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聖書日課 エレミア31章1節-6節、コロサイ3章1節-4節、マタイ28章1-10節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の神の力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、意味は「過越し」です。つまり、旧約聖書の「過越し祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言うのです。興味深いです。英語や日本語では別々に分けて言います。
復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。それは何をお祝いするのでしょうか?クリスマスは、イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いします。それでは復活祭は、惨い殺され方をしたイエス様が復活して良かった良かったと喜ぶお祝いでしょうか?実はそうではありません。復活祭はイエス様の復活自体がおめでたいことの全てではありません。イエス様が復活したことで私たちにとって良いことがあるのでおめでたいのです。イエス様の復活は私たちのために起こったということ、それを今年もこの復活祭礼拝の説教で、ただ少し角度を変えて明らかにしようと思います。
まず、復活とは何か、それはどんな現象なのかを理解できなければなりません。それをわからないまま復活の話をしたら聖書から離れて必ず行き詰ります。
普通、死亡が確認された人が息を吹き返すと生き返ったとか蘇生したと言います。復活はそれとは全く異なる現象です。「復活」は、死んで遺体が火葬とか土葬に付されて肉体が腐敗して消滅した後に起こることです。「蘇生」の場合は、まだ肉体があります。例えば、イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行いましたが、生き返った人たちは後で寿命が来て最終的に亡くなって肉体は腐敗して消滅しています。それなので生き返りの奇跡は「復活」ではありません。
「復活」について、旧約聖書の中にそれを示唆する預言がいろいろあります。はっきり出てくるのはダニエル書12章です。今のこの世が終わって新しい世が誕生する時に起こるとされ、復活する者は腐敗消滅した肉の体に代わって輝く体が与えられることが言われています。新約聖書では、もっと詳しく具体的に述べられていて、特に黙示録、第一コリント、第一テサロニケに詳しく述べられています。「復活」は聖書の世界観の重要な要素です。聖書の世界観は、今あるこの世は天地創造の神が造られたものだ、造られて始まったのだから終わりもあるという見方です。それで今ある天と地はいずれ終わって新しい天と地が創造される、その時、今私たちの見えないところ手の届かないところにある「神の国」が新しい天と地のもとに唯一の国として現れるという見方です。その時、誰が「神の国」に迎え入れられるかを決める「最後の審判」が起こる。これが聖書の世界観です。
その中で、今あるこの世が終わって新しい世に取って代わられる時、死の眠りについていた者たちが再臨の主イエス・キリストに起こされ、消滅した肉体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられる、これが「復活」です。
ここで、あれっ、復活は消滅した肉体に代わる復活の体を着せられることだったら、イエス様はまだ肉の体があったではないか、もちろん満身創痍の痛ましい状態ではあったが、それでも体は一応あるのだから復活ではなく蘇生ではないか、そういう疑問が起きるかもしれません。しかし、復活後のイエス様の体はもう普通の肉の体ではなかったことが聖書に記されています。信じられないような空間移動がありました。鍵をかけた家の中に急に入って来て、パニック状態になった弟子たちに、幽霊ではないぞ、と言って、手足を見せます。ちゃんと触れることが出来ました。しかし、むやみに触れてはいけないこともマグダラのマリアに言いました。復活の体は神聖なので、本当は直ぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない体だからです。それでもイエス様は、弟子たちを初め大勢の人に復活が真実であることを示し、また旧約聖書の不明部分をわからせるために結局40日間この地上に留まることになりました。
「復活」は、キリスト教が他の宗教と大きく異なる点の一つです。他の宗教ですと、死後の世界を想定する時、それはこの世の世界と同時併行してあります。それで、亡くなった人は今どこか高いところにいて私たちを見守ってくれている、などと言います。ところがキリスト教では、今の世が終わって消滅して新しい世が出来る時に復活が起こるという流れになります。復活を遂げた者は下を見下ろしても旧い世はもう存在しないのです。もちろん神の国自体は、今この現在も私たちの手の届かないところ次元の異なるところにあります。ただ、そこに迎え入れられるのは復活の日になってからと言うのです。そうすると、亡くなった人はその日までどこでどうしているのかと聞かれるのですが、それはもう、神のみぞ知る場所にいて静かに眠っているとしか言えません。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡を業を行った時、この者は眠っている、と言って生き返らせました。それは、イエス様を救い主と信じる者にとって死は復活の日までの眠りにしかすぎず、彼こそが眠りから目覚めさせる力があることを示すために行ったのでした。
そうすると、じゃ、今、神の国は神以外は誰もいない空席状態なのかと聞かれてしまうのですが、そういう訳でもなく、聖書は復活の日を待たずして神のもとに迎え入れられた人がいることも認めています。いわゆる聖人です。カトリックでは聖人も崇拝の対象になりますが、ルター派は崇拝の対象はあくまで三位一体の神です。
以上、復活がどういう現象かについてお教えしました。次に、なぜ天地創造の神は復活を起こすのかについて見てみます。この「なぜ」に答えられるためには、なぜイエス様は十字架にかけられて死ななければならなかったのかがわからないといけません。
イエス様の十字架の死は、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たしたという身代わりの死です。人間の罪などと言うと、キリスト教はすぐ罪、罪と言って犯罪者扱いするから嫌だ、という人もいます。しかしながら、聖書で言われる罪とは、神の意思に反しようとする人間の性向のことです。それは、創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から人間全てに備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。造り主の神との結びつきが切れてしまったらそうなるしかないのです。そこで神としては、人間をこの罪の支配から解放して結びつきを回復してあげよう、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去る時も結びつきの中で去ることができるようにしてあげよう、そして復活の日になったら眠りから目覚めさせて自分のもとに永遠に迎え入れてあげよう、そうすることを決めてひとり子をこの世に贈られたのでした。
この神のひとり子のイエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになりました。そのようにして私たちの罪の償いが神に対して果たされたのです。それからは悪魔が罪を引き合いにだして人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎてうまくできません。はっきり言って悪魔の狙いは破綻してしまったのです。加えて、神が想像を絶する力でイエス様を死から復活させて、死を超えた復活の命、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。
そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。自分が償ったのではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う先が天地創造の神であれば人間には償いなど無理です。しかも償いをした方がその神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもの軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。
罪を赦されたから神との結びつきが回復します。この結びつきは人間の方から手放さない限り、神の方でしっかり掴まっていて下さいます。順境だろうが逆境だろうが神との結びつきはいつも変わらずあります。いつも神の守りと導きの内にこの世を進んでいきます。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられます。この世と次に来る世の二つの世を生きられる人生です。罪と死の支配から解放された人生です。
罪と死の支配から人間を解放する神の救いの計画がイエス様の十字架と復活の業をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちも将来イエス様と同じように復活させられることがはっきりしました。それで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活も可能になったことを喜び祝う日です。さらに自分自身が復活させられるという希望に加えて、復活の日にはやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた。それで復活祭は私たちにとっておめでたい日なのです。
以上、神はなぜイエス様の復活を起こしたのかを見てみました。これで復活の現象とその意味について知識が増えたことと思います。キリスト教はそういうふうに考えるのだなと理解が深まったでしょう。それでは、知識が身につき理解が深まったところで、復活を信じることが出来るでしょうか?イエス様の復活は歴史上、本当に起こった、それで彼を救い主と信じる者は将来本当に復活する、と信じることができるでしょうか?
近年では、聖書に記されている不思議な出来事はキリスト教徒の間でもあまり本気で信じられなくなってきたのではないかと思います。処女が赤ちゃんを産むだとか、一度死んだ人間が全く有り様の異なる体をもって人前に現れるだとか、そんな理性と常識ではあり得ないことは、みんな古代世界の人間のファンタジーのせいにしてしまうか、あるいは言葉や表現の技法のように考えて言葉通りに受け取る必要はないと考えるようになってきているのではないかと思います。ただ、そのように考える人も、全部うそだ、作り話だと言ってしまったら、キリスト教をひっくり返すことになり元も子もなくなってしまうとわかります。それで、そういう理性や常識であり得ないことは実体的な現象とは考えず、何か人間の心の中で思い描かれたもの、心理的な現象として捉えればよい、現代のキリスト教の使命は社会変革の先頭に立つことだから、その使命を果たしてさえいれば聖書の不思議な出来事を本気で信じなくても大丈夫、矛盾しない、そういう風潮ではないかと思います。どうでしょうか?少し言いすぎでしょうか?
そこで、イエス様の復活は本当に単なる作り話のファンタジーなのか、少し考えてみましょう。
イエス様の復活の出来事は4つの福音書に記されています。4つ全てに共通しているのは、週の最初の日の早朝に女性たちが墓に行ってみると墓の前の石はどけられて中に遺体がなかったことです。それと天使の出現があり、空の墓と天使の目撃の後に復活されたイエス様と出会うことがあります。4つともそういう共通点がありますが、他方で、詳しく見るといろいろ違いもあります。マタイでは墓を塞いでいた石を天使がどけたことが記されています。それが起きたのは女性たちが到着する前か後か微妙なところです。他の3つは石がどけられた後に到着しています。天使がどけたということはありません。墓に行った女性も、マタイではマグダラのマリアと別のマリアの二人の名が挙がっています。マルコでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメが遺体に塗る香油を購入したとあります。ルカでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとヨハンナと他にもいたとあります。ヨハネではマグダラのマリアの名前だけがあがっています。それから、現れた天使の数がマタイとルカは二人、マルコとヨハネは一人です。
さて、これらの違いをどう考えたら良いでしょうか?こんなにバラバラだったら、それぞれが勝手に作った話だということになるでしょうか?実は逆なのです。この問題についてスウェーデンの1960年代、70年代に活躍したボー・イェ―レツという神学者が次のように言っていました。イエス様の復活を犯罪事件の裁判と比較したらいい。事件の目撃者が4人いるとする。4人の証言が細部にわたってみんな一致していたら、裁判官は普通、これは不自然だ、4人は前もって打ち合わせて話をすり合わせたのではないかと疑うだろう。逆に細部は一致せずバラバラでも、肝心なところで一致していたら、証言の信ぴょう性は高まると裁判官は考えるだろうと。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、ローマ帝国軍によるエルサレム破壊の年、西暦70年の後になって書かれたというのが学会の定説です。もしそうならば、イエス様の十字架と復活の出来事から40年以上も経ってまとめられたことになります。人間の人生の2世代か3世代後のことになります。その間、4つの福音書のもとにある証言や資料は最終的に福音書にまとめられるまでに証言や資料が伝播していく過程を辿ります。40年以上の過程にはいろんな場があって、それぞれ伝道の状況、信仰の状況があります。そういう過程を経る中でこの証言はここの部分をもっと強調してもいいとか、逆にここを省いてもいいということが起きてきます。
犯罪事件の4人の目撃者が、それぞれどんな性格の持ち主か、犯罪を許さないという強い気持ちを持つ人か、自分は巻き込まれたくないと恐れる人か、大人か子供か、男性か女性か、事件当時何をしていたか、そうしたいろんな要因があるために同じ事件に遭遇しても受け止め方や反応が違って、目撃したことの描写も異なってくるということが起こります。しかし、目撃した事件そのものは同じです。イエス様の復活も同じです。しかも復活の目撃の証言は、40年以上の間に変わる部分も出てくるが、40年以上経っても変わらない大元があることをはっきりと示しているのです。
事件の複数の目撃者の証言が細部で異なった方が信ぴょう性が高まるということを言うのは神学者だけではありません。ダニエル・カーネマンという2002年にノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者がおりますが、彼の最近の著書「Noise – A flaw in human judgement(ノイズ-人間の判断の欠陥)」の中でも同じことが言われていました。もちろんカーネマンは復活のことについてではなく一般的なこととして言っているのですが、なぜか、例として目撃者の数を4人にしているのが興味深かったです。それを読んだ時すぐイェ―レツのことを思い出しました。
さて、イエス様の復活の出来事は信ぴょう性が高いということになりました。それでは、じゃ、イエスの復活を信じるぞということになるでしょうか?それでも足りない、100%確かでなければ信じないと言う人がほとんどでしょう。それはタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行って墓の前で見張らない限り無理です。これからもおわかりのように、キリスト教の信仰には負荷が大きくあります。他の宗教だったら、昔、教祖がこう言った、こういうことをしたと書いてある、そう言えば、大方はそれが歴史的に事実かどうか気にせずに、ありがたや、と言って信じると思います。キリスト教では4つの証言があってもまだ足りないと言うのです。今では4つあってもダメになってしまいました。
そこで信仰についてひと言。信仰とは、出来事が100%真実だとわかったので信じると言うものではありません。その場合は、もう信じるも何も、目で見た通りですとしか言いようがありません。それは信じることではありません。信じるとは、理性や理解力で捉えられないことが目の前に横たわっていたら、それを踏み越えて向こう側に行くこと、これが信じることと言ってよいと思います。最初は踏み越えることなど無理だと感じるかもしれませんが、創造主の神がひとり子を用いてとてつもないことをして下さったことを思い起こすと、神を信頼して大丈夫という気持ちになり、踏み越えることが出来ます。そこで、向こう側に行くというのはどんなことか、それが本日の使徒書の日課コロサイ3章によく記されているので、最後にそれについて述べておきます。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれるて現れるでしょう。」
まだこの世で生きているのに「復活させられた」と言うのはパウロらしい言い方です。彼は「ローマの信徒への手紙」6章の中で洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪がその人に対して支配者でなくなってしまい無関係になってしまう、それでその人は罪に対して死んだことになり、それからは生きることは神に対して生きることになると言います。その時、復活の体と永遠の命と目には見えない繋がりが出来ていることになり、将来の復活の日に目に見える形で手にしていることになります。それで「あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている」というのです。
この「命」は地上の命ではなく永遠の命です。目には見えないが繋がりができているものです。見えない状態なので「隠されている」のです。「隠す」と言うと何か困らせる意図があるみたいなので「秘められている」と言った方がいいと思います。復活の体も永遠の命も性質上、この世では秘められたものになってしまいます。キリストも天の父なるみ神の右に座しているから地上にいる私たちからすれば秘められています。それが、イエス様の再臨の日がくると、イエス様は秘められた状態から現れた状態になり、同時に私たちの永遠の命も秘められた状態から現れた状態になります(後注!)。その時は神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので、それで「キリストと共に栄光に包まれて輝く」のです。
今この世の中を歩む者にとって、永遠の命もキリストも秘められた状態にあるが、それはいつか現れると確信して、今は見えない状態で別に構わない、なぜならかの日に現れるからという心でこの世を歩むこと。これが上にあるものを求めること、上にあるものを心に留めることです。このような心で歩んでいる時、理性や理解力で捉えられないものを踏み越えています。ところが、イエス様の復活を本当に起こったことではなく、心の中の描写だとか心理的現象と見なす人はこの踏み越えはできません。その人は、全てのことを理性や理解力で捉えようとするので、捉えられないものに出くわすと、心の中の描写だとか心理的現象と言って踏み越える必要がないようにしてしまうからです。そこには信仰はありません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注!)新共同訳の「あなたがたの命であるキリストが現れるとき」は正しい訳ではないと思います。正確には「キリストが現れるとき、あなたがたの命も現れます」と思います。なぜなら、前の文で、「あなたがたの命」と「キリスト」の二つが隠されている/秘められていると言っているので、ここではその二つが現れることを言っていると解する方が自然だからです。ギリシャ語原文に省略があると考えればよいわけです
主日礼拝説教 2023年4月7日 聖金曜日
聖書日課 イザヤ52章13節~53章12節、ヘブライ10章16~25節、ヨハネ18章1節~19章42節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。
イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景でした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。
イエス様が受けた激痛は肉体的なものだけではありませんでした。霊的な激痛も一緒でした。イエス様が受けた霊的な激痛について、先ほど朗読したイザヤ書が明らかにしています。その個所は、イエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とあります。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は人を傷つけたり欺くようなことは行ってはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とても潔白ではいられないのです。近年はますます潔白ではいられなくなっていると思います。そのために、そんな自分の都合悪いことを言う神など胡散臭いと、ますます遠ざけられていきます。
そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの状態と奴隷の状態から自由にしてあげようと手立てを考えました。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰をひとり子に身代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。この神のひとり子が受けた罰の苦しみに思いを馳せることが出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。思うことが出来なければ心は変わらず奴隷のままです。
イエス様自身、十字架にかけられる前、自分がこれから受ける苦しみは肉体的な苦しみを越えたもっと大きな苦しみがあるとわかっていました。マタイ、マルコ、ルカ福音書にゲッセマネというところでのイエス様の祈りが記されています。最初、父なる神よ、出来ることならこれから起こることになる苦しみの杯を飲まないですむようにして下さい、と祈ります。神のひとり子ともあろうお方が恐れるくらいの苦しみが待ち受けていたのです。何しろ人間の全ての罪の神罰を受けるのだから当然です。しかし、最後にイエス様は、父なる神よ、自分の願いではなく、あなたの御心が行われますように、と祈ります。先ほど読みましたヨハネ福音書の個所でも、弟子たちがイエス様の逮捕を阻止しようとした時、イエス様は、父なる神が与えた杯だ、飲まないわけにはいかないのだ、と言ってやめさせます。
こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪を持ってしまっているために神との結びつきがない状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。
あとは人間の方が、このことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だ、と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病んでしまった人間の癒しはそこから始まります。こうして人間は、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。
神のひとり子に罪を償ってもらって神から罪を赦された者と見なされる者はどのような心になるについて、先ほど朗読した「ヘブライ人への手紙」10章の中が明らかにしています。
17節 神は「人間の罪や背きを思い出すことをしない」と言われます。これはエレミヤ31章34節にある神のみ言葉ですが、この神の決意はイエス様の十字架の業で実際のものになりました。
18節 「罪の赦しのあるところには、罪を償うための捧げものもない」と言われます。神がひとり子を犠牲に供して罪の赦しが起こったのだから、もう人間の方で罪の赦しの為に何か別の犠牲を捧げたり、罪の赦しが得られるように何か自分で規定を作ってそれに従って業を行うことは一切無意味になった、そんなことをしたら神のひとり子の犠牲を無駄にすることになるのです。
イエス様の犠牲の上に罪の赦しを得た者はどうすればよいのか?19~25節は、この神の側からの罪の赦しに全てをかける者はこういう心になるのだ、ということが言われます。どんな心でしょうか?
19節から21節では次のことが言われます。イエス様が私たちのために犠牲となって十字架で血を流されました。洗礼を受けるとイエス様の血と結びつくことになります。その血と結びついていれば、神聖な神のみ前に立たされても大丈夫、神罰を受けることはないから大丈夫だという勇気を持って神のみ前に立つことが出来ます。そのような勇気のある者になれるのです。
かつてエルサレムの神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れませんでした。何しろ見えない神の前に立つ場所だったからです。しかし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。動物の生贄の血を振りかけて罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今ではイエス様の犠牲の血で罪の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかっていました。マタイ27章51節に記されているように、イエス様が十字架にかけられて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂けたのです。かつて大祭司は動物の血をかけられて垂れ幕をくぐり抜けて神のみ前に行くことを許されました。今、イエス様の血で汚れを落とされた者は、イエス様の犠牲の体をくぐり抜けるようにして神のみ前に立つことができるのです。
人間にとってイエス様は真の大祭司であることが明らかになりました。神殿があった時の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、それでも大祭司自身、儀式で自分を清めなければならないレベルの低い仲介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方です。その彼が自分自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち立てたのです。これぞ真の大祭司、完璧な仲介者です。
このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神から仕打ちを受けてしまう、神に見捨てられてしまう、というような苦しい思いから解放されています。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落とされています。それなので、イエス様は間違いなく私の救い主なんだと信じる信仰に生きれば、もう私にはやましいところはありません、私は潔白です、と言えるくらいの怖気づかない心を持つことが出来ます。その心があれば、この世を前にして堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に堂々と立つことができます。
23節 このようにキリスト信仰者には神のみ前に立たされても大丈夫という揺るがない希望があります。それを心にとめておきましょう。これらのことを約束した方は約束に忠実な方であることも忘れないようにしましょう。
24節 キリスト信仰者はこのような怖気づかない心、やましいところはありませんと言える心を持っているのだから、あとはお互いのことを考えて、愛と善い行いをすることを考えればもうそれで十分なのです。
25節 キリスト信仰者にとって礼拝を大切にし守ることは大事です。なぜなら、イエス様が大祭司であること、それで私たちには怖気づかない心があり、やましいところはありませんと言える心があることを確認できるのが礼拝だからです。人によっては礼拝を大した意味のないと考えて、別に出席しなくてもいいや、他に何も都合がなくて気が向いたら行けばいいやと考える人もいるようですが、礼拝を離れてイエス様が大祭司であることや私たちの怖気づかない心をどうやって確認できるのでしょうか?キリスト信仰者がキリスト信仰者である所以は、イエス様の再臨がいつか来ると、ひょっとしたら自分が生きている間にあるかもしれないという主の再臨を待つ心です。そのような心がある信仰者は、イエス様が大祭司であること、怖気づかない心を確認し強めることは当たり前で自然なことになっています。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
聖書日課 イザヤ書50章4-9a節、フィリピ2章5-11節、マタイ21章1-11節
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日から受難週です。今日はイエス様が大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。
受難週最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様が受難の舞台となるエルサレムに入る際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に群衆は「ホサナ」という言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホーシーアーンナーという言葉で、意味は「救って下さい」と神にお願いするものでした。同時に、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。日本語で言えば、さしずめ「王様、万歳」ということでしょう。そのホーシーアンナ―が、当時イスラエルの地域で話されていたアラム語という言葉でホーシャーナーになりました。
ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説します。ヘブライ語は旧約聖書のもともとの言語です。その使い手だったユダヤ民族は紀元前6世紀のバビロン捕囚の出来事があって異国での捕虜生活の間にアラム語化していきます。イスラエルの地に帰還した時にはアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝ではヘブライ語の聖書が朗読されましたが、それをアラム語で解説していました。イエス様を迎えた群衆がヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーで叫んだのは間違いないでしょう。この出来事は最初アラム語で言い伝えられました。後にギリシャ語でマタイ福音書が書かれた時、マタイは群衆の歓呼の声ホーシャーナーを「王様、万歳」とギリシャ語に翻訳せず、アラム語の音声をそのままギリシャ文字に置き換えてホーサンナにしました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。そういうわけで、私たちが聖書のこの個所を開くと当時の群衆の生の声が響いてくるのです。「王様、万歳」と訳したら意味は分かりますが、声は聞こえてきません。マタイは現場の生々しい雰囲気を後世に伝えたかったのでしょう。
そうすると、ホサナの歓声を上げた群衆はろばに乗ったイエス様をユダヤ民族の王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城がある自分の町に入る時は、大勢の家来や兵士を従えて白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。ちぐはぐな感じがします。どうしてロバなんかに乗って来るのでしょうか?
さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰も乗ったことのないものを、と言います。まだ誰も乗っていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味です。もし既に誰かに乗られていたら使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行動を神聖なものと示すのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳と歓呼で迎えられつつも、ロバに乗って、これは神聖な行動であると、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何なのでしょうか?
このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真剣で人類の運命に関わる重大な神聖な出来事でした。イエス様のこの行動は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」に注意します。ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利者、へりくだった者」です。マタイはこれを引用した時、なぜか「柔和な者」としか書きませんでした。ヘブライ語原文で「義なる者、勝利者、へりくだった者」と言っているのになぜ「柔和な者」だけになってしまうのか?こういう時は、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳を見てみます。マタイは福音書をギリシャ語で書いたので旧約聖書もギリシャ語版で見たのかもしれない。ところが、ギリシャ語訳は「義なる者、救う者、柔和な者」です。「柔和な者」が出てきます。「義なる者と救う者」もあります。どうしてマタイはギリシャ語版の「柔和な者」だけを採用してあとのものを省いたのでしょうか?マタイ11章29節を見ると、イエス様が、労苦する者、重荷を背負う者は皆、私のところに来なさい、休ませてあげよう、私は「柔和で心からへりくだった者」なので、わたしの軛を負い、私から学びなさい、そうすれば、あなた方は魂に休養を得ることが出来る、と言っています。マタイは、人間が魂に休養を得られるカギはイエス様の柔和さとへりくだりにあると考えて、それで「柔和な方」に全てを集約してしまったのではないかと思われます。果たしてこの説明が正しいかどうかはわかりませんが、本説教ではイエス様が王であると言う時、ヘブライ語原文通りの「義なる者、勝利者、へりくだった者」ということで見ていきます。
最初に「義なる者」について。「義なる者」とは、神に義と認められた者、神聖な神に相応しい者です。イエス様は神のひとり子で罪を持たない神聖な方なので間違いなく義なる者です。加えて、イエス様は神の意思に反する罪を持ってしまっている私たち人間を罪の支配から解放して、私たちも義なる者となれるようにして下さいました。十字架と復活の業を果たすことで、それを可能にしたのです。このようにイエス様が義なる者であると言うのは、自らが義なる者であることと、他者にも義を与える者であるということです。しかしながら、当時の群衆からすれば、まだ十字架と復活の出来事が起きる前ですので、イエス様が自ら義なる者ではあるとわかっても、他者を義なる者にして下さるとは誰もわからなかったでしょう。
次に勝利者について。イエス様が勝利者であると言う時、それはどんな勝利者でしょうか?イエス様は十字架と復活の業を果たすことで罪と死を無力にし、人間を罪と死の支配から解放する道を開きました。それでイエス様は罪と死に対する勝利者です。しかし、まだ十字架と復活の出来事を見ていない群衆は、そこまではわかりません。イエス様が勝利者という時、群衆の目に映っているのは、これから占領者ローマ帝国の総督とその軍隊そして彼らに付け入る同胞の支配層を追い払うという民族の英雄です。とても罪と死に対する勝利者、人間を罪と死の支配から解き放ってくれる解放者にまで思いは及びません。
「へりくだった者」というのは、本日の使徒書の日課フィリピ2章で言われている通りのことです。ここでパウロは当時フィリピの信徒の間で口ずさまれていたキリスト賛歌を引用しています。6節の「キリストは、神の身分でありながら」から11節の「父である神をたたえるのです。」までのところは、ギリシャ語原文では段落が別になって行も短くなっていて引用であることを示しています。このキリスト賛歌はパウロ自身の作である可能性もあります。
パウロがこれを引用した意図はこうです。パウロは、キリスト信仰者とは相手にけんか腰になったり高慢に振る舞ったりはしないのだ、相手を自分より優れたものと考えてへりくだるのだ、しかも、各自自分の利害に目を向けるのではなく他人の利害に目を向けるのだ、と勧めます。どうしてそうしなければならないのかと言うと、イエス・キリストがそうだったからと言うのです。私たちの救い主がそういう方だったのにあなたがたはそんなの嫌だとは言えないではないか、ということです。イエス様が果たしてそういう方であったかどうかは、広く唱えられているキリスト賛歌からも明らかでしょ、今ここで引用するからへりくだることについてよく自己反省しなさい、ということなのです。
「キリストは神の形をしていながら、神と同等であることにしがみつかず、そのような自分を空にして、奴隷の形を取って人間と同じようになられました(後注1)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
しかしながら、へりくだりについても、十字架と復活の出来事はまだです。それで、神のひとり子ともあろう方が人間の救いのために神と同等であることを捨てて、十字架の死を受け入れるくらい神の意思に従ったこと、これがへりくだりの真相だとわかった人はいなかったでしょう。むしろ、民族の解放者になる偉大な王様がロバに乗ってやって来るという、何か威厳さとか権威とかそういうものの正反対の様子がへりくだりを表していると思ったでしょう。
このようにゼカリア書9章の預言は広い深い内容を持つものでしたが、ロバに乗ってエルサレムに入るイエス様を見た人々はそこまではわかりません。ついに民族解放の日が来たと期待を強く抱いたのでした。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?イエス様の華々しいエルサレム入城は、全く予想外の展開を遂げて行きます。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。神殿から商人を追い出して当時の礼拝体制に真っ向から挑戦しました。また、彼が公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国に反乱の疑いを抱かせて軍事介入を招いてしまうという懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に出てくる終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と自称したことも指導層にとって許せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。
イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。イエス様が神の想像を絶する力で死から復活させられたことがそれです。これによって死を超えた永遠の命があることが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活が本当に起こるものであることが明らかになりました。
そこを起点として旧約聖書の謎が次々と明らかになりました。イエス様は死に引き渡されたまま放っておかれることのない神の子であることが明らかになりました。それでは、なぜ神のひとり子ともあろう方が十字架で死ななければならなかったかのか?それについては、イザヤ書53章にある預言が成就したことがわかりました。人間が持ってしまっている神の意思に反しようとする罪を神の僕が人間に代わって神に対して償うという預言です。罪を持たない神に相応しい僕が人間の受けるべき神罰を自ら受けて、人間が受けないで済むようにするという預言です。罪に傷つき心が病んでしまっている人間の癒しはそこから始まるのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命が本当にあることがこの世に示され、その命に至る道が人間に開かれました。イエス様の十字架と復活の業によって人間が罪の呪いから解かれて永遠の命を生きられる可能性が開けたのです。
そこで今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされます。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。行き先は、永遠の命が待つ復活の日です。その日が来たら眠りから目覚めさせられてイエス様と同じように復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられるのです。
このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム入城は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあることが明らかになりました。罪と死の支配からの解放、造り主である神との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命を持って生きること、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。
最後に本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所が、イエス様を救い主と信じる私たちの心構えについて教えているので見ておきます。この個所は一読するとイエス様が処刑される前に暴行を受けたことを預言しているとわかります。イエス様は人間を罪と死の支配から救い出して神との結びつきのうちにこの世と次に来る世の双方を生きられるようにしてあげようとしている。それなのに神の真の意図をわからない者たちはイエス様を危険な者として迫害する。イエス様は迫害の最中でも自分は神の立場に立つ者とわかっているので何も怖くはありません。暴行は痛いし辛いが、自分の立場は神を裁判官にした裁判では潔白以外の何ものでもない。神を裁判官にした裁判が8節と9節で言われます。
8節「私の潔白を証明する方はすぐそこにおられる。」神がイエス様を死から復活させて、彼が罪と死を滅ぼした神の子であることが明らかになります。そのようにイエス様の潔白は人々の前で証明されます。
「誰が私を訴えるのか?一緒に立とうではないか!」日本語訳では、私の協力者と一緒に立つという訳し方ですが、正確には、協力者ではなくて、訴える者のことで、それで、上等だ、一緒に法廷に立とうではないか、ということです。法廷とは神を裁判官とする法廷です。同じ趣旨のことが続きます。
「誰が私に対して訴えを起こすのか?私の前に出てこい。」それでここは訴えを起こす者に対してひるまない姿勢を一貫して言っているのです。
9節「見よ、主なる神は私を助けて下さる。見よ、私を訴える者はみな着古された衣のように擦り切れて朽ち果てて、虫に食いつくされてしまう。」
「主なる神は私を助けて下さる」は7節にもあります。神が助けて下さるから、私は迫害を受けても動揺しないし恥にも感じないというのです。4節から9節まで「主なる神は」という言い方が4回出てきます。「主なる神は、弟子の舌を私に与えた」、「主なる神は、私の耳を開かれた」、「主なる神は、私を私を助けて下さる」、「主なる神は、私を助けて下さる」。みな、「アドナーイ(主よ)、ヤハヴェ」で始まります。「ヤハヴェ」は神聖な名前なので口にしてはいけないので「アドナーイ」に言い換えます。「アドナーイ、アドナーイ」と、神が本当にそばにいて働きかけていることを意識していることを感じさせる箇所です。
同じ意識はキリスト信仰者にも当てはまります。この日本では、さすがに暴力を振るってまでして信仰を捨てさせるようなことはありませんが、キリスト信仰に対する誤解や中傷は起きると思います。キリスト教を名乗って社会を騒がせる団体がいろいろある昨今ではなおさらです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰で生きる以上、神を裁判官とする裁判では潔白なので、動揺せず恥ともせずに、フィリピ2章にある心構え、人々にへりくだって、自分より優れた者として接して、自分の利害を脇において他人の利害を考える、またローマ12章にある心構え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、悪に対して悪で報いず善で報いる、敵が飢え乾いていたら食べさせ飲ませる、を続けていけばいいわけです。
非難や中傷は他の人から来ず、心の中で責める声がする時があります。お前には罪がある、神の前で潔白でなんかあり得ないと。悪魔の声です。悪魔のことをサタンと言いますが、その意味は告発する者、責める者という意味です。しかし、この場合も心配いりません。確かに私には神の意思に反する罪があるが、その罪はイエス様が神に対して償って下さったのだ、それで私は神から罪を赦された者として見てもらっているのだ、と思い出して、そこに踏みとどまればいいのです。神がイエス様を通して私に与えて下さった罪の赦しのお恵みを私は手放すつもりはないと悪魔に言い返せばいいのです。私は罪の赦しのお恵みを神から差し出されて受け取って携えて生きている、それで神は私を潔白な者と見なして下さる。だから、私は潔白なのだ。悪魔よ、お前も、イザヤ書50章9節にある虫に食いつくされてしまう古着なのだ(虫に食いつくされてしまう古着は51章9節にも出てきます)。
後注1 ギリシャ語のモルフェ―が日本語訳で「身分」と訳されていますが、基本的意味は「形」とか「形態」です。身分や立場とは違う意味です。フィンランド語の聖書は「形」と訳しています。また、 ギリシャ語のドゥ―ロスが日本語訳で「僕」と訳されています、基本的意味は「召使い」の他に「奴隷」の意味もありまる。フィンランド語の聖書は「奴隷」と訳しています。
主日礼拝説教 2023年3月26日(四旬節第五主日) 聖書日課 エゼキエル37章1-14節、ローマ8章6-11節、ヨハネ11章1-45節
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本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。この出来事は、先週の日課の出来事、生まれつき目の見えない男の人の目を見えるようにした奇跡の出来事と共通点があります。先週の個所でイエス様は、男の人の目が生まれつき見えないのは神の業が現れるため、と言いました。今日の個所では、ラザロの病気は神の栄光のためである、と言います。病気や障害が神の業のため、神の栄光のため、などと聞くと、大抵の人は、目が見えるようになること、死んだ人が生き返ることが神の業、神の栄光の現われであると理解すると思います。ところがそうではないということを先週お教えしました。
少し振り返りますと、旧約聖書の預言者イザヤの時代から人間の霊的な目が見えるようになる時が来るという預言がありました。目の見えない男の人の場合は肉眼の目が見えないことが問題だったのですが、人間の本当の問題は霊的な目が見えないこと、それがイエス様とファリサイ派の人たちとの対話からわかります。実にイエス様は肉体的な目が見えるようになる奇跡の業を行うことで、霊的な目を見えるようにする力が自分にあることを前もって思い知らせたのです。
人間の霊的な目が見えるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事をもって始まりました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを持ててこの世を生きられることになり、永遠の命に至る道に置かれてその道を進むことになるという、肉眼の目で見えないことが見えるようになるのです。
このように、生まれつき目が見えないのは神の業を現すためと言う時、肉眼の目が見えるようになることが神の業の現われであるという理解は理解はまだ浅く本当の理解ではありません。奇跡の業は霊的な目が見えるようになる前触れ的な出来事で、その目が見えるようになることが本当の神の業を現すものなのです。それが深い理解で本当の理解です。
本日のラザロの生き返らせも同じです。死んだラザロを生き返らせたことが神の栄光の現われであると言ったら、それは浅くて本当の理解ではありません。では、ラザロを生き返らせることで神の栄光が現れると言ったら、何が神の栄光なのか?今日はラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解ができるようにしましょう。
深い本当の理解に入っていく前に、理解に役立つ予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を詳しく記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神であるというのがキリスト信仰です。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。
復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。
そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。
それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみましょう。
イエス様がやって来たと聞いてマルタは彼に会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。つまり、ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。
それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタは自分でハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」の場合だと今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。
そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。
それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる人は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりはなくならず、復活の日が来たら永遠の命そのものを持つことになります。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そうすることが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。
イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?
これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にも見られたのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。
マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは同じ現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。現在完了などと言うと、中学高校の英語の授業みたいで嫌だと思われてしまうかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語のとは違うので忘れて大丈夫です。むしろ忘れた方が都合がいいです。マルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟ることができて信じるようになりました、ではないのです。その場合は、エピステウサになります。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。
このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。それを明らかにします。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。
しかしながら、復活には、死の引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているという観点に立ちます。そして、罪は人間誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。神としては、人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげたい、そのためには結びつきを持てなくさせてしまっている罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部受け負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせる、そのようにして人間の罪の償いを彼に果たさせたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。同時にそこに至る道を人間に切り開かれました。それでイエス様は復活と永遠の命を手に持っていらっしゃる方なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この世を去った後は、それこそ復活の日に眠りから目覚めさせられて永遠の命と復活の体を与えられて神のもとに永遠に迎え入れられます。
マルタはこのような復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活させて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しのお恵みにしっかり留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼に復活の目覚めをさせる力があること、この2つを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
以上、ラザロの生き返らせの奇跡の業は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の業の両方をもって、イエス様こそが復活と永遠の命を手中に収めており、それを私たちに与えて下さる方であることを示したのでした。これが、この奇跡の業が現す神の栄光です。これがこの奇跡の業の深い本当の理解です。
最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つ目は、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書を見ても皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。
もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている地方に行くのは危険です、と押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。
「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」
分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある。明るさと暗さが危険とどう関係するか考えてみなさい。太陽が照る日中は明るいから転んだり何かにぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、あなた方がこの世の光である私を見て、私もあなた方の内にいると言えるくらいに私と結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。当時の弟子たちと違って私たちはイエス様を肉眼の目では見れませんが、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を霊的な目れれば、イエス様というこの世の光を持てていることになり、守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになり危険に晒されてゴールに到達できないということです。
主日礼拝説教 2023年3月19日 四旬節第四主日
聖書日課 サムエル上16章1-13節、エフェソ5章8-14節、ヨハネ9章1-41節
本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事です。イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰としてそうなってしまったのかという質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰では、人間は誰しも母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいると言います。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けなかったことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく親が犯した罪なのか?
この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何でしょうか?本日の個所を読めば、ああ、それはその人の目が見えるようになる奇跡の業のことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?人間誰でも病気や障害が治ることはとても切実なことですので、「神の業」と聞いたらそれにつきると考えてしまいます。しかし、神の業には、目が見えるようになる癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。その大きなこととは何か?それがわかると、イエス様という方は、単に困った人を助けてあげる人道支援の模範を大きく超えた方であることがわかります。
神の業には癒しを超える大きなことがある、そのことがわかるために、目が見えるようになる奇跡には特別な意味があることを明らかにしようと思います。男の人の奇跡の出来事の後でイエス様は周りにいる人たちに聞こえるような声で驚くべきことを言いました。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたイエス様に敵対するファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが目の見えない者であれば罪はないのだが、お前たちは「見える」と言い張るのでお前たちの罪は留まることになる、と。つまり、目が見えませんと認めれば、お前たちの罪は留まらないのだと。これは一体どういうことでしょうか?
この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それを少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。イスラエルの民が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたたため、神は預言者イザヤに罰下しを命じます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、と言うのです(イザヤ6章9~10節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚を不調にするということではありません。そうではなくて、神の御心が見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目と耳の塞ぎを意味しました。
この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きます。「主よいつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(6章11節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々は連れ去られ、残った者も大木のように切り倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(11~13節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない、耳が聞こえない状態になるのだ、と言うのです。これは逆に言えば、切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生ということになります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?
当時イスラエルの民は南北の王国に分かれていました。まず紀元前700年代に北の王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残った南の王国はすんでのところでアッシリアの攻撃を撃退しますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、ペルシア帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の覇者となると、ペルシャ王の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書の後半を見ると、神の僕なる者が現れて祖国帰還の民の目を開き耳を開くという預言が出てきます(イザヤ書42章7節、50章4~5節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。
ところが、イスラエルの民は帰還した後もペルシャ帝国、アレキサンダー帝国、ローマ帝国と他民族が支配する状況が続きました。国内状況を見ても、神の意思に従う生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそれを言い表しています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(63章17節)」つまり祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。一時、民の目と耳が開かれる預言は祖国帰還の時に実現すると考えられたのですが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。
イエス様が歴史の舞台に登場したのはまさにそのような時でした。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!もちろん、旧約聖書をよく知っていた人たちは、目や耳を開けるという預言はあくまでも霊的な目と耳のことだとわかっていました。しかし今、目の前で起きていることは、霊的な目や耳が開いたかどうかはともかく、肉体的な目と耳が開くということが起きているのです。あまりにも具体的です。もし、この人の霊的な目は開かれたと言ったら、それが本当かどうか誰もわからないでしょう。しかし、肉眼の目が見えるようになったら、あの人は見えてなんかいないと誰も否定することはできません。
実は同じようなことは他の奇跡の所でも起きていました。全身麻痺状態の人がイエス様の前に運ばれてきました。イエス様は最初、お前の罪は赦されると言いました。周りにはそれを信じようとしない人たちがいました。そこでイエス様は、それならば、と言って、その人が立って歩けるようにしました。これを見た人たちは、この方は口先だけの人ではない、本当に罪を赦す力があるのだと思わざるを得なかったでしょう。
また、会堂長の娘とラザロが死んだ時、イエス様は、死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。これは復活について具体的に教えるものでした。イエス様を救い主と信じる者にとって、死というのは復活の日に目覚めさせられるまでの眠りにすぎないということ、そして、眠りから起こす力はイエス様が持っていることを教えるものでした。そういうことを口で言っても誰も信じないでしょう。しかし、生き返らせる奇跡と一緒に言ったら、誰も信じないではいられないでしょう。同じように、目や耳を開けるイエス様の奇跡の業は、後で霊的な目と耳の開きが起こることを信じさせる前触れ的な業だったのです。
それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起こったことで起きました。イエス様は、人間が内に持ってしまっている罪、神の意思に反しようとする罪を全部背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けて死なれました。それは、人間が罪の重荷を自分で背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、神の救いの業はイエス様の十字架の死で終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させられました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示されました。このようして神はひとり子イエス様を用いて人間の救いをお膳立てしたのでした。
そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受ける。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので、神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたので、太古の昔に失われてしまった神との結びつきが回復します。神との結びつきを持てて復活の日を目指してこの世を生きることになります。この世から別れることになっても、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて、今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。その人はイエス様を救い主と信じるようになって以後は、十字架に架けられたイエス様と彼が葬られた墓が空っぽになっていたことを肉眼の目ではない霊的な目で見ていたのです。聖書を繙く時、神が語りかけているのが霊的な耳に響いていたのです。このようにイエス様の十字架と復活が起こったことで人間の霊的な目と耳が開かれることが始まったのです。
そこでファリサイ派の問題は何かと言うと、霊的な目が見えないのに見えると思っていたことでした。もしそうなら、彼らにはイエス様の十字架も復活も必要ありません。でも、それでは罪の償いも赦しも得られません。逆に霊的な目が見えないと認めることが出来れば、イエス様を救い主と信じることですぐ見えるようになります。霊的な目が見えるようになれば、罪の赦しのお恵みの中で人生を歩めるようになります。見えないのに見えると思っていることが問題だったのです。
これで、イエス様とファリサイ派のやり取りの意味がわかるようになったと思います。本日の日課の中でもう一つ難しい箇所があります。9章4~5節です。そこでイエス様は、我々は私を遣わした神の業を日中の内に行わなければならない、誰も行うことが出来なくなる夜が来る、私がこの世にいる間は私は世の光である、と言います。これは、以上述べたことを踏まえて考えれば、次のように理解することが出来ます。
日中の明るい時とは、イエス様という光がまだこの地上におられる時です。その時に彼をこの世に贈った神の業を行わなければならない。しかし、暗い夜が来たら、つまりイエス様がこの地上からおられなくなったら、神の業を行うことが出来なくなると。それは一体どんな業なのでしょうか?
先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きて人間の霊的な目と耳の開けが始まりました。ただ、十字架と復活の出来事の前にイエス様は、前もって霊的な目と耳が開かれることを信じられるようにする業を行いました。肉体の目と耳を開けることがそれです。そうすることで、霊的な目と耳が開かれることが起こると前もって信じさせようとしたのです。全身麻痺状態の人を癒すことで罪の赦しがあることを信じさせようとしたのです。死はイエス様を救い主と信じる者にとっては復活までの眠りにしか過ぎないことを信じさせるために生き返らせることをしたのです。それらを信じさせるために具体的に目と耳を開けてあげる、歩けるようにする、生き返らせることをしたのです。これらの具体的な奇跡の業は、十字架と復活が起きた後はもう、別になくても大丈夫になりました。なぜなら、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けれさえすれば、霊的な目と耳は開かれ、罪は赦され、復活を遂げられるからです!
さて、イエス様が天に上げられてからは、彼が行ったのと同じ奇跡の業をする者はこの地上にはいません。ただし、聖霊の賜物として癒す力を与えられた人が癒しの奇跡の業を行うことはあるかもしれません。しかし、キリスト信仰者全てに共通する最も大事なことは、霊的な耳と目が開かれて、罪の赦しのお恵みに留って、自分も復活を遂げると確信を持って生きることです。
イエス様は今、一時的にこの世にいません。それで今は夜ですが、しかし何も心配はいりません。エフェソ5章8節に書いてある通りだからです。
「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
霊的な目と耳が開かれて罪の赦しのお恵みに留まって復活を遂げることになる者、すなわちキリスト信仰者は、夜の暗闇のようなこの世の中で光の子になっているのです。そして、パウロがローマ13章12節で言うように、夜は更け、日は近づいているのです。イエス様の再臨の日は毎日、一日ずつ近づいているのです。
本日の肉体の目が見えるようになった男の人は、まだ十字架と復活の出来事の前ではありますが、霊的な目が開かれて光の子として歩み出したことが見て取れます。特に真実を曲げなかったということに見て取れます。彼の両親は息子の癒しについて知っていましたが、シナゴーグから追放されることを怖れて、本当のことを言いませんでした。しかし、男の人は全然怯みませんでした。ファリサイ派の人たちは何としてでも、奇跡がなかったことにしようとか、安息日に行った奇跡は律法違反なので神の働きなどないという態度でした。男の人は真実を曲げなかった結果、シナゴーグから追放されました。日本語訳では「外に追い出された」で、男の人がファリサイ派の尋問を受けた部屋から外に追い出されたという意味です。ここは微妙な箇所で、シナゴーグから追放されたことを意味することも可能です。
男の人が追放されたと聞いてイエス様はすぐ戻ってこられました。イエス様のせいで大変な目に遭ってしまったが、目の前にいるイエス様を見て、そんなことは次第にどうでもよくなりました。男の人はイエス様を「人の子」、つまり終末の時にこの世に現れる救世主であると告白しました。私たちも男の人のように真実を曲げないでいると、曲げることで利益を得る人たちの反感や怒りを買います。それこそ追放されて天涯孤独のようになってしまうかもしれません。しかし、イエス様はすぐ男の人のところに戻ってきて、自分が救い主であると告白するように導きました。私たちの場合も、イエス様は聖書の御言葉を通して、聖餐式を通して私たちのすぐそばにいらっしゃいます。私たちの祈りをいつも聞き遂げて下さいます。このように私たちのすぐそばにおられることで、私たちを信仰告白に導かれます。
私たちも男の人と同じように告白ができたら、天涯孤独など些細なことになります。なにしろ告白は、万軍の主である神が私の味方について下さっていることを自分でそのとおりだと認めるものだからです。男の人の信仰告白は私たちの信仰告白を先取りしています。イエス様は、男の人が生まれつき目が見えないのは「神の業がこの人に現れるためである」と言いました。本当に肉体的な癒しを超える神の業が男の人に現れたのでした。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
2023年3月5日(日)四旬節第二主日 主日礼拝 聖書日課 創世記12章1~4a節、ローマ4章1~5、13~17節、ヨハネ3章1-17節
本日の福音書の日課の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在である、しかし、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられる、これが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はイエス様を贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救う、人間が神に国に迎え入れられるようにするということ。今日はこれらのことについて少し詳しくみていきます。
まずニコデモという人について。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべきと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。
そこにイエス様が歴史の舞台に登場しました。彼が数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。
全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このやり方で神の前で清くいられるだろうか、神に義とされて天の御国に迎え入れられるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するタイプのファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50
52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、ローマ帝国総督のピラトのもとに行き許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節))。
さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。イエス様はニコデモにイエス様はいきなり言われます。
「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)
「新たに生まれる」ということについて注意します。それは、「生まれ変わる」ということと全く違います。例えば、自分は前世では誰々だったが、今の自分はその生まれ変わりであるなどと言う人がいます。こういう考えを輪廻転生と言います。そこまで大胆でなくとも、今度生まれたら金持ちになりたいとか、有名人になりたいなどと言う人は沢山いると思います。あるいは、赤ちゃんが生まれた時、亡くなったおじいちゃんかおばあちゃんに似ているので、この子はおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うのもよく聞かれると思います。
聖書の信仰には輪廻転生はありません。私この吉村博明はこの世から死んだ後は何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられてイエス様のおかげで(※)朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。それでは、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」とはどういうことでしょうか?(※ この「イエス様のおかげで」を礼拝の説教では「運が良ければ」と言ってしまいました。「イエス様のおかげで」ということは本説教の後で強調されることなので、ここでは冗談ぽく言っておこうという軽い気持ちでした。礼拝後のコーヒータイムで教会員から、とても気になったとご指摘を受けました。良くなかったと反省しました。お詫びして訂正いたします。)
イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありません。どんな誕生かは、次のイエス様の言葉を聞いてみましょう。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。
イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。
人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきますが、それはまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが新しく生まれることです。
それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
なにかとても深いことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。気流の流れによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?
さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架の死も死からの復活も起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれるということもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。加えて、風のたとえを難しくしているもう一つの理由は、ギリシャ語では「風」と「霊」は同じ言葉プネウマということです。イエス様とニコデモは間違いなくアラム語で会話しています。それが後にギリシャ語に翻訳されて新約聖書になりますが、アラム語でも「風」と「霊」は同じ言葉ルーァハです。それで、「風は思いのままに吹く」と言うのは、「霊は思いのままに吹く」と言い換えることができます。「霊」とは神の霊、聖霊のことです。「聖霊」の場合は「吹く」と言わずに「往く」と言った方がよいでしょう。ギリシャ語の意思を表す動詞テロ―が使われているので、風の場合は「思いのままに吹く」でいいですが、聖霊の場合は「自分の意思に従って往く」という意味になります。洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者もそうであると言うのです。そうならば、聖霊もキリスト信仰者もどこから来てどこへ往くのか誰にもわからないというのはどういうことなのか?それについては後で見ることにして、今はイエス様とニコデモの対話に戻ります。
理解できず困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。
イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から新しく生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうすることで神の国に迎え入れらえるようになること、こうしたことが、どのようにして起こるのかについて明らかにします。
「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」
ここでイエス様は、「水と霊による新たな生まれ」を起こすのは他ならぬ自分であると教えます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」
モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で作った蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、どのように起こるのでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられたのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持てるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。
それでその後は人間が、これらのことは本当に起こった事でありイエス様は本当に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになり、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を持てて万物の主である神のもとに永遠に迎え入れられます。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。
このように洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は復活の日に永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられるということがわかりました。それが、イエス様の風のたとえとどう結びつくでしょうか?先にも申しましたが、アラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。ここでイエス様は両方をひっかけて教えているのです。このたとえで教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。
これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまる。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちも見えるし声も聞こえるから実在するのはわかる。しかし、聖霊と同じように、あくまで自分の意思に従って往くので肉的な人にはわからない。このことはパウロが第1コリント2章14~15節で言っていることと一致します。
「肉的な人は聖霊が示すものを受け入れない。なぜなら、肉的な人にとってそれは馬鹿げたことだからだ。それは、霊的な状態をもって吟味されるものである。だから、肉的な人には理解できない。霊的な人がそれを吟味する。しかし、霊的な人は肉的な人から吟味されない。」
それでは、洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は、肉だけの人と何が違うのでしょうか?以下それを見ていきます。そこで聖霊の働くについてもわかってきます。
キリスト信仰者は新たに生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めように、「他人のものを自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんかどうでもいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。
まさにこの時が聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって神罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲となったおかげと、あなたにあの方を真の救い主と信じる信仰があるおかげで、神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先に赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。
「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。
神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」
この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。しかしながら、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。実はこうすることが、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きていることの証しなのです。
このような聖霊が働く内なる霊的な戦いは、本当に内なる戦いなので、外部の人、肉的な人には信仰者の内で何が起きているのかはわかりません。肉的な人にはそのような内なる戦いは無意味なものです。なぜなら、肉的な人にとって、例えば人を傷つけるようなことを言ったり行ったりしなければ十分である、心の中まで神の意思に照らし合わせたら身が持たないと言うでしょう。しかし、霊的な戦いに身を投じた人は、イエス様が救い主になっているので心の中まで神の意思に照らし合わせても大丈夫なのです。ここのところが肉的な人にとって理解できないところになると思います。
たとえ肉的な人がわからなくても、キリスト信仰者は内なる霊的な戦いは全て自分をゴールに導く戦いであるとわかっています。ゴールは復活の日に神の御国に迎え入れられるところです。かの日、天地創造の神のみ前に立たされる日、神は、キリスト信仰者が旧い世で罪を内に持っていたにもかかわらず、罪の赦しのお恵みに留まって罪に与せず罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。その時、霊的な戦いは終結します。なぜなら、肉の体に代わって神の栄光を現す復活の体を着せられるからです。キリスト信仰者が受ける栄冠です。
本日の礼拝のストリーミングはウェブカメラの不調により途中で中断してしまいました。申し訳ありません。田口先生の説教文を掲載しますのでご覧下さい
マタイによる福音書4章1−11節。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。
このところはイエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けられる箇所です。これは、3章終わりのイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、そして天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声があった後、そして、12節以下、イエスが伝道を開始される前の出来事になります。この誘惑は、悪魔や天使が登場し、「聖霊に導かれて」とあったり、さらには、人から見れば、悪魔の誘惑があまりにも壮大で超自然的に見えたり聞こえたりするので、これは神であるイエス様だけの特別な出来事、特別な試練であり、私たち人間とは何も関係のない出来事であるかのように見えたり思えたりするかもしれません。あるいは、クリスチャンの中でも、このように書かれている「悪魔」や「天使」などは、人間の理性に反するからそんなのはいないんだと言う人たちもいますから、そのような人にはこの場面は単なる空想話や譬え話なんだと主張する人もいるでしょう。ゆえに、このところはただの人間が見習うべき律法であり、道徳律を教えているんだと結論づけられるかもしれません。しかし、このところは、空想話や道徳律でもなければ、律法だけに終わるものでもありません。人間に全く関係のないイエス様と悪魔だけの出来事でもありません。このところは、正しく人間とその罪の深さと大きさを何よりも表していると同時に、未信者というよりは、とりわけ、まさに洗礼を受けて伝道へと出ていくクリスチャン、教会を指しているメッセージでもあり、そのクリスチャンや教会が直面する誘惑はいかに巧妙で恐ろしいかを警告しています。しかし何より、まさに受難節に入るこの聖日にふさわしいところでもあり、イエス様の生涯は、この荒野だけではない、生涯、そして受難と十字架を頂点としての試練の歩みであり、この荒野の試練は、その公の歩みを始めるその最初の一歩であるということ、そして、何より、イエス様はそんな私たちのためにこそ、この誘惑を受けられるのであり、やはり、ここでも今日も、イエス様の十字架の福音が私たちに示されていることを教えられるのです。1節から見ていきましょう。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)
「悪魔から誘惑を受けるため」とありますが、同時に「「霊」に導かれて」とあります。これは聖霊のことであり、聖霊によって荒野に導かれてこの試練は始まります。ですから、これは試練が悪魔によるものか、それとも神によるものであるのか、どちらなのかと言うなら、悪魔ではなく神によって意図され導かれたものであり、ヨブ記の神との問答を思い出すのですが、悪魔がイエスを誘惑するのを、神はそれをそのままさせた、いや、その場にむしろ導いたのですから、神様の明確な目的があるのです。ここで、ある人は、「神は試みに会わせるのか?それは主の祈りに矛盾するのではないか」と思うかもしれません。しかし、悪魔の試みは、私たちに信仰を捨てさせ滅びに導くものであり殺すための試みですが、神の試みは、あくまでも試みるためそれだけの目的ではなく、ヘブル書12章に「訓練するため」「平安の義の実に与らせるため」「聖さに与らせるため」ともあるように、どこまでも相手を生かすためであり信仰に進ませ強める、救いのためのものです。この荒野の誘惑も、聖霊に導かれているとあることからも、それは、神様の私たちのための壮大な救いの計画のための一つの大事な出来事であり、つまり世のため、私たちのためのものであると言うことが見えてくるのです。
そして「荒野」の誘惑や、2節の
「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(2節)
とあること。これは、まさに旧約聖書で、イスラエルが荒野に40年間導かれ、大きな試練に立たされたことや、空腹であったことなどを思い起こされるのです。よく言われるように、イエス様が空腹を覚えられとあるように、私たちと同じ肉体を持ったイエス様であることがわかるのですが、まさに聖書のヘブル書4章で「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(4:15)」とある通りに、イエス様は空腹だけでなく、まさしく人となられ、私たちと同じように、つまり、イスラエルが荒野の40年で経験したのと同じように試練に遭われるし、むしろその試練の内容を吟味するなら、それはこの荒野の40日間や空腹だけでもない、「あらゆる点で」とあるように、そう、まさしく、その究極は十字架の受難と死で頂点に達するその苦難の全生涯で、イエス様はその言葉の通りに、私たちと同じくなられる、そこまでも低くなられ、全てを負われ、そして生きられることを、この洗礼を受けられて直後、まさにそのことを私たちに具現される出来事がこのところなのだと示されるのです。
そして、三つの誘惑です。このところは思い巡らすほど、実に深く心刺されるものを感じさせられるところです。まず3節
「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」」(3節)
A.「悪魔の誘惑は巧妙に」
皆さんは、試練や誘惑はどのようにくると思いますか?多くの人は、明かな目に見える迫害の形でわかりやすいように来ると考えるかもしれません。もちろん、そこにも誘惑や試練は当然あります。あるいは、十戒の中の明らかに「〜しては行けない」と言う言葉に反するよう迫ってくるはっきりと認識できる罪への誘惑も確かにあります。それも誘惑であり、試練であり、私たちは、祈りとみ言葉と聖霊の助けによって悔い改めと克服に導かれなければならないことはとても大切なことです。しかし、悪魔の神への信仰を捨てさせよう、救いを疑わせ捨てさせよう、滅ぼそうとする誘惑は、目に見えるような形でわかりやすくくるものだけでは実はありません。むしろ真の悪魔の誘惑は、その信仰と福音のために重要な教会とみ言葉こそを責めてきます。しかもあからさまに攻撃するようにではなく、非常に巧妙であり、「偽預言者は羊の形をしてやってくる」と聖書にあるように、むしろ聖い姿さえ装ってやってくる、恐ろしいものであると言うことがまさにここで教えられているでしょう。まずこの3節です。
B.「みことばを用いて」
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
皆さん。悪魔は「神の子なら」と語りかけています。この意味がわかるでしょうか?この直前の3章17節で天からの声はこう言っています。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。そう、悪魔は、その天からの神の声、イエスは神の愛する子であるという、そのみ言葉を明らかに知っているのです。「神の子なら」と。つまり、悪魔はその3章17節の天の声、神のみ言葉さえも誘惑に用いているという事実です。天の声がそう言っているのならと。これは第二の誘惑でも同じです。6節以下ご覧ください。こうあります。
「6節〜「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」
ここでも「神の子なら」とありますが、それだけではありません。今度はもっとはっきりと、悪魔は聖書を用いるでしょう。旧約の詩篇の言葉(91篇11−12節)を用いて誘惑するのです。聖書にこう書いてあるではないかと。悪魔は、私たちに聖書を否定させようと試みる存在です。しかし、彼らは明かに聖書の言葉を否定し侮辱し嘲るようにして誘惑し試みてきません。もちろんいつの時代も外側から、そのようにして明確に聖書を否定して誘惑してくる誘惑や試練はあり、今の時代も溢れているでしょう。しかし悪魔の誘惑は、むしろクリスチャンの間で、教会の中で、実に巧妙に働き、しかもわかりにくく現れるのです。むしろ聖書の言葉さえ敬虔そうに用いてきます。「聖書はこう言っているでしょう?」と。そのように聖さを装ってさえ悪魔は教会を荒らすことは実は少なくないし、それは外側からの迫害と同じくらい、いやそれ以上に多いと言うことを神学や教会の歴史は物語っていますし、この教会ではなくとも、世界中、日本中の教会内で今もあることです。
C. 「「もし〜なら」によってみ言葉を条件化する誘惑」
そして、それだけではありません。注目したいのは、悪魔は「どのようにして」み言葉を悪用するのかということです。それは「もし〜なら」という言い方が隠されていることです。「神の子なら」「天の声がそう言うなら」「みことばにそう書いてあるなら」と。この「もし〜なら」は実に私たちが誘惑されやすい言葉でありますが、その「もし」という意味には「本当にそうなのか」「本当にその通りなら」、つまり、裏返せば「そうではないのでないか」という「疑い」が実は必ず含まれている質問だということに気付かされるはずです。いわば、「もし」には、質問する側、求める側の条件付けが必ずなされているということであり、神やその言葉を条件付けることが起こります。つまり、神ではなく、こちらが人間が、主導権の質問や願いになるということです。
皆さんこれは実は、先ほど第一の聖書朗読でも読みました。創世記3章の悪魔の誘惑と同じなのです。悪魔はエバに言うでしょう「神は本当にそう言ったのか」「もし食べても死なない」「もしそれを食べるなら〜神はご存知である」と。ここでも同じです。もし天の声が言うように、あなたが神の子なら、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。神殿の頂から飛び降りたらどうだ。そうすれば、空腹は満たされる。そうすれば、みことばの通り、天使たちがあなたを助けるだろう」。悪魔はイエスはそれができないと思って言っているのでもないし、天使がみことばの通りには助けに来ないとも思っていません。できることはわかっているのです。実際に、イエス様は石をパンに変えることもできますし、神がみことばにある通りに、イエスを助けることもできるのです。しかし、このみことばを用いてまでの「もし〜なら」には深刻な落とし穴があるでしょう。「もし〜なら」と投げかけているその問いかけは、それがどれだけ敬虔な祈りや願いであったとしても、その通りになることを願う悪魔中心、人間の思いや願望が中心、土台にあって、その通りになることで、結局は、人間の思いや願望に神を従わせようとする思いが隠されているのです。悪魔の言う通りにイエスがするのなら、イエスは自分自身の栄光を自分で自分のために得ることにはなりますが、悪魔の「もし」への同意することになります。そしてその結果は、人に、救いとは神の恵みのわざではなく、「自分自身の栄光を自分で自分のために果たすことだ」と言うその偽りの模範をまさに示すことになります。そして人間の救いの道はまさにそのようなものになり、恵みも信仰義認も何もなくなり、ただ自分で果たす律法になっていたことでしょう。悪魔の問いかけの狙いはそこにあります。実に巧妙です。しかしそれはずっと変わらない手法なのです。堕落の時も、悪魔の「神は本当にそう言ったのか、〜もしその身を食べるなら生きるようになる」という言葉の通りになっていくところには、アダムとエバの、神の言葉や御心よりも「神にようになれる」「賢くなれる」「見るに慕わしい」という彼らの思いや願望が優先し、それにみ言葉を勝手に解釈し当てはめ、従わせようとして堕落するでしょう。その過程と結果は、どこまでも罪人で救いようのない私たちの現実ではありませんか。堕落の時の「もし」の手法に悪魔は成功し、初めからいつまでも変わらない。狙いも常に変わりません。この狙いによって教会はどうなるでしょう。「もし〜なら」とみことばを用いて、結局は、神中心のみことばではなく、罪人である人中心でみ言葉を理解しようとする、解釈しようとする、人の思いや願望にみ言葉を当てはめよう、従わせようとすることが起こっていないでしょうか?それは正しく悪魔の思いのまま、狙い通りの誘惑に、人が陥ることです。そのようにして、教会で、福音は律法にすり替えられ、律法があたかも福音であるかのように語られるようになったり、理性や道徳やヒューマニズムが語られるようになりますが、しかし大事なことです。そこには救いも平安もありません。そうなってしまうと正しく、悪魔の勝利に他なりません。実はそれが教会にとっても、クリスチャンにとっても、つまり、宣教や伝道にとっても何よりも恐ろしいことであり、悪魔はいつでも巧妙に教会に入り込み、混乱させようとしているのです。
D. 「人中心の解釈で歪められるみことば」
皆さん、聖書の言葉、確かに私たちにとって大事です。誰も否定しません。しかしただ
「聖書の言葉、聖書の言葉」と掲げていれば、それだけで安心でもなければ、正しいキリストの救いの教えかどうかは実は判断できません。なぜなら、異端でも「聖書の言葉」を掲げ「聖書は何より大事だ」と声高に言うからです。自分達は聖書の言葉を第一にしているのだと。リベラルでも熱狂主義者でも律法主義者でも「聖書は大事」「聖書は第一」と聖書の言葉を掲げます。「聖書は第一、大事」と、聖書を掲げているだけなら、世界中のキリスト教のどんな団体も、異端でさえも、誰も意義を挟まないことでしょう。しかし、「みことば」を掲げても、「神が私たちに真に何を伝えたいのか、神が何を伝えているのか」ではなくて、まさに「もし〜なら」の人間中心の土台で聖書を人間の思いに従わせ、人間の都合に合わせ、文化や流行りに合わせ、世界の潮流に合わせるようにして聖書を解釈して、それが、間違った解釈なのに、文化や潮流がそうだから正しい神の教えなんだと、教会で説教されたり教えられたりするようなことはいつの時代も常にあるし、この現代は人間中心主義のもとでなおのこと顕著になってきています。それは多くの人々には心地よい教えなのかもしれません。人間の「もし〜なら」に聖書を当てはめ都合よく解釈しているのですから。しかし、それが本当に神が、イエス様が私たちに伝えていることではなく、単に人間が聞きたいことを聞いているだけであるなら、まさにそれは、イエスが悪魔の声に従って石をパンに変えてしまったこと、神殿の頂上から飛び降りたこととと、同じです。究極的にはイエスも十字架もなきものにしているのです。人の前では上手くいっているように思えても、神の前では、悪魔への敗北であり、そこで「みことば」と幾ら掲げても、真のキリストはいない、真のみことばもない教会のような建物や集まりであり、そこに真の宣教も伝道もないと言えるでしょう。
A. 「〜と書いてある」
イエス様はどう答えるでしょうか。4節
「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
そして7節
「イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
そして、世のすべての繁栄が見えるところで、もし私にひれ伏せばこの繁栄を全て与えようという最後の誘惑に対しても、10節
「すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
イエス様はこれら三つの誘惑への答えとともに、まさに真の教会とは何かを私たちに示しています。それは、もちろんみことばです。しかしそこには人間の側の「もし〜なら」などの条件付けは何もない、「こう書いてある」「神はこう言われる。聖書にはこうある。」それだけです。人の側が「もしこうであれば」「もしこうでなければ」「こうであったなら」と、みことばを人間の思いや願いや文化で捻じ曲げてでも聞きやすいように、わかりやすいように、受け入れやすいように教える、伝える、説教する、では決してない。神が私たちに何を伝えているか、何を伝えたいのか、そのまま、神はこう言っている、神はこう言われた、聖書はこう書いてある。教会の宣教、説教、教えは、これに尽きる、そしてイエス様や使徒たちがしたように「こう書いてある」ことの正確な解き明かしに尽きるのだとイエス様は私たちに教えているのです。そのようにみ言葉の正しい福音を受けて救われ聖霊に導かれているものは、「もし〜なら」の人間中心で条件付け神を従わせるみ言葉利用ではなく、「神はこう言われる」の福音にこそ聞くのであり、その言葉にこそ、日々、罪を示され、悔い改めを与えられると共に、そこに、十字架の救いの光をはっきりと見せられ真の平安を経験するのです。
B. 「全ては私たちのために」
そしてここでもう一つ大事な点があります。イエス様の試練の道は、この後も続き、イエス様はあのゲッセマネの祈りでも、もちろんイエス様も「この杯を取り除けてください」と、その思いをあからさまに祈っています。願うことは決して悪いことではありません。しかし、イエス様は、その自分の人としての肉体の苦しみの願いに神の計画や御心までも従わせようとせずに、最後にこう祈りを結んでいます。しかし「父の御心のなる通りに」と。そして、イエス様は、まさに十字架に至るまで、私たちの経験する以上の大いなる苦しみと死を受けられました。しかし何よりそれは私たちが受けるべきものの身代わりとして、私たちの罪のためであり、その罪とその結果から救うためであったでしょう。この荒野の悪魔の三つの誘惑から始まる、イエス様の試練の道、苦難の道、それは私達への律法でもなければ模範や道徳律でもない。どこまでも私たちのために神はイエス様を導いています。その道を、イエス様は悪魔の「もし〜なら」の願望を刺激する誘惑の通りに、自分自身の栄光を自分のための自分で果たすようなことはせず、むしろ、イエス様は、どこまでも、神を神とし、神のみ言葉そのまま、神のなさることにそのまま黙って従い、仕える者の姿となり、十字架にまで従われます。イザヤ書にはそれが私たちのための神の御心であったとあるでしょう。苦難や重荷を私たちに負わせるのではない、それらを私たちのために担い背負ってくださる救い主が私たちに示されているのです。
皆さん。ここでも福音によって私たちは遣わされています。私たちは、自らの力では、決して誘惑に打ち勝つのことできないものです。最初の人は、その誘惑に負けました。イスラエルも誘惑や試練に負けました。弟子たちも負けました。私たち人間は誰も生まれながらの力でも理性でも、この誘惑と試練に打ち勝つことはできません。罪人だからです。しかしこの箇所は、あなた方罪人が自らの力で誘惑に勝ちなさいという道徳や律法の教えでは決してありません。イエス様が言いたいのはそんな私たちに重荷を負わせることではありません。絶えることのない荒野の世の、悪魔の目に見える誘惑と巧妙な目に見えない両方の誘惑に対して、私たちはあまりにも弱いのですが、しかし、何よりイエス様が私たちのために、この十字架と復活で、打ち勝ってくださった。みことばで、そして十字架で。そしてその事実とそれが恵みとして私たちに与えられるこそがこの聖書に「こう書いてある」と今日もいつまでも変わらず、何よりも私たちに示されている救いの約束の核心ではありませんか?そして、事実、イエス様こそが同じようにこれからもこのみことばを持って誘惑を退けてくださるお方であり、十字架のイエス様こそが、今日も変わらず私たちに宣言してくださいるでしょう。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。
私たちは今日も罪を悔い改め、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と豊かに罪を赦してくださるこの十字架のイエス様の福音を受け、安心してここから出ていきましょう。そのような私たちをイエス様は新しい週も主の勝利の器として豊かに用いてくださるのです。
2023年2月19日(日) 主の変容主日 主日礼拝
聖書日課 出エジプト記24章12-18節、第二ペトロ1章16-19節、マタイ17章1-9節
本日の福音書の日課は、イエス様が高い山の上で姿が変わるという変容の出来事についてです。弟子のペトロとヤコブとヨハネがそれを目撃しました。この出来事は、私たちルター派は聖餐式をどう考えているかを理解する手助けになると思います。今日はそのことについてお話しします。
聖餐式はキリスト教会の神聖な儀式ですが、それがいかなる儀式かについて教派によっていろいろ考え方の違いがあります。ルター派の考え方は、アウグスブルク信仰告白の第10条に端的に述べられています。「聖餐式ではキリストの体と血は本当にそこにあるのであり、キリストの体と血は受け取って摂取する者に分け与えられるのである。」
「キリストの体と血」と言うように「体」と「血」を別々に言っていますが、「体」と「血」というのは合わせて人そのものを意味します。それで、聖餐式ではキリストそのものがそこにおられ、聖餐に与る者はパンとぶどう酒を口にすることでキリストを摂取するということになります。ここで理解できないことがいろいろでてくると思います。これからそれらを一つ一つ見ていきますが、まず初めに忘れてはならない一番大事なことは、ルター派にとって聖餐式とは、イエス・キリストが本当にそこにいるという儀式であるということです。確かに目には見えないが、実は本当にそこにいるというのです。ラテン語の原文で「本当に、実際に」と強調しているのはそのためです。
見えないのにいるだなんて、まるで幽霊みたいで気持ち悪いと思う人も出るかもしれませんが、でも、幽霊とかそういう問題ではないのです。それは聖餐式のパンとぶどう酒は何かがわかるとわかります。ルター派では、正当に職務に定められた牧師が聖餐式を執り行います。その時、儀式の設定のための聖句をパンとぶどう酒に語りかけると、パンとぶどう酒はただのパンとぶどう酒ではなくなって聖餐式用のパンとぶどう酒に変わる、つまりイエス・キリストがその場に本当にいることを可能にするパンとぶどう酒に変わるというのです。
それは、パンとぶどう酒を介してイエス・キリストがその場にいるということです。パンとぶどう酒を介してその場にいるということをルター派は次にように説明します。キリストがパンとぶどう酒の中におられる、パンとぶどう酒と共におられる、パンとぶどう酒という外見の下におらえる、そういう、中に、共に、下に、という三つで、キリストとパンとぶどう酒の結びつきを考えます。
なぜルター派は聖餐式をこのように考えるのかと言うと、それが、イエス・キリストの本質にピッタリあうからです。イエス・キリストの本質とは、神であり同時に人間でもある方であるということです。外見は紛れもなく人間であるが、外見の下に神のイエス・キリストもあるということです。このように、神という超越するものが人間という超越していないものと組み合わさっているというのがイエス・キリストの本質です。聖餐式でイエス様が本当にいるというのも、パンとぶどう酒という超越していないものにイエス・キリストという超越したものが組み合わさっているから本当にいるのです。
他の教派の聖餐式の考え方と比べると違いがはっきりします。カトリック教会は、パンとぶどう酒は本当にイエス様の血と肉に変質すると強調します。イエス様が、これは私の肉である、私の血である、と自らおっしゃったからです。もちろんパンはパンの味で、ぶどう酒もぶどう酒の味のままですが、聖餐式で摂取するのは本当はパンではなくイエス様の肉であり、ぶどう酒ではなくイエス様の血なのです。恐ろしい位に神聖な感じがします。しかし、そうなると、パンとぶどう酒はなくなってしまうことになり、全てのものが超越的なものになります。ルター派のポイントは、超越的なものが超越的でないものと組み合わさっているというものです。
これと対照的に宗教改革のもう一つの雄であるカルヴァン派は、聖餐式はイエス様が裏切られ十字架にかけられる出来事を記念する儀式であることを強調します。イエス様が記念のためにこれを行いなさいとおっしゃったからです。しかし、そうすると、超越的でないパンとぶどう酒はあるが、超越的なものとそれはどう結びつくのだろうかとルター派は考えてしまいます。
もちろんカトリックもカルヴァン派のどちらも聖書の中のイエス様の言葉に基づいて聖餐式を考えます。イエス様はこれは私の肉である、血であると言っているし、また、記念のために行いなさいとも言っています。じゃ、ルター派はそれらの言葉をどう考えるのか?この問題について、ルター派は彼らのような明快な答えは出せないと思います。それでも、ルター派はやはり、イエス・キリストは神であり同時に人間であるお方であるということにこだわって聖餐式を考えます。それなので、イエス・キリストはパンとぶどう酒を介して本当にそこにいるという立場を取らざるを得ないのです。このように聖餐式の考え方の違いがキリスト教会を分裂させているというのは残念ながら本当のことです。私は、ルター派の立場で話を進めていきます。
2.
さて、聖餐式でイエス・キリストが本当にそこにいるとなると、一つ大きな疑問が起きます。それは、イエス・キリストは復活して天に上げられて今は最後の審判と天地の再創造の日まで天の父なるみ神の右に座している、と毎週礼拝の使徒信条で唱えているではないか、それとどうかみ合うのか?という疑問です。天のみ神のところにいるはずなのに聖餐式の時に降って来るのか?しかも、聖餐式が同じ日に多くの教会であったら、イエス・キリストはそのどこにでもいるということなのか?それでは分身の術を使っているみたいではないか。天にいるはずなのに聖餐式の時になると降って来て、しかも同時多発的に降って来て、聖餐式が終わるとまた一斉に天に戻るということなのか?
もちろん、そういうことではありません。イエス・キリストはもちろん聖餐式の時も天の父なるみ神の右に座したままです。それならば、聖餐式の時に本当にいるというのはどういうことなのか?この種の疑問は信仰歴が長い方はさほど問題に考えていないと思います。人間の理解力では理解できないが、そういうものなのだ、と受け入れているからです。ルター派はそういう諦めのよさがあると思います。およそ神に関することは人間の理性や理解力では把握できないことだらけである、もし把握できてしまったら、それは神が人間並みになってしまうことだ、だから、こうとしか言いようがないことはそうしかない、イエス・キリストは天の父なるみ神の右に座していると同時にこの地上での聖餐式にも本当におられる、そこには時間と空間を超えた途轍もないことがある、そう観念してしまうのです。そうすることで、自分を神よりもはるかに劣った者に、神を自分よりもはるかに高い方に留めておくのです。私もそのように観念するようになっていったのですが、聖書のみ言葉そのものがそう観念するように導いたと思います。今日の高い山の上での出来事も、よく見ると、天にいるイエス・キリストが聖餐式の時にもいるということは可能であると納得させてくれるところです。これからそれを見ていきましょう。
3.
高い山の上で何が起こったでしょうか?イエス様が変容して光り輝き出しました。そこにモーセとエリアが現れて弟子たちの見ている前でイエス様と話し始めました。ペトロが三人のために幕屋を建てますと言った時、輝く雲が三人を覆って、雲の中から神の声が轟きました。「これは我が愛しむ子なり、わが悦ぶものなり、汝ら之に聴け」と。弟子たちは恐れおののいて地に伏してしまいました。するとイエス様が彼らの所に来て、手でさするか軽く叩くかして安心させるように言いました。「起きて立ちなさい。恐れなくてもよい。」弟子たちが恐る恐る目を開けてみるとイエス様の他にはもう誰もいませんでした。イエス様も変容する前のイエス様に戻っていました。以上が、山の上での出来事でした。山から下る時、イエス様は弟子たちに、この出来事は自分が死から復活した後で公けに話すようにと命じました。
初めに、イエス様が白く輝いたことについて。イエス様の顔が太陽のように輝き出して、着ているものも白く光り出しました。黙示録1章16節を見ると、ヨハネが天の父なるみ神のもとにいるイエス様を目撃します。その顔は太陽のようであったと言います。私たちは太陽を目で見ることはできません。ほんの瞬きする間くらいしか見れません。その色は白に近いですが、輝きが強烈すぎて見極めることのできない白です。イエス様の顔も着ているものも白く輝いたというのは、このヨハネが目撃した、天のみ神のもとにいるイエス様と同じです。つまり、山の上でイエス様は神としての本性を現わしたのです。人間の外見が外されて、外見の下に隠されていた本性が現れたのです。
そこにモーセとエリアが現れました。二人の出現はこの出来事を理解する上でとても大事です。かたや紀元前1300年代、かたや紀元前800年代の遥か昔にこの世を去った人たちです。これは幽霊でしょうか?でも、幽霊だったら、ペトロたちはきっと恐怖に慄いたでしょう。彼らはイエス様が死から復活して目の前に現れた時、幽霊だと思ってパニックに陥りました(ルカ24章36~43章)。しかし、山の上ではそうなりませんでした。どうしてでしょうか?
当時、ユダヤ民族の間ではエリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10ー11節、マルコ9章11ー12節)。この世の終わりが近づくと、天からエリアが再臨して神の裁きを準備するというのです。つまり、エリアは天のみ神のもとにいて待機しているのです。でも、これは変です。聖書には死者の復活ということが言われているのではなかったか?この世が終わる時に最後の審判があって、死んだ者と生きた者が一緒に裁かれる、そこで神の目によしとされた者は復活の体を与えられて神の国に迎え入れられる。そうすると、最後の審判の日の前にこの世を去った者たちは神のみぞ知る場所にいて眠りについていることになります。眠りから目覚めさせられるのが復活ということになります。これが聖書の立場です。それなので誰が天国に行けるのか行けないのかという問題は、この世の終わりまで待たなければわからないのです。それなのに、モーセとエリアが天から来たというのは、この世の終わりを待たずに天国に入れたということになります。
エリアに関して言えば、その点は問題ないと思います。というのは、列王記下2章にあるように、エリアは生きたまま神のもとに引き上げられたからでした。それでエリアは既に天のみ神のもとにいて、世の終わりの時に再臨すると信じられたのです。このように聖書は、将来の終末や復活の日を待たずして既に天に迎え入れられた者があるということを認めているのです。ところが、モーセの場合は少しやっかいです。申命記34章を見ると、彼はモアブの地で死んだとありますが、神自身が彼を葬ったので誰も彼の埋葬地を知らないと謎めいたことを言っています。それで、モーセは一度死んだが復活の日を待たずして神のみ許に引き上げられたと考えることが可能です。実際、イエス様の時代のユダヤ教社会にはモーセは既に天に上げられたと伝える書物「モーセの昇天」があったのです。ただし、その書物は一部分しか現存しておらず、肝心のモーセの昇天のところは欠けていて、残っているのはモーセがヨシュアに預言を述べる部分だけです。
そうなると高い山の上での出来事は、復活の日を待たずにして天に迎え入れられたモーセとエリアが神の本性を現わしたイエス様と一堂に会しているということになります。そして輝く神の雲が現われ、その中から神の声が轟きました。天の御国がすぐそばにあったことになります。高い山の上で、天の御国の扉が開いたのです。ところで、神がおられる神の国は天の国と呼ばれるので、いつも空の上にあるようなイメージがわきます、しかし、それは高度何万メートルの高い所とか宇宙空間にあるのではありません。天と言っているのは、私たちの手に届かない所にあるということを象徴的に言っているのです。神の国は、目で見えて触ることができるこの世の反対側にある世界だとイメージしたほうがいいと思います。こちらの世界の裏側に天地創造の神がおられる世界がある、と言うか、あちらが表でこちらが裏と言うのが正解でしょう。とにかく、そんな次元が全く異なる世界があるのです。その世界が高い山の上で間近にあった、あたかもその世界の扉が高い山の上で開いたのです。
イエス・キリストが聖餐式に本当におられるというのも、山の上の出来事と同じように考えてよいと思います。正当に職務に定められた牧師がパンとぶどう酒に御言葉を語りかけて聖餐式が始まる段になると、そこで天の御国の扉が開いてイエス・キリストがそこにおられるのです。全ての聖餐式が行われるところで扉が開き、全てが一つの御国におられる一人のイエス・キリストに通じるように接するのです。同時多発的に降って来るなんてことはないのです。御言葉を語りかけられて聖餐式用に変えられたパンとぶどう酒、それらが御国の扉を開いてイエス・キリストに接近できるという途轍もない状況を生み出しているのです。真に聖餐式の場はこの地上の世界と天の御国が接するところです。
4.
実に、この途轍もない状況を生み出しているパンとぶどう酒を私たちは頂くのです。アウグスブルク信仰告白の第10条では、「キリストの体と血は、これを受け取って摂取する者に分け与えられる」と言われます。私たちが本当にいるイエス・キリストを摂取するというのはどういうことでしょうか?イエス様を食べてしまったら、いなくなってしまうではないかと心配する人もいるかもしれません。それになんだか人食い人種みたいです。
そういうことではありません。イエス・キリストを摂取するというのは、イエス様が自分の命と引き換えにしてまで私たち人間に果たしてくれたものを摂取するということです。彼が命を犠牲にしてまで私たちに果たしてくれたものとは、人間の罪の償いであり、人間を罪の呪いから贖うことです。イエス様はこれをゴルゴタの十字架の上で果たされました。
私たち人間は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって、これを自分のものにできます。罪を償われ、罪から贖われたので、神から罪を赦されたものと見なされて神との結びつきを持ってこの世を生きることができるようになります。
しかしながら、キリスト信仰者と言えども、まだ肉をまとっており、それは神の意思に反しようとする性向、罪を宿しています。そのためにキリスト信仰者は罪の自覚とそこから来る罪の赦しの祈り、それに続く罪の赦しを頂くことを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消えないから罪に負けているように感じます。しかし、この繰り返しは、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きている証しです。この繰り返しは実は、罪を手段にして神との人間の結びつきを失わせようとする悪魔にとって痛手になるものです。繰り返しをやめるようにとあの手この手を使って人間をそそのかしたりやる気を失わせようとします。
これに対して聖餐式のパンとぶどう酒は、キリスト信仰者が洗礼の時に自分のものにした罪の償いと罪からの贖いを手放さないようにする力を与えます。罪の自覚と赦しの祈りと赦しを頂くことの繰り返しを続ける力を与えます。聖餐は真にキリスト信仰者の霊的な栄養なのです。私たちが聖餐を受ければ受けるほど悪魔は苦しくなって叫び声をあげます。詩篇23篇の5節で「主は私の敵の前で私のために食卓を整えて下さる」と言っているのはまさに聖餐式のことです。新共同訳では「私を苦しめる者を前にしても」ですが、それでは聖餐式のことを言っているのか見えにくくなります。せっかくヘブライ語の言葉ははっきり「私の敵」と言っているのだから、そう訳すべきでした。
最後に聖書の原語からもう一つ、聖餐式の神秘に近づける発見があるのでお教えします。新共同訳ではイエス様と三人の弟子が「高い山に登られた」と言っています(1節)。ギリシャ語原文では、イエス様は三人を「運び上げた」と言っています。単に「登った」というのは無責任な訳だと思います。「運び上げた」のです。「運び上げた」とはどういうことでしょうか?舞台になっている「高い山」は間違いなく、現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山という標高2814メートルの山です。麓のフィリポ・カイサリアの町から出発したら標高差2000メートル以上を登らなければなりません。目的も告げられず登山につき合わされた三人の弟子たちはなんでまたこんなことを、とブツブツ言いながら登ったのか、それでイエス様はおんぶとまではいかなくとも、叱咤激励しながら登ったので「運び上げた」という言い方をしたのか?真相はわかりません。ただ、一つはっきりしていることは、イエス様は三人をこの地上の世界が天の御国と接する場所に連れて行った、そのことを「三人を運び上げた」という言い方は意味しているのです。
同じことは聖餐式でも起こります。聖餐式を行いなさいと命じたイエス様は、聖餐式に与る私たちキリスト信仰者をこの地上の世界と天の御国が接する場所に運び上げて下さるのです。聖餐式に与る度に、何度も何度も運び上げて下さり、最後は本当に天の御国に到達できるようにして下さるのです。そこには、神の神聖さに焼き尽くされないように守ってくれる雲はもうありません。肉の体に代わる復活の体を着せられた私たちにはもうそのような防御壁はなくても大丈夫だからです。パウロが、旧い世でおぼろに映ったものを見ていたことはなくなり、顔と顔を合わせてみることになると言っている通りになるのです(第一コリント14章12節)。
聖書日課 イザヤ58章1-12節、第一コリント2章1-16節、マタイ5章13-20節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちに君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言う個所です。弟子たちに言われたということは、私たちキリスト信仰者にも向けられた言葉です。「地の塩」、「世の光」とは具体的に何を意味するでしょうか?何か世の中のためになるもの、人々の模範になるような立派なものではないかという感じがします。16節に「立派な行い」なんて言っているからです。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。キリスト信仰者はもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?イエス様がそう言う以上、よーし、そうなるぞー、と気合いが入る人もいれば、逆に自分には無理と尻込みする人もいるかもしれません。しかし、気合いを入れるにせよ尻込みするにせよ、キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」というのは、イエス様が言う通り、既にそうなのです。だから、そういうものとして生きるしかないのです。それでは、「地の塩」、「世の光」とは何なのか?何か立派なものなのか?これについて後ほど見ていきます。
「地の塩」、「世の光」のことを言った後で、イエス様は自分のことを律法や預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために贈られたのであると。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は守ろうにも適用する対象がありません。ところが、人間の罪の償いのために犠牲の生贄が必要ということがあります。イエス様の十字架の死はそのための犠牲だったのです。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は適用できなくなっても、罪というものは神に対して償いをしなければならないということ、人間は罪の呪いから贖われなければならないということ、これは神殿がなくなっても、そのままです。だからイエス様の十字架の死と死からの復活は人間の救いのために今もなくてはならないものです。
このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様はさらに二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。
イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思に反する罪を持たない方、神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現している方です。預言とは、神と人間の断ち切れてしまった結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が贈られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書の中にある神の意思と計画を実現した方です。
ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫、申し分ないと認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。
それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。
塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。
ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰が伴う状態で洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になる、するとそれはもう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。
本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に属する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント2章14節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた計画という神の知恵の現われであり、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた知恵なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の秘められた計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。
次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代にはイスラエルの地にもギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸から20~30キロ程のところにヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然と輝く光であるということです。
輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然としてある光です。
イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市や燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じように全ての人の前で光を放つのがキリスト信仰者であると言われます。そして、立派な行いがその光であると言います。人々は、キリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?
そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(58章6~8節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないことになると言っているのでしょうか?でも、そう言ってしまったら、人助けをしたくても、病気だったり障害があったり、または困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?
人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には、信仰者でない人にはない特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっている事情です。キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」になっているというのはこの事情があるからです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味しています。それなので、病気や困窮してしまって人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で困窮していない余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広いものが良い業であるということです。
光のように輝く良い業が人助けに限られないということは、本日のイザヤ書の箇所をもっと先まで読むと明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。
「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンはヘブライ語の辞書を見ると、魔術的な意味があるかどうかはクェッスチョン・マークと書いてあります。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。「有害な言葉」を神に向ければ第1から第3までの掟にも関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。
さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイザヤ書の狭い歴史の枠の中で考えると、イスラエルの民を外国の支配から解放して王国を復興させる時が来るという預言に解することができます。そうではなくて、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、この預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失って廃墟のようだった人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現したイエス様はもちろん、使徒たちのようなイエス様の良い業を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導く人たちも光を放つのです。
このようにキリスト信仰で良い業は人助けだけでなく十戒全体と結びついています。それに加えて、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。
イエス様は、お前たちは「塩」である、「光」であるとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を言い表す言葉を付け足していったのです。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。
それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。この、神との結びつきが失われている地上にあって、この世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めます。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。
このことがわかったキリスト信仰者は、こんなすごいことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きるのが当然という心になります。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。
ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。だから、罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければという心を新たにします。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。
このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに踏みとどまって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。
ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために掟を守るというものです。だから、人間由来の義なのです。彼らは、掟を守る時に自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったら優越感にも浸ります。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、先に神から義と認められてしまう義です。ファリサイ派や律法学者のように人間由来の義ではありません。神に由来する義です。だから、勝っているのです。神に由来する義でそれを神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が自信の源になってしまっては、宗教的な行為を行っていても、肉だけの状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。
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ペンティ・マルッティラ牧師は、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターとともにSLEYのハメーンリンナ教会の牧師も兼任しています。SLEYで仕事をする前は「フィンランド福音ルター派ミッション(フィンランド語で「種まき人)」というミッション団体の宣教師としてモンゴルでキリスト教伝道をされたこともあります。