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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん
1.
今日から受難週が始まります。今日はイエス様がエルサレムに入城したことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。今年はコロナウイルスの感染リスクのため教会での礼拝や集会を控えなければならなくなってしまいました。だからと言って、イエス様の受難と復活を心に留めて日々を歩むことに何も変更はありません。
受難週の最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様がこれから受難を受けることになるエルサレムに入城する際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとヘブライ語のホーシーアーンナーהןשיעה נאという言葉があって、その意味は神に「救って下さい」とお願いするものでした。そのホーシーアンナ―がアラム語のホーシャーナーになりました。アラム語というのは当時、今のイスラエルの地域で話されていた言葉です。
ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説しておきます。旧約聖書の大部分の書物はヘブライ語で書かれています。ヘブライ語はもともとはユダヤ民族の言語でしたが、紀元前6世紀のバビロン捕囚の出来事があって異国での捕虜生活の間にアラム語化が進み、イスラエルの地に帰還した時はアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝で聖書はヘブライ語のものが朗読されましたが、それをアラム語で解説していました。これが、イエス様を迎えた群衆がヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーを叫んだ背景です。この出来事は最初アラム語で言い伝えられて記録されて、後にマタイ福音書がギリシャ語で書かれました。その時、群衆の歓呼の声ホーシャーナーはアラム語の音声をそのままギリシャ文字に置き換えて、ホーサンナωσανναになりました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。
実は新約聖書の中には、同じようにもともとアラム語で話されたことをギリシャ語に翻訳しないで、音声のまま残しているものが他にもあります。例をあげると、 「タリタ クム(娘よ、起きなさい)」(マルコ5章41節、アラム語「トゥリーター クーミー」、ギリシャ語「タリタ クーム」、 「エッファタ(開け!)」(マルコ7章34節、アラム語「イッファタ」、ギリシャ語「エッファタ」)、 「ラボニ(私の主/私の先生)」(ヨハネ20章16節、「ヘブライ語」とありますが正しくはアラム語です、アラム語「ラッボーニー」、ギリシャ語「ラッブーニ」)、 「マラナ ター(主よ、来て下さい!)」(第一コリント16章22節、アラム語「マーラナーター」、ギリシャ語「ギリシャ語「マラナター」、 そしてあの有名な 「エロイ、エロイ、レマ サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのか?)」(マルコ15章34節、アラム語「エラーヒー、エラーヒー、ルマー シェバクタニー」、ギリシャ語「エローイ、エローイ、レマ サバクタニ」)。
これらの言葉は日本語の聖書ではカタカナで書かれていて人によっては何かおまじないか呪文の言葉に見えてしまうかもしれませんが、そうではありません。これらは皆アラム語で語られた言葉で、直に聞いた人たちによほど強い印象を与えたのでしょう。それで音声はそのままにして括弧書きで訳を添えるようにしたのです。そういうわけで私たちは聖書を繙く時、まさに時空を超えて、これらの言葉を発した人たちの肉声に触れることが出来るのです。
脇に道に逸れてしまったので本題に戻ります。「ホサナ」はもともとは神に救いをお願いする言葉でした。同時にそれは古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われていました。ということは、群衆はろばに乗ったイエス様をユダヤ民族の王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。これは奇妙な光景です。この出来事は一体何なのでしょうか?
ルカ福音書にある同じ出来事の記述を見ると、イエス様は、まだ誰も乗ったことがないろばを連れてくるように命じました(ルカ19章31節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。つまり、神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様はろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのです。周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人ろばに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
2.
このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書のゼカリヤ書の預言の成就を意味しました。その9章9~10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のような預言がありました。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
さらにゼカリア書14章やイザヤ書2章をみると、世界の国々の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知って神を崇拝するようになって聖なる都に上ってくるという預言があります。こうした預言を見ると、偉大な王が到来して、その下でユダヤ民族の国家が復興して、支配民族を打ち破って全世界に大号令をかけるというような理解が生まれます。そのような理解を持っていた人たちは、ろばにまたがってエルサレムに入城するイエス様を目にして、いよいよダビデの王国の復興の時が来たとの期待を膨らませたことでしょう。
ところが、事態は群衆の期待とは全く違う展開を遂げました。エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導者たちと激しく衝突します。エルサレムの神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦しました。さらに指導者たちを憤慨させたのは、イエス様が自分のことをダニエル書に預言されている「人の子」という救世主であることを公言したり、また自分を神の子と見なしていることでした。また彼が群衆の支持と歓呼の声を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、イスラエルを占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまいます。占領者に取り入ってせっかく一応の安逸を得ているのに下手をしたらローマ帝国の軍事介入を招きかねない。そのような危機感が指導層にあったことはヨハネ11章に記されています。王として出迎えたのに、あれは何者かと聞かれて、「預言者です」と答えが返ってきたのは、この微妙な状況を反映していると言えます。いずれにしても、指導層としてはあの男を早く始末しなければならないということになりました。それで、イエス様は劇的な展開の中で逮捕されて死刑の判決を受けます。弟子たちは逃げ去ってしまい、群衆の多くも背を向けてしまいました。この時、誰の目にもこの男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興する「メシア」はこの男ではなかったのだ、と。
しかしながら、このようなメシア理解は旧約聖書を一面的にしかとらえられていなかったことによる理解不足でした。そこで、イエス様が十字架に架けられて死んだ後になって旧約聖書が全体的に理解できるという、そんな出来事が起きたのです。イエス様の死からの復活がそれです。
3.
復活の主を目の前にした弟子たちは、旧約聖書で言われていた多くの謎めいたことが、このことだったのだ!と次々にわかるようになったのです。その中の一つに詩篇16篇10節の預言があります。使徒ペトロは後に聖霊降臨が起きた日に群衆の前で大演説をしますが、そこでこの聖句を引用しています。
「あなたはわたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」(使徒言行録2章27節、31節、このペトロの引用には旧約聖書と新約聖書の関係を考えるうえで重要なことがあります。「後注」でそのことについて解説しますので御覧下さい。)
ペトロは大説教の中で、イエス様がメシアなのはユダヤ民族の王国復興者を超えた方であることを説きます。そこでは沢山の旧約聖書の個所が引用されています。加えて新約聖書の「ヘブライ人への手紙」の著者は、詩篇2篇7節「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」がイエス様を神の子であると証しする聖句であるとしています。
そうすると次の疑問が起きます。それならば、なぜ神の子が天の御国からわざわざこの世に贈られて十字架に架けられて苦しみながら死ななければならなかったのか?その時、旧約聖書イザヤ書53章にその答えがあるとわかりました(使徒言行録8章29~35節参照)。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3-6節)
「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11-12節)
実にイエス様の十字架の死というのは、ユダヤ民族であるかないかにかかわらず、人間全ての罪の償いを神に対して果たしたという、犠牲の死だったということが明らかになったのです。旧約聖書の創世記に記されているように、人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。ところが、それにもかかわらず人間は神に対して不従順になって内部に罪が入り込んでしまうという出来事が起きてしまいました。その結果、人間と造り主である神との結びつきが失われて、人間は死ぬ存在になってしまいました。それを神は悲しみ、なんとかして人間がこの世で生きる時は神との結びつきを持って生きられ、この世を去った後は自分のところに永遠に戻れるようにしようと考えました。しかし、人間の内に宿る罪がそれを妨げている。神はこの問題を解決するために自分のひとり子をこの世に贈られました。そして、彼に人間の罪を全部背負わせて罪の罰を全部受けさせました。これがゴルゴタの十字架で起こったことでした。そこで罪の償いは全部済んだと言える位に罰がイエス様に下し尽くされたのです。
人間はこの身代わりの犠牲を信じて洗礼を受けると、この身代わりの犠牲に免じて罪を赦された者になります。神のひとり子の犠牲の上に新しい命が始まるという神秘を知った人間は、それからは神の前にひれ伏す心を持って隣人にはへりくだって謙虚に生き始めます。神に対してだけでなく隣人に対してもへりくだるのは、イエス様が神のひとり子でありながら私たちの救いのために十字架の死に自分を引き渡すくらいにへりくだったからです。それを知った時、誰に対しても高ぶることは出来なくなります。
イエス様は、十字架の死に加えて死から復活されました。これにより死を超えた永遠の命の扉が開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、復活の日の永遠の命に至る道に置かれて、その道を日々、神に見守られて進んでいきます。これが神との結びつきを持って生きることです。
4.
創造主の神はこのようにひとり子を用いて人間の救いを実現しました。それが、今から約2000年前の現在のイスラエルの地で起きるという形をとったわけですが、ここで、そのような起き方は何を意味するのかということについて考えてみましょう。
神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。それはちょうどユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この書物のそもそもの趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験がありますから、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また無数の奇跡の業を行って、今の世が終わった後に出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教指導者層たちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったために、神のひとり子が全ての人間の罪を背負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ることができて、旧約聖書の謎が解けたのでした。
歴史の流れというのは、無数の人間同士の無数の関わり合いやぶつかり合いから生まれて進んでいきます。一見すると、そこには神が全てを手中に収めて全てを取り仕切って方向付けているようには見えません。全ては、愚かで限りある人間のなせる業の膨大な集積に見えます。しかし、神がどのようにして救いを実現したかを思い返すと、一方では、いろんな行為主体が自分の利害や観点に立って自由に行動したり発言したりするのに任せています。しかし、他方では、そうした行為主体の行動や発言があるおかげで、神の救いがイエス様の十字架という形をとって実現しました。神の計画について何も知らない行為主体たちは、自分たちはただ自分の利害や観点に基づいて自由に行動し発言していると思っていました。しかし、全てのことは実は、神の救いが実現していく舞台設定のようになっていくのです。そうなると、やはり神は全てを手中に収めて全てを見事に取り仕切っているとしか言いようがありません。神の計り知れない御計らいの前では、人間の自由とはなんとちっぽけなものでしょうか。神の計り知れない知恵の前で、人間の知恵はなんと取るにならないものでしょうか。
今コロナウイルスの感染拡大のために、まさに人間の自由や知恵の限界を思い知らされる状況があります。キリスト信仰者というのは、もともとそういう「思い知らされ」を持っています。それなので、今もし生活や健康に激変が生じても、イエス様を介して打ち立てられた神との結びつきは相も変わらず同じだ、何の変更もないとわかっています。非常時にあっても、神との結びつきを持って復活の日の御国入りに向かって進んでいることに何の変更もないとわかっています。これがキリスト信仰です。やがてウイルス感染が終息して、人間は何事もなかったかのようにまた自由を謳歌し知恵を誇ることになるでしょう。その時も浮かれず神の前にひれ伏しているのがキリスト信仰です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)
このペトロが引用した詩篇16篇10節は、ヘブライ語のテキストと少し違います。
כי לא-תעזב נפשי לשאול לא-תתן חסידך לראות שחת
この訳は「あなたは私の魂を陰府に打ち捨てず、あなたに忠実な者が墓を見ないようにして下さる」になります。新共同訳もこれと同じです。
そうすると、イエス様は墓に葬られたので、この聖句は彼の復活を言い当てたとは言えなくなってしまいます。ペトロはこの聖句を「あなたはわたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」であると言います(使徒言行録2章27節)。この訳なら、イエス様の復活を言い当てたと言えます。しかし、ヘブライ語の文章の「墓を見ないようにして下さる」を「聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」と言うのは離れすぎています。ペトロはイエス様の復活が預言の実現であると言いたいためにこじつけの訳をしたということなのでしょうか?
実はそうではないのです。まず、ヘブライ語のשחתは「墓」の他に、「死者の安置場所」ということで「陰府」の意味もあります。つまり、שאולの繰り返しを別の単語で言っていることになります。「墓を見ないようにして下さる」は「陰府を見ないようにして下さる」になります。そうは言っても、使徒信条で言われるようにイエス様は「陰府に下」ったのだから、やはりこの聖句は当てはまらないと言われるかもしれません。
しかし、話はここで終わりません。詩篇16篇10節の後半部分は前半部分と同じ内容のことを別の言葉で言い換えているのだと考えると、後半部分の「陰府を見ないようにして下さる」は実は前半部分の「陰府に打ち捨てず」と同じ意味内容のことを言っていることになります。
どうして、後半部分が前半部分と同じ意味内容を別の言葉で言い換えているなどと言えるのか?それは、旧約聖書のギリシャ語訳を見ればわかります。旧約聖書のギリシャ語訳は「70人訳」とも「セプトゥアギンタ」とも呼ばれますが、紀元前200年代くらいに出ました。ちょうどギリシャ文明のアレクサンダー帝国が地中海東岸地方を席巻してギリシャ語が地域の公用語になった時です。ギリシャ語版の旧約聖書の需要が高まったのです。
詩篇16篇10節のギリシャ語訳は、
ὅτι οὐκ ἐνκαταλείψεις τὴν ψυχήν μου εἰς ᾅδην, οὐδὲ δώσεις τὸν ὅσιόν σου ἰδεῖν διαφθοράν.
「あなたは私の魂を陰府に打ち捨てず、あなたの聖なる者が朽ち果てに遭遇しないようにして下さる。」
どうでしょう。ギリシャ語に訳した人たちは、ヘブライ語の後半部分「陰府を見ないようにして下さる」を文字通りに受け取らず、前半部分「陰府に打ち捨てず」と同じ内容を別の言葉で言い換えていると考えたことが、この訳からわかります(注意、上記のギリシャ語訳はネットのBible Hubから拾いました。オックスフォード版でもゲッテインゲン版でもないのですが、詩篇16篇10節に関しては問題ないと思います。)
使徒言行録のペトロの大説教に戻りますと、ペトロが引用した詩篇16篇10節は上記のギリシャ語訳旧約聖書と同じです(2章27節)。ただし、ペトロは大説教の時に何語で話していたのか、ギリシャ語だったのか、アラム語だったか?いろんな国から来た人たちを前に話したからギリシャ語だった可能性が高いです。さらにペトロは31節で聖句の引用ではなく、聖句を自分の言葉で言い表します。
οτι ουτε εγκατελειφθη εις αδην ουτε η σαρξ αυτου ειδεν διαφθοραν
「なぜなら彼(イエス・キリスト)は陰府に打ち捨てられず、彼の体は朽ち果てに遭遇しなかったからだ。」
ペトロが旧約聖書のギリシャ語訳に依拠していたことは明らかです。そしてギリシャ語訳は前述したようにヘブライ語の文章の意味を照準を絞った訳です。それなので、ペトロは預言が実現したと言いたいためにこじつけの訳をしたのではなく、旧約聖書の伝統の上に立って起きた出来事や目撃した出来事を判断したのです。
旧約聖書で書かれたことが照準を絞って理解され、それがユダヤ教社会の中で伝統化されて新約聖書に反映されるというのは無数にあります。有名な例はイザヤ書7章14節のインマヌエル預言です。男の子を身ごもるのは「処女」か「若い女性」か、アルマ―という単語は両方の意味があります。それがギリシャ語訳の時に「処女」パルテノスと絞られました。
旧約聖書も新約聖書も本当に途轍もない書物だと思います。それを説教で解き明かしをするというのは大変なことです。それでも、いつも信仰を確かめるような発見があり祝福があります
主日礼拝説教 2020年3月29日(四旬節第五主日)
礼拝説教を動画でもご覧頂けます。 説教動画 パート1 説教動画 パート2
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はヨハネ11章のイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡を行ったことについてです。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあり、例えば、シナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大抵は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないのではないかと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神ということになります。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」というものがあるからです。
復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの日に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったものである、それが神に再び新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途轍もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。
ここで注意しなければならないのは、イエス様が生き返らせた人たちは本当の意味での「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることです。イエス様が行った生き返らせの奇跡は、みんなまだ肉体がそのままなので「復活の体」ではありません。「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われてました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、みんな生き返らせてもらったけれども、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。
ここで一つ脱線します。本日の個所で「4日経っている」とか「2日滞在された」と時間の経過が言われています。それが、本日の個所で難しい9節と10節の説きあかしに関係すると思いました。イエス様はどんな時間配分を考えて動かれたのか?まず、イエス様がおられた所とマリアとマルタがいた所はどれくらい離れていたか考えます。イエス様がおられてところはガリラヤ地方と考えられますが、どの町かわかりません。同地方でイエス様は本拠地にしていたカペルナウムとします。マリアとマルタがいたベタニアはエルサレムの近くとありますので、カペルナウムからエルサレムまでの距離をみてみます。グーグルマップで163キロと出ました。電車で3時間4分、車で2時間8分だそうです。徒歩だと35時間。イエス様は9節で、日中に歩くことが大事であることを言います。それが12時間分あるとも言います。そうすると、ガリラヤ地方からユダヤ地方まで歩いて3日かかったことになります。ラザロが死んで葬られてから4日経ったときに到着したので、イエス様は埋葬の翌日に出発したことになります。そうすると、ラザロの病気の知らせを聞いたのはその2日前となり、マリアとマルタの使いがベタニアを出発したのはその3日前となります。
大体、以上のような時間的地理的な状況が浮かび上がります。9節と10節でイエス様が日中歩くことを言って、埋葬後4日を超えないように出発を決めたということがわかります。9節と10節を見ると、そういう具体的な事柄に関してだけでなく、「この世の光」とか「人の内の光」という別次元の事柄も含まれています。イエス様はよく、具体的な事象に結びつけて霊的、信仰的なことを教えました。たとえの教えです。9節と10節もたとえの教えであることがわかります。そこで言われている霊的、信仰的な教えは何かということは、また別の機会に譲ることとします。
イエス様のこのラザロの生き返らせの奇跡についてわかりにくいことがあります。イエス様がこの奇跡を行ったそもそもの動機は何かよく見えてこないのではないでしょうか?4節で、ラザロの病気は死で終わらない、神の栄光が現れるため、イエス様が神の子としての栄光を現わすため、などと言います。15節では、「私は、ラザロが死んだとき彼のところにいなかったことを喜ぶ。そうしたのはお前たちのためだったのだ。つまりお前たちが信じるようになるためにそうしたのだ」と。42節でも、周りにいる人たちがイエス様のことを神に遣わされた者と信じるため、などと言います。他方で、イエス様はラザロが重病で死にそうだとの知らせを聞いた時、すぐ助けに行きませんでした。イエス様は無数の難病を癒す奇跡を行った方です。ラザロの病気も治せたでしょう。それなのに2日間もどこかで油を売って、まるで死ぬのを待っていたみたいです。人々がイエス様のことを神の子と信じられるようにするために、ラザロにちょっと死んでもらったということなのでしょうか?そんなのありかと思われるかもしれません。逆に、どうせ生き返らせてもらったんだから、よかったんじゃないかと言う人もいるかもしれません。イエス様はなんのためにこの奇跡をこのようなやり方で行ったのか?本説教では少し検証してみようと思います。
ここではイエス様とマルタの対話がカギになると思われます。そこには驚くべきことがいろいろ言われているからです。そこで、対話の内容を注意深くみてみます。
イエス様がやって来たと聞いてマルタはマリアを家に残して会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。
それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?生き返らせの奇跡をするためにイエス様はわざと到着を遅らせてやって来たのです。果たして、「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言いました(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」で今すぐ再会できるのと比べると実感が沸きません。
そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。
「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、真の復活や永遠の命は私のところにあって他のところにはない、それゆえ真の復活や永遠の命を与えることが出来るのは私しかいないという意味です。
それではイエス様は誰に真の復活と永遠の命を与えるのでしょうか?次にその答えが来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる者は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりを失わず、復活の日に永遠の命そのものを手にすることが出来ます。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのはどういうことでしょうか?イエス様の何を信じることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そういうことが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。
イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにして聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?
これに対するマルタの答えは驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず第一にマルタはイエス様がメシアであることを復活や永遠の命と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の軛から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。そのため、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと言わんばかりに背をむけてしまったのでした。しかし、メシアの本当の意味は特定の民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もされるようになっていました。そうした理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に埋もれがちでした。そのような中でも、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。
もう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることをマルタが「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここの動詞は現在完了形πεπιστευκαなので、「過去の時点から今日の今までずっと信じてきました」
という意味です。今イエス様と対話しているうちにわかって初めて信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとっても大事なことです。どういうことかと言うと、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会するということはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持つ者でも悲しくつらいものです。これは何かの間違えで、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の縁遠い話にしか聞こえません。
しかしながら、復活には、死が持つ引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとするものがあって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているということを見据えます。その神の意思に反しようとするものが罪ということになります。人間なら誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるようにする、そのためには結びつきを持てなくさせようとする罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼が人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けることで罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれました。その意味でもイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったということは、これからはイエス様の犠牲に免じて神から罪の赦しを頂くことになります。頂いた罪の赦しに人生を方向づけられて歩んでいくことになります。その時、目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵にしかすぎません。この世で罪の償いと赦しから離れずにしっかりとどまっていれば神との結びつきは保たれます。この結びつきを持って生きていけば、死は私たちの復活到達を妨害できません。
マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消滅しないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失い鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてはイエス様を救い主と信じる信仰にしっかり留まるこだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
イエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎいこと、そして彼に復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせたので、それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎず、復活の日が来たら、タリタ クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
以上、ラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、イエス様は復活であり永遠の命であることを示したのでした。
最後に、イエス様はこの目的のためにラザロを死なせて姉妹に悲しい思いをさせたことを何とも思わなかったのか?もちろん、これをすることで私たちが死を超えた強い希望を持てるようになったとわかるし、ラザロも生き返らせてもらったので文句なしと思われるかもしれません。でも、イエス様という方は目的遂行のためなら誰かを泣かせてもいいという方なのか?本日の個所をよく見ると、そういうことではなさそうです。
マルタとの対話が終わるとイエス様は今度はマリアを呼んできなさいと言います(28節)。マリアがやってきました。大勢の人たちも一緒にきました。イエス様の周りをマリアを中心に多くの人が取り巻いています。みんな泣いています。これに対してイエス様はどう反応されたでしょうか?新共同訳では「心に憤りを覚えて」とありますが、何を怒ってしまったのでしょうか?実は、ギリシャ語の原文ではこの部分は「心が動揺した」とか「心が揺り動かされた」とか「気が動転した」とか「感動した」などとも訳せるところです。実際、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書もそのような訳をしています。どこもイエス様が怒ってしまったとは訳していません。私もそっちの方がいいと思います。どうして「憤りを覚えた」などと訳したのか?おそらく、イエス様はこの時、人々が復活も彼の力も信じないことに呆れかえってしまったのだと受け取ったのかもしれません。でも、人々が悲しみに打ちひしがれて泣いている様子を見て、イエス様も泣いてしまうのです(35節)。これは、信じてくれないことに対する悔し涙なんかではないでしょう。本当に人々の悲しみを間近にして、心が動揺して共感して泣いたのです。ヘブライ4章15節の聖句と照らし合わせて見ても、そのように受け取るのがピッタリだと思います。
「この大祭司(イエス様のこと)はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」
私たちに死を超えた復活と永遠の命を与えることが出来る途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事ですが、実は多くのことを私たちに教えています。それがわかるようにこの個所を注意深く見ていきましょう。
イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰なのか、という質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰の観点では、人間は母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいます。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれてきたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けないで済んだことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく別の者、例えば親が犯した罪がそれなのか?
この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何か?本日の個所を読めば、ああ、それはイエス様がその人の目が見えるようにする奇跡の業を行ったことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?本日の個所は実は、そうではないことを教えています。本日のテキストのギリシャ語の原文を見ると「神の業」は複数形(τα εργα)です。なので、癒しの他にも「神の業」がいろいろあることを示唆しています。人間誰でも、病気や障害が治ることに関心が集中してしまい、それが「神の業」に値するものと思ってしまうでしょう。しかし、男の人にとって神の業とは、目が見えるようになるという癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。それを本日の説教で明らかにしていこうと思います。
イエス様はどのようにして癒しの奇跡を行ったでしょうか?まず、地面に唾を吐いて土を混ぜて粘土状にしたものを男の人の目に塗りつけました。ちょっと汚い感じがしますが、イエス様は今度は、それを池で洗いなさいと命じます。男の人が言うとおりにすると、目が見えるようになりました。イエス様は既に無数の癒しの奇跡を行っています。そんな彼なら一声、「目よ、開け!」と言えば開いたはずです。なぜそんなまわりくどいやり方をしたのでしょうか?それは、その日はちょうど安息日で、ユダヤ教の戒律では仕事をすることが禁じられていた日でした。癒しを行うために粘土状のものを作ってそれを洗わせたことが仕事をしたことになって安息日を破ったことになるのかどうか、そういう議論が宗教エリートのファリサイ派の人たちの間で起こりました。これでイエス様はなぜ粘土状のものを作ったかがわかります。議論を引き起こすことで、この出来事を単に癒しの奇跡の出来事にとどめないで、もっと大きなことを引き出すためだったのです。その大きなことが神の現わす業だったのです。それを本説教で明らかにしていきます。
男の人が見えるようになったことは、周囲にセンセーションを沸き起こしました。どのようにして見えるようになったのかと聞かれて、イエスという名の男が粘土状のものを作って目に塗って、それを洗うように言った、それでその通りにしたら見えるようになったと説明しました。これを聞いた人たちは、これの出来事をどう考えたらいいのか、神の良い意志が働いたのか、それとも安息日を破ったことになるのか、宗教エリートの判断を仰ごうと男の人をファリサイ派のもとに連れて行きました。そこでも男の人はどのようにして目が見えるようになったのかと聞かれて、群衆に答えたのと同じことを話しました。
ファリサイ派の間で意見が分かれました。彼らの中には、イエスが罪びとならば神の力が働くはずはなく、こんな奇跡を起こせないはずだ、とイエス様が神から送られた方であることを信じられるという感じになった人もいました。しかし、大勢は、安息日を破った以上は神から送られたなどはありえない、という否定的な意見が支配的になったようです。イエス様のことをなんとしてでも神と何の関係もない、安息日を破った罪びとの烙印を押したい。しかし、目の見えない人の目を見えるようにするという奇跡を行ったのは、どう説明できるのか?神の力が働かないでそんなことは起こるはずがない。そこで、彼らにとって大事なポイントになったのは、そんな奇跡は本当はなかったのだ、あの男は見えるようになったと主張しているが実は見えなかったということはなかったのだ、それを確認すればよいということになりました。それで両親が呼び出されました。
「あの男はお前たちの息子で本当に生まれつき目が見えなかったのか?」「はい、その通りです。あれは私たちの息子で生まれつき目が見えませんでした。」ファリサイ派はがっくりきたでしょう。そうなれば次のことを聞くしかありません。「それならば、どのようにして目が見えるようになったのか?」両親はイエス様が奇跡の業を行ったことは知っていました。しかし、それを言ったら、宗教エリートたちは自分たちをシナゴーグつまりユダヤ教の会堂から追放してしまいます。そうならないために両親は、誰の力で見えるようになったか全然知らない、とウソをつきました。その点については息子に直接聞いて下さい、成人年齢に達しているので彼の発言は有効です、私たちが彼に代わって申し上げる筋のものではありません。両親はこのように自己保身に努め、息子のために弁護の証言をすることを拒否しました。
さて、ファリサイ派はなんとしてでも、イエス様が神の意思に反する罪びとであり、神由来の者なんかではない、ということを確定しなければなりません。そこでもう一度男の人を呼び出して尋問します。彼の両親は思ったことでしょう、息子よ、いい加減なことを言ってしまいなさい、そうすれば共同体から追い出されないで済むんだから、と。しかし、息子は両親とは異なる道を行きました。ファリサイ派が彼に聞きます。「神に栄光を帰せよ、我々はあの男が罪びとだとわかっている。」「罪びと」というのは、イエス様が神から送られた者ではありえないということです。「神に栄光を帰せよ」と言うのは、我々の見解に従え、それが神を名を汚さないことであり神に栄光を帰することだ、ということです。神を引き合いに出してそんなことを言うのは、もう脅迫です。それに対して男の人はどう応じたでしょうか?ここからが大事です。注意して見ていきましょう。
ファリサイ派はイエス様をなんとしてでも罪びとに仕立て上げたい。彼らに対して男の人は次のように応じました。自分はイエスが罪びとかどうか知らない。ただ、確実に知っていることがある、それは以前目が見えなかったのが今見えるようになったということだ。「イエスが罪びとかどうか知らない」というのは、イエス様を弁護していないみたいで頼りない答えに聞こえます。しかし、これは、男の人が癒されたのはイエス様を信じて癒されたのではなかったことによります。どういうことかと言うと、多くの人たちの場合は、まずイエス様が奇跡を起こせる方と信じて彼のもとに出かけて行ったり連れて行ってもらったりして癒してもらいました。みな癒しの後でイエス様を賛美したでしょう。ところが、この男の人の場合は、見も知らぬ男から湿った土を目に塗られて洗いに行けと言われて洗ったら見えるようになったのでした。一体この方は何者なのだ?最初頭に浮かんだのは「預言者」でした(17節)。しかし、それ以上のことはこの段階ではわかりません。この段階でわかっているのは、以前は目が見えなかったが今は見えるようになったという否定できない事実だけでした。ところが、イエス様についてわからなかったことがこの後で次第にわかるようになっていきます。どのようにしてそうなったのかを見てみましょう。
目が見えるようになったのはイエス様が行った奇跡のおかげだとファリサイ派は言われてしまいました。そうなるとまた同じ質問を繰り返す他ありません。「その男はお前に何をしたのだ?どのようにしてお前の目を開けたのか?」それに対して男の人は呆れかえってしまいました。真実を語っているのにそれを受け入れようとせず何か別のものに仕立てようとしていることを見て取りました。男の人は言い返します。「それについて私は最初の尋問の時にもうお話ししたではありませんか。なのに私の言ったことはあなたたちの左の耳から右に耳に素通りしてしまったようです。」男の人のテンションが少し上がります。「聞き入れなかったのに、なぜまた同じことを聞くのですか?あの方がどんな方法で目を開けられたのか、そんなに知りたがっているというのは、まさかあなたがたも彼の弟子になりたいんじゃないんですか?(後注1)。これには当然、ファリサイ派は激怒します。「お前がそいつの弟子だ!我々はモーセの弟子だ!」「神はモーセ律法を通して教えているのだ(後注2)。その律法を破るあの男は神と何の関係もない。我々の知らないところから来たのだ。」
ここでファリサイ派は自分たちの旧約聖書の理解には不足があることを暴露してしまいました。というのは、旧約聖書のイザヤ書を繙くと、神の僕と呼ばれる者が人間の目を開ける業を行うという預言があります(42章7節)。それに照らせば、目を開ける業は神のお墨付きの業であり、それを行うのは神由来の者であるのは明白です。それをファリサイ派は否定するのです。これに男の人が驚いてしまったことは次の言葉から見て取れます。「私の目を開けたというのに、その方が何に由来するのかわからないなどとは驚きです(ヨハネ9章30節)。」男の人はシナゴーグの共同体の一員だったので、その礼拝に出ていれば、イザヤ書の預言は聞いて知っていたはずです。見えない目を開ける業を行う者は神由来であるということが旧約聖書の預言から明らかである以上、イエス様のことをそうではないと言い張って、それを認めさせようとするファリサイ派にもうついていけません。激しい応酬の後で彼は見事、共同体から追放されてしまいます。最初、男の人はイエス様が罪びとかどうか知らないと言っていたのですが、ファリサイ派とのやり取りのおかげで、イエス様が神由来の方であるという理解に近づくことができました。
その後でイエス様が近づいてきました。男の人は今は目が見えているのでイエス様を目の前にしています。声は覚えていたでしょうから、男の人は心臓をどきどきさせていたでしょう。どんなやり取りがなされたでしょうか?イエス様は、男の人の目を開けてやったということには一切触れずに、少し唐突な質問をします。「お前は『人の子』を信じるか?」「人の子」とは、ダニエル書に出てくる、終末の時にこの世に現れる救世主を指します。唐突な質問でしたが、男の人は素直に聞き入れて自分の思いを述べます。「人の子」を信じられるためにはそれが具体的に誰なのか知りたい、と。イエス様は自分がそれであると証しします。男の人は目の前におられる方が自分の目を開けた方だと知っています。そして、旧約聖書には神が遣わす僕が人の目を開けるという預言があります。男の人はイエス様自身の証しを受け入れました。それを受け入れられたのは、もちろん目を開くという預言が自分自身に起きたことがあります。しかしもう一つ忘れてはならないのは、ファリサイ派とのやり取りを通して、事実を曲げず真実を守ろうとする心が強められたことです。
男の人の信仰告白の後で、イエス様は周りにいる人たちに聞こえる声で驚くべきことを言います。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが見えなかったのであれば罪はなかったのだが、お前たちは「見える」と言うので、罪がお前たちに留まっていることになるのだ、と。これはどういうことでしょうか?
この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それがわからないといけません。少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。ユダ王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたたため、神は預言者イザヤに罰を委ねます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、ということでした(イザヤ6章9~10節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚の器官を不調にするということではありません。そうではなくて、神のことが見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目、耳が塞がれてしまい、神が遠い存在になってしまうことを意味しました。
この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きました。「主よいつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(6章11節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々が連れ去られ、残った者も大木のように倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(11~13節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない耳が聞こえない状態になるのだ、と。逆に言えば、その切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生となります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?
まず、紀元前700年代にユダ王国の兄弟国イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残ったユダ王国はすんでのところで帝国の攻撃を退けますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、バビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の覇者となったペルシャ帝国の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書を見ると、祖国帰還を果たす民に対して神が遣わす僕がその目を開き耳を開くという預言が出るのです(イザヤ書42章7節、50章4~5節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。
ところが、イスラエルの民は帰還した後も他民族が支配するという状況が続きました。国内を見渡しても、神の意思に従った生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそうした状況があったことを表わしています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(63章17節)」祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。イザヤ書の真ん中へんでは、民の目と耳が開かれる預言が祖国帰還の実現と結びつけられて言われているように見えたのが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。そんな時、イエス様が登場しました。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!旧約聖書を繙いていた人たちは、目や耳を開ける預言はもちろん霊的な目と耳のことだとわかっていたでしょうが、ここまで具体的にやられて自分たちもそれを見てしまったら、これはもう受け入れるしかありません。イエス様の目や耳を開ける奇跡は後に起こる霊的な目と耳を開けることの前触れ的な業だったのです。
それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしました。イエス様は、人間が神の意思に反する罪を人間に代わって背負って、それをゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けられて死なれました。それは、人間が罪の重荷を背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。一度死なれたイエス様は今度は神の力で復活させられました。これにより死を超えた永遠の命があることが示されました。そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを得られて神の子とされます。そして、神との結びつきを持てて復活を目指してこの世を生きることになります。万が一この世から死ぬことになっても、復活の時に今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠にいることができるようになります。この世でその人は、十字架に架けられたイエス様と、彼が葬られた墓が空っぽになっていたことが肉眼ではない、別の目で見えているのです。その人は、聖書を繙く時、神が語りかけているのが別の耳に響くのです。このように霊的な目と耳はイエス様の十字架と復活によって開かれたのです。
そこでファリサイ派の問題点は何かと言うと、霊的な目を持っていないのにそれがあると思っていることでした。そうなると、イエス様によって目を開けてもらう必要がなくなってしまい、それでは罪の赦しも得られなくなってしまいます。逆に霊的な目を持っていないと認めることが出来れば、すぐイエス様に開けてもらう道が開けます。霊的な目を開けてもらえれば、罪の赦しの中で人生を歩めるようになります。ないのにそれを持っていると思っていることが問題だったのです。このことをイエス様とファリサイ派のやり取りは言っています。
以上、生まれつき目の見えない男の人の癒しの出来事には本当に大事なポイントがいろいろあります。以下まとめとして三つのものをあげてみます。
まず、人が何か病気や障害を背負って生まれてきても、キリスト信仰はそれを何かの罰とかたたりとか見なさず、神の業が現れるためのものにしてしまうということ。その業とは癒しの奇跡の場合もあるが、それが唯一のものではない。イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで霊的な目と耳を持つこともある。それは癒しの奇跡に比べたらあまり意味がないことに見えるかもしれないが、実は復活の日に朽ちない体と永遠の命を与えられるという、まさに癒しの癒しに与れるのである。
次に、イエス様をまだ救い主と信じていない時でも、男の人の肉眼が開かれるような信じられないことが起きる。その後で男の人は出来事の意味をファリサイ派とのやり取りを通して深めていきました。そもそも神は私たち人間の造り主なのですから、全ての人間を導いて下さろうとしているのです。そのことに気づけるようにすることが大事です。
三つ目、男の人が事実を曲げずに真実を守る態度を貫いたことが何を意味するか?ヨハネ12章を見ると、最高法院の議員たちの中にもイエス様を信じる者が多かったが、ファリサイ派を恐れて信仰を公けに言い表さなかったとあります。どうしてかと言うと、神が与える名誉よりも人間が与える名誉の方を大事にしたからだ、と。キリスト信仰の観点では、神が与える名誉の方が価値あるので、事実を曲げたり真実を汚したりしてまで人間的な名誉や利害にしがみつく必要がなくなります。そもそも十戒の第8の掟は「偽証するな」です。加えて、キリスト信仰は罪の自覚を持つ信仰です。自分の不都合なことも神の前で包み隠さず認めることが基本なので、事実を曲げても無駄だとわかります。本日の旧約の日課でも言われているように、人間は外見を見るが神は心を見るのです(サムエル上16章7節)。事実や真実の下に自分を位置づけていると言っても過言ではありません。男の人は共同体を追放されてしまいましたが、事実を曲げて真実を汚す共同体なんかに留まっても不健康で救いがありません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(後注1)新共同訳では27節は「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」ですが、このμηで始まる否定疑問文は否定の答えを導く疑問文です。「なりたくなかない!」という答えを期待する疑問文ですので、それで「まさかあなたがたも彼の弟子になりたいんじゃないんですか?」
がよいと思います。
(後注2)29節のΜωυσει λελαληκεν ο θεοςは直訳すれば「神がモーセに語られた」ですが、動詞は現在完了なので、神は過去の時点から現在までモーセに語っていることになります。現在も語っている状態があります。でも、モーセはこの世にいないのでそれは少し変です。これは、1)今モーセは復活の日を待たずにして天のみ神のもとにいて、そこで神が彼に語っているという、モーセが天にいることを言い表しているのか、それとも、2)「モーセ」というのは「モーセ律法」のことで、神が律法に語っている、つまり律法は神の声を今も反映しているということが考えられます。本説教では2)にしました。
主日礼拝説教 2020年3月15日 四旬節第三主日
本日の福音書の日課は「サマリアの女」の話です。福音書の中でよく知られた話の一つではないかと思います。イエス様とこの女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、その水は飲んだ人の内で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われています。永遠に喉が渇くことはない、とか、人の内に泉が出来てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何がたとえられているのでしょうか?たとえの意味ははっきりわからなくとも、聞く人にとって何か心を奪う、美しい描写ではないかと思います。
本日の福音書の日課の後半にもたとえがあります。刈り入れ人と種まき人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて、麦畑が黄金色なのを見なさい、と言われます。弟子たちは刈り入れをする人で、別の者が労苦した結果を刈り入れて、その労苦を分かち合うなどと言います。もし、このたとえを家ではなく、外の、まさに黄金色の麦畑の前で聞かされたら、別の者の労苦が具体的に何を意味するかわからなくても、なるほど、その通りだと言う気持ちになるのではないでしょうか?
これらのたとえは具体的な何かを指しています。それを「生きた水」とか「別の者の労苦」というものにたとえて言っているのですが、その具体的なものとは一体何でしょう?美しい描写にうっとりして、それではそれは何を指していますか、などと聞かれると、はた、と困ってしまいます。聞いた時は、わかったような気がするのですが、いざ自分の言葉で説明しようとすると、わかったようなことがどこかにいってしまう。真にもどかしいことです。たとえにはそういうことがよくあります。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」が何を指すかみてみましょう。それがわかって、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなるのではないかと思います。
まず、本日の福音書の箇所の中で起きた出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行は、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる部分でした。それが、イエス様の時代から700年以上前の昔、東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連れて行かれ、逆にサマリア地方には東から異民族が強制移住させられて来ました。それで、同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいました。そこの住民は旧約聖書の一部は用いていましたが、本日の福音書の箇所でも言われているように、エルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族は自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負していました。それでサマリア人を見下して、交流を避けていたのです。本日の箇所のサマリア人の女性の発言からも、そのことがよく伺えます。
イエス様一行は、サマリア地方のシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統に基づき(創世記48章22節、ヨシュア記24章32節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と信じていました。
さて、イエス様の弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、イエス様は井戸のそばで座って待っていました。そこへサマリア人の女性が水を汲みに井戸までやって来ました。時刻は正午ごろでした。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのように、女性がやってきました。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は、なぜサマリア人と交流を避けるユダヤ人が自分に水を求めるのか、と驚きます。そこから二人の対話が始まります。そのやりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来る者であると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水のように考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、お前には5人の夫が入れ代わり立ち代わりいた。そして今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解だ、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。
そこで、女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。女性は町の人々にイエス様のことを知らせに走り去っていきました。もう人目を避ける境遇にあることなど忘れてしまいました。それほど驚き、人々に知らせないではいられなかったのです。ただし、女性がメシアという言葉を、本当にイエス様が理解していた意味で理解していたかは定かでありません。というのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きる前は、ユダヤ人の間でさえメシアという言葉はいろんな意味が込められていたからです。その辺の事情は本説教では深入りしません。(ただ、本日の箇所の最後のところで、町の人々が二日間イエス様の教えを集中的に聞いた後、彼のことを「この世の救い主」(42節)と信じたと言うのは注目に値します。)
女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに、食べ物を買ってきた弟子たちが戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の意思を行い、その業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに話を続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。
ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」と言ったことに注意します。そこのところのイエス様の言葉はこうでした。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)」。これは少し変ですね。というのは、刈り入れまで4カ月あるのに、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?
実は、イエス様が目を上げて見よと言っているのは、まだ茎も伸びていない畑ではなかったのです。イエス様は何かを黄金色の畑にたとえているのです。それは何か?イエス様は、目を上げて見なさい、と言います。そこで井戸があるところよりも高い所にあるシカルの町の方を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るではありませんか!サマリア人の女性が、預言者なのかメシアなのか、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たということです。これは、将来起こるべきことを先取りしているのです。何かと言うと、使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出るということです。最初は目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる。後には目撃者の証言が記載された聖書を通して信じるようになる。どちらの場合でも、イエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ豊かな実にたとえられているのです。
イエス様は、自分にとって食べ物とは神の意思を行い、神の御業を成し遂げることだと言われます。これは、神のひとり子である自分が十字架の死をもって人間の罪を神に償い、さらに死から復活させられることで死も死をもたらす罪も滅ぼして、人間を罪の支配下から贖いだすことを指しています。自分にとってその使命を果たすことは、人間にとって食べ物が大事なのと同じように大事なことだと言うのです。
それから、刈り入れ人と種まき人について話すところで、「別の者たちの労苦」と言われます。「別の者たち」と複数形になっています。これは、み子イエス様と父なる神が人間の罪の償いと罪の支配からの贖いを成し遂げたことを指しています。父とみ子の労苦です。それについて弟子たちは、自分たちが見聞きしたことを迫害にも屈せず命がけで証言し、記録に残し伝えました。そのおかげで、多くの人たちが父とみ子の労苦の結晶である「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るようになりました。受け取った人は豊かに実る実となりました。
それでは、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと言うと、水が動植物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので「生きている」という意味になり、文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語・スウェーデン語のものですが(後注1)、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ここで、ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」という言葉を使う時、たいてい特別な意味が込められていることに注意します。それは、「生きる」とか「命」は今の世にあるものだけでなく、今の次に来る世の「生きる」や「命」もあって、今のものが次に来るものに繋がっているという「命」であり「生きる」です。それで、「生きている水」というのは、飲む人に今の世の命を超えた次の世の命に与らせる水ということで、文字通り「永遠の命を与える水」ということになります。
この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉となって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。泉とは、地下水が地表に沁み出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まって池になったりしますが、それは泉とは言えません。掘らないで自然のままで地下水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、水は溢れ出るしかなく小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を頂くと、そのような水が絶えず湧き出る泉が人の内に生じて、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。何か命の理念を感じさせます。でも、これは具体的にはどういうことでしょうか? イエス様の与える水が飲んだ人の内にこんこん湧き出る泉になって、そこから溢れ出る水が死を超えた永遠の命へと導いていく。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?
この問いの答えのカギがヨハネ7章37~39節にあります。イエス様が仮庵祭りの時にエルサレムにて群衆に向かって述べた言葉です。
「『渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。
ここで言われている”霊”とは神の霊、聖霊のことです。イエス様は私たち人間の罪を神に対して償うために十字架にかけられて死なれ、三日後に死から復活されて死を超える永遠の命があることを示されました。それが神の栄光を受けるということです。その後でイエス様が天の父のもとに上げられるという出来事があり、それ続いて聖霊がこの世に降るという聖霊降臨の出来事が起こります。イエス様が「渇いている人は私のところに来て飲みなさい」と言うのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると聖霊が注がれることを意味したのです。聖霊が注がれた人は、その内に「生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。サマリアの女性に言ったことと同じことを言っています。イエス様が与える水とは、十字架と復活の出来事の後この世に下って来る聖霊を意味するのです。
それでは、聖霊を注がれると人の内に泉が沸き出て、溢れ出た水が尽きることなく永遠の命に向かって流れていくというのはどういうことでしょうか?
人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれることで神との結びつきを持って生きるようになります。ところが、この世にいる間はまだ肉を纏った状態が続きます。それで、キリスト信仰者の内に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。信仰者の中に内的な戦いが始まります。使徒パウロも認めているように、「むさぼってはならない」と十戒の中では命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐむさぼってしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまうことが起こります。心の奥底まで、神の意思に完全に沿えることが出来ない自分に気づかされます。それではどうしたらよいのか?どうせ、沿えないのなら、神の意思なんか捨てて生きることだなどと言ってしまったら、神のひとり子の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底まで完全に沿えるようしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。
ここで大事なことは、まさにこの自分の真実を曝け出されてがっくりした瞬間、心の目をすかさずゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様に向けることです。まさにここで、洗礼の時に注がれた聖霊の出番が来ます。聖霊が私たちの心の目を向けるべきところに向けさせてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、神はお前の罪を赦して下さったのだ。そのことをお前は信じてわが子イエスはお前の救い主になったのではなかったのか?
こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の大いなる憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思に沿うようにしなければと心を新たにします。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そうとします。このように信仰者は、聖霊のおかげで、神との結びつきを絶えず持つことができ、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得られてこの世を歩みます。万が一この世を去ることになっても、復活の日に永遠に神のもとに戻ることができるのです。
本日の使徒書の日課ローマ5章を見ると、パウロは、イエス様を救い主と信じる信仰によって人は神の目に義なる者とされ、その人は神との間に平和があると言います(1節)。人間は、イエス様の十字架の業がなされる以前は実に神との間に一種の戦争状態にあったのです。神との平和な関係は、神からお恵みとして与えられました。なぜなら、神はひとり子を本当に無償の贈りものとして私たちに与えて下さったからです。パウロは言います、私たちは神のお恵みの中で立つことができるのであり、それを誇りとしている、と(2節、後注2)。神との平和な関係をお恵みとして頂いていれば、私たちに降りかかる試練さえも誇りに思うことができるとさえ言います(3節)。どうしてそんなことが言えるのかというと、神との平和な関係に一度入った以上は、試練は忍耐をもたらすことになり、忍耐は動揺しない自分をもたらすことになり、動揺しないことは希望をもたらすことになるからだ、と言います(3~4節)。このように神との平和な関係に入ってしまうと、試練が希望に転化されてしまうのです。(新共同訳で「練達」と訳してある言葉δοχιμηは私の辞書では「思いが鍛えられたこと、揺るがないこと、自信」などとあります。)
ここでパウロが言う希望とは、復活の日に神の栄光に与れるという希望です(2節)。人間が持てる希望の中で究極の希望です。パウロは、この希望は裏切られることがない、必ず成就する希望であると言います(5節)。なぜなら、「洗礼の時に注がれた聖霊が私たちの心に神の愛を注いでくれるからだ」と言います(5節)。この御言葉は真理です。先ほども申しましたように、私たちが罪の自覚のために神が遠ざかってしまったと感じる時、聖霊は私たちの心の目をイエス様の十字架に向けさせ、神は遠ざかってなどいない、神のあなたに対する愛はかわらずしっかりあると示してくれます。神が遠ざかったと感じるのは罪の自覚の時だけではありません。私たちが直面する試練、苦難や困難の時にもそうなります。神は私を見捨てたとか私に背を向けたとか思ってしまいます。しかし、聖霊は同じように神の愛が何も変わっていないことを示してくれて、パウロが言うように、試練を希望に転化してくれるのです。
兄弟姉妹の皆さん、神と平和な関係にあり、聖霊を注がれた私たちキリスト信仰者は、このように試練があればあるほど究極の希望が強まっていくという循環の中にいるということをもっと自覚しましょう。人によっては、強められる希望が復活の栄光に与れる希望だなんて、そんなのはこの世離れしていてこの世の試練の解決に何の役にも立たない、などと言う人がいるかもしれません。しかし、希望がこの世に関するものだけだなんて、そんな希望はいつかは潰えてしまう儚いものです。復活の希望はこの世離れしているからこそ潰えません。まさに究極の希望です。そのような希望を持てて、それが強められるからこそ、この世の試練を乗り越えられるのです。
試練よ、来るなら来てみろ、
私は、主イエスを救い主と信じる信仰により、神から義なる者とされて神との間に平和を得ている。
だから、お前が来ても、復活の希望を強めることにしかならないのだ。
(後注1)Heikel, I. & Friedrichsen, A. “Grekisk-svensk ordbok till Nya testamentet och de apostoliska fäderna”
(後注2、ギリシャ語分かる人にです)ローマ5章2節の「誇る」ものは何か?復活の日に神の栄光に与れる希望を誇るのか?以前は私もそう取っていましたが、今回は「このお恵み」την χαριν ταυτηνを「誇る」ものと取りました。というのは、5章1~11節だけ見ても、パウロは動詞「誇る」の目的語に付ける前置詞をενにする傾向があるからです(3節、11節)。それでは、επ’ ελπιδι της δοξης του θεουはどうするかと言うと、「誇る」際の付帯状況と取ったらどうかと。
大体、以下のような感じになります。
δι΄ ου και την προσαγωγην εσχηκαμεν τη πιστει εις την χαριν ταυτην
イエス・キリストを通して我々は信仰によりこのお恵み(=イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされたこと)に入る地位をも得ている
εν η εστηκαμεν και καχωμεθα επ΄ελπιδι της δοξης του θεου.
このお恵みの中に我々は立っているのであり、それを誇りにしている、復活の日に神の栄光に与れるという希望にあって
ου μονον δε,
誇りにしているのはこのお恵みだけではない、
αλλα και καυχωμεθα εν ταις θλιψεσιν,
我々は試練をも誇りにするのである。
主日礼拝説教2020年3月8日 四旬節第二主日
本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答の一部です。ニコデモについて、私たちの用いている新共同訳聖書では「ユダヤ人たちの議員」と訳されていますが、間違いなく当時のユダヤ民族の最高意思決定機関である最高法院のメンバーだったのでしょう。つまり、身分の高い人です。そのニコデモが属していたファリサイ派とは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。他にサドカイ派と呼ばれる神殿祭司を中心とするグループが別にありますが、ファリサイ派はむしろ熱心な信徒のグループでした。彼らは旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に守ることを唱え、自らそれを実践していました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。
イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派の人たちもつきまとうようになります。一体、あの男は群衆に何を吹き込もうとしているのか?彼が律法や預言に依拠しているのは明らかなのだが、でも何かが違う。一体あいつの教えは何なんだ、という具合でした。イエス様に言わせれば、神の前での清さ、神聖さというのは外面的な行いのレベルに留まるものではない。内面的な心の有り様も含めた全人的な清さ、神聖さでなければなりませんでした。つまり、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても、心の中で他人を憎んだり見下したりしたら、もう破ったことになる(マタイ5章22節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟も、実際に不倫をしなくても、心の中で思っただけで破ったことになるとイエス様は教えたのです(同5章28節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせていたのです。
全人的に神の掟を守っているかどうかが基準になると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在になるのは不可能です。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このようなやり方で神の前の清さ神聖さは保証されるのだろうか、そもそもそういうやり方で創造主の神の目に適う者になれるのだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。本日の箇所に登場するニコデモは、まさにそのような自省するファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様と向き合うと、たいてい批判や非難を浴びせかけるだけでしたので、夜こっそり一人で出かけるというのは意味深です。案の定、ニコデモはイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。
この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50ー52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、アリマタヤのヨセフと一緒にローマ帝国総督のピラトの許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節)。
さて、本日の箇所にあるイエス様とニコデモの対話で重要なテーマは、「新たに生まれる」ということです。「新たに生まれる」というのは、どういうことでしょうか?「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。例えば、貧乏な人が、今度生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことに不満な人が生まれ変わったら有名になりたいとか、そういうことを言うことがあると思います。また、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃんかおばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現する言葉と言うことができます。しかし、時として、自分は前の世には別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを述べる人もいます。ただ、輪廻転生の考えを持ったら、生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなってしまいます。
聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。ルターの教えによれば、この世から死んだ後は、「復活の日」が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わりを告げて天と地が新しく創造される時に来る日です。運よくその日に朽ちない復活の体と永遠の命を与えられることになったら、それも吉村博明です。
それでは、本日の福音書の箇所でイエス様が教える「新たに生まれる」とは、「生まれ変わり」ではないとすると、どういうことなのでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないと言うことです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。しかし、イエス様も「イスラエルの教師」と呼んだニコデモ(10節)です。ファリサイ派とは言え、旧約聖書もしっかり勉強しているので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われた時、年とった自分が母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。
ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」は、母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。それでは、どんな誕生だったのでしょうか?次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて、そこで神からの霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのであるが、それは単なる肉の塊である。その肉の塊は、創世記2章6節やエゼキエル書37章9~10節で言われるように、神から霊を吹き込まれてから生きものとして動き始める。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神自身の特別な霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊が注がれることで霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。
ところで、旧約聖書が書かれているヘブライ語と新約聖書が書かれているギリシャ語では、「霊」と「風」を意味する単語は同じです。それぞれ、ルーァハרוח、プネウマπνευμαと言います。肉の塊が神から霊を吹き込まれて「肉から生まれたもの」になります。さらに、その肉的な生きものが神自身の特別な霊、つまり聖霊を注がれて「新しく生まれ」ます。聖霊にしろ、そうでない霊にしろ、どちらにしても風のように吹き込まれるということがルーァハ、プネウマという言葉からわかります(後注1)。
それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるるかもしれませんが、そうではありません。ここで言っている「霊」は、先ほどから言っている神の霊、聖霊のことです。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、それが風の動きのように起こるだとか、そのようなことは、どのようにして起こり得るのか?彼の問い方には、途方に暮れた様子がうかがえます(後注2)。
これに対してイエス様は最初、厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が教えてもお前たちは信じないのに、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は、相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があると思います。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。イエス様が核心部分に入ります。
「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。」(13節)」つまり自分がそれをするのである、と。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。ここでイエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。」(14節)」これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、これは何のことでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神聖な神の意思に反するという性向を最初の人間の時から持ってしまっている。そのために人間は神との結びつきがない状態でこの世を生きなければならなくなってしまった。しかし、この状態を正すために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせた。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出した。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受けると、この償いと赦しの状況に入ることになる。それからは、神との結びつきを持ってこの世を生きることになる。
さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させて、死を超える永遠の命と復活の体があるということを示された。それで、神との結びつきを持って生きる者は、その永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して歩むことになる。まさにイエス様が言われたこと、すなわち、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。
ところで、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのため聖霊が、神さまの御心はこうなんですよ、と聖書の御言葉を指して示してくれているのに、それに反することを考えてしまったり、果ては行ってしまうことすらあります。もっとひどい場合には御言葉を曲解したりぼやかしたりしてしまうこともします。このように、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。
この内的な戦いは、苦しい戦いです。使徒パウロも認めているように、「むさぼってはならない」と十戒の中では命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐむさぼってしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。心の奥底まで、神の意思に完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ、沿えないのなら、神の意思なんか捨てて生きることだなどと言ってしまったら、神のひとり子の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底まで完全に沿えるようしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。
ここで大事なことは、まさにこの自分の真実を曝け出されてがっくりした瞬間、心の目をすかさずゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様に向けるのです。聖霊が目をそこに向けさせてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげと、お前があの方を真の救い主と信じた信仰のゆえに、神はお前の罪を赦して下さったのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はそのひとり子を犠牲に供することで、至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。あの夜、イエス様がニコデモに言っていたではないか。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)
こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思に沿うようにしなければと心を新たにします。このように信仰者は、聖霊のおかげで、神との結びつきを絶えず持てて、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを与えられて、万が一、この世から死ぬことになっても、復活の日に永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。
ところで、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「新たに」という言葉ですが、ギリシャ語のアノーテンανωθενは「新たに」の他に「天から」という意味もあります。「天から生まれる」というのは、まさに天の御国を出身地とする者になるということです。聖霊を注がれた者は天国が出身地になり、天国に帰るように導かれるのです。
このように心の目をイエス様の十字架に向けることができた時、私たちの洗礼の時に植えつけられた新しい人は一段と重みを増して、肉に結びつく古い人を押し潰していきます。ルターの言葉を借りれば、信仰者というものはこのようにして古い人を日々死に引き渡し、かわりに日々新しい人が育てられていくのに任せるのです。
以上からもわかるように、洗礼を通して聖霊を注がれた人は、聖霊がその人の内に働くようになっていて、聖書を繙く時、御言葉を聞く時、それを心でかみしめる時に本当に風のようにその人の内面を駆け巡っているのです。私たちは、外見上はそう見えなくても、本当に霊的な存在なのです。
(後注1)エゼキエル書37章9~10節で言われる「霊」は肉の塊を生きものにします。14節を見ると今度は、神が「私の霊」と言う霊が出て来きます。神の霊です。神はその霊をバビロン捕囚で絶望状態に陥っているイスラエルの民に注ぐ、そうすると民は捕囚から解放されて祖国に帰還できる民になって、神を知る民になる、と言われます。そうした絶望状態にある民が復興を遂げる民に変わることが、死骸が生身の人間に変身することとパラレルに言われています。前者では「神の霊」、後者ではそうではない「霊」がカギになっています。新共同訳では14節の霊が原語通りの「私の霊」と特定する訳になっておらず、単なる「霊」なので、復興を遂げる民が「霊的な存在」のプロトタイプになっていることが見えなくなってしまっています。
あと、ローマ8章15~16節を見ると、キリスト信仰者が受けた霊と、もとからある「わたしたちの霊」が出てきます。前者は聖霊、後者は生きものにする霊と考えられます。
(後注2)ニコデモの問いは新共同訳では「どうして、そんなことがありえましょうか」という、そんなことはありえないということを意味する修辞疑問に聞こえます。また、「どうして」などと聞くと、「なぜ」と理由を聞く疑問文にも聞こえます。ギリシャ語原文はどちらでもありません。πως δυναται ταυτα γενεσθαι; は素直に「どのようにして、そんなこと(=水と霊から新しく生まれること、それが風の動きのように起こること)が起こることが可能でしょうか?」と訳して全然問題ありません。むしろ、その方が後に続くイエス様の十字架の教えがまさに「どのようにして起こるか」の答えになっていることがわかるのではないでしょうか?
主日礼拝説教 2020年3月1日 四旬節第一主日 聖書日課 マタイ4章1-11節、創世記2章15-17節、3章1-7節、ローマ5章12-19節
歴史上、人類が危機の状況に陥った時はいつだったかと聞かれたら、世界規模の戦争や疫病などが思い浮かぶと思います。今次の新型コロナウイルスも各国への感染拡大を見ると、それが世界経済に及ぼす影響などもあわせ考えると、世界全体に関わる危機だと感じさせます。
しかしながら、全ての人類が地球上の隅々まで本当に非常事態の瀬戸際に立たされたことがあったということが聖書からわかります。それはいつのことか?正確に年月日を特定するのは難しいですが、それでも西暦20年代の後半、出来事の場所は今のイスラエルの地のエルサレムの町からそう遠くない、ヨルダン川から死海にかけての荒野でした。それは、ローマ帝国の皇帝がティベリウスだった時代で、帝国から派遣された総督ピラトがユダヤ地域を統治していた頃でした。そこで何が起きたかと言うと、本日の福音書の個所にある、イエス様がユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けたということです。それがどうして地球上の人類全てに関わる非常事態だったのか?それについて見ていきましょう。
マタイ福音書の記述によると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態にいた後で悪魔から三つの誘惑を受けます。最初の二つは、「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、「お前が神の子なら、このエルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?
イエス様は神のひとり子だから本当に空腹や恐怖を感じるのか?そう思われるかもしれませんが、人間のマリアから生まれたことで人間の心と体を持っています。だから、人間と同じ空腹や恐怖も感じることができたのです。
それで感じてしまった空腹や恐怖から逃れるために、すぐに神の子の力を発揮して石をパンに変えたり天使に来てもらったりすることは出来たはずです。しかし、もしそうしていれば、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをしたということになってしまいます。これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従ったことになってしまいます。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまいます。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ?それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でないんだ、という具合に、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれで空腹と恐怖の中に留まることになろうとも。
三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々の豪華絢爛を見せて、もし俺にひれ伏したら、これらを全部お前にやろうというものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことが、先の二つに増して、人類の運命にとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様はこの荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かっていました。まさにその時、神から聖霊を受けて、これは神の子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10~11節)。それで、もし、その神のひとり子が悪魔にひれ伏してしまったら、神の子が受けている聖霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と聖霊が悪魔よりも下になってしまったら、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔の上に立つ者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。
人類は実に際どいところにいました。もしイエス様が必要物を得るために悪魔の指示通りに動いたり、欲望を満たすために悪魔にひれ伏していたら、神自体が悪魔の下の立場に置かれることになっていたのです。神が悪魔の下に置かれるということは、この世も当然、悪魔の下に置かれることになります。そうならなかったので、神は依然として悪魔の上に立つ方です。この世についてみると、現実には悪魔に振り回されることが一杯あるけれども、それでも悪魔の上に立つ方がちゃんとついていて下さっているのです。だから、この世には救いがないとか希望がないと言うのは当たっていません。ないと言ったら悪魔の思うつぼです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、創造主の神が私たちの側についておられ、私たちも神の側に立つ限り、希望が失われることはないということを信じて参りましょう。
さて、イエス様が誘惑を撃退したおかげで、神は全ての上に立つ地位を保つことができました。本当に良かったです。しかし、これでめでたし、めでたしで終わったわけではありません。神は自分の地位が安泰だったからそれで満足して終わりにはしませんでした。実はここからが始まりなのです。何が始まるのか?神が悪魔の上に立つ方である以上は、神が造られたこの世も悪魔の上に立つはずなのに、現実はこの世は悪魔に振り回されている。しかし、もしこの世が神に結びついていれば悪魔の上に立てるのだ。私たち人間も悪魔の上に立てるようにと神は動きだしたのです。どのように動き出したのでしょうか?
それがわかるために、まず、この世はどのようにして悪魔に振り回されるようになってしまったのか?それについてみてみます。本日の使徒書の日課ローマ5章でそのことについて端的に言われています。神に造られた最初の人間を通してこの世に罪が入り込み、罪を通してこの世に死も入り込んだと言うのです。罪と死が一体となって最初の人間を通してこの世に入り込んで、それが全ての人間に及ぶようになってしまったのです。どうしてそんなことが起こったのか?そのことが、本日の旧約の日課、創世記3章によく記されています。
神に造られた最初の人間は、エデンの園で耕してそれをよく守るためにそこに配置されました。そこで取れる実はどれも食べて良いが、ただ善と悪がわかるようになる木というのがあって、その実は食べてはいけない、それを食べたら死ぬことになると神は言いました。しかし、アダムとエヴァはその実を食べてしまったので、人間は最初の人間から死ぬ存在になってしまいました。こういう話を読むと大抵の人は、「神の言うことに背くとろくなことが起きない
という教訓を教える寓話と思うでしょう。ところが、これは教訓話などという代物なんかではなく、文字通り人間存在についての真理を表しているのです。どういうことか見ていきましょう。
ヘビがエヴァをそそのかしました。ヘビは悪魔で、エデンの園ではヘビの形で登場します。それが悪魔であったことは黙示録ではっきり言われます(12章9節、20章2節)。ヘビは人間にその実を食べさせようと目論見ます。なぜかと言うと、人間を神から切り離された状態にすることが悪魔が目指すところだからです。ヘビの話の持って行き方はとても巧妙です。もし「食べなよ、その実を」なんて直接に言ったら、「いいえ、食べません」と言われてしまうのがオチです。話はそこで終わったでしょう。ところが、ヘビは話が続くようにして、その流れの中で主導権を握ることを目指しました。それで、まず「本当に神は、全部の木から採って食べてはいけないと言ったのかい?」などと聞いたのです。いけないのは全部の木ではないと知っていてわざとそう聞いたのです。そう聞かれたら誰だって「いいえ、全部の木じゃないんです」と答えるのが人情です。案の定エヴァはそう答えて、全部じゃなかったらどれがいけないのかを教えます。園の真ん中にある木がダメと言って、その理由も教えます。食べたら死んでしまうから。ヘビは「しめた」と思ったでしょう。「死にはしないよ」。ヘブライ語で「死ぬ」という動詞が2回異なる形で使われ強調感があります(後注)。「死んでしまうだって?そんなことないって!」という感じでしょうか。
次に「なぜなら」と理由を意味する接続詞(כי)が来ます。そこでヘビは死なない理由をどう説明しているでしょうか?「神は知っているんだ、それを食べたら君たちの目が開かれて、神のようになって善と悪がわかる者になるってことを」。つまり、神は自分と対等な者が現れたら嫌だ、それで食べてはいけない、食べたら死んでしまうなどと脅したのだ。要するに、神は自分が人間に対して優越的な立場を持ち続けられるようにウソをついた、というのです。
ここで「食べたら目が開かれる」というのは、アダムとエヴァは禁断の実を食べる前は盲目だったのかと思われるかもしれません。特に、食べた後で二人は自分たちが全裸であることを見たとあるので、盲目だったと思われるかもしれません。実はそうではなく、異なる目があるのです。ヘビがエヴァに食べても死なない根拠を言った時、エヴァは問題の木を見ているのです。それが食べるのに良い木であることを見、目を眩ませるような魅惑的な木であることも見、さらに、お前を賢いものにしてあげるよと訴えかけているように見える木であることも見ているのです。つまり、エヴァは見えているのです。
それでは、食べた後で「目が開かれる」とあえて言うのはどういうことか?それは、この世の見え方が変わるということです。どういう風に変わるのか?それは、善と悪がわかるようにこの世が見えるのです。それじゃ、食べる前は善と悪はわからなかったのか?善と悪がわかるというのは神と同じになることだとヘビが言いました。それは真理です。神は善と悪がわかり、悪を憎みそれを裁いて焼き尽くそうとします。しかし、人間の場合は善と悪がわかっても、神のように悪を裁いて焼き尽くす立場にはなり得ません。なぜなら、人間は神に造られた被造物で神は造り主の創造主なので、どうあがいても神と同じ立場にはなれないのです。人間が善と悪がわかるようになるというのは、善もわかるが悪もわかるようになって、それをやってしまうようになるということです。それで、神から裁きを受けて焼き尽くされるようになるのです。それで人間は死ぬ存在になってしまったのです。アダムとエヴァはそこを見間違えました。「神のようになれて、善と悪が分かる者になれる」と言われて、本当に神のようになれると思ってしまったのです。しかし、自分たちが被造物であることを忘れてしまって悲劇が起こってしまったのです。
このように善と悪がわかるようになるというのは、一方では悪を裁く地位にあること、他方では悪を行って裁かれる地位に置かれてしまうことを意味したのです。この違いが生じるのは、一方が造り主で、他方が造られた者だったからです。それなのに、「神のようになれる」と言われて、自分が被造物であることを忘れられるようなことを言われて、違いの問題に気づかないまま食べてしまったのです。そして、その結果は起きるべくして起きてしまいました。人間は善だけでなく悪もわかり行えるようになって、神の裁きを受けて焼き尽くされる存在となりました。
そうすると、問題の実を食べる前は善と悪がわからなかったから、善もしなかったのかというとそうではありません。神聖な神のもとにいられたのだから、悪はなかったのでしょう。それが悪も持てるようになって、それまで善一色だったのが相対化されてしまったのです。実を食べた後で目が見えるようになったということも、かつて善一色の時に持っていた見方を失って、悪も入り込んで善が相対化されたようになって世の中が見えるようになったということです。ちょうど今私たちが見ているようにです。食べる前の時に世の中がどう見えたかは推し量りようもありません。
これらが、この堕罪の出来事が単なる寓話ではなく人間存在についての真理を表しているということです。それでも何か教訓をくみ取ろうとするのであれば、それは「神の言うことに背くとロクなことはない」ではなく、「人間が神と同じようになろうとするとロクなことはない」ということになるでしょう。人間は神へと進化するホモ・デウスなんか目指さず、神に造られた者と素直に認めて造り主の前にヘリ下っているのが間違いがないのです。
このようにして最初の人間はヘビにまんまと騙されて食べてはいけない実を食べてしまいました。その結果、善と悪はわかるようにはなっても、神がわかるのとは全く違う結果をもたらしてしまいました。神のようになれると言われてやったことが、皮肉なことに神から切り離される結果になってしまいました。人間は神から裁きを受ける存在、死ぬ存在になってしまい、神聖な神のもとにいることが出来なくなってしまいました。神と人間の間の結びつきは失われ、その間に深い断絶が生じました。そのことをパウロはローマ5章で、一人の人間アダムを通して罪がこの世に入り込み、罪を通して死がこの世に入り込んだと言うのです。罪とは何か犯罪を言うのではなく、それも含みますが、もっと広く、人間が神の意思に反しようとすること、外面的な行為だけでなく内面的な心の動きも全て含みます。そして、全ての人間が死んできたことから明らかなように、全ての人間は罪を持ってしまっているのです。
しかし、これで全てが終わったわけではありませんでした。パウロはローマ5章で、最初の人間アダムの大失態がその後の全ての人間の運命を決してしまったと述べていますが、その後で今度はその運命を逆転する方が来られたと言います。アダムの神に対する背きが全ての人を死する存在にしてしまった。アダムの背きを全ての人が受け継いでしまった。それを、イエス・キリストという神からの贈り物が全ての人の背きを無罪にして死を超える永遠の命を受け継げるようにして下さった。アダムの失態を何百倍にも逆転させるようなことを神はして下さった。そのようにして神は人間に対する愛と憐れみと恵みを示された。そういうことをパウロは言います。
具体的にはどういうことかと言うと、神はひとり子のイエス様をこの世に贈られて、そのイエス様に人間の罪を全部背負わせて、ゴルゴタの十字架の上にまで運ばせました。そこで人間に代わって神罰を受けさせて死なせました。神はイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。それで、人間はこのことが自分のためになされたとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼がした罪の償いが自分にとっての償いになり、それで神から罪を赦された者として見られるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきが回復します。アダムの失態で人間が失ったものを、イエス様の犠牲の業で人間は取り戻してもらったのです。
さらには、一度死なれたイエス様が神の力で復活させられて、復活の体と永遠の命を持つ方として立ち現れました。ここに死を超えた命があることがはっきり示されました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、神から罪を赦されて神との結びつきを持ってこの世を生き始めます。そして、その生きる道には方向性が与えられています。復活の体と永遠の命が待つ神の国です。信仰者は、その道に置かれて歩み出すのです。
イエス様が悪魔の誘惑を撃退した時、神は悪魔の上に立つ方であることが保たれました。神に造られたこの世はどうかと言えば、現実は悪魔に振り回されているが、悪魔の上に立つ神に結びついていれば悪魔の上に立てることが明らかになりました。あとは、神との結びつきを失っている人間がそれを取り戻すようにするだけです。そのためにイエス様がこの世に贈られ、十字架にかけられ死から復活させられたのでした。四旬節第一主日の今日、私たちはイエス様の十字架と復活の業それに荒野での勝利どれもが本当に私たちのためになされたことを覚え神に感謝しましょう。
終わりに、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑を撃退したか見ていきましょう。結論から言うと、イエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器にして悪魔を退散させたのです。
まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対して、イエス様は申命記8章3節の御言葉をもって誘惑を撃退にします。その箇所の全文はこうでした。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。もし、悪魔が空腹のような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを従わせようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を唱えればよいのです。
次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令した時、巧妙にも聖書の御言葉を使いました。それは詩篇91篇11ー12節の御言葉、「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を撃退します。それは、こういう箇所でした。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事です。イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。
実際イスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、困難に遭遇するたびにすぐ神に不平不満をぶつけました。神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに新しい困難が起きる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、こんなことならエジプトに帰ってやるなどと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記の6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるのです。
それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを最上の解決として受け入れる、それくらいに神を信頼するということです。実は、このイエス様の神への深い信頼こそは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2ー3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。しかし、そんな軽々しいやり方で重みのある真理を覆すことなど出来るはずがありません。
三つ目の誘惑は「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」でした。これに対してイエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を撃退します。その御言葉とは、ずばり「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」でした。
このようにイエス様は聖書の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。これらのことは私たちにも当てはまります。もし悪魔が私たちを従わせようとして必要物や欲望をちらつかせてきたら、私たちは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある!『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある!
と言えばいいのです。ただ、やっかいなのは、悪魔が私たちを誤った道に導こうとして聖書の御言葉を使う場合です。イエス様の荒野での試練からわかるように、それは、御言葉を文脈から切り離して使ってもっともらしく聞こえるようにするという手口です。私たちは騙されないために、本当に聖書に習熟して全体像と文脈を把握して個々の御言葉を受け入れなければなりません。そのために毎日の聖書の繙きは大事です。それと、毎週礼拝で御言葉の解き明かしに耳を傾けることも大事であることは言うまでもありません。その御言葉に立って神に祈り賛美を捧げ聖餐に与ればもう怖いものなしです。
(後注 ヘブライ語分かる人にです)infinite absoluteの מות とfiniteの תמתוןです。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日は、教会のカレンダーでは先月始まった顕現節が終わって、来週からイースターに向かう四旬節/受難節が始まる前の節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたマタイ17章の他に、マルコ9章とルカ9章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことが「変容した(μετεμορφωθη、受け身なので正確には「変容させられた」)」という言葉で言い表されているので、この出来事を覚える本日は変容主日とも呼ばれます。毎年、四旬節/受難節の前の主日はこの変容主日になります。
イエス様が三人の弟子を連れて登った「高い山」とは、ほぼ間違いなく、フィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山でしょう。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ロープウェイもケーブルカーもバスもなくいきなり麓から北アルプス級の山に登るのはとてもしんどいことです。やっとこさの思いで頂上にたどり着くと、イエス様が白く眩しく輝きだし、旧約の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れる。ペトロが三人のために「仮小屋」を立てましょうと言っている最中に辺りは雲に覆われ、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)。その後で雲は消え去り、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられた。神が「これに聞け」と命じたのはイエス様であることが明らかになりました。
以上がマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されている出来事の大筋です。細部はそれぞれ少し異なっていますが、このようなことが起こったという点ではみんな一致しています。この山の上での出来事の後、イエス様は弟子たちと共にエルサレムに向かってただただ南下していきます。十字架の受難が待ち受けているエルサレムにひたすら向かって行くのです。
本日の説教は、マタイの記述を中心に解き明かしをしていきます。その際、3つの問題点をあげて、それに答える形で解き明かしをしたく思います。まず初めに、イエス様が白く輝いたこととモーセとエリアが出現したことは一体何なのか?次に、ペトロが3人のために仮小屋を建てると言ったことは何なのか?それに対して神が打ち消すように「これは私の愛する子、これに聞け」と言ったのは何だったのか?そして三つ目は、なぜイエス様はこの出来事を彼の復活が起きるまで誰にも話してはいけないと言ったのか?
聖書の中で今日のような個所は特に難しく感じられないかもしれません。ただ書いてある通りに、ああ、イエス様は山の上で輝いたんだな、そこにモーセとエリアが現れたんだな、ペトロが仮小屋3つ建てると言ったら神がイエスに聞き従えと言ったんだな、という具合に受け取れば、書かれた事柄は頭に入ります。しかし、そのような受け取り方では神の私たち人間に対する思いは何もわかりません。神の私たちに対する思いや私たちに求めていることを明らかにしなければなりません。それが説教の役割というものです。
まずイエス様が白く輝いたこととモーセとエリアの出現は何だったのかということを見ていきます。イエス様の顔が太陽のように輝き出して、着ているものも白く光り出しました。そこで黙示録1章16節を見ると、それを書いたヨハネは天の父なる神のもとにいるイエス様を目撃します。その顔は日中の輝く太陽のようであったと言います。私たちは太陽を目で見ることはできません。ほんの瞬きする間くらいしか見れません。その時、太陽は何色に見えたでしょうか?赤でもオレンジ色でもなく白です。白ですが、輝きが強烈すぎて見ることのできない白です。イエス様の顔も着ているものも白く輝いたというのは、ヨハネが目撃した、天のみ神のもとにいるイエス様と同じです。つまり、山の上でイエス様は神としての本性を現わしたのです。ルカ福音書の同じ出来事の記述を見ると、モーセとエリアも輝いていたと言われていますが、文章をよく見るとそれは天の輝きを映し出した輝きで自分たちが発する輝きではありませんでした(9章31節)。イエス様の場合は、自分自身から発する輝きでした。
神の本性を現わしたイエス様にモーセとエリアが現れました。かたや紀元前1300年代の人物、かたや紀元前800年代の人物です。とっくの前にこの世を去った人物です。それでは、これは幽霊でしょうか?でも、幽霊だったら、ペトロたちはきっと恐怖に慄いたでしょう。というのは、イエス様が死から復活して弟子たちの前に現れた時、弟子たちは幽霊だと思って恐怖に陥ったことが記録されているからです(ルカ24章36~43章)。しかし、この山の上では恐怖に陥っていません。これはどういうことか?
当時、律法学者を中心にユダヤ民族の間では、エリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10-11節、マルコ9章11-12節を参照)。この世の終わりが近づくと、天からエリアが再臨して神の裁きの準備をするというのです。つまり、エリアは天の神のもとにいて待機しているわけです。でも、これは少しおかしなことです。というのは、聖書には死者の復活ということが言われていて、それによるとこの世が終わる時に最後の審判があって、死んだ者と生きた者が一緒に裁かれる、そこで神の目によしとされる者は復活の体と永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられる。そうなると、審判の日まではこの世を去った者は神のみぞ知る場所にいて眠りについていることになる。眠りから目覚めさせられるのが復活の日ということになる。これが聖書の立場です。そうなると天国に行く行かないということは、この世の終わりまで待たなければならないということになる。それなのに、モーセとエリアが天から来たということは、この世の終わりを待たずに天国に入った者があるということになります。
少なくともエリアに関しては、その点は大丈夫と言えます。というのは、列王記下2章にあるように、エリアは生きたまま神のもとに引き上げられたからでした。それでエリアは既に天の神のもとにいて、世の終わりの時に再臨すると信じられていたのです。このように聖書は、将来の終末や復活の日を待たずにして既に天に迎え入れられた者があるということを考慮に入れていると言えます。ただ、それが具体的に誰かは名前は記されていません。モーセの場合は少しやっかいなです。申命記34章を見ると、彼はモアブの地で死んだとあります。しかし、神自身が彼を葬ったので誰も彼の埋葬地を知らないとあります。そうなれば、モーセも一度死んだが将来の復活の日を待たずに神の許に引き上げられたと考えることも可能です。
そうなるとヘルモン山の上での出来事は、モーセとエリアが天の神の許から送られて、イエス様と共に一堂に会しているということになります。神としての本性を現わした神のひとり子イエス様、それと死を超えた永遠の命を持つ者としてモーセとエリアが一堂に会しているわけです。さらに、モーセはと言えば神から十戒を初めとする掟を受け取ってそれを人間に仲介した人です。エリアはと言うと、その掟はイスラエルの民が諸国民を代表して受け取ったのであるが、その肝心の民が神に離反するようになってしまい、その時エリアは民が神の許に立ち返るように孤軍奮闘しました。かたや神の意思を人間に伝えた者、かたや神の意思からの逸脱を阻止しようとした者です。そしてそこに神としての本性を現わしたイエス様がおられる。そのように見ていくと、この3人が一堂に会したことの意味が少し見えてきます。それをこれから少しずつ明らかにしていきます。
次に、ペトロが3人のために仮小屋を建てると言ったことは何なのかということを見ていきます。そして、ペトロの提案に対して神が打ち消すように「これは私の愛する子、これに聞け」と言ったのは何だったのかということも。
ペトロが仮小屋を建てると言ったのには背景があります。本日の旧約の個所、申命記24章でモーセがシナイ山に登ったことが記されていま*/す。山の上で神は十戒に続く掟、特に神殿崇拝に関する掟を与えます。十戒は、神と人間の関係について神が人間に求めていることと人間同士の関係で神が求めていることを言い表わす掟集です。それに続いて神は、イスラエルの民が今後神をどのように崇拝すべきかという礼拝の仕方についての掟集を与えました。そこで最初に出てくる掟が幕屋の建設でした。後にエルサレムに巨大な神殿が建てられますが、その前の段階の礼拝場所についての規定です。この幕屋建設についての掟は、本日の旧約の個所のすぐ後に続いてきます。
ここで、ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を建てると言った「仮小屋」ですが、それはギリシャ語のスケーネー(σκηνη)といい、その言葉の正確な訳は、神に礼拝を捧げる場所である「幕屋」を意味します。このようにペトロの提案は、モーセのシナイ山での出来事を背景として見ると理解できます。旧約の伝統に立てば、ヘルモン山で起きたような出来事に遭遇すれば、誰でもシナイ山での出来事を想起して「幕屋」ないし仮小屋を立てなければいけないという反応が起きるでしょう。
しかしながら、その提案は場違いなものでした。というのは、ペトロはイエス様だけでなくモーセとエリアのためにも礼拝を捧げる場所を建てると言ったからです。シナイ山で与えられた幕屋建設の規定は、天地創造の神を崇拝するための幕屋でした。人間を崇拝するためのものではありませんでした。ヘルモン山での神の声「これは私の愛する子、これに聞け」というのは、神のひとり子のイエス様が崇拝の対象であるということです。そのためにイエス様は神の本性を現わしたのでした。モーセとエリアは、いくら天の父なる神の許にいる存在とは言え、崇拝の対象にはならないことが明らかになりました。
モーセは神の人間に対する意思が詰まった律法を人間に仲介したという役割を担った人、エリアは律法からの逸脱を阻止する役割を担った人です。この二人を超えるイエス様は、どんな役割を担ったのでしょうか?次にそのことを明らかにしてみましょう。
ここで、イエス様はなぜヘルモン山での出来事を彼が死から復活するまでは話していけないと命じたのかを考えて見ます。
この個所に限らず、イエス様は奇跡の業を行う時、これを口外してはならないとかん口令をよく敷きます。これについて、ウイリアム・ヴレーデWilliam Wredeという聖書学者が1913年に出した「福音書におけるメシアの秘密Das Messiasgeheimnis in den Evangelien」という研究書の中で次のような見解を述べました。マルコ福音書の著者は、イエスがメシアであるということは復活が起きた時に人々の目に明らかになるように福音書を構成した。だから、十字架の出来事の前にイエスが奇跡を行ってメシアであることを示しながらも、復活までは人々に気づかれてはならない、復活をもってメシアであることが白日の下に晒されるようにする、それで福音書の著者はイエスにかん口令を敷かせたのだ。そういう分析をヴレーデはしたわけです。
ヴレーデの研究書はその後の世界の聖書学に大きな影響を与えました。「メシアの秘密」というテーマは今でも聖書学で議論されます。マルコはこうした「メシアの秘密」という観点をもって福音書を書いたのか、それとも別の観点で書いたのか、という具合にです。もちろん、ヴレーデの見解に組しない見解も多くあります(私もその一人です)。しかしながら、彼がその後の聖書学に与えた影響は、現在まで続く賛否両論を引き起こしたということだけに留まりません。福音書は歴史を記述したものではなくて、著者の創作物語であるという見方を強めてしまったのです。大学の神学部を出ても、奇跡などない復活などないと言う人が出るようになったのも、聖書学がそういうものになったことに原因があると言えます。
聖書がどのようにして出来たか、書かれたのかということを歴史学のやり方で分析すると、奇跡も復活も入り込む余地はなくなります。歴史学は学術研究ですので、超自然的な現象を歴史的事実として記述しません。そういうものは現実には起こり得ないということを前提にして全ての歴史は記述されます。それじゃ、奇跡や復活は歴史に記述されなければ、なかったことになるのか?「ない」と言う人は、信仰がなくなります。人によっては「ない」と言っても信仰を持っていると言う人もいるかもしれませんが、それは使徒の伝承や教えに基づく信仰、使徒的な信仰ではありません。超自然的現象がないと言ったら、奇跡や復活だけでなく、創造主の神も天国も地獄もなくなります。使徒的な信仰に立つ人は奇跡や復活について次のように言うのではないかと思います。「奇跡や復活というのはその性質上、歴史学の歴史には入りきれないかもしれない。しかし、それは、歴史学がそういうものは現実には起こり得ないということを大前提にしているからである。それで歴史学が構成する歴史は狭まれたものになる。しかし、その大前提は絶対とは言えないのだ。だから、歴史学が構成する歴史をはみ出す歴史にも心を向けるのである。」
話が脇道にそれました。ヘルモン山での変容についてのイエス様のかん口令に戻ります。死から復活するまでは口外してはならない、というのは、復活の後に人々に知らせたら意味のあるものになる、その前に知らせても無意味だということです。復活には、それに先立つ十字架の死があります。従って、十字架と復活はワンセットで考えなければなりません。それなので、十字架の死と死からの復活が起きる前に、ヘルモン山での出来事を人々に知らせても意味がない、意味があるのはそれらが起きた後である、ということです。どうしてそうなるのでしょうか? イエス様が神の力で死から復活させられたことで、彼が神のひとり子であることが明らかになりました。それならなぜ神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのか?これも、旧約のイザヤ書53章の預言にありました。人間の罪を身代わりになって神に対して償って人間と神との間に平和を打ち立てて、人間が霊的に癒されるようにするためと書いてあります。それがイエス様の十字架の意味でした。このことがわかって、イエス様を自分の救い主であると信じるようになった者は、まさに信じることで罪を償ってもらった者になり、神から罪を赦された者として扱われるようになります。さらにイエス様の復活によって、死を超えた永遠の命があることが示されました。イエス様を救い主と信じる者は永遠の命に向かう道に置かれてその道を進んでいくことになります。
神のひとり子の犠牲のおかげで神から罪を赦された者として扱ってもらえる。そうなると、もういい加減な生き方は出来ません。いい加減なところがあれば、それをどんどん削り取って、神に扱われている状態に自分をかたどっていかなければなりません。その時、十戒を中心とする神の律法は心も体も含め全身で守らなければならないものになっています。そこからの逸脱は許されません。まさに律法の大立者であるモーセとエリアが私たちの前に立っています。しかし、ここで思い出さなければならないことがあります。それは、律法に全身を従わせるというのは、キリスト信仰者にとっては、自分の力で行うものではないということです。イエス様は律法を全て実現されている方です。そのイエス様に洗礼を通して結びつけられたのです。イエス様が律法を全て実現されている状態の方というのは、まさに山の上での変容に現れた眩しすぎる光がそれを示しています。そこで、この光を鏡のように受けて反射させる、これがキリスト信仰者にとっての全身を律法に従わせるということです。信仰者は自分の力で従わせる必要はありません。イエス様から来る光を受けてそれを反射させるだけで十分なのです。自分から光を発する必要などありません。その意味でイエス様は律法の軛を軽くして下さったのです。モーセとエリアが退場したあとでイエス様だけが残っていたことがそれを示しています。
しかしながら、注意しなければならないことがあります。イエス様は軛を負いやすくするとはおっしゃいましたが(マタイ11章29~30節)、それをなくするとは言ってません。どういうことかと言うと、神を全身全霊で愛そうとします。喜びも悲しみもこの神だけに打ち明ける。願い事も赦しもこの神だけにお願いする。手を合わせ拝むのはこの神だけである。そういうことをすると、違うものに手を合わせる人たちから総スカンを食らうことになります。また、隣人を自分を愛するが如く愛そうとします。そうすると、自分だけが損をしている、こんなお人好しでいいのだろうか、ということが沢山起きてきます。しかし、総スカンを食らうことも損をすることも、イエス様抜きで律法を全部自分の力で全うしようとすることに比べたら、全然軽い軛なはずです。
軽い軛でも時には重く感じられて、地面にうつ伏してしまうこともあるでしょう。その時は山の上のイエス様がどうしたかを思い出しましょう。彼はすぐ弟子たちのところに行って手で揺り動かして、「起きなさい、恐れることはない」と言って励まして下さいました。この出来事は、キリスト信仰者にはイエス様の励ましはいつも隣り合わせにあるということを示しています。
以上見てきたように、ヘルモン山での出来事は、律法の要求を満たすということが十字架と復活の出来事が起きる前と後で意味が違うということを示しています。十字架と復活の前は全部自分の力でしなければなりませんでした。その後はイエス様が放つ光を受けて反射させればいいというふうになりました。それなので山の上の出来事は、十字架と復活の後にイエス様を救い主と信じる者にとって意味をなしたのでした。
本日の使徒書の日課である第二ペトロ1章でペトロが、自分たちは人為的に作った物語に基づいてイエス様のことを教えているのではない、目撃者として教えているのだと言っています。十字架と復活の後でも、いくら目撃者です、と言っても信じてもらえなかった様子がうかがえます。十字架と復活の前だったらなおさらでしょう。実はこの手紙はペトロの名が冠されているにもかかわらず、聖書学の学会では作者はペトロ本人ではないという見解が強いようです。それならば誰が作者か?ペトロの弟子だろうと言われています。仮にそうだとすると、「私たちは目撃者である」、「私たちは山の上で神の声を聞いた」と言う時の「私たち」はまさに直の目撃者のペトロの証言を聞いて、それを信じて自分たちも目撃者と同じ立場に立つと見る人たちです。彼らは、まずイエス様の十字架と復活の証言を聞いてイエス様を救い主と信じました。その上で、山の上の出来事を聞いてますます確信を強めたのです。律法の実現をイエス様を中心にして考えてよいことがわかったのです。まさにその時、山の上の出来事は本当に起こったこととして受け取ることができるのです。この時私たちは、歴史学が構築した歴史をはみ出す歴史に身を置いているのです。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
本日の福音書の箇所は、マタイ福音書の5章から7章にかけてある「山上の説教」の一部です。ここでイエス様は、十戒をはじめとするモーセ律法の正しい理解の仕方を教えます。律法を正しく理解するとは、とりもなおさず、律法を人間に与えた方を正しく理解することです。律法を与えた方とは、言うまでもなく天と地と人間を造られ私たちに命と人生を与えられた父なるみ神です。律法を正しく理解するとは、その神を正しく理解することに他なりません。イエス様は律法が正しく理解されていないことを知っていました。それで、山上の説教で何度も繰り返してこう言います。「あなたがたも聞いているとおり.....と命じられている。しかし、わたしは言っておく。.....」
今まで律法についてこう言われてきたが、本当は次のように理解されねばならないと。このようにして、山上の説教で創造主の神が人間に何を求めているのかが明確にされていきます。そうすることができたのは、イエス様が父なるみ神のひとり子で、まさに神の視点を持てたからでした。
本日の福音書の個所で一つ気になることは、イエス様が地獄を引き合いに出して教えていることです。十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」に関して、イエス様は21節で「人を殺した者は裁きを受ける」と言いますが、「裁き」とはこの世の司法制度で受ける刑罰だけではありません。神から受ける罰も含みます。神の罰とは何か?それは22節にあります。兄弟つまり隣人を罵ったり悪口を言ったら、それは「殺すな」という掟を破ったのも同然で、炎の地獄に投げ込まれると言います。炎の地獄で永遠に焼かれる、これが神の罰です。また28節で、女性をふしだらな目で見たら、たとえ行為でしていなくても第六の掟「汝姦淫するなかれ」を破ったのも同然と言います。それで、もし目でも何でも体の部分が全身に姦淫するように仕向けるならば、そんな部分は切り取って捨ててしまったほうがいい、その方が全身炎の地獄に投げ込まれるよりましだからなどと言います。
地獄というものがあって、前世の行いが悪かった者はそこに落とされて永遠の火で焼かれるというのは、他の宗教でも見られます。天国とか地獄というものは、この世での生き方に指針を与える意味があると言えます。悪いことをしたら地獄に落ちるからしないようにしようとか、いい人間でいたら天国に行けるからそうしよう、というふうになるからです。特に子供に対して教育効果があります。ただ、昨今は閻魔大王がアニメのキャラクターになったりしているので、そんな真剣みを帯びなくなってきているかもしれません。なまはげの方が迫力があって効果的かもしれません。
地獄を持ち出すというのは、なんだキリスト教も他の宗教と変わらないじゃないか、人間が悪いことをしないようになるためにキリスト教もそういうものに頼らなければならないのか?と言われるかもしれません。しかしながら、キリスト信仰で地獄が出てくるのは、どうも人間が悪いことをしないように、いいことをするように方向づけるためとは言えないことがあります。このことに気づけるために、イエス様が律法の遵守をどう教えるか見てみます。
「汝殺すなかれ」について、イエス様は人に対して腹を立てる、怒る、憎しみを抱くことも同罪と言われる。悪口を言う、罵るというのも、そういう気持ちが行為に表れることであり、やはり行為で表れる殺すことと同じだと言う。行為の大元にある、人を愛する心がない状態、それでもう「殺すな」という掟を破ったことになるというのです。つまり、外面的な行為だけでなく、人間の心の有り様まで問うているのです。
「汝姦淫するなかれ」についても同様です。人間の男女の結びつきは神が二人を一つに結びつける結婚という枠の中で行われるべきというのが創造主である神の意思である。それについてイエス様は、結婚の枠を踏み倒して結びつきを求めること、たとえそれを行為に移さなくても、そのような願望で異性を眺めたら、それはもう「心の中」で結婚の枠を踏みにじったことになる。姦淫したことになる、そう教えます。先ほどの「殺すな」と同様、外面的な行いと内面的な心の有り様が同じレヴェルで扱われます。
心の中まで追及されてしまったら、天国に行ける人など誰もいなくなります。みんな地獄に落とされてしまいます。外面的に現れる罪であれば法的または社会的に制裁や矯正が行われるでしょう。しかし、心の中の罪は法律や社会は何もなしえません。しかも、本人でさえそんなに自覚していない場合もあります。しかし、創造主の神は全てお見通しで、本人が自覚していなくても代わりにわかって下さっているのです。そうなると、善行を沢山した人でも、もしある一瞬にある人のことを心の中で罵ったとすると、その人の沢山の善行はそれで無効になって地獄に落とされるというのか?この点で、芥川龍之介の有名な「蜘蛛の糸」を見ると、カンダタは悪の限りを尽くしたが、一度蜘蛛を生かしてやったという一点を釈迦が認めて、救いの蜘蛛の糸をたらしてもらった。もちろん、最後は期待通りの結果にはならなかったが、それでも、キリスト教より慈悲がある対応ではないかと思えてきます。
創造主の神とそのひとり子イエス様はまるで「人間よ、お前たちはどうあがいても天国には行けないのだ、地獄行きなのだ」と言っているようです。そこまで言われたら、地獄を持ち出されて、もう悪いことしません、いい人になります、という気持ちなど起きなくなります。だって、父なるみ神は私たち自身気づかない心の中の罪さえも知っておられるのですから、もう何をしたって無駄です。
どうしてイエス様と父なる創造主の神はこれほどまでに厳しいのでしょうか?それは、彼らが無慈悲だからでしょうか?それを少し考えてみます。
「山上の説教」の別の個所でイエス様は、天の父なるみ神は完全な方である、だからあななたちも完全になりなさい、と言われます(マタイ5章48節)。それが言われたのは、隣人だけではなく敵も愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい、と教えたところでした。ここから明らかなように、創造主の神の趣旨は「人間よ、完全になりなさい」であって、「完全になることなどお前たちには無理なのだ」というのではありません。でも、心の中まで問われたらやはり無理ですよ、と言いたくなります。こんな無理な条件を突き付けられて、それを全て満たして完全になれなどとは。イエス様ももう少し手加減してくれれば私たちとしても父なる神をもう少し近くに感じられるのに、ここまで完全さを要求されたら、神は果てしなく遠い存在になってしまいます。
でもそれが真実なのです。天の父なるみ神は人間にとって遠い存在なのです。なぜかと言うと、神は神聖な方で、人間はそうではないからです。神聖と非神聖は全く相いれないものだからです。ただし、もともとはそうではありませんでした。人間が初めて造られた当初は、神聖な神のもとにいることが出来たのです。それが、創世記3章に記されているように、人間が神に対して不従順になって罪が人間に入り込んでしまったために、神と相いれない存在になってしまったのです。それで神の許にいられなくなってしまったのです。人間は神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなり、この世から死んだ後も神の許に戻れる術がありません。このように神聖な神とそうでない人間の間には果てしなく深い溝が出来てしまったのです。神の意思そのものである律法をイエス様が解き明かす時に、歯に衣(きぬ)着せぬ言い方をするのは、この現実をあるがままに示すためだったのです。
しかしながら、神の御心は、人間との溝が果てしなく深いことを思い知らして人間を絶望させることではありませんでした。全く逆で、失われてしまった結びつきを取り戻してあげなければというのが御心でした。ただし、罪のために神と人間の結びつきは完膚なきまで壊されている、その再建は人間の力では到底成し遂げられるものではない、ということをまずわかってもらわなければならない。その上で自分がそれを成し遂げてあげるからよく見ておきなさい、ということだったのです。それでは神はどのようにして人間に結びつきを取り戻したのでしょうか?
それは、ひとり子のイエス様をこの世に贈ることでなされました。イエス様はまず人々に、神とその意思について正確に教えました。また、人間が神との結びつきを回復した暁には将来、死からの復活ということが起こり、神の国に迎え入れられるということが起こるわけですが、その神の国がどんなところであるか、それを無数の奇跡の業を通して垣間見せました。そして、一通りのことをやり終えた後で、この世に贈られた本当の目的を果たされました。どんな目的かというと、人間が持っている罪を全部、外面的なものも心の中のものも全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げて、そこで本当だったら人間が受けるべき神罰の総和を受けて死ぬという芸当をやってのけたのです。つまりイエス様は、人間の罪の償いをされたのでした。そのための犠牲になったわけです。それは神のひとり子という神聖な犠牲で、これ以上のものはないと言えるくらいの犠牲でした。
罪の償いがなされたので、ここに罪が赦されるという状況が生まれました。罪は神と人間の間を引き裂く力を持っていたのですが、それが力を失ったという状況が生まれたのです。そこで私たち人間が、イエス様は本当にこれらのことを成し遂げたのだ、それなので彼は私にとって救い主です、と表明して洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの状況に移行します。そこでは、イエス様が成し遂げた罪の償いがその人に対してなされた償いになっています。それなので、神から罪の赦しを頂いたことになり、神との結びつきが回復します。イエス様が厳しく神と人間との間の溝が絶望的であると言ったのは、人間を落胆させることが目的ではありませんでした。そうではなくて、神のひとり子が身を投げ捨てる以外にもう手立てはないというくらいのものということをわからせるためだったのです。父なるみ神と御子イエス様は無慈悲だったのではなく、ごまかしの利かない完璧なリアリストだったのです。人間の現実はこれだけ厳しいのだとはっきりさせた上で、それに相応しい対応をしたまででした。つまり、神のひとり子が至らぬ人間のために身を投げ捨てたのでした。人間に対して無慈悲だったらそんなことはしないでしょう。
イエス様が十字架で死なれた時、人間の罪が償われて、罪からは人間を永遠の滅びに陥れる力が消え去るという状況が生まれました。そこでイエス様を救い主と信じる者は、神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復しました。話はまだ続きます。父なるみ神は罪を滅ぼすためにイエス様を十字架の死に委ねたのですが、その後でさらに一度死なれたイエス様を死から復活させたのです。まさにこれで、死を超えた永遠の命と復活の体というものがあることをはっきり示されたのです。先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は罪の赦しを得て神との結びつきを持ってこの世を生きるようになります。その時、イエス様の復活が起きたおかげで、一つの大きな方向性が与えられることになりました。それは、永遠の命と復活の体が待っている「神の国」に向かう道に置かれて、その道を歩みだしたということです。
その道を歩む者は、かつて厳しく聞こえたイエス様の教えが違う響きを伴って聞こえてくるようになります。十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、心の清さの完全さを求めるイエス様の教えは受け入れ難いものでした。そんなこと言っていたら、誰も天国には行けなくなります。宗教的な修行を積んでもお祓いをしても何の役にも立ちません。それが十字架と復活が起きた後では、イエス様を救い主と信じるようになった者たちにとって彼の教えはなんだか体の一部のような身近なものになったのです。同じことは後の時代でもイエス様を救い主と信じるようになった人にも起きました。信じていなかった時は、完全たれという教えは、無理ですよイエス様、とか、馬鹿馬鹿しくて相手に出来ないと、背を向けていたのですが、信じて以後は教えはやはり体の一部みたいになっているのです。もちろん、信じるようになっても、そんなの無理だと言ってしまうことがあるのですが、無理だと言う自分に対してもう一人別の自分がいて「無理だなんて言うな、一体自分を何様と思っているんだ!」と叱咤しているのです。以前だったら、無理だ!という声しかなかったのが大きな変化です。どうして無理じゃなくなったのか、これを見ていきましょう。
イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪が償われて神から罪の赦しを受けて神との結びつきを持って生き始めるということが起きます。まさに洗礼には人間を異なる次元に移し替える力があります。それでは、新しい次元に移った人間は、真人間になって心も清くなってイエス様が言った厳しい教えがそのまま出来ているのかというと実は全然そうではない。まだ心に清さがないのです。それじゃ、何も変わっていないではないか!と言われてしまうでしょう。しかし、それでも変わっていることがあるのです。
それは、パウロが洗礼を受けた者のことをイエス様を上着のように頭から被せられた者と言っていますが、それを思い出せば、わかってきます(ガラテア3章28節)。新約聖書を読むと、よく「イエスにあって」とか「キリストにあって」とか「主にあって」という文句が出てきます。ギリシャ語原文では前置詞のενが使われているのですが、英語のinと同じように「~の中に」というのが基本的な意味です。だから、「イエスの中で」、「キリストの中で」、「主の中で」という意味になりますが、それでは何のことかわかりにくいです。ギリシャ語のενは、何かとしっかり結びついていることも意味します。それで、「イエスと結びついて」、「キリストとの結びつきを持って」、「主との結びつきの中で」という意味でも捉えることが出来ます。しかしながら、イエス様を上着のように頭から被せられるというのはイエス様にすっぽり覆われることですから、それをわかっていれば、「イエスの中で」と言っても問題はありません。
このようにキリスト信仰者はイエス様を衣のように纏っています。それは罪の汚れのない神聖な、色で言えば純白な衣です。被せられた信仰者はと言えば、まだ罪の汚れが残っています。さすがに罪を行為に表して犯すというのは注意深くなったのでしなくなると思います(もちろん弱さや、隙や弱みをつけられることもあります)。そうは言っても、心の中まで清いとは言い切れないことが沢山あります。本日の福音書の個所にあるように、殺人を犯さなくても、口で隣人を悪く言ってしまったり、または心の中で良くないことをいろいろ思ってしまったりします。イエス様は、それは殺人と同罪と言われました。その時キリスト信仰者は、そんなことはありえないなどという反論はもうしなくなります。なぜなら、自分に神聖な衣が被せられている以上は、その衣にたて突くことはしないからです。神のひとり子がそれは罪ですよ言われるので、罪と認めるしかありません。そうなると、殺人と同罪だからやはり地獄行きかと観念しそうになると、そうではないことに気づくのです。あなたは何を纏っているのか忘れたのですか?罪の償いと赦しそのものを纏っているんですよ。それをしっかり纏っている以上、地獄なんかには行きません!そのまま神の国に向かう道を進んでいます。しかも、神との結びつきを持ってですよ!
兄弟姉妹の皆さん、イエス様は地獄なんか持ち出して心の中の罪も神の罰に値する罪であるなどと厳しいことを教えました。そしてそう教えた本人が自分の命と引き換えに神聖な衣を私たちに着せて下さいました。これをしっかり纏っている限り、何も心配しなくていいのです。心の中の罪のゆえに怯える必要はないのです。洗礼を受けて衣を着せられた信仰者はまた、自分をその被せられた衣に合わせていこうとします。「合わせていこう」というのは、人間は洗礼を受けたら即、真人間、心の清い人間になれるということではないことを示しています。愛のない心は何かの拍子にいつも現れてきます。そのたびに、心の目をゴルゴタの十字架で首を垂れている主に目を向けると、自分が纏っている衣がどれほどの価値があるものかが改めてわかり、それを手放さないようにしっかり纏おうとし、その纏っている衣に自分を合わせていこうとします。そうする度に、自分の内にある罪は圧迫され押しつぶされていきます。パウロは、キリスト信仰者とは罪に結びつく内なる古い人間を日々死なせていく者であると言っていますが(ローマ8章13節)、真にその通りです(後注)。本日の使徒書の個所でもパウロは、コリントの信徒たちは仲たがいし合っていて、それはまだ霊的に大人になっていない肉の段階で、まだ固形食が食べられない母乳で育てなければならない段階であると言っていました。このようにキリスト信仰者は、神に成長を与えられて成長していくのです。それなので、洗礼は清さや完全さのゴールとしてあるのではなく出発点です。復活の体と永遠の命を持てる日がゴールです。
最後に、本日の福音書の個所の終わりにある、誓うことについてのイエス様の教えは少しわかりにくいので、ひと言申し添えておきます。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」ということが昔から言われている。そこでの「偽りの誓い」とは、神に対して誓った誓いが果たせないと誓いが偽りになってしまうということです。つまり、偽りの誓いを立てるなというのは、逆に言えば、誓いを立てるなら果たせるような誓いを立てよということになります。そうなると、人間は果たせそうな誓いを立ててそれを果たすことで神の意思に沿うことができるのだ、という思い上がりを生み出す危険があります。それで、イエス様は、「然り、然り」「否、否」だけ言いなさいと命じられるのです。つまり、「汝、腹を立てるな、怒るな、憎しみを抱くな」と言われたら、余計な条件を付けずに、「然り、然り」とだけ言う。「汝、心の中で姦淫を犯すな」と言われたら、これも「然り、然り」と言う。それ以上のことを言うのは、神の意思を水で薄めることになる。だから、果たせるような誓いは立てるな、果たせるような誓いをして神に認めてもらったとか、神とお近づきになったなどと思い上がるなと言うのです。
これも、キリスト信仰者にとっては大きな問題にはなりません。そのように「然り、然り」と言うことは、確かに父なるみ神の意思に反することが自分の内にあることを認めることになります。しかし、イエス様の神聖な衣を纏っている限り、神はそれを見て私のことを「よし」と見て下さり、そして、纏っているこの衣が自分の内にある罪を圧迫していく。それなので、キリスト信仰にあっては、心の中の罪を自覚しても神の国へ向かう道から外れることはなく、むしろ自覚することで歩みが確実になっていくとさえ言えるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
(後注、ギリシャ語が分かる人にです)ローマ8章13節は、新共同訳では「霊によって体の仕業を絶つならば」とありますが、ギリシャ語原文では「霊によって体の業を死なせるならば/殺すならば」です。しかも、「死なせる/殺す」は現在形なので、常態として死なせる/殺す、つまり日々そうするということです。「絶つならば」と言うと、エイッ、ヤーと一気に絶つみたいですが、その場合は動詞は現在形ではなくアオリストになるべきでしょう。
今年度の役員就任式が行われました。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」イエス様のことを洗礼者ヨハネはそう呼びました。小羊とは可愛らしいですね。皆さんも、動物園や農村で見たことがあれば、白い毛の衣に身を包み、まだ大人の羊になっていない段階で親羊に寄り添うようにしている姿を思い浮かべただけで純で無垢な感じがします。それが、小羊は小羊でも世の罪を取り除く小羊で、しかもイエス様がそれだと言う。それは一体どういうことか?世の罪を取り除くとは何なのか?世の中には悪いことが沢山ある。人を傷つけたり騙したり、自分のことだけを優先して他の人のことを顧みないということが沢山ある。それらが犯罪までになって法律に基づいて処罰されるということが沢山ある。「世の罪を取り除く」というのは、そういう悪や犯罪を取り除くということなのか?イエス様が取り除きをされるのか?される時、小羊のようにされるというのは、どういうことか?悪や犯罪を取り除くのならば、例える動物としてはライオンとかもっと雄々しいものを考えた方がピッタリなのでは?けな気で可愛らしいが弱々しい小羊に例えるのはどういうことなのか?洗礼者ヨハネの言葉は、字面だけ追えば、分かったような気になりますが、実は考えれば考えるほどわからなくなります。
そういうわけで、本日の説教はこの「イエス様は世の罪を取り除く神の小羊」ということを徹底的に見ていきたいと思います。
「神の小羊」と言っているので、まず「神」について考えます。聖書の話ですので、あくまで聖書の神です。聖書の神は、何と言っても、天と地とその間にあるもの全て、見えるものと見えないもの全ての造り主、創造主です。私たち人間も神の手に造られたというのが聖書の立場です。人間一人ひとりに命と人生を与えた。しかも、母親の胎内に宿った時から、私たちのことを知っておられた。そのことが旧約聖書と新約聖書の至るところで言われています。本日の旧約の日課イザヤ49章1節でも、「主は私が胎内にいる時から声をかけ、母のお腹の中にいる時から私を名前で呼んでいた」(後注)と言っていますし、5節でも「母の胎内にいる時から私を御自分の僕として形作られた」と言っています。胎内にいるときからこうですから、生まれ出てきた後も、私たちのことをよく見て全て知っています。私たちは気づきませんが、私たちが何をしているか、何を考えているか、神は全てお見通しです。人には隠し立て出来ても、神に対しては出来ません。何しろ、私たちの造り主だからです。
聖書の神は造り主であるほかに、自分の意思をはっきり示される方でもあります。十戒という掟があります。それは、造り主である以上は、その方が拝む対象であるとか、その方の名を汚すようなことをしてはいけないとか、週一日は仕事の手を休めてその方に心を傾ける日とせよとか、神との関係でこうしろああしろという掟があります。まだこの他に、父母に敬意を払えとか、殺すなとか、自分のであれ他人のであれ夫婦関係を損なうことはするな不倫などもってもほかとか、盗むなとか、他人を陥れるようなことは言ってはならないとか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしてはいけない、というふうに人間との関係でこうしろああしろ(というか、こうしてはいけない、ああしてはいけない)という掟があります。これらの掟に従っていれば、神の意思に沿っていて、神の目に適うということになります。
ところが、人間ですから完全ではなく弱さや隙があります。それで、掟を破ってしまったらどうなるか?神の意思に反し、神の目に適わなくなってしまい、神の失望と怒りを買って罰を受けてしまう。それで、神の意思に反したことの償いをしなければならなくなります。償いを神が受け入れれば、罪を赦してもらったことになります。それで、神との関係が改善されます。私たちは悔いていますと言うのなら、その気持ちを動物を生贄に捧げることで表しなさいということになりました。旧約聖書のレビ記の4章をみると、掟を破ったのが祭司だったり、共同体全体だったり、その代表者だったり、個人だったりに応じて、牛や山羊を犠牲の生贄に捧げることが定められています。生贄を捧げると神から罪が赦されるとあります。まさに罪の償いのための生贄です。レビ記の16章をみると、第七の月の10日に贖罪日という国民的な儀式の日が定められ、この時も罪の赦しを得るために動物の生贄が捧げられます。
ここで、神に背いたのは人間だから人間が罰せられるべきで、動物を生贄に捧げるなんてちょっと身勝手で動物が可哀そうと思われるかもしれません。しかし、人間が神から赦しを得てもう一度やり直すことができることが目指されているのです。罰を受けて死んでしまったら、やり直しなど出来ず、元も子もありません。人間が死なないでやり直しできるためには誰かに代わりに死んでもらわないといけない、神の意思に背くというのはそれくらい命に係わる重大なことだというのです。
聖書の世界の外を見ても、人間が何か超自然的な相手に捧げものをするということはあります。例えば、何か不幸が起これば、そういう超自然的な相手の怒りを買ったとか祟られたなどと解釈して、その相手を宥めたりご愛顧を引き出すために、動物の生贄とまでは行かなくとも、何か捧げものをしたり、お祓いや清めの儀式をします。もちろん、不幸が起こる前に、起こらないようにと前もってそういうことをします。旧約聖書みたいに動物を犠牲の生贄に供することをしない宗教であれば残酷ではないと言えるかもしれません。しかし、その場合、神の意思が重大なものとしてある、ということはどうやってわかるでしょうか?それに背くことは命に係わる重大なことなのだ、というような重大さはどうやってわかるでしょうか?
こういう、創造主というものがあって人間はその意思に背くと創造主との関係がだめになる、それで背いてしまったら償いをして関係修復をしなければならないということが聖書の神と人間の間にあります。また、聖書の世界の外でも、不幸が起きないように超自然的な相手を宥めるということがあります。こうしたことは現代を生きる人たちにとっては、未開の人間のやることで馬鹿馬鹿しいものに見えるかもしれません。でも、そう思っている現代人でも、これをしないと、霊か何かの機嫌を損ねて良からぬことが起きる、などと言われたら、やはり不安になってやるのではないでしょうか?
聖書の中で犠牲の生贄を捧げるというのは、他の宗教と同じように不幸が起きないようにするという側面もあります。しかし、それよりも、もっと深い側面があります。神に造られた自分と造り主との関係はうまくいっているのか、関係がしっかり保たれているのか、ということを見つめ直す時、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのか、と自分を神の意思に照らし合わせて見つめ直します。自分は神をしっかり拝んでいるか、その名を汚すようなことはしていないか、週一日を神のことに心を割く日としていているか、父母に敬意を表しているか、殺していないか、自分のにしろ他人のにしろ夫婦関係を守っているか、盗んでいないか、他人を陥れるようなことは言っていないか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしていないか、それらの型にしっかりはまっているかどうかということがとても大事になります。不幸が起きませんように、ということよりも、神の意思に沿う人間でいられますように、というのが大事なのです。造り主の意思に背くというのは、造り主と一緒にいられなくなることを意味します。造り主あっての自分です。造り主と離れ離れになることほど恐ろしいことはありません。それなので、痛みや不幸を伴うものであっても、神の意思に沿うように生きることが出来るのであれば、それでいいのだ、という心構えになります。
動物の生贄の話に戻りましょう。イスラエルの民は罪の赦しを得るために律義に動物の生贄を捧げ続けました。ところが、神との関係を保つ方法として、それは持続可能なものでないことが明らかになりました。イスラエルの民が罪の赦しのためと言って生贄を捧げても、神の意思への背きは繰り返されてしまいました。贖罪の儀式が形式的、表面的になって、儀式を行った人の心は何も変わっていないということが明らかになっていきます。心は変わっていなくても儀式をこなせば赦されるのだというようことは、聖書の世界に限りません。はじめは心をこめて儀式が華やかで大掛かりなものになったかもしれません。それが、心はこもっていないくせに、儀式が華やかで大掛かりなこと自体が心がこもっていることの証しのようになるということがあると思います。そういう心の変化を伴わない儀式を目の当たりにした神ははっきりと、生贄を捧げても何の意味があるのか、そんなものを持ってこられてもうんざりだ、と言うようになります(イザヤ書1章11~17節、エレミア書6章20節、7章21~23節、アモス書4章4~5節、21~27節などにあります)。つまり神は、外見上だけでは意味がない、内面が変わらなければ意味がない、と言われるのです。このことは、後にイエス様が、十戒の掟は外面上守れても、内面までも守れなければ守ったことにならないと教えたことに重なります。例えば、人を殺していなくても、罵ったら同罪であるとか、不倫をしていなくても、ふしだらな目で異性を見たら、同罪である、と。
神は、御自分が造られた人間がなんとかして自分の意思に沿うようになって、造り主である自分と一緒にいることができるようになるために、つまり心が変わるように、何か別の方法を採らなければならなくなりました。それは、イザヤ書53章で予告されました。そこでは、人間の罪を自ら負って自分を罪の償いの捧げ物にして命を捨てる「主の僕」なる人物について述べられています。彼は屠り場に引かれる小羊のようであったと言われています。そして、このイザヤ書の予告は全てイエス様が具体化させました。彼は罪となんのかかわりもない、神聖な神のひとり子だったのに、私たち人間の罪を全部引き取って、それを全部十字架の上にまで運び上げ、そこで人間の罪の責任は全部自分にあるかのように神の罰を私たちに代わって受けられたのでした。実にイエス様は、かつての動物の生贄のように、人間の罪を償う犠牲の生贄となったのでした。
しかも、犠牲に供されたのは動物ではなく、神聖な神のひとり子でした。これ以上の犠牲はないという位の完璧な犠牲でした。それゆえ、神に罪を赦して頂くための犠牲はこれで完了しました。エルサレムの神殿で行われていた動物を生贄に捧げる儀式は根拠を失いました。神聖な神のひとり子が人間の罪を償う犠牲の生贄になった、これは本当のことであり、そのひとり子イエス様は本当に救い主だった、そう分かって、彼をそのような者と信じると、神から彼の犠牲に免じて罪の赦しを頂けるようになりました。そこで聖書の世界の外に対しても、不幸の原因を取り除こうとして超自然的な相手のご機嫌を宥めようと捧げものや儀式をしている人たちに、天地創造の神のご機嫌を未来永劫に宥める捧げものがなされた、それがイエス様である、彼を救い主と信じれば、天地創造の神がいつもそばについていてくれるようになる、と言うことができるのです。
かつて動物の生贄を捧げていた時は、儀式が外面的、表面的なものになって心の変化が伴わなくなってしまい、神の批判の的になったと申しました。それでは、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂いたら、心の変化はしっかりあって神の意思に沿うように生きることが本当にできるのでしょうか?
それは本当にできます。まず、イエス様が十字架の上で死なれた時、罪が力を失ったことを知りましょう。動物の生贄の場合は、毎年捧げなければならないものでしたので、それで得られる罪の赦しは有効期限というか、賞味期限があったことになります。動物の贖罪の効力は限定的でした。翻って、イエス様の犠牲は未来永劫に渡って罪が赦される桁違いの償いでした。罪は本当に人間を神から引き離す力を失ったのです。それだけではありません。一度死なれたイエス様を父なるみ神は死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることが示されました。しかもその時のイエス様の有り様は、永遠の命を包み込む復活の体でした。遠い将来、死者の復活が起こる時、復活させられる者はこういう有り様なのだということが示されたのです。なんと楽しみなことではありませんか!
こうした、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体というものが、自分のものになるということは、これは頭で考えて理解しようとしても、受け取ることは難しいです。それらのものは、あまりにも大きすぎて、理解という小さな門を通り抜けることは出来ません。あたかも、駱駝が針の穴を通過できないようにです。それでは、これらのものを受け取って自分のものに出来るためにはどうしたらよいのか?そのために洗礼があります。ルター派の立場で言えば、正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時に水に対して聖書の御言葉を語ると、水はただの水でなくなって洗礼を実現する手段になります。それを用いて洗礼をすると、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体がすっと自分のものになります。まるで駱駝が針の穴を通ったようにです。正確を期して言うと、永遠の命と復活の体に変わるのは将来の復活の日ですので、洗礼ではそれが約束されるということです。洗礼を通して、永遠の命と復活の体をゴールにする道に置かれて、その道を歩み始めるということです。
このように洗礼は本当に奇跡的なことですが、聖餐式も同じです。正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時にパンと葡萄酒に対して聖書の御言葉を語ると、パンと葡萄酒はただのパンと葡萄酒でなくなって聖餐を実現する手段になります。これを「私は洗礼を通して罪が力を失ったことと、永遠の命と復活の体を受け取りました」と洗礼の賜物をわかっている人が聖餐を受けると、それらの受け取ったものはしっかり根をおろします。罪は力を失ったままで、永遠の命と復活の体に向かう道を踏み外さずに歩み続ける力を得ます。
このように生きる者にとって、神の意思に沿うというのは体の一部になっています。それで、神の意思に背くというのは、体や心に傷がつくようなもので、健康が失われたのと同じです。そこで、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者はもう神の意思から離れることが全くないのか、と問われると、やはりあると言わざるを得ません。それは、肉や心の弱さのためであり、また自分の中の罪は力を失ったとは言っても、この世には人間と神の間を引き離そうとする力が沢山働いているという現実があります。隙があれば、いつでも弱さにつけこまれます。そこで、神の意思に沿わないことがあると気がついたら、すぐ神に赦しを願います。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架にかけられた主に向けさせて下さいます。そしてこう言われます。「お前の罪はあそこで償われている。お前が犯した罪にはもうお前を私から引き離す力はない。わが子イエスを救い主と信じるお前の信仰とイエスの犠牲に免じてお前は罪を赦され、私としっかり結びついている。だから安心して行きなさい。もう罪を犯さないように。」神はそうおっしゃって下さるのです。
5.
兄弟姉妹の皆さん、イエス様は真に世の罪を取り除く神の小羊です。私たちの罪を償い、私たちを罪の支配から贖い出して下さった犠牲の小羊です。旧約聖書の世界の犠牲の生贄は人間が準備するものでしたが、この小羊は神が準備したので真に「神の小羊」です。また、以前の犠牲では罪の力を消すことはできませんでしたが、この犠牲はそれを消すことができました。それが神聖で完璧な犠牲だったからでした。それで真に「神の小羊」です。この小羊の償いと贖いの業により、罪からは神と人間の間を引き裂く力が失われて、永遠の命と復活の体に向かう道が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼により、罪が力を失った状況に置かれて、その道を歩む人たちが出てきました。罪は完全に面目を失い、世の罪が取り除かれた状況が打ち立てられました。しかし、まだ大勢の人が罪が無力の状況に置かれていません。永遠の命と復活の体に至る道も歩んでもいません。せっかく、その状況と道が打ち立てられたという現実があるにもかかわらず。問題は、人々がその状況の外側に留まることをやめて、その中に入って来れるかどうかです。それで、福音伝道の必要性は決してなくなりません。「世の罪を取り除く」と言う時、「取り除く」はギリシャ語原文では現在形なので常態として行っているということです。2000年経った今も「取り除く」ことは続いているのです。「取り除いて下さった」と言ったら、過去か完了の形にしなければなりませんが、それは気の早い話です(後注2)。それなので今も世の中には神の意思に反することが沢山あるわけで、その意思に沿うように世を変えていこうとする働きが続けられていきます。神の意思に反することをやめてそれに沿うようにしようと方向転換する人たちはいつも現れてきます。神の意思に沿う生き方をすることは、反する生き方からあざ笑われますが、「かの日にはこの自分も復活させられるんだ」という希望を持つ人にはこの世の嘲りなどどうでも良いことです。兄弟姉妹の皆さん、真にイエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」です!
ιδε ο αμνος του θεου ο αιρων την αμαρτιαν του κοσμου.
(後注 ヘブライ語分かる人に)細かいことかもしれませんが、1節でも5節でも前置詞はבではなく、מןが使われています。大学のヘブライ語の先生がこういう細かいことをうるさく言う人だったので。
(後注2 ギリシャ語分かる人に)これをアオリストの分詞を用いて、ο αρας την αμαρτιαν του κοσμουにすれば、「世の罪を取り除かれた」ですが、「取り除かれた」のは将来のことでもよいわけで、その場合は「(将来)取り除きを完了させる」という意味になります。でも、ここはαιρων現在の分詞ですので、常態として「取り除いている」です。