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主日礼拝説教 2026年3月22日(四旬節第五主日)
エゼキエル37章1-14節、ローマ8章6-11節、ヨハネ11章1-45節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。これを読んだ人は、ああ、イエス様は何と愛に満ちたお方なんだろう、悲しみにくれる姉妹を助けるために死んだ兄を生き返らせて下さったのだから、と思うでしょう。死んだ人を生き返らせる位の強い愛を示されたのだ、と。しかし、これを自分に当てはめて考えたら同じことが言えるでしょうか?イエス様は、もし私の愛する肉親が亡くなって悲しみに打ちひしがれた時、祈ってお願いしたら生き返らせてくれるのだろうか?もし、生き返らなかったら、イエス様は私のことをラザロやマルタやマリアよりも愛していないということなのだろうか?だから生き返らせてくれないのか?
このような疑問は、一見筋が通った疑問に聞こえますが、実は筋違いです。イエス様がラザロの病気のことを「神の栄光のため」と言ったことに注目しましょう。普通それは、イエス様がラザロを生き返らせたことが神の栄光の現れと思われます。ところがそれはまだまだ浅い理解です。本当はもっと深い意味があります。ラザロの生き返らせの奇跡と神の栄光の深い本当の意味を理解しなければなりません。本日の説教でそれを明らかにしてまいります。
深い本当の理解に入る前に予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を具体的に記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、ほとんどの人は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られた創造主の神、私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた生ける神であるというのがキリスト信仰です。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。
復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話に聞こえますが、聖書の観点とはそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活は眠りから目覚めることと同じと見ているからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。
そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。それと当時の日数の数え方は最初の日も入れて数えるので、今ふうに言えば3日です。イエス様が3日後に復活したというのも今ふうに言えば2日後です。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったのです。そして今は、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。
それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の本当の深い理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみます。
イエス様を前にしてマルタは開口一番、こう言いました。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはそれを打ち消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して疑っていません、ということです。これは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と暗に言っているのです。つまり、マルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。
それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」とは言いませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉から明らかです。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく将来の「復活」のことを言われる、ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせてはくれないのだ、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることは疑っていません。ただ、それは遠い将来のことです。「生き返り」ならば、今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。
そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味します。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。
それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえこの世から別れても復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けます。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を信じて洗礼を受けると永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになります。イエス様を信じて生きると神に守られ導かれながらその道を歩みます。そして、復活の日が来たら永遠の命を持って生きることになります。それで永遠に死なないのです。
それでは「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、イエス様が復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方だと信じることです。イエス様がそういう方であることは、彼の十字架と復活の業を通してはっきりします。彼の十字架の死は私たち人間が内に持ってしまっている罪を私たちに代わって神に償うための死でした。彼の死からの復活は、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて私たちにそれを歩ませるための復活でした。イエス様を復活と永遠の命を与えることが出来るお方だと信じて安心が得られればそれでもう信じているのです。
イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?
これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と関連付けて述べました。「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだという理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。
マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。ギリシャ語の現在完了のマルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟って信じるようになりました、ではないのです(その場合はアオリストのエピステウサになります)。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。
このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている、もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかってはいた、しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。
ところが、イエス様との対話を通して復活と永遠の命の希望がマルタに戻ったのです。イエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは簡単には消えませんが、一度こういうプロセスを経ると希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まって生きるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではありません。それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまった、それを確認させられて強めてもらったのでした。そうなれば将来の復活は少なくとも心の中では実現してしまったのも同然です。兄ラザロとの再会が現実味を帯びた瞬間です。イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みに留まって生きるキリスト信仰者についても同じです。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者にとって復活はもう半分以上実現しているのです。
イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼にすれば死など復活の日までの眠りにすぎないことと、彼こそ復活の目覚めをさせる力があること、この2つを人々に前触れ的にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声が私にも聞こえて私も起こされるんだ、と誰もが予見したでしょう。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!これで、イエス様がラザロの病気は神の栄光のためと言った意味がわかったでしょう。神の栄光とは、ラザロを生き返らせたことよりももっと大きなことを意味したのです。まず、悲しみにくれるマルタとの対話を通して、失われかけていた復活の信仰を確認させて強くしてあげました。そして、生き返らせの奇跡の業を通して、イエス様を信じる者にとってはこの世からの死は眠りにすぎず、その眠りから目覚めさせる力はイエス様が持っていることを人々に具体的にわからせました。これが神の栄光です。このことは、当時の人々だけでなく、全ての時代のイエス様を信じる人々に当てはまりませう。もちろん、私たちにもです。もし、私たちの復活の信仰が揺らぐようなことがあれば、イエス様はマルタにしてあげたように私たちの信仰を確認させて強くして下さいます。マルタの場合はイエス様との対話を通してでしたが、私たちの場合はイエス・キリストについて証言している聖書の御言葉を通してです。以上が神の栄光の全容です。
最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つは、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書は皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。私たちに死を超える復活と永遠の命を与えることができる途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。
もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている所に行くのは危険ですと押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。
「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」
分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある、それが危険とどう関係するか考えてみなさい、太陽が照る日中は明るいから転んだりぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、君たちが私というこの世の光を目で見て、私も君たちの中にいると言えるくらいに私に結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。もちろん、私たちは当時の弟子たちと違ってイエス様を肉眼の目で見ることはできません。それでも、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を心の目で見れれば、イエス様というこの世の光を持てることになり、神の守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになって危険に晒されてゴールに到達できないのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2026年3月1日
創世記12章1~4a節、ローマ4章1~5、13~17節、ヨハネ3章1-17節
本日の福音書の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派というグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられることが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救って神の国に迎え入れられるようにするということ。これらは以前にもお教えしましたが、今日は新しいことも入れて述べていきたく思います。
その前に、ファリサイ派というグループについて。彼らは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわった人たちでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべしと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。
そこにイエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々の注目を集めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本当の意図はそこにあるのだと、神のひとり子として自分の父の意図を人間に知らせたのです。
全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば神に認められるのだ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、彼らの中には、このやり方でいいのだろうか、神の国つまり天国に迎え入れてもらえるのだろうかと疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような疑問を持った人だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。
さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。ニコデモにイエス様はいきなり言われます。
「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)
「新たに生まれる」ということについて注意が必要です。「新たに」の元にあるギリシャ語はアノーテン、この基本的な意味は「上から」、「天国から」という意味です。それでここは、「上から生まれる」、「天国から生まれる」、つまり「天国を出身地として生まれる」という意味にもなるのです。さて、「新たに生まれる」でしょうか?「天国から生まれる」でしょうか?英語訳聖書NIVとスウェーデン語訳とルタードイツ語訳は「新たに生まれる」です。フィンランド語訳は「新たに、そして上から生まれる」と両方をあてています。
私はこう考えます。イエス様はこの後で、君たちは地上のことを教えても信じないのだから、天国のことを教えても信じるわけがない、と言っています。イエス様は天国の視点で述べている、なので、彼は「天国から生まれる」という意味で言っている。しかし、ニコデモは、どうやってもう一度母親の胎内に入って生れることができようか、と言っているので、彼は「新たに生まれる」と解してしまっている。それで話がかみ合っていないのです。(ここで一つ厄介なことは、この出来事はギリシャ語で書かれています。それでギリシャ語を元にして二人のやり取りを理解しようとしているのですが、彼らが実際に会話した言葉はアラム語です。どんな言葉を使ったかはわかりません。手元にあるのはギリシャ語の文章なのでそれを基にするしかないのです。)
さて、イエス様は「天国から生まれる」ことはどういうことかをはっきりと教えます。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。
イエス様が教える「天国から生まれること」とは実に「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきた時はまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた肉的な存在が、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが「天国から生まれること」であり、それが「新しく生まれる」ことになるのです。
それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
なにかとても意味深なことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。風も空気も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。強さによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?
さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架や復活の出来事は起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれることもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。
困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上の事柄について正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天上の事柄を教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。
イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうなることで神の国に迎え入れらえるようになること、これらのことが、どのようにして起こるかについて明らかにします。
「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」
「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、「人の子」はある事を成し遂げた後でまた天に戻るということを意味しているのです。そして、その成し遂げる事というのが次に来ます。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」
モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で蛇を作って旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じ掲げることと人を救うことが自分を通しても起こると言うのです。どのようにして起こるのでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることでした。イエス様はなぜ十字架にかけられたのか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持って生きられるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。
それで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて万物の造り主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。天国と神の国は同じことです。洗礼を受けて聖霊を注がれて「天国から生まれた」たキリスト信仰者は天国を出身地として生まれた者です。それで、信仰者にとってこの世の人生は実に、天国という生まれ故郷に帰る道を神との結びつきを持って進むことに他ならないのです。
洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがわかりました。それでは、それはどうイエス様の風のたとえと結びつくでしょうか?前にもお教えしましたが、聖書の元の言葉、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。このたとえでイエス様は両方をひっかけているのです。彼が教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。
これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまると言うのです。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちもあるし声もするから実在するのはわかります。しかし、信仰者は聖霊と同じように肉的な人には見えないわからない独特な意思に従って人生を歩みます。だから、肉的な人から見たら、キリスト信仰者は風と同じように実在するのはわかるが、その行動様式、立ち振る舞いを起こしている原動力はわからないのです。それでは、キリスト信仰者の原動力は何か?私は、それは内なる霊的な戦いと考えます。
キリスト信仰者の内なる霊的な戦いとは、キリスト信仰者は天国から生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めたように、「他人のものを妬んだり欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんか別にどうでもいい、などと言ったら、イエス様の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。
まさにここが聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲になったおかげで、あの方を真の救い主と信じるあなたの信仰を神は義として下さるのです。それで神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたからではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はご自分のひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先回りして赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。
「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。
神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」
この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。それで神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。ところが、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そして、この繰り返しが終わる日が来ます。天と地が新しく再創造される復活の日です。その日、神の御前に立たされた時、繰り返しをしたことは実は罪に与しない生き方、罪に反抗する生き方を貫いてきたことの証しとして認めてもらえるのです。この時、天国を出身地として生まれたキリスト信仰者は天国に帰り着いたのです。
マタイによる福音書4章1−11節
「荒野の歩み。み言葉と御霊に導かれて」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は、このイエス様が荒野で受けられた誘惑の記録からのメッセージに共に耳を傾けていきましょう。まず、このイエス様が受けられた誘惑ですが、確かに悪魔からの誘惑とは言われます。その通りではあるのですが、しかし1節には新共同訳ですと「霊」に導かれとあります。これは新改訳聖書ですとはっきり「御霊」とあります。ESVバイブルでも大文字の頭文字で「Spirit」とありますので、霊は「聖霊」のことを指しています。つまりこの「荒野の誘惑」は三位一体の主なる神である「聖霊」によって導かれたものでした。ですからこの誘惑は悪魔の悪戯な思いだけでただ突然湧き出たものではありません。主が荒野へ導き、そして知っていたであろう悪魔がすることを許可し、そのままさせたということがわかります。そしてそうさせたことには、この誘惑を受けること、しかし御子がそれに勝利すること、どのように勝利するか、そしてそれら全てのことがこのように聖書を通して世に、時代を超えて、今日もこの朝に説教され伝えられ証されることには、神の私たちへの御心が現されているということに他なりません。その究極の御心は、紛れもなく、世の罪を負うために人となられた御子は、人間がその罪ゆえに陥る根本的で強力な三つの誘惑さえも私たちのために経験され負われるということであり、そしてそれに対し御子キリストこそ必ず勝利されることを示しているでしょう。そしてその勝利は、私たちの核心である、この十字架と復活によるのですから、キリストの十字架と復活こそ罪と悪魔に対する私たちのための勝利なのだという全人類への救いの約束のメーセージが込められています。しかし、このメッセージはまだキリストを受け入れない全人類に対してはもちろんですが、同時に、いやそれ以上に、すでに罪の縄目から解放され信仰が与えられ信仰の道を歩んでいるクリスチャンと教会に語られているものでもあります。それは「荒野に導かれ歩むキリストの教会はまさに荒野の誘惑と試練を通して、そして、そこにおられるキリストにあって勝利がある」という神の御心です。
2、「信仰の道は、荒野の道、試練の道」
まず第一に注目したいのは、この誘惑の直前の3章16−17節をご覧ください。そこには何が書かれているでしょうか?
「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
そこにはイエス様が洗礼を受けられたことが書かれているでしょう。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う天の父の祝福の声もあります。これらのことの直後なのです。イエス様は「洗礼を受けられて」そのすぐ後にこの荒野の誘惑に導かれています。そして1、2節こう始まっています。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
荒野と40という言葉は旧約のある出来事と重ね合わさります。それは、イスラエルの荒野の40年です。出エジプトはイスラエルがエジプトの奴隷の縄目から神様の恵みとみ言葉の力によって解放されたまさに救いの出来事でした。しかしその救いの出来事である出エジプトの後の出来事が荒野の40年です。つまり救われた民、まさに神の恵みを覚えて歩む信仰の生涯が始まった「後」の40年でした。しかしまさにイスラエルが導かれた信仰の歩みが、「荒野の」40年でした。それは大きな試練でした。その道が神はモーセにみ言葉を与え確実に導く道なのですが、空腹など困難の連続に直面します。そしてその度毎に、彼らは恵みと約束を忘れ、疑いが起こり、不平が起こりました。つまり、それは誘惑の40年でもあったのでした。そのことに重ね合わさるのです。このイエス様が聖霊によって導かれる荒野の誘惑は、もちろん全ての人間がその罪深さゆえに受ける誘惑の面もありますが、まさに何より「信仰者の」「教会の」歩みや誘惑を指していると教えられます。それはこの場面でも神の恵みである、洗礼という恵みによって始まります。神はキリストに言われたように、実に洗礼を授けられた私たちにも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださっています。そのように聖霊によって導かれて私たちクリスチャンの信仰生活は始まり、教会は歩み始めます。しかしその御霊が導く信仰の歩みは、誤解しやすのですが、人間が合理的に楽観的に計画し思い描くなんでも上手くいく、思い描いた理想通りになっていき、成功に満ち溢れていく、そんないわば「栄光の神学」の道ではありません。それは救われたイスラエルの民がそうであったように、そしてイエス様が御霊に導かれてこの箇所で示し語りかけるように、聖霊とみ言葉による私たちの信仰の道は、荒野の道のりであり、試練の道であり、誘惑の道である。そのことをまず教えられます。
3、「それは本当か?」
そこに誘惑する者、サタンがやってきます。そして三つの試みを仕掛けます。この誘惑は実に賢く巧妙であり、人間の罪深さや弱さを刺激します。まさに罪人である人間が陥る代表的な誘惑をもちろん表しているのですが、同時に、義人であり同時に罪人であるクリスチャン、教会が受ける誘惑でもあります。サタンは言います。3節。
「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエス様は空腹を覚えています。そこに「石をパンにする」という誘惑です。しかし誘惑する者の意図は「空腹をパンで満たせ」という単純なものではないと言えるでしょう。確かにパンは人間にとって必要な基本的な必要に他なりません。あらゆる物質もまた神の被造物であり神から世に与えられた必要なものです。それは確かなことです。しかしここで誘惑する者は「神の子なら」と誘惑します。それは3章17節の天からの父なる神様の声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う父なる神の声のことを取り上げているでしょう。
誘惑するものは言っているのです。「その「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が本当なら」と。その言葉が本当かどうかを証明してみよと。石をパンに変えその空腹を思いのまま、欲望のまま満たすことによって証明してみなさいと。この「もし〜なら」という神とその言葉に疑いを起こさせる言葉にこそ悪魔の誘惑の本質があるのです。
教会も「必要」や「不足」ということについて誘惑を受けます。「満たされていない」時も「満たされている」時もどちらも誘惑があります。しかし全ての必要はそれはどこから来るでしょうか?「私たちが働いて得るものだ、努力の対価なんだ。」ーもちろんそうです。しかし教会の必要、クリスチャンの必要は全て、それは物質的な必要やそのような私たちの行う奉仕など働きや努力なども含めて、それらは私たちが搾り出す自分の功績ではなく、全て神様が与えてくださるものに他ならないでしょう。イエス様が山上の説教で言っている通りです。しかし「不足を覚える時」は「満たされていない」「足りない」と言ってしまう。もちろん悪いことではありません。その時、足りなさを覚え、与えてくださる神様に求めるのが私たちの信仰なのですから。だから祈ります。しかしそうではなく「満たされていない」「足りない」ーただそのことに右往左往してしまう。その危機感ばかりに取り憑かれてしまい、互いの裁きあいに終わってしまう。そのようにして神の言葉の真実さを信じること、頼ること、求めること、待ち望むことを忘れてしまう。それは荒野のイスラエルが陥った過ちでした。そして人間は高慢ですから、「満たされている時」も誘惑に陥りますね。同じように、神が与えてくださった全てであるのに、教会の良い結果は人間の功績や教会の誇りにしてしまう、それは現代の成功や繁栄に走る教会が陥っている高慢の過ちです。「自分の教会はこんなに大きい、こんなに成功した、こんなに人が来ている。経済的に潤っている。もっと大きな教会を建てられる。それは自分たちが熱心にやってきたからだ、誰々先生のカリスマのおかげだ、私たちの、あの先生の人柄のおかげだ、等々」ー福音宣教も教会も全て、キリスト中心で、どこまでもキリストのみ言葉と聖霊のみわざで自分たちは用いられているに過ぎないのに、そしてイエス様もルカ17章で「自分たちは不束な僕です」すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(ルカ17章10節)と言っているのに、自分たちの組織力や人の功績と誇りに変えてしまう。まさにソロモンが陥った誘惑です。パン、物質は必要なものです。必要を覚えること自体は何も悪いことではありません。当然のことです。しかし、そこに誘惑がある。神の言葉、神の祝福、神の恵み、それは本当か、それが本当ならと、自分自身の空腹、足りなさ、あるいは達成した、成功した、満足した、等々の基準、自分中心の基準で神の言葉を「もし」と測ってしまうのなら、疑いも、,自慢高慢も尽きません。悪魔はそこをついています。そして人間は罪深いですから、そうなると自分の願うままに、石をパンに変えてでも空腹を満たそう、あるいは、満たすことができる、あるいは、満たしてきた、と勝手に思い描き期待します。まさにパウロが警告した人間が求める空想話です。まさに空腹なもの、不足を覚えるものには、神のわざへの信頼ではなく人間のわざへ信頼する栄光の神学は最善の方法になります。しかしそこに誘惑があるのです。4節
4、「神の口から出る一つ一つの言葉」
「イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
教会にとって大事なことはなんでしょうか?罪の世は、確かに必要が思いのままに満たされ自分を誇ることが最高の満足かもしれません。満たされないことに不満を言い右往左往するのもそれも罪の世の現実です。しかし、私たち教会には、クリスチャンには、それ以上の素晴らしい命の道があるでしょう。
「神の口から出る一つ一つの言葉」です。それこそが天地万物を創造し、私たちを生きるものとしました。確かにパンに代表される物質的な必要は大事です。私たちの必要も大事です。しかしそのパンや物質が、あるいは私たちの必要や心配や誇りが、天地万物を創造し、私たちを生きるものとしたのではないでしょう。神の口から出る一つ一つの言葉でしょう。それこそが、必要なものを全て満たします。そのように約束してくださっています。イエス様は弟子達に「明日の心配は無用だ」と神の口から出る一つ一つの言葉を持って約束しています。そしてその神の口から出る一つ一つの言葉が、堕落の時からすでにその罪からの救いを約束しました。また、主は、その自身のみ言葉がその約束の通りに実現するのだと繰り返し、アブラハムを励まし、ダビデを励まし、さらには、預言者を通して試練にある民をも励ましました。そして主はみ言葉をもってその通りに救い主を送るのだと約束し、その言葉の通りに御子イエス様を人として世に与えてくださった、そして十字架に従わせたでしょう。そして私たちの方からではない、その言葉である方が私たちのところにきて、私たちに語りかけてくださったからこそ私たちはイエス様の福音の素晴らしさを知った。その言葉こそ信仰を与えてくださり、その言葉が真実で力であるからこそ洗礼を聖餐を、救いの恵みを今日も与えてくださる。その言葉こそが、荒野の試練の日々であっても、日々生かし、日々罪赦され、日々平安を覚え、今日もここから遣わされていく。教会が覚え立ち返らされるのは、そのことでしょう。
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。
と。第二、第三の誘惑もじっくり見ていくと非常に沢山のことを教えられるのですが、実は誘惑するものの誘惑は同じ攻め方です。そこでも「もし」と、人間の欲求、ここでは救われたものにさえ、教会にさえ起こる欲求、人間的な必要をさらに求める貪欲さを攻めてきます。第二の誘惑は悪魔もみ言葉を用いて「こう書いてある」というのですが、「もしそうなら」と自分が基準となって自分の欲求の通りにしようとする、み言葉を疑い試す誘惑が実にあからさまです。み言葉を神の言葉としてその通りに信頼し委ねるのではない。あるいは、書かれていないこと、わからないことはそのまま神に託し信頼するのではない。人間中心に自分の側の願望や欲求に合わせて「もしこうなら」とみ言葉を都合の良いように解釈してしまう誘惑、歴史的にも今もそのような誘惑に屈した神学や教えが教会を支配しています。それはサタンの巧妙な誘惑に屈しています。第三の誘惑はどうでしょう。まさに手に取りたい現実、成功や繁栄が目の前にあります。世の繁栄、自分の繁栄、教会の繁栄、しかし神がなす、神が与える、神のみ言葉が実現した栄光でも繁栄でもない、自分達の力や組織力で得ようとする繁栄と成功に神の栄光を見ようとする。地上の栄華への願望です。しかしそれは、まさにみ言葉の前に身を屈め平伏しているのではありません。第三の誘惑に屈してしまっています。
5、「イエスの与える勝利の道」
イエス様は全て聖書のみ言葉を「こう書いてある」と示すだけです。人間の都合のいい解釈を加えるのではない、神の言葉はその通りですと、神の約束、神がなすこと、神が与えて満たしてくださることに、期待し、信頼、祈り、待ち望む、委ねる。それが荒野の道である信仰の歩みにおいて、イエス様が示してくださっている勝利の道であることを教えてくれているのではないでしょうか?事実、イエス様の十字架の道は、ただパンだけで満足したりさせたりの地上の王国だけの道ではありませんでした。霊の糧として真に魂を満たすために福音を与え罪の赦しと平安を与える「天のいのちの道」であったでしょう。神は十字架にかけられるイエスを御使いの軍勢を送って助けることができます。しかしゲッセマネでイエス様は「御心ならこの杯を取り除けてください。しかしあなたの御心が行われるように」と祈り、神の救いの御心であり計画である十字架に黙ってかけられるでしょう。事実、神もそれを御心とされました。そのようにイエス様は、地上の繁栄と栄華に神の政治的な王国を建てたのではありませんでした。まさにこの十字架にこそ神はご自身の栄光をあらわされたではありませんか。人間の、自分たちの望むようになるところに神がおられ、神の栄光があるのだと見るのは、栄光の神学です。しかしそれは自分たちの栄光を望み、期待し、求め、見ているだけであり、誇っているだけです。まさにサタンの誘惑に屈してです。しかし教会は、このイエス様の十字架のこそ真のいのちのパンがあり、私たちへの御心があり、そして栄光がある、私たちの栄光ではなくキリストに栄光があると信じます。それが私たちの信仰です。それはみ言葉に書いてある通りであり、み言葉の約束が真実でその通りになった、これからもその通りに実現するからこそです。そのキリストとみ言葉に信頼し生きるからこそ、今日も、これからも私たちは、キリストにあって勝ったのです。誘惑に。試練にです。そして、このイエス様の試練の歩みが御霊に導かれ、御霊によって仕えられているように、私たちクリスチャンの歩み、教会の歩みもまた、荒野の試練を通してこそ、そしてそこにおられるキリストにあってこそ、み言葉と聖霊の豊かな働きによって日々聖さにあずからせてられていく、世にあって隣人のために用いられていく、そのように今日もここから遣わされていくのです。イエス様は今日も私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様からイエス様が与えるみ言葉と聖餐を受け取り、イエス様だけが与えることができる特別な平安をいただいて、ここから遣わされて行きましょう。・
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン
2026年2月15日(日)スオミ教会説教
聖書:マタイ福音書17章1~9節
説教題:「イエス、栄光の姿に変貌」
今日の礼拝は変容主日礼拝であります。今日の聖書ではイエス様のお姿が三人の弟子たちの前で突然驚くべき姿に変わってしまったと言う出来事であります。マタイ福音書17章1~2節を見ますと「六日の後、イエスはペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られた。イエスの姿が彼らの前で変わり顔は太陽のように輝き服は光のように白くなった」。まず、イエス様は弟子たちの中でも最も信頼し、頼りにしているペテロ、ヤコブ、ヨハネの三名だけを連れて高い山に登られた。イエス様は彼ら三人を大事な場面で特別に選んでおられます。例えば会堂司ヤイロの娘を生き返らせた時にも三人を連れて行かれています。(マルコ5:37~40)また、ゲッセマネの祈りの時にもイエス様は他の弟子を園の入り口に残してこの三人だけを連れて園の中央に進まれ十字架の苦難へと向かわれる前の神への激しい祈りをされました。(マタイ26:37~46)これから起こる、この世では理解出来ないイエス様の変貌の出来事を、メシアの受難と聞き始めた他の弟子たちの中には心が動転して誤解する者もいるでしょう。そこでイエス様は信頼できる三人なら後に他の弟子たちに説得できるだろうと言う確信のもとに三人だけを特別に選ばれて連れて行かれたのであります。選ばれた証人たちの前で変貌は起こりました。この時、山上で起こった出来事はどんな不可思議であったとしても疑う事の出来ない事実です。証人の一人ペテロは彼の第二の手紙1章16節以下で次のように書いています。「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちはキリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』と言うような声があって主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18節、私たちは聖なる山にイエスといた時、天から響いて来たこの声を聞いたのです。」イエス様が三人の弟子を連れられて登られた「高い山」は恐らくヘルモン山であったと思われます。標高3000m以上のヘルモン山の中腹で出来事はで起こりました。此処で何が起こっているかと言う事ですが、此処には以前に「弟子たちはイエスの栄光をみるであろう」と約束されたその約束が確かなものとして証された、実証された、そう言う出来事であります。その約束された栄光の姿は2説~3節にありますように「イエスの姿が彼らの目の前で変わり顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見るとモーセとエリヤが現れイエスと語り合っていた。」その驚くべき光景は宇宙的な深い見方から申しますと、此処では「天の世界との交わりが啓示された。」神からの神秘の中でこの世に表された交わりと確認でありました。それは人間の目で見る事の出来ないような此の世の常識を遥かに越えた驚くべき光景が展開されたのです。天空の雷雲から一瞬ピカピカと稲妻の光が輝いたと言った程度のものではありません。外部からの別の光が必要ないほど地上の自然のあらゆる光を凌ぐところの眩い輝きの中に主イエスは立たれていた。しかも弟子たちは目の前で空中高くそのみ姿を仰ぎ見たのであります。このイエス様のみ姿は私たちの知っているどんなものよりも高く上げられ全く新しい形で表されたのであります。そこには此の世とは次元の違う只中に展開されているその光景を弟子たちは見せられているのであります。マタイ13章43節に約束されている、「彼らは父のみ国で太陽のように輝くであろう」と言うその言葉通りの事がイエス様の上に起こっているのであります。同じ事がヨハネ黙示録にも1章12節~16節にあります。イエス様のこの変貌は単にイエス様の人格が新しくなった、と言った事に留まらない。更に此処に於いて旧約聖書時代にまで時代が遡って神に仕えた預言者たちが現れて空中のイエス様との交わりが現れたのであります。3節に「見よ、モーセとエリヤが彼らに現れてイエスと語り合った。」昔の預言者たちは今、沈黙して現れたのではなく主イエス様と語り合っているのです。この光景を弟子たちはどのように見たのでしょうか。
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弟子たちの時代より遥か千年以上の昔にシナイ山で十戒を頂いたモーセが現れている。イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から導き出し、旧約聖書の律法の代表者と言ってよいモーセであります。又、イスラエルの民がメシア待望の中で大預言者と仰いだエリヤも現れている。旧約聖書のマラキ書3章23節を見ますと「見よ。私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。預言者マラキのこの約束の故にイスラエルの民がエリヤを待望したのです。こうして、この偉大な信仰に生きた二人はその最後が秘儀に満ちています。つまり、人生の終わりは謎に包まれています。モーセは独り山の上で神のみ傍近くに死んだ。エジプトからイスラエルの民を救っ年の旅の末、モーセはカナンの地に入ることなく死んでいます。それで人々はしばしば「神はモーセを天に取り去られた」と言ったのです。又、エリヤは人生の最後はどうであったかと言いますと嵐の中にみ使いによって火の車に乗って天高く引き上げられた。この二人の人生最後の姿はなんという神秘に満ちたものではありませんか。神秘に満ちて天に引き取られたモーセとエリヤが今、空中でイエス様と出合っていると言うのであります。そこでは何が語り合わされているのでしょうか。恐らくイエス様のこれから向かわれる十字架の道についてその決断の確認でありましょう。三人の弟子はと言いますと、この幻想的なモーセ、エリヤ、イエス様の天高く空中で話し合われている光景に驚きと喜びに満たされました。ペテロはイエス様の栄光の姿にどんなに感激しつつ、この光景がそのままであって欲しいと何が何だかよく分からず、4節を見ますとペテロはイエスに言った「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしい事です。お望みならば私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため。もう一つはエリヤのためです。」テロが語っているうちに、見よ!そこに光輝く雲が彼らを覆った。すると、見よ!雲から声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて恐れおののきひれ伏したのあります。イエス様とモーセとエリヤが語っている姿を光輝く雲が覆ってしまった。この光輝く雲はかつてモーセが荒野を通ってイスラエルの民を導いた時の神の印でありました。(出エジプト記13章21節にあります)更にこの雲の中から神の御子イエス様に対する御父の愛を証しする声があったのです。この声はイエス様がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時も「これは私のみ心に適う愛する子である」と言う御声を天からあったのと同じです。(マタイ3:17)イエス様はこれからご自分の人生の方向を十字架の受難の道に向けられることを決心をされて天からの確認の御声を聞かれたのです。この事はイエス様の心の内に天の神の御心と一つにされた聖霊がここに啓示されて、神の栄光がイエス様の体にはっきりと現わされたのであります。天の空中での「イエスの変貌」のこのみ姿はまさに十字架の死から蘇られたみ姿を予め三人の弟子に示されている出来事であります。弟子たちは神の近さをこんなにまで感じた時、恐怖に襲われたのであります。その時イエス様は弟子たちに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れる事はない。」今や、イエス様は再び僕の姿をとって弟子たちと共におられた。こうして彼らは”如何に高くイエス様が彼らの上に聳えたっておられるか”と言う事を心に深く刻んで経験したのでした。更に神の栄光を身近に感じる事が出来たのであります。モーセとエリヤの中に立たれたイエス様は後にゴルゴダの丘で二人の犯罪人の間に立って罪の全てを負って十字架の死を遂げられる。そこには栄光のイエス様は何一つ無いのであります。しかし、私たちは蘇られ天の御国へ返られた栄光の中にあるイエス様を心に信じてやがて神の御国が主と共にある喜びを持って生きたい。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
主日礼拝説教 2026年2月5日(顕現節第五主日)
スオミ教会
イザヤ58章1-12節
第一コリント2章1-16節
マタイ5章13-20節
説教題 「真にキリスト信仰者は地の塩、世の光なのだ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちや群衆に向かって、君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言います。その言葉は私たちキリスト信仰者にも向けられています。「地の塩」、「世の光」とは何を意味するのでしょうか?16節に「立派な行い」などと言っているので、何か世の中のためになるものという感じがします。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。君たちはもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?「地の塩」、「世の光」とは何かについては後ほど見ていきます。
その次にイエス様は律法や預言を廃止するためにこの世に来たのではない、実現するために来たのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために来たのだと。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は死文化しています。ところが人間は神から罪を赦して頂くために罪の償いが必要です。神殿があった時は動物の生贄が捧げられていました。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は死文化しても、罪の償いはしなければならないこと、人間は神から罪を赦されて罪の支配から解放されなければならないこと、これは神殿がなくなっても、そのままです。ここにイエス様の十字架の意味があります。このことはまた後でお教えます。
このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様は二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。
イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に来たのではない、実現するために来たと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現しているのです。預言も、神と人間の結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が来られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書が示す神の意思と計画を実現した方です。
ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫と認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。
2.キリスト信仰者は「地の塩」である
それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。
塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。
ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になるので、もう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。
本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に関係する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント2章14節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた知恵の現われで、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた計画なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。
3.キリスト信仰者は「世の光」である
次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代のイスラエルの地にはギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸の地域にヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然とした輝きであるということです。
輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然とした光です。
イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市の輝きや燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じようにキリスト信仰者は全ての人の前で光を放つのだと教えます。立派な行いがその光であると言います。人々はキリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?
そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(58章6~8節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないと言っているのでしょうか?でも、そうしたら、人助けをしたくても病気だったり障害があったり、困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?
人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には信仰者の特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっているという事情です。この事情があるためにキリスト信仰者は「地の塩」、「世の光」になっているのです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味します。病気や困窮して人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広い意味で良い業が言われるのです。
光のように輝く良い業が人助けに限られないことは、本日のイザヤ書の箇所からも明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンは辞書を見ると、呪いという意味があるかどうかはクェッスチョン・マークが付いています。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。
さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイスラエルの民に起きた出来事と結びつけて考えると、民を外国の支配から解放して王国を復興させる日が来るという預言に解することができます。しかし、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失った廃墟のような人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現してくれたイエス様はもちろん、イエス様の福音を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導いた使徒たちも光を放つのです。
このようにキリスト信仰では良い業は人助けだけでなく、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。
4.勧めと励まし
イエス様は、お前たちは「塩」になれ、「光」になれとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を意味する言葉を付け足して言いました。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。
それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。神との結びつきが失われているこの世にあって、まさにこの世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めたのです。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。
このことがわかったキリスト信仰者は、こんな凄いことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きようという心になります。その感謝から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。
ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。これからは罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければと心を新たにします。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。
このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに留まって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。
ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために自分の力で掟を守るというものです。彼らは、自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったので優越感にも浸りました。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、一足先に神から義と認められてしまう義です。神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が誇りの源になってしまったら、宗教的な行為を行っても、それは肉の状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。
主日礼拝説教 2026年2月1日 顕現節第4主日
ミカ章6ー8節、第一コリント1章18ー31節、マタイ5章1ー12節
本日の福音書の箇所はイエス様の有名な「山上の説教」の初めの部分です。「山上の説教」はガリラヤ地方の小高い山の上で群衆に向かって語られた教えで、マタイ5章から7章までの長きにわたります。教え終わった時、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われています(7章29節)。そのように聞く人に強いインパクトを与える教えでした。2000年後の私たちが読んでもインパクトがあります。例えば、「復讐してはならない、敵を愛せよ、人を裁くな」というのは崇高な理想に聞こえます。また、「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない、それなのに、天の父なるみ神はこのように装って下さる。お前たちにはなおさらである。だから思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」などは、キリスト信仰者であるなしにかかわらず、人の心を慰めます。そうかと思えば、モーセ十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」について、たとえ殺人を犯さなくとも心の中で兄弟を罵ったら同罪であると教え、第六の掟「汝姦淫するなかれ」についても、たとえ不倫をしなくともふしだらな目で異性を見たら同罪であると教えます。そこまで言われたら神の前で正しい人間などいなくなってしまうではないか、と呆れかえられてしまうでしょう。
このように「山上の説教」には、崇高な理想を感じさせる教えもあれば、慰めに満ちた心温まる教えもあり、そうかと言えば、ちょっと受け入れられないぞ、というような教えもあります。いずれにしても聞いた人たちは何か不動の真理が述べられていると気づいて、権威ある教えに感じたのです。
本日の箇所でイエス様は「幸いな人」について教えます。「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意しましょう。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」とは違う「幸せ」が意味されています。どんな「幸せ」でしょうか?一般に、好きなことが出来きたり、欲しいものが持てることが幸せなことと考えらます。不足がない満足な状態です。
「幸い」は次元が違います。誤解を恐れずに言えば、欲しいものが持てない好きなことが出来ない時にもある幸せです。この世離れした「幸せ」です。聖書の観点で言うと、創造主の神が「これが人間にとって幸せだ」と言っていることが「幸い」です。人間の目から見た「幸せ」に対する神の目から見た幸せです。両者は重なる部分もありますが、基準はあくまで神の視点です。
さて、現代のような、あらゆることが人間中心で進む時代に、最近ではAIも存在感を増してきていますが、そんな時世に「創造主の神」などを持ち出してその基準に人間を従わせるようなことは流行らないと言われるでしょう。良いこと悪いこと正しいこと間違っていることの判定にもう神など持ち出す必要はない、人間にやりたいようにやらせて何か不都合なことが起きたら軌道修正すればいい、AIもちゃんと教えてくれる、皆さんそういう考え方になってきているのではないでしょうか?そうなれば、「幸い」などというものは神の余計なおせっかいで、「幸せ」の追求の邪魔にさえなります。それは逆に言うと、キリスト信仰は時代の流れに逆らう反逆児のストーリーを描き出しているということになるのではないでしょうか?要は、人間は神の前に跪いて祈るのが人間らしいのか、それとも、跪くものなど何もないというのが人間らしいのか、どちらが人間らしいかという問題に行きつくと思います。
イエス様はどんな人が神の目から見た幸せな人、「幸いな」人であると教えているでしょうか?九つのケースがあります。一つ一つ見ていきましょう。
まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。よく指摘されることですが、「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)もスウェーデン語もフィンランド語もルター訳ドイツ語も皆「霊的に貧しい」と訳しています。「心が貧しい」とは、日本語の辞書によると「人格や器量が乏しいさま」とか「考えが狭かったり偏っていたりすること」という意味です。「あの人は心が貧しい」と批判したり「私は心が貧しい」と反省したりするので、人間関係の中で現れてくる人の至らなさです。
これに対して「霊的に貧しい」とは、創造主の神を前にして自分には至らないところがあると自覚していることです。十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らしてみると自分は神のみ前では至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。自分はもちろん殺人もしないし不倫も盗みも働かない。だから神はよしと認めて下さるかと言うと、イエス様は「山上の説教」で、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えている!神聖な神は人間の外面的な行いのみならず心の奥底まで潔癖かどうか見ておられる。なにしろ神は天と地のみならず人間をも造られた創造主で、人間一人一人に命と人生を与えられた造り主である。私たちの髪の毛の数から心の奥底までも全部お見通しである。そうなれば、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、至らない自分に気づきがっかりする。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。なぜか?
その理由は、「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。これは不思議なことです。「天の国」、つまり「神の国」のことですが、霊的に完璧な者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと意気消沈する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われる。これは一体どういうことか?これは後で明らかになります。
次に「悲しむ者」が幸いと言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。前の節で言っていた、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。それと、神との関係以外で、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。それではなぜ「悲しむ者」が幸いなのか?その理由は、「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになるということです。どういうことか、これも後で明らかになります。
次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えば、マリアの品性が当てはまります。マリアは神を信頼し、神が計画したことは自分の身に起こってもいいという物分かりの良い態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになっても、神は良い方向に導いて下さるから心配ないという単純さ、神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純さ、静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入ってきます。。
そんな柔和な人たちが幸いである理由は、「なぜなら地を受け継ぐことになるからだ。」少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味しました。キリスト信仰の観点では、「約束の地」は将来復活の日に現れる「神の国」になります。それで、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」に迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということも後で明らかになるでしょう。
次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神の前に立たされても大丈夫、問題ないと見てもらえる状態です。先ほど見た、霊的に貧しい人は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それで義に飢え渇くことになります。そのように飢え乾く者が幸いなのです。その理由は、「なぜなら彼らは満たされることになるからだ」。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して求める者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。反対に義の欠如の自覚がなく飢えも渇きもない人は満たしてもらえないのです。それでは、神はどのように義の欠如を満たして下さるのか、これも後で明らかになります。
7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言われます。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに受け入れてもらえるということです。罪を持つのに赦してもらえるということです。どうしたら私たちも赦したり受け入れたりすることが出来て神から憐れみを受けられるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。
8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。3節ではギリシャ語の「霊」プネウマが「心」と訳されていてそれは間違い、「霊」が正しい、と申しましたが、ここの「心」はギリシャ語のカルディアで「心」であっています。二つの異なる言葉が同じ日本語にされてしまうと、正しい理解ができなくなってしまいます。「心の清い」とは罪の汚れがないということです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。私たちはどうしたらそんな清い心を持てて、神の前で大丈夫でいられるようになるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。
9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する人」と聞くと、ノーベル平和賞を受賞するような人を思い浮かべるかもしれませんが、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、どうしてそのような人が「神の子」と呼ばれるのでしょうか?それも後で明らかになります。
10~11節ではイエス様を救い主と信じる信仰や義のゆえに人から悪く言われ、ひどい場合は迫害されてしまうことがあっても、それは幸いなことだと言います。その理由は、神の国に迎え入れられることになるからです。以上からわかるように、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているのです。神に慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということなのです。それでは、神の国に迎え入れらるとはどういうことか?どうしたら迎え入れられるのか?それを次に見てみましょう。
「山上の説教」を当時はじめて聞いた人たちは面食らったことと思います。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味したからです。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫と見なされる人を意味しました。
人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
イエス様の教えを聞いた人たちは旧約聖書の伝統に立っていたので、「幸いな人」と聞いて、律法を心に留めて守る人とか、神殿での儀式を通して罪の赦しを得られる人とか、そういう人を連想しました。詩篇の第1篇と32篇は、「幸いなるかな、~する人は」という聖句があります。イエス様も同じ口調で「幸いなるかな、~する人は」と語りました。それなのにイエス様は、律法のことも罪の赦しも何も言いません。神の前に立たされたら本当は大丈夫ではないのだ、大丈夫になるのは今までのやり方ではダメなのだということを明らかにする教えだったのです。イエス様の意図は以下のものでした。
イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。創造主の神は人間の心の中までご存じである。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると思っているが、父なる神は預言者たちの口を通して言っていたではないか。毎年繰り返される生け贄の捧げは形だけの儀式になってしまい、心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう。本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが神の国への迎え入れを確実にすることであり、だから幸いなのだ。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、律法を心に留められるようにして人間を神の国に迎え入れられる「幸いな者」にしたのでしょうか?
それは、天地創造の神が立てた人間救済計画を実行することで行われました。創世記3章に記されているように、人間は神に対して不従順になり、神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまいました。人間と神との結びつきは失われて、人間は死ぬ存在となってしまいました。神はこの状態を悲しみ、それを解決するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様に人間の全ての罪を背負わせて、ゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで神罰を受けさせて死なせました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子に人間の罪の償いをさせたわけです。ひとり子の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。本日の旧約の日課ミカ書で、動物の生贄を捧げることはもはや意味がないと自問しているところがありました。動物の生贄に意味がなければ、人間が自分の子供を生贄にしなければならないのだろうかとさえ言います。神は、そうする必要はないと言わんばかりに、自分のひとり子を生贄に捧げたのでした。
この犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。罪には人間を神から引き離す力がありましたが、それが完全に削がれました。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人にその通りになります。その人は復活の体と永遠の命が待つ「神の国
に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。洗礼を受けイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、使徒パウロが言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せらるのです(がラティア3章26~27節)。信仰者は、この衣を纏いながら神の国に至る道を進んでいくのです。自分は至らない者なのに、神はひとり子を犠牲にするくらいに私のことを思って下さった。このことが分かった人は、神に対して畏れ多い気持ちと感謝の気持ちの両方を持つようになり、神がそうしなさいと言われることはするのが当然という心になります。
神への畏れ多い気持ちと感謝の気持ちから神の意思を心に留めるようになると今度は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかと注意深くなります。外面的には罪を行為にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることに気づきます。まさに霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、イエス様を救い主と信じていますので、私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、私たちはまた新しいスタートを切ることができます。神の国に至る道を進むキリスト信仰者はいつも、このように慰めを受け義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対して強い信頼を抱き柔和になります。
一方的な平和路線でいいという態度について、パウロがローマ12章で言っています。キリスト信仰者たる者は完全な正義はどんなに遅くとも最後の審判で実現するということに全てを賭けている、だから自分では復讐はしないのだ、と。信仰のことを悪く言われても迫害されても、それは「神の国」に至る道を歩んでいることの証しに他ならないのです。
やがて歩んできた道も終わり、神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚している。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まった。不十分なところもありました、しかし、信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。自分がより頼んで来たイエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、イエスの純白な衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力が働いても、しっかり握り掴んで手放さなかった。その証拠に私は今、お前が同じ衣を着て立っているのを目にしている。
兄弟姉妹の皆さん、これがキリスト信仰者の「幸い」のストーリーです。
主日礼拝説教 2026年1月25日(顕現後第三主日)
イザヤ8章23節ー9章3節、第1コリント1章10ー18節、マタイ4章12ー23節
イエス様はヨハネ福音書の8章で自分のことを世の光である、私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つと証しています。イエス様がそのような光であることは本日の旧約の日課イザヤ書9章で預言されていました。私たち人間はこの世では暗闇の中を歩んでいるようであり、死の陰の地に住んでいるようなものである、そこにイエス様という光が現れ、そのおかげで暗闇の中を歩まなくてすむようになり、死の陰の地から脱することができるようになるということです。それで、本日の詩篇の日課27篇の冒頭で言われるように光のおかげで何も恐れる必要はなくなるのです。イエス様がそのような光であることを本日の説教で明らかにしていこうと思います。
まず、出来事の流れを振り返ります。イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神からの霊、聖霊が彼の上に降るという出来事がありました。これはイザヤ書11章2節と42章1節の預言の実現でした。その後でイエス様はユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けました。悪魔はイエス様に肉体的な苦痛だけでなく、苦痛から逃れられるために旧約聖書の御言葉を悪用して、イエス様がひれ伏すように仕向けました。しかし、イエス様は神のひとり子ですから、父の御言葉を正確に理解しています。悪魔の魂胆は全てお見通しです。悪魔の試みは全て失敗に終わり、悪魔は退散しました。
悪魔の誘惑に打ち勝ったイエス様は、ユダヤ地方の北にあるガリラヤ地方に移動し、そこで活動を開始します。ガリラヤ地方は、イエス様が育ったナザレの町があるところです。なぜガリラヤに移動したのか?洗礼者ヨハネが投獄されたことが言われています。ヨハネを投獄したのはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス、これはイエス様が生まれた時に命を狙ったヘロデ王の息子です。洗礼者ヨハネはこの領主の不倫を咎めたために投獄されたのでした。ヨハネは後に首をはねられてしまいます。イエス様はヨハネが投獄されたと聞いて、ガリラヤにやって来たのです。新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、事実は逃げたというより、アンティパスの本拠地に乗り込んで来たというのが真相です。
しかしながら、育ち故郷の町ナザレを活動拠点とはせず、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。その辺の事情はルカ4章16~30節に記されています。
さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。「悔い改めよ、神の国が近づいた」という言い方で人々に教え始めました。教えるだけでなく、人々の病を癒すような多くの奇跡の業も行いました。マタイはこれらのことをもってイザヤ書の本日の個所の預言が成就したと記したのです。活動開始の時、弟子になる者たちを選びました。本日の個所ではペトロとアンドレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟、4人ともガリラヤ湖で漁をする漁師でした。みなイエス様に声をかけられるや、生業を捨てて後についていきます。特にヤコブとヨハネは「舟と父親を残して従った」とあります。生業も親も捨てて行ってしまったなどと聞くと、なんだかいかがわしい宗教団体みたいです。このことについては、以前の説教でルターの教えをもとにしてお教えしたことがあります。今日は少し視点を変えて、イエス様の弟子として召されるというのはどういうことか、説教の終わりで触れておこうと思います。
まず、イエス様がガリラヤで活動を開始したことが、イザヤ書の預言の成就であるということについて見てみましょう。
マタイ福音書では成就した預言の文句は、イザヤ書8章23節と9章1節の2つの節が引用されています。ちょっと端折った引用ですので、少し詳しく見てみます。新共同訳に倣います。
「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない。先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
この預言は、これが語られた紀元前700年代の出来事に関わっています。それから700年たった後のイエス様の出来事にも関わっています。さらにはイエス様の出来事が時代を経て現在にまで関わっているということもあります。このように三つの層が折り重なっている預言ですので、それらを一つ一つ解きほぐしていきましょう。
紀元前700年代、かつてのダビデの王国が南北に分裂して二つの王国が反目しあって200年近く経ちました。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、南の兄弟国ユダ王国を攻めようとしました。ユダ王国は王様から国民までパニックに陥りますが、預言者イザヤが現れて「攻撃は成功しない、なぜなら神がそうお決めになったからだ、だから心配する必要はない」と言います。実際、イスラエル王国と同盟国は東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまい、ユダ王国に対する攻撃は実現しませんでした。イザヤの預言の「辱めを受けたゼブロンの地、ナフタリの地」というのは、ユダヤ民族の12部族の中のゼブロン族とナフタリン族の居住地域で、ちょうどイスラエル王国の版図です。それが、アッシリア帝国に蹂躙されてしまったのです。
しかしながら、預言の言葉は滅亡で終わっていません。「後に、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。」
これは、異民族に蹂躙されてしまったこれらの旧ゼブロン、旧ナフタリの地域が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに受けるかということについては9章1節から言われます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」預言はさらに続きます。その光を見た人々は大きな喜びに包まれる。それはさながら刈り入れの時を祝うようであり、戦争に勝って戦利品を分け合う時のようである、と。戦利品を分け合うというのは物騒な話ですが、戦争が日常茶飯事な時代でしたから喜び祝うことをたとえる言い方として普通だったのでしょう。そうは言っても、戦争を賛美する考えのないことは、後に来る4節の御言葉「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた」から明らかです。イザヤ書2章にも全ての軍備が廃棄されて恒久的な平和が実現する、それは終末の平和であるという預言があります。ゼカリヤ書9章では、軍備が廃棄されて恒久的な平和が実現することがメシアの到来と結びつけて預言されています。
ところで、イザヤ書9章の預言は3節の後も続きます。本日の日課を超えていますが、大事なので見ていきます。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている「平和の君」とは誰のことを言うのか?
紀元前700年代、ゼブルンの地とナフタリの地にまたがる北王国はアッシリア帝国に滅ぼされました。その後、南王国は次は自分たちの番かと固唾を飲む状況が続きました。本日の日課の個所の少し前に国民が精神的に追い詰められた状況が述べられています。それが8章23節で「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない」ということなのです。
そこで、蹂躙されたガリラヤ地方がまた栄光を受けるとはどういうことなのか?ひとりのみどりごが生まれるとは誰のことなのか?南のユダ王国はヒゼキア王の下でアッシリアの大軍を寸でのところで退却させることに成功しました。ということは、みどりごはヒゼキア王のことだったのか?しかしながら、南王国も紀元前500年代にバビロン帝国に滅ぼされてしまい、主だった人たちはバビロンの地に連行されてしまいました。なんだ、みどりごはヒゼキア王ではなかったのか。では、誰のことか?
紀元前500年代終わりにユダヤ民族は祖国帰還を実現しエルサレムの町と神殿を復興させました。しかしながら、民族はその後、一時期を除いてずっと諸外国の支配下に置かれ続けました。この間に、イザヤ書の預言にある「苦悩の中にある」とか、「闇の中を歩む」とか「死の陰の地に住む」というのは、一民族の苦難を意味するのではなく、もっと人間一般の根源的な苦しみを意味すると気づかれるようになります。そうなると、生まれてくるみどりごも、特定の民族を再興する民族の英雄ではなくなり、民族に関係なく広く人間そのものを救う救世主であるとわかるようになります。旧約聖書の人類誕生の出来事に照らしてみれば、それこそが正しい理解になるのです。
イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味しました。
神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々が大勢出ました。彼らは、将来到来する神の国というのは、奇跡が当たり前になっているところなのだ、ということを前触れのように体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を代々受け継いでしまっているので神聖な神の国に入ることはできないのです。罪を持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。罪の問題を解決しない限り、神聖な神の国に迎え入れられないのです。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はそのままの状態ではまだ神の国の外側にとどまっているのです。
この問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。神は、本当なら人間が受けるべき罪の罰を全部ひとり子のイエス様に受けさせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせました。神は、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。そこで人間の方が、十字架の出来事にはそういう意味があったんだとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神の目に適う者となり、それで神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。そのように変えられた人は、それに相応しく生きようという気概になって生きるようになるのです。
そういうわけで、「闇の中を歩む者に光が現れ、死の陰の地に住む者に光が輝いた」という預言は、2700年前のヒゼキヤ王の時代も、2000年前のイエス様が活動した時代も飛び越えて現代にいる私たちに向けられているのです。神の意思に反する罪を持つがゆえに、神との結びつきを失ってしまった全ての人間、永遠の命が待っている御国に迎え入れない全ての人間のことを言っているのです。それが、闇の中を歩むことであり、死の陰の地に住むことです。ゼブルンの地、ナフタリの地、ガリラヤ地方など日本にいる私たちには縁遠いローカルな地名が登場しますが、それは、その光であるイエス様がたまたまその地で活動を開始したからにすぎません。イエス様は、十字架の死と死からの復活をもって、創造主の神の栄光を現わし、世の光となられました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの光を目にするようになったのです。もう死の陰の地に住んでいません。ヨハネ1章で言われる、暗闇も圧倒することができない無敵の光です。それを目にするようになれば、闇は光の周辺か背後に追いやられます。もう真っ暗闇の中を歩むことはないのです。
4人の漁師がイエス様の呼びかけに応じて生業も家も捨てて付き従って行きました。イエス様の呼びかけにそのような力があったのは、人間を死の陰の地から救い出しどんな暗闇も勝てない無敵な光としてのなせる業としか言いようがありません。そうすると、私たちももしイエス様の呼びかけがあったら同じようにしなければならないのか?私たちには弟子たちのようにイエス様の肉声は聞こえません。そこで、もし教会や教派で権威ある人が、この個所はあなたに全てを捨てなさいと言っているなどと教えたら、それに従わないといけないのでしょうか?
ここで、弟子たちの立場と私たちの立場を区別する必要があることに注意します。最初の弟子たちがイエス様に召されたのは、イエス様の教えと業をつぶさに目撃して後に証言者となるためでした。イエス様の出来事の頂点は彼の十字架の死と死からの復活です。それも目撃した弟子たちは、イエス様は本当に人間を死の陰や闇から救い出す光であることがわかりました。それを人々に伝え知らせ命を賭してまで証しして、それらが記録されたものが聖書に収められました。
さて、私たちは、弟子たちが伝え知らせ証ししたことを聖書を通して受け取りました。洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰によって、死の陰を蹴散らし闇を周辺に追いやる光を目にすることができるようになりました。それで、詩篇27篇の最初の御言葉のように何も恐れる必要がない者になることができたのです。最初の弟子たちが全てを捨てて目撃者となって証言者となってくれたおかげです。そこで、私たちの立ち振る舞いを周りの人たちが見て、あの恐れない心はイエスという光を持てているからだとわかるようになって光のもとに来るようになれば、私たちは弟子たちの役割を継承していることになります。大胆に捨てることで頑張っていることを示すのが目的ではなく、光を持って生きられる人が増えることが目的です。キリスト信仰者自身がそのように生きていれば、周りはそれに気づくのです。マタイ5章の初めでイエス様が「世の光たれ」と言っているのはこのことです。
そうは言っても、現実の場面ではいろんなことに遭遇して光よりも闇の方に目が向いてしまい恐れてしまうことが多いです。だから、日曜日の礼拝で罪の赦しの宣言、聖書の御言葉の説き明かし、聖餐式を受けて光をもう一度目の前に輝かせて闇を周辺に追いやることを繰り返しするのです。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、礼拝にはそのような、私たち自身を強め、知らずにして証し人にする力があることを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2026年1月18日(日)スオミ教会説教
聖書:ヨハネ福音書1章29~42節
説教題:「見よ神の子羊、最初の弟子たち」
新しい年を迎えました。
人生に於いて「人との出会い」と言うものが、自分の生涯を決定するほど重要な出来事となる、ことがあると思います。今日の聖書はそのような不思議な導きと出合でイエス様の弟子となった出来事です。1章29節から34節までを見ますと、此処には一貫してバプテスマのヨハネは自分の事を控えてイエス・キリストと呼ばれる救い主を紹介することに全力を注いでいます。まず、29節で「ヨハネは自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ!世の罪を取り除く、神の子羊だ。』」
そう言ってヨハネはイエス様の事を三つの角度から紹介しています。第一は、「この方は世の罪を取り除く神の子羊である。」第二は、「私よりも先におられた方である。」第三は、「この人こそ御霊によってバプテスマを授ける方。」そうして、32節でこう言います。そして、ヨハネは証しした。「私は霊が鳩のように降って、この方の上に留まるのを見た。この人が聖霊によって洗礼を授ける人である。」と確信しているので言う。「この方こそ神の子である。」と証しするのだ。まず、イエス様こそ世の罪を取り除く神の子羊と表現して指し示す事であったのです。この神の子羊は私たちの罪を負って下さる方なのです。私たちの人生の中で様々の重荷をそっくり代わって担って下さる、どのようにして担って下さるのでしょうか。神の子羊であるイエス様が十字架の上で私たちの全ての罪を自分の死を犠牲にしてご自分の肩に担って下さるのです。ですから、この御方、イエス様を信じるあなたは最早あなたの肩にその重荷は無いのです。イエス・キリストの上にある筈です。このお方を私の救い主と知って理解して信じて受け入れる事です。
次にヨハネはバプテスマについて「水によるバプテスマ」と「御霊によるバプテスマ」とを区別して言いました。自分のする水の洗礼はせいぜい今までの生活を水で洗い流す面であるけれども、イエス様の霊による洗礼は新しい命に生まれ変わるもので、この方こそ神のメシアとして優れたお方である、とイエス様を強調して言っております。さて、1章35節以下では「その日また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて「見よ!神の子羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いてイエスに従った。ヨハネがイエス様をはっきりと差し示して、見よこの方こそ神の子羊だよ、と言う確信の言葉に二人の弟子はすぐ様、何の躊躇もなくイエスに従ったのです。その一人アンデレが兄弟ペテロに伝えて言った「私たちはメシアに出会った」。そして、シモン・ペテロをイエス様のところに連れて行ったのです。此処にはキリスト教の伝道の姿があるように思います。自分が「私の救い主」であると信じたらその方のところへ連れて行く。そうして、その方を先ずは知る事によって真に心からイエス様に出会う事であります。イエス様と心から出合ったら人は変わります、信仰が与えられれば人は全く新しく変えられるのです。現代に於いてイエス様に出合う事とはどんな事でしょうか。それは言い換えるとキリストの教会へと一緒に誘い教会の礼拝に於いて神の言葉である説教を聞くことによって、説教で語られるイエス様と出合う事であります。そういう意味で礼拝での説教は一番大切な事であります。自分の救い主メシアと一瞬でも出合う事であります。
さて、今日の聖書のところでバプテスマのヨハネは非常にくどくどと自分はイエスが救い主だとは知らなかった。と繰り返し言っています。31節を見ますと「私は、この方を知らなかった」と言っています。言い換えますと、私は、イエスと言う方とは関係がない、もっと分かり易く言いますとこのお方と私は違う、一緒に見ないでくれ。この方は、36節で「私の後から来られる、私より優れた方、桁外れに凄い、驚くべき方と言ってその方は私に勝る、私より先に既におられたからだ」とも言っています。バプテスマのヨハネは何故このように「知らなかった」と強調しているのでしょうか。この当時のユダヤの社会の様子を知る必要があります。当時のユダヤでは”隠れたるメシア”と言う信仰がありましたのでヨハネは”私をメシアだと思ってはいけない、私は違うのだ”と言いたいためにくどくどとこの方を知らないと、実はこの方こそあのお忍びのメシアです、と言いたかったのです。
この福音書が書かれました紀元一世紀末頃にヨハネ派と名付けても良いような異端的なグループが蔓延っていたようです。イエスよりもヨハネの方を偉大だと主張していたグループです。このヨハネ派の異端と言うのは、一体どういうところから出て来たかと言いますと二つの切っ掛けがあると思われます。その一つはイエス様の活動の始めの頃イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けたではないか。洗礼を受ける人が洗礼を授ける人より優れている訳がない。洗礼を授けた方が上に決まっている、このことが切っ掛けです。もう一つはルカの福音書の1章36節以下で明らかにしているように、バプテスマのヨハネの方がイエスより半年、年上で生まれてきています。預言者として姿を現したのもバプテスマのヨハネの方が先輩であり優れていると考えられたのでしょう。けれどもこれは違うとヨハネ福音書の方で、イエスは私より先におられたと言い表しています。ヨハネ福音書1章1節に「始めに言があった・・・言は神であった」そして14節に「肉体となり私たちのうちに宿った」と、このようにイエス様はもっともっともっとバプテスマのヨハネより以前に世の初めから永遠に存在しておられるのである。だから、先におられたイエスこそ優れたお方である。こうしたヨハネ派と言われた異端がユダヤの社会で蔓延っていた中でバプテスマのヨハネは隠れたる真のメシアであられるお方こそイエス様であると言うのであります。さて次に、ここでイエス様の事をヨハネは「神の子羊だ」と言っています。この呼び方は何を意味しているのでしょう。この言葉には三つの意味があります。第一にはイエス様は過ぎ越しの子羊であり給うと言う事です。昔、エジプトの奴隷として虐げられているイスラエルの民を救い出すため神はエジプトを罰し給いました。どうしても言う事を聞かないエジプトの王に対して神様は夜、滅びの使いを送られましてエジプトの家々の長男を殺されました。ただ、神様の約束を信じて傷のない子羊を屠ってその血を門の柱と鴨居に塗り家の中に閉じこもって信じて従った家は過ぎ越してもらえる、こう信じて従ったイスラエルの民はこの子羊によって難を免れたのでありました。(出エジプト12章)
コリント第1の手紙、5章7節には、こうあります。「キリストが私たちの過ぎ越しの子羊として屠られたからです」。イエス様は過ぎ越しの子羊として屠られ、神の刑罰とその悲惨な滅びから私たちを免除させて下さった方であります。その意味で彼は「神の子羊」であられます。
第二に「神の子羊」とはイザヤ書53章に預言された受難の僕を表します。53章7節を見ますと、私たちの罪のため鞭打たれ殺されて行く、この受難の僕が子羊として描かれています。「彼は虐げられ苦しめられたけれども口を開かなかった。屠り場に引かれて行く子羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように口を開かなかった。」黙々として神の刑罰を私たちに代わって受けて死んで行く受難の僕、これこそ神の子羊であります。それは、まさにイエス様の事を指しています。この子羊のように罪の刑罰を身代わりに受ける者こそイエス様の事であります。
第三に「神の子羊」とは、この世と、この世の力に対しての勝利者を意味します。勝利者と言うと何か勇ましい勝利の大物を思い浮かべますが実は紀元前1~2世紀頃からユダヤで救い主の事を譬えで描く黙示文学が流行っておりました。これは、「12族長の遺言」ヨセフ19:8やベニヤミン3:8
エノク書90:38とか言った記録に次のようにあったと言う「そこで私は見た、一人の処女が一頭の子羊を生んだ。その左手には獅子のような者がいた。そこで、全ての獣が彼に襲い掛かったが子羊は彼らを打ち倒し彼らを滅ぼし足の下に踏みつけた。彼の故にみ使いたちも人たちも全地も喜び踊った」或いは、新約聖書の最後のヨハネ黙示録にも何度も「屠られた子羊」と言うのが出てきます。
(5:16、12・13:8など)この子羊は決して屠られて敗北した子羊でもなければ大人しい子羊でもない、むしろ「力と富と知恵と勢いと誉と栄光と賛美を受けるに相応しい」そういう勝利の栄光に満ちた王者であります。(5:12)17章14節「彼らは子羊に戦いを挑んでくるが子羊は主の主、王の王であるから彼らに打ち勝つ。また、子羊と共にいる召された選ばれた忠実な者たちも勝利を得る」
このように、子羊は主の主、王の王。世の全ての敵対者に打ち勝つところの勝利者であります。
主日礼拝説教 2026年1月11日(主の洗礼日) スオミ・キリスト教会
イザヤ42章1-9節 使徒言行録10章34-43節 マタイ3章13-17節
説教題「イエス様が受けた洗礼と私たち」
本日の福音書の日課は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事です。これは驚くべき出来事です。どうしてイエス様が洗礼を受ける必要があったのか?ヨハネの洗礼は、救世主メシアの到来に備えて人々を準備させるものでした。どのように準備させるかというと、人々が罪の告白をして神のもとに立ち返る決心をしてメシアをお迎えするのに相応しい状態になることです。ところが、ヨハネのもとに来た人たちは彼の洗礼ですぐ罪が洗い流されて神の裁きを免れると思ったようです。しかし、ヨハネの洗礼は罪を帳消しにするような決定的なものではありませんでした。ヨハネ自身、自分の後に来る方の名のもとに行われる洗礼こそが決定的な洗礼になると述べています。
救世主メシアであるはずのイエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、つじつまが合わないことです。なぜならイエス様は神聖な神のひとり子だからです。乙女マリアから人間の体を持ってこの世に生まれこそしますが、それは聖霊の力によるものであって罪の汚れを持たない神のひとり子としての性質はそのままです。それなのでイエス様は罪の告白をして神のもとに立ち返る決心などする必要はありません。それだから、ヨハネはイエス様が目の前に現れた時、驚いてしまったのです。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と言っているほどです。ヨハネの戸惑いはもっともです。では、なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?
この問いに対する答えとして、「イエスは我々と同じレベルになることに徹した。それで罪ある者たちの中に入って洗礼を受けたのだ」と言う人がいます。つまり、人間にとことん寄り添う憐れみ深いイエス様、強い連帯心をお持ちの方ということです。しかし、ここにはもっと深い意味があります。もちろん、寄り添いや連帯ということは否定しませんが、そうした捉え方では収まりきれない、もっと大きなことがあります。今日の説教では、このもっと大きなことを明らかにしていこうと思います。
なぜイエス様はヨハネから洗礼を受けなければならなかったのか?答えは本日の福音書の箇所の中にあります。マタイ3章15節でイエス様が躊躇するヨハネに次のように言います。「今は言う通りにしなさい。義を全て成就することは我々にとって相応しいことだからだ。」新共同訳では「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」となっています。これだと、イエス様がヨハネから洗礼を受けるのは「正しいこと」だから受けるというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのは何だか当たり前すぎて、それがどうイエス様の洗礼と関係するのかわかりません。これを理解するためにはギリシャ語の原文を見てみる必要があります。このことは以前にもお教えしましたが、少し復習します。
15節を忠実に訳すと先ほど申し上げたようになります。「今は言う通りにしなさい。義を全て成就することは我々にふさわしいことだからだ」。つまり、ふさわしいこととは「正しいことをすべて行う」ことではなくて、「義を全て成就すること」です。これが私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の聖書を繙いてみてもわかります。英語訳の聖書(NIV)、ドイツ語のルター訳、スウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ても、みな同じように「義を成就すること」が言われています(後注1)。本説教も「義を全て成就する」でいきます。
そこで問題となるのが、「義を全て成就する」とは何かということです。まず、「義」という言葉ですが、これはルター派がよく強調する信仰「義」認の「義」です。人はイエス様を救い主と信じる信仰によって神から義人と認められるという時の「義」です。「義」とは、神の意思が完全に実現されていて神の目に相応しい状態にあることを意味します。それはまさしく十戒が完全に実現されている状態です。十戒は「私以外に神をもってはならない」という掟で始まります。最初の三つの掟は神と人間の関係について神が人間に求めているものです。残りの七つは、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」、「貪るな」など人間同士の関係について神が人間に求めているものです。神自身は十戒を完全に実現した状態にある方、十戒を体現した方ですから、神そのものが義の状態にある、義なる存在であるということになります。
この神の義を人間の立場から見ると、人間はそのままでは義を失った状態にあります。なぜなら、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を持っているからです。人間が義を失った状態でいると、創造主の神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになります。そして、この世から別れた後は創造主の神のもとに迎え入れられなくなってしまいます。人間が神の義を持てて、この世と次に到来する世にまたがって神と結びつきを持って生きられるためにはどうしたらよいか?それについてユダヤ教では、十戒や律法の掟をしっかり守ろうと言って、義を自分の力で獲得することが目指されてきました。しかしイエス様は、人間がいくら自分たちの作った規則や儀式で罪を拭い去ろうとしても、罪は人間の内に深く根を下ろしているので不可能と教えました(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、神が与えた十戒の掟は自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反するものであるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのです(ローマ7章)。
この世と次に到来する世にまたがって創造主の神としっかり結びついていられるためには神の義を持てなければならない。しかし、人間の力ではそれを持てない。この行き詰まり状態を神自身が打開して下さったのです。どのようにしたかと言うと、ご自分のひとり子をこの世に送って、彼に全ての人間の全ての罪の罰を受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたことです。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。イエス様が受けた洗礼には寄り添いや連帯を超えた大きなことがあるというのはこのことです。神のひとり子であるイエス様は罪など持たないお方だったのに、人間の罪を全部引き取って十字架にかかって神罰を受けたのです。使徒パウロが第二コリント5章21節で次のように言います。「罪と何のかかわりのない方を神は罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」人間が神の義を得ることができるために、神は罪と何のかかわりのないイエス様を罪とされたのでした。洗礼者ヨハネの洗礼は罪の自覚と告白が伴うものでした。そんな自覚も告白の必要のないイエス様がヨハネの洗礼を受けることで人間の罪を背負うこととなったのです。
人々がヨハネの洗礼を受けたのは、来るべき救世主メシアを迎える準備の意味でした。イエス様が洗礼を受けたのは、人々が神の義を得られるようにするという神の計画を開始する意味でした。人々の洗礼とイエス様の洗礼の違いを明らかにしたのが、イエス様に聖霊が降って天から神の声が轟いたことです。人々の洗礼にはなかったことでした。イエス様の洗礼の目的が「義を全て成就する」というのは、まさに人間が神の義を持てるようにする神の計画を成就することだったのです。
イエス様が十字架と復活の業を遂げられたことで人間が神の義を得られる可能性が開かれました。あとは人間の方がそれを自分のものにするだけです。どうやって自分のものにできるのかと言うと、それは、このような業を成し遂げたイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けることでです。そうすることで神から義人と見てもらえるようになります。この場合の洗礼は復活されたイエス様が定めた洗礼です。ヨハネの洗礼とは異なります。パウロがローマ6章で言うように、人はイエス・キリストの洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられます。そこがヨハネの洗礼と決定的に異なる点です。人はイエス様の死と結びつけられると、罪と死がその人の運命を支配する力を失います。イエス様の復活に結びつけられると、自分もイエス様のように復活して永遠の命に与かれるという確信が得られ、それがあらゆる希望の大元の希望になってこの世を歩めるようになります。
ただし、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じても、人間は肉を纏っている限り神の意思に反しようとする罪の思いを持ち続けます。しかし、神から罪の赦しを受け取ることができると、神との結びつきを失わずに生きることができます。この罪の赦しという神の恵みに留まる限り、神との結びつきは微動だにせず、残存する罪には人間と神の間を引き裂く力も人間を死の滅びに陥れる力もありません。「イエス様を救い主と信じます。私の罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないように」と言ってくれるのです。 このように神から罪の赦しを受ける者は繰り返し受けることで、残存する罪に対して、罪よ、お前は私に対して何の権限も持てないのだと言い聞かせてあげることになります。それを思い知らされる罪はその度に干からびていきます。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることで罪は決定的な打撃を受けますが、それでも罪は隙を狙ってきます。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まる限り、結局は罪の無駄な抵抗に終わります。
イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。加えて天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なるみ神の声が轟きました。これは今申し上げたように、イエス様が神の計画を実現する方であることを明らかにした出来事でした。それはまた、本日の旧約聖書の日課イザヤ書42章1-7節の預言が成就したことでもありました。この預言の内容を見ると、キリスト信仰者がこの世でどう生きるか、どのような立ち位置でいるかがわかってきます。次にそのことを見ていこうと思います。
イザヤ書42章1節に神の僕つまりイエス様が「国々の裁きを導き出す」とあります。3節にも「裁きを導き出す」とあり、4節には「裁きを置く」と言われています。少しわかりにくいです。「裁きを置く」とはどういうことか?日本語として意味をなしているのか?どうやって「裁き」を「置く」のか?私は「裁き」という言葉も「置く」という動詞も意味を理解できますが、理解できる言葉をくっつけたら理解できなくなるというのは不思議です。スオミの礼拝で何度も申し上げてきましたが、ヘブライ語のミシュパートという言葉をどう訳すかが問題です。新共同訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されます。私の使う辞書(後注2)にはその訳はなく、多くの場合は「正義」がピッタリな訳です。試しに英語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ると、「正義をもたらす/実現する」、「正当な権利をもたらす/実現する」と訳しています。なので、この説教では「正義」でいきます。
すると一つ問題になってくることがあります。イエス様は神の計画を実現して人間が神の義を持てるようにしたのであるが、果たしてそれで諸国に正義がもたらされるようになったのか?人間の歴史は反対のことばかり起こってきたのではないか?特に現在はどうでしょうか?国と国の関係で正義が失われる状況が顕著です。ますます多くの国が軍事力に物を言わせて現状変更しようとするようになってしまいました。もちろん現状が全ていいというわけではありませんが、それでも変える必要があるということならば、それを国際的なフォーラムで提起して議論して外交的に解決を図るというのが筋です。軍事力で変えていいということになれば、軍事力のない国は言いなりになるだけです。言いなりにならないために、あるいは自分も自由に現状変更したいという国は軍事力の増強に走ります。まさに「力は正義」ということになってしまいます。しかし、それは正義ではありません。
本当の正義についてイザヤ書42章3節が象徴的な言い方で教えます。傷ついて折れかかった葦を踏みにじるようなことをしない、風前の灯にある灯心をかき消すようなことをしない。そんなことをしないことが正義が一過性ではなく永続的なものになることだと神は3節で言っているのです。続く4節で神はたたみかるように言います。神の僕が地上に正義を打ち立てる日まで、折れかかった葦が踏みにじられることはない、風前の灯がかき消されることはないと。
それでは地上に完全な正義が打ち立てられる日が来るのでしょうか?聖書の観点では、完全な正義は今ある天と地にとってかわって新しい天と地が創造される時、最後の審判を経た時に最終的に打ち立てられます。それで、この世の不正義がなんの償いもなしに永久に見過ごされることはありえないのです。正義は必ず実現されるのです。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場なのです。昨年の終わりの説教でお教えしたことの繰り返しになりますが、黙示録20章を見るとキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが最初に復活を遂げます。次に復活させられる者たちは神の書物に記録された旧い世での行いに基づいて審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています。人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを意味します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。天地創造の神が御心をもって造られたものに酷い仕打ちをする者の運命、また神が御心をもって整えて下さった福音を受け取った人たちに酷い仕打ちをする者の運命も火を見るよりも明らかでしょう。たとえ償いや報いが将来のことになっても正義は必ず実現されるので、イザヤの預言はイエス様の洗礼で成就しているのです。
この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならない現実があります。それなのに次に到来する世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判されるかもしれません。しかし、キリスト信仰はこの世での正義を諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられるからです。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまう場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にもして報いて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うように行うものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無駄だった無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。イエス様の洗礼で成就したイザヤの預言はこのことも視野に入れているのです。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。
(後注1)[英]to fulfill all righteousness、[独ルター]alle Gerechtigkeit zu erfüllen、[ス]uppfylla allt som hör till rättfärdigheten、[フィン]täyttäisimme Jumalan vanhurkaan tahdon)
(後注2)Holladay, ”A Concise Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament”
新年の小礼拝の説教 2026年1月1日 主の命名日 スオミ・キリスト教会
民数記6章22~27節 ガラテヤ4章4~7節 ルカ2章15-21節
説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」
西暦2026年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーは昨年の11月30日に始まった待降節が新年の幕開けでした。今日は、日常というのか世俗というのか、普通のカレンダーの新年の幕開けです。どちらにしても、新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。
新年のこの日、日本では大勢の人がお寺や神社に行って、そこで崇拝されている霊に向かって手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。神社仏閣に参拝する人数を合計すると日本の総人口より多くなるということを聞いたことがあります。それ位ひとりでいくつもの場所を駆け回る人が大勢いるということなのでしょう。そういうわけで新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間です。
キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後は、今日のルカ福音書2章の聖句にあるように、このひとり子がイエスと名付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日の今日となります。このイエス様の命名の出来事を通しても聖書の神、天地創造の神とはどんな方か、そしてそのひとり子のイエス様はどんな方かがわかりますので、新年のこの日そのことについて見ていきましょう。
まず誰でも知っているイエス・キリストという名前について。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていると聖書の神が身近な存在になります。「イエス・キリスト」の「キリスト」は苗字のように思う人もいるのですがそうではありません。新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとは実はメシアのことだったのです。
そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。そういう終末論が旧約聖書の預言にはあると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。そういうこの世的でない、超越した王のことです。この世的であれ超越したものであれ、メシア「キリスト」は苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。
次に「イエス」の方を見てみましょう。これもギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は「主が救って下さる」という意味があります。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われました。それでこちらが本名です。そういうふうに、イエス・キリストという名はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語のイエス・キリスト)になったのでした。
さて、イエスの名前の意味が「主が救って下さる」ならば、誰を何から救って下さるのでしょうか?天使がヨセフにこの名を付けなさいと言った時、その理由は「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何からの救いかということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。
そもそも「神が救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが神は天使を通して、救われるのが国の敵からではなく、罪と死という人間一般の敵からであるとはっきりさせたのです。「罪から救って下さる」というのは、人間を永遠の滅びに陥れようとすることから救って下さることです。端的に言えば、罪の呪いから救い出すということです。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主である神に対して不従順になったことがきっかけで人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込みました。それで神と人間の結びつきが失われて人間は死する者になってしまいました。またかと思われてしまうかもしれませんが、キリスト教は何も犯罪を犯したわけではないのに「人間は全て罪びとだ」と言います。でも、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものを指します。造り主である神の意思に反しようとする性向です。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが私たちは皆等しく罪を持っていることを表しているのです。
イエス様が人間を罪から救い出すというのは、罪の呪いの力を無にして人間が罪の罰を神から受けないで済むようにすることでした。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられようにし、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせてもらって神の国に永遠に迎え入れられるようにすることでした。それを実現するために、イエス様は人間に向けらていた神罰を全て引き受けて私たちの身代わりになって十字架にかけられて死なれました。イエス様は神のひとり子で神と同質の方で神の意思に完璧に沿う方であるにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者のようになったのです。誰かが私たちの身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにされた理由です。本日の使徒書の日課ガラテア4章で言われていことが起こったのです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」
神の定めた律法に服するようにさせたということは、本日の福音書の個所にあるように割礼の儀式を受けたことにも示されています。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきた時は、旧約聖書の伝統を守る民族の只中にその旧約聖書に約束されたメシア救世主として乙女の胎内から生まれてきました。それで割礼という律法の掟に従ったのでした。全ては人間を罪の呪いから救い出すためでした。
イエス様の十字架の死と死からの復活の後で全てが一変します。イエス様が十字架で果たして下さったことは、現代を生きるこの私のためでもあったとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けることで神との結びつきが回復するようになりました。洗礼が天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。使徒パウロが、人間が罪の呪いから救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってであると主張したのです。人間は信仰と洗礼でもって創造主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。
このように私たちには、人間を罪の呪いから解放するために民族の違いを超えてご自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神がおられるのです。そしてその神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を身をもって実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様もおられます。このような神と結びきを持ててこの世を歩めることを私たちは心から喜び感謝することができますように。
このような神との結びつきを持ててこの世を歩めるというのは、暗闇の中で光を見失わないことと同じです。私たちは身近な願いや希望が叶えられると嬉しくなります。叶えられないと目の前が暗くなったような感じがします。しかし、キリスト信仰者には身近な願いや希望が叶う叶わないに左右されずにある大元の嬉しさ、喜びがあります。イエス様の十字架と復活の業のおかげで私たちは神の目に相応しい者になれることからくる嬉しさ、喜びです。この礼拝の初めでベートーベンの第九の「歓喜」の歌に触れました。星空の彼方に創造主は必ず住んでおられることが大きな喜びの元にあることを表現している歌であると。創造主が必ずおられることがどうして大きな喜びになるのか、それを詩篇8篇が明らかにしてくれていると申しました。創造主の神が私たち人間を覚えてくれて面倒を見て下さるからですが、神が覚えてくれて面倒を見て下さることはひとり子を私たちに贈って下さったことに一番強く表れているのです。
私たちはどのくらい神の目に相応しくなっているのでしょうか?それは、今のこの世の次に到来する新しい世において神の御許に迎え入れてもらえるくらいに、つまり、天のみ国に迎え入れてもらえるくらいに相応しいということです。もし神社やお寺で、天国に行けますように、などと声に出して祈ったら、周りの人から、この人少しおかしいんじゃないか、早く死にたいのか、と思われるでしょう。しかし、キリスト信仰者には、もちろん身近なこの世的な願いもありますが、同時に神に義とされて神の国に迎え入れられるという希望があります。しかも、その希望はイエス様のおかげで既に叶えられているから大丈夫という安心があります。もちろん、身近な願いが叶えられず、どうして?神は聞いてくれなかったのか?神は何か私にご不満なのか?そういう疑いはキリスト信仰者でも抱く時があります。しかし、神は、そうではないのだ、イエスを救い主と信じるお前を私は見捨ててなどいない、お前は天の国に至る道に置かれて、その道を私と共に歩んでいる、物事がお前の思う通りに進まなくても、私の思う通りに進むから心配するな、私の目は常時お前に注がれているから安心しなさい、何も恐れることはない、と神は言って下さるのです。これが神との結びつきを持って生きるということです。この結びつきは聖書を繙く時、聖餐式に与かる時に強まっていきます。
そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちには神との揺るがない結びつきがあるゆえに大元の嬉しさと喜びがあるのですから、それを忘れずに新しく始まった年を歩んでまいりましょう。