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主日礼拝説教 2022年5月8日 復活節第四主日 使徒言行録9章36節-43節、黙示録7章9節-17節、ヨハネ10章22-30節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
復活祭の後の福音書の日課は死から復活したイエス様が弟子たちの前に姿を現した出来事が中心でした。今日の福音書の日課は舞台を再び十字架と復活の前に戻します。イエス様の教えと業は、十字架と復活の出来事の前は聞く人見る人にとってわかりにくいことが多くありました。それが、十字架と復活の後になって、それらがどんな意味なのかが正確にわかるようになりました。本日の日課についても私たちは、イエス様の十字架と復活の出来事を知る者として意味を確認してまいりましょう。
イエス様は、数多くの奇跡の業と神の権威がある教えでローマ帝国シリア州(マタイ4章24ー25節)において名声を博していました。イエス様自身、自分は父なるみ神から送られた「神の子」であると、また旧約聖書ダニエル書に出てくる救世主的人物「人の子」であると公言していました。それに対してユダヤ教社会の宗教指導層は、あれは神の子でも救世主でもない、民衆を惑わす危険な男だと見なしていました。宗教指導者たちが神と人間の関係を取り仕切っていたところに、別の誰かが勝手に取り仕切るようになったら、それは彼らの権威に対する挑戦になります。しかし本当は、イエス様の取り仕切りが神の意思そのものだったのです。宗教指導者たちはそれが全くわからず、自分たちの教えや流儀が神の意思たと思い込んでいました。
それで宗教指導者たちは、なんとかこのイエスを捕まえて殺してしまおうと考えるようになっていました。そこで、エルサレムの神殿の祭事の時に大勢の人でごった返す中にイエス様を見つけて取り囲み尋問を始めます。イエス様が何か間違ったことを言えば、大勢の人が目撃者となる状況です。指導者たちは聞きます。いつまで我々に気をもませるのか、お前がメシアなら、はっきりそう言え、と。イエス様は答えます。自分は既にそう言ったのに、君たちが信じようとしないのだ、と。
ここで、ヨハネ福音書をさかのぼってみると、イエス様が自分のことをメシアだと指導者たちに公言したことは見当たりません。4章のサマリア人の女性とのやりとりの中で、自分がメシアであると明かしますが(26節)、ユダヤ人の前では信奉者に対しても反対者に対しても、自分は父なるみ神から送られた「神の子」とか、救世主的人物である「人の子」とか言うだけで、ずばりメシアであるとは言っていません。もっとも、ユダヤ人の中にはイエス様がメシアだと信じる人も出ていました(7章31節)。イエス様は自分からは言っていないのに、既にそう言ったというのはどういうことでしょうか?これは当時、メシアという言葉が人々に誤って理解されていたという問題があります。
メシアとは、もともとは頭に油を注がれて聖別された者を意味しました。神から特別な使命を与えられた者です。実際には、ダビデ王朝の王様が代々即位する時に油を注がれたので、ダビデ家系の王様を意味するようになりました。ところが、ダビデ王朝の王国は紀元前6世紀初めのバビロン捕囚の時に滅びてしまいます。イスラエルの民は同世紀の終わりにユダの地に帰還を果たしますが、それ以後はある一時期を除いて諸外国の支配下におかれ、ダビデ王朝の王国は再興しませんでした。何世紀もの間ユダヤ民族の間では、将来ダビデ家系の王が現れ、外国支配を打ち破って王国を再興し諸国に大号令をかけるという期待がずっと抱かれていました。この王がメシアと考えられたのです。
他方で、バビロン捕囚から帰還した民の中には、旧約聖書イザヤ書の終わり(65章や66章など)にある預言に注目して、今ある天と地はやがて終わりを告げて新しい天と地に再創造される時が来るとわかった人たちがいました。そのような預言を通してメシアとは創造の秩序が一新される時に現れて、創造主の神の目に適う者を御許に迎え入れてくれる方という、そういう終末的な救世主を意味するということがだんだん明らかになってきます。この意味のメシアはユダヤ民族を解放する王様とは違います。全人類にかかわる救世主です。
そうすると、イエス様が尋問を受けた時、それまで自分がメシアであるとはっきり言っていなかったのに、どうして既に言ったなどと答えたのかがわかってきます。イエス様は、特定民族の解放のためにこの世に送られたのではなく、文字通り全人類の救い主として送られたということがポイントです。もし「私はメシアだ」と言ったら、聞いた人たちの多くは、イエスは自分がメシアだと言ったぞ、ダビデの末裔の王で、これからイスラエルをローマの支配から解放すると宣言したぞ、と捉えたでしょう。そうなれば、宗教指導者たちにとってはしめたものです。この男は反乱を企てています、とローマ帝国の官憲に引き渡せばいいだけです。イエス様自身は、もちろん自分は本当の意味でメシアであるとわかっていました。しかし、聞く側がそう受け取らないこともよく知っていました。それで、人々がメシアを正しく理解していない間は、自分でその言葉を使うのは控え、かわりに父なるみ神から送られた「神の子」であるとか、終末の救世主「人の子」であると言い換えていたのです。でも、それがメシアの本当の意味だったのです。もちろん、「神の子」、「人の子」と言うのも宗教指導者たち苛立たせました。なぜなら、神を冒涜していると思ったからです。
ユダヤ教社会の宗教指導層は旧約聖書に集積された天地創造の神の言葉を維持管理する立場にありました。それなのになぜ彼らはイエス様が「神の子」であること「人の子」であることを信じられなかったのでしょうか?イエス様が数多くの奇跡の業を行っていたことは広く知れ渡っていました。しかも、それを自分の父である神の名によって行っていました。業自体が既に神の子であることを証明しているのに、指導者たちは信じない。イエス様は呆れ返ります(10章25ー26節)。
指導者たちの不信仰の理由の一つは、先ほども申しましたように、イエス様が指導者たちを飛び越えて神と人間の関係を取り仕切ろうとした、そのことが指導層の権威に対する挑戦と受け止められたことがあります。彼らは自分たちのしていることが神の意思だと信じて疑わなかったのです。4つの福音書を見ると、宗教指導層に対する批判が多くあるので彼らは即悪党集団という印象がもたれがちです。ところが歴史的事実として、彼らの中には、自分たちは神の意思を究めたい、究めた神の意思をしっかり守り実現していきたい、と自分なりに神に忠実であろうとした人たちも大勢いたのです。それなのにどうしてイエス様を神の子、救世主と信じることができなかったのでしょうか?それは、自分たちの教えや流儀こそが神の意思であると固く信じていたからです。このためイエス様がいくら奇跡の業を行っても、お前を神の子と信じるにはまだ足りない、という位に頑なになってしまったのです。この頑なさはさらに度を増します。イエス様は労働を禁じる安息日に病の人を癒す奇跡を行いました。すると、人が助かったことよりも安息日を破ったということに目が行ってしまい、この男は神の意思に逆らう者だ、などと奇跡の偉大さが見えなくなってしまうほどでした。
宗教指導層が神の意思を誤って理解していた原因としてもう一つ、旧約聖書に書かれている神の約束をユダヤ民族のみに関わると理解していたこともあります。確かに、旧約聖書を繙くと、神とイスラエルの民の関係の歴史が延々と語り伝えられています。それで、ユダヤ民族以外の世界の諸民族はその他大勢に括られてしまうだけに感じられます。しかし、たとえユダヤ民族の歴史の記述が大半を占めていても、旧約聖書に述べられている神の約束は全人類に関わるものです。
それは、創世記の出来事から明らかです。神に造られた最初の人間が神に対して不従順となり、神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったために人間は死ぬ存在となってしまいました。人間はユダヤ民族か否かに関わらず、誰でも死ぬ以上、誰もが造り主である神に背を向けようとする罪の性向を受け継いでいます。罪を言い表す時、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、具体的な行為に現れる罪(tekosynti、verksynd)と具体的には現れなくても遺伝して誰でも持っている罪(perisynti、arvsynd)という二つの言葉があるくらいです。このような受け継がれる罪があるので、たとえ具体的に行為や言葉や思いに現れなくても人間は皆罪びとであるというのが聖書の立場です。
この罪のために、人間は神聖な神との結びつきを失ってしまいました。それに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世から別れた後は永遠に自分のもとに戻れるようにしようと決めました。神はそれを人間の歴史の中で実行したのです。どのように実行したでしょうか?
アブラハムが歴史の舞台に登場しました。モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の地エジプトを脱出して約束のカナンの地に移住しました。この過程でイスラエルの民、ユダヤ民族が出来てきました。神は、この自分が選んだ民とのやり取りを通して、自分はいかなる者で、いかなる意思を持ち、何を考えているかをたえず知らしめ、その都度その都度、将来実現する人間の救いについて預言者を通して明らかにしました。これらをまとめたものが旧約聖書です。
そして、救いを実現する時が来ました。神はひとり子をこの世に送ったのです。ひとり子はダビデ家系のヨセフの婚約者、乙女マリアを通して人間として誕生しイエスの名をつけられました。神がイエス様に課した役割は、人間の罪を全部彼に背負わせて人間の代わりに神罰を受けさせて人間が受けないで済むようにすることでした。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法をとったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。人間はただイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の赦しを自分のものにすることができます。それで人間は神との結びつきを回復出来、結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は復活の日に復活の体を着せられて造り主のもとに永遠に迎え入れられるようになったのです。
神のひとり子がこの世に送られた場所は、まさに神の意思である十戒と御言葉と約束の維持管理を任されていたユダヤ民族の真っただ中でした。イエス様は神の意思を誤って理解していた指導者たちに本当の神の意思と神の業を示したのに反対されて処刑される、そういう形で人間を罪から贖う、いわゆる贖罪を自ら行ったのです。さらに神はイエス様を死から復活させ、この世に対して死を超えた永遠の命が本当にあることを示されました。そこに至る道を人間に切り開かれたのです。このように神の約束は、かつて人間が失ってしまったもの、造り主との関係を回復するという約束でした。それは特定の民族にとどまらない全人類に関わるものだったということが明らかになりました。願わくは、神の約束が特定の民族や文化文明に向けられたのでなく、全世界の人々に向けられていることが多くの人にわかってもらえますように。
本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について語ります。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(10章27ー28節)。永遠の命を与えられ、この世から死んでも決して滅ぶことはない「彼ら」とは誰のことか?それは復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになった者、キリスト信仰者のことです。
イエス様の「声を聞き分ける」とは、十字架の前に彼の教えを耳で直に聞いたということだけではありません。死から復活して天に上げられたイエス様の声を私たちは直に耳で聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った教えは、彼の弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。イエス様が救い主と信じないで福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史物語にしかすぎません。しかし、信じて読むとそれは自分を造って命と人生を与えてくれた神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻して下さった救い主メシアの言葉になります。彼が私たちに語りかける言葉です。福音書以外の書物も、使徒たちが記した書簡は復活したイエス様が、あなたたち、伝えなさい、と彼らに託した自分の言葉の集大成です。旧約聖書も、ひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらすことになる神がどのような方であるかを明らかにする書物群です。総じて聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついています。聖書を繙くことで、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに、イエス様のことを知ることができます。
イエス様はまた、彼の羊、つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いであるイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。個人的に知っているから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。ご存知ではあるけれども、イエス様の方では、私たちがそれらのことをお祈りして打ち明けることを望んでいます。そうすることで、私たちはイエス様に信頼をおいていることをイエス様にも示し自分自身にも言い聞かせることができます。イエス様や父なるみ神はどうせ全部ご存知だから祈る必要もない、というのは信頼をおくことを怠けることになります。
死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、造り主の神との結びつきを持ってこの世の人生を歩むことになると申しました。人生の歩みでは、いつも私たちの祈りを聞いてくれる、個人的な思いや願いを聞いてくれる主がいつもそばにいるとも申しました。しかし、人生の歩みの中で、本当に神との結びつきはしっかり保たれているだろうかと疑問や不信を抱くことが多くあることも事実です。特に罪に陥った時とか、苦難や逆境に陥った時がそうです。
罪に陥った時、陥ったのはあくまで自分ですから、それで十字架と復活がもたらす救いと恵みの力が減ることはありません。救いと恵みに力がなくて罪に陥るのを阻止できなかったということではありません。救いと恵みの力と価値は私たちがどんな状況にあるかにかかわらず不変です。それゆえ、罪に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、罪を罪として認めて神の御前で赦しを祈ることです。そうすると十字架と復活に現れた神の恵みと愛は私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者はいつも立ち返れる地点があります。
それから、私たちは自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることもあります。この問題はとても難しいです。一つ言えることは、そのような時でも、救いと恵みに力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」で始まる詩篇23篇の4節に「たとえ死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われています。主がいつも共にいてくださるような者でも死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主が共にいれば苦難も困難もないとは言っていません。苦難や困難が襲って来ても主は見放さずに共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に再興された神との結びつきは私たちの方で捨てない限り、いかなる状況にあっても保たれているのです。
今日の説教の中で、キリスト信仰者は神との結びつきを持ってこの世を進むとか歩むとか申しました。一体どこに向かって進むのでしょうか?それについても申しました。復活の日に復活を遂げて神の御許に迎え入れられるところです。このことが今日の黙示録の中でも言われていますので、最後にそれを見ておきましょう。
7章14節「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」
イエス様がゴルゴタの十字架で流した血で私たちは罪から清められる道に置かれてその道を進みます。復活の日、私たちは内も外も完全に白くされているのを自分の目で見ます。イザヤ書1章18節の神の言葉「お前たちの罪が赤くとも、お前たちは雪のように白くされる」がイエス様の十字架の血のおかげで本当になるのです。また詩篇51篇9節のダビデの祈り「私を雪よりも白くして下さい」も本当になるのです。
7章15~17節「玉座に座っておられる方がこの者たちの上に幕屋を張る。彼らはもはや飢えることも乾くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを襲うことはない。玉座の中におられる小羊が彼らの牧者となり、命の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである。」
ここに、イザヤ書49章10節、詩篇121篇6節、詩篇23篇1、2節、イザヤ書25章8節の御言葉がそのまま実現するのを見ることが出来ます。
兄弟姉妹の皆さん、このように旧約聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついていると言うのは誠にその通りです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
主日礼拝説教 2022年5月1日 復活節第三主日 聖書日課 使徒言行録9章1節-20節、黙示録5章11節-14節、ヨハネ21章1-19節
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今日の聖書の日課にはパウロとペトロのことが出てきます。パウロはもともとはサウロという名前でした。古代ユダヤ民族の初代の王サウルのことです。王様の名前だったのが「小さき者」を意味するパウロになりました。ペトロの方はもともとシモンという名でしたが、イエス様からお前の名はこれからは岩を意味するケーファーだと言われました。これはアラム語ですが、それがギリシャ語のぺトゥロスになりました。「岩」というのは教会の基を意味します。私が中学の時だったか高校の時だったか、世界史のテストで( )に人物名を書けという問題で「キリスト教が誕生した時、ユダヤ人に伝道したのは( )、ユダヤ人以外の異邦人に伝道したのは( )」というのがあって見事に逆に書いてしまいました。似たような名前なのでどっちでもいいじゃないかなどと思ったものですが、その頃、新約聖書くらい読んでいたら、そんなことにはならなかったでしょう。
ユダヤ人に伝道したのがペトロ、異邦人に伝道したのがパウロというのは少し乱暴な区分けです。キリスト教会の誕生史をみると最初はユダヤ人が中心でした。イエス様の弟子たちも皆ユダヤ人で、イエス様自身、ユダヤ人の乙女マリアから人間の肉体を受けてこの世に生まれたので、旧約聖書を受け継ぐ民族の一員として生まれました。そういう背景があるので初代のキリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はまずユダヤ人であるべきということにこだわりました。イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアと信じるならば、その人は旧約の伝統を受け継ぐ者でなければならない。もし異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そう考えられても不思議はありません。ところが天地創造の神は、そうではないということをペトロに教えていたのです。それでペトロはローマ帝国の将校コルネリウスに洗礼を授けたのです(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人にこだわり続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。
パウロは、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないという立場でした。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられ、そのようにして天地創造の神から罪の赦しを等しく受けられて神と結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も復活を遂げて神の御許に迎え入れられるようになりました。わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要はなくなりました。実にありがたいことです。
そのパウロの伝道の仕方をよく見ると、彼は伝道する先々でまずシナゴーグに行って教えました。ということはユダヤ人に伝道したのです。ただ、教えを聞いたユダヤ人たちは受け入れる人も出るが反対者の声が強くてパウロは追い出されてしまうことが度々でした。ところが、シナゴーグの外でなんと異邦人がパウロの教えを受け入れるということが起きたのです。パウロは両方を相手に伝道したのですが、結果的に異邦人が受け入れたということです。
イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるのに、ユダヤ教に改宗しないでいいというパウロの教えはどうして生まれたのか?本日の日課にある出来事、パウロがキリスト教徒迫害の旅をしていた時に復活の主の栄光を目のあたりにしたことが大きなきっかけになりました。そのことについて私は3年前の説教でお話したことがありますので、興味のある方そちらをご覧ください。本日はペトロの方をお話ししようと思います。
本日の福音書の日課は、復活されたイエス様が弟子たちの前に3度目に現れた出来事についてです。ガリラヤ湖で夜通し漁をしていた弟子たちが何も取れないで夜明けになった頃、イエス様が岸辺に現れて大声で魚が取れるところを教えます。言われたとおりに網を下ろすと網が張り裂けんばかりの大量の魚がかかりました。イエス様だと気づいたペトロは他の者より一足早くイエス様のもとに行こうと湖に飛び込みます。その時、自分が裸であることに気づいて、失礼に当たると思ったのか慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロの性格がよく表れていると思います。弟子たち全員が岸に上がると、魚を焼く炭火とパンが用意されていました。イエス様は、さあ、朝ご飯を食べていきなさい、と労います。
食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。もちろん、その意味もありますが、ここではもう少し深いところも見ておこうと思います。
イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。
「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφιαという言葉がありました。愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。
それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与えると言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。ここには、イエス様の弟子たちに対する愛とそれを模範にした弟子同士の愛の二つが言われています。両方ともアガパオーです。
イエス様の弟子たちに対する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形です。ここで、アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わないものであることが明らかになります。
そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない強い愛はないと思います。
それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものだと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったと言うのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てるのを妨げていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられるのを妨げていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。そのことがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちの内にある、神の意思に反しようとする罪が妨げの力を失くすのです。罪があることを認めて神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせ、いつも赦しがあることを見せて下さいます。この時、罪に妨げの力はなく干からびています。罪よ、ざまあみろ、です。そのようにして、洗礼で新しく生まれ変わった自分にいつも戻れるのです。
イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、たとえ他の弟子が見捨てても自分はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい、ただし、人間的な愛ですが」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで言わず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?そりゃ、あんまりです!という様子が窺われます。
ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロがイエス様を信用していました。どうしてかというと、ペトロの答えの後でイエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、イエス様が信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。それほどペトロを信用していたのであれば、なぜ三回も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならないことをはっきりさせたのです。
それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それも先ほども見ました、ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになると言うのです。
それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去る時は復活させられて神の御許に迎え入れられるように働くことです。
そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そんな時は、どうしてこんなことが起こるのかと、神に失望や不信が生まれる危険があります。それで信仰者を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。
イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助ける場合でも、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは肝に銘じておく必要があるでしょう。宗教改革のルターは、その時は財産や命を失う可能性すらあることを覚悟しなさいと言っているほどです。これが、イエス様のために自己犠牲することです。
ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」終わりに、このイエス様の言葉を見ておこうと思います。
キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしていたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。
ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?
それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。三つの者とは、まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。
このような神の真理を胸張って証しするように生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんなのは取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。
私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまいます。それなので口に出すことは良心・信条の自由が存続するためにも非常に大事です。
最後に、イエス様がダマスコの途上でパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を神の視点で読んだり聞いたりする時や聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。しかも、臨在する方はただボーっとしておられるのではなく、私たちの境遇や状況を他人事としてではなく自分事として受け止めておられるということです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。
聖書日課 使徒言行録5章27~32節、黙示録1章4~8節、ヨハネ20章19~23節
主日礼拝説教 2022年4月24日 復活節第一主日
本日の福音書の個所は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張っていたのが、目の前に現れて信じるようになったという出来事です。その時イエス様が言います。「私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである。」この言葉にはキリスト信仰にとって大事なことが含まれています。今日は「見なくても信じる者は幸い」とはどういうことかを見ていきたいと思います。それと、イエス様は弟子たちに「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とも言われます。罪すなわち人間が神の意思に反することを行ったり言ったり思ったりすることですが、それを赦すのは神の権限なのに、その権限を弟子たちに与えるというのです。これはとても大きな権限です。説教の終わりにこのことについても触れておこうと思います。
「見なくても信じる者は幸い」ということについて。私たちは目で見たら、その時はもう、信じるもなにもその通りだと言うでしょう。ところが、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。
イエス様の弟子たちは復活の目撃者です。信じるも何もそうとしか言いようがなく、後で迫害が始まった時にも見たものを見なかったことにする改ざんみたいなことは出来ませんでした。本日の使徒言行録の個所でも、弟子たちはユダヤ教社会の指導者たちからイエスの名を広めるなと脅しを受けます。しかし彼らは折れません。なぜ折れないかというと、目撃したことがとても大事なことだから譲れないのです。イエス様の復活に何かとても大事なことが付随しているのです。もしその大事なことがなくてただ死んだ人間が息を吹き返して出てきただけだったら、確かに情報を拡散したい気持ちにはなるでしょうが、拡散したら命はないと言われたら、そこまでしてやる人はいないでしょう。しかし、復活に何かとても大事なことが付随してあるから、命を危険に晒しても折れないということになったのです。それでは付随している大事なこととは何か?それがわかると、見なくても信じる者は幸いということもわかってきます。
ところで、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。その後は復活したイエス様を目撃できません。それで、目撃者の証言を信じるかどうかということになります。彼らの証言を聞いて信じることが出来た人たちは、どうしてできたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも後に目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?それは、やはり、復活に付随している大事なことを目撃者同様に持てるようになったからです。本当にその大事なこととは何でしょうか?
そこで本日の福音書に戻ります。イエス様が復活した日の夜のこと、弟子たちはある家に集まっていました。ペトロとヨハネは、その日の朝早くマグダラのマリアからイエス様の墓が空であったという知らせを聞きました。すぐ自分たちも確認に行ったところ、確かに墓は空でした。この出来事が先週の福音書の箇所の内容でした。今、家の中でペトロとヨハネは、空の墓のことを他の弟子たちに話したところでした。そこへマリアが来て復活したイエス様に会ったと言ったのです。さあ、どうしたものか。主は本当に復活したのだろうか?みんなで出かけて行って会うことができるだろうか?しかし、外はイエス様を死刑に追いやった者たちで溢れかえっている。うかつに人前に出たら危険だ。それで成す術もなく家の中で過ごすうちに夜になりました。その時、なんとイエス様本人がそこに現れたのです。迫害を恐れて扉という扉にしっかり鍵を掛けたにもかかわらず。
ルカ24章を見ると弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。本日のヨハネ20章にもあるように、イエス様は、弟子たちに自分の手とわき腹の傷跡を見せて本人確認をさせます。先週の説教でもお話ししましたように、復活されたイエス様は人間がこの世で有する体とは全く異なる復活の体を有していました。それは、亡霊と違って実体のある体でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それはあたかも天使のような体でした。復活したイエス様は、この世の我々の肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持っていたのです。そのような体を持つ者が本来いる場所は天の父なるみ神がおられる神聖な天の国です。罪の汚れに満ちたこの世ではありません。イエス様は本当は、復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったのです。しかし、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間、この地上にいることになったのです。
弟子たちの前に現れたイエス様は「あなたがたに平和があるように」と繰り返して言います。弟子たちは周りの人たちを恐れていました。イエス様がいなくなって将来どうなるか全くわからない不安がありました。そのような時に「平和があるように」というのは、恐れと不安を超えるものがあるのだ、恐れと不安ではなくそれを持ちなさい、とおっしゃっているのです。恐れと不安を超える平和とはどんな平和でしょうか?
ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉です。イエス様は実際にはアラム語で話していたので、シェラームשלמという言葉だったでしょう。そのアラム語の言葉の元にある言葉は、言うまでもなく、ヘブライ語のシャーロームשלומです。このシャーロームという言葉は広い意味を持ちます。国と国が戦争しないで仲よくするという意味の平和もありますが、その他にも繁栄とか、成功とか、健康とか、国だけでなく人間個人にとって望ましい理想的な状態を意味します。ずばり、神の救いを意味することもあります(1列王記2章33節、イザヤ54章10節「平和の契約」と訳すことも可)。そうなると、日本語の「平和」と違ってきて、それなら「繁栄」とか「成功」とか「救い」と訳せばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、もともとのヘブライ語の言葉シャーロームはこれら全部を含めてしまうのです。
イエス様は「平和」という言葉をもっと深い意味で言っています。十字架に掛けられる前日、イエス様は弟子たちに次のように言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和である。しかも、それを、この世が与えるように与えるのではない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャーロームなのでしょうか?まず、「この世が与える」平和シャーロームとは何かを考えてみます。先ほどシャーロームは広い意味があると申しました。国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生が含まれると。もしこれらのものが「この世が与える」ものなら、それは人間が自分の力で獲得したものです。
ところがイエス様が与える平和シャーロームは違います。それは彼特製の平和で、しかも、それを「この世が与えるように」与えるのでない。つまり、イエス様の平和シャーロームは人間の力で獲得するものではない。あくまでもイエス様が与えるものです。そうすると、イエス様が与えるシャロームは、国と国との平和とか、人間個人の望ましい理想的な状態とは違うのでしょうか?結論を先に申しますと、イエス様が与えるシャーロームは、こうした理想的な状態の土台にあるような根源的な平和です。それがあってはじめて、シャーロームが普通意味する理想的な状態が成り立つと言えるような根源的な平和です。それがなければ、どんなに理想的な状態を獲得しても危いというような、そんな根源的な平和です。一体それはどんな平和なのでしょうか?
イエス様が与える平和を理解する鍵が聖書の中にあります。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており…」。つまり、「平和」とは人間と神との間の平和です。そうすると、イエス様のおかげで神との間に平和が得られているということは、イエス様が来られる以前は人間と神の間は平和がない、言わば敵対関係だったのか、という疑問が起きます。実はそうだったのです。そのことは「コロサイの信徒への手紙」1章21ー22節に明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対していた私たち人間がイエス様の十字架の死によって神と和解することができ、神聖な神の前に立たされることになっても神に認めてもらえるようになった、と言うのです。神との敵対、そしてイエス様の死による和解と平和、これらは一体どういうことでしょうか?
これらのことがわかるためには、まず、私たち人間には造り主がいるということ、その造り主が私たちに命と人生を与えられたということに立ち返ってみる必要があります。そして、立ち返ったら今度は、その造り主と私たち人間との関係はどうなっているのかということを考えてみなければなりません。
創世記を繙くと、人間はもともとは創造主の神に似せて造られたくらいに神に近い存在でした。それが最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったため神との結びつきが失われてしまいました。神との結びつきが失われたのに伴って人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬であると教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。キリスト教ではいつも人間の罪性が言われるので、よく嫌がれます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らないではないか、と言われます。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのです。
罪が内部に入り込んでしまったため、人間は神聖な神の御前に立たされたら焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして罪のゆえに神と人間の間に敵対関係が生じてしまったのです。しかし、神は、人間を神から切り離している罪の力を無にして、人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしようと決めました。そのために自分のひとり子をこの世に贈りました。人間の全ての罪をこのひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせて、そこで全ての罪の神罰を人間に代わって受けさせて死なせました。神のひとり子が人間に代わって人間の罪を全て神に対して償って下さったのです。神は、ひとり子の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。
さらに神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、復活と永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。こうしたことが起こった後で人間の側ですることと言えば、あとは、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、この神がしてくれた罪の償いが自分に起こったことになります。本日の黙示録1章5節で言われるように、イエス様は自分が流した血によって私たちを罪から解放されたのです。難しい言葉で言うと、罪から「贖って」下さったのです。このように罪を償われ罪から贖われた人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、神との和解ができたことになります。神との平和な関係に入ったのです。こうしてその人は神との平和な関係を持ってこの世の荒波の中を進んでいくことになります。進む先は、復活の日に復活の体を着せられ永遠の命を与えられるところです。今年のスオミ教会の年間主題でも言われるように、キリスト信仰者はイエス様と一緒に最終港を目指してこの世という海の航海を続けていくのです。
この航海を進む中で成功、繁栄、健康などこの世的な平和シャーロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まっていれば、神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係はしっかり保たれています。人間的な目から見れば、失敗、貧困、病気などの不運に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えません。しかし、キリスト信仰者というのは罪の告白を行って罪の赦しの宣言を受け、また聖餐式で主の血と肉に与っていれば神の目から見て結びつきも平和な関係も何ら変更なくしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて主が御手をもって父なるみ神の御許に永遠に迎え入れて下さいます。このことを確信してこの世から別れるのがキリスト信仰者です。イエス様のおかげで神と平和な関係にある人は本当に見ないで信じられる幸いな人です。
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに大事な任務を与えます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。ここで次のような疑問が起きます。キリスト教は、イエス様の十字架で全ての罪が赦されたと言っているではないか。それなのになぜ、まだ赦されるとか赦されないとか言い続けるのか?この疑問について考えてみましょう。
まず確認しておかなければならないことがあります。それは、父なるみ神はイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現したわけですが、今度は人間の方がこの確立した救いを受け取らないと、この赦しはその人に効力を持たないということです。救いは確立された、しかし、それを受け取らないと、その外側にとどまることになってしまうのです。せっかく神が全ての人間に対して、どうぞ受け取って下さい、と言って差し出して下さっているのに。そこで、もし受け取れば、神がイエス様の犠牲に免じて赦すと言っていることが、その人にとってその通りになるのです。
そう言うと今度は、じゃ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ罪が償われて罪から贖われると言ったのに、それでもなお赦されるだの赦されないだの言うのはどうしてか、という疑問が起きると思います。確かにキリスト教では、十字架の出来事で全ての罪は赦されたと言いますが、全ての罪が赦されたというのは、これで信仰者から罪がなくなるということではありません。なくなるのは罪が人間を神から引き離そうとする力、復活に向かわせない力です。
人間はイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になっても、肉の体を纏っている限り、神の意思に反しようとする罪を持っています。その点は信仰者でない人と何の変わりはありません。ただ、何が違うかというと、キリスト信仰者の場合、罪の赦しの救いを自分のものとして所有していて、神もそのような者としてその人を見てくれている。それでその人がたとえ思いや言葉や行いによって罪を犯しても、すぐ神のみ前でそれを認めて、イエス様を救い主と信じていますから赦して下さいと祈れば、神も、お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、これからは犯さないようにと言って下さいます。変わらぬ結びつき、平和な関係の中で引き続き復活に至る道を歩ませ下さるのです。
このように信仰者は罪を犯さなくなった者ではなく、犯してもイエス様を自分の救い主と信じる信仰のゆえに神との結びつき平和な関係は揺るがずに、復活に至る道を歩ませてもらっている者です。それなので、信仰に留まる限り、罪が本来持っている力、人間を神から引き離して復活に向かわせず永遠の滅びに向かわせようとする力は信仰者に対しては無力化しているのです。私たちの礼拝の最初に唱えられる罪の告白と赦しの祈り、それに続く赦しの宣言というのは、罪の無力化を確認するものです。そういうわけで、罪の告白を行い赦しの宣言を受けるということは、洗礼という原点に立ち返ることを意味します。
ここで一つ細かいことを言うと、礼拝の「罪の告白」の後に「赦しの宣言」が続くと申しましたが、日本福音ルーテル教会の式文では「赦しの宣言」ではなく「赦しの祈願祝福」となっています。内容は先ほど一緒に唱えたように、「ひとりのみ子イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に、赦しと慰めを与えて下さるように」という文言です。司式者は、赦しがありますようにと祈り願う言い方です。これに対してフィンランドのルター派教会で用いられる式文では、もっと違う言い方がされます。こう言います。「神からその権限を委ねられた者として、次のように宣言します。あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されたと宣言します。」文字通り、会衆に罪は赦されたと宣言するのです。日本のように、赦しがありますようにと祈り願うこととは違います。そして宣言する場合、司式者が赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた代理者として宣言するというのです。誰がそんな権限を委ねられているのでしょうか?最初の使徒たちがイエス様からこの権限を委ねられました。本日のヨハネ福音書にある通りです。その後は、使徒の伝統に立って教会の牧会者に任命された者です。私は、いつの日かこのスオミ教会でフィンランドと同じような宣言がなされることを希望します。
最後に、イエス様が弟子たちに命じたことの中に「あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」というのがありますが、それについてひと言。使徒や使徒の伝統に立って任命された牧会者が赦さない罪とはどんな罪でしょうか?これは、自分は罪を犯したことがないとか罪を持っていないという人の場合です。そういう人は罪の告白をする必要を感じない人で、罪の告白がないから赦しを宣言しようにもできません。先ほども申し上げたように、キリスト信仰者と言えども罪は内にあるので、罪の告白は必要です。
主日礼拝説教 2022年4月17日 復活祭/イースター イザヤ書65章17~25節、第一コリント15章19~26節ヨハネによる福音書20章1~18節
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今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。
復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。復活祭では何をお祝いするのでしょうか?十字架刑という惨い殺され方をしたイエス様が死から復活して本当に良かったという、イエス様のハッピーエンドのお祝いでしょうか?そうではありません。それでは復活祭は何をお祝いするのでしょうか?それがわかるために、まず「復活」とはそもそも何なんのかがわからないといけません。それと、なぜイエス様は復活を遂げる前に十字架の死を遂げなければならなかったかもわからないといけません。
そういうわけで今日の説教は、初めに復活とは何なのかについて考えます。その次にイエス様がなぜ復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったかをわかるようにします。そして最後に、イエス様が復活したことは私たちに何の関係があるのかをみていきます。
復活とは何か?復活とは、よく混同されますが、ただ単に死んだ人が少したって生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。
復活の体について、使徒パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」15章で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。
このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それは、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。
復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象があります。目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流した出来事があります。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。
復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前の説教でもお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのは、天にいるのが相応しい神聖な体を持つイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。
神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様とすがりつく地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」とはどういうことでしょうか?マリアはイエス様だと気づく前ずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上に遺体までなくなってしまって喪失感と言ったらありません。そこでイエス様に気づいた時どんな反応だったでしょうか?私たちの経験でも例えば、最愛の人が何か事故に巻き込まれて、もう死んでしまったとあきらめたか、まだあきらめきれないという時、突然その人が無事に戻ってきて目の前に現れたらどうなるでしょうか?たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめるでしょう。マリアもそうしたのでしょう。ただ相手が崇拝する人の場合は、「すがりつく」というのはひれ伏して両足を抱きしめることだったかもしれません。
イエス様が「すがりつくな」と言ったということについて少し注意します。以前にもお教えしたことですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)と言っています。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?
以前もお教えしましたが、イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様自身、この言葉の後で触れてはならない理由を言っています。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は自分に触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。そういうことになります(後注)。
さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これは、この世離れした感動を覚えさせる光景です。
本当なら危険極まりないことなのになぜイエス様は許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちた方だから、という常套句を使えばそれまでですが、私はそれだけではないと思います。イエス様がマリアのことを、今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上は彼女も復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたからだと思います。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」これと同じことはパウロも本日の使徒書の日課でも述べていました。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」
次に、なぜイエス様は復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったのでしょうか?
