たちに教えられているように、私たちキリスト者も信仰を持って生きる時、色々な苦しみがあります。これはキリスト者のこの世に於ける定めなのです。何故ならこの世が神に敵対しているからです。キリストに従う信仰者は色々な迫害を受ける、ですからマタイは10章でイエス様の励ましの言葉を書いています。「人々を恐れてはならない」。26節以下では「キリストの福音は迫害を恐れてどんなに隠そうとしても隠しきれるものではない。私が暗闇であなた方に話す事を明るみで言え。耳で囁かれた事を屋根の上で広めよ。」ここで言われている言葉も一種の諺として、言われている言葉をイエス様は用いて語られています。福音書には度々イエス様が群衆には譬え話しか話さずに、弟子だけにはあからさまに教えられた例があります。又、奇跡や教えを見聞きした人に「誰にも言うな」と口止めされた事もあります。そのようにイエス様はまず少数の選ばれた人の間で密かに教えられました。こうしたものが26節で言っておられる「覆われたもの」或いは隠されたもの、又は耳打ちされたものに当たるのです。

このようにイエス様が教えられたもの耳打ちされたものはそこに福音の真理があるから必ず明るみに現わされ神の力が露わに発揮されて行くのであります。ですから、あなた方は恐れずどんな権力の下であっても宣べ伝えて行きなさい。28節から雀と髪の毛の事を引き合いに出して言われています。28節を見ますと「体を殺しても魂を殺す事の出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼす事の出来る方を恐れなさい。」これははスイスの宗教改革者ツブィングリが戦死した時にこの言葉を叫んで殉教の死を遂げたと言われています。この言葉は殉教者の最後の慰めと励ましとなったのです。イエス様は言われる、「まことに恐るべき方は神様である」と言う事です。29節以下で言おうとされている事は雀のような小さな小鳥さえ神のみ心なしには落ちないのである。次に頭の髪の毛を誰が数えられるか、しかし神の国に於いては数えあげられておられる。そうして更に主イエスは言っておられる。一羽の雀でさえ許しなしには落とされない神、そのあなたの父である神から愛されている神の子よ!あなた方は殺されることはないのだ。いとし子の髪の毛、一本/\ をも慈しんで美しくしてやりたい、という親心で天の父は見守ってくださっているのだ。私たちは神の子である以上、どんな苦しみの迫害にあっても殺されることはない。たとえ、死ぬにしてもその死は神様には尊い値打ちのある有意義な死であります。主のために死ぬにしても父らしい神の愛を確信して死ぬのであります。32節から33節のところで言われているのは、父の前で告白することを父は受け入れて下さるであろうと言う事です。ここに「天の父の前で」とあります。ルカ福音書の方では12章8節から9節のところで「神の天使たちの前で」となっています。ですから、誰でも人々の前で自分を「私の仲間である」と、つまりキリストの仲間、クリスチャンであると明らかに言い表す者は神と天使たちの居並ぶ前でキリストも「私の仲間である」と言おう。ですから、此処には神様と天使たちが居並ぶ天に於ける大法廷の光景が語られているのであります。キリスト者はこの世の地上で苦しめられ裁判にかけられ殺されような事があっても天上の神様の前での大審判の法廷に於いては「自分の仲間」としてキリストが認めて下さり救って下さるのであります。あなた方がこの世でキリストを仲間とはっきり堂々と告白するならキリストは天の法廷で命がけで「私の仲間である」と告白してくださいます。天に於いて私たちをキリストは迎え入れて下さるのであります

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キリスト者の死は神の前で尊いだけではなく主キリストにも喜ばれる死でもあります。使徒言行録6章、7章を見ますとステファノの殉死に至る出来事が延々と記してあります。ステファノはユダヤ教徒の激しい罵りと攻撃に会ってもイエス・キリストこそメシアであり救い主である事を証し説教します。そのため、遂に石で打たれてもステファノは聖霊に満たされ、7章55節を見ますと「天を見つめ神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て言った。天が開いて人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と、こう叫びながら人々の投げつける石で殺され眠りについた。「主イエスよ、私の霊を受け入れて下さい」と言って息を引き取ったのでした。(59節)34節から39節に至ってイエス様は大変厳しい警告を述べられています。34節「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。」ここで言われる「私が来たのは~だと思ってはならない」というのは5章7節にもあります。これは来るべき者が来た時に人々が抱く誤解を防ぐための言葉です。旧約聖書の時代から来たるべきメシアが平和をもたらしてくれる事を度々預言していました。メシアのことを「平和の君」とも呼んでいました。9章5節「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」それで、イエス様の教えと数々の奇跡の業にイスラエルの民はこの方こそメシアとして来られた者と期待し始めた、当然の事でしょう。しかし、イエスは言われる「地上に平和をもたらすために私が来たと思うな、平和ではなく剣を投げ込むために来たのである。」平和の君が来られると、述べ伝えられているのに、どうして家族の者までが敵となって争い迫害し合うような事になるのか。私は剣を投げ込む、と言われる「剣」というのは何でしょうか。それは家族の如く最も親しい者の間に生ずる争いと敵意の事です。35節と36節で言われる言葉は旧約聖書ミカ書7章6節から引用された言葉であります。7章6節「息子は父を侮り娘は母に嫁は姑に立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」(最後まで読むと恵み、慈しみであります)

預言者ミカはその中で紀元前8世紀のイスラエルが「彼らの最も良い者も茨の如く、最も正しい者も茨の生垣のように」荒れ果てて罪と罰に沈んでいる報いとして「彼らの見張り人の日、即ち刑罰の日が来る」と言っています。(4節)今や「彼らの混乱が近い」。その混乱は「隣り人」も「友人」も「あなたの懐に寝る者」もあてにならない混乱である。(5節)その挙句6節に見た家族同士の敵対で無秩序となる。イエス様はこうしたミカの預言の言葉を引用してこうした無秩序と混乱を来たらせると警告されているにすぎません。平和の君が来たのにその福音の言葉を受け入れない罪に対する神の刑罰、そして家庭秩序や社会秩序が裁かれ徹底的な混乱に突き落とされるという戒めのメッセージです。イエス・キリストは平和をもたらすために来られました。しかし、その平和の訪れる前に徹底的な混乱が起こる。そうして後にクリスマスの主はみ心に適う者の上に平和をもたらしてくださる方であります。最後に38節~39節のみ言葉を見ましょう。「自分の十字架を担って私に従わない者は私に相応しくない。自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者はかえってそれを得るのである。」私たちはこの世で苦難に会う時は僅か束の間です。しかし天のみ国で永遠の命にある喜びと希望を持って生きる信仰こそまことの幸せであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

2026年6月7日(日)10時半 聖霊降臨後第二主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年6月7日(聖霊降臨後第二主日)

ホセア5章15節-6章6節、ローマ4章13ー25節、マタイ9章9-13、18-26節

説教題 「イエス様の憐れみは人を神に立ち返らせる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は、イエス様が徴税人のマタイにつき従うように命じ、マタイはその通りにした、そして自分の家にイエス様と弟子たちを招いた、他の徴税人その他もろもろの罪びとたちも一緒の食事の席についた、そこをファリサイ派の人たちに目撃されて非難されたという出来事です。当時は招かれて一緒に食事をするというのは家族並みの近い関係になったことを意味しました。

徴税人は当時のユダヤ教社会のなかで罪びとの最たるものとみなされていました。どうしてかと言うと、彼らの主たる任務は、イスラエルを支配しているローマ帝国のために住民から税金を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ったりしたからでした。なぜ、占領された国民から、占領側に仕える仕事につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道であったからです。各福音書を見ると、徴税人が認められている額以上の税を取り立てていたことが窺い知れます。例えば、ルカ福音書の3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけて、「定められた以上を取り立てるな」と戒めています。同じルカ19章で改心した徴税人のザアカイは、イエス様に次のように言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」このように、占領国の利益のためのみならず、自分の私腹も肥やしたわけですから、徴税人が自分の利益しか考えない国の裏切り者と見なされ憎まれたのは当然でした。

 イエス様は、神由来の権威をもって天地創造の神について人々に教え、無数の奇跡の業も行い、大勢の群衆が付き従うようになっていました。宗教エリートのファリサイ派は、この男は伝統的な権威に挑戦する危険人物なのかと気が気でなりません。このように大勢の人に支持されたイエス様が、突然、徴税人その他罪びとと同じ食事の席についたのです。これは、ファリサイ派にとってイエス様の教えが間違っていることを示す証拠になりました。なぜなら、罪びとは神の裁きを受ける者なのに、これを断罪するどころか、一緒に食事までするとは、この男にはもう神について教える資格はない、と。

 イエス様が罪びとを招き受け入れる仕方はよく見ると、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入るプロセスを先取りしています。今日はそれを明らかにします。きっと、この出来事は私たちの身に覚えにあることがわかってくるでしょう。それと、本日の福音書の日課には12年間出血の病が治らなかった女性を癒したことと、ユダヤ教社会のある指導者の娘を生き返らせた奇跡もあります。これらもよく見ると、信仰に入った者が信仰者としてこの世を歩むとどういうことになるかということを先取りするように示しています。このことを説教の終わりで述べようと思います。

2.「誠実」と「憐れみ」

 ファリサイ派の批判に対して、イエス様は次の言葉を返しました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(12ー13節)。ここには大事なことが沢山詰まっています。まず、イエス様は、自分と罪びととの関係を医者と患者の関係にたとえます。そうすると、イエス様は罪びとの抱える病気を治してあげるということになります。それはどんな病気で、イエス様はそれをどのように治されるのでしょうか?それから、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というのは、本日の旧約の日課、ホセア書6章6節にある神の御言葉の引用です。これはイエス様が罪びとを受け入れて招くこととどう関係するのでしょうか?さらに、イエス様がこの世に送られてきたのは「罪びとを招くため」と言われますが、罪びとを招くとはどういうことなのか?まさか一緒に飲み食いすることではないことは誰でもわかります。「招く」とは、どこに「招く」ことでしょうか?以下、これらのことを明らかにしていきましょう。

 当時、徴税人は罪びとの最たるものと見なされていましたが、興味深いことに、福音書に登場する徴税人は少し勝手が違います。例えば、ルカ3章では、洗礼者ヨハネが神の裁きの日が来ることを大々的に告げ知らせると、大勢の人たちに混ざって徴税人たちも洗礼を受けにやって来ました。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。同じルカの18章にイエス様のたとえの教えで、自分の罪を自覚して神に赦しを乞う徴税人が出てきます。たとえなので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人のことを考えれば、全く非現実的な話ではありません。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様をなんとか一目見ようと木に登り、それに気づいたイエス様が彼を受け入れた途端、悪いことをして蓄えた富を捨てるという決心をしました。ルカ5章で、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人は「全てを捨てて」つき従いました。つまり、イエス様につき従うや否や、それまでの生き方を捨てたのです。ここが重要です。

 このように福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方は良くないと感じつつも、自分の力では変えることが出来ないでいた、それが、イエス様の招きを受けた瞬間に生き方が変えられたのでした。ここが大事なポイントです。イエス様と一緒に食事の席についた徴税人その他の罪びとは生き方が変えられた人たちだったのです。その意味で彼らはその時はもう元罪びとだったのです。しかしながら、宗教エリートはこの変化を本当のものとして受け入れられません。彼らの目ではまだ現役の罪びとです。どうしてでしょうか?

 それは、罪の赦しが宗教エリートが重視する、戒律的な手順を踏まえておらず、イエスという一個人を通して赦しが与えられてしまったからでした。それでは、エリートたちが教えたこと守れと言っていたことが一気に意味を失ってしまいます。そのため、イエスがやっていることは神が認める罪の赦しなんかでない、罪びとたちの新しい生き方も本当ではないという見方になってしまうのです。イエス様の招きや受け入れには本当に罪の赦しがあり新しい生き方をもたらすものであるというのは、旧約聖書の神の言葉に基づいているのです。

 イエス様はホセア書6章6節の神の言葉を引用しました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」

罪びとたちが罪の赦しを得て新しい生き方を始めたのに、それを疑う宗教エリートに向かって、この言葉の意味を学びなさいと言いました。私たちもその意味をわからなければなりません。ここからが正念場です。

 ヘブライ語の原文を忠実に読むと、「私が求めるのは『誠実』であって、いけにえではない」です。福音書はギリシャ語で書かれているのでイエス様が引用した言葉はギリシャ語のエレオス「憐れみ」です。引用元のヘブライ語の言葉はヘセド「誠実」です。ヘセドは辞書によるとfaithfulnessで、日本語では「誠実」とも「忠実」とも訳せます。以前の説教では「忠実」にしましたが、やっぱり「誠実」がいいと思いました。私たちの新共同訳ではヘセドは「愛」と訳されていますが、これは後で述べるように正しくありません。

 元の言葉は「誠実」なのにイエス様が引用すると「憐れみ」に変わってしまいました。この変化の意味がわかると、イエス様の招きと受け入れが罪びとの生き方を変えたことがわかります。まず、ホセア書のホセアは、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂した後に活動した預言者です。紀元前700年代の人です。南のユダ王国の国民はエルサレムの神殿で、神から罪の赦しを得るために律法に従って多くの羊や牛を犠牲の生け贄として捧げていました。しかし、それはいつしか心を伴わない表面的な行為になってしまった、儀式を重ねる一方で神の意思に反することを繰り返すようになってしまった、これではいくら生け贄を捧げても何の意味もありません。人間が自分の罪を心から悔いて神の意思に沿う生き方をしますという儀式なのに、心は改めず儀式さえしていればOKと自己満足に陥ってしまったのです。それで神は、そんな生け贄はもういらないと言われたのです。

 それでは、神は生け贄に換えて何を民に求めたかと言うと、それがヘセド「誠実」なのでした。民の神に対する誠実さとは、神に背を向けた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きるということです。これが神に対して誠実に生きるということです。新共同訳では「愛」と訳されているのが正しくないと言うのは、ホセア書の大切なポイントの一つとして、民が天地創造の神に背を向けて違う神々を拝むようになってしまったことを結婚相手の不倫にたとえることがあるからです。そういう背景を考えるならば、ヘセドは相手を裏切らないという意味、辞書にある「誠実」がピッタリなのです(ちなみにフィンランド語訳の聖書は「誠実」、英語訳とスウェーデン語訳は「愛」でした)。

 マタイ福音書はギリシャ語で書かれていて、イエス様はホセア書6章6節を引用した時にエレオス「憐れみ」と言ったことになっています。出来事の現場ではイエス様はアラム語という言葉で話しをしています。イエス様はアラム語で「憐れみ」を意味する言葉を発して、それが後にギリシャ語に訳されてエレオスになったわけですが、イエス様はなぜヘブライ語原文の「誠実」を「憐れみ」という別の言葉に置き換えたのでしょうか?

 実はこの変換には背景があります。イエス様の時代の200年前位に旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。そこでホセア書6章6節の「誠実」ヘセドは「憐れみ」エレオスと訳されたのでした。つまり、この個所の「誠実」という言葉を見てそれを「憐れみ」の意味を含ませる考え方が当時のユダヤ教社会の中に出てきたのです。ファリサイ派に反論する時にイエス様はそっちを取ったのです。どうしてか?こういうことです。ホセア書で神は、民には「誠実」が欠けていると指摘しました。生贄の捧げよりも神に対する誠実が必要なのだと。そしてイエス様は、宗教エリートには「憐れみ」が欠けていると指摘したのでした。罪びとが神のもとに立ち返って神に誠実な者になれるためには戒律に従って生贄の捧げを命じるのは意味がなく、罪びとに「憐れみ」を示すことが必要なのだ、それを自分は罪びとを受け入れて招くことで示しているのだということなのです。これが、イエス様がヘブライ語の「誠実」をギリシャ語の「憐れみ」に置き換えたからくりです。兄弟姉妹の皆さん、このことを通してでも聖書はまことに奥が深い、侮れない書物であることがおわかりになったでしょう。

