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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日は待降節第一主日です。教会の暦では今日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨日等々の大きな節目をひとつひとつ超えていく一年が幕を開けました。スオミ教会と教会に繋がる皆様が父なるみ神の恵みと憐れみのうちにとどまり、皆様一人一人の日々の歩みの上に神からの豊かな祝福と見守りと良い導きがありますように。
本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」した出来事についてです。先ほど福音書の朗読で、群衆がイエス様を歓呼で迎える場面のところで、ご一緒に「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。これは、待降節第一主日にフィンランドやスウェーデンの多くのルター派の教会で行われることでして、それに倣ってみました。この「ダビデの子、ホサナ」はスウェーデンやフィンランドの教会讃美歌の一番目の歌です。新しい年を元気に迎えるに相応しい歌ではないかと思います。フィンランドもあと7時間したら、全国の教会でこの歌が響き渡るでしょう(スウェーデンは8時間あと)。右にある写真を押すと、フィンランドのエスポー教会の礼拝で歌われた「ダビデの子、ホサナ」を聴くことができます(ユーチューブ)。
ところで、このフィンランドとスウェーデンの讃美歌第一番ですが、日本語訳の聖書や歌にある「ホサナ」ではなくて、「ホシアンナ」という言葉を使います。両国の聖書の本日の箇所も、「ホサナ」ではなく、「ホシアンナ」になっています。この違いは何なのでしょうか?昨年も少し説明しましたが、これは、聖書に記されたことにはちゃんと歴史性があるということを知るためにも大事ですので、今日も触れておきたく思います。
この「ホサナ」とか「ホシアンナ」というのは、もともとは詩編118篇25節の中にある言葉から来たものです。25節は、「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」と神に助けを求める祈りです。この「どうか救って下さい」がヘブライ語でホーシィーアーンナーהושיעה נא と言います。本日の箇所の群衆の歓呼は、まさにこの詩編118篇25節に基づいています。そのため、日本語訳の聖書のような「ホサナ」と言わずに、「ホシアンナ」と言った方が、引用元の聖句に忠実ということになります。では、どうして日本語の聖書では「ホシアンナ」と言わずに、「ホサナ」と言うのでしょうか?
「ホサナ」というのは、実はヘブライ語のホーシィーアーンナーをアラム語に訳したホーシャーナーהישע־נא のことです。イエス様の時代、現在のパレスチナの地域では、人々が日常に話す言葉はアラム語という言葉でした。それにローマ帝国東部の公用語であるギリシャ語も話されていました。旧約聖書の言葉であるヘブライ語は書物の言葉としては使われていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語やギリシャ語でした。ユダヤ教の会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読にはアラム語の訳がつけられていました。イエス様の母語は間違いなくアラム語だったでしょうが、会堂の礼拝でこれを読みなさいとイザヤ書の巻物を手渡されたところをみると(ルカ4章16節)、ヘブライ語も問題なかったことを伺わせます。さらに、ユダヤ民族以外の民族の人たちとコミュニケーションを取っていたことも福音書に記されていますので(例としてマルコ7章24‐30節)、ギリシャ語も堪能だったでしょう。
ところで、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した弟子たちが、出来事の生き証人になり、イエス様は真に天地創造の神のひとり子であった、旧約聖書に約束されていた救世主であった、と宣べ伝え始めました。宣べ伝えの媒体は、最初は口伝えの伝承と断片的に書きとめられた記録でした。その言葉はアラム語でした。ところが、宣べ伝えがローマ帝国内に広がりだすと、アラム語の伝承と記録はどんどんギリシャ語に訳されていき、宣べ伝える人たちもギリシャ語で話したり書いたりするようになって、それで新約聖書は最終的にギリシャ語で出来上がったのでした。
しかしながら、伝承と記録の全部がギリシャ語に訳されたわけではありませんでした。本日の箇所の群衆の歓呼は、ギリシャ語のテキストではホーサンナωσανναになっています。これはホーシャーナーを「救って下さい」などと訳さないで、そのまま発音をギリシャ文字で書き表したものです。実は、新約聖書の中にはイエス様をはじめいろんな登場人物が口にした言葉の中に、ギリシャ語に訳されないでアラム語の発音がそのままギリシャ文字で書き表されて、日本語訳ではカタカナで記されているものが多くあります。聖書をよく読まれている方は、あれだな、とすぐ思いつくでしょう。ここでは取り上げませんが、大事なことは、生き証人たちの伝承をギリシャ語に訳した人たちは、印象深い言葉を訳さないで、もともとのアラム語の言葉の発音をそのまま残したということです。私たちは、聖書を読む時、カタカナで表記されたアラム語の発音に触れることで、イエス様をはじめ当時それらを口にした人たちの肉声に触れることができるのです。
本日のホサナも同じです。もともと詩篇118篇25節はヘブライ語でホーシィーアンナ―と言っていた。2000年前イエス様を迎えた群衆はこれを引用して、アラム語でホーシャーナーと叫んだ。それをギリシャ語で記録したらホーサンナになった。この群衆の叫びを、スウェーデン語やフィンランド語の聖書は引用元に倣ってホシアンナにした(ドイツ語のルター版も)。英語(NIV)やドイツ語Einhaitsübersetsung訳の聖書は、ギリシャ語のテキストに倣ってホサンナにした。日本の新共同訳はホサナを使っていて、これは当時の群衆の生の声に一番近い形ということになります。すごいですね。
2.
前置きが長くなりましたので、本題に入ります。このホサナはもともとは、天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王様を迎える時に歓呼の言葉として使われるようになりました。本日の福音書の箇所で群衆は、子ロバに乗ったイエス様をまさにイスラエルの王として迎えたのです。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。この光景は一体何なのでしょうか?
加えて、イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと命じました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味ですが、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9章9~10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。」
ここで、「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」となります。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて、世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことを実現する者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのです。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。
ところが、王様を歓呼で迎えた群衆が期待していたことと、迎えられたイエス様がこれから成し遂げようとしたことの間にはとてつもないギャップがありました。このことは当のイエス様本人を除いては誰もわかりませんでした。群衆は何を期待していたのかと言うと、ダビデ王の末裔が現れて、ユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放して王国を再興することでした。イザヤ書2章やゼカリヤ書14章などを見ますと、諸国の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。まさに再興を遂げたユダヤ民族の王国が勝利者として全世界に号令をかける、そういう理解が生まれます。このユダヤ民族の王国について、大方はこの世に打ち立てられる王国をイメージしていました。ただ、人によっては、この世の終わりの時、天と地が新しく創造し直されて死者の復活が起こる時に出現する、そういう超越的な世界を思い描いていた者もいました。そういう理解をもたらす預言も旧約聖書にはあるのです(イザヤ66章22節、ゼカリア14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1ー3節)。打ち立てられるのがこの世の王国であれ、超越的な世界であれ、いずれにしても当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるという意味での新しいダビデの王国を考えていたのです。
イスラエルの民の王国への並々ならぬ思いは、イエス様のエルサレム入城の時の歓呼の言葉からも窺えます。群衆は、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫びました。最後の「いと高きところにホサナ」というのは、「ホサナ」という王様を迎える言葉が天の御国でも天使たちによって叫ばれるように、この地上だけでなく天上でも叫ばれるように、という意味です。真ん中の「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」に注目しましょう。これは詩篇118篇にはない言葉です。最初の「ホサナ」は118篇25節にある言葉です。日本語では「どうか主よ、わたしたちに救いを」と訳されています。次の「主の名によって来られる方に祝福があるように」も118篇26節からの引用です。群衆は子ロバに乗って来るイエス様を見て、ゼカリア書の王の到来の預言の実現とわかって、詩篇118篇を引用して歓呼の声をあげました。ところが、詩篇の箇所にはダビデの王国については触れられていません。しかし、王様が来る以上は、王国も再興されるという考えが自動的に出てきたのでしょう。聖句にない言葉を声を一つにして叫べたくらいですから、群衆の思いは本当に一つでした。それは、これまでのうっぷんをこれで晴らせるという感情の爆発でした。このような爆発をもたらす事情が、当時のユダヤ教社会にはあったのです。そのことは、本日の旧約の日課のイザヤ書63章から64章にかけてよく表れています。
イザヤ書の56章から66章までの預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還した後にどういう状態に置かれるかということについての預言として知られています。そこでは、40章から55章の中に記されたような、帰還する時の喜びと希望に満ちた預言は影をひそめて、民が敵対者の迫害を受けたり、民自身が結局、神の意思に相応しくない生き方をしてしまい、神殿を中心とする崇拝も神を喜ばせるものになっていないなど悲観的なトーンが強く出ています。
実際、イスラエルの民の捕囚からの帰還の後の歴史はその通りでした。廃墟だったエルサレムの町と神殿を復興し、再出発をしたにもかかわらず、民は相変わらず異民族支配に服し続けました。ペルシャ帝国、アレクサンダー帝国そしてローマ帝国と支配者はコロコロ入れ替わりましたが、民の状態は対外的には、諸国民に号令をかけられるなど、そんな立派なものではありませんでした。対内的にも、神殿を中心とする神崇拝は続いていましたが、心ある人から見て、それは形式的な儀式に堕してしまい、神の意思の実現には程遠いものでした。支配層からすれば、町も神殿も復興した、崇拝儀式も機能している、だから預言はちゃんと実現しているのだ、一体何が問題なのか、変なことを言うな、という態度でした。しかし、真実が見える者からすれば、支配層やそれに従う者たちの態度や考えは全く理解できないものでした。どうしてこんなに見えなくなってしまうことが可能なのか?これはもう神が罰として民の目を見えなくしてしまったとしか考えられない。それで本日の旧約の日課にあるような悲痛な叫び、「なにゆえ主よ、あなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにしてあなたを畏れないようにされるのですか」(イザヤ63章17節)という叫びが出てきたのです。神に選ばれたはずのイスラエルの民は文字通り閉塞状況に陥っていました。
支配層の言う通りにしている多くの人たちも、支配層の言うことが正しいと思って言う通りにしていた人たちばかりではありませんでした。今のところ他にやりようがないので言う通りにしているが、いつか預言された王様が来られれば、全ては一気に変わる、そういう思いがあったことは、群衆の歓呼から明らかでした。そしてその時がついに来たのです。しかし、この王が成し遂げたことは、群衆が期待したこととは全く別のことでした。そしてそれが実は天地創造の神が預言を通して前もって知らせていた本当のことだったのです。
3.
イエス様は一体何を成し遂げたのでしょうか?エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しい論争を繰り広げます。指導層の人たちはこの男をもう生かしてはおけないと思うくらいに憎悪を燃やしました。まず、イエス様は神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦しました。実は、このイエス様の行動は、ゼカリヤ書14章21節「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」という預言と、イザヤ書56章7節「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という預言に基づいていました。次に、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、指導層に大きな不安を抱かせました。というのも、せっかく占領者のローマ帝国に、逆らいませんと言って安逸を与えてもらっているのに、こんなことをしたら反乱を企んでいると思われて軍事介入を招いてしまうではないか、と慌てふためいたのでした。さらに、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる「人の子」であると公言していたことも許せないことでした。「人の子」とは、終末の日に到来するメシア救世主を意味します。つまり、イエス様は自分を神に並ぶ者としたのです。さらには、もっと直接的に自分のことを神の子と公言していました。イエス様を信じない指導層は、これを神への冒涜と受け取りました。
こうしたことが原因となって、イエス様は逮捕され死刑の判決を受けました。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆は一転、背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が国を再興する王だとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかった、なんという期待外れか!と。しかしこれは、旧約聖書の預言の一部分にしか目を向けなかったことによる理解不足でした。ところが、まさにイエス様が十字架にかけられた後に旧約の預言の全体が理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。その扉は、天地創造の後、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を犯して以来、ずっと閉ざされていました。それが、イエス様の復活によって再び開かれたのです。人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命を持つことが出来るようになりました。こうして、人間を死に打ち勝てない存在に貶めていた原因の罪から、人間を支配する力が消えたことが明らかになりました。どこでどうやって、罪は支配力を失ったのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の罪を全て引き受けて人間のかわりに全ての罰を受けたことによります。人間は、イエス様のこの身代わりの犠牲に免じて、神から罪を赦されるのです。人間は、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができます。こうして、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。人間は罪の支配下にある奴隷の身だったのが、イエス様が自分の命を身代金として支払って解放して下さったのです。ここから芋づる式と言っていいくらい、旧約聖書の預言の意味が次々に明らかになりました。例えばイザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことだったとわかったのです。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3ー6節)
「彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11ー12節)
実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、全ての人間に救いと永遠の幸いをもたらすものとなったのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この「罪の赦しの救い」を実現することが目的だったのです。今の世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことになりました。神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現した後は、今度は出来るだけ多くの人がこの救いに与れるように、イエス様の救いの福音を宣べ伝えていく時代が始まりました。その宣べ伝えは反対者、時には迫害者をも生み出していきました。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進んできました。これからも同じように進んでいくでしょう。それでも最終的には、「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、この世が終わりを告げてイエス様が再臨し、天と地が新しく創造し直される時が来て、今見えるものは全て揺り動かされて取り除かれ、唯一揺り動かさない神の国だけが見える形で現れて新しい世が始まります。ただ、その時がいつなのかは天の父なるみ神以外には誰にもわかりません。
イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は、この神の国の構成員になる者がもはやユダヤ民族という特定の民族ではなく、神がイエス様を用いて整えた「罪の赦しの救い」を受け取る人たちであるということを明らかにしました。さらに、諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言も、もはや地理上、歴史上のエルサレムを意味せず、黙示録21章で「天上のエルサレム」と呼ばれるように、神の国そのものを指すことが明らかになりました。このように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことで、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族の王国復興の夢をはるかに超えた、全人類の救いにかかわるものだったことが明らかになりました。これこそが、天と地と人間を造られて、人間に命と人生を与えた神の意図だったのです。このことを明らかにしたのが、神のひとり子イエス様でした。最初は、人々に教えることを通して、そして最後は、自分の命をうち捨てて神の計画を実現することで、神の意図を明らかにしたのです。
4.
さて私たちは、十字架と復活の出来事からイエス様が再臨されるまでの間の時代にいます。この「間」の時代というのは、人間が「罪の赦しの救い」を自分のものにすることができるように、イエス様の福音を宣べ伝えていく時代です。この救いは全ての人間のために準備されたものである以上、できるだけ多くの人がその所有者になってほしいというのが天地創造の神の意志です。それゆえ、既に「罪の赦しの救い」を受け取った私たちキリスト信仰者は、まだ受け取っていない隣人の心を、この創造主の神に向けさせるように心がけていかなければなりません。隣人に神とイエス様について教え伝える機会があれば、知恵をもって語ることが出来るようにと神に祈りましょう。もし、そういう機会がなかなか得られなければ、機会を与えてくれるように祈りましょう。そして、その機会が来る日まで、またその後も、神がその方に働きかけられるよう、お祈りしていきましょう。それから、既に「罪の赦しの救い」を受け取ったキリスト信仰者同士でも、この救いを手放してしまわないよう、それをしっかり持ち続けられるようにお互いを支え合っていきましょう。ここでも、お祈りが重要です。このように、神の御心に適った隣人愛を行う時はいつも、お祈りが必要です。このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
インターネットでマタイによる福音書25章31-46節を読むか聴く
今日は聖霊降臨後最終主日ですので、教会の一年は今週で終わり、新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それはまた最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。とは言っても、今のフィンランドでそうした自省をする人はどれくらいいるでしょうか?「裁きの主日」の礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くと、町々は、待ってました、とばかりにクリスマスのイルミネーションが点灯され始めます。いつも、待降節までまだ1週間あるのに、と思ったものです。近年では「裁きの主日」の前に点灯してしまうそうです。
さて、本日の福音書の箇所ですが、これはキリスト信仰者が社会的弱者やその他の困難にある人たちを助ける行動へと駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終末の時に再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで、多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮者、特に子供たちに主の面影を見て、支援に乗り出して行きます。
しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かになってしまう、つまり、人間の救いは善い業をしたかどうかに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の立場と相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本には、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場があります。私がフィンランドに住んでいた時、隣の市の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの主日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者のインタビュー記事があり、マタイ25章の本日の箇所と信仰義認の関係をどう考えるかという質問がされました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でいたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。
問題は、ルター派を越えてキリスト教そのものの在り方に関わります。というのは、善い業を行えば救われると言ったら、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。仏教徒だって、イスラム教徒だって、果てはヒューマニズム・人間中心主義を追及する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っています。それを実践すれば、みんなこぞって神の国に入れることになります。しかし、それは、ヨハネ14章6節のイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?
この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言うならば、本日の箇所は、善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も、信仰による救いを教えていることがわかります。これから、そのことをみてまいりましょう。ひょっとしたら、本説教は途中まで聞くと、この箇所を拠りどころにして支援活動に携わるキリスト信仰者を憤慨させてしまうかもしれません。しかし、最後まで聞けば、本説教は、支援活動に水を差すものでは全くなく、活動にしっかりした土台を据えるものであることがわかると思います。
最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、諸国民全てを御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、この審判の場には、人々のグループは二つではなく、実は三つあります。三つ目のグループとは誰のことか?40節をみると、再臨の主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言っています。日本語で「この最も小さい者」、「この」と単数形で訳されていますが、ギリシャ語原文では複数形(τουτων)なので「これらの」が正解です。一人ではありません。原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」となります。つまり、第三のグループとして主の兄弟グループも同じ場にいるのです。主は、羊と山羊の二グループに対して「ほら、みなさい」と、兄弟グループを指し示しているのです。
それでは、この主の兄弟グループとは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は、物理的身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような抽象的な意味です。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような者たちです。社会の基準からみて価値なしとみなされる者たちです。従って、主の兄弟たちは子供に限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいでしょう。
それでは、この主の兄弟グループは、もっと具体的に特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えがすぐに得られます。10章で、イエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、宣教に派遣します。その際、使徒たちに宣教旅行の規則を与えて、迫害に遭遇しても神は決して見捨てないと励まします。そして、使徒たちを受け入れる者は使徒たちを派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41-42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」(ここではτουτωνをちゃんと複数形で訳しています)、「小さい」ミクロスμικροςという単語は、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが(マタイ18章6節)、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことについて述べているので、この「小さい者」は、子供は指しません。使徒たちです。使徒とは何者か?イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめなさい、また自分がなさる業をしっかり見届けなさい、と自ら選んだ直近の弟子たちです。さらに、教えと業だけでなく、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を命を賭してでも宣べ伝えなさい、と選ばれた弟子たちです。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。マタイ10章では、使徒を受け入れて、渇きに苦しむ使徒に水一杯を与える者は報いを受けられると言っていますが、本日の箇所も同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をして、病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言っているのです。
以上、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを社会的弱者・困窮者一般と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちはどうなってしまうでしょうか?キリスト者とは人を助けてこそキリスト者だと考えている人は、支援の対象が福音を宣べ伝える使徒に限られていると聞いたら、なんと視野の狭い解釈だと怒ってしまうでしょう。しかし、これは解釈ではありません。書かれてあることを素直に読んで得られる理解です。そうなると、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう弱者・困窮者一般の支援は考える必要はないということになるのか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者一般の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということにあります。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申しましたように、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは、別にキリスト教徒でなくてもわかり、実践できます。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。本説教は、そのことも明らかにしていくことになります。
さて、使徒というのは、先ほども申しましたように、イエス様が自分の教えをしっかり聞きとめるようにと、また自分の業をしっかり見届けるようにと、選んだ者たちです。実際に彼らは、教えと業に加えてイエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を宣べ伝え始めました。福音が宣べ伝えられていくと、今度は人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろ支援してあげる人たちが出てくる。他方では、福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出てくる。ここで思い起こさなければならないことは、支援した人たちというのは、支援することで、逆に使徒の仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。その意味で、支援した人たちは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだからという同情心で助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音のゆえに彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのです。つまり、支援した人たちは福音に対して態度を決定して、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った人たちです。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちです。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのです。そういうわけで、本日の箇所は、文字通り信仰義認を教えるもので、善行義認なんかではありません。
以上、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らに対する支援は彼らが携えてきた福音を受け入れたことの帰結であることが明らかになりました。実に、神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒を支援するのが当然になるくらい福音を受け入れるか否かということになります。福音を受け入れることがポイントになるとすれば、最後の審判の該当者は使徒の時代の人たちに限られません。その後の時代からずっと今の時代の人々みんなが該当者になります。使徒の後の時代の人たちは、もし仮に使徒たちが生きているとしたら、自分たちも同じように支援してあげられなければならない、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならない、さもないと神の国に迎え入れられないということです。
そうは言っても、本日の箇所でイエス様は支援のことばかり言っていて、福音の受け入れについては何も言っていないではないか、との疑問が起きるかもしれません。イエス様が福音の受け入れを前提にしつつも、それには触れずに、支援のことだけを言っているのにはわけがあります。イエス様はこの教えを述べる際、本日の旧約の日課エゼキエル書34章の解き明しとして述べていることがあります。どういうことかと言うと、エゼキエル書34章11節から24節までの箇所は、一見するとバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が将来祖国に帰還でき、民を虐げた民族は神から罰を受けると預言しているように見えます。同じような預言は、イザヤ書やエレミア書にも多く見られます。ところが、めでたく祖国帰還した後も、イスラエルの民の現実は預言で言われる理想状態から程遠いと気づかれるようになります。それで、預言は実はまだ未完なのだ、それは今ある天と地が終わりを告げて新しく創造し直される時、まさに真の神の国が現れる時に実現するという預言だったのだ、と理解されるようになります。本日の福音書の箇所のイエス様の教えは、エゼキエル書の預言をバビロン捕囚からの解放という歴史的出来事を越えて、まさに終末論の観点で解き明かすものでした。
エゼキエル書の箇所の中で何度も「羊と羊の間を裁く」と言われますが(17節、20節、22節)、ヘブライ語の単語שהは羊と山羊の両方含めた意味ですので、羊と山羊がごっちゃ混ぜになった状態です。ここでは羊が良い者、山羊が悪者というような特定化はありません。はっきりしているのは、太っていて力強い者が牧草地や水場を独占し、やせて力弱い者には踏み荒らされた牧草地と水場しか残されない、それで神は裁きを行って虐げる者を罰する。虐げられる者は、「私の群れ(צאני、羊も山羊も含む)」と何度も言ってそれを守ると言われます。イエス様は、その裁きの内容を具体的に述べるわけです。判決と根拠を明確にし、良い者は羊、悪者は山羊と特定化します。
イエス様の解き明しにはエゼキエル書の預言には見られない新しい事が一つあります。エゼキエル書の預言の裁きは、虐げる者と虐げられる者の間の裁きですが、イエス様の解き明しの裁きには、虐げられる者を支援する者が加えられたということです。ただ単に虐げられた使徒を神が守って下さると言うだけならば、エゼキエル書のように二つのグループで十分です。しかし、イエス様は、虐げられた者を使徒と位置づけるだけでなく、彼らに連帯する者たちを加えたのです。すなわち、使徒が携えてきた福音を受け入れるという態度決定をした者たちです。エゼキエル書の預言にこのような具体的な内容が与えられたのは、十字架と復活の出来事の後に起こってくる人間の態度決定が考慮に入れられたからです。
ここで使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて触れておきましょう。福音とは、一言で言えば、人間が堕罪の時に失ってしまっていた神との結びつきを、神の計らいで人間に取り戻して下さったという、素晴らしい知らせです。創世記3章にあるように、人間が神に造られた時に持っていた神との結びつきは、人間が神への不従順に陥り罪を持つようになってしまったために失われてしまいました。神との結びつきを失った人間は死ぬ存在となり、人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。
失われた結びつきを回復するために神は、ひとり子イエス様をこの世に送り、彼を用いてそれを実行しました。人間には神との結びつきの回復を不可能にしている罪が染みついている、それで、イエス様に人間の罪を全部負わせて、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして全ての罰を受けさせて死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すという策を講じました。これがゴルガタの丘の十字架で起きた出来事です。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命の扉の門を人間のために開かれました。
人間は、これらのことが自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものにすることができ、その瞬間から罪の赦しが効力を発揮します。こうして人間は罪を赦された者として神との結びつきを回復でき、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。それからはずっと順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御許に引き寄せて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになりました。これほど私たち人間のために尽くして下さる愛と恵みの神は永遠にほめたたえられますように。以上が、使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音でした。
人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかった時、神に対する深い感謝から、神に対して背を向ける生き方はやめよう、これからは神の意思に沿うように生きようという心を持つようになります。神から受けた恩寵の大きさがわかれば、自分の利害のちっぽけさもわかって、自分の持っているものに執着せず、それを他の人々のために役立てようという心を持つようになります。真に、キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。
ここで、神の意思に従って生きるという時の「神の意思」について触れておきます。神の意思とは、要約すれば、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つに尽きます。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、この神が自分にどれだけのことをして下さったかがわかるようになった時です。隣人愛の方は、キリスト信仰では、それは神への全身全霊の愛を土台にしています。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業がまさに神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかをいつも吟味する必要があります。神としては、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取るようにと望んでいるので、キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを忘れてはなりません。
5.
以上、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準として明らかになったのは、使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。その信仰から神の意思に沿うように生きるようという心が生まれ、そこからキリスト信仰者の善い業が生まれてくるということです。このように言うと、次のような疑問が沸き起こります。福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?態度決定する機会も与えられずに、お前は福音を受け入れなかったと言われて火に投げ込まれてしまうのはあんまりではないか?この疑問は、特に日本のキリスト信仰者にとって気になるところではないかと思います。というのは、復活の日、キリスト信仰者の自分は信仰者でなかった肉親に再会できないのではないかという不安が生じるからです。
近年ではキリスト教会の中でも、いろんな宗教があるというのはいろんな登山道を登って同じ頂上に到達するようなものだという考え方をする人が増えてきたと聞きます。そんなご時世ですから、先ほどのイエス様の言葉、彼こそが天地創造の神のもとに到達する唯一の道、命、真理であるという言葉をそのまま信じると、お前は時代遅れの世間知らずだと言われてしまうでしょう。しかし、そう言われるのを承知の上で話を続けます。
福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、ここでは黙示録20章を手掛かりにしてみてみます。そこでは、死者の復活と最後の審判が起きる時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちと言われます(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(13-15節)。それ以外の者たちとは、文字通り、信仰のゆえに命を落とした者たち以外の者たちです。まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守るような極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。そして信仰を持たなかった人たちがいます。信仰を持たなかったというのは、洗礼を受けたがそれが何の意味を持たない生き方をした人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全部ひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。
ただ、ひょっとしたら、洗礼を受けたあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を唯一の救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。詳細な真実は神の記録に記されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。また、ひょっとしたら、洗礼を受けなかったあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。そういうわけで、福音が伝えられなかった人たちについてはなおさら、神に任せるしかないのです。
キリスト信仰を持たずに死んだ人と復活の日に再会できるかどうかという大問題で、このように全てを全知全能の神に任せるというのは、大抵の場合、心に平安をもたらします。それでも、何かのきっかけでこの平安が揺らぎ、今はっきりした答えが欲しいという思いにとらわれることがあります。その時、あなたが自分の希望を神の御心だと言ってしまったら、神をあなたの希望に従わせてしまうことになってしまいます。この問題は、人間の限られた知見や能力ではどうにもならないことなのです。
ここで肝要なことは、もう一つの大問題、すなわちこの世を去る時にどこに行くかのという問題で、あなた自身はどこに行くのがいいのか、ということです。あなた自身はどうなのか、ということです。この問題で聖書が示す選択肢は言うまでもなく、この私を造って下さって、ひとり子イエス様を送って下さった父なるみ神のもとに戻るということです。ルターの言葉を借りれば、この世の歩みを終えて心地よい眠りをひと眠りした後、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて天の祝宴に迎え入れられるということです。復活の日までひと眠りするのですから、登山道なんか登りません。
この選択肢でなければ、別の宗教が教えるところがいいのか、それとも、何も明らかにしないまま逝くのがいいのか、ということになります。もし、造り主の父なるみ神のもとに行くことでいいと決めたら、あとは、復活の日の再会については、お祈りの中で父なるみ神に希望を打ち明けて、最後に「私の思いではなく、あなたの思いが行われますように」と付け加えることです。自分で解決できないことに自分を思い煩わせないことです。
神は罪を焼き尽くさずにはいられない厳しい神聖な方であり、また人間が罪と一緒に焼き尽くされることを望まず、そのためにイエス様を送られた憐れみ深い方でもあります。このために私たちの側で不安と期待が入り乱れることは避けられません。しかし、全知全能の神に全てを任せるしかないというところに落ち着けば、使徒パウロの次の言葉はあなたにとってその通りになるはずです。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章6-7節)
主日礼拝説教 2017年11月26日 聖霊降臨後最終主日、日本福音ルーテル三鷹教会
下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/11/2017_11_19_Yoshimura.mp3
本日の福音書の箇所から、イエス様の時代のユダヤ教社会の結婚式の様子が窺い知れます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に行って結婚を正式に申し込みます。先方の両親からOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで祝宴が盛大に催されました。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従う役割を担います。こうしたおとめたちの付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。
本日の福音書の箇所でイエス様は、こうした婚礼の行列に付き従うことになった10人のおとめたちに何が起きたかを話します。わかりそうでわかりにくい話だと思います。わかりそうなことと言えば、10人のうち賢い5人は、花婿が花嫁の家を出るまで時間がかかるかことを見越して、ともし火が消えないように予備の油を準備する。愚かな5人はそうしない。案の定、花婿はなかなか出て来ず、10人とも疲れて眠ってしまう。すると突然、花婿が出てきて、これから祝宴に向かって出発するぞ、と号令がかかる。はたと目が覚めたおとめたちは支度をするが、愚かなおとめたちはともし火が消えそうなのに気づいて慌てて買いに行く。その間に行列は出発してしまい、さっさと祝宴会場に行ってしまう。油を買って来たおとめたちは閉ざされた門の前でおろおろするばかり。中に入れて下さいと懇願するが、花婿からお前たちなど知らないなどと言われて文字通り門前払いを食ってしまう。
こういうことを言っていることくらいは誰にでもわかります。何がわかりにくいかと言うと、花婿は5人に対してなぜそんなに冷たく振る舞うのか、ということがあると思います。5人はただ見通しが甘かっただけなのに、花婿自らが門の反対側から「お前たちなど知らない」などと言うのは、ちょっと冷たすぎはしないか?結婚式のお祝いの行列にともし火を持って付き従うというのは、そんなに花婿の名誉にかかわるもので、それをちゃんと果たせないというのはそれほどの大失態になったということなのか?これは、当時の民衆の生活史を綿密に調べないとわかりません。ただ一つ言えることは、この話はたとえということです。架空の話で実際に起こったことではありません。イエス様は教えを述べる時によく誇張を用いました。一粒の種は良い土地に落ちれば30倍、60倍、100倍の実がなるんだ、とか、からし種という数ミリ程度の種から鳥が巣を作れる位の大きな木が育つ、とか、また、罪を犯した兄弟を許すのは7回までですかと聞かれて、いや7の70倍許しなさい、とか、聞く人の度肝を抜くような言い方をします。それを考えると、本日の5人のおとめに対する冷たい仕打ちも、聞く人に何かを強く警告するために言っているのだとわかります。それでは何を警告しているのか?
それがわかるためには、このたとえは何についてのたとえかがわからなければなりません。それは、本日の福音書の箇所の冒頭に明確に言われています。この10人のおとめのたとえは「天の国」についてのたとえです。天の国、「神の国」とも言い換えられますが、それがどんな国かをわからせるために、このたとえが話されているのです。それでは、このたとえから神の国とはどんな国であるとわかるでしょうか?そのことをこれから明らかにしていきましょう。
神の国について、最初に一般的に、大ざっぱに述べておきます。これまでの説教の中で何度も取り上げてきましたが、神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」、「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間の五感や理性で認識・把握できるような、この現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、ご自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。
神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。
神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはイエス様が再臨される日でもあり、また最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章や「ペトロの第二の手紙」3章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨したイエス様が、その時点で生きている者たちとその日死から目覚めさせられた者たちの中から御心に適う者を見出して神の国に迎え入れます。
その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな結婚式の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節も)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。
神の国を結婚式の祝宴として述べている黙示録19章によれば、花婿はイエス様であり、花嫁はイエス様を救い主と信じた者たちの集合体です。マタイ22章の最初のところでもイエス様は「神の国」について結婚式の祝宴を題材にしてたとえを述べていますが、そこでの花婿はイエス様自身を指しています。
そうしますと、本日のたとえにある結婚式の祝宴は将来現れる「神の国」を意味します。そうすると、ともし火に買い置きの油を用意した賢い5人は、神の国の入ることができた者たち、用意しなかった愚かな5人は入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、愚かな5人のようになってはならない、神の国に入れなくなってしまわないように注意しなさい、と警告していることがわかってきます。ここで一つ難しいことが出て来ます。イエス様はたとえの結びで、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と述べるところです。あれ、神の国に入れるために目を覚ましていなさい、居眠りしてしまったら入れなくなってしまうぞ、と言うのなら、賢いおとめたちだって眠りこけてしまったではないか、ということになるからです。賢いおとめたちは、予備の油を準備したおかげで神の国に入れたのであって、頑張って目を覚ましていたからではありません。この「目を覚ましていなさい」という命令には、文字通りの事柄ではなく、何か深い意味が込められています。それはどんな意味なのでしょうか?
5人の賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」とも言われています。そうすると、「目を覚ましていなさい」というのは、具体的に寝ずに起きていることを意味するのではなく、なにか用意ができている状態にあることを意味する、そういう象徴的な意味を持っているのだと分かります。そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と言っているところで「眠り込んでしまった」というのも、本当に具体的に寝てしまうことではなく、何かを象徴的に意味しているとわかります。どんな意味でしょうか?「眠り込んでしまった」という言葉は、ギリシャ語ではカテウドーκαθευδωという動詞ですが、これは「眠る」という意味の他に「死ぬ」という意味もあります(第一テサロニケ5章10節)。さらに7節で「おとめたちは皆起きて」と言うところの「起きて」という言葉は、ギリシャ語では、エゲイローεγειρωという動詞で、これも「起きる」という意味の他に「死から復活する、蘇る」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。
こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して死者の復活が起こる日のことについて教えていることがわかります。今のこの世が終わりを告げ、神が天と地を新しく創造し直す日のことです。その日、死から目覚めさせられた者のうちある者は祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられないということが起こる。イエス様は、神の国に迎え入れられるために、この世の人生で用意をしなければならない、と教えられます。賢いおとめたちが油を用意してともし火が消えないようにしたような用意をしなければならない。それでは、その用意をするとは何をすることなのかを考えなければなりません。
これからそれを見ていきますが、ここで一つ申し添えておきたく思います。イエス様の教えというのは、このように、今の世と次に来る新しい世とか、死者の復活とか、そういう今のこの世を超えた視点を持って語られているということをよく覚えておく必要があります。その視点を抜きに本日の箇所を理解しようとしたら、人間何事も準備が大切だ、とか、先を見越して行動することが大切だ、とか、そんな誰でもわかるような人生訓をイエス様が述べていることになってしまいます。そんなことを教えるためにイエス様は創造主の神のもとから送られてきたのではありません。人間が将来の神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方ができるために送られてきたのです。
それでは、「用意する」生き方とはどんな生き方かをみていきましょう。答えはすぐお話しできるのですが、せっかく今日の聖書日課に旧約聖書と使徒書の日課もあるので、ちょっと遠回りになるかもしれませんが、それらを手掛かりに述べていきたく思います。
まず旧約の日課のホセア書をもとにして「用意する」生き方の解明に入って行こうと思います。ホセアとは、イエス様が活動する700年以上も前の時代の預言者です。当時イスラエルの民は北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂していました。本日の箇所のエフライムというのは北王国を指します。イスラエルの民は分裂以前から異教の神々を拝む偶像崇拝に走るようになり、特に北王国は重症に陥っていました。天地創造の神としては、せっかく数ある民族のなかからスラエルの民を選んで、彼らを通して神の意思を全人類に知らしめる役割を担わせたにもかかわらず、しかも我が子のように守ってあげたにもかかわらず、民の心は神を離れて他の霊的なものに移ってしまった。十戒などの神が与えた掟も守られなくなって、その結果、政治的にも社会的にも不正義がまかり通るようになってしまった。
天地創造の神というのは、罪を目の前にすると即焼き尽くしてしまう神聖さを有する方です。民の罪は消滅してもらわなければなりません。そのことが歴史の中で実現します。アッシリア帝国という大国が北王国を攻撃して滅ぼしてしまうという出来事がそれです。紀元前722年のことでした。ホセア書11章5~7節でそのことが預言されます。「剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす」(6節)というところで、「たわ言」と言うのは、偶像崇拝を行った祭司や預言者たちの「空虚な言葉」のことです。「たくらみ」というのは彼らが国の指導者たちに語って惑わした助言を指します。神は罪を滅ぼすために天から炎を送るのではなく、敵軍を送ってその剣で滅ぼしてもらったということです。
しかし、神の神聖さに反する罪を滅ぼそうとすると、それを持っている人間をも抱き合わせで滅ぼすことになってしまう。これが神にとって痛いところであるということが8~9節で言われます。アドマとツェボイムというのは、創世記19章で罪の町ソドムとゴモラが天からの炎を浴びて滅ぶ出来事がありますが、炎を浴びた地域の中にあった町のことです(申命記29章22節)。神は性質上、罪を焼き尽くさずにはいられない神聖さを有する。しかし、自分が選んで世話し導いた民を焼き尽くしたくはない。そこで神は、一度国家滅んで異国の地に連行された民はある期間が過ぎれば、罪の償いを果たしたということにして、祖国に帰還させると約束します。この約束は多くの預言書の中で繰り返され、それは最終的に紀元前538年にイスラエルの民が祖国に帰還できた時に実現します。
ところが神は、この一民族の歴史的な出来事を行った時、それ自体のために行ったのではありませんでした。神はユダヤ民族のみならず人類全てに関しても罪を焼き尽くす神聖な方であるということ、それにもかかわらず人間に赦しを与えて焼き尽くされないように大丈夫にしてくれる方であるということ、このことを一民族の歴史の出来事を通して全人類に前もって示したのです。
そして、前もって示されたことがはっきり現れる日が来ました。それがイエス様の十字架の死と死からの復活でした。神聖な神のもとから送られた神聖なひとり子でありながら、イエス様は全人類の罪を背負って神の罰を受けて十字架の上で死なれました。まさに罪を焼き尽くす神の神聖さによって滅ぼされたのです。神はひとり子をこのように犠牲に供することで人間が焼き尽くされないですみようになる道を整えました。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開きました。このような人間を罪から贖いだす業を行って下さったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその者に効力を持ち始めます。その人は、神がイエス様を用いて整えた罪の赦しの中で生き始めます。自分で罪を償ったわけではないのに、神のひとり子の犠牲のおかげで罪を赦されて焼き尽くされないようにされている。イエス様の犠牲を重く受け止めれば受け止めるほど、与えられた罪の赦しを損なわないようにしよう、汚さないようにしようと注意して生きるようになります。そのために神の意思をちゃんとわかるようにしようと聖書の御言葉にますます触れようとします。
しかしながら、御言葉を通して神の意志を知ろうとすればするほど、自分はそれから遠い存在であること、罪や神に対する不従順に満ちていることに気づかされます。神を全身全霊で愛することが神の意志なのに、自分はそうしていないではないか、その愛に基づいて隣人を愛することが神の意志なのに、そうしていないではないか、と。ルターも、このことはよく承知で、彼に言わせれば、キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者だということになるのです。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、また神の守りを信用しないで心配事に身も心も委ねてしまうこと、その他もろもろの欠点に出くわすのです。
そうなると、古い自分を捨てて新しく生まれ変わったと喜んだ人はがっかりしてしまうかもしれません。なんだ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と。でも実は新しく生まれ変わっているのです。信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けます。聖霊があると、神への不従順、罪をつきとめてくれて、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に心に教えてくれます。これに目や耳をそむけずにすぐ神に向かって自分の非を認めて、主イエス様のゆえに赦して下さい、と祈ると、神は「わかった、わが子イエスの犠牲に免じて赦す。もう罪を犯さないように」と言って下さいます。この時信仰者の心の目はゴルゴタの十字架に向けられ、そこで十字架にかけられた主の両肩や頭の上に自分の罪が覆いかぶさっていることに気づきます。あそこに罪の赦しが本当にあることがわかります。その時、もう罪は犯すまいと決心を新たにします。
このようにキリスト信仰者の生き様というのは、洗礼の時に植えつけられた内なる新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせることの繰り返しになります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、ひと眠りの後、目覚めさせられて復活の命と体を与えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時「完全なキリスト教徒」になるのです。
さて、5人の賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、こうした新しい人を日々育て、古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いが不断に続くことを意味します。信仰の戦いが終息せずに不断に続くようにするものは何かと言うと、それは聖書の神の御言葉の上に立つこと、聖礼典の恵みに結びついていることです。御言葉の上に立つこと、聖礼典と結びつくこと、これが買い置きの油になります。これがある限り、信仰の戦いは不断に続き、ともし火の火が消えることはありません。「目を覚ましていなさい」の象徴的な意味は、まさに信仰の戦いをしっかり戦いなさいということです。そうすることが、将来の復活の日に向けて「用意をする」生き方です。時として、神を全身全霊で愛することをせず、隣人を自分を愛するが如く愛さず、神の意志に背いてしまう時があるでしょう。また外見上は大丈夫のようでも心の中でそうなってしまうことがあるでしょう。それは避けられません。しかし大事なことは、そのたびに父なるみ神に赦しを祈り、主の十字架のもとに立ち返ることです。父なるみ神は罪を焼き尽くさないではいられない神聖な方であるにもかかわらず、人間がそうなってしまわないためにイエス様をこの世に送られました。完璧な正義と完璧な憐れみ、神の愛とはこの二つが完璧にあるのです。神が正義だけを振りかざしたら、人間は皆滅んでしまいます。逆に、憐れみだけだと、人間はつけ上がります。人間がつけ上がらず、逆にへりくだって謙虚になるような、そんな憐れみを神は示されたのです!イエス様を送ることによってです。こんな完璧な愛が他にあるでしょうか?兄弟姉妹の皆さん、この愛にとどまって生きようではありませんか!
5人の愚かなおとめについて一言申し上げれば、彼らは誰を指すのか?洗礼を受けた後、新しい人を育てて古い人を死なせるという信仰の戦いを放棄してしまった人のことか、それともそもそもそういう戦いに入ることもなく、肉だけで生きる人のことか、確定は難しいと思います。大事なことは、イエス様は警告としてこのたとえを話しているということです。つまり、今肉だけに生きる人も、信仰の戦いから離脱してしまった人も、はやくこの戦いを始めなさい、戦いに戻りなさい、ということです。それが将来の復活の日に向けて用意をすることになります。本日の使徒書の日課で使徒パウロは「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています(第一テサロニケ3章12節)。お互いの愛と全ての人への愛と二つの愛がありますが、お互いの愛とは、信仰者が互いに向け合う愛で、信仰者が戦いを続けられるように支え合うことです。全ての人への愛というのは、信仰者でない人が同じ神の愛に生きられるように祈り導くことです。
下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/11/Kimurasensei_2017_11_12.mp3 第12回コリント信徒への手紙 3章10~17節 2017年11月12日(日)
今回のみ言葉で中心となる大切な言葉は最後にあります17節です。17節〔あなた方は神の神殿なのです〕と言うことです。9節でもパウロは強調しました。〔私たちは神のために力を合わせて働く者でありあなた方は神の畑、神の建物なのです。〕この最後のあなた方は神の建物なのです、と同じことを記しています。信仰者は教会を互いに建て合うほかありません。そして決して易しいことではありません。それでパウロは10節で言うのです。教会を建てる中心人物になっているところの自分について「神が賜った恵みによって熟練した建築師のように土台を据えた」と。この仕事は人間の知恵や努力だけではどうにもならない。神から賜った「恵み」によって、と言う事が大切であります。教会は人間のためにあるものですが、神の教会であります。それなら神の恵みを受けて神の力によらねば出来ないことであります。神の力により神の御心にかなうようにするわけであります。それは神の恵みによる他ないでありましょう。その上、パウロは「熟練した建築師として」と言っています。家を建てるのですから熟練した建築師が必要なことは言うまでもありません。まして、神の家を建てると言うことになると、よほどの熟練が必要であります。信仰の熟練であります。いろいろな困難にあうことは当然であります。その時に何よりも信仰的にどうしたら良いのか。それを知っているのは神の恵みによって熟練者になった人でなければならない。神のお気に入るように神のみ業に役立つようにするには熟練が必要でしょう。ところが、ここに注目すべきことが書いてあります。それはパウロが土台を据えた、と言っていることであります。そして「その土台の上に」他の人が「家を建てるのである」と言うのであります。つまりパウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、とい思っていたらしいのであります。つまり、パウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、と思っていたらしいのであります。土台は言うまでもなく建物では一番大事なものであるに違いありません。しかし、パウロが特にこのように土台にこだわるのは何か特別な意味があるにちがいありません。それで11節に書いています〔イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれも他の土台を据えることはできません。〕この土台以外には誰も土台を据えることはできない、その土台はイエス・キリストであると言っているのです。パウロが自分は神の恵みによる熟練を持っていた、と言っていますが、その熟練はまさにイエス・キリストを土台に据える、その熟練さであるということです。ここにこの建物の秘密があり力があるわけです。
それならば、キリストが土台であるというのはどういうことでしょうか。これは実際の建築の話ではありませんから、つまり例えて言っている訳です。土台というのも信仰上のことであります。教会がイエス・キリストに対する信仰の告白を持っているということです。イエス・キリストに対する信仰の告白というのはイエス・キリストと言い表す信仰告白といっても良いでしょう。イエスが神の子キリストである、と信仰をもって告白することは何でもないようでいて決してそうではないのであります。教会の信仰告白の歴史を見ますといつでも問題はあのナザレ人イエスを神のお遣わしになった救い主キリストと信じているかどうか、ということです。多くの人々が「イエス」という人物を偉い人だと考えたり或いは「たぐい稀な人間離れの人類の教師だ」と見る人々、学者など神を信じていない人でもそれくらいは考えているのであります。しかし、そのキリストによって救われるということになれば話は別であります。それは人間的に言えば大変難しいことであります。しかし、そう信じなければ救われたということにならないでありましょう。もし救われたというのでなければキリスト教はただの人生の教えと言うことになってしまう。その信仰が「土台」になっているというのはどういうことでしょう。土台ですからその上にあるものをすべて支える力を持っているものである、ということです。それならばイエス・キリストを土台に持つ教会はあらゆる事においてイエス・キリストを表すものでなければならない。それはイエス・キリストがその教会の支配者になるということであります。教会の中の一切のことを運営するのにイエス・キリストがご主人になっていてくださるようにするのであります。それはキリストを頭と仰ぐというようなことでなくて自分がキリストに救われたのだから何事もキリストのみ心のままにしようとということであります。次にパウロが12節以下で書いていることはどういうことでしょう。12節
〔この土台の上に誰かが金、銀、宝石,木、草、わらで家を建てる場合各々の仕事は明るみに出されます。〕と書いてあります。するとパウロ自身は土台を据えるだけであったのでしょうか。「既に据えられている土台以外のものを据えることは誰でもできない」と言っているのですからパウロはこの土台を据えるだけで他の人はその土台の上に建てるだけである。ということになります何れにせよもう土台は据えられた。これからはその上に建てるだけである。それは多くの人に任せるほかはないと思ったのでしょう。人々はどのようにして教会を作るのでしょうか。ここに書いてあるようにある者は金を用い、ある者は銀を用い、他の人々はそれぞれ宝石や木や草や、わら等で建てるというのです。勿論これは実際の家の建て方のことではなくて各々がその信仰によって建てることを言ったのでしょう。信仰には強弱があります、また長い信仰生活の人も短い信仰生活の人もあったでしょう或いはお金持ちのように見えるが実際には草か、わらしか提供できなかったかもしれません。その反対に思いがけない人が思いも及ばないような献げ物をすることもありましょう。金を献げたか、銀を献げたか、草であったか判断することはできません。神がご覧になってどう判断されるか神のみがご存知であります。そして神がきびしくお裁きになることであります。
そのことを13節以下に詳しく記しています。〔各々の仕事は明るみに出されています。かの日に火と共にあらわれ、その火は各々の仕事がどんなものであるかを吟味するからであります。〕ある学者はここで火と言っているのは聖霊の判断のことであろうと言います。ここで言っていることが具体的に何を言うのか良く分かりません。ともかく神の御心にかなわない業は滅び去り御心にかなったものだけが残るというのでしょう。16~17節ではいかにも突然のことのように「我々は救われる」と言って急に「あなた方は神の宮である」と言っています。信仰を持っている者は神のものとされるということです。「神のもの」というのは神に仕え神のお喜びになるようにすることであります。ここではそれが「神の宮になる」ということであるのです。神のものであるからには神に喜ばれるものということですから、それなら神が一番お喜びになることは何でしょうか。詩篇19編に次のようにあります。〔もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手の業を示す。〕神がおつくりになった天地は神の栄光をあらわしている。それなら神のものである私たちも何より神の栄光を表し神を讃えるものでなければなりません。それが神のものの特徴であるはずであります。神のものは神の宮と言っても
良いのであります。神の宮ではどこを眺めても神の栄光をあらわし御手の業を示しているはずでしょう。わたしたち信仰者はどんな仕事をしていてもその仕事と生活を通して神を崇めること、それを神はお望みになっているのであります。神の宮というのは言うまでもなく神殿ということです、神殿での仕事は決まっています。それは神に会うということです、私たちが神の宮であると言うのはいつでも神に会うことのできるような生活が与えられたということであります。信仰を持っている者は祈ることを知っています、いつどんな時でも祈ることが出来ますし神様にお目にかかることができる、これこそ大きな恵みであります。最大のことは礼拝が出来ることであります、神の神殿であるのですから神を拝むことができるということです。
しかし自分たちがはたして神の宮といえるのでしょうか、何の力もなく知恵もなく自分たちのどこにそのような資格があるのでしょうか、と惑ったりします。それでこう書いてあります。〔神の御霊が自分の内に宿っているのをしらないのか。〕〔知らないのか〕と言っているのですからそれはまるで私たちの弱い心を見通しているように思われます。あなた方は神の宮であることに気づいていないであろう。しかし神の御霊がすでにあなた方の内に宿っているではないか、というのです。神の御霊はキリストを信じてくださいました、救いも確信させてくださいました。こうして信仰のすべてが神の御霊によって与えられているのであります。こうして信仰生活をしていることが私たちが神の宮であることが示されている、ということになるのではないでしょうか。私たちはもっと自分が神の宮であることを意識して良いのであります。そして一層熱心に神を拝み神に仕えなけらばならないのではないでしょうか。 アーメン・ハレルヤ!
主日礼拝説教 2016年11月6日(全聖徒主日)
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1. キリスト教会のカレンダーでは本日は聖霊降臨後から第22の主日ですが、日本のルター派教会では「全聖徒主日」としても定められています。キリスト教会では古くから11月1日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人として覚える日としてきました。加えて11月2日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。ラテン語で、殉教者を覚える日はFestum omnium sanctorum、信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドでは、これらを合わせて11月最初の土曜日を「全聖徒の日」として両者を覚える日にしています。
日本のルター派教会のカレンダーでは、11月1日が「全聖徒の日」、それに近い主日が「全聖徒主日」と定められています。今日のことです。11月1日が中心なのを見ると、ラテン語の伝統の殉教者中心のようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った信仰の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われていますので、フィンランドと同じように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。
ここで、亡くなった方を「覚える」ということはどういうことかを注意しなければなりません。というのは、こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方がいらっしゃるかもしれないからです。ルターが教えていますが、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活が起きる日までは、神のみぞ知る場所にいて静かに眠るのであります。終末と復活の日が来たら目覚めさせられ、神に相応しいとされた者は輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられるのであります。その日までは眠るだけです。イエス様も、死んだ者を蘇らせる奇跡を行った時、「この者は死んではいない。眠っているだけだ」と言って蘇らせました(マルコ5章39節等共観箇所、ヨハネ11章11節)。まことにキリスト信仰にとって、「生きる」とはこの世の体を着て生きる日々と復活の輝く体を着て生きる日々の両方を合わせて生きることです。「死ぬ」とは、この世の体を着て生きた後は輝く体もなく祝宴への迎え入れもないことです。本日の福音書の箇所のイエス様の言葉を借りれば、「枝のように外に投げ捨てられ枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15章6節)ということです。
亡くなった方は、復活の日まで安らかに眠っているとすれば、私たちを見守るとか、導くとか、助言するとかいうことはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、これは、私たちを造られ、私たちに大事な命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神です。
そういうわけで、亡くなった方たちを覚えるというのは、その方たちと共に過ごした日々を何ものにも換えがたい大切なものとして心に抱くことです。そして、そのような日々とそのような方たちを与えて下さった神に絶えず感謝し、復活の日の再会に希望を託すことを許していただけるよう神に祈ることです。このようにしてキリスト信仰者は、過去の思い出を大切にして、それを神に感謝しながら将来の希望の日のことを神に委ねて今日を生きていくのであります。
このように全聖徒主日の意味を考えると、復活や終末などキリスト教の死生観の中心的な事柄に触れることにもなります。死生観という言葉には、「死」と「生」の両方が含まれています。生を考える時、死というものを切り離さないで考えるということです。キリスト信仰においては、この世を去る死は一時の眠りに入る段階であって、本当の死はその後に来るか来ないかがわかるということだ、と先ほど申しました。また、人間にはこの世の体を持って生きる日々だけではなく、復活の体を持って生きられる可能性があることも申しました。二つの異なる体があるというので、キリスト信仰には死生観と結びつく人間観もあると言えます。本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の箇所は、キリスト信仰の死生観と人間観をよく表している箇所だと思います。もちろん、聖書の他の箇所でも表わされています。本日の説教題に「聖書の人間観と死生観」などと大見得切ったものをつけてしまいましたが、正確には「エゼキエル書37章1節から14節を通して見る聖書の人間観と死生観」です。もし聖書の関連個所全部について見ることができたら、文字通り「聖書の人間観と死生観」の話が出来ます。でも、合計14節だけでも30分近い話になるのに、そんなことしたら何日位かかるでしょうか?
2. 本日のエゼキエル書の箇所にある出来事は、イエス様が登場する500年以上も前のことです。かつて神に選ばれたイスラエルの民でしたが、国の指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続けた結果、ついに神から罰として強大なバビロン帝国を遣わされてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいました。国民の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の古代史にも「バビロン捕囚」として登場する歴史的な事件です。連れて行かれた者の中に預言者のエゼキエルがいました。本日の箇所は、神の霊に導かれてある谷に連れて行かれたエゼキエルが、そこに無数の枯れた骨を見る。
ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられたという出来事です。最近はやりのハロウィーンのせいで、こんな話は真剣に受け取るに値しないと思う人がいるかもしれません。でも、ここはこの世の喧騒から一時自分を遮断して、静かに聖書の神の御言葉に心の耳と目を向けましょう。教会とはそういう場所です。礼拝とはそういう時間帯なのです。実はこのエゼキエルの出来事には、紀元前500年代当時を生きる人々にとって有する意味と、歴史を越えて現代を生きる私たちにとって有する意味の二つの意味があります。
まず、当時の人々にとって有する意味について見てみます。37章11節に、なぜ天地創造の神はエゼキエルにこのような光景を見せたのかが明らかにされます。この大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びた自分たちは荒野に放置された枯れた骨も同然だ、希望はなく消滅するしかない、などと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できる、と約束する。神は、約束を本当に実現できる力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。ここまで見せつけられたら、神の約束を信じないわけにはいかないでしょう。
このように、この光景は国難に陥って国が滅びてしまった民が復興することを確信させるために見せられたのでした。しかし、ここには同時に、人間というものは神に造られた被造物であるという、聖書の人間観がよく出ています。そこにも注意しなければなりません。8節に言われるように、骨に肉や皮膚がついてもまだ生きてはいませんでした。なぜなら、霊がなかったからです。神は霊を「与える」と言います(6節、下注参照)。神は霊を次のように与えました。エゼキエルに「霊に預言せよ」と命じ(ヘブライ語の辞書HolladayのConciseによれば「預言者として霊に語れ、命じろ」、つまり「預言者の権威を持って命じろ」ということです)、霊が風のように四方から来てこれらの骨に吹きつけるようにせよ、と命じます。すると横たわっていた肉体は霊を受けて生き返ります。霊が風のように言われますが、これはヘブライ語の言葉רוחが霊と風の両方を意味することによります。これは絶妙な言葉だと思います。風は空気の移動なので目には見えません。木の枝や葉がざわざわなって風の力が働いたのを見て、吹いたことがわかります。霊も人間の目には見えません。その力が働いた結果を見ることしかできません。このことは、イエス様もヨハネ3章8節の有名な「風は思いのままに吹く」と述べているところで教えています。
以上から、人間が生きるためには神が与える霊を受けなければ生きられず、霊がなければ肉体はあってもただの物体にしかすぎないというのが聖書の立場であることが明らかになります。ここで一つ付け加えますと、霊がなければ動かないのは肉体だけではありません。人間には手足、目耳口、内臓や血管などの体の部分や器官の他に、感情や気持ちを生み出す心もあります。「心臓」と聞けば、それは血液を送り出すポンプのことを言うとわかります。血液循環に何か問題があって痛みを感じれば、「心臓」が痛いと言いますが、「心」が痛いとは言いません。「心」が痛いと言ったら、ジェスチャーとして心臓の部分に手をあてて言いますが、それは気持ちや感情の問題で血液循環の問題ではありません。そういう心や精神の部分も、肉体と同じように、霊を受けないと作動しません。このように、人間が神に造られたというのは、肉体や心や精神の部分を造っていただいただけでなく、最後の仕上げとして霊を与えて下さったということです。
このように霊とは人間を肉体や心や精神を持って生きるものにする決め手ということがわかりましたが、本日の箇所をよく見るともう一つ別の霊があることに注意しなければなりません。実は、これはヘブライ語の原文を見ないと気づくことができません。14節で神は「また、わたしがお前たちに私の霊を与えると、お前たちは生きる」と言われます。新共同訳では「吹き込む」ですが、ここもヘブライ語原文は「与える」です。それよりも重要なことは、新共同訳では単に「霊」を吹き込む、と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。14節の前で枯れた骨が生き返る光景の時に出て来る「霊」は全部、「私の」はなく単に「霊」だけです。14節で問題となっていることは枯れた骨の生き返りではなく、イスラエルの民の祖国帰還です。その時民は生き返ったも同然で、その時与えられる霊は「私の」霊、つまり神の霊なのであります。こうなると、二つの異なる霊があることになります。両方とも神から与えられるものですが、一つは人間を生きるものにする時に与えられる霊、もう一つはイスラエルの民が祖国帰還と復興を遂げる時に与えられる神の霊です。神が与えられる霊には二つあるということは、どう理解したらよいのでしょうか?
3. 理解の鍵は、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」8章14‐16節で次のように教えているところにあります。それを少し見てみましょう。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になってあかしして下さいます。」
いろんな霊が出て来るので、解きほぐしていきましょう。まず、「神の霊」というのは、父、御子、御霊の三位一体の神の御霊つまり聖霊を指します。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神の霊、聖霊を受けます。聖霊を受ける受けないで何が違ってくるかと言うと、イエス様のことを現在パレスチナと呼ばれる地域で2000年前に活動した歴史的人物だと言う場合には聖霊は働いていません。それが、イエス様のことを歴史的人物のみならず、彼のゴルゴタの十字架の死や死からの復活というのは実は現代を生きる自分のためになされたのだとわかり、それでイエス様は自分の救い主だと信じるというようになれば、それは聖霊が働いたからそうなったということになります。
これに対して「人を奴隷として恐れに陥れる霊」とは、天地創造の後で人間に罪を吹き込んで、人間を神の罰を受ける存在にしてしまった悪魔のことを指します。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、この霊の力に支配されないように守られています。これが、本日の使徒書の日課「ローマの信徒への手紙」6章の中で使徒パウロが、洗礼を受けた者は「罪に対して死んでいる」と言っていることなのです(2節)。「罪に対して死んでいる」と言うのは、罪と無関係になったということです。イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、罪には人間を再び支配下に置く力はないのです。
洗礼を受けることでイエス様の十字架の死に結び付けられて、このように罪に対して死んだ者になると、今度はイエス様の死からの復活に結び付けられて、神に対して生きるようになると言われます(11節)。これはどういうことか?イエス様はゴルゴタの十字架で人間の罪を請け負って代わりに神罰を受けられました。彼の身代わりの犠牲のおかげでこの自分も神から罪の赦しを受けられるようになったのだ、まさに神がひとり子を犠牲に用いて準備した罪の赦しを頂けるのだ、このように神のひとり子の犠牲を重々しく受け止め、神から受け取ったものの大切さが分かればわかるほど、心は聖書に明らかにされている神の意思に沿うように生きようと志向し出します。神を全身全霊で愛そう、その愛に立って隣人をしっかり愛そう、という心意気になって行きます。神の意思に背くような生き方はしないようにしようという心意気になって行きます。この時、天地創造の神は裁く神でなく慈愛に満ちた父親になっています。それで、神のことを「アッバ」と呼ぶのだとパウロは言います。アッバとは、イエス様をはじめ当時のパレスチナの地域の人の言葉であるアラム語で「お父さん!」と呼びかける言葉です。天地創造の神を、そのように身近で慈愛に満ち、見守り助けてくれる父親として抱き、お祈りを通して思いや願いを全て打ち明けられるのは、これは聖霊が働いているからです。
先ほどのローマ8章に戻ります。ここでのパウロの教えで興味深いのは、キリスト信仰者の内には二種類の霊があるということです。一つは先ほど申し上げた神の霊、聖霊ですが、もう一つは、信仰者が神の子であることを聖霊と一緒に証する「わたしたちの霊」です。これは、私たちが肉体や心や精神を持った生き物になるために神から与えられる霊です。キリスト信仰者もそうでない者も、生き物として持っていなければならない、神から与えられた霊です。それがキリスト信仰者になると、聖霊がその上に被せられるように与えられます。聖霊がなくてただの霊だけでも、もちろん生きられます。肉体や心や精神を用いた活動を行うことが出来ます。ただ、イエス様が歴史上の人物とは知ってはいても、自分の救い主にはなっていません。ひとり子を犠牲にすることをいとわないくらい人間のことを思って下さった神を慈愛に満ちた父であるということもわかりません。神がひとり子イエス様を犠牲にしてまでもたらしてくれた罪の赦しもまだ受け取っておらず、罪が償われたという解放の喜びや安堵もありません。さらに、人間を罪の支配下に留めたがる悪魔の霊に対して隙だらけになってしまいます。
4. 以上、人間は生き者になるために天地創造の神から霊を与えられなければならないこと、さらに神のことを慈愛に満ちた父親と抱ける「神の子」となるためには神の霊、聖霊が与えられなければならないことが明らかになりました。この二つの異なる霊は、エゼキエル書の二つの霊に重なります。37章の1節から10節までは、枯れた骨が生身の人間に生き返ることを言っていました。そのために神から与えられる霊が必要とされました。この光景を見せられたエゼキエルは、枯れた骨のようになったイスラエルの民ではあるが、神はこれを生き返らせて下さる、つまり祖国に帰還させて復興させて下さると確信できました。そして、それは実際に紀元前538年に歴史的出来事として実現しました。37章の14節で「私の霊」と出て来るのは、これは祖国に帰還するイスラエルの民がどんな霊を受けるかを示しています。実際に祖国に帰還したのは、旧約聖書のネヘミア記やエズラ記を見てもわかるように生身の人たちです。枯れた骨に肉と皮膚がついて霊が与えられて生き返った者たちが帰還したのではありません。帰還した人たちは生き者としていたので、そのための霊は既に持っています。
そういうわけで、帰還の時に与えられる「私の霊」とは生き者にする霊ではなくて、神の子にする聖霊を指します。さて、歴史的事実としてイスラエルの民は祖国帰還を果たし復興しました。しかし、本当に聖霊を受けて神の子となって果たしたのかというと、そこには複雑な問題がありました。聖霊を受けて神の子となって祖国に帰還・復興するというのが預言でした。ところが帰還と復興は遂げても、民は神の意思に沿う生き方が出来ていないということが明らかになってきました。国民は復興したとは言っても、国は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国に支配され続けていました。イザヤ書2章にあるように異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言からほど遠い現実がありました。そうなると、民に聖霊が与えられて神の子とされるのはまだ実現していないのではないか?預言書に言われる祖国帰還と復興というものも実は別のものを指し、それはまだ実現していないのではないか?そう考えられるようになります。つまり、預言はまだ未完だという理解です。
どうしてこのようなことになったかと言うと、神は天地創造の後に生じた人間の罪の問題の解決を図るとき、一民族の歴史的復興でそれを果たすつもりはありませんでした。なぜなら問題は全人類にかかわる問題だからです。一民族の復興で解決される類のものではありません。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者に言葉を下しますが、歴史の限られた状況の中で下され、また下された預言者もその状況を手掛かりにしてしか言葉を理解できません。その結果、イスラエルの民の祖国帰還や復興という一民族の歴史的出来事は、本当の預言実現の模型のようになっていきます。
全人類に関わる罪の問題が解決したのは、イエス様が十字架の死をもって人間を罪の支配から贖い出した時、そして死から復活されることで永遠の命への扉を開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は、罪の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されて聖霊を与えられて神の子として「新しい命に生きる」(ローマ6章4節)ようになることを見通した預言でした。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル37章12~13節)というのは、神の子となった者たちがまさに復活の体を着せられて、天上のエルサレムとも呼ばれる神の国に「帰還」するという、まさに復活の日をも見通す預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的事実だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事と将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということを忘れてはいけません。
5. 先ほど、聖霊を与えられて神の子となった者は、悪魔が支配しようとする力から守られていると申しました。守られてはいても、攻撃は受けます。しかし、攻撃は受けても守られています。このことをルターが本日の福音書の箇所にあるヨハネ15章1節「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫である」を解き明していますので、それを引用して本日の説教の締めとしたく思います。
「見よ、主イエス様は受難と死を目の前にしてこのように述べて自分自身を励まされた。そればかりではない。主は我々もこの同じ励ましの言葉に拠り頼みなさいと教えておられるのだ。主が言わんとされるのは次のことだ。『私は真のぶどうの木である。私の父が自ら植え愛される木である。あなたたちは、私と私の父の愛すべき枝である。ぶどうの木が一生懸命肥料を与えられ刈り込まれ、丁寧に世話をされるならば、そのような木はまさに私のことである。悪魔よ、この世の闇よ、来るなら来てみよ、私に成し得ることをしてみるがよい。どちらにしても、お前たちは愛する私の父が認める範囲を越えて私に何かしでかすことは不可能なのだ。』
