お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
2018年7月8日(聖霊降臨後第7主日)礼拝
担当 田中 良浩
2 7月 8日(聖霊降臨後第7主日)
聖書日課 創世記3:8~15、Ⅱコリント5:11~15、マルコ3:20~30
説教題 「恵みの力、聖霊によって
序 『イエスとはいったい誰か?』これが今日の主題である!
今日の福音書の日課は、実に異様な雰囲気に溢れた情景が物語られている。
その物語の内容は、神の出来事に関しては、一般的人間の理性あるいは
感情の盲目性と無理解である。
さらに宗教的な人間(特にここに挙げられているエルサレムから下ってきた律法学者たち)であってさえ、それは反感と拒絶である!
1 物語には主イエス・キリストについての常套的な導入(マルコ3:31)
がある。つまり
「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」である。
◎主イエスのおられる所には、いつも「大勢の群衆が集まっていた」という描写はいくつもある。(マルコ2:2、13、3:7、4:1他)。
◎それは人々にとっては主イエス・キリストが必要であることをしめしている。
◎現代でも同様である。大多数の人々には関心がない。しかし、聖書の語
る本質からいえば、人にとって主イエス・キリストは求めるべきお方で ある。
主イエス・キリストにこそ、真実、癒し、力、救い、生命、希望があるからである。
2<人間の盲目性と無理解>=それは家族に現れる。
そこに家族が来訪する!このように描かれている。(マルコ3:21)
「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変
1
になっている』と言われていたからである。
こともあろうに、イエスを「取り押さえに来た」のである。
「取り押さえる」=非常に強い表現である。そこには明確な理由があるから
である。理由は主イエスが「あの男」と呼ばれているほど、「気が変になって
いる」からである。
また、初代教会では有力な指導者であった主の兄弟ヤコブもヨハネによれば
「兄弟たちもイエスを信じていなかった」(7:1~16、5)のである。
このような家庭のトラブルは、主イエスが語られた通りである。(マタイ10:35)
「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
<人間的な関係、肉の思いを中心として生きるか?それとも、主イエスの
教えられる霊の導き、福音の教えによって生きるか?>の戦いである。
後年、主の兄弟ヤコブは、使徒パウロと同様、復活のキリストに出会って
(Ⅰコリンと15:7)使徒となるのである。
3<宗教的な指導者、律法学者、ファリサイ派の人びとの主イエスに対する
反感と拒絶>=それがガリラヤでさえ生起した!
彼らはわざわざエルサレムからはるばる下って来て、異常な言葉で騒いだ。
彼らは、『あの男は、ベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、
『悪霊の頭の力で、悪霊を追い出している』と叫んだのである。
◎ここで宗教的な指導者たちが使った、「ベルゼブル」とは一体何か?
この言葉は共観福音書でもしばしば用いられている。(マタイ9:34、
10:25、マルコ3:22、ルカ11:15=共通の出来事)。
これは当時、昔から伝えられところによると「エクロンの神、バアル・ゼブブ(蠅の神)」である。これは本来は「バアル・ゼブル」(君主)が
原型である。嘲笑的に、また忌避すべきものとしてこのように表現されたのであろうか?
2
【列王記下1章参照して頂きたい】
イスラエルの王、アハズヤは病気になったが、彼は使者を遣わして
「エクロンの神、バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか、尋ねよ」と2回も、3回も尋ねさせたのである。
その結果預言者エリヤは、「それはイスラエルには、その言葉を求める神はいないとでも言うのか。」と語って、アハズヤに死を宣告するのである。
ここで用いられている名が、バアル・ゼブブ(蠅の神)である。
蠅とは興味深い言葉である。日本では、蠅は病気を伝染させるもので
不潔な虫として敬遠される。「蠅侍」とは意地汚い侍のことであり、
また、「胡麻の蠅」といういやな言葉も残っている。
(※高野山の聖人の格好をして、旅人から金品をかすめ取るもの)
当時の宗教的指導者、律法学者たちは、主イエスを批判、嘲笑して、
「エクロン(異邦)の神、蠅の神、悪霊の頭」と呼んだのである。
これに対して、主イエスは言われた(3:23~26)
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その 国は成り立たない。家が内輪で争えばその家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」と。
4 この日課から学ぶべきこと
(その一)家族(家庭)と信仰について
(1)この日課に続く箇所に記されている。(マルコ3:31~35)
特に「イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
神の御心にそうか、どうか、御心を行うかどうか、によるのである!
(2)ヨシュアの言葉(ヨシュア24:15)
「あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
3
家の信仰、同時に「信仰の継承」の必要がある!
(その二)霊の理解について(マルコ1:9~11)
(1)主イエスは洗礼を受けた。その時、神の霊が鳩のように
主イエスの上に降った。そして声が聞こえた。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。
私たちも洗礼によって、この恵みに与っている。
(2)言い換えれば、聖霊の証印をいただいている。
(Ⅱコリント1:22参照)
「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたち
の心に“霊”を与えてくださいました。
<イエスにおいて然りとなった、と使徒パウロは言う>
(その三)
◎今日の旧約聖書の日課が教えている。
初めの人、アダムとエバは、神のみ心に背き、罪を犯した。
それにも拘わらず、主なる神は人を、探し続けた。
「あなたはどこにいるか?」と。
そして救いを約束された(創世記3:15)=原福音
神は創造の始めから、救い、希望を約束されている!
◎私たちの生活は決して、生ぬるくはない!厳しいものがある。
戦い、苦難、試練そして病がある。
教会讃美歌408
「あてもなくさ迷い 行き悩む時がある・・・」しかし
私たちは「守りませ わが主よ」と祈る!
私たちは恵みの力、聖霊によって導かれている!
4
第19回 コリントの信徒への手紙 2018年7月1日
5章9〜13節「信仰生活の仕方」
今回の聖書では前回に続いて、コリントの教会の中での問題であります。教会の中で、キリスト者は、どういう生活をしていくか、ということです。
普通の教会生活は、みんなが親しく、交わりを持ってお互いが助け合ったり、励まし合ったりします。
何よりも、みんなで、いっしょに神に礼拝する事でしょう。そして、教会は、きよい生活をするところでしょう。しかし、実際の生活は、どうでしょうか。自分たちの教会の事だけでなく、他の教会の様子等も考えてみると、そんなに美しいものでは、ないかも知れません。
教会の中にだって、争いがあったり、困った事をしてくれる人も、あるにちがいありません。
きょう、私たちが読んでいるコリントの教会は大変な教会であります。この教会に問題があった事は、すでに読んできました。5章の始めのところで「あなた方の間にみだらな行いがあり、しかも、それは異邦人の間にも、ない程のみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。」
パウロは、具体的に書いています。教会の中に、そのような不品行と堕落がある、ということ自体、許せない事と、パウロはかなり怒っています。
とことが、9節以下に書いているのは、それどころの話では、ないのです。9節には、「わたしは以前、手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きました。」とあります。
今、読んでいるコリント人への第1の手紙の「前の手紙というと、それがどこにあるか分かりません。そのことは大したことではありません。
大事なことは、ここに不品行な者と交際してはいけない、と注意したはずである、ということであります。
不品行な者が教会の中にいた事は前に見た通りですが、ところが、ここには不品行な者の他に、貪欲な者、略奪する者、偶像礼拝擦する者、等がいたことが書いてあります。
こういう事は、今日の教会では想像もつかないことであります。しかし、ここでは、そういう者たちがいる、そういう人々と交わってはいけない、ということです。
教会以外の不品行な者と交際してはいけない、というのであれば、私たちはこの世から出ていかなければ、ならないことになるだろう、というのであります。
しかし、ここに書いてあるのは、教会の中の話であります。11節を見ますと、そこには、「人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者等」とも交際してはならない、というのであります。
他のことは、ともかく、人をそしる者、酒に酔う者ということになると、今日の教会の中にもいますね。そればかりか、それらを、もう少し広く考えれば、嘘をつく者、お行儀の悪い者、というように、厳密に言えば、話はもっと広がっていくかも知れません。
しかし、ここに書いていることは、できるだけ厳しく話しを進めていく、というのではなく、教会の交わり、というものが、ただ、親しかったら、いいと言うものではない、はっきりしたけじめをつけなければならない、という事ではないかということでしょう。
教会は甘い、やさしい生活をする、ところではなくて、きびしく、神のお喜びになるような生活を励まなければならないのであります。
パウロが、望んでいることから見れば、多くの教会が、今日も、何か、大切なものを忘れているのではないか、といっているのです。
それなら、どんな教会生活をしたらいいのでしょうか。
ここには、このような人とは、交際もしては、いけない、し、一緒に食事もしてはいけない、と書いてあります。そして、 最後には、13章に、「その悪人たちを、あなた方の中から除いてしまいなさい、」とさえ書いています。
誰が読んで も、あたりまえの事で、教会は何より聖い生活を心がけなければならない、ということであります。
普通には教会と言えば、聖なる団体である、と、考えられるに、ちがいありません。
しかし、人をそしる者、というようなことまで記されている、としたら、私たちは、どうしたらいいものか。人の悪口を言う者等も、その中に入る、とすれば「自分は大丈夫だ」と言える人が、どれだけいることか。それでなくても、私たちは、自分が聖い者だから、教会に入れられている、等とは考えていない、はずです。
信仰に入る者は、みな、自分が罪人であることを知っているのであります。それを告白して、救いを信じるようになったのではないでしょうか。そうであれば、私たちはどうして、人を咎めることができるでありましょうか。
人を責めるどころが、自分の方が問題であるのに、と、いうことになります。ただ、そのような罪人であるにも、かかわらず、キリストの救いを受けているからこそ、こうして、教会生活をしているのであります。
私たちはキリストの救いによって許されたのであります。しかし、それだからこそ、一層、聖い生活が望まれるのであります。
人間が、キリストによって、救われたのは、神のお喜びになる、聖い人間となるためであります。
罪を救われた者がまことに、神がお望みになるような、生活をする、ことであります。
教会は道徳的に立派な生活をすることを第1の目的としておりません。
教会は自分たちの罪を知っている者が、ただキリストの救いによって、救われた者たちが、神のために、生きよう、としているのです。
従って、そこには、お互いに対する救しもあるはずであります。他の人の事をだけ、責める事はできるはずではありません。しかも、そういうキリストの救しを、受けた者の集まりでありますからこそ、「きよさ」を求め、「きびしさ」を望むはずであります。それならば、ここに記されているような、コリントの教会の状況は、もう救いを忘れたことでありますから、許す事ができないのであります。
人間だからそれくらいの失敗もあることでいいのではないか、とは、言えないのであります。
人の道に、はずれているから、いけないと言うのでもなくて、救いを受けた者の中、にそういう事は全く許すことができない、ということです。
それなら、私たちの生活には、「教会」という何かはっきりした枠といったものがあるのでしょうか。
信仰生活は世を救うためにある、とよく言われます。教会はキリストの救いを伝道していく働きをしていきます。
もし、信仰ということで、人間生活をよくしよう、という方に重点がおかれていくなら、教会の生活は余り意味がないことになるでしょう。
教会でなくても、この世界が少しでもよくなれば、それでいいのではないかと思う人々は多くいます。教会をつくる事より、世の中を良くしよう、と、政治の面から、或は経済の面から努力していこうと目指す人も多くいます。
ここでパウロが言っている事は、まず、しなければならない事は、教会の中をよくする事であると言っています。
キリストによる救いは、この世界を救うことではあります。そのため、この世で働き、努力することは、信仰者が無関心でいて、いいことではありません。そういう点から考えれば、信仰者にとって、教会生活というのは、まことに、特殊な生活の仕方であります。特に日本のような神道や仏教のような宗教が根強くある中では、なかなか困難な道でありましょう。だからこそ、今の時代にあって私たちの教会の働き、教会の存在こそ、大切なことになりましょう。
神の救いが伝えられていくために、イスラエルという民が選ばれたように、今日、教会の働きは、新しいイスラエルとして、生きていくことを神は望んでおられるのです。
神は私たち信仰者を大切に用いて、いこうと計画されているのであります。 アーメンハレルヤ!
申命記5:12~15、Ⅱコリント4:7~18、マルコ2:23~28
説教 「束縛からの解放―平安な生活―」
序 私たちが日常の生活で、求めている最も大切なものは何か?
最初に聖地イスラエルを訪ねたのはもう50年近くも前のことである。
留学の帰り道、幸運にも訪ねることが出来た。しかしその直前、
日本赤軍派の岡本公三がイスラエルのテルアビブ空港で無差別な乱射事件
を起こした直後のことであった。不安な状況のなかでエルサレムに着いた。
バスターミナルを出て、行く先のホテルの名前を告げると、一人の男性は
親切にも丁寧に教えてくれた。すると別れ際に一緒にいた男の子が私たち
に笑顔で「シャローム」(主の平和)と挨拶してくれた。
その出会いは、まさに私たちに対する祝福であった。
1 今日の福音書は、いわゆる「安息日論争」である。
つまり、「ある安息日(土曜日)に、主イエスの一行が麦畑を通って行くと
弟子たちは、麦の穂を摘み始めた。するとそれを見ていたファリサイ派の
人々が、イエスに『御覧なさい。なぜ彼ら(あなたの弟子たち)は安息日にしてはならないことをするのか?』と言った」のである。
それに対して主イエスは、ダビデの出来事(サムエル上22:2~7)を通して答えられた。
「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」と。続けて言われた、
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある。」と。
<一言でいうと、「律法の束縛からの解放
である!>
2 ここで私たちは、「安息日」について、今一度学んでみよう!
◎安息日が定められた経緯が旧約の日課(申命記5章から、同時に
出エジプト20章も同様である)に記されている。
安息日は創世記(2章の始め)によれば、「 天地万物は完成された。
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に神は御自分
の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である。」と記されている。
まず、「神の安息の日」である。つまり“創造の結末が安息”なので
ある。そしてこの第7日目、安息の日を、主なる神は、祝福し、聖別されたのである。創造の目的が安息である。
安息とは「神の平安」(シャローム)と同義語である。
人間の創造は、神ご自身の本質“シャローム”に与ることである。
ここに創造また、人間存在の究極的な意義と目的があると思う。
ところがファリサイ派の人々や律法学者は、不従順であったために
この安息に与ることができなかった(ヘブライ4章5節以下)参照。
それゆえ、「今日あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなに
してはならない」(ヘブライ4章7節)のである。
3 このような理解から、安息日論争から福音的意味を学んで行きたい。
<今でも旧約聖書(律法)に従って生きるユダヤ教徒は、ここに記されて
いるような教えを守って、安息日を過ごしているよいうである>
つまり「敬虔なユダヤ人は、旅行はもちろん、車に乗らず、料理は作らず、電気器具は使用せず(またはスイッチをさわらず)、お金は使わず、ペンも持たず、この1日を他の週日と区別する。
さて、安息日に禁じられた仕事のことを“メラハー”と言うが、その仕事(メラハー)が何かについて、聖書の中には、具体的にはわずかな例しか挙げられていない。耕すこと、刈り入れ、あるいは火を焚くことである。
これらのことから、推測するにファリサイ派の人々、律法学者たちは、
「弟子たちはこの刈り入れの掟を破った」と理解したに違いない。)
(タルムードは、39種類の仕事を禁止されたものとして挙げている。)
<私たち「安息日の出来事」から学ぶべきこと>
第一のことは、主なる神が、そして主イエス・キリストがお与えくださるのは「終末的、究極的な安息(平安・シャローム)」である。
何時の時代も、どこの社会も人間の生きている世界は絶えず不安、
混乱また争いで渦巻いている。
私たちの時代も例外ではない。不安と混乱はますます増大している。
預言者イザヤは語っている。(28:12~13)
「主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。
それゆえ、主の言葉は、彼らにとってこうなる。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ(命令に命令、命令に命令)、カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ(規則に規則、規則に規則)しばらくはここ、
しばらくはあそこ。」彼らは歩むとき、つまずいて倒れ,
打ち砕かれ、罠にかかって、捕らえられる。」と。
この主なる神さまがお与えになろうとした「安息」、これを神の民
イスラエルは理解しなかった、いやむしろ侮った。
確かに祭司や律法学者は叫んだ、「これは主の命令だ、命令だと、
また、主の規則(律法)を守れ、規則(律法)を守れと!」
しかし、空しかった!
神の民はつまずいて倒れ、打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられた。
私たちはヘブライ人への手紙から学ぶことが出来るように:
真の安息に与るために「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ4:7)のである。
◎私はホスピスで、多くの方々に「神さまの平安がありますように!
とお祈りしている。
神のお与えくださる安息、平安(シャローム)こそ、私たちにとっ
て究極的に必要なものだからである!
(2)第二のことは、単に週一回の安息日(クリスチャンにとっては毎週の日曜日)のみならず、毎日が、安息の日々であり、罪の奴隷として働くのではなく、罪の赦しが与えられ、平安が与えられて主なる神への礼拝と、隣人に対する奉仕に生きることの大切さを学ぶ のである。
< Mルターは小教理問答書の第3の戒めで語る。 >
「安息日を覚えて、これを聖とせよ」
これはどんな意味ですか?
「私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。それで私たちは、神の
言葉や説教を軽んじないで、むしろこれを聖いものとして、喜んで
聞き、また学ばなければなりません」と。
これは毎週の日曜日のことだけではありません。毎日のことです。
私たちは、様々な不安と恐れのなかで生きているのも事実である。
それゆえに私たちは、各家庭で、家族で、夫婦で、また一人であっても、このような礼拝や祈りの時をもち、安息、平安をいただくのです。
また、大教理問答書においてもルターは
「日々、神の言葉と交わり、絶えずこれを心に宿し、また口に帯びる
必要があります」と記しています。
第三のことは、「人の子は安息日の主でもある」という主ご自身の言葉である。
つまり、第一のこと「私たちにとって究極的に与えられるもの安息、平安」(シャローム)、そして第二のこと「日々に、この安息、平安が
与えられること」、これが主イエス・キリストの福音である。
これが主イエス・キリストによって成就、実現していることが、今ここに教えられているのである
◎この主イエスの福音の教えを受け入れ、これによって生きるきることが、
キリストを信じる信仰生活ということができるであろう。
主にある安息、平安な生活こそ、まさに感謝の生活である。
<疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませて
あげよう!(マタイ11章28節)>
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所のイエス様の教えは少しわかりにくいと思います。まず、断食についての教えがあります。ファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちは断食をするのに、なぜイエス様の弟子たちはしないのか、とイエス様が問われました。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと言ってもよい人たちです。イエス様の答えは、花婿が一緒にいる時に婚礼の客たちは断食などできない、というものでした。つまり、イエス様が花婿、イエス様の弟子たちが婚礼の客ということで、それで断食する必要はない、というのです。これは一体、どういう意味でしょうか?
イエス様は続けて、花婿がいなくなってしまう日が来て、その時に婚礼の客たちは断食することになる、とも言われます。つまり、イエス様がいなくなって弟子たちが断食することになる、ということです。新共同訳では「花婿が奪い取られる」となっていて、イエス様が「奪い取られる」ということですが、ギリシャ語原文の動詞(απαιρω)はそんな略奪のような強い意味で訳する必要はなく、イエス様が私たちのもとから「取り去られてしまう」程度でよいと思います(英語のNIV訳もドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳もそうです)。そういうわけで、この箇所は、イエス様が天に上げられて弟子たちのもとを離れていくことを意味します。そうなると、イエス様が天の父なるみ神のもとにいる時が断食する時ということになります。それでは、私たちも断食をしなければならないのでしょうか?このことも後ほど考えてみます。
次にイエス様は、古い服に継ぎあてするのに織りたての新しい布を使う人はいない、そんなことをしたら新しい布切れが古い服を引き裂いてしまう、と教えます。これはもっともなことです。織りたての布はまだ洗濯して乾かしていないので縮んでいません。古い服は何度も洗濯して乾かしているので既に縮んでいるし、生地も使い古されて弱くなっています。そんな服に新しい布切れを継ぎあてにして縫い付けて洗濯して乾かしたら、どうなるでしょうか?新しい布はギュッと縮んで、古い弱くなった周りの布を引っ張って、ひどい時は引き裂いてしまいます。古い服には古い布の継ぎあてを、新しい服には新しい布の継ぎあてを、などとイエス様は何か暮らしに役立つ情報を提供しているのでしょうか?
これに続く、新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけないという教えも同じように聞こえます。熟成した古いぶどう酒と違い、新しいぶどう酒は酸味が強いです。古い革袋というのは、弾力性もなくなって硬直していたり擦り切れたりしています。そこに酸味の強い液体を流し込んだら、すぐ裂け目ができてぶどう酒は漏れ出してしまうでしょう。これも暮らしに役立つ情報です。
ところが、これらの箇所をよく目を凝らして読んでみると、イエス様の意図は暮らしに役立つ情報提供ではないことがわかります。イエス様は言われます。新しい布で古い服に継ぎあてする人など誰もいない、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる人など誰もいない、と。つまり、こんなことは誰でも知っている当たり前の話である、と言っているのです。それでは、イエス様はなぜ誰でも知っていることをわざわざ話したのでしょうか?それは、こうした日常生活の当たり前のことを話しながら、それを何かにたとえているのです。そのたとえられたことは、生活の当たり前のことと同じくらいに当然のことなのだと言おうとしているのです。それでは、イエス様は何のたとえを話されているのでしょうか?以下、断食の話とあわせてこれらのことも見ていきたいと思います。
最初に断食についてのイエス様の教えを見てみましょう。断食と言うのは、多くの宗教に見られる行為です。ある決められた期間とか、何か特別なことが起きた時に食べ物を摂らない、ないしは食べ物飲み物双方を摂らないということをします。断食と聞いて私たちがよく耳にするのは、イスラム教でラマダーンと呼ばれる月に日の出から日没までの間毎日行われる断食があります。断食の目的はそれぞれの宗教により様々と思われますが、おおざっぱに言えば、食べる飲むという人間の基本的な欲求を制限することを通して、それぞれの宗教が崇拝しているものと近づきになろうとすることがあるのではと思います。
ユダヤ教の伝統の中では、断食のなかで大きなものとして旧約聖書レビ記16章に定められている、毎年秋の第七月の十日の贖罪日、つまりイスラエルの民全体の罪を贖う儀式の日が断食の日と定められていました。これとは別に、ダビデ王がサウル王とヨナタンの戦死を聞いて悲しんで断食したということがあります。深い悲しみの心を神に捧げる意味合いで断食することがあったと思われます(サムエル記下1章12節、サムエル記上31章13節も)。
時代が下ってイエス様の時代のユダヤ教社会では前述の贖罪日の他に、宗教エリートのファリサイ派が週二回断食していたことが知られています(ルカ18章12節)。洗礼者ヨハネの弟子たちも本日の福音書の箇所から、断食をしていたことが窺われます。イエス様自身は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野で悪魔から試練を受けた時に40日断食をしました。しかし、彼自身は特に弟子たちに断食を命じることはありませんでした。その理由が、先ほど見ました花婿と婚礼の客たちのたとえでした。このたとえについて見てみましょう。
イエス様を花婿とする婚礼とは何か?これは黙示録19章や21章に記されていますが、将来今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日、それはまたイエス様が再臨されて神の国が目に見える形で現れる日ですが、その神の国での祝宴を指します。その日、死者の復活が起こり、創造主である神に選ばれた者たちがこの祝宴に招かれて、神から全ての涙を拭われて(黙示録21章4節)、前世に失ったものを百倍にして返されるなど(マタイ19章29節)大いなる労いと報いを受けます。この祝宴に招かれた者たちがひとくくりになってイエス様の「花嫁」と呼ばれます。普通、結婚式では花婿と花嫁が主役ですが、この祝宴に迎えられた者全員が主役ということになります。このような神の国での救い主と救われた者たちの結婚は、先ほど読んで頂いた本日の旧約聖書の日課ホセア書2章21~22節にも預言されています。新共同訳では、神が「あなたと契りを結ぶ」などと一昔前の歌謡曲か演歌みたいな訳ですが、ヘブライ語原文の動詞ארשの意味は文字通り「婚約する」、「結婚の約束をする」です。
神の国の「結婚式」の祝宴につく者たちは皆、天地創造の神のもとに永遠にいることが出来るようになった者たちです。わざわざ断食などして神とお近づきになる必要などありません。祝宴に招かれたのに、断食しますと言うのは招待を断るようなものです。それでは、イエス様が地上におられた時、断食など必要ないと言ったのなら、そのような祝宴が催される神の国が来ていることを意味します。でも、神の国というのは今ある天と地が新しい天と地に取って替わる時に到来するというのが聖書の立場です。イエス様の時代の天と地は今の私たちの天と地と同じように、かつて天地創造の時に造られたもののままです。イエス様は少しせっかちだったのでしょうか?
実はイエス様が地上で活動していた時、神の国は将来のように見える形ではないが、イエス様にくっつくようにして一緒だったのです。どういうことかと言うと、将来現れる神の国は、黙示録にも記されているように、嘆きも苦しみもなく死さえないところです。また、前世の労苦が全て労われ、前世に被った不正義が最終的に清算され、神の愛と恵みと正義が完全に実現されるところです(黙示録19章5-9節、21章1-4節、マタイ25章31-46節、ルカ16章19-31節、ダニエル12章1-3節、本日の旧約の日課ホセア書2章21-22節も)。そこで、イエス様が地上で活動していた時、数多くの奇跡の業を成し遂げられたことを思い出しましょう。病気の人に治れと命じると病気はなくなり、悪霊に出て来けと命じると言われるままに出て行きました。また嵐に静まれと命じれば静まり、何千人もの人たちの空腹を僅かな食糧で満たしたりしました。
イエス様のこうした奇跡の業は、まさに将来現れる神の国がどういうところであるかを人々に体験させることでした。奇跡の業を受けた人たちは、嘆きや苦しみや死もない神の国を垣間見たというか、味わうことができたのです。このようにイエス様が弟子たちと共に行動し、群衆に教え、奇跡の業を行ったというのは、将来現れる神の国への迎え入れの予行演習のようなものだったのです。将来断食など不要になる大いなる祝宴の日が来る、今自分が地上にいるのはその前触れなのだ、ということなのです。本日の福音書の箇所の前を見ると、イエス様が大勢の罪びとたちを招いて一緒に食事をしたことが宗教エリートたちのひんしゅくを買ったという出来事があります。イエス様はこれらの罪びとたちに「付き従いなさい」と命じ、彼らは言われるままに付き従ったのでした(マルコ2章14節、15節)。そこでイエス様は自分のことを医者である、と言われますが(17節)、彼らは心の病を癒してもらい、これからは天地創造の神の意思に沿うように生きようと立ち返った人たちだったのです。そういうわけで、この食事会も将来の神の国での祝宴の予行演習のようなものだったのです。
ところで、イエス様は昇天日に天に上げられ、再臨の日までは天の父なるみ神の右に座しています。イエス様が地上におられないこの期間は断食することになるとイエス様は言われるのですが、なにがなんでもしなければならないということではないことに注意しなければなりません。マタイ6章11節でイエス様は、断食する場合、自分はどれだけ苦行を積んでいるかを周りの人に知られるためにやってはいけない、自分がどれだけ信心深いかを他人に見てもらうために行ってはならない、と教えています。同じようなことは既に旧約聖書の中にも言われています。イザヤ書58章やエレミア書14章で神は、いくら断食や祈りをしても、する者たちが神の意思に背くような生き方をしていれば、そうした苦行は何の意味も持たない、と言われます。つまり、断食というのは神の意思に沿うような生き方をしている者が行わなければ意味がない、ということです。断食することが神の意思に沿って生きていることの証しであるというのはダメなのです。断食する以前に既に神の意思に沿うように生きるようになっていないとダメなのです。そうなると、神の意思に沿う生き方とはどんな生き方かを見なければなりません。それを知る鍵が、イエス様の新しい布きれと新しいぶどう酒のたとえの中にあります。
先ほど申しましたように、イエス様の教えは暮らしの知恵ではなく、何かをたとえる教えです。何のたとえなのでしょうか?教えのポイントは、最後の節22節の「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言うところにあります。どういうことかと言うと、古い服や古い革袋を引き裂く力を持つ新しい布きれとか新しいぶどう酒というのは、イエス様自身のことを指します。引き裂かれてしまう古い服や古い革袋とは、イエス様を継ぎあてられたり、注がれたりして耐えられない状態にある人間を指します。つまり、イエス様は私たちに、新しいぶどう酒である彼を入れてもずたずたにならない新しい革袋たれ、新しい継ぎあてをあてられても破れない新しい服たれ、と勧めているのです。イエス様を内に入れられないままだと、古い革袋は古い革袋のままで、ただ硬直した、やがて擦り切れて使い物にならなくなってしまうものでしかない。しかし、そのままの状態で新しいぶどう酒を入れたら耐えられるような代物でもない。新しい革袋に変身しなければ、イエス様をしっかり内に留めて置くことはできない。どうしたら古い革袋がそのような革袋になることできるのでしょうか?断食のような苦行を積んだり、掟や戒律を守ったりすることで自分をそのように一新することができるでしょうか?苦行や掟や戒律というものは、言わば古い状態での完璧さを追求するもので、行えば行うほど、古い状態に満足して新しいものを一層受けつけなくなってしまうのではないでしょうか?
創造主の神とそのひとり子イエス様が成し遂げたことは、まさに古い服だった私たちがイエス様という新しい継ぎあてを縫い付けられても大丈夫な新しい服に変えるものでした。また古い革袋だった私たちがイエス様という新しいぶどう酒を注がれても大丈夫な新しい革袋に変えるものでした。そのような変化はどのようにして起きたのでしょうか?それは、ゴルゴタの十字架の上で起きました。人間を造られた神聖な神と人間の間を引き裂いてしまった原因に罪の問題があります。神は自らこの問題を解決して人間との結びつきを回復させようとして、ひとり子イエス様に人間の全ての罪を背負わせて十字架の上まで運ばせて、そこで罪の罰を受けさせました。イエス様は神の前であたかも自分が全ての罪の責任者であるかのように振る舞わなければならなかったのです。神聖な神のひとり子ですから、本当はそうする必要はなかったのに。しかし、人間には背負いきれないので、その役を買って出たのです。イエス様は、真に犠牲の生け贄になられました。そこで私たち人間が、これら全てのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しが効力を持ち始めます。なぜなら、この罪の赦しは神がイエス様の犠牲に免じて与えるものだからです。まさに神から罪を赦してもらったので、人間は神との結びつきを回復できます。
今、「イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると」と申しました。洗礼を持ち出すと、イエス様を救い主と信じるだけでは足りないのか、と驚かれるかもしれません。聖書の観点では、人間がイエス様を自分の救い主と信じることができるのは、神の霊である聖霊の力が働いたことによります。聖霊の力が働かないと、イエス様のことは知識として知っている単なる歴史上の人物にとどまります。今を生きる自分とは直接に関係のない過去の人物です。これが、私の罪をゴルゴタの十字架の上で神に対して償って下さった方、私が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにして下さり、私がこの世を去った後は神の御許に永遠にいられるようにして下さった方、そのようにイエス様のことがわかるというのはもう歴史上の人物としての知識を超えています。今を生きる自分と直接かつ重大に関わる人物です。こういうふうになるのは、聖霊が働いたからです。
イエス様のことを救い主とわかって信じるようになるのは聖霊が力を働かせたからですが、洗礼を受けると、完全に聖霊の影響の下に置かれることになります。受けないと、せっかく聖霊の力が働いて一瞬イエス様を救い主とわかっても、次の瞬間にはイエス様から遠ざかることが起きてきます。まだ完全に聖霊の影響の下にいないからです。このように洗礼を受けた者は完全に聖霊の影響の下に置かれるので、それ以後は自分の立ち位置をしっかり自覚さえしていれば、洗礼を受ける前に見られたブレはなくなります。洗礼を受けたのが言葉を発しない赤ちゃんでも、両親が家庭の中で信仰生活を保てば子供も自然にイエス様を救い主と信じて育ちます。聖霊の影響の下で生きることを親から受け継ぐのです。
他方で、イエス様を救い主と信じる信仰に至って洗礼を受けた人でもその後の人生の中でイエス様を忘れさせる力に何度も直面します。それだけに、洗礼を受けた人はいつも聖霊の影響の下にあることを思い出してそれを自覚して生きることは大事です。創造主の神は、ひとり子をこの世に送られたことからもわかるように、とにかく人間との結びつきを回復させることを願っている方です。まさにそのために神は、人生に起こるいろいろな出来事を通しても、人がイエス様と出会えるように導こうとされます。出来るだけ多くの方がそのような神の導きに気づくよう願ってやみません。
以上から、人間はどうすればイエス様という新しい布きれを継ぎあてられても大丈夫な新しい服となり、イエス様という新しいぶどう酒を注がれるにふさわしい新しい革袋になれるかが明らかになりました。イエス様を救い主と信じる「信仰」と聖霊の影響の下で生きられるようにする「洗礼」の二つです。この二つによって人間は新しくされるのです。信仰と洗礼が人間を新しくするということについて、使徒パウロもガラテア3章26一27節で次のように述べています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。第二コリント5章17節のパウロの言葉も同じことを意味しています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい者が生じた」。
新しく創造された人は、神の愛の何たるやを知っています。それは、ひとり子を犠牲に供することも厭わない位にこの私を大事に見て下さるという愛です。その愛を知った者は、これからは神の意思に沿うように生きようと志向します。この志向は断食をすることでは生まれません。神の愛を知ることで生まれるのです。そこで、「沿うように志向する」という、その神の意思とは何かと言うと、それをイエス様がわかりやすく短く要約しています。「神を全身全霊で愛する」ことと、その愛に立って「隣人を自分を愛するが如く愛する」ことの二つです。それでは大ざっぱすぎて具体性に欠けると言う人がいれば、聖書を一生懸命繙くことをお勧めします。神を愛することと隣人を愛することの具体例を沢山見出すことができます。
本日の使徒書の日課である第二コリント3章の6節で、「文字は殺すが、霊は生かす」と言っていました。「殺す文字」とは律法を指します。「生かす霊」とは聖霊です。ここでパウロは、自分がお仕えしているのは、聖霊に基づく新しい契約であって、律法に基づく旧約的な契約ではない、と言っています。先ほど、聖書から具体例を見つけながら神の意思に沿うように生きる、と申しました。それでは律法を遵守することになって新しい契約の生き方と相いれないのではないかと疑う向きもあるかもしれません。ここで注意しなければならないのは、私が「神の意思に沿うように生きようと志向する」と言うのは、イエス様の犠牲のおかげで神から罪を赦されて神との結びつきを回復した人がそのように志向するということです。パウロが「律法は殺す」と言っているのはこれとは逆で、人間が律法を守ることで神との結びつきを回復しようとするのです。つまり、イエス様を抜きにして自分の力でそうしようとするのです。これは無謀なことです。というのは、律法というのはつまるところ、パウロも言うように、人間が本質的に神の意思に反する存在であることを明らかにする鏡だからです。従って、律法は追求すればするほど、人間を罪の赦しから遠ざけてしまうのです。罪の赦しがなければ裁きと罰しかなくなり、律法はまさに殺すものです。
キリスト信仰の場合は、聖霊の影響を受けてイエス様を救い主と信じており、その信仰のゆえに神から義と認められて、罪の赦しを受けます。本当はまだ内面に罪を宿しているにもかかわらず、神は、わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、イエスを救い主と信じる信仰のゆえにお前には罪の罰を下さない、と言って下さるのです。イエス様のおかげで、神聖な神の前に出されても大丈夫でいられる、あたかも罪のない人間にされてしまったのです。ここまで来たらもう、神にそう見なされる新しい自分を本当の自分と認めて、それに合わせていくしかありません。それに相いれない、神の意思に反しようとする古い自分は、これはもう本当の自分ではないと認めて捨てて行くしかありません。これはこの世の人生を通して続くプロセスです。それが始まると、それからは人生の中で出会うこと、出会う人の全てはこのプロセスを前に進めるために必要なものになります。いろいろ大変なこともあります。しかし、復活の日、全てのプロセスは完結し、目指していた本当の自分が全てになります。
そうは言っても、目に見えるものを目指すのではないので、雲を掴むような話に聞こえてしまうかも知れません。しかし、それだからこそ、兄弟姉妹の皆さん、パウロの次の言葉は神が彼を通して言わしめた真理として胸に刻みつけるのに値する御言葉です。
「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。私たちの一時の艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」(第二コリント4章16-18節)。
兄弟姉妹の皆さん、この御言葉を胸に刻みつけて、日々を歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
1.
本日の旧約の日課はイザヤ書からです。イザヤ書は全部で66章ある長い書物です。その中の40章から55章まではひとまとまりになっていて、内容的には紀元前6世紀初めにバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が解放されて祖国に帰還できると預言していることが主題のように見えます。実際、この預言は歴史上は紀元前538年に実現しました。バビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の新しい覇者となったペルシャ帝国のキュロス王がユダヤ人の祖国帰還を認める勅令を出し、帰還した民はエルサレムの町と神殿の再建を始めます。そもそも天地創造の神に選ばれた筈のイスラエルの民がどうして国滅びて捕囚の憂き目にあったかというと、それは民が神の意思に反する生き方を続け、民に送られた預言者たちの警鐘にも耳を傾けず、国の指導層から民衆までこぞって罪を犯し続けたことが原因でした。そこで天地創造の神は、大帝国バビロンをもってイスラエルの民に対して罰を下す道具とし、民の王国を滅ぼさせたのです。バビロン捕囚は、まさに民に対する神の神罰でした。
その後、神はイスラエルの民が異国の地で辛酸を舐めることで罪の償いを果たしたと見なし解放を約束します。民は反逆の民だったが、もともとは神がご自分の民として諸民族の中から選んだという愛すべき民であった。それで、お前たちを見捨てることはしないという約束は必ず果たすと言われるのです。その時、バビロン捕囚はそれまでの神罰に代わって罪滅ぼし、贖罪の意味を持つようになります。そのような神の約束の預言がイザヤ書40章から出て来ます。その預言は、今度は神がペルシャ帝国をもってバビロン帝国に対して罰を下す道具とし、これを滅ぼさせます。そして先ほども申し上げたキュロス王の勅令が出てイスラエルの民の祖国帰還が実現し、預言は実現します。
このように旧約聖書には、神がイスラエルの民をどう取り扱うかということが軸になって、それに応じて諸国が動く、動かされる、という歴史観が見られます。普通ですと、国が興ったり衰退したりするのを説明する時、そんな軸はなく、その国の政治や経済や人口動態、さらに周辺諸国との関係や自然条件等を調べるでしょう。それが旧約聖書では、天地創造の神がイスラエルの民に何を求め、それに民はどう応じ、それに神はどう報いたかということが、周辺諸国の動静や興亡の要因になるという観点です。そこから、歴史や世界を見る時、創造主の神と自分の関係はどうなっているか、ちゃんとしているか、それとも何か問題があるか、そういう自省が結びついた見方が生まれるのではないと思われます。そういう自省が結びついた歴史や世界の見方を持つと、歴史や世界はどう見えるか?そこでどう生きるかということが明らかになるか?そういうことはまた別の機会に考えてみたく思います。神など持ち出して歴史や世界を見るなどとはいかがわしいことだ、原理主義や宗教紛争のもとになるなどと疑いの目で見られるかもしれません。しかしながら、聖書の立場に立てば人間はどうあがいても創造主の神と並び立つことはできず、歴史や世界を見る時は先ほど申し上げた自省に立っています。こんなに自分をへりくだらせる見方は他にあるでしょうか?
少し話が脇道にそれましたが、本日の旧約の日課はイザヤ書44章21節と22節でした。21節で天地創造の神は「ヤコブよ、イスラエルよ、思い起こせ、私がお前を私の僕に造り上げた」と言っています。これが意味することは、イスラエルの民がバビロン捕囚という贖罪の業を行ったことにより、神は民を新たに造り上げた、かつての反逆の民は新たに神の僕に造り上げられた、ということです。22節で神は「民の罪や背きを雲や霧を吹きはらうように吹き払った、そのように民を贖った、だから神のもとに立ち帰れ」と言います。新たに神の僕に造られた民から罪や背きが吹き払われ、そういう一新されたものとして祖国帰還を果たすことになるという預言です。
ところが、いざ祖国帰還を果たし、廃墟となっていた町と神殿の再建を果たしても、民の状態は罪・背きを吹き払ってもらった状態からは程遠く、見かけは神殿礼拝を守っていますが、現実は神の意思に背く生き方をしていることが明らかになってきます。そうした祖国帰還後の現実と理想のギャップの問題はイザヤ書の最後の部分56~66章に表面化します。そうなると、40~55章までの素晴らしい預言は実は祖国帰還で完結するものではなく、本当の実現はまだだったという理解がされるようになります。罪や背きが完全に吹き払われる日はもっと後に来るということです。イザヤ書53章に有名な「主の僕」についての預言があります。「主の僕」が他人のために犠牲になって他人の罪を代わりに背負って神の罰を受けるという内容です。この「主の僕」は、バビロン捕囚の文脈に即して理解しようとした時、捕囚で苦しみを受ける民全体を指すと考えられました。ところが祖国帰還の後、「主の僕」は人間の罪を身代わりになって背負って苦しむ一個人を意味するようになります。さらにそれがメシア救い主の役割と理解されるようになります。それはイエス様の十字架によって実現しました。
このように、旧約聖書というのは一見すると、現代の私たちから見て過去の歴史の中で既に実現してしまったものを指しているように見えながらも、実は本当の意味での実現はまだ先のことだった、というものも沢山あります。「先のこと」というのは、時代下ってイエス様や使徒たちの時代に実現したこともあれば、さらに現代を生きる私たちに実現することもあるのです。
2.
旧約聖書の預言が現代を生きる私たちにも実現することの一例として、本日の旧約の日課を見ることが出来ます。イザヤ書44章22節が重要です。直訳すると、「私はお前の反抗をかすみのように、お前の罪を雲のように一掃した、私のもとに立ち帰れ、なぜなら私はお前を買い戻したからだ」となります。人間の罪すなわち神の意思に反する行い、考え、言葉、心の有り様、それらを皆、神がかすみや雲のように一掃した、と言うのですが、それは一体どういうことでしょうか?少し考えてみましょう。
空にある雲をいろいろ思い浮かべて下さい。空全体をどんよりと覆っている雲とか激しく巨大に出来上がる積乱雲とか青空に浮かぶ羊の群れのような雲、そうした雲を私たちは一掃できるでしょうか?ここにいる皆さん一緒に今、外に出て、空の雲に向かって一斉にふーっと息を吹きかけても雲は消えません。また、何百機のヘリコプターをチャーターして、雲のそばまで行ってふーっとやっても消えないでしょう。もやや霞も同様です。梅雨の時など山々の懐に留まっているかと思うと這い上がろうとする霞。人間がふーっとやって何の影響があるでしょうか?罪も同じように人間の力では消し去ることはできないのです。罪は人間に深く根付いてしまっているので、人間が罪を消そうとしてもそれは雲に息を吹きかけるようなことなのです。それを、神は一掃する、というのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?答えは後ほど見てまいりましょう。
イザヤ書44章22節で、もう一つわかりにくいことがあります。それは「贖う」という言葉です。難しい宗教用語です。一般には「罪の償い」をするという意味で考えられます。それで「罪を償う」と「罪を贖う」が同じような意味で考えられます。そうすると、新共同訳の「お前を贖う」というのは少し奇異な感じがします。そこでは「贖う」ものが「罪」ではなく、「お前」になっているからです。つまり、「お前を償う」からです。ヘブライ語の動詞גאלの基本的な意味は「買い戻す」です。他者の手に渡ってしまったものを買い戻す、とか、奴隷の身分に落ちてしまった人が代価を払って自由な身分を買い戻す、ということです。お前を「買い戻す」です。ここで言う「お前」ですが、罪を持つ者なら誰でも、ということです。もはやバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民に限られない、私たち人間全てです。それでは、天地創造の神は私たちを何者から買い戻すのでしょうか?そもそも私たちは何者に売り渡されてしまって、それで神は買い戻されなければならなかったのでしょうか?
答えは創世記の最初の部分にあります。人間は神に造られた当初は良いものでした。ところが、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘いに引っかかったがために、神に対する不従順が人間に生じ罪がその内に入り込んでしまいました。これからもわかるように、人間が造り主と張り合おうとしたり、造り主のことを忘れることが罪の原点になっています。罪が内に入り込んでしまった人間は、神聖な神のもとにはいられなくなり、神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。罪と言うと、何か犯罪を犯すことのように考えられて、赤ちゃんにはとても罪があるとは思えない、とか、罪なんか無縁な善人だっているじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、聖書の立場は、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べているように(ローマ6章23節)、人間は死ぬということが罪を持っていることの表れである、というものです。行為や言葉や考えで罪を犯す時には土台になる罪があり、それらを犯さなくてもその土台はそれとしてあるのです。人間はこの土台の罪に支配されており、あの時その罪に売り渡されてしまったのです。
そこで神は、人間をこの悲惨な状態から救おう、人間が再び自分との結びつきを持てるようにしてあげよう、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去った後は永遠に自分の許に戻れるようにしてあげよう、そう決意してひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて私たち人間のために成し遂げられたことは以下のことです。人間の持つ罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで罪の罰を全部イエス様に受けさせました。私たちの代わりに罰を受けて下さった方がいるおかげで、私たちの罪が神から赦されるという奇妙な状態が生まれました。私たち自身は何も罪の償いはしていません。そもそも人間は神聖な神の罰を受けることなど耐えられるものではありません。それでイエス様が犠牲となられたのですが、彼は神のひとり子でした。犠牲としてこれ以上のものはないという文字通り神聖な犠牲だったのです。
そこで私たち人間が、イエス様が本当にそうして下さった、それゆえ彼こそ救い主なのだ、と信じて洗礼を受ければ、この神の準備した罪の赦しはその人にそのまま効力を持ち始めます。罪を赦されたのであれば、神との結びつきが回復し、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も永遠に造り主である神の許に戻れるようになります。まさにその人は、罪に売り渡されていた状態から神に買い戻されたのです。その代価は神が支払ってくれました。御子イエス様が十字架で流された血がその代価だったのです。天地創造の神は私たちのことをそれくらい高い犠牲を払うに値すると見て下さっているのです!
神の行った私たちの買い戻しは、イエス様の十字架の死で終わりませんでした。まだ続きがありました。神はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開いて下さいました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの恵みを受け取った者は、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。罪はまだ内に残存していて本来ならば永遠の命に至る道などに入れる筋合いはないのだが、罪の赦しがあるおかげで罪はそれを阻止できなくなっている。罪が持っていた、人間を死に追いやる力は消されてしまった。その意味で罪は一掃されているのです。このようにして神から罪を赦された以上は、キリスト信仰者というのは、イエス様の尊い犠牲を無にしないように生きよう、神の意思に沿うように生きようと志向し始めます。
3.
しかしながら、それはいつもうまく行くとは限りません。罪の赦しを得られたとは言っても、まだ残存している土台の罪が隙をとらえては、まだ力を持っているかのように見せかけて来て、私たちが言葉か考えか、場合によっては行いによって神の意思に反することをするよう仕向けます。しかし、キリスト信仰者が罪の赦しを神に祈り求めれば、神はすぐ「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪を犯さないように」と言って下さり、信仰者は再びイエス様の尊い犠牲を無にしないように生きよう、神の意思に沿うように生きようと志向し出します。
キリスト信仰者のこの世の人生というのは、今見てきたような罪の自覚から生じる悔恨と罪の赦しから得られる平安と安心を繰り返しながら進むものだと言うことができると思います。その繰り返しの中にいると、果たして自分は向上しているのかわからなくなり不安になるかもしれません。しかし、罪の赦しの恵みの中に留まっていれば、洗礼の時に生まれた新しい霊的な人は日々育っていき、肉なる古い人は日々衰退しているはずです。そして復活の日に不完全なものが完全にされ、信仰者は完全に新しい人として立ち現われ、悔恨は過ぎ去り、平安と安心だけを手にすることになります。
キリスト信仰者にとって「信仰」とは、言うまでもなく、イエス様を救い主と信じることです。なんでイエス様が私の救い主になるのかと言うと、それは、彼が十字架と復活の業で私を神の許に買い戻して下さって、罪を無力にして一掃して下さったからです。このことがはっきりしていれば、たとえ今の自分は古い人と新しい人が相克し合っているのが現実だとしても、復活の日に自分は100%新しい人として立ち現われると確信できます。今自分の内にある新しい人と将来の復活の日の新しい人は同一の者です。違いは、今の新しい人は古い人と相克し合っている状態にあるが、将来の復活の日には完全に主人になっている、ということです。
こういうふうにキリスト信仰には、希望しているものが現実にあるんだ、今目に見えないものが見えるんだという境地があります。まさに「ヘブライ人への手紙」11章1節で言われている通りです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちの希望は決して失われないものですから、安心して罪の赦しの恵みの中に留まって生きて参りましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
第18回
コリントへの手紙 5章1〜8節
今日の御言葉は5章1〜8節です。5章から内容ガラリと変わりまして、1節のところを読んだだけで
驚く事と思います。
1節を見ますと、「現に聞くところによると、あなた方の間に淫らな行いがあり、しかもそれは異邦人
の間にもない程の淫らな行いで、ある人が父の妻を我がものとしている との事です」。
コリントの教会の人々の中が、どんなに堕落していたか、驚きの思いです。
パウロは、それにしてもこんな事をなぜ言わなければならなかったのでしょうか。
これまでパウロは伝道者の弱さ、や強さについて語って来ました。それはまた人間の弱さや強さの事でもあります。
5章にはいって、まず、コリントの教会内の腐敗、堕落を追求していきます。
問題は、もちろん、それらの不品行にありますが、同時にパウロが一番大切な事として、指摘するのは、
「コリントの教会の人々が高ぶっている。」ということであります。
それで2節には、「それだのに、なお、あなた方は高ぶっているのか」と書いています。
6節でも書いています。「あなた方が誇っているのはよくない」と。不品行きわまりないことが、教会の中であっているのに、「高ぶっているのは」のは何事か、と言うのです。
そうなると、ここの話は、高ぶっていること、誇っていることに重点をおいて言っているのです。
もちろん、不品行のことが問題ではある、ここではそういう人がいるのであるから、「むしろそんな行いをしている連中をあなた方の中から除かれねばならない。そのことを思い、悲しむべきではないのか」。
それなのにあなた方は、なお高ぶっているのか。と言うのであります。
人間にとって、最もやっかいな問題が、この「高ぶる」ということであります。
この当時のコリントの教会は町全体に不品行に満ちていた。特に異邦人の神殿のかくされた所では、
みだらなこと、不品行が横行していたのです。ですからパウロが伝道した教会の中にも入り込んでむしろ、誇らしげにしていたのでしょう。
パウロはゆるせないことであったでしょう。
人間の弱いところは:高ぶるところにあるのです。
人はどうしても、生きるために、自分を守らねばならない、と考えています。従って、誰に対しても
自分は、その人より上である、と思わないではおれないのであります。又そうでなければ、相手の事を軽蔑することになるのであります。
無意識に暗黙のうちに相手を軽蔑したいと思っているのです。
パウロ自身が誇り高い人でありましたから、この事がよく見えるのであります。大した事ではなくても、何か!自分が上である、と思う、そうでないと、生きられない、とまで心の内で思うのでしょう。
もし、そうであるなら、パウロは伝道者としての、自分もコリントの教会も、みな、「キリストにならって謙遜な生活をしなければならない、と思った事でしょう。
これは1つの、教会の話であります。又同時に今日の私たちの教会のことでもあります。
どの教会も、どんな事件があっても、なくても、主のように、へりくだった生活をすることが必要なのであります。
1章26節以下のところを見ますと、すでにパウロは書いています。
「兄弟たち、あなた方が召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄のよい者が多かったわけでもありません。」しかし、そういう人が多くいたとしても、高ぶった思いを持っては、よい教会にはなりません。
そらなら、不品行な恥ずべき事柄は、どうするのでしょう。パウロはそれをいい加減にするつもりはありません。高ぶりは高ぶりのこと。しかし、このことは別であります。
3節では、「わたしは、体では離れていても、霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんな事をした者を既に裁いています。」と言っています。
教会は、何の汚れもないような所ではないかもしれません。いろんな汚れたところもあるんです。
しかし、その事と、神の裁きとは別であります。
教会は、愛による交わりの生活である、といって愛の名のもとに、神がお許しにならないような事があってはならないのであります。
パウロは、コリントとは離れたところにいても、まことに、きびしく、この事を処分しよう、と、しました。きびしく問いつめるのは、パウロの好みによるのではない。しかし、教会というものがそういう清さ、というものを持っていなければならないからです。
そういう意味からも、パウロは、この不品行の事を、取り上げているのです。
それなら、どのようにして、裁くのか。
パウロは何かの規則によって、事を扱うとは考えませんでした。
彼は、どこまでも、信仰によって、それを処理しようと、したのです。
教会は、いつでも戒規を持っていました。教会の清さを保とうと、するのであります。
しかし、戒規のようなものは、どこまでも、人間が作ったものであります。まことの裁きはキリストの権威により、生き、死にを、超えたものであります。
パウロがここで語ろうとすることはそのことであります。彼が離れていても、そのことは問題にならないのです。パウロは体を離れていても、霊において、教会のものと共にある、と言いました。
まことの裁きは、霊によって、行なわれるべきものであります。
主イエスの権威のもとにパウロも、コリントの教会の人たちも、霊と共にある、というのであります。
ぞれは、信仰によって、行なわれるべきものである、ということであります。大切な事は人間が裁くのではないということであります。
さて、6節からパウロは別の話を例にして語っていきます。「あなた方が誇っているのはよくない。わずかなパン種が練り粉、全体を膨らませる事を知らないのですか」と言っています。
パウロは日頃、誰もが知っているパン種の事を例に出しました。パン種はパンを膨らますものであります。パウロはパン種の力を取り上げて、人間がふくれあがって、誇っている生活を説明しています。
コリントの教会の人々が、おごり高ぶって、ふくれ上がったのは、そのパン種のせいである、と言いたいのであります。
従って、新しいパンが作りたいのであれば、古いパン種を捨てなければならない。
すべての人は、そのパン種によって、自分の生活をつくっているのです。しかも、そのことに気づいていないのではないか、と、パウロは言うのです。聖書の生活から言えば、パン種なしのパンは特別な意味を持ったパンでありました。
イスラエルの民にとって、最も重要な意味を持つ祭りに、種なしのパンが用いられるのであります。
イスラエルの民族が決して忘れてはならないのは出エジプトの奇跡の出来事でした。
モーセに率いられて、エジプトで奴隷の状態で苦しんでいたイスラエルの民を、神様は脱出させるということをなさるのです。
大事なことは、イスラエルがこの日特別にほふられる小羊を食べることになっていたことです。その
小羊の血を、かもいに塗っておくのであります。それによって、子供を殺す天使たちが、その家だけは避けて通る事になっていました。こうして、イスラエルは無事脱出することになるのであります。イスラエルは、その時、大急ぎで食事をしなければなりません。大あわてで、滅びの町を出なければ、ならなかったのであります。その記念すべき夜、種入れぬパンを食べることを命じられたのであります。他のいくつかの食べ物と共に、種入れぬパンが必要でありました。
パンは重要な食物です。しかしパン種は、又腐敗のしるしのように思われました。 だから、この日には、パン種を入れないパンこそ、必要であったのです。
もちろん、パン種のないパンがおいしいはずはないでしょう。しかし、これが過越しの祭りに用いられた時には。それこそ救いのパンであったはすであります。
救われたいがために焼いたパンであったわけであります。
イスラエルにとっては重要な事でありました。 そこでパウロは、今、救いの、パン種のない話を持って来るのであります。パン種の入ったパンと、入らないパンを取り上げ、一方は腐ったり、よけいな内容のあるパンです。もう一方は腐ることのないパンです。それだけではありません。「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなた方は事実、パン種なしのパンなのだから」。と7節で言います。信仰者は種の入っていないパンである、ということです。
だから、信仰には、パン種の入ったパン等ないはずではないか。それなのにコリントの教会には、パン種の入ったふくらんでしまっている、おごり高ぶった生活をしているではないか。
それでは、なぜ、パン種のないものなのか、ということですが、それは、私たちキリスト者は、過越しの小羊といわれる キリストによって、救われたのであります。そうであれば、そのほふられたキリストが救い主であるのなら、私たちは、あの時に用いられた種入れぬパンであるのです。
それでパウロは8節のところで言うのです。「だから、古いパン種や、悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で、真実のパンで、過越しを祝おうではありませんか。」
パウロはこのようにすすめているのです。
ほふられた小羊こそ、キリストであり、キリスト者はこのキリストのように謙遜であるべきであります。
アーメンハレルヤ。
下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2018/05/V_Auvinen_2018_5.mp3
説教者 ヴィッレ・アウヴィネン牧師 フィンランド・ルター派福音協会海外伝道局長、神学博士
聖句 ヨハネ 3章1-12節
説教題 「洗礼 - 新しい命の扉」
私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがた一同にあるように。アーメン
祈りましょう。神聖な神、愛する天の父よ、あなたの御言葉を感謝します。私たちに語りかけて下さい。アーメン
ユダヤ教社会の学識ある指導者でファリサイ派に属するニコデモがイエス様に興味を持ちました。新約聖書に記されている出来事の中で、ファリサイ派の人たちがイエス様にいろんなことを問いただす場面が多くありますが、それはイエス様を陥れようと謀って行ったことでした。ただニコデモの場合は、イエス様に対する関心は純粋なものだったようです。彼は、イエス様のことを神が送られた方とまで言ったのです。さて彼は、イエス様と神の御国についてもっと知りたいと思いました。
イエス様の最初の答えはびっくりさせるものでした。「人間は新しく天の神から生まれなければならない。そうでないと神の御国に入ることはできない。」この答えをニコデモは理解できませんでした。そこで、イエス様とニコデモの間に対話が始まります。その終わりの方で、イエス様は最も単純明快な福音を宣べてニコデモに真理を伝えようとしました。イエス様は次のように教えました。「神は、そのひとり子を送るほどにこの世を愛された。ひとり子を送るという仕方でこの世を愛されたのである。それは、彼を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命に与るためであった(ヨハネ3章16節)。
なぜニコデモはイエス様の教えを理解することが難しかったのでしょうか?難しいというより、理解するのが不可能でした。その理由について、イエス様は次のように答えています。「肉から生まれた者は肉である。神の霊から生まれた者は霊である」(ヨハネ3章6節)。これと同じことを、使徒パウロは次のように言い表しています。「人間は自然の状態では神の霊が教えることを受け取らない。というのは、それは彼にとって馬鹿げたことに見えるからだ。それは神の霊の力を借りてのみ把握できるものなので、自然の状態では気づくこともできないのだ」(第一コリント2章14節)。パウロのこの言葉は何を意味するでしょうか?それは、神の御国に関する事柄は理性では理解できないということです。また、人間的な思考に頼ってでは神はどんなお方かを知ることが出来ないということです。人間の限りある論理は人間を神のもとに連れて行くことはできません。聖書が教えるように、私たち人間は堕罪のゆえに霊的に目が見えなくなっており、霊的に耳が聞こえなくなっており、また霊的に死んでしまっているのです。私たちには霊的な命がないのです。もちろん人間は宗教的になることは出来ますし、あれこれの神々について語ることは出来ます。それらに祈ったり、宗教的な儀式を行ったりすることは出来ます。しかしながら、そうしたからと言って、私たちの心に真の霊的な命があるということにはなりません。本当は神ではないものを神であると言って崇拝することは、それこそが霊的に死んでいることを表わしています。私たちの命にとって一番重要な問いは、「いかにして霊的に死んだ者が生き返ることができるか?」ということです。
私の生まれ育ったフィンランドのトゥルクという町に古い教会があります。それは1300年に献堂式が執り行われ、今年で718歳になる教会です。その大きな教会の中に入ると、扉の左側に洗礼の水を入れる石で出来た器があります。今では使われていませんが、かつてはその水で洗礼が施され、人をキリスト信仰者にしていました。その器が扉のところにあるのは、それが洗礼について大事なことを教えるからです。つまり、洗礼とは、それを受ける教会の一員になって教会の中に入る扉を意味します。また、洗礼を受ける教会だけでなく世界を覆うキリスト教会の一員になってその中に入る扉を意味します。さらに、洗礼を受けることで、イエス様の弟子、彼に付き従う者になります。洗礼を通して、神の子とされた者たちの群れに加えられるのです。そして何よりも、洗礼を受けると、イエス様が十字架で流された血の力で私たちの罪が洗い流されて私たちは清くされ、イエス様がニコデモに言ったように、水と神の霊から新しく生まれるということが起きるのです。神の霊が新しく生まれさせてくれると、目の見えなかった者は見えるようになり、耳の聞こえなかった者は聞こえるようになり、死んでいた者は生き返ります。パウロがエフェソの信徒たちに次のように書き送っている通りです。「神の意思に反することを行ったために、罪のために死んでいたあなたたちを、神が生ける者にして下さったのです」(エフェソ2章1節)。洗礼を受けたキリスト信仰者は、神のことや神の御国のことを理解し始めるようになります。神の霊が、聖書の神の御言葉の力を借りて信仰者に教えます。そのようにして神を知ることが始まり、それは深まっていくのです。
洗礼は、神の恵み、つまり罪の赦しの恵みの中に入る扉です。パウロはローマの信徒たちに次のように言います。「キリストは、今私たちがしっかりと留まっているこの恵みの中に入る道を開いて下さった」(ローマ5章2節)。あなたは、洗礼を受けたキリスト信仰者として、またイエス様を救い主と信じる者として、この神の恵みに包まれているのです。たとえあなたが弱く、依然として罪びとのままで、時に過ちを犯してしまうことがあっても、罪の赦しの恵みはあなたを包み、覆いかぶさっているのです。あなたは、神から罪の赦しを受けた神の子なのです。洗礼を通して、あなたはまず、この罪の赦しの恵みの中に入りなさいという神の指導を受け、次に、この恵みの中にしっかり留りなさいという指導を受けます。この恵みの中に入り留まるということは、自分が一員となった教会に留まって生きることであり、また、イエス様のことを罪の赦しを与えて下さる方として信じることです。それは、さらに、神聖な聖餐式を罪の赦しの確かな印として、また信仰を強めるものとして味わうことでもあります。もちろん、聖書の神の御言葉を聞き読むことも入ります。
イエス様が開けて下さった扉から中に入ったあなたは、もはや外側にはいません。扉を通って中に入るということは、一つの状態から新しい別の状態に移行したということです。扉の隙間に留まって、中に入ろうか外に留まろうか、とどっちつかずの状態にいることは出来ません。同じことが洗礼についても言えます。洗礼が神の御国に通じる扉であると言う時、それは何かを後にする扉なのです。洗礼は、それまでの生き方、それまで人生にあったことを後にする扉です。このことをパウロは力強く次のように述べています。「キリストに繋がっている者は全て、新しく造られた者である。古いものは姿を消し、新しいものに取って代わられた」(第二コリント5章17節)。次のようにも述べています。「あなたがたも自分自身について同じように考えてみなさい。『あなたたちは罪に対して死んだので罪と無関係になった。そして、イエス・キリストと繋がって神の方を向いて生きる者となった』」(ローマ6章11節)。これは何を意味するでしょうか?歴史上最初のキリスト教徒たちにとって、それは何よりもまず、古い神々や魔術や霊的な力を捨てることを意味しました。彼らは、古い神々や宗教的な儀式は古い生き方に属するものであり、自分たちはそれらを後にして新しい命に移行したとわかったのです。使徒言行録に記録されていますが、エフェソの町でキリスト信仰者になった多くの者たちは、以前は魔術を行っていたが、それをやめて、それに関係する書物を集めて、群衆の見ている前で全て燃やしました。彼らは、古い生き方から離脱したことを公けに示したかったのです(使徒言行録19章19節)。キリストは、古い命を象徴する偶像が自分と同列に置かれることを認めません。私たちも、何が私たちの古い命を象徴する偶像かを考えてみなければなりません。それらは、もう私たちの命を支配することは出来ないので、私たちはそれらを後にしなければならないのです。
新しい命に移行するということは、最初のキリスト教徒たちにとって、それまでと違う新しい生き方、生活態度、隣人との関わり方を持つことも意味しました。キリスト信仰者というのは、生きている間、神の意思は何であるかを絶えず問います。その答えは、聖書から見いだすことが出来ます。キリスト信仰者は、それに従って生きようとします。しかしながら、それはいつもうまく行くとは限りません。失敗することも度々あります。まさにその時こそ、次のことを思い出すべきです。罪の赦しの神の恵みは、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者を包んでいるということを。罪に陥っても、赦しを得られます。そして、いつの日か、天の御国の神の御許にて、不完全だった者は完全な者に変わります。罪は永久に背後に押しやられ、残るものはただ、喜びと平安と神を完全に知ることだけになります。
アーメン
本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと呼ぶことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束通り私たちに聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰をもってこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。
それでは、聖霊とは一体何でしょうか?まず、イエス様は死から復活された後、弟子たちに世界に出て行ってイエス様の福音を宣べ伝えるようにと命じました。その時、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさいとも命じました(マタイ28章19節)。キリスト信仰では、神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父やみ子と同じように人格があるのか、と驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。それで日本のキリスト信仰者の中には、「聖霊様」と呼ぶ人もいます。
それでは、人格を持つ聖霊とは一体、どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章の中でイエス様は最後の晩餐の席上で弟子たちにあることを約束します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で取り残されて一人ぼっちになるということはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、本日の福音書の箇所でも言われるように、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護して下さるのでしょうか?真理の霊なら、その真理とは何で、それが私たちにどう関係するのでしょうか?このことは、以前の説教でも何度かお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。
聖霊が「弁護者」であると言う時、何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのですが、では何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタン(שטן)とは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟の光に照らされて、外面的にも内面的にも神の御心に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へと増幅させようとします。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前に進み出ては「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神との間を引き裂くことですから、もし私たちが神の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けたり神のもとから立ち去ったりすれば、悪魔にとって万々歳なことになります。
人を落胆させたり神のもとから立ち去らせるものには、罪の他にも、この世で遭遇する不幸や苦難もあります。神は私の至らなさに不満で、それでこんな目に遭わせているんだ、と自分に原因を見て絶望してしまったり、または、何の落ち度があって神は私を見捨てるのか!と神に原因を見て失望してしまったりします。このような絶望、失望に陥ることも悪魔の目指すところです。
まさにそのような時、聖霊は、私たちがどんな状況にあっても神の愛を信じられるように、しっかり神のもとにとどまることが出来るように助けて下さいます。まず、罪の問題では、聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように言って弁護して下さいます。「この人は、イエス様が十字架上の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それが自分の罪に対してもそうであるとわかって、それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向かって次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と。私たちは神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神は私たちにすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲の死に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは感謝に満たされて、本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。
不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と神との結びつきは失われていないのだ、とわかります。神との結びつきがあるということは神にしっかり守られていることだ、とわかります。あの方は十字架の上では犠牲になられたが、神の力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足の下に踏み潰しておられる。私はあの方と洗礼を通して結び付けられている。そのことがわかると、不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは不幸や苦難は、神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていましたが、今度は逆に、存在して見捨てない神と一緒にくぐり抜けるための一つのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。一緒に歩んで下さる神は嵐の中でも良い御心を示してくれる、ということに心が向くようになります。その時、不幸や苦難は、もはや自分を打ちのめそうとする嵐ではなくなり、ただの耳障りな強風、煩わしい雨水にしかすぎなくなります。全身ずぶ濡れにはなりますが、家に帰ればお風呂に入って服を取り換えてさっぱりできるんだ、というような気持ちで歩めるようになります。
聖霊が「真理の霊」と言うのは、私たちに次のような真理を明らかにするからです。まず、キリスト信仰者といえども十戒の掟に照らせば私たちは罪を持っているという真理です。ここで悪魔が私たちを神から引き離そうとするのですが、聖霊はすかさず、神のひとり子の犠牲の上に罪の赦しがあるという真理を知らせるので、私たちは神のもとに留まる以外に道はないとわかるのです。まさに聖霊の弁護と真理のおかげで、私たちの良心は落ち着きを取り戻し、イエス様のおかげで神の御前に出されてもやましいところは何もない、そう思って大丈夫なんだ、と安心します。その時、イエス様を送って下さった神に感謝の気持ちで満たされ、これからは罪を犯さないようにしよう、神の意思に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、と志向するのです。
そういうわけで、聖霊が「真理の霊」であると言うのは、私たちに神の真理を明らかにするというだけでなく、ずばり、私たちが神の真理の中で生きられるようにして下さるということです。
この他にも聖霊は、キリスト信仰者に何か特別な力を賜物として与えて下さる方であると聖書の中で言われます。そうした特別な力について使徒パウロは第一コリント12章でいろいろ挙げています(12章4-11節)。正しい信仰を教える力、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、習ったことのない外国語で神やイエス様のことについて語る力などがあります。これらの力は、教会が一つにまとまって成長するために与えられるとされますが(12章7節)、教会の成長のために発揮される力は他にも考えられます。
ところで、習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。聖霊降臨の日の出来事は、まさに異言を語る力が与えられた出来事でした。このような特別な力は「恵みの賜物」とか「聖霊の賜物」と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマ(χαρισμα)と呼ばれます。こうした賜物は、教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰に何を与えるか決めて与えるものです(第一コリント12章11節)。それゆえ、何か賜物を与えられても、与えた方は取り上げることも出来る方とわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いなければなりません。キリスト教の教派によっては、聖霊の賜物を追求することを強調する派もあるようですが、ルター派はどちらかと言うとその点はおとなしいかもしれません。なぜそうなのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには、聖霊のことを、先ほど申し上げた「弁護者」、「真理の霊」として捉えることが大きいのではないかと思われます。
もう一つ、聖霊が結ぶ「実」というものもあります。どんな実かと言うと、使徒パウロがガラテア5章22-23節で挙げています。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制がそれです。これらは「聖霊の賜物」と異なり、イエス様の罪の赦しの救いに留まって神の御心に沿おうと志向するキリスト信仰者なら誰にでも実ってくる実です。ただしキリスト信仰者というのは、ルターも言うように、皆これから成長していく、絶えざる初心者なので、いろんなことに揉まれて鍛えられないと実ってこないのではと思います。(あと、聖霊の結ぶ実と正反対のものとして「肉の業」というものもあります。どんなものがあるかは、ガラテア5章19-21節をご参照下さい。)
使徒言行録2章には聖霊降臨の日の出来事が記されていますが、その日一体何が起きたのかをもう少し詳しく見てみましょう。
イエス様が天に上げられて10日が経ちました。弟子たちはある家に集まっていました。そこに聖霊が不思議な現象を伴って彼ら一人一人に降りました。その時、天から激しい風が吹くような音がしたので、人々はその方へ集まってきました。その時エルサレムは、過越祭の後の5旬節という祝祭があったので、地中海世界の各地からユダヤ人が大勢やってきていました。
音がしたところに集まって来た人たちは、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ地方出身者のグループが突然、集まってきた人たちそれぞれの母国語で話し始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、留学もせず語学教室にも通わずに突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(使徒言行録2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?集まってきた人たちの驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。
イエス様の弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は、何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒をはじめとする律法の掟を授けられ、約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは、バビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現できたという出来事です。さらに神の偉大な業として考えられるのは、神が私たち人間を含めた万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。
ところが弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、上記のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがあったことを忘れてはなりません。それは、弟子たちが自分たちの目で直に目撃して、その証言者となった出来事でした。あの「ナザレのイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった、その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられ、大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。
さてペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象、弟子たちが群衆の母国語で神の偉大な業について語り出したという現象を説明します。群衆の中には、新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れな説明をします。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと、的外れな意見に真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?ペトロは説明し始めます。
ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14-21節)は、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の実現であるというところです。二つ目の部分でペトロは、イエス様の出来事そのものについて解き明しをします(2章22-40節)。
ペトロはまず、この異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという現象について、これはヨエル書3章1-5節の預言の成就である、と解き明かしします。天から激しい風のような轟く音がして、分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始まりました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかったのです。17節で、聖霊が注がれるのは「終わりの時」と言われているのは、これは終末論の観点で言われています。旧約聖書のヨエル書には「終わりの時」ということははっきり言われておらず、ペトロが意味を明確にしようとして付け加えたのです。聖霊が注がれるのが終末の時というのは奇異な感じがしますが、これは新約聖書の歴史観として、イエス様が天に上げられてから再び来るまでの間の期間というのはイエス様の再臨を待つ期間である、という見方があるからです。それでこの世の終わりということが視野に入って来るのです。
聖霊降臨は旧約の預言の実現ということに続いて、ペトロはさらにこの現象がどんな意味を持っているかについても解き明かします。大体次のような内容です。
あの、無数の奇跡の業と権威ある教えをもって神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者とローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というお方は、天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、この世で十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはいられないのだ。そういうわけでイエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なのだ(2章24節)。このことは、既に旧約聖書に預言されていたことだ(25-28節、詩篇15篇)。こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(34-35節)。これも、旧約に預言されている通りである(34-35節、詩篇110篇1節)。これらのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明白になった(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、それでも、イエス様が神のひとり子でメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちと何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。
これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません(注 新共同訳では「大いに心を打たれ」(2章37節)と訳されて、なんだか群衆がペトロの説教に深く感動したようですが、ギリシャ語のκατενυγησανは「心に突き刺さるものがあった」という意味で、文字通り「グサッと来た」ということです)。群衆は不安に襲われて、私たちはどうすればよいのですか?と聞きます。それに対して、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めます。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって生み出して下さった「罪の赦し」を神からの贈り物として全身全霊で受け取ることです。
ペトロの解き明しと勧めを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けました。神に背を向けてイエス様を殺した側から離れ、神の方に向き直って歩む者となったのです。この聖霊降臨の日に洗礼を受けた人たちは3000人に上りました。こうして、聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。
キリスト教会が誕生して2000年近く経ちました。それでか、人々の目には教会は古びて時代遅れに映るかもしれません。しかし、教会を教会として成り立たせている三つのもの、聖書の御言葉と洗礼と聖餐式は今もかつてと同じように、人間に神との結びつきを与え、その中で歩ませる力に満ち満ちています。一人でも多くの方がその力に与れるよう願ってやみません。
本日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天の神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは休日になっています。その日に近い主日ということで、本日が「昇天主日」となっているわけです。本日の最初の日課である使徒言行録は、まさにこの出来事から始まります。イエス様の昇天から10日後、今度はイエス様が送ると約束されていた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。弟子たちは聖霊の力でイエス様こそ救い主であると宣べ伝え始め、それがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行きますが、その過程が描かれているのが使徒言行録です。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年位の出来事の記録です。先々週の説教でも申しましたが、まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物と言えるでしょう。
さて、イエス様の昇天の出来事ですが、新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。私などはこれを読むと、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くような印象を受けてしまうのですが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者から見れば、下から見上げるのですから、見えるのは雲だけで、その上か中にいる筈のイエス様は見えません「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。
そうなると、新共同訳の「雲」はただ単に上空に浮かぶ普通の雲にしかすぎませんが、ここで、聖書は旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象についていろいろ記されていることを忘れてはなりません。出エジプト記では、モーセが神から掟を授かったシナイ山は雲で覆われました。イスラエルの民が運びながら移動した臨在の幕屋にも雲が覆ったり離れたりしました。時代は下って、イエス様が高い山の上で弟子たちの目の前でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。イエス様は裁判を受けた時、自分が再臨する時は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)やって来る、と預言しました。本日の使徒言行録の箇所でも、現れた天使が弟子たちに言います。イエス様は天に上げられたのと同じ有様で再臨する、と。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天は聖書的な出来事です。
それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れられることでしょう。しかし、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画のSFX特殊視覚効果技術による撮影を本当のことと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。キリスト教徒も最近は、そういうふうに考える人が多いかもしれません。
ここで、もう一つ考慮に入れておかなければならないこがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多く、例えば弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気がつかないこともありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが、自分にはある、と言って、十字架で受けた傷を見せたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主の神の立場にある方なので、被造物の天使と同じではありませんが、いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく、復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。
天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられます。それじゃ、どうやってそんな天空の国の存在が確認できるのか、と問われるでしょう。地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以後、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるでしょうか?それとも見つからないと結論づけられるでしょうか?
ここで立ち止まって考えなければならないことがあります。それは、これまで述べてきたロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰とは全く別の世界の話であるということです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?
信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超える事柄に関係しています。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書によれば、天のみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたのですから、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。
他方で、目や耳などで確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考える人たちもいます。そのような人たちにとって、天と地と人間を造られた創造主など存在しません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心の有り様だと言うでしょう。
キリスト信仰者にとって、人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものになります。それで、この世界の中では造り主の意図が働いている、そして自分に起きることには神の意図が働いていると考えます。しかも、神はひとり子を惜しまずに送られた方だから、その意図は良いに決まっていると素朴に信じるのがキリスト信仰者です。ただ、大災害のように大きな不幸をもたらすことが起きると、試練に直面します。神様なぜですか!という抗議の問いかけが出てきたり、また、こんなことを起こす神はひどい、とか、こんなことも止められなかった神は無力だ、とか言って神に対する反発が生まれ神に背を向けることも出て来ます。しかし、このような場合でも、人間の命と人生というのは、本当はこの現実の世界と神のいる天の御国にまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだと思い返す時、神に対する反発は静まり始めます。さらに、人間の命と人生から天の御国が欠け落ちてしまわないために、神はひとり子イエス様を私たちに送って下さったのだ、と思い返す時、神の方に向き直る心も戻ってきます。
このように、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を持てるようにするというのが神の意図です。では、それを持てるようにするために神はなぜイエス様をこの世に送らなければならなかったのでしょうか?それは、人間は生まれたままの自然の状態のままでは天の御国の人生は持てないからです。なぜ持てないかと言うと、旧約聖書の創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって以来、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、行為に現れる罪だけでなく現れない罪も含めて罪が人間に天の御国の人生を持てないようにしている。そこで神は、崩れてしまっていた人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間にかわって解決して下さったのです。
まず、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて、十字架の上に運ばせて、そこで神罰を人間に代わって全部イエス様に受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開いたのです。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにそうして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人を覆って、神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになるのです。その人の内に自分の命と人生はイエス様の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれ、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向し出します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるようになっています。順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもってその人を天の御国に引き上げて下さいます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。
イエス様は十字架と復活の業を通して人間がこの世の人生と天の御国の人生の両方を持てるようにして下さった。それはわかるとしても、なぜイエス様は天に上げられなければならなかったのでしょうか?
一つには、詩篇110篇1節に神が御子に述べている言葉があります。「わたしの右に座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」これは、本日の使徒書であるエフェソ1章22節に引用されていますが、この引用が示すように、イエス様の昇天はこの詩篇の聖句の実現を意味しました。それから、聖書の観点では、この現実の世界は初めがあったように終わりもある。終わりの時は最後の審判があり死者の復活ということが起こる。そういう森羅万象の大変動を経て最終的に天の御国だけが残る、そういう気の遠くなることがあります。イエス様はその時に再臨され、天の御国の実現のために大きな役割を果たされる。つまり、イエス様の昇天というのは、上げられてそれっきりということではなくて、いつかは戻って来られるというものなのです。
そうなると、このイエス様が天の御国に上げられて再臨するまでの長い期間は一体何なのか、これがわかると、イエス様が天に上げられて、今父なるみ神の右に座していることは特に問題に感じられなくなります。イエス様が神の右に座している期間とは何か?それは、使徒パウロが本日の使徒書のエフェソ1章20~23節で教えてくれます。イエス様を死から復活させられた神は、彼を御自分の右の座に着かせ、「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれた。支配、権威、勢力、主権というのは、現実の権力だけでなく、目に見えない霊的な力も全部含まれます。トランプ大統領も習近平国家主席もプーチン大統領も金委員長もどんな権力や軍事力をもってしても、神の右に座すイエス様には敵わないということです。また目に見えない霊的な力もイエス様には太刀打ちできません。霊的な力とはどんな力かは後で述べます。
ここでパウロは、そのイエス様を頭として教会が体としてあると述べます。教会はイエス・キリストの体で、その頭がイエス様である、と。ここで言う「教会」はとても抽象的なものです。今皆さんがいらっしゃるスオミ教会は「教会」ですが、それはまたルター派教会という教派の中の一教会です。ルター派の名を冠する教会も一つに統一されておらず、いくつもの団体に分かれています。さらにキリスト教会は、ルター派以外にもいろんな教派があります。パウロがここで述べている「教会」は、そういう教派的、組織的な教会ではなく、理念的な教会で、イエス・キリストの体と化しているものです。どんな体かと言うと、まず、そこでは聖書の御言葉が宣べ伝えられており、その御言葉の中でもイエス様の十字架と復活に基づく福音が中心になっている体です。次に、洗礼を受けることを通してその体の部分になれます。そして、その体の部分である信仰者は聖餐式のパンとぶどう酒で栄養を得て、神との結びつき、イエス様との繋がりを強めていく体です。そういう、御言葉・福音、洗礼、聖餐の三つが働いている体です。そこでは、体の部分を成す信仰者がこの三つの働きを受けています。
そうなると、天地創造の神と救い主イエス様とこれだけ密接に結びついているのだから、教会やそこに属する信仰者たちは、果たして支配とか権威とか勢力とか主権に対してイエス様のように勝っているか、と言うと、果たしてそうとも言えない現実があります。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっているはずの自分たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実があります。イエス様が人間を罪の支配から解放して下さったとわかった筈なのに、罪の誘惑はやまないという現実があります。全てに勝っている状態からほど遠いではないか?全てに勝るイエス様に繋がっている筈なのに、信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?
それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世に属していることによります。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世に属しています。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろうという力が働いているところです。大きな人生など持てないようにしてやろう、と。そして、人間が自分の真の造り主に目と心を向けられないようにしてやろうとか、そのようにして人間が造り主である神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いているところです。これらが、イエス様の下に服して足台にされた霊的な力です。アダムとエヴァの堕罪の時からずっと今もこれからもこの世で働き続ける力です。ただし、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされます。その時、イエス・キリストの体は全身が天の御国の中に置かれることになります。
そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実、一方で全てに勝るイエス様に守られているという現実、他方でこの世の力に攻めたてられるという現実、この二つを抱えて生きていくことになります。イエス様はこうなることをよくご存知でした。それでヨハネ16章33節で次のように述べられたのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼしました。そして昇天されたことで全ての力を足下に服させました。イエス様は何重にも世に勝たれたのです。そのことが苦難に打ち克つ勇気の源になるよう祈って止みません。最後にルターが、キリスト信仰者はイエス様の強い守りの中にいるということと、体の部分である者同士が祈り合ってお互いを支え合うことの大切さを教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」のルターの解き明しです。
「『全てのもの』とは文字通り全てのものである。全てのものが、私たちの主イエス様の手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。このことの例外は何もない。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。
このことからも、イエス様の御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、私たちに真の知識と真の光が与えられる。もしイエス様が全てのものを手中に収め、父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自らが述べているように(ヨハネ10章28-29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ない。確かに悪魔は機会を見つけては、キリスト信仰者をあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。結婚を壊して不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬むことや憎むことに心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと仕向けてくるであろう。しかし、そのような悪魔の攻撃に遭遇しても、キリスト信仰者はたじろぐ理由も必要もない。なぜなら、私たちには悪魔をも足下に服させている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ私たちを真にお守り下さる方である。
もちろん、悪魔の攻撃はあなたをとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも恐ろしいことだ。それだからこそ、あなたは祈らなければならない。あなたが堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちもあなたのために祈らなければならない。どんなことがあっても神があなたを見捨てることはない。これは揺るがないことである。イエス様は必ずあなたを苦境から救って下さる。そうである以上、あなたの方から簡単に神の御国を離脱するようなことはあってはならないのだ。」
第17回 コリント信徒への手紙 4章14~21節
「神の権威をもって語る」
コリントの教会の人々へパウロは熱い情熱を持って手紙を書いています。4章までのところで、パウロは「自分の伝道の仕方」「伝道者とは何か」ということを語ってきました。そこで福音を語る時、語る者の資格がいつも福音の一部として語らざるをえない、と考えました。これまでパウロは伝道者の惨めさを、辛さをあからさまに語ってきました。今日の14~21節もその連続であると考えられます。しかし前回の8~13節までと比べてみますと、それは全く違ったものになっています、8~13節のところではパウロは伝道者ほどみじめな者はない、ということを書きました。徹底的に伝道者の立場の惨めさを11~13節まで激しい言い方で言っています。「今の今まで私たちは飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せるところもなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉を返しています。今の今に至るまで私たちは世界の屑、全てのものの滓とされています。」「伝道者がこの世の塵のように、また人間の屑のようにされている。」と言うのです。これ以上に激しい言い方はないでしょう。ところが今日のみことばのところを読みますと14節に事は全く変わってしまいます。14節から見てみましょう。「こんな事を書くのはあなた方に恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」と書いています、ずいぶん違ってきました。そのことに始まってここでは、今までとは全く違う愛と権威を持ち、自信に満ちて教会の者たちを諭すという、牧師の姿が描かれています。これはパウロの考えかたが急に変わったのでしょうか、それとも今までとは違うことを書かねばならなかった理由があったのでしょうか。一つはっきり言える事はこれまでのところは神に用いられる者としての伝道者を描いたということです。
パウロがどんなに偉くても、どんなに愛に満ちていたとしても、もし神に仕えるもの又は神に用いられる者という立場から見るならば彼はやはり一人の名もなき仕え人、福音を宣べ伝えるには相応しくない人間と言う外ありません。人間の中には福音を語るに相応しい資格を持った者はありえないからであります。それなら彼はこの世の塵のように人間の屑のように扱われても仕方がないのであります。しかし伝道者にはもう一つの面があります。それは教会に仕える者、ということであります。
その点から言えば彼はしなければならないことがあるはずであります。そういう人は教会において一定の資格の試験をしてそれに相応しい権威を与えれるのであります。そうでなければ誰がこの任に耐えることができるでありましょう。誰が確信をもって福音を伝えることができましょう。従って一面から見れば愚かな相応しくない僕でありながら、他面から見れば神の権威をもって語ることを許された者ということであります。この矛盾したような二つの面が伝道者にはある、ということをパウロは身をもって示すのであります。そこで今は自信のない捨てられたような伝道者パウロではなくてキリスト教会に対して堂々と福音を語る伝道者パウロが現れているのであります。それは過ぎ去った事を忘れた伝道者ではなくて神のみ旨を委託され喜んで受け、進んでその御業をしようと言うのであります。そういうことから言えば彼はキリストの教会の人々を自分の愛する子であると言い彼らにキリストにある教育係りが一万人あったとしても「キリスト・イエスにあって福音によりあなた方を産んだのは私である」と豪語してはばからないのであります。これは大変な自信であります。自分だけがあなた方を産んだのである、というからであります。それを自慢して言っているのでしょうか、「父が多くあるのではなく、父と言われるべき者は自分だけである」と言うのであります。
私たちを生まれ変わらせるのは神がその御言葉によってなさることであります。しかしそれだからと言って神は決して神に仕える人たちの働きを退けてこれを無になさるのではないのです。大切な事は神で自身がなさることは何か、また神が神に仕える人たちをとおしてなされようとすることは何か、と言うことを見極めねばならないのであります。パウロは自分が信仰の父であると言いながら、それが自分の力である、と思ってはいなかったでしょう。貧しい主の僕でありながら、あなた方の信仰の父である、と言いたかったのであります。パウロは16節で「私にならう者になりなさい」と言っています。信仰生活から言えば「自分のまねをしなさい」等と言う様な口幅ったいことはとても言える事ではない、と思われるかもしれません。しかし、もしそれがパウロのようにキリストによって生きている者であって人間としての自分にならう者になれ、というのでなければ、それは自分を誇ることではなく、自分が主によって生きるように、あなた方もそのようにしなさい、ということであります。パウロはそう言ったのでありましょう。神の言に仕える事は決して易しいことではありません。しかしそれが人間にできない、ということではないはずです。何故なら神はそのために人間をお用いになるからであります。パウロはいつものように愛する弟子をそのために送ると言っています。テモテはまさにパウロにとって「わが子」と言えるほど親しい関係にあった人であります。
この人を遣わす事はほとんど自分が行くということと同じであります。しかしテモテを遣わすのは「キリスト・イエスのおける私の生活の仕方を、私が至るところの教会で教えている通りにあなた方に思い起こさせてくれるであろう」と言っています。ここに大切な事はキリスト・イエスに於ける私の生活と言う事であります。それを彼がどの教会でも教えていたことであります。信仰生活の伝統がある、型があると言うことでもあります。信仰生活は御霊による生活でありますから自由な生活です。そうするとある人々は信仰生活や教会生活の仕方など、というのは邪道であって御霊に導かれるままに生活すればいいんだ、と思うのであります。しかしそうではありません。御霊による生活もその型があるはずであります。多くの信仰者たちがこれまで行ってきた生活,築いてきた生活というものがあるはずであります。それをパウロは教えたいのであります、例えば一人の人が信仰生活に於いて、いつどう祈るか、人それぞれ自由でありますが、しかし朝に夕に食前に祈るということは型にはまったことのようで実際はそうではなく生活を造らなければ祈りの生活はくずれてしまいます、努力がいります。導かれるままに祈ればいいじゃないか、というと立派なようですが、実は自分の気ままに負けてしまって、結局少しも祈らない生活になりかねないのであります、教会生活も同様です。教会には礼拝を中心にした生活の型があります。ですから個人の信仰生活に於いても、教会生活に於いてもしっかりした躾が必要である、ということになります。私たち人間は弱い者であります、罪の支配に負け勝ちである私たちが先人と教会の造った「信仰にある生活の型」というものを大切にして行くべきです。そして、その信仰は信仰によって救われることでことであります。救われる、というのは自分の生活全体が救われる、ということであります。救われるのは福音の言葉によるのであります。その場合には福音が力として働くのであります。力は発揮されるものであります、20節でも書いています。コリントの教会の人々はパウロに甘えて好き勝手なことを言っていた、ということです。パウロが示す本当の力は神に従い、神の僕となっているところから出ているのであります。自分は弱い者であるに過ぎない、しかし神に全く従う者とせられた時に神の力が自分を通してあらわれるのである、と信じていました。 アーメン ハレルヤ