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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の個所は、イエス様が弟子たちを相手に教えを述べているところです。4つの教えがありますが、それぞれどう関連しあっているか、わかりにくくバラバラな感じがします。
最初の教えは、信仰をつまずかせることが起きるのは避けられない、そして信仰をつまずかせる者は不幸である、と言います。ここでイエス様は面白い言い方をします。他人の信仰をつまずかせる者にとって有益なことは、人をつまずかせることではなくて、首に碾き臼をかけられて海に投げ込まれることである、と言います(後注1)。碾き臼とは穀物などを挽いて粉にする臼で石で出来ています。とても重いです。「投げ込む」はギリシャ語原文の動詞は現在完了ですので、投げ込まれてそのままの状態です。海底に沈められてそのまま出てこない方がその者にとって有益である、と言うのです。なぜ有益なのかと考えると、その者が沈められないで出てきたら他人の信仰をつまずかせたという汚名を自ら着せることになります。それで最後の審判の時に創造主の神の前に立たされたら、もう一巻の終わりです。そういう汚名を自ら着せる位なら、海底にひっそり沈んでいた方がその者のためであるというわけです。
信仰をつまずかせるとはどういうことか?まず信仰とは、イエス様を救い主と信じる信仰です。それをつまずかせると言うのは、イエス様が救い主でなくしてしまうことです。信仰者が信仰者でなくなるようにすること、そういうことをする者は海底に沈められた方が良いと言う位に重大なことだと言うのです。イエス様を一度救い主と信じた後でそうなくなること、またなくなるようにすることがなぜそんなに重大なことなのか?現代に生きる人たちには不可解かもしれません。宗教の自由というものがあります。何を信じようが信じまいが、個人の自由である、勝手である、と。かつて若気の至りでイエス・キリストを救い主などと言ってしまった時期があったが、その後の人生でいろいろあって、信じても良いことはそんなになかった、とか、別の何かを信じたらそっちの方が良かった等々、そんなふうにイエス様が過去の人物になってしまったという人もいます。そういう人たちは、何が何でもイエス一筋というのは自分を縛り付ける不自由だと考えているでしょう。しかし、イエス一筋をやめるというのは本当は、自由を手にしてもそれはそんなに大したものではなかったと気づいて悔やまれるくらいの大損なのだ、ということを後ほど見ていきます。
信仰をつまずかせるものについて教えた後に、信仰を同じくする者が罪を犯したら、ちゃんと戒めなさい、それで赦しを乞うたら赦してあげなさい、という赦しについての教えが来ます。7度罪を犯しても、7度赦しを乞うたら、そのたびに赦してあげなければならない。マタイ18章を見ますと、ペトロがイエス様に、赦すのは7回までいいのか、つまり8回目以降はないということか、などと確認するところがあります。それに対してイエス様は7の70倍までだと答えます。つまり、赦しは際限なく与えられなければならないと言うのです。現実に490回も悪さを繰り返す人はいないと思いますが、こちらは痛いつらい思いをして、相手は以後気をつけます、赦して下さい、と言って、それで赦してあげても、そんなことの繰り返しだったらいい加減あきれてしまいます。謝罪に重みが感じられなくなって、もう赦す気がなくなってしまうでしょう。しかし、イエス様は赦しを乞われたら赦しなさいと言うのです。なんだかキリスト信仰者はお人好しの馬鹿みたいな感じがしてきます。どうしてイエス様はそんなことを教えるのでしょうか?このことも後で見ていきます。
次に来る教えは、弟子たちが「信仰を増して下さい」とお願いしたことに対して、イエス様が不可解な答えをします。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθεςπιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。イエス様の答えから推測するに、弟子たちの質問の趣旨は、大きな業が出来るようになるのが信仰の大きさの証しになるので、そんな大きな信仰を与えて下さいということです。それに対するイエス様の答えは、お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、目の前の桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。からし種というのは、諸説ありますが、1ミリに満たない極小の種でそれが3~4メートル位にまで育つと言われています。そこでイエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、極々小だ、と言っていることになります。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、これでは、お前たちの信仰は小さすぎて救いようがないと言ってることになってしまいます。イエス様は何か勇気づける話はできなかったのでしょうか?イエス様の真意は一体なんだったのでしょうか?これも後で見ていきます。
そして4番目の教えです。召使いを労わない主人についてです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか、企業だったらブラックと同じではないか?そんな疑問が生まれます。本当にそうなのか、これも見ていきます。
わかりそうで実は難しい4つの教えの4番目のものから見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで言われている「命じられたこと」というのは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、本日の個所の4つの教えは全部、信仰について弟子たちに教えるものだからです。この4番目の教えもそうです。それで、「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇い主と雇われ者、親と子、先生と教え子の関係のことではありません。
神が人間に命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、言うまでもなく、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということにつきます。信仰者はそういうことが出来ても、神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないで当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても、顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。自分がいても意味がないということになれば、自己肯定感なんか生まれないでしょう。
ところが、神は、私たちへの労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても全然平気と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、まず御自分のひとり子イエス様をこの世に送られました。そこで、私たちが持っている罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていたのですが、それを神はイエス様を使って回復して下さったのです。どのようにして結びつきを回復したかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対してして下さったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命があることを示され、そこに至る扉を私たちに開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、この完璧な罪の償いを頭から被せてもらって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。神のひとり子が果たして下さった罪の償いを手放さずしっかり身につけてこの世を生きていくと、創造主の神の前に立つかの日には、何もやましいところはない者として堂々と立つことができる。本当は失敗だらけで至らないことが沢山あったのだが、その度に心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを乞うた。そうすると、一度打ち立てられた罪の赦しはびくともせずそこにあるとわかり、神への感謝に満たされて再び命の道に戻ることが出来た。命の道とはまさに、繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道の歩みを神は義と見て下さり、かの日に神の前に堂々と立つことが出来るのです。
まさに、ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰の中で歩んだおかげで、神の前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神に注目されるようなことを仕出かす前に。逆にそれどころか、神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はイエス様を贈って下さったのだ。
これらのことがわかると、やるべきことをして労われて誉められたというのとは全く逆に、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになります。だからキリスト信仰者は、後は神に命じられたことをただするだけ、別に神から労われたり誉められなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を使ってして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さった、これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しなくても平気でいられる位の自己肯定感です。
もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることも、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の間から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところに創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。だから、人間同士のすることで神の意思に沿わないことが出てきた時も、別に人間からほめられなくてもいいや、と言って、神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、先ほども申しましたように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。
そのように考えると、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の間から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価される注目されるということを見極めて、それに自分を一生懸命あわせなければなりません。自己肯定感のためにやっていたはずのことが窮屈な思いをさせることにならないでしょうか?、
イエス様の4つの教えの2番目のもの、何度も罪を犯す兄弟を何度でも赦すこともキリスト信仰者の自己肯定感と関係してきます。私たちは、父なるみ神から、ひとり子を犠牲に供しなければならない程の罪を赦してもらった。そこまでしないと、私たちは創造主の神の前に立たされて大丈夫ではいられないのです。神がひとり子を犠牲にする位の罪の償いと赦しを得ることが出来たら、もう兄弟の罪は色あせます。赦しを乞われたら、何度でも赦してあげなければなりません。先ほども申しましたように、キリスト信仰者自身、それこそ毎日罪の赦しを確認してもらわなければならない位、神に対してやましいところがまだあるのです。神から毎日赦してもらいながら、自分は他人を赦せないというのはなしです。
ここで一つ難しいことがあります。それは、もし相手が赦しを乞わなかったらどうするか、その場合は、赦さなくていいのか、ということです。ここで思い出さなければならないことは、使徒パウロがローマ12章で「復讐は神のすること」と言っていることです。私たちとしては、悪を行った者が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませなければならないということです。ざまあみろ、飢えて死ね、は神が私たちに求めていることではないということです。私たちとしては、悪を行った者が神のもとに立ち返る生き方に入れるように手立てを考えなければならない、これが神の意思です。それがどんな結果に至るかは、神に任せて、私たちとしては神の意思に沿うことをするだけということです。
以上、4番目と2番目の教えを見ましたが、ここから、1番目の教え、信仰をつまずかせることがどうして重大なことかということは、これはもう明らかでしょう。イエス様を救い主と信じる者からその信仰を引き離してしまうというのは、神の前に立たされる日に堂々と立つことができなくなるようにしてしまうことです。神からやましいところはないと見なしてもらえる術を失わせてしまうことです。キリスト信仰者から根本的な自己肯定感を奪い去ることです。これを重大ではないと言ったら、何が重大と言えるでしょうか?信仰者をそのような状態にしようとする者は海底に沈んだままで表に出てこない方が、その者のためにもよいのです。
最後に3つ目の教えを見てみます。信仰の成長についてです。初めにも申しましたように、イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうものに思えます。
ここは次のように考えたらよいと思います。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」となっています。それを続く文と一緒に考えると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示していることになります。それで、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、実際にはないことを前提に言っているので、高校の英文法式に言えば、事実に反することを意味する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去は使われておらず、素直な仮定法現在です(後注2)。つまり、ここのところは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことが起きるだろうし、もし持っていなければ起きないだろう」という、中立的なことを言っているだけです。どんなことが起きるかというと、ここの部分は仮定法過去になっているので、「(そんなことは誰も命じないだろうが)目の前の桑の木に命じるようなことを仕出かして、木の方も素直に言うことを聞くであろう」です。
それではイエス様の趣旨は何だったのか?少し整理してみましょう。からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。さて、弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種のことを思い出しなさい、極小なものから立派な木が育つではないか、お前たちの信仰も同じだ、極小のものが立派なものに育つのだ、大きくして下さいと言って一挙にハイ大きくしてあげました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注3)。
このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から立派な木に育つからし種と同じなのだ、成長するものなのだということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように信仰も成長すると勇気づけているのです。それでは、信仰が成長して、不思議な業を行えるようになるのか、行えなければ成長したことにならないのか?奇跡の業は、神の恵みの賜物(χαρισμαカリスマ)の領域ですので、みんながみんな行えるものではありません。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。奇跡の業を行える者が持たないような恵みの賜物も当然あります。だから、人目を引く業があるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけません。人目を引かない業もあるからです。残念ながら、信仰者といえども人目を引くものに基づいて判断しがちです。
それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神の前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところは何もないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。恵みの賜物は異なっていても、これだけは全員同じです。
最後に、「信仰が成長する」と言いましたが、正確には「信仰にあって私たちが成長する」ということでしょう。信仰はイエス様を救い主と信じる信仰で、それ自体は大きくなったり小さくなったりしません。誰にとっても同じ内容、大きさです。問題はそれを受け取った私たちが、それを手放さずにしっかり携えてこの世を生きられるかです。私たちの成長が試されるのです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出す。その繰り返しです。その繰り返しをすることが、信仰にあって成長することです。信仰に自分を適合させて成長することです。適合すればするほど成長し、最後はからし種の立派な木のようになります。その時が復活の日なのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)日本語訳では「投げ込まれる方がましである」ですが、ギリシャ語原文のλυσιτελει αυτωは「彼にとって有益である」です(ηが後にあるので「より有益である」)。
(後注2)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεになるべきでしょう。
(後注3)εχετε
ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk-SvenskOrdboktillNyaTestamentetochdeapostoliskafäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。
本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。この箇所でイエス様は実にいろいろなことを私たちに教えています。
まず、話の中に登場する金持ちは富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人です。贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。
ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזרという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人々はきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それにすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けをずっと求めている人がいたことに気づいていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。
さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。
ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事はほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは、「陰府」の世界に行き、そこで永遠の火に毎日焼かれなければならなくなった。ラザロの方は、天使たちによって天の御国に連れて行かれ、そこでアブラハムと共に「宴席についた」。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。
金持ちは、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富に対しては主人になって、それを神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。
以上が本日の福音書の箇所の要旨です。読めば誰でも、ああ、イエス様は神に仕えず財産に仕えてしまったら天国に行けない、財産を隣人愛に用いないといけない、と教えているんだな、とわかります。それはそれで間違いではありませんが、それではまだ不十分です。本日の箇所は次の3つのことも教えています。まず天国や地獄というものについて、それから神の正義ということについて。これらは以前の説教でもお話ししましたが、3つ目のものは今回見えてきたものでして、それは何かと言うと、イエス様の死からの復活の出来事は信じる者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。少しわかりにくいですが、どういうことが後ほど見ていきます。最初に2つのことを少しおさらいします。
天国や地獄などと言うと、人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて、時代遅れのやり方だ、などと思う方がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこにいくのかとか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかどうか、という問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かない、死んだらそれで終わりで消えてなくなる、だからこの世では他人に迷惑をかけないで自分の好きなことをするのが一番いい生き方なのだ、と考える人もいるでしょう。また人によっては、死んだら魂だけ残って、どこか安逸な場所に行って他の魂たちと会することになるとか、または新しく別の人間ないし動物に生まれ変わるとか、いろいろあると思います。
そこで万物の創造主である神とそのひとり子のイエス様は、天国と地獄についてどう教えているか?これは聖書全体を見渡さないといけない大きな問題ですが、本日の福音書の箇所を見るだけでもいろいろなことがわかってきます。
実は本日の箇所は、よーく見ると、あれちょっとおかしいなと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと共に宴席に着くというように理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海の世界ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。
「陰府」と「地獄」の関係について少し見てみましょう。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます。その次に、それ以外の人たちが復活させられますが、この者たちは前世での行いに基づいて裁かれます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4ー6節)。これが最後の審判です。これに続いて、天と地が新しく創造されて古いものに取って代わり(21章1節)、神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。復活を遂げた者たちが一堂に会する神の国、これが天の国、天国です。
こうしてみると、天国とか地獄というものは、将来、復活や最後の審判が起きる時になって、迎え入れられたり、投げ込まれたりするところとなります。そういうわけで「陰府」というのは、復活や最後の審判が起きる日まで死んだ者が安置される場所で、今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と教えています。復活の出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。
そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の地獄に投げ入れられるかは、これはまだ先のことで、今の天と地が存在する今の段階では「陰府」で安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われる反面、でもそうなると、復活や最後の審判が起きていなければなりません。ところが、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判の日は来ていません。そうすると「陰府」でなければならないのですが、金持ちは眠りについておらず、まさに地獄の火で焼かれています。まだ最後の審判は起きていないのに。一体これはどういうことでしょうか?
この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVはハーデースαδηςをhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見るとこんなことを言っています。ギリシャ語原文では地獄ではなく陰府を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、そう断っているのです。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、Einheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltという訳で、「地獄」とは区別されています。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、地獄とはしっかり区別されています。
どうしてイエス様はこの個所で、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって復活と最後の審判が起きる将来のことです。その時はじめて全人類が対象となる天国への迎え入れと地獄への落し入れが起きます。ところが、金持ちはアブラハムにラザロを父親の家にいる兄弟のもとに送って下さい、そうすれば彼らは悔い改めますから、と頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまったら、復活と最後の審判が起こったことになってしまいます。その場合、今の天も地も父親の家もなくなって、兄弟たちも裁きの座に引き渡されて、ラザロを送ってあげるどころではなくなります。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。それでイエス様は火の海を地獄ではなく陰府と言ったと考えられます。こうしたことは、自由な創作をすれば起きると思います。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで時間の正確な流れにはこだわらなかったのでしょう。
それでは、その大事なこととは何か?それは、冒頭でも申し上げましたように、一つは神の正義についてで、もう一つはイエス様の復活の出来事は信仰者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。これからこれらについて見ていきますが、その前に天国と地獄についてもう一つだけ述べておきます。
聖書の立場では人間は死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、その場所が陰府ということにすると、聖書には例外もあるということも覚えてよいかと思います。つまり、復活や最後の審判の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人たちがいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記下2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもそのような者と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、復活や最後の審判の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうか?これはもうそこにおられる父なるみ神しか知ることができません。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。ルター派の信条であるアウグスブルグ信条も同じです。
日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった人が今天国から見守ってくれているという言い方をよくします。「天国」というキリスト教的な言葉を使うのですが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。その日まで眠りについているという考えもありません。亡くなった方が安らかに眠ってしまったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と心配になってしまうでしょう。でも、キリスト信仰では天と地と人間の造り主である父なるみ神が見守ってくれるので何も心配はいりません。
以上、天国と地獄について見てきました。ここから、イエス様が金持ちとラザロの話で教えようとしている二つの大事なことを見ていきます。一つ目は、神の正義についてです。神は正義をどう実現されるか?イエス様の教えから明らかになるのは、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には次の世で必ず解決されるということです。ルターなどは、この世で悪が罰せられずに我が物顔でのさばればのさばるほど、次の世で受ける報いもそれに比例して大きくなると言っています。本日の箇所の25節でイエス様はアブラハムの口を借りて次のように言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」まさに、「高くするものは低められる。低くするものは高められる」というイエス様の教え通りです。このように、復活の日、最後の審判の日には、歴史上の全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われ、清算すべきものがあれば完璧にされるのです。
黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在することが言われていますが、これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。
この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。たとえ解決が結果的には来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神に感謝!ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神は最後の総決算のために全てのことを全部記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神がかわりに全てを正確に完璧に把握してくれています。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあっても、神は後で何百倍にして返して下さいます。倍返しどころではありません。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿おうとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないようにと、神の秩序は出来ているのです。
もうひとつ大事な事は、イエス様の復活の出来事は信仰者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。これについて見ていきましょう。
イエス様はアブラハムの口を借りて言います。「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」モーセと預言者というのは旧約聖書のことを意味します。これを読むと、「旧約聖書に耳を傾けない人は、死者の復活を目の当たりにしても、耳を傾けないままである」というように捉えられます(耳を傾けないのは旧約聖書のこと?蘇った死者のこと?)。これはちょっと違います。ギリシャ語原文では、「旧約聖書に耳を傾けない人は、死者の復活を目の当たりにしても、確信には至らない、納得には至らない」です。英語訳、ドイツ語訳、スウェーデン語訳の聖書もそう訳しています(フィンランド語訳はちょっと変わっていて「信じるには至らない」です)。
「死者の復活を目の当たりにしても確信、納得には至らない」と言う時の「確信、納得には至らない」とはどういうことか?金持ちはアブラハムにラザロを兄弟のところに送って下さいとお願いしました。死者が生き返ったのを見たら、兄弟は悔い改める、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになる、そういう効果を期待したのでした。ところが、アブラハムの返答は厳しかった。彼らに関しては死者の復活を目の当たりにしてもそんな効果はない、自分たちの生き方の間違いを確信、納得するには至らない、というものでした。そうなので、期待するような悔い改めは起こらないということです。旧約聖書に耳を傾けない者は、寝ぼけているのと同じ状態なので、死者の復活を目の当たりにしても寝ぼけ眼で見るだけです。
ところが、旧約聖書に耳を傾ける者が死者の復活を目の当たりにすると効果は甚大で、自分の生き方の間違いを確信、納得する。しっかり神の方を向いて生きる。旧約聖書に耳を傾ける者にどうしてそのような効果があるのでしょうか?
旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように耳を傾けようとすると罪の問題を心の奥底まで見なければならなくなります。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うと、もう自分には神の意思に沿えるものが何もなくなってしまいます。そうなると神の御前に立たされる日がとても恐ろしいものになります。ところが旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを約束します。どんな約束か?人間が神の御前に立たされて恐れたり委縮しないで済むようにと、人間の罪を人間に代わって神罰を受けて償って下さる方が来られると約束します(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、自分の罪深さが神の御言葉によって暴露されてしまい悲しみに陥るということです。しかし同時に、神の力と計らいで人間は罪から贖われるという約束に希望を託することです。旧約聖書に耳を傾けるというのは、このような悲しみと希望の精神に立つことです。
さて、この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。十字架の死を遂げることでイエス様は私たちの罪の償いを果たして下さり、さらに死から復活されることで、人々に復活の新しい体と死を超えた永遠の命も本当にあるということを示されました。それだけではありません。私たち人間が、これらのことは本当に歴史上起こったと信じて洗礼を受けると、即イエス様の罪の償いを頭からすっぽり被せられて、神からは罪を赦された者と見なされるようになります。同時に永遠の命に至る道に置かれ、今後はその道を歩むことになります。
このように旧約聖書に耳を傾ける人とは、自分には神の意思に反するものがあるという不都合な真実に目を向けられる人です。同時にその人は旧約聖書には罪からの贖いが実現するという慰めの約束があると知っている。不都合な真実に目を向けると同時に慰めの約束が果たされる日を忍耐して待っています。これが旧約聖書の精神です。イエス様の十字架と復活を耳にした時、約束が果たされたことを知ります。そしてそれからは、不都合な真実に直面しても約束の実現が既にあるので、真実から逃げなくとも慰めを得られます。イエス様の復活が信仰者の心に旧約聖書の精神を一層根付かせるのです。
創造主である神の目に至らない自分の真実に目を向け、
罪から贖われるという神の約束を思い出そう。
神はひとり子を犠牲にしてその約束を果たして下さったのだ!
イエス様は死から復活された。今こそ旧約聖書の精神に立ち返る時。
本日の旧約聖書の日課コヘレト8章10ー17節と福音書の日課ルカ16章1ー13節は両方ともとても難しいところです。まずコヘレトを見ると、まるで、神を畏れて正しく生きようとしても結局いいことは何もなく、悪を行っても罰せられずに逆にいいことが起こるのだから、快楽に身をまかせてしまった方が意味がある、とさえ受け取られるような内容です。聖書たるものがこんなことでいいのか、と言いたくなります。
ルカの方を見ると、イエス様がある出来事について話して、それをもとに教えを述べます。どんな出来事かと言うと、ある金持ちの財産を管理する人が主人の財産を「無駄遣い」していた、というより、ギリシャ語の動詞(ディアスコルピゾーδιασκορπιζω)は「使いまくっていた」と言っていいでしょう。それはやがて、主人に知られることとなり、主人は彼を解雇することに決め、その前に会計報告を出すよう命じます。報告書をまとめている間、管理人は身の振り方を考えます。困ったことになったぞ、これを主人に提出したら即、解雇だ。転職といっても肉体労働する力はないし、乞食になるのは嫌だ。そうだ、主人に負債がある人たちを呼んで、彼らの借金を主人に内緒で減額してしまおう。そうすれば、僕が失業した時、借金を減らしてもらった者たちは僕を家に迎え入れてくれるだろう。管理人は借用証書も管理しているので次のような芸当をやってのけます。油100バトスの負債がある人に、証書を新しいものに取り換えてやるから、ここに50バトスと記載しろ、と命じる。1バトスは39リットル位と言いますから、油3,900リットルの半分1,950リットルが帳消しになりました。2リットル入りのペットボトルが975本分の油です。負債者は喜んだでしょう。次に小麦100コロスの負債がある人を呼んで、80コロスと書かせる。1コロスは、393リットルということで、半分ではないにしても、小麦7,860リットル分が帳消しになりました。2リットル入りのペットボトルで3,930本分の小麦です。負債者は喜んだでしょう。
このように管理人は会計文書を偽造するわけですが、驚いたことに、イエス様は、この管理人が「賢く立ち振る舞った」などと褒めるのです。主人の財産を使い込むという不正を働いた者がさらに文書偽造までする、そういうさらなる不正があったのにイエス様が褒めるというのは一体どういうことか?こんなことでは、国会で公文書偽造で追及された関係者たちが喜んでしまうではありませんか!それ見ろ、あのイエス・キリストもいいと言っているじゃないか、と。
この話は、イエス様がよく使うたとえの話なのか、実際にあった話なのか、はっきりしません。たとえの話ならば作り話ですので、自分で作った話の登場人物を褒めるというのは少し変な感じがします。恐らく、これに類する事件があったのではないかと思われます。ただ、作り話にしろ、実際にあった話にしろ、この話と後に続くイエス様の教えの部分がどう結びつくのかとてもわかりにくいです。
教えの部分を見ますとイエス様は「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値のあるものを任せられるだろうか」と言います(11節)。あれっ、管理人が借用証書を偽造したのは、富について忠実では無かったんじゃないのか?なぜイエス様は管理人を褒めたのか?と言いたくなります。さらに最後の13節では、神と富の両方に仕えることはできない、と教えています。その趣旨は明らかに、人は神のみに仕えなければならない、ということです。そうすると、富に対して忠実たれ、と教えていたこととかみ合わないではないか?なんだか本日の箇所は支離滅裂に見えてきます。
このように、本日のコヘレトの個所とルカの個所は説教者泣かせの聖句で、そんなのが二つもあってダブルパンチです。しかしながら、どんなに難しい個所でもイエス様を救い主と信じる信仰の目をもってこの何度も何度も読み返し、あわせて聖書の他の箇所で何が言われていたかということも思い出しながら読んでいくとだんだん理解できてきます。もちろん父なるみ神に知恵をお願いしながらですが。ヘブライ語やギリシャ語の知識も理解に役立ちますが、理解を助けるのはあくまでも信仰の目を持って読むかどうかにかかっています。
6年前はルカの個所を中心に解き明かししました。3年前はコヘレトを中心にしました。その時、「コヘレトの言葉」は神を畏れて生きるのは意味がない、だから快楽主義でいいんだ、と言っている書物ではない、全く逆のことを言っているのだ、ということを明らかにしました。どうしてそんなことが言えるのか驚かれる方は教会HPで以前の説教(2016年9月18日)をご覧くださればと思います。今回はルカを中心に見ていきます。
イエス様は恐らく現実にあった出来事をもとに何かそこに弟子たちが学び取るべきものがあると考えて、それを取り上げたと考えられます。富について弟子たちに何かまだ考えが足りないことがあって、それをわからせるためにそうした。では、その考えが足りなかったこととは何か?そのように見ていくと、管理人が文書を書き換えたことは本質的なことではなくなってきます。イエス様がそれについてとやかく言わなかったのは、恐らく金持ちの主人が言われている位の借金減額ではびくともしない大金持ちだったからと考えられます。それで弟子たちに学び取ってもらうことを教えるのに都合がよい題材として選んだのでしょう。それでは弟子たちが学び取るべきものとは何だったのか?以下に見てまいりましょう。
本日のルカの箇所をよく理解できるためには、この箇所で一番重要なポイントになっていることを見つけて、そこから箇所全体を見渡して理解するようにするとよいでしょう。本日の箇所の一番重要なポイントとは、最後の13節です。聖書を読む時に、たいていの場合、ひとつのまとまった箇所のポイントは終わりの部分にあると覚えておくとよいでしょう。
「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
ここでイエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えます。「仕える」という動詞は、ギリシャ語で見ると、正確には「奴隷として仕える」(δουλευω)という意味です。奴隷は主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能なわけです。イエス様は、人間と神と富の関係も同じだと言います。どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になる。
ここでひとつ注意したいのは、イエス様は、神に仕える者は財産を持ってはいけない、とは教えていないことです。イエス様が言っていることは、神と富の双方にお仕えする、従属することはできない、ということです。富には従属しないで神に従属することが出来れば、富を持つことは問題ないのです。富を持つことがそのまま従属することになってしまい神への従属がなくなってしまえば、その時は持つべきではないということです。人間が富に従属せず神に従属して富を持つというのは一体どういうことか?ルターが次のように明らかにしています。
「神は、我々が出し惜しみしたり欲張ったり、減ったら困るなどと心配して、お金や財産にお仕えする者にならないようにと望んでおられる。神が我々に望んでおられるのは、心配事は全部、神に心配してもらえばいいという心意気で、自分はただ与えられた課題に取り組んでいくということだ。財産に仕える者はその奴隷であり、その時、彼は財産を所有するというよりは、財産に所有されているのである。そういう人は、財産を使うのが必要な時が来ても、使う勇気を持てず、財産を使って他の人に仕えることもできない。つまり、お金に旅立たせる勇気がないのである。ところが、もし人が財産の主人であれば、財産はその人に仕えることとなり、その人はもう財産には仕えない。例えば、君が着る物に困っている人を目にしたとする。すると君はお金に向かって次のように言う。『敬愛する金貨君!あそこに貧しくて上着がなく震えている人がいる。さあ、ここから出て行って、彼に仕えなさい!』また、次のようにも言う。『価値あるお金君、あそこに病人が助けも慰めも与えられないでいる。ここから出て行って、急いで彼を助けに行きなさい!』財産の主人とは、このように財産を扱うことが出来る者のことを言う。
キリスト信仰者とは、このように考えて行動する者を言うのである。使徒パウロは、欲張りや出し惜しみは偶像崇拝とまで言った。キリストは、それを富に従属することと言った。君が主人を選ぶ時、何もできない死んだも同然の金属のかけらに仕えるのか?それとも、生きて君を見守り導いてくれる神に仕えるのか?生ける神は、君のために喜んで用いられる心の方である。主は言われる。全身全霊で私のものになるか、さもなければ、私と全く関係のない者にとどまっていなさい、と。」
以上ルターの教えから、キリスト信仰者というのは、本当は神以外に従属するものがなく、他のものに対しては自由で束縛されていない者であり、それは富に対してもそうなのだ、富に対してはまさに主人なのだ、ということが明らかになったと思います。それでは、そのようなことはどのようにして可能なのでしょうか?それは、人間が神からとてつもなく高価なものをいただいたので、もうそれに比べたら他のものはみんな、どんな多額の財産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。それでは、その神から頂いた高価なものとは何か?それは、神のひとり子イエス様が本当なら人間が受けてしかるべき神罰を自ら引き受けて十字架の上で死なれたこと。そして一度死なれたが神の力で復活させられて永遠の命が本当にあることを示されたこと。人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、断ち切れていた神との関係を回復させることができ、それからは神との結びつきの中で生きられるようになること。そしてこの世を去ることになっても、神は御手をもって御許に引き上げて下さること。これらが何ものにも代えがたい高価なものとわかればわかるほど、神以外のものに従属しなくなって他のものに対しては自由になっていきます。他のものに対しては人間の物差しで計るのではなく、神の物差しで計るようになっていきます。富に従属するというのは、要するに、人間の物差しで計って生きるということなのでしょう。
本日の箇所のポイントである13節を要約するとこうなります。キリスト信仰者は神から計り知れない高価なものをいただいたので、神に従属して仕える者であり、富に対しては自由で束縛されず主人としてふるまう者であるということ。富を手にしている者は、それを人間の物差しで計らず神の物差しで計るので、「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛と、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛のために用いるようになる。そうすれば、富を持っていても、神に従属して仕えることは出来るということです。このポイントを念頭に置いて本日の箇所を眺めていくといろいろなことがわかってきます。
まず、11節「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せられるだろうか」。「不正にまみれた富について忠実たれ」という教えには戸惑います。この「不正にまみれた富」は、9節にも出てきます。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」。これにも戸惑います。ギリシャ語の言葉はアディコスαδικος(形容詞)、アディキアαδικια(名詞)ですが、「不正な」という意味は辞書にある代表的な意味です。ところが、言葉の使い方は、「不正な」という意味から派生していろいろあります。ルカ18章に、やもめにしつこく訴えられる裁判官のたとえがあります。イエス様はこの裁判官を「不正な裁判官」と呼びますが(6節)、同じ言葉(アディキアαδικια)が使われています。しかし、この裁判官の何が不正なのかは明らかでありません。明らかなのは、この裁判官が「神をも畏れず、人を人とも思わない」ということだけです。つまり、「不正な」と言っているのは、本当は「神からかけ離れた」とか「神を顧みない」という意味です。本日の個所の「不正にまみれた富」の「不正」も同じように理解するといろいろわかってきます。
先ほど13節のポイントで見たように、富には人間の心を従属させ、神への従属を妨げる力があります。「不正にまみれた富」というのは、まさに富というものが人を神からかけ離れたものにする、神を顧みないものにする、という意味です。要するに、「性質上、人間を神から遠ざける力を持つ富」ということです。そのような富に「忠実」であれ、というのはどういうことか?「忠実」というのは「神から遠ざかる」ことの反対のことを意味します。それで、神に対して忠実、神に従属して仕えるという意味になります(「忠実な」ピストスπιστοςは「信仰を持った」という意味もあります)。こうして見ると、「不正な富に忠実たれ」というのは、「人間の心を支配して神から遠ざける力を持つ富(不正な富)を、神に従属してお仕えする者として用いる」ことになります。これはまさに先ほどのルターの教え、神に従属して富の主人となってそれを隣人の必要に用いる、という教えと見事に一致します。そうなると神が「本当に価値あるものを任せる」というのは、神に従属する者は、神がイエス様を用いて実現した高価な救いを持つに値する者になっているということです。
12節「他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがた自身のものを与えてくれるだろうか」。これも、富・財産は自分の私有物のようでありながら、実は神という他人から預かっているものなので神の御心に従って取り扱わなければならない、と考えればよいでしょう。神に従属している時、「あなたがたのもの」が与えられるというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるあなたは神に従属しているので、神が実現した救いを自分のものにしているということです。