イエス様の十字架の死というのは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしてくれたということでした。「罪」と聞くと普通は何か犯罪行為とか、そこまでいかなくとも何かとても悪い行いを思い浮かべる人が多いです。聖書ではそれは、人間に備わってしまっているもので神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。旧約聖書の創世記に記されているように罪は、神に一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。しかし神は、罪の引き離す力から人間を解放して結びつきを回復してあげよう、人間が自分と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことをしてあげようと決めたのです。
それでは、そのように人間を救おうという神の御心とイエス様の十字架と復活とはどう結びつくでしょうか?それは、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部引き受けてくれたことになり、そのようにしてイエス様が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さったのでした。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たした償いが完璧なものだったからです。その意味で罪は本当は破綻してしまったのです。
さらに神は、想像を絶する力でイエス様を死から復活させました。これで死を超える永遠の命があることがこの世に示されました。そこに至る道が人間の前に開かれました。そこで人間は、これらのことは全て自分のために起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人に入り込んで、その人の中にある罪を圧し潰していきます。自分で償ったのではなく他人が償ったというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であればちっぽけな人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方が神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもので決して軽んじてはならないものとわかります。なにしろ罪が償われたというのは、神が、お前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さることなのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。
罪の償いをしてもらったということは、神から罪を赦されたと見なしてもらえることになります。その時、神との結びつきは回復しています。そうなると人生は神の御心に従って進むことになります。どんな御心かと言うと、神との結びつきは人がどう感じようが順境の時でも逆境の時でも変わらずにあり、それで人生は神の守りと導きの中で復活の日を目指して進むものなるということです。そして、この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられるということです。まさに罪と死の支配から解放された人生を持つようになるということです。
このように罪と死の支配から人間を解放するという神の御心がイエス様の十字架と復活によって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った者はイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活の可能性が開かれたことを覚える日でもあるのです。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身のためだけでなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。
最後に、復活というのは自分自身が復活させられるというだけでなく、復活の日に同じように復活させられた人たちと懐かしい再会を遂げるという希望があることも見ておこうと思います。
キリスト信仰の復活というのは、聖書によれば、将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる日に起こることです。新しい世になる前に今ある世が終わるのでよく終末論と言われますが、新しい天と地、新しい世ということも言っているのでそれを忘れてはいけません。死者の復活というのも、その時に一斉に起こることです。それなので、一人ひとりがこの世を去って各々が何年したら復活するということではありません。ここのところがキリスト信仰の死生観が他の宗教と大きく違う点の一つではないかと思います。一人ひとりがこの世を去った後はパウロもイエス様も言うように、復活の日まではみんな静かに眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。ただし、その時に起こるべきこととしてイエス様の再臨とか最後の審判ということがあります。それらについては別の機会にお話しします。
本日の旧約聖書の日課イザヤ書65章は復活を遂げた者たちが迎え入れられるところはどんなところかについて述べています。初めに新しい天と地が創造されることが言われています。この箇所で使われている言葉はこの世に関係するものばかりなので、新しい世のことを言っているように聞こえないかもしれません。しかし、聖書をよく知っている人ならこれは黙示録の終わりの部分の先取りだとわかるでしょう。この個所を見てみましょう。
17節「見よ、わたしは新しい天と地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」
「初めからのこと」はヘブライ語(הרשנות)を見ると「以前のこと」と訳したほうがいいです。その意味は、以前の天と地の時にあったこと、そこで神の意思に反したことがあったこと、それらは新しい天と地の下ではもう神にも神のもとに迎え入れられた者にも関係なくなるということです。
18~19節前半「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。」
エルサレムとは今のイスラエル国のエルサレムではなく、新しい天と地の下で復活した者たちが迎え入れられるところを聖書ではそう呼んでいます。
19節後半~20節「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。」
これは黙示録21章で言われていることと同じです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」「最初のもの」とは、旧い天と地の下にあったことです。それらはもう神にも復活を遂げた者にも関係なくなるということです。
21~23節前半「彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく 彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。」
新しい天と地の下で何が変わるかについて、復活した者の有り様が永遠のものに変わるだけではありません。そこは完全な正義が実現されているところであることをこの個所は言い表しています。「他国人」は、ヘブライ語(אחר)を素直に訳すと「他人」です。外国から侵略されるという意味でなく、隣人関係において奪ったり奪われたりということがなくなるということです。「私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる」も、正確な訳は「私の選ばれた者らは自分たちの手の業を享受する」です。このように新しい世は正当な権利が侵されない正義が蔓延する世であることを言っているのです。
23節後半「彼らは、その子孫と共に主に祝福された者の一族となる。」ここの正確な訳は「彼らは、主に祝福された者の子孫である。彼らの子孫は彼らと共にある」です。ずばり、復活の日に復活した者たちみんなが相まみえることを言っているのです。
24節「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。」神がそれくらい復活した者たちの近くにおられるということは黙示録21章3節でも言われています。「見よ、神が住まわるところは人々の間にある。神は彼らのもとに住まわれる。彼らは神の民となる」
25節「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」イザヤ書11章にも同じような預言があります。狼やライオンのような獰猛な獣が草やわらを食べているというのは信じられない光景ですが、実はこれは天地が創造された時の状態でした。創世記1章30節に創造の業を終えた神がこう言われます。「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草をたべさせよう。」いつから動物たちのあるものが他の動物たちを食べるようになったのでしょうか?やはり堕罪の出来事が天地創造の安全で安心な秩序を壊してしまったのでしょうか?そうだとすると、新しい天と地の再創造というのは堕罪の前の全てが良い状態に戻すということになります。そのようなところに私たちは招かれ、その招きを受けたキリスト信仰者たちはそこを目指して今この世を進んでいるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
後注
このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。
しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意します。ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。
新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。
主日礼拝説教 2022年4月10日 聖金曜日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1.イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。
イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景だったでしょう。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。
私たちの周りにも苦しみや激痛が沢山あります。特に今はウクライナの戦争が連日ニュースに出ます。無残に破壊された町並み、殺されてしまった人たち、何百万の避難民、取り残されてしまった人たち、これらの映像や写真を毎日見ていると、イエス様の受難など背景に追いやられて色あせてしまうかもしれません。イエス様のことは2000年前の遠い過去の出来事であるのに対してウクライナの戦争はまさに現在進行中のことです。イエス様の受難はイエス様一人の苦しみでしたが、ウクライナの戦争では犠牲者は何万人単位です。そちらの受難の方が規模が大きく身近に感じられるとしても無理はありません。
ところで、侵略国との力の差は圧倒的なのにウクライナの人たちが受難を覚悟で侵略国の要求を跳ねのけてまで戦うのはなぜか?それは、自由と民主主義を守りたいからです。もし守りたいものが物質的な安定とか生命の保全とか美しい郷土だけならば、それらは独裁国が支配しても得られます。しかし、独裁国に支配されたら、間違っていることを間違っていると言えなくなります。そう言う人を毒殺することも厭わない相手です。しかし、支配者は国民が不満を抱かないように物質的・生命的安定も配慮するでしょう。自分たちに盾突かなければという条件でですが。もちろん物質的・生命的な安定は大事ですが、間違っていることは間違っていると言える自由とそれを運用できる民主主義はもっと大事だ、それは他のものと引き換えることはできない、たとえ物質的・生命的な安定を失うことになっても守らなければならない、これがウクライナの人たちの選択でありそのための戦いであると言ってよいと思います。ウクライナの人たちの選択について日本でもいろんな議論がされています。その議論は実は、もし私たちも同じ危機に襲われたらどんな選択を取るのかということを好むと好まざるにかかわらず考えさせるものになっていると思います。
2.ここで先ほど色あせてしまうと言ったイエス様の受難に目を向けてみます。実は、イエス様の受難もよく見ると、人間にとって他のものに引き換えることができない大事なものがあります。何かと言うと、イエス様の受難によって、人間は自分たちが失っていた神との結びつきを取り戻すことができたということ。それで、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになったということ。そして、この世から別れた後は神のもとに永遠に戻ることができるようになったということです。
それらのことがイエス様の受難を通してどのようにして起こったかということが先ほど読んだイザヤ書の箇所で述べられています(イザヤ52章13節~53章12節)。この箇所はイエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。
イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。なぜこのようなことが起こったのかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのです。人間の神に対する背きのゆえに、イエス様がかわりに神の手にかかって命ある者の地から断たれたのです。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもありませんでした。それなのに、その墓は神に逆らう者と一緒にされました。苦しむイエス様を神は打ち砕き、こうしてイエス様は自らを償いの捧げ物としたのです。神の僕であるイエス様が「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」のです。イエス様は自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたけれども、実はそれは多くの人の過ちを担って、背いた者のために執り成しをしたことだったのです。
このイザヤ書の預言から明らかなように、イエス様は私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが神の意思に反しようとする性向、罪を持ってしまっているために、神との結びつきがない状態で行き先もわからずこの世を生きていたからでした。神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために、神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたました。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。罰はイエス様が受けて下さったので人間は受けないで済む可能性が開かれました。あとは人間の側がこのことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人に入り込み、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。
神から罪を赦されたので神との結びつきを回復してこの世の人生を進むことになります。進む行き先は復活の日に復活させられて神の国に迎えいられるところです。罪は人間を復活のない方に追いやろうとします。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、追いやられることはありません。キリスト信仰者は罪と死の支配から解放されているのです。イエス様の十字架の受難が人間にもたらしたこと、罪の赦しと神との結びつきの回復そして復活と永遠の命、これこそがキリスト信仰者が他のものと引き換えにできないことです。これらのことを守らず他のものに引き換えてしまったら、自分をも守らないことになります。これらのことを守ることは、自分を守ることになるのです。
3.この2000年前のかの地で起きた出来事が時空を超えて現代の日本に生きる自分のためにもなされたというのは身近に感じられないかもしれません。しかし、実際にそうなのです。それを示すイエス様の言葉があります。それは彼が最後に述べた「成し遂げられた」です。ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσταιとあります。イエス様はこの言葉を口にした時はギリシャ語ではなくアラム語で言われたでしょう。それがどんな言葉だったかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の全記録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのです。
このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も成し遂げられた状態にある」です(後注)。つまり、「成し遂げられた」とは、罪の赦しの救いがイエス様の十字架で実現したのであるが、それはそれでハイ終わりましたではないということです。ヨハネが何十年か後にこの記録を書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いているということです。さらに彼の書物を手にして読む後世の者にとっても「成し遂げられた状態」が続いているということです。まさに時空を超えて私たちにとってもです。ヨハネの翻訳は真に的確でした。父なるみ神の御心に適うものです。なぜなら、神の御心は、彼が造った人間の誰もがひとり子を通して実現した救いを受け取ってほしいというものだからです。そしてこの御心は2000年前も今も変わらないのです。神の救いは現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮なものです。それなので、ゴルゴタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては新しい命を生きられるようにするものです。既に受け取った人たちには、かつて与えられた新しい命が今も変わらず新しいままでいることを忘れさせない原点です。
(後注)アオリストετελεσθηでなく現在完了τετελεσταιであることに注意。
主日礼拝説教 2022年4月10日(枝の主日)
私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今年の受難節/四旬節も、もう「枝の主日」となりました。復活祭の前のこの主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様が受難を受けることになるエルサレムにろばに乗って入城した時に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。本日用いておりますルカ福音書では、群衆が道に敷いたのは衣服だけですが、マタイ福音書では衣服と木の枝(21章8節)、マルコ福音書では衣服と葉の付いた枝(11章8節)と少し詳しく記されています。ヨハネ福音書では、道に敷かれたことは言われていませんが、群衆がなつめやしの枝を持ってきたと記されています(12章13節)。いずれにしても、私たちは、今日から始まって聖金曜日を経て復活祭に至るこの1週間、約2000年前に起きた人類の救い主の受難の出来事について、聖書の御言葉をもとに思い起こし、彼がゴルゴタの丘の十字架まで歩んだ受難の道を心の中で辿らなければなりません。
さて、ルカ以外の三つの福音書を見ると、ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとは旧約聖書が書かれたヘブライ語で「ホーシーアーンナー」という言葉が、イエス様の時代のイスラエルの地で話されていたアラム語「ホーシャーナー」に訳されたものです。どちらも神に、救って下さいとお願いする意味があります。それが古代イスラエルの伝統では、群衆が王様を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。従って群衆は、子ろばに乗ったイエス様を王として迎えたことになります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ろばに乗ってやってくるのです。
またイエス様は、子ろばを連れてくるようにと弟子たちに命じた時、まだ誰も乗っていないのを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし既に誰かに乗られていたら使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の計画を実現するものと言うのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人子ろばに乗ってやってくるイエス様。この出来事は一体何を意味するのでしょうか?
