2024年8月18日(日)聖霊降臨後第十三主日 主日礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

スオミ教会説教                      2024.8月18日

聖書 ヨハネ福音書6章51~58節

説教題 「わたしは生きたパンである」

2000年以上の昔、イエス様の時代、ユダヤの人々の食べもの,飲みものと言えばパンとぶどう酒でありました。今日も同じでしょう。パンとぶどう酒こそ人々の命にとってかけがえのない食物であったでしょう。

今日の聖書の冒頭にイエス様はご自分のことを「わたしは天から降って来た生きたパンである」と言われました。神の子であるイエス様がこの世に人の姿を持って生まれてこられた。ご自身のこの世での働き,使命とその存在のすべてをいろいろな深い真理の言葉であらわされたのであります。その1つに6章1節では「私は生きたパンであって、このパンを食べるならばその人は永遠に生きる」と言われていますが、その前の28節以下かからずうっと弟子たちに重要な言葉として語ってこられています。6章のはじめでの「5000人の人々に2匹の魚と5つのパンで満腹にさせる」と言う驚くべき奇跡の業をなさった。この出来事から始まって、奇跡だけでなく「私は生ける命のパンである」と言う真理の言葉を弟子にしかと語っておられるわけです。「このパンは世の命のために与える。」と言われました。ですから、ただ神のみ子イエスが人となって受肉し、いま生きていると言う、イエスの存在そのもの、と言うよりももう少し正確に、このパンを限定して説明するならば、イエスがやがて将来において与えられるであろう、ある時に与えられるパンであります。それは何時の事であるかと言いますなら、例えば53節以下に出て来ます「肉を食べ」「血を飲む」と言うように「肉」と「血」がわざわざ別々に並んで語られていることからわかりますように明らかにそれはイエスが十字架に死んで血を流す事を意味します。「血を飲み」又特に「肉を食べる」と言うような残忍的な表現であって旧約聖書では決してあり得ない事であります。非常に残酷なむごたらしい死を表すのに使う諺であります。(民数記23:24 申命32:42 エレミヤ46:10 エゼキエル39:17~19等参照)

ですから、イエスが「私の肉を食べ」「私の血を」飲まなければならない、とおっしゃっていますのは、それはイエスの非常に惨ったらしい死、すなわち十字架の死の事を意味しています。私たちが、それによって[永遠的に生きる、ところのパン]とは限定して言うならば[イエス・キリストが十字架にかかり給い、贖いの死を意味しているわけであります。]このイエスの十字架の贖いを私たちが「食べ」或いは「飲む」とはどういう事であるか、と言う時これは文字通り理解すべきではなくて1つの文学的表現であります。57節中ほどまで進みますと、「私を食べる者も私によっていきるであろう」と言う、私があなた方の内におると56節で言っておられます。一番分かり易い大切なことを54節で見ます。54節「私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」なんと言う素晴らしい約束でしょうか、キリスト者のすべての希望がここにあります。そこで、どうしてもひっかかるのは私の肉を食べ、とか私の血を飲む者は、と言う、これを聞いたユダヤ人たちが、騒ぎ立てたのも自然です。これを文字通り理解しようとするから物理的にイエスの肉や血をどうして胃袋に入れる事ができようか、なんと馬鹿にした話だろう。とすぐ考えてしまうのです。どう考えてもこれは比喩的な表現であってこれは要するに私がキリストに連なること。私とキリストが一体になることであります。<言い換えますと>イエスを信じる、ということでであります。さて、主キリストを飲み食いする、という事を[信仰によって結びつくことである]という事をはっきさせた上でその上に、ここに教会が余代々に渡って行ってきました聖餐の礼典が暗示されております。中世の教父であり英国の初代カンタベリー大主教となったアウグスティヌスのヨハネ福音書講義によりますと聖餐式を前提として、個々のイエスの教えを記している、と考えています。例えば51節最後の「私が与えるパンは世の命のために与える、私の肉である」とあります、この宣言は有名な聖餐式における設定辞で宣言されるみ言葉「これは、あなた方のために与える私のからだである」この言葉とそっくりのことばです。私たちは聖餐式においてパンをキリストの体として食べ、ぶどう酒をキリストの血として飲むわけです。が、これらは全て信仰によってキリストと一体となる、神からのめぐみであります。この福音書を書いているヨハネは最後の晩餐の物語を13章18節で記していますが、それが教会で繰り返し行われている聖餐式と同じ言葉ですが聖餐式の言葉を書いてはいません。それは他の福音書が十分書いていますから、ヨハネは聖餐式に関する説教を5つのパンと2匹の魚で5000人の人を満腹させた奇跡の後に組み込んで移している、と言ってよいのではないかと思います。それで6章54節以下、教会で行われるようになる聖餐式の内容をここに別の表現で書いているわけです。54節を見ますと「私の肉を食べ、私の血を飲む者は。永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの、まことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は何時も私の内におり、私も又何時もその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、又私が父によって生きるように、私を私を食べる者も私によって生きる。」私たちは教会において聖餐式に預かる毎にキリストが私たちの内に生きていてくださる、キリストの命に預かる事が出来るわけであります。では、信仰と聖餐の礼典によって私たちの、もの、と約束される「永遠の命とは」どういう命なのでしょうか。イギリスの有名な神学者ウイリアム・バークレーという先生のここの部分の聖書註解には非常に思い切った事を言っておられます。聖餐の礼典の時の主イエス・キリストのご臨在と祝福というものは必ずしも月1度や或いは年に何回かの主の日の教会で行う聖餐式の時だけに限らない、私たちがパンを食べて養われる三度,三度の食事の度毎に同じキリストの祝福と、キリストのご臨在があることをヨハネはここで教えているのである。つまり毎日の三度,三度の食事の、私たちの日常茶飯事の中でキリストが共におられる。キリストは礼典の時と同じように我々に臨在し給う、又祝福を私たちに与え給うという,そういう命であります。この「永遠の命」はその意味から言うと私たちの肉体的な命が三度,三度食べないと駄目なように、本当に何時も、何時もイエス・キリストと結びついていなければ駄目な命なのだ、と言えるでしょう。永遠の命とは、どういうものですか。それは命の根源であるキリストと、何時も結びついて初めて生きることが出来る命であります。もう一つの「永遠の命」の特色は裏を返して言えば何時も何時も私たちはこの命の源であるキリストから世に遣わされているのだ,と言う派遣の意識、召命感、使命感を持って生きる生命ことだ、と言うのであります。ですから57節にはっきり言われています。「生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。」ちょうどイエス・キリストが父なる神から遣わされ、父なる神のためにご生涯を生き給うたように私たちも、また今度はキリストによってキリストのために生きるのであります。ですから御子イエス・キリストが御父から遣わされている、という使命感と召命感を持って生きる生活が「永遠の命」である、ということであります。

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56節を見ますと「私の肉を食べ、私の血を飲む者は何時も私の内におり、私も又その人のうちにいる」。ここで言われれている「私の内におるなら」、と言うのは「留まる」と言うことであります。同じ言葉を使ってキリストは15章のところで「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。もし、人が私に繋がっており、留まっているなら、また私がその人と繋がっておればその人は実を豊かに結ぶようになる」とおっしゃいました。永遠の命とは、そのようにキリストから派遣されて充実した使命感に満ちて豊かな実を結ぶ、生活であります。ヨハネは第1の手紙の中で、この派遣された生活がどのような実を結ぶのか、いくつも私たちに教えています。2章6節に「神の内に何時もいる、と言う人はイエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」。言い換えれば3章24節には「神の掟を守る人は神の内に何時も留まり、神もその人の内に留まってくださいます。」又、3章6節には「み子の内に何時もいる人は皆、罪を犯しません。」とあります。このように永遠の命とは永遠の命の源であり給う方に結び付けられ、その方から派遣されて、彼のように歩み、彼のように清く神の戒めを守る生活であります。                         アーメン

お詫び

体調不良で木村先生の説教の公開が遅れて大変申し訳ございませんでした。

お詫び申し上げます。

2024年8月11日(日)聖霊降臨後第十二主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネ6章35節、41〜51節(2024年8月11日スオミ教会礼拝)

「父なる神が引き寄せてくださらなければ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 先週は、パンの奇跡を目撃し、パンを食べて満腹し、さらなるしるしを求めて自分のところにやってくる人々に、イエス様は、「なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物を求めよ、それこそ救い主が与えることができるものなのだから」と、ご自身が与えようとしている神の国の恵みと救いを伝え始めます。しかし人々は、そのことを悟ることができません。「何を努力し達成すれば、そのようなものを獲得できるのか」あるいは「信じることができるように、イエス様はさらにどんなしるしを、証拠を見せてくれるのか」と、的外れな質問をするのです。さらには、そのイエスが言う、いつまでも残る食べ物は、モーセの時代に天から下ったマンナのような物質的な食べ物であると言う期待に過ぎませんでした。彼らの考え方は、人間的で肉的な考え方を超えるものではなかったのでした。いや、むしろそのように神の知識は人間には、越えられないばかりか、人間は自らの力や知性、理性や論理では、イエス様の語る神の国の知識に至ることなど決してできないのです。そのように人の力ではなく、神のみ言葉こそ救いに導く力でありいのちの糧に他ならないのです。

2、「イエスの言葉を理解できない」

 前回は35節のこの言葉で終わりました。

35「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 イエス様は「なくなる食物」を例に「なくならない食物」を取り上げ、少しずつ紐解いてきましたが、この35節「わたしが命のパンである」と、ご自身こそが永遠に続き残る真のいのちの源であることをはっきりと伝えるのです。しかし、36節で、

「36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。

 と続けているように、イエス様は彼らにご自身をはっきりと示し教えても、彼らが信じないこともよく知っているのです。事実、イエス様が「わたしが命のパンである」と教えたことに対して、彼らは信じるどころか疑い始めます。41ー43節

「41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

 彼らは「パンを食べて満腹したから」イエス様を探しついてきます。つまり、あの人里離れた山の上で、何も食べるものがないようなところで、5つのパンと二匹の魚から5千人以上の人々を満腹にさせた奇跡、紛れもない神のわざを経験した者たちでした。その奇跡に「満腹」であるにせよ、感動したから彼らはついてきたでしょう。そのしるしは紛れもないイエス様が神の御子であることの証しでもありました。しかも、彼らは、30節で

「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。

 と、彼ら自身が「信じることができるようにしるしを見せてほしい、証拠を示してほしい、」と求めているのです。まさにその求め以前に示された証拠、しるしが、5千人の給食であったでしょう。しかし、それに基づいて、イエス様が「わたしが命のパンです」と、ご自身こそそのしるしが指し示す、約束の救い主であることを示したとしても、彼らは信じられず、むしろ、そのイエス様が自分のことを「わたしが天から下ってきたパンである」とはっきりと示したことに彼らは呟き躓くのです。マルコの福音書で見てきた、ガリラヤのイエスの出身の村の人々が躓いたのと同じ理由です。人は、自分中心の常識や正義の論理、あるいは価値観で真偽を判断するものです。彼らから見れば、イエスは、エルサレムの律法の教師やパリサイ派出身でもなければ、祭司の家の生まれでもありませんでした。大工であるヨセフの家の長男です。彼らにとっては父も母も知っていて、家族も知っていて、そんなごく普通の貧しい家族と「天から降ってきた」と言う言葉がつながらないのです。神でなければできないような、あれだけの奇跡としるしを見て満腹してもです。そのように、人間の知識や理性、どんな論理的な説明も、あるいは人間の万人が認めるような常識や価値観も、それがどんなに高等なもので、人の前で理路整然としたものであっても、人間の力や理性では、決して神の国の言葉と証しを理解できない、むしろ躓きになる事実が、ここにも示されています。

3、「罪人の現実:十字架の言葉が、躓きであり愚かとなる」

 パウロが教えている通りです。コリント第一1章22節以下、こうあります。

「22、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 ですから、よくキリスト教信仰に対して「信じるから、科学的証拠を見せてみろ」と言う人はいるわけです。そもそもキリスト教は人間の合理性に当てはまる宗教でも、論理的な証拠を示す宗教でもありません。むしろここにある通り、神の力であるみ言葉を通して、しるしを求めるユダヤ人には躓きで、知恵を求める異邦人には愚かに聞こえる福音を伝える宗教なのです。ですから彼らが求め期待するような証拠など示すことはないのですが、しかし仮に、十分確かな証拠を示したとしても、そのように言う人々はどこまでも「信じない」ことでしょう。なぜなら、神の国の福音は、人間の力、努力、理性、あるいは論理性に裏付けられた理解によってわかる、信じることができるものではないからです。そして同時に、人間は、どこまでもあの堕落のアダムとエバの腐敗した性質を受け継ぐ罪人であり、その自らの力では、どこまでも、神とその言葉を信じられない、受け入れられない、否定しようとし、反逆しようとするものだからです。ですからイエスの言葉に躓く人々、まさにパンを食べて満腹したから探し求め、そして、このようにはっきり「わたしだ」と示されても信じられずに躓く人々の姿は、特殊な人間を示しているのでも、私たちとは無関係な、不信仰で反抗する人々を示しているのではないのです。この姿こそ、罪人である人間、人間の罪深い性質、私たち自身の姿、私たち自身の性質を代表し示しているとも言えるのです。

4、「真の教会と宣教:イエスは躓く人のために福音を捻じ曲げ妥協したか?」

 ですから、何か人間が躓くような聖書の記録は神話だとか作り話だとか間違いだとか、聖書を捻じ曲げ、人間が躓かないような理性的な説明や新しい解釈で、新しいキリスト教、文化的な新しく解釈された神や福音を伝えようとすることが、現代的な教会だとか宣教だという主張をよく聞きます。そのような考えは、個人主義的で消費社会の申し子である現代人の必要に合致していて最もそうで理解しやすいかもしれません。しかし、それはイエス・キリストの福音を宣教しているのではなく、イエス・キリストを私たちの罪深い好みの服装で装飾し着飾らせた別のキリスト、偽りの福音を伝えているに過ぎないとも言えるでしょう。しかしイエス様は、ここで彼らが躓くからと、そこで真理を捻じ曲げたり、神の約束や計画を否定したり、再解釈したりしません。躓き呟く彼らに神の真理をそれでも、どこまでもまっすぐ語り続けます。43節

「43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。

 人々は、どこまでも自分中心でしか物事も信仰も、神の国や救いも考えられません。満腹したから来ました。さらに自分を満足させる印を求めます。そのためには自分が何をしたら良いのかと求めます。あたかも自分がそれを達成し果たすことができるかのように。そして信じられないことをイエス様に言われると、信じることができるようにさらなるしるしや証拠を求めます。「自分が信じることができるように」と。そして、イエス様が「それがわたしだ」とはっきりと自分を示されると、今度は、自分たちの常識や価値観で「そんなことありえない」と疑い否定し始める。どこまでも自分中心に神を解釈し、神を見ようとする。その自分中心の価値観や枠組みに合わないと、神はいない。そんな神はありえない。本当の神ではないと言い始める。それが人間であり、私たちなのです。しかしそんな彼らを全てご存知で、全てを見通して、そしてそんな躓きに妥協せずに、イエス様はまず「呟くのはやめなさい」と言います。なぜでしょうか?イエス様は、神の国の真理、信仰の真理をはっきりとこういうでしょう。

5、「父が引き寄せてくださらなければ:人が得るのではなく神が天から与える真の命」

「44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。

 と。「呟くのはやめなさい」ーなぜか?なぜなら、どんなにつぶやいても、理屈を並べ立てても、「 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない

からです。ここにも信仰と救いの本質をイエス様ははっきりと教えています。「父なる神が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしの元へ来ることはできない」と。神の国も、そこに至る信仰も、神が働くのでなければ私たちには不可能なのです。これは今日の箇所では飛ばされている37節でもイエス様は言っています。

「37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。

 と。ここでも父がわたしに与えてくださるから」その人はわたしのところへ来るのだと。39節でも繰り返しています。「わたしに与えてくださった人を」と。このように神の国は、神がイエスに引き寄せ、神がイエスに与えてくださるからこそ、その人はイエスを通って、神の国へ導かれる。これが何よりの真理であり、ゆえに、なくなることのない命の食物も、それは、人が努力して勝ち取るものでは決してない、神がイエスに与えてくださるから、引き寄せてくださるからこそなのです。そのような人を36節以下ではこう続いています。

「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 と。神がイエスに引き寄せる人々、与えてくださる人々を、イエス様は決して追い出さない見捨てないとあることはものすごく感謝なことです。神が引き寄せ与えた人々を、イエス様は責任を持って、その人に神の御心を行ってくださる。その御心とは、その与えられた、引き寄せられた人々が一人も失われることがないようにすること、信じるようになること、永遠の命を持つこと、死んでもやがて復活するその時まで、全責任を持って導くことだと、イエス様は言ってくださっているのがわかるでしょう。

6、「真の教会と宣教:御言葉による確証と約束:「こう書いてある」

 しかもイエス様はそれを単なる思いつきでは言いません。あえてしるしや証拠を示すとするなら、イエス様はここでみ言葉を引用するのです。45節です。

「45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 イエス様はもちろん目に見えるしるしや癒しも沢山行いました。それもイエスが神の御子救い主であることを示す証しであり、しるしはしるしそのものではなく、何よりイエス・キリストは真の救い主であることを指し示していました。しかしそれ以上に、イエス様が絶えず示す証しは、どこまでもみ言葉です。「預言者の書」というのは当時の聖書であり、私たちが旧約聖書と呼ぶものです。そこに「こう書いてある」というのがイエス様の証しであり証明でした。このスタンスは何よりあの荒野でのサタンの誘惑の場面からも一貫していることです。あの巧妙で狡猾で知恵深いサタンの、み言葉を悪用してまでの三つの誘惑に対して、イエス様は、当時の社会の価値観や哲学や科学の最先端の論理的説明や、あるいは人間が好むような文化的な解釈でサタンに反論しませんでした。イエス様はサタンの聖書の悪用による誘惑に対しても、どこでも聖書のみ言葉を引用し「聖書にこう書いてある」と言って、誘惑を退けたでしょう。みなさん。ここに教会の立つべき最高の模範と宣教があるのです。昨今、いやすでに初代教会の時代から変わらない教会内の問題ではあったわけですが、今も、世の中の問題に、まさに教会までもが、神の言葉の力を信じないかのように、人間中心で、社会の価値観や、理性や科学の常識、あるいは文化的な解釈と呼ばれるもので、聖書を再解釈して教えるようなことが、自由主義教会だけでなく、福音派の中でもいつの時代も当たり前とされてきています。しかし、それはサタンの誘惑に見事に乗ってしまっていますし、聞き手がつまずくからと、聖書の真理を妥協し、神の御心を損なっているのです。しかしイエス様はそうしないでしょう。イエス様は聖書を、聖書から解釈し、教え、説教するのです。神の言葉は、人間の知恵で解釈するのではなく、神の言葉によって解釈し、だからこそみ言葉と聖霊の力と助けによって人は神の御心を正しく知ることができるのです。そして、イエス様がそのようにして伝えることは100%誤りのない完全な言葉であり解釈でもあります。なぜなら46節、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」とあるからです。そう、イエス様は、イエス様こそが、イエス様だけが、神の下から来られたお方です。だからこそイエス様だけが父を見たお方です。他は誰もいません。どんなに知恵のある律法学者でもパリサイ派でも、偉大な預言者でも、父を見たものはいないのです。モーセでさえもその顔を見ることができませんでした。そう、イエスは真に父なる神から、人となられた神の御子、父なる神を知る方、父なるを神を証しできるただ一人のお方です。その方の証しこそ、神からの言葉こそ、神から与えられた権威と力こそ、真実であり、真の永遠に残る、朽ちることのないいのちを与えることができるのだと、それが、死んでも生きる、マナを食べた人が皆死んでいったようなことは起こらない、永遠にいつまでも残るいのちのためのパンの意味であることをイエス様は伝え続けるのです。

7、「結び:救われる私たちにとってそれは愚かではない」

 今日はここまでですが、この後、さらにイエスの説教が続いていきます。ここに至っても、人々は、世の知恵や理性に合致しないからと議論し続けます。正しく、しるしを求めるユダヤ人には躓きで、知恵を求める異邦人にはどこまでも愚かにしか聞こえないのです。私たちにとってもかつてはそうであったでしょう。十字架の言葉は愚かでした。イエス様が真の命のパン?そんなことよりも世に満ち溢れ自分の欲求を満足し理性を満たす知恵を見せろ、というのが、私たち皆にある罪深い性質であり、私たちの堕落したままの姿です。しかし、いつも立ち返るところは同じなのですが、イエス様は今日もこのことを指し示しているでしょう。皆さん、この御子イエスキリストの十字架の言葉は、今ここにいる私たちにとっては、愚かに聞こえますか?躓きですか?違うでしょう。私たちにとっても(コリント第一1章24節)「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」と私たちは今日も告白するでしょう。(1章18節)「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と、私たちは今日も確信を持って告白し、ゆえに今日も救いを確信し安心するでしょう。そして、その信仰と確信は、今日学んだ通りです。私たちの力や知恵、呟きや屁理屈の結果では決してなく「父なる神がイエス様に引き寄せてくださったから、イエス様に私たちを与えてくださったから」こそ、イエス様がその大事な宝である私たちを責任を持って、み言葉と聖霊の働きによって、信仰を与えてくださった。永遠のいのちを与えてくださった、そして復活の日まで責任を持って導いてくださると、その恵みを喜び安心し、今日も出ていくことができるでしょう。今日もイエス様は変わることなく悔い改める私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も安心してこここから世に、御心を行うために遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年7月28日(日)聖霊降臨後第十主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネによる福音書6章1〜15節(2024年7月28日:スオミ教会説教)

「イエスは僅かなものを感謝し神のわざを行われる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 このヨハネの福音書6章では、イエス様は、パンと魚を通して、肉体の必要を心配し満たしてくださる感謝な恵みとともに、そのことを通し、イエス様に開かれる神の国は、何よりも、私たちの霊的な必要を満たしてくださることを教えてくれています。

 イエス様はガリラヤ地方を巡っています。ここで1節「ガリラヤ湖の向こう岸」とあるのは、ガリラヤ湖の北東の岸を意味しています。そこで2節、大勢の群衆がイエスのもとに集まります。そこには「イエスが病人達になさったしるしを見たからである」とあります。これまでのマルコの福音書でも見てきたように、イエス様は、大勢の病人を癒やされ、その中の医者にも見捨てられたような病人さえも癒やされたり、さらには病気で死んでしまった人を生き返らせたりと、人間の力や思いを超えたような出来事もありました。その目撃者、それを聞いた人が群衆となって押し寄せていたのでした。その奇跡はもちろん、身元にやってくる病気に苦しんでいる人々への憐れみと愛の実現であるのですが、同時に、イエス様が真に神の御子救い主であることを示すための証しでもありました。しかし、イエス様が世にこられた目的は、そのしるしを見せるだけでもなければ、病気を治すことだけでもないこともこれまで見てきた通りです。この6章では、後の箇所になりますが、しるしを見て、あるいは今日の出来事のパンを食べて満腹し、満足して、さらにしるしを求める人々へ、イエス様は真の目的である霊的ないのちの糧であるご自身を示していくことになります。

 今日の箇所を見ていきますが、3節、

2、「イエスの求め:それに対する弟子たちの現実を見ての戸惑い」

「3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。

A,「弟子たちへの教えの時」

 先週まで見てきたマルコの福音書の6章30節以下を見ると、今日のいわゆる「5千人の給食」の前に、イエス様は弟子達に権威を与え遣わしており、ちょうど帰ってきて弟子達がイエスへ報告した後になっています。そこでマルコ6章31節を見ると、イエス様は「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と弟子達に言っており、それは「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 」(マルコによる福音書 6:31)とあるのです。ですから、当初は弟子達は休むために「人里離れた」山に向かったようです。その後でイエス様が合流されその静かなところで弟子達に教えるために座られたと思われるのです。しかし、5節です。大勢の群衆はそのイエスについてきたのでした。

 そこでイエス様は弟子の一人フィリポに尋ねるのです。5節からお読みしますが、

B,「すべてを知った上でのイエスの弟子たちへの質問」

「5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。

 最初、イエス様は群衆にではなく、弟子達に神の国を伝えていました。そこにしるしを見た群衆が集まってきたのでした。ですからイエス様の目的は群衆に教えることではありませんでした。しかし、イエス様はその集まってくる群衆を見られて、彼らのことも心配され「食べさせるためには、どこでパンを買えば良いだろうか」とその空腹という身体的な必要のことを心に留めてくださっています。他の福音書を見るとその時は、もう時は「日も暮れ始め」とあり、そして「人里離れた」ところでもありました。そんな所にわざわざ見にきた人々を、「空腹にさせないように」心配されるイエス様がわかるのです。

 しかし同時に、それは弟子達に教えている時でもあったのですから、このイエス様の問いかけは彼らの教えの一環、あるいは継続としてちょうど良い訓練の始まりでもあったと言えるでしょう。その質問は、弟子の一人フィリポを試すためでした。むしろご自身がこれからしようとすることをイエス様ご自身はすでにわかっていたとあるのです。これはルカの福音書9章の方では、まず弟子達が、この夕暮れ、そして人里離れたところであるからと、イエス様に群衆を解散させて、彼らが各々、近くの村や部落に行き、自分たちで食べるものを得させるようにと提案しています。それに対してイエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と弟子達に言っています。それに対して、フィリポはイエス様は答えるのです。7節。

C,「人の目には、理に合わない①:二百デナリオンでは足りない」

「7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。

 マルコ6章37節では弟子達の「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」との声が記されています。この200デナリオンというのは、一年の半年分の給料以上であり、相当な額になりますが、男性で5000人で、家族で来ている場合には、それ以上の人数になりますので、フィリポはすぐに金額でどれくらいか想定できたのでしょう。200デナリオンでもそれだけの人数が少しずつ食べたとしても足りないと計算できたのでした。しかももし買ってくるとしてもそれはあまりにも現実的なこととはならないのも明らかでした。「イエス様、なんて非現実的で無謀なことをおっしゃるのですか?」とでもフィリポは思ったでしょうか。フィロポの計算では、いや誰の計算であっても、全く理に合わない、合理的ではない、イエス様の提案であったのでした。そのようなイエス様の指示が理にかなっていないと思ったのは、フィリポだけではありません。8−9節。

D,「人の目には、理に合わない②:これだけで何になろうか?役に立たない」

「8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

 少年、ギリシャ語では「子供」ですが、その子供が「大麦のパン五つと魚二匹とを持ってい」たのでした。「ここに」とありますから、その子供が弟子達のところに持ってきたのでしょう。しかしアンデレはいうのです。

「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

 新改訳聖書では「それが何になりましょう」ともあります。本当にその通りです。たった五つのパンと二匹の魚だけで、5000人以上の人が食べられるわけがありません。物理的に小さく均等に分けられたとしても、もうものすごく小さなものになります。そう、人間の頭、計算、常識では、それだけで5000人以上の人々が食べるなんていうのは不可能なのです。何の役にも立たないのです。私たちも同じ状況であったなら、「それだけで何になろうか」ーそう言うのではないでしょうか?

E,「不可能なことを自分たちの力で果たさせる命令ではない:律法ではない」

 私たちは自分たちの計算できる常識の範囲内で、その目にみえる数字や物で、何ができるかできないかを当然のように判断します。そのようにして家計を維持したり、個々人や家族の経済活動、生活などもするものです。それは弟子達も当然、会計係を担っていた弟子などは、きちんと管理をしていたことでしょう。それはそれで正しいことです。しかし、この時、イエス様は弟子達を囲んで教えをしていました。神の国の教えです。そして、フィリポ、おそらく計算がきちんとでき管理できる弟子であったことでしょう。イエスはそんな彼を試すために、そのような提案をしています。ですから、それは何か計算をど返ししたような無謀なことをするように弟子達が促され、それを自分たちで考え、計画提案し、自分たちで実行し、そして、彼らで群衆を食べさせるなければならないという、ことをイエス様は教えたり命令したいのではないのです。つまり、弟子達に何か律法的なことを求め、彼らにそれを果たさせることとか、彼らの頭や能力を振り絞って、何か知恵や方策を答えさせようとしているのでもなければそれを求めているのでもないのです。では、イエス様は彼らに何を示し教えられるのでしょうか。10節以下です。

3、「人の目ではわずかで足りなくてもイエスは感謝し祝福した。」

「 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

A,「すべては十分な神の恵み」

 「五つのパンと二匹の魚」ーそれは弟子達にとっては、僅かなもの、なにもできないもの、明らか不足、マイナスです。確かに人の目からみるなら、それはマイナスであり、大問題であり、不平を言うには十分すぎる現実的理由であったでしょう。けれどもここで大事なことをイエスは私たちに教えています。それは主であるイエス様にあっては、神の前では、それは決してわずかではない。むしろ人の目から見れば、5千人に対しては明らかに不足しマイナスであるその5つパンと2匹の魚さえも、イエス様にあっては、それは神から与えられた物であり、十分な神の恵みであると、イエスははっきりと見ているということです。イエスは、その僅かな物を「祝福した」とあるのです。その僅かな物であっても「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」とあります。ルカの福音書9章の方では「天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え」とあります。そしてその箇所は新改訳聖書では、「天を見上げて、それらを祝福して裂き」とあります。それはユダヤ教の家族では家族の長である父が習慣的に食事を祝福することに倣っています。そのようにイエス様は、そのわずかなものを、感謝し、感謝の祈りを神に祈り、そしてそれを祝福の食卓であると感謝したのでした。人の目にはわずかで、足りない、これだけで何になろうかというものであったとしても、神が与えてくださったものは、いつでも十分であり、「乏しいことはなく」(詩篇23篇)、祝福であり感謝であり、神が与えてくださった恵みであったのでした。そしてここには人の目の不足も神は必ず満たしてくださるという約束もああるのです。

B, 「不十分で無力な弟子たちを感謝し祝福し用いようとされる」

 確かにイエスにあっては全てのことがそうであったでしょう。何よりも、弟子達一人一人から見れば、人の前では小さな小さな一人一人です。彼らは十分な力と知恵があったでしょうか?彼らはパリサイ人や律法学者達のように、育ちも家柄もよく、財産ももっているうえに、聖書の英才教育を受け、聖書・律法を全て知っていて、守っていて、尊敬されているような、まさに人間の価値観に沿えば「十分に持っている」ような人々であったでしょうか?まさに人間の評価から見て、救い主の弟子にかなうような立派で成熟して出来た立派な人々であったでしょうか?そんなことは全くありません。むしろどの福音書も、どこまでも不完全で罪深い、不足の多い弟子達の姿を最後まで伝えているでしょう。しかしマルコ5−6章で見てきました。イエスはまさにそのような人の目にあっては不十分な弟子達に声をかけ、招き弟子とするでしょう。そんな彼らをまさに祝福し、そして祈ったことでしょう。そしてそのような彼らに、ご自身の名、その名によって悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とを与えて、神の国の福音を伝えるために遣わしているではありませんか。その罪深さや不完全さは、十字架の時だけでなく、復活の日の朝まで、いや教会の時代でさえも、彼らはそう、罪人の一人一人です。しかし、まさにそのような不十分な彼らをイエス様は知って、彼らが十字架でみな裏切って逃げ、ペテロが三度知らないと言うこともみんな知り、復活の日の朝もご自身が現れるまで、約束を忘れて沈んでいることも、教会の時代でさえも聖人ではなく罪人である彼らであることを、みんな知った上で、そんな弟子達を招き、友となり、教え、導いてきたでしょう。権威を与え遣わしたでしょう。それは、イエスがそんな彼らだと知った上で、彼らはまさにこれから神の大きなわざを行うにはほんの僅かな「5つのパン、二匹の魚」以下のようであるにも関わらずに、彼らを神に感謝し、祝福し、そして、そんな彼らに神が与え、神が働いて下さったからこそ、彼らは各地で、悪霊を追い出すことが出来、病気の人を癒すことが出来、神の国の福音を伝えることが出来たのではなかったでしょうか?いやそうだからこそ、彼らは使徒の時代にも死を恐れず教会で宣教していったのです。彼ら自身の力では出来ない一つ一つです。「これだけで何になろうか」の彼らなのです。モーセ風に言えば「他の人を遣わしてください」なのです。しかし、その不十分なモーセにしたのと同じように、不十分な彼らをイエスが祝福し力を与え遣わされたからこそ、彼らを通して主の御業がなされてきたし、なされていくでしょう。いや、まさにそれと同じようにして、私たちにも、今日の今まで教会を通して、私たちを通して、イエス様は同じことをされるという恵みの事実、福音こそを、イエス様は私たちに伝えているのではありませんか?

C,「私たちへの恵みと約束でもある」

 まさに、そのことと何ら変わらないのです。彼らは、5つのパンと2匹の魚です。私たちも5つのパンとの2匹の魚です。あるいは、弟子達が、本当に不足ばかり、欠点ばかり、そして不十分さを覚えるようなもの、5つのパンと2匹の魚しかもっていないように、人の目、私たちの目から見るなら、私たちも自分自身にそのように不足しか見えないものかもしれません。けれども、それは、イエスにあっては、神の前、神の目にあっては、すべては十分、全ては恵みであるということです。なぜなら、その僅かなものさえも、神が与えてくださった恵みであるし、その僅かなように見えるすべて、私たち自身、私たちに今あるもの、置かれている状況、それが試練や困難や不足であっても、神がそれら全てを祝福し用いて、すべてのこと、まさに人間の計画、推測、決めつけ、考えを遥かに超えた神のわざを実現してくださるからです。イエス様はまさにそのことを弟子達に、そして私たちに教えようとしておられるのではないでしょうか?どんなに小さくとも少なくとも「これだけで何になろうか」と思えることも、すべてのことは、神の前にあっては、神が与えてくださっている恵みなのです。人の目にあっては、5つのパンであり、2匹の魚、不十分であったとしても、イエス様はそれらを喜び、感謝し、祝福し、イエス様のわざ、不足に見えるものでも満たし、人の思いを遥かに超えたことを実現してくださるのです。

4、「御言葉は人知を超えてすべてを満たし神の御心を実現する力」

 事実、感謝と祝福の先に、それだけで終わらずその通りになります。12節から

「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

 人々は満腹します。それだけでない。残りを集めたときに、12の籠にパン屑がいっぱいになりました。それは理性では説明できないことです。だからと、この奇跡は弟子達の作り話だとか、奇跡を否定する、のではないのです。そのように「奇跡は理性に合わないから」と奇跡を否定し教えることは人間の理性に神のみ言葉を従わせてている、まさに偶像礼拝です。神の言葉には、不可能なことはありません。まさにほんの僅かなことを用いて、大きなことをなされます。事実、天地創造は、無から天地万物を創造したと聖書にはあります。人間の理性に合わせて奇跡を否定する教えは、天地創造も神話にしてしまうでしょう。しかし、それではそのように言う人は一体何を信じるのですか?人間の理性ですか?聖書は道徳と倫理の教えに過ぎないのですか?それだと、もはや神は不在、神の言葉も不在。神の言葉に私たちを救う力があると言う素晴らしい教えも神話になり、キリスト教はただの道徳と倫理の教え、律法になってしまうでしょう。イエス様は神の御子であり、その言葉に力があるからこそ、僅かなパンで、このことは事実起きたのです。神の言葉が真理で力があるからこそ、神の約束は一貫して変わることなく、まさに、約束の通り、神の御子が、女の子孫として生まれ、私たちの罪の身代わりとしてのその命の犠牲と復活のゆえに、神からの永遠のいのち、新しいいのちが、そしてそれによる平安が私たちに事実として溢れ出て、世に流れていくのです。神の言葉が真実だからこそです。

5、「結びと派遣」

 私たちは神の前には、本当に小さな存在です。いや小さい存在だけではない、どこまでも反逆し背を向けていった罪人です。しかしそんな小さな罪深いものを見捨てなかったからこそ神は御子イエス様を人として送ってくださいました。それだけではない、その御子の命をそんな罪人の罪の贖いのために、世に与えるほどに愛してくださいました。だからこそ、滅びに至るはずであった私たち、信じることも悔い改めることもできない私たちに、悔い改めが起こされ、信仰が与えられました。そしてこの御子イエス様の十字架のゆえに、私たちは罪赦されている、救われていると確信できます。安心できます。平安があり、安心して出ていくことができます。私たちは、だからこそ今ある全て、自分自身も含め全て恵みであると感謝し子供のようにイエス様に全てを託しましょう。委ねましょう。子供のように、イエス様に今あるものを恵みであると感謝し全てをイエス様に委ねる時に、イエス様はそれを用いて、私たちを用いて、思いをこえた神のわざと計画を必ず実現してくださるのです。今日も、イエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年8月4日(日)聖霊降臨後第十一主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネ6章24−34節(2024年8月4日スオミ教会礼拝説教)

「朽ちることのない、いつまでも残るいのちの糧を受けて」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 先週は、イエス様が五つのパンと二匹の魚から五千人以上の人に食べさせた箇所を見てきました。先週の後半部分を触れることができませんでしたので、簡単に触れてから今朝の箇所に入って行きます。6章14節を見ると、人々はイエス様のその「しるし」を見て「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエス様を「王にするために連れて行こう

としているのをイエス様は知り、一人でまた山に退かれたとあります。人の評価では、大勢の人がイエス様を支持し、約束の預言者だと信じて「王としよう」としている、だから「状況は良くなってきているのだからその人々の求めに従い受け入れて王になったらいいじゃないか」と人々は思うかもしれません。しかし前回の初めに述べたように、イエスは目にみえるしるしを示すことだけを目的としているのでもなければ、人々が自分を地上の王とすることを求めているのでもありません。まして、イエス様は人から王とされる必要もなければ、何よりイエス様の王国は、人によって担ぎ上げられ建てられるものでも決してありませんでした。真の神の国は、父子聖霊の三位一体の神が、御子の十字架と復活によって建てるものでした。だからこそ、人々によって王とされることは明らかに神の御心ではなかったのでした。16節以下では、弟子たちだけで再び湖を渡りカフェルナウムへと向かいます。しかし強風と大波で船は困難な状況です。しかしそこでイエス様が湖の上を歩いて来られるのです。弟子たちはそれを見て恐るのですが、イエス様は「わたしだ。恐ることはない」と言われたことが書かれています。そのように到着したカフェルナウムでの出来事が今日の箇所になります。22節以下にあるように、イエスのしるしを見て追いかけるように着いてくる人々や、そしてパンの奇跡を経験した人々が、揃ってイエスを追い求めカフェルナウムへと小舟に乗りやってきたところから始まるのです。24節からですが、

2、「パンを食べて満腹したからだ」

「24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。

 イエス様を追い求めてついてきた人々はイエス様を見つけて、自分たちがこんなにもイエス様を探し回ってついてきている熱心さを主張するかのように、言うのです。それは人の目から見れば表向きは熱心で敬虔な追い求める姿に見えてくるのではないでしょうか?しかしそんな人々へイエス様はこう言うのです。26節からですが、、

「26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。

 イエス様は彼らのその表向きの追い求めてついてくるという行為の目にみえる部分だけを見ているのではありませんでした。むしろその心のうちまでもしっかりと見ています。彼らがついてくる、彼らが求める、その真の動機をイエス様は見過ごしません。行いよりもまず信仰を求める神であるイエス様なのですから、表面的な外面的なことや目にみえる行いよりも、むしろその行動の真の動機、心のうちの方が重要なのです。彼らが探し、求め、ついてくる、その動機はただ「パンを食べて満腹したからだ」と言います。ここには「しるしを見たからではなく」とありますが、これはただ「しるしを見る」ということだけの意味ではありません。ヨハネ20章30節以下にはこうあります。

「30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 イエス様が「しるしを見た」と言う時には、それはしるしそのものだけを見るのではなく、しるしを行った神と、しるしを通して神が指し示す、イエス・キリストを見、イエスこそ神の子メシアであると信じることを示しています。しかし、この6章でついてきた人々は、ただパンを食べて満腹した、それだけの人々でした。つまり、しるしをなさった、あるいはしるしが指し示す御子イエス様とその言葉を見てもいないし、その与えようとしている救いも、求めてもいないし、そのためについてきたのではありませんでした。この先30節以下で彼らは、

「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。

 と言っていることからも分かる通り、彼らは、再び、あるいは「さらに」「もっと」と自分の欲求を満足させるような、目にはっきり分かり満足できるモーセの時代のマナのような、さらなる目に見えるしるし、自分の満足、腹や肉体や感情の欲求の満たしこそ「天からのしるし」として、求めているに過ぎないこと、イエス様は見抜いていた、そんな言葉であったのでした。

3、「福音を伝えるために」

 しかし、求めることは決して悪いことではありません。むしろ、これまでイエス様は求めてついてくる人々、特に、病に苦しんで、癒してほしい、イエス様なら癒すことができると信じて求めてくる人々の求めには、目をとめられ、それに答えてくださっていました。彼らの必要に答えてくださいました。それでも信仰が衰え絶望しそうになった会堂長ヤイロには「恐れてはいけない。信じなさい」と信仰を励ましたのを見てきました。それに比べて、この26節のイエス様の言葉は何か冷た過ぎはしないか?厳しくはないか?突き放しているのでは?と思う人もいるかも知れません。皆さんもそう思いますか?

 しかし、実はそんなことはないのです。そのようにイエス様が言われたのは、まさにこれから彼らに神の福音の真理を伝えるために、彼らの現実を示しているに過ぎません。イエス様はそんな彼らの現実を伝えた後に、まさに最も伝えたいいのちの福音を伝えるでしょう。27節

「27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

 イエス様ははっきりと伝えます。まず第一に「朽ちる食べ物のためではなく」と。「あなた方は、腹に入って排出され消えてゆく朽ちてゆくパンを求めています」と。あの天からのマナでさえもそのような食物に過ぎませんでした。事実、マナは天から与えられましたが、腐敗していく食物でした。パンもマナももちろん肉体を養い空腹を満たす神からの贈り物で大事なものです。しかしそれらは朽ちて行きいつかは無くなるものであると言うのもまさに私たちの現実です。朽ちるものは私たちを永遠の神の国に与らせ、天につながる道では決してあり得ません。もしイエス様がパンだけを与えるためだけに来たのなら、こんなことを言わなかったことでしょう。「満腹して良かったね。じゃあもっとパンをあげよう」で終わったはずです。しかし、聖書が初めから終わりまで一貫してはっきりと示しているように、聖書の約束の救い主は、そのために来られたのではありません。まさに肉体的な必要だけでなく、み言葉を持って祝福を与え、そのみ言葉によってご自身との信頼と愛の関係で平安に交わるために人類を創造しました。しかしその人類は神に背き堕落しますが、それでも神は、人類が堕落してなおも、その女の子孫がサタンの頭を砕くと罪からの救いを約束されました。その救いはパンを与えることではなく、まさにご自身の御子を人として生まれさせ、その命を十字架で贖い、罪の赦しを与えることであり、それによって、悔い改め信じる者に神との本来の関係が永遠に回復され、地上の王国ではない永遠の神の国へ与らせることこそ、何よりの一貫した目的でした。それこそをイエス様は与えるために来たでしょう。朽ちる食べ物だけを与えるためでは決してありません。それ以上のものです。まさに「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために」こそ、そしてそれを全ての人々に与えるためにこそイエス様は来られたと言うのが聖書が伝えることでしょう。「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とイエス様が言われる通りです。そして「父である神が、人の子を認証されたからである。」ともある通り、その永遠の命に至る霊の食物こそご自身であり、ご自身の御言葉であり、神が認められたものであるとまでここで示すのです。

 ですから、この所は、ついてきた人々、しかも全く求める動機が的外れである人々を、冷たく突き放しているのでは決してありません。イエス様は彼らに本当に必要な永遠のいのちの食物の説教、福音の説教をまさに語り始めているのです。そのためには、まず彼らが自分では気づいていない、その求めていることの現実、心の中の現実をはっきりと示し彼らがそれを知る必要があるでしょう。その求めているものは的外れであり、その求めているものは朽ち行くものであるという現実を気づかせることがまず必要です。なぜなら、その現実に気づくからこそ、本当の必要がわかってくるからです。まさにさらなる必要、人間にとって朽ちることのない、ご自身と御言葉による本当に必要な救いを教え与えるための言葉が27節だったのです。それはそれだけとれば厳しい冷たい言葉に思えますが、きちんと全体から見ると決してそんなことはないのです。

4、「教会は、真の人の必要のために何を伝えるのか?」

 このイエス様の説教から何が教えられるでしょう。私たちも、教会の説教で、律法を通して刺し通され、痛みを感じるものです。悔い改めを迫られる時もあります。人々はそれは辛く嫌なものであり、聞きたくないものかも知れません。だからと、「律法や罪の指摘や悔い改めなど、教会で取り上げるな、語るな、ただ神の愛だけ語っていればいい、隣人愛や道徳だけ語っていればいい、人の好むような聞きたいことだけ、耳に優しいことだけを語っていればいい」、そのように言ったり求めてたりする教会も、自由主義の教会でも福音派の教会でも少なくありません。しかしそれは人の前では好評で好まれても、神の前にあっては聞く人々に対して、ものすごく不親切で、愛のない行為です。なぜなら、御言葉を通して、神の前にあっては、私たちはどうしようもなく罪深い罪人であるという圧倒的現実であるからです。そして、イエス様の十字架の罪の赦しと悔い改めることがなければ決して救われない、という私たち人間の神の前の現実と聖書の真理から、人々の目を背けさせているからです。そのようにして聖書が与えよう伝えようとしている本当の朽ちることのない永遠のいのちへの道を閉ざしてしまっているからです。なぜなら、罪の現実と悔い改めることなくして、この天からの神が与えてくださる真の救いである、イエス・キリストの十字架と復活の救いは決してわからないからです。ですから、教会で律法を通して、罪を示されること、私たちの神の前の現実を知らされ、悔い改めに促されることは、痛いこと、辛いことですが、しかし、幸いなことでもあるのです。なぜならそんな私たちのためにこそ、イエス様はそこで、律法だけでなく、福音であるこのイエス・キリストを、この十字架を、罪の赦しを見なさい。受けなさいと言ってくださる、そのことがわかり、救いを確信し、世が与えることのできない真の平安に与ることができるからです。感謝な恵みです。

5、「何をしなければいけないかの視点ではなく、神のわざ」

 そのようにイエス様の教えが続きます。28節以下ですが

「28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

 イエス様は、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言っています。だから人々は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのでしょう。彼らは、どうすれば、自分がどんなことをすれば、自分が「神のわざ」を行うことができるのか、自分がその永遠の命に至る食べ物を得るために働けるのかと尋ねるのです。世の人々の「救われるために」の視点はいつでもそうです。「自分が何をすれば、どんなことをすれば、どんな条件を課題をクリアすれば」とまず考えます。どの宗教でもそのような教えになるでしょう。まず人の側が何かをして、何かを果たして、何かをクリアして、それからその後に、そこにご利益、救いがあるのだという教えです。人々の当たり前の常識的な宗教観ではそのような質問になって当然のことかも知れません。しかし、イエス様が教える真の救い、つまり聖書が約束する真の救いの教えはそれと全く逆、正反対です。27節の言葉でもイエス様はこう続けているでしょう。「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と。まさに人の子、つまり「イエス様が」「与える」ものだと。つまり、それは人がなんとか頑張って得るものではなく、「与えられる」ものだとイエス様は示唆しています。ここ29節でもイエス様はこう続けているでしょう。

「イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 イエス様は、神が遣わされた者、つまりご自身を「信じること」が、神のわざであると言います。このやりとりは不思議なやりとりです。人々は自分が何をすれば、神のわざを行うことができるかと聞いていますが、イエスは「自らの力で信じれば、それをすることができるようになる」とは答えません。「信じること、それが神のわざ」だと言うのです。つまり、信じることそのものに神のわざが行われているという意味になるでしょう。信仰はまさに神のわざ、賜物であることがイエス様ご自身から示されているのです。その賜物としての信仰を通してこそ、32節以下、イエス様はこう言うのです。

6、「神が与える」

「32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

 救いは、モーセが何かをしたからではない。モーセの律法の通りにしたからでもない。私たちが何かをしたから「天からのパン」を得られるのではないとイエス様は言います。この人々のように、人々は人の功績や人が何をしたかに救いの根拠を見たり、自分の行いや功績に救いの確信を探そうとします。しかしそうではない。イエス様が与えようとしている、朽ちることない「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」、真の命を与える救いは、天の父から「与えられる」ものである、どこまでも恵みであり、その信仰さえも神のわざ、賜物であるとイエス様は一貫して、救いは人が成し遂げなければならない律法ではなく、神がなす福音であると彼らに示す続けているのです。

 人々は答えます。34節「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。それに対してイエス様ははっきりと示します。35節

「 35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 イエス様は、「わたしが」と言っているように、ご自身こそ、いのちのパンだ。ご自身こそ、朽ちることのない、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物だと、「なくなっていくパン」との比較を用いて、まさにご自身こそ、人に立てられるのではない神が約束し神が建てられた真の王、約束の救い主であることを宣言するのです。それは、しるしを見てパンを食べて満腹するだけでは得ることのできない、そのしるしが指し示す、イエス様のもとにきて、信じること、それによって、決して飢えることも渇くこともない、いつまでもなくならない永遠の命に至るのだ、イエス様こそそれを与えることができるのだと、はっきりと福音を指し示し宣言なされるのです。

7、「終わりに」

 このやり取りはさらに続きますが、人々は理解できず信じることができません。彼らにはまだ隠されていることなのです。しかし、その事実さえも、まさに信仰は理性や知性のわざでもなければ、知識の量の問題でもなく、み言葉と聖霊の働きによる神の賜物であると言うことが証しされています。人の力ではその時、信じることができないことでも、十字架と復活の後、彼らのあるものは、使徒たちを通しての聖霊による福音の宣教によって信仰へと導かれることでしょう。イエス様はこのところで、その未来のための種蒔きもしているし、当然、それは私たちのためでもあり私たちへと向けられているイエス様のメッセージなのです。私たちはまさに今、イエスこそ朽ちることのない、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物だという信仰を与えられています。そして、だからこそ、今日も自分の罪を認め、悔い改めをもって、この神の前に集められています。そしてこの時、イエス様によって、イエス様の言葉によって、そして聖餐によって、イエス様から、この十字架の罪の赦しの宣言を受け、平安を受けます。それはまさに天から、神からの、朽ちることのない、いつまでも残るいのちの糧を受けているその時、今はその時なのです。この確信と平安のうちに今日も遣わされていくことは、賛美すべき恵みではありませんか。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2024年7月21日(日)聖霊降臨後第九主日 主日礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

聖書 エフェソの信徒への手紙  2章11~22節       2024年7月21日(日)

説教題:「神との和解」

きょうの説教では、使徒書のエフェソの信徒への手紙、2章11節から聞いて行きたいとおもいます。はじめにエフェソと言う町について、そしてエフェソの教会について少し見てみます。エフェソは現在のトルコにあるエーゲ海に面した港町でギリシャやローマ或いはエジプト、東は小アジアから舟がやって来て貿易で大変繁栄していました。パウロは第2回伝道旅行でエフェソに伝道し教会が出来ました。この手紙は紀元60年頃ローマの獄中から書いています。そしてこの手紙はエペソ教会だけでなく、エフェソの周辺のパウロが伝道した教会へ回し読みされたでしょう。さて、今日はそのエペソ書2章11節からです。11節を見ますと「だから、心に留めておきなさい」と言う言葉で新しい話が始まっています。一番初めに「だから」と書いていますから、その前の10節で言って来た事を受けて書いているのです。それで、2章10節をみますと「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスに於いて造られたからです。私達はその善い業を行って歩むのです。」こうあります。それは新しく造られて神の作品とされいる、ことであります。そのように、せられたのだからエフェソの教会の方々よ、このことを、しかと心に留めて記憶していなければなりませんよ、と言っています。この手紙は異邦人であったエフェソの信者たちに対して言っている、ことであります。ユダヤのイスラエルから見れば異邦人と言われた人々です。異邦人と言われた人たちは律法も割礼もないのに救いに入れられる、という事は考える事も出来なかった事なのです。だから、です、だから異邦人たちは何時もこのことを思い出して決して忘れてはならない大事な事であります。そのようにあなた方は恵みによって救われた日の事を思い出す事が信仰生活であると言えるのであります。信仰生活と言うのは、神を信じている生活ですから、日毎に神の恵みを受けているにちがいありません。その事は始めの日にキリストの恵みによって救われた、という事実に基づいて」いるはずであります。それなら決して忘れてはならない、心に留めてただ記憶するだけでなく、心に留めて思い出して生きなさい。と言っているのです。その事は主イエス様ご自身が既に仰せになっている事であります。最後の晩餐の時、主は私の記念としてこれを行いなさい、言われました。これは私の体、これは私の流す血である、と主の恵みにあずかって新しくしていただくように、はじめの日の救いの恵みを思い出して、いま、確かに救われている事を知る事であります。それなら何を知れ、と言うのでしょうか。彼らは異邦人でありました、異邦人という事は肉によって言う事でありました。しかし、それが神との関係にかかわって来るのです。異邦人であるのは割礼がない、という事です。しかし、割礼がないのは決して肉体だけの事ではありません。割礼と言うのは神との関係を表そうとしています。神との関係に特別な約束がある、という印です。神との約束と言うのは何の事でしょう。それは旧約聖書、創世記17章7節に書いてあります。「私はあなた及び後の代々の子供と契約を立てて永遠の契約とし、あなたと後の子供との神となるであろう」。とあります。では誰が神との約束を持っているでしょう。イスラエルは割礼のゆえに神との約束を持っていると思っていました。それで神がまことに自分の神になっておられる、と信じる事ができました。人生の最も大きな問題に、神との約束を持っているか、どうかと言うことです。世の中の生活には何の約束もない、保証もない、だから神を信じたい、という人は沢山いるでしょう。しかし自分で神がある、と信じても何の保証にもならない。神様があなたの神になってくださる事です。(人間は勝手な者です、自分が中心である、自分の都合よくなる事のみを求めますね)大事な事は神が我々の神となってくださる事です。神の方から神になってくだされば、そこに始めて確かな保証があるのです。神が私の神となってくださる時、神は救いと守りの約束を与えておられる、事を信じることができるのであります。そうであれば大切なのは肉に夜割礼ではなく、その割礼を印として神の約束を信じる事であります。そのことが本当の割礼であります。そこで異邦人である我々には何が割礼でしょうか、真の割礼はイエス・キリストによって与えられます。その印は洗礼であります。私たちには割礼はありませんが洗礼によって神は私たちの神となってくださった、このことをイエス・キリストによって信じているのです。それなら、割礼のなかった人たち、つまり神の約束を持っていなかった人々はどんな生活をしているのか、そのことをパウロは12節に書いています。「その当時はキリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束された、という契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」と書いています。これがエペソの人々の実際の生活であった、と当時のことを思い起こさせて、そうしてパウロは続いて13節に書いています。「しかし、あなた方は以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスにおいてキリストの血によって近い者となったのです」と言うのです。この句の中で大事なのは「今や」と言うことです。いろいろな事があった、しかし、今やであります。人間がどんなに神に背いているか、という事を書いて、今や神の義が現れた、と言ってキリストによって全く違う事が起こったのです。ここではキリストの血によって、キリストご自身の御業であります。何故ならばキリストの血によってあなた方の罪の責任は赦されたのだからです。このように罪が赦されるのは異邦人だけでなくイスラエル人も同じであります。こうしてイスラエル人も異邦人も同じように神に近づきお互い同士でも近くなることが出来るのであります。イスラエル人は異邦人をあざ笑っていたのです。律法もない割礼も受けていない。ところが今や自分たちも同じ立場にあることを気づかされてゆきます。パウロは言っています、実は異邦人はイスラエル人との関係から遠かった、だけではなく神からも遠くあったのです。それなら、この奇跡にも似たような考えられない事がどうしてできたのでしょうか。それはキリストが平和であったからである、と言うのです。これは恐らく誰も予想しなかったことでありましょう。キリストが平和そのものである、という事はちょっと理解し難い。実はそう簡単な事ではありません。何故ならこれは政治や社会の問題ではなく神との関係の違いであったからです。イスラエル人も異邦人も同じように神に対して平和を得るのでなけtれば、イスラエル人と異邦人との平和は出来ないのであります。

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パウロはローマ人への手紙5章1節でこう書いています。「信仰によって義とせられたのだから、神に対して平和を得ている。」だから14節に「キリストこそは私たちの平和である」。と言われるのであります。そうして「二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、」と書いています。軽蔑しているイスラエル人にも軽蔑されている異邦人にも敵意があったのです。それなら、その敵意というのは具体的に何の事を言うのでありましょうか。例えばイスラエル人が持っていた律法が敵意の中垣となって、妨げているのでしょうか。イスラエル人は律法を自分たちだけが持っている、と言って誇りとしていたでしょう。従って異邦人との関係に於いて妨げるものであった、ということもできます。それより重大なことは律法がイスラエル人の誇りであったにもかかわらず本当のところイスラエル人が律法を行う事が出来なく苦しんだのです。この律法と言うものがイスラエル人及び全ての人間と神との間を隔てた、という事です。ローマ人への手紙でパウロが言っていますように律法は悪いものではありませんが、人間に罪があるため、それを行う事が出来ず、人と神との間を生かす筈の律法が神に近づく事を決定的に妨げたのであります。そこで、この戒めの律法をキリストの血によって廃棄したのである。と13節にあります。16節にはキリストの血とご自身の肉という十字架によって神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。とあります。ここで大切な事は人と人とのいがみ合いをどうしたら良いか、と言う事が先ではなくて、まず神と人との和解を如何にして成立させるか、そのことが先であります。それが出来た時、はじめて人と人との和解ができ、イスラエル人も神と和解し、また異邦人も神と和解することであります。それ故に十字架につかれたキリストは真に救い主であり我々の平和であるのであります。更に15節で「二人の者を一人の新しい人に造り替えて平和を来たらせる」と言っています。それは二人の敵対していた者が一つになる、と言うのではなくて全く新しいものが造られるのであります。そこに全く新しい人が創造される。聖書の言葉で言えば罪によって生きていたものが神の恵みによって生きる、という事であります。人間はどんなに自分で工夫して新しくなろうとしても罪からの解放というものがなければ新しくならない。新しくなる、という事は罪ではなく恵みによって生きる、という事です。罪故に神に敵対していた者が恵みによって神と和らぎ、神の愛を確かなものにするに至ることです。ここに新しい人間が生まれるのであります。そのことはユダヤ人でありながら、異邦人でありながら、全く新しい人になった人々です。それが神の教会であります。最後に18節に「このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出来る」。とあります。それは礼拝であります。22節には「キリストにおいてあなた方も共に建てられ霊の働きによって神の住まいとなるのです」。 アーメン

2024年7月14日(日)聖霊降臨後第八主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

 

7月14日 マルコ6章14−29節

「洗礼者ヨハネの死が私たちに示す福音」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 さて、今日の箇所は、ヘロデ王の話が書かれています。14節に「ヘロデ王」と書かれていますが、彼は、イエス様が母マリヤから生まれた時に、東の賢者からの救い主の誕生の知らせに恐れて「幼児虐殺」の命令を出した、俗に「ヘロデ大王」と呼ばれる人物の息子ヘロデ・アンティパスです。「王」と書かれていますが、ルカやマタイの福音書では「領主」と書かれています。というのは、ローマ帝国は、ヘロデ・アンティパスを王とは認めておらず、ガリラヤとペライヤのテトラルキアという領主として認められていたからでした。ですから厳密には王ではなく領主でした。14節こう始まっています。

「14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

 イエスの噂は、群衆が押し寄せエルサレムから律法の専門家さえ観にくるほど広く広まっていました。当然、ヘロデ・アンティパスの耳みにも入るのですが、やはりその「起こった奇跡」や教えていることへの様々な勝手な評価や解釈も噂となって入ってきていたようなのです。15節の「エリヤだ」とか「昔の預言者のような預言者だ」という噂以上に、彼の心に刺さってきた噂は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 という評判でした。彼はこの噂を聞いて言うのです。

2、「ヘロデ・アンティパスに対する洗礼者ヨハネ」

「16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

16節

 この時、その人々の言葉にあるように、すでに洗礼者ヨハネは死んでいました。それは、ヘロデ自身がこの16節で言っているように、彼による処刑によるものであったのでした。17節以下にその経緯が書かれています。

 ヘロデ・アンティパスの妻ヘロディアは、ヘロデ大王の孫娘です。彼女は最初、やはりヘロデ大王の息子でありアンティパスの異母兄弟であるフィリポと結婚していました。つまり、叔父と姪の結婚ということでした。しかし、ヘロディアはその後、今度はアンティパスと婚姻関係を結んだのでした。そして17節にある通りに、この出来事が発端となり、洗礼者ヨハネを逮捕して牢獄に繋いでいたのでした。なぜでしょうか?18節です。

「18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。

 洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを教え、洗礼を授けていました。彼は、救い主イエスが来る前に、救い主の道を整え真っ直ぐにするものと預言された預言者でしたが、そのようにまさに福音であるイエス様が来る前に、律法で神の御心、神の前で何がしてはいけないことであるのか、はっきりと示していました。それは当時の領主であるこのヘロデ・アンティパスに対しても例外ではなかったのでした。洗礼者ヨハネは、アンティパスが自分の兄弟の妻ヘロディアと結婚したことを、それは神の律法に違反する罪であると指摘したのでした。この後の20節からもわかる通り、洗礼者ヨハネはアンティパスに時々、聖書の教えを教えていたようなのです。こうあります。

「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

20節

3、「神に言葉を託されたものの宣教」

A,「神が何を私たちに伝えたいのか:律法と福音の説教」

 ここに、洗礼者ヨハネの、神から召された預言者としてのその宣教の一端を見ることができます。まず、彼はそれが王であろうと領主であろうと、まず聖書から律法を語り、まっすぐと伝えていたということです。私たちも律法を語られる時に、心を突き刺され、痛みを覚えます。恐れ、当惑します。時に、抵抗しようともします。それがヘロデにもありました。しかし、ヘロデにはものすごい葛藤があります。19節では「恨み」「殺そうと思っていた」ともあるのですが、20節では、その教えから「ヨハネは聖なる人であるとも知っていた」そして律法を聞きながら怖れ戸惑いながらも、なお喜んで耳を傾けていたともあります。ヨハネは、律法を語り悔い改めのバプテスマを説いていましたが、しかし同時に、「イエスの道を整え真っ直ぐにする」預言者ですから、ヨハネ1章にもあるように、到来した救い主であるイエスを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と指し示していたのでした。つまり、洗礼者ヨハネの宣教も紛れもなく、律法と福音の説教の宣教であり、それは王であろうと領主であろうと、全く関係なく全ての人々へであったことがわかります。

B,「「人が何を聞きたいか」に流される教会」

 まずこのところから、洗礼者ヨハネの宣教、つまり神の言葉を預かって伝える預言者の宣教、つまり、現代の牧師、そして教会の宣教が教えられていることがわかります。それは、どこまでも律法と福音の説教であり、その宣教は今も変わらないということです。つまりそれは、どこまでも「人が何を聞きたいか」の説教ではなく、「神が何を伝えているのか」の説教であり宣教であったということに私たちは教えられるのです。近現代の個人主義と消費主義社会の発展によって、教会もその世の流れ・流行に流されて、リベラルも福音派もこれと逆の教会や宣教になってきています。つまり「神が何を伝えているのか」ではなく「人が何を聞きたいか」が中心になって、教会や宣教は進められることが多いですし、それがあたかも正しい、宣教や教会の王道であるかのようにもされています。それは名目は隣人愛の名目が大々的に掲げられますが、聖書の教えとはいえ、「人が聞きたいこと、聞きたくないこと」、その必要を何よりも中心に合わせて、聞きたくないことは語らない、罪や悔い改めなんかは人は聞きたくないから、語らなくて良い、語らない方が良いと、なることは珍しくありません。さらには、本当は罪であるのに、もはや世の中や社会では受け入れられて誰も罪だとか思っていないとか、社会的に制度的に認められていることだ、だから、それはもう罪ではない、としてしまうことも教会や説教台で当たり前になされ教えられてもいるでしょう。むしろそれに対して、聖書が罪は罪だと言っていることだからと、あくまでも罪ですということの方が、頭が硬いとか、隣人を愛していないとか、なんて酷い思いやりのない教会だ牧師だなんて言われることも多いです。

C,「洗礼者ヨハネやイエスはそのようにしたのか?」

 しかし、洗礼者ヨハネも、そしてイエス様も、使徒の時代の使徒達もそのようにしたのか?、そのように聖書の教え、律法を歪めてまで、人間の都合の良い教えを教えることで隣人愛を表したのかと問うならば、全くそんなことはないでしょう。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主であっても、「それは罪です」とはっきりと神は何を伝えているのかを教えているではありませんか?洗礼者ヨハネは、確かにヘロデに福音も語り、彼は喜んで聞いています。だからと、もしかしたらもう少ししたら信仰に導けるかもしれない。だから、ここで罪を指摘することはやめておこう、罪だけどもヘロデが気分を害し、せっかく仲間になるのを妨げるといけないから「罪ではないとしよう、罪ではないと教えよう」、とはしなかったでしょう。自分が「それが罪です」ということで、相手は領主であり王のような存在であるのですから、恨まれて牢獄に投げ込まれることも推測できたでしょう。しかしだからと「それが罪です」ということをやめたりはしなかったでしょう。彼は、どこまでも「人が何を聞きたいか」ではなく、「神が私たちに伝えたいのか」を語った。そこに彼の宣教の王道があったし、それが聖書の伝える宣教だったのです。

D,「隣人愛を理由に聖書を捻じ曲げることの自己満足さ」

 事実、みなさん、聖書が罪であると言っていることを、隣人愛の名目や思いやりと称して、罪であることを、それが罪ではないと伝えることが、隣人愛ですか?優しさですか?人の前ではそうかもしれません。しかし、神の前では、その相手は確実に罪を犯すことになり、悔い改めなければ神の前に救いに与れないのです。神の怒りと裁きの座に立ち、滅んでいくのです。それなのに、人の前の一時の満足のために「それは罪でありません」と教えることは、何の愛でも思いやりでもないでしょう。その人がキリストの十字架の罪の赦し、そこにある平安に出会えない、経験できない、与れないのですから。むしろ妨げていることになります。ただ私たちや教会の地上の欲求や願望や自己満足のためにです。ぜひ私たちは、人々を十字架の救いに真に導くために、彼らが真の福音に出会うためにも、その前に、きちんと律法で「これは罪です」と人間の現実を示し悔い改めに導く、それから福音を示していく、律法と福音の宣教者の教会であり続けれるようぜひ祈って行きたいのです。

4、「ヘロデの心の矛盾」

 さて、先ほども言いましたように、ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネとその教えとの出会いにものすごい心の揺れ動きと葛藤があったことが見て取れます。ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、恐れ、保護までし、喜んで耳を傾けていながらも、なんと、恨み、殺そうとまでしていた、という、大いなる矛盾が彼の心にはあります。罪を責められて、やはり素直に聞けず、怒りは込み上げていたのでしょう。しかし、完全に怒り切ることもできない、確かにヨハネの語る福音に喜んだ自分もいた。ものすごい葛藤です。しかし、そこに21節、「良い機会が訪れた」という言葉で展開を迎えるのです。

「21ところが、良い機会が訪れた。

 良い機会とありますが、あくまでもヘロデから見ての良い機会であり、まさにあの堕落の時のようにサタンの巧妙な誘惑がそこに忍び込んでくるのです。このようなことがあったのでした。21節続きますが、

「ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。

 自分の誕生日の出来事です。高官も将校も有力者も、自分の支持者でした。彼はご機嫌でしたしょうし、彼のメンツやプライドがまさに高められているそんな時でした。そこで有名な戯曲やオペラの元にもなっているヘロディアの娘の出来事が起こります。まさにアンティパスは自分のために踊った娘へ、上機嫌で「願うものは何でもやろう」というのです。国半分などあげられるはずもないのに、まさに大口を叩き「固く誓って」までいうのでした。しかし、そこにヘロディアは娘をそそのかして、自分の結婚を罪だと批判したヨハネの首を、盆に乗せて、それを自分に欲しいと言わせるのです。アンティパスは26節「非常に心を痛めた」とあるように葛藤しますが、「誓ったこと」であり、そして「客の手前」ともあります。彼は引き下がれなかった、自分を優先させたのでした。そして彼は権力のままその娘の通りにさせ、ヨハネを処刑したのでした。

5、「洗礼者ヨハネは死を通してキリストを指し示す」

 みなさん、ここで疑問に思うでしょう。「神は彼を守れなかったのか?そんな大事な預言者なら、彼の処刑を止めさせることができただろう」と。またある人は理屈をこねていうことでしょう。彼はそんな風に「それは罪です」とストレート過ぎたから、だから失敗したんだ、だから報いを受けたんだ、志なかばで挫折したんだ、それ見たことか、だから、「それは罪なんだ」なんてストレートに言っちゃダメなんだと。みなさん、本当にそう思いますか?でも、みなさん、これと同じ出来事が、まさにこの後、同じように起こるでしょう?そうイエス・キリストです。あのイエス様の場面も、神は止めることができたはずです。いやイエス様自身がマタイ26章、逮捕の場面で弟子の一人が剣で衛兵の耳を切り落とした場面で、言っているでしょう

「そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」マタイ26章52〜54節

 と。イエス様には、つまり神には、イエス様の十字架も、そして当然、ヨハネの処刑も止めることができるのです。神の12軍団以上の天使を今すぐ送ることができるのです。しかし、それをしませんでした。なぜなら、そうしてしまうと、神が必ずこうなると書いていることが聖書の御言葉が実現しないからです。イエス様は、ゲッセマネでも、御心ならこの杯を取り除けてくださいと祈りました。しかし、イエス様は父の御心の通りになるようにと祈ったでしょう。そしてイザヤ53章10節からわかる通り、その神の御心の通り起こったことこそが逮捕であり、十字架の死であったではありませんか。洗礼者ヨハネも、キリストの道を整え真っ直ぐにするためにきました。しかし、かつて旧約の時代の正しい預言者たちが沢山殺されたのと同じように、彼も殺されることに、キリストの予兆、雛形があるのですから、この洗礼者ヨハネもまた、十字架のイエス・キリストの雛形です。まさに、このイエス・キリストの十字架の雛形として、この人の目から見れば悲惨な処刑という道を歩むことによって、まさにイエス・キリストの道を示し真っ直ぐにイエス・キリストを指し示す、その召命を全うしているのです。このようにヨハネは用いられていますし、このようにヨハネの処刑を通して、もちろんヘロデの罪深さから、神の義を決して実現できない人間の罪深さ、正義よりも自分のメンツやプライドを優先させ、正義を犠牲にしてしまう、人間の、つまり私たち一人ひとりの自己中心さも示されるのですが、何よりも、そんな罪深い私たちのためにこそ、ここでもヨハネという預言者と彼に起こった出来事を通して、神は、イエス・キリストの十字架を見るよう私たちに差し示している。洗礼者ヨハネは、生涯を通して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と、この死を通してもイエス・キリストを私たちに指し示している、それを全うしていることを教えられるのです。

6、「私たちは誰を見るか?」

 私たちは、今日この聖日、イエス様から与えられた御言葉に、説教を通して、誰を見るでしょうか?ただ悲惨な出来事だけを見て驚き悲しみ、怪しみ神の成そうされた全てを疑いますか?そうであってはなりません。今日も神はみ言葉を通してこの世の罪を取り除く神の子羊、イエス・キリストを、その十字架と復活を私たち一人一人に指し示しているのです。ここに神の前にあって、真の救い、永遠のいのちがある。ここにイエス様が与える罪の赦しと平安と新しいいのちがある。神の国への道があるのだと。悔い改めて、神の国を、イエス・キリストを信じ受け入れなさいと。

 そのように神の前にあって悔い改める私たちに今日も十字架と復活のイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を受け取って、喜び、安心して、ここから世に遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年7月7日(日)聖霊降臨後第七主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

7月7日(マルコ6章1−13節)

「つまずきが起こる現実の中でのイエスの宣教」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の聖書箇所は、先週のイエス様による12年病気の女性の癒しと、ヤイロの12歳の娘を生き返らせた出来事の続きになります。イエス様は故郷、つまり、自身が育った「ナザレ」へと帰ります。弟子たちも一緒でした。そのナザレで安息日を迎えます。2節から読んでいきますが、2節の初めだけ読みます。

2、「イエスの真の働きと目的」

「2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。

 これまでの、目に見える、しるし、奇跡、癒しは、確かに華やかで人の目を惹きつけるので、人々の目はそちらに注目されがちです。しかしイエス様が毎週欠かさず行っていたのはこのことです。それは、「安息日を覚えて聖としなさい」というその戒めに従い、そして、安息日にも主であり働かれ仕えてくださる真の救い主として、「会堂で教える」ということでした。しかも、「会堂で教える」という時、イエス様は、ただ自分の勝手な思いや当時の流行りの教えや哲学、あるいは、社会情勢や社会問題を教えたのではありません。おそらく並行している箇所かもしれませんが、ルカ4章を見るとこうあります

「16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

 まず「いつもの通り」とあります。そして「聖書を朗読して」とあり「預言者イザヤの巻き物を渡され、開いて」とあります。そう、イエス様は預言書、つまり当時の「聖書から」、それは私たちから見た「旧約聖書」から説教し教えたのです。しかも、イザヤ書の引用の後、ルカ4章は20節以下でこうあります。

「20、イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。

 イエス様は、時の社会情勢から社会問題に宗教の色をつけて会堂で語ったのではありません。聖書の言葉を読み、そして、神の国の実現がみ言葉の通りに実現したことを語り、そして、それは「恵み深い言葉」だったとあるでしょう。そう、イエス様は、旧約聖書から、律法と福音を語り、救いの到来の良い知らせ、神の恵みの現れを語った、説教したのでした。イエス様の宣教の言葉は、マルコ1章をみると「神の福音を宣べて」とあり「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉で始まりました。その言葉からイエス様の福音宣教が始まっており、それが何よりの目的でした。もちろん、しるし、奇跡、癒し、もイエス様の憐れみと神の力の表れであり、イエス様が神の御子であることの証しとして大事なことでしたが、それだけがイエス様の教会のわざでもなければ、それが主たる目的、働きではないのです。

「神の福音を宣べて」

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 それが、イエス様の十字架と復活の達成にまで至る最大の目的であり、また神の国と救いの到来の証しであったのでした。そのイエス様の活動は、弟子たちと精力的に活動していたカペナウムだけではなく、このナザレでも、全く変わることがなかったのでした。

3、「驚きと疑い」

 しかしです。2節こう続いています。

「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

 人々はイエス様の聖書からの説教、教えを聞きました。そして驚きました。ルカの4章の方でも「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあります。驚くべき言葉であったのです。しかし、その驚きは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージの真の意味や素晴らしさを理解した驚きや感嘆、褒め讃える言葉ではありませんでした。むしろ、それは、日常の価値観や常識では得ない人から、予想できないような言葉や教えが出てきたことの「驚き」であったのです。なぜなら、このような教えを「どこから得たのか?」その知恵や奇跡は「一体何が起こっているのか?」という驚きに続いて彼らはこういうからです。3節以下

「 3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6そして、人々の不信仰に驚かれた。

 とあるのです。ルカ4章の方でもその驚きの言葉はこうあります。4章22節

「この人はヨセフの子ではないか。」

 何週か前、マルコの3章のところでも、イエスの悪い評判を聞いて、表面的なことでしかイエスの働きを判断できず連れ戻しにきた家族達と同じ視点です。イエスの口から悔い改めと信仰による素晴らしい神の国の福音が伝えらているのに、しかも聖書から真っ直ぐに正しく、そして恵みと憐れみに溢れて説き明かされているのに、彼らは、やはり、当時の、人間中心の視点で、社会的な自分たちの常識や先入観や価値観だけに流されて、そのイエス様の教えに驚きは示しますが、疑いの目で見るのです。あれは「ヨセフの子ではないか」「大工ではないか」「あの家族はみんな自分の知り合いだぞ。そんな大工の息子が、こんな教えをどこから仕入れてきたのか?こんなことなんで起こるんだ?不思議だ、驚きだ」、と受け入れられないのです。疑い、怪しむのです。

4、「しるしを求めるものには躓き、知恵を求めるものには愚かに見える」

 それは、まさにパウロがコリントの信徒へ述べた教えは、紛れもなく真理をついています。

「22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

コリント第一1章22−25節

 パウロは教えます。イエス様の福音、十字架の言葉は、しるしを求めるユダヤ人には躓きであり、知恵を求める異邦人、ギリシヤ人には愚かに見えるのだと。目にみえるしるし、人間の知恵や理性に求めても、福音、十字架の言葉は、決して理解できない。むしろ十字架の前に、福音の前につまづきとなるのだと、パウロも、そしてイエス様ご自身も教えてくれています。しかしキリスト教会の歴史は、このことの葛藤と誘惑の歴史であり、また、実際にそれらに負けてきた歴史でもあり、今も現在進行形であるとも言えるでしょう。何とか人間が理性で理解できるように、説得できるように、伝えなければならない、理性的に矛盾があってはならない、あるいは、社会文化的に、人間の欲求や願望や必要に受け入れられなければならないと、教会自体や、福音を伝えるはずの牧師説教、神学者自身が、しるし、経験、理性で、聖書を何とか理屈づけようとする、説明しようとする、そして、聖書の文字通りに教えや都合の悪い教えを、捻じ曲げようとする、否定しようとする、奇跡なんかは、それは神話だ、弟子達の作り話だ、等々、理性的、科学的に説明しようとしてきました。しかし、それは、まさに福音につまづき、キリストにつまずき、そして、人々をつまづかせていると言えるでしょう。律法と福音の言葉を真っ直ぐに伝えれば、世の中は罪人の世であり、罪を認めない世であり、同時に、理性と自己中心な欲求で判断するのですから、受け入れないで躓く人が出て当然のことです。しかし、それでも神はそのように忠実にみ言葉を伝える教会の苦悩を受け止めて報いてくださるのが宣教であり教会であるでしょう。しかし、福音を歪めて、聖書を歪め、一部、書かれていることを否定して、しるしと知恵で躓かせないように教え、それは、道徳的、倫理的な導き方はできるし、人には賞賛されるかもしれませんが、しかしそれは神の前には大いに人々を躓かせているし、神には受け入れらない重大な過ちと罪に陥っていると言えるでしょう。むしろ私たちは、イエス様ご自身が、人々はしるしを見ては福音につまづき、知恵を見ては十字架の言葉に躓くことをよくご存知であり、それは近しい知人や家族ほどそうであることを知っていながら、なおも、それでも、このように、会堂でいつも変わることなく聖書からまっすぐと悔い改めと福音を伝えたことに、ただ純粋に毎週、倣っていきたいと教えられるのです。

5、「救いの確信:信じるものには神の力」

パウロは、先ほど引用したコリント第一1章でこう続けています。

「 24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです

1章24節

 と言いました。またこの1章ではこうも言っています。

「18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

18節

「30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」 31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

30−31節

 「召された者には」「私たち救われる者には」それは「神の力」「神の知恵」です。それはなぜですか?何人であっても、どんな人種の人であっても、自分の力や行いではない、「神が私たちを召してくださった」から私たちは召された者。神が救ってくださった者です。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ」たという者です。「神が」「神によって」私たちは、キリストのもの、神のものとされ、与えられた信仰のゆえに、私たちにとって、その十字架の言葉は「滅びの言葉」ではない。正しく「神の知恵」「神の義」「神の聖」「神の贖い」である。それが今、確かに私たちにある。私たちの信じ拠り所とする核心である。と私たちは、告白できるでしょう。このことは、小教理問答書の使徒信条の教えの第3条「聖化について」ではっきりとこう答えています。

「自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることができないし、また主のみもとに来ることができないことを信じます」

 と。しかし

「聖霊が福音により、私を召してくださった。その賜物で私を照らして、正しい信仰の内に清めてくださった」

 そのように教えられているでしょう。私たちルーテル教会はこのように告白しているのです。

 私たちにとって福音はつまずきとなっていません。むしろ、イエス様の十字架の言葉を通して、神が御子イエス様によって私たちを救ってくださった。そのことこそ、私たちの毎週の信仰の告白ではありませんか。そしてその告白も、私たちが毎週、日々の平安があるのも、紛れもなく、父子聖霊によって捕えられ、み言葉を語りかけられ、聖霊によって信仰を与えられた、その恵みのゆえ、恵みのみであるとここに告白できるでしょう。もしそのように、今、私たちが、福音は正しく神の力、そのように告白できるなら、今日もあるその神の恵みを覚え讃え感謝しましょう。そして、もしそうであるなら、なぜ、十字架の言葉を、福音を、なおも、しるし、経験、人間の知恵や理性で歪めてまでして、伝えたり教える必要があるでしょうか?そのようになおも人々を一層躓かせる必要がありますか?それは大きな矛盾ですね。だからこそ、私たちは、周りの人に、なかなか歓迎されず、受け入れられず、拒まれたり、否定されたり、馬鹿にされたり、愚かな教えだと言われたとしても、世に調子を合わせ、理性やしるしで聖書を上塗りして歪めるのではなく、イエス様のように、真っ直ぐに、力あるイエス様の福音を、十字架の言葉を聞いていきたいし、そして伝えていこうではありませんか。世の中は誘惑があり、理性や知恵やしるしで人間に心地よい教えに歪める誘惑は今現代も、教会内で絶えず渦巻いているキリスト教事情がありますが、私たちのこの教会では、その誘惑に流されることなく、十字架の言葉、福音をまっすぐと伝え説教していく教会であるよう、イエス様の助けを日々、毎週、ぜひ祈っていきたいのです。

6、「一人では遣わさない」

 その大事な務めのために、7節以下ですが、イエス様は、12人の使徒達を選びお使になります。そこに7節、このような大事な慰めとなる言葉があります。

「二人つづつ組にして遣わされた」

 これはとても感謝な言葉です。イエス様は一人では遣わされないのです。組で、複数で、イエス様は宣教に遣わします。パウロの時も、必ず複数です。それがイエス様の御心でした。そのように教会は、決してカリスマ牧師のワンマンのマンパワーで運営されて大きくされていくのでは決してないということです。世の人々はカリスマと強いリーダーシップを求めます。それは教会でも例外ではなく、カリスマに満ちたワンマンリーダシップの牧師はもてはやされ、ひどければそのようなカリスマ牧師はイエス様以上に教会では崇拝され神のようにさえ扱われます。しかしそれはイエス様の御心ではありません。パウロも目や手など体の器官の例を取り上げ、クリスチャンそれぞれに賜物と召命が与えられそのそれぞれが組み合わされそれぞれが用いられ一つの教会が建てられると教えています。そう、教会の働きも、当然、宣教も、それはチームで用いられるのです。ワンマンではないのです。まして孤独の働きにもされません。二人の組で、あるいは複数で、あるいはみなそれぞれ賜物と召命を与えられ用いられる一つの体として教会はみ言葉の働きを進めるのです。これは恵みであり、神の御心なのです。そして、7節後半以下、必要なものは、悪霊を追い出す権威から、パンも何もかも、イエス様が指定されているのは、それは必要なものは神が備えてくださるからこその命令です。そのように神が満たして用いられたからこそ、12節以下、宣教があったことがわかるでしょう。このように、宣教は、律法と福音の区別で言うなら、律法ではなく、どこまでも福音であり、福音を受けて、イエス様によって召命も賜物も全てを与えられ、そしてイエス様が与えてくださったものによって全てが果たされていくものなのです。そのことがすでにここに始まっていますし、宣教とは何か、教会とは何かがここにしっかりと証されているのです。

7、「結び」

 今日もイエス様はここに私たちを集めてくださり、み言葉と聖餐で私たちに仕えてくださいます。そして悔い改めてイエス様の前にある私たちに、イエス様は今日も宣言をしてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ安心してください。そして、その安心のうちに遣わされていきましょう。その救いの素晴らしさ、み言葉の真実さ、平安の確かさとそれがイエス様からの恵みであると、信じて生きるため、そしてその生き方を通して、それらの恵みを、イエス・キリストを伝え、証していくために私たちは召されているのです。イエス様は私たちを用いて御心を行なってくださいます。安心し信じてここから出ていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年6月30日(日)聖霊降臨後第六主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

「夏に牧師がフィンランドに一時帰国するため、その間のスオミの礼拝は協力牧師が担当します。」

マルコ5章21−43節(2024年6月30日)

「新しく生かす、力ある神のみ言葉」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の箇所の前に5章のこれまでのところを振り返ってみますが、イエス様と弟子達がガリラヤの向こう側に渡った時、レギオンという名の悪霊につかれた、墓場を住まいとする男がやってきます。その悪霊はイエスが神の御子だとわかり恐ろしくなり「かまわないでくれ、苦しめないでほしい」と求めます。しかしイエスはその通りにせず、その惨めな男性を哀れんでくださり、悪霊レギオンを近くに飼われている豚に乗り移らせ、その男性を悪霊から救いだしました。そして、レギオンは豚と共に湖になだれこみ滅ぼされたのでした。助け出された男性はイエスと一緒に行きたいと申し出るのですが、イエスは「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と彼への召命を与えて、主がしてくださったことを身内へと伝えるようにと遣わしたのでした。それが20節までの出来事でした。 そこで今日の箇所になります。

2、「会堂長ヤイロ」

「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

21−24節

 イエス様は弟子達と再び、湖を渡って対岸へ戻ってきます。その前からイエスに会うために群衆が絶え間なく押し寄せていた状況でしたから、イエス様と一行が戻ってくるのを待っていたかのように群衆は集まってきたのでした。そこに「会堂長」というユダヤ教の会堂であるシナゴーグを管理するヤイロという男性がイエスのもとにやってきてひれ伏すのです。ヤイロは「娘が死にそうな状況であるので、娘のところに来て手を置いてほしい。そうすれば娘は助かります。生きることができます」と願うのです。娘を思う父親であれば当然の叫びです。そしてヤイロは「手を置いて」と言っているように、これまでイエスが具体的に手を置いて(1章31節、41節)病気の人を癒したり、悪霊を追い出した情報を聞いていたのでしょう。彼はそれを聞いてイエスは癒すことができると信じて、イエスに求め叫んだのでした。先程の向こう岸の墓場を棲家とする男性にも目を止めて助け出したように、イエス様はこの会堂長ヤイロの声も、決して無視せず、心に留めます。そこには、イエス様を信じて求める声を、それが誰であってもイエス様は蔑ろにされない、深い憐れみが表されています。イエスはそのヤイロの求めに答えて、一緒にヤイロの家に向かうのです。

 そのイエスのご自身を求めるものへの憐れみは、この後、ヤイロとは関係なく起こる一人の女性にも不思議な形で表されます。群衆もそのイエスに従って歩いていたところ、25節以下にこんな出来事が起こるのです。

3、「この方の服にでも触れれば」

「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

25−28節

 病いに苦しむ一人の女性が、群衆の中からイエスに縋るのです。彼女は、12年の間病気でした。挙げ句の果てに「多くの医者にかかってひどく苦しめられた」とあります。彼女はあらゆる種類の治療を試したようです。タルムードというユダヤ律法の解説書には当時は11の治療法が挙げられていたようですが、ほぼ迷信に近いような治療法まで記されていたようなのでした。彼女はそのように、ほとんど医者でもないような施術を行う治療師の迷信的な治療を様々試したようなのです。しかし根拠のない治療法なので、治ることなくただ費用だけ消費され全財産を失い、おまけに治ってもいないのですから、病状も悪化するという悲惨な状況でした。しかし彼女も、ヤイロと同じ、イエスのことを聞いて、イエスなら癒してくれると信じるのです。しかし大勢の群衆です。しかも当時は女性がラビである教師に話しかけるなどできないほど女性は地位が低かった社会でした。それゆえ彼女は話しかけることさえもできないのです。そこで彼女はイエスの「服にでも触れれば癒していただける」。そう思って、服に触れたのでした。その時、人間の常識や理解からはかけ離れた不思議なことが起こるのです。

「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。

29−32節

 女性は、イエスの衣に触れただけです。しかしその瞬間に、病気が治ったことを実感したのでした。そしてイエスも「自分の内から力が出た」ことに気づきます。つまり、イエスの衣服だからとその衣に特別な力があるというのではなく、「イエスご自身から」力が現されたのでした。イエスは全てを知られるお方です。ですから、もちろん自分に起こったことをすでにわかっていたでしょう。しかしイエス様はあえて「わたしの服に触れたのは誰か」と尋ねるのです。なぜでしょうか?

4、「イエスはなぜその女を探したのか?イエスの真の目的」

「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

33−34節

 みなさん、イエス様が、ただ病気の癒しのためだけに来られた、あるいは、病気を治すことが第一の目的であり、ゆえに、病気を治すことが救いであるというのなら、イエス様は女に話しかけずに、そのままにしたでしょう。多くの病人に衣類でもなんでも触らせ、癒してその働きは終わりでいいでしょう。しかし、イエス様の来られた目的はそれ以上です。もちろん大勢の人々が、癒されました。しかし、病気は癒やされても、誰でもまた他の病気になったり、寿命がくれば死を迎えます。そして、癒された人も、悔い改めて神に立ち返ることがなければ、つまり、これからイエス様がなさる十字架と復活の福音を知り、受け取り、信じることがなければ、死の先の永遠の命、つまり、イエス様が真に与えようし、そのために世にこられた、その真の救いを経験することはできないのです。ですから、この女性も、ただ癒やされ、それで解決、終わりではないのです。イエス様は相手が女性であることもその病気も知ったことでしょう。しかし女性が通常、自分に話しかけることはなかなか難しいこともよく知っています。だからこそです。「誰か」と尋ねるのです。女性は、恐ろしさに包まれますが、自分だと名乗り出るしかありません。そこで彼女は名乗りでで自分の経緯を話さざるを得なかったのでした。しかし、そのようにイエス様が彼女と交わり、言葉を交わし、言葉を伝えること、教えることこそがイエス様が「誰か」と尋ねた目的でした。そこでイエス様は何を伝えますか?イエス様は優しく教えます。「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と。もちろん、彼女にある何かに直したり救ったりする力があるのではありません。治したのは、イエス様の力です。さらに、救いに関して言えば尚更ですが、それは毎回強調しているように、救いはイエス様の力、イエス様の救いであり、「あなたの信仰」とあるその信仰さえも律法ではなく、福音であり、賜物であり、そのように、救いは神の救いであり、人のわざではありません。イエス様ご自身もその癒しと救いの力は、自分から出たものであり、神のわざであることを知っています。ですから、その彼女に与えられた求める想い、イエス様なら治すことができるという信仰、それもヨハネ3章27節に「人は天から神から与えられるのでなければ何物をも持つことができない」とあるように、神からの賜物としての信仰ではあったでしょう。まさにそのような意味でこそ、彼女に「与えられた」その信仰ですから、イエス様は確かに、それを彼女のものとしてくださり「あなたの信仰が」と教えるのです。確かにその通りです。それは、彼女にとっても、何か彼女自らの力で搾り出したような律法の信仰ではなかったでしょう。もはや自分も医者も何もできないという状況です。そんな中で、「自分が何をしなければならないか」の思いではなく、ただただ「イエスが何を人々にしてくださったのか」の良い知らせを聞き、それをそのまま受け入れ、そのまま促されて、そのイエスにすがれば、その衣でも触れば、癒されるという信仰です。彼女に何か律法的な思いがあったとすれば、社会が定めた聖書的ではない慣習、女性がラビに話しかけてはいけない、そのような恐れや心配は見られます。しかし、そのような彼女の律法的な動機や行為は何もここで働きません。むしろそのように律法でイエスへ話しかけるという消極的な思いを、開いてくださった、自分の全てを語るように導いてくださったのも、「イエス様の方から」です。まさにイエス様からの憐れみの言葉、福音によるものでしょう。全ては「イエスが何をしてくださったのか」「イエスがしてくださったこと」によって、促され、導かれ、この救いは起こったのでした。イエス様のわざです。しかし、イエスがそのように彼女に与えてくださり導いてくださった信仰が彼女を通して働いたからこそ、その救いは「あなたの信仰」であり、その信仰が彼女を救った、その通りなのです。

 私たちも同じです。私たちの信仰も、律法や私たちの意思の力によるものでもなければ、私たちの努力や成し遂げたものでも決してなく、どこまでも神の賜物であり、み言葉と聖霊によって私たちに与えられたものです。しかし「与えられた」のですから、それゆえに私たちの信仰でもあるのです。私たちの信仰であり、私たちが確かに「信じる」のですが、それは「私たちの力」ではなく、どこまでもみ言葉と聖霊が豊かに働いて、神が力を現すものであるがゆえに、聖書にある通り「信仰は力がある」のです。そのような意味でイエス様はいつでも信じなさいと、言ってくださるし、私たちにも「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ってくださっているのです。感謝ではありませんか。

5、「「恐れることはない。ただ信じなさい」信仰は福音」

 そして、35節からヤイロの話に戻ります。ヤイロの家のものが来て言うのです。

「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 35節

 なんと、イエスが到着する前に、ヤイロの娘は亡くなってしまいました。その家の使いのものは、絶望のうちに言います。「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」そう、もう死んでしまった人を生き返らせることはできないというのは、いつの時代も変わることのない事実であり現実でした。そしてそれはイエスでさえもできないというのが、その使いの言葉には表れています。しかし、36節

「イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

36節

 イエス様のヤイロへの言葉「恐れることはない。ただ信じなさい」。ヤイロも使いの者の絶望的な言葉を聞いて、深く悲しみ、失望し、もう遅かったと思ったことでしょう。しかし、ヤイロのそのような疑いや絶望に対して、イエス様はこの言葉で強め励ましているでしょう。

「恐れることはない。ただ信じなさい」と。

 みなさん。このイエス様の言葉。これは「〜しなさい」と命令形だからと、この失望に沈むヤイロを責め立てる律法の言葉だと思いますか?違います。「恐れることはない。」とあるでしょう。そして「ただ信じなさい」です。イエスはヤイロが恐れていること、もう絶望していることをを十分に知っています。そんなヤイロに「恐れる必要はありません」と言ってくださっているイエス様の声は、ご自身になおも目と希望を向けさせる声ではありませんか。その「信じなさい」なのです。その「信じなさい」に、ヤイロの挫折した心、疑いの心は信仰へと再び鼓舞されるでしょう。そう、娘の死という現実の前に絶望するヤイロは自分で自分の信仰を鼓舞するなんてことは決してできません。みなさん、ここでも、イエス様の言葉こそがヤイロの信仰を再びよみがえらせた、復活させた、立たせているでしょう。みなさん、これが恵みの信仰の素晴らしさ、信仰が福音であることの素晴らしさなのです。

6、「神の言葉、新しく生かす力」

 そこでイエスはヤイロと3人の弟子だけを連れて家の中に入ります。家の中の人々は、大声で泣き喚き騒いでいます。しかしイエス様は彼らに「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言います。人々はそんなイエスをあざ笑いました。当然です。死んだのですから。しかしイエスはこれからご自身が行おうとしていることのゆえにそう言ったのでした。そして、娘のところへ行き、

「そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

41−43節

 イエス様は娘の手を取り、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言います。その時、少女はすぐに起き上がって歩き出し、準備された食事をとるのです。人々にとってはまさに驚き、信じられない、信じることができないことです。しかし、ここに単純な福音があるでしょう。そう、イエス様は天から来られ人となられた神の御子、その言葉は神のみ言葉です。それは無から天地万物を創造され、塵から取られ型取られた人間に命の息を吹きかけて生きるものとしてくださったその言葉、「全ては非常に良かった」と祝福された言葉、そして堕落した人類にも「女の子孫が」とサタンの頭を砕き勝利することを約束されたその通りに、御子イエス・キリストを人として生まれさせ実現させた、その言葉です。その言葉には、力がある。死者を復活させる力がある。そして信じることのできないことを、信じるようにご自身のみ言葉のわざを現され、信仰を与えてくださる力、そして、その信仰が何度、倒れても、何度絶望しても、何度疑っても、何より信仰を復活させる力がある、神の言葉が、ここに示されていることがわかるでしょう。今日のところはただの癒しの出来事ではない、何よりもキリストとその言葉に血よる力が指し示されている。そのキリストが私たちのために来られ、素晴らしい信仰をもたらしてくださるそのことを今日も教えてくれていると言えるでしょう。

7、「結び」

 私たちは、堕落の子であり、どこまでも神を、その言葉を信じられないものであり、疑い、背を向け、自分勝手に生きようとするものです。アダムとエバのように、自分たちこそが中心であり、神のようになれることを選ぶ、そのような存在でした。「イエスの十字架?、私たちの罪のため?そんなこと信じられない。自分に罪なんてあるものか、自分はそんなに悪くない。世にも家族にも貢献している。刑法に触れるような罪なんてしたこともない」と、そのように神の前の自分の罪も見えない、知らない、教えられても見ようとしないものでした。しかし、そのような私たちに信仰があるのはなぜですか?十字架の血は私たちの罪のためであると、そのイエス様の十字架と復活によって救われたと、毎週告白でき、毎週、その十字架と復活に平安のうちに新しくされ遣わされる事実は、何ゆえですか?自分の力ですか、努力ですか?あり得ません。イエス・キリストのゆえではありませんか?イエス・キリストの方から、私たちに出会ってくださり、招き導いてくださり、語りかけてくださった。み言葉を通して。そのみ言葉を通して、信じられないものが信じるように変えられたのは私の何かではない。ただイエス・キリストのゆえに。そのみ言葉に働く神の力のゆえであると誰もが告白するでしょう。そう、同じように、イエス様は、今日も罪ゆえに弱りはて、疑いに沈む信仰を、悔い改めに導きながら、その悔いる私たちに、イエス様は、責めるのでも裁きで終わるのでもない、どこまでも「憐んでくださり」この「イエス様が私たちのために何をしてくださったのか」の福音によって、信仰を新たにして下っているのです。イエス様は今日も私たちに変わることなく宣言してくださっています。「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ福音を受け取り、安心してここから世に、その福音の証し人として用いられるために遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2024年6月23日(日)聖霊降臨後第五主日 主日礼拝  説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

「夏に宣教師がフィンランドに一時帰国するため、その間のスオミの礼拝は協力牧師が担当します。」

説経題 「嵐を叱るイエス」             スオミ教会 2024年6月23日(日)

聖書 マルコ福音書4章35~41節

マルコ福音書4章では「種まく人」譬え話をイエス様はガリラヤ湖で舟の上から群集に語ってこられました。4章1節を見ますと、「イエスは再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群集が傍に集まってきた。そこでイエスは舟に乗って腰をおろし湖の上におられたが、群集はみな湖畔にいた。イエスは譬えでいろいろと教えられた。」とあります。

そうして4章35節以下では、その日の夕方になって話しは一転して湖の上での大自然を相手にした奇跡を弟子たちに見せられるのでありました。今日の聖書であります35節から見ますと「その日の夕方になってイエスは『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。さぁここで、この一言で弟子たちは恐らく吃驚仰天したのではないでしょうか。弟子たちの中には、ペテロをはじめ何人もの、このガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちです。何十年もこの湖で過ごしてきて、この湖がどうなるかも知り尽くしている漁師たちです。夕方になり、日も暮れようとしている時、暫くすれば周囲は闇につつまれます。どう考えても不安と恐怖の念がペテロたちの心をよぎります。

しかし、イエス様の一声です。「向こう岸へ渡ろう」え?これからですか、と言いたい。弟子たちは感心できない状況を知りつつも、あえてイエス様に抵抗できない・・・・。ここでルカ5章の始めの場所と非常によく似ていることに注目したい。5章4節にイエス様がガリラヤ湖の岸辺で群集に教えられて話し終わった時、シモン「沖へ漕ぎ出して網を降ろして漁をしなさい」と言われた。そのペテロが言ったんです。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが何も獲れませんでした。しかしお言葉ですから網を降ろしてみましょう」。漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり網が破れそうになった」。とあります。シモン・ペテロがイエス様に、はじめは出漁の勧めを断って言います。「私たちは夜通し苦労して漁をしても何も獲れませんでした。漁師たちのこれまでの経験から今更網を降ろしても何も獲れないくらいわかり切っている、とっさにそう思ったのでしょう。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう、と言って実際、行動を起こして漁をして行きます。長年の経験や理屈ではない自分たちの誇りも何も捨てて、しかしお言葉ですから、とここにイエス様への信頼から起こる行動へと、お言葉に従ってゆくのです。

結果は自分たちが一度も想像だにしない大漁を見るのです。あの時イエス様に従っていった喜びが湧き出て、今またここに信頼と信仰から彼らを主イエス様の言葉へ決意させていったのです。たとえ、どんなに恐ろしい困難な状況が起ころうとしても、我が主と仰ぐイエス様に従う喜びがここに秘められている、と言っても良いかもしれません。36節を見ますと「弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」。対岸のゲラサ地域までの中間地点まで凡そ11km離れた頃から急に突風にあおられ暴風と激しい雨に舟は浸水し危険な状態になってきました。もう戻ることも出来ません。進むしかない。暗闇の中で更に恐怖が襲ってきます。ところが、この恐怖の弟子たちに対してイエス様は舟の艫の方で眠っておられるのです。ガリラヤの漁師を長年やってきた弟子たちはこのような暴風になる事もわかっていました。それを敢えてイエス様の言葉に従ってきたのです。“イエス様大変です、舟が沈みそうです。”もはや絶体絶命の時になんと言うことでしょうか。嵐の中で恐怖のどん底にあえぐ弟子たちと、かたやイエス様は舟の後ろで平安の中で眠っておられる。この対比はいったいどういう事でしょう。この事を人生の歩みで考えてみますならば、風と波の渦巻くこの世の支配の只中で困難の極みに苦しむ弟子たちの姿はまさに当時、ローマ皇帝の激しい迫害の下で苦しむキリスト教会の姿、そのものであろうと言う見方もあります。<大切な事は>嵐の中で翻弄する弟子たちと主イエス様の対比だけの話ではありません。初めから主イエス様がずうっと、この舟の中に共におられる、と言う事です。弟子たちがこれまで自分たちの経験から暗闇の海に舟で渡ろうなんてとても無理な事、危険にあうであろう、とイエス様に抵抗はしたものの、そこにイエス様の言葉に一切をかけて信頼して舟を漕ぎ出したのです。

<言い換えますなら>嵐吹くであろうこの世の困難に向って神の支配の下に想像もつかない神の次元の力と権威を持ち給う、この御方、主と仰ぐ、この御方に従ったのです。この御方と共にいる事に対する信頼と喜びとが秘められていたはずです。ところが現実の嵐の中の舟ではこの世の荒れ狂う自然の力の前に弟子たちは一溜まりもない自分たちの無力の空しさでどうにもならないのです。何もかもお手上げ、死を前にしています。“イエス様起きてください。助けてください。私たちは死にそうです。”イエス様なら何とかしてくださる。イエス様というお方の存在、神の力をもって奇跡を起こされる、神の権威をお持ちのイエス様をどれほど信頼を持って見ていたでしょうか。私たちも信仰生活の中でこの世の襲い来る困難に主イエス様をどれほど信頼し、そのみ力を頼って信じているでしょうか。あれほどガリラヤの湖の何もかも知り尽くして嵐の恐ろしさも知り尽くしていたにもかかわらず今、嵐の只中で全く無力です。自然の力の恐ろしさ、私たちも知らされます。大地が裂け、揺り動かされ、津波の押し寄せる前に人間は全く無力です。私たちは直接この身に会ったいませんがテレビの映像で知らされます。さて、今日の聖書を見ますと38節には“弟子たちはイエスを起こして「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」と言った39節、イエスは起き上がって、嵐を叱り湖に「黙れ!静まれ!」と言われた。すると風は止みすっかり凪になった。