3.十字架と復活こそ私たちに対するイエス様の憐れみの招き

 ところが話はここで終わりません。からくりがわかったからと言って満足してはいけません。なぜなら、イエス様が示した「憐れみ」は当時の罪びとを越えて全ての人間、現代を生きる私たちにも及んでいるからです。次にこのことを見てみましょう。イエス様が示した「憐れみ」は、罪びとを受け入れて招くことでした。受け入れられて招かれた罪びとたちは、今度は神に背を向けていた生き方を止めて神に対して誠実な者に変わりました。イエス様の罪びとを受け入れて招く「憐れみ

は、受け入れられて招かれた者の側に生き方の変化をもたらす力を持っていました。これは、まさにイエス様が行った病の癒しや悪霊の追い出しと同じ奇跡の業です。この同じ奇跡の業は時代を超えて今を生きる私たちにも及んでいるのです。徴税人のように何か具体的な悪行はなくとも、私たち人間はみな神聖な神の目から見たら、神の意思に反しようとする性向、罪を持つ「罪びと」です。そのような私たちをイエス様は憐れみで受け入れて招いて下さり、招きを受けた私たちは神に背を向けていた生き方をやめ、神のもとに立ち返り、神の意思に沿うように生きようという心になる、つまり神に対して誠実になる、そういう憐れみを私たちは受けたのです。いつ受けたのでしょうか?

 イエス様の憐れみの招きは、彼が十字架の死と死からの復活を遂げた時に本格的に始まりました。イエス様は私たちが持ってしまっている罪を全部引き取ってゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで神の罰を受けて死なれました。私たちが罰を受けないで済むように私たちに代わって受けられて、私たちの罪を償って下さいました。神は一度死なれたイエス様を途方もない力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちに切り開いて下さいました。そこで、私たちがこれらのことは本当に起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされるようになって、神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるのです。そして、永遠の命が待つ神のみ国に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩めるようになるのです。

 このように神は私たち人間を憐れんで、ひとり子を贈って私たちが歩むべき道と進むべき方角を照らし出して下さったのです。かつて道を誤ってそれぞれの方角に向かっていた羊の群れのようだった私たちは、罪のゆえに神との結びつきを失うという病に冒されていました。それをイエス様は担って下さり、彼が受難で受けた傷によって私たちは癒されたのでした。まさにイザヤ書53章の預言の通りです。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたことが、この神の憐れみの招きを受け入れたことなのです。それで私たちはもう、神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きようと志向する者になったのです。神に対して誠実な者になったのです。イエス様と同じ食事の席につける元罪びとなのです。

4.勧めと励まし

 このように神の憐れみの招きを受けて神に誠実な者になると、この世の歩みはどんなものになるか、福音書の日課のもう二つの出来事が先取りするように示しているので、最後にそれを見ておきましょう。

 12年間出血の病に苦しんでいた女性は、イエス様の衣に触れたら治ると信じてそうしました。それに気づいたイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言います。それを言った直後に女性は健康になりました。ギリシャ語の原文の「救った」はギリシャ語の特有な現在完了形で、その意味は「過去のある時点から今のこの時まであなたは救われた状態にあった」です。過去のある時点とは、イエス様を救い主と信じ出した時点ですので、「あなたは、私を救い主と信じる信仰に入った時から今のこの時まで救われた状態にあった」という意味になります。女性が治る前にこの言葉が言われたことに注目します。治る前です。つまり、救われるというのは必ずしも病気が治ることではないのです。もっと広い意味があるのです。イエス様を救い主を信じる信仰に入ったら、病気だろうが健康だろうが神との結びつきは変わらずにあり、天の御国に向かう道を歩んでいることにも何ら変わりはないということです。もちろん、この出来事は、まだイエス様の十字架と復活に基づく憐れみの招きが出てくる前のことですが、将来の信仰の有り様を先取りしているのです。

 指導者の娘の生き返らせも同じです。「娘は死んではいない、眠っているだけだ」と言うのは、イエス様にとっては、彼を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の日に眠りから目覚めさせられて天の御国に迎え入れられるのだから、この世からの死はその日までの眠りにすぎなくなります。この出来事もまだイエス様の復活が起きていない時のことですが、天の御国に至る道に置かれてその道を歩む私たちにはその通りのことなのです。それで、この出来事もキリスト信仰の有り様を先取りしているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン