説教「神との平和に立ち、心に平安を保ち、人との平和を目指す」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章23ー29節

主日礼拝説教 2019年5月26日復活後第五主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が約束されたのは平和か、平安か?

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束しています。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。それならば、国と国が戦争しなければ、国民は必ず安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば、国が複数の民族から構成されていて、もし民族間で紛争が起きれば、それはもう国と国との間の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう安心した暮らしなど出来ません。そんな時、権力者以外は誰も自分の国が平和だとは思わないでしょう。

イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は弟子たちや私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心した暮らしができると約束しているのでしょうか?人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数ありました。キリスト信仰者といえどもそうしたものに常に巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?

そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があって、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことを理解できるために、ルターがイエス様のこの御言葉を解き明かしているところが大いに参考になります。それを以下に引用します。

「ヨハネ14章27節の御言葉で主が与えると約束されている平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がなくて心が落ち着いているという平和ではない。それとは逆に不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。

『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とはどんな平和か?それは、外面的な揺れ動きを引き起した原因となった害悪が消滅するという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうしたものに取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束された平和なのである。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心はもはや外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸がない時に比べて、こっちの方が心の中で勇気と喜びが増すのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように、「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)と呼ばれるのである。

人間の理性が把握できるのは、この世が与える平和だけである。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるなどということは到底理解できない。不幸や害悪がある限り平和はありえない、そう考える理性はそのような状態にあって心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。どのようにしてか?それは、我々の臆病な心を恐れない心に、良心の咎に苛まれた心を晴れ晴れした心に変えて下さることによってだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世全体が怯えるような不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」

以上、外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても、内面的には平和があるというルターの教えでした。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語原文のエイレーネーειρηνηという言葉が、外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含むことが関係していると思われます。聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーが外面的な「平和」を意味する時も内面的な「平安」を意味する時も皆、同じ言葉(peace, rauha, Frieden)で訳されています。それらの言葉もギリシャ語同様に外面的なものと内面的なもの両方を意味することができるので、それで特に区別しないで同じ言葉を用いていると思います。でも、日本語で内面の平安を「平和」と訳して大丈夫でしょうか?せっかく「平安」という言葉があるのに「平和」と訳したら、これは内面の「平安」を意味するんだと言い聞かせて読まなければなりません。

興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束しているものは、まさに内面的な平安(frid)で訳されています。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳は「平和」(fred)でなく「平安」(frid)を用いています。

2.神との平和

 以上から、イエス様が与えると約束された内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には心の中に勇気と喜びが失われないばかりか増し加わることさえして、揺るがない安心を持つことが出来ることであるとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もがも持ちたいと思うでしょう。

どうしたらイエス様が与えると約束された平安を持てるようになれるのか?答えは全然難しくありません。イエス様が与えると言っているものを、ありがとうございます、と言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると、今度はイエス様が与えると言っている平和とは何か、どこにそれがあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ないので、次にそれを見ていきましょう。

イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日の最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事があり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪深さ対する神の罰を身代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだ、とわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。

このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活のイエス様が扉を開いて下さった、死を超える永遠の命への道に置かれてその道を歩めるようになります。神との結びつきをもって永遠の命への道を歩めるというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世を去ることになっても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に引き上げてもらえて、そうして自分の造り主である神の御許に永遠に戻れるということです。

このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、人間の想像を超えた救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間に罪が入り込んだために失われてしまいました。その失われたものが罪の赦しで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な存在です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に用いることで打ち立てられたものでした。

この壮大な事実を目の前にした人間が、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったのだ、彼が十字架にかけられたのは、弟子たちが罪を赦されて神との結びつきを持てるようにするだけだったのではないんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。

3.神との平和に基づく心の平安

 しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか、神は自分を見捨てたのではないか、私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか、と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなることもあれば、逆に自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈の気持ちになることもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることが始まります。

そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのか、と非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるというのか?そういう疑問を持つヨブに対して神は最後に、お前は天地創造の時にどこにいたのか?と問い始めます(38章)。一見、何の関係があるのかと問い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のようなことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それで、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

神の目がしっかり注がれているということを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなこと出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。

ここからわかってくることですが、神は全ての人間に目を注いでその境遇を知って満足するというような無責任な傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにしようと、それでひとり子をこの世に送って犠牲に供することを惜しまなかったのです。神は、私たちがどんな境遇に置かれても、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのなら、それは神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも皆、私たちを力づける神の立派な支援です。

このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。

 次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを目に適う者に見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に増幅しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(14章26節)。

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは、神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。

 以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い出させて下さいます。その思い出させに自分を委ねてしまい、思い出せばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。

 まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。これがイエス様の約束された平安です。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。まさに神との平和、そして心の平安が来るのです。

4.人との平和を目指す

 神との平和に立ち心の平安に満たされたら、次は人との平和な関係の構築が待っています。マタイ5章9節でイエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われます。「平和を実現する」とはどんなことをするのか?ノーベル平和賞をもらえるくらいのことをしなければならないなら、自分には無理だ、ということになってしまうでしょう。しかし、人との平和な関係というのは、身の回りの人たちのことでも全く構わないのです。ローマ12章18節でパウロは次のように勧めます。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」ここのギリシャ語原文が少し厄介なのですが、訳文では見えてこない深い意味があります。「周りの人と平和な関係を持てるかどうかがあなたがたの肩にかかっていて、それを背負うことが可能ならば、それを背負って全ての人と平和に暮らしなさい(後注)。」つまり、背負うことが出来る場合は、平和な関係を築きなさい、出来ない場合は築けなくてやむを得ない、ということです。どういうことか、以下、詳しく見ていきます。

ローマ12章をみると、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはならない、とか、誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ、とか、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ、とか、敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ、とかあって、なんだかキリスト教はお人好しで真面目にやったら損をして馬鹿を見る宗教に見えてきます。ここで一つ申し上げると、社会には秩序や法律があるので、犯罪や過失が起こったら、法律に基づいて処罰や補償をしなければならないのはキリスト教でも当然なことです。ただし、その場合でも、復讐とか仕返しの観点は持たないということです。社会や秩序に傷が出来たので、それを修復するとか再発を防ぐとかそういう観点で処罰や補償が考えられるのではないかと思います。そんなことでは被害者の気が収まらないではないかと言われてしまうかもしれません。しかし、キリスト信仰には神との平和という土台とそれに根差した心の平安があるため、「気が収まらない」という気持ちはぎりぎりのところで抑えられていると思います。

このように神との平和に立って心の平安を持てれば、ちょっとやそっとのことで損したとか馬鹿を見たという感じはしなくなります。それらを持っている限りは人との平和の関係を築くことは大丈夫です。パウロが「背負うのが可能ならば」と言う時、神との平和と心の平安があれば「背負うのは可能」です。それでは、「背負うのは不可能」という場合はどんな場合でしょうか?それは、襲い掛かる悪が信仰を捨てるように強要する場合です。つまり、神との平和とそれに基づく心の平安そのものを手放せということです。そうなると相手と平和な関係を築けなくなるのはやむを得ないことになります。果たして、信仰を捨てることを強要する相手とは平和な関係は築けないでしょうか?仮に、キリスト信仰者が信仰を捨てて、強要した側がよしよしよくやったと満足して対立がなくなったとします。そのようにして得られた平和は本当に平和でしょうか?良心の自由を踏みにじることで成り立つ平和は、魂のない静寂にしかすぎず、それは本当の平和ではありません。

信仰を捨てることを強要する相手と本当の平和な関係を築くのは全く不可能なのでしょうか?実は可能になる場合もあります。それは、相手がキリスト信仰者になって、神との平和とそれに基づく心の平安を持つようになる時です。そんなのは理想論で絵に描いた餅だと言われるかもしれません。でも、あれだけ執拗にキリスト教徒を迫害し続けたローマ帝国がいつしか皇帝自らキリスト信仰者になったのです。他にも歴史には同じような事例が一杯あったと思います。どうしてそんな逆転劇が可能だったのか?少なくとも一つ言えることがあります。それは、キリスト教徒が見かけの平和を選んでいたら、そのようなことは決して起こらなかったということです。ここからもわかるように、神との平和に立ち心の平安を持つということは、身の回りの人間関係にインパクトを与えるだけでなく、歴史をも動かす力を秘めているということです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注(ギリシャ語が分かる人に)

新共同訳は「できれば、せめてあなたがたは」と、他の人はどうでもあなたがたは頑張って平和に暮らしなさい、ですが、英語(NIV)は”If it is possible, as far as it depends on you”と平和に暮らすことが条件づけられます。ルター訳も同じで”Ist’s möglich, soviel an euch liegt”、フィンランド語訳とスウェーデン語訳もそうです(”Jos on mahdollista ja jos teistä riippuu”/”så långt det är möjligt och kommer an på er”)。

そのような訳になるのはτο εξ υμωνのεκをgenerisかexitusかoriginisのいずれかに考えているということだと思います。τοはaccusativus limitationisということでしょう。(δυνατονの主語というのはありえないでしょうか?)

説教「神の栄光を現わすキリスト」V.アウヴィネン牧師、ヨハネによる福音書13章31~35節

アウヴィネン先生フィンランドのミッション団体SLEYの海外伝道局長Vアウヴィネン先生

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2019/05/Auvinen_sekkyou_19_5_2019.mp3

ヨハネによる福音書13章31~35節
「さて、ユダが出て行くと、
イエスは言われた。
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


通訳中、「フィリピの信徒への手紙」のことを「フィリポ」とか「フィリプ」とか言い間違えていますが、正しくは「フィリピ」です。お詫び申し上げます。

説教:木村長政 名誉牧師

コリント信徒への手紙 8章4~6節

「唯一の神と私たち」

 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にありますように。アーメン。

 今回も私の説教では、コリントの信徒への手紙を読んでいます。今日は8章4-6節を見てまいります。

 前回、1節から読んでいただきましたが、主に1節から3節までのところで少々、深い部分にまで入り込んで、大切な真理の道を分け入った形になりました。

 問題は、偶像に供えられた肉を食べてもいいものかどうかという質問からでした。

 さて、4節以下13節までは、読んでいただければ、よく分かることです。

 偶像に供えられた肉がどうしてそんなに気になることなのか、まあ私たち、今の時代の日本の人々には、よく分からない事柄であります。

 パウロも7節で言っています。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのである。」と言っています。

 そのような弱い人のためにもキリストが死んで下さった。

 弱い心を傷つけるとするなら、13節の結論は「兄弟を傷つかせないために、わたしは今後決して、肉を口にしません。」と書いています。

 パウロにとっては、肉を食べても、食べなくてもどうでもいいことでしょう。

 それで今日の聖書の4節ー6節ですが、偶像に供えられた肉であるところに、パウロとして、どうしても、大事なことを示さずにはおれないわけであります。

 それで4節に、どんと、パウロは真実を持ち出しました。

 「世の中に、偶像の神などはない。」と言います。

 偶像に供えられた肉だから、色々とびくびくしたり、心が混乱していると言っている。しかし、まず、偶像があるのかどうかを考えてみる必要がある。それが、この問題の根本的なことである、と言うのです。

 もし、偶像がないのなら、それにささげられたものは、何の意味もない。

 ところが、あなた方の中には、偶像と言いながら、それに頼って崇拝している沢山の偶像と称するものに囲まれている。いたる所に偶像といわれるものがあった時代であります。 

 コリントの教会の人々も、そういう世の中にどっぷりとつかって、みんな知っているわけです。

 そういう中でパウロは「世の中に偶像なる神などない」と言いましたから、これは大変なことであります。多くの人々が、偶像によって生きていたのであります。その時に、「偶像はない。」というのは、容易ならぬ言い方であります。

 つづいて、5節と6節でパウロは、更に力強く確信に満ちた言葉で言っています。5節です。

 「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ、天や地に、神々と呼ばれるものがいても、(6節です)わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちは、この神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」

 とても大事なことを示していますね。

 この事は、この時代の人だけの問題ではありませんでした。今も形こそちがえ、実状は少しも変っていない、と言っていいのではないでしょうか。

 しかも、ただ1人の神を信じる、ということは、やはり偶像はないものである、ということになるのであります。

 今日(こんにち)、私たちはあからさまに「それは偶像である」と言いふらして、キリスト教の唯一の父なる神以外のものを、意味のないものだと、表面だった戦いをしているわけではありません。

 しかし、キリスト教が日本に伝えられたはじめの頃の信者たちは、この問題で苦しみ戦ったのであります。

 問題は、日本においても少しも変ってはいないはずであると思います。

 私たちは、他の人の信仰の悪口を言いたいのではありません。

 自分たちの信仰を明らかにしたいのであります。

  偶像とは何か。 旧約時代のイザヤ書にその性質をよくあらわしています。

 イザヤは偶像がどのようにして造られるかを、あからさまに書きました。

 それは、偶像といっても人が造ったものではないか、というのであります。造る彼も人間ですから、疲れるのであります。そういう人間が造るのであります。

 木の細工人が、線を引いて、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを、人の美しい姿に従って人の形をつくり、家の中に安置する。

 つまり、神と言っても、偶像は人間がつくったもの、しかもその内容から言えば、人間の願いから造り出したものではないか、と言いたいのであります。

 こうすると、どんなものでも、神になってしまいます。

 金や木で偶像をつくるだけでなく、あらゆるところに神をつくります。火の神もあれば、水の神もあります。瀬戸内海には海の神々があります。何でも、どんな人間でも、神にするのであります。偶像を拝むところでは、結局は神と人間との区別がつかなくなってしまいます。

 あらゆるものが偶像になることができるのですから、偶像はないと同じことになってしまうのであります。その中で、人間が自分の願いを満たすために何かをとって神とし、それをどこかに置いて拝むだけであります。

 以上が一般的に言う偶像の考えでしょう。

 それに対して、この手紙でパウロが主張します。

 もしも神を信じるというのであれば、それはただひとりの神であるはずであります。

 人間が、欲しいと思って造り上げる神ではなく、人間を救おうとして、自分をあらわしてくださる神だけであります。

 神はどんな意味でも、造られたものではない、造り主であるはずであります。

 私たちの願いによって生きる神ではなく、私たちを生かしてくださる神でなければなりません。

 ただ1人の神を信じるところでは、神と、神でないものは、はっきりと区別されるのであります。

 物や人間が神になることは、絶対にありません。

 神こそはまことの神であり、そのほかのものは、神ではないのであります。

 従って、人間はどんなに偉くなっても、神になることはあり得ないのであります。

 ただひとりの神のいますことを信じた時に、人間ははじめて人間になるのである、ということができるのであります。

 もろもろの物も、それぞれ正しく、物としての位置がきまるのであります。鳥は鳥、花は花、ということを正しく知ることができるのであります。

 聖書はそれを、造り主である神と言っています。

 人間はもはや神になろうとはしません。神を拝み、神に従う時、はじめて人間らしくなることがわかるからであります。

 つまり、ただひとりの神を信じた時に、人間はこの神のみが自分の守り手であることが分かります。

 神は私たちを造って下さっただけでなく、父として私たちを守って下さる方であることも信じやすくなるのではないでしょうか。

 ただ1人の神は、まことに神らしく、厳かで、神らしく、愛に満ち、造り主として、私たちが いこうことのできるお方であることが分かるのであります。

 神はただ1人であるということは、このように真(まこと)に神を信じる生活を与えてくれるのであります。

 偶像を拝む者の多い中に、パウロはこれを明らかにしようとしたのであります。

 神が唯一でいます、ということを、どのようにして信じることができるか、ということがいつも大切なことであります。

 ここでは、そのことについて、「唯一の主、イエス・キリストのみが います。」と書いてあります。

 神が唯一であるだけでなく、主イエス・キリストも唯一であり、この二つをひとつのこととして信じることが必要である、ということであります。

 神がただひとりであることを信じれば、私たちは本当に人間らしくなるということですが、しかし、不遜な人間は、いつでも神になろうという野心をもつものです。

 自分は、神になろう等とは思ったこともない、と言うかも知れませんが、自分が、いつでも中心でなければならないように思うことは、やはり自分を神にしようという気持と同じではないかと思います。その時に、それを正しく導いて下さるのが主イエス・キリストであります。 

 それは、主イエス・キリストの教えがそうである、というのではなくて、キリストというお方がおられることがそれを示している、ということであります。

 主イエス・キリストは、神が人となられたお方であります。

 神が人となった、それゆえに、神であって人である。と、いうことになります。

 なぜ唯一なのか、それは、ひとつには、神がキリストにおいて人となられたということは、ほかの人にはないことである、という意味もありましょう。しかし、ここには、万物はこの主により、私たちもこの主によっているのである、と書いてあります。

 他の訳では、「彼によって、万物がつくられ、私たちも、新しい命を得たのである。」と書いてあります。

 私たちが彼によって、新しい命を得た。キリストにおいてこそ、新しい命を得た。という、このことこそ、私たちの信仰の根本であります。

 神は、なぜ、キリストにおいて、人となられたのでしょうか。

 それは、意味のない無駄事ではありません。

 それにははっきりした目的がありました。それは、神に造られながら、神に背いて罪を犯した人間を救うためであります。

 神が人となられた、と言ってもいいし、神が、その独り子を世におつかわしになった、と言ってもいいのであります。

 ヨハネ3章16節は、有名な御言葉です。

 すべて、彼を信じる者を救うため、とはっきりあります。

 人間を救うためであります。そのために唯一の救い主として、キリストがおいでになったのであります。

 従って、私たちは、このお方によって新しい生命を得たのであります。私たちが彼によっている、というのは、このことであります。

 私たちは、イエス・キリストによって、救われたのであります。

 そのことによって、実は、神が唯一であるという信仰も、動かないものになったのです。

 唯一の主イエス・キリストがいますことによって、唯一の神を信じることができたと言ってもいいのであります。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。        アーメン・ハレルヤ

説教「パウロの大回心(かいしん)と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録9章1節ー20節

 

主日礼拝説教 2019年5月5日 復活後第二主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - パウロの大回心

 本日の福音書の個所は、復活したイエス様が突然弟子たちの前に現れ、亡霊が出たと恐れおののく弟子たちに対してイエス様がそうではないと手足を見せ、弟子たちから食べ物を取って食べたと言う出来事です。これは復活の体ということですが、それをどう考えたらよいかということについては前回と前々回の説教でお教えしましたので、本日はこの福音書の個所についてではなく、使徒言行録のサウロの回心の出来事について解き明かしをしようと思います。サウロは後にパウロと呼ばれるようになります。使徒パウロのことです。

キリスト教にとって使徒パウロが重要な人物であることは誰もが認めるところです。もちろん、十字架の死と死からの復活を遂げたのはイエス様です。パウロが重要だと言うのは、イエス様の十字架と復活は一体何だったのかということ、そしてそれが人間すべてにとってどんなに大事なことなのかということをはっきりわかって、それを福音として教え広めたことにあります。それで、もしパウロがいなかったら、またいても、本日の聖書の箇所にあるような出来事が起きなかったら、イエス様の十字架と復活の意味も解明されず、福音の内容もはっきりしなかったでしょう。そうしたら本当のキリスト教もキリスト教会も生まれなかったとさえ言えるのです。もちろんルターの宗教改革も起きなかったでしょう。その意味で本日の聖書の個所の出来事、パウロがイエス様に出会い「回心」したという出来事は、イエス様の十字架と復活と並んでその後の人類の歴史を方向づける重要な出来事であったと言っても過言ではありません。今、日本は天皇と元号が変わって古い時代が終わった、新しい時代が始まったとみんな言っています。イエス様の十字架と復活とパウロの回心は振り返ってみると本当に古い時代から新しい時代への転換点だとわかります。2000年経った今もその新しい時代が続いているというのは感慨深いことだと思います。

ところでパウロの「回心」ですが、この言葉は本日の聖句の見出しにも書かれています。この漢字は「えしん」とも読めるとのことで、その場合は仏教用語になり、辞書によれば「心を改めて仏道に入ること、とか、小乗の心を改めて大乗を信じること」だそうです。「かいしん」の場合は「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験」とありました。パウロの回心ですが、注意すべきことは、それはただ単に、かつてキリスト教を迫害して悪いことをしてしまったなぁ、これからは心を改めて真人間になってキリスト教を擁護して伝道に努めよう、というような悪人が「改心」して善人になったというレベルの話ではありません。それじゃ、どういうレベルの話かと申しますと、先ほど述べたように、イエス様の十字架と復活と並んでその後の人類の歴史を方向づけたというレベルの話です。「個人的な信仰体験」と言うにはスケールが大きすぎます。「回心」よりも「大回心」と呼びたいと思います。

そういうわけで本日の説教では、パウロの「回心」が「大回心」と呼ぶに値する大きな出来事であったことを見ていこうと思います。人類の歴史を方向づけたと言うからには、今を生きる私たちにどんなかかわりがあるのかということも見ていこうと思います。

 

2.パウロと他の使徒たち

 先ほど、もしパウロがいなかったら、またはいても本日の個所のような出来事がなかったら、イエス様の十字架と復活の意味は解明されず、福音の内容もはっきりしなかっただろうと申し上げました。それじゃ、ペトロを初めとする十字架と復活の出来事を直に目撃した弟子たちは何もわかっていなかったのか?それは、ちょっと言い過ぎではないか?と言われてしまうかもしれません。そこで、イエス様の十字架と復活というのは何だったでしょうか?それは、人間を罪と死に支配された状態から救い出して創造主の神との結びつきを回復させよう、そして永遠の命に至る道を歩めるようにしてあげようと、それで神がひとり子をこの世に送って成し遂げさせた業でした。そしてこれは旧約聖書に預言されたことの実現でした。神がこのように整えてくれた「罪の赦しの救い」はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることが出来るようになりました。これらのことは、実はぺトロたちもしっかりわかっていました。聖霊降臨の時にペトロが群衆の前で行った大説教(使徒言行録2章)を見ればわかります。また、使徒言行録に記録されているペトロたちの教えの言葉からも、またペトロの手紙からも明らかです。

確かにパウロもペトロも同じ福音を宣べ伝えるのですが、ただパウロの場合はペトロと違って、私たちのような非ユダヤ人、つまり異邦人にとって大きな意味を持ちました。ユダヤ人以外の民族のことを言い表す時、ヘブライ語でゴーィגוי、ギリシャ語でエトゥノスεθνοςという言葉がよく使われますが、日本語で「異邦人」と訳されます。ペトロを初めとする初期のキリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はまずユダヤ人であるべきということにこだわりました。これは理解できます。というのも、イエス様も使徒たちも聖母マリアも皆、ユダヤ人でした。イエス様もユダヤ人の乙女マリアから人間の肉体を受けてこの世に生まれた、それは旧約聖書の律法や預言を受け継ぐ民族の一員として生まれたということです。ユダヤ人の男の人は皆、律法の戒律に従って割礼を受けています。そのため、イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアと信じるならば、その人は旧約を受け継ぐ者でなければならない。異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そう考えられても不思議はありません。ところが天地創造の神は、そうではないということをペトロにかなり具体的に教えていたのです。その結果、ローマ帝国軍の将校コルネリウスに洗礼を授けたのでした(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人のこだわりを持ち続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。

 パウロの立場は、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないということです。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられ、そのようにして「罪の赦しの救い」を等しく受けられて天地創造の神と結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も神のもとに永遠に戻ることが出来るようになりました。イエス様もペトロもマリアもユダヤ人だったからと言って、わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要はなくなりました。実にありがたいことです。

 

3.キリスト教の迫害者から擁護者・伝道者への大変貌

 それでは、自分自身ユダヤ人であるパウロはどうしてそんなことを言い出したのでしょうか?彼は、旧約聖書や律法や預言を放棄してしまったのでしょうか?実はそうではないのです。それどころが、ある意味でパウロの場合、十戒の掟が一層厳格になったとさえ言えるのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?次にそれをみてみましょう。

パウロは、もともとはファリサイ派に属する律法に厳格なユダヤ教徒の一人でした。ファリサイ派というのは、イエス様の時代のユダヤ教社会内部にあった信徒運動で、旧約聖書に記述された律法だけではなく、口述で伝承された掟も同じくらい大事だと主張したグループでした。特に清めに関する掟は大事で、神が与えると約束した神聖な土地に住んでいる以上は、異邦人や罪びととへたに接触して汚れをうつされてはいけない。律法を全てしっかり守ることで神の目に相応しいものとなれるという考えでした。ファリサイ派とイエス様の考え方には類似点もあるのですが、決定的に違う点も多く、ファリサイ派はいつもイエス様に論争を吹っかけては撃退されていました。有名な論争の一つに、何が人間を不浄なものにして神聖な神から遠ざけられてしまったかというものがあります(マルコ7章)。イエス様は、人間を汚れたものにするのは外部から入ってくる汚れではなく、人間内部に宿っている様々な性向である、だからどんな清めの儀式や戒律を守っても人間は清くなれないと教えました。本当に神から罪を赦してもらうことから始めないと人間は清くなれないのです。まさに、そのためにイエス様は人間が受けるべき神罰を代わりに受けて罪の償いをする犠牲の生贄となって十字架にかけられたのでした。

ファリサイ派のパウロはキリスト信仰者の迫害者として広く知られていました。あの、宗教指導者たちが異邦人の総督に引き渡して十字架にかけて殺してしまったナザレのイエスは実は、旧約聖書に約束されたメシア救世主だった、などというのは、指導者たちにとってとうてい受け入れられるものではありません。それでペトロたちに対して、イエスの名を言い広めたら命はないぞ、と何度も脅しをかけます。しかし、ペトロ側としてはイエス様の復活を目撃してしまった以上は引き下がることなど出来ません。対立はどんどんエスカレートして、ついに勇敢なステファノが殉教したのをきっかけにキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起こりました。

その時パウロも熱心に迫害に加担しました。厳格なファリサイ派です。罪ある人間が神の目に相応しいとされるには律法を守り抜くことであると信じていました。それ自体は純粋な信仰でした。しかし、そのような信仰を持つ者からすれば、イエス・キリストを救い主と信じて神から罪の赦しを受けられて神の目に相応しい者とされるというのは律法をないがしろにする邪道にしかすぎません。パウロはエルサレムの神殿の大祭司から委任状をとって、ダマスコ周辺のキリスト信仰者をエルサレムに連行する権限を得ることまでしました。そして手下を従えて出発したところ、その途上で文字通り想定外の出来事が起きました。天に上げられてこの地上にはいないはずの復活の主がそれこそワープしてきたかのように間近に来たのです。これはアナニアが「幻の中」(10節)でイエス様の声を聞いたのとは性質が異なります。アナニアは個人的に声を聞きましたが、パウロの場合は個人的ではなく、従者も皆、異常な現象を目撃し声を聞いたのです。つまり大勢の人が共有する出来事だったのです。

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パウロはこの出来事をきっかけに、キリスト信仰の迫害者から擁護者、伝道者へと大変貌を遂げました。その経緯は以下の通りです。パウロは強い光に覆い包まれました。まさしく神の栄光、神聖な者が現れたという光です。パウロは目が見えなくなりました。アナニアが手を置きに来るまで3日間見えないまま、飲食もとらず祈っていました。「手を置く」というのは、神のために聖別するとか神に委ねるという意味を持つ儀式的な行為です。「目が見えなくなる」ということについて、先週の説教でもお教えしましたが、聖書の神は何かの目的を持って人の目を一時期見えなくすることをします。エマオの道で復活したイエス様に出会った二人の弟子は神から目を遮られてイエス様と気づきませんでした。しかし、気づかなかったおかげで、彼らの旧約聖書の理解が正確でなかったことが明らかになり、それを正すためにイエス様は教え始めたのです。弟子たちは、メシアとは民族解放の英雄ではなくて人間を罪と死の支配状態から救い出す救世主ということが分かりだしました。最後にイエス様が聖餐のパンを渡した時に目が開かれてイエス様と分かりました。分かった瞬間に姿を消しました。これは絶妙なタイミングでした。というのは、聖書の正確な理解と聖餐があれば、イエス様はたとえ見えなくても臨在していると教えているからです。

パウロの目を見えなくしたことにはどんな目的があったでしょうか?それまではキリスト信仰者たちの出まかせにすぎないと思っていた復活のイエス様が自分を名乗って現れたのです。本当に信仰者たちが告白しているように神のひとり子であることが明らかになりました。そこから先です。イエス様が神のひとり子なら、彼の十字架と復活は何だったのか?イエス様は自分がやっている迫害を間違っているとしてやめさせた。律法を守って神の目に相応しい者にされることを大事にしたからこそ彼らを弾圧しなければならなかった。しかし、神は彼らを弾圧から守られる。じゃ、神の目に相応しくされるのは律法を守ることによってではないのか?何に拠るのか?その時イエス様の十字架と復活がこの空白を埋めたのです!

アナニアが来たのはこのタイミングだったでしょう。彼はイエス様の命によってパウロのもとに遣わされたと言いますが、それは、これからパウロに行うことはイエス様の名によって行うのだ、自分の考えで行うのではないということを明らかにします。これこそ神の力が働く仕方です。アナニアは手を置いて言います。自分が遣わされたのはお前の目が見えるようになり、聖霊に満たされるためである、と言うとパウロの目が見えるようになりました。これで、イエス様が人間を罪と死の支配状態から解放して神の目に相応しい者に変えて下さる救い主という信仰が目に焼き付いたようになりました。そしてすかさず洗礼を受けます。洗礼を受けるというのは聖霊を注がれるということです。

イエス様を救い主と信じるだけでは不十分なのか?なぜ洗礼も必要なのか?という質問を時々受けます。イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪者の一人がイエス様を救い主と告白して天に御国に迎え入れられた時、洗礼を受けていなかったではないか?と。こう考えたらどうでしょう?犯罪人の場合は息を引き取る寸前の告白で、それをしたらもう信仰から離れて生きる可能性もない位の最後の瞬間だった。しかし、イエス様を救い主と信じてまだ先が長い場合は聖霊に支えてもらわないとすぐ信仰から離れてしまう危険は高い。聖書を創造主の神の視点で読んだり聞いたりできるのも、聖餐を受ける時に主の臨在が最も身近になることも、全て聖霊の働きによるものです。人間の理性や感情だけではそこまで到達できません。人によっては聖霊を受けたにもかかわらず理性や感情を前面に立たせてしまった人もいます。でも、一度受けているので、何かのきっかけで信仰に戻れる可能性はいつでもあります。

さて、イエス様はパウロが今後すべきことについてアナニアに知らせました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(15節、16節)。これで、パウロの運命は決まりました。迫害者は使徒にかえられたのです。後にパウロは「ガラテアの信徒への手紙」の中で、神は既に自分を母の胎内にあるときから福音伝道者に選んでいて、自分が召し出されたのは神の恵みによると告白しています(1章15節)。神はパウロにまず律法を厳格に守るファリサイ派の経歴を歩ませました。神の前に相応しい者になる律法主義の道を徹底的に歩ませて、イエス様が現れることで壁にぶつけさせて、そこから福音伝道者に召し出したのです。兄弟姉妹の皆さん、神はこのように私たちに真理をわからせるために、最初それと反対の世界を歩ませるという導き方もされるのです!

 

4.律法の新しい役割

 復活の主イエス様が現れたことがきっかけとなってパウロは、イエス様の十字架の死と死からの復活の意味がわかりました。それは、人間を罪と死の支配状態から解放するためになされたのであり、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで人間は神から罪の赦しを受けて神の目に相応しい者とされる、そして永遠の命に至る道を守りと導きのうちに歩むことが出来る、とわかりました。そうなりますと律法を守ることで神に相応しいと見なされるということはなくなってしまいます。律法は不要になってしまったのでしょうか?

律法は不要にはなりませんでした。律法は新しい役割を持つようになりました。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けても、自分の中にはまだ罪が残っていることは否定できない事実です。ということは、イエス様を救い主と信じる信仰のせいで律法が存在価値を失ってしまったということはなく、かえってそれは自分が罪深い者であることを思い知らせる鏡のようになったのです。律法は依然として効力を保っているのです。ただ、ゴルゴタの丘に立てられた十字架が否定できない歴史的事実である以上、いくら律法が罪の自覚を生んでも神の赦しは断固としてあるのです。もし罪に隙をつかれてしまって神の前の相応しさを失ってしまっても、神に赦しを祈りすぐ十字架のもとに立ち返れば、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しには変更がないと示してもらえます。神の前の相応しさも大丈夫と言っていただけます。面白いことに、このサイクルの中にいると、律法は私たちに罪があることを気づかせて私たちを十字架のもとに追いやってくれる役割を持っています。また、このようにイエス様そして父なる神との結びつきが一層強くなっていけばいくほど、十戒に示された神の意志に沿うように生きようという心が育っていきます。その時、律法の掟は神の目に相応しい者になれるために守るものではなくなります。そうではなくなって、相応しい者にしてもらったので守るのが当然というものなります。

そういうわけで、パウロからみれば、割礼を施してまずユダヤ人になって洗礼を授けるという手順は、それこそ律法を守って神の目に相応しくなろうとすることと同じになってしまうのでした。もちろん、パウロ自身やペトロなどのように生まれた時から割礼を受けていて初めからユダヤ人であれば、そのままにするしかありません。新しくキリスト信仰者になる者に対しては、割礼は意味がないばかりか、施してしまうと、神の目に相応しくなることがイエス様を救い主と信じる信仰によらなくなってしまいます。 

ところで、もともとユダヤ人で割礼を受けた状態でキリスト信仰者になる者は「ユダヤ・キリスト教徒」、異邦人から信仰者になる者は「異邦人キリスト教徒」と呼ばれます(後注)。私たち日本人のキリスト信仰者も、欧米人やアフリカ人のキリスト信仰者も皆「異邦人キリスト教徒」です。パウロの異邦人を中心とする熱心な伝道の結果、キリスト信仰はすぐ当時のローマ帝国の東半分に広がって行きました。キリスト信仰は、地中海世界の人々の倫理観、死生観、性モラルに新しい風を吹き込みました。特に、以前からユダヤ教に接して多神教を離れて天地創造の唯一神を信じるようになった女性が多くいましたが、彼女たちはこうしたパウロの教えを支持してキリスト信仰者になりました。いつしか異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒の比率は逆転し、西暦70年のローマ帝国軍によるエルサレム破壊の後は、ユダヤ人キリスト教はほとんど歴史の舞台から姿を消しました。

 

5.おわりに - 臨在し私たちに寄り添う主

 以上、パウロが復活の主が現れたことをきっかけに、人間を神の目に相応しくするものは律法の厳守ではなく、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることであるとわかったことを見ました。特にパウロの場合、キリスト信仰者になるのに割礼を受けてユダヤ人になる必要はない、異邦人は異邦人のままイエス様を救い主として信じて洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を頂けるという立場でした。私たち異邦人にとって本当に「福音」です。

最後に、イエス様がパウロに述べた言葉の中で、私たちに励みになるものがあります。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を神の視点で読んだり聞く時、聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在すると申しましたが、その臨在される方はただおられるというだけでなく、私たちの境遇や状況に重大な関心を寄せながらおられるのです。そのことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信が持てます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

後注 スウェーデン語やフィンランド語では、ユダヤ・キリスト教徒(judisk kristen/juutalaiskristitty)、異邦人キリスト教徒(hedna kristen/pakanakristitty)との呼び名がありますが、英語では、ユダヤ・キリスト教(Jewish Christianity)と「ヘレニズム・キリスト教」(Hellenistic Christianity)という区別のようで、地理的・歴史的に限定された言い方です。

 

説教「死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越ししよう!」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書24章13ー35節

主日礼拝説教 2019年4月28日 復活後第一主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の個所は、イエス様が復活された後の出来事の一つです。過越祭後の新しい週の最初の朝、それは私たちのカレンダーの日曜日ですが、イエス様の墓に行った女性たちが墓の前に置かれた大きな石がどかされて中が空っぽなのを目撃しました。さらに天使が現れてイエス様が復活されたことを告げ知らせました。女性たちの報告を聞いたペテロたちが墓を見に行くと本当に空っぽでした。その後で復活されたイエス様が弟子たちの前に姿を現し始めます。本日の個所の出来事は、同じ日曜日の夕刻に起きたものです。

 Lawrence OP写真 Lawrence OP

二人の弟子がエルサレムから約11キロ程離れたエマオという村に向かっている途中で突然イエス様が合流しました。弟子たちはどういうわけかそれがイエス様と気づかず、一緒に歩き出します。道中イエス様に旧約聖書について講義され、その晩泊った家でイエス様だと気づいた時に姿が消えてしまいました。これは多くの人には怪談話に聞こえるのではないでしょうか?ところが、キリスト信仰者には、これは全く怪談話に聞こえないのです。なぜでしょう?それは、信仰者はこの出来事を復活という観点をもって聞くからです。復活とは死に対する勝利です。怪談話には、復活という観点もなく死に対する勝利もありません。むしろ死に負けて支配されている世界の話です。キリスト信仰者というのは、死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越しした者なので、本日の個所や他の復活に関わる出来事を聞いても全然不気味に感じません。逆に大きな希望を湧き起こしてくれる出来事に聞こえます。キリスト信仰者でない人でも、もしそのように聞こえてきたら、それは死に打ち勝った世界に引っ越しする見込みが出てきたということです。

そういうわけで本日の説教では、既に引越しした人には今の自分の立ち位置を確認することを、まだ引っ越ししていない人にはどうした出来るかということを福音書の個所をもとにして教えていこうと思います。

 

2.復活、死に対する勝利、倫理・道徳、死生観

 復活とは死に対する勝利であると申しました。死に対する勝利とはどういうことか?不死身の人間になることか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰で復活とか死に対する勝利と言ったら、意外に思われるかもしれませんが、何が正しいことか何が善いことかという倫理や道徳の問題に関わってきます。不死身の人間というのはそういうものと無関係に考えられるものです。

死に対する勝利とは、先週お教えしたので手短に繰り返しますと、まず、イエス様が十字架にかけられて死を遂げたことで、私たちの罪の神罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになります。つまり、罪の償いを私たちに代わって全部神に対して果たして下さいました。それからは罪は、以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても、神のひとり子が果たしてくれた完璧な償いがあるので思うようにできなくなってしまいました。罪は破綻してしまったのです。加えて、神が偉大な力でイエス様を死から復活させ、死を超える永遠の命があることを示されました。その扉が私たち人間に開かれたのです。そこで人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神がこのように整えて下さった罪の償いと赦しをしっかり受け取れます。そして、永遠の命に至る道に置かれて後はその道を歩むことになります。

その人は罪の償いと赦しを受けているので、罪はもうその人を神の前に有罪者にすることは出来ない。それでも罪は、まだ力があるかのように見せかけて信仰者の隙や弱いところをついてくる。不意を突かれてしまう信仰者もいる。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせて下さり、私たちは神の赦しは本当にあるとわかって、これからはもう罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このようにキリスト信仰者の人生は絶えず十字架の下に戻ることを繰り返しながら、洗礼の時に新しくされた自分の新しさに磨きをかけていくような人生です。そして最後は、復活の日に神の栄光で光り輝きます。

このように、罪が人間に対して持っていた絶大な力が破綻した結果、死も人間に対する力を失いました。使徒パウロは第一コリント15章20節で「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています。実にキリスト信仰者にとって死とは、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りに変わってしまいました。パウロは第一コリント15章の後半で復活の体について述べていますが、それによると、私たちが復活する時、地上の時に着ていたこの朽ちる肉の体にかわって朽ちない栄光の体を着ることになる。そうなるとキリスト信仰者にとって死というのは本当に、復活の日までひと眠りして着替えをするということになります。かつて死は罪と共同して人間を神から切り離して永遠の滅びに陥れようとしていましたが、それも破綻してしまったのです。

 復活の体について、先週の説教でも申し上げましたが、イエス様の例から明らかなように不思議なことがいろいろあります。その一つは、弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気づかなかったということです。本日の個所もそうですし、先週のマグダラのマリアの時もそうでした。どうしてそんなことになったのかと言うと、先週申し上げましたように、復活とは蘇生とは異なるものだからです。復活が起きると今纏っている肉の体ではなく、特別な復活の体を纏うことになります。それで肉の体を持つ者が肉眼で気がつきそうでつかない何かが起きる。蘇生というのは死んだ人が少しして生き返るということなので、それは遺体が腐敗する前に起きなければなりません。復活というのは、肉体が消滅腐敗した後で、将来の復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。

 復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。イエス様自身、復活したものは天使のようになると言っていましたが、まさにその通りでした。

ところで、復活の体を着せられる復活というのは、将来神が今の天と地を終わらせて新しい天と地を創造する時に起きるというのが聖書の立場です。イエス様の場合はその日を待たずしての復活でしたが、それは人々に復活が本当にあることを目撃させるためでした。そうすると、そのような復活の日が将来来るまではこの世から死んだ人は眠りにつくことになります。聖書にあるようにイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡、つまり蘇生を行いました。それは、彼が将来死者を復活させる力があることを前もって知らせる奇跡でした。その時彼は死んだ人のことを「眠っている」と言って生き返らせたのは象徴的です。

そういうわけで、キリスト信仰者にとって死とは復活の日までのひと眠りということと肉の体にかわって復活の体に着せ替えられることを意味します。このようにこの世の人生の次に来る段階のことが心配なくなったので、あとは、そこに向かって行こう、道を踏み外さないように注意しよう、この世にいる間はイエス様を贈って下さった神の意志に沿う生き方をしようということになります。神の意志に沿う生き方とは、簡単に言えば、神を全身全霊で愛するということと隣人を自分を愛するがごとく愛するということ、これを各自自分の持ち場立場で行うことです。

持ち場立場によって愛の現れ方が異なってくるかもしれませんが、それらを超えて共通なこともあると思います。例えば、愛と正義の板挟みになるということがあると思います。愛に目をつぶって正義を行おうとすると裁きになってしまう。正義に目をつぶって愛を行おうとすると甘やかしになってしまう。神は立場上、完全な愛と完全な正義を両方持ってそういう板挟みを超えておられる方であす。少し具体的に申しますと、神のひとり子のイエス様は十戒の掟を行為の上でも心の中でも完全に実現している方でした。正しさの権化と言ってもよいでしょう。普通だと、そういう正しさの塊を見ると、お高く留まって生意気な奴だと毛嫌いされるでしょう。ところがイエス様はお高く留まりませんでした。正しさを持てない奴は情けないとか相手にしないという態度ではありませんでした。そうではなくて、私たちが神聖な神の前に出されても大丈夫でいられるように正しさを私たちに譲り渡すことをしたのです。そのために強盗や反逆者が受ける刑罰を自ら受けるに任せたのです。ここに神の愛があります。

このように神は完全な正義と完全な愛の双方を持つ方であるからには、私たちもそれから外れるような生き方は許されません。そうなると、板挟みになることを覚悟しなければなりません。それでも復活の日に神の国に迎え入れられると、そこは完全な愛と完全な正義が両方一緒にあるところです。その日神の国に迎え入れられる者はその2つの「完全」に取り込まれます。黙示録21章4節に神が全ての涙をことごとく拭い取って下さると言われていますが、板挟みの辛さや不完全さの無念さから流した涙も拭い取ってもらえるのです。

 このように、この世の人生の次の段階のことが一応押さえられると、それに付随してこの世の人生の方針もはっきりしてきます。死の観点と生の観点が一緒になっていて、まさにキリスト信仰の死生観と言ってよいでしょう。もちろん死生観はキリスト教の専売特許ではなく、他の宗教もみなそれぞれに持っているでしょう。キリスト教の死生観は何かと問われたら、今申し上げたようなことで宜しいのではないかと思います。死に打ち勝つ世界に引っ越しすると、それに応じて死生観も変わるのです。

 

3.イエス様の体の臨在と霊的な臨在

  次に本日の福音書の個所を見てみましょう。それは、復活したイエス様の臨在とはどのようなものであるかを教えてくれます。聖書をよく見ると、イエス様はかつてのように常時、弟子たちと一緒にいません。本日のように二人の弟子の前に現れて消えたり、家の中に集まっている弟子たちの前に突然現れたり、ガリラヤ地方に先に行って弟子たちを待っていたり、さらにガリラヤ湖で魚取りをしている弟子たちの近くに現れたりです。使徒言行録1章3節でイエス様は「40日にわたって彼らに現れ」と言われているのは、40日間ずっと一緒だったというのではなく、40日の間現れたり姿を消したりの繰り返しだったと言えます。ガリラヤ湖の出来事を見ると、弟子たちの側でも復活したイエス様というのは現れてはいなくなるものと受け入れていたようです。そして、復活から40日目に最終的に弟子たちの目の前で天に上げられました。

 マタイ28章20節でイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのに、天に上げられてしまったらどうなるの?と言いたくなります。実は「共にいる」というのは、体を伴った臨在ではなく、体を伴わない霊的な臨在です。イエス様にとって霊的な臨在は現実にあるものですが、私たちにはそれが現実にあるものか確かではありません。それが現実である、これを受けたら臨在はもう現実なのだ思い知れ、というのが洗礼と聖餐です。洗礼と聖餐に加えて、聖書の御言葉を読み聞くこともイエス様の霊的な臨在を現実にするものです。ただし、臨在を現実にする読み方聞き方があります。そうでない読み方聞き方もあります。そのことを本日の福音書の個所は教えています。それについて見ていきましょう。

 イエス様の臨在を現実のものにする聖書の読み方聞き方とは一体どんな読み方聞き方なのか?その答えは、まず、どうして二人の弟子はイエス様のことをすぐ気がつかなかったのか、そしてどのようにして気づくようになったのか、このプロセスを見ていくとわかります。

二人の弟子の前にイエス様が現れた時、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24章16節)とあります。「遮られて」というのはギリシャ語原文では受け身の形です。新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「~によって」という動作の主体がない場合は多くは神が隠れた主体になります。「神によって」が省略されているということです。そうすると神が二人の目を遮ったことになります。これは全く不可解なことです。なぜ神は、ただでさえ復活の体を纏うイエス様は気づきにくいのにわざわざ目を遮ってもっと確認を難しくする必要があったのでしょうか?マグダラのマリアの場合、最初気づかなくても、イエス様の「マリア」の呼びかけで気がつきました。エマオの道では、話声をずっと聞いているのにそれでも気づかない。神はなんでそんな意地悪をするのか?

実は、神が何かの目的をもって人間の心を鈍らせて目を曇らせることをするというのは旧約聖書、新約聖書を通してある難しいテーマの一つです。これを取り上げてお話しすると一回や二回の説教では足りないのでここでは立ち入りません。このエマオの道の出来事に焦点をおいて見ていくことにします。

 神はなぜ二人の弟子の目を遮ったのでしょうか?ここで逆に考えてみます。もし、神が二人の目を遮らず、二人はすぐにか、またはマリアのように声を聞いてイエス様とわかったとします。そうしたら、その後で起きたことは起こらなくなります。その後で起きたこととは何でしょうか?それは、弟子たちが旧約聖書を正確に理解していないことが暴露されて、それをイエス様が正したということです。もしすぐイエス様とわかって再会を喜び合ってめでたしめでたしになってしまったら、弟子たちの旧約理解は訂正されずそのままだったでしょう。

 それでは、弟子たちの旧約理解の何が問題だったのでしょうか?それを明らかにするためにイエス様は上手に会話を導いていきます。イエス様「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」二人は暗い顔をして立ち止まる。弟子の一人のクレオパの言葉からあきれた様子がうかがえます。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけは御存じなかったのですか。」イエス様「どんなことでしたか?

イエス様は全てを知っているのでこれは白々しい質問ですが、話を進めて弟子たちの無理解を正すためにわざと聞きました。そこで弟子たちは答えて、彼らの理解の誤りを暴露します。彼らは、イエス様のことを「預言者」だったと言い、「あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」と言います。つまり彼らにとって、イエス様というのは、奇跡の業と神の権威を感じさせる教えをした偉大な預言者であり、それに加えてイスラエルを占領者ローマ帝国から解放してくれる民族の英雄だった。それが十字架につけられて処刑されてしまったので民族の悲願は万事休すになってしまった。

十字架と復活の出来事の前は、このようなイエス理解は一般的でした。弟子たちの間でもそうでした。ところが、旧約聖書にあるメシア預言はそういう一民族の他民族支配からの解放についてではなかったのです。神の計画は人類全体にかかわるものでした。メシアとは民族の英雄ではなく文字通り救世主だったのです。預言がそう理解されなかったのは、それはユダヤ民族の辿った歴史からすればやむを得ないことでした。イエス様が処刑されてしまって、弟子たちはこれで万事休すと思ってしまいました。ところが、その後で彼らにとって想定外のことが起きました。処刑されて葬られたあの方の遺体が墓になかったのです。これは一体なんなのか?エマオの道で二人の弟子たちはこのことを話し合っていたのでした。

イエス様は旧約聖書をもとにメシアの正しい意味を教えていきます。一民族の他民族支配からの解放ではない、人類の罪と死からの解放者である、と。それまでの旧約聖書の理解が塗り替えられていきます。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。イエス様の処刑と埋葬で全てが終わったという絶望と失望が終わりました。新しい意味と空の墓と「復活された」という天使の言葉が結びつきました。二人の弟子が後で述懐しているように、イエス様の教えを聞いていた二人は心に燃え上がるものを感じたのです。

面白いことに、この段階でも彼らはまだイエス様と気づきません。つまり神はまだ彼らの目を遮っているのです。どうしてなのでしょうか?イエス様がパンを裂いて渡した時に「二人の目が開け、」イエスだと分かりました(24章31節)。日本語訳で「目が開け」と言っているのはギリシャ語原文では「開かれた」と受け身の形です。つまり「神によって」開かれたのです。神はどうしてパンを裂く時になってやっと彼らの目を開いて気づくようにしてあげたのでしょうか?しかも気づいた瞬間イエス様の姿はありませんでした。意地悪をしているのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。これは、聖書の御言葉を正しく聞くことと聖餐式を受けることがあれば、それはイエス様の体の臨在と引き換えになるくらいのものであるということを言っているのです。体の臨在がなくても、御言葉を正しく聞くことと聖餐式があれば霊的な臨在があるということを言っているのです。体の臨在がなくても物足りないということにはならないのです。見て下さい、イエス様の姿が消えた時、弟子たちにはがっかりした様子は全くありませんでした。御言葉と聖餐でイエス様の臨在が現実のものなったのです。

 

4.おわりに

 以上、死に支配された世界から死に打ち勝った世界への引っ越しは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神が整えた罪の赦しを受け取ると引越し完了になるということを申し上げました。新居の生活には新しい挑戦や課題があることもわかりました。新しい死生観とそれに伴う倫理・道徳です。それゆえ新居での生活は楽ではないかもしれません。引っ越しする前の家の方がよかった、なんで引越しなんかしてしまったのだろう、などと思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、新居の生活は決して一人ぽっちではありません。聖書の御言葉と聖餐を通して救い主イエス様が共にいて下さいます。イエス様が共にいるので、天地創造の神もご一緒です。引越し前に比べて何が不足というのでしょうか?

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

説教「罪よ、くたばれ!死よ、さらば!ようこそ、復活の主よ!」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1-18節、第一コリント15章21節ー28節

主日礼拝説教 2019年4月21日 復活祭

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の偉大な力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。ところで、クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。日本語では降誕祭と言います。実は復活祭・イースターは、キリスト教会ではクリスマスに劣らず大事なお祝いです。ディズニーランドでもハッピーイースターをやっているそうです。イエス様の復活の何が人をハッピーにさせるのでしょうか?一度死んだ者が復活したというのは、ちょうど暗くて寒い冬が明るい暖かい春にかわる嬉しさに重なるのでハッピーになるのかもしれません。しかし、ここはキリスト教会ですので、イエス様の復活がハッピーなことだということを聖書に照らし合わせて見ていきたく思います。

 まず、次のように言ったらどうでしょう?イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが復活したということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。これに付随して、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが復活したイエス様に出会って喜び勇気づけられたということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。こういうふうに言うと、復活祭というのは何だかテレビ・ドラマでも観るように、昔の人たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いになります。しかし、そういう理解ではまだ聖書をちゃんと読んだことにはなりません。というのは、イエス様が死から復活させられたことは実は、当時の人たちの時代の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命や生き方にも関係してくるからです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何なのかを考える必要があります。

そこで、イエス様の復活とは何なのかをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかがわからないといけません。歴史的事件としてみると、ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買い、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書が聖書である所以は、それが天地創造の神の人間に対する思いや計画を知る唯一の手がかりであるということです。聖書をそのような書物と見なせば、見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。

 

2.罪よ、くたばれ!死よ、さらば!

 それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?創世記に記されているように、人間は創造主の神に造られた後、神に対して不従順になって罪を犯したために罪が内に入り込んでしまって神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまいました。罪とは、人間が神の意志に反することをするように仕向けたり、また神の意志に沿うことを難しくするようにして、人間を造り主の神から遠ざけようとする悪いものです。そこで神は、人間がこの罪の恐るべき力から解放されて神との結びつきを回復できるようにしよう、そして、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしよう、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしよう、そういう計画を立てたのです。それでは、この神の人間を救うという壮大な計画とイエス様の十字架と復活はどう関係するのでしょうか?

まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれて、罪の償いを神に対して全部果たして下さいました。それからは罪は、以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超える永遠の命があることが示され、その扉が私たち人間に開かれました。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて整えた罪の償いと赦しをしっかり受け取れて、永遠の命に至る道に置かれて後はその道を歩むことになります。

その人は罪の償いと赦しを受けているので、罪はもうその人を神の前に有罪者にすることは出来ません。それでも罪は、まだ力があるかのように見せかけて信仰者の隙や弱いところをついてきます。不意を突かれてしまう信仰者もいるかもしれません。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせて下さり、私たちは神の赦しは本当にあるとわかって、これからは罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このように私たちは十字架の下に戻ることをすればするほど、罪に対して強烈なパンチを加えることになります。まさに、罪よ、くたばれ!です。

もし罪が思いや考えの中に留まらず、言葉や行いで出てしまい、誰かを傷つけてしまった場合は、その人に対して謝罪や償いをしなければならないことは言うまでもありません。ここで忘れてはいけないことは、神は隣人愛をせよと言われるので、それを破ったことにもなるということです。それなので、神に対しても赦しを乞わなければなりません。その時も神は、イエス様の十字架の犠牲に免じて赦して下さいます。ところが、隣人が赦してくれない場合もあります。「神は赦せても私は赦せない」などという人もいます。キリスト信仰者はどんなに憤っても絶対にそう言ってはいけません。自分を神よりも高い地位に置いてしまうからです。でも、そう言われる立場になってしまったらどうしてよいかわかりません。しかし、神との関係で見ると、神に赦しを乞えば神はひとり子の犠牲の業に免じて赦して下さいます。人間との関係では行き詰まりかもしれないが、神との関係では大丈夫ですから、それを信じて絶望せずに打開の糸口を見つけていきましょう。神に祈りながらやれば、必ず見つかります。

イエス様を救い主に持って神から罪の赦しと償いを受けた人は、神との結びつきを持って生きる人です。神との結びつきがあると、罪はその人をもう神の前で有罪者に仕立てることは出来ません。イエス様がその人を罪の力から贖い出して下さったからです。

このように、罪が人間に対して持っていた絶大な力は破綻しました。その結果、死も人間に対する力を失いました。本日の使徒書の日課の中で使徒パウロは、死からの復活はイエス様が最初で、その次は彼に結びつく人たちが彼の再臨する日に復活すると言っています(第一コリント15章23節)。また本日の日課の前では「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています(20節)。信仰者にとって死は、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りになったのです。ルターによれば、この「眠り」はこの世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りであると同時に、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの眠りは、ほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きもないし、またこの世で生きている人を見守ったり影響力を及ぼすこともありません。実はずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。これが聖書の観点です。

パウロはまた、本日の日課の後のところで復活の体について述べています。私たちが復活する時、地上の時に着ていた朽ちる肉の体にかわって朽ちない栄光の体を着ることになる、と。そうなるとキリスト信仰者にとって死というのは実に、復活の日までひと眠りして着替えをするということになります。罪と共同して人間を神から切り離して永遠の滅びに陥れようとしていた死でしたが、それも破綻してしまったのです。まさに、死よ、さらば!です。

本日の旧約の日課はモーセが、神の偉大な力でイスラエルの民がエジプトの軍勢から守られたことを賛美するところでした。エジプトの軍勢は海水に巻き込まれて全滅してしまいました。これは一見すると罪や死ということと無関係に見えます。ところが、旧約聖書に記された昔の出来事というのは、将来起こることのミニチュアというか象徴的な先駆けになっているということが多くあります。エジプトの軍勢に起きた出来事が罪と死の破綻の象徴的な先駆けというのは、旧約聖書のミカ書7章19節を見ればわかります。「主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる(後注)」。つまり、神の民イスラエルを襲おうとしたエジプトの軍勢が壊滅したように、イエス様に結びつく者を襲おうとする罪と死も同じ運命にあるというわけです。

このように罪と死の力から人間を救い出そうとする神の計画がイエス様の十字架と復活を通して実現しました。罪の赦しの救いを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。そういうわけで、復活祭とはイエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。さらに、自分自身が復活させられるという希望に加えて復活の日に懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

3.ようこそ、復活の主よ!

  さて、本日の福音書の箇所を見てみましょう。復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する復活の体とはどんな体なのか?それについては、パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。

 復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活というのは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

 さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったと考えられます。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはどうだったでしょうか?泣き続けたでしょうか?次のように考えたらどうでしょう?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。

イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。なんだか聖書の訳の中に日米同盟と欧州連合の対決があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べているからです。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(後注)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。

神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これを感動的と言わずして何を感動的と言えるでしょうか。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことがよく窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。

ここでイエス様は、弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。

4.おわりに

 兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活のおかげで私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。

十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様に結びつく者、

神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、

その度に心の目を十字架の主に向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、

神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。

 

この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

 後注(ヘブライ語とギリシャ語がわかる人にです)

  エジプトの軍勢に起きた出来事がミカ書7章19節の預言の象徴的な先駆けと言うことに対して、言語的な繋がりが弱いと指摘されるかもしれません。出エジプト記15章で「投げ込む」という動詞はרמה (1節)とירה(4節)を使っているのに対して、ミカ7章19節ではשלךを使っているからです。出エジプトでは投げ込む場所を「海に」ביםと言っていますが、ミカでは「海の深みに」במצלות יםです。他方で「深みに」במצולתは、出エジプト15章5節で海に投げ込まれた軍勢が石のように落ちていく場所を言い表す時に使われています。ミカの預言には出エジプト記の出来事が響いていると考える者です。 

ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。

ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。

  

聖金曜日 説教「希望の元」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書 19章 17−30節

去年の二月にイスラエルに行っていた時、もちろんエルサレムに行きました。エルサレムは、その時大変寒かった所でしたが、とても、とても面白かったです.聖書の歴史に関係がある建物、にわと道をたくさん見ました。

エルサレムのはイエスが歩いた苦しい道、Via Crux もあります。それを見ると色々な聖書の言葉を考え始めました。

例えば マタイによる福音書/ 27章32節

兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

イエスは本当に色々な苦しみを受けました.あなたの為にも、私の為にも.これは神様の人間には理解出来ない、愛でいっぱい計画です。

私達人間の生活の中にも苦しみがあります。多分ほとんど希望を失うほど大変な苦しみです.苦しい日があると希望はどこでしょうか。

苦しみを考えるとは三種類あると思います。 

初めに

自分のせいの苦しみです。例えば、歩行者が赤信号であっても賑やかな道をわたると、きっと交通事故になりますよ。そして苦しみにもなる。これは自分のせいの苦しみです。  

第二に

5歳の女の子が道を歩いていて、酔っている運転手の車に跳ねられるとします。誰の責任でしょうか。やっぱりその酔っぱらい 運転手の責任だと思います。警察もそう判断します。  

第三に

かわいい赤ちゃんが生まれるとします。お母さんもお父さんも喜んでいます。しかし、後一年で赤ちゃんががんで死ぬとわかる。父親と母親にとって大変な苦しみです。けれども、責任が誰にあるのか、分かりません。説明できない苦しみです。  

今日の聖書の箇所にも苦しみについて書いてあります。イエスの苦しみについてです。  

17−19 大変なでき事でした 

   ヨハネによる福音書/ 19章 17節

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

これは大変なできことだと思います。イエスはとても良い方ですから。  

どんな方なのでしょうか。イエスの人格というのは。  

イエスは父の偉大なる御業を喜び、人類の罪と悩みを見ては、大変苦しみました。

イエスは神が御自身にその使命をお与えになったことを知っていましたので、何も恐れることなく、権威ある者のように教えました。

イエスは御自分の民とその聖なる嗣業とを愛していましたが、同時に彼は人間のあらゆる制約から完全に自由でした。  

そして、イエスは良い業を背一杯なさいました。  

イエスの御業について

イ エスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同 時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。イエスは良い方だと言われても宜しいでしょうね。

これらのことを読むと、私達の人間の考え方で、イエスの苦しみは説明できません。私の知恵は足りませんと思います。  

また、イエスは人々からいじめをうけました。良い業ばかりなさったのに。  

 ヨハネによる福音書/ 19章 20節

イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。 

しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。  

兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。  

そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。  

良い業ばかりなさっていたイエス様は、今いじめられました。悪口も言われました。着るものもなくしました。全部預言者が語られた通りです。  

大変な苦しみがあったのに 

ヨハネによる福音書/ 19章 25節

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。  

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。  

それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。  

イエスはまだまだケアを考えていました。本当に本当に母親の世話をなさいました。これほどの愛は説明できませんね。  

次に

イエスの苦しみは人間の考え方では説明できません。しかし、神様は人間と全く違います。神様の考えは私達の考えを明らかに超えます。  

イエスの苦しみと言うのは、あなたと私のための苦しみです。  

イ エスは苦難と試練と死の危険を忍び、父の御旨に従順でした。父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与 えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、 代わってその身に受け、神の怒りを取り除いたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちを 罪から贖うための犠牲なのです。

イエスの苦しみの結果として、私達は希望を持っています。

キリスト者の希望というのは

時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。  

最後に今日の聖書の箇所の終わりを読みましょう。  

ヨハネによる福音書/ 19章 28節 

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。  

そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。  

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。  

まとめて、この聖書の箇所を読むとイエスの道は本当に苦しい道でした。

それは、私達の罪人のためでした。これは不思議な愛です。これは、私達の希望の元です。 

祈りましょう 

天の父なる神様、あなたは御自分の御子を死に渡して、人間を救う計画を作ってくださいました。イエスは私達のために大変な苦しみを受け入れました。今日私達 は特にその苦しみを覚えています。イエスの苦しみも神様の計画の通りです。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行い は必要ではありません。私たち弱い人間には、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たち を助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。
聖書を読むと、贖い主のイエスがあと3日目に復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜びの元です、希望のもとです。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の 赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への 道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。

私たちは信仰によってあなた の子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人 生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招 き、また、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力に よって子どもと隣人を大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を 照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン。



説教「主がお入り用なのです」マルッティ・ポウッカ牧師、ルカよる福音書19章28−48節

説教2019年4月14日

少し、例えの話しをしたいと思います。 

台所には、ナイフもフォークもあります.値段は大体同じですが、使い方は全く違います。ナイフはナイフとして、フォークはフォークとして使わなければなりません。反対は無理です。

今日の、聖書の箇所を読みましょう。これはとても有名な聖書の教えだと思います。



最初に
イエスは小子ロバに乗ってエルサレムに行かれました。


ルカよる福音書/ 19章 28節

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれ

29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとし
30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。
32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。

 預言者たちも前から神様の計画を知っていました.そして、人々に語りました。そして、イエスが言われとことも実現になりました。

33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。

弟子達はイエスの教えに従って、神様の計画は進歩しました

36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
38「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。

 皆、イエス様を見ると大喜びしました。踊りました、歌いました。イエスがこの世に来て下さるのは、神様のご計画でした。 


  

時が満ちた、と言ってもいいでしょう。神様の計画が進展(しんてん)しました。

  でわ、イエスはいったい、どなたでしょうか。これはとても大切な質問です。

 このような教えがあります。
神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えることができるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を 世の救い主としてお送りになりました。聖書にはイエスの人生について、また教えの奇跡についてたくさん書いてあります。

 
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。

 そして、イエスはお生まれになりました。

 人間としてイエスは罪を別にして、全ての点において、私たち人間と同様でした。イエスは生まれ、成長し、疲れ、空腹を感じ、また喜びや悲しみを味わいました。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:52)。

 イエスは御業をどう行われましたか。

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。

 そして、イエスは恵みの主でいらっしゃいます。

イ エスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪 人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何らの価値も無いのに与えられる神の愛が「恵み」と呼ばれるのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。

イエスは本当に本当私達人間を愛して下さいました.けれども、皆はイエスの教えを聞いてくれませんでした.イエスは泣いていました。

聖書の箇所に戻りましょう。

41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。

 イエス様はその平和への道でいらっしゃいます.イエスは道であり、心理であり、命であります。どうして人々は聞いてくれませんでしたか。イエスは無泣いてしまいました。

 そして、イエスは怒りました。

45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。

 どうしてイエスは怒ってしまいましたか。

神の国の教えは商売より最も大切な事だからです。

47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

イエスは良い業ばかりなさったのに、皆は好きではありませんでした.イエスは、苦しみを受けなければなりませんでした。これも神様の計画の部分でした。

 まとめて。神様は、このようなイエス様をお送りになりました。

この神様の計画は、私たちの永遠の命の希望の元です。ですから、今日の聖書の箇所の人々と弟子たちがしたように感謝しましょう。

自分の栄光を求めていた ファリサイ派の人々などはイエスのことが好きではありませんでした。イエスがいるとファリサイ派の人々の力は弱くなるという恐れがあったと思います。けれど も、私たちにとって、イエスは素晴らしい方です。

 私たちはイエスによる永遠の命の希望のプレゼントを頂きました。このプレゼントを教会として家族や友人たちに分けることは私たちの大きな喜びです。

そして、私達の一番の最大事です。私達は色々な神様に頂いた賜物を持っています。

ナイフでしょうか、フォークでしょうか、主がお入り用なのです。

 
祈りましょう


 天の父なる神様、あなたは、人間を救う計画を作ってくださいました。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行いは必要で はありません。私たち弱い人間は、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを 超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。
聖書を読むと、贖い主のイエスが復活されたということが分かります。 これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である 天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えて ください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めます ように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招き、また、復活の喜 びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を 大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができます ように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン。



説教「見よ、神は新しいことを行う」神学博士 吉村博明 宣教師、イザヤ書43章16ー28節

主日礼拝説教 2019年4月7日 四旬節第五主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
本日の旧約の日課イザヤ書の個所の中で神は、「見よ、新しいことをわたしは行う」と言っていました。新しいこととはどんなことでしょうか?ちょうど日本では新しい元号が公表されて、世間は新しいことへの期待が高まった感があります。しかし、聖書のことですので、聖書外のことに結びつけて理解しようとするのではなく、あくまで聖書内で理解しようと思います。そうなるとイザヤ書43章16節から28節をよく読まなければならないのですが、少しわかりにくい個所と思います。イザヤ書全体のことを念頭に置く必要があります。面白いことに、本日の福音書の日課と使徒書の日課を何度も読んでいくうちに、イザヤ書43章で神が行うと言われる「新しいこと」を理解するのに役立つことに気がつきました。福音書の日課は、イエス様がブドウ園のたとえを使って教えを述べる個所でした。使徒書の日課は、パウロがイエス様を救い主と信じることで、それまで勝ち取ったと思っていたことは皆損失になったと言っているところです。そういうわけで本日の説教では、福音書と使徒書の日課と結びつけて神が行う「新しいこと」を明らかにしていきたいと思います。

まず、イザヤ書43章の個所を見てみましょう。分かりにくい個所かもしれませんが、解きほぐすようにしていけば分かってきます。最初の16節と17節で神は海の中に道を与えたとか、戦車や強大な軍隊が倒された状態にあることが言われていますが、これが出エジプト記の出来事を指していることは申し上げる必要はないでしょう。モーセ率いるイスラエルの民のために神は海を開いて通り道を与え、後を追ってきたエジプトの軍勢は海水が戻ったので海底に沈んでしまったという出来事です。そして18節で神は「初めのことを思い出すな、昔のことを思い巡らすな」と言われますが、「初めのこと」、「昔のこと」は何を指すのかはっきりしません。そこで25節を見ると、神は「民の背きの罪をぬぐい、彼らの罪を思い出さないことにする」と言っています。神が過去の罪を思い出さないことにする、忘れてやる、と言っている以上、私たちもそれに倣って、違うことに思いを巡らさなければならない。それが、神が行う「新しいこと」なのです。

それでは、私たちが思い巡らさなければならない神の「新しいこと」とは何か?この個所をまず、書かれている内容に関係する歴史の文脈に置いて考えてみます。そうすると、「新しいこと」とはイスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還させてもらえることを指します。歴史の文脈に置いて見た場合、それが「新しいこと」になります。その背景にあるものが21節から24節に記されています。イスラエルの民は神の意志に背くことばかりし、その結果、罰として国滅ぼされて異国の地バビロンに連行されてしまいました。これは、紀元前6世紀初めに起きた歴史上の出来事です。神としては、民が悔い改めればいつでも罪をぬぐい不問にしてあげる用意があったのに、民の態度と言ったらまるで、自分たちには落ち度はない、神は根拠もないのに民に罰を与えて苦しめている、そんな神を相手に裁判しても構わない、そういう傲慢さがありました(26節、後注)。それは自滅を招いてしまう態度でした(27ー28節)。

しかしながら神は、民の捕囚が70年近くに及ぼうとする段階で、民の罪の償いは果たされたと見なします(イザヤ書40章2節)。それで、祖国帰還を認めるのです。それは、ペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼして、ペルシャの王がイスラエルの民の帰還を認める勅令を出すことで実現します。これも歴史上の出来事です。かつて出エジプトの頃、神が力を発揮してエジプトの軍勢を滅ぼしてイスラエルの民が安全に移動出来るようにしたことや、荒れ野の中で進むべき道を示したり、水や食べ物を与えたこと、それと同じことがバビロンからの祖国帰還にも起きたのです。19節と20節を見ればわかるように、神は祖国帰還するイスラエルの民のために荒れ野に道を敷く、砂漠に大河を流れさせて民に水を飲ませると言われます。これが、民の罪の償いが果たされたことを示す祖国帰還でした。それで、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから、そう神は言われたのでした。罪の償いを果たした者として帰還する祖国で新しくやり直しなさいと言って下さったのでした。

ところがどうでしょう、祖国帰還した民は神の意志に沿う生き方をしていないことが次第に明らかになりました。イザヤ書の終わりの方やマラキ書にそのことが伺えます。他方で、祖国帰還後に再建した神殿には世界の諸国民が天地創造の神を崇拝しにやって来るという預言があって、神の力で帰還できたのだから、その預言も帰還後に実現するという期待がありました。ところが現実には、ユダヤ民族はほんの一時を除いてずっと大国の支配下に置かれ続けていました。祖国帰還はまだ預言の本当の実現ではなかったのか?ならば、それはさらなる将来に実現するものなのか?かつて民を奴隷の国エジプトから解放し、さらには捕囚の地バビロンからも解放した神であれば、それらに並ぶような偉大な解放を実現して下さるのではないだろうか?そんな期待が持たれていた時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。果たして神は、イエス様を通してどんな「新しいこと」を行おうとしたのでしょうか?本日の福音書の個所のイエス様の教えがそれを明らかにしています。以下そのことを見てまいりましょう。

 
2.
イエス様のブドウ園のたとえの内容は以下のものでした。ブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を任せ、収穫の実を持ってこさせるべく僕をつかわすが、これを農夫たちは袋叩きにして手ぶらで帰してしまいます。三人の僕が同じ目にあった後で、所有者は自分の息子なら敬意を払ってちゃんとブドウの実を持たせるだろうと期待して送ります。ところが、農夫たちはこともあろうに、息子を殺害して園を自分たちのものしようと企み、本当にそうしてしまいます。そんなことしたら自分たちのものになるどころか、所有者に報復されてしまうのは目に見えているのに。イエス様はどうしてそんな頭の悪い農夫たちを登場させたのでしょうか?

この問いに答える前に、ブドウ園のたとえに続いてイエス様が語る「隅の親石」の話を見てみます。隅の親石とは、石造りの家を建てる時の大事な基となる石、つまり礎石のことです。イエス様の話は実は、詩篇118篇22節からの引用です。石造りの家を建てる者がこの石は使い物にならないと言って捨てた石が後で本当の礎石になるという預言です。イエス様はこの聖句に対する補足説明として次のように言います。この石につまずく者は深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する、と(ルカ20章18節)。実はこれも、イザヤ書8章14節からの引用です。このようにイエス様はブドウ園のたとえに続けて二つの旧約聖書の個所を結び付けて引用しました。

 ところで、イエス様のブドウ園のたとえは、これを初めて聞いた当時の人々にとってわかりそうでわかりにくい話だったと言えます。まず、当時のユダヤ教社会の人たちだったら、ブドウ園と聞くとイザヤ書5章にある「ブドウ園の歌」を思い出します。神が一生懸命に守り育てたブドウ園からはろくな実がならなかった、イスラエルの民の現状もそれと同じだとして、神に背を向けて不正にまみれて生きる民が批判される、そういう内容の歌です。このように、ブドウ園はイスラエルの民を指します。しかしながら、イエス様のたとえでは、ブドウ園自体はこのような悪い存在ではなく、悪いのは雇われ農夫です。イエス様のたとえを聞いた人たちは、イザヤ書をもとに、ブドウ園はイスラエルの民、所有者は神だとは連想はできても、雇われ農夫や所有者が派遣した家来や息子についてはイザヤ書にない要素なので、少し考えてみなければなりません。所有者の息子が殺されてしまうというのも、神のひとり子が殺されるということになりますが、まだイエス様が十字架に架けられる以前の段階では何のことか見当もつかなかったでしょう。

 そこで、イエス様のたとえでブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を委ねると旅に出ることに注目します。日本語で「長い旅に出た」と言っているのは、ギリシャ語原文では「外国に旅立った」(απεδημησεν)というのが正確な意味です。どうして外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通でした。「外国に出かけた」というのは、故国に戻ったということでしょう。

このような背景を考えると、14節で雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがわかってきます。普通だったら、そんなことをすれば自分たちのものになるどころか、すぐ処罰されてしまうでしょう。ところが、息子は始末したぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということになるのです。このようにブドウ園のたとえは、当時の人たちにとって、その社会状況から起こり得そうな身近な話に聞こえます。しかし、登場人物全ては誰を指して、一体なんの出来事について教えようとしているのかはわかりません。イザヤ書のことがあるから、何かイスラエルの民に関する教えだろうとはうすうす感じていながらも、現実の身近な世界で起こりうる出来事として理解できるだけです。つまり、遠い国にいるブドウ園の所有者が、邪悪な雇われ農夫に息子まで殺害されて、ブドウ園を乗っ取られてしまう。そして所有者は報復として農夫たちを滅ぼして、ブドウ園を別の者たちに委任するという具合にです。大方の人にとっては、これは当然の報いだと受け取られたでしょう。

ところが、群衆の中にはイエス様のたとえのポイントを理解し始めた人たちがいました。祭司長や律法学者がそれでした。ユダヤ教社会の指導層です。イザヤ書の「ブドウ園の歌」からブドウ園はイスラエルの民、所有者は神と理解できると、雇われ農夫というのは、神から委託されてブドウ園つまりイスラエルの民を世話する役割を与えられた人というイメージが湧きます。つまり、民の指導層です。祭司長や律法学者たちは、雇われ農夫が自分たちをさすのだ思い至ります。彼らは、イエス様が奇跡の業と権威ある教えで多くの人々を引き付けていることをいまいましく思っていました。何とかしないと自分たちの権威が揺らぐと危惧していました。それにも増して、もし群衆があの男をユダヤ民族の王にでも祭り上げたら、占領者のローマ帝国が鎮圧部隊を派遣して国中は大混乱に陥ってしまう、早く手を打たなければならないと危機感を抱いていました。しかし、彼を殺害することは神のひとり子を殺害することになって罰として神に滅ぼされてしまうなどとたとえを用いて語っている。自分を神同等に扱い、民の指導層を侮辱している。「そんなことがあってはならない!」と叫んだのは外ならぬ彼らだったのです。

この指導層のブーイングに対してイエス様は、詩篇118篇22節の「隅の親石」の預言を述べるのです。この預言がブドウ園のたとえと結びつけて言われるとどうなるでしょうか?家を建てる者に捨てられた石というのは農夫たちに殺された所有者の息子、すなわち捨てられた石は指導層に殺される神のひとり子を指すとわかります。その殺されたひとり子が「隅の親石」になると言うのです。これに対する補足説明としてイエス様は、その「隅の親石」が何をするのかということを述べます。これが指導層の堪忍袋が切れるだめ押しとなります。「その石に躓く者は、深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する」(18節)。この言葉は先ほども申しましたように、イザヤ書8章14ー15節の預言の引用でした。旧約聖書を詳しく知っている指導層であれば、ブドウ園のたとえは、指導層に対する痛烈な批判であり、全く不都合な預言であることがわかります。しかも、詩篇の「隅の親石」の預言とイザヤ書の「躓きの石」の預言も自分たちのことを言っていると言われてしまったのです。つまり、指導層は神のひとり子を殺害して神罰として滅ぼさる。さらに、殺害されたひとり子は隅の親石になって、指導層はその石に木端微塵にされてしまうのだ、と。激怒した指導層はイエス様を捕えようとしましたが、周囲はイエス様に付き従う群衆が取り巻いていて果たせませんでした。

 

3.
果たしてイエス様が預言したこと、つまり指導層が神のひとり子を殺害し、その後で滅ぼされてしまうこと、そしてイエス様が「隅の親石」になって指導層を木っ端みじんにするということ、これらの預言は見事に実現します。まず、イエス様は過越し祭の期間に指導層に捕らえられて死刑判決を受けて十字架にかけられました。たとえの中でブドウ園の外に追いやられて殺害されると言われていましたが、十字架が立てられた場所はエルサレムの町の外のゴルゴタという名の処刑場でした。そして、指導層が滅ぼされる出来事も起きます。イエス様の十字架の出来事から約40年程経った西暦70年、エルサレムの町と神殿はローマ帝国の大軍の攻撃にあい灰燼に帰してしまいました。

さらに、もう一つの預言、捨てられた石のように十字架にかけられたイエス様が今度は隅の親石になって宗教指導層を木っ端みじんにするという出来事も起きました。イエス様の死からの復活がそれです。十字架の死を遂げたイエス様は天の父なるみ神の力で三日後に復活させられました。出来事の目撃者となった弟子たちを皮切りとして、イエス様は本当に天地創造の神のひとり子だった、旧約聖書に預言されていたメシア・救世主であったということが理解され出します。イエス様の復活が起きたことで、死を超える永遠の命というものが本当にあってその扉が人間に対して開かれたことがわかりました。その扉は、かつて人間が天地創造の後で神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって以来閉じられていたのです。それが、イエス様が人間の罪を人間に代わって背負い十字架の上で神罰を人間に代わって受けられたことで開かれました。イエス様が人間の罪の償いを果たして下さったことになり、それで人間が神から罪の赦しを頂けるようになったのです。

このようにイエス様のおかげで神から罪の赦しが頂けるとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しが頂けます。神から罪の赦しを頂くということは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるということであり、同時に復活されたイエス様と同じ永遠の命に与れるということです。万が一この世を去る時が来ても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に永遠に迎え入れてもらえることになります。

そうなると、罪の赦しを頂いて永遠の命に与れるために必要なことというのは、神がイエス様を用いて罪の償いを果たして下さったことをその通り起こったと信じてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることに尽きます。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、罪の赦しも永遠の命も手掛かりはと言えば、律法の掟を守ったり宗教的な儀式を積み重ねることだけでした。それが、先ほども申しましたように、西暦70年にエルサレムの神殿が破壊されてしまうと神から罪の赦しを頂くための儀式を行う場所がなくなってしまいました。その場所は、毎年動物の生贄を犠牲に捧げたり穀物の初穂を捧げたりして罪の償いの更新を繰り返すところでした。ところが、神がご自分のひとり子を犠牲にすることで罪の償いを一回限りで済むように、文字通り未来永劫に果たしてしまいました。あとは神がイエス様を用いて整えて下さったものを受け取るだけで大丈夫になったのです。

神殿の儀式に関する掟以外の掟についても革命的なことが起きました。十戒の掟のことです。イエス様は、それらは見かけ上外面的に守れても十分ではない、心の有り様までも問うていると教えました。そうなると人間は誰も神が義と認めるくらいに十戒を守れる人はいません。ところが、イエス様を救い主と信じて洗礼の時に被せられる、見えない神聖な純白な衣を纏うようになると、それで人間は神の前に義とされるようになったのです。それから後は、神から贈り物として頂いた義はひとり子の尊い犠牲の上に成り立っているとわきまえるので軽々しいことはできなくなります。だからと言って、重苦しくなることもありません。なぜなら、神が贈り物として与えて下さる義は、人間を罪に追いやろうとする力や罪の赦しなんかないと思わせる力など陽炎のように消え去るにしかすぎないと映し出してくれます。ここから何とも言いようのない大きな解放感と安堵感が沸き起こります。心は神への感謝で満たされ、これからは神の意志に沿うように生きていこうと志向する有り様になります。

律法の掟を守って神から義とされることを目指していたが行き詰ってしまった、ところが、イエス様がもたらしてくれた義を受け取ることで解放感を得た、このことはパウロの教えによく出てきます。本日のフィリピ3章の個所も同じ教えです。パウロはまず、自分が律法の掟を遵守することで神から義とされることを目指す筋金入りのファリサイ派であったこと、それゆえにイエス様を救い主と信じる者たちを迫害した過去を持つと明かします。ところが、イエス様が神のひとり子の身分でありながら人間の罪の償いを全部果たしてしまったことを知って以来、自分の力で獲得しようとした義は屑同然になってしまった。償いを果たして下さったイエス様を救い主と信じる信仰を神が見て下さり、また洗礼によってイエス様の死と復活に結びついたことも見て下さり、それで神は自分のことを義と見て下さる。その義が本物の義である、そうパウロは証ししているのです。

 

4.
以上から、イザヤ書の中で神が行おうとする「新しいこと」が明らかになりました。それは、ユダヤ民族という特定の民族を他民族支配という特定の歴史状況での従属状態から解放することではありませんでした。それは、民族に関わらず人間全体を罪と死の支配という普遍的な従属状態から解放するということでした。バビロン捕囚からの解放の時は民が罪の償いをしたと見なされました。つまり、祖国帰還は民が行った償いと結びついていたのです。しかし、それは律法の掟の外面的な遵守と生贄を使う贖罪に戻る運命にありました。「ヘブライ人への手紙」で言われるように、律法の掟の外面的な遵守や生贄を使う贖罪というものは、将来来るべき本物の遵守と贖罪のミニチュアのようなもので、本物が来たら消え去るものだったのです。そして本物が来たのです。十戒を完全に実現している状態の神のひとり子が人間の罪の償いを完全に果たして下さったのです。これが神が行うと言った「新しいこと」だったのです。

かつて民がバビロン捕囚から解放された時、神の御心は、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたたちは罪の償いを果たした者としてこれから帰還する祖国で新しくやり直しなさいというものでした。今、本当の解放、普遍的な解放を得た私たちに対しても神は同じように言われます。あなたはもう過去の罪を思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたは、尊い犠牲を払ってもらって罪の償いを果たしてもらった者として生きていきなさい。そうすれば、罪と死はあなたが永遠の命に至る道を歩むのを邪魔できないのである。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

説教:木村長政 名誉牧師

 コリントの信徒への手紙  第18章1~6節            2019年3月31日

                

 

 私の説教では、コリントの信徒へあてられたパウロの手紙を見てまいりました。今回は8章1~6節まで読んでいただきました。偶像に供えられた肉というタイトルになっています。

 前回まで7章は結婚に関する質問でした。

  さて、今回は、偶像に供えられた肉を食べてもいいか、ということであります。食べ物のことですが、それが肉であるとか、さかなや野菜をもっと食べた方がいいといった事ではありません。

  パウロがここでとり上げた問題は、偶像に供えられた肉によって、影響を受けている教会の中での問題であります。

  このことは、当時の人々にとって、決して小さい事ではありませんでした。パウロは、こまごました規則のようなことを語っておりません。その事についての、基本的な事を、明らかにしようとしているのです。

  コリントの教会の人々も「わたしたちは皆、知識を持っている」と思っておりました。1節で言っています。「我々は皆、知識を持っている」

  大切な事は信仰的な考え方であります。

  そうすると、この問題によって、かえって、信仰がはっきりさせられるようになるわけであります。

  そこから、どういうことが生まれるでしょうか。偶像に対する言われなき恐れから、解放されることです。その恐れを克服することです。

  手で造られ、人々が拝んでいるものの外に、自分の偶像になりやすいものがあるにちがいありません。偶像に打ち勝つということは、そのように広い意味があるのです。

  それらの事を考えるのにあたって、まず考えねばならぬことがありました。それは、偶像への供え物について知っているという「その知識はどういうものか」「その知識で大丈夫か」ということであります。そのために、はじめの3節は、知識とはどういうものかという、大変な話になりました。知っているといっても、その知識とはどういうものか、ということであります。

  まるで、哲学のような話のようなことであります。

  そのことについて、信仰の立場からはっきりさせておかねば、偶像と戦うことができないと思ったのでありましょう。信仰の上で、知るということの意味をはっきりさせなければ、自分たちが接する色々なことについて、それを自由に用いることは難しいであろうと思われます。

 

  コリントの教会の人々が「わたしたちは、みな、知識を持っている。」と言いますと、パウロはすぐに「知識は人を誇らせる」と言いました。これは美しい言葉であります。それと同時に、誰もが、虚をつかれたような思いをするのではないでしょうか。

 

  この地方には、知識がなければ、救いを得ることができない、と言っていた人が多くおりました。パウロが言うことは、そうした人々に対する答えであるとも言えるのであります。そのような人々は別として、神を知るのにやはり知識が必要である、と思っている人も少なくないのではないでしょうか。特に偉い知識人というのではなくても、やはり神について知りたいと思う人は、決して少なくはありません。

  信仰と比べてみると、知るということが、どういうことかが、よくわかるのではないでしょうか。大事なことですが、信仰は自分の考えを捨てて、神の仰せになることを受け入れることであります。そのようにして、神に信頼するわけであります。それに対して、知識というものは、いつでも、最後には、自分が中心になります。自分が知るのですから、自分の考えで受けいれるのですから、それは、自分が中心になっても仕方のないことです。そのために、パウロが言いますように、知識

は、人を誇らせるのであります。

  ここに書いてある知識というのは、普通の知識ではなく、神を知る知識であります。

  それなら、信仰と同じように謙遜であるか、と言えば、そうじゃない、やはり人を誇らせるものである、というのであります。

  神を知る知識であっても、それが信仰にとって代わるようであれば、それは結局はやはり、その人を誇らせることになるのではないでしょうか。

  人間の小さな器の中に、神を入れなければ承知ができないのでありますから、それはやはり、傲慢になるのであります。

  だから、神を知る知識というのは、その傲慢さを捨てたものでなければならないはずであります。そうでなければ、神を知ったつもりでも、ほんとうは、神を知ったのではなく、自分の偉さを知った、ということになるのかも知れません。そういう意味で、知識は人を誇らせるのかもしれません。

 

  それなら、人間を、信仰によって生きさせるものは何でありましょうか。それは信仰である、と言ってしまえば、それまでであります。しかし、その信仰による生活のことを、ここでは愛と言っているのではないでしょうか。

  知識が、自分中心になるのに対して、愛は自分を捨てさせ、神によって生きるものにしてくれるのであります。そこで、知識に対して、愛こそは人の徳を高めると言います。

  人の徳を高める、という字は、ただ建てる、ということであります。人とは書いてないのでありますが、人であることは分かりきっていることです。

  しかし、実際は、愛は建てると書いてあるだけであります。それで、ある訳では、愛は教会を建てる、となっています。

  8章の1節には、愛は造り上げる、となっています。人間を傲慢にする知識に対して、人間を信仰によって生きるものにするのは愛であります。神を知ろうとするのと、神を愛しようとするでは、大変にちがうのではないでしょうか。

  しかも、神を愛し、神を信頼することがなければ、それは、神を知ったことになりません。もし、知るというのなら、ただ知識のことではなくて、あの人を知っている、というような、その人をほんとうに知ることになるのではないかと思います。

  従って、愛はただ、個人を建てるのでなくて教会を建てる、という方が適切かも知れません。

  そういうことからすると、人は、もし、愛がなければ「自分が知っていると思うなら、その人は知らなければならないほどの事すらまだ、知っていない」のであります。

  例えば何も知らない者ほど、自分の知っているわずかばかりの事を、自慢するでありましょう。しかし、えらい学者なら、自分は何でも知っている等とは言わないでしょう。むしろ、自分は、まだ何も十分には知っていない、と思っているにちがいありません。

  今、ここで言っているのは、神のことであります。神による救いのことであります。従って、神について、何もかも知っているというのは、神の救いについて、どんなことでも知っているということになるのではないでしょうか。それは、救いは神にはなくて、自分にある、人間にある、ということになるのであります。

 自分が何か知っている、と思うのは、相手が人間である場合と、神である場合は、非常にちがう。神の場合は、神の最も大きな力である救いについて知っている、ということ。更に言えば、自分の方が神より上である、ということになるのです。

  多くの人が、神について語ったり、考えたりしてきました。それはみな、結局は、神に依り頼むことはしないで、自分は、神について知っている、神のすくいも分っている、だから、自分は神の救いはいらないのである、ということになるのではないでしょうか。

  ここでは、ただ、何でも知っているように思うことは、傲慢である、というようなお説教をしているのではなくて、救いについての人間の愚かなおごりを語っているのです。

  神についての知識を誇っている者には、そのことが分っていない、というのであります。従って「その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ、知っていない」と言われるのであります。

「知らなければならない」という、それは神のどこの事でしょうか。

  罪人としての我々が、神を神とするのに、他に道はありません。ただ、神に救われて、神を信じるだけであります。

  そう考えてみますと、私たちは、いかにも神を知りません。どれくらい知っていると思っていますかネ。知ったと思った時は、神から離れて、やはり自分の力を信じた時だけである。

  従って、最後の3節の言葉が、今までのことを逆転する言葉となって、するどく言います。

  「しかし、人が神を愛するなら、その人は、神に知られているのである」というのです。

 

 ここでは、知るという言葉が、愛するに変っています。「知る」と言っている限りは、人間として、神を知る事にはならない。人間が神を知るのは、神を愛するということ以外にはありません。なぜなら、愛するという時にこそ、自分を捨てて、神に一切をゆだねる生活が生れてくるからです。

  しかし、そこにも、同じような問題があることに、気がつかねばなりません。

  それは、愛する、ということも、又、知る、と同じように、自分中心なことが多いからであります。人間の愛は、決して、いつも、完全に、犠牲ではありません。所詮は、自分のしたいことしか考えないものであります。

 

 愛がまことの愛になるためには、自分が愛するより先に、愛せられねばならないのであります。今まで、知る、といっていたのに、ここに至って、愛するになりました。それが、又、神に知られる、というように、知るに変っているのであります。

  パウロは、神を知ることは、ほんとうは、神を愛することであり、神を愛することは、神に愛せられることであることをよく知っていました。

 

 ガラテヤ書4章4節には「今では、神を知っているのに、否、むしろ、神に知られているのに・・・」という有名な言葉があります。ガラテヤ地方の人々は、今までは神々の奴隷であったのです。しかし、今は、神を知るようになりました。しかし、それは、実は、神に知られていることである、というのであります。言いかえれば、神を愛するようになった、それは神に愛せられていることが分った、ということなのです。

  そのように、私たちが神を知るより先に、神が私たちを知って下さる、ということこそ、神の恵みであります。もしも、その恵みがなかったならば、私たちは、永遠に、神を知ることができなかったでありましょう。

 

  神は、御子イエス・キリストの十字架と復活とによって、御自分が「私たちを知っていてくださる」ことをお示しになりました。私たちは、このキリストの救いのゆえに、神の恵みにより、神に知られ、神に救われることを知り、はじめて、神を知り、愛することができるようになるのであります。思いわずらいのない生活をしたい、と私たちは願います。平安を得たいのであります。しかし、それは、神が自分を知っていて下さる、ということが分かるまでは、得ることができないのであります。神が先に知っていて下さった、それが私たちの救いなのであります。           アーメン