何と言う事でしょう。イエス様のこの大自然の力、狂ったように襲い来るものに向って一声で叱り飛ばされたら風はたちまち止み湖は凪となったのです。大変な奇跡です。「黙れ、静まれ」と言うイエス様のこの言葉は実は全く同じ言葉を悪魔につかれた者に向っても叱って言われました。マルコ1章25節に記されています。ガリラヤ湖の破壊的な力で荒れ狂う嵐にも、また汚れた霊に取り付かれて暴れまわる男に対してもイエス様はこれを叱り飛ばし完全な勝利を表したのです。もう一方で嵐の中にあっても同じ舟の中に平和のうちにイエス様が共におられる、この信頼に屈服してしまっている弟子たちを、この言葉で目覚めさせ叱っておられるのです。だから40節を見ますとイエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。この言葉こそ弟子たちの心を揺さぶりイエス様に寄せていた信仰、絶対的信頼を新たに目覚めさせられたのであります。誰もが自分の内にある信仰の足らなさに目覚めさせられ「主が共にいます」と言うこの信頼への重さを新たにさせられるのです。主イエス様がご自分の命を与えてくださっている、それほど愛されている、この恵みを知るとき新たな信仰の歴史が起こり生かされて創りかえられてゆくのであります。   アーメン

説教「キリスト信仰者は目に見えるものによらず信仰によってこの世を歩む」 吉村博明 牧師 、マルコによる福音書4章26~34節

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2024年6月16日 聖霊降臨後第四主日 主日礼拝説教
聖書日課 エゼキエル17章22ー24節、第二コリント5章6ー17節、マルコ4章26ー34節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様の教えに特徴的なことは、たとえを用いて教えたということです。たとえを用いて何を教えるかと言うと、「神の国」とはどのようなところか、神はどのような方か、そして「神の愛」とはどのようなものであるかが重要なテーマでした。本日の福音書の日課に2つのたとえの教えがありますが、イエス様はどちらも「神の国」に関係すると言っています。

 最初のたとえの出だしはこうでした。「神の国とは、人が種を播いて、夜は寝て昼は起きてを繰り返していくと、起こってくることに似ている」と。何が起こるかと言うと、「種は育っていくがそれがどう伸びていくのか、その人は知らない。種が播かれた地が自ずと種を成長させ、初めは茎、次に穂を成長させ、最後に穂の中に実を結ばせる。」つまり、神の国は、播かれた種がどう育っていくか詳細はわからないがとにかく育っていく、そういうことに似ていると言うのです。しかし、まだ続きがあります。実がなると鎌で穂を刈り取る時、すなわち収穫の時が来ると。つまり、「神の国」というのは、目には見えない成長を経て最後に目に見える実が実って完結するものであるというのです。皆さんは、これを聞いて「神の国」がどんな国かわかりましたか?

 もう一つのたとえは有名な「からし種」のたとえです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長すると驚く位に大きくなる。これが「神の国」を連想させるというのです。「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラという植物の種で、その大きさはほんの1ミリ位ですが、成長すると大きな葉っぱを伴って2~3メートル位になるそうです。たとえでは、大きな枝が出て葉の陰の下に鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは大きな葉は出てきますが、大きな枝というのは少し誇張がすぎないでしょうか?

 実は、イエス様がそう言った背景には先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章があります。イエス様はそれをたとえに使っているのです。「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(22ー23節)。

 確かにエゼキエル書には、あらゆる鳥が来て宿れるような枝が沢山あることが言われています。イエス様のからし種の教えと合致します。しかし、それなら最初から「からし種」なんか出さず「柔らかい若枝」を用いてたとえを言えばよかったのでは?イエス様が「からし種」を引き合いに出したのは、初めは目に見えない位に小さなものが最後には誰の目にも明らかな大きなものになるという変貌を強調したかったからです。これは、最初のたとえで、目に見えない成長を遂げた種が目に見える実を結んで完結することと同じです。イエス様は「神の国」がこのように目に見えないものが目に見えるものになって完結するものであることを教えているのです。

 さあ、これで「神の国」がどんなところかわかるでしょうか?おそらく、もうちょっと説明があればなあ、というのが大方の感想ではないでしょうか?そこで、今日の日課の中で一つあれっと思わせることがあります。終わりのところで、イエス様はたとえを用いて人々に教えるが、弟子たちにはひそかに全てを説明した、とあります。マルコ4章の初めに有名な「種まき人」のたとえがあります。種が4つの異なる地面に播かれて、それぞれ異なる運命を辿ったというたとえです。イエス様はそのたとえの説明を弟子たちにしました。ところが、今日の二つのたとえには説明がありません。「神の国」とは、目に見えないものが見えるものになって完結するというのはわかるが、それ以上の説明はありません。イエス様は弟子たちに説明をしたという事実はマルコに伝わりましたが、この二つのたとえの説明はなぜか彼の手元に届かなかったようです。

 しかし、私たちは本当は説明なしで理解できるのです。なぜかと言うと、私たちはイエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を知っており、かつ信じているからです。イエス様の教えの多くは、一見すると理解するのが難しかったり、理解できても受け入れるのが難しいものが沢山あります。しかし、それらは皆、イエス様の十字架と復活を念頭におけばわかるのです。十字架と復活を信じれば、受け入れることができるのです。そういうわけで、今日はイエス様の十字架と復活を心に留めながらこの二つのたとえを見ていきましょう。

2.「神の国」とは

実と言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後の時代を生きる私たちは「神の国」がどんなところで、どうすればその一員になれるかがわかるのです。それをわかって本日のたとえを見ると、その内容もわかるのです。順序が逆な感じがしますが、本当にそうなのです。なので、まず「神の国」がどういうところで、どうすればその一員になれるかを聖書に基づいてわかるようにしましょう。その後で2つのたとえを見てみましょう。

 「神の国」とはまず、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今のこの世が終わりを告げて全てのものが揺り動かされて取り除かれてしまう時、唯一揺り動かされず取り除かれないものとして現れてくる国です(26~29節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が言わんとしていることは、この世が終わりを告げるというのは同時に次の新しい世が始まるということです。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にかわる新しい天と地を創造するという預言があります(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、ということが黙示録の21章と22章の中で預言されています。それ以前に眠りについていた者たちは起こされて、その時まだ生きている者たちと一緒に審判を受け、万物の創造主である神に義とされた者は「神の国」に迎え入れられるというのです。

 そこで「神の国」の中身に目を向けると、そこは黙示録21章に言われるように「もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです(4節)。痛み苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含みます。さらに使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは今の朽ち果てる肉の体に替わって朽ちない神の栄光を現わす復活の体を着せられます(第一コリント15章42ー55節)。復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる者たちのことをイエス様は「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。

 神の国はまた黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえました(マタイ22章1~14節)。この世での労苦が素晴らしい形で労われることを象徴します。

 以上を総合して見ると、「神の国」は今の世界が一変した後の新しい天と地の下に現れる国で、そこに迎えられる者は朽ちない神の栄光に輝く復活の体を着せられ、死も病気もなく皆健康であるところ。古い過ぎ去った世での労苦を全て労われ、古い世で被った不正義も最後の審判で全て神の手で最終的に清算されるところ。その意味で道徳や倫理も人間がこねくり回したものではなくなって万物の創造主の意思が貫かれている国という姿が浮かび上がってきます。

 それから「神の国」は、イエス様が語って教えただけのものではありませんでした。イエス様が地上にいた時、「神の国」はイエス様とくっつくようにして一緒にあったのです。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業をしてもらった人たちというのは、神の国の事物の有り様が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという事物の有り様が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという事物の有り様が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという事物の有り様が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに「神の国」がイエス様と抱き合わせにあったからです。その意味で奇跡を受けた人たちというのは、遠い将来見える形で現れる「神の国」を垣間見たとか、味わったことになるのです。「神の国」では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

 しかしながら、イエス様と「神の国」の関係についてもっと大事なことがあります。「神の国」について教えたり、奇跡の業で味あわせたというだけに留まりませんでした。何かと言うと、人間が「神の国」に迎え入れられるのを邪魔していたものをイエス様が取り除いて、迎え入れが実現するようにして下さったということです。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神の結びつきを断ち切っていた原因であった罪、神の意思に背こうとする人間の性向を、イエス様が全部自分で引き取ってゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで人間に代わって神罰を受けられたのでした。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開いて下さったのでした。

そこで今度は人間の方がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるから、神から罪を赦された者として見なされます。罪を赦されたから、神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この結びつきは、罪の赦しという神のお恵みの中に留まる限りなくなりません。人生の順境の時も逆境の時も全然変わらない神との結びつきを持ててこの世を歩みます。この世から別れる時も神との結びつきを持ったまま別れられ、復活の日が来たら目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて「神の国」に迎え入れられます。イエス様はこれらのことが本当のことになるように必要なことを全て成し遂げられらのです。

3.キリスト信仰者は目に見えるものによらず、信仰によってこの世を歩む

これで、「神の国」とはどういうところか、どうすればそこに迎え入れられるかがわかりました。そうしたら、もう一度、二つのたとえを見てみましょう。

 まず、最初のたとえ。終わりのところで「収穫の時に鎌を送る」と言われます。これは終末の時、「神の国」が現れる時を暗示します。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞(αποστελλω)は「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書4章13節を引用していることが見えてきます。そこでも、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があるからです(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神に義とされた者たちが神の国に迎え入れられることが言われています(24~30節、36~43節)。

 そこで地に撒かれる種とは何を指すのか?二つのことを指します。一つは、神の御言葉です。もう一つは、神の御言葉を心に播かれた人間です。神の御言葉を心に播かれた人が、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて植物のように育って実を結び、「神の国」という倉に収められるのです。種が御言葉と人間の両方を指すということは実は、マルコ4章の「種まき人」のたとえの説明にも出てきます。説明の冒頭(14節)で種は御言葉であると言うのですが、続きをよく読んでいくと「~に播かれた人たちはこういう人たちである」と言っています。つまり、種は人間も意味するのです。ちょっと混乱しそうですが、要は、御言葉を種のように心という地に播かれた人が植物のように成長して実を結ぶということです。

 今日の最初のたとえは、イエス様を救い主と信じて実を結ぶまでに成長する人についてですが、その成長は目には見えないと言うのです。これは、キリスト信仰者の内なる信仰の戦いを意味します。キリスト信仰者といえども、この世を生きる間はまだ肉の体を纏っているので、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持っています。神は、心の中の清さ、潔白さも求める方なので、信仰者と言えども、無罪(つみ)にはなりえません。しかし、信仰者は罪の自覚に背を向けずにそれに正面から向き合い、すぐイエス様の十字架を心の目で見て、神のひとり子の犠牲の上に罪の赦しがあることを思い起こします。そして、これからは罪を犯さないようにしようと決意を新たにします。このように、キリスト信仰者は罪の赦しという神の恵みを土台にして罪に反抗する生き方を貫くのです。父なるみ神はそれを義として下さるのです。それで、信仰者はかの日に神の御前に立たされても大丈夫だという確かな安心があるのです。

 キリスト信仰者が罪の赦しのお恵みに立って罪と戦う時、その戦いは恐らく外見上には見えるものではないと思います。逆に外見的に見えるものになるというのは、神から救いを得るために何か見える業を行っている可能性が大です。そもそもキリスト信仰とは、救いはイエス様が果たしてくれた、あとは彼を救い主と信じれた救いを受け取ることが出来るという信仰です。なので、救いを得るために何か業をする必要ありません。救いは先に信じて手に入れてしてしまった、だから、あとは見返りを求める必要もなく、「ただ神の意思だからそうするだけです」と言って良い業を行うだけです。それが真実の実を結ぶことになるのです。

 二つ目の「からし種」のたとえも同じです。最初に申し上げたように、このたとえの背景にはエゼキエル書17章があります。そこで言われる、大きく育ったレバノン杉というのは、まさに今あるこの世が終わって新しい天と地の下に現れる「神の国」を意味します。もともとこの預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を果たすことを預言していると考えられました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが人々の目に明らかになってきます。そうすると、鳥たちが安心して宿れる大木というのは実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、もっと将来の「神の国」を指すのだと気づき出されるようになります。イエス様自身、「神の国」は今のこの世が終って新しい天と地の下に現れるものであるとお墨付きを与えます(マルコ13章27ー27節など、マタイ25章31ー46節も)。

 それにしても「神の国」をレバノン杉のような大木ではなく、高さ2,3メートルほどのクロガラシに結び付けて言うのはどうしてでしょうか?それは、イエス様の主眼は、からし種のように砂粒みたいな種が2,3メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう大きな変化を強調したかったからです。最初は目に見えない位の小さいものが誰の目にも明らかな大きなものに変化する。それでは、大きなものは神の国を指すとして、そうしたら、目に見えない位の小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何でしょうか?

 からし種は、最初のたとえと同じように神の御言葉と御言葉が播かれた人の二つを意味します。ただし、最初のたとえでは、神の御言葉が播かれた一人ひとりの信仰者について言われます。二つ目のたとえでは、大きな形を取って現れるので、一人ひとりの信仰者と言うよりも神の国に迎え入れられる者たちの集合体です。まさに「神の国」そのものです。

 からし種を神の御言葉とすると、最初は小さいことが強調されます。人間ならともかく神の御言葉が小さい、しかも目に見えない位に小さいというのはどういうことでしょうか?

 ここで「神の国」と現実世界の国がどのように成り立つかを比べてみましょう。現実世界の国は国土とか国民とか経済とか政府とか軍隊を構成要素とします。これらの要素が大きくなればなるほど、国も大きくなります。ところが、「神の国」は将来新しい天と地の下に唯一現れる国なので、今のこの世ではまだ何もないように思われます。ところが、この世では「神の国」の構成員が一人また一人誕生します。構成員たちは、将来現れることになる「神の国」を目指してこの世の人生を歩んでいきます。「神の国」はまだ現れておらず目には見えませんが、既に始まっているのです。この始まっている国は、そこに向かって歩む構成員はいますが、国土も政府も軍隊もありません。「神の国」を成り立たせているのは今申し上げたように神の御言葉です。それが人の心に撒かれて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて「神の国」に向かって歩み出すようになります。その構成員がまた一人増え、そうやって大きなうねりになっていきます。そして、「神の国」が現れる時、神の御言葉こそが迎え入れらの決定的な要因であることが明らかになります。どんな国力をもってしても、また人間の名誉、知恵、財産をもってしても迎え入れには何の役にも立たないことが明らかになります。古い世ではそうした人間的なものこそが役に立つと思われ、神の御言葉など何の役に立つのか見向きもされなかったのが大逆転するのです。なのでキリスト信仰者は、目に見えるものによってこの世を歩みません。今は肉眼の目には見えないが将来見えることになるものを、信仰の目で見据えて歩むのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン