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主日礼拝説教 2022年10月30日(聖霊降臨後第21主日) 聖書日課 イザヤ1章10-18節、第二テサロニケ1章1-4、11-12節、ルカ19章1-10節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は徴税人ザアカイについての話です。徴税人についての話は先週もありました。エルサレムの神殿で徴税人が神に罪を告白する祈りをしたという話です。ただそれは、イエス様のたとえの教えだったので架空の人物でした。今日の話は、イエス様がエルサレムに向かう途上で通りかかったエリコという町で実際に起こった出来事です。架空の話と実際に起こった話といういう違いはありますが、本日の話は先週の話と繋がっています。
どう繋がっているかと言うと、イエス様は先週のたとえで、神に義とされる者、つまり神に相応しいとされる者は、自分が罪深い人間であることを認めて神に憐れみと赦しを心から祈れる者であると教えました。そこでイエス様は、神の掟をちゃんと守って神に相応しい者になれるというやり方を否定したのです。果たして、人間は神に自分の罪を告白して赦しを乞う祈りで神に相応しいとされるのか?その通りであることを私たちにわからせるためにイエス様は十字架と復活の業を成し遂げられたのです。それで、十字架と復活の出来事の後は、人間は十字架にかけられたイエス様を心の目で見ることができれば罪が赦されて神に相応しいと認めてもらえるようになったのです。そうなるために私たちは神のみ前で自分が罪ある者であると認めて赦しを祈らなければならないのです。それなので、神に相応しいと認めてもらう際には掟を守ることには意味がないのです。意味があるのはイエス様の十字架と復活の業とそれを人間が受け入れることなのです。そういうわけで先週のイエス様の教えは、十字架と復活の出来事の後の正しい祈り方を前もって教えるものだったのです。
本日の個所は、イエス様のおかげで神に相応しいと認められたら、続いて何が起きるかということを示しています。何が起きるかと言うと、神の意志に沿うように生きようという心が生まれるということです。今日はこのことを見ていきます。最初に注意すべきことを述べておきます。イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言っているところです。二つのことに注意します。一つは「救い」とは何かとうことです。普通、病気とか何か困難や苦難が解決したり解消したりすると「救われた」と言います。ところがキリスト信仰では、「救い」はこの世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生きられることです。また、この世の人生を終えた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御許に迎え入れらることでもあります。それで今はそこに至る道を神との結びつきを持って歩めることが「救われている」ことになるのです。道の歩みの上で病気になったりいろんな困難や苦難に遭遇します。しかし、なかなか解決が得られなくても、神との結びつきを持てて復活を目指して歩んでいる限りはキリスト信仰者は「救い」がなくなったなどと考えません。「たとえ死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我と共に在せばなり」という詩篇23篇の心意気でいるのがキリスト信仰者です。
もう一つの注意事項は、イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言ったのは一見すると、ザアカイが財産を貧しい人に施します、だましとったお金は4倍にして返しますなどと改心したことに対するご褒美として言ったように聞こえます。それで、救いは善行の見返りとして与えられるという見方が生まれると思います。ところが、全然そうではないのです。先週も見たように、イエス様は掟を守ったり何か良いことをして神に相応しいと認めてもらうやり方を否定しました。今日の出来事もその延長線上にあります。このことがわかるためには、この個所を先週の個所とあわせて何度も何度も読み返さないとわかりません。一回読んでわかったような気分でいると、イエス様が本当に教えようとしていることと反対の理解になってしまいます。
神に相応しいと認められたら、今度は神の意志に沿うように生きようとする心が生まれるということを、これから本日の個所をもとに見ていきます。その前に、徴税人について先週お話ししたことを少し復習しておきます。徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人たちです。彼らは決められた徴収額以上に取り立てて私腹を肥やすような人たちでした。それなので、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人は同胞の裏切り者とみなされて憎まれていました。
そうした一方で、福音書に登場する徴税人たちは貪欲で悪質なタイプとは少し様子が違うことにも気づかされます。ルカ3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが神の裁きの日が近いことを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。先週の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらも、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。この他にも、マルコ2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。
以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければといういう気運があったことが読み取れます。本日のザアカイも、イエス様に並々ならぬ関心があったことからすると、洗礼者ヨハネの宣べ伝えが影響を及ぼしていたと考えられます。ヨハネは、もうすぐ神の裁きの日が来る、誰も逃れられない、だから神に背を向けて生きる生き方をやめて神に立ち返る生き方をしなさいと宣べ伝えました。同時に、自分の後に偉大な方が来られるとも宣べました。それがイエス様でした。イエス様は奇跡の業をもって来るべき神の国の実在を示し、自分が罪の赦しの権限を持つことを示されました。その時はまだ十字架と復活の出来事が起きる前でしたが、神の裁きを心配した人たちにとってイエス様は救いの道を示して下さる希望の光に映ったでしょう。
イエス様が弟子たちと大勢の支持者たちを従えてエリコの町に入ってきました。ザアカイはイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かった上に群衆に遮られて見ることができません。それで先回りして木に登り、上から見ることにしました。そこをイエス様一行が通りかかります。イエス様はザアカイに気づいて彼を名前で呼びます。さすが神のひとり子です、まだ会ったことのない人の名前をご存じでした。ということは、ザアカイがどんな素性の者かもご存じだったでしょう。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」当時は一緒に食事するというのはとても強いきずながあることを意味しました。それで、「なんであんな罪びとの家に?」と言う周囲の不満や失望は理解できます。
ここから先ですが、一回読むと、ザアカイが財産を分け与えますとか言うところは、まだいちじく桑の木の下でのやり取りのように見えます。しかし、よく目を凝らして何度も読むと、木から降りたザアカイは喜んでイエス様を迎えたので実際は家に連れて行ったのです。ギリシャ語原文を見ても、群衆はイエス様の滞在中ずっとぶつぶつ言っていたという書き方です。それなので8節の「ザアカイは立ち上がって」というのは、イエス様が家から出発する場面と考えられます。「立ち上がって」とありますが、ザアカイが座った状態から立ち上がったみたいですが、そうではありません。ギリシャ語の言葉は立っている状態でも使われる言葉なので「立ち上がる」と訳すのは誤りです。どんな日本語に直せるのかは少し難しいですが、感じとしては、これから喋る人にスポットライトを当てるような感じです。ここは「イエス様と向かい合って」という意味でしょう。
以上から、ザアカイは、イエス様の呼びかけを聞いて木から降りて、イエス様を家に迎え入れて一緒に過ごす時を持ちました。そこでイエス様の人となりを見、その言葉を聞いたでしょう。どんな言葉であったかはルカ福音書には記されてはいないのでわかりません。しかし、大事なのはイエス様を受け入れて一緒の時を持った後で、財産の半分を貧しい人々に分け与える、だましとったものを4倍にして返すという決心をしたということです。その後でイエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。ザアカイの決心の背景には、イエス様を自分のもとに受け入れたことがあります。このことに気づくと、ザアカイはイエス様から救いを保証してもらうために決心したのではないことがわかります。それで今度は、ザアカイがイエス様を受け入れたことを少し詳しく見てみます。
ザアカイがイエス様を受け入れて家に招く前に、イエス様がザアカイを受け入れて家に招くようにと命じていました。つまり、イエス様が最初ザアカイを受け入れザアカイはそれに応じたのです。イエス様の受け入れを受け入れたのです。イエス様がザアカイを受け入れる前、ザアカイの方では特にイエス様に受け入れられるというつもりはなく、ただイエス様を一目見たいというだけでした。その時のザアカイは金には全く不自由しないという羽振りの良さでしたが、民族の裏切り者、罪びとの最たる者というレッテルをはられていました。金さえあれば、そんな不名誉は痛くもかゆくもないという態度だったと思います。そこに洗礼者ヨハネが現れて神の裁きと神への立ち返りということが公けに言われるようになりました。神の裁きが起これば、いくら金を積んでも何の役にも立たないこと位はザアカイにもわかったでしょう。実際、大勢の徴税人たちがヨハネのもとに行って洗礼を受け、徴税人を辞める者さえ出ていたのです。さあ、自分はどうしたら良いか?
その時、このエリコの町にあのイエスがやって来ると聞きつけます。あの、洗礼者ヨハネが自分の後に来る偉大な方と言っておられた方、数多くの奇跡の業を行い、いつの日か到来する神の国について教え、また罪の赦しの権限を持つと自ら言われる方、その方が今来られるのだ。ザアカイが関心を抱くのは当然でしょう。ただ木の上から見ることができたらその後のことは何も考えていなかったでしょう。ところが、そのお方が彼に目を留め、名前で呼び彼の家に立ち寄りたいなどと言ったのです!イエス様は、心に葛藤を抱えていたザアカイを見つけて彼を呼びました。イエス様は心に葛藤を抱えていた彼、まだ善い行いをするに至っていない彼をそのまま受け入れたのです。ザアカイはその受け入れに応じたのです。その後でイエス様と共に過ごす時を持ち、その後で財産を捨てる決心をしたのです。全てはイエス様が悩む彼を受け入れたことから始まったのです。
イエス様が悩む者を受け入れるとその人に新しい心が生まれるというのはキリスト信仰にそのまま当てはまります。もっと正確に言うと、イエス様が受け入れてくれたことに応じる、つまりイエス様の受け入れを受け入れることで新しい心が生まれるのです。まさにザアカイがその模範例となりました。先週もお教えしましたようにキリスト信仰では、神の掟を守ったり善い業を行ってそれで神に認められる、神に相応しいとされるという考え方をしません。人間には神の意志に反しようとする性向、罪があるので神の意思に完全に沿うことが出来ないのです。
ではどうしたらよいのか?そのままでは人間は救われない状態に留まってしまいます。それを分かっていた神は、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はこのイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。私たちの造り主である神のもとに戻れる道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て神が自分のためになして下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。
こうして人間は、イエス様が果たして下さったことと彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しいとされ、神との結びつきを持ってこの世を歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので逆境の時も順境の時と変わらない助けと良い導きを神から得られます。また、この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。このようなこの世と次に到来する世にまたがるような大きな救いを、ひとり子を犠牲にしてまで与えて下さった神に私たちはただただひれ伏して感謝し、これからは神の意思に沿うように生きようと志向し出します。その時、神の掟を守り善い業を行うことが当然のことになります。そこでは、掟を守ることや善い業を行うことは神に認めてもらうための手段ではなくなっています。こっちは何もしていないのに神に先回りされて先に認められてしまったので、その結果そうするのが当然という心になってするのです。
このイエス様の十字架と復活の業が実は神が人間を受け入れる業だったのです。もし神が罪を持つ人間など絶対受け入れないという態度だったら、ひとり子を贈って十字架と復活の業を成し遂げさせることなどはしなかったでしょう。人間を受け入れるから贈ったのです。そしてその次に大事なのは人間がその神の受け入れに応じるかどうかです。神の受け入れを人間が受け入れるかどうかです。人間が神の受け入れに応じて受け入れるというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の受け入れを受け入れた者は、神との結びつきを持って復活の日に至る道を歩み始めます。初めにも申しましたように、本当に「死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我とともに在せばなり」になるので、もう安心と信頼しかないという感じになります。それで神の意志に沿うように生きるのが当然という心になります。
ただし、キリスト信仰者といえども、この世で肉の体を纏って生きている以上は神の意志に反する罪をまだ持ち続けます。しかし、信仰者は神の受け入れを受け入れたので神から相応しい者とされます。ひとり子のイエス様のおかげでそのように見てもらえると思うと、畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで一杯になり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうなるとかえって神の意思に敏感になりますが、まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という先週の徴税人の祈りがあるのです。そして祈りは必ず聞き遂げられるということは、心の目をゴルゴタの十字架に向けられる時にわかります。あそこに首をうな垂れたあの方がおられる。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫であることが厳粛にわかります。
ザアカイの場合は、もちろん、十字架と復活の前の出来事なので、イエス様のことを復活の救い主と信じる信仰も洗礼もまだありません。しかし、ザアカイが辿ったプロセスにはキリスト信仰の原型があります。まず神は、葛藤を持つ私たちを受け入れて下さる。イエス様はザアカイを名前で呼んで受け入れました。神はイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせることで私たちを受け入れてくれました。イエス様に受け入れられたザアカイは、その受け入れに応じてイエス様を自分の家に迎え入れました。私たちは、神の受け入れを信仰と洗礼をもって受け入れて神と御子を心の中に迎え入れます。ザアカイはイエス様の受け入れを受け入れて、彼の人となりを見、その御言葉を聞いて、神の意志に沿うように生きようとする心を持ちました。私たちも、神の受け入れを受け入れて聖書の御言葉を通してイエス様の人となりを知り御言葉を聞くことで神の意志に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するがごとく愛そうという心を持つようになります。
このようにイエス様がまずザアカイを受け入れて、ザアカイもイエス様の受け入れを受け入れて、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になった、イエス様はこのプロセス全部を指して「救いが訪れた」と言われたのです。私たちの場合も同じです。神がイエス様の十字架と復活の業を通して私たちを受け入れて下さった、この神の受け入れを私たちが信仰と洗礼で受け入れる、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になる、このプロセスにあれば私たちに「救いが訪れた」ことになるのです。
我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入 れることにある。
救いは我々が何かを成し遂げた褒美として与えられるものではない。
我々は善い業を神のイニシアチブを受け入れた後でするようになる のである。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
2022年10月23日(日)聖霊降臨後第20主日 主日礼拝 聖書日課 エレミヤ14:7~10・19~22(旧1203)、第二テモテ 4:6~8・16~18(新394)、ルカ18:9~14(新144)
福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前の通り、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人は、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。占領された国民の中に占領国に仕える人たちがいたということです。どうして仕えたかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が同胞の裏切り者とみなされて憎まれていたことは驚きに値しません。
ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際の徴税人とは少し様子が違うのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確実なものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。
もちろん本日の箇所の徴税人は、たとえの教えの架空の人物です。しかし、徴税人のグループが洗礼を受けにヨハネのもとに行ったという歴史的事実からすると、今日のように改心した徴税人が実際にいたことは否定できないのです。ルカ19章のザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決断をします。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。
以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。
本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方が出ています。一つは宗教エリートのファリサイ派の人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと守っていますと神に報告します。私は周りにうようよいる罪びとたちと全然違うことを感謝します、などと醜いエリート意識そのものです。子供が先生に「先生、ボクは~君みたいに悪い子じゃないよ、いい子だよ」というのを大人にしたらこうなるのでしょう。もう一つは徴税人の祈りです。自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。なので、胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。
先週の福音書の箇所は「やもめと裁判官」のたとえでした。それも祈りについて教えるところで、神に対して祈り願い求めることを絶やしてはならないという教えでした。神に対して祈りを絶やさないというのは、十戒の第一の掟「私以外に神があってはならない」を守ることです。ルターも教えたように、祈ること願いごと、喜びや感謝、悲しみなど全てのことを創造主の神に祈り打ち明けるべきである、他のものにそうしてはならないというのが第一の掟のポイントです。神を全身全霊で愛するというのも同じです。「愛する」などと聞くと恋愛を連想してしまい、神を愛するなんてどうしたらいいかよくわからないと言う人もいます。要は神以外に祈らない打ち明けない、それだけ神を信頼してやまないということです。だから、祈りを絶やしてはいけないのです。
そこで、先週と本日の祈りの教えには興味深い関連性があることに気づきましょう。「やもめと裁判官」のたとえは弟子たちに対して述べられました。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたでしょうか?「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)です。ここで「正しい」という言葉に注意します。ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」とは、「神の目に適う、神に相応しい」ということです。どういうふうに「目に適う」「相応しい」かと言うと、最後の審判の時に神のみ前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に投げ込まれる心配はないという位に神に相応しいということです。14節を見ると「義とされて」と言われています。ディカイオオ―という動詞が使われていて、これはさっきのディカイオスを動詞にしたものです。これを「義とされて」と訳したのだから、ディカイオスも「正しい」ではなく「義なる」と訳すべきだったと思います。「正しい」と言ってしまうと、少し人間的すぎてこの世止まりではないかと思います。「義」とは、この世とこの次に到来する世の双方にまたがる、神的な「正しさ」です。人間的な「正しさ」とはスケールが違いすぎます。イエス様がこのたとえを話した人たちは、自分たちはそういう義の者である、他の者はそうではないと見下している人たちでした。この人たちは誰なのでしょうか?ファリサイ派でしょうか?実はそうではないのです。
「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、最後の審判の日、果たして、やもめのように祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。この質問のすぐ後で今日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえを話します。ここでは、自分は神に相応しいと自信満々な者たちが相手です。つまり、このたとえが向けられた相手は、弟子たちの中で自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると自信満々な人たちだったのです。果たして私が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか?というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる人たちに向けて話されたのです。
そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものになっています。たとえ最後までひるまずに祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまうのです。
洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないために洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねました。そして、本日の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いはなく、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけでした。神から罰を受けるとはどういうことか?それは、この世の人生を終えた後で復活の日に復活に与れず、復活の体も永遠の命も与えらえず、神の御許に迎え入れられなくなってしまうということです。しかも、問題はこの世の次の段階に限りません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。たとえ罰は将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。歩む道を変えなければならないのです。
「私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました」と認めて、「神さま、どうか罰しないで下さい」と憐れみを乞うた徴税人。その彼が神に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので何も心配することはなく、神に憐れみを乞う必要もありません。
自分では神に背を向けた生き方をしているなどとは思いもよりません。しかし、百点満点のはずの彼が神のみ前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように聞こえます。それでは、ありきたりの道徳論です。ここは道徳教育みたいなことを言っているのではありません。ここは人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならない大きな問題があることを言っているのです。これがわからないと、この個所はわからないのです。
私たちは徴税人が「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。私たちの場合は、同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。加えて、神の意思を表している十戒に照らしても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様は何と教えていましたか?たとえ殺人を犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。
以前にもお教えしましたが、フィンランドやスウェーデンには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」に分けて言い表す言
葉があります([ス]gärningsynd、arvsynd、[フィ]tekosynti、perisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いでいる罪です。この受け継いでいる罪があるから行為に現れる罪も起こるという、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら具体的に犯していたかもしれないのです。
マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうのかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にしているのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神に相応しい者となれるのでしょうか?
これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に贈られました。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで神罰を人間に代わって受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はイエス様のこの身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠
の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間のために開かれました。神のもとに至る道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しい者とされ、神との結びつきを持って歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので、順境の時でも逆境の時でも変わらない助けと良い導きを神から得られます。この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを持っているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを受け取ったので、神からそういう者として見てもらえます。キリスト信仰者は、そのように見ててもらえることを畏れ多く感謝し、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうすると神の意思に一層敏感になります。まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という徴税人の祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちは自分の内にある神の意志に反するものに気がつく度に、心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あそこに首をうな垂れたあの方がおられす。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫になっていることがわかります。父なるみ神は私たちを本当に憐れんだので、ひとり子を犠牲にするのを厭わなかったのです。神は罰しないで本当に赦して下さることを、私たちがわかるようにイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。
ところで、徴税人の祈りにはイエス様の十字架の言及はありません。まだ十字架の出来事が起きる前なので、それは無理もありません。しかし、イエス様はもうすぐしたら十字架と復活の出来事が起こると知っています。その時が来たら、徴税人の祈りを祈る者は心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ、神から罪を赦されていることがわかります。この意味で徴税人の祈りは、神から罪の赦しを得られて神に相応しい者とされる祈りなのです。これぞまさしく、最後の審判をクリアーできる祈りなのです。
そういうわけで、キリスト信仰者にとって「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは、イエス様の十字架と復活の業があるおかげで、なくてはならない祈りです。イエス様を救い主と信じてこれを祈る限り、イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されるのです。イエス様を信じない人は、誰かの何に免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で罪の償いを神に対して果たさなければならなくなります。しかし、それは不可能です。このことを、本日の個所のファリサイ派の人の祈りが明らかにしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、お前には本当の罪の償いはないと言われて蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることを知って茫然として足がすくんでしまった瞬間、イエス様のおかげで神の御手が自分を離さずしっかり支えてくれていることです。
キリスト信仰者が復活の日の神の御許に迎え入れられる地点に向かって歩む道にはいつも罪の自覚と赦しの繰り返しがあります。しかし、最後の審判の時、神はこの繰り返しのことを、それはお前が神に相応しい者、義なる者として相応しく生きた証しと認めてくれます。その時、繰り返しは終わります。
本日の使徒書、第二テモテ4章6-8節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、そのような生き方を総括する言葉になっています。それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」
兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。
「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」イエス様の再臨というのは、最後の審判があったりするので怖いものに感じられます。しかし、その日は、お前は神に相応しい者、義なる者として相応しく生きてきたと認められる日です。また、罪の自覚と赦しの繰り返しが終わる日です。義の栄冠はその象徴です。だからキリスト信仰者にとっては主の再臨は怖い日ではありません。待望の日です。
主日礼拝説教 2022年10月9日(聖霊降臨後第18主日)むさしの教会 聖書日課 列王記下5章1~3、7~15節、第二テモテ2章1~15節、ルカ17章11~19節
説教題「キリスト信仰のかたち」とはわかりそうでわかりにくい題と思います。「かたち」とは何ぞや?一昔前、日本のことを論じる本だったか記事だったか、「この国のかたち」なんていうものがありました。「かたち」という言葉でこの説教者は何を意味しようとしているのか?日本語で自分が何を言おうとしているのか、はっきりさせる際に自分が知っている外国語で言い換えたらどうなるか考えるのはいい訓練になると思います。英語のformではありえない。頭に浮かぶのはessenceです。「本質」とか「真髄」です。フィンランド語やスウェーデン語なら「核心」を意味するydinやkärnaが浮かびます。ところが、もし説教題を「キリスト信仰の本質」にしたらどうなるか?神学校の教授や牧師がそういう題で説教したら、信徒の皆さんは、ふんふん、なるほど、と聞き入るでしょう。私のような一信徒が同じ題を使ったら、何を大それたことを!と思われてしまうでしょう。それで「かたち」などという怪しげな言葉を引っ張り出した次第です。
それでも、この説教の原稿が出来上がってみると、やっぱりキリスト信仰にとって本質的なことについて語っているじゃないかと思いました。それで題を「キリスト信仰にとって本質的なこと」にすれば「キリスト信仰の本質」よりも低姿勢かなと思ったのですが、この日本福音ルーテルむさしの教会は説教題を前々週に知らせなければならないのでもう手遅れでした。そういうわけで、本日の福音書の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしているので、それを皆さんにお教えしたく思います。
イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所は、エルサレムのあるユダヤ地方の北、ガレリア地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。
さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はどうしたかと言うと、その場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに体を見せに行きなさい、とだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだから、と言う通りにただちにエルサレムに向かいました。
すると出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム訪問の目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ、律法に規定された治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア地方のサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に贈って下さった神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の治癒診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。
本日の個所がキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしていると言う時、その本質的なこととは何かと言うと、2つのことがあります。まず、律法の規定を行って神から義とされ救われるというのではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされ救われるということ。それと、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つがサマリア人の行動から見て取れます。ところで、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。なので、キリスト信仰のかたちがもう表れているというのは気が早いと言われるかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。
この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみましょう。一見するとこの言葉は、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからだ、ということになってしまいます。それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだ、と言うべきです。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。これに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。それで、この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみることにしましょう。
マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを救った(後注)」と言います。この言葉をかけられてから女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願するところです。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。
本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意します。これはギリシャ語の現在完了です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語のより少し意味が狭く、「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味が主です。それで「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今日この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。
これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?普通は、癒された時に救われたと考えます。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間的な目から見て境遇が良好であるということと同義ではないのです。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。
そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。
さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には言われませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、他の事例と同様に癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。
先ほども申しましたが、レビ記14章には、重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合、祭司は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。儀式の詳細な内容には立ち入りませんが、いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとしてあります。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(14章20節)。つまり、「清い」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。
ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないか、と思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。
ここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯して、かからなかった人は罪を犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は、本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間はずっと死ぬ存在であり続けたということから明らかです。使徒パウロは罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)と教えています。人間が死ぬということが、人間が罪を持っていることの表れなのです。
さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないでに戻ってきてイエス様と神を賛美したことを褒めます。そうすると、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要の和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったからです。先ほど見たように、モーセ律法には「重い皮膚病」が治った後で神との和解のためにする「清めの儀式」がありました。実はそれだけでなく、律法には人間の罪を償って神との和解が得られるために様々な儀式とそこで捧げられる生け贄の規定が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、23章27ー32節)。
しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(10章1ー4節)。
そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので、神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、復活の日までひと眠りした後で目覚ましてもらって、神の栄光に輝く復活の体を着せられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。
こんなに大きなことを実現して下さった神はなんと素晴らしい方であることか!キリスト信仰者はこの神に心から感謝するようになり、これからは神の意志に沿うように生きようと心に決めます。神の意志は十戒に集約されています。イエス様はそれをさらに二つの掟に集約しました。神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。キリスト信仰の中で律法の作用の仕方が大きく転換しました。かつて神の意志というのは、それをすることで神から義とされ救われるというものでした。ところが、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖いだして、一足先にさっさと神との和解をもたらして下さったのです。人間は先を越されてしまったのです。そうなったらあとは、この受け取ったものを手放さないようにしっかり携えていくしかありません。
ところが、現実に生きていると、自分にはいろいろ神の意志に反する罪があることに気づかされることが起きてきます。神の意志に沿おうと志向しているので、かえって信仰者の方が神の意志に敏感になり、自分の内にある罪が気づきやすくなります。その時キリスト信仰者は、神との結びつきは弱まってしまったか、あるいは失われてしまうかと心配します。もし神がせっかくひとり子の犠牲に免じて罪を赦してくれたのに、こんなことでは復活と永遠の命に向かう道から外されて自分は行き先を失ってしまうのではと不安に陥ります。
まさにそのような時、神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前の罪の赦しはあそこに打ち立てられて今も微動だにせずにそのままである。お前がイエスを救い主と信じているのはわかっている。我が子イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦される。お前の信仰がお前を救ったのだ。これからは罪を犯さないように。」この時キリスト信仰者の心には信仰に入った時と洗礼の時の感謝が蘇り、これからは神の意志に沿うようにしなければと再出発します。この罪の自覚と赦しをキリスト信仰者はこの世の人生の間ずっと繰り返します。やがてそれが終わる日が来ます。復活の日です。ルターも言うように、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは、この世から別れて復活の栄光の体を着せられた時です。
このように、律法の規定を行って救われるということではなくて、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われるということ、それと、先に救われてしまったことで全身全霊が感謝で一杯になるということ、これらキリスト信仰を形作る2つのことは本日のサマリア人の行動から見て取れます。キリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後で、キリスト信仰者はどう立ち振る舞うかを本日のサマリア人の出来事を例にして前もって教えているのです。
救われたら律法に戻らない
救われたら大きな感謝が生まれて、救ってくれた主のもとに戻る
感謝は神の意志に沿うように生きようとする心を燃え立たせる
皆さんの心がいつも神への感謝で満たされますように。
後注 θαρσειは「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと健康になりなさい、とこれから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。
主日礼拝説教 2022年10月2日(聖霊降臨後第十七主日)
ハバクク1章1~4節、2章1~4節、2テモテ1章1-14節、ルカ17章5-10節
説教をYoutubeで見る
本日の福音書の日課の最初の部分は、イエス様の有名な「からし種」の話です。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は、何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。
からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが3~4メートル位の木に育つと言われています。それなので、イエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言ってることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?
もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?そんな疑問が生まれます。からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。果たしてそうなのか?以下に見ていきましょう。
最初に、召使いを労わない主人のたとえを見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指しているからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇用者と被雇用者、親と子、先生と教え子の関係ではありません。
神が命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、突き詰めて言うと、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。これでは、自己肯定感なんか生まれません。
ところが、神は、私たちにとって労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても私たちは全然平気だ、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はイエス様を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。
さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この与えられた神のひとり子の償いを手放さずにしっかり携えてこの道を歩み続けると、かの日、創造主の神のみ前に立たされる時、大丈夫、何もやましいところはない者として見てもらえると安心して立つことができます。本当を言うと、失敗だらけ至らないことだらけだったのだが、その度にいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを祈った。すると、一度打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにある、だから心配しなくてもよい、といつも神から言われた。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで満たされて再び永遠の命の道を歩み始めることが出来た。永遠の命の道とは、このように繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道を歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでその人はかの日に神のみ前に心配せずに立つことが出来るのです。
ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰を携えて歩めたおかげで、神のみ前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はこの私にイエス様を贈って下さったのだ。
このことがわかると、やるべきことをして労われて誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を犠牲にしてして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ。これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しないでいられる自己肯定感です。別に見返りなんかなくても平気でいられる自己肯定感です。
もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。それなので、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきた時、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。
本日の旧約の日課ハバクク書の箇所には、周囲は不正と暴力が溢れ、正義が歪曲されてしまった状況が描かれています。その中で、神の義に生きる者はどうしたらいいのかという問いに対する答えがあります。それは、神の救いの約束はなかなか実現しないように見えても、必ず実現するから、神の意志に反する者たちの言うことを聞くな、神の意志に従えば永遠の命に与れるということを明らかにしています。このことは、イエス様が来られる前の時代には確信を持つことは難しかったかもしれません。しかし、イエス様が来られた後は神の約束は実現すると確信が持てるようになったのです。この確信を得たキリスト信仰者は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を与えられているとパウロは本日の使徒書の日課第二テモテの個所で述べています。
それなので、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の関係から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、果ては選挙で投票してもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。自己肯定感のためにやっていたはずのことが、いつの間にか肝心の自己が周囲や便宜を図る者に造られていっていまうのです。
次にからし種のたとえの教えを見てみましょう。イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうのではと思わせます。それで、お前たちは、せめてからし種くらいの信仰を持て、そうすれば奇跡を起こせるぞ、と言っているように聞こえます。イエス様は本当にそういうことを言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?
まず、イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。後の文と一緒にしてみると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示します。そうすると、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、あなたがたにはないことを前提に言っていることになります。高校の英文法で言えば、事実に反することを暗示する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。つまり、ここは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っていないとも持っているとも言っていないのです。そして不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを暗示しています。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろうが、実際にはお前たちは命じないだろうから、桑の木も実際にはそういうことをしないだろう」という意味です。
さあ、混乱してきました。今まで多くの方が理解していた理解がぐちゃぐちゃになってきたと思いますので、整理してまいりましょう。
からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。
このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長することに関係しているということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。ここで問題になるのは、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは、神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う者が持てないような「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。
それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、キリスト信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神のみ前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところはないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。「恵みの賜物」は異なっていても、これだけは全員同じです。
そこでもう一つ大事なことを申し上げます。「信仰が成長する」とよく言われますが、正確には「信仰を携えて私たちが成長する」ということです。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰ですが、それが成長するのではなく、それを携えた私たちが成長するということです。どういうことかと言うと、先週スオミ教会の礼拝の後で聖書研究会を行いました。学んだ箇所はローマ10章1~13節。かつてモーセは、律法は難しくない、それは人間が行えるようにと口と心の中に置かれているのだ、と教えました。それに対してパウロは、人間を罪の支配から贖い出して下さったキリスト自体が信仰と洗礼を通して人間の口と心の中に置かれているのだと教えました。それで、かつては、口と心の中にある律法を行うことで人間は神から義と認められて救われるということだったが、今度は、口と心の中にあるキリストの贖いを、口にあるからそのままイエスは主である言い表し、心の中にあるからそのままイエスは死から復活したと信じれば義と認められ救われるのだ、と教えたのです。パウロにとって信仰とは、キリストの贖いが口と心の中にある位に身近にあって、それで口でその通りに言い表して心でその通りに信じることなのです。
それなので、キリストの贖いを口と心の中に持つキリスト信仰者は口でその通りに言い表し心でその通りに信じることを、この世の人生の中で行う。これが信仰を携えて成長することです。それはあたかも、口と心の中にあるキリストの贖いという大きなものに小さな自分を適合させていくようなことです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出すという繰り返しがあります。その繰り返しをすることもキリストの贖いを口と心の中で携えて成長することです。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になります。その時が復活の日なのです。
こういうふうに見ていくと、イエス様の主眼とするところは、だんだん、奇跡の業を起こせることで信仰が大きいとか小さいとか判断することをやめよ、ということになっていきます。先にも申しましたように、奇跡の業を起こせることは「恵みの賜物」の領域で人間が立ち入ることは出来ません。奇跡の業を起こせて信仰が大きい起こせなくて小さいという問題ではないのです。イエス様は弟子たちに、お前たちがそんな考えにとらわれているんだったら、これでどうだ、と言わんばかりにこのからし種の話を出してきたことがわかります。奇跡の業を起こすのは別に大きな信仰なんかではないと思い知らせるために、奇跡の業をからし種のような極小のものに結びつけて見方をひっくり返す。そして、奇跡の業の例として取り上げたものも、たまたまその辺に生えていた桑の木を指さして、その木が自分から抜け出して海に行ってそこで生えるというような、あまり意味のないどうでもいいものにする。このように見ることができれば、イエス様の主眼は一般に言われるような、お前たちはからし種位さえの信仰もないので奇跡は起こせない、せめて、からし種位の信仰を持て、そうすれば起こせる、ということではありません。そうではなくて、奇跡の業を起こすのが大きな信仰ではない、信仰者にとって大事なのは神から与えられたキリストの贖いの信仰を携えてからし種のように成長することである、ということなのです。
(後注1)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεになるべきでしょう。
(後注2)εχετε - ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk–Svensk Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
主日礼拝説教 2022年9月25日(聖霊降臨後第十六主日) アモス6章1、4-7節、1テモテ6章6-19節、ルカ16章19-31節
本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくご自分で創作した話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?
まず、金持ちがいて贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていた。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。
ラザロという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら叶わない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを無視して贅沢三昧な生活を続けていました。
さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので葬式が挙行されました。16億6千万円位する国葬級ではなくとも、さぞかし盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も書いてありません。きっと遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。
ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事はほんの序論にすぎないと言えるくらい、本論がここから始まるのです。金持ちは、盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちに天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。
金持ちは、聖書の観点から見て、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、神に服従せず富に服従したからです。それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方です。つまり、二重の罪というわけです。もし、富にではなく神に服従して、富の主人になって、それを神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。
以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人はキリスト信仰者であってもなくても、ああ、イエス様は利己的に生きてはいけない、困っている人を助けてあげなければいけない、と教えてるんだなと思うでしょう。ところで、利己的に生きてはいけない、困っている人を助けなければいけないというのは、別に聖書の神の掟を持ち出さなくても、誰にでもわかる道徳的な教えだと思われるかもしれません。それに、良いことをさせるため、悪いことをやめさせるために天国や地獄を持ち出すのは時代遅れのやり方だ、今はもっとスマートな議論をすると批判されるかもしれません。このように本日の個所は道徳的な教えにしかすぎないように見えてきます。
しかしながら、本日の個所のイエス様の教えの中心は、利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ、ではありません。もしそれが中心なら、別にキリスト教なんかいりません。本当に中心にあるものがあって、そこから、利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ、という規範が派生して出てくるのです。その中心にあるものを把握しないと、本日の個所は別にキリスト教でなくてもいい道徳論になります。
それでは中心にあるものとは何か?それを見つける鍵は、この話の最後にあります。金持ちがアブラハムに言います。「父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」「悔い改める」というのは、ギリシャ語のメタノエオーという動詞です。神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになるという方向転換を意味します。うなだれて反省しまくっているのとはニュアンスが違います。これに対してアブラハムが答えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。「その言うことを聞き入れはしないだろう」も正確な訳は「納得しないだろう」とか「確信に至らないだろう」です。何のことかと言うと、先ほど述べた「悔い改め」、「方向転換」する位に納得しない、する位の確信を得られないということです。それでこの最後の部分の正確な訳は以下に掲げます。因みに「モーセと預言者」と言うのは神の掟が集大成されたモーセ五書と全ての預言書のことで、大雑把に言って旧約聖書のことです。「もし、モーセの律法や預言書に記されていることに耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、方向転換をすることはないだろう。」
このアブラハムの言葉の中にイエス様の教えの中心があるのですが、それを解き明かす前に、一つ大事なことを確認しておきます。それは、キリスト信仰の天国と地獄はどういうものかについてです。これは、以前の説教でもお教えしたことです。
この個所は普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」です。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。
「陰府」と「地獄」の関係について少し見てみます。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした殉教者たちが最初に死から復活させられます。その次に、それ以外の人たちが復活させられます。この者たちは前世での行いに基づいて裁判を受けます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4ー6節)。これが最後の審判です。この後で天と地が新しく再創造されて今の私たちの天と地に取って代わり(21章1節)、神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。このように神の国とは復活を遂げた者たちが一堂に会するところで、キリスト信仰で天の国、天国というのはこのことです。
そうすると、天国とか地獄というものは、将来、最後の審判や復活や天地の再創造が起きる時になって迎え入れられるところ、投げ込まれるところになります。それなので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と教えています。ルターは眠りの場所を「陰府」と言っていませんが、復活の出来事が起きる前には、そのような眠りの場所があるのです。
そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の海に投げ入れられるかはまだまだ先のことで、今の天と地が存在する今の段階ではどこかで安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われます。でもそうなると、最後の審判や復活や天地の再創造が起きていなければならない。ところが、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判は来ていません。そうすると「地獄」でなく「陰府」が正確と思われます。しかし、金持ちはもう眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。まだ最後の審判は起きていないのに。一体これはどういうことでしょうか?
この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVは、このハーデースを陰府ではなくhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では地獄ではなく陰府を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳せざるを得ませんでした、そう断っています。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、別のEinheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltという訳で「陰府」です。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、「地獄」とはしっかり区別されています。
どうしてイエス様はこの個所で、地獄と考えられる場所を「陰府」と言ったのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、事の順序にこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、最後の審判と復活が起きて今ある天地がなくなった後のことです。全人類が対象となる、天国への迎え入れか地獄への落し入れかの選別が起きた後のことです。ところが、金持ちはアブラハムにラザロを父親の家にいる兄弟のもとに送って下さい、そうすれば彼らは悔い改めますから、などと頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまったら、最後の審判と復活が起こったことになってしまいます。その場合は、今の天も地も父親の家もなくなって、兄弟たちも裁きの座に引き渡されて、ラザロを送ってあげるどころではなくなります。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。それでイエス様は火の海を地獄ではなく陰府と言ったと考えられます。こうしたことは、自由な創作をすれば起きると思います。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで事の順序にはこだわらなかったのでしょう。
これから、その大事なこと、イエス様の教えの中心に入っていきますが、その前に天国と地獄についてもう一つだけ述べておきます。聖書の立場では人間は死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、ということにすると、聖書には例外もあるということも覚えてよいかと思います。つまり、最後の審判や復活の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人たちがいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記下2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもその一人と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、最後の審判や復活の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうか?これはもうそこにおられる父なるみ神だけがご存じです。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。
日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった人が今天国から見守ってくれているという言い方をよくします。「天国」というキリスト教的な言葉を使うのですが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。その日まで眠りについているという考えもありません。それなので亡くなった方とコミュニケーションを取り続けます。そこに祟りとか呪いということを持ち出す輩につけ入れられる危険があると思います。しかし、亡くなった方が安らかに眠ってしまったら、コミュニケーションは取れないし、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と大方の日本人は心配するでしょう。でも、キリスト信仰では天と地と人間の造り主である父なるみ神が唯一のコミュニケーションの相手であり見守ってくれる方なので何も心配はいりません。
それでは、イエス様の教えの中心に迫ってみましょう。アブラハムの言葉「モーセの律法と預言書に耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、方向転換はしないだろう。」実はこれは、イエス様の言葉です。アブラハムの口を借りて言わせたのです。それで教えの中心はここにあります。この言葉は逆に言うとこうなります。「モーセの律法と預言書に耳を傾けるのなら、誰かが死者の中から復活したら方向転換するだろう。」どうしてそのようなことが起こるのでしょうか?
律法というのは、神が人間に与えた掟ですが、それはイエス様やパウロが教えたように、人間がいかに神の意志に反するものであるか、人間の神に対する罪性を明らかにする鏡のようなものです。律法を神から授かったイスラエルの民は、それを守ることで神から認められて永遠の命に与れると考えました。そうではなかったのです。律法は、人間の心の中まで入り込んで人間が神の目に相応しくないものであることを明るみに出す神聖な光だったのです。
人間は、律法のこの役割を知った時、絶望と悲しみに襲われます。しかし、旧約聖書には預言書があります。そこには神から大いなる慰めがあるという約束、それと罪のゆえに陥った悲惨な状態から復興できるという神の約束が記されています。なかでもイザヤ書53章は、人間の神の意志に反する罪を人間に代わって償ってくれる者が現れる、その者は自分を犠牲にしてそうしてくれる、神もその者の償いで十分と認めるという預言があります。
このように律法と預言書に耳を傾ける者は、悲しみと絶望を持つが同時にそれらを超える喜びと希望があると信じる者です。そこにイエス様の十字架と復活の出来事が起きると大変なことが起きます。イエス様はイザヤ書53章の預言通りに、人間の罪を全て引き受けて神の神罰を受けられました。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。神のひとり子が自分を犠牲に供したのです。完璧な罪の償いでした。さらに神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世の示されました。そこで人間が、これらのことは神が自分のためにして下さったことだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この罪の償いを自分のものとすることが出来、復活に至る道に置かれて復活を目指して道を歩み始めます。道の歩みではいつも変わらぬ神の守りと導きがあり、たとえこの世から別れる時があっても、復活の日まで眠りにつけ、その日が来たら復活の体を着せられて造り主である神の御許に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所です。
こんな大きなことをして下さった神に対して信仰者はただひれ伏して感謝するだけです。その時、神の意志に沿うように生きるというのが当たり前になっています。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するがごとく愛することが当たり前になるのです。そこでは、律法は永遠の命を得るために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。
このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意志に沿う生き方を志向するのですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意志に反する罪があることに気づかざるを得ません。神の意志によく注意するようになるので、信仰者になる前よりも敏感になります。気づいた時は失望します。怒りに変わることもあります。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、怒りはヘリ下りに変わり、自分に対する失望は神に対する感謝に転化します。自分が復活の道から踏み外していないことがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意志に沿うように生きようと志向します。このようにキリスト信仰者は方向転換を何度も遂げながら進んでいくのです。
そうすると、キリスト信仰者でない人たちはどうなるのでしょうか?律法や預言書に耳を傾けることもないので、イエス様の十字架と復活の出来事を伝えても何のインパクトもなく、神に向かう方向転換もできないまま固定されていまうのでしょうか?
その心配は必要以上に抱かなくても大丈夫かもしれません。どうしてかと言うと、信仰者は、自分の場合どのようにしてイエス様の十字架と復活がインパクトを持つようになったかを思い出してみて下さい。洗礼を受ける前、ひょっとしたら旧約聖書はそんなに繙いていなかったという人が案外多いかもしれません。しかし、それでもイエス様の十字架と復活がインパクトを持って洗礼を受けるに至ったという事実は否定できません。洗礼の後でそのインパクトを眠らせないために旧約聖書をもっと繙くようになるということもあります。
それでは、そのような人はどうやってイエス様の十字架と復活がインパクトを持つようになったのでしょうか?私が思うに、多くの人は自分で気づくか気づかないか、大体次の3段階の問いのプロセスを辿ったと思います。まず第一段階で、自分は造り主に造られた存在であるか? a)造り主などいない、b)造り主に造られた。bと答えたら第二段階に進む。そこでの問いは、造り主と自分の関係はどうか? a)何も問題ない、b)何か問題がある。bと答えたら第三段階に進む。そこでの問いは、造り主との問題をどう解決するか? a)自分の力で解決する、b)自分の力で解決できるか自信がない。ここでbと答えたら、イエス様の十字架と復活がインパクトを持つ可能性大です。また、どこかの段階でaと答えて先に進めなかった人も、後日何かのきっかけで考えや見方が変わって一つずつbと答えるようになるかもしれません。私たちキリスト信仰者はそのようなことが起こるよう祈らなければなりませえん。また、彼らがb、b、bでいいんだと確信持てるためにも、私たち自身イエス様の十字架と復活のインパクトを眠らせないように生きていかなければなりません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
聖書研究会
テーマ「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」 聖書箇所 ローマ10章1~13節
ルカによる福音書14章25〜33節
礼拝説教 2022年9月4日
説教者:田 口 聖
1、「理解する大前提:エルサレムへまっすぐと目を向けて」
今日の箇所は、解釈が難しいところです。ここでだけを読むと一見すると非常に厳しい言葉が並んでいます。それは、この14章全体共通のことでもありますが、今日の箇所も、他のそれぞれの場面も、そこだけで理解しようとすると、非常に難しいものがあるのです。ですから、聖書解釈の原則として、文脈から適切に理解していくことが、このところでも必要なことだと思います。この14章は、先週のところでした、パリサイ派のリーダーの家での、宴会の場面から始まり続いていました。その場面でのイエス様は、まずその場にいた病人を安息日に癒してあげることから始まり、「神の国」を宴会にたとえてパリサイ派に伝えてきました。また前回の所でしたが、上席を好んで座るファリサイ派の人々に対して、神の国にあっては、自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされると、伝えました。さらには、宴会の主人には、人を招くなら、お返しのできない貧しい人や病人を招きなさいと伝えています。なぜなら彼らがお返しができないこと、だからこそ人から報いを受けるのではなく、やがて天の父が報いてくださることこそ真の神の祝福なのだ、と言う教えがあったのです。そして、今日の箇所のちょうど、前のところには、神の国を期待する人々に、祝宴への招待のたとえ話から、地上の物事を優先する人は、神の国の祝宴の準備ができていても、その招待を断ってしまうと、教えていたのでした。
その一つ一つの場面のイエス様の言葉は、そのまま読むと皆とても厳しいものであり、神の国は実に狭い門であることを示されてきました。そして、そのようなイエス様の示す言葉の厳しさから、共通するメッセージは、先週もそうでした、神の前にあって、皆、ただただ罪人であり、その求められることに従うことができない不完全さだけが示されていると言うことでもあります。つまり。そのようなイエス様の言葉の前にまさに「誰が神の国に入れるだろうか」と言うことが突きつけられる言葉の一つ一つなのです。けれども、同時に、その厳しさにあって、いずれもそこに共通する大事な文脈、私たちが見逃すことができない、イエス様がなぜそのことを話しているかを理解するための一貫した大事な事実があるのです。それは、繰り返しますが、イエス様は、「この時、既にエルサレムへとまっすぐと目を向けて進んでいる」という事実でした。つまりイエス様はすでに、ご自身の十字架と復活を真っ直ぐと目を向けて進んでいます。それは、神の国、そして、み言葉の真理は、全てご自身とその十字架にこそあるということを指し示しているのであり、その狭い門も、まさにご自身を通してこそ開かれ、私たちはイエスを通してこそその門を入れるというメッセージが貫かれているいうことなのです。ですから、先週も、そのように教える神の国のすべてのこと、つまり「低くされる」ことも、その後の、何のお返しも出来ない貧しい罪深いものを食事に招くことも、全ての本来私たちがなすべき律法が、何よりイエス様ご自身によって果たされると言う、一貫した教えがあるのです。これまでの厳しい教えは、ただ律法ではなく、それ以上に、むしろ全てを行うイエス様ご自身のことを指している福音であったと言うことがこの14章を理解する大事な土台になっているのです。
今日のところも同じです。今度は周りについてきている群衆に向けられています。この群衆への言葉も、神の国のことではあり、かつ厳しさも続き、かつ非常に難解ですがここも同じ、律法と同時に、それが最後の言葉ではなく、やはり福音であるイエス様ご自身のその恵みこそが私たちに示されていると言うことを踏まえて見ていきましょう。25節から読んでいきましょう。
2、「神の国のための備え」
「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。』」
25−26節
A, 「神を愛することを強調するために」
ここで「イエスについていく」「弟子」という言葉があります。それは、クリスチャンになることを意味しています。ですからこの言葉はすべての人に向けられていますし、すべてのクリスチャンへの言葉でもありますが、非常に厳しい言葉でもあります。特に「憎む」という言葉もあります。しかも家族や自分の命を「憎む」です。もうここで躓いてしまうかもしれません。しかし実は、このような言い方、表現方法は当時のヘブル語の独特の言い回しだと言われています。つまり、「大事な何かや誰かを愛する」ことを強調するための言い回しで、その愛する対象を強調するために、もう一方の例としてあげられる対象を、低くする。「憎む」という極端な言葉を用いて低くしてまでも、その愛すべきものを強調する、そのためによく用いられる言い回しであるとされているのです。
ですから、まず安心していただきたいのは、イエス様は、決して、家族を憎むことを命令しているのではないということです。むしろ神様は、聖書で一貫して家族を大事にするように教えてきています。例えば旧約聖書でも創世記にヤコブと二人の妻レアとラケルのことを思い出すことができます。そこでヤコブはレアよりもラケルの方を愛するわけです。そこで、創造主なる神様は、「レアが嫌われているのをご覧になって」とあり、そんなレアを憐れまれて、レアに子を授けるという場面があったことを思い出すでしょう。そんな家族で愛されていないレアを憐れむ神が、家族を憎めとは言わないはずです。家族の愛情やその不完全さ、そこにある苦しみをも神は憐れまれ、介入される神様がそこにいるのです。
B, 「神の国の備えのための優先順位」
ですから、イエス様は、決して家族を憎むように言っているのではありません。もちろん、33節でも「自分の持ち物を一切捨てないならば」という厳しい言葉もあります。しかしその前の二つの例え、塔を建てるための予算の準備の話も、戦争に行くための準備の話も、イエスについていくために、弟子となるためには「備え」が必要であり、その備えとして、「自分を捨てて」ということにつながっていることも読む取ることができるのです。ですから、この所は今日の前のところ15節以下で、イエス様が話した、宴会の準備ができているのに、招きを断った三人の人の話から実は、つながっているメッセージだと言うことなのです。その場面は同時に14章のはじめから続いている食事の場面で、ある客の一人が「神の国で食事をする人となんと幸いでしょう」と言う言葉へのイエス様の応答として語られています。そこでイエス様は、全ての人が招かれているが、ある人々は、神の国のことよりも、目の前の目に見える心配、地上の財産や利益や儲けのことや、家族や親戚の結婚のことが気になってしまって、つまり優先順位を間違ってしまい、大事な宴の準備が整っていること、素晴らしい宴会が、つまり神の国がそこにもう来ていて、救い主が来ていることに、全く気づかない。いやむしろ、地上のそれらのことをより優先してしまい神の国が来ているのに拒んでしまうということを伝えていたのでした。そのことと同じ流れで同じことをイエス様は今日のところでも言っていると言うことなのです。
ですから今日のこのところでも「何を第一とするか」ということをイエス様はまず初めに問いかけています。つまり神よりも地上の他のものを愛するとき、優先するとき、その人は、神の国に招かれていて、「もはや誰でも入れる」状況であるのに自らの優先順位で拒むがゆえに入れないのです。ですから、大事な注意点ですが、今日のところで「ついていく」ことも、「弟子になる」こともできないとあるのは、それは「神が、神の方から、拒み、神が積極的にそうする」という意味合いとは違います。それよりも、皆が招かれていて誰でも入れるのにも関わらず、その人々が、財産、地上の物事の方をより優先し、より愛することからこそ、と言うことなのです。それによって避けられない必然である、当然、そうなってしまう、という現実をイエス様が伝えているのがこのところなのです。
それはこの直前の招待の話からも分かります。その場面では神の国には「すべての人が招かれている」のです。ですから、イエス様が、受け入れない、弟子にしないということを言っているのではないことがわかります。すべての人は招かれているのですから。しかしついてきても、神を愛さないなら、神の国はわからない。いや、その宴会の招きに参加するよりも、土地や10頭の牛や、結婚の方が大事であると選んだように、その人は神の国の素晴らしさに気づかない、わからないと言えます。そのような人は、よく聞かれる「悪い土地に落ちた種の例え」にわかるように、むしろ信仰が根付いていきません。その人にとって、神の国はむしろ居心地が悪く、愛する世の物事の方に向かっていくことになります。そのような人は、イエスが受け入れない、弟子にしないということではなく、まさにイエス様がいうように「弟子ではありえない」のです。恵みを受け入れないので、恵みによって生きる新しい命の道についてこれないのです。人間は、神の恵みであるイエス・キリストとその福音なしには、神の国では全く無力なのですから。
それは今日の塔を築くための備えの例えも、戦争に行くための備えの例えも、そうではないでしょうか。人は誰でも大きな計画の前に何が大事か、何が必要か考えます。つまり神の国に入る時にも、何が準備ができているかを問われます。しかし神の国では地上の財産は必要ありません、いやむしろ何の役にも立たちません。ですから、地上の物事や財産を自分にとって一番大事な備えだと備えても、神の国の前で、何の役にも立たないのですから、準備していることには全くならないと言えますし、準備がないと、塔も立てられず戦争での戦略も立てられないのと同じように、ついていくことも弟子であることも不可能なのです。むしろ、その備えについて、イエス様は、27節でこう言っています。
C, 「自分の十字架を負って〜塩気のある塩」
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
27節
イエス様がこのところで、言いたいことは、神の国に入るために、イエス様についていくために、弟子となるためには、「自分の十字架を負うこと」それこそが備えであり、優先すべきことである。そのことだと言えるでしょう。ですからこの後の、34〜35節もこのことから理解されます。
「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるでしょう。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」
34−35節
このことは伝えています。仮に神の国に入っても、イエスについていくことができて、イエスの弟子になったとしても、仮に信仰者になることできるとしても、その「神を優先し神を愛すること」そしてこの「自分の十字架を負うこと」がないなら、それは塩気のない塩と同じであり、味付けもできない、土地の肥やしにもならないで捨てられると。大事な備えは、「神を優先し神を愛すること」そしてこの「自分の十字架を負うこと」。そしてそれが信仰のすべてなんだとイエス様は示しています。そして、それがないなら、信仰は意味がない。それだけでない、それがないなら、地上においても本当の実りにならない。神への愛のない行い、十字架のない行いは、どんなに表向きが良くても、塩気のない塩と同じなのだと、イエス様は教えています。その神を何よりも愛し、そして自分の十字架を負う、信仰こそが、弟子となり、神の国に入るための大事な備え、常に、唯一あるべき、持っているべき必要なものだとイエス様は伝えている。そのことが示されているのです。
3、「罪の現実を示す神の要求(律法)、しかし律法から自由にし平安を与える福音」
A,「その律法を果たすことはできない現実」
しかし、皆さん、その真理の前に誰でも、何よりも思わされるのではありませんか。自分の十字架を負う、その現実を前にしてこそ、そう最初に言いました。14章で一貫している現実として、私達罪深い人間は、この要求に無力であり、自分達の力では、完全に答えられない自分というのを、やはり何より気づかされるでしょう。そうなのです。私たちは神を愛するということ、自分の十字架を負うということにおいて、どこまでも不完全であり、自らではできないものです。むしろ私たちは、皆、生まれながらに神を知らなかったですし、知ってからも初めは拒むことしかできなかったのですから。いやクリスチャンになってもなおも愛すること従うことに、自ら十字架を負うことには不完全で無力です。神よりも自分のことを優先してしまう弱さは皆あるものです。それが人間、皆にある罪の性質です。まさにこのところもまた、私達は、神の前にただただ罪深い自分が示されるだけなのです。誰が救われようか、誰が弟子になれようか、誰がついていくことができようか。この「十字架を負う」という神の要求に自らを照らし出せば照らし出すほどに、そう思わされずにはいられない。私たちの罪の現実の前に、神の国はまさに狭い門ではないか。全く救いようのない言葉に思えてきます。
B,「律法を実現するのはキリスト」
しかしです。今日の核心部分、福音です。まさに、その「エルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進んでいるイエス様」にあって、イエス様の真理と恵みは、常に一貫しています。そうその律法による絶望の中にこそ、イエス・キリストの福音は私たちに輝いているでしょう。今日のところでもイエス様は、大事なのは「自分の十字架を負って」と言っていることです。この「十字架を負って」という言葉をあえて使って伝えています。このイエス様の言葉は、まだ「十字架の前」ですから、実は、これを聞いていた人々は、何を意味しているか全くわからなかったことでしょう。弟子達でさえもです。その言葉だけだと、当時のローマ帝国の重罪の処刑道具である「十字架」しかわかりませんから、それを「負って」と言われても、多くの人が自分と当てはまらなかったことでしょう。「それほど自分は重罪人なのだろうか」「十字架と神の国とどう関係があるのだろう」と、全くつながらない言葉でもあったことでしょう。多くの人は、イエスは革命的な改革でイスラエルの繁栄をもう一度もたらすと期待していたのですから。誰も、イエス様の十字架の死と復活に神の国があるとは思わなかったのですから。しかし私達は今や「十字架を負って」という言葉は何を伝えているかわかるでしょう。それはまさにイエス様がご自身を指しているのだとわかります。ご自身がやがて負って死なれるその十字架のことだとわかるのです。ですからまさに、14章に全てに一貫しているように、そのすべての厳しい要求、律法は全て、実は、イエス様がその十字架の上で、私たちの代わりに、完全に果たされることでもあると言うことなのです。私たち自身は、その神様の要求することに全くかなわないものなのです。けれどもイエス様が十字架でまさに、すべてを捨てて、家族も友も財産も、そして何より「自分の命までも憎んで」捨て去ったではありませんか。「私達一人一人の代わり」に、「私達のために」です。そして、イエスは、私のもの全て、つまり私の罪全てをも、イエス様のものとしてくださった、その代わりに、イエスはそのご自身がした全てのことを、私たちがしたこととしてくださっている、と言うのが、イエス様が与えてくださっている福音であり、信仰による救いであり、それが「幸いな交換」と呼ばれるものです。
C,「事実、十字架の意味することは、聖霊によって知る」
弟子達は、この「十字架を負う」ことの意味を、まさにこの後、十字架のイエス様を見て、そして復活のイエス様と会い、聖霊を受けた時、「自分の十字架を負う」とは何か?それが自分のためであった、イエス様がしてくださった、とわかりました。そしてそのイエス様の十字架によって恵みのゆえに、自分は罪人なのに、神の前に罪赦されて義しい者とされている。そのようにただただ神様が、イエス様のゆえに義も神の国も与えてくださった。そのように神はイエス様を死なせるほどに私たちを愛してくださり、神の国に招いてくださり入れてくださったと、弟子達はその恵みを賛美したのです。そして、その恵みであるイエス・キリストの十字架と復活を信じ受け入れたからこそ、もはや重荷を負うのではなく、神様の恵みであるイエス様に自分の全てを任せて委ねることによって、自由と平安と喜びを味わい、その自由と平安と喜びのうちに彼らは神を愛し隣人を愛し、宣教して行ったのが、キリストの証人、キリスト者、クリスチャンとしての彼らの生涯であったのです。
4、「「自分の十字架を負って」という信仰の賜物」
ですから「自分の十字架を負って」というその信仰、それは決して、律法ではありません。どこまでもイエスにある恵みに始まる信仰の新しい日々です。「イエスが十字架で私の罪のために死んでくださり義を得させてくださった、私もイエスと一緒に死に、新しくされたのだ」というその信仰も、そして洗礼も、どこまでも「与えられる」ものであり、その賜物である信仰と洗礼が、私たちを神の国に与らせるのであり、恵みのうちに私たちを弟子としてくださることこそ、イエスが何より私たちに残してくださったものです。ですから、私たちが今まさにイエス・キリストを信じているのは、神の賜物であり神の恵みなのです。私たちはそのことを信じ、生かされているなら、私たちは「すでに」新しいのであり。そのように私たちは「恵みにより」日々「自分の十字架を負って」生きる信仰と新しいいのちに「すでに」ある。紛れもなく弟子であるし、既に救われてると確信し安心していいのです。その信仰が、私たちを本当に自由にし平安にし喜びで満たしているからこそ、その喜びと平安と自由が、私たちを世にあって塩気のある塩として本当の隣人愛へと駆り立てるのです。今日もイエス様は変わることなく言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひイエス様が与えてくださるものを受け、平安のうちに、世に遣わされていこうではありませんか。
説教全文
ルカによる福音書14章1、7〜14節
スオミ教会礼拝説教
2022年8月28日
この14章は1節を見てわかる通り、イエス様がパリサイ派のリーダーの家に招かれたとことから始まっています。今日の箇所は7節からですが、2〜6節には何が書かれているかを簡単に紹介しますと、その家で、一人の水腫を患った人がいたのですが、そこにいたファリサイ派の人たちは安息日にその病人をイエスが直すかどうかをじっと見ていたのでした。それは、もし直したら、イエスが安息日の戒めに違反したとして訴えるための口実を狙っていたのでした。しかしイエス様は、そのことをすべて見通して、自分から、安息日に癒すことは良いことかどうかを尋ね、もし家畜や息子が穴に落ちたら、あなた方は安息日でも助け出すではないかと、安息日に良いことをすることは神の何よりの御心であり、神様は安息日に人のために働いてくださり、救ってくださるお方であることを伝え、その人を癒したのでした。ファリサイ派の人たちは、最初はイエス様を告発しようと思っていたのに、イエス様はすべてをお見通しだった上、イエス様の言うことはその通りであり、しかも完全と働き病気を治してあげたので、全く反論できなかったということがあったのでした。
今日の箇所は、そのファリサイ派のリーダーの家での食事の席の場面が続いていますが、イエス様は。ファリサイ派の人のある姿を見て例えを語るのです。7節からですが
「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
その食事には、イエスだけでなく、多くの他の人々が招かれていました。その招かれた人々は「上席を選んで」座るような人々でした。つまり社会で、ある程度、地位が高い人々が招かれていたのでしょう。そのような食事の席でした。ユダヤ人社会は非常に厳格な階級社会ですから、そのような食事の席についてのマナーは厳しいものがありました。偉い人、階級の高い人が上席に座るのです。しかしここで招かれていた人々は、その上席を自ら「選んで」座っているとありますから、彼らは周りの人だけでなく、本当に自分自身でもそうだと認めていて、自分は当然、その上座に座るものだと思って座っていることを、このことは意味しています。そのような情景を見て、イエス様はある例えを話すのです。それは婚礼の披露宴に招かれた話です。
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」8-10節
イエス様は婚礼の披露宴に招かれた場合を想定し述べます。もしそのように最初から上席に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまうというのです。これはこのパリサイ派の食事の席で上席を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、仮にそのような例えにあるような場面が起こったなら、まさにその高いプライドが損なわれるのです。イエス様は、そのような上席に選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているのです。ですから、最初から上席に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが、招かれた席では、末席に座りなさいと言います。そうすれば、今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは、「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。
この例えには、イエス様独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、まず、そのようなファリサイ派の人々の心を大部分、占めているものがプライドであることをイエス様は分かっていることを意味しています。それが上席を好んで、選んで座ることに現れているのですが、それは、絶えず恥や面目を気にする、プライドを大事にし生きて行動している彼らの姿であることをイエス様は例えているのです。
けれども、この例えを話すのは、イエス様がただ、「末席に座りなさい」等と、社会的なマナーやあるべき道徳だけを伝えたいのでもなければ、あるいはただ、彼らを皮肉って批判することがその言葉にある本当の目的でもないのです。実はここには、それ以上のことが伝えられていることを、教えられるのです。この例えの最後に、イエス様は、実に意味深い言葉で結んでいます。
A, 「高い、低い」
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11節
「低くされる。高められる」、「高い、低い」とありますが、それは単に人間社会の、階級のことや上下関係のことを言っているのでしょうか?イエス様の神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうか、それはわかりません。そのようなことは一切、書かれてはいません。有名な記録として、弟子のヨハネとヤコブの兄弟は、お母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエス様の右と左において欲しいとお願いした場面がありますが、その時も、それは父なる神がお決めになる、つまり神の御手にあるこ、イエス様は言っただけでしたが、人の側では、全く心配する必要がないという意味でした。
では、このところでイエス様は何を伝えたいのでしょうか?イエス様はここでどのような神の国を示唆しているのでしょうか?まずイエス様は、この11節の言葉で、そのような世の人々や、特にパリサイ人たちのような人々が気にすこととは、むしろ「逆」のところにこそ神の国はあることを伝えようとしていると思われます。それは、神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そして、プライドや恥や面目、面子によって一喜一憂するようなものでも、もちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが、神の国にあって重要なことではない、他に最も大事なことがある、として、イエス様は神の国の真理をこう言うのです。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
と。これと似たような教えを実は、イエス様は他のところでも述べています。弟子たちが誰が偉いかを論じていた場面がありました。その時にも、イエス様が弟子たちに言ったのは、「子供のようになりなさい」と教え、そして「仕えるものになりなさい」とも、イエス様は教えています。
「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい.」(マルコ10:43−44)
と。このように、ここでもイエス様は、神の国にあっては、自分を低くすることこそを神は求めておられ、それが何よりもその神の子にふさわしいし価値があることなのだとを伝えています。みなさん、どうでしょう。この「高くするとき、低くされ、低くするとき、高くされる。」ということですが。このイエス様の例え自体は、わかりやすい例えには思えます。確かに、高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるとき、そのような言葉や、そして、何より「イエス様が真っ直ぐとエルサレムに目を向けて進んでいる」と言う大事な背景を踏まえる時に、実はただ「人と人との間の階級や位」「人と比べての高いか低いか」以上のことをイエス様はここで示唆しているでしょう。
B, 「神の前」
どういうことでしょうか?まずイエス様はこの言葉で、神の国は、そのようなこと「人の前」以上に、「神の前」つまり「神と私たち一人一人の関係」を何より指し示しているということが言えるます。先ほども触れました。このところで「上座を選んで座る人」のその席は自他共に認めて当然のように座る席だったのかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらく、それまで、その例にあるような、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともあまりなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかし、実は、そのように彼らの日常ではあまりあり得ないこと、つまり、自分では気づかないことを、イエス様があえて「もし〜」と言うのは、その彼らのプライド、高ぶりが、「人の前」以上に「神の前で」はどうであるのかこそ、彼らはこの例えで問われているということなのです。
皆さん、イエス様はあえて「婚礼」と言っています。それはイエス様の場合、救い主の到来を示していて、実は、最高の上座は花婿であるご自身を示唆していると言えるでしょう。そう、これは単なる食事の例えではない、それを超えた、救いの到来の例えとして、まずイエス様は語っているのです。しかし彼らはこの救い主がこられた救いの時に、イエスを招いておきながら、まさに神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、彼らは全く気付かないで、人の間の、人の前のことしか見えていないのです。だからいつものように上座に座りました。まさに真の上席に座るお方が来ているのにです。彼らは救い主としてのイエスが見えていないのです。もちろん、イエス様は自分が上座に座りたい、上座を譲れと言っているのではありません。しかし、彼らのどこまでも「人の前」しか気にしていない、人と比べての、自分の地位を誇る高ぶりやプライド、自分を高くしようというその在り方で、目の前の救い主は愚か、神の前にある自分自身の現実さえ気づかないで、自らを盲目にしてしまっている。結果として、「人の前」では自分を高くしようとしていながら、まさに神の前で小さなものとなっているという哀れな事実が、明らかになってくるのです。しかし、それは、決してただパリサイ派だけを示しているのではありません。実はこれは「人の前」ばかりに囚われる時に、「神の前」の自分を見失う、誰でも陥る現実を、イエス様は私たちにも示しているのです。
しかし、繰り返しますが、すでにエルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進み、語っているイエス様です。そのイエス様は、この言葉で、単なる「こうあるべき」という道徳や律法のメッセージだけを伝えようとしているのではないのです。
A, 「神の前の現実:罪人」
みなさん、実に、このようにイエス様の話から「人の前」と「神の前」を示される時、今日も変わらず、何より、聖書が伝え私たちに気づかせようとしている大事な事実にやはりイエスは立ち返らせ導いていると言えるでしょう。そのまず一つは、「神の前」では、パリサイ人も、水腫を患っている人も、世界の王や偉人や聖人も、私たち、そして私自身も、皆等しく、一人一人、どこまでも罪人です。そして何より高ぶる罪人であるという事実です。「義人はいない一人もいない。」とある通りの現実です。私たちの現実は、どこまでも神の前を忘れてしまい、高ぶってしまうものではないでしょうか。そして「人の前」ばかりを気にして、比べて、いつでも自分を王座に座らせたい、あるいは王座に座ってしまう自己中心な存在です。その自己中心さが、私たちの罪深い歩みの糧となっています。だからと律法として「低くなれ」と言われても、自分自身の力で、本当に、完全に、誰よりも、低くなるなんてことも、私たちは誰もできない現実もあるでしょう。むしろそれができる、できている、と思っているなら、そこにすでに高ぶりと愚かさがあるのですが、できると思ってしまうのです。それは、何より私自身にもあることであり、ここで示されるパリサイ派は私自身であることを教えられるのです。しかしまさに、そのように、聖書から、自分の神の前の高ぶりを気付かされる時にこそ、私たちは初めて、神の前の罪の現実を気づかされ、神の前に膝まずかされます。そのように罪を刺し通され、神の前に立つことができなくなり、ただ憐れんでくださいと言うことしかできなくなるのではないでしょうか。そうなのです。その時、まさにこの言葉がそこにあります。「高ぶる時こそ、低くされる」。
B,「低くされる」
繰り返しますが、これは単なる道徳のメッセージではありません。単なる道徳であれば、説教壇から「自分を低くしなさい。高ぶってはダメですよ、自分で低くすれば、神に受けいられますよ。祝福されますよ」で説教が終わり、そのような自分で果たさなければいけない律法の重荷を背負わされ遣わされて礼拝は終わりです。しかし教会の説教はそうではありません。確かにそこには罪を示す律法ははっきりとありました。しかし「低くされる」とあるように、それは「自ら低くなる」という意味ではありません。神が、私たちに律法を持って、神が、教え、神が高ぶりの現実を示し、罪を示すという意味に他なりません。つまり、そのようにこの言葉は、「私たちが低くならなければいけない」と言う道徳や律法ではなく。「神が」律法の言葉で、いつでも高ぶる私たちを「低くする」ということを教えているのです。
C,「真に低くなられたお方」
しかし、イエス様のメッセージは決して律法で終わりではありません。律法が最後の言葉、派遣の言葉でもありません。まさにここでも「へりくだる者は高められる。」と続くでしょう。そのように、低くされ、「神の前」の圧倒的な罪人の現実を私たちが示され知らされ、謙らされるからこそ、もう一つの素晴らしい神の前の事実に私たちは導かれるでしょう。それがイエス様の何よりの目的でありメッセージの核心です。それは。まさにその罪人のため、私たち一人一人のために、まさにそんな私たちを、この十字架によって、その罪から救い出すため、私たちの代わりに死んで、罪の赦しを与えるためにこそ、イエス様は来られた。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた。その福音の事実、現実です。
実に、その福音に、イエス様の真の目的とメッセージは常にはっきりしています。先ほど紹介した、マルコの福音書の10章においても、その後、続けてイエス様はなんと言っているかというと、イエス様は、ご自身こそ仕える者となるために来たと言って、それは十字架によってであると示しているのです。そう、まさに「低くされる」、あるいは、最も小さい者となりなさい、と言う言葉は、単なる道徳のメッセージではない、さらには、私たちを低くするだけでもない、何よりその言葉の実現者が、イエス様ご自身であることこそイエス様が伝えているということが示されていますね。つまり「低くなる」「仕える」は、何より、イエス様が、私たちのためのこの十字架に全て成就しているということが何よりも気付かされるのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10章45節
イエス様こそがまさにこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われます。けれども神は、その死にまで従われ、究極まで低くなれたイエス様を、復活させ、そこに神の栄光があり、そこにこそ神の国、真の勝利と救いがあることを示しているのです。実にその十字架と復活の福音の力こそ、イエス様が私たちに与えてくださった最高の天の宝ではありませんか。そして、その福音こそが、高ぶっていた私たちが低くされたときに、
「へりくだる者は高められる。」
そのことを信じる私たちに実現する力だということなのです。十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認めさせられ、神の前にへりくだらされ、ただ憐れんでほしいと願った時、そこに罪の赦しがイエス様から与えられて、天国の約束があったでしょう。低くされたもの、謙らされたものを神はいつでも高めてくださいました。それは私たちにおいても同じ約束なのです。私たちは皆神の前にあります。しかし神の前に高ぶってしまう罪深い存在です。そのことを日々教えられる、刺し通される、苦しむものです。それは痛みの伴なうことなのですが、しかし、それは神が私たち一人一人を低くするために働いているのです。それはクリスチャンであれば、誰でもあることであり、日々あることです。聖霊が与えられている私たちはますますそのことに敏感になります。悔い改めは日々当然あるのです。ないわけがない。しかし、それは聖霊とみ言葉が私たちに日々生きて働いている証拠なのです。なぜなら、そのように低くされ、謙るようにされるからこそ、イエス様によって救われる。罪を差し通されるからこそ、十字架の輝きがいのちであるとわかる。そのように、その十字架のゆえに、日々罪赦されるからこそ、、日々、イエス様が与えると言われた平安が私たちを支配するのです。そのように、私たちを、最終的には、何より高めるためにこそ、イエス様は私たちを日々、まず最初に低くされるのです。キリスト者の生活は、日々、その連続であり、そのことを通して、イエス様は私たちの信仰を日々、新しく、強めることによって、高くしてくださるです。
イエス様は今日も悔い改めイエス様の前にある私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ、罪の赦しを受け、安心して今週も遣わされて行きましょう。
ルカによる福音書13章10〜17節
2022年8月21日
1、「会堂にいた彼女」
今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。
まず10節、会堂にいるイエス様ですが、イエス様は、安息日にはこのユダヤ人の会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていましたが、この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。
「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」11節
とあります。もちろん全ての病気がそうだというのではありませんし、私たちにとっては馴染みのない、また理解し難い言葉ではあるのですが、その病気は霊によるものであったことがわかります。「病の霊」の働きで、腰が曲がってしまって、伸ばすことができない、そんな状態を、彼女は患っていたのでした。しかもその時間があまりにも長いです。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。
しかし彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていた、つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、
2、「この女はアブラハムの娘なのです」16節
「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」
と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味していません。もしそうであるなら、全てのイスラエル人もアブラハムの子孫です。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、アブラハムから連なる「信仰による義」の相続者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、義は主を信じる信仰にあったのであり、主はその信仰こそを見て、義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。それはパウロもローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節
「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」
と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。
3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」
けれども、病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。
ここで不思議に思う方もいるのかもしれません。それは、信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような人は、何か罪を犯したからだ、律法に背いているからだ、神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられるのが一般的でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。カリスマ系の教会や、熱狂主義的な教会、律法的に導く教会などでは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だから信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい」と教えられたりすることがあるのです。
そうではなくても、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練は、祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そう考える人は少なくないとも言われます。
しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病と彼女の業や信仰とをつなげません。むしろ彼女のその信仰のみをイエス様は見て言うでしょう。
「この女はアブラハムの娘なのです。」
4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞
みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉でしょう。「アブラハムの娘なのです」と。素晴らしい言葉です。もちろん私たちの目から見るなら、人間ですから、誰でも不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるのは当然です。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、それが私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、そこから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかがわかるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰生活というのは決して、私たちが何かをしなければいけないという律法ではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。
5、「祝福のはかりは律法ではない」
つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、患難がありますと言いました。その中で、私自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできないときも必ずあります。まさに彼女のようにです。それらの事柄がすぐに解決ができず、18年、いやそれ以上、かかるときもあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、そのようなときも現実的にあるでしょう。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも、罪の世を生きているし、なおも罪人であるのですから。救われて義と認められても、義人にして同時になおも罪人でもあります。聖書にある通り、古い人と新しい人の両方があるのですから。
しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもありません。むしろそうだというなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節からいうなら、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いの中、サタンの誘惑や攻撃の中で、日々、戦って生きていき、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。
6、「福音の実」
しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも神の前にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところにある通りであると証ししているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、まさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵みであるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、彼女にそのようなイエス様の実らせる実が実ることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。
皆さん、それは派手でも劇的でもありませんが、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全で苦しみの中、神にすがっているだけです。しかしそれが「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。
7、「律法を基準とする会堂管理者」
けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節
「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているかのその自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。
8、「イエスの目は福音の目」
けれども、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16節
「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」
安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では
「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。』」マルコ2:27〜28
と。ヨハネの福音書でも、イエス様は
「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』 」ヨハネ5:17
と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。
9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」
私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されてここに集められていることでしょう。しかしそれはそのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。イエス様は罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、それでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。
事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性がある理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあり、私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。
今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。
司式・説教 ティモ・ハヴカイネン宣教師
礼拝をYouTubeで見る
聖書 エレミヤ23:23-29
ヘブライ11:29-12:2
ルカ12:49-56
讃美歌 238,131,467,154
音楽 マリ・リ-サ・ハヴカイネン
ティモ・ハヴカイネン
ヴィデオ編集 ティモ・ハヴカイネン
礼拝をYouTubeで見る 8月7日10時30分~
聖書 創世記15章1-6節
ヘブライ11章1-3節
ルカ12章32-40節
讃美歌 244,236,200,371