父なるみ神は私たちのことも同じように守って下さる。それで私たちに悪が襲いかかっても、それはそのまま神に対して襲いかかることになって結局は悪は自滅せざるを得ない。果たして、これ以上の励ましがこの世にあるだろうか?農夫というものは、ぶどうの木の近くに住み、どこにも行かず、いつも全部の枝の世話をし、他の誰にも木を任せたりはしない。父なるみ神も同じである。
イエス様を救い主と信じる信仰に留まって、この美しい御言葉を完全に自分のものとして所有する者は、どんな困難にあってもきっと勇気を失わないであろう。しかしながら、このような御言葉やそれが与えるイメージが我々の内に命を持てるためには、それこそ肉ではない霊的な耳と目が必要とされる。なぜなら、肉の目から見て、困難にある信仰者はぶどうの木や枝なんかではなく、雑草や灌木にしか映らない。しかし、霊的な目からみたら真のぶどうの木にしっかり繋がる枝以外の何者でもないのである。」
下注 新共同訳では「吹き込む」と訳されていますが、ヘブライ語の原文では「与える」です。どうしてそのように訳されたかについて、天地創造の時に神が最初の人間を造られた時に「命の息を吹き入れられた(創世記2章7節)」とあることに拠ると考えられます。本説教では原文に忠実に見ていくことにします。
1.はじめに
本日は宗教改革主日ということで、日本のルター派教会に定められた福音書の箇所はマタイ5章1節から6節まで、あの有名なイエス様の「山上の説教」の出だしの部分です。「山上の説教」は、ガリラヤ地方の小高い山の上で群衆に向かって語られた教えで、マタイ5章から7章までの長きにわたります。教え終わった時、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われています(7章29節)。そのように聞く人に強いインパクトを与えた教えでした。2000年後の今を生きる私たちが読んでも、例えば「復讐してはならない、敵を愛せよ、人を裁くな」というのは崇高な理想に聞こえます。また、「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない、それなのに、天の父なるみ神はこのように装って下さる。お前たちにはなおさらである。だから思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」などは、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず、読む人に慰めと励ましを与えるものです。そうかと言えば、モーセ十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」について、たとえ殺人を犯さなくとも、心の中で兄弟を罵ったら同罪であると言います。また、第六の掟「汝姦淫するなかれ」についても、たとえ不倫をしなくとも、ふしだらな目で異性を見たら同罪である、などと教えます。そこまで言われたら神の御前で正しい人間などいなくなってしまうではないか、と反発してしまいます。このように「山上の説教」には、崇高な理想を感じさせる教えもあれば、励ましや慰めに満ちた心温まる教えもあり、ちょっと受け入れられないぞ、というような教えもあります。いずれにしてもイエス様は確信を持って語るので、聞く人は何か不動の真理が述べられていると気づき、大きな権威を感じました。
本日の福音書の箇所として定められている5章1節から6節までですが、実はこれは、5章1節から12節までがひとくくりの部分なので、それの出だしの部分でもあります。そのひとくくり出来る1節から12節までというのは、「幸いな人」についての教えです。「幸い」と訳されるもとのギリシャ語の言葉μακαριοςですが、これは普通の「幸せ」と異なる意味を持ちます。それで、訳語として「幸せ」でない言葉を考えなければなりません。「幸い」という日本語が選ばれました。そこで、この「幸い」と普通の「幸せ」はどう違うかと言うと、例えば、お金でも健康でも家族でも、一般に持っているのが望ましいと思われているものを持てたら、それは「幸せ」なことです。人によっては、不足なく持てるだけでは物足りず、人よりも多く持てることを「幸せ」と感じる人もいます。
「幸い」は次元が違います。これは何かを不足なく持っているか、沢山持っているか、とは関係なくある幸せです。誤解を恐れずに言えば、お金がない時にも、健康が損なわれた時にも、家族がいない時にも、ある幸せです。お金とか健康とか家族がある時の幸せよりも、もっと深いところにある幸せです。「幸せ」がこの世と密着しているものなのに対して、「幸い」はこの世離れしています。貧乏や病気になって一体何が「幸い」か!と言われてしまうかもしれませんが、もちろん、貧乏や病気になったら自動的に「幸い」を得るということではありません。これから解き明かしていくように、イエス様が指し示す方向に進んで行かないと得られません。逆に、金持ちは「幸い」を得られないかというと、そういうことではなく、金持ちもイエス様の方向に進んで行ければ得られます。ただし、イエス様も他の箇所で教えるように、人間は持っているものへの執着があるために、深いところにある「幸い」に目が向きにくいということがあります。
さて、この「幸いな人」についての教えは、一見すると互いに相反するような内容です。どんな人が幸いか?誰がこの世離れした深い幸せ「幸い」を得ることができるのか?本日の箇所の中でリスト・アップされているのですが、どうも首尾一貫していないのです。
まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。この「心の貧しい人」というのは、よく指摘されるところですが、ギリシャ語の原文では「霊的に貧しい人」です。英語の聖書(NIV)もスウェーデン語もフィンランド語もルター訳によるドイツ語も皆「霊的に貧しい」と訳しています。どうして新共同訳で「心の貧しい人」と訳されたかはわかりません。「心が貧しい」と言うのは、辞書を見ますと、人格や器量が乏しいさま、とか、考えが狭かったり偏っていたりすることとか、何か至らない人間を指す言葉です。「霊的に貧しい」というのは、そういう、人間同士の関係で至らないところがあるという意味ではありません。そうではなくて、天地創造の神に対して至らないところがあるということです。そして、その至らなさを自覚していることです。例えば、十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかを知っているのに、それを行うことが出来ない、そういう無力な自分を思い知る。これが霊的に貧しい状態です。自分は確かに殺人もしないし不倫も盗みも働かない。だから神はよしと認めて下さるかと言えば、「山上の説教」で神のひとり子自身が、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと、神聖な神は外面的な行為のみならず人間の心の奥底まで潔白かどうかを見ておられる。なにしろ神は天と地のみならず人間をも造られた創造主で、人間一人一人に命と人生を与えられた方である。私たちの髪の毛の数から心の奥底までも全部お見通しである。そうなれば、自分は永遠に神の前に失格者である。このように神聖な神の意思を考える時、汚れに満ちた自分に気づき意気消沈する。これが霊的に貧しいことです。そして、このような者が「幸いな者」と言うのです。
それでは、なぜ、そのような者が幸いなのか?その理由も言われていています。「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」新共同訳では理由の意味は出ていませんが、ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。これは不思議な事です。「天の国」、つまり「神の国」のことですが(マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わず「天」に置き換える傾向があります)、それが、神の御前に立たされても何の問題もない、霊的に完璧な者が幸いで神の国を持てる、とは言わない。全く逆に神聖な神の前に出されたら罪の汚れのゆえに焼き尽くされてしまう自分を自覚している、そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てると言われるのです。これは一体何なのでしょうか?後で明らかにしていきます。
次に悲しむ者が幸いな者と言われます(4節)。悲しむことが一般的に言われているので、何が悲しみの原因かは特定出来ません。前の節にあるように、神の前に立たされて持ちこたえられない霊的に貧しさが考えられます。また神とではなく人間との関係で社会や生活の中でいろんな困難に直面していることも考えられます。両方考えて良いと思います。ここでも「悲しむ者」がなぜ幸いなのか、理由が述べられています。「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言及されていなければ、その場合たいていは神が行為の主体です。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになる、ということです。
次に「柔和な人々」が幸いな者と言われます(5節)。「柔和」とは、辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語πραυςは従順で大人しい感じを指しますが、例えば、酷いことが起きたり酷い人が来ても取り乱したりしないで、全てを静かに受け入れて静かに対処することができる、そういう内面の強さに裏打ちされた従順さ大人しさです。忍耐強さ、へりくだりの心、素直さを含んでいます。これは、霊的に貧しい人や悲しんでいる人に比べて素敵な感じがします。そんな従順で大人しい人たちが幸いである理由は、「地を受け継ぐことになるからだ」と言います。わかりにくい事ですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、神に選ばれたイスラエルの民がこれまた神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味します。キリスト信仰の観点では、「約束の地」とは将来復活の日に現れる「神の国」になりますので、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」を得る、そこに迎え入れられることになります。
次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神に相応しいとされることです。神の前に立たされても大丈夫、問題ない、やましいところはない、とみなされる状態です。それが「義」です。先ほど見た、霊的に貧しい者は神の前に立たされたら大丈夫でない状態にあることを自覚しています。それで義に飢え渇くことになります。そのような者が幸いと言われますが、その理由は「彼らは満たされることになるからだ」と言われます。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということになります。義がない状態にあって、それを自覚して希求する者は必ず義を神から頂ける。だから義のない状態を自覚して悲しみ希求する者は幸いである、と。
以上みてきたように、幸いな者は、一方では霊的に貧しい者、悲しんでいる者、義に飢え渇く者があげられます。あまり好ましい状態にあるとは思えないのですが、でも将来状況が変わるので今から幸いなのだと言う。他方で柔和な者が幸いな者としてあげられ、これは好ましい状態と思われるので、幸いと言われても納得できます。本日の箇所の後の7節から12節までを見ても同じことが言えます。幸いな者として、憐れみ深い人(7節)、心の清い人(8節)、平和を実現する人(9節)のように好ましい状態の人があげられます。他方で、義やイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに迫害される者(10-11節)もあげられます。迫害されてしまうなんて好ましい状態ではありません。
当時はじめてこのイエス様の教えを聞いた人たちは面食らったでしょう。なぜなら、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は専ら好ましい状態にある人のことを指したからです。一つの例として、詩篇の第一篇があげられます。
いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。 ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(1~3節)
「主の教え」というのは、ヘブライ語原文ではトーラーなので、具体的には十戒を含むモーセの律法です。天地創造の神が人間に求めるものを明らかにしたのが律法です。それを与えられたイスラエルの民はとても誇りに思い、それを心に留めて守ろうとしました。そのような者が幸いなのである、と。
幸いな者のもう一つの例は詩篇の32篇です。
いかに幸いでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。 いかに幸いでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は(1~2節)。
神から罪を赦され、神の前に立たされても大丈夫、よしとみなされる者が幸いな者です。人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に基づいて贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
イエス様の教えを聞いた人たちは、旧約聖書の伝統に立っているので、「幸いな人」と聞いて、律法を心に留めて守る人とか、神殿での儀式を通して罪の赦しを一時的に得られる人とか、そういう人を連想しました。先ほど挙げた詩篇の第1篇と32篇は、ヘブライ語の原文では「幸いなるかな
אשריという言葉が先に来て、「~する人」という言葉が続きます。イエス様は「山上の説教」をアラム語というヘブライ語に近い言葉で話しましたが、聖書ではギリシャ語に翻訳されて記されています。それでも形は同じで、「幸いなるかな」μακαριοιという言葉が先にきて、「~する人」と続いて行きます。語るリズムは旧約聖書と同じなのに、聞いているうちに、律法のこととか、罪の赦しのことが言われず、好ましい状態の人が言われたり、好ましくない状態の人が言われたり、聞いている人たちは、一体なんだこれは?と思ったでしょう。
イエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。人間の造り主である神は、人間の心の潔癖さも求めておられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は本当の罪の赦しはそこにはない。毎年繰り返される生け贄の捧げではなく、一回捧げたらもう十分、これ以上捧げる必要はないという位の生け贄が捧げられた時、本当の罪の赦しがあるのだ。だから私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう。本当の罪の赦しを与えてあげよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になるのだ。そして、本当の「幸いな者」になると、お前たちは今度は、霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、義に飢え渇いたり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。また同時にお前たちは柔和な者になり、憐れみ深い者、心の清い者になり、平和を実現する者にもなるのだ。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、人間が律法を心に留められるようにして本当の「幸いな者」にしたのでしょうか?
それは、天地創造の神の人間救済計画を実行することで行われました。もともと人間は神に創造された当初は罪を持たない、従って罪の赦しを必要としない存在として、神聖な神のみもとにいることができていました。ところが、創世記3章に記されているように、神に対して不従順になり罪を犯し、罪が人間の内に入り込んだがために人間と神との結びつきは失われて、神のもとにいられなくってしまいました。この時、人間は死ぬ存在となってしまいました。神はこの状態を悲しみ、それを直すためにひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様に人間の全ての罪を背負わせて、ゴルゴタの十字架の上で人間の身代わりに全ての罪の罰を受けさせて死なせました。あたかも彼が罪の張本人であるかのように。本当は彼こそ罪と何の関係もない神聖な神の子だったにもかかわらず。神がこのようにしたのは、ひとり子イエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたからです。この犠牲は神聖な神の神聖なひとり子の犠牲でした。神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方が、これらのことは自分のためにもなされたのだとわかり、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人にその通りに起こります。
イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、使徒パウロが「ガラティアの信徒への手紙」3章26-27節で言うように、イエス様を衣のように頭から被せられます。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
イエス様という神聖で義を持つ方を衣のように被せられた人は、まだ内側に罪の汚れを持ってはいても、父なるみ神はその人の汚れなき純白な衣に目を留めて下さいます。至らぬ自分なのに、ひとり子を犠牲にするくらい、よくして下さったのだ、そう神に感謝の気持ちで満たされた人は、神がそうしなさいと言われることはその通りだとわかり、そのようにしようとします。神がしなさいと言われることを要約すると、まず、神を全身全霊で愛することがあります。次に、その神への愛に立って隣人を自分を愛する如く愛することです。イエス様はこの二つの愛に律法の全てがかかっていると言われました。
こうして神への感謝の念から律法が心に留められるようになります。そうなると今度は、律法に照らし合わせてみると自分は神の意思に沿うように生きていないではないか、沿うように思ったり行ったり語ったりしていないではないか、ということに気づかされるようになります。外面的には罪を行為にして行っていなくとも、心の中で神の意思に反することがあることに気づかされます。その時キリスト信仰者はすぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、イエス様を救い主と信じていますので、私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、私たちはまた新しいスタートを切ることができます。このようにキリスト信仰者は、心の中に置かれた律法と外側から与えられる罪の赦しという恵みの間で内的な戦いを戦わなければなりません。しかし、イエス様に結びついている限り、いつも罪の赦しが勝ちます。純白の衣は、少し引っ張られたかもしれませんが、大丈夫ちゃんと身に纏っています。
キリスト信仰者がイエス様の十字架の死を重く受け止めて、被せられた純白の衣を価値あるものとわかっているならば、罪が心の壁を破って行為に現れる危険は少ない、とは言っても、内的な戦いをしっかり戦っていなかったり、あるいは本当に隙を突かれたとしか言いようがないくらいの不注意が原因で行為の罪を犯してしまうこともあります。その場合は、相手があることなので謝罪や償いの問題が出て来ます。キリスト教の伝統がある社会ならば、「神に赦された以上、私が許さないわけにはいかない」という精神がみられます。日本では「絶対に許せない」、「神が赦しても自分は許せない」などという言い方が聞かれます。そのようなところでは、誠心誠意がなかなか通じないかもしれません。大変なことと思います。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって罪の赦しを祈れば、神は内的な戦いの時と同じように赦して下さるから大丈夫です。純白の衣は強い力ではぎ取られそうになりましたが、大丈夫ちゃんと纏っています。世間や人間との関係では厳しいものがありますが、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神は純白の衣を纏う者をちゃんと見守り、支え、導き出して下さいます。
そして、いつか神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと認めざるを得ないのはわかりつつも、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりでした、それには不十分なところもあったかもしれませんが、それ以上のことは出来ませんでした、と神に申し開きをします。自分にやましさがないことを主張できるとすれば、これ以上のことは出来ないでしょう。しかし神はその時、次のように言われるでしょう。「お前は、イエスの純白な衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力が来ても、しっかり握り掴んで手放さないようにした。そのことは今お前が同じ衣を着て立っていることからわかる。
その人は自分にはやましさがないことを神に認めてもらったことを知り、これまで経験したことのない深い安堵と深い感謝に満たされます。そして「小羊の婚宴」(黙示録19章)と呼ばれる祝宴の席に通され、神に全ての涙を拭われて、死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない(黙示録21章4節)神の国に迎え入れられるのです。
下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/11/Kimurasensei_2017_11_12.mp3 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/10/2017_10_22_Yoshimura.mp3
本日の福音書の箇所のタイトルは「ブドウ園と農夫のたとえ」です。正確には、農夫は自営農ではなく雇われ人ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」です。さて、聖書を読んだことのある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、雇われ農夫たちはユダヤ教社会の指導者やそれに従う人たち、所有者が送って迫害される僕たちは神が遣わした旧約聖書の預言者たち、そして所有者が最後に送る自分の息子はイエス様という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。
これがわかれば、イエス様がたとえで言いたいこともわかります。世界の数ある民族の中から天地創造の神に選ばれたイスラエルの民。彼らはモーセの律法を授けられて、それを一生懸命に守ろうとした。ところが、人々の生き方は次第に神の意思から離れていって、エルサレムの神殿を中心とする崇拝も外面的な儀式の繰り返しに堕してしまった。神はそれを正そうと、預言者を立て続けに送ったが、指導者も民も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後に神はひとり子イエス様をこの世に送ったが、それも彼らは殺してしまった。神はイスラエルの民に神の国を託していたが、これを機に民を見限ってそれ以外の民族に神の国を委ねることにした。その、ユダヤ民族にかわって新たに神の国を担うことになったのがキリスト教徒ということになります。イエス様がここで話していることは過去の出来事の復習と将来についての預言で、預言は具体的な歴史の中でその通り実現しました。このように世界史の復習も兼ねて、イエス様の預言が見事に当たったことに感心しながら、このたとえを理解できます。
2.イザヤ書5章の「ぶどう畑」のたとえ」
このような理解が出来るのは、私たちが、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後で歴史上何が起こったかを知っているからです。たとえで言われていること一つ一つを歴史上起きたことに結びつけることができるからです。ところが、イエス様と面と向かい合って初めてこのたとえを聞いた当時の人たちは、当然ながら、歴史を遡って確認するような理解はできません。このたとえは、イエス様がエルサレムに入城した後、神殿の中でユダヤ教社会の指導者たちを相手に論争している時に話されました(21章23節)。まだイエス様の十字架と復活の出来事の前のことです。
ただし、指導者たちがこのたとえを理解できる鍵がひとつありました。それは、先ほど読んで頂いた本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章1~7節の聖句です。どのような聖句だったかと言うと、天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体のようにひとつのぶどう畑を持っていた、というたとえの教えです。一心同体のように、と言うのは、神の「愛する者」が持つぶどう畑と言われつつも(1節)、神はそれを自分のぶどう畑とも言います(3節、ただし4節の「ぶどう畑」も5節の「このぶどう畑」もヘブライ語原文ではちゃんと「私の」ぶどう畑と言っています)。畑を耕したり、見張りの塔を立てたり、「酒ぶね」(ぶどうを足で踏んでぶどう酒用の汁を搾り出すところ)も作ったり、そういうふうに神の「愛する者」が一生懸命働きますが(2節)、働いたのは神自身であるとも言います(4節)。
さて、一生懸命働いて、良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱいぶどうであった。「酸っぱいぶどう」というのは、野生のぶどうとも訳される単語ですが、要するにぶどう酒造りに役立たないぶどうが出来たということです。そういう出来事を述べた後で神は、実はこの恩知らずのぶどう畑は神に選ばれたはずのイスラエルの民の情けない現状である、という解き明しを始めます。その時ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは、キリスト信仰の観点では神の御子イエス様を指すことは間違いないでしょう。
さて神は、ぶどう畑が良い実を実らせるようにと、できるだけのことをしてあげた。つまり、民を奴隷の地エジプトから解放して、約束の地カナンに定住させた。その途上で神の意思を明らかにする律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってくれたりした。それなのに民は、神の意思に沿わない生き方に走ってしまった。この神の御言葉を記した預言者イザヤはイエス様の時代から700年以上も前に活躍した人です。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、当時の状況をよく言い表していていました。当時イスラエルの民には南北二つの王国がありましたが、北王国はちょうどその頃アッシュリアという大帝国に滅ぼされます。南王国は100年近く持ちこたえますが、これも最後はバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさに神に見捨てられたぶどう畑となってしまったのです。
3.イエス様の「ブドウ園と雇われ農夫たち」のたとえ
それから700年以上経った後で、イエス様がブドウ園と雇われ農夫のたとえを話しました。話す相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ園の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。「この、預言者の再来と騒がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何か自説を展開しようとしているな、聞いてやろうじゃないか」ということになりました。ところが、イエス様の教えにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ました。雇われ農夫がその一つです。「あれ、イザヤ書には農夫なんか出なかったぞ、一体何を指すのだろう。」違いは聞く人の注意を引いたでしょう。イエス様の狙いもそこにありました。
イエス様のたとえのブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を任せて旅に出ます。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先かと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことが納得できます。普通だったら、そんなことをしたら自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまいます。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということなので筋は通っています。
さて、収穫の時が来て、所有者は収穫を受け取るために僕を繰り返し雇われ農夫のもとに送るが、農夫は僕たちを殺してしまう。しまいには、これならいくらなんでも言うことを聞くだろうと、自分の息子を送るが、これも殺してしまう。これらの出来事の意味は、私たちには明らかです。先にも申しましたように、所有者は神、雇われ農夫はユダヤ教社会の指導層、僕は神が送った預言者たち、所有者の息子は神のひとり子イエス様です。ところが、十字架と復活の出来事が起きる前、イエス様が本当に神の子なのか疑いがもたれていた頃、人々は私たちと同じようには理解できなかったでしょう。所有者は神だとわかるとしても、農夫とは一体誰のことだ?神が送って農夫が殺した僕たちとは誰なのだ?それにしても、所有者の息子つまり神の息子とは一体誰のことだ?
まさに疑問の渦が沸き起こるや否や、イエス様は指導者たちに質問します。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするだろうか?」指導者たちの答えは的を得たものでした。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸す。」この答えは、たとえに出てくる登場人物が誰を指すかはっきりわからない状態で、たとえを額面通りに理解した時に出たものです。まさか自分たちのこの答えが、自分たちの運命を自分で言い表すものになっていたとは、彼らにとっても想像できなかったでしょう。
指導者たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22~23節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経て、神の国という大建築の基になったのです。それを捨てた建てる者というのは、イエス様を十字架の死に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にここでこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた者たちというのは、価値あるものを理解できず、価値のないものにしがみつく者という連想を生むので、先ほどの農夫同様に良からぬ者たちを指していることに気づきます。さて、イザヤ書5章と詩篇118篇の聖句をもとにして、この男は何を言いたいのか?雇われ農夫、家を建てる者とは誰を指すのか?指導者たちはイエス様の口から出て来る次の言葉を固唾を飲んで待ちます。
そこでイエス様は、全ての謎の解き明かしをします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていの場合ユダヤ民族以外の民族「異邦人」を指す言葉です。ここにきてイエス様の教えの全貌がはっきりしました。ブドウ園を神の国と言うのなら、その所有者はやっぱり神ではないか!神が送って迫害され殺された僕たちは、旧約聖書に登場する預言者たちではないか!つまり、邪悪な雇われ農夫とは自分たち、ユダヤ教社会の指導層のことを指していたのだ!この時点で指導者たちはたとえは自分たちについて言っているとわかった、と45節で言われています。それまで旧約聖書の聖句と外国人所有者と現地人雇われ農夫の悲惨な出来事のごちゃまぜだったものが、急にユダヤ教社会の指導層と神の民イスラエルの運命についての痛烈な批判に急変したのです。ましてや、神の国が自分たちから取り去られて異邦人に渡されてしまうということを、自分たちの口を通して言わせるとは!怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした(46節)。
4.「神の国」とは?
このイエス様のたとえは、私たちから見たら歴史の復習になるので、ああそういうことが後で起きましたね、という受け止め方が出来ます。ところが、まだイエス様の十字架の死と死からの復活も起きていない、神の国の移譲も起きていない段階にいる人たちにとっては、そんなことは認められない、と反発するしかありません。そして、全てが起こってしまった後は、起こってしまったことに対して認められない、などとは言えません。
それでは、本日の福音書の箇所は、もう実現してしまった預言として、私たちからみたら過去の出来事として、ああ、イエス様は将来のことを見事に言い当ててすごいなあ、と言って終わるものでしょうか?たとえの中で言われていることは全て実現してしまったので、それに対して何も付け加えることも削ることもできない。それで本日の福音書の箇所の説教は、ただ歴史の復習のような解説で終わってしまうのでしょうか?
そうではありません。このイエス様のたとえの教えは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えるものになっています。イエス様の時代から2000年過ぎた今でもそうです。説教というのは、聖句の正確な解説だけではありません。できる限り正確な解説の上に立って、それが今を生きる自分に何を語ろうとしているか、これを正確な解説の上に立って明らかにすることが説教です。聖書の聖句は生ける神の御言葉ですから、その神が今を生きる自分に何を語ろうとしているかを明らかにするのが説教です。
この、一見私たちの目からすれば過去のことを言っているだけにすぎない聖句は、もちろん今を生きる私たちにどう生きるべきかを教えています。それがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目しましょう。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語の原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくて「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の民族すなわち「異邦人」です。ユダヤ民族以外の、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられる、と言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とはなんなのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族は取り上げられると言われて激怒するが、異邦人の我々は与えられて嬉しいものなのか?
「神の国」については、説教で何度もお話ししてきました。ここでもまた繰り返します。これからお聞きになればわかるように、聖書の「神の国」について知るということは、キリスト教の死生観を知ることにもなります。
神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。
神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。こうしたことが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から除去しなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、神の意思を実現できない人間にそれは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。
このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪から来る神罰を全部彼に肩代わりさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。神は、まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全てこの自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。
ところが、キリスト信仰者と言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の場合は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、すかさず心の目をゴルゴタの十字架に向けて、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は、「わかった、わが子イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」と言って赦してくれて、信仰者が新しいスタートを切れる力を与えてくれます。
このようにキリスト信仰者は罪の汚れを残しているのだけれども、イエス様のおかげで全く清いと見なしてもらえるようになった、それで、それに相応しく生きなければと襟を正すのです。かつて自分の造り主である神に背を向けていたが方向転換をして、これからは神の方を向いて、神との結びつきにしっかりとどまろうと日々を歩むのです。これがキリスト信仰者です。歩む先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を歩む時、既に神の国に予約席を持っています。
ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはまた最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日死から復活させられる者たちをあわせて、これらを神の国に迎え入れられます。
その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり無数にしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。
5.神の国の実を結ぶ者
以上「神の国」がどういう国かについてお話ししました。(当時のユダヤ教社会の指導層が「神の国」を同じように理解していたかどうかは別の問題になるので、ここでは取り上げません。)今度は「神の国」が与えられることになる「異邦人」、「神の国の実を結ぶ異邦人」とは誰なのかを考えてみましょう。「異邦人」は、先ほども申し上げましたように、ユダヤ民族以外のその他の民族です。日本人も中国人も欧米人もアフリカ人も皆、ユダヤ民族から見たら「異邦人」です。それが「神の国の実を結ぶ」というのは、どういうことか?答えは、その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言っているので、誰に「神の国」が与えられるかを思い出せばいいのです。それは、前にも述べましたように、イエス様を救い主と信じる者です。イエス様を救い主と信じる者に神の国が与えられる。神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられる。つまり、イエス様を救い主を信じる者と神の国の実を結ぶ者はイコールで結ばれるのです。イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶことなのです(後注)。
そこで、イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶなどと言われても、実際本当に何か実を結んでいるのか実感がわかない人が多いかもしれません。そもそもキリスト信仰者というのは、神の意思に沿うように清く正しく生きようとし、それに反するものに与しないようにしようとします。果たして反するものが自分の前に立ちはだかってきたら、その時はゴルゴタの十字架から来る解放の力、罪と死の支配からの解放の力で打ち破ってもらいます。それが本当に打ち破られるのは、キリスト信仰者には罪の赦しと永遠の命が洗礼を通して植えつけられているからです。そしてイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、それらが植えつけられているのは動かせない事実だとわかっています。そのようにしてキリスト信仰者は毎日毎日、罪の赦しと永遠の命に相応しい者へと変えられていきます。これが神の国の実を結ぶことです。
(注)ここで注意しなければならないのは、単純にユダヤ民族が失格で異邦人が合格ということではないことです。ユダヤ民族でもイエス様を救い主と信じた人たちがいます。ペトロもパウロもマリアも皆ユダヤ民族出身のキリスト信仰者です。ユダヤ民族は、イエス様の十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じる者と信じない者と真二つに分かれました。異邦人も同じでした。パウロのような伝道者が異邦人にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えた結果、欧米人、日本人、中国人、アフリカ人にもイエス様を救い主と信じる人が生まれるに至りました。要は、ここで言われる「異邦人」とは、何民族に属するか関係なくイエス様を救い主と信じる者全てを指すということです。
ラジオとかテレビのニュースをみると次のような話をよく聞きます。物価が上がるので、従業員はもっとお金を要求します。社長はたいてい給料を上げたくないので、長い交渉をします。交渉は何ヶ月もかかることがあります。現在は、消費税が上がるという話題もありますね。
人間の社会だったら、当たり前のことだと思います。今もイエスの時代もそうでしょう。人々は、仕事をしたり、給料をもらったり、借金を払ったりしてきました。
イエスはよく社会と普通の人の生活のことをご存知でした。何でもご存知だったからです。今日の聖書の箇所は、仕事と給料について考えてみましょう。
1.「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに行った。
これはイエスの時代では普通のやりかたでした。時間は大体朝六時からでした。
2.主人は、一日につき,一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
一デナリオンは当時の普通の労働者の一日分の給料でした。現在の日本を考えるとアルバイトをする人がもし一日で一万円をもらったら、かなりいいほうでしょうか。
3.また、9時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
4.『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と行った。
5.それで、その人たちは出かけて行った。
主人は、十時ごろにと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
家の主人はまた朝九時にぶどう園で働く労働者を雇うために出かけました。けれども、十二時に行く人も、午後三時に行く人もいました。特に午後三時に行くというのは珍しかったです。あと三時間ほどで暗くなるからです。
6.五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
7.彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。
主は彼等に、『あなたたちもぶどう園にいきなさい』と言った。
これは本当に不思議なことでした。働く時間はもうほとんどないからです。
8.夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者からはじめて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
賃金を払うのは午後六時でした。その順番は面白いものでした。
9.そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
10.最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
みんな同じ一デナリオンをもらいました。ある人は一日中あせをかけてがんばって働きましたが、ある人はほとんど何もしないで一デナリオンをもらいました。
12.『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中をしんぼうして働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
長い時間働いた人はがっかりしました。人間的に考えるとこれはとても当たり前なことです。けれども主人の考え方はそれと違います。
13.主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
14.自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
15.自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか
16.このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
主人は自分の言った約束を守りました。一デナリオンを約束しました。一デナリオンを払いました。その結果、労働者はみんな約束された給料をもらいました。多分その主人は労働者の家族と子どもたちのことを考えたのでしょう。
神様も愛をもって私たち人間のことを考えてくださいます。救いは給料ではなくて、神の御恵みによることです。
イエスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように、私たちに何の価値も無いのに与えられる神の愛が恵みと呼ばれるのです。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。
「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)。
神様の考え方と私達人間の社会的な考え方は全く違います。イエス・キリストの御業に依る恵みは、給料ではなくて、只です。私達は払わなくていいですよ。
けれども、キリスト者として、私達は奉仕する事が出来ます。神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。
そして、私達は、御恵みによって、喜ばしい自由な心を持って、キリスト者として生活しましょう。
キリスト者は、強制の下でいやいやながらだったり、または報酬を目当てにしたりするのではなく、むしろ、自らすすんで「うれしい自由な心」から、神の御旨を遂行します。
「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(詩篇100:2)。
「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10)。
「喜ばしい自由な心をもって働け」(マルティン・ルター)。
まとめ
私たちの最大の負債は既に支払われました。それは罪の借金でした。恵みは給料ではありませんし、人間の借金で払えるものもありません。イエスを信じて受けとるものです。
喜びを持って、他の人もイエスのことを知ることが出来るように神様の御国のために奉仕しましょう。
祈りましょう。
天の父なる神様。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださったことを感謝いたします。よいニュースは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。私たちの最大の負債は既に支払われたのです。
私たちは恵みによって救われます。私たちは信仰によってあなたの子どもです。毎日あなたの教えを聞けるように導いてください。そして心の中にあなたの光を照らすことができますように。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。
イエス様は私たちの本国である天への道も開いてくださいました。それは私たちの人生の目的です。あなたは、すべての人間を救う計画を作ってくださいました。どうか天国への道を他の人々にも見せるように助けてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。漁師シモンのように私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。 私たちをあなたの体の部分として働く人間をとる漁師にしてください。
人生の正しい使い方も教えてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。あなたに与えられた力によって子どもたちや隣人を大切に出来るように、また、隣人と赦し合うことが出来るように。様々なことによって苦しんでいる人を助けられるように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエス・キリストによって強めてください。この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。
古い車の例え話をします。ある日古い車が道を走っていました。
エンジンの音はうるさいし、タイヤもだめです。車の後ろからは青い煙が出てきました。前にも、下にもさびがたくさん見えました。本当にいい車ではありませんでしたが、一つ面白い事が車の後ろの窓に大きい文字でかいてありました。[廃車みたいな車ですが、借金は全部払ってあります]。フィンランドではたいてい車の借金は高いので、払うのは数年かかるものです。この車の場合は何年間もかかったと思います。けれども、もう借金はなかったのです。
今日の聖書の箇所を読みましょう。
21. そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22. イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
どうでしょうか。普通の生活の中に、私達人間はけんかをしたり、悪口を言ったりします。赦し合うのはそんなに簡単なものではないと思います。イエスもこの事をよくご存知でした。
23. そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24. 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25. しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
これは大変な生活の中での状況でした.普通の人には、決して払う事が出来ません。何をしたらいいでしょうか。
26. 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27. その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
本当に憐れみ深い主君でした。そして、大金持ちでもあったようです。けれども家来は憐れみ深い者ではありませんでした。その反対でした。
28. ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29. 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30. しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
自分は一万タラントンの借金を支払わなくともよいと赦されたのに、他の人に対しては百デナリオンの借金の支払いさえも赦すことが出来ませんでした。皆困っていたでしょうね。
31.仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32. そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33. わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34. そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
主君が怒った事は、よく理解できると思います。私達が主君の立場でも怒ったと思います。
35. あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
自分の力で、兄弟を赦すことはなかなか難しいですが、信仰によって、イエスの御心に従う心が生まれると、それが出来るようになります。それを、イエスも喜んでくださいます。
義とせられることについての教えです。
また、われらの諸 教会はかく教える。人は自分の力、功績、或は、業によって神の前に義とせられることはできず、キリストのゆえに、信仰によって、代償なく、神の恩恵により 義とせられる。その時、人々は恩恵の中に受け入れられ、その死によってわれらの罪のために贖いとなられたキリストのゆえに、その罪が赦されることを信ずる。この信仰を神はみ前に義と認められるのである(ローマ3章、4章)。(アウグスブルク信仰告白第4条 義認について)
イエスの御業は素晴らしいものです。感謝します。それに従っていきようとする私達人間はどう生活すれば宜しいでしょうか。
神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、 すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きる のではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(第二コリント5:14-15)。
「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6:2)。
これは、神様が教えられたキリスト者の生活の仕方です。神様に頂いた力によって。
人間と神様の間には、「罪の借金」があります。自分の力とか財産によっては、人間はその借金を払う事が出来ませんが、イエスはその「借金」を全部払ってくださいました。十字架の御業は私達の「罪の借金」の終わりです。
ヨハネ 3:16、17「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
天の父なる神様。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださったことを感謝いたします。よいニュースは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。
人生の正しい使い方も教えてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。あなたに与えられた力によって子どもたちや隣人を大切に出来るように、また、隣人と赦し合うことが出来るように。様々なことによって苦しんでいる人を助けられるように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエス・キリストによって強めてください。この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
途中でフインランドの賛美歌を演奏してくださいました。
第11回コリント信徒への手紙 3章5~9節
下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2017/10/Kimurasensei_2017_10_1sekkyou.mp3
私の礼拝説教ではコリント信徒への手紙のみ言葉を連続での説教です、今回で11回目になります。今回は3章5~9節まで聞いていきたいと思います。コリントの教会で伝道した二人、パウロとアポロの使命についてスポットを当ててみたいと思っています。3章5節には「アポロとは何者か、またパウロとは何者か。この二人はあなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて使えた方です」。とあります。これがきょうのテーマですね。パウロは自分が伝道した教会が今どうなっているか、この手紙の最初から問題としてきました。1章11~12節にあらわに記しています。〔私の兄弟たち実はあなた方の間に争いがあるとクロエの家の人たちから知らされました。あなた方はめいめいに「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはケファにつく」「わたしはキリストにつく」などと言い合っているとのことです。〕こうしてコリントの教会の中が四つに分かれて争い合っているというのです。なんの言うことだろうか。パウロの思いはどうであったでしょうか。自分はパウロにつくとか自分はアポロにつくと言い合っている、それどころかパウロこそが神の人だ!と言い、いやアポロこそが神に仕える者だなどと神にまで祭り上げようとしている。ところで1章では四つの分派で争って混乱している様子を書いていますが3章のところでは四つの中でもパウロにつく者とアポロにつく者について言っています。この二人だけが特にコリントの人々を導いたからでありましょう。二人だけが直接にこの教会で働いた人であったからでしょう。パウロは自分を慕ってくれている人気に甘えて得意になったでしょうか、いいえそうではありません。それどころか「アポロは何者か」「パウロはいったい何者か、何ができるというのか」と怒り心頭に言うのであります。そこで普通でしたら自分を「神なんかではない。」と卑下して「アポロもパウロも普通の人ではないか。」と言うところであります。ここのところが本当のところ微妙な問題であります。簡単なようでそうではないのです。パウロもアポロも心血を注いで伝道したのです。この二人は救いの言葉を語っているのです。人の知らない神の救いを知っているのです。それならその人々を崇めようとしても何も不思議ではない思われます。どんな宗教でも救いを教える人ならその人に特殊な能力を持っていると考えられて普通の人より上に扱われたりします。人間の力でどうしようもない苦難を神の力に頼むのに神に取り次ぐ特別な役割を負って働いてきた二人です。パウロ自身からはこうしたことは言い難いかもしれません。自分たちが扱っているものが全く自分たちの力が及ばないものであったからです。それは特別な経験をしたり、特別な能力をもっているからではなく神の救いのの言葉を神から託されているだけであったからであります。
自分と教会との関係は「語る人」と「聞く人」との関係であってそこに取り扱われている事柄は神の救いの言葉であったからです。大事なのは神の救いの言葉そのものであってそれを語る人ではないからであります。そう意味で信仰に導いただけであったということであります。伝道者の謙遜という者は自分が神の業に対して全く無力であることを知っているからであります。パウロもアポロもわざと謙遜しているわけでもありません。自分たちが伝道しているものは全く自分たちの力の及ばないものであることを十分知りつつしかし語らざるを得ないのであります。もう伝道に夢中であります、そうして彼らの熱意が周りの人々へと信仰を起こし広がって教会をつくって行ったのであります。神の言葉を受けて熱意に心が燃えなければどうして信仰が与えられ起こっていきますか。パウロとアポロとは対照的な人であり辿ってきた人生も性格も全く違っております。パウロもアポロも当時としては学識豊かな人であったと言えるでしょう。パウロについてはもう使徒言行録を見れば9章や22・26章に詳しく記されています。パウロはキリキヤのタルソという所から生涯が始まっています。エレサレムでラビとしての厳しい訓練を受け又エレサレム最高議会の議員としてもそうとうの権力を持った人となります。そうしてキリスト者を迫害し捕らえていく人でありましたがダマスコの途上で神によって劇的な回心をします。人生のどん底からキリスト者の信仰を与えられ命がけで伝道に気が狂ったように情熱を注いで伝道しコリントの教会を築いていったのでありました。その教会が内部分裂して崩壊しようとしているわけです。パウロの重大使命が与えられていくことになります。一方アポロはどんな人であったか聖書に詳しく記してないのです。アポロは アレキサンドレアの出身で彼は聖書に詳しい人であった、しかも雄弁な人であった。使徒言行録18章24~28節に記してあります。アレキサンドレアは旧約聖書のギリシャ語訳をしたところで有名でした。従ってギリシャ文化とヘブル文化とが接触し融合したところでありました。彼はそういう中で特に旧約聖書に精通するほどに学問をした人でありました、加えて雄弁であった。こうしたパウロとアポロの全く違った二人がこの教会の伝道に熱心に関わったのでした。そう見ますと教会の中に両方それぞれにつく人ができることは不思議なことではないでしょう。そこで大事なことは「私はアポロにつく」とか「私はパウロにつく」といった分裂や相対立することではなく、お互いの与えられている才能や能力を信仰の面で生かして用いていくべきでしょう。(教会は二人の優れた面を用いて相働く場であるべきでしょう。)パウロにとってはキリスト教の福音は何か信仰の基本的なことを語る役目を大切にしていったということです。パウロの数々の手紙を見ればそこに丁寧に分かり易く繰り返し繰り返し救いの根本を語っています。アポロはどうであったかと言うとギリシャ哲学や教養豊かな面で優れていましたから基本を教えると言うよりも信仰生活に肉付けした美しさが備えられているのが得意でありました。例えばヘブル人への手紙はアポロが書いたのではないかという学者もいるくらいこのヘブル人への手紙には旧約聖書を素材にしながら華麗な書き方をしているからであります。
今日のみ言葉の結論を言いますと神様はこのパウロとアポロという伝道者をコリントの教会の重要な役目を最も適切な働きに用いられた。それぞれにイエス・キリストのみ力を受けて教会の大事な人々を選び神の栄光のために働いていった。そうして絶妙の表現で次のように記しています。〔私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。〕この世の風雪に耐えて信仰が養われていくのには神様が与えてくださる種を良い土地に植え大切に育て、そして水を注ぐ。アポロもパウロもそのために用いられます、成長させてくださるのは神様であるということをしっかり覚え教会の成長と栄光を望んでいきたいと思います。 アーメン・ハレルヤ