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今日の説教
ルカによる福音書11章1〜13節
2022年7月24日
説教者:田 口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「はじめに」
このところはイエス様がイエスご自身の祈りである「主の祈り」を教えられるところです。マタイの福音書でも主の祈りを教えられる場面が書かれていますが、今日のこのルカの福音書と違いがあります。マタイの福音書では、山上の説教の場面ですし、内容はほぼ同じなのですが、言葉がすこし長めです。しかしそれはマタイとルカで一つの出来事を矛盾して述べているということではありません。イエス様は一回だけでなく様々なところで、この主の祈りを教えていたとも言われています。それぞれ場面が違うところで、イエス様は、この祈りを繰り返し教えられたということです。そして何より大事なのは、イエス様がこの祈りを教えた目的、つまり、この祈りを教えることで、何をイエス様は私たちに語りかけているかということです。それが今日のところではよくわかるのです。
2、「祈るとき、こう祈りなさい」(2〜4節)
まずこの状況ですが、イエス様がある所で祈っていました。そして祈りから帰ってきたときに、弟子の一人がイエス様にいます。イエス様、「私たちにも祈りを教えてください。」と。しかしそれは「ヨハネが弟子たちに教えたように」ともあります。それはバプテスマのヨハネのことを指しています。彼にもたくさんの弟子がいました。当時のユダヤ教では、定ったことばの祈りが一般的でした。製本された本などはありませんので、そのような定まった祈りを暗記していたのでした。現在のユダヤ教には、祈祷書というのがあります。キリスト教にも祈祷書はあります。初代教会から、教父達の時代も、ルターの時代にいたるまでもありましたし、ルター自身も、祈祷書を書いていますし、今でも聖公会やルーテル教会にも祈祷書の類が使われています。そのような本の形ではなかったのですが、ヨハネも定まったことばの祈りを教えていたようです。同じようにイエスの弟子達も祈りを覚えたかたったのでした。イエス様は、それを拒まず、喜んで弟子達に祈りを教えるのです。
「そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」2〜4節
ルカでは「罪」と「負い目」と両方のことばが使われていて、同じ意味として用いています。私たちは人に対してだけでなく、何より神に対しても重い負い目を負っているという意味が、「罪」にも「負い目」にもあるということでしょう。
イエス様はこの主の祈りを、あらゆる場面で、様々な人に教えました。こう祈りなさいと。マタイの福音書の「山上の説教」のことろでは、見れられたくて祈るような律法学者やパリサイ人達のようではなく、あるいは同じことばを繰り返すような祈りでもなく、「あなたがたがお願いする先に、あなたたがたに必要なものを知っておられる」神に、こう祈りなさいと言って、この主の祈りを教えています。つまり、私たちの必要なものをすでに知っておられる神に、祈りなさい。願いなさい。求めなさい。イエス様はいつでも人々にそのようにこの祈りを勧めていたのでした。そして、この主の祈りは、すべて「〜なるように。与えてください。してください。」と「願い求める」ことばで書かれているでしょう。このことからも、イエス様がこのように教えるように、父なる神に「願い求める」ということは、むしろ主ご自身が求めておられることなのだということがわかるのです。
そこで、その主の祈りを教えることに込められているイエス様の思い、そして、祈り求めることの素晴らしさ、大切さをさらに説明するために、イエス様は、弟子達にこのようなたとえ話を始めるのです。
3、「あくまで頼み続けるなら」(5〜8節)
「また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
5〜7節
まずこの話は、人間同士の営みとして語っていることは重要な点です。その前提で見ていきますが、3人の友人同士のやりとりです。しかもすべて真夜中です。旅の途中にやってきた友人も突然だったようです。家には何も食べるものがありません。当時の食事は、店にパンなどが売っているのではなく、材料を買ってきて作って食べます。しかし夜中、その材料自体がなく、買いに行くこともできません。そこで別の友人に真夜中にお願いにくのです。パンを三つ貸してくれないかと。それに対して頼まれた方も「面倒かけないでくれ。もう子供達も寝ている」といいます。当時の人々はそれぞれに個室や寝室があるのではなく、皆一緒に寝ていたとも言われていますので、そこでパンを準備することは、作り始めるのですから、家族じゅうが起こされることになります。まさに面倒なことです。ですから断るのです。しかし、8節でイエス様はいいます。
「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」8節
「しつように頼めば」とあります。別の聖書の訳ですと、「あくまでも頼み続けるなら」とあります。これは「なおもずうずうしく頼み続けるなら」という意味合いのことばです。そこまでも頼み続けるなら、とりあえず何か必要なものを与えて行かせるでしょう。とイエス様は言うのです。イエス様は、人間同士、友人同士のやりとりとして話していますが、あくまでも頼み続けるなら、それが不本意でも不機嫌でも迷惑でも、してあげることがあるのではないか。そのようにいうのです。
4、「求めなさい」(9〜13節)
この例をもとにイエス様はこう続けます。
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」9〜13節
先ほどの例えを、イエス様は人間同士、友人同士のこととして話し、人間同士であっても、あくまでも頼み続けるなら、それがずうずうしくてもしてあげることは沢山あるということでしたが、イエス様はここで強調するのです。人間同士でもそうであるなら、人よりもはるかに大きな愛に満ち溢れる父なる神は尚更ではありませんかと。イエス様がここで私たちに伝えたい大事な点の一つです。神様は人以上の方です。その愛も憐れみも深く計り知れません。それは一人子を私たちの罪のために十字架にかけるほどの愛だと聖書は伝えているでしょう。このところは、神は決して人間とイコール。人間がこうだから神もこうだというメッセージではありません。人間でさえもそうなのだから、神はそれ以上ではないか。というのがイエス様が主の祈りの説明にこの例えを用い、そして「求めなさい」と続く、大切な点に他なりません。そして、イエス様はここで「父」と「子」の関係を取り上げ語っているでしょう。その祈りの関係にあるのは父と子の関係であり、父と子の愛です。そこでも人間であってもそうなのだから、それほどまでも世を愛し、私たちのような罪人でさえも、子供と呼んでくださる神なのだから、その求める子供に良いものを与えないはずがあろうか。子供が魚をくださいと言っているのに、蛇を与えるような父があろうか。父は当然、蛇を与えないのです。しかもその父は、天の父を指しています。神はあなたがにとって、蛇を与えるようなそんな神、お父さんであろうか。子供が卵をくださいといっているのに、さそりを与えるようなそんな父、そんな神だろうか。イエス様は問いかけているのです。蛇は、ご存知のように狡猾な存在だと聖書では言われ、まさに罪の誘惑の象徴です。毒をもっています。サソリも毒で人を殺すことができます。まさに悪いもの、誘惑、死、滅びを象徴するのが蛇でありサソリです。しかし、子が求めているのに、そのような良くないものを、悪いものを、父なる神は与えるのだろうか。人間の父でさえもそんなことはしない。まして人間と比べ物にならない遥かに優れて完全で計り知れないほど大きな愛で満ちている、天の父なる神は、そんなことをするはずは全くないということをイエス様は私たちに伝えています。求める先から、必要なものをしっていてくださる神様です。魚が欲しいと言っている子に、卵が欲しいと言っている子に、そのものを、良いものを与えてくださるのが父なる神様である。イエス様は言っています。そのような人間の愛にはるかに勝って与えてくださる父なる神様にこう祈りなさいと、イエス様ご自身が教えてくださっているのが、この主の祈りであるのです。そして、それは決して、ただ祈るための祈り、定式化した文面をただ繰り返したり人に見せたりする祈りではなく、子がお父さんに求めるように祈る祈りであることを、イエス様は私たちに教えていると言えるでしょう。ですから、いいます。9〜10節
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
「求めなさい。」「探しなさい。」「叩きなさい。」と。そうすれば「誰であっても」、「与えられます。開かれます。見つかります。」と。そう言います。
5、「そうすれば、与えられる」
そしてこの言葉に鍵があります。求めなさい。叩きなさい。探しなさい。そうすれば「得ます」「開きます」「見つけます」とはありません。つまり、求め、探し、叩くとき、「私たち自身が得て、見出し、開くのではないということがわかるのです。世の精神論や自己啓発論や、根性論は、むしろ夢や目標を追い求めるとき、自分自身がその努力で得る、開く、見出すことができると教えるでしょう。もしかしたら、律法的な教会や、福音を道徳に上手く変えて教えるようなキリスト教会でも、そのように宣教や生き方を、教えるようなところがあるかもしれません。しかし聖書はそのようなことを言っているのではありません。求めなさい。探しなさい。叩きなさい。そうすれば、「与えられます」「受ける」「開かれます」です。受動態で書かれていて、つまり、与える方がいること、開いてくださる方がいることを示唆しているでしょう。そして「見つけます」も、それは答えを与える方がいて、その与えられた答えをみつけるという意味であることがわかるのです。ではそれは誰でしょう。それは言うまでもなく、父なる神様のことを言っています。ですから、11〜12節の言葉があるのです。父が与えるのだと。このように主の祈りにある幸いは、その父に求めるよう主ご自身が律法としてではなく、福音として恵みとして教えているという幸いです。そして求めるときに、「父なる主が必ず与えてくださり、開いてくださる。必要なものを与えてくださる。その約束と成就がこの祈りにはあるのであり、そのように主にどこまでも求めなさい。それが主の祈りの意味です。ですから、このイエス様が教えるイエス様の祈りの願いの一つ一つは、イエス様が既にご存知である、本当に私たちに必要なことを示唆する祈りとしても教えられています。最初の「御名が崇められるように」「御国が来ますように」という願いー事実、なんでも私たちの欲のまま、思い通りになることが、本当の真の幸せや平安につながるとは言い切れません。むしろ、御名があがめられること、御国が来ることこそ、私たちの救いであり平安となります。「日毎の糧を与えたまえ」という願いー日ごとの糧も必要な大事なもの、神様はそのことを知っているし、神は与えてくださるという約束です。そして「罪の赦し」を祈るようにイエス様は教えています。罪の赦しは救いの核心です。罪赦されなければ天国に行けません。しかし神は悔い改めるものに、必ず「罪の赦し」を与えてくださることをイエス様はこの祈りに示唆していますが、それは何よりイエス様はそのために来られた、その十字架に立ち返らせる言葉でもあるでしょう。そして更には、そこには、私たちも互いに赦し合うことができる希望と幸いもあります。その互いに愛し合うこと、赦しあう事は中々難しいことでありますが、その全ても、求める時に、神が私たちに与える福音の力で、今はできないと思えることをするようにしてくださるという約束でもあるでしょう。さらには、「試みに合わせず悪から救い出したまえ」という言葉ー神は試みから、試練から、悪から、助け出してくださる約束があるのです。この全てが「祈り」であり、「与えられます」なのですから、つまり、主の祈りは、私たちが、自らそれを達成しなければいけないという律法ではなく、神が助けてくださるのだから、こう祈りなさいなのです。つまり福音です。主の祈りの一つ一つの請願は、本当に私たちの人生、新しいいのちの歩みにおいても大事な大事な必要な一つ一つのことです。それを神は知っておられ、与えてくださる。その神に、父に求めなさい。探しなさい。叩きなさい。そうすれば、神は答えてくださる。与えてくださる。開いてくださる、と約束してくださっているのです。事実、今日の最初の朗読、アブラハムは、主の使いがソドムを滅ぼしに行くということを知った時に、甥のロトのことを思い、ロトの赦しと救いのことを願います。ソドムの圧倒的な堕落とそこには信仰者はわずかしかいないのを知っていながらも、アブラハムは何度でも繰り返し、主にしがみつくように、「50人では?」、「45人では?」〜「10人では?」と、ロトの救い、赦しを求めるでしょう。その求めに対して、主は10人の信仰者がいるなら滅さないと約束してくださったでしょう。もちろん、5人さえもいなかったので、ソドムは滅ぼされましたが、アブラハムの心配を主は知り、ロト家族を赦し助け出してくださいました。主にすがり、主に求めることは主によって与えられている素晴らしい恵みであり、とても素晴らしい勧めなのです。祈ること、求めること、そして神が、私たちの必要を知り、備えてくださる良いものを受けること、これが、私たちの新しい歩みの素晴らしいさに他なりません。それがイエス様が教え与えてくださっている主の祈りにあるのです。
6、「真に「必要なもの」を与える
そして、そう祈るためには何より信仰を持って祈るのですが、イエス様はその必要な信仰さえもきちんと配慮してここでは教えています。13節では、そうであるならと、私たちにとっての何より必要なもの、最高の宝物を備えてくださり与えてくださることを示しています。求める子供に良いもを与える神は、子供たちも思いもしない、自らでは決して手に入れることもできない、最高の必要、真の必要、本当の必要、本当の良いものを用意してくださり与えてくださるというのです。それは正しく、み言葉を通して信仰を与え、信仰を支え、常に助ける聖霊のことであるであることを伝えているでしょう。聖霊は何よりも素晴らしい神様からの贈り物であり私たちの本当の必要です。ヨハネ14章では「助け主」ともあります。世には数々物質的な素晴らしい恵みがあり、神はそれらも与えてくださり、私たちはその恵みを受けています。しかし目に見えるもの形あるものは、やがて必ず朽ちていくものであり、永遠の希望や平安をもたらすものでは決してありません。しかし、それらにはるかに勝り、そのひと時のものではない、比べ物にならないほど大きく永遠のものを確かに与える最高の存在が私たちに与えられていることをイエス様は私たちに伝えています。それは聖霊であると。皆さん、聖霊が与えられているということは、一番です。最高です。なぜなら、聖霊こそ福音を通して私たちに信仰を与え、救いを完成するからです。どのようにしてでしょうか?聖霊こそ、み言葉に働き、み言葉を通して真理を教え、まず私たちに罪を気づかせ、悔い改めに導き、そして、福音の素晴らしさ、救いの素晴らしさ、罪赦されていることの素晴らしさ、十字架と復活が私たちのものとされているその奇跡と恵みを信じさせ、確信させるからです。そのように、私たちの何かではなくて、神が、キリストが、そして聖霊が、どこまでも私たちに働き、聖め、まさにその恵みのうちに、イエス様が与えると言われた、確信と特別な平安の義の実に与らせる。それは救われた私たちにとって何よりの必要であり、それが真の幸いと喜び、平安になるでしょう。それが私たちの新しいいのちの歩みです。それを実現する聖霊が、洗礼を受けた一人一人には与えられているのです。ですから、洗礼を授けられているなら、皆さん、安心してください。皆さんは、既に救われているし、既に祝福されているのです。まず私たちの側で一生懸命何かを達成するから祝福されるのではないのです。信仰が与えられ、洗礼を授けられ、聖霊が与えられていること自体が、もう祝福なのです。そして、私たちの日頃の不信仰さや不完全さがあるとか、自分の罪深さを見て救われていないのではないかと思う必要もありません。その救いは神の約束のゆえであり、私たちの何らかの行いのゆえではないのですから、今、信じて洗礼を授けられているのなら、私たちには救いの確信があるのです。神の約束のゆえ、み言葉のゆえに、安心していいのです。そしてその信仰の歩みは、聖霊がみ言葉の約束と力を持って、天の御国に入れられるまで、私たちに確かにしてくださるのです。
7、「キリストに結ばれ:新しいいのちを平安のうちに」
第二の朗読コロサイ書に「キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、溢れるばかりに感謝しなさい」(コロサイ2章6〜7節)とあるように、私たちは、この新しい週も、主イエス様の十字架と復活の罪の赦しと新しいいのちの宣言を受け、平安のうちに遣わされていきます。それは、主イエス様にあっての新しいいのちの歩みです。その新しいいのちの日々を聖霊が助けてくださいます。イエス様は今日も、私たちの日々新しい命の歩みのために、何より必要な罪の赦しと平安を宣言し与えてくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ主の祈りの幸い、求めることができる幸いを覚えながら、イエス様の名によって祈り求めるつつ、希望のうちに歩んでいきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
ルカによる福音書10章38〜42節
2022年7月17日:スオミ教会主日
説教者:田口 聖
今日のところは、マルタとマリヤの姉妹がイエス様を自宅に招いた時の出来事です。この出来事をルカは、先週の箇所である、善いサマリヤ人の例えの後に記録しています。不思議に思わされるのは、出来事の表面だけを見るならですが、先週の善いサマリヤ人の例えは、究極の隣人愛が語られ、「それをするように」という律法の教えであったのでしたが、しかし今日のところは、イエスのためにと、忙しく労するマルタに対してイエス様が語っていることは、それとは正反対のように見えることです。けれども、いずれの出来事も、イエスが伝えていることも、決して矛盾するイエス様やその教えを記しているのではありません。先週の善いサマリヤ人の譬え話でも、大事な背景、文脈として、イエス様は、エルサレムの十字架に向かってまっすぐと歩んでいるということがありました。そして、その大事な前提があるからこそ、イエス様ご自身こそが、皆のための真の隣人、真の善いサマリヤ人なのだということや、そのイエス・キリストへの信仰、あるいは「キリストにあって」生きることこそ、新しいいのちのあゆみであり、良い行いをすることや隣人を愛することにおいても、それが何より大事なことなんだ、ということが見えてきたでしょう。その大事な、イエス様の一貫した背景や文脈、土台となる前提を見ていくならば、このマルタに話していることも、むしろ先週と変わらない、同じ福音のメッセージがあることがわかるのです。
2、「マルタとマリヤ」
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」38節
「彼らとあるのは、イエスと12人の弟子たちを含む一行です。そこには、12人の他にも沢山の人がお供していたともいわれています。そして彼らは、多くの物を持っての旅ではありませんので、訪問する街や村で、迎え入れてくれる人々の家で食事をしたりするということはよくあったのでした。この村では、マルタという一人の女性が家に迎え入れてくれたのでした。この後のところからもわかるように、彼女は、その大勢の人々の食事の準備のために忙しく動き回ります。一人でかどうかわかりませんが、台所と食事の部屋を忙しく走り回っていたのかもしれません。
けれども、マルタにはマリヤという姉妹がいました。そんなマルタが忙しく、イエスのためにもてなしている中、マリヤですが、
「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」39節
妹のマリヤはイエスの伝えるみことばに聞き入っていました。「主の足もと」というのは、これは学ぶ者が、教える人の足もとで聞き学ぶ当時の姿を現しているとも言われていますし、まさに足もとは、ことばがまさに口から流れ出てくる、最も近い場所、そして最もよく聞こえるところです。そこに座って、みことばに聞き入っていたのでした。
そんな時です。
「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」」40節
マルタの気持ちはよくわかります。そして、「おそらく」でしかありませんが、やはりマルタも、イエス様のみことばを聞きたかったのではないかとも思います。しかし、食事の準備をしなければいけない。そのことがまず先で、頭がいっぱいだったでしょうし、妹が手伝ってくれれば、早く終わって、自分も聞くことができるかもしれないとも、ひょっとしたら思ったのかもしれないです。詳しくは書いていませんが。マルタのいろいろな思いを想像することができます。
3、「マルタの心配とそれを受けとめるイエス」
しかし、マルタは、それをマリヤではなく、イエス様に言ったのでした。結果として、「あなたは何ともお思いにならないのでしょうか。」と、マリヤだけでなく、イエス様も責める形となってしまいました。他の聖書の訳では当初は、マルタもイエス様を「喜んで迎えた」とも書かれていますが、そのように「喜んで迎えたはずであったのに、この時には、もう「喜びではなく、イライラ、そして誰かを責める気持ちでいっぱいとなってしまっていることがわかるのです。
しかしそんなマルタに対して、イエス様はどうでしょう?
「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」41節
まずここで教えられる、この聖書箇所の一つの幸いは、「マルタ。マルタ」という語りかけです。この二度名前を呼ぶ呼び声は、イエス様のその人に対する、深い愛情のこもった、優しく諭す、呼びかけを表しています。皆さん、マルタはイエス様を責めました。しかしイエス様はそれを責めるのではなく、むしろ優しく応えます。イエス様はそのようなお方なのです。聖書では、よく、自分の感情をぶつけるように思いのまま神に叫んでいる人々の出来事やことばが記録されています。しかし多くの場合、それが不平や責めであっても神は受け止められることが書かれています。旧約聖書の出エジプト記では、燃える芝の山で召された時のモーセも、彼は自分の思いのままに神の言葉や約束を打ち消し否定し拒むでしょう。試練の中のダビデもそうでした。彼の苦難の中の嘆きの言葉は、詩篇には沢山あります。あのニネベに遣わされた預言者ヨナも、ニネベに行く前も行った後そうでした。不満や不平に近い言葉を言います。他の預言者たちもせっかく伝えた神のみことばを拒む民を前にして、希望を失い、神に嘆きのように叫んでいるところは幾つもあります。しかしいずれも、そのような時、神様は、それが嘆きや神を責めるようなことばであっても、きちんと受け止めておられます。そしてそれにみことばを持って、諭し、教え、再び、導いています。新たな道へです。このように、私たちがどのような態度か以上に、神様は、私たちが神様に語りかけること、装ったり偽りで自分を塗り固めるような良くみえる行いや言葉でもない、心に隠し事のない正直な思いをぶつけること、それが、今は信じられないとか、自分の弱さや悲しみがあからさまになるような叫びであっても、マルタのように責めるようなことでも、どのような形であっても、私たちが「助けてください」と、率直に素直に、子供のように、求めることを、とても大事にしておられるのが昔も今も変わることのない私たちの神であり、それが主イエス様であり、この「マルタ、マルタ」という語りかけにあることがわかります。そして、そのようなとき、いつでも、イエス様は私たちの名前も優しく呼び、そして、ことばをもって教え、みちびてくださるお方なのです。詩篇にはこのような言葉があります。
「彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。主は心の打ち砕かれた者の近くにおらえ、霊の砕かれた者を救われる。」詩篇34篇17〜18節
神様は「完全な完成された私たち」の神ではありません。不完全で罪深い私たちの神、救い主となってくださっています。だからこそ、私たちはいつでも神の「子」と呼ばれるでしょう。神は、良い子の父でもありません。神様は不完全な罪深い子供のために父となってくださった方です。神様はそのことをよく知っています。忘れることはありません。そして、そのような不完全でなおも罪深いが、ご自身の愛を知りすがる子供と交わり、ともに歩み、ご自身の語るみことばをもって、いつでも、正しく教えること、助けること、平安の道に導くことを喜びとしています。ですから、子供が父に、「なぜ」、「どうして」、と叫んだり嘆いたりするように、どんな時でも、それが神様に「なぜ」「どうして」「神様どうしてなんですか」という嘆きであっても、神様はそのように私たちが祈りを持って語りかけ、求めることを何より望んでおられます。そしてその時に、神様はみことばをもって語り、教え、正しい道、私たちの思いや願いを遥かに超えた最善を、導いてくださるのです。
4、「イエスは仕えられるためではなく」
イエス様はマルタに言っています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と。もちろん、マルタのもてなしも、大事なことです。そしてイエス様もそれを嬉しいし、当然、喜んでいるでしょう。しかし、イエス様は「わたしにあってはいろいろなことを心配しなくて良いのだよ。気を使わなくて良いのだよ」とおっしゃってくれています。2週前の説教で、イエス様は「平安を与えるために」来られたと伝えました。つまり、イエス様ご自身が言っているように、イエス様は、仕えられるため、もてなされるために来られたのでもありません(マタイ20章28節)。どこまでも与えるためでした。福音、みことば、いやしを、与えるためであったでしょう。そして十字架による救いこそ、神が、神の方から、イエス・キリストによって、私たちに与える、最高のプレセントです。その十字架と復活によって「世が与えるのではないわたしが与える平安を与える」(ヨハネ14章27節)と、あり、復活の日の朝もイエス様は「平安があながたがたにあるように」と入ってくるでしょう。与えるイエス様。「平安」を与えるイエス様です。今日の最初の聖書朗読、創世記18章ですが、3人の訪問者、一人は人となられた主キリストその方です。そこでも、アブラハムは、一生懸命もてなしますが、主キリストは、アブラハムにもてなされるためにやってきたのではありません。10節の、アブラハムとサラ夫妻には全く思いもしない信じられない、素晴らしい恵みの約束、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」という福音を伝えるためであったでしょう。そう、キリストは、私たちに何かをされるため、仕えられるために来るのでも、もてなされることを目的に来るのでもなく、どこまでも「与えるために」来られるのです。事実、復活の後、イエス様は、平安を与えるためにイエスの方から閉ざされた戸を入ってきましたし、そして、湖の畔で、弟子たちがイエスのためにではない、イエスが、弟子たちのために食事を準備して待っているというところもあるでしょう。そして、その後も、イエスは、ご自身が「与えた」約束の通りに、聖霊を、私たちに「与えてくださいました。そのように、聖書には、イエス様は心配されるため、仕えられるため、もてなされるために来たのではないという、大事なメッセージがあります。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」別の聖書の訳ですと、「あなたがいろいろなことを心配して、気を使っています。」とあります。イエス様にあって、イエス様の前にあって、イエス様のためにいろいろなことに思い悩み、心乱し、心配したり、気を使ったりするのは、あなたがたのすることではありません。いや、思い悩み心配する必要はない。気を使ったりする必要はない。イエス様はそう言ってくださっているのです。そして、こう続けます。
5、「どうしても必要なことは一つだけ」
「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」42節
イエス様は、どうしても必要なことは一つだけだと言っています。そして、マリヤはその良い方を選んだのだと。このところは日本語ですと、「良い方」とただ書いているだけですが、ギリシャ語では「メリドス」ということばです。これは、ご馳走の比喩で、一人分、一皿分の食物という意味です。ですから、まさに、マルタによって忙しく準備されようとしているご馳走を例にあげて語りかけていることを見ることができます。どうしても必要な一つの良い方、真のご馳走、それは、何かというと、マリヤがイエスのみことばを聞いていたということです。確かに食事も体の養いのために重要なものです。食べれるとき、それは楽しく美味しく満足するのです。しかし、食べたものは体から出て行きます。そしてまたお腹がすきます。物質のご馳走、そしてそのご馳走の一皿分の食事はそのようなものです。もてなしも大事です。しかしそれは、平安と喜びを持ってやる自由な奉仕でなく、誰かを責めるための律法を動機とするものであるなら、律法に縛られていますし、その立派なもてなしや行いは、「人の前」で、自分のメンツを立てることはできても、「神の前」に自分を正しいとするのでも、救うわけでもありません。それは、物質的なご馳走の一皿と何ら変わらない、一時の消えゆく満足や安心に過ぎません。けれども、イエス様が言いたいのは、マルタへの批判とか、マルタがしなくていいことをしているとかそういうことでもなければ、ただのマルタへの断罪や律法でも決してありません。そうではなくて、どうしても必要なこと、本当に大事なこと、いつまでも残るもの、そして、それこそ私たちを救い、新しくし、真の霊的に養う霊のご馳走は、何か?ということです。それは、「わたしのことばである」「わたしの言葉を聞くことである」ということを、伝えたかったのです。ですから、おそらく、マルタも聞きたかったそのイエス様のことばを、イエス様はマルタに、「ご馳走などの食事に気を使ったり心配したりしないで、あなたもこっちに来て、霊を養ういのちの食事であるわたしのことばを聞きなさい」と言っているように教えられます。
6、「イエスが仕え、与えてくださる恵みの礼拝」
本当に、どうしても必要なことは一つだけ。イエス様ははっきりと言っています。イエス様をもてなすために、精一杯のご馳走を作るために、いろいろなことを心配したり、気を使ったりするのが、クリスチャンの何よりまずすべきこと、それが、新しい生き方の表し方、それが、教会であり奉仕でなければならない、まず私たちが何かをしなけれならない。等々と思ってしまいやすいかもしれません。しかし、イエス様が見ているのは逆であるということです。大事なことは、イエス様が私たちのために備えて、仕えてくださる時間と、そこで提供されているイエス様からの真のご馳走、神のみことば、聖餐式がある時は、まさに目に見える福音であるイエス様のからだと血、そのキリストの恵みであり、それをまず私たちが聞く、受ける、食するということです。そのように平安にされて安心して出ていくのが、真の愛のわざや奉仕になるのですが、それより先に、何よりまず、イエス様が私たちのために仕えてくださる、それを受ける、聞く、食するというのが、私たちの新しい生き方の何よりの原点、源、何より大事な一つなのですl。イエス様が仕えて下さり、みことばを語ってくださる。罪の赦しの福音を、いのちの福音をあたえてくださる。それを聞くこと、受けることが、どうしても必要なことだとイエス様はいっているのです。まさに今日、私たちが礼拝に集められていることがその時です。礼拝は、旧約の記録から新約に至るまで、いつでも、つまり、アブラハムの祭壇も礼拝などから、イエスの生涯、最後の晩餐の聖餐や、復活の後の食事までも、どこまでもイエス様が備え、集め、給仕し、ホストとなり、私たちに仕えて下さる時でした。そのようにして、イエス様が与えてくださる、みことばと聖餐を受けることが、イエス様の最後の晩餐の時、そして初代教会から変わることのない、キリスト教会の礼拝でした。私は、ルーテルにありながら「礼拝は私たちがキリストのために備え私たちがキリストに捧げ仕えるものだ」という福音派の「律法として礼拝」の考え方にずっとあったものですから、このスオミ教会のルーテルの礼拝が、その式文の一文一文も、その順序も、そのようにイエス様が私たちに仕えてくださり、恵みを与えるための礼拝となっていることがいかに素晴らしく聖書的なものであるのかをここで毎週、経験し教えられております。その礼拝に今日もイエス様によって一人一人集められていることは素晴らしい恵みなのです。どうしても必要なことはただ一つ。その良い方を選んだ。本当の良い方の、本当の魂の糧の一皿を、マリヤは選んだ。そして、イエス様が語ってくださるみことば。与えてくださるみことばを受けた。聞いた。そのことはこの礼拝にあるのです。
そして、「マルタ、マルタ」と、マルタをそこに優しく招かれているように、イエス様は私たちにも同じように名を呼んで仕えてくださっているのです。私たちがイエス様のためにと、何も心配する必要はない。気を使わなくていいのです。私たちが何かをするからイエスが何かをしてくださるでもありません。これはイエス様が私たちに仕えてくださる時、与えてくださる時なのですから。永久になくならない、いつまでも残るいのちのことばを、救いのことばを、新しく生かし、励まし、慰め、導く、平安のことばを、イエス様が与えてくださるのですから。
7、「どうしても必要な「一つのこと」から「多くのこと」(良いわざ)へ」
そのように、まず私たちがイエス様から受けるからこそ、私たちは、イエス様の変わることのない、イエス様が与える平安を受けて、本当に喜んで、仕えていくことができるし、先週の善いサマリヤ人のように隣人を愛していくことができるでしょう。このところも、「多くのこと」「いろいろなこと」と「一つのこと」ということばも対照的に描かれています。つまり、私たちの何か、私たちがイエスに仕える多くのこと、いろいろなことが、「一つのこと」、みことばのこと、救いや神の国を完成するのではなく、その逆を示されています。つまり、その大事な「一つのこと」、つまり「みことばに聞くこと」「イエス・キリストのみことば、いのち、救い、義と聖さ」が、多くのことをさせるのだということに他なりません。
本当に必要なことは、ただ一つです。それが新しいいのちのための、ご馳走であり、一皿の大事ないのちの糧です。それはイエス様が与えてくださるみことばを聞くことです。今日もイエス様は「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」(ルカ7章48、50節)と宣言し、私たちを遣わしてくださいます。ぜひ、与えてくださる恵みなのですから、喜んでそれを受けて、今日も平安のうちに使わされていきましょう。
ルカによる福音書10章25〜37節
2022年7月10日:スオミ教会主日
今日の所は、有名な「善いサマリヤ人」の譬え話です。このところは、父、子、聖霊なる神様が、私たちに、「わたしたちがなすべきこと」は何であるのかを、はっきりと示されているところでもあります。それは「神を愛し、隣人を愛しなさい」ということです。しかしこのところ文脈を見ると、9章の終わりやまた先週のところでも触れたように、イエス様は、エルサレムへまっすぐと目を向けて進み、何より、ご自身の十字架による救いを弟子達や人々に示し始めているところです。そのことを踏まえて見て行くことで、この有名な譬え話を通して、イエス様は何を私達に伝えたいのかが見えて来るのです。早速、25節から見て行きましょう。
2、「律法の専門家とイエスの問答」
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」25節
「律法の専門家」いわゆる「律法学者」のことです。彼はこの前24節のイエス様のことばを聞いていました。24節でイエス様は、これまでご自身とご自身のことばを伝え示してき来たこと、というのは、旧約の預言者達や王たちが見たいと願い見れなかったこと、聞きたいと願い聞けなかったことなのだと語っています。つまり、イエス様は、ご自身こそが、旧約の預言が約束してきた救い主である、ということをはっきりと示した言葉でした。それを聞いて、この律法の専門家は「試そう」として言うのです。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と。「試そう」としての質問ですから、彼自身は、全く分らないからと言う純粋な動機で質問をしているわけではなく、彼自身が心の中で思い描いて既に持っている答えを、想定して質問しているということを意味しています。イエス様は彼に答えます。
「イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると」26節
律法の書にどう書いてありますか?そう尋ね返します。そしてその律法の書をあなたはどう読むのかと。それに対してこの律法学者は聖書の申命記の言葉を引用して答えるのです。
「彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」27節
その彼の答えは決して間違いではありません。何よりイエス様の答えとも一致しています。マタイの22章37節以下を見ると、同じように律法学者から律法の中で一番大事なことは何かと尋ねられたときに、イエス様も同じようにこの申命記のことばから引用して答えています。神を愛すること、そして隣人を愛すること、それが律法の中で一番大事であり、マタイの福音書のことろでは、律法全体と預言者がこの二つの戒めにかかっているとも言っています。しかしこのところの律法学者の質問は少し異なり、「永遠のいのちを自分のものとするためにはどうしたら良いか」です。その問に対して、イエス様はこう続けます。
3、「イエスの答え」
「イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 28節
もし人が、永遠のいのちが自分のものとするために、何をすべきか、何をしたらよいかを求めるなら、神様の答えははっきりとしています。「心を尽くし思いを尽くし力を尽くし、知恵を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。そしてあなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」をそのまま実行することだ。そうすれば、あなたが、永遠のいのちを自分のものとすることができるのだと。
こう聞くと、おや?と思うかもしれません。私たちが教えられている、恵みのみ、信仰のみ、信仰義認と矛盾するのでは?福音と矛盾するのでは?と。しかし矛盾はしません。どうしてでしょうか?まず、ここで論じられているのは、福音である「与えられる救い」と区別する必要があります。そして、聖書が、福音と矛盾することを言っているのでもありません。この律法の専門家は、「永遠のいのちのために『自分が』何をすべきか」と尋ねています。つまり「もし私達が永遠のいのちを、「自分で」得ようとするなら」という問い掛けです。それに対する答えとしてイエス様が言っているのだということに注意しなければいけません。彼が言っているのは、自分で得ようとする「救い」ですから、イエス様が与えようとしている「救い」とは異なることを彼は言っているし、その彼の質問に誠実に答えるなら、イエス様の回答のとおりであるということなのです。しかしこのイエス様の言葉は、同時に一つの大事な真理も伝えているのです。それは何かというと、神ははっきりとこのことをするように望んでおり、神はご自身が聖であるように私達にも聖であることを命じているその「聖さ」がここにあるのだということです。そして、もしこれを完全に実行できるなら、聖であり、永遠のいのちを自ら自分のものとすることができるという、一つの事実です。そうなのです。律法は永遠に聖なるものです。そしてもしこれを私達が完全に守り行なうことができるなら、私達は聖であり救われるのです。
4、「聖なる神とその律法の前での私たちは?」
けれども、私達はみな自分たちの圧倒的な事実を知っています。それは、誰もそれを守ることができない。完全に実行することができないということです。ですから、律法を行なうことによっては誰も救われないというときには、それは、律法の側の問題、律法が劣るとか不完全ということではなく、私達の側、人間の側の圧倒的な現実、事実のことを言っているのです。私達はみな堕落しています。みな罪深い存在であり。神に反するもの、神の御心を行なえないものです。行いだけでなく、何より心において私達は神を愛することも、隣人を愛することもできないものです。ですから、彼のように、律法に、あるいは、自分の行いで、自分の救いや聖さを求める時には、神の答え、イエス様の答えは変わらずこの律法であるのですから、それは実は、どこまでも自分の不完全さ、罪深さを、私たちは示されてるということを、このところは見事に描いているのです。律法に自分の救いの根拠を求めるなら、それは自分の罪深さ、不完全さゆえに、必ずこの壁にぶつかるか、あるいは、躓いてしまうのです。
彼は、それでも
「しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
29節
ルカはここで「しかし彼は、自分を正当化しようとして」という書き方をしているのは大事なところです。ルカは、このようにその律法の黄金律の前に誰も正しい者はないのだということを、この言葉に既に示唆して記していることが分るのです。この律法学者も、それを実行しなさいとい言われることで、何か自分に引っかかることがあったことをも察することができるでしょう。しかし自分はいつでも正しいと思っている人ほど、正しくないことはなかなか認められないものです。そこで彼は、その隣人は誰なのかと尋ねるのです。
5、「隣人とは誰か?」
それに対してイエス様が答えるのが、この善いサマリヤ人のお話なのです。有名な話しですが、まず追い剥ぎに襲われるのは、ユダヤ人です。しかし同じユダヤ人の宗教的なリーダーであり、礼拝を司る祭司。あるいは、礼拝に仕えるレビ人、まさに自分たちの同士、同族、仲間であり指導者でもある人達は、死にそうな同士を見て、通り過ぎて行くのです。このとこでは、よく彼らに非難が行きがちのメッセージを聞くですが、しかしイエス様のメッセージは、そこではなく、「誰が隣人か」ということであることに注意が必要です。イエス様はここで、あるサマリヤ人が、その死にかけているユダヤ人を見て、かわいそうに思い、立ち止まって、助けたことにこそ、その「隣人は誰か」の答えをおいています。イエス様は問います。
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」36節
と。もう誰が見ても明らかです。彼も答えます。
「その人を助けた人です。」
と。そしてイエス様はいいます。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」
このイエス様の答えは、この律法学者にとっては耳の痛い、かなり大きな壁であったことでしょう。なぜなら、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪いとよく言われますが、それ以上に、ユダヤ人はサマリヤ人を下に見て蔑んでいたからです。交わりもしません。ガリラヤに行くとき、あるいはエルサレムに登るときは、ユダヤ人は、サマリヤを避けて遠回りしていったと言われます。ですから、ヨハネ4章で、サマリヤをイエス様が通ったときに、イエス様がサマリヤの女に「水をください」とお願いしたことに、サマリヤの女は驚いています。ユダヤ人の男性が、サマリヤ人の女性に話しかける、ましてお願いするということはあり得ないことであったからです。ですから、このサマリヤ人を、隣人を愛する模範と示され、そのようにしなさいと言われたこと、そしてまさに敵、蔑む相手こそ隣人であり、その隣人を愛することこそ、これが神の求めておられる隣人愛の真理だといわれた時には、この律法学者は答えにつまった、いや答えられなかったと思われます。
しかし皆さん、これが神の聖、神が私達に求めておられる御心であり、聖さであるということです。そしてこれが真の隣人であり、隣人を愛するということです。つまり、自分が愛することができない人さえも、敵でさえも愛する。相手が敵であっても、自分に不利益をもたらすものであっても、好きでない人であっても、その人のためにかわいそうに思い、その人のために尽くす、行なう、助ける。そのことこそ、真の「隣人を愛すること」だ、とうことです。イエス様は、自分を愛してくれる人を愛するのは、強盗さえもしていると、言っています。自分を愛してくれる、よくしてくれる隣人を愛することはむしろ容易いのです。しかしイエス様は、聖書が求めている隣人愛は、それ以上のことであることを示しています。本当の隣人愛は、自分に敵対する相手さえ、それは拳をあげ、奪うもの、あるいは、嫌い、蔑むものにさえも向けられなければならない。愛しなさい。それが聖書が、神が人類に、私達に、求めている、隣人愛であるということを、イエス様ははっきりとこの喩えで示すのです。そう言われると、まさに律法のあまりもの聖さが私達に突きつけられ、同時に、その律法の聖さ、完全さの前にある私達の現実がはっきりと示されるはずです。
6、「そして福音へ:イエスはそれを成し遂げてくださった」
その現実。私達はそれをできないと。どこまでも罪人であると。私達はここで完全に打ちのめされるのです。しかし真のイエス様のメッセージは、ここからなのです。つまり同時に、何よりも大事な真理を気づかされるのです。イエス様は、ここでただそのように律法を示して打ちのめすだけで終わりではなく、何よりも福音を私達に語っているということをです。
皆さん。繰り返しになりますが、この背景、文脈を思い出してください。イエス様は、今どこに向かっているでしょうか。エルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいます。エルサレムに何があるでしょう。何が待っているでしょう。イエス様はエルサレムの何を見ているでしょう。それは、ご自身がこれから背負う十字架の死と復活ではありませんか。周りの弟子達でさえもその時は何も見えていません。しかしイエスは、常にご自分は何のためにこられ、どこへ向かっているかは、一貫し、変わることなく、はっきりとしていて、そのことを真っ直ぐ見て、伝え、行い、歩んできたでしょう。イエス様のすべてのことには、十字架と復活があり、すべての人に、罪の赦し、神の国と永遠のいのちを与えると言う、福音こそいつでも中心にありました。その十字架で、イエス様は何をされるでしょうか?まさしく、この例えにあるこのサマリヤ人のすることでしょう。イエス様こそ、敵である全ての人、神を知らない、神を十字架につけろと、神を否定する全ての敵のために、つまり私達のために、その私達をかわいそうに思って、その敵のために、ただ助けるでだけではない、それ以上に、反抗する罪人である私たちのために、自分のいのちを十字架でささげることによって、助けるではありませんか。このサマリヤ人は、ただ私たちがすべき律法だけを示しているのではありません。「あなたはできないのだ」と罪を指摘しているだけでもない。何よりも、そのイエス様が善いサマリヤ人を通して示す、その私たちにはできない完全な愛の姿は、何よりもイエス・キリストご自身こそを示しているということなのです。
律法の聖さのまえに私達はただただ罪人に過ぎません。そのなすべき愛を自らでは果たせないものであるし、神が求める愛を決して完全には行えないものです。しかし、このイエス様こそ、聖なる方であり善いサマリヤ人の喩えが示すその方です。まさにその私たちにはできない聖なる律法を、聖さを、真の愛を、私達のために成し遂げてくださったのでです。
7、「それはキリストのゆえにわたしたちに:恵みの聖化」
そしてそれだけではありません。このサマリヤ人が、助けた人に多くものを与え続けることによって保護し回復させてくださるように、イエス様は私達にも、そのご自身の洗礼と聖餐とみ言葉を通して、そのイエス様がしてくださった聖、救い、いのち、すべてのことを、私たちのものとして、与えてくださっているではありませんか。そして、私たちが日々回復するために、イエス様が日々、私のものをすべてにない、日々、代わりにイエス様のものを、私達のものとしてくださっているではありませんか。そのように、私達は、ただこのイエス様にあってこそ、毎日毎日、神の前に、罪赦されたもの、回復されたものとされます。
そしてさらなる恵みがここにあるのです。その私たちへの罪の赦しは、この律法の黄金律を、すでに行なっているものともしてくださってもいるのです。しかしそれは私たちの何かではなく、どこまでもイエス様のゆえにです。ですからイエス様はヨハネ15章で伝えているでしょう。イエス様にしっかりとつながっていなさいと。そのようにイエス様に、結び合わされ、キリストにつながっているなら、キリストのものが私達のものとなって実、キリストご自身が実を結ぶと約束してくださっているでしょう。ですから、このところ、私達はまず第一に、この黄金律とも言われる愛の戒めと良いサマリヤ人の譬え話の前にあって、なおも罪人であり悔い改めさせられる。しかし、同時に真の善いサマリヤ人であるキリストにあって、その罪深いものが、聖とされ義とされる、と言う福音を、私たちに今日も指し示しているのです。
皆さん、イエス様が私たちに与えている天の宝である福音こそ、私たちに実を結ぶのです。私たちがそ今日も、み言葉に聞き教えられ、悔い改め、今日も、キリストに立ち返らされ、キリストにつながっているなら、私達は、今日から始まる新しい週も、キリストにあって、聖霊とみ言葉の働き、福音の力で、イエス様が望んでいること、できないと思えるような愛さえも、させられて行く、実を結んでいくのです。なぜならそれが「そうずれば実を結びます」というイエス様の言葉の約束だからです。今日の第一の聖書朗読である申命記30章でも11節、その神の戒めは「難しすぎることはない」と言っています。しかしそれは「私が天に登って取ってこよう」とか「海の彼方にわたって取ってこよう」とかではないとあります。つまり、私たちの側が自らの達成によって行うことができるということではないというのです。ではなぜ難しくないのでしょう。14節「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」とあります。つまりみ言葉が、福音こそが、できないと思われるその律法を行わせる源であり力であることを聖書ははっきりと伝えているでしょう。これが福音の力、福音の素晴らしさ、福音が日々与える新しいいのちの生き方なのです。私たちが自らなるのでも努力で達成するのでもない、キリストが私たちを聖く完全なものとしてくださる、私達が行なえないことも、キリストは、行なえるようにしてくださる、導いてくださるということなのです。新約聖書ヘブル13章20〜21節の祝福の祈りにはこうあります。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
ヘブル13章20〜21節
新改訳聖書では
「すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。」
とも訳されています。
8、「終わりに」
皆さん、神の聖なる律法の前に、私達、私自身がですが、ただただ、自分の不完全さ、罪深さを認めさせられるだけです。心を尽くし思いを尽くし精神を尽くして、神を愛することのできないものですし、隣人をも自分を愛するように愛するどころか、愛せない、むしろ自分しか愛せない。自分中心な存在です。しかし、だからこそ、イエス様はこの世へ来られました。人となられ、そんな罪深い私たち一人ひとりのために、十字架にかかって死なれました。まさに瀕死の、罪で滅びるしかない、私たち一人一人のために、イエス様は、私たちの真の良いサマリヤ人になってくださり、そのなすべき完全な愛を、イエス様が私たちにしてくださったからこそ、私たちは救われたのです。そのようにイエス様に救われて生かされたからこそ、私たちの日々新しい歩みがあるのです。今日もイエス様は私たちにはっきりと宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい。」と(ルカ7章48、50節)。今日もイエス様の十字架のゆえに罪を赦されていると宣言を受け、確信と平安をもってここから遣わされていこうではありませんか。
礼拝説教
ルカによる福音書10章1〜16節
2022年7月3日:スオミ教会主日
1、「すべてのひとのために」
今日の福音書の言葉は、イエス様が宣教に「遣わす」ということについて語られています。実は9章の初めでも、イエス様は12人の弟子達を集めて、イエス様の御名による権威を授けて遣わしたということが書かれていました。その所と同じように、この10章の始めでも、イエス様が人々を遣わすところから始まっています。しかし今度は12人の弟子達ではありません。1節にありますように、別に72人。弟子達とは別に72人を選んで遣わすのです。これはルカのみに書かれています。このようにこの時、既に、12人の他にもイエス様は名も知られていない多くの人々を遣わしていたことがわかります。この72人という数は、このイスラエルの周辺を取り囲むようにある異邦人の国や民族の数を象徴しているともよく言われます。
注目したいのは、1節「ご自分が行くつもり」だったという言葉です。先週の9章51節にあるように、イエス様はこのとき、エルサレムにまっすぐ向かって進んでいたとありました。ですから、人となられたイエス様は、すでに真っ直ぐと目を向けてエルサレムへ事実、向かってはいるのですが、この十字架までの3年間のその短い期間で、周りの取り囲むような全ての国々や民族のところ全てへ行きたかったが、行くことができなかったことがわかってきます。けれども、この72人の派遣と「ご自分が行くつもり」だったという言葉には、イエス様がこのエルサレムへ向かう本当の目的と思い、つまり、イエス様の最大の目的である、「すべての人の罪の赦しのために十字架で死んでよみがえる」とうことそのものが、この派遣と言葉に表れていることがわかります。つまりこのところは、だからこそイエス様は、誰一人例外なく、全世界のためにこられ、全世界の人々のためにエルサレムに向かっている。そして、全世界の人々のために十字架にかかって死なれるという福音に結びつくでしょう。つまり、先週の箇所で、イエス様は、ご自身を拒んだサマリヤ人が滅びることを望まなかったように、周りの72の国や民をもなおも見ているし、もちろん、そこにはサマリヤ人も含まれている。そのように、イエス様は、決してイスラエル人、ユダヤの民だけではない、全世界の人々、つまり、確かに私たち一人一人のためにもイエス様は来られ、私たち一人一人にも目と思いが向けられていた。私たち一人一人のためにエルサレムに向かい、十字架にかかられる。その幸いをまず第一に覚えることが出来るのです。
2、「恵みのうちにある派遣」
A,「キリストが遣わす」
そのイエス様が目と思いを向けている異邦人の国々の人々、そのために72人は選ばれ遣わされるのですが、今日はさらに、その「遣わす」ということの恵みを見ることができるでしょう。もちろん目に見える地上の事柄では、託された教会が召し出し遣わすのですが、しかしそのキリスト者を用い流のは誰か、そしてその派遣がどこから生まれのかどこから来るのかということがここからわかります。それは何より、イエス様から生まれ、始まり、イエス様が選んで、イエス様が遣わすのです。先週の箇所でもありました。まず自分から、自分達の意志や決心や他の何らかの力によって、まず私たちの方から「従う」というのではありませんでした。イエス様は、まずイエス様の方から「ついてきなさい」「従いなさい」と召した弟子達に、「神の国を言い広めなさい」と遣わしていました。同じようにここでも、どこまでも神の国の働き、イエス様の働きは、人が、私たちが、ではなく、イエス様が選び、招き、召し出し、そしてイエス様が遣わすということが、この1節にわかるのです。つまり、派遣やそして宣教・伝道も、決して人や自分の思いや計画、自信や意志や決心から出たものではない、人は用いられるだけであり、つまり全ては恵みであるということを教えられるのです。
B,「キリストの名によって:キリストが行う」
そしてその召される働きや使命も、1節では「ご自分の行くつもりの」とありますし、2節では、あえて「収穫の主」ともあるように、収穫でさえも主の働きであるということもわかるでしょう。つまり、主の働き、主のなそうとすること、主がなさることのために、72人は選ばれ、遣わされるということがわかるのです。それは、9章の始めも同じでした。弟子達はイエス様から「権威を授けられて
遣わされます。そして、その遣わされた所でも、弟子たちの力ではなく、「イエス様の名によって」とある通り、イエス様の力によって、悪霊が追い出されたり、病が癒されたりしたのでした。それは弟子達に力があるのではなく、イエス様の力が現れていることであったというメッセージです。事実、すぐ前9章の37節以下にある出来事ですが、イエス様が山に行っている間、子供が悪霊に憑かれているからと助けを求めてきた親に対して、弟子だけではできなかったのでした。逆に、49節以下では、弟子のヨハネは、弟子でない者がイエスの名を使って悪霊を追い出していたのを見て、仲間ではないのでやめさせたという場面があります。それに対してイエス様は止めさせてはいけないといいました。そして10章17節をご覧頂くと、遣わされ帰って来た72人が「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」とも言うのです。このように、イエス様の名が与えられ、遣わされ、イエス様の名が広められ、イエス様の名によって悪霊が追い出され、病が癒されています。つまり、すべては弟子たち自身の力や功績ではなくて、イエスの名、つまりイエス様がなさる業、計画、働きであることがわかるのです。そのイエス様のなそうとしている働きのため、召され用いられる彼らであるということなのです。
C,「平安があるように言いなさい。」
今日のところから、イエス様によって「遣わされる」ということは、恵みであるというイエス様からのメッセージが私たちに語られています。このように何をするにもどこまでも、それがこのように宣教や教会の働きであっても、イエス様はどこまでも与える方です。つまり、イエス様は私たちに何かをしてもらう必要もなければ、聖書にあるように、仕えられる必要もありませんし、まして私たちが何か重いものを「背負わせる方
ではありません。事実、5節のイエス様の言葉を見ても分ります。イエス様は、家に入ったら「平安があるようにと言いなさい」と言っています。何か重荷を負わせるような言葉ではありません。つまり、イエス様がなそうとする働き、イエス様が伝えようとすることは、「重荷」ではなく、「平安があるように」「シャローム」であることが分ると思います。イエス様は私たちに平安を与えるために来ました。それは遣わすということでも同じだとわかるのです。イエス様が召した人を、イエス様が選び、イエス様が遣わす。しかもイエス様のなそうとすることをさせるため、イエス様の名によって。すべてはイエス様の主導権なんだということです。ですからそうであるなら、「遣わされる」ということは、「イエス様にあって」という、イエス様への信仰、信頼があれば、どこまでも安心だけれども、逆に、イエス様を見失ったり、イエス様から受けるのでもない、イエス様の名によるのでもない、イエス様への信頼でもなくなる時に、イエス様以外のものへの信頼になるときにこそ、遣わされるということ、クリスチャンとして歩むということが、平安ではなくなる、重荷となるということだと言えるでしょう。
D, 「宣教は福音」
イエス様は私たちをも遣わしています。この世へ。身近な隣人へ。社会や家庭へ、あるいは世界へ。しかしそれは、平安のうちにです。なぜなら、私たちもイエス様の名によって洗礼を授けられ罪赦され救われ、イエス様によって、イエス様の名によって遣わされているからです。イエス様から今日も受け、イエス様から受けるからこそ、私たちの新しいいのちの歩みがあり、キリスト者としての日々があり、そして平安があることを知っているからです。ですから、宣教というのは、ルーテル教会の、律法と福音の区別で言うなら、「しなければいけない」「律法」ではないのです。どこまでも宣教は福音です。第一の聖書箇所イザヤ書66章でもそこに「彼女」と繰り返されているのは、それは教会を意味しています。その彼女は、喜びに溢れているでしょう。「彼女と共に喜び楽しめ」とあるでしょう。重荷があっては、あるいは、律法が動機では、楽しみや喜びはありません。教会は、重荷と裁きではなく、平安と喜びが満ち、その喜びと平安で遣わされるところ。教会も宣教も律法ではなくて福音なのです。ぜひ、今日も、イエス様が救ってくださり、イエス様がイエス様の名において遣わしてくださっている恵みを感謝して、ここから遣わされて行きたいのです。
3、「一人ではなく」
そして、更に幸いが書かれています。1節の後半には「ふたりずつ」という言葉があるのです。このようにイエス様は決して一人では遣わしませんでした。イエス様のなそうとする働きは確かにイエス様の働きと業があるのですが、同時に、私たち兄弟姉妹は、その神様の御心が行なわれて行くために用いられる、皆、互いが互いのための、イエス様から与えられ一緒に遣わされている助け手、パートナーでもあるということがこの言葉には示唆されているのではないでしょうか。もちろん人には皆、それぞれ、足りなさ不完全さがあるでしょうし、私自身にもあります。人と人の間のことも、クリスチャンといえども、いつでも完全ではない事実もあります。しかしだからといってそれを全く無意味とはイエス様はしません。創造の始めでも、神は、人は一人でいるのは良くないといって、助け手として、つまり、人は互いに助けあうためにパートナーを与えています。確かに堕落によって人も、人と人の関係も堕落しました。しかしその神様がパートナーを与えた御心は、尚も大事なこととして私たちにはあるでしょう。それは、主によって選ばれ主のなそうとすることのために「遣わされる」ことにおいてもイエス様は貫かれます。一人ではなく、ここでは二人で、あるいは、使徒言行録ではさらに三人以上の場面もあります。あるいは、家族や、友人、教会という大きな数でもそれは同じことが言えるでしょう。そのように私たちは一人で遣わされているのではない、ともに唯一の救い主であるイエス様への信頼を受け、互いに助け合い励まし合いながら遣わされているのです。それは今日の第二の聖書箇所ガラテヤ6章でパウロが伝えていることです。しかもです。これは決して二人だけの力でもない、そこにはイエス様の名のゆえにイエス様が働いてくださるのですから、つまり常に目に見える数「プラス1」です。二人のときは、ともにいてくださるイエス様もいて3人です。しかも見えないイエス様こそ、何よりの力、言葉を持って導き、働く、真のリーダーです。私たちの歩み、遣わされる、従うということ、宣教ということさえも、そのような幸いな派遣、全ては恵みであることが見えて来るのです。
4、「収穫の主に祈りなさい」
そのようにイエス様が、遣わす彼らに言った、遣わす言葉が、有名な2節以下の言葉になるでしょう。これはよく2節だけを取り上げられますが16節まで続いている長い言葉になります。2節だけをお読みします。
「そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
実りは多いのに、収穫のための働き手は少ないのだとイエス様は言っています。まずイエス様には多くの実りが既に見えているのです。それは尚も働き手が沢山必要なほどに実りがあることがわかるのです。その「実り」は、イエス様が与える救い、罪の赦しと永遠のいのちです。そして人々にその実り、救いを得させるのは、ルカの福音書でも見てきて分る通り、イエス様の名であり、イエス様のことば、福音です。使徒言行録でもこうあります。ペテロとヨハネは、金銀は私にはないが私にあるものをあげようと言って「イエスの名によって歩きなさい」といいました。そして、4章12節では、「イエスの名以外には、いかなる名前も与えられていない」とも言っています。そして使徒達と教会が伝えて行ったのは、まさにイエス・キリストの福音であったのでした。ですから「働き手
というときに、それはそのようにイエス・キリストのみことば、福音を伝える人のことを指していることは分ると思います。それが少ない。今はどこの教団や神学校でも同じような声をききます。しかしその時に、イエス様はそのことに対する答えと導きを与えてくれています。まず第一に、収穫の主が、収穫のために働き手を送ってくださるのだということです。これは大事なことです。今日も見てきました。召しや従うということ、それは人の自信や決心、人のわざではないと見てきました。主がみことばを持って召してくださるのだと。そして今日の所でも、主が、選んでくださり、遣わしてくださると。貫かれています。そしてこの2節でも、主が送ってくださると一貫しています。これは主が召し、主が送ってくださるのです。出エジプトの時のモーセもそうでした。モーセを選び、召したのは誰でもありません。モーセは同胞から殺しのことを問われ逃げてきました。召されたときも、彼は何度も拒みました。しかし主が召し、主のことばによってモーセは導かれ、主がエジプトに送ってくださったのでした。このように主の収穫の働き手も同じです。人のわざではない、人の自信や決心でもない。人が選び、人が募り、人が働き、人が説得し決心させるのではありません。主がなさるのです。何より、みことばをもってです。みことばにこそ力があり、みことばの力で、人は召され、選ばれ、主は人を送ってくださいます。ですから、イエス様の言うことは最もです。「祈りなさい」と。収穫の主に、働き手を送ってくださるように「祈りなさい」なのです。そして人の説得や促しではなく、みことばを伝えることこそ、人が主によって召されるための最善で最高のことであるともいえるでしょう。ぜひ、私たちは「祈りなさい」との進めにある通り、祈っていこうではありませんか。祈りに力がないように思わないで、「祈りなさい」と勧められているのですから、祈りに力があると信じ信頼してぜひ祈って行きましょう。
5、「イエスは裁くためではなく代わりに負い与えるために」
尚もイエス様のことばは続きます。その遣わされるのは全くのイエス様の恵みであるのですが、しかしその前途は決して易しいものではないこともイエス様は伝えて行きます。3節では「狼の中に子羊を送り出すようなものだ」と。すべての人が受け入れるわけではなく、拒む人、受け入れない人もいるのだと、言うのです。そして16節では、こうもイエス様は言って結んでいます。
「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。
16節
イエス様が与える平安を受け入れない人、拒む人は必ずいると。そしてその受け入れない、拒むことによる報いの大きさも、イエス様は述べていることを見ることが出来ます。ここから神の裁きはイエスを受け入れるかどうかにあるということと、その神の裁きは確かにあり厳しいものであることを教えられるのです。けれども、皆さん、大事なことですが、イエス様はなぜ来られたとあったでしょうか。ヨハネ3章17節。「裁くためではない」とはっきりと書いています。先週のところ、弟子ヨハネはまさにそのように受け入れない人々に「天から火を降らせて、焼き滅ぼしましょうか」といいました。しかしイエス様は戒められたとあったでしょう。神の裁きは確かに必ずあるでしょう。しかし神がその一人子イエス様を世に与えたのは、その裁き、断罪をイエス様に負わせるためでしょう。私たちの代わりにです。そして事実、イエス様は、イエス様を受け入れない、罵り、十字架につける全ての人々の罪の身代わりとなり、十字架にかかって死ぬでしょう。全ての人に、つまり私たち一人一人に、その罪の赦しを与え、神の前にその十字架のゆえに、罪がないものとするためにです。そしてその後も今も、そのイエス様のゆえに、尚も、福音を教会で語らせ、伝えさせ、そのやがて来るその裁きの時も、尚も神はイエス様のゆえに、忍ばれているではありませんか。神は裁く以上に、この御子イエス様のゆえに、御子イエス様を与える程に、私たちをやはり愛してくださっているのです。
6、「イエス・キリストの恵みと平安にあって遣わされる幸い」
クリスチャンである私たち自身でさえも、受け入れる受け入れないでいうなら、決して完全ではないことも教えられます。私たちは決して完全ではありません。受け入れられないこと、拒むこともあるのです。そのような時に本当に私たちに救いがないなら、ただこの裁きだけしかないなら、何と絶望的でしょうか。しかし、私たちはそのような時でも、このイエス様こそを知り、イエス様の十字架に立ち返り、イエス様にあって何度でも罪の赦しを受け、イエス様にあって新しくされ歩むことが出来ることはなんと幸いでしょうか。ここでもイエス様は、裁きのことを遣わす72人には説明しても、受け入れない人々にそのような罰や裁きのことを言いなさいとは言っていません。むしろイエス様が伝えさせるのは「平安があるように」と「神の国が近づいた」だけであることが見て分ると思います。私たちは裁きを証しするのではありません。裁き合うお互いでもありません。そうではない。私たちがイエス様から受けているもの、それは本当に不完全で神の裁きの座にあった私たちをイエス様が救ってくださった。イエス様のゆえに何度でも罪の赦しが与えられ、いつでもどんな時でもイエス様にあって平安が与えられる。そのことではないでしょうか。私たちもそのようなイエス様にこそ平安があるという証人として、恵みのうちに遣わされている一人一人なのです。それはイエス様の平安を知らなければ証しはできません。イエス様はも今日も宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と(ルカ7章48、50節)。まず私たちがイエス様から平安を受け、平安のうちに遣わされていきましょう。
主日礼拝説教 2022年6月26日(聖霊降臨後第三主日) 聖書日課 列王記上19章15~16、19~21節、ガラテア5章1、13~25節、ルカ9章51~62節
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これまでガリラヤ地方を主な活動舞台にしてきたイエス様が、ついに運命的なエルサレム行きを決意し、そこを目指して歩み始める。本日の福音書の箇所の冒頭は、このことを記しています。イエス様は、既に弟子たちに前もって告げ知らせていたように(ルカ9章22節、44節)、エルサレムでどんな運命が待ち受けているか、自分でもよく知っていました。行けば、苦しみを受け殺される、しかも普通の人間が被る死とは異なる、もっと重い死を被ることになる。それを知って向かうのです。しかし、それは、神の人間救済計画の実現のためにしなければならないことでした。まさにそのために、イエス様は、天の父なるみ神のもとからこの世に贈られてきたのですから。
さて、ガリラヤ地方からエルサレムに行こうとすると、その間にサマリア地方があります。そこに住むサマリア人たちとユダヤ人たちは、歴史的・宗教的な理由からお互いに反目し合っていました。サマリア地方は古くは、ダビデの王国が南北に分裂した後は北王国の中心でした。しかし、北王国は次第に、天地創造の神でありまたイスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出した神から離れ、カナンの地の土着の霊であるバアルの信仰に染まっていきます。この辺の事情は、預言者エリアの孤独な戦いについて列王記上の中に記されています。神から離れた北王国は紀元前700年代にアッシリア帝国に滅ぼされます。国の主だった人たちは占領国に連行され、代わりに異民族が送られてきます。そうして、サマリア地方は宗教的・民族的な純粋さを失っていきます。サマリア人たちは、旧約聖書のモーセ五書は持ち続けましたが、預言書は無視しました。また神に生け贄を捧げる場所としてゲリシムという山を選び、エルサレムの神殿も無視していました。そういうわけで、ユダヤ人たちはサマリア人を毛嫌いし接触を避けていました。ユダヤ人のそういう態度は福音書の随所に出てきます。本日の福音書の箇所で、イエス様一行がサマリアの村に宿と食事の提供を願い出て拒否されますが、その理由として、イエス様がエルサレムを目指して進んでいたからと記されています。サマリア人としては、誤った礼拝場所に巡礼に行く者たちをどうして世話しなければならないのか、ということだったのでしょう。この拒否に怒った弟子たちが、こんな村は神の力で焼き尽くされるべきだといきり立ちました。これに対してイエス様は、そんなことを言ってはいけないとたしなめ、その村はそのままにして、別の村を経由して行きました。
このサマリア地方での出来事に加えて、本日の福音書の日課では、イエス様に付き従うことについての教えがあります。三人の男の人が登場します。そのうち二人は自ら志願します。一人はイエス様が付き従いなさいと声をかけます。しかし、いずれの場合もイエス様は、付き従うことに二の足を踏ませるような厳しいことを言います。特に、イエス様が自分で付き従いなさいと声をかけた人に対して、その人がまず死んだ父親を埋葬してから来ます、と言ったのに、イエス様は、埋葬は他人に任せて、あなたはただ神の国を言い広めなさい、と命じます。これは、日本のように死んだ人の霊を崇拝する伝統が強いところでは、キリスト教はなんとひどい宗教だという反感を生み出すことになります。このイエス様の教えについて、本説教の後の方で見てみます。
サマリア地方の出来事は一見すると、イエス様は慈悲深い愛に満ち方であることを言っているように見えます。イエス様につき従うことの教えの方は逆に、彼の弟子になることにとても厳しい条件を課しているように見えます。しかし、そういうイエス様の優しさとか厳しさという理解はまだまだ浅い理解です。このサマリアの出来事と弟子の条件の教えは、一見すると関連性がないみたいですが、実はあります。それを理解するカギは今日の個所に2回出てくる言葉「神の国」です。人間と「神の国」の関係が今日の日課の中で問題になっているとわかると、イエス様は心優しいお方とか厳しいお方とかいうような頼りない理解を突き破って堂々とした理解に入ることができます。
そのためには、まず「神の国」がどんな国かわからないと話になりません。特に一般的また俗に言う「天国」と大きく違うことがわからないといけません。両者を混同してはいけないのです。俗に言う「天国」は人間が死んだら天使のように空に舞い上がって行くところで、亡くなった方が上からこちらを見下ろしているとか見守っているとかいう所です。ところが、キリスト信仰の「神の国」は全く異なります。聖書では、「神の国」は人間が「行く」ところではありません。そっちの方がこちらに「やって来る」ものです。
例えば、イザヤ書の終わりの方で(65章17節、66章22節)、今ある天と地が新しい天と地に再創造される日についての預言があります。黙示録21章ではまさにその再創造の日に「神の国」が新しい天と地のもとに降りてくると預言されています。「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地と全ての被造物が共に激しく揺さぶられて崩壊していくなかで、ただ一つ揺さぶられずに現われるのが「神の国」であると言っています。黙示録21章はまた「神の国」がどういう国か次のように述べています。そこは「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章3‐4節)。神が全ての涙を拭うというのは、痛みの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。「神の国」が現われる天地の大変動の時はまた、最後の審判が行われます。それなので、前の世で被ってしまった不正義は全て最終的に清算されて完全な正義がやっと実現する国です。さらに「神の国」は黙示録19章で盛大な結婚式の披露宴にたとえられます。つまり、この世の労苦がすべて報われて労われる国ということです。
「神の国」がそういう遠い将来に新しく再創造された天と地のもとにやって来る国となると、誰がそこに迎え入れられるかという問題があります。不正義は入り込む余地がないことから、誰もがということではないことが明らかです。誰が将来到来する「神の国」に迎え入れられるかという問題に取り組んでいるのが聖書です。その問題の解決策として、天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが聖書の一番伝えたいことです。
聖書の立場は、人間はそのままの状態では「神の国」に迎え入れられないというものです。ヨハネ3章でイエス様がはっきりそう言っています。どうしてかと言うと、人間には最初に造られた人間の時から神の意志に反しようとする性向、罪を持ってしまっているからです。そのため、人間は神との結びつきを失ってしまい、死ぬ存在になってしまったと創世記に記されています。人間はそのままの状態では神との結びつきを持たないでこの世を生きることになり、この世から去った後も神のもとに戻ることは出来ません。それで神は、人間が再び自分との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう、この世から去った後も天地再創造の日に復活を遂げさせて永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子を贈られたのでした。そのひとり子イエス様を贈って何をしたかと言うと、神と人間の結びつきを失わせている罪を全てイエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで人間に代わって罪の罰を受けさせたのです。つまり、人間に代わってイエス様を断罪して、この神のひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。
そこで今度は人間の方が、十字架の出来事は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しをお恵みのように頂けます。神はまた、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。それで、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて罪の赦しを受け取った者は、その道に置かれて歩み出します。行き先は、天地再創造の復活の日に復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられる地点です。それが「神の国」です。
それなので、キリスト信仰にあっては、「神の国」は死んでフワフワ上がって行ってそこから下を見下ろす所ではありません。遠い将来にそれが到来する日を目指して進んでいくところです。イエス様が祈りなさいと命じた「主の祈り」の中でも「御国を来たらせたまえ」と祈ります。ここにキリスト信仰とそれ以外の死生観の大きな違いがあります。
ここで起こって来る疑問は、この世で「神の国」が到来する日を目指しながら歩んでも、その日の前に死んでしまったらどうなるのかということがあります。キリスト信仰にあっては、その日までは安らかに眠っているのです。イエス様もパウロも、キリスト信仰者にとって死は復活の日までの眠りに過ぎず、その日に復活の主であるイエス様が来て起こしてくれると言っています。眠っているから、下を見下ろしたり見守るということもありません。ここにもキリスト信仰の死生観のユニークさがあります。
それでは、福音書の日課に戻りましょう。イエス様は、エルサレムを目指し始めました。それは、受難と十字架の死と死からの復活を全てこなして神の人間救済計画を実現するためでした。それを実現すれば、人間はたとえ罪の汚れを持っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、神聖な神の国に迎え入れることができるようになります。
このような全人類史的な意義を持つ任務を負ったイエス様をサマリア人の村が受け入れを拒否しました。憤慨した弟子のヤコブとヨハネは天から火を送って焼き払ってしまったらどうですか、イエス様に聞きます。彼らの言葉づかいは、列王記下の1章で預言者エリアがバアル崇拝に走る国王の使者を天からの火で焼き殺した時の言葉を思い出させます。実際、弟子たちは、この出来事が脳裏にあったのでしょう。しかし、イエス様は、拒否したサマリア人の村はそのままにしておきなさい、と言われる。なぜでしょうか?
イエス様が心優しい慈愛に満ちた方だからと言うのは、まだ核心を捉えていません。イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげたい、そしてゴールとして「神の国」に迎え入れてあげたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるようお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる気前の良い方だということなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか神に背を向けた生き方から方向転換して神に立ち返る生き方に入って神の国に迎え入れられるようにしようと猶予期間を与えているのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、方向転換の可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いい気になって、いつまでも方向転換をしないで済ませていいはずがない、と気づかなければならないのす。もし、この世の人生の段階で方向転換がないと、それは神罰を受けないで済むための「罪の赦し」を拒否したことになります。
それでは、このサマリア人の村はどうだったのでしょうか?猶予期間を与えられて方向転換したでしょうか?それがしたのです!使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムにおいてキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムから脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことを認めなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が「神の国」に迎え入れられることが全てに優先されるということがあったのです。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されたのです。イエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、「神の国」に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。
次に、イエス様に付き従うことも、神の国に迎え入れられることに関係することを見てみましょう。
三人の男の人が登場します。最初の人は、イエス様に付き従うことを志願します。それに対するイエス様の答えは、付き従いの生活はそんなに甘くはない、というものです。エルサレムまで一緒に上っていく途上で、いつもマリアやマルタの二姉妹のような支持者から食事と床を提供される保証はない、場合によっては食べるものもなく、雨風にさらされて寝ることにもなる、そのようにしてエルサレムまで行って、イエス様の十字架と復活につきあって目撃者となったら、あとはどうなるのか?復活後のイエス様は天に上げられてしまう。そうなると、もう付き従うイエス様はいらっしゃいません。イエス様につき従うこともそれで終わってしまうのか?実はイエス様の発言は、昇天以後のことも視野に入っていたのです。一度、神の国に迎え入れられる道に置かれてそれを歩み出したら、今度は他の人もそこに迎え入れられるように働きかけをしなければならないのです。なぜなら、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようになることは神の御心だからです。そうするとこの働きも、イエス様と一緒にエルサレムに上っていくことと同じように、安逸の保証がないものになります。いつも支持者や賛同者に囲まれるとは限らず、いつも寝食が満足に得られる保証もないのです。
このことが、二番目の男の人のところで明確に出てきます。父親の埋葬には行かず、神の国を言い広めよ。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言うのは、死体を死体のところにほおっておけというような、死体遺棄ではありません。「死んでいる者たち」とは、神との結びつきを回復していない人たちを指します。永遠の命に至る道を歩んでおらず、この世から死んだら、復活を果たせず永遠の滅びに陥ってしまう人、これを「死んでいる者たち」と言っているのです。父親の埋葬はそのような人たちに任せて、あなたのなすべきことは、「神の国」について教え伝えることだとイエス様は言うのです。つまり、人々が「神の国」に迎え入れられるように働きなさいということです。人々が神との結びつきを持って生きられるように助けなさい、永遠の命に至る道に入って歩めるようにしなさい、つまり、「死んでいる者たち」をそのように生きる者にしなさいということです。
こうして見ると、ここのイエス様の教えは、キリスト信仰者は親の葬儀をするな、軽んじろ、ということではないことがわかります。葬儀をするにしても、人々を「神の国」に迎え入れられるように導きなさい、ということです。その意味でキリスト教会の葬儀はこの任務に取り組んでいます。故人にゆかりのある人たちが集まって、その方の死を悲しみ、遺族の悲しみと個人の懐かしい思い出を心を一つにして分かち合い、また遺族に慰めの言葉をかけて励まし合う、ここまではキリスト教に限らず他の宗教も同じでしょう。しかし、この先は大きく異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰では、死は復活の日までの安らかな眠りに過ぎず、復活の日に復活を遂げられたら、今度は懐かしい人との再会があるという希望があります。復活の体と永遠の命を持つ者同士が合いまみえるという希望です。キリスト教の葬儀では、悲しみの中でもこの再会の希望が確認されます。そのようにして、参列する人たちが「神の国」に迎え入れられることを再確認し合い、参列者がキリスト信仰者でない場合は、「神の国」がどのようなものであるかを伝える伝道的な意味を持つ、これがキリスト教の葬儀です。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という主の命令は、そこでも守られているのです。
ここで日本のキリスト信仰者にとって重い課題となるのは、参列する葬儀がキリスト教式でなかったらどうすべきか、ということです。これも、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」が原則になります。つまり、まだ「神の国」に向かう道を歩んでいない人たちに、自分がまさにその道を歩んでいることを証し、さらにその人たちをその道に導いていくことができれば、この原則に沿ったものとなります。その時、死んだ者の葬りを死んだ者に任せるくらいに「神の国」を言い広めることになっています。しかし、証しや導きは具体的にはどういう形をとるでしょうか?本説教では、こうしなさい、ああしなさい、ということは言わず、皆さんお一人お一人の心に問題提起をすることにとどめておくことにします。
さて、三番目の男の人の場合です。「鋤に手をかけて後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主は言われました。ここで早合点してはいけないのは、イエス様は家族を見捨てろと言っているのではないということです。イエス様の原則からすれば、家族ももちろん「神の国」に迎え入れられるように導く働きかけの対象です。その意味で、家族のもとには留まれるのです。この三番目の男の人のところで問題になっていることは、家族に対して「神の国」に向かう道に導く働きかけをしないで家族のもとに留まると、自分自身が道を踏み外してしまうリスクがあるということです。家族の絆というのはそれ位強力なものです。しかし、家族の人たちが「神の国」に迎え入れられるように働きかけをすれば、絆は保っていても「神の国」に相応しいのです。そうは言っても、家族の人たちがイエス様に関心があるとか、救い主として受け入れる準備があるとか、そういう理想的な場合はなかなかないでしょう。イエス・キリストの名を口にしただけで嫌な顔をされてしまうのが大半なのではないか?それなら、まず祈ることから始めます。私たちの愛する人たちが私たちと一緒に「神の国」に向かう道を歩めるように、一緒に復活を遂げて将来そこに迎え入れられるように父なるみ神に知恵と力と勇気をお願いします。
兄弟姉妹の皆さん、以上からおわかりのように、イエス様の厳しい教え、葬式に出るなとか家族を捨てろと言っているように見える教えは、そうすることが目的なのではなく、「神の国」を証しし言い広めることが真の目的なのです。そのために「神の国」がどういう国かわからないと話になりません。今日の説教でもそれがわかるようにお話しした次第です。
主日礼拝説教 2022年6月19日(聖霊降臨後第二主日) 聖書日課 イザヤ65章1~9節、ガラテア3章23~29節、ルカ8章26~39節
本日の福音書の日課にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、居場所は墓場であった。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというようなスリラー映画の光景を思い浮かべるかもしれませんが、岩にくり抜かれた墓穴です。家に住まずに墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露を忍んでいたということです。イエス様が来て、その男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名をレギオンと言いますが、それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味します。つまり沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。イエス様がそれらを男の人から追い出すと、今度は豚の群れに入っていき、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、群れ全部は崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。
この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つですが、だからと言って、イエス様はすごいですね、で終わる話ではありません。じゃ、何で終わる話かと言うと、今日の説教題です。人間の意思が弱くても、聖書と聖礼典(洗礼と聖餐)を正しく用いれば、神の大きな力が働くということです。ちょっとピンとこないかもしれませんが、これからの説き明かしでわかります。
出来事の説き明かしに入る前に、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取るという話は聖書にもよく出てくるし、聖書の外の世界にも沢山あります。異常行動をやめさせるために悪霊の追い出しということがあるのですが、それは現代社会には相応しくないものと考えられます。現代では、異常な行動の解決には医学的、特に精神科的ないし心理学的な解決がはかられるからです。原因を悪霊に求めて解決を図ろうとするのは前近代的と考えられます。しかしながら、医学的に解決しようとしても思うように解決できない時は、原因を霊的なものと考えてそこから解決を求めようとする人たちがいるのも事実です。
イエス様が悪霊追い出しをやったのは、まだ医学が発達していない古代だからそうしたのであり、それは時代遅れなのだということか、それとも、救世主が行ったことに時代遅れなどないということか、どっちでしょうか?
ここで一つ注意すべきことは、悪霊追い出しを行ったのはイエス様とイエス様が権限を与えた弟子たちです。イエス様が天に上げられ、弟子たちもこの世を去った後、誰がその権限を持つのでしょうか?人によっては、自分はイエス様から権限を与えられたと言って、悪霊追い出しをする人がいるかもしれません。しかし、イエス様から権限を与えられたことがどうやってわかるでしょうか?最初の弟子たちの場合は、わかるも何も目の前にいるイエス様から直接与えられました。イエス様から直接与えられなくなったら、どうやってわかるのか?きっと結果でわかるということになるのでしょう。つまり、悪霊よ、出て行け、と言ったらその通りになってとりつかれた人は普通になった、だから自分はイエス様から権限を与えられているのだ、と。しかし、それで本当に大丈夫でしょうか?
私はこの問題では慎重な立場を取る者なので次のように考えます。確かにイエス様と弟子たちは悪霊の追い出しをしましたが、彼らが活動した時代はまだ新約聖書が存在しない時代でした。新約聖書の代わりに何があったかと言うと、生身のイエス様がいて、イエス様が天に上げられた後は生身の弟子たちがいました。弟子たちは目撃者としてイエス様の教えや行いや出来事を証言しました。それが口伝えで伝えられて、やがて書き留められていきました。またパウロを含む弟子たちは証言だけでなくキリスト信仰について教えることもしし、各地の教会に教えの手紙を書きました。こうして、まだ新約聖書は出来ていませんが、弟子たちの証言と信仰の教えがあり、洗礼と聖餐の聖礼典もありました。
弟子たちがこの世を去った後に証言や教えの手紙がまとめられて新約聖書ができました。最初の弟子たちは、ひょっとしたらイエス様の代理人として自分たちの弟子に奇跡の業を行う権限を与えたかもしれません。しかし、その詳細はわかりません。いずれにしても、イエス様と直接の弟子たちがこの世からいなくなった後は、彼らに代わるものとして新約聖書と聖礼典が残りました。それで私は、異常な行動も含めた人間のいろんな問題の解決にあたっては、イエス様と最初の弟子たちに並ぶものとして聖書と聖礼典があるのだから、それらを用いることが大事だと考えます。聖書と聖礼典を用いることの重要性についてはまた後でお話しします。
それでは出来事の説き明かしに入りましょう。まず書かれてあることをもとに状況を詳しく把握しましょう。そうすると、この出来事が作り話でなく本当の出来事であることがわかってきます。
これと同じ出来事は、マタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、起きた場所はルカとマルコではゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域です。聖書の後ろにある地図を見ると、ガダラはガリラヤ湖の南東、ゲラサはもっと南東の内陸部でとてもガリラヤ湖沿岸とは言えません。豚の群れが飛び込むような崖はガリラヤ湖の南側の距離的にはガダラの町に近い所にあります。ゲラサと書いたマルコとルカは間違えたのでしょうか?
この問題は、福音書がいつ頃出来上がったかということを考えると解決します。4つの福音書は、どれも出来上がったのは早くて西暦70年というのが聖書学会の定説になっています。つまり、イエス様の活動時期から一世代二世代後のことです。イエス様が活動した時代は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していました。マタイ福音書が出来上がった頃はガダラに属していました。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「あの時あの崖はゲラサに属していたが」という意味です。マタイがガダラと言うのは「あの崖は今はガダラに属しているが」という意味です。いずれにしても同じ崖を意味しているのです。
新共同訳では「ゲラサ人」、「ガダラ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民、ガダラという町の住民です。ゲラサ人、ガダラ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけて二つの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していたと考えられます。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族にとって汚れた動物である豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?それは本日の説教のテーマに関わる大事な問題です。これは後ほどわかります。
さて三つの福音書の地名の相違の問題は解決しましたが、もう一つ大きな違いがあります。それはマルコとルカでは悪霊にとりつかれた男の人は一人なのに、マタイでは二人います。これはどういうことでしょうか?どっちかが間違っているのでしょうか?これは、先ほども申しましたように、福音書が書かれた時期がイエス様の昇天から一世代二世代後だったことが影響しています。マルコとルカは直接の目撃者ではないので、福音書を書く時はいろんな情報源から情報を得て書きました。そのことはルカ福音書1章ではっきり言われています。マタイ福音書は、言い伝えによると、12弟子の一人のマタイの記録が土台にありますが、それ以外にも他の情報源の情報も加えられています。もしゲラサの出来事がマタイ自身が目撃したことであれば、男の人は本当に二人だったことになります。もし別の情報源に由来するものであれば、その情報源が二人と言っていたことになります。マルコとルカの情報源は一人と言っていたことになります。どっちが正しいのでしょうか?
一人か二人かの確定は難しいですが、それでも確実に言えることがあります。それは、出来事が言い伝えられていく過程で情報が分かれてしまい、男の人の数が情報経路Aでは一人、情報経路Bでは二人になってしまったということです。それでも大事なことは、大元には本当に起きた出来事があって、それが広範な地域に伝えられていく過程で違いが生じた、しかし、共通点があることが出来事の信ぴょう性を示しているということです。共通点とは、イエス様がガリラヤ湖の対岸に行って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って豚は崖に向かって突進して湖に落ちておぼれ死んでしまったということです。これらはマルコ、マタイ、ルカに共通してあります。これは、本当に起こったことが出発点にあって、それが言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりして異なってくるという、福音書の中でよく見られることです。イエス様の復活の出来事の記述はいい例です。
今日は出来事の記述はルカのバージョンなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。ここで、この男の人はユダヤ人か異邦人かという問題を見てみます。豚の放牧の他にも、町の人たちの多数派が異邦人と考えられることがあります。それは、この奇跡を見て町の人たちはイエス様に退去するように言ったことです。ガリラヤ地方かユダヤ地方だったら、これだけの奇跡を見せられたら、預言者の到来だとか、果てはメシアの到来とか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言われたでしょう。ところが、町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているからだと恐れたのです。旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待を持っていないことを示しています。
そこで問題の男の人も異邦人かというと、そうではないのです。異邦人が多数派を占める地域の中で少数派として暮らすユダヤ人と考えられます。どうしてかと言うと、イエス様はマタイ10章6節から明らかなように活動の焦点をイスラエルの民に置いていたからでした。それで、旧約聖書を受け継ぐ民を相手に天地創造の神とその意思について正確に教え、特に宗教エリートの誤りを正し、来るべき復活の日に到来する神の国について教えたのです。この神の国への迎え入れをユダヤ民族だけでなく全ての民族に及ぼすためにイエス様は十字架の死と死からの復活を遂げられました。しかし、これはまだ後のことです。エルサレムに入られる前のイエス様の活動はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。イエス様がローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたことは例外的なこととして描かれています。悪霊にとりつかれた男の人はそういう異邦人がどうのこうのという問題はなく、ストレートにイエス様の活動の対象になっているのでユダヤ人と言えます。
悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えてくれるようお願いします。しかし、イエス様は自分の家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の者たちに、旧約聖書に預言されたことが実現し始めていることを伝えよという命令でした。やがて十字架と復活の出来事が伝わることになれば、やっぱりあのお方だった、旧約の預言は本当だった、と確信することが出来たでしょう。ところで男の人は家の者どころか、イエス様を拒否したゲラサ/ガダラの人々にも伝えたのです。これは、後々の福音伝道の良い下準備になりました。
ここから聖書と聖礼典の用い方の話に入ります。男の人が癒されるプロセスを見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったと思われるかもしれませんが、それはあり得ません。なぜなら悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力ある方とわかっていて恐れているので、自分から進んで彼のもとに行こうとはしないからです。それなのに男の人が行ったというのはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方から、舟から岸に上がったイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明らかです。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどのようにしてイエス様の前に行くことができたのでしょうか?
それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されても、イエス様に会うという意志があれば、悪霊はそれを妨げられない位の力がイエス様から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、誰かが、あれは今やガリラヤ全土で旧約聖書の預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と言ったのを聞いたかもしれません。または、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊の動揺を男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していくほど悪霊の動揺は大きくなり、悪霊は男の人が行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということかもしれません。いずれにしても明白なことは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊が嫌がることをする意志さえ持てれば、あとは邪魔されることはなく、あれよあれよとそのまま行けるということです。それ位、神の力が働くということです。
さあ、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は地獄ではなくて放牧中の豚に入ることをお許し下さいとお願いする。どうして悪霊は豚に行きたいかと言うと、こういうことです。悪霊が人間にとりついても人間が助かろうとする意志を持てば、たとえそれがどんなに小さな意志でも、それがイエス様と結びついたら最後、悪霊はもう何もなしえない位の大きな意志になることが明らかになりました。悪霊としても、もう人間にとりついても無駄だ、イエス様が現れた以上は同じことの繰り返しになると観念したのでしょう。それで、豚ならばイエス様に結びつけるような意志は持たないだろう、とりついたらそのまま自己破壊にまっしぐらだろう、やりやすい相手だと思ったのでしょう。イエス様は悪霊に豚にとりつくことを許可しましたが、何が起こるかお見通しだったでしょう。案の定、豚は本当に自己破壊に突き進んでしまいました。悪霊はその道連れとなってしまいました。
この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のように自己破壊の状態にあっても、そこから助かろうとする意志がどんなに小さくても一応あって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔されることなく行けるようになる位に神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば自分の外にある神の力が代わりに働いてくれて主のもとに行けます。私たちの場合は、たとえ悪霊追い出しの奇跡をするイエス様や弟子たちが目の前にいなくとも、聖書を繙けばイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたことが証言されています。そこに記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架で果たした私たち人間の罪の償いが私たちに効力を発して私たちは神から罪を赦された者と見なされ、天地創造の神と結びつきを持って生き始めます。しかも、私たちはイエス様の復活が切り開いた永遠の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきを持って歩み始めます。それなので悪霊の方が、信仰と洗礼を持つ者に対してパニック状態になるのです。ちょうどイエス様の前で悪霊がパニック状態になっているのと同じです。
悪霊がパニック状態に陥った後は何が起こるのか?場合によっては、ゲラサの男の人のように即、問題の解決が得られることもあります。即でない場合でも、神が良かれと考える仕方と時間で、良かれと考える人を送って解決を与えます。それは必ずしも、自分が望む仕方、時間、助け人でないこともあります。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神は必ず解決を与えて下さいます。
最後に、洗礼を受けて罪の償いが効力を持ったと言っても、私たちが肉の体を持って生きる以上はまだ罪は内側に残っています。それで罪の自覚と赦しの願いと赦しの宣言は繰り返されます。実はこの繰り返しこそが、内なる罪をイエス様と共に圧し潰していくことになるのですが、それでも時として、自分は本当に罪から解放されているのだろうか疑ったり心配になったりします。しかし、だからと言って、受けた洗礼には意味がなかったとか、もう一度受ける必要があるなどという考えは無用です。それは洗礼の意味を見失う危険な考えです。本日の使徒書の日課ガラテア3章27節でパウロが言うように洗礼を受けてキリストに結ばれた者はキリストを衣のように着せられたのです。一度着せられたら自分で手放さない限り、神が着続けさせて下さいます。聖餐式はまさに洗礼で着せられた衣がちゃんと着せられたままであることを確認する儀式です。神に対しても自分に対しても確認します。また、詩篇23篇5節で言われるように、敵に対しても確認します。敵は聖餐を受ける者に対して手出しできず歯ぎしりするしかないのです。
兄弟姉妹の皆さん、イエス様や弟子たちが私たちの目の前で悪霊の追い出しをしてくれなくても、私たちには聖書と聖礼典があります。それらを用いれば同じ力を受けていることがわかるはずです。
主日礼拝説教 2022年6月12日(三位一体主日) 箴言8章1~4、22~31節、ローマ5章1~5節、ヨハネ16章12-15節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
聖霊降臨後の最初の主日である本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天地創造の神を三位一体の神として崇拝します。先週は聖霊降臨祭で聖霊を覚える主日でした。それで父、御子、聖霊が出揃ったということで今日の礼拝は三位一体を覚えるのにちょうど良い日です。
三位一体とは一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているということです。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神です。今日は、本日与えられた聖書の日課に基づいて三位一体に迫ってみましょう。
ところで宗教学では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という世界三大一神教には類似性があるとよく言われます。ユダヤ教は旧約聖書を用いるし、イスラム教は新約聖書と旧約聖書を全く独自の仕方で用います。しかしながら、三つの一神教が同じ種に属するという話は神学的に無理があります。なぜなら、キリスト教では神は三位一体で、ユダヤ教とイスラム教はそうではないからです。共通の聖典を持っているとは言え、三位一体があるために、キリスト教は他と分け隔てられるのです。それなので、共通の聖典などない他の宗教とキリスト教の間なら、類似性を論じる可能性はもっとなくなります。
キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどに分かれていますが、分かれていても共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体とします。共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。分かれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があります。また、分かれた教会が一致を目指す時の土台にもなります。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。
ところで、神が三位一体というのは、キリスト教が誕生した後で作られた考えだという見方があります。その見方は正しくありません。三つの人格を持ちながらも一人の神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。
その例として本日の旧約の日課、箴言の8章は重要です。その22ー31節を見ると、神の「知恵」は人格を持つ方であることがわかります。まず「知恵」は自分のことを「わたし」と言って語ります。さらに、「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言います。30節を見ると、「わたしは巧みな者」と言っていますが、ヘブライ語のאמוןという言葉は「職人」を意味します。「知恵」が父と一緒に創造の作業を行っていたことを示唆する言葉です。それで、箴言のこの個所を読んだ方は、あれっ、イエス様のことを言っているみたいだ、と思うでしょう。コロサイ1章15節を見ると、御子は全ての被造物に先立ってあった、そして天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも造られた、と言っています。また、ヨハネ福音書1章ではイエス様のことを神の言葉、ギリシャ語でロゴスと言っており、それは天地創造の前から存在して、やはり天地創造に関与していたことが言われています。そうなると、神の「知恵」は後に「イエス」の名を付けられる神のひとり子と同一ではないかと思われます。
もちろん、神の「知恵」と神のひとり子を一緒にするのはどうかと思われる人もいるかもしれません。その理由として、二ケア信条では神のひとり子は「造られたのではない」と言っているのに、「知恵」の方はは「造られた」(22節)と言っているからです。これはヘブライ語をよく見ないといけません。「知恵」が造られたと言う時の「造られた」はקנהという言葉です。ところが、神が天地創造を行って被造物を造った時の言葉はבראと違います。日本語では両方葉を「造られた」と訳してしまって一緒くたになってしまいました。ヘブライ語ではそうならないように区別して違う言葉を用いているのです。それで、「知恵」は被造物のように造られたものではないのです。
これと同じことが「生まれる」という言葉についても言えます。二ケア信条では、神のひとり子は造られたのではなく「生まれた」と言っています。神の知恵も箴言8章24節と25節で「生み出された」と言います。この箴言の「生み出される」はヘブライ語でקדהです。ところが普通、母親が子供を産む時にはילדという言葉を使います。このように違う言葉を使うことで「知恵」が「生み出される」ことは被造物の生殖作用と異なる生じ方であることを意味しているのです。
このように天地創造の前から存在していた「知恵」とひとり子は重なってきます。イエス様自身、自分はソロモン王の知恵より優れた知恵であると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると意味したのです。
箴言の「知恵」がひとり子にもっと同一性を持つことがあります。30節と31節です。新共同訳では「楽を奏し」などと訳していて、まるで神の知恵が音楽の才能を持つかのように言われていますが、この訳は良くありません。良い訳は次の通りです。
「私は造り主のもとで職人であった。― つまり、創造に関与した。― 私はそこで世々限りなく喜びを体現する者、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとした。私は地上の人々に親切にするだろう。」これなら、神の知恵は神のひとり子にぐっと近づくでしょう。
ここで、どうして新共同訳で神の知恵が楽器を演奏するなどと言っていることについてひと言述べておきます。問題となっているヘブライ語の言葉שחקは、「幸せである」とか「楽しませる」と言う意味を持ちます。それがもっと特定化されて「ダンスをする、楽器を演奏する」という意味も持ちます。新共同訳はそっちを取ったので神の知恵はなんだかダンス・バンドのようになってしまいました。他にも注釈すべきことがありますが、ここでは深入りしません。
いずれにしても、神の知恵は造り主の許で職人であった、そこで代々限りなく喜びを体現する者で、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとしていた。そして、いつの日か、地上の人々に親切にする日が来ると言うのです。こうなると神の知恵は神のひとり子のイエス様に限りなく近づきます。
旧約聖書のヘブライ語原文の中には、単語の意味と文法からみて神のひとり子・イエス様のことを言っていると思われるものが沢山あります。しかし、翻訳や解釈をする人は必ずしもそう訳するとは限りません。その理由は、イエス・キリストは旧約聖書の書物が生まれる何百年前以上の人なので、旧約聖書を記した人たちはまだ知っているはずがない。彼らが書いたものは彼らの歴史的文脈の中で理解すべきで、後世の事柄を解釈や翻訳にむやみに持ち込まないという態度なのです。私は、もちろん単語の意味や文法的に無理なら当然しませんが、可能であればなるべくするようにします。宗教改革のルターも、イエス・キリストは旧約聖書に見出すことができるし、そうすべきだと言っています。
旧約聖書にイエス・キリストを見出さないようにする聖書の解釈・翻訳の例としてスウェーデンのルター派教会が2000年に公式採用した聖書があげられます。そのイザヤ7章のインマヌエル預言を見ると、「処女がみごもって男児を産む」はなくなり、「若い女性がみごもって男児を産む」になりました。処女受胎が消えたのです。また、三位一体の関係で言えば、創世記の最初で「神の霊が水の表を動いていた」がなくなって「神の風が水の表を吹いていた」になりました。聖霊が天地創造の前に存在していたことが消えたのです。このような聖書を読んで育ったら、どんなキリスト信仰が生まれるでしょうか?
話がわき道にそれましたが、神の知恵が神のひとり子・イエス様と同一であるとすると、今度は次のような疑問が起こります。ヨハネは福音書の冒頭でイエス様のことを「言(ことば)」ロゴスと呼んでいるぞ、「知恵」ではないぞ、なぜ「はじめに知恵ありき」ではなくて「はじめに言ありき」なのか?
もっともな質問です。そこで、もし私がヨハネだったら次のように考えたでしょう。イエス様は本当に神のひとり子で天地創造の前から存在し、父なるみ神と一緒に天地創造に携わった方だ、まさに箴言の「知恵」と同じ方だ。この方をギリシャ語文明の人たちにどう言ったらよいのだろう?ヘブライ語で知恵はホクマーだ。ギリシャ語では普通ソフィアと訳されている。イエス様をソフィアと呼んでギリシャ語圏の人たちは我々と同じようにイエス様のことを理解してくれるだろうか?ソフィアは女性名詞だし、仮にイエス様をそう呼んでみたら、なんだか哲学者みたいにならないだろうか?旧約聖書に出てくる「知恵」は人間の知恵や理性を超える神の知恵だ。困ったなぁ。そうだ!ギリシャ語には人間の知恵や理性を超えたもっと偉大なものを意味する言葉があった。ロゴスだ!しかも、ロゴスには「言葉」という意味もあるぞ。神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を造り上げていった。それで、イエス様を神の「言葉」ロゴスと呼べば、神の創造の業に関わったこともはっきりするぞ。よし、決めた。イエス様をロゴスと呼ぶことにしよう!
このように、神のひとり子をロゴスと呼ぶことは、神の壮大で深遠な「知恵」と神の力ある「言葉」の両方を意味するのにぴったりだったのです。
ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」であるひとり子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています(スウェーデン語の聖書では神の風になってしまいましたが)。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。
そうは言っても、三位一体はわかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?頭で理解しようとすると、三つの人格がどのようにして一人になるのかということに頭を使ってしまい、これは行き詰ります。それならば、なぜ神は三つの人格を備えた一人の神でなければならないのか?これを考えると、聖書はこの「なぜ」の問いには答えを出していることがわかります。神が三位一体であるというのは、私たちに愛と恵みを注ぐために神はそうでなければならない、三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらいに神は三位一体でなければならないのです。以下、そのことを見てまいりましょう。
まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪の時にできてしまいました。神に造られた最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになって死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロがローマ5章で明らかにしているように、死ぬということは人間は誰でも罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのです。人間は神との結びつきを失って、結びつきのないままこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去って神のみもとに戻ることが出来なくなってしまいました。
しかし神は、私たちが神との結びつきを回復してこの世の人生を歩めるようにすべく、そして、この世を去った後は復活の日に復活を遂げて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと、神は溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされました。その救いの手がイエス様でした。本日の福音書の箇所の中でイエス様は弟子たちにこう言いました。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「理解できない」と。ギリシャ語の言葉βασταζωは「背負いきれない」、「耐えられない」という意味です。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を神から切り離している罪と死から救い出すために、イエス様がこれから十字架刑にかけられて死ぬということです。このことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。
しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それを受け入れることができるようになりました。まず、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死ななければならなかったのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲だったということがわかりました。さらに、イエス様の復活によって私たち人間に永遠の命に至る道が切り開かれた、そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその道に置かれれ、神との結びつきを持てて神に見守られ導かれてその道を歩めるようになりました。弟子たちは、以上のことを真理として受け入れることができるようになったのです。それができるようになったのは聖霊が働いたためです。それらのことは人間の理解力、理性では理解できないことです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。
ところが、聖霊の働きは真理を理解させることだけに留まりません。13節のイエス様の言葉は理解した後のことも言っています。新共同訳の訳は少し狭すぎます。その文は次のように訳すべきです。「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「聖霊はあななたちを真理全体の中に留まれるように導いてくれる」とか「聖霊はあななたちを真理全体へ導いてくれる」です。聖霊は真理をわからせてくれるだけでなく、私たちが真理にしっかり留まって生きられるように助けてくれるのです。これは、すごいことですが、どうやってそんなことが出来るでしょうか?
私たちは洗礼を受けてイエス様を救い主と信じていても、私たちにはいつも罪の自覚があります。神の意思に反しようとするものが自分の内にあることにいつも気づかされます。それで、神と自分との関係は大丈夫なのだろうかと心配になったり悲しくなったりします。しかし、聖霊はすかさず私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も打ち立てられたままであることを示して下さいます。私たちは安心して、この永遠の命に向かう道を進むことができます。
また私たちは、罪と直接関係がないことでも、困難や試練に遭遇し不運に見舞われます。その時、神との関係を疑ってしまいます。神はこんなことが起きないようにしてくれなかった、神は私を見捨てたのだなどと思ってしまいます。そのような時にも聖霊は聖書の御言葉をてこにして私たちの心の目と耳を開いて本当のことを示してくれます。本当のこととは、神との関係、結びつきは試練や困難な時にも平時同様、何等変更はないということです。それがわかると、試練や困難は私たちを打ちのめすものでなくなります。それらは私たちが神と一緒に通過するプロセスに変わります。一人で通過するのではなく、神と一緒にです。その時、詩篇23篇のみ言葉「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を恐れじ。汝、我とともにいませばなり」、これが真理になります。
このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に至る道を歩めるように守り導いて下さり、復活の日に私たちを御自分のもとに迎え入れて下さいます。これは全て神の愛から出てくることです。この神の愛は三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。
まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪を持つようになってしまったために、ひとり子を贈って私たち人間を罪と死の支配から引っこ抜いて下さり、みもとに迎え入れられる地点へと続く道に置いて下さいました。こうして、私たちは神との結びつきを持ってこの道を進むこととなりました。人生の中で道を踏み外しそうになると聖霊から指導を受けられるようになりました。
ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて、神の意思に沿うようにと心を常に神に向けたまま生きられるようにして、この世だけでなく次に到来する世にまたがって生きられるようにすることです。三位一体のすごさは、私たちにあるべき姿を示すだけでなく、そうなれるようにする力そのものであることです。
主日礼拝説教 2022年6月5日 聖霊降臨祭 使徒言行録2章1-21節、ローマ8章14-17節、ヨハネ14章8-17、25-27節
本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の想像を絶する力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の今日、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちはこの信仰を携えて復活の日を目指してこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。
本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。使徒言行録が伝える聖霊降臨の出来事をよくみると、私たちはイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生れます。最初にそれを見ていきます。二番目のテーマは聖霊とは何者かについて、イエス様が本日の福音書の日課の中で「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいます。それはどういう意味か明らかにします。毎年教えていることのおさらいですが、これがわかると私たちは神に対して感謝の気持ちに満たされます。三番目は、そのような聖霊を受けた者のなすべきことが同じ福音書の日課で言われているので、それを見ていきます。聖霊は自分の考えに基づいて信仰者一人ひとりに様々な賜物を与えます。それで、なすべきことは人それぞれ違ってくるかもしれませんが、みんなに共通してなすべきことが日課で言われています。それは、イエス様を愛して彼の掟を守ること、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。
まず、聖霊降臨の出来事からイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生まれることについて。聖霊降臨が起きた時、駆け付けた群衆は、イエス様の弟子たちが神の偉大な業についてなんと自分たちの言葉で語っているのを聞いてびっくり仰天します。当時のエルサレムは、地中海地域と現在の中近東の地域から大勢のユダヤ人が集まる国際的な都市でした。弟子たちはそれぞれの民族の言葉で話をし出したのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。
弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還を果たしたという出来事です。さらに、神が私たち人間を含め万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も神の偉大な業に付け加えてよいでしょう。
ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」には、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の想像を絶する力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これも、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。
そこでペトロは群衆に向かってこの不思議な現象を説明します。ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14ー21節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の成就であると説き明かします。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かします(22ー40節)。本日の日課は前半までです。実は後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっています。しかし、今日はそこには立ち入らずに前半部分だけを見ます。
ペトロは、この不思議な現象はヨエル書3章1ー5節で預言されている神の霊の降臨であるとわかりました。このように、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったのです。ところでペテロは、ヨエル書を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言います。「終わりの時に」はギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後で」と言っています。これはペトロが改ざんしたのではなく、旧約聖書のギリシャ語訳が「終わりの日々に」と訳したことに倣ったのです。翻訳した人たちは原文の意味を終末論の観点で確定したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。
それでは「終わりの日々」とはどんな日々か?イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になりました。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直す天地大変動の時です。その時そこに唯一の国として神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるか最後の審判が行われます。そのため、イエス様の再臨を待つ日々は終わりに向かう日々で「終わりの日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。
19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。初めは、神の掟を破り続けたイスラエルの民が罰として外国の軍隊に攻められるという神の怒りの日と考えられていました。バビロン捕囚の後の時代には、この世が終わり天地の大変動が起きて神の罰が下される日という具合に終末論的に理解されるようになりました。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、さらに彼の再臨が「主の日」に加わりました。
21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に迎え入れられるのはイエス様の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの説明の後半は、群衆に主の再臨に備えてそういう者になりなさいと導く内容です。
こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。この宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。共に主の名により頼み、共に主の再臨を待つ群れが誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。
次に、聖霊とは何者か?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。
それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。お前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、再臨の日までお前たちがこの世で孤児になることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれが私たちにどう関係するのか?これらのことは以前もお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。
聖霊は私たちを何に対して弁護してくれるのか?私たちを告発する者に対してです。何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、外側も内側も神の意思に沿えない者であることが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けてしまったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。
人を落胆させたり神に背を向けさせてしまうものは、罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神が私にこんな仕打ちをされるということは、私に何か至らないことがあるということなのか?自分に原因があると思って絶望してしまったり、あるいは、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。これも悪魔の目指すところです。
私たちがどんな状況にあっても神の愛を疑わず信じ神のもとから離れず留まることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架で死なれたことで自分の罪を償って下さったとわかっています。それで、イエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。聖霊はすかさず私たちの方を向いて次のように促してくれます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています。」キリスト信仰者には洗礼を通してこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さいます。その時、私たちは本当にこれからは神の意思に沿うように生きていかねばという心を強くするでしょう。
不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないとわかります。神との結びつきがあるからには神の守りと導きもあるとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていた不幸や苦難が、今度は逆に、存在して見捨てることをしない神と一緒にくぐり抜けるためのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。波風たける時も一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。
次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2000年前に現在イスラエル国がある地域のナザレ出身のイエスは旧約聖書と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。
ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活した、これで彼が神のひとり子であることが旧約聖書の預言から通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの次に到来する新しい世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を与えられて神の国に迎え入れて下さる。それが実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊は私たちがこの真理をわかり、それを持ってこの世を生きられるように働くのです。
人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、聖霊が働くからです。この聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間を聖霊の働きの中に閉じるのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きにすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないぞ、とか、救い主は沢山いるぞ、イエスはそのうちの一人にすぎない、とか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは耳に届かなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持っているので、霊的に安全地帯にいることになります。
さて、洗礼を通して聖霊を常駐させることになったキリスト信仰者に共通してある、なすべきことを見ていきましょう。まず、イエス様を愛して彼の掟を守ることです。ヨハネ14章15節でイエス様は言われます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる。」私たちがイエス様の掟を守ることは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。ここで言われていることは、掟を守れ、掟を与えた者を愛せ、ということではありません。イエス様を愛するならば掟を守るのが当たり前になるということです。宗教改革のルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになるか?」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがないと、人間は愛することができない。」それでは、外部からくる素晴らしいものとは何でしょうか?
それがわかるためには、キリスト信仰者はどうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返ればよいでしょう。
イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで私たちが天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったからです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩めるようになると、順境の時にも逆境の時にも何ら変わらぬ神の導きと守りを得られるようになり、この世から別れても復活の日に復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられるようになりました。これが外部からくる素晴らしいものです。これがあるからイエス様を愛することができ、神を全身全霊で愛することができ、隣人を自分を愛するがごとく愛することができるのです。
次のなすべきことは、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。
12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言います。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を癒した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?
弟子たちがイエス様の業を行うと言うのは、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に向かう道を歩める可能性を開いて下さいました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものにすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにするという点では同じ業を行っているのです。
さらに弟子たちの場合は、活動範囲がイエス様よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、弟子たちの場合は遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うようになったと言えるのです。弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ14ー16章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働き、福音を聞く人を神のもとに導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られて弟子たちが福音を伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。
イエス様は13節と14節で、私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつきます。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない人たちについては、「その歩みが始まりますよう」にという願いになります。イエス様がその通りにしてあげると約束されたのですから、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者のなすべきことです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教 2021年5月29日 昇天主日 聖書日課 使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節、ルカ24章44-53節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
イエス様は天地創造の神の想像を絶する力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で弟子たちの目の前で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。今日は昇天日の直近の主日で「昇天後主日」とも呼ばれます。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天のみ神のもとから送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日がそれを記念する日です。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。
イエス様の昇天はとても奇想天外な出来事です。日本語で「天国に行った」と言うと、普通は「死んでしまった」と理解します。しかし、イエス様は生きたまま天に上げられたのです。もちろん、一度十字架の上で死なれました。しかし、神の想像を絶する力で復活させられたので通常の肉の体ではない復活の体を持っていました。それで、死んだのではなく生きた状態で上げられたのです。全く不可解な出来事です。
イエス様の昇天は天国についていろいろ考えさる出来事です。天に上げられたイエス様は今、天の父なるみ神の右に座していて、かの日にはそこから来て生きている人と死んだ人とを裁かれます、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週唱えられます。私たちもこの説教の後で唱えます。果たしてそんな天の国が存在するのか?近年ではキリスト教会の牧師の中にも、天国などないと言う人もいます。ジョン・レノンの歌みたいです。また、ある神学校では先生が学生に復活などないと教えるところもあると聞いたことがあります。そのような人たちは聖書に書いてある天国とか神の国、復活をどう考えているのでしょうか?おそらく、そういうものは人間の心の中、頭の中に存在するもので、人間の外側に形を持って存在するものではないと考えているのではないかと思います。彼らからすれば、天国や神の国や復活が存在すると言う人は時代遅れで暗黒の中世の思考レベルと言われてしまうかもしれません。しかし、聖書はそういうものはまさに人間の外側に実質的に存在し、いつの日か必ず目の前に現れるとはっきり言っています。本説教でもそれに則って話をします。まず、天国が実質的に存在することを言葉で言い表してみます。天国が実質的に存在すると納得できると今度は天地創造の神が私たち人間にわかってきます。以下、そうしたことを見ていきます。
天国が人間の心や頭の存在ではなく実質的に存在するということについて。まず、私たちの上空にそのような国が本当にあるのか?地球を大気圏が取り巻いていることは誰でも知っています。大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くとオゾン層がある成層圏、その上に中間圏等々いろんな圏があって、それから先は大気圏外、つまり宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、これまで天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天国とか神の国は恐らく見つからないのではと思います。
どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは「信仰」というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というものは人間の目や耳や手足を使って確認できたり、長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し把握し終えていません。果たして確認・把握し終えることができるでしょうか?
信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には人間の目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の国もこの確認や計測ができる世界ではない、もう一つの世界のものです。現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点では天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたことになります。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。
もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。その場合、天地と人間を造った創造主は存在しなくなります。そうなれば自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の計測可能な化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もありません。死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった人が心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心理作用という言い方になっていくでしょう。
ところがキリスト信仰者は、自分自身も他の人間もその他のものもみな現実世界とそこにあるものは全て現実世界の外側におられる創造主に造られたと考えます。それなので、人間の命と人生はこの現実の世界の中だけにとどまらないと考えます。聖書には終末論と新創造論と死者の復活があります。それで、今のこの世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時に神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられると命と人生が永遠に続くと考えます。このように、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがっているというとてつもない人生観を持っています。
日本では普通、この世の人生が終わると、その次は天国にしろ極楽浄土にしろ、別のところに移動すると考えられます。死んですぐそこに到達すると考える人もいれば、33年くらいかかると言う人もいます。どっちにしても、あの世とこの世は同時に存在しています。それなので、この世から去った人があの世からこっちを見ているというイメージがもたれます。
ところがキリスト信仰では事情が全く異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰には終末論と新創造論と死者の復活があります。今の世が終わって新しい天地が再創造される、今はこの世の反対側にある神の国がその時に唯一の国として現れる。黙示録21章では「下って来る」と言われます。そのため、今の世と次に到来する世は同時並行ではありません。次の世が到来したら今の世はなくなっているのです。それじゃ、到来する前にこの世から死んでしまったらその時までどこで何をしているのかと聞かれます。キリスト信仰の死者の復活から答えが見つかります。前もって亡くなった人たちは復活の日の目覚めの時まで神のみぞ知るところで静かに眠っているのです。ただ、聖書をよく見ると、復活の日を待たずして天のみ神のもとに上げられた人たちもいます。しかし、それは例外的で基本は復活の日まで眠ることです。イエス様もパウロも死んだ人のことを「眠っている」と言っていました。
このようにキリスト信仰では人生を、この世の人生と次に到来する世での人生を二つ合わせたものとして考えます。実にキリスト信仰者の人生観は二つの世にまたがる大いなる人生観です。この人生観を持てると、天地創造の神がどうてひとり子を私たちに贈って下さったのかがわかってきます。それは私たちの人生から次の到来の部が抜け落ちてしまわないようにするためだったのです。つまり、人間がこの世の人生と次に到来する世での人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。
それでは、ひとり子を贈ることで人間がどうやってそのような大いなる人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てなくなってしまっている。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまい、人間はそれを代々受け継ぐようになってしまったからです。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまいました。そこで神は、失われてしまった神と人間の結びつきを復興させるために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。
どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間が持つ罪を全部イエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせたのです。つまり罪の償いを人間に代わって果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ります。罪を償ってもらったので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ天の神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去った後は復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。
このようにして人間はイエス様の十字架と復活の業のおかげと、それをそのまま受け取る洗礼と信仰のおかげで、この世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようになったのです。
このように、天国、神の国、復活というのは実質的にあると捉えることができると、なぜ天地創造の神はひとり子を私たち人間に贈られたかがわかるのです。それは、私たちがこの世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようにするためだったのです。しかも、神は私たちを大いなる人生の道に置いて下さっただけではありません。その道をしっかり歩めて最後には復活を遂げて天の御国に迎え入れられるように世話を焼いて下さることもするのです。そのことも見ておきたく思います。神は私たちをスタートラインに立たせて、はい、あとはがんばってね、だったのではありません。私たちがゴールに到達できるのがさも自分の責任であるかのように私たちをいろいろ支援して下さるのです。そのことが本日の使徒書の日課エフェソ1章からも明らかになります。それを少し見ていきましょう。
19節から21節を見ると、一度死んだ人間を復活させるということと、その者を天のみ神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーを要するということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違う言葉で言います(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょうか?エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)もあります。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのです。日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者に復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというのです。
ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来、かつてのイエス様と同じように神の莫大な力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それを自分にも及ぼして下さる、それがわかれば、復活を目指す旅路は安心して進むことができます。
22節と23節を見ると、パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。ここで言われる「教会」とは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に向かう道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。それが「キリストの体」です。
そこで、その体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である私たち信仰者もキリストの一部分としてこの世の権力や霊的な力を足蹴にしている者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている私たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまいます。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまず神の意思に沿うことも力不足で出来ず、死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?
それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世の中にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生で終わるようにしてやろうという力が働いているところです。大いなる人生なんて無理だよ、と。それで、人間が父なるみ神に目と心を向けないようにしてやろうとか、そのようにして人間が神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらは既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらは将来イエス様が再臨される日に全て消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の莫大な力が今度は私たち信仰者にも働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうからです。
そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として繋がっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、神がイエス様を用いて打ち立てて下さった罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきましょう。
最後に、神の意思に沿うように生きる力はどこから得られるかについてひと言述べておきます。私たちは罪を自覚し、それを神のみ前で告白して赦しの宣言を受ける、これを繰り返すことで罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきます。しかしながら、そのようにしても神の意思に沿えない自分に気づくと、罪の赦しでは足りない、神の意思に沿えるようになれる何か特別の力が必要だと思う人が出てきます。もちろんお祈りすれば、神はその力を与えて下さいます。しかし、それは罪の赦しと切り離されたものではありません。罪の赦し抜きで神の意思を成し遂げようとすると、イエス様抜きでそうすることになり律法主義になっていきます。ファリサイ派と変わりありません。神は私がこの世の人生で終わらないで大いなる人生を持てるようにと、ひとり子を犠牲にすることをされた、それくらい私のことを大事に思って下さった、イエス様自身も、あなたのためなら私はそれでいいと言って十字架に向かわれた。こうなうともう、神の意思に沿わない生き方など考えられなくなります。ここにキリスト信仰者の力があります。その力は罪の赦しを確かなものにすればするほど備わるのです。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン
聖書日課 使徒言行録11章1-18節、黙示録21章1-6b節、ヨハネ13章31-35節
本日の福音書の日課の個所はイエス様が十字架にかけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしている場面です。よく「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去りました。その時イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。裏切る者が目的を果たそうと立ち去ってイエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とはどういうことでしょうか?それを言った後で今度は弟子たちに新しい掟を与えると言って「互いに愛し合いなさい」と命じます。
裏切る者が出ていってイエス様が栄光を受けることになるというのは、わかりにくいことです。そしてその後すぐに、互いに愛し合いなさいと言われる。この二つは一見関係ないように見えますが、実は深く結びついています。イエス様が栄光を受けることがどういうことかわかると、キリスト信仰の愛がどういうものかもわかるのです。逆に、イエス様が栄光を受けることがわからないとキリスト信仰の愛もわからないのです。今日はこのことをわかるようにしていきましょう。
裏切る者が目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことか?それはまず、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定したということがあります。それでは、死ぬことがどうして栄光を受けることになるのか?しかもそれで、神も栄光を受けることになるのか?
イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。それはどんな意味でしょうか?人間は創造主の神に造られた最初のアダムとエヴァの時から罪というものを代々受け継いできてしまいました。それでイエス様はこの罪から人間を解放するために自分を犠牲にしたということです。確かに、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われてしまうかもしれません。特に生まればかりの赤ちゃんは無垢そのもので、それも罪を持っているなどと言うのは酷いと思われるかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間誰もが罪を持っているということなのです。たとえ一時の間、悪い言葉や思いや行いが出なくとも人間だれもが神の意思に反しようとする性向を持っているというのが聖書の立場です。
人間はこの罪をそのままにしておくと、いつまでたっても神との関係は切れたままです。この世から別れた後も神のみもとに戻ることはできません。それで神は、人間が自分と結びつきを持ててこの世の人生を生きられ、この世から死んだ後は復活の日に自分のもとに迎え入れてあげよう、それによって永遠の滅びに落ちないようにしてあげようと決めました。それで、ひとり子イエス様をこの世に贈り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方を取ったのです。少し法律的な言葉で言うと、本当は有罪なのは人間の方なのに、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実のひとり子に背負わせて有罪者が背負わないですむようにした。有罪者は気がついたら無罪になっていたのです。
罪は、人間が神との結びつきを持てなくするようにする力を持っています。また、人間がこの世から別れた後で復活を遂げられず神のみもとにも迎え入れられないようにする力も持っています。人間をこの悪い力から解放するために神は、ひとり子を犠牲に供してその犠牲に免じて人間の罪を赦し神罰に定めないという手法を取ったのです。そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業なのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、神が打ち立てた罪の赦しが自分の中に入ってきます。そして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、この世から別れた後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられるようになったのです。このように罪はキリスト信仰者に対してはかつての力を失ったのです。加えて、イエス様が死から復活させられたことで死を超える永遠の命が人間に打ち立てられました。罪と死はキリスト信仰者に対しては支配する力を引き抜かれたのです。
このようにイエス様が受難を受けて死ぬというのは、神による人間の救いが実現するということなので、それでイエス様は栄光を受けることになるというのです。このような救い方を考えて実行した神も栄光を受けることになるのです。つまり人間のためになることが起こることで神とひとり子が栄光を受けるというのです。聖書の神は一体なんという神でしょう!私たち人間は、この救いを神に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、本当に罪を赦されて罪の支配から脱せられるのです。そして神との結びつきを持てて復活と永遠の命に向かう道を歩むようになるのです。もちろん、道中いろんなことが起こります。それでも神との変わらぬ結びつきがあるから何があっても大丈夫、いつも導きと力を頂けます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて永遠にみもとに迎え入れられます。
これだけの途方もないこと、今のこの世と次に到来する世の双方にまたがるスケールの大きなことを父なる神とひとり子イエス様はこの私のために成し遂げて下さったのだ、とわかった時の安心感と感謝の気持ちと言ったらないでしょう。この安心と感謝があると、この場合の神の意思はどうだったかといつも思い起こして、それに沿うように生きようという姿勢になります。これが神に対する愛です。神が与えた掟を守ることが自然で当たり前になっているのです。これとは逆に、神が自分に途方もないことをしたということがわからないと、神への本当の感謝もなく本当の安心もありません。そのような状態で掟を守ろうとしたら自然で当たり前に守ることになりません。イヤイヤで無理に守ることになります。
このように、神がイエス様の十字架と復活という、歴史の過去にこれほどのことをして下さったとわかると安心と感謝が生まれ、そこから神の意思に沿うように生きようと向かいだします。それ加えて、神は将来何をしてくれるのかも知っておくと神の意思に沿おうとする心に勇気が加わります。本日の黙示録21章の日課では、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されて死者の復活が起こる日、神がみもとに集めた者たちをどうされるかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3ー4節)」。
目から「全ての涙」(παν δακρυον)を拭われるというのは、この世の人生で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできます。しかし、それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、正義も残念ながら実現に至らないことがあります。いろんなことがこの世の段階でやり残ってしまい、未解決のまま無念の思いでこの世を去らねばならないことが多くあります。ところがキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると神の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されるのです。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。キリスト信仰者はそういう時が来ると知っているので、この世でおよそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、また信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の至るところに「命の書」という、最後の審判の時に開かれる書物が登場します。それは、全ての人間に関する神の記録書です。そのような書物があるというのは、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたか全てご存知で、何も見落としていないということです。誰も自分のことをわかってくれないと悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っているのです。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人自身以上よりもその人のことを知っているのです。
復活の日は神の国で全てのことが清算され報われる日ですが、その日は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録19章5ー9節、マタイ22章1ー14節、黙示録21章2節も参照)。つまり、この世での労苦が完璧に永久に労われるということです。
キリスト信仰者というのは、過去に神がひとり子イエス様を用いて「罪の赦しの救い」を打ち立ててくれたことを知っているだけではありません。将来自分が死から復活させられる時、神がこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれることも知っています。このように過去に神がしてくれたこと、将来してくれることの両方に挟まれるようにしていると、神に大きな感謝、深い安心と強い勇気を持つことができます。それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。
神の愛に挟まれるようにして生きるキリスト信仰者は神の意思に沿うように生きようとする。このように神の愛を受けて神に対する愛が生まれる。それでは、隣人に対する愛はどのように生まれるでしょうか?隣人を愛せよと言うのは神の意思です。それなので、神の意思に沿うようにしようとすれば隣人を愛することも当然のことになります。しかし、それでも難しいことがあります。相手が神の場合は神が大きなことをして下さったので神を愛する心が生まれます。相手が隣人の場合はいつもいいことをするとは限らないし、逆の場合もあります。それなのに愛せよというのは難しい感じがします。どうしたら隣人を愛せよと言う神の意思に沿うことができるでしょうか?ここでは2つの視点をあげてみましょう。
まず一つは、神が自分にどれだけのことをして下さったかをもう一度確認することです。マタイ18章にイエス様の一つのたとえの教えがあります。50億円の借金を抱えた男が主人に泣き叫んで帳消しにしてもらったのに自分に50万円の借金ある者を赦さずに牢屋に送ってしまった、それを聞いた主人は激怒して、私はお前の多額の負債を帳消しにしてやったのだからお前も同じようにすべきではなかったかと言って牢獄に送ってしまうという話です。50億円を帳消しにしてもらったら50万円を帳消しにするなんて容易いことではないかという話です。キリスト信仰の有り様も大体これと同じですが、ただ桁数が違いすぎます。人間が永遠の滅びに落ちないで復活を遂げて永遠の命に入れるように神のひとり子が犠牲になって罪という負債を帳消しにしたということです。これだけ大いなる帳消しは50億と50万の比どころではありません。永遠の命がかかっているので1千兆円と1円の比以上です。それだけの赦しを受けたら自分も隣人を赦してあげるのが当然になるのではないでしょうか?
ただ問題が深刻な場合もあります。相手が与えた害悪が重大すぎる場合とか、相手が自分には全然問題がないと思っている場合です。どうしたらよいでしょうか?このような場合は、キリスト信仰の基本的なスタンス、大いなる赦しを得たので自分も赦すというスタンスにとどまります。ただなかなか気持ちは収まりません。その場合でも、社会の秩序が保たれるために法律的に解決しなければならないことはします。自分自身だけでなく自分の周りでも十戒が破られることを放置してはいけないからです。ただしその場合でも、パウロがローマ12章で教えるように復讐心で行ってはいけません。それは、先ほども申したように最後の審判で神が正義の不足分を全て最終的に完全に清算されるからです。
もう一つの視点は、キリスト信仰者というのは宗教改革のルターも言うように、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者であるという自覚です。つまり、皆が皆、何かしら支援を必要としているということです。そこをわきまえていないと完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのためにパウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です27節)。このことについて宗教改革のルターは次のように教えています。
「主にある兄弟姉妹が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。あるいはまた、それを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうだろう。その時はもう手遅れだ。どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」
以上の述べてきたことはキリスト信仰者同士の愛についてでしたが、相手が信仰者でない人の場合はどうなるでしょうか?それでも基本的なスタンスは同じだと思います。自分は父なるみ神から莫大な赦しを受けたので、今この世の人生を神との結びつきを持てて生きられる、この世から去った後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられる道を歩んでいるというスタンスです。それと、歩んでいる自分はこの世にいる間は不完全なままで罪の自覚がありそれで神に赦しを祈る、イエス様の十字架と復活がある以上、赦しは確実にあることを確認しながら生きていくというスタンスです。
このスタンスに立った場合、信仰者でない人たちに対する隣人愛も目指す方向が出てきます。それは彼らも罪の赦しを得られるようにして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてこの世を去った後も復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられる道を歩めるように信仰者は導いてあげるということです。どうしてそんな方向が出てくるのでしょうか?
それはイエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると火を見るよりも明らかです。イエス様の愛の実践は、人間と造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、それを妨げていた罪の力を無力にして罪から来る神罰を私たちに代わって全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いをもたらしたということがその出発点にあり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールとしてあります。それなので、隣人愛と聞いて普通頭に浮かぶ、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、キリスト信仰の場合はこの出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になると言っても言い過ぎではありません。
そうなると、キリスト信仰の隣人愛とは、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人が相手の場合は、その人が受け取った救いにしっかり留まれるように助けることが視野に入ります。まだ受け取っていない人の場合は、受け取るように導いてあげることが視野に入ります。受け取っていない人の場合はいろいろ難しいことがあります。もしその人がキリスト信仰に興味関心を持っていれば、信仰者は教えたり証ししたりすることができます。しかし、興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それは難しいです。それでも信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるように導いて下さい」と一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近な課題にして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。