本日の説教では、イエス様が子ロバに乗ってしかも王様としてエルサレムに入城したことが一体なんだったのか?しかも、それがどうして神の計画を実現する神聖な行為だったのか、それらを明らかにしようと思います。それらが明らかになると、イエス様は私たちにとって何かとてつもない統治者であることが見えてきます。
「統治者」という言葉を使いましたが、昔の時代では統治者というのは王とか皇帝とかいわゆる君主が普通でした。現代では、王は存在しても統治権を持っていないのがほとんどです。大抵は、国民が選挙して国会に代表者を送り、その国会が政府の構成を決め、そして裁判所がこれらがちゃんと憲法や法律に従って働いているかをチェックします。現代では統治権は、こんなふうに機能別に分かれているのが普通です。昔の王の場合だと統治権は一極集中だったと言ってよいでしょう。それなので、現代の私たちがイエス様のことを王と呼ぶ時は、現代の王のイメージは捨てて、昔のように統治権の行使者として捉えなければなりません。イエス様は統治をする王であると。
しかしながら、統治する王ではあっても、イエス様の場合は特殊な事情があります。それについて、イエス様がヨハネ18章36節で自らお話しして下さいます。イエス様がローマの総督ピラトに向かって言った言葉です。「私の国はこの世には属していない。」ここのギリシャ語の原文をもう少し正確に見ると、「私の国はこの世に起源を持たない」です。
昔、王が統治していた国も、現代、国家機関が統治している国もみなこの世に起源を持ちます。当たり前です。しかし、イエス様が統治する国はこの世に起源を持たないのです。それはどんな国でしょうか?その国と私たちとの関係はあるでしょうか?そのようなことも以下に一緒に考えてみましょう。
イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城したのは神聖な行為であったということについて。この出来事は、旧約聖書ゼカリヤ書にある預言が成就したことでした。ゼカリヤ書9章9ー10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、ヘブライ語の原文を直訳すると「彼は義なる者、勝利者、へりくだった者」です。直訳の方がイエス様のことを指していることがよく見えてきます。
まず、「義なる者」について。「義」という難しい言葉がありますが、簡単に言うと、神の意思を体現できている、それで神の目に相応しい者です。先月の説教でもお教えしましたが、私たち人間はそのままの状態では神の意思に反する罪を持っているので「義なる者」になれません。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼があれば神から義を与えられて義なる者とされます。イエス様の場合は、彼は神のひとり子なのでそのままの状態で神の意思を体現している「義なる者」です。
「勝利者」というのは、ゼカリア書の預言から明らかなように、神の力によって世界から軍事力をなくして神主導の平和を打ち立てる者です。そのような勝利と平和はどうやって打ち立てられるでしょうか?人間の力で世界から軍事力をなくして人間主導の平和を打ち立てることが出来るでしょうか?今次のウクライナの戦争を見ても世界中の他の火種のある地域を見ても難しそうです。もちろんそうする努力はしなければなりません。
イエス様が勝利者というのは、彼が軍隊を率いて外国を打ち破るという戦争勝利ではありませんでした。彼の勝利は、ゴルゴタの十字架の死と死からの復活を遂げたことで罪と死を滅ぼしたという勝利でした。人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してイエス様と結びつくことが出来、それで彼の勝利を自分のものにすることが出来ます。そうすると今度は、天と地が新しく再創造される時にイエス様のように死から復活させられて永遠の神の御国に迎え入れられます。今の次に到来する世の有り様は今の世と異なります。それは罪と死に対する勝利に与った者たちのある世です。そこは神主導の平和が打ち立てられています。当然のことながら人間の軍事力などは藻屑になっています。
そして、「へりくだった者」というのは、まさに本日の使徒書の日課フィリピ2章でイエス様について言われていることです。その個所ではイエス様のへりくだりが見事に描かれています。「キリストは、神と一体にありながら、神と等しいことを戦利品と見なさず、それを放棄して奴隷の形を取り、人間の姿形を取り、人間のように現れ、自分をヘリ下させ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。」このように「高ぶらず」などと訳さないで「ヘリ下った」と直訳すればイエス様のことを言っていることがよくわかります。
以上から明らかなように、ゼカリア書の預言にある「義なる者、勝利者、ヘリ下った者」とは、義なる神のひとり子が罪と死に勝利するためにヘリ下って十字架の道を歩むことが預言されていたのです。イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入城したというのは、このゼカリア書の預言がこれから成就することを人々に知らせる出来事だったのです。
ところが、これを見た当時の人たちはイエス様のことを罪と死に勝利するために出陣する王とは考えていませんでした。それでは、この出来事をどう考えたのでしょうか?彼らにとって、旧約の預言に登場するダビデの家系の王とは、なによりもローマ帝国の支配を打ち破って民族の王国を再興する王でした。このような期待があるところには、今の世が新しい世に取って代わるということは視野に入っていません。再興される王国は今の世の中にあります。
他方で旧約聖書には、イザヤ書65章17ー20節とか66章22節、ダニエル書12章1ー3節などには(他にゼカリア14章7節、ヨエル3章4節など)、今の世は終わりを告げて今ある天と地が新しく再創造される日が来る、その時、死者の復活が起きるという預言があります。これに注目した人たちもいました。その場合は、ダビデ王の末裔が統治する王国とは、今のこの世のものではなく新しい世の王国と理解されます。
さて、今のこの世の中に樹立される王国か、新しい世に現れる超越的な国か?しかし、どっちをとっても、当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるというイメージを持っていたことに変わりはありません。先ほど見たゼカリア書9章の他に、ゼカリア書14章やイザヤ書2章にも、世界の国々の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見ると、ユダヤ民族の国家が勝利者になり全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。しかしながら、これは旧約聖書の一面的すぎる理解でした。旧約聖書の奥義は、こういう一民族中心主義を超えたところにありました。イエス様が成し遂げたことがそれを明らかにしました。そのイエス様がエルサレムに乗り込めば、そこでユダヤ民族の宗教指導者たちと真っ向から衝突するのは火を見るより明らかでした。この衝突がエスカレートして、イエス様は逮捕され、迫害され、十字架刑に処せられてしまったのでした。宗教指導層がイエス様を生かしてはおけないと考えるに至った理由は以下の3がありました。
まず、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる、この世の終わりの時に現れる救世主「人の子」であると公言していたことがありました。つまり自分を神に並ぶ者とし、さらにはもっと直接に自分を神の子と言っている。これは、宗教指導層にとっては神に対する冒涜以外の何ものでもありませんでした。しかし、イエス様は、本当に神のひとり子だったのです。
もう一つの理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王として立ち振る舞ったことも問題視されました。そんなことをすれば、ユダヤ地域を占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせることになってしまいます。宗教指導層としては、ユダヤは占領されてはいるが安逸を得られ、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムも機能している。それなのに、イエスに好き勝手をさせたら、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、と危惧したのです。
さらに、宗教指導層の憎悪に油を注いだのが、本日の福音書の箇所の後にある出来事、神殿から商人を追い出したところです。宗教指導層は、現行の神殿が神の意思に適うものと考えていました。商人たちも、神殿での礼拝をスムーズにするために生け贄用の鳩を売ったり、各国から来る参拝者のために両替をしていました。しかし、神のひとり子イエス様からみれば、現行の神殿は神の意思からはほど遠いものでした。イザヤ書56章7節の預言「私の家(神殿)は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からかけ離れていました。イエス様が商人たちを叩き出した時、それは、ゼカリヤ書14章21節の預言「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」を実現するものでした。しかし、商人の追い出しは、現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦と受け取られたのです。
イエス様は、神のひとり子ですから、旧約聖書に記された神の御心を正確にわかります。それなのに、わかっていない宗教指導層が彼を殺すために占領者の官憲に引き渡してしまったのです。そればかりか、それまでイエス様のことを、民族のスーパー・ヒーローと祀り上げていた人々も、いざ彼が逮捕されると、直近の弟子たちから逃げ去り、群衆も背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が民族の王国を再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。これは、旧約聖書を一面的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。ところが、イエス様が十字架にかけられた後に旧約聖書の奥義が全て事後的に理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
イエス様が死から復活したことで、死を超えた永遠の命が存在することが世に示されました。同時にそこに至る扉が人間に開かれたことも明らかになりました。その扉は、最初の人間アダムとエヴァが創造主の神に対して不従順になって、神の意思に反しようとする性向すなわち罪を持つようになって閉ざされてしまいました。同時に人間は死する存在になってしまいました。しかし、閉ざされてしまっていた扉が今、開かれたのです。さあ、これで人間は死を超えた永遠の命に入ることが出来るでしょうか?ここで、人間が死を超えられなくなってしまったもともとの原因である罪の問題はどう解決できるのか?これを考えなければなりません。
実は罪の問題は既に解決しているのです。正確に言えば、解決してもらっているのです。どうやって?それは、イエス様が十字架の上で、罪が引き起こす神罰を全部私たち人間に代わって引き受けて下さったことで解決しました。イエス様がこの私の罪の罰も全部引き受けて下さった、だからイエス様は私の救い主なのだ、そう信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さいます。「赦す」というのは許可するという意味ではありません。罪を持ってしまっているために、あるいは罪を犯してしまった時、神に赦しを祈れば、神は不問にして罰に定めない、これが赦すということです。その時、安心して復活と永遠の命に至る道を歩み続けることができます。このように罪の赦しを受けた人は自分の命と人生は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていると自覚しています。それで襟を正してヘリ下ります。罪を許可する許しならば、このような自覚は生まれません。罪の問題を未解決に戻してしまい、復活と永遠の命に至る道から離れていってしまいます。
実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ民族の境界を超えて人類すべてに「罪の赦しの救い」が提供されることになりました。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この救いの大事業が始まったことだったのです。このことは、当時、歓呼の声をあげた人々も、エルサレムで衝突することになる人たちも誰ひとりわかりませんでした。
ここで、ルターが統治者イエス様とこの世の統治者の違いについて教えていますので、それを紹介したく思います。彼が説き明かす聖句は冒頭で申し上げたヨハネ18章36節「私の国はこの世に起源を持たない」です。
十字架を喜んで背負うことが出来るのは誰か?それは、この統治者/ 王がどんな方で彼の国がどんな国であるかをよく知っている者である。 その人は、主自身が十字架を背負われたことを知っているだけでは満 足しない。その人には、天の御国に到達した時に大いなる喜びと至福 に与れる、たとえ今のこの世では苦難や困難があっても、必ず与れる、 ということが大きな望みと励ましになっている。
ところが、そのような望みと励ましがあることを知らない者たちは、 苦難や困難に遭遇すると右往左往するだけで、最後には絶望に陥って しまう。彼らの考えはこうだ。もし、神が憐れみ深い方ならば、こん なに多くの不幸を起こるままにさせないのではないか?起こっても直 ぐに助け出して下さるのではないか?そういう考えでいるのは、キリ ストの御国がこの世に起源を持たないものであることを信じていない からだ。この世の統治者たちは、国民の生命や財産を守ろうとする。 しかし、神の栄光を映し出す統治者、キリストは、身体、生命、財産 その他この世的なもの全てを危険に晒すことも厭わない。
それゆえ、この世ではキリスト信仰を、ものが溢れるようにするた めに用いてはならない。見よ、我らの統治者はどのような道を歩まれ たのかを。苦しみを受け、侮辱されるがままにし、辱めを受けて死な れたということ以外に何があろうか?それゆえ、彼の国に繋がる者は、 彼が黄金や品物を与えてくれるとか、この世の統治者のように福利を もたらしてくれるなどとは期待しないことだ。そのかわり、彼が御声 を聞いて従う者に対して、罪を赦して永遠の死から救い出して聖霊と 永遠の命を与えてくれることに心を向けるべきだ。
皆さんはこれを聞いてどう思われたでしょうか?やはり黄金や品物を与えてくれる統治者がいいと思われたでしょうか?罪を赦して永遠の死から救い出してくれる統治者も悪くないが、ただ黄金や品物を意に介さない、場合によってはそれらを危険に晒してしまうというのは嫌だなと思われたでしょうか?そう思われたら、本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所をみるとよいでしょう。そこは、神の僕つまりイエス様のことを預言していると普通見なされます。日本語訳の聖書もこの箇所に「主の僕の忍耐」という見出しをつけています。しかし、ここで言われていることはキリスト信仰者にも当てはまります。キリスト信仰者も、自分には自分の正しさを認めてくれる方がおられる、罪はないと言ってくれる方がおられると確信を持って言えるからです。
イエス様を救い主と信じて生きる者は十戒を自然に備わるように持っています。イヤイヤ守るものでもなく無理して頑張って守るものでもなく、心に沁み込んで自分の一部のようになっているので神の意思に沿うように生きることが当然のことになっています。ところがこの世の人間関係の中でいろんな人に出会うといろいろ誤解されたり悪く言われたりすることがあります。しかし、キリスト信仰者には、天から全てを正しく正確に把握して下さる方がいて、大丈夫、あなたは悪くないと言って下さる方がおられるのです。そしていつの日かその方の御前に立たされる時、あなたは義なる者だ、と言って下さるのです!そのような方がいればこの世の黄金や品物など何ほどのものか、です!
ビデオ礼拝をYoutubeで見る 4月3日(日)午前10時30分から
司式・説教: マルッティ・ポウッカ 牧師 説教題: 「良い香り」 祈り・聖書日課: パイヴィ・ポウッカ 宣教師 聖書日課: イザヤ 43:16-21、フィリピ 3:4b -14、ヨハネ 12:1-8 賛美歌: 190:1 371:1 181:1 198:1 音楽: マルッティ・ポウッカ ビデオ編集: パイヴィ・ポウッカ
特別の祈り
天の父なる神さま、イエス様は死と罪の力に打ち勝ったのです。それは私たちの喜びと希望です。感謝します。どうか私たちに、隣人に奉仕する力と福音を伝える力を与えて下さい。私たちをイエス様の香りにして下さい。アーメン
主日礼拝説教 2022年3月27日 四旬節第四主日
本日の福音書の日課にある放蕩息子の話はキリスト教会の内と外とを問わず聖書を読む人なら恐らく誰もが知っている有名な話です。知られすぎている話ゆえに、これを読む時に注意しなければならないことがあります。それは、この話はイエス様のたとえの教えであるということです。架空の話で実際に起きた出来事ではありません。何か大切なことを教えようとしてイエス様が自分で創作して人々に聞かせた話です。後で見ていきますが、大切なことがよく表れるようにとても精巧に出来ています。だから、読む人はイエス様が伝えようとしている大切なことをわからないといけません。
それでは、彼が教えようとした大切なこととは何か?3つあります。一つは、神は自分のもとに立ち返る者を、たとえどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるということ。二つ目は、神に迎え入れられた者は、自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然であるということ。遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということです。そして三つめは、多分あまり注目されていないことかもしれませんが、一番大事なことです。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になる、つまり最初の立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。以下、これらの3つの大切なことを見ていきましょう。
あるところに多くの使用人を雇えるくらいの金持ちがいて、彼には息子が二人あった。そのうちの次男が、こともあろうにまだ健在の父親に向かって遺産相続の前払いをしろと言わんばかりに財産分割を要求する。いくら将来自分の取り分になるとは言え、父親が死んだも同然と言わんばかりの要求です。十戒で言えば、第4掟「父母を敬え」と第10掟「隣人のものを貪るべからず」を破るのは明らかです。しかし、なぜか父親は言う通りにしてしまう。父親のこの気前の良さは一体なんなんだ、という疑問が起きるかも知れません。しかし、先ほども言いましたように、これはたとえ話で、何か大切なことを教えるための作り話です。父親の気前の良さも大切なことを教えるための仕掛けです。この父親が父親として適格かどうかとかというような議論は不要です。
さて、息子は得た金を持って遠い国に旅立つ。そこで贅沢三昧、欲望全開の生活を送る。この話を聞いていた人たちは、ギリシャの繁栄した港町やローマの都を思い浮かべたことでしょう。イエス様の話は、たとえであることを忘れさせるくらいに現実味を帯びて聞こえたことでしょう。後で息子の兄が、弟は娼婦どもと一緒に親の財産を食いつぶした(30節)と言うくらいなので、十戒の第6掟「姦淫するなかれ」を破っていたことも明らかです。
さて、息子は金を使い果たします。さらに運悪いことにその国を飢饉が襲います。困った息子はその地でなんとか豚の群れの世話の仕事にありつける。しかし飢饉はひどく、豚のえさまでが喉から手が出るくらいにほしくなる始末。まさにその時、息子は「我に返って」言う。故国の父さんの家には召使いが沢山いて彼らにはパンが有り余るほどあったなあ、それに比べて自分はなんと惨めなことか。このままでは飢え死にだ。故国に帰って、父さんに謝って召使の一人にしてもらおう。そう言って帰国の途につくことにしました。
やがて、懐かしい家が向こうに見えてくる。その時、父親の方が先に息子に気がつく。息子は飢えと過酷な労働でやつれてみすぼらしい恰好です。すぐ後で父親は召使いに命じて息子に上等な服を着せて靴も履かせるので、息子はぼろを着て裸足だったことが窺えます。父親はそんな息子を見て、なんとかわいそうなことかと心から憐れに思って自ら走り寄って抱きしめます。これは息子にとって全く想定外のことでした。きっと白い目で見られ相手にもされないと思っていたのに、こんなに愛情深く受け入れてくれるとは。父親は召使いたちに肥えた子牛を屠ってすぐ祝宴の支度をしなさいと命令します。祝宴が始まりました。父親は息子の帰郷を本心で喜び、彼がしでかしたことを不問にしました。イエス様は、天の父なるみ神も同じだと教えるのです。つまり神は自分のもとに立ち返る者を、たとえその者がどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるのです。
そこで長男が畑仕事から帰ってきます。どうも家の中が大変なお祭り騒ぎになっている。なんだあれは、と召使いに聞くと、行方不明だった弟さんが無事帰ってきたのでお祝いをしています、と言う。長男はもう怒りが全身にこみあげて家に入れない。それに気づいた父親が出てきて、中に入って一緒にお祝いしようと促す。しかし長男は、自分は何年も父親に仕えてその言いつけを守ってきたのに子山羊一匹すらくれなかった、それなのに神と父親の双方に背いた弟には肥えた子牛を屠ることまでする。不公平極まりないではないか。
ここでイエス様は、神のもとからいなくなってしまった者が神のもとに立ち返って神に見つけられるようになると、神は祝宴を催したいくらい大きな喜びを感じるのだ、ということをこの話を聞く人たちにわからせようとしたのです。そのために父親の喜びようを詳しく話したのでした。
それでは、どうしてイエス様は神のもとに立ち返った者を神が大喜びすることを教えるのか?これは、ルカ15章全部をしっかり読むとわかります。放蕩息子の話のすぐ前にイエス様の別のたとえの教えが2つあります。合計3つのたとえは連続しているのです。
イエス様がたとえを話すきっかけになったのは、彼が当時ユダヤ教社会で罪びとと目される人たちと一緒に食事をしたことがスキャンダルになったからでした。食事を共にするということは家族同様の親密な関係を持つことを意味しました。それで、今世間の注目の的となっているこのナザレのイエスは何と不埒な輩か、とファリサイ派や律法学者という宗教エリートたちは目くじらを立てたのです。これに対してイエス様は自分の行っていることは正しいと言うために三つのたとえを話します。最初のたとえは、群れからはぐれた1匹の羊を見つけるために99匹を置き去りにしてまで探しに出かける羊飼いの話です。二つ目は、10枚の銀貨のうち1枚を紛失して家中をくまなく探しまわる女性の話です。二つとも締めくくりの言葉は同じです。こういうなくなったものを見つけた時の喜びは、まさに罪びとが神のもとに立ち返った時に天国で抱かれる喜びと同じである、と言います。つまり、イエス様と食事を共にする罪びとたちは、イエス様の教えを聞き、彼の行った奇跡の業をみて、この方こそ約束された救い主だと信じ、神のもとに立ち返るようになった人たちなのです。
それならば、なぜ宗教エリートたちは文句をつけるのか?神のもとに立ち返ったのならば問題ないではないか?そういう疑問が起きます。宗教エリートたちは、イエス様と一緒に食事をする元罪びとたちが本当に神のもとに立ち返ったかどうか信じられないのです。彼らからすれば、罪の赦しを間違いなく神から得られるためには、宗教上の規定に基づいていろいろな償いの儀式をしなければならない。それなのに、ナザレのイエスを救い主と信じるだけで赦しが得られるとは何事か、そんなのは赦しでもなんでもない、と思ったのです。放蕩息子の話の終わりに出てくる兄は父親の言うことをよく聞く良い子でしたが、弟を受け入れることが出来ません。イエス様は宗教エリートたちに対して、これが君たちのレベルなのさ、とわかりやすく教えているのです。
イエス様からすれば、彼と一緒に食事をした元罪びとたちは本当に神のもとに立ち返る生き方を始めた人たちなのです。最初のたとえに出てくる1匹の羊のように、また二番目のたとえの1枚の銀貨のように、一度なくなってしまったがまた見つかったのです。それで神は、いなくなってしまった1匹の羊を見つけた羊飼いが大喜びするように、またなくなってしまった1枚の銀貨を見つけた婦人のように、そしていなくなってしまった息子を見た父親のように、神は自分のもとに立ち返る者を心から喜んで迎え入れるのだと教えるのです。それなので、神に迎え入れられた者は自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然である、遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということをイエス様は宗教エリートたちに教えるのです。
ここで、最初の二つのたとえに関して注意しなければならないことがあります。それは、迷った羊、なくなった銀貨は動物であり物であるということです。それなので、悔い改め、つまり神のもとに立ち返ることを教える題材としては適当ではありません。銀貨や羊が悔い改めをすることはないでしょう。そこで放蕩息子の話がでてくるのです。そこでも最初の二つのたとえと同じように、なくなったものが見つかった時の天上の喜びはとても大きいということが言われます。しかし、それに加えて、神のもとに立ち返るとはどういうことか、それに関連して人間の内面の変化についても教えているのです。
そこで、このたとえの3つのポイントの中で一番大事なポイントに入ります。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の時の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になって、立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。息子の場合はいつそのような気持ちの強められが起こったでしょうか?
まず17節を見ます。「我に返って言った」とあります。息子が飢えて惨めな状態にあった時のことです。これはまだ最初の立ち返りの気持ちです。強められる前のものです。18節を見ると、その時の息子の気持ちが詳しく記されています。父さんのところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどのパンがあるのに僕は飢え死にしそうだ。ここを発って父のところに帰って言おう。「父さん、僕は天に対しても、また父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。
果たしてこの立ち返りの気持ちは純粋なものでしょうか?空腹に耐えきれずパンを腹一杯食べたいので家に帰ることに決めた、ただし父親はもう自分を受け入れてくれないだろうから、それならば息子として扱われなくていいので、せめて雇い人にしてもらおう。なにしろ、あそこは雇い人にもパンが沢山与えられるのだから。まあ、そういう論法でしょう。
結局、パン欲しさのための立ち返りと言われても仕方がなく、息子の反省はこの時点ではまだそれほど深くはなかったと言えます。もちろん、雇い人としてでも受け入れてもらえるためには自分の非を認めて謝らなければなりません。その意味で息子の謝罪は必ずしも形式だけのものでも嘘でもない。しかしそれでも、パン欲しさのための謝罪ということも否定できない。親を死んだ者同然に扱って遺産を前払いさせて、それを自分の欲望を満たすために使った者が、金がなくなったので親のところに戻って食いつなごうとする。ちょっと虫が良すぎるのではないか。どうも謝罪は食いつなぐための手段のように見えます。
ところが、どうでしょう。息子は父親から心からの出迎えを受けて何を言ったでしょうか?父さん、僕は天に対しても、父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません(21節)。お気づきになったでしょうか?ここには「雇い人の一人にしてください」はありません。「雇い人の一人にして下さい」というのは、パンを食べれるようになるために言わなければならない言葉でした。それが言えるためには、先に謝罪の言葉「自分は神に対しても父親に対しても罪を犯した、自分はもう息子と呼ばれる資格はない」を言う必要がありました。そのために謝罪の言葉は「雇い人の一人にしてもらってパンを腹一杯食べる」という目的のための手段に聞こえてきます。ところが、息子が実際述べた言葉の中には「雇い人の一人にして下さい」はありません。よく見て下さい。本来の目的が消えてなくなったのです。これに伴って謝罪は手段ではなくなりました。謝罪が目的になったのです。イエス様はそのようにセリフを考えて作ったのです。本当に天才的としか言いようがありません。
どうして息子にそのような変化が起こったのでしょうか?息子が帰国を決めてから故国に到着してこの言葉を発するまでの間に何があったかをみてみましょう。遠くに息子を見た父親は「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。これは、息子にとって想定外のことでした。なぜなら父親は絶対自分を受け入れてくれないだろう、もう息子として扱ってもらえないのは火を見るより明らかだ、だから、食べ物を得られるためになんとかして雇い人の一人にしてもらえるよう頑張らなくては。息子はそのようなつもりでいたのでした。それゆえ、父親の示した愛情は本当に想定外でした。こんなに自分のことを思ってくれていた、帰って来るのをずっと待ってくれていた、忘れないでいてくれていた。それなのに自分は父さんを単なる財産提供者くらいにしか見なさず、まだ生きている間に遺産分割の先払いをさせて、しかもそれを自分の欲望を満足させるために使い果たしてしまった。そんな、父さんに受け入れてもらうに値しない者なのに、父さんは両手をひろげて迎えてくれた…。
「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」という言葉は、最初は「息子と呼ばれる資格がないので、雇い人に雇って下さい」という流れで言う言葉でした。それが「雇い人にして下さい」が削除された今、「息子と呼ばれる資格はありません」だけになって、それは本当に自分を恥じる言葉になりました。それに対して父親は最上の服、履物、指輪を息子につけてあげて大きな祝宴を開きました。このように父親は「息子と呼ばれる資格はない」という息子の言葉を行為で否定したのです。息子は息子と呼ばれる資格があることを認めてもらったことがわかりました。これからの息子の生き方は、この純粋な謝罪と息子として認めてもらったことに基づかなければなりません。「息子と呼ばれる資格はない」ではなく、「息子と呼ばれる資格を持つ者」に相応しい生き方をする以外に道はなくなったのです。このように父親の愛によって息子は今までと全く違う新しい人間に作り変えられたのでした。
僕は父さんの息子と呼ばれる資格はないんです、と思っていたのに、父親からお前は紛れもなく私の息子だ、と態度と行いをもって示されました。これで息子はもう、息子の資格に相応しい生き方をする以外に道はなくなりました。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これと同じことが私たちと天の父なるみ神の間にも起きているのです。そのことに気づきましょう。何が起きたのか、次に見ていきましょう。
私たち人間は、神の意思に反しようとする性向すなわち罪のために自分の造り主である神との結びつきを失ってしまいました。罪を持っているために神との結びつきを回復できず、他人に対しても自分自身に対しても良からぬことを考えたり行ったりして悲劇を繰り返す私たちでした。神は私たちをこの惨めな状態から助け出そうとして、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られました。そして、罪のゆえに本当なら人間に課せられる全ての神罰を全部イエス様に負わせてゴルゴタの丘の十字架の上で死なせました。このように神は、ひとり子の犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、永遠の命に至る道を私たち人間のために切り開かれました。
人間は、これらのこと全ては自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神はイエス様の犠牲に免じて私たちの罪を赦して下さり、私たちを自分の子として扱ってくれるのです。本日の使徒書の日課、第二コリント5章でパウロが言うように、イエス様の犠牲のおかげで神と私たちが和解できたのです。このようにして神の子とされた私たちは、神との結びつきを回復してこの世を生きるようになり、順境の時だろうが逆境の時だろうがいつも神から変わらぬ導きと助けを得られます。この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の御国に迎え入れらます。このように神は、神の子と呼ばれる資格を私たちに与えようとしてイエス様をこの世に贈って十字架と復活の業を成し遂げさせたのです。イエス様を救い主と信じる者はもう「自分は息子と呼ばれる資格はない」などと言ってはいられないのです。
それでは、神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しく生きるとはどんな生き方になるでしょうか?それはもう、神がイエス様を用いて実現して下さった罪の赦しの中に留まってひたすら復活に至る道を進んでいくことです。罪の赦しの中に留まるとは次のようにすることです。イエス様を救い主と信じる信仰を持ち洗礼を受けても罪は残ります。それが私たちの弱さや隙をついて神の意思に反するようなことを考えさせたり言葉に出させたり、時として行いに出させたりします。その時は必ず、それは神の意思に反することなのだと自分で認め、神にイエス様の犠牲に免じて赦しを祈り願います。その時、神はこう言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。赦しはゴルゴタの十字架で打ち立てられて今も揺るがずにある。これからは罪を犯さないようにしなさい。」このように神の意思に反することを反することと認め、揺るがずにある罪の赦しに自分を委ねていくとき自分の内にある罪を圧し潰していくことになります。自分が生きているのは神のひとり子の犠牲があるからとわかり、軽々しいことは出来なくなります。これが罪の赦しの中に留まることです。罪の赦しの中に留まり続けていくと、復活に至る道をひたすら進むことになります。これが神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しい生き方です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教 2022年3月20日 四旬節第3主日
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本日の福音書の日課のはじめの部分は、ローマ帝国の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いてどんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを殺害させて、その血を生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。
これを聞いたイエス様はある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐあの出来事かとわかるような、記憶に新しい出来事であったことが伺えます。
さて、報告した人たちは、この事件を通してイエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のガリラヤ人よりも罪深かったからと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しないのか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのでしょうか?」と聞きたかったのです。
これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定です。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかった他のガリラヤ人より罪深かったということではない、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じ位あり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになります。そういう事件に遭わないのは罪がないからということではないのです。そうなると話はもう因果応報とは無関係になります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。
イエス様はこの「決してそうではない」を、塔の倒壊事故を話す時にも使います。5節です。ここでもイエス様は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、と言うのです。両者とも同じくらい罪びとである、だから、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけである。それなので、そういう事故に遭わないのは罪がないからということではないのだ、と。ここでも話は因果応報と無関係になります。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。
ところが、どうしたことでしょう、イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。そうなると、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような目に遭う、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って因果応報を否定しおきながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?
実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しないなどと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。
イエス様は一体何を考えているのでしょうか?イエス様が因果応報の観点で言っているように聞こえてしまう大きな原因があります。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言う時、「滅びる」という動詞アポッリュミαπολλυμι があります。これを苦難困難に遭って命を落とすことと理解してしまうと因果応報に聞こえてしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。どんな意味でしょうか?
その意味がわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも「滅びる」は先ほどと同じアポッリュミです。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことと反対のことです。そこで、まず「永遠の命を得る」とはどんなことか見てみます。それは、私たちがこの世を去る時、自分自身の全てを天の父なるみ神に委ねて、神の方でしっかり自分をキャッチしてくれる、そして復活の日に目覚めさせてもらって神の栄光に輝く朽ちない体を着せてもらって神の御国に迎え入れられる、これが「永遠の命」を得ることです。それで見ると、「滅び」はこれとは逆にこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、復活の日に御国に迎え入れられないことを意味します。
このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって「滅び」は、このようなこの世で遭遇する苦難災難でした。イエス様にとって「滅び」は、この世の次に到来する新しい世で御国に迎え入れられないことでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、この世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、将来の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということもわからなければならないのだ。」
このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に到来する新しい世に関わる滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むこと、そして、歩みの途上で苦難災難に遭遇して、場合によっては命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは本当に可能なのでしょうか?
それが可能だとわかる鍵は、イエス様の答えの「悔い改める」にあります。これはギリシャ語のメタノエオ―μετανοεωという動詞ですが、もともとの意味は「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されます。ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが思慮不足や身勝手さやのために他人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」は相手の人に向けられています。ところが、キリスト信仰では、他人に謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は創造主の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に反したからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまったことを悔い改めて神に向きなおるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳すことが可能です。
そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と認めてもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?その「立ち返り」はどんなものか?そのことを少し考えてみます。
皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなこと言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。神の意思を完全に実現できる人間は存在しないのです。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、ということでした。イエス様は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、と教えます。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が神のもとへの立ち返りをしようとして手がかりになったのは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。
人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神聖な神にキャッチしてもらえません。神が手を取ってくれて一緒に新しい世が誕生する大変動を乗り越えることが出来ません。復活の日にちゃんと目覚めさせてもらって神の国に迎え入れてもらえません。それではどうすればよいのか?人間のこの大問題に対して神自らが解決策を取って下さいました。それは、自分のひとり子をこの世に贈って、本当は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという解決策でした。その後は人間の方が、この神のひとり子が果たした罪の償いはまさにこの自分のためになされたのだと受け止めて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持ち始めます。その後ですが、日々、自分の内に残る罪を罪として認め、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と神に祈り求めていきます。そうすれば神は、お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった、彼の犠牲に免じてお前の罪を赦す、だからこれからは罪を犯さないように、と言って下さるのです。
このようにして人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取り、その中に留まって生きることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認をして頂き、再び永遠の命への道を歩み出すことです。この時私たちは、罪に反対し、それを圧し潰す生き方をしています。神のみ前に立たされる日、神は私たちの生き方がそのようなものであったことを認めて下さいます。
このようにイエス様が言われる「滅び」は、今の世に関係するものではなく、この次に到来する新しい世に関係しているのです。それなので、人間がこの世で遭遇する苦難災難は「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもないのです。たとえ苦難災難のために命を落とすことになっても、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者を守ろうとされるのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神に守ってもらっているという気がしなくなるのではないかと思います。苦難災難に遭遇した時、信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。
そこで使徒パウロは、イスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者にとって反面教師になると教えます。長い大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話して守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。
パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために記されているのだ、と言います。キリスト信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情がありました。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、聖書では当たり前の観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を再創造し、再臨されるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。その時がいつ来るかは神にしかわかりません。パウロが活動した時代は、それがもうすぐ来るという切迫感がありました。それはパウロの手紙の随所に見られます。特に第一テサロニケで強く表れ、第一コリントでも若い女性や未亡人に結婚や再婚を勧めないほどです。しかし、パウロの時代から2000年近く立ちました。まだこの世の終わりは来ていません。パウロは早とちりだったのでしょうか?イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていました(マタイ24章14節等)。パウロはその言葉を知らなかったのでしょうか?パウロが活動していた頃はまだ福音書が完成していませんでした。それで、イエス様の言葉でまだ彼に伝えられていないものがあったとしても不思議ではありません。それと、パウロの頃はまだイエス様の復活の出来事から間もない頃でした。それで、イエス様に続いて死者の復活が起きるのはもうすぐと考えられたかもしれません。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では私たちは「終わりの時代」を生きていることになります。
パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐそれを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そこで大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、普通人間が受ける試練を超えるような度外れた試練はなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方だから、君たちの持てる力を超えるような試練に遭わせたりはしない。試練に遭わせるようなことをしても、出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。それでは、ここで言う試練とはどんな試練でしょうか?
13節でパウロは「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」とか「出口を用意して下さる」と言っていますが、「認めない」も「用意して下さる」も未来形で言っています。パウロは将来の試練について言っているのです。それとは対照的に、これまで受けてきた試練は普通人間が受ける試練であったと現在完了形で言っています。ということは、将来の試練は普通人間が受ける試練を超えた、度外れな試練になります。それはどんな試練でしょうか?それは先ほども申し上げた、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が再創造される大変動の時の試練を意味します。なるほど、これなら普通人間が受ける試練を超えています。しかし、イエス様を救い主と信じる者は大丈夫、試練は自分の力を超えるものにはならないし、試練と共に出口が用意されると言います。出口とは神にキャッチしてもらえるということです。
私たちは恐らくそのような大変動を迎えないで、それが来る前にこの世から別れるのではないかと思います。その場合は復活の日まで眠りにつきます。しかし、その場合でも神にキャッチしてもらえることは同じです。天地の大変動のような度外れた試練の時に神にキャッチしてもらえるならば、度外れでない試練の時はなおさら神に守られているのではないでしょうか?
最後に本日の福音書の日課のもう一つのエピソードに関連してひと言申し上げて結びにしようと思います。イチジクの木についてのイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。それを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を受けないようにと私たちをかばって下さったイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠には待ってくれないということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて神のもとに立ち返りますように。神が人々の一日も早い立ち返りを待っていることは、本日の旧約の日課イザヤ書55章でもはっきり言い表されています。
主を探し求めよ、主が見つかる時に
主を呼び求めよ、主が近くにおられる時に
神に逆らう者よ、その道を捨てよ
不正を働く者よ、その考えを捨てよ
主に立ち返れ、そうすれば主は憐れんで下さる
我らの神に立ち返れ、なぜなら神は何度でも何度でも赦して下さるからだ
דרשו יהוה בהמצאו
קראהו בהיותו קרוב
יעזב רשע דרכו
ואיש און מחשבתיו
וישב אל יהוה וירחמהו
ואל אלהינו כי ירבה לסלוח
主日礼拝説教 2022年3月13日(四旬節第2主日)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
本日の福音書の日課の個所は、あなたの命が狙われているから逃げなさいと促されたことに対してのイエス様の答えでした。命を狙うヘロデというのは、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。イエス様と弟子たちの一行は北のフィリポ・カイサリア地方からエルサレムに向かって南下する旅を続けているところでした。それで、この促しはガリラヤ地方を通過している時に言われたものでしょう。イエス様に促した人たちがファリサイ派というのは興味深いです。なぜなら宗教エリートのファリサイ派はイエス様と敵対していたからです。しかし、ファリサイ派というのは根は天地創造の神の目に適う者になりたい人たちで、それで律法を余すところなく厳格に守ることを是としていました。それなので中にはイエス様の教えを聞いて、この方は何も間違ったことを言っていない、本当に神から遣わされた者なのではと考えるようになった人もいました。その代表例はヨハネ福音書に登場するニコデモです。そう言えば、後にキリスト信仰を地中海世界に広めることになったパウロも元々は筋金入りのファリサイ派でした。
促しを聞いたイエス様の答えは先ほど朗読した通りです。わかりそうでわかりにくいと思います。二つのことがありました。まず、あの狐のような狡賢いヘロデにこう伝えよ、と言って、ヘロデに対する申し立てがあります。私は今日も明日も人々から悪霊を追い出し病気を癒して三日目に全てを終える、と言います。三日目に全てを終えると言うのは、言うまでもなくエルサレムで十字架の死を遂げた後三日目に神の力で復活させられることを意味しています。もちろん、聞いた人たちはこの時は何のことかわかりません。
33節で「だが、私は今日も明日もその次の日も自分の道を進まなければならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ」と言います。先ほど申しましたように、イエス様一行はエルサレムに向かって南下中です。それなのでガリラヤ地方を通過します。だからこの言葉は、自分はガリラヤ地方から出ていくが、それはヘロデが恐くて逃げるのではない、エルサレムで死を遂げなければならないという神の計画を実現するためにガリラヤ地方を離れるのだという意味でしょう。
イエス様の答えでもう一つ大事なことは、今向かっているエルサレムを嘆く言葉です。エルサレムは天地創造の神を崇拝し礼拝を盛大に執り行う神殿がある町です。当時は地中海世界きっての大都市でした。その神のおひざ元のような町が歴史を振り返ってみると、神の遣わした預言者たちを受け入れず殺してしまうという、神の御心を顧みない町になってしまったことが何度もありました。イエス様は今も変わらないことを嘆きます。神はエルサレムの人々を親鳥がひな鳥を翼の下に集めるように呼び集めようとしたのだが、ひな鳥は来ることを拒否してしまった。かつてもそうだったし今もそうだ、と。イエス様は神のひとり子なので、この神の呼びかけを自分がしている言い方をしています。
神の呼びかけに応じないとどうなるのか?かつては神罰として敵の大軍に攻められてバビロン捕囚が起きてしまいました。イエス様の時はどうなるのでしょうか?35節を見ると、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言われます。「家」と訳されているギリシャ語のオイコスは神殿の意味もあります。フィンランド語訳の聖書は神殿と訳しています。ドイツ語は「神の家」と訳され、それは神殿を意味します。英語は日本語と同じ「家」でした。私は神殿の方がいいと思います。それで35節を原文を直訳すると、「あなたたちの神殿はあなたたちに渡される」です。「あなたたちに渡される」とは分かりにくいですが、要は、神は神殿から手を引く、後はお前たちで勝手にやれ、私はもうかかわらない、と神崇拝の大事な拠点なのに神の後ろ盾を失ってしまうということです。世界史上の出来事としてエルサレムの町は西暦70年に神殿ともどもローマ帝国の大軍に破壊されてしまうので、イエス様の預言は当たってしまったことになります。
35節のイエス様の言葉で一番わかりにくいのは、「お前たちは『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない」と言っているところです。これは何か?もう少し後でイエス様は旧約聖書の預言通りに子ロバに乗ってエルサレムに入城します。その時、群衆はユダヤ民族の解放者が来たと思って歓呼の声で出迎えます。その時、この言葉「主の名によって来られる方に祝福があるように」を叫びました。それなのでイエス様はエルサレムに入城するまでは誰も自分を見ないと言っているのでしょうか?この言葉はエルサレムの住民に言っているように見えますが、実際は神の呼びかけに応じない人たち全てのことを言っています。エルサレムへの道中、イエス様は賛同者だけでなく多くの反対者にも遭遇します。中にはエルサレムから来て観察して宗教指導者に報告する者もいます。それなので、みんなイエス様をずっと見ているわけです。なのに「決して見ることがない」とはどういうことでしょうか?
イエス様を決して見ないというのは、彼がこの地上にいる時のことではなくて、復活したイエス様が天に上げられて今は天の父なるみ神の右の座している期間のことです。それで、私たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言うようになって彼を見る時とは、イエス様が再臨する日のことです。イエス様の再臨の日とは、今の天と地が終わりを告げて天と地が新しく再創造される時、死者の復活が起こって最後の審判が行われる日です。その時、神に相応しいと見なされた者は新しい天地のもとに現れる神の国に迎え入れられます。相応しいと見なされない者は迎え入れられないので、私たちとしては自分はどちらになるだろうかと今から心配の種になる日です。
それなのでイエス様が再び来られる日に「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時には、二つの異なる言い方が生じます。一つは、親鳥の翼のもとに身を寄せるひな鳥のように神の呼びかけに応じた者が言う場合です。これは神に相応しいとされた者です。この人たちは眠りから目覚めさせられた時、この言葉を、ああ、主よやっと来て下さったのですね、長い間お待ちしていました、と安堵の心で言うことになります。もう一つの言い方は、神の呼びかけに応ぜず神の意思など気にかけない生き方をした者がこの時になって事の重大さに気づいて言う場合です。その時その人たちは、生きている人と死んだ人双方をこれから裁こうとされる再臨の主を目の前にして、その権力には逆らえないと観念してこの言葉を言うことになります。
それなので、今日の日課のイエス様の言葉は、イエス様の再臨の時、私たちはどっちの意味でこの言葉を言うことになるのかを突きつけているのです。この世の人生で神の呼びかけに応じて親鳥の翼の下で守られるひな鳥のように生きてきて再臨の日に大いなる安堵の気持ちで言うことになるのか。それとも、神の呼びかけに応ぜず神の守りなどいらないと言って生きてきて、再臨の日になって主の威光をもう否定できないと観念して恐れおののいて言うのか。
イエス様の再臨の日に私たちがこの言葉を大いなる安堵の気持ちで言えるようになるためには、この世の人生で神の呼びかけに応じてひな鳥のように守られて生きることが大事です。神の呼びかけに応じて守られて生きるということについて、今日の旧約聖書の日課に出てくるアブラハムの信仰が大いに参考になります。それを見てみましょう。この時点ではまだアブラハムはまだアブラムという名前です。17章で神からアブラハムという名前にしなさいと言われます。アブラハムはヘブライ語の父、多い、民族の三つの意味が組み合わさった単語です。それで、多くの諸民族の父という意味を持ちます。
今日の日課の中に、キリスト信仰にとって決定的に大事なことがあります。それは6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」なぜこの箇所がキリスト信仰にとって大事かと言うと、ここに信仰義認の考えがはっきり出ているからです。信仰義認とは、高校の世界史の教科書にルターの宗教改革のところで出てくる言葉ですが、簡単に言うと読んで字のごとく、人は信仰によって神から義と認められるということです。この意味の裏側に、人は善い業を行うことで神から義とは認められないという意味があります。それで信仰義認とは、人は善い業を行うことでは神に義と認められるのではなくイエス様を救い主と信じる信仰によって義と認められるということです。
そこで、イエス様を救い主と信じる信仰とは何かがわからなければなりません。それは、イエス様が本当に私たちの内にある罪、神の意思に反しようとする性向を全部引き取って神の罰を私たちの代わりに受けて下さった、まさに私たちが受けないですむように身代わりになって受けて下さった、それでイエス様を救い主と信じることです。このイエス様の身代わりの罰受けはエルサレム郊外のゴルゴタの丘の十字架で起きました。加えてイエス様は、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。その道の行く先に復活があります。
イエス様がそのような凄いことを私たちにされた、だから彼は救い主なのだと信じて洗礼を受けると神から義と認められるというのキリスト信仰です。その時善い業というのは神に認められるためにするものではなくなります。先に神から義と認められてしまった、しかも神が自分のひとり子を犠牲にすることで認められてしまった、これは一体何なんだと驚きます。イエス様の十字架を思えば思うほど、そのおかげで何の取り柄もなかった自分が神から義と認められてなんと畏れ多いことか、神から義と認められたので今自分は神の守りと導きの中を復活の日を目指して歩ませてもらっている、そのことを思い知れば思い知るほど、神の意思に反することには手を染めないようにしよう、関わらないようにしようというふうになります。時として神の意思に反することを心に思ったり、ひょっとしたらも弱さや隙をつかれて言葉に出したり行為に出してしまう時もあるかもしれない。しかし、神からの罪の赦しはゴルゴタの丘の十字架で打ち立てられて揺るがなくあることはわかるので、また新しくやり直せます。このようなサイクルの中に入ると、善い業は自分でしようしようと意識してするものではなくなって、植物が育って実を結ぶように出てくるものになります。
イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しの中に留まって生きるとどういう風になるかについては、一つの例としてパウロがローマ12章で述べていることを見ればわかります。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り、迫害する者のために祝福を祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、自分を賢い者とうぬぼれず、だれに対しても悪に悪を返さず、他の人と平和な関係が築けるかが自分次第という時は迷わずそうする、復讐はしない、全ては最後の審判の神の判断に委ねる、だから敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々です。
ここで「神から義と認められる」ということを少しはっきりさせてみましょう。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」この文を少し詳しく見てみます。「アブラムは主を信じた」と言うのは前にある出来事の流れでみなければなりません。何があったかと言うと、アブラムはもう90歳近くになって子供はもう無理、相続のための家系は潰えると諦めていました。その彼に神は諦める必要はない、お前には後継ぎが生まれる、と言ったのです。アブラムに星一杯の夜空を見せて、お前の子孫はこれ位になるとさえ言います。その時にアブラムは信じたのです。それで彼が主を信じたというのは、神が言われたこと約束されたことは人間の目から見ても常識で考えてもありえないことであっても、神が言われたのであればそうなると信じたことです。自分の目で見たこと感情で感じたこと理性で考えたことよりも、目や感情や理性はそんなのあり得ないと言っていることでも神がそうだと言われたらそうなのだと信じたことです。目や感情や理性に黙ってもらい、神の声の方を聞いて神の言葉を先に立て、他のことはその後にしたということです。
アブラムがそのように信じたことを「神が彼の義と認めた」と言います。それはどういうことでしょうか?ヘブライ語の原文を少し解説的に言い換えると、アブラハムがそのように目や感情や理性に黙ってもらい神の言うことを信じた、そのことを神は彼にとっての義と認めてあげた、です。もう少しわかりやすく言うと、アブラムがそのように信じたので神は彼を義と認めた、です。目や感情や理性を脇に置いて神の言うことをその通りだと言う、それくらい神に信頼を置くと神に義と認められるのです。
そこで、神に義と認められるとはどういうことかをわかるようにしましょう。そもそも「義」とは何なのか?ヘブライ語でツェダーカーצדקה、ギリシャ語でディカイオシュネーδικαιοσύνηです。それらが日本語で「義」と訳されるのですが、漢字の「義」という言葉をみて意味が分かるでしょうか?もちろん意味を辞書みたいに説明することは出来ます。しかしそのように説明されても、わかったようでわからないというのが大方の反応なのではないかと思います。そこで、「義」の意味を説明するのではなく、神に義と認められるとどうなるかを見て「義」をわかるようにしていこうと思います。
神に義と認められるとどうなるか?神はいつも共におられ、どんなことがあっても共におられ、この世の人生でもこの世の後に来る世においても共におられるというふうになります。罪を持っているにもかかわらず私たちは神聖な神と結びつきを持てて、この世と次に来る世の双方をその結びつきの中で生きるようになります。神に義と認められるとこのようになります。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がまさにそうです。イエス様のおかげで神との結びつきを回復できて、この世の人生では神の守りと導きを絶えず受けながら復活に至る道を進み、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、これが神に義と認められた者の全人生です。
アブラムの出来事はイエス様がこの世に贈られる何千年前のことでした。しかし、アブラムの信仰はキリスト信仰と同じです。目や感情や理性よりも神に信頼を置き神の御言葉を先に立てる信仰です。イエス様が十字架にかかったことや死から復活されたことを目で見ていません。神の意思に反する罪を持っていることも時として感じることはあるが時として感じません。この世の人生の後に、この世はいつか終わりが来て新しい天と地が再創造されるなど考えられません。ましてやそこに自分が復活して迎え入れられるなどと考えられません。しかし、目や感情や理性が信じられないと言っていることを私たちキリスト信仰者は信じています。だから、私たちとアブラムは同じ立場にあります。宗教改革のルターも、アブラハムのことをキリスト到来以前のキリスト教徒と言った位です。
目や感情や理性が信じられないと言っているのに信じることが出来るというのは、イエス様を救い主と信じることの他にもいろいろあります。イエス様を信じることから始まって沢山のことが出てきます。例えば苦難や困難に遭遇した時、私たちは神の守りや導きが失われたと感じがちです。しかし、それは私たちの目や感情や理性がそう見て感じて言っているだけで、神の守りと導きはなくなっていません。イエス様を救い主と信じる信仰に生き、神の罪の赦しの中に留まる限り、神との結びつきは非常時にあっても平時と全く変わらず、復活の道を踏み外すことなく進んでいます。それなのでキリスト信仰者は、希望のない状態にあっても希望があると言えるのです。まさに詩篇23篇4節の心意気でいるからです。
たとえ我、死の影の谷を往く時も禍害を怖れじ、
汝、我と共に在せばなり、
汝の鞭、汝の杖、我を慰む。
גם כי אלך בגיא צלמות לא אירא רע
כי אתה עמדי
שבטך ומשענתך המה ינחמני
そして、主の再臨の日と復活の日を目指して進む私たちは、苦難と困難の中にあってもパウロと一緒に堂々として次のように言います。
されど我らの国籍は天に在り、
我らは主イエス・キリストの救い主として
その処より来たり給うを待つ。
ημων γαρ το πολιτευμα εν ουρανοις υπαρχει
εξ ου και σωτηρα απεκδεχομεθα κυριον Ιησουν Χριστον,