10節「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。「ごく小さな事」(ελαχιστος)とは、別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われる言葉ですので、「ささいなこと、取るに足らない事」です。つまり、「人を神から引き離す力を持つ不正な富」を指します。その富に対して、神の御心に従うように立ち振る舞う者は、より価値あることにも同じように立ち振る舞う。しかし、富に対して、「不忠実に」立ち振る舞う者、つまり神の御心に従わないで立ち振る舞う者は、より価値あることに対しても同じである、ということです。(日本語で「不忠実」と言っているのは、ギリシャ語でアディコスαδικος、つまり先ほども見たところですが、神を顧みないという意味です。)
次に9節。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。「不正にまみれた富」というのは、先ほど見ましたように、「性質上、人間を神から引き離して従属させようとする力を持っている不正な富」ということです。ここで問題になるのは、永遠の住まいに迎え入れてくれる友達とは誰か、ということです。永遠の住まいに迎え入れるというのは、この世の人生を歩み終えて、復活の日に復活させられて父なるみ神のもとに迎え入れられることです。そうなると、この友達はもう人間ではありません。復活の日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる最後の審判の日に主イエス様と共に到来する天使たちを指します。富は人間を神から引き離そうとする力を持っているが、神に従属する者はそれを神の物差しで計って用いる。先ほどルターの教えに見たように、富の主人として立ち振る舞い、神への愛と隣人愛の手段として富を用いる。天使というものは、当時のユダヤ教社会の考えでは、人間の行ったことや人間に起きたことを全て詳細に記録して神に報告する役割を持つ存在でした。このようにして、「人間を神から引き離す力を持つ富」を神の物差しで計って用いて、人間には別に見られなくても注目されなくても、「いいね!」をたくさん押してもらわなくても、天使たちがちゃんと記録してくれて、「永遠の住まい」に迎え入れられるその日、神から「全部ちゃんと知っていたよ」と言われるのです。
ところで、本日の箇所は全て、弟子たちを相手にして話されています(1節)。従って、この「永遠の住みかに迎え入れられる」ことについての教えも弟子たちに言われています。なぜイエス様は、弟子たちにこのようなことを教えなければならなかったのでしょうか?それは、弟子たちの間には、神に仕える者は財産を持ってはならない、富と関係を持ってはならない、という雰囲気が支配的だったからです。イエス様自身、富が人間の心を神から引き離す力を持っている危険をよく知っていたので、金持ちに対してはとても厳しい意見を持っていました。金持ちが神の国に入れることは、駱駝が針の穴を通るよりも難しいとさえ言いました。その時、ペトロは、自分たちは何もかも捨てて主に従って来ました、と強調しました(マルコ10章23ー31節、マタイ19章23ー30節、ルカ18章24ー30節)。ペテロの発言には、財産を捨てることが神の国に入れる条件という考えが見え隠れしています。しかし、イエス様は本日の箇所で、神を唯一の主人として従属して仕えることは、財産を持っていても可能であるということを教えようとしたのです。8節でイエス様は、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言います。「この世の子ら」とは、神よりも富に仕えてしまう人たち、「光の子ら」とは、富よりも神に仕える人たちです。「光の子ら」は、すぐ財産を遠ざけようとする傾向がある。しかし、財産を持っていても、神を唯一の主人として従属して仕え、財産に対しては主人となることができるのだ。それを神への愛と隣人愛の手段として用いて、永遠の住まいに向って歩むことは可能なのだ、と。このことを教えるために、身近に起きた出来事を題材にして具体的に教えたのです。
イエス様がこの出来事で着目したのは、もう後がない状況に陥った管理人が自分を受け入れてくれるところを確保するために主人の財産をどう用いたかということでした。その例にならえば、富を持つ「光の子」が将来の受け入れ先、神の国という永遠の住まいを確保するには、まず、自分が所有している財産は神からの預かりものと考え、自分は管理人と考えなければならない。次に、神から預かった財産の管理を任されたというのは、財産を神の御心に沿うように用いなければならない。神への愛と隣人愛の手段として用いなければならない。管理人の事例では、主人の財産を用いて負債者の負担を軽減しました。それが結果として、彼の将来の受け入れ先を決めました。「光の子」の管理人も、神から預かった財産を神への愛と隣人愛の手段として用い、重荷に喘ぐ人の負担を軽くすることに用いれば、それが神の国という永遠の住まいへの受け入れ準備になるというわけです。まさに天に宝を積むということです。ただし、それが出来るためには、まず神に従属していなければ出来ません。そして、神に従属できるためには、神がイエス様を用いて実現した救いを先に受け取っていなければなりません。
もう一つ付け加えますと、管理人が負債ある人たちの負債を彼らに代わって軽減してやったというのは、イエス様が罪という人間が神に対して負っている負債を人間に代わって帳消しにしたことを暗示しています。人間の救いを人間の努力や業や修行に基づかせる諸々の宗教から見たら、キリスト教はずるい宗教に見えるかもしれません。
以上みてきましたように、神を主人とし富を奴隷にすることは、神からとてつもなく高価なものをいただいたので、それに比したら他のものはどんな多額の財産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。エイっと、かけ声の下、財産を丸投げして、さぁ、神は見返りに何をくれるか、と言うことではありません。こちらからそんなことする前に私たちは神から非常に高価なものを頂いたのです。私たちのために十字架上の贖いの業と死からの復活を成し遂げて下さったイエス様を超える頂きものはありません。この高価なものが色あせてしまわないために、主日の礼拝があることを忘れないようにしましょう。その高価なものは自分から色あせることはありません。ボーっとしていると私たちの方で色あせてしまうのです。私たちの方でも色あせないために、本来の高価さを私たちの内で保てるように、兄弟姉妹の皆さん、主日の礼拝を大切にして守ってまいりましょう。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
本日の福音書の個所は、イエス様の二つのたとえの教え、「見失った一匹の子羊」と「無くした一枚の銀貨」の話です。子羊のたとえでは、100匹の羊のうち1匹がはぐれてしまって、持ち主が探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は衰弱していたかケガをしていたでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。銀貨の方は、持ち主の女性が10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話でした。
二つの話は、状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びはとても大きいので多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであると。そこで大事なことは、この二つのたとえは何についてのたとえなのかをわかることです。二つのたとえの終わりに同じ結論で結ばれていることに注目しましょう。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こる。「罪びと」というのは、天地創造の神の目に相応しくない者をいいます。「悔い改め」というのは、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の意思に沿うように生きようとすることです。イエス様がこの二つのたとえで伝えようとしているのは次のことです。罪びとがそういう方向転換をして神の許に立ち返る生き方をし始めた時、神のおられる天上では大きな喜びが沸き起こる。天使たちも歓声をあげる。罪びとというのは、たとえの羊や銀貨のように見失われてしまったもの無くなってしまったものと同じなのだ。しかし、方向転換をしたら神に見つけてもらった者となって、その時天上では大きな喜びの歓声が沸き起こるということです。
実は、この二つのたとえはその次に来る、有名な「放蕩息子」のたとえの伏線して語られます。つまり、イエス様は「放蕩息子」のたとえが理解できるためにこの二つのたとえを先に話したのです。従って、「放蕩息子」のたとえが正確に理解できるためには最初の二つのたとえと一緒にみなければなりません。一般的に言って、イエス様の教えを正確に理解しようとしたら、その教えが言われているテキスト上のコンテクストと歴史的時代的コンテクストの両方を見なければなりません。教えをそれらのコンテクストから切り離して、いろんな人間的な分析を加えて解釈しようとすることも行われますが、そうやって出てきた解釈は、人間的には感動を与えるものでも、本当にイエス様が伝えたかったものと同じかどうか判断、評価できないといけません。ひょっとしたら全然関係ないものになっているかもしれません。もちろん、教えをコンテクストから切り離したら、絶対イエス様と無関係な理解になるとは申しません。関係あるかどうか判断、評価できるため、まずイエス様が本当に伝えたかったことをコンテクストに基づいて理解することから始めなければならないでしょう。
それでは、羊、銀貨、放蕩息子の3つのたとえが一緒に語られたコンテクストはどんなものだったかを見てみましょう。ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動をみて度肝を抜かれました。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもと交流し一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として3つのたとえを話します。つまり、羊、銀貨、放蕩息子の話は自分の行動を正当化するために話されたのです。これが、テキスト上のコンテクスト、出来事上のコンテクストです。
さらに時代的歴史的コンテクストに踏み込んでいきましょう。一つの手がかりとして、E.P.サンダースという歴史聖書学者が1986年に出した「Jesus and Judaism」という有名な研究書があります。タイトルを日本語に訳したら「イエスと第二神殿期ユダヤ教社会」ということでしょうか。何がこの書物を有名にしたかというと、ナザレのイエスの思想と行動を当時のユダヤ教社会のコンテクストにどっぷりつけて分析したからです。それまでは、とかくイエス様をユダヤ教から切り離す仕方で理解することが主流でしたから、この書物は歴史的イエス研究の方向を大きく変えるのに一石を投じました。
ただし、画期的な書物ではありますが、問題もいろいろあります。外国の有名な影響力ある本だからと言って、なんでもハイハイと言って無批判そのまま受け売りする必要はありません。本日の個所に即してみますと、イエス様が罪びとと交流したことが宗教エリートの反感を買って、それが後の十字架刑の一因になったなどと言っています。サンダースの主旨はこうです。イエス様が悔い改めも何もしない、罪びとをそのまんま受け入れて一緒に飲めや歌えやの大騒ぎをしていた。つまり、イエス様というのは、反体制の姿勢を示すやり方としてわざとエリートに嫌悪感を引き起こすようなことをしたということです。ほんとうにそうでしょうか?悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者たちをイエス様はそのまま受け入れて交流したのでしょうか?羊と銀貨のたとえの結論を見て下さい。一人の罪びとが悔い改めれば、天上では大きな喜びが沸き起こる、と言っています。つまり、イエス様が罪びとたちと食事を共にしているのは、実にこの天上の喜びを体現するお祝いとして行っていたのです。つまり、イエス様のまわりの席についている罪びとは、悔い改めて方向転換した「元罪びと」なのです。
イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。罪びとを方向転換なしで受け入れたということはありません。ヨハネ8章でイエス様は、姦淫の罪のために石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは、もう罪を犯してはならない、と言っています。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。姦淫くらいいいんだよ、などと罪を許可したのではありません。そうではなくて犯した罪については不問に付してこれから方向転換して生きる可能性を与えたのです。
それでは、イエス様の周りに集まったのが元罪びとならば、なぜ宗教エリートたちは彼らの方向転換を一緒に喜んであげられなかったのでしょうか?そういう疑問が起きると思います。そこで、神の目に相応しくあるということについて、イエス様とエリートたちの考えには180度の違いがあったことに気づく必要があります。エリートたちからすれば、律法の掟をしっかり守って、その守っていることを行為行動でしっかり示さないと神の目に相応しくない。この点に関して、イエス様の教えと行動には私たちの理解と常識を超えたものがありました。まず、十戒の掟は外面的な行為行動で守ってもだめだ、心の中でも守れていなければならないと言います。女性をみだらな目で見たら、もう第七の掟「汝、姦淫するなかれ」を破ったことになると言うのです。全ての掟についてそうならば、神の意思に沿える者など誰もいなくなるでしょう。。神の許に立ち返るなんて無理だと誰もが思うでしょう。人によっては馬鹿馬鹿しいと思うかもしれません。でも、そんなこと言ったら、#MeToo運動はいつまでたってもなくなりません。人間には方向転換が必要なのです。でも、どうやってそれは可能でしょうか?
そこで、イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が生まれる、そんな受け入れ方をイエス様はされたことに気づきましょう。ルカ19章のザアカイの話を覚えていますか?イエス様が受け入れるや否や、ザアカイは不正で蓄えた富を捨てる決心をしました。イエス様が罪びとを受け入れて食事を共にしたのは、彼らの神の意思に反する生き方をよしとしたのではありません。また、気高く留まったエリートたちの鼻を明かす乱暴なパフォーマンスでもありません。罪びとに方向転換を生み出す行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。
イエス様が受け入れると方向転換が生まれる、そんな受け入れ方をイエス様はされたのだということは、三つ目のたとえの放蕩息子の話にも暗示されています。放蕩息子は、異国の地で飢え死にしそうになり、故国の父親のもとに帰る決心をする。そこには食べ物が豊富にあるというのが帰る動機になっています。もちろん父親に迷惑をかけた以上は、以前のようにたらふく食べさせてもらうというのは虫が良すぎる。そこで自分の愚行は神に対する罪であったと告白して、雇い人にしてもらうことを条件に愚行を赦してもらおう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせずお仕置きもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れます。息子は考えていた言葉を、罪の告白まで言ったところで遮られます。父親はその後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じます。その言葉とは、雇い人にして下さいという条件でした。息子は条件付きで受け入れられることを期待していましたが、父親は無条件で受け入れると言ったのです。息子が帰国を決めた時、またたらふく食べられたらいいがそれでは虫が良さすぎる、だから条件を示そう、そういうふうに後悔と方向転換の心にはいろんな動機や打算が混じっていました。ところが、父親に無条件で受け入れられた瞬間、後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて、後悔と方向転換は純粋なものに変えられたのです。受け入れることにそのような力があったのです。
もちろん、イエス様に無条件で受け入れられることがそのような力の発揮に結びつくためには、受け入れられる側でも何かがなければなりません。それは何か?ザアカイの場合は、一目イエス様を見なければならないという思いがありました。なぜそんな思いがあったかは記されていませんが、不正に貯えた富が関係していたことは間違いないでしょう。というのは、イエス様に受け入れられてそれを捨てる決心をしたからです。放蕩息子の場合は、お腹が空いた、自分は愚かだった、雇い人にしてもらうことで家に入れてもらおう、と純粋ではなかったかもしれないが後悔と方向転換の心がありました。それが、無条件で受け入れられて、後悔と方向転換から不純物が取り除かれました。イエス様の周りに集まった元罪びとたちも同じだったでしょう。自分は神の意思に沿う生き方ができないでいる、宗教エリートの言うやり方で外面的な行為行動で神の目に適う者になれる力はない、なぜなら心に弱さと汚れがあるからそんな力は生まれてこない。そういう思いがあった。まさにそんな時に「あなたの罪は赦される」と教えるイエス様が登場した。それは一体なんなのか、それが今の自分を変えられるのか、わけもわからずとにかくイエス様のところに行く。そしてイエス様に受け入れられると、純粋な方向転換が生まれたのです。
放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに純粋な方向転換が生まれたことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。彼は、弟の方向転換を不十分としたのです。無条件の受け入れには純粋な方向転換を生む力なんかないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちを元罪びとと見なさず現役の罪びととみなしたのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。この時、彼らのうち誰がこれに気がついたでしょうか?
このように当時の人たちは、自分の状態を変える力があると期待してイエス様のもとに行き、イエス様に受け入れられて、本当に神の方を向いて生きる生き方に方向転換することが起こりました。それでは今を生きる私たちは、自分の内に同じような方向転換が生まれて神の意思に沿うような者になっていくことができるでしょうか?そういう受け入れをする肝心のイエス様が身近にいないので無理ではないか?だから、自分を変えるためには何か別の手段方法を考えて、それを実行しなければならないのか、それとも変える必要なんてない、このままの生き方でいいということになるのか?
実は、全ての人間はもう少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ受け入れが完結していないので、方向転換が生まれていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられるにまかせて死なれました。これによって、人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければならない神罰を、イエス様は全部自分に吸収されるように受けられたのです。イエス様は罪の重荷を私たちに代わって担われ、自分を犠牲にして本当は受ける必要のない神罰を受けられたのです。全ては、人間が神に背を向けた生き方を方向転換をして神の意思に沿うように生きようと、そういう心を生み出すためになされたのでした。どういうことかと言うと、償いのために私たちは何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で果たされました。あとは私たち人間が、あのゴルゴタでの償いは本当に起こったのだ、自分の罪の償いもそこで果たされたのだ、と観念して、イエス様こそ自分の救い主と信じたら、イエス様が受け入れるよと言って両手を差し出している中に飛び込むことになります。ただし、飛び込んでもイエス様の両腕の中にしっかり留まることが出来なければなりません。この世には、こっちの腕は甘いぞ、と言って誘いをかけてくるものが沢山あります。洗礼が大事なのはこのためです。洗礼は、イエス様に受け入れられたことを神の目に焼き付けます。そうなると神は、洗礼を受けた者が道を踏み外さないように常時見守り、支えて助けて下さらないではいられません。このように、イエス様の十字架の業は、来なさい、お前たちを受け入れるよ、という掛け声のようなもので、信じて洗礼を受けるというのは、その声に応えてイエス様の受け入れに飛び込んでそこに居を構えることです。このようにイエス様の受け入れが完結した人は、あの女性のように、罪を不問にされてこれからは神の意思に沿うように生きなければと志向して生き始めます。一過性ではない大規模な方向転換が起きるのです。この時、天上で喜びの歓声が上がります。
ただ、洗礼を受けたと言っても、この世にはイエス様の受け入れから引き離してやろうという力が沢山働いていますから、信仰者は苦しい戦いを強いられます。神は常時見守り支え助けてくれるなどと言いながら、全然そう感じられないということが起きてきます。しかし、そのような時は心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けます。そこには罪の償いが果たされたので自分の罪は確実に赦されているということが微動だにせずしっかりあります。それを確認できたら、神と自分の間には何も問題はない、だから、神は今のこの時も見守って下さっているとわかります。詩篇23篇で言われるように、「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、災いを恐れじ、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」という心境でトンネルの出口を信じて進んでいきます。
キリスト信仰者のこのような歩みにとって聖餐式は重要です。というのは、聖餐式には霊的に弱い私たちを強める栄養があるからです。神の意思に沿うように生きねばと思っても自分の力ではダメだと思い知らされる。十字架に目を向けてもなんだかかすんでしまう。どうか私に力を与えて下さい、澄んだ目を与えて下さい、と唱えて聖餐式に臨むと、主は「よく来たね。しっかり食べて行きなさい」と言って与えて下さいます。聖餐は力と澄んだ目を与えてくれるものと信じて受ける時、その者に本当に与えるものになって受けた者は力と目を与えられます。その時、天上では歓声が沸き起こります。
そのようにしてキリスト信仰者は、罪を償ってもらい赦してもらいながらも、弱さのゆえに何度も立ち止まりくじけそうになりながらこの世の道を神に守られ支えられて進んでいきます。洗礼の時に大きな方向転換をしたのですが、道を踏み外しそうになって軌道修正をしなければならないことも沢山あります。ただこれらは最初の方向転換を上回るものではありません。最初に比べたら小さな方向転換です。このように、大きな方向転換が打ち立てられても、小さなものが繰り返されるというのは、まだ罪が残っていて、それと戦わなければならないからです。キリスト信仰者は「罪びとにして義人」ですから仕方ありません。しかし、打ち立てられた大きな方向転換は自分から捨てない限り、なくなることはありません。心の目を常にゴルゴタの十字架に見据えている限り、方角を誤らないように神が手を取って導いて下さいます(後注)。
やがて、この世を去り、眠りから目覚めさせられる復活の日が来ると、どうでしょう、この世では心の耳をすまして遠くから響いてきたあの天上の歓声が、今まさに目の前で天使たちが手を振って歓呼の声をあげているではありませんか!その情景をイザヤ書35章で次のように描かれています。
「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る。」
兄弟姉妹の皆さん、私たちはまるで凱旋する者のように天の御国に迎え入れられるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るようにアーメン
(後注)羊と銀貨のたとえの結論のところで、悔い改める(=方向転換する)罪びとに関して天上では大きな喜びがある、という時、「悔い改める(方向転換する)」の原文ギリシャ語はμετανοουντιで分詞の現在形です。つまり、方向転換がなにか一回限りで、これからはしないで済むというような完璧なものではなく、日々繰り返されるものであることを示しています。そうすると、そういう方向転換を日々繰り返すような生き方に入ることを「大きな方向転換」と言っていいと思います。
聖餐式:木村長政 名誉牧師
聖霊降臨後 第12主日 (緑)
コリントの信徒への手紙 10章6~13節
2019年9月1日(日)
今日の聖書は、コリントの信徒への手紙 10章6~13節です。
前回10章になって、パウロは突然モーセの話を持ち出しました。[私たちの祖先は、皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた。]
モーセが、イスラエルの民を、奴隷の状態にあったエジプトから、脱出させた。
これはイスラエルと神との歴史、を述べてきました。神が全人類の中でも、特に、イスラエルという民族を選んで、神の業をなしていかれたのです。
ところで、そのイスラエルは、神の前に、いろんな意味で、罪を犯してしまうのでした。罪を犯したというのは、自分たちの事は自分だけで何とかできるようになると言う事、別に神等と関係なしでいけるのだと、思ってしまいます。
しかしこれは、神の前に於いては罪を犯したという事です。
10章5節には「彼らの大部分は、神の御心に適わず荒野で滅ぼされてしまいました。」とあります。罪を犯したのなら、神の罰があるのであります。
しかし、ここに、事はそれだけではありませんでした。私たちの思いもよらない、神の真理の世界が示されていきます。イスラエルが罪を犯したことは、この民の中の神の背き、人間の欲、深い問題でありますね。ところがここに最も心を用いられたのは、神様でありました。
彼らは、たしかに、神に対して罪を犯したのでした。神はモーセを通して、様々の律法も与えられ、それによって、罪を犯してしまう自分たちに気づかされたのでありました。
しかし、もう1つの事がありました。彼らの罪は、神に対することであっただけでなく、その罪も又、神が支配しておられたのであります。
もう少し、ふみこんで申しますと、これは、神がすべてを支配しておられ、罪をさえ、支配される。それだけでなく、このように、神が支配されるのは、その罪さえも神の 御業のために用いられる、ということでありました。
だから聖書に記されたのです。
神の救いのために、いましめとして、神が用いられるのであります。
これはすごいことでありますね。
例えば、前の者が何か失敗したり、しかられたり、きびしくそのとがや失敗をとがめられる、それを見て、自分は前の者のやぶれを教訓にして、そして、自分はあーにはならないぞ、といった程度の話ではありません。
1つの例として、エジプト脱出の話をしたいのであります。イスラエルの民はエジプトを出る時、それはもう大変で、着の身着のまま、そこいらにある食料をもてるだけ持って、にわとり、やぎも羊もみんないっしょになって、何万という民が互いに助け合いながら旅に出ます、が、やがて、食べるものも水もなくなって、つぶやきや不満が起こります。どこへ向ってのがれて行くのかわからない。
とうとう行きついた先は紅海でした。海です。民はモーセに、ののしり、迫ります。モーセは両手を
天にかかげて祈るのであります。そうすると目の前の海が二つにわれて、そこに道ができたのであります。モーセにもわからない、神のみ業が海の道を開いたのです。
イスラエルの民は、海の中をわたって、苦難をのがれることができた。
いったい誰がこのようなことが起るのを想像したでしょうか。
神様は、御自分の御業のために、どんな事でも用いて、私たちには、測り知れないような事を神がなさる、ということであります。神の支配であります。
更に、神がそのようになさったことは、信仰を持った者でなければ知ることはできない。
なぜなら、これは、信仰を持った者のために与えられることだからであります。
もっと言えば、神の支配が一層広く及ぶため、だからであります。
イスラエルの民が神の前にした事すべてが、信仰者には心に刻んでほしい大事なことでありますから、聖書に書かれたのであります。
それは、聖書を読むことのできる者、すなわち、信仰を持っている者に対して、訓戒と警告とを与えるためであったのです。
信仰を持たない人にはわからない。
パウロは、コリントの教会の中で起こっている大変な問題を、具体的に数字を上げ、赤裸々に悔い改めをうったえています。それが6節~10節までにパウロが書いているとおりです。読むだけでわかります。
6節[これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために、彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらな事をした者は、一日で2万3千人倒れて死にました。又、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなた方はそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらの事は前例として彼らに起こったのです。]
そうしてパウロは、これまで延々と述べてきたまとめとして、11節に記しています。「それが書き伝えられているのは、時の終りに直面している私たちに警告するためなのです。」
世の終りに臨んでいる者たちのためと言うふうに記しています。
自分が世の終りに臨んでいるという事は、信仰がなければ分からないのです。初代の教会の人々には、このことが特に強く感じられていたと思われます。彼らはこの世の終りがやがて来ると待望していたのです。
世の終りに臨んでいる、というのはどういうことでしょう。
はじめの教会の人々は、主がもうまもなくおいでになると信じていました。その時が世の終りである、と思っていました。ですから、世が終りであるというのは、ただこの世のすべてが終わってしまうという事だけでなく、救い主がおいでになる時ということであります。
この時から救いが完成するのである、ということなのです
神様から与えられている救いが、完成する時であります。
ナザレで30年をすごされたイエスは、ガリラヤへと出てこられ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」と叫ばれて、わずか3年間、イエス様はひと時もおしまず、福音を語り、あらゆる所で病人をいやし、奇跡の業を行われた。12人の弟子たちは毎日、一瞬たりとも離れず、イエスがあらわされた神の国を示された。にもかかわらず、彼らは理解できないまま、イエスは十字架上に死をもって限りない神の愛を示された。どれもこれも、すべては完全ではない未完成のままで、彼らのこの世では、幻を見ているようでありました。ちょうどくもりガラスを見ているようでよく分からない。
しかし、終りの時、救いが完成するのである。不充分であった未完成がすべて完成するのであります。
神の時の中で、神の世界のすべての真理が見えてくる。深い深い無限の神の愛が存分にあふれて、私たちのすべてをつつんでくれる。ゆるしの愛、いたみの愛からすべてつつみこんでよろこび合う愛が分かる。すべてが完成する時なのです。
私たちは、皆、死が終りではなく、新しい生活が始まる。
この時から、新しい時代が始まるのであります。
<アーメン・ハレルヤ>
聖霊降臨後第11主日(スオミ教会 4) 2019年8月25日
イザヤ66:18~23、ヘブライ12:18~29、ルカ13:22~30
説教 「神の国の宴会に招かれている」
序 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!
1 今日の詩編117編は最も短い詩編である。しかし重要な詩編である。
「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。
これは旧約聖書の時代、聖会つまり礼拝を開始する際、祭司が、その開始を呼びかける言葉、賛美の言葉として用いられてきた。
①イスラエルの民のみならず、すべての国よ、すべての民よと繰り返し世界の国々、世界の民に主への賛美、礼拝を呼びかけている。
②この詩編は単純、素朴に、礼拝の司式者が:
◎先ずすべての人々に、その日毎の生活に「神の豊かな慈しみ、恵み」が
与えられていることを告げる。
◎さらにそのために「主のまこと、その真実は永遠である
言い換えれば「主は、最後まで決してあなたを見捨てない」と歌う。
◎ハレルヤは、アーメンと共に、会衆の神への賛美と感謝の応答の言葉である。
◎今日のこの礼拝を、時代から時代へと私たちを導く神の民の礼拝に 連なる礼拝として、また大きな過渡期にあるこのスオミ教会の礼拝を今神さまの恵みの中に守っていることを感謝をもって確認したい!
=
2 さて、今日の福音書の日課にはその冒頭に 「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」(ルカ13:22)とある。
これは主イエス・キリストの生涯が、
第一に、神の国を宣べ伝えること、宣教であったこと。
第二に、その目的は、エルサレムにあることを語っている。
1
さて、主イエスの宣教の歩みを振り返って見よう。
先ずフィリポ・カイザリアでの出来事(ルカ9:18~27)。
そこでペトロは、「あなたこそ神の救い主である」と信仰告白した。
それに基いて、主イエスによって教会誕生の予告なされ、その直後、
主イエスは、第一回目の十字架と復活を予告された。
この直後が、主イエスの山上の変容である。(ルカ9:28~36)。
それは栄光に輝く神の国到来の前触れである。そしてその直後から、
主イエスの歩みは『エルサレム』を目指すものとなった。
異教の神(バアル)礼拝の地サマリア訪問(ルカ9:51~55)。
主イエスと弟子たちは共にサマリアの村を訪ねたが歓迎されなかった。
しかし、再び主イエスの『エルサレム』行が、確認されている。
宣教の強化、進展が図られた(ルカ10:1~12)。
12人の弟子に加えて、主イエスは72人の弟子を宣教に派遣する。
ここには宣教の緊急性と必要性がしるされている。
主は、宣教の初心に立ち返ることを求められた(ルカ13:1~5)。
洗礼者ヨハネと主イエスの宣教開始の言葉:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」の言葉の想起である。
<繰り返して、主イエスは悔い改めの必要性を語られた!>
そして今日の日課の冒頭で、3回目のエルサレム行が確認される。
イエスは・・・『エルサレム』へ向かって進んでいた」のである!
◎この経過(プロセス)において明らかなことは、繰り返して主イエス・
キリストは、「エルサレムに向かっていた」ことである!
第一にエルサレムは「十字架と復活の出来事」が生起するところである。
ちなみに、ヘブライ語で、エルは神、サレムは平和、平安である。
第二にエルサレムは神の平和(シャローム)の成就、実現する都である。
イザヤの預言(52:1)には聖なる都として描かれ、預言されている。
今日のヘブライ12:22には、生ける神の都、天のエルサレムとある。
JSバッハ:カンタータ140番「起きよ、夜は明けぬ」(教会讃美歌137) は神の国到来の備えの歌。「われら喜びの宴、晩餐を共に祝おう!」。
2
3 今ここで、私たちは時には、自らの人生の振り返りの必要があるであろう。
◎Pゴーギャンという画家の人生を閉じる前に描いた有名な絵がある。
私たちは12年前ボストン美術館で観た。日本でも10年前東京国立近代 美術館で2か月半展示された。各方面に大きな影響を与えた。
縦が139.1、横が374.6cmの壮大な絵である。
その絵の右上には「我々はどこから来たのか?」、「我々は何者なのか?」
そして「我々はどこへ行くのか?」との言葉が記されてある。
<その主題のもとにPゴーギャンは、人生の縮図を描いている>
◎この場合、私たちは他者のことではなく、自らの人生について問うこと
が求められている。
特に、キリスト教信仰にあって生きている私たちである。
M.ルターは「神のみ前で」(coram deo)という言葉を重視した。
私たちは多くの場合、「人の前で」の自分を、気にする。・・・・・
しかし、すべてをご存じの「神のみ前で」自らを省みる必要がある。
◎神のみ前で、今の自分を省みて、自分は一体どこから来たのか?、何者なのか?そしてどこへ行こうとしているのか?問う必要がある!
◎主イエス・キリストは常に、エルサレムに向かわれた。
これから私は、どこへ向かおうとしているのか?
4 さて、神の救い、神の国の実現を目指す中で、主イエスは言われた:
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ13章4節)と。
ルカ福音書では、「狭い戸口」とある。マタイ7章14節の門と同じである。
ヨハネ10章7節で、主イエスは「わたしは羊の門」と言われる、さらに
10章9節では、「わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる」
と断定的に言われる。神の国に招かれるのは、主イエスによるだけである
しかし、神の国への歩みは、困難、試練がある!と教えられる。
何故か?その門を入り、その与えられた道を歩むことは、人間の知恵、知識また経験からくる常識的な判断をはるかに超えるからである。
3
それゆえに、しばしば困難があり、迫害があり、試練がある。
十字架を前にした弟子たちの姿を見れば明らかである。「弟子たちは皆、
イエスを見捨てて、逃げ去った」(マタイ26章56節)のである。
そこには信じる者の、不信もあり、不服従もあり、裏切りさえもある!
このような主イエスへの
服従にも拘わらず、主イエスの門を入り、その道を歩む者を主イエスは決して見捨てることをしない。祝福が約束される!
そしてその行く先は、聖なる都、エルサレムである。今日の使徒書の日課
ヘブライ12章22節によれば、「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり」であり、そこにいますのは新しい契約の仲保者、イエス」なのである!
そこに繰り広げられるのは、祝福に満ちた「神の国の祝宴!
なのである。
◎私は定年直後に、ELCA(アメリカ福音ルーテル教会)からのお招きを
受けて、ハンティントンビーチの教会で4年半滞在した。
その時に、Sさんという沖縄出身の婦人のアメリカ人の夫が末期癌と宣告
されその牧会と葬儀を委任された。その方は海兵隊の出身で、沖縄に滞在
した。除隊後、長年かかって大学で学んだほどの誠実な努力家であった。
末期が近づいた時に、彼は「一つ頼みがある」と言った。彼の姉はカトリック教会のシスターであったが、葬儀の時に歌った賛美歌を私の時にも
歌って欲しい、という。調べると讃美歌481(さかえに輝く)である。
ヨハネ黙示録7章9節以下参照。神の都エルサレムでは白い衣を身に つけた大群衆が、棕櫚の葉を打ち振り、神と小羊への賛美を歌う。
彼が姉とこのような信仰を共有していたことに感動したのを覚えている。
今日の説教の終わりは、ヘブライ人への手紙の最後の部分に記されている 祝福の言葉(13章20節、21節)で終わりたい。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
「神学部時代の思い出」をご覧ください。
聖霊降臨後第10主日(スオミ教会 3) 2019年8月18日
エレミヤ23:23~29、ヘブライ12:1~13、ルカ12:49~53
説教「真の平和をもたらすために」
1今日の福音書の日課の見出しは「分裂をもたらす」である。また日課の冒頭の主の言葉は、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」で、さらに
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」である。
これは実に衝撃的な言葉である!異常さをさえ覚える言葉である。
今日、8月半ばの日曜日、「平和を考える主日」としてふさわしい日である。
8月に入ってから、TVやラジオで「戦争と平和」を特集し、報道している。
「真の平和が、祝福がもたらされ、実現するために
、主なる神さまのみ心と
お導きが、いかに深いものであるかが、ここに内包されている、と私は思う。
ここで主イエスは先ず、「火を投ずるために来た」と言われる。
旧約聖書から学ぶことが出来るのは、「火は聖なるもの
である。
(1)先ず「火は神ご自身の臨在を示すもの
◎モーセの召命の出来事において、ご自身を現された。
「見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。・・神は言われた
わたしはあなたの神である。・・・わたしはあなたと共にいる」と。
(出3:2~12)
◎神の民の出エジプトの荒れ野で、夜は火をもって神の民を導いた。
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
(出13:21~22)
◎シナイ山頂で神の民に十戒を与える時、神は火の中から語りかけた。
「主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。・・・
それが十戒である。 (民4:12、出19:18)
(2)続いて、「火は神の裁きの力」を示すものであった。
◎主なる神に背いた退廃の町ソドムとゴモラは火をもって滅ぼされた。
「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
(創19:24~25)
◎詩編からダビデの詠んだ歌にもある。
「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。
(詩11:6~7)
◎イザヤの裁きの預言にも、火の裁きが語られる。
「万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ、民は火の燃えくさのようになり、だれもその兄弟を容赦しない。
(イザヤ9:18)
2 今日、主イエスは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」と言われる。
「その火が既に燃えていたら」とは、極めて終末的な表現である!
<私はここで主の道を備えた洗礼者ヨハネの言葉を想起する>
荒れ野に出てきた群衆にヨハネは語る、「蝮の子らよ!斧は既に木の根元に置
かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
(ルカ3章9節)と。
この火は、今日の主イエス・キリストの言葉の文脈から言えば、それは
“裁き”であり、また同時に“清め”の言葉である。
裁きというのは、言うまでもなく「罪の裁き、断罪
洗礼者ヨハネの言葉から学ぶことができる。洗礼者ヨハネは、周知のように主イエス・キリストの道を備える者、先駆者として来た、すでに預言者イザ
そのヨハネが語った。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという 考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
(ルカ3章9節、10節)
主イエスも、宣教活動開始直後から神の民イスラエルの不信に対して、厳し
い裁きの言葉を語られたのである。(ルカ4章25節以降参照)。
このように洗礼者ヨハネも、主イエスも、神の民の不信、人間の罪ある現実
をするどく指摘し、悔い改めを促した。この信仰に生きる姿勢は宗教改革者
ルターにも受け継がれている。宗教改革の発端となった「95か条の提題」
第1条には語られている。「私たちの主イエス・キリストは、キリスト者の
全生涯は悔い改めであることを欲したもう」とある!
清めというのは、「罪からの清めであり、そこには希望
がある。
洗礼者ヨハネは、裁きと同時に、悔い改めの勧めと、救いの道を備えた。
それは主イエスによる洗礼である。
「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼
を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」 (ルカ3章16節参照)。
主イエスは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられた。そして私たちにも
主イエスにより洗礼の恵みが与えられるのである!ここに希望がある。
裁きと清め、終末の裁き、それは「十字架と復活、命の源」である。
飛躍した表現を取れば、これは決定的な神さまの救いのみ業である。
主は言われた『わたしには受けねばならない洗礼がある』(ルカ12:50)と。
これは救いを実現するために、主の苦難、十字架が必要であったのである。
主イエスは言われた、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、(十字架に)
殺され、三日の後に復活する」(マルコ8章31節、マタイ16章21節、
ルカ9章22節)と。この十字架と復活にこそ、救いと命の源がある。
3 今日の主題「平和」について、使徒書ヘブライ人への手紙から学ぶ。
日常生活体おいて、信仰による個人の成長が求められている!
<ヘブライ12章11節>「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
今日の使徒書であるヘブライ12章の日課は「主による鍛錬」とある。
◎先ず、ヨブを想起する。5章17節~18節
「見よ、幸いなのは神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。
続いて、申命記律法の言葉がある。8章5節
「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
人との平和である!家庭の、日本の、世界の平和が求められている!
<へブライ12章14節>「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
=使徒パウロの言葉を想起する。ロマ5章3節~5節
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖 霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
4 最近のホスピスでの出来事:Sさんの牛込の家は、第二次世界大戦の東京大空襲で牛込の家は全焼した。彼女は小学生でその時、学童疎開で茨城の親戚の家にいて無事であった。1年後、戦地で大きな負傷をした父親がよれよれになって帰ってきた。それまで家族は、バラバラであったが、牛込の土地に穴を掘り、土塀を作り、トタンで屋根を葺いて、生活を始めた。当時彼女は教会学校へ行きだした。それから70年数後、Sさんはホスピスにいた。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませ
てあげよう。」(マタイ11章28節)のコピーを手に持って、「神さまのお
与えくださる平安は最高!」と言って、最後の時を迎えたのである。
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コリント信徒への手紙 10章1~5節 2019年 8月11日
先週に続いて、コリント信徒への手紙を見ていきます。
今日は10章1節からです。今回のテーマは、7節で言っていますように「偶像を、礼拝してはいけない」ということです。
パウロが伝道しました時代、コリント地方はいろんな宗教があって、人々の心は混乱していたでしょう。パウロが、あれ程、心血注いで、キリストにある信仰を宣べ伝えた教会の中にも、いわゆる偶像の問題が起って、パウロはこれに対して、だまっておれない、どうしても、しっかりと、コリントの教会の人々に信仰に目覚めて欲しい。
手紙の中で、こうして10章にいたって、書かざるを得ない気持で記しているのであります。
6節「彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために。」
又、8節には「彼らの中の、ある者がしたように、みだらなことをしないように。」
みだらなことをしていた者に対して、神は、ようしゃなく神の罰を与えられた。一日で、みだらなことをした者2万3千人倒れて死にました。キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて、滅びました。不平を言った者も滅ぼされました。こうしたことを面々と書いて、10章での結論は、11節です。「これらの事は前例として、彼らに起ったのです。それが書き伝えられているのは、時の終りに直面している、わたしたちに、警告するためなのです。それで14節に書きそえています。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」と、パウロは万感の思いをこめて、筆をとったのです。
さて、以上のことを書いて、読んだだけで、コリントの教会の人々の中の偶像に心みだれている者が、新しく、変るでしょうか。
パウロは、10章の冒頭に、突然、モーセの話を、出してきたのであります。
これまた、おどろきでありますね。
パウロの持ち味の、自由奔放な、広い信仰の中から、力強く、美しい言葉をつらねて書いています。
1節、「兄弟たち、次の事は、ぜひ知って欲しい。」とこう言う。イスラエルの民が、モーセによって導かれ、エジプトを脱出し、長い旅をしていくのであります。壮大なこの出来事を出していきます。<出エジプト記32章にある話であります。>
モーセが、シナイ山で、神から十戒を受けていました時、その帰りが遅いので、イスラエルの民は、モーセの兄、アロンに、自分たちのために、神を造ってくれと迫りました。アロンは、みんなに、金等を持ってこさせ、それをとかして、金で偶像を造って、拝ませたのであります。<全く、おどろくべき話です。>
一方で、モーセが神に会っている、最も尊い、聖なる瞬間に、もう一方では、山のふもとで、イスラエルの民は、もう、長い旅に疲れはてた。そうして、自分たちの偶像を造って、拝むという事が、起っていきます。実に、人間の愚かさを示しています。
人間が、神がなくては、生きていくことができない、ということであります。今の今まで、モーセが、神のみを頼り、導かれて、長い旅をしている最中です。モーセによって、神を拝む生活をしていながら、モーセが見えなくなると、すぐに偶像を造ったのです。人間が拝むものなしには、生きられないものである事を、よく表しています。
私たちは、自分たちが、そんなにやすやすと、偶像礼拝するような人間であると思っていないはずでしょうが、そう思いながら、あらゆる事で偶像を造らなければ、生きることができないのであります。
偶像と言っても、そんなことはない、と思うかも知れませんが、これこそ頼りにすべきもの、偶像に似たものはいくらでもあるのではないでしょうか。神以外に、これがなければ生きられないものをさしているでしょう。
14節、パウロは、こん身をこめて、言っています。それだから「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」
しかも、ここには、奇妙なことが書いてあります。
それは、何の前触れもなしに、洗礼と聖餐のことが書いてあることであります。
洗礼と聖餐をもって表されるものは、言うまでもなく、教会生活であります。
それならば、どうしてパウロは、偶像礼拝の問題と、洗礼と聖餐とをもって表される教会に於ける礼拝生活とを比べて、語ろうとしているのでしょうか。
ここには、教会という字は出てきませんが、それが、教会であることは、明らかなことです。
その教会の中心的なことが、礼拝であることもよくわかります。そうであれば、パウロが偶像礼拝について、きびしく戒めようとした事が、一層はっきりするのではないでしょうか。
しかし、この事を語るのに、パウロは、イスラエルと教会との関係を、いきなり語るのです。
教会は、イスラエルから出たものであり、又、新しいイスラエルなのであります。そのことを言うのに、洗礼と聖餐のことを述べようとするのであります。
教会は、新しいイスラエルである、と言う代わりに、洗礼と聖餐とが、イスラエルの経験した事と、どのように関係しているのかを告げるのであります。
イスラエルの最大の経験は、エジプトにおける奴隷状態から、救い出されたことでありました。
旧約聖書は、ことある毎に、この神の救いの出来事を語るのであります。神もまた、ご自分をあらわすのに、自分は、お前たちを、エジプトから救い出したものである、と言われるのです。それ故に、イスラエルにとって、最も重要なことの1つは、エジプトから出る時、紅海で海を渡ったことでありました。海が二つに分かれて、彼らが、陸地を通るようにして、海を越えることができたことであります。しかし、そのことを、パウロは、モーセが海の中でバプテスマを受けたのである、と、説明するのであります。それならば、モーセをはじめ、イスラエルの民は、紅海の中で、これを渡ることによって、洗礼を受けたのであって、教会が行う洗礼は、そのことをモデルにしたものである、と言うのであります。
このような導きは、言うまでもなく、神によるものであります。神は昼は雲の柱、夜は、火の柱をもって、ご自分の、ご臨在を示されました。ここに、2節のところで、雲の中、海の中と言われているように、雲のことが言われているのは、そのためであります。出エジプト記13章21節に記されています。
ところで、海の中を通ったイスラエルは、霊の食物を食べ、霊の飲み物を飲んだのであります。
旧約聖書は、神がマナを降らせ、うずらを与えて、イスラエルを養われたことを、記しております。
しかし、ここに書かれているのは、彼らが飲んだ水のことであります。荒野の長い旅の中で、彼らの生命の源となったものが水であったことは、言うまでもありません。その水を得ることが困難であったところから、かえって、更に難しい方法で、水が与えられることが信じられるようになりました。それは、岩から水が出る、という事であります。
モーセが手を上げ、杖で二度打つと、岩から水がわき出したので、会衆と家畜とが、共に、それを飲んだのであります。民数記20章11節に記してあります。
その事から、やがて、その岩からはじまって、彼らは、いつでも水が飲めるようになった、ということです。
それが、ここに、パウロが書いている事であります。
この水は、どんな時にも、どこででも、彼らが飲むことのできるもであって、もし、それを今の信仰生活にあてはめて言えば、この岩は、キリストにあたるわけではないか、と言うのです。
この水が聖餐であるとは、書いてありませんが、しかし、イスラエルに、このような命を与えたものを、もし私たちの信仰生活に、あてはめて言えば、それは、聖餐にあたる、と言ってもいいのであります。
まことのイスラエルとは、まことの神の民、神を拝むことを知っており、偶像を拝まない、イスラエルと言わねばなりません。
神の約束を信じて、新しく出発した民でありましたが、その多くの者は、神をあなどったために滅びてしまいました。これらのことについては民数記14章にあります。
そこには、この民が、神に背き、神の怒りをひき起したことを述べ、それに対して、モーセがどんなに神にゆるしを求めたか、が記してあります。
イスラエルの人々は、少しつらいことがあると、「ああ、私たちは、エジプトの国で、死んでいたらよかったのに」と騒ぎ立ちました。又、わざわざこの荒野に来て苦しい目にあうぐらいならエジプトで奴隷のままで死ねばよかった、」と言うのです。
このことは、信仰生活をする者に、しばしば、おそってくる誘惑ではないでしょうか。
そういう不安や、つぶやきが、ただ、自分の気持ちをぶちまけているにすぎないのです。それが神に対する不平であるとは思わない愚かさがあります。
神様は、これに対して、「わたしが、もろもろのしるしを、彼らのうちに行ったのに、彼らは、いつまでも私を信じないのか」と仰せになりました。 民数記14章11節に記してあります。
信仰生活とはどんなものか。それは信仰をもって見るほかありません。神のなさることが気に入らないと、その神からのしるしが見えないのであります。モーセは、そのことがわかっておりました。彼は熱心に、その民のために神にとりなしたのであります。
私たちが信じている神の恵みは、神のさばきを乗り越えたものである、という事であります。
それゆえにこそ、たしかな恵みである、ということが言えるのです。
私たちに与えられている救いは、確かなものであります。
パウロはだから、モーセのひきいた出エジプトの出来事を見よ、と叫びたいのであります。
偶像礼拝の誘惑に人間がいかに弱いかを、パウロは、この話を持ち出したのであります。
パウロは警告するのです。
偶像礼拝を避けなさい、と。 <アーメン>
コリント信徒への手紙 第1 9章8~12章
2019年8月4日(日)
私の説教では、コリント信徒への手紙を学んでまいりました。
今日は9章8~12節までです。
今回のテーマは、「働いたら、報酬を受けるのは、当然ではないか」ということです。
パウロは、この事を、モーセの律法のことを引き合いに出してまで言っています。
8~9節を見ますと、「わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。」 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。この事は私たち人間のためにも言われていることではないか、と言って、耕す者が望みをもって耕し、脱穀する者が、分け前にあずかる事を期待して働くのは、当然です。ましてや、このことは、神様のために働いている、伝道する者についても、言われているのではないでしょうか。
パウロが、この報酬のことについて、これまで、どうしても言っておかねばならない、と思ったからでしょう。
実は、コリントの教会内で、パウロへ批判の言葉をいろいろ言う者がいて、「パウロは、報酬のために伝道していたのではないか」というふうな、悪口として言われていたらしいのです。
パウロはこれに大変憤慨して言っていくのです。「人が働いたら報酬を受けても当然である。」
けれども、パウロは言う。「報酬のために伝道している人はいないのだ。」
パウロ自身は報酬を受けてはおりませんでした。しかし、報酬を受けている伝道者のために弁明しているわけであります。
パウロの本心は、「福音を宣べ伝える、ということは、どういうことか」ということを教えようとするのです。そうしながら、福音の性質を示したいのであります。
大部分の伝道者は教会から、報酬を受けているかも知れません。
しかし、報酬のために、伝道している人はいないのです。
福音というのは、神の恵みによって、救われる事であります。それならば、伝道者の生活の仕方が、それを誤解させることもありましょうし、正しく知らせることも、できるでありましょう。
パウロは、そのためにこれを書いているのであります。
人は、どんな事についても、報酬を求めるものではないでしょうか。
パウロはすでに9章7節で、パウロ流の例を次々と上げています。
自分で費用を出して軍隊に加わる者があるでしょうか。軍隊に加わるとは命を投げ出していくことでしょう。
ぶどう畑に行く者は、その実を食べることではないでしょうか。
羊を飼えば、羊の 乳を飲むことでしょう。
そして更に、モーセの律法のことを引き合いに出しました。
モーセの時代だけの事でなく、このことは、自分たち伝道する者についても、言われていることではないでしょうか。
自分たちが、霊のものを与えたならば、肉のものを返礼として返すのが、あたり前のことではないでしょうか。
実はその事こそ、もっと大切なことであるはずです。
しかし、それならば、そういう報酬を求めて、働いているのでしょうか。
断じて違う、とパウロは叫びたいのです。伝道者もほかの商売と同じことをしようとしているのでしょうか。
断じてちがうのだ。
信仰のある者は、当然、自分の力で得たものすら、神の恵みとして受けとるのではないでしょうか。
それどころか、報酬を受けるこの体、この心も、神から与えられたものであるはずであります。
それならば、ここに、人間の権利のように書かれている事は、実は、神のご配慮を語っているのです。
穀物をこなして働いている牛は、権利の事など、考えていないはずです。
それは、神が、その事をお望みになるのであります。
それなら、神のお望みにあるのと、人間とを、同じように扱う事は、できないはずであります。
つまり、もう、神の霊の世界の事柄です。
人間には、そのような権利が与えられているように見えます。人が働いた分、報酬を受けてもいい権利がある。
そのように言えるでしょうが、実は、それも神から与えられているにすぎません。
ですから、人間は、そういう要求めいたものを持ちながら、無償の働きを尊いものとするのではないでしょうか。何も要求せずに、人のため、働く事こそ望ましいと、考えるのではないでしょうか。実にりっぱなことです。
しかし、現実には、例えば教会の牧師は、無償の働きで、何も食べずには、生きていけません。
パウロは1人身で伝道しました。それに、自分で食う分は、自分で他に働いて生活して、その上、伝道していきました。
教会の牧師の中には、独身者ばかりではありません。
教会のほとんどの牧師は、牧師夫人と2~3人位の子供、といった、家族を養っていかねばならない。食べるだけの牧師の給料では、子供の教育、教養、文化的な生活は、ほとんどできません。
現実の教会の牧師給の一覧表を見たら、とてもなげかわしい、きびしいものです。
パウロは申します。
人が働いた分の報酬は当然受けるものである。
伝道者は、報酬を得ようと、福音の伝道のために働いているのではない。
ただただ、主に召されて、すべてを神様の恵みのうちに、ゆだねきって、生かされていくのであります。主が共にいて下さる希望があるのです。