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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の旧約の日課は出エジプト記3章のモーセが天地創造の神と出会うところでした。当時イスラエルの民はエジプトで奴隷扱いを受けていました。神は民の助けを求める声を聞き、以前アブラハム、イサク、ヤコブに約束したことを果たす時が来たと見なしました。約束したこととは、民にカナンの地を定住地として与えるということです。神はモーセに、エジプトの国王ファラオのもとにかけあって民の出国を認めさせて、民を引き連れて約束の地に民族大移動せよと命じます。この出エジプトの出来事は世界の歴史の古代史の出来事の中で最も大きなものの一つです。その中で起こるいろいろな出来事は、人間と天地創造の神との関係はどういうものかをいろいろ考えさせるものです。中でも、神がモーセを通して十戒の掟を与えたことが重要です。確かにこれは、イスラエルの民が守るべきものとして与えられたという面がありますが、人間に対する神の神聖な意志、神が人間に求めていることが凝縮されているという意味で全人類に関わる掟と言えます。
本日の出エジプト記の中で一つ注目すべきことは、神が自分の名前を明らかにしたことです。エジプトを脱出しろと神が命じるなら、その神の名前は何と言うのか、そう民が聞いてきたら何と答えたらいいのか?とモーセは神に聞きま。神はこう言いなさいと言って自分の名前を明かしたのです。ここで少し脇道に逸れますが、「神」という言葉は一般には、超自然的で人格(ないしは人格に近いもの)を持ち崇拝の対象となるものを意味します。世界中にはいろんな神がいて、それぞれに名前がついています。ギリシャやローマの神話の神々、日本の神話に出てくる神々の名前は、ここではいちいちあげませんが、皆さんも聞いたことがあるでしょう。このように世界中にいろんな名前を持つ神がいるのですが、ただ、聖書の立場ではそれらは皆つくられたもの、被造物ということになります。聖書の神が万物の造り主であり、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた、これが聖書の立場だからです。そう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まった、と言われてしまうのですが、聖書の立場はそういうものなので、その立場に立ったらそうとしか言いようがないのです。
そこで、聖書の天地創造の神はどんな名前を持つでしょうか?モーセの問いに対する神の答えは「私は『私はある』である」でした(出エジプト3章14節)。「私はある」エフ イエאהיהというのは、まさに万物の造り主であることを言い表しています。というのは、聖書の神というのは万物の創造に着手された以上は、創造の時にポッと出てきたのではない、創造の前から存在していた永遠の方だからです。それなので、「わたしはある」以外に言い表しようがないと言えるでしょう。
さて、天地創造の神はモーセに、イスラエルの民にはこう言いなさいと命じます。「『私はある』という方が私をあなたたちのもとに遣わした」と(14節)。神はさらに、民にこう付け加えなさいと言います。「お前たちの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤハヴェが私をあなたたちのもとに遣わした」と。ここで「私はある」が突然、「ヤハヴェ」יהוהに替わりました。「私はある」אהיהは一人称ですが、ヤハヴェיהוהは三人称に近い形で「彼はある」という意味を連想させます。神は今後この名で自分を呼びなさいと言います(15節)。
ここで皆さんの聖書に関する知識を増やすために一つ申し上げます。ヘブライ語の旧約聖書には、神のことをヤハヴェと記すところが無数にあるのですが、それを読む時はヤハヴェと読まないことが慣例になっています。神聖な神の名を汚れた唇の人間が口にするのは畏れ多いからです。それで文字でヤハヴェと書いてあっても、それを「主」を意味する「アドナーイ」という言葉で読み替えることになっています。それで、日本語やその他の言語の訳もヤハヴェは「主」と訳します。日本語訳の旧約聖書で神のことを「主」と言い表しているところは、ヘブライ語ではほとんど全てがヤハヴェです。出エジプト記3章15節の「ヤコブの神である主が」と言うのも、正体は「ヤコブの神であるヤハヴェが」です。
話が脇道にそれましたが、神の名前に関してもっと大事なことがあります。先ほど、天地創造の神が自分のことを「私はある/彼はある」と名乗った時、それは永遠の存在者を意味していると申しました。これにはもう少し深い意味があります。何かというと、神が14節で自分のことを「私はある」אהיהと名乗る前の12節でも自分のことを「私はある」אהיהと言っているのです。それはモーセが、ファラオに駆けあって民をエジプトから脱出させるなんて自分には無理ですよ、と言った時の神の応答の言葉です。日本語訳では「わたしは必ずあなたと共にいる」となっていますが、ヘブライ語原文の逐語訳は「私はある、お前と共に」エフ イエ インマークאהיה עמךです。見ての通り、これは神の名前の「私はある」エフ イエאהיהに「お前と共に」インマークעמךがくっついた形です。これが意味するのは、神が「私はある」と言う時、それは人間を向いて言っているということです。つまり神は、自分が永遠にある者と言う時、人間と無関係にあるというのではなくて、人間と関係があるように永遠にある者と言っているのです。このことは、神の名前を考える時の大事なポイントになります。こうしたことはヘブライ語の原文を見ないと見えてこないことですが、見えた人は見えない人に伝える責務があります。
それでは、天地創造の神が人間と関係があるように存在していると言う時、それはどんな関係なのか?そのことを本日の福音書の日課の解き明かしを通して見てみたく思います。
本日の福音書の個所のはじめは、ローマ帝国ユダヤ地域の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いて、どんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを総督ピラトが殺害させて、その血を彼らの生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。
この知らせを受けたイエス様は、ある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐ何の出来事を指すかわかるような、多くの人の記憶に残っている出来事であったと言えます。
さて、イエス様に報告した人たちには、この事件を通して何か知りたいこと、イエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から、彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか?
つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのですか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しない、ということなのですか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのではないでしょうか?」と確認を求めたのです。
これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない」と強く否定します(ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定)。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかったその他のガリラヤ人よりも罪深かったということはなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じ位あり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになる。そうなると、それはもう因果応報とは関係のないことになります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。
イエス様は同じ言葉「決してそうではない(ουχι)」を、塔の倒壊事故を話した時にも使います。5節です。この意味も3節と同じように、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。これも3節と同様に、両者とも同じくらい罪びとであると言うからには、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけで、それはもう因果応報とは関係のないことになる。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。
ところが、どうしたことでしょう。イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。これは、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような暴力の犠牲になったり、不慮の事故の犠牲になる、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って、因果応報の観点を否定しながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?
実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しない、などと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。
それならば、イエス様は何を言っているのでしょうか?イエス様の言葉が因果応報の観点で言っているように見えてしまう大きな原因があります。何かと言うと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と「滅びる(απολλυμι)」という動詞がありますが、これを残虐行為や不慮の事故に遭って命を落とすことだと理解してしまうとそうなってしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。それでは、どんな意味でしょうか?
それがわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも、「滅びる(απολλυμι)」という動詞が出てきます。同じギリシャ語の動詞です。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことの反対を意味しています。それでは、「永遠の命を得る」とはどんなことでしょうか?それは、私たちがこの世を去る時、自分を自分の造り主である神に全部委ねて、神の方でしっかりキャッチしてくれる、そして復活の日に朽ちない体を着せてもらって創造主の神のもとに永遠にいられるようになるということです。そうすると、「滅び」は、これとは逆にこの世を去る時、神にキャッチしてもらえない、復活の日に神のもとに永遠に戻れないことを意味します。
このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって、「滅び」はこのようなこの世にかかわるものでした。イエス様にとって、「滅び」はこの世の次に来る新しい世にかかわるものでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、神から罪の赦しを受けていない者としてこの世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、次の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということも同じようにわからなければならないのだ。
このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に来る新しい世に関係する滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は、弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むということ、そして、歩みの途上で苦難災難のゆえに万が一命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは、どのようにして可能でしょうか?
その鍵は、イエス様の答えの中にある「悔い改める(μετανοεω)」ということにあります。メタノエオ―μετανοεωのもともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されますが、ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが自分の無思慮さや身勝手さのために隣人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」はその相手の人に向けられていると言えます。ところが、キリスト信仰では、隣人に対して謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は天地創造の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に背いたからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまった生き方を改めて神に向きなおって生きるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳してもよいでしょう。
そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と言ってもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?神に「よし」と言ってもらえる「立ち返り」はどんなものでしょうか?そのことを少し考えてみましょう。
皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなこと言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。そこまでして神の意思を完全に実現できる人間は存在しないでしょう。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになったものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのです。
人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神にキャッチしてもらえず自分の造り主のもとに戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神自身がとった解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送って、本来は人間が背負うべき罪の神罰を全部ひとり子に背負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦す、というものでした。そこで人間は誰でも、このひとり子イエス様を用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。洗礼を受けることで人間は、罪が残った汚れた状態のままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうして人間は、イエス様を救い主と信じて、純白な衣をはぎ取られないようにしっかり掴んで纏っていれば、神の方で目に適う者と見なされて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、この世を去る時にも、神にしっかりキャッチしてもらえて、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。
このように人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認を頂き、再び永遠の命の道を歩み出すことです。
ところで、本日の福音書の個所のもう一つのエピソードはイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。そこを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を前にした私たちをかばって下さるイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠に待ってくれない、期限があるということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて、神に立ち返るようになりますように。
イエス様が意味する「滅び」とは、今の世に関係するものではなく、次に来る新しい世に関係していることが明らかになりました。それで、人間がこの世で遭遇する苦難災難は、たとえそのために命を落とすことになっても、「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもない、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者の命をその手の中にしっかり握っているのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神にしっかり握ってもらっているという気がしなくなるのではないでしょうか?信仰者が苦難災難に遭遇した時、どう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。そこで使徒パウロは、出エジプト記のイスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者の生き方を映し出す鏡になっていると教えます。長い困難な大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話し守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め、神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために起きたのだ、と言います。そこで、信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情があります。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、それは聖書にしっかりある観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を創造され、再び来られるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。そのような時がいつ来るかは神自身しかわかりません。パウロの時代はもうすぐ来るという切迫感がありました。そのような切迫感はパウロの手紙の随所にも見られます。しかし、それから2000年近く立ちましたがまだのようです。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていたので(マタイ24章14節等)、それが目安でしょう。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では「終わりの時代」ということになります。パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐ神の守りを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そして大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、人間の耐久度を超えるような度外れたものはなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方なのだから、君たちの持てる力を超えるような試練に君たちを遭わせたりはしない。君たちを試練に遭わせてるようなことをしても、試練の出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。「試練に耐える」とは具体的には何をすることでしょうか?シナイ半島のイスラエルの民を反面教師にすれば明らかです。それは、神への信頼を失わずに試練がもたらす課題を一つ一つ解決することです。このパウロの教えは、神が出口を用意しているということで励まされる反面、なんだ神は結局は試練を与えるのか、なんで安逸な人生にしてくれないのか、キリスト教は御利益のない宗教だとガッカリされるかもしれません。でも、試練は即、不幸ということでしょうか?そうではないということを実感させるニュースが先週ありました。それは、殺人容疑で逮捕された女性が懲役12年の刑を受け、後になって取調べに誘導があったことが明らかになり最高裁が裁判のやり直しを認めたというニュースです。その女性が記者会見で、自分はえん罪に巻き込まれて不運だったけど不幸ではないと思っている、と述べていました。不幸でなかった理由として支援者に励まされてきたことをあげていました。人によっては、不運だったら即、不幸になる人もいるでしょう。女性の場合はそうならなかった。その理由として、支援者の存在があったからでした。パウロの教えもこれに似たところがあると思います。イエス様を救い主と信じても試練はある。しかし、それで不幸になることはない。なぜなら、天の父なるみ神が支援者のように共にいて下さるから。
神は自分のことを「私はある」と名乗った時、私たちと共にあることを前提して言いました(出エジプト3章)。 天使はヨセフに、生まれてくるイエス様のことをインマヌエルと呼びました。それは「神は我々と共におられる」という意味でした(マタイ1章23節)。 イエス様は聖霊のことを私たちのための「弁護者」であると言いました(ヨハネ14~16章)。
兄弟姉妹の皆さん、これだけ役者が揃っていたら何の不足があるでしょうか?最後に、先ほど第一コリント10章13節には大事なポイントがあると申しましたが、そこには重い内容も含まれていることについて一言。パウロは、信仰者はまだ人間の耐久度を超えるような度外れた試練を受けてはいないと言うのですが、今後そういう試練が来ることに含みを持たせています(後注)。それが何かは明らかにされていませんが、そうではあっても、13節後半部分のポイント、つまり神は試練の出口も用意してくれて、試練を私たちの力を超えないものに留めて下さるということ、このポイントは度外れた試練の時も度外れでない試練の時と同様に有効である。これがパウロの言っていることです。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、神を信頼し、神に立ち返る生き方をしていれば何も心配はいりません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
後注(ギリシャ語が分かる人にです)第一コリント10章13節の後半「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」、「出口を用意して下さる」というのは、両方とも未来形です(εασει、ποιησει)。つまり、将来の試練について言っています。これまでの試練は人間の耐久度を超えるものではなかった、というのは現在完了で言っています(ειληφεν)。それで、将来の試練は耐久度を超えるものがあることに含みを持たせていると考えた次第です。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
本日の使徒書の日課の中にあるフィリピ3章20節の聖句は、キリスト教徒のお墓の墓碑銘としてよく見かけるものです。新共同訳では「しかし、わたしたちの本国は天にあります」ですが、文語訳では「されど、我らの国籍は天に在り」です。これを見たことのある人は、ああ、この世を去ったら天国に行くことを言っているんだな、と思うでしょう。しかし、ここは少し注意が必要です。日本ではお寺や神社に行く人でも、誰かが亡くなると「あの人は今天国から私たちを見守ってくれている」などという言い方をよくします。キリスト教も天国、天国と言っているから、人間死んだらみんな同じところに行くというようなイメージがわいてくるかもしれません。ところが、キリスト教の場合は「復活」ということがあるため、少し事情が複雑です。復活と言うのは、かつて天地を創造した神が将来いつか今ある天地を新しく創造し直す時が来て、その時、死者を復活させるというものです。その時、今ある天と地がなくなって新しい天と地に取って代わられるという大変動が起き、そこで唯一なくならないものとして神の国が現れる。イエス・キリストが再臨して、誰が神の国に迎え入れられて誰が入れられないかの審判を下す。そういう最初の天地創造にも劣らない壮大な時です。
それなので、聖書の観点に立てば、人間は死んだらすぐ天国に行くというのはよほどの事情がない限りありえず、大方は「復活の日」までは天地創造の神のみぞ知る場所にて静かに眠っているということになります。それで、このキリスト信仰に特有な「復活」というものを踏まえてみると、「私たちの本国は天にあります」とか「我らの国籍は天に在り」というのは、「あなた先に天国で待っていて下さいね、私も後で行きますから」という意味ではなくなります。そうではなくて、「眠りから目覚めさせられるその日またお会いしましょう。それまでは安らかにお眠り下さい」という、そういう「復活の日の再会の希望」を言い表すものになります。
少し脇道に外れますが、「本国が天にある」と言うのと「国籍が天にある」と言うのは何か違いがあるでしょうか?「本国」と言えば帰属先です。「国籍」と言えば帰属先に伴う資格です。「本国」に属しているからそれに伴う「国籍」があるのだし、また「国籍」があるということは「本国」があるということなので、同じコインの表裏のようなものでしょう。他の国の聖書の訳も分かれています。スウェーデン語訳の聖書では「故国」hemlandと言って帰属先路線です。ドイツ語はルター訳ではBürgerrechteなんて言っていて辞書では「公民権」ですが、ルターの時代ならどこかの自治都市の「市民権」でしょうか。いずれにしても資格路線です。ただ、ドイツ語もEinheitsübersetsung訳を見るとHeimat「故郷」でしょうか、帰属先路線です。英語の訳はcitizenshipで、普通「国籍」、「市民権」と訳されて簡単そうな英単語ですが、「市民の身分」などという意味もあり、本当は日本人には厄介な単語です。しかし、いずれにしても資格路線です。フィンランド語訳を見ると「天の国民/市民」taivaan kansalaisiaとなどと言っていて、これは資格路線と言えるでしょう。
そこで、原文のギリシャ語はどうかと言うと、ポリテウマπολιτευμαという何か共同体を意味する言葉です。帰属先路線です。定冠詞τοがついているので、「帰属先の決定版」ということになります。まさに「本国」です。キリスト信仰者の本国は創造主の神がおられる天にあるというのです。そして、それは先ほども申しましたように、今は私たちの目の届かないところにあるが、復活の日に目の前に現れる国です。「天にある」と言う動詞の「ある」υπαρχειも現在形で、これは普遍的な真理を表しています。つまり、キリスト信仰者はその本国を将来の復活の日だけではなく、今この世を生きている段階でも、いつどこにいても持っているということです。これは一体どういうことでしょうか?
普通は日本とかフィンランドとか、国籍を有している国が「本国」ということになります(二重国籍の人は両方が本国と言うでしょうか?どっちかがより本国に感じられると言うでしょうか?)。そういう地上の本国を持って生きることに加えて天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方でしょうか?フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライターにP.シモヨキという人がいますが、彼の曲の中に「俺は二つの国の国民なのさ」Kahden maan kansalainenという歌があります。「二つの国」というのは、まさしく地上の本国と天の本国ということです。その歌の歌詞をみたら、今の問いの答えになるのではと思いました。それで、それを紹介して本日の説教を終わりにすることも可能なのですが、本日の福音書の個所がまた、解き明かしをするとシモヨキの歌が一層味わいのあるものになると思われたので、やっぱり解き明かしをします。歌は礼拝後のコーヒータイムでユーチューブで皆さんにお聞かせしますのでお楽しみに。
本日の福音書の箇所ですが、二つの異なる出来事が記されています。最初は、イエス様が自分にこれから起きる受難と復活は旧約聖書の預言の実現であると言ったのですが、それを弟子たちが全く理解できなかったという出来事。その次は、イエス様が盲人の目を見えるようにしたという奇跡の出来事です。最初にイエス様が自分の受難と復活を預言の実現と言ったことを見てみます。天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方かという問いを忘れないようにしましょう。
ルカ18章31節でイエス様は、今行こうとしているエルサレムにて、預言書に記されたこと全てが「人の子」に実現すると言います(後注)。実現することとして何があるかと言うと、まず「人の子」が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人に引き渡されて侮辱され辱めを受けて唾を吐きかけられて、むち打ちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。
翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことを理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難、十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからでして、起きた出来事をもって予告されたことを事後的に確認できるからです。しかし、弟子はまだ十字架と復活が起きていない段階にいますから、確認する術がありません。
それならば、弟子たちには旧約聖書に記された預言者たちの預言があるではないか?イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っていれば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、というふうに理解できるのではないか、弟子たちは少し勉強不足ではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純ではありませんでした。旧約聖書に記されているとは言っても、どこに「人の子」が異教徒の手に引き渡されるなどと書いてあったか?どこに「人の子」が侮辱され鞭うちの刑を受けて殺されると書いてあったか?どこに「人の子」が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言がこのような仕方で実現するなどと言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。
しかし、これらの出来事は実は全て旧約聖書の中に、あまり具体的には見えなくとも、しっかり記されていたのです。イエス様は、そういうシンボル的な言い方で預言されていることが、特定の時代のなかで具体的な形をとって実現することを言っているのです。イエス様自身は、シンボル的な言い方の預言がどう具体的に実現するか前もってわかっていたので何も問題ありません。しかし、弟子たちの方はまだ具体的な形をとって実現することを見聞きも体験もしていません。それでイエス様が予告されたこととシンボル的な預言とがどう結びつくのか、まだわかりません。
それでは、預言されていることと実現したこととの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書7章13節に登場する謎めいた者です。今あるこの世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて神の国が現れる。その時、神から王権を受けて、この神の国に君臨するのがこの「人の子」です。こうして「人の子」というのは、イエス様の時代には、この世の終わりに到来する神の国の統治者という理解がされていました。加えて「人の子」は、神から王権を受ける前の段階で、迫害を受けるという理解も持たれていました。(そのことは、マタイ16章13ー14節のイエス様と弟子たちのやり取りの背景にダニエル書7章25節があることを考えるとわかります。ここではこれ以上深入りしません。)
さらに「人の子」とは別に、イザヤ書53章に「神の僕」という者が登場します。人間が罪のゆえに神から受けるべき罰を身代わりとなって受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の預言が全て実現すると言った時、それは、ダニエル7章の「人の子」が受ける迫害やイザヤ53章で言われる「神の僕」の犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、そう明らかにしたのです。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、そんなこと言われても、あれっ、聖書のどこに書かいてあったっけ?となってしまったのです。
次に、三日後に死から復活するということについて見てみましょう。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書26章19節、エゼキエル書37章1ー10節、ダニエル書12章2ー3節に預言されています。そこで、復活が死の三日後に起きるという、三日目の復活という出来事については、ホセア6章2節(「三日目に立ち上がらせてくださる。」)とヨナ2章が鍵になります。ただ、ヨナ書の場合は、預言者ヨナが大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事についてです。それで、未来を言い表す預言には見えません。しかし、この個所は実はユダヤ人にとって、神の力で三日後に死の世界から復活するというシンボル的な出来事になるのです。マタイ12章でイエス様自身、ヨナの出来事を過去の出来事としてではなく、自分の復活についてのシンボル的な預言として捉えています(38ー41節、16章4節)。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはや単なるシンボルではなくなって実際の出来事になったのです。
しかしながら、預言はどれもシンボル的に記されていて、いろんな書物に散らばっています。そのため、それらはこういう具体的な仕方で繋がりを持ってこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、いくらそう言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解は不可能でした。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全てが見事に繋がって、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、文字通り預言の実現になったのです。弟子たちは、文字通り事後的に全てのことを理解できたのです。
ところで、弟子たちが事後的に理解できたというのは、旧約聖書の預言の一つ一つが実際に起きた出来事の各部分にしっかり結びついていることを確認できただけにとどまりませんでした。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのかもわかったのです。実はそちらの方が大事なことでした。このことは、天の本国を持ってこの世を生きるとはどういう生き方かを知る上でも大事です。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味したのでしょうか?
それは、天地創造の神の人間救済計画が実現したことを意味しました。どうして人間は神に救われなければならなかったのか?それは、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことがもとで、人間が神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったからでした。造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持てて造り主である自分のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに基づいてひとり子イエス様をこの世に送り、彼を用いて計画を実行に移しました。神は、イエス様を用いてどのように人間救済計画を実行したのでしょうか?
それは、人間が自分の持っている罪のゆえに受けなければならない神罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、彼の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を私たち人間のために開かれました。人間は、これらのこと全ては自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との結びつきが回復し、この世の人生の段階で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもいつも神の見守りと導きを受けて歩みます。これが天の本国を持ってこの世を生きるということです。逆境があっても天の本国を持っていることは微動だにしません。このように天の本国を持って生きた人は、この世を去ってひと眠りした後の復活の日に天の本国に迎え入れられます。イザヤ書35章風に言えば、天使たちの歓呼の声をもって迎え入れられます!(そして、そこは懐かしい人との復活の再会が待っているところです!)
そういうわけで、この私がこの世を去ると私の日本国籍は持ち主を失って消滅しますが、天の本国の国籍は持ち主を失わないのでそのままずっと残ることになるというわけです。
以上、旧約聖書にシンボル的に預言されたことが全て、イエス様を通して具体的に実現したということ、そして預言の実現は天の父なるみ神が主導した人間救済計画の実行であったことを見ました。
本日の福音書の個所のもう一つの出来事は、イエス様が盲人の目が見えるようにしたという奇跡の出来事です。この個所を読む人は大抵、おやっと思わされることがあります。それは、イエス様が「お前の信仰がお前を救った」と言った時、それを男の人の目が見えるようになった時に言ったのではなく、見えるようになる前に言ったことです。これは少し変な感じがします。治ってからそう言った方が意味が通じるのではないかと思われるからです。実はイエス様は、同じ言葉をマタイ9章22節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?
一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様の方では癒しは必ず起きるとわかっているので、それが実現する前に実現したと先回りして言った、と考えることが出来ます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ17章19節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言いました。さらに、ルカ7章50節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースがありますが、2つは癒しの奇跡に関係して健康回復の前に言われたケース、1つは癒しの奇跡に関係しているが健康回復の後に言われたケース、最後の1つは癒しの奇跡と無関係に言われたケースということになります。結論から言いますと、どのケースをみても、ある共通したことがあって、それでこの言葉を健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。どういうことか見ていきましょう。
「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、今申し上げた4つのケース全てそうです。ギリシャ語で現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、以前にも申し上げましたが、過去の時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、存続しているという意味です。従って「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。
さて、ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか?まだ盲目だったのに、どうして救われていたなどと言えるのか?
その答えはこうです。救われるということが、病気が治るとか、そういう人間にとって身近な問題の解決を意味していないということです。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために断ち切れてしまっていた人間と神との結びつきが回復して、神との結びつきをもってこの世の人生を歩むようになること。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻れるようになること。これが救われるということです。これが出来るためにはどうすればよいかというと、これも先ほど申しました。神が2000年も前の昔に彼の地でなさったことは、実は今の時代を生きる自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることです。そうすることで人間は、神がひとり子を用いて整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができ、それを自分のものとすることができるのです。盲目の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との結びつきをもって生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのです。癒しを受けていなくても、救われていたのです。その後で癒しが起きますが、それは付け足しのようなものでした。
これと同じことがマタイ9章の12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ。神との結びつきを回復して生きる者となっていたのだ。」その後で、女性は健康になります。癒しは付け足しのようなものでした。
以上から、癒される前の状態、つまり病気の状態にいても人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり天地創造の神との結びつきを回復した者になって、この世の人生を歩むこととなり、この世を去った後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことがとても大事なのは、もし病気から癒されることそのものを救われることと言ってしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で、神との結びつきが回復しているとか、病気の人は病気だという理由で神との結びつきがない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を背負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪を赦されて神との結びつきが回復して、同じくらいに神との結びつきをもってこの世の人生を歩み、この世を去る時は、同じくらいに神のもとに永遠に戻れるのです。
逆に健康だからといって、また癒しがあったからといって、それが神との結びつきの回復の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この人に「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。その期間は病気の時と健康回復の時の双方を含みますが、イエス様を救い主と信じた時点から以後は病気の時も健康回復の時も含めてずっと救われた状態にいたのです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられませんでした。健康な人でも、神から救いを受けて十字架の主のもとに戻る者が救われるということなのです。
ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので健康な人だったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、女性はイエス様を救い主と信じた日から現時点まで、救われた状態にあり、そのために全身全霊が感謝で一杯になり、神の意志に沿うような生き方をしようという心になりました。
神の意志に沿うような生き方をしようとしても、至らないところはいろいろ出てきます。さすがに行為で神の意志に反することはしないで済んでも、心で思ったり、それが口に出てしまったりします。もちろん、そのためにイエス様の十字架が立てられたので、それが私たちの心の中で立てられている限り、神との結びつきは失われていません。このように、この世での生き方はいつも不完全さを免れません。しかし、パウロが本日のフィリピ3章20ー21節で述べているように、この世の人生の段階で天に本国を持つようになった者は、イエス様が再臨される日にこの不完全な有り様を栄光に満ちた神の有り様に倣う者へと変えられます。
そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、天に本国を持つ者のこの世での生き方は、不完全であることを悲しみもするが、復活の日に完全な者にしてあげるという神自らの約束に安心して、そこに向かって歩み続けるいうことになります。まさに「されど、我らの国籍は天に在り」です!
それでは、最後にシモヨキの「俺は二つの国の国民なのさ」の歌詞を紹介したく思います。訳は神学的な意味を明らかにしなければならないので少し解説的になることをご了承ください。
天高くある御国の壮大さに比べりゃ
足元の国のちっぽけさと言ったらない
この二つの国は俺の人生にいつも連れ添ってきた
俺の周りにあるのは、ちっぽけな国の方
この世にいる限り、それは俺の友だちさ
でも、それは、俺がこの世から永遠の世に向かって足を踏み出すまでのことさ
俺の足はこの世では土にまみれているが
俺の目は天の御国を見据えている
自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ
俺は二つの国の国民なのさ
この世で俺は、風に薫りがあることを知った
海辺で打ち寄せる波に耳を傾けた
雪が降る日にはそれが白く舞うのを見ていた
この世で俺は、時が早く過ぎ去ることに気づいた
すると影が忍び寄り次第に覆うようになった
でも、俺は恐れない。待ち焦がれているものは夢で終わらないとわかっているから。
地上の国で俺は仕事に精を出す 時には笑い、時には泣きもしながら
荒れ地を切り拓いて土を耕し
福音が生み出す平和の種を撒く 不和や争いがあるところに、戦乱の時にも撒くのさ
一度土に鍬を入れて始めれば
植え育てたものが収穫される日は必ず来る
その日俺は自分に言うだろう。「ああ、やっと自分の家に帰り着いたんだ。」
後注(ギリシャ語が分かる人にです)
ルカ18章31節の「人の子」τωυιωτουανθρωπου(単数与格)は、「実現する」τελεσθησεταιにかかると考えればdativus commodi/incommodi、「記された」γεγραμμεναにかかると考えればdativus limitationisということになると思います。
コリント第1、 7章 25-35 2019年3月10日(日)
今日の聖書は、コリント第1、 7章25~35節までです。パウロは、7章からずっと、結婚に関してのべてきました。そして、未婚の人たちについて、パウロは書いています。
ここで言っていることは、一言で「人は現状にとどまっているのがよい」というのです。
7章の結婚についての話が、25節から、又続いています。
25節からは、結婚前のおとめについて言っています。
ここでパウロは今までとは、少しちがった言い方をしています。
今までの言い方は、パウロは、自分がキリストの使徒であるとか、キリストの僕であるといって、福音の宣教者独特の「権威」を示そうとするのでした。
しかし、ここではそうではありません。
パウロは言います。「主のあわれみにより、信任を受けている者として、意見を述べよう。」
それは、これまでとは非常にちがっている。この問題については主のご命令は受けていない、と
いうのです。しかし、自分は主の信任を、そのあわれみのゆえに、いただいている。
これはちょっと注目すべきことでしょう。
主イエス・キリストは、おとめのことについて、なにもご命令を出しておられない、というのです。絶対にこうでなければならない、とは言っておられない、というのです。
しかし、自分は、主のあわれみによって、忠実な者とされている。だから、その立場から、こういうのである、というのです。
自分は忠実な者であるつもりだが、それも、自分がえらいのではなくて、主があわれみをもって、忠実な者にして下さった、というのであります。
だからここに書いてあることは、パウロの意見であるにちがいありません。ここのところを、もう少しくわしく、他の訳でいいますと、「主が、そのあわれみによって、必要な考えをお与え下さった」となっています。
いずれも主ご自身のお言葉ではない。しかし、主の賜ったお考え、主はこう思っておられるであろう、と言うことであります。
これは信仰の生活をしている者が、よく知っていることでしょう。
主は、あらゆることについて、ご命令をお出しになるわけではありません。
しかし私たちは、主のあわれみによって、主に忠実に従うことによって、主のご意見を承ることができるのではないでしょうか。恐らくこうかも知れないといった、あいまいなことでなく、ここにみ心がある、と思えるようになるのであります。
十戒のようないましめや、主ご自身の多くの言葉があります。しかし主は、どんな事についても、ご命令やご意見をお与えになっているわけではありません。それを記した聖書は、六法全書のようなものではありません。何かの時に、ここを見ればわかるというものではありません。しかし、聖書によって神のあわれみを知り、そのあわれみのみ心によって、主にある者として、なすべきことを知ることができるようになるのであります。
それでパウロは、ここに何を示しているのでしょうか。
まず基本的なこととして、「現在、迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい」ということです。
「現在迫っている危機のゆえに」ということはどういうことでしょう。
29章でも書いています。時は「縮まっている」と。
9
パウロがここで述べていることには、こういう考えがその底にあることを、見逃してはなりません。
現在迫っている危機というのが何か具体的なことは何も書いていません。
時が縮まっている、時が迫っている、というように、何か困難なことが目の前にある、ということではないでしょう。
これは信仰の話であります。
教会が出来はじめたころ、人々は、主イエスがもうまもなくやってこられる、終末待望の思いが熱くもえていました。
使徒行伝に書いてあるように、教会の人々は、財産を持ちよって、一種の、素朴な共産生活をした程であります。
パウロはそういうことに現れている信仰生活の意味を、語ろうとしていくのであります。
信仰生活というものは、人間の生き方の表面だけをなでるようなことをするのでなく、その根本にさかのぼって考え、それによって生きようというのです。 それは、例えば、人間の生活が死んで終わることを、ほんとうに知ることであります。
現在迫っている危機というのは、キリスト者であるがゆえに様々に受ける困難ということでもありましょう。信仰者がいつも見つめておらねばならない、人間としての危機ということでありましょう。
しかもそれは、死がある、というような、おどすようなことを言っているのではなく、私たちが、神のごらんになっているところで生きている、ということなのです。
この激しい人間の生活の中にあって、人の目を気にしながら生きるのでなくて、神の目をおそれて、生きるのであります。それであれば、人間の生活は、いつでも危機にさらされているようなものであることが、分かるのであります。
そういう中において生きるのは、現在にとどまっているということです。今、与えられているままを、神から与えられているものとして、生きるように、ということであります。
信仰生活というものは、誰よりも精進して生きる生活であります。それと同時に、今あるこの生活を、神から与えられたものとして、すべてを神に委ねた生活をすることである、ということです。
パウロの時代、もっとちがった問題もあったでしょう。
結婚について語る時も、彼はまずこの事を告げたかったのではないでしょうか。
パウロ自身は、すでに見てきましたように、どちらかと言えば独身でいることの方に関心があるようでありました。しかし、そのことを、しいて勧めようとはしないのでした。
基本的に大切なことは、キリスト者として守っていかねばならない、と思ったでありましょう。
だから、パウロの対する考えと言えば、結婚生活の中で、いかにして信仰を守りつづけるか、ということになるのではないかということです。
パウロはここで、結婚論を語っているわけではありません。教会内からの質問に答えつつ、いろいろな悩みがあるにもかかわらず、よい結婚が大きな祝福である、とまで説明しようとしません。
ただ27節、28節を見ますと、結婚することは罪になるでしょうか、ということが書かれています。恐らく質問者がきいていたからでしょう。それで28節に「おとめが結婚しても罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。」と言っています。これが具体的な意見であります。
結婚ということは私たちの生涯をかけた大きな事であります。だれでもそれによって幸福を得たい
と願うのであります。それなのにパウロは、あっさりと率直に言っています。「結婚したらその身に苦難を受けるであろう。」だから独身がいいよ、と言いたげです。ある人は「結婚は人生の墓場である。」といったりもします。それらはみな、楽しい夢を見て結婚したのに、その楽しさは予想とちがってしまった、ということでしょう。
パウロはそういう意味で言っていません。又、同じようなことでありますが、家庭生活の苦労を考えて、結婚の苦しみを語ろうとします。
楽しい夢だけを追って、結婚しようとする若い人たちに、結婚が容易でないことを告げて、警告する人はいくらもあります。考えてもみて下さい。幼い頃から、全くちがった環境で育った二人が、結婚と同時に共同生活をすることには、困難があることは、誰でも分かるはずのことであります。パウロが特にどういうことを言おうとしたかは分かりません。
パウロは、ここでむしろ先に見ましたように「時が縮まっている」ことを強調しようとしています。
「今からは、妻のあるものは、ない者のように、泣く者は、泣かない者のように、喜ぶ者は、喜ばない者のように、買う者は、持たない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜならこの世の有様は過ぎ去るからである。」と言っております。このことなら誰にも分かることのようでありながら、本当は、よく分からないのではないでしょうか。このことをだれも否定することはできない。そうしたことをしっかりと知っておかねばならない、と言いたいのではないでしょうか。
このように言う事は、悲観的なことを考えなさい、ということではありません。この世のことは、みな去り行く。しかし、去り行かないものがあるのであります。それをもととして、生きなければならないのであります。
それは神によって生きることであります。なぜなら、神によって生きる生活こそは、動くことのない、変ることのない生活だからであります。
パウロは決して、悲観的なことを言おうとするのではなくて、何としてでも、神によって生きて行ってほしい、神を喜び、神を楽しむ生活をしてほしい、と言いたいのであります。
結婚も又その1つの生活である、とパウロはいうのです。
それならば、そういう生活はどのようにして神を喜ばすのか、ということが大切になってきます。信仰生活というのは、神を喜び、神を喜ばせる生活であります。それは、結婚生活においても同様であります。むしろ、結婚生活においてこそ、これが問題になるのであります。
結婚生活において、自分だけの生活を何とか主張しようとすることは、もはや論外です。そういうことができるわけもありません。そうではなくて、いかにして、神をお喜ばせするか、ということこそ、もっとも大事なことであります。
それが又、結婚生活において、もっとも難しいことであることを、パウロはよく知っていました。
32節以下ー35節のところで大事なことは、思いわずらわない、ということです。
独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣う。結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う。心が二つに分かれてしまいます。
今度は女性のことについても同じようなことを言っています。
独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣う。結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
33節で「その心が分かれる」と言っています。心が分かれる、というのは、思いわずらうことです。
思いわずらうことは、最も不幸なことです。
パウロはこのように言ったあとで、35節に「このように私が言うのは、あなた方のためを思ってのことで、決して、あなた方を束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」と書いていますね。
とてもいい事を言っています。主なる神をお喜ばせする生活は、結婚生活をつまらなくするものではありません。神を喜ばせようとする者こそ、夫を喜ばせ、妻を喜ばせすることができるのであります。 アーメン・ハレルヤ
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日はキリスト教会のカレンダーでは、1月に始まった顕現節が終わって、イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたルカ9章の他に、マルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。
少し教会史の話をしますと、かつてキリスト教会ではイースターの前の40日間は断食をするという伝統がありました。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるかのかは調べていないのでわかりません。ことの始まりですが、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだったということが重く受け止められた、それで特にイースターの前は彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間に来る6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がり、イースターの前7週目の水曜日となりました。今度の水曜日です。それで本日は断食前の最後の主日、次主日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」は唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えて、イエス様の受難を身近に感じるようにします。
話が少し脇道にそれますが、この断食の期間は普通、「四旬節」とか「受難節」とか呼ばれます。英語では「レント」です。面白いことにフィンランドやスウェーデンでは今でも文字通り「断食の期間」という言葉を使います。もちろん、両国ともルター派教会が主流の国なので、何か修行や業を積んで神に目をかけてもらうとか救いを頂くというような考えは全くありません。ルター派の基本は、人間の救いとはイエス様を救い主と信じる信仰にのみ基づくというものだからです。カトリック時代の呼び方が修正されずにそのまま今でも続いているということです。それでも、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。例えば牧師の中には、この期間は嗜好物を遠ざけるとか、好きなテレビ番組を見ないようにするとか、何か当たり前の日常から少し自分を切り離すようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。
話が脇道に逸れたついでに、フィンランドやスウェーデンでは、「断食の期間」に入る前1、2カ月位前からでしょうか、ラスキアイスプッラ/セムラと呼ばれる菓子パンが全国どこででも、パン屋でもスーパーでも喫茶店でも売られます。ちょっと鏡餅みたいな形をした焼きパンの間にジャムとこってりした生クリームをたっぷりサンドイッチした伝統的な菓子パンです。当スオミ教会の料理クラブでも作ったことがあるそうですが、これは「断食の期間」の前に少し贅沢に美味しいものを頂いて、あとは厳粛に過ごそうという趣旨のものだそうです。近年フィンランドやスウェーデンは教会離れ・聖書離れが急ピッチで進むご時世ですが、それでも「断食の期間」が始まると、この菓子パンは店頭からパタッと姿を消します。
四旬節の元にある断食の伝統の話から少し脱線してしまいました。早速、本日の御言葉の解き明かしに入りましょう。このイエス様の変容の出来事は幻想的であり劇的でもあります。出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われます。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。
さて、ヘルモン山の上で何が起こったでしょうか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れて、イエス様と話し合う。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。イエスは私が選んだ、私の愛する子である、彼の言うことを聞け、そう神は言います。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられました。周りの様子は、頂上に着いた時と同じに戻りました。
この個所を読まれて、皆さんはどう思われたでしょうか?そんなに難しいことは書いていない、書かれてあることは具体的ですぐ理解できると思われたのではないでしょうか?聖書にはこういう出来事が書かれているんだなとわかって、また一つ知識が増えました。でも、それで書かれていることが分かったことになるでしょうか?もちろん、いつ、どこで、だれが、なにを、どのようにという質問に答えられる位はわかります。しかし、この話は一体なんなのかということはまだわからないのではないでしょうか?モーセとエリアが出てきたのは何なのか?ペトロが言った仮小屋とは何のことか?なぜ三人に仮小屋が必要と考えたのか?さらに、雲が出てきたことや、神がイエスの言うことを聞けと言ったことは何なのか?こうしたことがわからないと、ただ書かれた字面を追うだけで終わってしまいます。
そういうわけで、これからこの謎めいた出来事を本日の聖句の解き明かしを通してわかるようにしていきたいと思います。
最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみましょう。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?モーセとエリアの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかということについて聖書が教えていることをおさらいします。聖書の観点では、人間はこの世を去ると、神の国に迎え入れられるかどうかの決定を受けます。ただし、その決定がなされるのは、イエス様が再臨してこの世が終わりを告げる時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地が新しい天と地にとって替わられるということです。神の国に迎え入れられるかどうかの決定は既に死んでいる者たちにも及ぶので、その時には死者の復活ということが起きます。そのようにして、迎え入れられるかどうかの決定がなされるのです。そうなると、先にこの世を去った人というのは、ルターが教えるように、復活の日が来るまで神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っています(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。
そうかと思えば聖書には、将来の復活の日を待たずして既に神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターも、そのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセは、その例と考えることができます。というのは、エリアは、列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。本日の旧約の日課である申命記34章1ー12節に死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(6節)。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。これはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しなければなりません。
次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を立てましょう、と言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。
あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬことになると言われます(18ー23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだっと言えます。
そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。
「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。
そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったというのが正確な意味です(後注)。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいい、と言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められました。なぜでしょうか?
それは、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。
人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すことになって神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神から切り離された状態で生きることとなり、この世を去った後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間が罪を除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす十戒の掟があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たすものというより、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。
そこで神は、それができない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?
神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が背負うべき罪の罰を全部彼に背負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この犠牲のおかげで、人間が神罰や罪の束縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありませんでした。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が準備した「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。
このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、しっかり携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになれる。全身が輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、「救い」を受け取った段階で心の中が輝き出す、ということを使徒パウロは本日の使徒書の日課の中で言っています(第二コリント4章6節)。それで、この世を去る時が来ても、神に自分を委ねても大丈夫だ、神の方でもしっかり自分を受け取ってくれるのだ、とわかって委ねることができます。そのような確信に満ちた安心を私たちに与えて下さるためにイエス様は受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかかられたのです。
ペトロが建てると言った「仮小屋」と雲の中から轟いた神の声についてもみてみましょう。「仮小屋」とは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言い、それは旧約聖書に出てくる神に礼拝を捧げる「幕屋」と同じ言葉です。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことでした。しかしながら、ペトロの提案には問題がありました。というのは、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。確かにモーセは、十戒をはじめ神の掟を神から人間に受け渡した預言者の筆頭格です。エリアも、迫害に屈せず生きざまを通して神の意志を公に表し続けた偉大な預言者です。しかし、イエス様は神の子そのものであり、神の意思である十戒そのものが完全に実現した状態の方です。また、預言者たちの預言したことが成就した方です。それなので人間と同等に扱ってはいけません。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天地創造の神の一声で一蹴されてしまいました。「これは私が選んだ、私の子である。彼の言うことを聞け」と。
ペトロはどうしてイエス様をモーセとエリアと同格に扱ってしまったのでしょうか?一つ考えられるのは、三人がみな栄光に包まれていたことがあります。31節で、モーセとエリアが「栄光に包まれて現れ」と言われ、32節に「栄光に輝くイエス」と言われています。しかし、これもギリシャ語原文をよく注意してみると、モーセとエリアの場合は、栄光は自分たちから輝き出ているのではなく神からの栄光で輝かせてもらっていると理解できる表現です。イエス様の場合は、輝きが「彼自身の栄光」によるものとはっきり言う表現です。つまり神と同じように自ら輝く栄光を持っているということです(後注)。
弟子たちは、イエス様の変容の出来事を誰にも話しませんでした。マタイとマルコの記述によれば、イエス様が十字架と復活の出来事が起きるまで話してはならないと命じたと言われています。私が思うに、イエス様がかん口令を敷こうが敷くまいが、この出来事について弟子たちの驚きと混乱はかなりのものだったので整理がつくまでは話すことが難しかったのではないかと思われます。どうしてかと言うと、この出来事のおかげで、イエス様が何者であるか全くわからなくなってしまったからです。イエス様に付き従った人々は、直近の弟子たちも含めて、イエス様のことをユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放して、全世界が天地創造の神に立ち返ってエルサレムの神殿にお参りに来るようにしてくれる、そういう民族解放の英雄と考えていました。どうしてそのように考えたかと言うと、旧約聖書の預言を自民族の夢や願望を通して解釈したからです。
ところが、ヘルモン山に登る前にイエス様は弟子たちに突然、自分の受難と復活について預言し、弟子たちはなんのことか理解できず混乱します(マタイ16章21ー23節)。山の上でもモーセとエリアはそのことについて話をしました(ルカ9章31節)。さらに、イエス様のことをモーセとエリアと同格な方と思った瞬間、それは違うと一蹴されてしまいました。これは一体何なのだ?一体これから何が起きるのか?イエス様が殺されてしまったら、民族解放と諸国民のへりくだりという世紀のプロジェクトはどうなってしまうのか?死から復活するなどと言われるが、それがプロジェクトと何の関係があるのか?ところが、天の父なるみ神が計画していた「解放」とは実は、人間の罪と死からの解放であり、それをひとり子を用いて実現したのでした。このことがわかるのは十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。
さて、当時出来事の只中にあった弟子たちとは異なり、私たちはこれらのことを事後的に知っています。兄弟姉妹の皆さん、これから四旬節を迎える私たちは、イエス様の受難と復活をもう分り切ったことと教会の年中行事のように受け止めるのはやめましょう。今一度それを身近なものにしましょう。それを身近にすることで自分の命の立ち位置を確認できます。つまり、今の自分の命は、神のひとり子の犠牲の上に成り立っているとわかって、それは尊いもの、大事にしなければならないものとわかります。愚かなこと軽はずみなことは出来なくなります。では、どのようにしてイエス様の受難と復活を身近なものにするか?断食をするか?ここで注意しなければならないことは、私たちには神から与えられた立場やそれに伴う課題があるということです。それらをないがしろにするような「身近さ」の追い求めはいけません。断食をしても、日常の立場と課題をないがしろにしなければ良いのですが、それは実際には難しいのではないでしょうか?日常の立場や課題に取り組む時、今ある命は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていることを普段以上に覚えて取り組めば、どこを目指して行けばよいかわかってきます。その時、立場や課題は神から与えられたものということもはっきりします。このような循環に入れる者はイエス様の受難と復活が身近になったと言うことが出来ます。
兄弟姉妹の皆さん、今の命がイエス様の犠牲の上に成り立っていることをよく覚えて今年の四旬節を迎えましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
ルカ9章34節は、εντωεισελθειναυτουςειςτηννεφελενと言っているので、明らかに「雲が彼らを包む」ではなく、「彼らが雲の中に入る」です。
モーセとエリアの栄光については、οφθεντες εν δοξηと言い(31節)、イエス様の栄光については、την δοξαν αυτουと言っています(32節)。εν δοξηですが、イエス様に用いられるとεν τη δοξη αυτουなどとαυτουが付きます(マタイ25章31節)。
説教準備の終わりの段階になって、33節のδιαχωριζεσθαιがなぜ現在形でアオリストでないのかが気になりだしたのですが、時間切れでした。また次回に考えることにします。
主日礼拝説教 2019年2月24日顕現節第八主日
皆さんは、本日の福音書の個所を読まれて、どう思われたでしょうか?百人隊長の部下が重い病気で死にかかっていたのをイエス様が癒す奇跡を行ったことです。百人隊長というのは、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国の軍隊の部隊の隊長です。名の通り百人の兵隊で構成される隊です。出来事の舞台はガリラヤ湖畔の町カファルナウムなので、そこに駐屯していた隊でしょう。日本語訳では「部下」ですが、兵隊ではなく、隊長の僕、召使いです。占領軍の将校である隊長はユダヤ人ではありません。しかし、興味深いことに、彼はユダヤ人に好意的です。礼拝堂を建ててあげるくらいユダヤ人を愛していたというのは、もう旧約聖書の神を信じていると言ってもいいかもしれません。使徒言行録に「神を畏れる人」とか「神をあがめる人」という、割礼を受けて改宗はしていないが天地創造の神を信じる人たちが多く登場します。百人隊長もその一人だったのでしょう。ユダヤ人と近い関係にあるので、ユダヤ人の長老たちをイエス様のもとに送りました。長老たちはイエス様に、百人隊長は助けてあげるのに相応しい人物だと推薦しました。
さらに興味深いことは、百人隊長がイエス様のことをとても畏れ多く感じていて、イエス様が家の近くまで来た時、友人たちを使いに出して自分に代わってイエス様に代弁させます。私の家はあなたをお迎えできるようなところではありません、だからと言って、私から外に出てあなたの面前に立つ資格もありません。どうしてそんなに畏れ多いのでしょうか?旧約聖書ではユダヤ民族が神に選ばれた民、その他の諸国民は「異邦人」という区別がみられます。占領されたとは言え、自分たちは神聖な民という自負があり、他の民族は汚れていると考えます。それで、旧約聖書の神を畏れるようになれば、ユダヤ民族に一目置くようになるだろうし、ましては、今や奇跡の業と権威ある教えで天下に名をとどろかせているイエス様には簡単には近づけないでしょう。
それでは、肝心の部下の癒しはどうなるでしょうか?百人隊長は使いの者たちに言わせます。あなたが今いる場所からひと言おっしゃって下さい。日本語訳では、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」つまり、あなたが今いる場所からひと言おっしゃてください、その場から奇跡の業を起こして下さい、ということになります。
やりとりの続きを見てみます。百人隊長の言葉は次のものでした。自分は上官の権威の下に置かれている者だが、同時に、自分の権威の下にも兵隊や部下がいる。彼らに「行け」と命じれば、言葉通りに行くし、「来い」と命じれば、その通りに来る、「これをしろ」と命じれば、その通りにする。これを聞いたイエス様は驚き感心して、これほどの信仰はイスラエルの中でさえ見たことがないと言われます。そして、使いの者たちが隊長の家に戻ると部下はすっかり元気になっていました。イエス様が特に癒しの言葉を発することなく、奇跡が起こったのです。
皆さんは、このイエス様の感心の言葉を聞いて、どう思われるでしょうか?命令したら有無を言わずに従う、そのように振る舞うことを信仰の見本と言っているのでしょうか?そうだとすると、なんだか教祖や教団指導者の言うことを何の疑いも躊躇もなく実行できることが大事で、出来たらご褒美として癒しや願いも叶えられると言っているみたいではないか?なんだかカルト集団のマインド・コントロールみたいではないか?そう気味悪がる人も出てくるのではないでしょうか?ところが、ここは目をよく見開いて読めば、信仰や宗教の名のもとに人間をロボット化することが言われているのでは全くないことがわかります。それでは、イエス様を感心させた百人隊長のこの言葉は一体何なのか?それを初めに見ていきたいと思います。
ルカ7章7節にある百人隊長の言葉は日本語訳では、「ひと言おっしゃてください。そして、わたしの僕をいやしてください」となっていました。前半の「ひと言おっしゃって下さい」はイエス様に対する命令文でギリシャ語原文もその通りですが、後半部分の「私の僕を癒して下さい」は注意が必要です。ギリシャ語原文では「僕を癒して下さい」などとイエス様に対する命令文ではありません。正確には、「私の僕が癒されんことを」とか「私の僕が癒されますように」という意味です(後注)。少し脇道に逸れますが、スウェーデン語訳の聖書はこれに沿った訳でした。英語とドイツ語とフィンランド語訳の聖書は、「ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、私の僕は癒されるでしょう」でした。これはギリシャ語の文の訳としては正確ではないのですが、イエス様と百人隊長のやり取りにヘブライ語やアラム語の背景があることを考えると、この訳も可能性があります(後注)。ただし、ギリシャ語の文章をアラム語に逆翻訳するのはリスクを伴う解釈方法なので、ここはギリシャ語原文を素直に見ていきます。従って、「ひと言おっしゃってください。それで僕が癒されますように」です。
そうなると日本語訳のような、今いる場所から癒しの奇跡を行って下さい、その場所からなんとかして下さい、というイエス様に対するお願いはなくなります。イエス様に対するお願いは、「ひと言言葉をかけて下さい」に絞られます。言葉をかけた結果、癒しが起きますように、と天のみ神に委ねるのが後半部分の意味です。(マタイ8章8節にも百人隊長の言葉がありますが、ルカと少し違っています。しかし、本説教では違いがどうのこうのという話題に入らず、ルカに専念します。)
その次に百人隊長の命令と服従の話が来ます。これはマインドコントロールの模範例を述べているのではありません。命令に対して服従するのは、服従する者が命令する者の権威の下にあるからだという当たり前のことを言っています。それを言ったのは、イエス様が言葉を発すれば病気が治る、つまり、病気はイエス様の権威の下にあるということを明らかにするためです。このことは、イエス様が他の所でも行った奇跡も当てはまります。病気に治れと言えば治り、悪霊に出て行けと言えば出ていき、嵐に静まれと言えば静まる、こうしたことが起こるのは、あらゆることがイエス様の権威の下にあるということを百人隊長は証言しているのです。自分も軍隊組織の指揮系統の中で上位の権威の下にあるし、同じように自分の部下も自分の権威の下にある。だから、病気も悪も自然現象も含めて全てのものがイエス様の権威の下にあるというのはどういうことか、経験から身に染みてわかる。それで、イエス様が病気に対して何か言えば、その通りになる。イエス様の権威はそういうものだと信じていると述べたのです。
これは、まさに信仰告白です。百人隊長が告白した信仰は、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同一扱いする信仰と言ってよいでしょう。これに対して当時の人たちは、確かにイエス様が癒しの奇跡を行える方だと知っていて癒しを受けるために群がりましたが、彼らの理解はせいぜい、イエスは神から不思議な力を授けられた預言者というものでした。百人隊長は、軍隊での権威関係を比較対象にして、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同等に見なす信仰を言い表したのです。神から力を頂いて何かをするというのではなく、神そのものと見なしたのです。そこが他の人たちとの違いでした。イエス様が、イスラエルの民の間でもこんな信仰は見たことがないと言った意味はこれです。
以上のような次第で、百人隊長の命令と服従の話は、ロボット人間になることが優れた信仰の持ち主になることだとか、その褒美に癒しや奇跡をしてもらえるのだというようなことを述べているのではないことが明らかになったと思います。イエス様が全ての上に立つ権威を持つ方であることを信じて告白したのです。
ここで一つ疑問が起きます。百人隊長の場合は、信仰を告白して癒しの奇跡が起きました。イエス様を救い主と信じる私たちの場合はどうでしょうか?キリスト教の伝統的な信仰告白に従って、イエス様を神の子、メシア救世主であると信じて告白して重い病気が治るでしょうか?もちろん、治る場合もあるでしょう。治ったのが明らかに良い医療と治療が与えられた結果でも、キリスト信仰者は天地創造の神の導きがあったと考えます。信仰者でない人は、良い医療と治療が得られたことを神の導きなど出さないで、運が良かったとか医学の進歩のおかげとか言うでしょう。違う宗教の人ならば、その宗教の神とか教祖のおかげと言うかもしれないし、先祖の霊のおかげと言うかもしれません。キリスト信仰の場合、医学の進歩のおかげを認めても、神の導きのおかげで医学の進歩に与れたと考えます。さらに、良い医療と治療がなかったにもかかわらず、奇跡としかいいようがない仕方で治った例もあります。それらの中には、ひょっとしたら後になって医学的にメカニズムが解明できるものがあるかもしれません。その場合でも、神の導きのおかげと考えます。
そこで難しい問題になるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて祈っているにもかかわらず、願った結果が得られない場合です。そういう時、治った人には神の導きがあったのに、自分にはない、神は自分に背を向けているのか、という気持ちになります。さらには、じゃ、こっちを向いてくれるために何かしなければいけないのかという思いにとらわれることもあります。実はこの問題は本日の使徒書である「ガラテアの信徒の手紙」で扱われる問題に少し関係してきます。パウロが宣べ伝える福音と異なる「ほかの福音」というのは、神の目に義と見てもらえるためにはイエス様を救い主と信じる信仰だけでは不十分だ、律法の規定を守らなければそう見てもらえない、と教えるものでした。パウロはこの手紙の中で、神の目に義とされるのはやはり信仰によるのであると論証していきます。
パウロの教えに基づいて言うならば、キリスト信仰の真髄は次のようなものになります。イエス様の十字架の死によって人間の全ての罪の償いが神に対してなされたということ。それで人間はイエス様を救い主と信じる信仰によってこの罪の償いが生きたものとなり、罪が赦された者となって神の目に義とされるということ。こうして、神との結びつきを壊していた罪の問題が解決し、人間はその結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、神への感謝から愛する心を持って生きられるようになるということ。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻ることができるようになるということ。これらに尽きます。罪の赦しの救いを受け取るためには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して受け取りは完了。あとは、聖餐のパンと葡萄酒で受け取りを固めて信仰告白と祈りに生きていけばよいのです。救いは、このように受け取りに徹することで持てるものなので、何かをして褒美にもらえるというものではありません。
ところが、病気が治りますようにと、決して自分勝手なお祈りをしているわけではないのに願い通りにならないと、なぜ?という疑問が出てきます。イエス様を救い主と信じる信仰にいる限り、次の世まで神に守られて進んでいけるとわかっていても、なぜこんなに痛い思いをして苦しまなければいけないのか、なぜそれは延々と続くのだろう?そうことになると、「罪の赦しの救い」という救いは、現実の問題とどんな関連性があるのかと疑わざるを得なくなってきます。
私のある知り合いのキリスト信仰者が人生の大半をそのような苦しみの中で送られているのですが、ある時知り合いのクリスチャンに「あなたの苦しみは神の国に入れるために必要なことだ」と言われて疑問を抱いたとおっしゃっていました。確かにイエス様は各自は自分の十字架を背負いなさいと言ったので、その痛み苦しみがその方の十字架だと意味して言ったのでしょう。しかし、ここは注意が必要なところです。痛み苦しみは神の国に入れるための条件であるとか、そのためにしなければならない修行という意味だったら、それは違うでしょう。神の国に迎え入れられるためには、イエス様を救い主と信じる信仰以外に何の修行も業績もいらないというのがキリスト信仰だからです。そうすると、医療や治療や周りの人に支えられて出来る限り苦痛を取り除いて健康に近づけるように努めることは修行や十字架の否定にはなりません。まさに神の導きの中で行われるものです。苦しみそのものが背負うべき十字架ではなくて、苦しみを取り除くため健康に近づけるようになるための戦いが背負うべき十字架というのが正確でしょう。どんなに小さな助けや改善も神の導きの現れです。さらに、その人のために執り成しの祈りがなされれば、神に対してへりくだる心がこの世に一つ生まれることになります。この世で利己的な心と無関心が一つ減ることになります。これも神の導きです。
全てのことが神の導きの中で行われるということになるためには、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって神との結びつきを保たなければなりません。それを保つことが出来るためには、自分はこの世を突き抜けて次の世まで至る神の導きの中にいるのだ、痛みや苦痛があっても神の導きや結びつきは微動だにせず、痛みや苦しみがあっても自分はそういうものに繋がっているのだ、と覚えることができないといけません。
そういうことを覚えられるためには、神の導きや結びつきは痛みや苦しみがあってもなくてもいつも身近にあるということを知らないといけません。痛みや苦しみが現実のものならば、神の導きと結びつきも同じくらい現実のもの、否、そっちの方が本当の現実と言えるくらいのものである、ということを知ることができないといけません。そういうことがわかるようになるのが信仰生活が目指すことではないかと思います。目には確かなものに見えるこの世の現実と確かなものに見えないが本当はもっと確かなものである神からの現実。この二つの現実の中で生きるのが、イエス様を救い主と信じて神の子とされた者たちの生きることではないかと思います。
そういうわけで私は、説教者の使命とは、神の導きと結びつきは本当の現実なんだということを聖書の御言葉の解き明かしを通して知らせることであると考えます。
神の導きと結びつきは本当の現実であると知らせるのが説教者の使命と申したのですが、本説教では肝心なこの知らせることをまだしていません。最初に百人隊長の信仰告白について述べて、次にこの使命を提起しただけです。それでこの知らせることをしなければいけません。本日の旧約の日課である列王記上8章の解き明かしを通してそれが出来るでしょうか?ちょっとやってみましょう。
列王記上8章はユダヤ民族の三代目の王ソロモンがエルサレムに神殿を建設して、そこで集まった国民の前で神に祈りを捧げる場面です。イエス様の時代からさらに1,000年程遡った昔のことです。22節から53節までが祈りの言葉です。いろいろな祈りがありますが、大まかに言うと、イスラエルの民が何か罪を犯して困難に陥ったら神殿で赦しを乞う祈りをしますので聞いてください、というものです。本日の日課の41ー43節は祈りの内容が他の祈りと違っていて、イスラエルの民でない別民族の者が神殿に来て祈ったら、それも聞き遂げて願いを叶えて下さいという祈りです。
このソロモンの長い祈りの中で興味深いことは、神に祈りを聞き遂げて下さいとお願いする時に、「あなたのお住まいである天にいまして耳を傾けて下さい」と繰り返し言っていることです。中には「あなたのお住まい」が省略されて「天にいまして」だけのものもありますが、全部で8回繰り返されます。本日の日課の中にもあります(43節)。8回のうち、30節にある最初のものが完全な文で、あとは「あなたのお住まい」がなかったり、前置詞が省略されていて完全な文ではありません(ヘブライ語の原文で見ています)。30節にある完全な文を見て、正確な意味をわかるようにしましょう。日本語訳の「あなたのお住まいである天にいまして」は正確な訳ではないと思います。というのは、祈りの初めのほうでソロモンは「天も天の天も神を納めることができない」と述べているからです(27節)。天に納まりきれない方がどうやって天を住まいに出来るのでしょうか?正確な意味は、「天の上にいまして、王座に座っていらして耳を傾けて下さい」です。「天の上」とは文字通り、天の上側です。天を下に見下ろすところです。つまり、神は天を超えたところにおられるのです(後注)。
天を超えたところとは、どこにあるのでしょうか?雲一つない青空を見て、神はあの青い広がりの向こうにおられると考えたとします。しかし、私たちは青い広がりの向こうには宇宙があると知っています。夜になって青い広がりが無数の星が散りばめられた透き通るような黒板に入れ替わります。あの中のどこに神はおられるのかと考えても意味がないでしょう。というのは、神のおられる天を超えたところとは、私たちの目で確認したり、数値・数式をもって計測・測定したりする宇宙空間とは全く別の世界だからです。ハヤブサ2号が3,4億キロ飛んで小惑星リュウグウに到達し、NASAのロケットは太陽系外の惑星を探し求めて飛び続けています。そのように目で確認でき計測や測定できる対象は常に拡大していきます。しかし、神のおられるところには実にあの透き通った黒板世界の上側と言っていいのか、外側と言っていいのか、反対側と言っていいのか、裏側と言っていいのかわかりませんが、超えているのです。
そんなところにおられる神のためになぜソロモンは神殿を建てたのでしょうか?ソロモン自身、神は地上には住めない、神殿など住む場所に値しない、と言ったではありませんか(8章27節)。それは、神に祈りを捧げるための場所であり、祈りを捧げる者が神の目に相応しくなるために罪の償いの儀式をする場所でした。それで神殿には神の像などないのです。像など作って置いたら、拝んでいるうちにその像が祈りを捧げる相手になってしまうでしょう。ところで、神殿の中には、「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、そこは大祭司が年に一度、自分の罪と民全体の罪を償うために動物の生贄の血を携えて入ることが出来ました。「至聖所」はそれくらい神の神聖さに満ちて畏れ多すぎた場所でした。そこは、天を超えた世界と天の中にあるこの世界が遭遇する場所だったと言ってもいいでしょう。
しかしながら、神がこの世に贈られたひとり子イエス様の十字架上の犠牲の業がなされたために、神殿を通しての罪の償いは不用になりました。人間すべての罪の償いを、毎年捧げる動物の生贄の血なんかではなく、神聖な神のひとり子の流した血によって未来永劫に果たしてしまったのです。イエス様自身、御自分の十字架と復活の業の後に神殿ががれきの山になると預言していました。果たしてそれは西暦70年ローマ帝国の大軍がエルサレムを破壊した時にその通りになりました。それならば神はなぜ、不用になる神殿などを長い歴史の間認めていたのでしょうか?それは、「ヘブライ人への手紙」にも記されているように、将来イエス様を通して人間の罪からの贖いが完全に実現することを前もって模倣するものでした。現物に比べたらあまりにも小さな模倣でした。ユダヤ民族がそのようにすることで人間は大切なことを教わりました。それは、天地創造の神と結びつきを持てて見守ってもらうためには、自分の罪を覚えなければならないということと、それを何らかの形で償わなければならないことを教わったのです。人間と天地創造の神との関係はこういうものだということを。しかし、イエス様が完成品を出して下さったので、人間は神との結びつきと見守りを得るために小さな模倣品に頼る必要はなくなりました。
さらにイエス様は死から復活させられました。それで、死を超えた永遠の命に至る道が人間の目の前に切り開かれました。それは天地創造の神の御許に至る道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると早速この道に置かれて、神との結びつきと見守りのうちにこの道を進んでいきます。あの青い空を超えたところ、またはあの透き通る黒板を超えたところにおられる方が、本当なら神聖な御前に立つことなど許されなかった私たちなのに、まさにひとり子の十字架と復活の業おかげで、御前に立つに相応しいものにして下さった。そうなると私たちはもう既に、神のもとに迎え入れられたも同然です。このように私たちは言わば、御許への迎え入れを先取りしたような状態でこの世の道を進んでいます。それなので、神が私たちのことを見守って下さり、祈りを聞いて下さっているというのは本当としか言いようがなく、私たちにとって現実なのです。
後注)(ギリシャ語とヘブライ語とアラム語がわかる方にです) ルカ7章7節「私の僕が癒されんことを」とは、三人称単数の命令形のことです。ヘブライ語とアラム語の背景というのは、ヘブライ語のjussiv+imperfectの連結があると考えると、命令+目的・結果の意味になるということです。アラム語に同じものがあるのか確認したかったですが、手持ちの教科書はF. Rosenthalの薄いもので役に立たず、大学時代に使ったS. Stanislavの参考書は手元になく確認できません。列王記上8章30節は、H.S. Nybergの参考書(北欧で権威あるヘブライ語参考書)によれば、前置詞אלはעלと同じ意味で使われることがあるとのことでした。
エレミア7章1-7節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章37-49節
皆さんは、本日の福音書の個所を読んでどう思われたでしょうか?イエス様の教えはそんなに難しくない、歴史的背景の知識がなくても常識の範囲で理解できる、そう思われたのではないでしょうか?ちょっと見てみましょう。
「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」
これらを聞いて、ああ、自分が何か悪いことをされても赦してあげれば、周りもそういう雰囲気になって自分が何か至らないことをしても赦してあげようという態度にみんななっていくんだな、そういう赦してあげようという雰囲気を生み出すためには自分から率先して行うべきなんだな、そう思われるのではないでしょうか?「与えなさい」というのも同じで、周りがケチケチせずに与える態度を持つようになるためにはまず自分から始めないといけないんだな、そんなふうに理解されるのではないでしょうか?
「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」というのは、小麦粉を升にぎゅうぎゅうに押し込んで、さらにとんとんと叩いて隙間をなくしてたっぷりな量を与えるということです。私などこの個所を読むと、夏のフィンランドのマーケット広場での買い物を思い出します。イチゴやいろんなベリーをリットルかキログラム単位で買うのですが、リットルで買う時(もちろん、ぎゅうぎゅうに押し込むことはしません、潰れてしまいますので)、目の前で店員が升に山のように入れてくれて、上からボロボロ落ちてしまうと、またすくっては山にして落ちないうちにサッと袋に入れてくれます。ケチケチした感じがなくて、それこそ「持ってけ、どろぼー」みたいな気前良さで入れてくれます。日本ではイチゴはケースの中にお行儀よく並べられて一粒一粒ピカピカに輝いて貴重品のようで、フィンランドのように乱雑に扱えません。
さて、こちらが気前よく沢山与えたら、周りもそれに倣って同じようにしてくれるでしょうか?中にはケチな人もいて、こっちは気前良くしたのにそうしてくれず、こっちは損をするということはないでしょうか?同じように、裁かない、赦すということも、こちらが率先しても、みんながみんなそれに倣ってくれるかどうか。ひょっとしたら、心が狭くて同じようにしない人がいて、こちらが馬鹿をみるということが起きないでしょうか?
イエス様の教えを先に進んでみていきます。盲人が盲人の道案内をすることはできない、二人とも穴に落ちてしまう、これは当たり前すぎることではないでしょうか?弟子は師を超えるものではないが、師のように完全なものになれる、というのは、文章としては理解できますが、何か意味をのあることを言っているのでしょうか?新共同訳では「修行を積めば」と訳されていますが、ギリシャ語原文では単に「師のように完全になれる」とだけ言われているにすぎません。そのために何かプロセスを経ることが前提されていますが、それが「修行を積む」ことなのかどうかは決め手は何もありません。
続いて、兄弟の目の小さなゴミを気にするのなら、自分の目の丸太に気づけ、と教えます。もちろん、丸太が目に入るわけはありませんが、これを聞く人は皆、自分のことを棚に上げて他人の至らなさをとやかく言うのは丸太が目に入っているのに気がつかないくらい鈍感ということを思い知らされるでしょう。日本の道徳の教科書に取り入れていい教えかもしれません。
これに続いて、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶといういう教えが来ます。これは次に言われる人間の状態のたとえです。良い人間は心の良い倉から良いものを出し、悪い人間は心の悪い倉から悪いものを出す。「心の倉から出すもの」とは何か?その次に「人の口は心からあふれ出ることを語る」と言っているので、口から良い言葉や悪い言葉が出るのはそれぞれ心の状態を反映しているのだということになります。なんだか当たり前すぎて目新しい感じがしません。ノンクリスチャンが読んだら、なんだイエスなんて大したこと言わないな、世界にはもっと深いことを言う賢者が沢山いるのに、と思うかもしれません。
先に進みます。最後に来る教えが、二つの異なる家を建てる者のたとえです。イエス様の言葉を聞いてそれを行う者は嵐が来ても大丈夫な家を建てる人、言葉を聞いても行わない者は嵐が来て倒壊してしまう家を建てる人と言います。これはどういうことでしょうか?先ほどもみましたように、イエス様は、裁くな、赦せ、豊かに気前よく与えよ、他人の落ち度を取りざたする前に自分の落ち度を正しなさい、と教えました。もちろん、こちらが率先してこうしたことをしてみんなが見習ってくれたら言うことありません。しかし、こちらから謙虚に気前よくしても相手が同じようにしなかったらどうするのか?周りは赦すという態度を持っていないのに、こちらは赦す態度でいなければいけないというのは、どんなものか?そんなお人好しではつけあがられたり、弱みにつけこまれるだけではないだろうか?イエス様は何か倫理的な英雄になれ、とおっしゃっているのだろうか?そのように出来る者は嵐が来ても倒壊しない家を建てる者と同じと言われるが、周囲の無理解や悪意に晒されても気前良さとお人好し路線を続けられる強さを持てということなのか?そのような家はしっかりした土台の上に建てられていると言われるが、土台とはその人の強さのことなのか?一体だれがそんな強さを持てるのだろうか?イエス様は普通の人には無理なことをしろと教えているのでしょうか?
ここでイエス様の教えを詳しく見てみます。
新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「誰々によって」という言葉がない時は、大抵の場合それは「神」を意味しています。つまり、人を裁くな。そうすればあなたがたも神に裁かれることがない。人を罪人だと決めつけるな。そうすれば、あなたがたも神に罪人だと決めつけられることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも神から赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも神から与えられる。あなたがたは自分の量る秤で神から量り返される。こういうことです。周りの人たちが同じようにしてくれるということではありません。
すると一つ疑問が起きてきます。神が私たちを裁かない、罪人に定めない、赦して下さる、与えて下さる、というのは、まず私たちが他人に対してそうできないといけません。でも、これはおかしくありませんか?キリスト信仰では、イエス様を救い主を信じる信仰によって神から罪の赦しを受けられると言っているではありませんか?特にルター派の場合、人間が神から罪の赦しを受けて神から裁かれないという意味での「救い」は何によると言ってましたか?人間の救いは人間の業績や達成に対する神のご褒美ではないと言っていたではありませんか?イエス様が十字架の上で人間の身代わりになって神罰を受けて死なれて、神に対して罪の償いを人間に代わってして下さった。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲のおかげの罪の赦しがその人にその通りになる、そういうことではなかったか?それなのに神から裁かれないためにしなければならないことがあるというのはどういうことか?このことについてルター派の張本人であるルターはどう教えているかを見てみましょう。彼の教えは「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」という聖句の解き明かしです(本説教の趣旨に沿うように解説的に訳すので付け加え等あります。)
「これは奇妙な教えだ。まるで神は、自分に仕えることよりも隣人に仕えることの方が肝要なことだと言っているように聞こえるからだ。お前の私に対する罪、私への反抗心、私の意志に反すること、それらはわが子イエスの犠牲に免じて赦してやる、もうお前を責め立てない、そう言って下さった。なのに、我々が隣人に対して悪く立ち振る舞うならば、神はもう、イエス様のおかげで我々が持てた神との和解を忘れて、罪の赦しを撤回すると言われるのだ。
ここで言う『自分の量る秤』とは何か?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになって持つことになった秤である。君はイエス様を救い主と信じるようになった時、どんなだったか思い出すがよい。神は、君の業績や達成をご覧になって君の罪を赦して君を受け入れたのではなかった。イエス様の犠牲のゆえに君に罪の赦しをお恵みとして与えて君を受け入れたのだ。神は君が罪を持ったまま御前にヘリ下って来るのを追い返したりせず、来るのをお許しになって罪の赦しをお恵みとして与えて下さったのだ。今神は君に次のように言われる。『お前も他の人々に同じようにせよ。そうしなければ、お前が他の人々にするのと同じことがお前にも起こることになる。もし他の人々に善意を示さなければ、私もお前に示さない。もし他の人々を見捨てたり裁いたりしたら、私もお前を見捨てて裁く。もし他の人々から取るばかりで与えなければ、私もお前から取り何も与えない。』
イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになると、我々の心に神の赦しの思いが芽生える。それは、我々自身が罪の赦しをお恵みとして頂いたからである。それだけではない。我々は信仰にあっても内に宿る罪が時として我々を驚かせ悲しませることがある。罪の赦しを頂くと今度は自分の罪に気づくようになる。罪の自覚が生まれるのである。しかし神は、自覚を持つ度に十字架のもとに立ち返る我々をあの時と変わらぬ恵み深さで迎えて受け入れて下さる。つまり我々はあの時と同じ罪の赦しを毎日携えて歩んでいるのだ。だから、神は我々がどう隣人に振る舞っているかをご覧になって、我々が罪の赦しをちゃんと携えているかどうか知ろうとされるのだ。神の赦しの思いを持てない者は、それをどこかに置き忘れてしまって、イエス様を救い主と信じる信仰がなくなってしまったことを暴露するのだ。」
ここからも明らかなように、キリスト信仰者が他人を赦すというのは、神から罪の赦しを頂いたことが出発点にあります。お前には神罰を下さないと神に言ってもらえる。この世の人生をまさに天地創造の神の見守りと導きのもとで生きられるようになり、この世の人生を終えた後はまさに自分の造り主である神の御許に迎え入れられる。このようなことが罪の赦しに付随してきた。こんな大きなことをして頂いたら、もう他人が自分に何か至らないことをしたとか言ったとかは大したことでなくなります。恨みや憎しみが自分から分離して色あせていきます。神がひとり子イエス様を用いてこんな大きなことをしてくれたというのは、私のことをそれくらい大事に見てくれたということです。それがわかると、神やイエス様がしなさいと言われることは、周りが見習ってくれるかどうかに関係なく行って当然のことになります。
事が日常生活の中のことであれば、赦すとか裁かないとか与えるというのは大変なことではないかもしれません。しかし、もし犯罪の被害者になってしまうとか日常の枠を超えるようなことが起きたらどうなるでしょうか?社会には法律があって刑罰や損害賠償について定められています。イエス様が赦せ与えよと言うから、下された判決に対して無罪にしていいとか、不当に取られたものはくれてやる、と言うべきでしょうか?もちろん、そうはならないでしょう。というのは、神の意志を表す十戒というものがあるからです。盗むな、殺すな、姦淫するな、偽証するな等々あります。裁くな、赦せ、与えよ、というのは、神の意志に反することが大手を振ってまかり通るようにしていいということではありません。じゃ、法律が関わるところでは、それらは無効なのか?難しいところですが、次のように考えたらどうでしょう。
それは、裁くな、赦せ、与えよ、というイエス様の教えがあるところとないところでは法律の見方が異なってくるのではないかということです。それがないところでは、目には目を歯には歯をという考えが支配的になるのではないでしょうか?あるいは気が納まらなくて目には目以上のものを求めるかもしれません。裁くな、赦せ、与えよがあると、社会において神の意志が破られないようにするのにはどんな規定や判決が妥当なのか、まさにそれらとつき合わせながら考えなければならなくなります。具体的にはどんなことがあるかここでは申し上げる余裕はありませんが、少なくとも目には目をということではなくなるのではないでしょうか?こうして見ると、法律や社会規範の形成に信仰も無視できない要因になってくると言うことができると思います。
キリスト信仰者というのは、現実にはいろいろな困難はあるが、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを心掛けます。そうするのは、自分の造り主である神が本当にひとり子の犠牲も厭わないくらいに私を罪の支配下から救い上げて下さった、このことが大きなこととしてあるからです。先ほども申しましたように、罪の赦しを頂いてそれを携えていること、これが他の人々に対してもイエス様が教えたようにしようという心にします。イエス様を救い主と信じて生きる者が携えるのはこの「罪の赦し」の他に「復活の希望」もあります。復活の希望も、携えると「裁くな、赦せ、与えよ」を行う心に私たちをしていきます。このことを見ていきましょう。
復活の希望については、本日の使徒書の日課である第一コリント15章12-20節の中でも言われています。本説教ではそれに基づいてお話しします。
この個所で使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返します。そこで注意を引くのは、ギリシャ語の原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)が用いられていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌だなと思われるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形の意味と英語のそれは違いがあるので、英語のことはすっかり忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の「復活」を繰り返して言う時、なぜギリシャ語特有の過去形(ηγερθη、アオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのか?今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書に指摘されて気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですむのかもしれません。後注)
ギリシャ語の現在完了形の基本的な意味は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているということです。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も表面に出ているような感じです。それで考えると、パウロがイエス様の復活をそのように言ったのは、イエス様が復活されて今も生きておられるということを意味しているというのが一つ可能性として考えられます。使徒言行録に記されているように、イエス様は復活した後、40日間弟子たちと共にあり聖霊降臨の10日前に弟子たちの目の前で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白に言われるように、父なるみ神の右に座して再臨する日まで信仰者を守り導き、その日が来たら眠りについている信仰者を目覚めさせて神の御国に迎え入れらます。再臨が起きる前の今は生きておられ、守り導かれているのです。
パウロがイエス様の復活を現在も続いている状態で言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意味しようとしたと考えられます。もちろん、それもあるのですが、私としてはそれだと今生きておられることが前面になって復活の出来事が背後になってしまうのが少し気がかりでした。私としては、復活ということも前面に出てくるのではないかと、この個所のことでずっと悩んできました。今回それがわかったと思います。どういうことかと言うと、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、私たち自身の将来の復活を確実にする出来事であるということです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今もある復活ということです。
そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまっていると言っていることに注意します。罪の赦しを頂いたにもかかわらず罪の中にとどまってしまうというのはどういうことか?それは、罪の赦しを頂いても復活に向かって進まなければ、ただ単に神聖な神の御前で罪の自覚を持つだけで行き場がなくなるということです。私たちが復活に向かって進めるのは、復活の見本が打ち立てられたからです。イエス様の復活が起きなかったら私たちはどこに向かって進んでいいのかわかりません。そういうわけで、キリストに希望を置くことがこの世と次の世の双方にまたがるような置き方でなく、この世でストップしてしまったら、とても重くつらくなります。「裁かない、赦す、与える」ことも、損することや不利になることが気になってできなくなります。パウロが言うように、最も惨めな人間になります。罪の自覚など持たずに生きた方が楽だと思うようになります。
さらに20節をみると、キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」となったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げるものです。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神に捧げるものの意味もありますが、穀物だけに限りません。動物もあります。それで「初穂」は訳としては限定しすぎです。確かにイエス様は十字架の上で私たちのために犠牲になって神に捧げられたことがありますが、その捧げが眠りについた人たちとどう関係するのかがはっきりしません。
ところが、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあります。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになり、罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。その意味では「初穂」という訳は詩的な言葉です。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。秋の澄み渡った空の下、最初に穂となったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。
以上のように、キリスト信仰者とは、罪の赦しと復活の希望の双方を携えて復活に向かって押し出されるようにこの世の人生を歩む者です。これがわかると、本日の福音書の当たり前すぎてよくわからなかった個所が次々とわかるようになります。盲人が盲人を道案内することは出来ないというのは、復活の主なくして、復活に至る道を歩むことはできないということです。ちゃんと道案内できる師が必要となる。それがイエス様です。十字架の上で私たちの罪を償って私たちに罪の赦しを整えて下さり、さらに死から復活されることで私たちを復活に向かって押し出して下さる方です。その師であるイエス様に弟子はまさらない、つまりキリスト信仰者はまさることはありません。これは当たり前です。誰もイエス様の十字架と復活の業に並ぶことは出来ないからです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しと復活の希望を携えていけば、復活の日に復活します。イエス様と同じになれる、つまり師と同じになれるのです。
自分の目の木材とは?罪の赦しを携えて生きる者が持つ罪の自覚のことです。自覚がないのはそれを携えていないからです。良い人が心に良い倉があって良いものを出すというのは、罪の赦しと復活の希望を携えていると、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを行うのが当然という心になっていきます。それが良い人の心の中にある良い倉です。心から出てくるものは、行為に限られず、口にする言葉もそうであると言われます。
そしてイエス様の言われることを聞いて行う者は洪水にも耐えうる家を建てる者とは?洪水というのは、この世が終わりを告げ今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる終末の大変動を意味します。そのような大変動にあっても家が揺り動かされないで大丈夫というのは、復活させられて神の御国に迎え入れられることを意味します。「ヘブライ人の手紙」12章で、天と地が揺り動かされても唯一揺り動かされないものとして神の御国が現れるという預言があります。家がびくともしないですむその土台は何か?本説教の冒頭で考えたような、人間自身の強さではありません。罪の赦しと復活の希望がそれです。それが、家がしっかり立っていられる土台です。それを携えている者はみな、この世の人生を歩む時も、次の世に移行する際の大変動の時もしっかり守られていて何の心配もないのです。
兄弟姉妹の皆さん、本日の福音書の日課にはいろいろなことがありましたが、どれも捨てることなく解き明かしできました。父なるみ神に感謝です。
後注 ギリシャ語の現在完了はアオリストと同じように考えてもよいと言う人もいるかもしれません。私が勉強したJ. Blomqvist & P.O. Jastrup の教科書(スウェーデン語デンマーク語の二言語で書かれている)には、古典時代後には叙事文の中で現在完了がアオリストと同じ意味で使われる例も若干ある、などと書かれていました。第一コリントは16章21節から明らかなように、パウロが口述して書きとらせている手紙であることに注意しました。
顕現節第6主日 2019年2月10日(日)
「主によって、召された自由」
創世記 45:3~15
Ⅰコリント 7:17~24
ルカ 6:27~36
コリントの教会の信徒への手紙を、今回もいっしょに、みことばに聞いて参りましょう。今日は、7章17節ー24節までです。
パウロはこの手紙の中で、7章から、結婚に関する問題、男女の問題について書いています。そして、それは7章の終わりまで書いています。ところで、今日の17節から24節までは、少し話がちがうように思います。
普通に考えれば、話の中にちがうことを書き入れたのではないかと思う程です。
ここには、7章の結婚に関係することは書いてないからです。他の話を、取り込んだのであろう、という人もあります。
しかし、ここに書いてあることは何か、と言うと、パウロは、これまでの視点よりちがった方向から、大きく、広げて、そして、それらの基本的な点を述べていくのです。
人間、1人びとりの立場はどういうものであるか、ということにふれていきます。
ここでは、必ずしも、男と女の問題だけでなく、人間が生きていく、生活の仕方そのものにふれていく。今、自分がおかれている、この立場に立っていることは、何にもとづいているのか、ということであります。
私たちは、各々の生き方をしていますが、自分がこの位置に置かれているのは、何によるのでしょうか。それは、自分が希望したからそうなったのか、それとも、偶然のことであろうか。今の自分にあるのは、自分が望んでいたのか、と言うと、イヤちがう。或いは、又、どうして自分はこんな星のもとに生まれてきたのか、いろいろ考えたりもします。兄弟の中でのことや、自分の仕事について、もっと、あんな仕事をやりたかった、とか、境遇についても思いどおりにいかないことばかり、この世はそんなものです。
それなら、少しでも改善して、自分の希望するようにしたい、と願うでしょう。いろいろ努力してやってはみたが、結局はどうにもならない、何か大きな力で動かされているような気がして、自分がいかに小さい者であるか、無力な者でしかないと、思い知らされる。誰でも通る道ではないでしょうか。私たちの生き方は、これでいいのかと、深く考えます。何か、すっきりした道はないのか、と考えるのではないでしょうか。
教会に行ったことのある人なら、神のみ心はどこにあるのだろうか、と考えるにちがいない。神は自分をどうお考えになっているのだろうか。
特にパウロがここで語っています中に、もう1つ深刻な問題がありました。それは、割礼を受けることであります。この時代の教会の中で、どうしても考えなければならなかったでしょう。
信者になっても、割礼は受けなければならないものなのか。或は、むしろ、割礼のあとは、なくしてしまった方がいいのかどうか。
これらの事柄は、信仰に関係があることでした。したがって、自分の救いに、関係のあることでした。そのことは、結婚等とは比較にならない程、重要であったにちがいありません。
それなら、これらすべての事について、神の御心はどこにあるのでしょう。神はただ、人間のしたいようにさせておられるのか。それとも、はっきりした道があったのでしょうか。その答えが17節であります。
17節「おのおの、主から分け与えられた分に応じて、それぞれ、神の召された時の身分のままで歩みなさい。」そしてこれについては、すべての教会で、わたしが命じていることです。と言っています。
パウロは、ここに、すべての立場にいる者に与えられた道がある、と言っているのです。
このことは、信仰を抜きにして考えると、ただ、あるがままでいいのである。というように見えます。もしそうなら、最もだらしのないことになってしまいます。それなら、この中で、どこに神のみ心があらわれているのでありましょうか。
ここには二つの大事な事があります。
1つは、「各自は、主から賜った分に応じる」ということです。
もう1つは「召されたままの状態」ということです。召される、ということは、聖書の中で、最も重要なことの1つであります。それは、「召される」ということが、いつでも救いに関係があるからです。
「救われる」ということと、「召される」ということは、いつも深い関係があります。「召される」というのはお呼びになる、ということであります。
神が私たちをお呼びになる、というのは、召して、御自分のものとなさる、ということです。
それなら、召されるのは、神のものになる、ということになるのである、と思います。神のものになる、というのは、何でもないことのように思われるかも知れません。或は、ただ、信仰の話である、と考えられるかも知れません。
しかし、決してそんなに簡単なことではないのです。なぜなら、もし、神のもの、とされるのでなければ、私たちは、だれのものでありましょう。
「自分は、自分のものにきまってるよ」と、ふつうの人なら、言うでしょう。しかし、ほんとうに、そうでしょうか。自分は自分のものにちがいないが、そうすると、いかに頼りないことか。ということを痛感させられます。
ことに、大事な決心をしなければならないような時に、それがよくわかるのであります。自分が頼りないのであります。自分がどこにいるのかが、分からなくなります。
あちらを立てれば、こちらを立てることができないなんてことは、しばしばです。自分の立場がはっきり定まっていないのです。
そういう人間が、神に召されて、神のものとせられる、ということこそ、まことに救いではないでしょうか。今や、右を見たり、左のことを考えたりする必要はないのです。
神のものに、せられたのでありますから、それを自分の足場とすればいいのであります。そうでないと、結局、自分の欲望に引きずられてしまう、ということになるのではないでしょうか。
自分は、神から召されて、神のものとして、この新しい立場を与えられたのである、ということです。神から召されたことがはっきりした時、今の自分に与えられている仕事、家庭、友人、教会の人々、みんな、神から与えられたものであり、神のご用にある人間ということになります。
神が必要として、与えて下さっている人々、そして又、それがどんなに貧しい業であっても、或は人から見れば、何もないかのように思われても、神はお求めになっておられる、ということであります。そうであれば、割礼があっても、なくても、それは問題ではない、大事なのは、ただ神の戒めを守ることであります。とパウロはここで言っています。
イスラエルの民にとっては、割礼のことは大変大事なことがらなのです。割礼は、神が召してく、ださったしるしであって、それこそ、救いのしるしであると言わねばなりません。しかし、そこで大切なことは、神に召される、ということであります。割礼はただそのしるしでしかありません。
神のものとせられた、ということが大切なことになるのであります。
まことの割礼を受けること、私たちの場合は、洗礼を受けることにあたりましょう。今は、どこに属しているのでもなく、神に属しているのです。それならば、大事なことは、神に属する者らしくすることであります。
今や、信仰を持った私たちは、自分の奴隷でもない、全く自由にせられ、みな、神のものであります。
どの人間も、キリストによって救われたならば、神のもの、すなわち、神の奴隷、キリストの奴隷であります。しかし、このことを、ほんとうになかなかわかっていないのが私たちです。
そこで、パウロは、信仰の奥義を語ります。
「あなた方は、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷になってはいけない。」
おれはおれの好きなように生きるんだ。そうはいかない、代価をもって買いとられたのである。自然のままの人間ではないということであります。
代価を払って買いとられなければならないような状態にある、ということであります。
代価とはなんでしょう。それはキリストであります。キリストの死と復活であります。そういう代価を払わないでは、罪の奴隷をやめて、神の奴隷となり、神のものとなることは、とうていできることではありません。
こういうことが分かった時、はじめて、「兄弟たちよ、各自は、その召された状態で、神のみ前にいるべきである。」と言うことができるのであります。
人の前ではなく、神のみ前にいる自分、その時人は、はじめてほんとうの人になることができるからであります。
ある人が言いました。
<すべてのことは神の憐れみの中にいること。神の憐れみの中にいて、神様に「そうだよ、それでよろしい」と言ってくださることです。>
すばらしい生き方となるではありませんか。
アーメン・ハレルヤ
本日の旧約聖書の日課エレミア書17章5ー8節は呪われた者と祝福された者ついて述べています。「呪い」とは物騒な言葉です。不幸とか何か良からぬことが起こって、その原因を何か超自然的なことに求める時に出てきそうな言葉です。「祟り」と同じことと考えられるでしょう。「祝福」とは何か?私たちの周りでどんな使われ方をするか見てみると、例えば、結婚式で新郎新婦にお祝いを述べる時に、みんなで二人の門出を祝福したなどと言います。ところが、聖書で言われる祝福はそれとは異なります。いろんな説明の仕方があると思いますが、大まかに言って聖書の祝福は天地創造の神が関係してきます。人間同士がお祝いの気持ちを表明するということではありません。日本語で「祝福」という訳語を当てはめたため、お祝いのイメージが付きまとうかもしれません。
聖書の祝福を理解する手がかりとして、民数記6章にあるアロンの祝福を見てみましょう。神が祭司のアロンにイスラエルの民を祝福する時は次のように言いなさいと命じます。この文句はキリスト教にも受け継がれて、私たちの礼拝の終わりでも唱えられるので皆さんもよくご存知です。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔をあなたに向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」
この文句から、祝福はお祝いではなく、神が人間に目を注いで良いものを与えてくれることだとわかります。どんな良いものを与えて下さるのか?神が人間を危険から守ってくれるということがありました。また、御顔を人間に向けてその栄光の輝きを暗闇の中にいる人間に当ててあげて、人間に恵み深く接して下さるということがありました。新共同訳では「恵みを与えられるように」ですが、ヘブライ語原文では何かを「与える」とは言っていません。神が人間に「恵み深くおられますように」です。神が恵み深くおられるというのは、どういうことか?それは、人間に神の意志に反する罪があってもそれを赦して不問にするから新しくやり直しなさいと言って下さることです。罪の赦しをお恵みとして与えて下さるという意味での恵み深さです。
さらに、神が人間に御顔を向けると、平安も与えられるということもありました。「平安」はヘブライ語のシャロームですが、これは意味が広い言葉です。まず、繁栄、成功、健康、安全と言った、人間にとって良いことを意味します。神に守られている状態と言って良いでしょう。神の守りがあるということでシャロームは「救い」の意味も持ちます。その時、「救い」の内容は繁栄、成功、健康、安全と言った、この世的なものに尽きてしまうのか、それとももっと違うものもあるのではないかということが出てきます。キリスト教ではその違うものがはっきりしてくるのではと思います。どういうことかと言うと、人間はイエス様の十字架での犠牲の死のおかげで神の意志に反する罪を償ってもらった。そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、神から罪の赦しをお恵みとしていただける。そうして人間は神との結びつきを回復して神との間に平和な関係を持てるようになった。もう神の罰を恐れなくてもいいんだ、神は自分の味方なんだ、ということになって、もう何が来ても怖いものはないという、まさに心が平安に満たされた状態です。キリスト信仰では「平和」とか「平安」はエイレーネ―という言葉ですが、まさに神との平和とそれから起こる心の平安が大きなものとしてあります。
以上のように聖書の観点では、「祝福」とは神が人間に御顔を向けて目を向けてちゃんと見て下さっていることが土台にあります。そこから繁栄とか成功とか健康とか安全を頂けるということがあります。さらに進んで、罪の償いを人間に代わってして下さった恵み深い神が共にいて下さるから大丈夫という安心を頂けるということがあります。どっちの場合でも、聖書の祝福は神を抜きにしては語れないものです。
「呪い」はこれと全く正反対のものです。人間が神から顔をそむけられて、背中も向けられてしまい、もう好き勝手にしなさいと見放されてしまう状態です。神に見放された結果、繁栄も成功も健康も安全も失われてしまう。あるいは、見放されてもタイムラグがあって繁栄や成功がしばらく続くこともあります。そんな時は神なんか馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。しかし、繁栄や成功を失う時が来たら、罰が当たったのだと慌てふためくか、または引き続き神なんか馬鹿馬鹿しい路線を続けて、神など引き合いに出さないで自分の知恵と力だけで繁栄を取り戻そうとするかでしょう。
以上から、聖書の観点では「祝福」と「呪い」は天地創造の神が人間にどうかかわっているか、人間は神に顔を向けてもらって見てもらっているか、あるいは顔を背けられて背を向けられて見てもらえなくなっているか、そうしたことが土台にあると言えます。
ここで一つ気になることがあります。それは、成功、繁栄、健康、安全が祝福の産物のように見られるということです。確かにそうした面はあります。しかし、そうなると、それらが失われたら、それは祝福を受けられなくなったからだ、呪われたからだということになるでしょうか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰ではお祈りしたにもかかわらず成功、繁栄、健康、安全が得られないとか、失われるということも想定しています。先にも申しましたように、神に罪の償いをしてもらって罪を赦されて神との間に平和な関係ができて神との結びつきの中で生きているということが確固とした事実としてあります。成功、繁栄などこの世的な輝きは失われても、神との平和、結びつき、そこからくる心の平安、外的な不穏にかき乱されない平安というものがあって、今度はそれらが輝きを放ちます。その時、神に目を注がれていることが一層わかるようになります。詩篇23篇で言われている、「たとえ我死の影の谷を歩むとも禍をおそれじ、汝われと共にいませばなり」ということが今まさに自分に起こっているとわかります。
どうしてそんなことが可能なのでしょうか?それは、聖書というものは繙く者に二つの視点、つまりこの世を超えた永遠というものがあるという視点と森羅万象の上に創造主がおられるという視点を与えるからだと思います。本日の使徒書の日課第一コリント13章と福音書の日課ルカ6章もこの二つの視点を与えます。ただ、旧約聖書の日課エレミア17章は、祝福された人は水辺の木のように緑の葉を豊かに生い茂らせ、日照りが来ても大丈夫、実を絶えず実らせ続けられる、なんて言っています。一見、この世的な繁栄、成功、安全、健康を言っているように見えます。しかし、この個所は目をよく見開いて聖書全体で言われていることを思い出しながら読むと、やはり永遠の視点と創造主の視点が含まれていることがわかります。
どういう人が神に顔を向けてもらって目を注いでもらう祝福された者なのか?どういう人が神から顔を背けられて背を向けられた呪われた者なのか?5節で「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去った人」が呪われた人になると言われます。祝福された人になるのは「主に信頼する人」(7節)です。ここで、人間はこの世で何に拠り頼み何を拠り所にするのかという問題を提起しています。天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた創造主の神に拠り頼むのか?それとも神に造られた被造物を拠り所とするのか?被造物である人間は肉の塊にしか過ぎません。それに対して創造主の神は霊的な存在です。肉の視点しか持たないで生きていくのか?霊的な視点を持って生きていくのか?被造物同士の関係の中に埋もれて生きるか?それとも、被造物同士の関係の中で生きながらも、片手は造り主である神の手をしっかり握って被造物同士の関係の中に埋もれ尽くされない、そういう突破口を持つのか?
さらに8節を見ると、霊的な神に拠り頼む人は水辺に植えられた木のようでいつも緑豊かで実を実らせると言われています。ここで、祝福された人が得られる良いものは繁栄とか成功といったこの世的な良いものにとどまらないということを見ていこうと思います。そのことはエレミア17章からは見えてこないかもしれません。でも、詩篇1篇を手掛かりにするとエレミア17章をよりよく理解できます。なぜ詩篇1篇が出てくるかというと、エレミア17章8節「彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない」を見ると、これを読んだ人は、あれ、詩篇1篇と似ている、と気づきます。詩篇1篇3節「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡りくれば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」この二つの聖句の前半部分は、ヘブライ語原文では双子のように同じです。細かいことを言えば、詩篇は木が植えられたのは「水路」のほとりと言い、エレミアは「路」を取って単に「水」のほとりと言っている違いはありますが、あとは同じです。ヘブライ語でこのエレミアの個所を読んだ人は、詩篇1篇をヘブライ語で覚えていたら、それが頭にスーッと入ってきてそれを下敷きにしてエレミアの個所を読むようになるでしょう。
そうすると、エレミア17章の荒れ地で今にも干からびてしまいそうな灌木に例えられる呪われた人は、詩篇1篇で言われている神の意志に反する者と重なります。また水辺で緑豊かに実を実らせる木に例えられる祝福された人は、詩篇1篇で言われている幸いな人と重なります。さらに言うと、17章9節からエレミアは詩篇1篇の神の意志に反する者たちを自分を迫害する者に、幸いな者を自分自身に適用させていることもわかります。そうすることで、預言者として悲惨な状況に置かれても自分は神に見捨てられてはいない、神は常に目を注いでいて下さると確信することが出来たのです。本当に聖書はすごい書物だと思います。読めば読むほどいろいろな繋がりが見えてきて、神が本当に見捨てない方、目を注いで下さる方であることがわかってきます。
詩篇1篇の「幸いな人」を少し見てみます。3節で、水路のほとりに植えられた木が枯れずに実を結ぶのと同じように幸いな人は繁栄するのだと言われます。、繁栄というのは、この世的な良いものだけを意味するのでしょうか?詩篇1篇を終わりまで見ると、それだけではないことに気づきます。幸いな人と正反対の神の意志に反する人たちのことについても述べられています。彼らは、最後の審判の時に神から義なる者、つまり神の目から見て大丈夫な者と認めてもらえず、義なる者たちが集う所に到達できないと言われます。幸いな人はこれとは反対に、神から義なる者、神の目から見て大丈夫な者と認めてもらえる人です。詩篇1篇6節を見ると、幸いな人がこの世の人生で歩む道を神は知っておられると言われています。その道が向かうのは、義なる者たちが集う所、つまり神の御国です。この世が終わって死者の復活が起きて現れる神の御国です。神の意志に反する者たちはそこに到達できないと言われています。義なる者たちはその道を進み、神はその者たちが御国に到達できるように一時も目を離さず導いて下さっている。これが義なる者たちの道を神が知っているということです。
このように詩篇1篇の水辺の木が豊かに実を実らせるというのは、この世的な良いものを得られるということに尽きるのではありません。それは、神から義とされた者が神に始終見守られて神の御国に到達した状態も指しています。神の御国に到達することに比べたらこの世で得られる良いものは重きをなさないでしょう。そういうわけで、詩篇1篇はこの世を超えた永遠という視点と創造主の神がおられるという視点で語られている御言葉なのです。
この詩篇1篇を下敷きにしてエレミア17章の個所を見ると同じことが起きます。肉の塊にすぎない被造物ではなく、霊的な創造主の神に拠り頼む者は、水辺に植えられた木のようである、熱波に晒されずに緑豊かに葉を生い茂らせ、干ばつが来ても何も心配せず実を実らせ続ける木のようである、と言っています。このような木は、神の御国に到達した者を意味します。霊的な神に拠り頼み到達したのです。このようにエレミア17章の個所は詩篇1篇を下敷きにすると、この世を超える永遠の神の御国という視点があります。そして、そこに至るまでの道のりを神が見守って下さっているという視点もあります。
本日の個所の20節から後は、マタイ5章のイエス様の山上の説教と同じ出来事を扱っていることがわかります。しかし、内容が少し異なっています。この違いをどう考えたらよいでしょうか?マタイとルカの記述のどっちかが史実を正確に反映し、どっちかがそうではないというのは不毛な議論です。マタイもルカも自分たちが入手した記録や資料を基にしています。イエス様が実際に喋ったことの再現は不可能です。それを聞いて他の人に伝えたり書き留めたりした人が、ひょっとしたら自分の観点で手短にしたりとか、逆に解説的に詳しくしたとかいうことはあり得ます。そんなことでは書かれたことは史実を正確に反映していないではないか、と言う人も出てくるかもしれません。
ここで忘れてはならないことは、伝えたり書き留めたりした人は自分の観点で手短にしたり詳しくしたりしたわけですが、それはどんな観点だったかということです。それは、イエス様というのは天地創造の神がこの世に贈られた神のひとり子であり、その彼が十字架にかけられることで人間の罪を神に対して償って下さった、そして死から復活されることで永遠の命の扉を開かれた、そういう方である、しかもそれらは旧約聖書の預言の実現として起こった、このような観点です。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。それならば、手短にしようが解説を施そうが、みんなこの同じ観点の中で行ったわけだからキリスト信仰そのものには何の害も及びません。むしろ、いろいろな記述があるというのは、キリスト信仰の内容を明らかにするために役立つと思います。いろんなバージョンがあってそれぞれ違いがあってもそれらを全部神の御言葉として扱い、何かを軽んじることはせずに、全部をよく見てつき合わせて、それらを総合して全体像を掴むようにすべきでしょう。
ルカのこの個所には、永遠の視点が明確に出ています。このことを見る前に、「幸いな人」と言っている「幸い」とは何か、それは「幸せ」とどう違うのかということについて触れておきます。「幸せ」はこの世的な良いもの、良いことと結びつきますが、「幸い」はこの世を超えたことに関係してきます。聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が創造される、その時神の御国が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。神の御国へは、死から復活させられて神に迎え入れられる者がそこに入り、その者はそこで永遠の命を持つことになります。そのように神の御国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道の上に置かれてそこを歩む者が「幸い」な者になります。そういうわけで、この世で貧しかったり、飢えていたり、泣いている人というのは確かに「幸せ」ではないが、イエス様を救い主と信じる信仰に生きれていれば、復活の日に全てが逆転する、立場も正反対になって満たされて笑うようになる、それが「幸い」なのです。将来そのようになると約束されているのです。
先ほど詩篇1篇の「幸いな人」とエレミア17章の「祝福された人」のところで、水辺の木のように緑の葉を生い茂らせて実を結ぶというのは、この世が終わって死者の復活が起きた後に神の御国に到達した状態と申し上げました。そうなると、この世の段階はどうなってしまうのか?この世の人生で繁栄とか成功などこの世的な良いものを手に入れたら、それは祝福されたことではないのか?そうしたことも祝福になるのではないか?しかし、先にも申しましたように大事なことは、神の御国に到達した時に本当の意味で水辺に植えられた木のようになっているということです。もちろん、この世の段階で繁栄や成功があって立派な木だったかもしれないし、あるいはそれらがなくてみすぼらしい木だったかもしれない。しかし、大事なことは、この世での繁栄や成功に関係なく誰もが神の御国に到達して素晴らしい木になることです。そういうわけで、ルカ福音書中のイエス様の教えは、別にこの世で繁栄などしていなくとも、まさに神の御国に向かって進んでいれば祝福されたことに何も変わりはないと明確に教えています。
本日の使徒書の日課は第一コリント12章27節から13章の終わりまでですが、この個所は永遠の視点と創造主の神の視点がよく現れています。13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖書の個所です。ここで述べられている、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、以上は、夫婦間だけでなく一般的な人間関係の理想です。
どうしてここでパウロは愛について教えたのか、そこに至る流れを見てみます。12章でパウロは、キリストを一つの体に例えて、キリスト信仰者一人一人は体の手とか足とか目とか耳とかの部分である、それぞれが大事な働きをし、お互いにとってなくてはならないものだと教えます。どうしてこんな当たり前のことを言わなければならなかったのでしょうか?
コリントの教会の状況が背景としてありました。聖霊から賜物を与えられていろんな大きな業、不思議な業が行われていました。それが、自分がこれだけのことが出来るのは神に目をかけてもらったからだ、聖霊が自分に特別豊かに注がれたからだ、というような雰囲気がありました。そこでパウロは、与えられる賜物は違ってもそれは皆同じ聖霊に由来し、皆は洗礼を通して同じ聖霊と等しく結びついている、だから賜物については優劣はないのであって、キリスト信仰者全員はお互いがお互いにとって大事なのである、何の業が出来て何が出来ないかは関係なく、みんな、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの恵みを得た、そのおかげで最後の審判の時に神から大丈夫と見てもらえるようになった、この恵みは教会の全員が等しく与えられているのだ、とパウロは教えます。
このようにパウロは賜物を得意がっている人たちにちょっと控えなさいというようなことを言いながら、12章の終わりで、最も偉大な賜物を追い求めよ、などとたきつけるようなことを言います。しかし、偉大な賜物を追い求める際に、最高の道を通って行かないと追い求められない、そんな道があるのでそれを教えよう、と言います。それが愛ということです。それで、どんなに驚くべき業を行っても、例えば聞いたことのない言語で神を賛美するという異言を語る業がありますが、これが出来ても愛がなければ騒音にしかすぎない。また、預言の賜物があって山を動かすほどの信仰を持っていても、全財産を貧しい人に施しても、誇るために自分を死に引き渡しても、愛がなければ、どれも無意味なことである。
そこでパウロは愛とはどういうものかということを述べていきます。愛は忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、高ぶったり、傲慢にならない、礼節を知る、自分の利益を追い求めない、復讐心を持たない、悪い考えを抱かない、不正に喜びを見出さない、真実を喜ぶ。この最後の真実を喜ぶというのは今の世の中はとても難しくなっていないでしょうか?自分の利益や野望に邪魔な真実は消してしまおう歪曲してしまおうという人たちがいます。そこまでして追求しようとする利益や野望は正しくないということを証明しているようなものです。真実を喜ぶというのは、正しさというものに自分を服させることになるのではないかと思います。もちろん人によっては向き合うのが辛い真実もあると思います。その人が打ちのめされることなく真実を携えることができるように考えてあげなければなりません。
パウロは、愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、と言います。「全てを信じる」とはどういう意味でしょうか?まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そうではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語πανταの意味は「全てにおいて」が正しいでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」というのは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」というのも、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされても大丈夫と見なされて神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは前述した愛の現れ方です。どんなことが起きようとも、忍耐し、高ぶらない、嫉妬しない等々の愛を持つということです。
愛とはそのようなものだと述べた後で、8節から永遠の視点が出てきます。この世が終わり、死者の復活が起こり、今の天と地が新しい天と地に取って代わわれて神の御国が現れる。その時、預言や異言という聖霊の賜物はなくなってしまう。というのも、預言や異言がこの世でもたらしたものは何か大きな全体の一部にしかすぎないものだったからで、神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは意味を失ってなくなってしまうのです。
ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違って最初から完全で全体的ななものだったからです。しかしながら、それは神の側でそうなのであって、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられた時、自分も神と同じように愛を兼ね備えていることを見るのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ、どんなことがあっても信じ希望する。今自分はこれらを全て持っているのです。かつてはこれらのものはいつも部分的、一時的にしか現れて来ず、現れては消えての繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。神と同じようにです。自分が愛そのものになってしまっていると言ってもいいでしょう。
かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはどういうことか?当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった今、愛は自分に明瞭に現れるようになった。それでパウロは復活の日、自分は愛を体現し愛そのものになっていることを次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知る」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。
ここで一つわかりにくいことがあります。「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。「神がこの世で私のことをはっきり知っていたのと同じように、私も将来の神の御国にてはっきり知るようになる。」神がこの世で私のことをはっきり知っていたこととは何でしょうか?それは神の国で私がはっきり知るようになっていること、つまり、私が愛を体現していることです。しかし、これは変です。というのは、神は私がこの世でも将来の神の御国と同じように愛を体現していたと見て下さったことになるからです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。
「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたは前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さっていたのですか?私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしたこともありました。高ぶったり傲慢になったりしました。」
そこで神は答えられます。
「わが子よ。お前はイエスの白い衣を纏うようになってから、その衣を取り去らないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。白い衣に覆われた罪は神聖な衣の中で日々圧迫され、力を失っていくのを見て知っていた。お前がイエスを主と信じる信仰と聖餐のパンと葡萄酒で衣を離さないように握りしめる力を保っていたのを見て知っていた。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者と前の世でも知っていた、と言ったのだ。」
パウロはフィリピ1章6節で次にように述べています。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」
兄弟姉妹の皆さん、この確信は真理です。
後注(ギリシャ語がわかる人にです)
・πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。
・καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。
・第一コリント13章3節は、日本語訳では「誇るために自分を死に引き渡しても」ですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳は「自分を焼かれるために引き渡しても」です。どうしてこんな違いが生じたのかというと、訳に用いた写本が異なっているからです。日本語訳は、よりオリジナルのルカに近いと研究者が認めた写本を使用。他は、オリジナルのルカからは遠いかもしれないが、ダニエル書を想起させ意味が通るということで「焼かれる」の方を用いたわけです。このように聖書は一筋縄ではいかないところがありますが、何語で読もうとも、聖書の視点とは何かを意識してみることが肝要です。
本日の福音書の個所は、漁師のペトロにイエス様が「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言ってペトロが付き従っていくところです。そのいきさつが他の福音書とは違う角度から詳細に記されています。旧約聖書の方は、イエス様の時代から600年以上さかのぼった昔、ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされてしまう少し前、神がエレミアを預言者に任命した時のやりとりが記されています。ペトロとエレミア、この二人が置かれた時代と状況は全く異なりますが、二人とも神から召命を受けて、一人は人間を捕る漁師として、もう一人は預言者として活動し、その中で天地創造の神の意志や計画を明らかにしていき、それが聖書という形で後世に伝えられることとなりました。聖書の中にペトロとエレミアの遺産があると言ってもよいでしょう。もちろん、ペトロやエレミアだけでなくイザヤやパウロやその他大勢の召命受けた人たちの遺産が聖書にはあるわけです。
本日の説教では、ペトロとエレミアの召命の出来事をよく見て、彼らの遺産がどういうものか、よりよくわかるようにしたいと思います。自分たちの活動を通して神の意志や計画について明らかにして後世に伝えようとしたこと、これを彼らの召命の出来事と結びつけて考えると、天地創造の神の意志や計画は私たちにもっと身近なものに感じられるのではないかと思います。
舟も沈まんばかりの大量の魚。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまいます。なぜペトロはこの時、罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが、そう告白するに至った原因のように書かれています(θαμβος γαρ περιεσχεν αυτον […….] επι των ιχθυων […..])。それでは、ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?そして、恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?まずそのことを見ていきましょう。
イエス様は湖の岸辺で群衆に教えています。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から、次のような内容であったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないが、その罪の赦しが間もなくメシアの働きで実現すること、人間は神の意志を正確に知って悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、こうしたことが考えられます。
岸辺には大勢の群衆が集まってイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。その時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっているのを目にします。ちょうど漁師が舟から降りて、向こうで網を洗っているところでした。イエス様はペトロの所有する舟に乗って、彼に命じて岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教え続けました。ひと通り教えた後で再びペトロに、もう少し沖合まで漕いで魚を捕るべく網を投げるよう命じます。
ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと応じます。夜の暗い時というのは、魚捕りに最適な時なので、それで何も捕れないのであれば、日中明るい時はなおさら捕れないではないか。ペテロの応答にはイエス様の命令に対する懐疑が窺われます。しかし、それでも、あなたのお言葉ですから網を投げ入れてみましょう、と言って言う通りにします。
無理に決まっているじゃないか、という思いで網を入れたところ、大変なことが起きました。網も破れんばかりの夥しい量の魚がかかりました。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、このままでは二そうとも沈んでしまう位の量の魚で舟は溢れかえります。文字通り想定外の出来事が目の前に起こり、恐れを抱いたペトロは叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何に恐れを抱いたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白となったのです。
それでは、ペトロはどうして神に罪の告白をするようになったのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことをみたからです。神の力が働いたのをみたということは、神が自分の間近にいた、ということです。
神を間近に見ることが人間に罪の自覚を呼び覚まして、大きな恐れを抱かせることはイザヤ書6章によく描かれています。イエス様の時代から700年以上も前のこと、ユダの王国が王から国民までこぞって神の意思に反する道を歩んでいました。そのような時代状況の中で預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の間に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから」(4節)
(ヘブライ語原文に忠実な訳)。神を目の前にして起きる罪の自覚の悲痛な叫びです。そこでは、神聖な神と汚れに満ちた人間との間の絶望的な隔たりが一気に示されます。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう強力な炎のような力があります。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇にあてられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。
このように、人間が真の神を間近に見る場合、その神聖さと全く逆の自分の汚れを思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方ですので、神を間近に見てしまった時に強い恐れが生じるのは当然なのです。
さて、罪の告白をしたペトロですが、それに対してイエス様は、お前の罪を赦すとか、赦しの宣言はしません。ただ、お前はこれからは人間を捕る漁師になるのだ、と言われます。神が身近にいることを示した方がそう言う以上、従わないと認めた罪深さを放置することになってしまいます。ここは言われたとおりについていくしかありません。漁師のペトロは網と舟を置いてイエス様に付き従います。
「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?宗教団体の勧誘員になれということでしょうか?でも、ペトロや他の弟子たちは人々をイエス様のもとに集めたでしょうか?むしろ集めたのはイエス様自身ではなかったでしょうか?もちろん弟子たちが宣教に派遣されたことがあります。ただ派遣先はユダヤ民族に限られて、仕事の内容も神の国が近づいたことを宣べることとその神の国がどういうところがわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちの教えを受け入れた町々から人々がイエス様のところにぞろぞろやって来たかどうかは不明です。むしろ、もうすぐ起こる十字架と復活の出来事に備えて旧約聖書の民であるユダヤ人に待機させるような働きだったのではないかと思います。
イエス様の十字架の死と死からの復活が起きると様子は変わります。ペトロや弟子たちが中心となってエルサレムに教会が誕生し、彼らの宣べ伝えを聞いて、また業を見て教会につながる人がどんどん増えていきます。やがて教会の輪はユダヤ民族の境を超えていきます。こうして見ますと、イエス様がこの地上におられた時のペトロたちの任務はどちらかと言うと、イエス様の教えたこと行われたこと、そして彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったのではないか。それがイエス様が父なるみ神のもとに帰られた後は、彼こそは旧約聖書に約束されたメシア救世主である、それを自分たちが見聞きしたことをもとに証言する、たとえ命はないぞと脅されても怯まずに宣べ伝える(イエス様の復活の後ペトロにはもう主を見捨てて逃げた面影はありません)、そういうしっかり目撃してそれを証言し宣べ伝えることに「人間を捕る漁師」の本質があるのではと思います。
ペトロをはじめとする弟子たちが目撃したことには、旧約聖書の内容が一気にわかるようになることがありました。イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、メシア救世主というのは一民族を異民族支配から解放してくれる民族の英雄ではなくて、天地創造の後に神と人間との間に生じた問題を解決してくれるまさに人間一般にとっての救い主であるということが明らかになったのです。神と人間の間に生じた問題とは、神に造られた人間が造り主に対して不従順になって罪を持つようになったために神との結びつきが失われてしまったこと。結びつきがないままこの世を生きることになってしまい、この世を去った後も永遠に造り主のもとに戻れなくなってしまう問題でした。それを神は解決しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送られて、罪の神罰を全て彼に受けさせて人間の代わりに罪の償いをさせました。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで永遠の命に至る扉を人間に開かれました。
人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神からこの罪の赦しをお恵みとして与えられます。罪を赦された人間は神との結びつきを回復してこの世を生き始め、この世を去る時も神のもとに戻れるという確信の中で去ることができます。この世を生きている時も、自分は何も償いをしていないのに赦された、だから、これからは神のひとり子の犠牲を台無しにしないようにしっかり生きようと心がけ、何が神の御心に沿う生き方かを考えて生きるようになります。
ペトロや弟子たちが「人間を捕る漁師」になって忠実な目撃者、証言者となって伝え遺したものが、後世の人たちにこのような信仰と生き方を与えるものになったのです。新約聖書の中にペトロの伝え遺したものはどれだと見つけることができるでしょうか?ペトロの名がついた手紙はありますが、2つしかありません。しかし、イエス様の言行録が記録された福音書の中には、ペトロの目撃談、証言録が織り交ざっているのです。もちろん、他の弟子たちのもです。そもそも福音書とは、弟子たちの目撃談、証言録を土台にして出来上がっています。福音書の他に新約聖書には、イエス様が全ての人間の救い主であるという信仰を表明する使徒たちの手紙があります。旧約聖書を引き合いに出しながら表明しています。それらの書簡はまた、天地創造の神の御心に沿うように生きようと志向するキリスト信仰者はこの世でいかに生きるべきか、同じ信仰を持つ者同士はいかに支え合うべきか、またその共同体はどうあるべきか、そして共同体の外とはどう関わるべきか、そうした実際的なことも教えます。本日の第二コリント12章でも、信仰者の共同体はイエス・キリストの体であり、一人一人の信仰者はその体の部分である、聖霊の賜物について考える時このことを忘れてはいけない、ということを教えています。
後世の私たちが聖書の御言葉を通して、イエス様を救い主と信じて天地創造の神の御心に沿うように生きようと志向するならば、その時は文字通りぺトロをはじめとする使徒たちの網にかかったことになります。この世の対岸にある神の御国に引き上げてもらうためにかかったのです。
次にエレミアの召命とその遺産についてみてみましょう。本日の個所は1章の9節から12節までですが、召命の出来事は4節から始まっています。4節から8節までは先週の日課でしたが、先週は別に大きなテーマがあったのでこちらの解き明かしは出来ませんでした。今日一緒に見れてよかったです。
エレミアの召命は、先ほど述べたイザヤのエルサレム神殿での出来事と似ています。イザヤは自分は罪で汚れた者であると告白し、神のみ使いから燃え盛る炭火を口に当てられ清められました。エレミアは神の手が直接口に当てられます。燃え盛る炭火ではないですが、神聖な神の手が触れるので、生身の人間は普通は耐えられないでしょう。しかし、イザヤ同様に火傷一つ負わず何事もありませんでした。
ところが違いもあります。エレミアの場合、イザヤのような罪の告白がありません。イザヤでは罪の告白があり、清めが行われて、神のみ使いも清めを宣言します。神が御手をエレミアの口に当てたというのは罪からの清めというよりは、語るべき言葉を与える仕草のように見えます。私、預言者にされても人前でどう話していいかわかりません、と言ったことに対する神の回答ということです。同じことがダニエル10章にもあります。神のもとから遣わされた者がダニエルに宣べ伝えなさいと命じるが、ダニエルには力がない。その者がダニエルの唇に触れるとダニエルは少しずつ話し始めます。
ただ私としては、エレミアの場合も、やはり罪からの清めがあるような気がしてなりません。というのは、エレミア書1章をヘブライ語で読んでいて9節の「わたしの口に触れ主はわたしに言われた」というところにさしかかった時、あれ、イザヤ書の6章7節と同じじゃないかと気づいたからです。イザヤ書のその個所は「彼は私の口に火を触れさせて言った」ととても解説的に訳していますが、ヘブライ語の原文はどちらも「私の口に触れ、言った」で同一です。(どうしてこんなことに気づいたかというと、私10数年前とある理由でイザヤ書の6章全部をヘブライ語で暗記する必要があって、どうやら今でも覚えているのですが、それで、あれ同じだ、と気づいたのです。)エレミア1章9節にさしかかった時、一瞬エレミアの時代から100年ほど遡ったエルサレムの神殿でのイザヤの清めの出来事が脳裏によぎって、それでエレミアの召命にも罪の清めの要素があるのではないかと思った次第です。個人的な思いなので、ここでやめておきます。
エレミアの召命に戻りましょう。ここでの神とエレミアのやり取りのなかで一つ謎めいたことがあります。それは、神がエレミアに「アーモンドの枝」を見せて、それが神の言葉が成就するための「見張り」ということに関係しているように言っているところです。ちょっと複雑です。私たちの新共同訳を見ると、「アーモンド」の下に( )があって、シャーケードと書いてあります。ヘブライ語でアーモンドです。「見張っている」の下にも( )があって、ショーケードと書いてあります。ヘブライ語の「見張る」という意味の動詞の分詞形です。これを見ると、ああ、ヘブライ語の語呂合わせがあるんだな、とわかってきます。でも、シャーケードとショーケードじゃ、語呂合わせとしては少し遠いのではと思われるかもしれません。
そこで、ヘブライ語の記述というのは、もともとは子音文字だけでした。どういうことかと言うと、「中野区」をNKNKと書くようなものです。それぞれの子音にア、ア、オ、ウと母音をつけて「なかのく」になります。「アーモンド」の「シャーケード」と「見張る」の「ショーケード」の場合、子音はシュש、クゥק、ドゥדと同じです。書かれているは子音文字だけなので二つは同一になります。そんなこと言ったら、文章を読む時どうやって区別できるのかと思われるでしょう。そこは、神の民の悠久の歴史の中で読み方は代々ちゃんと受け継がれていました。そのために律法学者のような専門家集団がいたのです。
さて、「アーモンド」と「見張る」は、ユダヤ人にとっては身近に感じる語呂合わせかもしれないが、他の民族にはどうでもいいことに思えるかもしれません。私も以前はその程度の受け止め方でした。ところが、今回そうではないとわかったのです。これからそのことを皆さんと分かち合えたらと思います。これから申し上げることは、ひょっとしたら既に何か注釈書か参考書に書かれていることかもしれません。それでワクワクして話すことになっても、決して発見者気取りの得意のワクワクではないということをご理解下さい。
皆さんは、アーモンドはどんな植物かご存知でしたか?今回私、ネットで調べてみました。それはなんと、桜にそっくりな花を咲かせる木だったのです。薄ピンク色の花が満開に咲き、その時は葉っぱはまだありません。まるで桜です。花が終わった後に葉が出て、あのアーモンドの実をならせます。どうやって育つかと言うと、種からでも苗木からでも育てられるということですが、それに加えて枝を挿し木にしても育つということでした。皆さん、どうです、エレミアの目にしたものがアーモンドの木でなくてまさに「枝」であったことが見えてきたのではないでしょうか?日本語で「枝」と訳されていますが、ヘブライ語の単語מקלは「若芽」の意味もあります。いずれにしても、アーモンドの木ではなく、これからアーモンドになっていくものを見せつけられたのです(後注)。
神からアーモンドの枝ないし若芽を見せられて、それがアーモンドと分かったエレミアは、ああ、あれは大きくなってピンクの花を満開に咲かせて、後で葉が生い茂って実を実らせるやつだな、と一瞬目に映ったでしょう。ちょうど日本人が梅でも桜でも蕾のついた枝を見せられて、まだ花は目で見ていないのに一瞬それが目に映ったような感じがするのと同じです。そこですかさず神は言われます。ヘブライ語を直訳しますと、「お前は正しく見た。なぜなら私は自分の言葉を成就すべく見張りをするからだ(または「見張りをする者だからだ」)」、ないしは「お前は正しく見て、私が自分の言葉を成就すべく見張りをする者であることがわかった」です。いずれにしても、ここはヘブライ語の語呂合わせだけでなく、アーモンドの枝のメタファーも見抜けないといけないのです。
これでさすがのエレミアも、神の言葉が成就するというのはアーモンドが成長して開花して実を実らせるという身近な出来事が起きるように起きるのだと思い知らされたでしょう。桜でもアーモンドでも花が咲いて実がなるのは、神が成長を与えて下さるからですが、それと同じように神は御言葉が成就するようしっかり監視を与えると言うのです。これでエレミアの弱気と疑いは消え去ります。4節からずっと神が言っていたこと、お前を諸国民の預言者に立てる、私はお前と共にある、お前を苦難から救い出す、だから心配するな、若すぎてダメだなどと言うな、誰に何を言うべきか全て私が決める、それ位お前の身に起こることは全て私の手中にある、そこからこぼれ落ちることは何もない、それくらい私はお前と共にある、お前を苦難から救い出す等々、これら全てが神の力で起こるのはアーモンドが神の力で花を咲かせ実を実らせるのと全く同じことなのだと確信したのです。
このような素晴らしい仕方で確信を得ることができたエレミアでしたが、いざ預言者として活動を開始してみると、アーモンドの希望に満ちたメタファーは実はそんなに甘いものではないと思い知らされることばかりが起きます。何が起こったのでしょうか?
神がエレミアに宣べ伝えよと命じた預言の言葉は大きく分けて二つ、エレミアの同時代に関わるものと将来に関わるものがありました。同時代に関わる預言は、ユダの王国が滅亡するというものでした。王も民も、エルサレムの神殿で熱心に神崇拝を行っているが、それは外面的に儀式をやっているだけで、それで神の意志に沿う生き方をしているなどとはおこがましい。心の中は神の意志に反することばかりだ。罰としてお前たちはもうすぐ外国に滅ぼされる。そういうことを自国民に宣べ伝えなければならなくなります。国民は改心するどころか、エレミアを迫害してしまいます。エレミアが悲劇の預言者と言われる所以です。
将来に関わる預言を見てみます。こちらの方が同時代の預言より本質的なものです。なぜなら、神はエレミアを諸国民に関わる預言者に任ずると言ったので、もしユダ王国の滅亡だけ預言していたらユダヤ民族だけに関わる預言者にとどまります。将来に関わる預言の中に諸国民が視野に入ってくるのです。3つのことが大きなものとしてあります。一つは、国は滅ぼされて民は異国の地バビロンに連行されてしまうが、そのバビロン捕囚が終わって民が祖国に帰還できる日が必ず来るという預言です。もう一つは、捕囚から帰還した後にダビデ系の理想の王が現れて神の義を実現するという預言。三つめは、31章に見られますが、神と神の民の間に新しい契約が結ばれるというものです。
これだけ見ると、あれ、諸国民ではなくてまだユダヤ民族に関わる預言ではないかと思われるかもしれません。実はそうではないのです。紀元前6世紀終わりに祖国帰還を果たした後になってから、エレミア書の祖国帰還の預言は歴史上起きた帰還とは別のことを意味していると理解されるようになります。それは世界の終末に関係するという理解がダニエル書9章に現れます。神の義を実現する王の預言についてはもういいでしょう。キリスト信仰の観点ではイエス様ということです。
もっと興味深いのは神と人間との新しい契約です。この契約は昔みたいに人間が神の意志に反する生き方をして人間の方から破ってしまったものとは様相が異なります。神の意志を表す掟がなんと人間の心に刻まれると言うのです。つまり、書かれた掟を頭で理解したり解釈したりして行動に移すというのではなく、神の意志があたかも人間の内に自然に備わっている状態だというのです。どうしてそんなことが可能でしょうか?
ここで先ほどイエス様を救い主と信じる信仰について申し上げたことを思い出して下さい。ユダヤ教の伝統的な考え方では、他の宗教も似たり寄ったりと思いますが、神の意志とか掟を守ることで神に受け入れてもらえる、よくしてもらえるということがありました。ところが、キリスト信仰の場合、イエス様の十字架の犠牲があって人間は先に神に受け入れられてしまった、よくしてもらったということが先に起きてしまったのです。そうなると後は、この犠牲がどれだけ尊い大事なものかがわかった人たちが神に対して感謝の気持ちになり、これからは神の意志に沿うように生きようと志向しだす。そういうふうに神の意志に沿うように生きようということが、神に救ってもらうためにするのでなくなって、神に救ってもらったからその結果としてそうするのが当然になるということなのです。まさに、掟が心に刻みつけられた状態です。このことがイエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで起こったのです。エレミアは自己の民族だけでなく世界の諸国民にも関わる希望の預言をまさに自分の苦難の生涯を通して後世に伝えたのです。
さて、イエス様を救い主と信じて神の意志が心に刻まれた者になったはずの私たちではありますが、どういうわけか自分の内に神の意志に反することがあることに毎日気づかされます。これは一体どうしてなのでしょうか?私たちの信仰が弱いからなのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。先週の説教でも申しましたが、信仰の目を持つようになると、かえって自分の内に神の意志に反する罪があることも見えるようになります。イエス様を救い主と信じて「愛」と「正しさ」の両方を兼ね備えて生きようとすると必ず起きてくる相克です。「愛」が正しさのない偽りの愛になってしまうか、それとも「正しさ」が愛のない裁きになってしまうか、またはその両方になってしまうか。
どうしてそうなってしまうのかと言うと、使徒パウロも宗教改革のルターも指摘したように、信仰者の内に二つの「人」、肉に結びつく「古い人」と洗礼を通して植えつけられた霊に結びつく「新しい人」ができてしまうからです。新しい人が植え付けられると、古い人は自分が神の罰に晒されていることがわかって、信仰者にただ恐れを抱かせて絶望させるか、または神に背を向けてごまかしの生き方をするように追いやろうとします。これに対して新しい人はイエス様のおかげで神の前に立たされても大丈夫でいられるという希望に全てをかけなさい、全てを託しなさいと促します。信仰者が希望にかければかけるほど、古い人は居場所を失っていきます。ルターは、この状況を木の彫刻を作ることにたとえて次のように教えます。木の彫刻は、木を彫る者が自分の作ろうとしている像に関係ない部分をどんどん削り取ることでその像がだんだんはっきり現れてくる。新しい人を形作るのは希望である。古い人がもたらすのは恐れである。その恐れがあるからこそ古いアダムを削り取ろうと動き出し、希望が成長するのである。だから、キリスト信仰者は、希望がない状態の中に置かれて希望を持つようにと定められているのである。
希望が裏切られることがないことを使徒パウロは「フィリピの信徒への手紙」1章6節で次のように述べています。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」
この確信は、神がエレミアにアーモンドの枝を見せて御言葉が成就することを確信させたものと同じものです。兄弟姉妹の皆さん、私たちはいつも聖書の御言葉を通して同じ確信を持つことが出来るのです。
後注(ヘブライ語がわかる方にです)מקלマッケールはstatus constructusでもマッケールということでした(エゼキエル書39章9節を除いて)。それでマゾレットのמקל שקדは「アーモンドの枝(ないし若芽)」で大丈夫です。
1.本日の福音書の個所はわかりそうでわかりにくいです。イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読を担当する。読み終わった後で、書かれていることは今日実現した、と言う。会衆はイエス様の恵み深い言葉に驚きつつも、あれはヨセフの子ではないか、と言った途端、イエス様は何か会衆の気に障ることを言い始め、それで会衆は激怒し、イエス様を崖から突き落とそうとする。会衆の急変ぶりには驚かされます。一体イエス様は何をそんなに怒らせることを言ったのでしょうか?お前たちは私が別の町で行うことになる奇跡の業をここナザレでもしろと言うだろう、しかし、旧約聖書の預言者エリアとエリシャがユダヤ人でない者に奇跡の業を行って助けてあげたのに倣って、私はお前たちには奇跡の業を行わない、などと言います。かなり挑発的です。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」と自分で言って、自分でそうなるように仕向けているようです。イエス様はナザレの人たちになぜこんなに手厳しいのか?自分は神の子なのに「この人はヨセフの子だ」と言われてカチンときたのだろうか?
いいえ、ここはそんな低次元な話では全くありません。ここは、私たちがこの世を生きる時に何を身につけなければいけないかということを教える個所です。それを身につけていないとどうなってしまうか、どうしたらそれを身につけられるのかを考えさせるところです。その身につけるものとは、結論を先に言うと、「信仰の目」です。私たちは肉眼の目を持っています。その目が働かないと生活に支障をきたします。信仰の目は、この世の荒波を乗り越えていくのに必要な目です。肉眼の目だけだと荒波はよく見えますが、それだけだと怖気づいてしまいます。これから、その信仰の目とはどんな目で、どうしたら身につけられるのかということを本日の福音書の個所をもとに見ていきたいと思います。本日の個所をもとにすると言っても、話は旧約聖書にまで広がるスケールの大きなものになります。聖書のいろんな謎が明らかになって、なんだか聖書をめぐる大冒険のような説教になるかもしれません。それでは始めてまいりましょう。
2. イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神からの聖霊が降って特別な力が備えられました。特別な力とは、神の人間救済を実行する力でした。その後すぐユダの荒野で40日間悪魔から試練を受けますが、これを全て旧約聖書にある神の御言葉を盾としてはねのけました。この後、舞台はユダ地方からガリラヤ地方に移ります。イエス様はガリラヤ各地の会堂を回って、神の国が近づいたということ、それに人間の救いがまもなく実現するという福音を人々に伝えます。そして神の国が架空のものではなく実在するものであることを示すために多くの奇跡の業を行います。イエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりす。イエス様が幼少の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどその時でした。イエス様はこれまでそうしてきたように町の会堂に入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。
ところで、当時の会堂シナゴーグの礼拝ですが、本日の出来事がよりよくわかるために少し背景説明をします。礼拝ではヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読した後で、それをアラム語で解き明かしすることが行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、ユダヤ民族はもともとはヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉ももともとはヘブライ語で記されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚で民族の主だった人たちは異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、彼らはその言語はだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。
さて、紀元前6世紀の終り頃にバビロン帝国を倒して中近東の覇者となったペルシャ帝国の計らいでユダヤ人は祖国帰還が認められます。彼らは廃墟となったエルサレムの町と神殿の復興事業にとりかかります。当時のユダヤ人の苦難と信仰の試練については、旧約聖書のエズラ記とネヘミア記に記されています。そのネヘミア記の8章を繙くと、指導者が民に向かってモーセの律法を朗読する場面があります。そこに、朗読者が「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読しアラム語に翻訳して解説したということです。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖かつ最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代にも続いていたのです。
ナザレの会堂の礼拝に戻りましょう。そこの会堂長は、その日の聖書の朗読と解き明しを誰にお願いするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は会衆で一杯だったでしょう。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる方式で作った本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形式の書物です。
イエス様は立ってヘブライ語で朗読しました。神に油注がれた者、つまりメシアが神の霊を受けて、何かに囚われた状態にある人に解放を告げ知らせる。心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人に見えるようになるという喜びの知らせを伝える。神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる。そういう内容の個所でした。
これは、旧約聖書を知っている人ならイザヤ書のあそこだとわかる個所です。私たちが手にする聖書では61章の初めの部分です。ところが、よく見るとルカ福音書に記されている引用はイザヤ書の当該箇所と少し違っています。引用は正確ではありません。ヘブライ語のテキストには「目の見えない人が見えるようになる」というのはありません。別にヘブライ語がわからなくても、日本語訳のイザヤ書の61章を見れば誰でもわかります。「目の見えない人が見えるようになる」というのは、実はイザヤ書の42章7節にあります。とすると、イエス様はこの別の個所を朗読の時に何気なく挿入したのでしょうか?
話をさらに複雑にするのは、イザヤ書のギリシャ語訳を見ると、61章にこの「目の見えない人が見えるようになる」というのが入っているのです(1節)。なぜイザヤ書のギリシャ語訳が出てくるかと言うと、もともとヘブライ語で書かれた旧約聖書はイエス様の時代の2、300年位前にギリシャ語に訳されました。先ほど触れたペルシャ帝国がギリシャ系のアレクサンダー帝国に滅ぼされて、地中海世界の東半分はギリシャ語が公用語になっていきました。ギリシャ語を話すユダヤ人のためにギリシャ語の旧約聖書が必要になったのです。
それでは、ヘブライ語のテキストを読んだイエス様がまるでギリシャ語訳に倣って「見えない人の目が見える」ことを言ったのは何なのでしょうか?本日この個所をもとに説教する人は自分で原文を調べてか、または参考書に教えられて気づくでしょう。人によっては、ルカ福音書を書いた「ルカ」はギリシャ語で書いているわけだから、イザヤ書もギリシャ語訳の方を念頭に置いた、それでイエス様が朗読したヘブライ語の文章は脇にやられてギリシャ語訳にある「目の見えない人が見えるようになる」を入れてしまった、そういうふうに考えるかもしれません。そうなるとルカはイエス様が言っていないことを言ったことにしてしまったことになります。人によってはもっと突っ走って、この個所自体ルカの創作と言うかもしれません。そういう人たちは礼拝なんかやめて大学の神学部の教授をやればよいと思う者ですが、ここは礼拝という霊的な営みの中で聖書を解き明かす場ですので、そんなに簡単にあきらめずに踏み留まって考えてみることにします。
ルカは福音書の冒頭で何と言っていましたか?この書物は信頼できる目撃者の証言を集めてそれを纏めたものだ、と言っています。とすると、ナザレの会堂の出来事も、目撃者、おそらく弟子たちでしょう、が伝えたことが土台にあります。そこで考えられることは、イエス様はイザヤ書61章の朗読の際に42章7節を何気なく挿入したか、または、次のようにも考えられます。朗読の後の解き明かしの時にこの「目の見えない人が見えるようになる」ということを述べていたが、目撃者が朗読と解き明かしを混ぜ合わせたようなものがルカに伝わった。ルカの記述を見るとイエス様の朗読部分はあるが解き明かし部分がない形になっていることがそれを示しています。
何気なく挿入したにしても、解き明かしで言ったにしても、これが本当と言えるためには、イエス様には「目の見えない人が見えるようになる」ということにこだわりがあったと言えなければなりません。実を言うと、イエス様にはそれがありました。皆さんも、イエス様が目の見えない人の目が見えるようにする奇跡を何度も行ったことは覚えていらっしゃるでしょう。イエス様にとって目を見えるようにするというのは活動の中で大事なことでした。このことを預言者イザヤの時代から旧約聖書とユダヤ民族の歴史を貫くようにしてある一つの問題に照らしてみると、その意味が明らかになってきます。
イザヤ書6章を見ると、神の意志に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が神からの罰として心が頑なにされて目も見えないようにされる、そういう罰が言い渡されます。これは肉眼の目を塞ぐということではなく、霊的な目、信仰の目が塞がれてしまうということです。神の意志がますます見えなくなって滅びの道をまっしぐらに進んでしまうという罰です。国が滅んでしまった後に目が開かれて神の意志がわかる、そういう「残りの者
が現れるという預言も一緒です。さて、イスラエルの民は果たして信仰の目が開かれるようになったでしょうか?イザヤの時代にアッシリア帝国の大軍の攻撃から奇跡的に救われたエルサレムがその「残りの者」だったか?否でした。ユダの王国はその後も滅びの道を進んでしまい、ついにはバビロン捕囚に至ってしまいます。それでは、バビロン捕囚から解放されて祖国帰還できた者たちが「残りの者」になったか?これも否でした。イザヤ書63章17節を見ると、祖国帰還後も神が依然として民の心を頑なにしていることを嘆くところがあります。そういうわけで、イエス様の時代にもイスラエルの民はまだ目が開かれていない状態にあると理解していた人たちがいたのです。
この背景がわかると、イエス様が信仰の目を開くことを重視したことがよくわかります。肉眼の目を見えるようにしたのは、そういう具体的なことを通して抽象的なことを理解できない人たちをわからせる手っ取り早い方法でした。私は復活の日に死者を目覚めさせることが出来る、といくら口で言ってもわかってもらえないから、死んだヤイロの娘もラザロのことも「眠っているだけだ」と言って生き返らせたのも同じことです。また、私は罪を赦す権限があると言っても、そんなの口先だけだと騒ぎ立てるので、それならこれでどうだ、と全身麻痺の人を歩けるようにしたのも同じです。このように具体的な見える業を通してイエス様は信仰の目を開ける力があることを示しました。そして人間の信仰の目が大々的に開かれるような出来事を後で起こしました。言うまでもなく十字架と復活の出来事です。
そのように信仰の目を開くためにこの世に送られたイエス様ですから、ナザレの会堂の礼拝で「見えない人の目が見えるようになる」ということをイザヤ書61章に結びつけて述べたとしても全然おかしくないわけです。それにイザヤ書のギリシャ語訳がまさに示すように、イザヤ書61章と「目が見えるようになる」を結びつけて考えることはユダヤ人の間でも既に見られていたのです。
3.朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。席というのは説教者の座る所です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この言葉の後にイエス様の解き明かしが続かなければならないのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。22節をみると、会衆みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、イエス様が「聖書の言葉が実現した」と言った後で解き明しを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容の話だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したとイエス様が解き明かしの冒頭で宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。
ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。これでは、この後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという急転回がどうして起きたのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の解き明しを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。(注 μαρτυρεω「証する」という動詞は、与格の目的語を伴うと肯定的にも否定的にもその者について証する意味があります。)会衆は、イエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いている。しかしその同じ会衆が、「あれはヨセフの子の大工ではないか」とも言っている。つまり、神の恵みの言葉を価値あるものとわかって、イエス様が誰の子とか全く関係ない雰囲気が生まれた。しかし、同時に「あれはヨセフの子」ということに目が行ってしまい、せっかく価値があると思った教えが色あせてしまう。この人は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなはそれを知っている、ということで遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様は肉眼に映る像をはるかに超えた存在に映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。
信仰の目に映るイエス様とは、まさに天と地と人間を造られた神がこれだと言って提示するイエス像です。それは、人間が限りある知識を駆使して、ああだ、こうだと言って造り上げたイエス像ではなく、聖書の御言葉を繙くことで神から知る力を与えられて、それで知ることのできるイエス像です。イエス様がそのように見えるというのは、やはり十字架と復活の出来事が起きる前は難しかったのです。
イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、彼らが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということです。さらに、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、そう言いたくて仕方がないと見破ります。
しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことはしませんでした(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の記述とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンのらい病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異教徒の民でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異教徒に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じであると言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った北王国と同じ立場にある、というのです。
これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、ゴルゴタの十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。
4.ところで、なぜイエス様はナザレの人たちが自分に対して攻撃的になるようなことを言ったのでしょうか?どうして、肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導かなかったのでしょうか?先ほども触れましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりすることを出発点として信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります。
本当の信仰とは、たとえ肉眼で見なくとも、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことを真理と信じられることです。奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るというのは、結局のところ、肉眼に頼る信仰で、必ずしも信仰の目を持ってする信仰にはならないのです。奇跡の目撃や体験がなくなると信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。
それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指すことをしなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反することがあるなどと認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘しました。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。全く正反対に、自分たちは、かつて神の罰として滅亡した王国と同列視されるような罪は何も犯していない、といきり立ってしまったのです。
以上から明らかなように、信仰の目が持てて、その目でイエス様を見ることができるためには、自分が神への不従順と神の意思に反する罪を持っていることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるかもしれません。しかし、神の意志とは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪まで厳しく問うものです。人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を宿していることの表われなのです。
しかし、父なるみ神は、人間がこの世の人生を終えた後、造り主である自分の許に永遠に戻れるようにしてあげよう、この世の人生では永遠に至る道を守られて歩むことが出来るようにしてあげよう、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのです。それで、人間の罪がもたらす神罰を全てイエス様に身代わりに受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架でした。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが実は自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、その瞬間、イエス様の身代わりの罰受けは本当にその人に起きたことになるのです。この時、その人は信仰の目を持っています。
人は信仰の目を持つと、自分の内に罪が宿っているのが見えます。その時悪魔はどす黒い歓声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれには意を介さず、内に宿る罪を透かすようにしてゴルゴタの丘の十字架に目を注ぎます。十字架にかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時悪魔は失神して倒れ、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが、神を全身全霊で愛そうとする心と、隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。
兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。
5.こうしてイエス様を救い主と信じるようになって信仰の目を持てるようになったと私たちですが、そうは言っても、肉を纏って生きる以上、肉眼の目に頼ってしまう危険はいつもあります。どうして私たちは、そのような中途半端な状態に置かれなければならないのでしょうか?どうして、一度与えられた信仰の目が全てにならないのでしょうか?ルターは、信仰とは育たなければならないものだと教えています。そうすると、今の中途半端な状態というのは、まさに信仰を成長させるためにあるものだということがわかります。このことについて、ルターの教えをひとつ引用して本説教の締めとしたく思います。この教えは、第二コリント5章7節の聖句「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」の解き明しです。
「福音の光に照らし出された人というのは、聖書の御言葉を噛みしめながらキリストとしっかり結ばれていく人である。たとえ自分にまだ罪が残っている、自分はまだ罪の中にいると思っていても、その人は日に日に罪と地獄の外へと運び出されていくのである。
しかし、そこには戦いがあることを忘れてはならない。肉眼で見えることや感じることが聖霊や信仰に戦いを挑んでくる。同じように聖霊と信仰も見えること感じることに戦いを挑む。信仰というものはその性質上、理性が把握しようとすることには介入しない。理性がしたいようにほおっておくと言ってもいいだろう。信仰はただ、肉眼の目を閉じさせて、生きる時も死ぬ時も神の御言葉だけに依り頼むようにさせる。翻って、見えること感じることは、理性や五感で把握できる以上に進むことができない。このように、見えること感じることは信仰に対峙するものであり、信仰は見えること感じることに対峙するのである。この戦いで、信仰が成長すればするほど、見えること感じることは廃れていくのであり、逆もまたしかりである。
罪、驕り高ぶる心、憎む心、独り占めしようとする心、その他のあらゆる神の意志に反するものが、キリスト信仰者である我々の内にまだぶら下がっているのは、それらが逆に我々を鍛えさせてくれるからなのである。御言葉に依り頼みながらそれらに戦いを挑んで鍛えられていくと、我々の信仰は一日一日と前進する。そして最後には、頭のてっぺんから足のつま先まで完全なキリスト信仰者になれて、完全にキリストに覆われて、天の御国の真の労いの祝宴の席につけるのである。我々は信仰の戦いを考える時、海の荒波を思い浮かべるが良い。波は次から次へと岩壁に押し寄せ、それはあたかも力ずくで岩壁を砕こうとしているかのようである。しかし、砕かれるのは波自身であり、砕かれては消え去ることを繰り返すだけである。罪の攻撃もこれと同じである。罪は、我々を打ち砕いて絶望に追い込もうと、それこそ覆いかぶさるように襲いかかってくる。しかし、力が足りず退散しなければならないのは罪の方である。なぜなら、罪はこの世の終わりの日に音もなく消え去るように既に定められているからだ。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン