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マルコによる福音書 10:46~52 2024・10月27日(日)スオミ教会
説経題「盲人の癒し」
今日の聖書はマルコ福音書10章46~52節です。ここでは目の見えないバルティマイという男をイエス様が見えるように癒された奇跡の出来事です。46節を見ますと〔一行はエリコの町に着いた、イエスが弟子たちや大勢の群集と一緒にエリコを出て行こうとされた時、ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。〕目の見えないバルティマイという男は恐らく生まれつき目が見えない中で20年か~30年間、全く何も見えない手探りの暗闇の世界で何も出来ないから道端に座って物乞いをして生きてきたのでしょう。私たちは、ただ読むだけで想像しますが、彼の真っ暗な世界をとても、とても想像を絶する危難の一日、一日を過ごしてきたことでしょう。私たちは、それぞれの人生の歩みの中で、やはり色々な病気をします。ある日突然苦しい目に会います、或いは予想だにしなかった痛い目に会って時としてこの突然の自分ではどうにもならない難しい問題に直面します。まだ、何とかなるのではないだろうかと思いめぐらすくらいなら距離をおいて病院へ行かねばと思ったり、薬で暫く様子を見ようとしたり、まだ「神様助けてください」と叫ぶまでに大分距離があります。しかしどうでしょう、エリコの町で物乞いをしなければ生きて行けないバルティマイという男はこの世に生まれた時から真っ暗な世界です。信仰深い人たちは病気も神様からの賜物、神様から与えられた試練である、と思うかもしれません。その病気がある程度したら入院をしたり薬で治まったとしてもある程度の距離をおいて、そのうち平常の人間らしい生き方へ戻るでしょう。しかしバルティマイは全く違う、どうにもならない暗闇です。何のために生まれて来たのか、どんなに親を恨んだでしょう。これからどうなって行くのか全くわからない。そういう彼に今イエス様の一行が近づいて通り過ぎようとしている!バルティマイはそこに居合わせました。彼は来る日も、来る日も道端に座って物乞いをしている。その傍らを病気をたちどころに癒す奇跡の業を起こされる、というナザレのイエスが通りかかろうとされている。彼は叫びだしました、「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください。」この瞬間の以前に以後、エリコの道端には他にも盲人の人が座っていたかもしれません。しかし、バルティマイが偶々座っていた、その時主イエス様が傍らを通り過ぎようとされている。この時しかない。一生をかけてイエス様に出会う時はこの時とばかりに叫びだすのです。彼は千載一遇のチャンスを逃しませんでした。彼の癒しの奇跡の最初のポイントは主イエス様との出会いであります。彼はこの出会いを逃さなかったのです。多くの人が何故私には小さな奇跡でも起こらないのだろう。「祈っても、祈っても願いどおりにイエス様はみ業を起こしてくださらない」と嘆きます。案外イエス様はその人の傍らを通り過ぎておられるにもかかわらず自分自身の事に拘りすぎて主の方に向こうとしないまま主イエス様との千載一遇のチャンスをむざむざ失っているのかも知れません。私たちは生まれながらの目が見えないバルティマイより、あまりにも恵まれていないでしょうか、目に見えているのに一番関心のイエス様、そのものがどれだけ見えているでしょうか。バルティマイは全く見えないにもかかわらず今イエス様と出会って一番大事なものを見ようとしている。彼は死にもの狂いで叫び続けるのです。「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください!」それは率直な叫びでした。何の損得もない、ただ一心に憐れみを乞う叫びだけです。「ダビデの子」と呼んだからにはイエス様こそ私の救い主という思いがあったことでしょう。そして神様は憐れみに富み給うお方であると信じ、暗黒の中にいるにもかかわらず、その憐れみを信じ乞うたのです。旧約聖書 イザヤ書50章10節には「お前たちのうちには、主を畏れ主の僕に聞き従う者がいるであろうか。闇の中を歩く時も、光のない時も主のみ名を信頼し、その神を支えとする者がいるであろうか」とあります。彼は自分の悲惨な現実から神様の愛を推し量ることはせず、この暗闇から自分を解放してくださる神様の憐れみの深さを信頼したのです。神様の愛を信じ願った彼の信仰は的を得たものでした。けれども多くの周りの者たちは彼の叫びを不快に思い彼を叱り黙らせようとしました。バルティマイは怯まず叫び続けます。この時をおいてチャンスはない、誰が何と言おうと今この方にこそ救いを求める他はない。なりふり構わず叫び続けました。私たちは顧みて彼ほどの必死になって本当に主を求めているでしょうか。生命の危機にあれば求めることでしょう。バルティマイはついに主イエスを立ち止まらせる事に成功しました。主イエス様は「あの男を呼んできなさい」とお命じになったのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」「安心しなさい」という言葉は「勇気を出して」とも訳せます。今まで道端に座り込んで物乞いしなければ生きて行かれなかった者が勇気を出して立ち上がったのです。主の呼びかけに従って答えたのです。もはやためらう事はありません。ほかならぬ主イエス様が呼んでおられるのです。バルティマイは上着を脱ぎ捨て踊りあがって主のもとに行きました。今、私の声は主に届いた。もう暗闇は私を支配することはない!その彼に向かってイエス様は「何をして欲しいのか」と尋ねられます。何をして欲しいのかですって?イエス様が彼の願いを知らないはずがありません。しかし,あえて主イエス様は問われるのです。それは彼自らがその願いを言葉に出して言う必要があるからです。そしてその願いが的を得たものであるか、外れたものであるか、吟味される必要があるからです。そうしてイエス様は言われました。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救われた」。すると彼はすぐさま見えるようになった。そしてイエスに従ったのであります。彼が癒されたのは病院の医者でもない学者でもない占い師でもない、ダビデの子メシア救い主が癒して下さる。そのお方に止められようとも黙らされようとも、どんなことをしても必死で近づこうとするバルティマイの信仰にこそ主は目をとめられたのです。彼にとって神様はどんな方として信じられていたのでしょう。「愛」のお方なのです。必ずこの私を憐れんで下さるにちがいない。生まれながらの暗闇に苦しむこの難問は主のみ心ではない、むしろ主なる神は光を給い、人を生かされる愛のお方なのです。この信仰が彼を勇気づけ叫び続けさせ彼を救いへと導いたのです。「神は愛なり」との信仰がどんな暗闇にも希望の光を差し込む癒しの方なのです。どうにもしょうがないんだよ、と言う人間が作り出す勝手な常識を打ち破ったところに奇跡の業が起きているのです。神様は御子を十字架にかけてまで私たち一人一人を愛してくださったのです。私たち人間の常識を超えて神様は私たちに愛を注いで下さり病にも悩みにも癒しの愛を注いで下さって、私たちを苦しみから救いたいと願っておられるのであります。バルティマイは溢れる光の中を喜びと感謝に溢れて生きたことでしょう。この奇跡の出来事はエリコの町で起こされました。エリコの町は荒野の中のオアシスとして緑あふれる恵みの町であります。バルティマイに起こった全てを象徴するエリコであります。 <人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン>
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
主日礼拝説教 2024年10月20日 聖霊降臨後第22主日
聖書日課 イザヤ53章4-12節、ヘブライ5章1-10節、マルコ10章35-45節
説教をYoutubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に聞きました。「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまり、あなたが栄光の王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いしたのです。この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言います。偉くなりたい者は皆に仕える者になれ、いちばん上になりたい者は全ての人の僕になれ(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んだ人の多くは、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人は謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。(日本は今衆院選の真っ最中です。候補者に聞かせてやりたいと思う人もいるでしょう。実はこの個所はちょうど3年前の10月にもありました。その時も衆院選がありました。天のみ神はよほどこの聖句を国権の最高機関を目指す人たちに知らしめたいのでしょう。)
しかしながら、人のために尽くすことが偉いとか、地位の高い人は謙虚たれという教え自体は別にキリスト教でなくても、他の宗教でもまたは無宗教の人にも見られる道徳です。イエス様はそういう一般的な道徳を教えるためにわざわざこの世に来られたのではありませんでした。それでは、なんのために来られたのか?答えは本日の個所の最後にあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が自分の命を身代金として捧げるというのはどういうことか?確かにイエス様はゴルゴタの十字架で死なれましたが、それが身代金を払う行為であり人に仕えることだというのは、どういうことなのでしょうか?今日はこのことを明らかにしていこうと思います。
まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について予告しました。予告は本日の日課にはありませんが、この直ぐ後で二人は閣僚ポストを要求したのです。二人はイエス様の予告を聞いて、いよいよイエス様を王に戴く神の国が実現すると直感したのでした。それでは、イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのでしょうか?3年前の説教でお教えしたことですが、駆け足で復習します。
イエス様が地上で活動された時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデのような王が現れて、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された王になる。メシアとはもともとは聖別の油を注がれた者を意味しました。その新しい王メシアがユダヤ民族を支配しているローマ帝国を打ち破って王国を再興してくれる、そして諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言、同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。
これらの預言をみれば、将来ダビデ家系から偉大な王が現れて外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。ところで、このようなダビデ家系の王が王国を復興するという考えは、現世に実現するものです。王も現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもありました。それは、今あるこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神が新しい天と地に再創造する、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らない神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。現世的なメシアと王国復興の考えとは異なる、終末論的なメシアと神の国の考えです。このような考えを示す書物が、紀元前2,3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。
どうしてそういう終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書65章、66章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、それまで現世的な王が現世的な王国を復興すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり読み込めていないことになります。
こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかし、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。彼らは神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように位の高い者と低い者の序列があると思ったようです。それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えます。お前たちの間で偉大な者になりたい者は互いに仕える者になれ、お前たちの間でいちばん上になりたい者は全ての人の僕(奴隷)になれ、と。そして、大事な言葉が続きます。「人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が多くの人の身代金として自分の命を捧げるというのはどういうことか、次に見てみましょう。
身代金とは、誘拐事件や人質事件のような忌まわしい事件が起こった時に、捕らわれた人を解放するために犯人に渡すお金を意味します。イエス様が多くの人のために自分の命を身代金として捧げたというのは、人が捕らわれた状態にあったので、そこから解放するために捧げたということです。では人は何に捕らわれた状態にあっだのでしょうか?そこから解放されたらどんな状態になるのでしょうか?
まさのこのことについて明らかにするのが聖書です。人間は罪に捕らわれた状態にあると聖書は教えます。罪と言うと、普通は何か犯罪を犯すことを考えます。何も犯罪を犯していないのに、キリスト教は人間のことを罪びと罪びとと言うので嫌がられます。しかし、聖書でいう罪とは、神の意思に反しようとする、人間誰もが持ってしまっている性向を意味します。十戒の中に「汝殺すなかれ」という掟があります。イエス様が教えたように、実際に人を殺さなくても、心の中で相手を憎んだら同罪なのです。人を傷つけることを行いや言葉に出してしまうことだけでなく、心の中でそのような思いを持つことも神の意思に反するのです。このように十戒の掟は、外見上守れたら神に認められるというものではなく、人間が内面的にも神の意思に反する存在であることを暴露する鏡なのです。
人間はこのような神の意思に反するものを堕罪の時に持つようになってしまいました。そのため、神との結びつきを失ってこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世から別れる時も神との結びつきがないまま別れなければなりません。神はこの不幸な状態から人間を救い出そうとして、御許からひとり子をこの世に送られたのです。このひとり子イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。それは人間が神罰を受けないで済むようにする犠牲の死でした。イエス様は人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されたました。
そこで人間はこれらのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。神のひとり子の犠牲を本当のものとして受け入れたので、神は、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう、と仰るのです。こうして神から罪を赦された者は神との結びつきを持てるようになります。そして、永遠の命と復活の体を与えられる復活の日に至る道に置かれ、その道を進むようになります。この道の歩みはいつもバラ色とは限りません。波風猛る時もあります。しかし、神からの罪の赦しで築かれた神との結びつきはどんな時にも波風の時も全く変わらずにあります。この世から別れる時も結びつきを持ったままった別れられ、復活の日が来ると目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。
ところで、神との結びつきを持てるようになる前の人間は、罪と結びついていたので罪の支配下にありました。それをそのままにしておくと、人間はこの世から別れる時、神との結びつきはなく、復活も神の国への迎え入れもなくなってしまいます。イエス様の犠牲の死は、文字通り人間を罪の支配から解放して神との結びつきに入れるようにする救いの業でした。だから、イエス様が捧げた命は人間を罪の支配から解放する身代金だったのです。神と結びつきを持って生きられるようになったというのは、神のひとり子の命を代価として罪の支配から神のもとに買い戻されたということです。この犠牲を伴う「買い戻し」のことを、宗教的な言葉で「贖う」と言います。イエス様はこの私を罪の支配から神のもとへと贖って下さった。「贖う」の代わりに、イエス様は自分の命を代償として私を神のもとへ買い戻して下さった、と言っても同じです。ただし、「罪を贖う」と言わないように注意しましょう。贖うのは人間です。神が人間を罪から贖う、買い戻すのです。反対に、罪は償うものです。人間を贖うのに、罪を贖うと言ったら、神は罪を買い戻すことになってしまいます。神は罪なんか買い戻したくありません。買い戻したいのは人間です。
人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神に贖われた者、罪の支配から解放された者になります。そうするとキリスト信仰者は罪のない無つみの者になったのかというとそうではありません。信仰者になっても、神の意思に反するものが自分に残っていることに何度も気づかされます。それじゃ、キリスト信仰者になっても何の意味もないじゃないかと言われるかもしれません。しかし、そうではないのです。神聖な神のひとり子の尊い犠牲をもって罪を償ってもらったので、今度は罪に背を向けて生きるようになります。罪は忌まわしいもので間違っているとわかり、それに迎合しないように生きようとします。自分の内に神の意思に反するものが出てきてしまったら、慌てずに心の目をゴルゴタの十字架に向け、そこに罪の赦しが打ち立てられていることを確認します。神聖なひとり子の犠牲の上に今の自分があるとわかれば、もう軽率なこと愚かなことはすまいと心の襟を正します。これがパウロがローマ8章で言う、聖霊の力で肉の業を日々死なせるということです。まさに霊的な戦いです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神は私たちが罪の赦しという神のお恵みに留まって生きていたことを認めて義とされ、御国に迎え入れて下さるのです。私たちが完全に無つみになれたから義とされるのではありません。無つみに向かう道を恵みに留まって踏み外さずに歩んだことを義とされるのです。
終わりに、仕える者になれというイエス様の命令についてひと言。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人は復活と神の国に至る道に置かれて今それを歩んでいます。その道を歩む者はお互いに仕え合うようにして歩まなければならないということです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言います。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛に欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さると教えます。
この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。
信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国に向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、それも支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない。きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そういうふうに考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのが決まっています。それ位、イエス様に背負ってもらっておきながら他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。
以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかです。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるようにとひとり子を贈られたのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教2024年10月13日 聖霊降臨後第21主日
聖書日課 アモス5章6-7,10-15節、ヘブライ4章12―16節、マルコ10章17-31節
本日の福音書の個所のイエス様の教えには難しいことが二つあります。一つは、金持ちが神の国に入れるのは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しいと言っていることです。ああ、イエス様は、金持ちは神の国に入ることはできない、と言っているんだな、と。じゃ、貧乏人ならできるのかと言うと、そうでもないことが弟子たちの反応からうかがえます。金持ちが神の国に入るのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しいのだったら、いったい誰が救われるのだろうか?と。つまり、金持ちでさえダメなんだからみんな無理だという反応です。しかし、イエス様は人間には不可能でも神には不可能ではないと言われます。ということは、神の国に入れることを神が可能にしてくれるということです。神はどのようにそうするのか?後ほど見ていきます。
もう一つの難しい教えは、イエス様が親兄弟家財を捨てないと永遠の命を持てないぞと言っているように見えることです。なんだか危ない宗教団体のように聞こえます。それだけではありません。十戒の第四の掟「汝、父母を敬え」はどうなるのか?家財はともかく親兄弟を捨てよなどとは「父母を敬え」に反するのではないか?しかし、イエス様の教えには反社会的なことも矛盾もないのです。このことも後ほど見ていきましょう。
まず、「神の国」とか「永遠の命」とは何かを確認しなければなりません。意味をあいまいにしたまま話をするととんでもない方向に話は行ってしまいます。最近のキリスト教会では、「神の国」や「永遠の命」は将来本当に起こることではなく、キリスト信仰者が心の中で描く像のようなものだ、とか、この世の何か大切なものを象徴して言っているだけだ、などと教えるところもあります。しかし、このスオミ教会で私はイエス様やパウロが教える通りに、将来本当に起こることとして教えていきますので、ご了承ください。
男の人は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか?と聞きました。「永遠の命」と聞くと、普通は死なないこと、不死を思い浮かべます。この世で何百歳、何千歳になっても死なないで生き続けることです。ところが、聖書で言われる「永遠の命」は不死とは違います。なぜなら、それは一度この世で死ぬことを前提としているからです。だから、不死ではないのです。キリスト信仰では、いつか将来今のこの世が終わって新しい天と地が再創造される日が来る、その時すでに死んで眠りについていた人たちが起こされて、神から義(よし)と見なされた者は復活の体という、神の栄光を映し出す体を着せられて創造主の神の御許に永遠に迎え入れられる、そういう復活の信仰があります。このように復活を遂げて神の御許に迎え入れられて永遠に生きる命が「永遠の命」です。
復活した者たちが迎え入れられる神の御許が「神の国」です。そこはどんなところかは聖書に言われています。まず、盛大な結婚式の祝宴に例えられます(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)。これは、この世の労苦が完全に労われるところということです。また、「全ての涙が拭われる」ところとも言われます(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ25章8節)。「全て」ですから、痛みの涙も無念の涙も全部含まれます。この世で被った不正義や悪が神の手で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ12章19節、イザヤ35章4節、箴言25章21節)。もう復讐心に引き回される苦しみも泣き寝入りの辛さも遠い世界になるところです。さらに、フィンランドの教会の葬儀ではいつも「復活の日の再会の希望」が言われます。つまり、「神の国」は懐かしい人たちとの再会の場所であるということです。
復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では「神の国」とか「天の御国」とか「天国」と言います。そういうわけで、永遠の命を受け継ぐいうのは復活させられて永遠に「神の国」に迎え入れられることです。
さて男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきかと聞きました。男の人はお金持ちだったので、永遠の命も何か正当な権利があれば所有できる財産か遺産のように考えたのでしょう。何をしたらその権利を取得できるのか?十戒の掟も若い時からしっかり守ってきました、もし他にすべきことがあれば、おっしゃって下さい、それも守ってみせます、と迫ったのです。これに対してイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればお前は天国に宝を持つことになる/持つことができる(εξεις未来形)。それから私に従って来なさい」と。「天国に宝を持つ」とは、まさに永遠の命をもって神の国に迎え入れられることを意味します。地上の富と対比させるために永遠の命を天国の宝と言ったのでした。
男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の富を取るかの選択に追い込まれてしまいました。一見するとこれは、人間というのは天国の宝という目に見えないものよりも目に見え手にすることができる地上の富に心が傾いてしまうものだ、という宗教・文化を問わずどこにでもありそうな教訓話に聞こえます。しかし、ここにはキリスト信仰ならではのもっと深い意味があります。それを見てみましょう。
まず、この男の人は私利私欲で富を蓄えた人ではありませんでした。イエス様のもとに走り寄ってきて跪きました。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるために何をしなければならないのですか、本当に知りたいのです、と真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守っています、と。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというよりは、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきました、という信仰の証しです。イエス様もそれを理解しました。新共同訳には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてあります。「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」とは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていました。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しだったのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。
それでは、この男の人の問題は一体なんだったのでしょうか?それは、神の掟を守りながら財産を築き上げたという経歴があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美とか祝福と考えるようになることがあります。それで弟子たちが驚きの声をあげたことも理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それほど祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころかディノザウルスが針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさいというイエス様の命令は、今まで神の祝福の現れと思われていた財産が永遠の命に直結しないことを思い知らせるショック療法でした。永遠の命は、人間の力や努力で獲得できるものではないということを金持ちにも弟子たちにも思い知らせたのでした。
それでは、永遠の命を得て神の国に迎え入れられるのはどうやって可能でしょうか?イエス様は言われます。人間には不可能だが神には不可能ではない、と。つまり、人間の力で出来ないのなら、神が出来るようにしてあげようということです。どのようにして出来るようにするのでしょうか?
神はそれをイエス様の十字架と復活の業をもって出来るようにしました。人間が持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、すなわち罪が人間の神の国への迎え入れを不可能にしている、その罪の壁を打ち破るためにイエス様は身を投じたのです!それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。人間は、イエス様の身代わりの死は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けるとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになります。罪を償われたら神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦してもらったから、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しという神のお恵みの中にとどまっている限り、この結びつきはなくなりません。結びつきがあるおかげで逆境の時も順境の時も全く変わらない神の守りと導きを受けて生きることができます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、復活したイエス様と同じように神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。この大いなる救いは人間が成し遂げるものではなく、神がひとり子を用いて人間のために成し遂げたものです。人間はただそれを信じて受け取るだけでいいのです。そういうわけで、人間の力では不可能だった「永遠の命」の受け継ぎと「神の国」への迎え入れは、神の力で可能になったのです。本当に神にしか出来ないことでした。だからイエス様は、神が唯一の善い方であると言われたのです。
しかしながら、この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、人間には不可能でも神には不可能でないと言われても、まだ理解できません。ペトロの言葉はまだ理解できていないことを示しています。イエス様、あなたは金持ちの男に対して、全てを捨てて貧しい人に施せば永遠の命を得られると言われました。その人は捨てられませんでしたが、私たちは全てを捨ててあなたに従ってきました。それならば、私たちは永遠の命を得られるのでしょうか?という具合です。これに対してイエス様は、私のため福音のために親兄弟家財を捨てる者は永遠の命を得ると言ったことになっています(新共同訳では)。これだと、ペトロたちは得られると言っていることになります。しかし、それだと永遠の命も結局は、人間がエイヤー!と気合を入れて親兄弟家財を捨てたら得られるものになってしまいます。人間の力が決め手になってしまいます。これでは人間に不可能なことではなくなってしまいます。話が滅茶苦茶になります。
この混乱は問題の個所のギリシャ語の原文が少し複雑なために起きます。二重否定があったりして少し厄介な原文ですが、素直に訳すと次のような流れになります。ペトロが、私たちは全てを捨ててイエス様に従いました、私たちは永遠の命は大丈夫でしょうか?と聞きます。それに対してイエス様は次のように答えたのです。「もしこの世で捨てたものを100倍にできず、次の世で永遠の命も得られないのなら、この世で私と福音のために親兄弟家財を捨てたことにならない。」つまり、もしこの世で捨てたものを100倍にできて、次の世で永遠の命も得られるのなら、この世で親兄弟家財を捨てることになる、というのです。この世で100倍のものを得て次の世で永遠の命を得ることが先で、その次に親兄弟家財を捨てることが来るというのです。普通は逆に考えます。親兄弟家族を捨てたら100と永遠の命が来ると。ご褒美だからです。しかし、原文の素直な訳はその逆で、先に100と永遠の命を得ないと、親兄弟家財を捨てることもないと。本日の福音書の個所の最後のところでイエス様は、後のものが先になり先のものが後になる、と順序が逆転することを言っていますが、それと見事にかみ合うのです!(素直な訳がどうしてこのようになるかについて、本説教のテキストの終わりに解説をつけて教会ホームーページに載せます。興味ある方はご覧下さい。)
ペトロは、私たちは全てを捨てました、永遠の命は大丈夫ですか、と聞いたのに対して、イエス様は、先に永遠の命を得ないと捨てたことにならないと応じました。それでは、どのようにして先に100倍と永遠の命を得られるのか?言うまでもなくそれは、十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとそうなるのです。神と結びつきを持って生きられるようになることが、捨てたものを100倍にして得られることです!この結びつきを持って生きる者に永遠の命が約束されているのです。それでは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者は本当に親兄弟家財を捨てているのでしょうか?ここで宗教改革のルターに登場してもらいます。ルターが問題の個所を素直な訳で考えていることは明らかです。
ルターは、親兄弟家財を持っていてもイエス様を救い主と信じる信仰と衝突しない限り持っていいのだ、律法の掟に従って父母を敬い、財産を隣人のために役立てよと教えます。ただし、持つことと信仰が衝突して、どっちかを選ばなければならなくなったら親兄弟家財を捨てるのだ、と言います。この心構えを持っていれば、衝突がない時でも既に「心で捨てている」ことになると言うのです。「捨てる」とは「心で捨てている」ということなのです。「心で捨てる」なんて言うとなんだか真心がこもっていない冷たい感じがします。しかし、そうではないのです。先週の説教でもお教えしたように、親兄弟家財は全て神から世話しなさい守りなさい正しく用いなさいと託された贈り物です。贈り主がそう言って贈った以上は感謝して受け取って一生懸命に世話し守らなければならない。肝心なことは、贈り主が贈り物よりも上にあるということです。これが「心で捨てる」ことです。もし、贈り物が贈り主を捨てろと言ってきたら、信仰者は贈り物を捨てなければならないのです。
それでは、もし贈り主と贈り物が衝突したらどうなるでしょうか?もし肉親がキリスト信仰に反対して捨てろと言ってきたら、どうしたらいいのか?もう心の中ではなくて文字通り捨てて家を出るということになるのでしょうか?イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども身の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思います。現代の日本ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んで永遠の命と神の国への道を歩んでいれば、それに反対する肉親を心で捨てているということは起きています。ただ、同じ屋根の下にいて「心で捨てている」などと言うと、何か冷え切った人間関係の感じがします。しかし、信仰者の側ではそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。
これは以前にもお話したことですが、私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次の質問したことがあります。「もし親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり信仰をやめさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても取り乱さずに落ち着いて自分の立場を相手にも自分にもはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられるという事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち取れるかもしれない。場合によっては親に信仰の道が開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に自分の思いと願いを打ち明け祈りなさい」。使徒パウロはローマ12章の中で、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は高ぶることや偉ぶることと無縁であると教えます。使徒ペトロは第一ペトロ3章の中で、キリスト信仰の希望について説明を要求されたら穏やかに敬意をもって正しい良心で弁明しなさいと教えています。誠にその通りです。
問題となっているマルコ10章29~30節
ουδεις εστιν ος αφηκεν οικιαν η αδελφους η αδελφας η μητερα η πατερα η τεκνα η αγρους ενεκεν εμου και ενεκεν ευαγγελιου,
εαν μη λαβη εκατονταπλασιονα νυν εν τω καιρω τουτω οικιας και αδελφους και αδελφας και μητερας και τεκνα και αγρους μετα διωγμων, και εν τω αιωνι τω ερχομενω ζωην αιωνιον.
1)素直な解釈は、主節文をουδεις εστιν (…)του ευαγγελιουまでとして、εαν 以下は英語のifの文と同じように考えます。
「親兄弟家族を私と福音のために捨てた者はいない、もし(捨てたものを)この世で100倍にして得ず、次の世で永遠の命を得ないのならば。」
この解釈だと、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼で永遠の命を先に得たのなら、親兄弟家財という贈り物はいつでも捨てられる、心で捨てている、ということになります。ルターはここをこのように解釈したのではないかと思います。
2)親兄弟家財を捨てたら永遠の命を得るという理解は、εαν 以下を関係節ος αφηκεν (…) の中に含めてος(αφηκεν …)εαω μη λαβη (…) と見なす解釈ではないかと思います。
「親兄弟家財を私と福音のために捨てて、それらをこの世で迫害は伴うが100倍にして得ない者、次の世で永遠の命を得ない者は誰もいない。」
これだと、捨てないと得られないということになり捨てないといけないというプレッシャーがかかります。
2024年10月6日 聖霊降臨後第二十主日 主日礼拝説教
聖書日課 創世記2章18~24節、ヘブライ1章1~4節、2章5~12節、マルコ10章2~16節
ファリサイ派の人たちがまたもやイエス様を窮地に追い込んでやろうと質問してきました。今回はモーセの律法集の中にある規定の一つで、夫が妻に離縁状を書いて別れてもいいという規定についてです。申命記24章1節にあります。別の所でイエス様は、不倫以外の理由で妻と別れたら、その妻を姦通の標的にしてしまうとか、夫と別れた女性と結婚する者は姦通の罪を犯すことになると教えていました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは広く知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか?申命記24章1節で言われていることは、妻に何か恥ずべきことがあって夫が気に入らなくなったら離縁状を書いて追い出していいと言っている、なのにこのイエスは神の掟をいたずらに厳しく解釈して人々を不安に陥れている。神の掟とイエスの教えが食い違っていることを公衆の面前でさらけ出してやろう、そういう魂胆でした。
これから見ていくイエス様の答えは、いかに私たち人間は神の創造の秩序を深く考えないで、自分たちの思いを優先させてきたかを思い知らせるものでした。思い知らされた私たちは、どうすればいいのかと心配になります。イエス様の目的は私たちを心配させることではなく、私たちの心が彼の十字架と復活の業に向くようにすることでした。今日はそのことを見ていきましょう。
妻と別れてもいいのかと聞かれてイエス様は、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。別れてもいいという根拠はここにあるのだと。そこでイエス様は神の意思を明らかにします。律法に離縁状の規定があって離婚を認めているのは、人間の心がかたくなになっていることを神が考慮した結果なのだと。新共同訳では「心が頑固」と言いますが、「頑固」だと何だか頑固おやじみたいで、ちょっと微笑ましくもあり、あまり深刻な感じがしなくなってしまいます。ギリシャ語のσκληροκαρδιαは「心がかたくなな状態」という意味で、とても深刻な状態を意味します。どう深刻かと言うと、イザヤ書6章10節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下すと宣言した時、民の心を一層「かたくなにせよ」と言いました。それは、神の御言葉や業を見たり聞いたりできなくなるようにするということでした。それで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになることで、神に背を向けて神の御心を知ろうともわかろうともしない状態のことを言います。
それでは、結婚に関して何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそうなのかというと、神の創造の秩序がそうだからと言うのです。では、神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれているギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言います。結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した父と母から離れて父と母がそうであったように一緒になることです。その一緒というのは神の目からすれば合体と言ってもいいくらいの結びつきです。それが神の意思であり、それに基づいて結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。
それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?そこが問題の核心でした。それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間にあるからだ、とイエス様は言います。そのために神の御心を知ろうともわかろうともせず、その結果、安易な理由で別れたり、または相手を裏切って別の相手と一緒になるということが起こる。申命記24章1節の離縁状の条件は、「伴侶に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時」でした。この「恥ずべきこと」というのはヘブライ語でエルヴァト ダーバールと言いますが、「性的に不適切なこと」という意味です。いろんなふうに解釈される可能性があります。しかし、イエス様は、これを伴侶に対する裏切り、つまり不倫の1点に絞ったのです。そのようなことが起これば離縁状はやむを得ないと言うのです。そういうことがないのに伴侶のここが気に入らないとか、ましてや別の相手と結ばれたいというのが本心で嘘の離縁状を書いてはいけないと言うのです。神の創造の秩序を損なうようなことが相手側に起きてしまった時にやむを得ないものとして認められると。ところで、創造の秩序を損なうことは、伴侶を裏切ることの他に、DVのような伴侶に命の危険をもたらす事態も入れてよいと思います。十戒の第5の掟から明らかなように、命の危険をもたらす事態は神の意思に反するものだからです。そういう重大なこともないのに別れるのは、神の創造の秩序を損なうことになるのです。
ここで私たちは一つ大事なことに気がつかなければなりません。それは、人間の心からかたくなさが取れて、神に背を向けた生き方をやめよう、神の意思をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?
そのような心を持てるために私たちキリスト信仰者は、創造主の神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを思い返します。ひとり子のイエス様は十字架の死を遂げることで、私の神の意思に反しようとする性向、罪を神に対して償って下さいました。人間は、この神のひとり子の身代わりの死は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。罪を償ってもらったら、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから、神と揺るがない結びつきをもってこの世を生きられるようになります。この結びつきはひとり子を犠牲にして神が与えて下さったものです。ちょっとやそっとのことで切れるものではありません。人生の中で「死の陰の谷」と言われるような苦難や困難の時が来ても、神が私たちと共に歩んで下さることが本当のことになります。この世から別れる時も結びつきを持って別れます。そして、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せられて、永遠に神の国に迎え入れられます。今日の福音書の日課の終わりでイエス様は、子供のように神の国を受け入れないとそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちはどのように受け入れたのでしょうか?イエス様の元に行くことが神の国の受け入れでした。私たちにとって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることがイエス様のもとに行くことです。
イエス様のおかげで自分は神から罪の赦しの恵みを受けて生きられるようになったとわかった人は、パウロがローマ12章の中で言うような心と態度を持つようになります。他人に対してへりくだる、高ぶらない、悪に対して悪で返さない、善を持って悪に勝つ、喜ぶ者と喜び、泣く者と泣く、少なくとも自分の方からは全ての人と平和な関係を保つようにする、自分で復讐しない、神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる等々。このような心と態度は、そうしないと神に認めてもらえないぞ、というような脅かしではなく、イエス様のおかげで先に神に認められてしまったからこのような心と態度が続いてくるのだ、それを忘れるなというとても重い注意喚起です。
そうは言っても、未熟さや力不足で人間関係、夫婦関係で火花が散ってしまうこともあります。そんな時はいつもゴルゴタの十字架に立ち返ります。そこは、赦すことが自分にとっても相手にとっても大事だとわかるところです。私たちは自分が受けた大いなる赦しを、いつも思い出さなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。自分への言い聞かせは、聖書の御言葉の宣べ伝えを聞いたり(ちょうど今みなさんされているように)、自分で聖書を繙いて罪の赦しの恵みが自分の内に根付くように祈ることです。そして、私たちキリスト信仰者には聖餐式があります。それは、洗礼の時に注がれたこの恵みが自分の内に一層根付くようにする恵みの手段です。
イエス様は離婚はいけないと言うだけでなく、離婚した後の再婚は姦通、姦淫になるなどと驚くべきことも言われます。日本語の「姦淫」とか「姦通」と言う言葉は、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語ではとても単純明快でずばり「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉です(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の言葉はadulteryで、英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、「不倫」です。
離婚後の再婚を姦淫と言うのは少し言い過ぎではないかと言いたくなります。正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのでは?しかし、イエス様はそうは見ない。なぜでしょうか?それは、先ほど見た神の創造の秩序があるからです。
男性と女性がそれぞれ生まれ出てきた父と母のもとを離れて神が結びつけて一つの肉になる、これが結婚です。そこに外部のものが入ってきて神がせっかく結びつけたものを壊してしまうのが姦淫です。しかし、離婚の場合は結びつきを解消したのだから再婚しても姦淫にならないのではと思われるのですが、イエス様はそうだと言われる。それは、一度一つになったら人間の目では別々になっても、神の目から見たら、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は原則消せないということのようです。つまり、神が結びつけたものは神の記録に記される、人間が解消できたと言ったら、自分には神の結びつけの力よりも強い力があると言うことになります。これは、神は認めないでしょう。離婚の後の再婚をイエス様が姦淫と言うのは、神の記録に記されたことを人間は無効に出来ないということの裏返しです。
しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の厳しい教えを守っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと言われます。それを神の意志に反するなどと言われてはたまらない、そんな神は相手になんかしないという気持ちを引き起こします。あるいは、自分の信じたい神様はそんな偏狭な方ではない、もっと物わかりのいい方だ、と自分都合の神を持ち出してしまうかもしれません。どっちにしても創造主の神に対し心をかたくなにすることです。どうしたらよいでしょうか?
イエス様は、人間にとっての「新しい出会い」、「人生の再出発」は神の意志に反することだと言われる。他にも心の中で描いただけでも罪だなどと言われる。そこまで厳しいことを沢山言って、人々を後ろめたい気持ちにさせて、イエス様は偉そうにふんぞり返っていたでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は人間が持つ神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべての面で神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間が神との結びつきを持てなくなってしまった状態を変えようとして身を投じたのです!それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けて人間が受けないで済むようにして下さったのです。
イエス様を救い主と信じる心には神から罪の赦しの恵みが注がれています。イエス様のことも神の意思についても何も知らずに新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みを受けて生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神との結びつきを持てて神の守りと導きの中で生きられるようにしようと、ひとり子を惜しまなかった神の愛です。私たちがしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を犠牲にしなければならないほどの重大なことだったとわかれば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きるか、行うか、考えるか、言葉にするか、全てにおいて神に背を向けず、神の方を向いてするようになります。そうすれば神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しに相応しいものに変えられるはずです。
最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚の結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ19章12節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。
使徒パウロは未婚者とやもめに対して結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います(第一コリント7章)。そうかと思えば、結婚しても罪を犯すことにはならない、してもいい、とも言います。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、もうすぐ最後の審判や死者の復活が起きる、そういう緊迫した雰囲気が当時のキリスト信仰者の間で強くありました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちました。今ある天と地はまだそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではありません。イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ24章14節など)。
それでも、キリスト信仰者はイエス様が命じるように(マタイ24章44節など)いつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは何か矛盾があるように感じます。この世の終わりが来ると言うのに何の意味があるのかと。その場合は、ルターのように考えます。家族とか伴侶とか子供というものは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って忠実に世話し守り愛し育てる。もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は有限とわかればとても大事なものとわかります。贈られたものと一緒にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そして、キリスト信仰は「復活の日の再会の希望」を持つ信仰です。終末と復活が裏表になっていることがわかれば、有限でもこの世で愛情を注ぐべきものがあることは素晴らしいことだとわかります。
2024年9月29日 聖霊降臨後第十九主日 主日礼拝説教
民数記11章4~6、10~16、24~29節、ヤコブ5章13節~20節、マルコ9章38~50節
説教をYouTubeで見る。
今日の福音書の日課には二つの異なるテーマがあります。一つは、38節から40節まで、キリスト信仰者ではなくてもキリスト信仰に好意的肯定的な態度を取る人のことを神はどう見るかという問題です。
イエス様の弟子グループに入っていない人がイエス様の名前を使って奇跡の業を行っていました。弟子たちは、グループに入っていないのだからやめさせるべきと考えましたが、イエス様はやめさせるべきではないと。イエス様グループに反対しない者はグループの側に立っている、つまりキリスト信仰に反対しない者は信仰の側に立っているというふうに聞こえます。
さらに40節では、イエス様の弟子たちに水一杯を飲ませる者は神から報いがあると言います。相手がキリスト信仰者だという理由で飲ませる、と言っていることに注目します。キリスト信仰者に助けの手を差し伸べるのが何か問題になる状況が前提されています。言うまでもなく、迫害の状況です。困っているキリスト信仰者を助ける方は困っていないので迫害を受けていない、ということはキリスト信仰者でない人です。キリスト信仰者でない人があの人はキリスト信仰者だとわかって助けると報いがある。報いというのは、善いことをしたら、ご褒美に何かいいことがあるというようなこの世的ご利益ではありません。マタイ5章11節で「天には大きな報いがある」と言っているように、「報い」とは、将来、天の御国、神の国に迎え入れられることです。さて、キリスト信仰者でなくても信仰者を助けたらそれで天国に入れるということになります。そうなると、イエス様を救い主と信じる信仰以外にも道があることになります。本当にそうなのでしょうか?このことを後で見ていきます。
もう一つのテーマは41節から50節まで。信仰を躓かせるもの、つまりキリスト信仰者を神の意思に反するように導いてしまうものがあることについてです。そういう者は重石を抱き合わせにして海に投げ込んでこの世から消してしまうのがいい、その方が信仰者が神の意思に反するようになるよりもはるかによい、と言います。しかし、実際にはそういう海への投げ込みは起こりません。イエス様は、ただ、その方がましだ、と言っているだけです。海に投げ込まれた方がよさそうな者たちが大手を振っているのがこの世の現実です。なので、キリスト信仰者はそういう者と手を合わせて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わなければなりません。イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは
り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。とても極端なことを言っているように聞こえます。果たして私たちキリスト信仰者は、体の部分を切り取らずに五体満足の状態で天の御国に迎え入れられることができるのでしょうか?このことも後で考えてみます。日課の最後は塩について言われています。キリスト信仰者が神の意思に反しようとするものと戦うこと、これが、自分の内に塩を持っているということです。このことも説教の終わりで見ていきます。
イエス様の弟子のグループに入っていない人がイエス様の名前を使って悪霊を追い出していました。弟子たちはやめさせようとしましたが、イエス様はそのままにしておいてよいと言われました。その理由は、「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい」でした。これは、どういう意味でしょうか?直ぐ後でイエス様の悪口は言わないということは、一時したら言うようになるということなのか?イエス様はそれでもいいと言っているのか?ここのギリシャ語の原文はとても微妙です。可能性を表す助動詞の未来形がさりげなく使われているからです。この助動詞がある場合とない場合でどう意味が異なるかを考えながら、この個所を何十回も読み返してみました(後注)。恐らく次のようなことではないかと考えるに至りました。「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で私の悪口を言う可能性はない。」つまり、すぐ後で悪口を言う可能性はないが、一時したら言う可能性がある。言う可能性があるということは、言わない可能性もある。つまり、一時したら必ず悪口を言うようになるとは限らない。悪口を言わないまま続く場合もあるということです。イエス様の反対者になる可能性はあるが、イエス様と一緒になる可能性もあるということです。
イエス様の反対者になる可能性としてどういう場合が考えられるでしょうか?神は何らかの理由で弟子でなくてもイエス様の名前を出したら奇跡を起こさせることをされました。しかし、神はそれをやめさせることも出来るのです。やめさせられたらその人はイエス様に背を向けるようになるでしょう。いつ神はやめさせるでしょうか?それは、その人がいい気になって、自分が何か言えば全部イエスは聞き従ってくれると錯覚するようになった時です。
実際、イエス様の名前を出しても、奇跡が起きないという事例が使徒言行録19章にあります。ユダヤ人の祈祷師たちが悪霊に取りつかれている人に「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言いました。すると、悪霊は次のように言い返したのです。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして悪霊に取りつかれた人が祈祷師たちに襲い掛かったのです。イエス様を救い主と信じる信仰がなければ、イエス様の名前を出しても効果はなく、逆に危険なのです。
イエス様に属していなくても彼の名前を使って奇跡を起こした人が反対者にならないでイエス様に属するようになるというのは、どういう場合でしょうか?それは、その人がイエス様の名前を使うと神の力が働くのを目の当たりにして、この名前の持ち主は一体どんな方なのだろうと真面目に考えるようになることです。その方は十字架と復活の業を遂げた救い主であるとわかって、イエス様を救い主と信じるようになることです。神がどういうわけかこの私を選んで奇跡の業を起こさせたことに対して畏れ多い気持ちになって信仰に入ったということです。このようなプロセスに入らないで、ただイエス様の名前を使って奇跡を行い続けることは神の意図するところではありません。遅かれ早かれ打ち切られるでしょう。
以上は、イエス様に属する者ではなかったが、属するようになる可能性があることについてでした。次に、キリスト信仰者でなくても、信仰者が困っている時に助けてあげると天の御国に迎え入れられるということについて見てみます。17世紀の日本のキリシタン迫害の歴史を見るまでもなく、迫害というのはいつも恐ろしい位に徹底していています。キリスト教徒や宣教師を匿ったり世話をしたことが発覚したら、キリスト教徒でなくても全く同じ拷問を受けます。こういうふうに迫害というのは、水一杯を飲ませることさえ命にかかわることなのです。それにもかかわらず、相手がキリスト信仰者だとわかって、命にかかわるとわかって助けてあげるというのは、天の御国に迎え入れられるという報いに値するのだと言う。これは、善い業を行ったらキリスト信仰者でなくても救われるということなのでしょうか?私たちルター派の場合、救いは善い業に基づかない、救いを果たしたイエス様を救い主と信じる信仰に基づく、それとイエス様がもたらした救いを洗礼を通して自分に注ぎ込むことに基づくということを強調します。この考え方とどうかみ合うでしょうか?
この問題で一つ思い出したことは、ルカ福音書23章でイエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられた時、犯罪人の一人が神を畏れてイエス様を救い主と信じる言葉を口にしたことです。これを聞いたイエス様はその人も神の国に迎え入れられると告げました。信仰を告白することが神の国という報いと結びついているのです。そこでキリスト信仰者でない人が自分に降りかかる危険を顧みずに信仰者を助けるというのは、どういうことか考えてみます。イエス様はそれが神の国の報いと結びつくと言っています。つまり、神はこの助ける業を信仰の告白と同等に見なされるのです。ここで注意すべきことは、信仰を告白することは、救いを得るためにする業ではないということです。イエス様を救い主と信じます、なぜならイエス様は罪がもたらす滅びから私を救って下さったからです、私に救いを与えて下さったからです、それで信じますというのが信仰の告白です。救いを得るためにする業ではありません。救いを得たからする業なのです。ルカの犯罪人は、イエス様は罪がもたらす滅びから救い出してくれる唯一の方だと信じ、それ以外のことは見えなくなったのでした。マルコの危険を顧みないでキリスト信仰者を助けることは、真に恐れるべきものは創造主の神であって、迫害を行う権力者やそれに加担する社会ではないということがわかったということです。迫害を受けているキリスト信仰者を見て、神こそが真に恐れるべき方だとわかる、それで助けることは信仰の告白になるのです。それでこの助けは人道支援ともヒューマニズムとも違うものなのです。
ここで少し脇道に逸れますが、マタイ12章30節でイエス様は、私の側についていない者は私に反対している、私と一緒に集めない者は散らしていると言い、イエス様と一緒にいない者を反対者扱いします。この言葉は、イエス様が悪霊を追い出している時に、イエス様に反対するファリサイ派の人たちが、あいつは悪霊の頭の力を使って追い出していると中傷した時の反論です。今日のマルコのイエス様の名前を使って悪霊を追い出している人の場合は、キリスト信仰に入る前の段階のことで、イエス様はその人が信仰に入る可能性があることを言っていました。マタイの場合は、イエス様が言うように、ファリサイ派は聖霊を冒涜しています。既にこの時点でイエス様に背を向けてしまっているのです。それで、厳しい言い方になったのでしょう。
次に信仰に躓きを与えるもの、神の意思に反しようとさせるものとどう戦うかについて。最初に申し上げたように、この世は神の意思に反するように導く力が沢山働いています。それなので、キリスト信仰者はそういう力と結びついて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わないといけないのです。どう戦えばいいのでしょうか?イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは切り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。しかし、汚れた部分は切り取って残ったきれいな部分だけで天の御国に行くことは可能でしょうか?それは不可能です。なぜなら、人間は全身全霊が神の意思に反するもの、罪に染まってしまっているというのが聖書の立場だからです。いちいち切り取っていたら、何もなくなってしまう位に染まってしまっているのです。イエス様もそのことはわかっています。人間は自分の力で救いを得ることは出来ないということをイエス様はこの極端な言い方で教えているのです。私たちは救いのために自分の力では何もできないと思い知ります。
だから、父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。私たちが罪の罰を受けないで済むようにひとり子に罪を負わせて代わりに罰を受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。しかもそれで終わらず今度はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。私たちがこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、イエス様が打ち立てた罪の償いと罪の赦しを自分のものにすることができます。そして永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきの中で歩むようになります。この世にある限り、肉を纏う私たちの内にはまだ罪が残りますが、そんなのおかまいなしに、洗礼を通してイエス様の無罪(むつみ)、神聖さ、義を衣のように頭から被せられます。この神聖な衣をはぎ取られないように、しっかり掴んで歩むのがキリスト信仰者の人生です。この衣を手離さないでしっかり纏い続けることが、罪に反対して生きていることの証になります。たとえ、神の意思に反することが出てきてしまっても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、あそこに罪の赦しがあるとわかります。あの方のおかげで体の部分を切り取らなくてよいと安心し、感謝に満たされます。このように罪の赦しという神の恵みに留まることが出来れば、罪の鋭い棘はどんどん鈍くなっていきます。まさにイエス様の神聖な衣を被せられて、その重みで罪を圧縮していくのです。イエス様の神聖な衣をしっかり纏っている限り、私たちは何も切り取る必要はなく、五体満足で天の御国に迎え入れられるのです。
本日の日課の終わりのところで塩について言われていました。「火で塩味をつけられる」というのは、その前にある地獄の火とは全く異なる火です。人が塩を持てるようにする火です。その塩を持てれば互いに平和に過ごすのが当然になると言うのです。塩は何を意味するのでしょうか?パウロは「ローマの信徒への手紙」の中で、キリスト信仰者とはイエス様を救い主と信じる信仰によって神から義と認められた者、洗礼を通してイエス様の十字架の死と復活に結びつけられて罪に背を向け永遠の命に向かって生きるようになった者であると言います。そのキリスト信仰者がこの世でどういう心と態度を持つようになるかについて同じ手紙の12章で詳しく述べられています。他人に対してへりくだる、高ぶらない、悪に対して悪で返さない、善を持って悪に勝つ、喜ぶ者と喜び、泣く者と泣く、自分で復讐はしない、神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる等々あります。今日の日課の終わりと同じ、全ての人と平和な関係を保てということもあります。そういう心と態度のことです。これらは、キリスト信仰者はしなければ神に認められないと言っているのではなく、神に認められたからこのような心と態度を持つようになるのだ、忘れるなという注意喚起です。こういう心と態度が塩です。火で塩味を付けるというのは、恐らく洗礼を暗示していると考えられます。洗礼者ヨハネは、イエス様は聖霊と火を持って洗礼を授けると予告しました。聖霊降臨の時、弟子たちの上に炎のような舌が分岐して下ったとあります。洗礼を通して、私たちの全身全霊は新しい心と態度を持つように焼き直されたのです。兄弟姉妹の皆さん、私たちにはこの塩が備えられていることを忘れないようにしましょう。
(後注)
原文は以下の通り。可能性を表す助動詞がδυνησεταιあります。
ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και δυνησεται ταχυ κακολογησαι με
原文からこのδυνησεταιを取りのぞいたら次のようになります。
ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και ταχυ κακολογησει με こちらの方が、「奇跡の業を行った直ぐ後でイエス様の悪口を言わないが、一時したら悪口を言う
の意味がはっきりすると思います。原文のようにδυνησεταιがつくとどう違ってくるかということを考えに考え、説教文にあるような見解に達しました。
主日礼拝説教
2024年9月22日 聖霊降臨後第十八主日
聖書日課 エレミヤ11章18~20節、ヤコ3章13節~4章3、7~8a節、マルコ9章30~37節
イエス様と弟子たちの一行はエルサレムに向かって南下する旅をしています。今日の日課の出来事は、一行がガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来た時の話です。少し前にイエス様は自分がエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕らえられて殺される、しかし、三日後に復活すると予告していました。それを聞いて驚いたペトロがそんなことがあってはならないと反対すると、イエス様はペトロを厳しく叱り、お前は神のことを思わず、人間のことを思っている、と言われました。弟子たちにとってイエス様は期待のヒーローでした。イエス様の権威ある教えを聞いて無数の奇跡の業を味わった人たちも思いは同じでした。当時ユダヤ民族はローマ帝国に支配されていたので、いつかそれを打ち倒してかつてのダビデ王の王国を復興させてくれる王の到来を期待していたのです。イエス様に注目が集まったのも無理はありません。
私たちは、メシアという言葉が救世主を意味すると知っています。もともとの意味は「香油を頭に注がれて聖別された者」で、ユダヤ民族の伝統では王様がメシアの代表格でした。それでイエス様の時代、メシアを民族を超えた全人類の救世主と考える向きはほとんどありませんでした。なので、イエス様をメシアと言って担ぎ出してしまうと、ローマ帝国から反乱者と見なされて弾圧されてしまいます。神が定めた救世主の目的を果たすまでは邪魔されてはいけないのです。十字架と復活の出来事が起きる前、なぜイエス様は自分がメシアであることを公けにするのに消極的だった理由がわかります。ガリラヤ地方に来た時、人々に知られたくなかったのも、このように理解できるでしょう。
本日の福音書の個所で、イエス様は再び自分の受難と復活について予告します。弟子たちは恐れて何も言えません。このイエス様の驚くべき予告を聞かされた弟子たちは混乱してしまったようです。これから、ユダヤ民族の将来にとって何か途轍もないことを起こす偉大な方が、自分は殺されてしまう、しかし復活する、などと言われる。これは一体何なんだ?この方は自分たちが考えるような偉大な方ではなかったのか、それともやっぱり偉大な方なのだが、それは自分たちが考えるのとは違う偉大さなのか?それで、誰が偉い者かという議論が起こったと考えられます。
それに対するイエス様の答えはこうでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、子供を真ん中に立たせて抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
これを読んだ人は、ああ、イエス様は、人間謙虚さが大事、高い地位にふんぞり返っている者は偉くもなんともない、自分を低くして他人に仕える者が本当に偉いのだ、と道徳論をぶっていると思うでしょう。子供を受け入れなければならないと言っているは、聞く人によってはイエス様は子供の人権擁護の先駆者だと考える人もいるかもいれません。しかし、そういうことではないのです。聖書とは、キリスト信仰について教える書物であると同時に、読む人をキリスト信仰に導く神の御言葉です。イエス様のことを道徳論者とか人権擁護者に理解する読み方は、別にキリスト信仰がなくても読める読み方です。イエス様を道徳論者とか人権擁護者に仕立て上げると、古今東西無数にいる道徳論者や人権擁護者の一人にすぎなくなります。
私たちキリスト信仰者は聖書をキリスト信仰なしで読むことはしません。信仰をもって読む者です。それで、今日の福音書の個所も、道徳論、人権論とは全く異質なものが見えてくるのです。今日の説教では、この異質なものを明らかにしようと思います。次の3つのことに焦点を当てて明らかにします。一つは、キリスト信仰にとって「仕える」とは何なのか?二つ目は、「わたしの名のために子供を受け入れる」と言う時の「わたしの名のために」とはどんな意味なのか?三つ目は、キリスト信仰にとって「受け入れる」とは何なのか?
イエス様は一番先になりたい者は一番後になりなさいと言い、一番後になるとはみんなに仕えることであると言いました。本当に偉大な者とは人々に仕えられてふんぞり返っている者ではなく、逆に全ての人に仕える者が偉大なのだと。ここで「仕える」とは具体的に何をすることでしょうか?お仕えする相手の要望に聞き従い、お世話をすることでしょうか?召使いのようになることでしょうか?全ての人々に対してそのようなことができるでしょうか?一人や二人だったらできるかもしれませんが、人数が多くなるにつれ難しくなり、全ての人というのは不可能です。
ここで、全ての人に仕えることをしたのはイエス様本人であったことを思い出しましょう。イエス様はどのようにして全ての人に仕えたでしょうか?それは、彼が予告した十字架の死と死からの復活をもってしたのです。どうして、十字架と復活が全ての人に仕えることになるのか?それは、人間が創造主の神に対して、その神聖な意思に反しようとする性向を持ってしまっている(聖書はそれを罪と呼びます)、そのために人間が神との結びつきを失ってしまった、それで人間は神との結びつきを失ったままこの世を生きなければならず、この世を去った後も神のもとに戻ることができない状態になってしまった、この状態から人間を救い出すために神はひとり子のイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせたのでした。人間が持ってしまっている神の意思に反すること、つまり罪の神罰を人間が受けて滅びてしまわないために、イエス様が身代わりになって受けて死なれたのです。これがゴルゴタの十字架の出来事でした。しかし、事はそれで終わらず、創造主の神は今度はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されました。
そこで、今度は人間の方が、これらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、それでその人は神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も結びつきは失われず、復活の日が来るとイエス様と同じように復活させられて神の御許に永遠に戻れるようになったのです。これが、イエス様が全ての人に仕えたということです。
それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者にとって人に仕えるとはどういうことになるでしょうか?イエス様は、罪の赦しの救いを全世界的に打ち立てました。しかし、人間は信仰と洗礼を通してそれを自分のものにしないと、打ち立てられた救いの外側に留まってしまいます。人間の救いを計画した神とそれを実行したひとり子イエス様の願いは、全ての人がこの救いを自分のものにすることです。なので、キリスト信仰者にとって人に仕えるというのは、人々が救いを自分のものにできるように働きかたり、考えたり、祈ることが仕えることになります。まさに神が全ての人に仕えたことを受け継ぐことです。
次にイエス様が子供を受け入れる時に「わたしの名のために」と言っていることに注目します。「私の名のために子供を受け入れる」とはどういうことでしょうか?「~のために」はいろんな意味があります。「合格するために一生懸命勉強する」と言う時は目的とか目標です。イエス様の名前が子供を受け入れる目的、目標になっているというのは意味が通るでしょうか?「悪天候のために遠足は中止です」と言う時は原因とか理由の意味です。イエス様の名前が子供を受け入れる原因とか理由になっているというのも意味が通るでしょうか?「家族のために仕事を頑張る」と言う時は何かに利益をもたらす、何かを支えてあげる意味になります。イエス様の名前は私たち人間が何かをして支えてあげなければならないようなか弱いものでしょうか?このように、日本語で何となくわかったような気分でいたことが、少し突き詰めて見ると実は何を意味しているのかわからなくなることが多くあります。
聖書でそうことが起これば、すかさず原語のテキストを見てみます。ギリシャ語でエピ(επι)という前置詞が使われています。これが「~のために」と訳されているのですが本当でしょうか?エピに続く単語は属格、与格、対格のいずれかの格変化をします。格に応じて意味も変化します。今日の個所のエピには「私の名前」が続きますが、「名前」は与格です(ονομα⇒ονοματι)。古典ギリシャ語の文法書によると(後注1)エピに与格が続くと、まず場所を表す意味や時間を表す意味があります。「私の名前」は場所でも時間でもないので当てはまりません。そこでもう一つ、比喩的な意味というのがあります。その中にもいろいろな選択肢がありますが、それらを見比べて一番当てはまると思われたのは、「~に依拠して」とか「~という条件の下で」という意味です(後注2)。イエス様の名前に依拠して、イエス様の名前という条件の下で子供を受け入れるということ。つまり、子供を受け入れる時、イエス様以外の名前には依拠しない、イエス様以外の名前を条件にしない、他でもないイエス様の名前に依拠して子供を受け入れる、イエス様の名前を条件にして受け入れる。それでは、イエス様の名前に依拠して、その名前を条件にして子供を受け入れるとはどういう受け入れなのでしょうか?
ここでイエス様が成し遂げられた救いを思い出します。イエス様は自分を犠牲に供することで神に対する人間の罪を人間に代わって償って下さいました。人間が神罰から免れて神との結びつきを持てるようになる可能性を打ち立てたのです。さらに、死から復活されたことで死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を人間に切り開かれました。イエス様の名前に依拠して、名前を条件にして子供を受け入れるというのは、まさに子供をイエス様が成し遂げた救いの中に迎え入れるということです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにすることが出来る、永遠の命、復活の命に至る道を歩むことが出来る、子供だからまだ無理だとか、早いとか、そんなことはない、大人のキリスト信仰者はそれをわかって、子供も救いの中に迎え入れなさいということです。
このような教えは、当時のギリシャ・ローマ世界にとって革命的なことでした。というのは、十字架と復活の出来事の後で罪の赦しの福音が地中海世界に宣べ伝えられていきますが、そこは子供や女性の地位が何もないような世界でした。確かに古代ギリシャ・ローマは進んだ文明も持っていましたが、生まれたばかりの赤ちゃんの間引きは日常的に行われていました。最初ユダヤ教がそれに異を唱えました。人間は神に造られた、母親の胎内の時から神に知られているという視点に立っていたからです。キリスト教も同じ視点を受け継ぎました。キリスト教が長い迫害時代の後、ローマ帝国内で地位を確立すると間引きの風習は禁止されました。イエス様は、子供たちにも天使がついていて神の御顔を仰いでいると言われました(マタイ18章10節)。大人についている天使と何ら遜色はないというのです。これも当時の人たちには衝撃的に聞こえたでしょう。
このように「受け入れる」とはイエス様の成し遂げた救いの中に迎え入れることだと言うと、それは別に子供に限ったことではないかと言われるかもしれません。その通りです。イエス様の成し遂げた救いは大人子供関係なく全ての人のために打ち立てられました。それを神はどうぞ受け取って下さいと全ての人に提供して下さっているのです。人はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してそれを受け取ります。救いが「全ての人に」向けられているということを如実に示しているのが、子供を受け入れなさいというということなのです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにできる、永遠の命、復活の命に至る道を歩める、だからイエス様の打ち立てた救いは本当に全ての人に向けられているのです。赤ちゃんや小さな子供の場合は先に洗礼を受けて救いを受け取ります。それから両親と教会が、あなたの受けた洗礼はこういう意味があるんですよ、と教え育てて、イエス様を救い主と信じる信仰を意識化していき、堅信礼へと導いていきます。(世の人はこれを聞いて、子供の人権侵害だと騒ぐかもしれません。宗教2世の問題を引き起こすものだと。悲しい世になってしまいました。)
子供をはじめ救いの外側にいる人たちをその中に迎え入れる者は、もう既にイエス様を受け入れており、イエス様を送られた神を受け入れています。それが、外側にいる人たちを迎え入れることで、イエス様と神を受け入れていることが一層証しされるのです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちも、イエス様が打ち立てた罪の赦しの救いは全ての人に提供されていることを覚えて、まだ受け取っていない人たちが受け取ることができるように働きましょう。とは言っても、今はいろんな宗教団体が社会問題を引き起こす時世ですので、誤解や警戒を生まないように何ができるだろうかと悩んでしまいます。しかし、あなたの信仰について教えてほしいと言う人が出たら、しめたもの、何も遠慮することはありません。ペトロの次の言葉の通りにしなさい。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」(第一ペトロ3章15~16節)。教えてほしいという人がなかなか出なくても、慌てる必要はありません。皆さんが、神と結びつきをもって人生を歩んでさえいれば、順境の時も逆境の時も神から変わらぬ守りと導きを受けているんだという生き方をしていれば、そして将来いつの日か自分もイエス様の復活に与ることになるんだという希望を持っていれば、それを雰囲気を感じ取った人が興味を持って聞いて来るようになるでしょう。
後注1 私が使用している古典ギリシャ語の文法書は、Jerker Blomqvist & Poul Ole Jastrup著の”Grekisk/Grækisk gramatik”です。用いている辞書は、Ivar Heikel & Anton Fridrechsen編の”Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”。
後注2 比喩的な意味の他の選択肢は、~に対する命令、(感情表現の動詞と一緒に)その感情の原因、~しようとする意図・目的。
[私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたにあるように。アーメン]
2024年9月15日(日)
説教題 「主よ、あなたこそメシアです」
聖書 マルコ福音書 8章27~38節
今日の聖書はマルコ福音書の8章です。27節を見ますと「イエスは弟子たちとフィリポ・カイザリア地方の方々の村にお出かけになった。」とあります。フィリポ・カイザリア地方へ、なぜ弟子たちを連れて行かれたのでしょうか。フィリポ・カイザリアと言えばエルサレムやガラリヤ地方から見れば、もう外国のような地方です。
◇
私はイスラエル・トルコのパウロ伝道の跡を訪ねました際、フィリポ・カイザリアにも行きました。ガラリヤ湖の小高い山に「山上の垂訓」の教会があります。イエス様が大切な説教をされた有名な所です。マタイは5章から7章にかけて記しています。その山上の垂訓の教会の近くには世界でも珍しい花がいっぱい咲いている花園があります。世界中から植物学者が来て珍しい品種を調べているのです。その花園をずうっと北へバスで1時間ほど走って行くとバリアスの滝とかヨルダン川の源流を辿って行った先にフィリポ・カイザリア地方があります。ガリラヤ地方から遠く離れた地にイエス様はどうして弟子たちを連れて来られたのでしょうか。それまでナザレの家族から出て、いよいよガリラヤを中心に神の御子としての本来の活動を始められた。神の国の教えを語られ、病人を癒し群衆が何時も押し寄せて来た。マルコ8章の始めを見ますと「群衆が大勢いて何も食べる物がなかったのでイエスは弟子たちを呼び寄せて言われた『群衆が可哀そうだ、もう三日も私と一緒にいるのに食べ物がない、空腹のまま家に帰らせると途中で疲れ切ってしまうだろう。』・・こうしてイエス様は4000人の群衆に<七つのパンと僅かな魚で彼らを満腹させる>と言う全く考えられない驚きの奇跡の出来事をなさっています毎日々寝る時間もなく病人を癒し奇跡を起こし多くの人々が何時も周りに押し寄せて来ていた。そこでイエス様はこうした群衆から離れて弟子たちだけを連れてユダヤ人たちからも遠い地に来られたと思われます。そこにイエス様にとって一つの区切りをつける時を持たれたのではないでしょうか。そしてマルコはこの福音書の半分のところにフィリポ・カイザリアへ弟子たちを連れて行かれた事を書いているのです。ですからイエス様にとって大事な一区切りの時を持つことで前半のクライマックスを持ってきているのです。マルコは、さあ後半の始めに31節以下の所からイエス様の使命を弟子たちに打ち明けられて行きます。十字架への道です。さて、イエス様はフィリポ・カイザリアに向かって旅する途中で弟子たちに質問されたのであります。「人々は私のことを何者だと言っているか」と言われた。すると弟子たちは答えています。「洗礼者ヨハネだ」と言う者もいます。他に「エリヤ」と言う人もいます。「預言者の1人だ」と言う人もいます。そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか。」弟子たちに向かって尋ねられるのです。それでは・・・と言う、この問いに世間の人々は色々と言っています。それはそれで・・・ともかく、では「あなた方はどうなんだ」。とイエス様の本心はここにあったのです。
このことは弟子たちにだけではなく現在の私たち1人々に対してもイエス様と言うお方を教会だけではなく日常のあらゆる生活の最中でも「私にとってイエス様はこういう大切なお方です」と言える信仰の告白を問うておられるのであります。エレサムの神殿や教会の礼拝ではない、フィリポ・カイザリアに向かって行かれる旅の途中です。「あなた方は、私を何者だとと言うのか」と尋ねておられるのです。ここで最も重要なのは主イエス様ご自身が私どもの告白を求めておられる、という事実なのです。「あなた方は、私を何時も日常の中でもどのような方として思っているのか、信じているのか」と、主イエス様はその答えを聞きたいと思っていらっしゃる。どうお答していくか実に重大な問題なのです。愛し合っている夫婦の間で、親子の間で、親しい友人たち信頼している仲間たちの間で、もし「私のことをどう思っている?」と聞かれ、どう答えるでしょう。イエス様が問われる。「私どもが主イエス様を自分でどう信じ、どう告白しているか」教会の礼拝の中では信仰の告白をしています。しかし、いつも「あなたは、私が真実に救い主である、と今信じていますか」と言う問いの前に繰り返し何時も立たされているのではないでしょうか。
――――――――――――――――――◇――――――――――――――――――
さて、ペテロは弟子たちを代表すかのようにイエス様の問いかけに答えました。「あなたこそメシアです」当時のユダヤ人たちは皆メシアが現れるのを期待していました。ですからペテロもイエス様のことをそうだと考えて言った、ということでしょう。「イエス様こそメシアです。」と告白しています。口語訳の聖書では「キリストです」となっていました。メシアと言うのは「香油を塗られた者」という意味です。旧約聖書では王や預言者が神から任命される時、香油を塗ったところからメシアという名前が起こっていました。そして「救世主」を表すようになったのです。そのギリシャ語がキリストです。ペテロは当時のユダヤ人たちが待望していたメシアを考えていたのでしょう。あなたこそ旧約の時代から待ち望んだ「救世主」であられます。と告白したのです。ペテロはイエス様の「あなたはどう思うか」という問いの前に自分の信じているままに答えたのであります。「あなたは私にとってメシアである救い主です」私たちも主の前に、いつも旅の途中であろうと、日常生活の様々な問題であってもイエス様を呼び求め「あなたこそ私の救い主です」と主イエス様がいつでも私の内にいて下さっています、ことをしかと心に留めていたいのです。最後に大切な言葉がイエス様から言われます。30節を見ますと「するとイエスはご自分の事を誰にも話さないように、と弟子たちに戒められた。」とあります。これはちょっと考えると不思議なことと言われています。なぜイエス様はご自分の事、つまりメシアである事を誰にも話さないように戒められたのでしょうか。ペテロをはじめ弟子たちはみな心からあなたこそ神から遣わされたメシアであられます。みなあそう思っています。ですから家族を捨て自分の人生を全てイエス様に預けてついて来ているのです。私たちの心から信頼しているイエス様を「メシアであられます」と言ってもよいではないでしょうか。ところがイエス様は誰にも話さないように、と言われたのです。なぜそう言われたのか、この事は謎として学者たちが議論するところであります。信仰のない学者は、こう言います。「これは後に教会が付けた句であってメシアであることが復活された後になって判ったから付け加えたに過ぎない。イエス様が生きていらっしゃる間はそんなことは判らなかったことだ。だから秘密にされていた。この説はあまりに付け足したで、とても考えられないことでしょう。では、イエス様が戒められた意味は何なのでしょうか。ここでイエス様が「戒められた」と訳されている、この語は悪霊を戒める、とか嵐の湖を鎮める時に言われた用語と同じものであります。実はこの語が旧約聖書では神が天地を創造なさる、とか権威を持って力あることをなさる、という意味のヘブル語をギリシャ語に訳す際に用いられとぃる、というそういう背景から考えますと、例えば天地や新しい生命を創造する神の力、神の意志、或いは紅海を二つに分けられたような神の力を表す言葉として使われています。そのような神の言葉の持つ力をイエス様も持っておられる事を指すのが「戒める」という言葉なのです。<私は聖書学者ではありませんが尊敬する素晴らしい牧師、学者である先生の説教で解説しておられます。>このように「戒められた」という言葉の中にイエス様は限りない主であることが力強く示されている。ということです。
ここでイエス様が「あなた方は、私を何者だと言うのか」と尋ねられ、ペテロが「あなたはメシアです」と答えました。自分で尋ね、ご自分が聞きたいと願っておられた答えをお聞きになったのに、かえって誰にも言うなと戒めた、という事はおかしな話のように思われるかも知れません。だのに、どうして普通の話のような口調で“誰にも内緒だぞ”と言うた程度ではない、嵐の海を静まらせ,紅海の海をま二つに分けられる神の力を秘めた力強い戒めの言葉で「誰にも言うな!」。弟子たちが内心震え上がるような権威に満ちた顔をもって戒めておられるのです。当時のユダヤ人たちは長い間、歴史の中で待望していたメシア、目の前にはローマ帝国の圧政の下で苦しめられているけれども自分たちは特別な神の民である、この苦しみを開放してくださる救い主がきっと今に現れる、ペテロたちも同じような心を抱いていた、そういうメシアが主イエス様だ。今に社会が、世の中がひっくり返るような神の力をもって救ってくださるにちがいない、こういうメシア観でありました。それは人間が勝手に想像し期待している救い主メシアであるかもしれない。しかし、主イエスは違う!
全ての民が救われる、ことをイエス様は考えておられた。ですからうっかりペテロが自分の考えに従ってユダヤ流のメシア理解を宣言するというのでは困る。だから力強い神の力をもって戒められたのであります。イエス様は確かに告白を求めておられるのですが彼らの考えの中にある内容についてはイエス様は、そうかと任されるままでは決してない。正しい告白をここで与えようと思われて、しかと戒められた。人間の言い方では危ないのであります。事実ペテロはイエス様の前にどういうふうになったか31節を見ますとその事がわかります。「それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。するとペテロはイエスをわきにお連れして諫め始めた。イエスは振り返って弟子たちを見ながらペテロを叱って言われた「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。・・・・。」イエス様ご自身のま近に苦しみと死が迫って来ている運命を話されたのであります。ペテロが戒めると「サタン!引き下がれ」と激しい口調で叱られています。イエス様がどのような意味でメシアであられるのか弟子たちにその深い真実の意味は判っていない。イエス様の十字架の苦難と死に至ってはじめてはっきりされて来る。全ての人間の罪を十字架の上で流れる御血と肉の痛みで贖われてメシアとしての救い主であられる。ペテロたちが「あなたこそ、みんなが待望している救い主メシアです」と告白してもイエスご自身の十字架の死を持っての救い主というイエス様の内容の次元が全く違っているのであります。その時まで判らない、秘められた神の救いの御業であるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
マルコによる福音書7章24−37節(2024年9月8日スオミ教会礼拝説教)
「謙った砕かれた心を見て喜ばれるキリスト」
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
前回は、エルサレムからイエスのもとにやってきたファリサイ派の人々と律法学者達が、イエスの弟子達が手を洗わず食事をしていることを見て、「なぜ昔の人々の言い伝えの通りに手を洗うことを守らないのか」と質問し、それに対してイエス様が答えられた出来事を見てきました。イエス様は彼らに、旧約聖書の預言の言葉から答え、その預言の言葉が示すように、彼らは「口では神を敬うが、心は神に向いていない」と、その見た目は敬虔そうに装っても、その心は偽善に満ちていることを指摘しました。そして「人に入るものが人を汚すのではなく、人から出るものが人を汚すのである」と、神の前では人の心にある罪が汚れの原因であり、人は手を洗おうが、口で綺麗事を言おうが、どんなに立派な行いをしようが、それらで神の前に自らを清めることはできないことを教えたのでした。そこから私たちを唯一きよめ救うことができる天から来られた救い主イエス・キリストを改めて指し示されたのでした。
2、「知られたくないと思うイエス」
さて、イエス様はその出来事ののち、再び別の地へと移動します。24節からこう始まっています。
「24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。
ティルスは、ガリラヤの北、フェニキア地方の地中海沿岸の、異教徒の街です。そして、こう続いています。
「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
この時すでに、イエス様の評判は広まっており、ガリラヤ地方でも行く所、行く所で大勢の人々が群衆となって押し寄せていました。5つのパンと二匹の魚の場面でも男性だけで五千人いたことが書かれていました。しかしこのように人から見れば、それほどまでの人気があって支持されている状況であるのに、そのガリラヤから北のフェニキアの異教徒の街にまで退かれ、さらには隠れるように家に入り「誰にも知られたくないと思っておられた」とあるのは、何か疑問に思われるかもしれません。人気があるんだから、もっと支持者を増やして自分の勢力を増せばいいじゃないか、人間の党派心、あるいは多数派が勝るという価値観ではそう思うかもしれません。ですから、ある学者達は、この身を隠した行動について、イエス様は本当は救い主としての道を望んでいなかったんだという人もいるようです。しかし、4つの福音書全体、そしてパウロの書簡に照らしても、間違いなくイエス様は、十字架の道をまっすぐと見て歩んでいましたし、そしてイザヤの預言53章を見ても、その十字架の道は神の御心でありそして罪のための犠牲は神の喜びであったとも書かれていますから、そのような学者達の考えは明らかに間違いだと言えるでしょう。むしろ、そのようにイエス様が世の罪を取り除く神の子羊としてこられ、十字架と復活による救いの完成をまっすぐと見て歩んでいたのであるなら、この地に退き、「誰にも知られたくないと思っておられた」理由が見えてくるのです。それは、すでにこの時、人気が出てきて、人々の人間的な動機や目的や、その勢いだけで彼を地上の王にしようとまでする流れがあった中です。まさにそのような人間的な人気の力などで神のみ心に反して王に祭り上げられることはイエス様の望むことではないでしょう。そのためにこそ、そのような人間の間違った勢いによって導かれることから離れ、神の時を待つためにも、このように異教の地に退き、密かに隠れるような行動も必要だったと言えるのです。
3、「異邦人の女性の求め」
しかし、それでも、どうやらこの異教の地ティルスにもイエス様の噂はすでに広まっていました。人々に気づかれ、25節
「25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
A,「ひれ伏す女性」
一人の女性がイエスのことを聞きつけてやってきます。彼女は「足元にひれ伏した」とあります。最大限の心からのイエスへの敬意と謙りです。そして求めるのです。「娘から悪霊を追い出してください」と。彼女の娘は絶望的な状況であったでしょう。彼女は「娘のために」「イエス様ならおできになる」と藁にもすがるようにやってきてひれ伏したのでしょう。しかし福音記者マルコはここで、この女性は「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と説明を記しています。それは彼女が異邦人の背景があることを強調するものです。それは、先週の、言わば異邦人とは正反対にあるイスラエルの民のファリサイ派や律法学者達との出来事と対照的に描いているようでもあります。そして、この後のイエスと女性とのやりとりともその対照は関わってくるでしょう。女性がそこまでも縋り求めてくるのに対して、27節、イエス様は最初、次のように返しますが、その言葉は私たちから見れば驚くべき違和感のある応答です。
B,「子犬に」
「27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
イエス様は、異邦人である彼女に対して、まずは子供達、つまりイスラエルの民に対して与えるのが先であるといういうことを言いたいのかもしれませんが、彼女を指して「子犬」という非常に侮辱的な言葉を用いているのです。イエス様はなんと失礼で冷たく、突き放しているんだと、私たちは思わされるのです。しかし、この言葉がイエス様の成そうとすることのゴールではもちろんありません。この後に成そうとすることのためのイエス様の意図が必ずあるのです。そのような非常に大きな侮辱にも思えるような、そして突き放されているとも感じる言葉に対して彼女はいうのです。
C,「彼女の応答」
「28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
イエス様が「子犬」と言っている言葉は、ギリシャ語「クナリオン」という言葉ですが、それは野生の犬や、通りにいる野犬のことではなく、家庭のペットを指すような言い方を示すものです。彼女も、そのイエス様のそのことばを捉えて「しかし、食卓の下の小犬も」と答えています。この言葉に、彼女の「足元にひれ伏す」という行為は見せかけの格好だけのパフォーマンスではなく、本当に心からのものであることがここにわかるのです。「最初は子供達に」と言われ、「子犬」と言われても、彼女は、それに怒るのではないし、自分を「侮辱した」と求めるのを止めるのでもありません。むしろ「その通りです」と、イエス様に返しているでしょう。そして、子犬でも、その子供にあげたもののパン屑でもいただければ、それでいいという、彼女の実に謙った心の内がこの彼女の言葉にはわかります。それはまさに彼女の「イエスをどこまでも求める」信仰から出る言葉です。
D,「イエス様の言葉の意図」
イエス様の意図ははじめから、彼女の娘を突き放すつもりはなかったことでしょう。その求める思いが本物であることも心を見られるイエス様は分かっていたでしょう。だからこそ、その彼女の信仰の告白を彼女の口から引き出すためにこそ、そのような冷たい言葉で返したのではないでしょうか?そして、そのやりとりは、まさにその前の出来事である、先週のファリサイ派や律法学者達と対照的な出来事であり、また対照的な言葉であり、心であることを、イエス様は見事に描き出しています。
4、「神は人の心を見られる」
イエス様は、前回の出来事からも分かるように、表面的な地位や立場、その表向きの立派な言葉や言い回しや、行いが見た目に立派に映るとかそのような表面的なことだけを見るのでは決してありません。神は人の心を見られるというのは、旧約聖書の時から実に一貫した神様の性質です。イエス様は、ファリサイ派と律法学者達がやってきた時に、その偽善性をすぐに見抜いて、聖書から答えました。彼らは確かに律法に誰よりも詳しく、教える立場であり、律法を完全に守っていると自負する人々でした。しかし、彼らは律法だけでなく、そのように律法を捻じ曲げて解釈した伝統までも含めて、それらを守っている自分の行いを誇り、それゆえにそれを基準に人々を監視したり裁く立場にもなっていました。そのようにしてイエスのもとにやってきて、彼らは確かに口では神の律法や、それを守ってきた先祖の昔から言い伝えられてきた伝統を口にして神を敬うのですが、しかしその心には神はおらず、人間の作り上げたもので神の律法を捻じ曲げ人間の心を支配する偽善性があったのでした。見た目や表向きは立派でしたが、その心が、神を求めない、いやむしろ神であるイエスを試し裁こうとする罪深い動機で支配されているのをイエス様は見抜いていました。そしてそのような心から出るものは何も生まず、清めず、たてあげず、それは人を汚すだけのものであるとイエス様は示しました。
A,「ファリサイ派のようか?異邦人の女性のようか?」
しかし、このイスラエルの民から見れば卑しい存在である異邦人の女性の心は、彼らの心とは全く逆でしょう。イエス様はまさにこの女性とのやりとりで、周りの弟子達に、そして、現代の私たちにも、神の国のために何が大事であるのかを、はっきりと示してくれているのです。それは、ファリサイ派や律法学者達のように、選ばれた民であり、聖書もよく学び、律法もよく知り、表向きは律法もよく守る良い行いをし、地位も社会的立場もしっかりしている、尊敬もされていて、人の目には申し分ないように見えるが、神は二の次、自分が中心、心には神を求める思いがない、「自分が自分が」になっている、そんな信仰が大事で求められているのか?それとも、卑しい存在、異邦人、本当に子犬と呼ばれてもその通りですとしか言えないし認めざるを得ない現実、しかしそれでも、あくまでも「イエス様、このような卑しいものを憐れんでください。こんな罪深いものにテーブルの上からのパン屑でもいいから与らせてください」と、どこまでもイエスの前に膝まずき、ひれ伏し、イエスの力と憐れみに縋り求める信仰が大事なのか?どちらなのか?イエス様の答えははっきりしているでしょう。29節
「29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
イエス様のこの福音のメッセージは、選びの民だとか異邦人だとか、そのような線引きはもはや関係ありません。それさえ外側のことです。イエス様はこの前のところでも、「人の心」のことを教えていたでしょう。神様は人の表向きの立派さとか、何をしたとか、何を果たしたとか、そのようなことを第一に、あるいはそれだけを見るのではないのです。いやむしろ、大事なのは、その心を見られるのです。
B,「それは純粋で清い完全な心か?」
しかも、その心が純粋で清いかでもありませんね。むしろ、人は皆その心までも見られるなら誰でも汚れてた罪深い心です。どこまでも自己中心で、自分を神のようにしようとする心です。神の言葉を退け、自分の言葉こそ正しい、義である、清い、清めることができる、そう思い神を無視する心です。しかし、ここでイエス様が見られているのは、どこまでも、神の前に謙り、むしろその自分の卑しさ、罪深さを、その通りですと認め、子犬にすぎない現実を認め、それでも「イエス様、そんな私を憐んでください。癒してください。助けてください」とどこまでも縋り求める心をイエス様は見られ、賞賛されていることが分かるのではないでしょうか。ルカの福音書の18章にも、ファリサイ派と人と徴税人の祈りの例えをイエス様は語っています。そこでは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(ルカによる福音書 18:9)とその例えは始まっています。ファリサイ派は、神殿で『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 (11−12節)と祈りました。彼は、自分の完全さを誇るのですが、隣の徴税人と比べての誇りであり、しかし、神の前での自分はまるで見えていません。神の前には皆が罪人であるのに、あたかもそうでないかのように自分を誇る罪深い心があるのですが、それが見えていません。しかし、その隣の徴税人はこうでした。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 」(ルカによる福音書 18:13)。彼は自分の罪深さを悔い、神の前に認め、謙り、「神よ、罪人のわたしを憐んでください」の心です。イエス様はどちらの心を、祈りを受け入れているでしょうか。こう続いています。14節「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
神様は聖書に一貫しているでしょう。イザヤ書57章15節にこうあります。
「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。
詩篇でもダビデはこう証ししています。51篇19節
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。
5、「結び」
私たちは、この1週間、聖書を通して、その中の律法をとおして、日々、自分の罪深さを気付かされる毎日です。律法は実に私たちの心を刺し通し、神の前にあって私たちの本来の事実は、神に受け入れられない滅びゆく存在であることを教えられます。しかし、そのような罪深い私たちに神様は、「自ら自分の力で、自分の罪をきよめ、精算し、克服して、自ら自分の力で、完全に聖なるものとなりなさい。そうすればあなたを救おう、天国に受け入れよう」とは言いませんでした。神はそのような罪深い私たちの現実、滅びゆく現実、自分たちではどこまでも神に背くだけであり、自分で清めるどころか自分でますます汚していくようなそんな救いようのない存在であることを、ご存知だからこそ、あるいは、そんな存在をどうしても救って神の国に与らせたいからこそ、御子キリストを世に人として与えてくださった、送ってくださった。そして、その御子に人類の、つまり私たちの、全ての罪の責任を負わせ、罪の報いである死を、罪の罰である十字架の処罰を、その御子に負わせた。そしてその御子キリストがこの十字架で私たちが負うべき罪の代価を全て代わりに払ってくださったからこそ、神はそのキリストのゆえに、「あなたたちの罪を問わない。あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださり、平安のうちに遣わしてくださるし、神は私たちに永遠の命の道を備えてくださっているのです。その一人子を私たちのために死なせるほどに神は私たちを愛してくださっているのです。それが神が天から私たちに与えてくださっている良い知らせ、福音ではありませんか。イエス・キリストの十字架は、その福音によって平安のうちに生きるようにと私たちに与えられている素晴らしい宝ですね。そうであるのなら、私たちが日々導かれるのは、ファリサイ派のように、表向きの自分でなす行いの立派さで自分を誇り、自分自身に確信の根拠を探すことでは決してありません。このイエス・キリストの十字架と復活が私たちの宝、福音、命であるからこそ、私たちはどこまでもこのイエスの前に日々、謙り、日々悔い改め、「神よ、罪深い私を憐んでください」と祈り求めすがるのです。その砕かれた心こそ、真の神への礼拝、生贄なのです。それこそ神は私たちに求めており、喜んで受け入れてくださる。そして事実、私たちを憐んでくださり、このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちの義のゆえではなく「キリストの義のゆえに」日々、赦してくださいます。そして日々、復活の命で、私たちを日々新しくし、新しい命で生かしてくださり、世にあって私たちを用いてくださるのです。だからこそ、イエス様は今日も私たちに宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を今日も受け、新しくされて、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
マルコによる福音書7章1−8節、14−15節、21−23節
「人は自らをきよめられない。神が私たちを聖としてくださる」
この週から再びマルコの福音書に戻り、7章に入ります。7月の各週では6章を見てきていますが、そこでは、ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを処刑したところまでを見てきました。その後は、マルコの福音書でも「5つのパンと2匹の魚の奇跡」のことが書かれているのですが、8月はマルコの福音書からではなく、ヨハネの福音書6章からその奇跡と共に、イエス様ご自身がご自分こそ天からのいのちのパンであると告げられたことまで詳しく見てきました。そして再びその後の出来事を、マルコの福音書に戻りまして7章から見ていきます。この直前の6章の終わりのところで、イエス様と弟子達の一行は湖の向こう側のゲネサレの地を訪問されたことが書かれています。ゲネサレの人々はイエスが来たのを聞きつけて、病気の人々を次々とイエスのもとに連れてきました。イエス様のせめて服にでもさわれば治るとまで人々は信じてイエス様に求めてきました。イエス様は、そんな彼らの病を癒やされたのでした。しかしこの7章、同じようにイエス様の元に集まってくる人々がいますが、純粋にイエスの力を信じて集まってきたゲネサレの人々とは実に対照的です。1節から見ていきましょう。
「1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
集まってきたのは、ファリサイ派の人々と数人の律法学者達でした。しかもエルサレムからわざわざやってきた人々でした。彼らはなぜ、どのような目的でイエスのもとに集まってきたのでしょうか?彼らもゲネサレの人々のように、純粋に「直してほしい」「イエス様には力がある」とイエスを求めてやってきたのでしょうか?2節からこう続いています。
「2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
彼らが見たのは、イエスの弟子達の汚れた手、手を洗わないで食事をする弟子達でした。3節以下には、彼らが昔の人々からの言い伝えを固く守っていて、そのようなものが沢山ある事が説明されています。もちろん、私たちも食事をする前に手を洗ったりするのですが、それは衛生上、清潔のための習慣であり、何か昔の人々から受け継いでいる厳格な言い伝えというものではありません。彼らの、手だけでなく、杯などの器や、食べるときに寝そべる寝台までも洗うというこの言い伝えは、衛生上のことではなく、罪汚れに対するきよめが理由であり、神殿に入るときに手を清めるのと似たような理由です。それと同じように、彼らには、汚れた食物などの定めもあり、そのようなものに触れたり食べたりすることは厳格に禁じられていて、決して食べたりせず、食べたら汚れるとして、厳しく戒めてもいました。それは確かに旧約の儀式律法で手を清めるということが命じられてはいるのですが、昔の人々からの言い伝えとあるように、彼らはその律法を厳格に解釈して、神殿礼拝の時だけでなく、人々に食事の前に、自分も食器も食べる時のクッションまでも全てを清めるよう、求めてきたのでした。ですから、彼らはイエスを求めていたのではなく、律法、とは言いましても、彼らが拡大解釈し生活に当てはめた慣習、あるいは昔からの言い伝え、伝統を、イエスや弟子達が守っているか、破っていないかどうかを見るためにイエスのもとにやってきたのでした。そして、尋ねるのです。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。
彼らは自分たちはモーセの律法に、つまり彼らが信じるところの聖書の神の命令にしっかりと厳格に従ってきたし守ってきた、それに誰よりもその律法をわかっていると自負する人々でした。この食事の前の手や食器や寝台を念入りに洗うことも先祖代々受け継がれ守られてきた律法の伝統に沿ったことだと自信を持っていたことでしょう。だからこそ、彼らはこのように質問できたのでしょう。しかしイエス様はその彼らの自信にある矛盾を聖書から照らして指摘するのです。6節からですが、
「6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
7人間の戒めを教えとしておしえ、
むなしくわたしをあがめている。』
8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
イエス様は、旧約の預言書のイザヤ書29章13節の言葉を引用します。そしてその預言はファリサイ派や律法学者達あなた方のような偽善者のことを指しているというのです。彼らは確かに社会の周りの人々から見た限りでは、律法をよく知り、教えていました。自分達でもよく守り、守るように教え、時には人々を戒めてもいたでしょう。社会では立派な行いで模範となるような人々であり尊敬もされていたでしょう。もちろん聖書の律法を正しく理解し、正しく行うことは神の御心であり大事なことなのです。しかし、彼らは確かに口では神や律法を口にはし敬っていたとしても、ここで彼らが弟子達を見て問いただし要求してる内容は、律法の正しい理解でも正しい解釈でも正しい行いでもありませんでした。福音記者のマルコ自身も3、4節でわざわざ説明を記しているように、神殿礼拝で行われる儀式律法を人間的に拡大解釈して当てはめたものであり、マルコも神の律法とは呼ばないように、「昔から受け継いで固く守っている言い伝え」に過ぎないと書いたのでした。いわゆる伝統の類のものでした。
もちろん伝統が全て悪いわけでなく、このキリスト教会に当てはめれば、きちんと聖書に教えられていることに従っており、聖書を歪めたり、聖書の教えを軽んじたりするものではなく、そのように伝統が聖書に従うものであり、教会の徳のために良いものである限りは、伝統は大事にしていくのは全然良いことです。しかし、それが逆になってしまい、まさに昔から受け継いで固く守っている伝統が、聖書よりも優位に立って、聖書を伝統に従わせてしまうなら、それは、イザヤの預言のごとくです。口ではいくら神の名を崇め、賛美をし、神を敬ったり礼拝したとしても、人間の伝統がいつでも優先されたり、判断基準になったり、教会のなかで大きな比重を占めるようになってしまえば、神も神の言葉も実はただの飾りです。その口から出るものとは裏腹に、その心は神から遠く離れてしまっています。神よりも人間の戒めが大事な教えになっており、神よりも人間に従ってしまっています。それは見た目はどれだけ敬虔に見えても、偽りの敬虔です。イエス様がいう偽善というのはそのことです。
今日の箇所ではない9節以下13節までのイエス様の言葉も彼らの教えていることの矛盾を示しています。十戒では「父と母を敬え」とはっきりと教えられているのに、彼らは、両親にさし上げるものを神殿や神への捧げ物とするなら、両親へするはずだったことはしなくても良いというような教えをしていたようです。何か、家族を犠牲にしてまで教団にいっぱい献金させるような、現代に問題になっているカルト宗教のようですが、しかしそれはカルトだけでなく、キリスト教でもカリスマ的な教会では時々聞く危険で間違った教えです。しかし多くの人がそんなカルト的な人間の教えに騙され引き込まれ、そのようなカリスマ的なキリスト教会でも、家族を犠牲にしてまで教会に献身させたり、高額を献金させたりすることがさせる方だけでなく、する方もそれが「敬虔だ」とか「祝福をもらえる」とか本当に思わされているのを聞くことは実は少なくないです。それぐらいに、人は、聖書を口にしていながらも、そのような本当は聖書は教えていない人間の作り出す最もそうでご利益的な教えに、巧妙に流されて行きやすいということは今もあるのです。そしてカルトやカリスマではなくても、キリスト教会や教団の中でも、何か聖書の一箇所だけを文脈や真の意味や解釈も考慮せずに取り上げて、それにいろいろ教会指導者や教会組織に都合のいいように拡大して作り出された人間的で律法的な教えや伝統の方が、教会やその成長や宣教のために大事にされたり強いられたり、教会内や教団内での評価判断基準とされたりするということは実はよくあることのように思います。しかもそれが聖書的に矛盾するのではと思ったり疑ったりすることも悪であるかのように思えるぐらいに教会や教団で大切にされている伝統とかも時々聞いたりもします。それぐらい巧妙に聖書を超えた人間的なものは聖書を支配し脅かしたりするのです。
当時も、まさにそのような人間の作り出した教えが社会の敬虔になっていたからこそ、彼らは自信を持ってその伝統の管理人としてわざわざエルサレムから来てイエスとその弟子達を指摘できたのでしょう。
しかし、それらはイエス様の目からはっきりしています。それらは「人から出たもの、教え、言葉」に過ぎませんでした。それは13節にある通り「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことなのです。イエス様は冷静に、彼らの間違いを、しかも聖書から正しく解釈した正しい教えをもって、彼らの質問に答えているのです。
そして、14節15節の言葉、そしてその言葉を弟子達に解説した20〜22節の言葉は、彼らが投げかけた「手を洗う」「清め」ということについてのイエス様の教えです。
「14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
〜18イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 20更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
人から出るもの、それは人間の作り出す、伝統、教え、そして行いや振る舞いや習慣もそれは神の前にあって人間を清めることは決してできません。たとえその手をどれだけ綺麗に洗い、食器までも全て洗い清めたとしても、それは神の前にきよいものとして立つことができる方法では決してあり得ません。あるいは、聖書の言葉だけだと、弱い、分かりにくい、現代の文化や流行に合わない、信じられない、だから人間の側に合うように、分かりやすいように、受け入れやすいように、聖書を人間らしく変えよう、聖書の言葉を都合よく解釈しよう、衣をつけよう、人間らしく装うとしても、それは人間的な成果や成功は実現できるかもしれませんが、神の前になんら良いものとなることはできません。どれだけ周りに賞賛され尊敬され敬虔そうに見えたとしてもです。神の前に清くなることも、功績を積むことも、神のわざに協力し貢献することも、救いや神の国を得ることも、決してできません。いやそれどころか、それは「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことと同じです。それは、人から出ているもので、人を汚しているだけでなく、神を冒涜しているだけなのです。イエス様はここで清くない食べ物の問題にまで踏み込んでいます。当時はそのようなものがありました。使徒の働きでも、イエス様はペテロに幻を見せて、清くない動物を食べるように言われたペテロは躊躇しています。その時、イエス様はペテロに、神が清めたものは清いと言いました。しかし、イエス様はすでにここで、外から人に入る食べ物は消化され外に出るだけで、決して人を汚さないと教えています。
イエス様がここで「人から出るものが人を汚す」といいます。それは何でしょうか?人の心に巣くう最も深刻で重大な病巣である罪のことを示しているのです。まさに人から出て聖書を曲解し、伝統の衣や文化的解釈の衣で、イエス様の教えを全く異なったものにしてしまうのは、人間の罪です。そのような間違った伝統や律法で、イエス様が与えてくださった信仰の自由や平安を、強制や束縛や不安に変えるのもそれは人間の罪であり人間が罪のゆえに神の言葉を捻じ曲げて作り上げる偽りの教えです。イエス様がその約束の故に私たちに与えてくださっている救いの確信を「本当に救われているのだろうか?と疑わせ不安にさせるのも、人間がそのキリストの福音を捻じ曲げて、福音と律法を混同させて教える間違った福音や間違った律法の教えです。全て「神の言葉、神の恵み、神の福音を疑う」という人間の罪から出るものであり、人から出るものは、どんなに敬虔そうで合理的であっても、数の上では成功で繁栄しているように見えても、聖書に正しく基づき従うものではないなら、それはまさしく人間を汚し、人間を滅びに導くものです。そのように決して人間のわざ、人間の言葉、人間の作り上げる伝統や新しい律法が、人を神の前にあって聖なるものとし義とし、人を救うのではないのです。
神の目にあって、人を、どんな人でも、真に清め、義と認め、聖徒としてくださり、私たちを救い、平安と救いの確信を与えることができるものは、私たちが手を洗うことでも伝統を守ることでもありません。人から出る何らかの良い行いや功績でもありません。それは、神が与えてくださる言葉、何より、イエス様が私たちの罪のために死んでくださった、そのイエス様の十字架の義のゆえに罪赦され、復活のゆえに日々新しい命を生かされるという福音の言葉であり、そしてその福音のゆえにイエス様が与える水である洗礼、それによる賜物として信仰と聖霊なのです。それだけです。今日もイエス様はその唯一の救いであるイエス・キリストの十字架と復活を私たちに指し示して、今日も宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も、イエス様の福音によっていのちを新たにされて、ここから救いの喜びと平安のうちに世に遣わされて行きましょう。
ヨハネよる福音書6章56−71節(2024年8月25日スオミ教会礼拝説教)
「信仰は律法ではなく、天から私たちへのプレゼント、福音である」
1、「初めに」
このヨハネの福音書6章を通して、イエス様が「自分こそ命のパンである」と神の国の福音を伝える箇所を続けて見ています。イエス様はご自分について来る人々に「あなた方がわたしを探すのはただパンを食べて満腹したからだ」と彼のその動機を見抜いて伝えました。しかしそのように言うのは彼らを責めるためではありませんでした。イエス様は、そのような無くなるパンを追い求めても、事実ただなくなるだけであるけれども、イエス様ご自身こそ、それに遥かに勝る、いつまでもなくならない、天からのいのちのパンを与えることができるという福音を彼らに伝えるためであったたのでした。それを聞いて人々は、では「何をしたら」それを得ることができるのかと尋ねるのですが、イエス様はそれは神ご自身が引き寄せ与える人々に、救い主が与える賜物、恵みであり、それは「いつまでもなくならない」「天から」とあるように、地上の物質的な出来事を遥かに超えた霊的な出来事であることを徐々に明らかにしていきます。しかし、あくまでも目に見えるしるしだけに求める人々はそのことを理解できません。それでもイエス様は彼らに神の国の福音を伝え続け、ついには、イエス様はご自身こそ、そのいつまでもなくならない、天から降ってきたいのちのパンそのものであり、わたしの肉を食べ、血を飲むものが永遠の命を得るのだと伝えたのでした。それが先週までのところでした。今日は先週の最後の節から始まります。56節以下こう始まっています。
2、「「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む物」とは?」
「56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは」と言います。これは驚くべき言葉を言っており、この後の記録を見ても分かる通りに、このイエス様の言葉に多くの人は躓くのです。私たちもこれは何を言っているだと疑問を持つでしょう。これには二つの「食する」ことの意味があります。それは「わたしの肉」を食べ、「わたしの血」を飲むとイエス様がご自身が言っているのですから、一つは、事実、イエス様の肉と血のことを指し、実際に口で食するという意味です。ただもう一つの意味もあります。それは「霊的に」食することをも指しています。54節で
「54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、〜」
とイエス様が「永遠のいのち」を指して言っている通り、この「食べる」は聖霊と信仰において起こることであり、それは福音の説教とそのみ言葉を聞き、思い巡らし、そして、聖餐を食するときに起こることを意味しています。ヨハネ1章のはじめを思い出すと分かる通りに、イエス様は「ことば」である方が受肉されて人となられたお方です。まさにイエス様は、神の言葉そのものでもあり、神の言葉の語られるところ、説教されるところには、イエス・キリストがおられるのであり、私たちはまさに説教を聞いている時に、聖霊と信仰において、その受肉したキリストの言葉を受けており、キリストそのものを受けているのです。それて何より、聖餐では実際に口で食する行為があり、その御言葉が「わたしのからだ」と宣言する、パンでありながら同時にイエスのからだに預かるのですから、聖餐に与る時、私たちは決して象徴としての体と血を受け取っているのでもなければ、私たちの何らかの行いが聖餐を成り立たせるとか、私たちの行いの捧げものをするとか、信仰の決意表明をする時、とも異なります。私たちは、イエス様の福音書の設定の言葉から、「これはあなたのために与えられるわたしのからだです」と宣言される時には、イエス様が「である」と言っているのですから、イエス様のその真実なみ言葉のゆえにそれはパンを食していながら同時に紛れもなくイエス様のからだを食しているのです。そして同じようにイエス様の言葉から「これはあなた方の罪の赦しのために流されるわたしの血です」とイエス様が「である」と言われているのですから、その通り、それは葡萄酒飲んでいながら同時に、イエス様の「血」を確かに飲んでいるのです。そのようにここで「イエスの肉を食べ、わたしの血を飲むものは永遠の命を得る」と教えられる時に、私たちはイエス様がその肉を引き裂かれ血を流されたその十字架の死と復活、そしてそのイエス様の体と血に口で食し与るがゆえに、罪の赦しと永遠の命を与えられていると告白できるのです。
3、「なぜイエスは、分かり難い言い方をしたのか?信仰によって明らかになる福音」
しかし、ここでイエス様はなぜはっきりとそう言わず、「わたしのからだを食べ、わたしの血を飲む」と明らかに誤解を与え、何か、実際に人の肉を食べるような言い方をするのだろうか、もっと分かりやすくいうことはできないのだろうか、と思うかもしれません。しかし、これは意地悪でも、知識のひけらかしでもなければ、神の知恵で謎解きをふっかけているのでもないのです。イエス様にあっては、今見てきたように、やがて最後の晩餐で事実になり、聖霊による教会の時代が始まるときに、日々繰り返される恵みの事実を明らかに伝えています。つまり、イエス様が語っていることは、今その時に理解されることではなく、やがて聖霊と信仰によって明らかになる神の福音でした。そして、ここではもう一つの事実をイエス様は、ずっと伝えてきたでしょう。彼らは、「どうすれば、何を行えば」と尋ね続けています。つまり、「自分が何かをする」ことによって、あるいは自分の行為によって得る「いつまでもなくならないパン」を求め続ける、あるいは得ようとする、そんな彼らに対して、37節以下でイエス様はこのようにも言っていたでしょう。
「37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
つまり、それは人の行いや努力で得ることができるものではなく、神が与えた人々に、御子が与えてくださる賜物、恵みであるとイエス様は伝えていたでしょう。そして、44節以下でも、こうありました。
「44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。
その素晴らしい真理を知り、それを受けることができるのは、父が引き寄せたものにイエス様が働かれ与える恵みであることをイエス様は伝えていました。そのように「イエス様のからだを食し、血を飲むということ」は、イエス様がその言葉と聖霊によって与える信仰において明らかにされる福音で、イエス様にあってはその時だけではない、いつまでも残る事実を伝えているのです。しかしこの時はまだ十字架の時ではなく、その前であり、教会と使徒たちによる福音の宣言が始まる前ですから、彼らにたとえ分かりやすく伝えたとしても、仮にそれは自分がかかる十字架と復活のことであると言ったとしても、彼らは理解できず、信じることもできず、やはり躓くのです。なぜなら、それは後に福音の言葉によって目が開かれ知り信じることができることななのですから。事実、私たちも、最初は、十字架と復活の言葉を自分たちで、自分の力で理解できた人はいたでしょうか?そこに至るには当然、自分の罪に刺し通され、悔い改めに導かれるからこそ、十字架の素晴らしさがわかったのですが、その罪さえも私たちは、自分が罪人であるということさえ自分では認められなかったし、悔い改めなんて馬鹿らしい、聞きたくないと最初は誰もが思ったことでしょう。誰でもそうなのです。そう人は、自分の力で、信じようとしても決して信じられません。パウロが言うように、十字架の言葉は、しるしに求めるものには躓きとなり、知恵に求めるものには愚かに聞こえるのです。しかし、今まさに私たちに、このイエス様の言葉の意味、イエス様を食し、その血を飲むことの素晴らしさを知り、信仰があるのは、まさに「与えられている」からでしょう。父子聖霊なる神が、その律法と福音の言葉によって、引き寄せ、導き、与えてくださったからではありませんか。それが福音の真理、福音の力です。ですから、私たちは、ここでその恵みを感謝するとともに、今、目の前の数字や現実を見れば、宣教が不可能で困難だと思えるような現代の状況あったとしても、それを見て嘆くのでも、何か強迫観念にかられ律法的になり互いに裁き合うのでもなく、希望を失うのでもなく、どこまでもイエス・キリストとその言葉、福音を見上げ、イエス様の言葉には不可能なことは何もない、イエス様がその言葉で私たちに信仰という私たちの思いを遥かに超えたことを行なってくださったように、同じように、世のまだイエス様のこの素晴らしさを知らない人々にも同じように行うことができる、行なってくださいと、私たちはそのことを信じ祈り求めて行きたいと教えられるのです。
4、「ゆえに、弟子達も躓く」
さて、それゆえに、当然のことが起こるのです。60節以下です。
「60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
「弟子たち」というのは、12使徒たちと区別しなければなりません。12使徒たち以外にも、多くの弟子たちが着いてきたのでした。しかしその弟子たちの多くのものは、この「イエスのからだを食べ、イエスの血を飲む」という言葉と教えに「聞いていられない」と躓くのです。弟子としてこれまでイエス様の言葉を聞いてきた人々でさえもこの真理を理解できません。人の肉を食事するものとしか理解できませんでした。イエス様はそこで
「62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
と続けます。まさにイエス様の教えていることも与えようとしていることも天からの出来事でした。そしてイエス様の十字架と復活の出来事、そこから始まる教会の宣教も、イエス様が天に上られるところをともに見ることから始まります。イエス様はそのことを指して言っているのかどうかははっきりは書かれていませんが、人の肉を食することで躓く弟子たちにイエス様はさらに解き明かすのです。63節以下
「63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
イエス様は、単なる目にみえる肉の出来事を伝えているのではなく、まさにこれは「天からのパン」「天から来られた救い主」と語り、そして、信仰こそ神が求めておられ、それこそ神が与えるものですから、この言葉によってイエス様は、命のパンは、み言葉とそこに働く聖霊、そして信仰による賜物であることを伝え、それが真のいつまでも消えることのない永遠のいのちをもたらすものであることを伝えるのです。しかし、イエス様はそれでもわかっていました。64節
「64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
どんなに伝えても信じない人がいることをイエス様は知っていました。それが誰であるのか、そして、71節にある通り、この後起こる、使徒たちの中の一人が裏切ることさえも知っていました。しかし、ここにも、やはり繰り返し、私たちの信仰の真理、この福音の真理がはっきりと繰り返されています。65節
「65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
5、「信仰は私たちのわざの結果、律法ではないー信仰は福音」
「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」ーイエス様の下に来ること、まさにそれは永遠のいのちの歩みであり、信仰の歩みのことです。しかし、それは「父が引き寄せるのでなければ」、ここでは「父からお許しがなければ」とあるでしょう。そこには、救いも信仰も永遠の命も、まさに命のパンに与ることは、人間の知性や理性や行いの度合いや努力による産物では決してあり得ない、それはどこまでも神の働きであり、神が引き寄せイエス様に与えてくださった羊を牧者であるイエス様が決して見捨てず、みことばを語り続け、働き、導いて下り、羊はその声に聞いてただ着いてゆくがゆえの恵みであることをイエス様も教えているのです。このように、信仰は人の行いではなく、賜物であるとエフェソ書でパウロが言うのも、あれはパウロの作り話や誇張した表現ではなく、まさにイエス様の教えに根拠がある、聖書的な真理であることがわかるでしょう。信仰は決して、私たちの行いや意志の力や理性的な理解によるものではない。私たちの信じる信仰は、神が引き寄せてくださったから、神がイエス様にあって語ってくださったから、律法と福音の言葉を通して聖霊が私たちに働いてくださったから、今私たちにあるのです。どこまでも賜物、贈り物、プレゼントなのです。感謝なことではありませんか。
6、「去っていく弟子達。使徒達の信仰告白は天から」
ところが66節
「66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
やはり多くの弟子たちは、イエスの福音に躓き、離れて行きました。 12人の使徒たちに尋ねます。67節
「67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
この後、イスカリオテのユダの裏切りの預言で結ばれますが、このシモンペテロの告白は、マタイ16章の有名な告白を連想させます。マタイ16章15-17節
「15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
ペテロの「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う信仰の告白。その告白についてイエス様は、人間によるものではなく、それを明らかにしたのは「わたしの天の父だ」と教えています。それなのに、このヨハネ6章のペテロの告白「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 と言う告白はそれとは違う、人間による、ペテロ自身から出たものだ、とは誰も言えないでしょう。もしそうであれば聖書にもイエス様の教えにも一貫性がなく矛盾があります。しかし聖書にもイエス様にも矛盾は全くありません。聖書は初めから終わりまで一貫して真理を伝えています。信仰の告白は、決して人間によるものではなく、どこまでもイエス様の父なる神からのものであると言うことです。その神から与えられた信仰の上に、イエス様は「わたしの教会を建てる」ともペテロに伝えたでしょう。
7、「朽ちない種から生まれた私たち」
そのペテロがこう教会に教えています。
「23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 24こう言われているからです「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。25しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」ペテロ第一1章23−25節
私たちのクリスチャンとしての土台、それはイエス・キリストであり、そのイエス・キリストという土台こそ、朽ちて消えゆく野の花のようではなく、食べては消化されなくなる地上のパンでもマナでもなく、永遠にいつまでも残る、土台であり、拠り所です。決して消えることも裏切ることも見捨てることもなく、いつまでも残る平安と救いの拠り所です。それは御子イエス様が十字架と復活で成就してくださった罪の赦しと永遠のいのちのパンを、絶えず、毎週、悔い改める私たちに与えてくださり、私たちが、イエス様を御霊と信仰により、事実、そのイエス様のからだと血を、受肉されたイエス様のいのちの言葉を、食することができるからこそです。その信仰を与えてくださったのも、神様であり、イエス様であり、聖霊様に他なりません。信仰は賜物、贈り物、プレゼントです。今日もイエス様は私たちにそのみ言葉で変わることなく宣言し与えてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひそのいつまでも残るみ言葉による罪の赦しと安心をここで今日も受け取り、安心してここから世に喜びと愛を持って仕えるために遣わされて行きましょう。