説教「神の知恵」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章20~25節

第5回

コリントの信徒への手紙Ⅰ   1章20~25節「神の知恵」

今日与えられた御言葉は私たちに励ましを与えてくれる言葉です。神の救いを語ってくれる言葉です。<こういう言葉は何度読んでもいいところです>神の救いの見事さに心打たれるものがあります。では、まずゆっくり味わいながら読んでみましょう。20節です、「知恵ある者はどこにいる、学者はどこにいる、この世の論者はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」ここには神の救いの御業の見事さ、それに対して人間の業と知恵の惨めさとが鮮やかに示されています。この世は自分の知恵で神を知ることができないと言っているのです。私たちが求めたいのは神様から力が与えられることです。そして勇気と希望が与えられることでしょう。しかし、ここでは神の救いが人間の力に比べられているのです。十字架の言には神の力がある、と18節で告げていました。それなら人間の知恵や力はどこにあるのでしょうか、それをいきなり「知者はどこにいるか、学者はどこにいるか」と問うてきます。知者と言うのはただ知識を持った人、ということではありません。神の知恵であります。その知恵は人の救いになるのだ、と言っているのです。

世の中にはこうしたらあなたの人生は幸せになりますよとか、こうした人生もあります、といった知恵はいくらでもあります。しかし十字架の知恵に比べたらそれは物の数ではない、と言っているのです。学者というのも世間で言う学者ではありません。コリントはギリシャ文化や貿易の最も盛んな栄えた町でしたから学者と言われた優れた人も多くいたでしょう。しかしここでは律法の学者となっています、またある訳では聖書の学者のことと書いてあるといいます。聖書と言う場合この時代、もちろん旧約聖書のことであります。いずれにしろ神のことについて知っている専門家というに違いありません。それならば神のことについて知っているといっても、そんなことは十字架の前にいかに空しいかということであります。神のことについて知っていると言う者はどこにいるか、いや彼らは神を本当に知ることができない者たちではないかということであります。この世の論者というのは、この世にあってこの時代あって、いろいろと議論をしたがる人々ということでしょう。ある訳では物を書く人や評論家と訳してあります。こういう仕事をしている人々がそのまま悪いわけではないでしょうか。十字架の救いにおいて神がなさったことに比べたらその知恵において、その力において、いかに貧弱なことでありましょう。それは多くのことを語りながら結局は救いを与えることはできないからであります。神様は十字架をお与えになってこれらのものを愚かしいものとしてしまわれたのです。人間は多くの知恵を持っているつもりであります。それらの知恵に時として感動してしまう程のこともありましょう。しかし神からご覧になればそれらのものは愚かしいのであります。なぜなら救いを与えることができないからであります。

ローマ人への手紙1章18~20節を見ますと「人間は神を知ることができたのに神を知るに至らなかった」と書いてあります、なぜか。18節にこうあります。「不義によって心理の働きを妨げる、人間のあらゆる不信心と不義に対して神は天から怒りを現されます。」それで今日の聖書のコリント第Ⅰ1章の方の21節では「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」とあります。ここのところをある訳ではこう言っています。神は理性の助けによって神を知る力を与えておられた。しかしそれはできなかった、ということをもうすでに含めて言っているわけです。人間は長い間理性と言うものを持って神を求め続けてきたということも言えるでしょう。しかしそれと同時にそのようにして神を知ろうとするのには神が見えるはずである、ということがなければなりません。人はみなそう思って神を探し求め神について語ってきたのであります。しかし神を見出すことはできなかったのであえります。なぜでしょうか。それは人間には罪があるからであります。神を知るというのはその辺の物を知ることとは違います。人を知るように知るのは神を知ることは神を愛することと同じであります。ですから神を求めようとする者に罪があっては神を知ることができないのであります。罪ある者は神の前に出ることができません、従って神を知ることができないのであります。この世は自分の知恵によって神を知るに至らなかったのであります。ここには自分の知恵と書いてあります、理性も神から与えられたものであるにちがいありません。しかし人間はそれを神の下さった知恵として用いず、つまり信仰によって用いることをしないでこの世の知恵として用いました。その故にこの世の知恵を持っては神を知ることができなかったのであります。旧約聖書は人間が自分たちの力で神にまで至ろうとして神の怒りに会ったことを書いています。バベルの塔です(創世記11章)同じようなを人間は繰り返ししていると言ったら良いでしょう。21節を見ますとこの世は神を知ることができない、それは神にふさわしいことである。そこで、であります。

この「そこで」の文字は大切な文字であります。字の通り訳せばなぜならばそういうことだから、とでも言うべきところであります。簡単な「そこで」ではなくて、それにはこういうわけがある、それゆえに、とその後に言うことの重要さを示している言葉ばなのです。「そこで」の次に神がお喜びになった、という字が来ます。ある訳では決心されたとなっています。そういうわけなので神は宣教の愚かさをもって人を救うことをことを喜んで決意されたとなる。人間がその知恵を持っては神を知ることができなかった、そこで神は宣教の愚かさを用いられた。それが宣教の理由である、ということになります。宣教の愚かさと書いてありますが宣教とは説教と言う字であります。人間が言わば人知の限りを尽くして神を知ろうとして果たし得なかったのであります。それに対して神はただ福音の説教で救いを与えようとされたのであります。しかもただ救うとは言っていません、信じる者を救うのであります。キリストを信じる者を救うのであります。実はキリストをお遣わしになってご自身を現されたのです。人がその罪のゆえにどうしても神を知ることができないのを、神はキリストによる救いによって罪人を救うという方法でご自分を人にあらわされたのであります。こうして人は救われる、と共に神を知ることができるのであります。宣教は説教のことであると言いました、その説教は福音の説教、つまり福音を告げることであります。宣教という字は宣言することであります、説教の内容は何でしょうか。イエスという人が子として神の子として来られ罪人のために十字架につけられたのであります。まことに単純な話であります。神を求める知恵に比べて実に簡単な報告です。神がなさったことの報告であります、事実の宣言です。それは人には愚かにしか見えないかも知れません、しかしここにこそ神の知恵があるのです。

コリントにはユダヤ人とギリシャ人、いろいろな人種の人々が集まっていましたがこの二つの民族が主な代表でありました。そしてユダヤ人はしるしを求める、ギリシャ人は知恵を求めると言っています。しるしのことを、ある訳では奇跡による証明と言っています。ユダヤ人は神に選ばれた民であると誇り神の恵みを受けながら神のなさることを信じることができませんでした。それで彼らはいつも神の恵みが与えられているということの証拠を求めていました。それに対してギリシャ人は知恵を求めました。それは哲学でした、人間の理性に基づいて事を考えることこそ彼らの生きがいでありました。それは全ての人間の考え方を代表しているようなものです。しかしこういう人間にとって神の救いである十字架はどう見えたでありましょうか。しるしを求めて止まないユダヤ人にとっては一人の人間が神としてこの世に来た、そして十字架につけられるというようなことは奇跡的な証明どころかとんでもない信じがたいことと思われました。神の子が十字架にかかる等ということは神を汚すことになると考えたのです。ギリシャ人にとって十字架はどうでしたか、いうまでもなく愚かな話であります。ひとりの人が罪のために死ぬなどと言う事は理屈にあわないことであります。彼らが十字架を侮ることもよくわかります。

しかし私たちは十字架につけられたイエス・キリストを宣言し続けるのです、ここにのみ救いがあることを知っているからであります。これこそは召された者自身にとっては神の力また神の知恵であるキリストだからであります。24節でそれを言っています。今まで救われる者、信じる者といっていたのにここでは「召された者」になりました。救われるのはキリストの救いを信じるからであります。しかしどうして信じることができるようになるのでありましょうか。自分から進んで信じたのでありましょうか。実はそうではありませんでした。私たちも信じられなかったのであります、ためらったのです、決断がつきません。しかし神様が呼んでくださったのであります、神様が招いてくださったのであります。神に召されたにすぎないのであります。それで十字架のキリストがどんなに強力な力か、どんなに深い知恵をか、を知ったのであります。ここまで示されてみて私たちもしみじみパウロと共に言わざるを得ません。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである」。十字架は孤独な救い主の業のように見えます、しかし十字架こそはあらゆる人間のどんな力よりも強いものではないでしょうか。十字架は理屈に合わないと軽蔑します、しかし神の言葉がそこに生きているのであります。   アーメン

説教「善き門 良き羊飼い」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章1-16節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所でイエス様はたとえを使って教えます。イエス様は自分のことを、命を賭けて羊を守る良い羊飼いである、とか、また羊が盗まれたり危害を加えられないようにする囲いの門であるともおっしゃられます。ああ、イエス様はそういうお方なんだな、と理解できたつもりになるのですが、それでは、羊とは誰のことを指しているのか?羊飼いとしてまた門としてイエス様は、誰を守ると言っているのか?羊を盗んだり危害を加えようとする盗人、強盗とは何を指しているのか?狼が来たら、イエス様は、命を捨ててまで羊を守ると言われるが、その狼とは何を意味するのか?そして、羊が守られている囲いとかそこにある門とは何か?さらには、羊飼いが羊を連れて行く牧草地とは何を意味するのか?いろいろ不明な点が出て来ます。実は、これらのことまでわからないと、イエス様のたとえの教えを理解できたことにはなりません。

 イエス様はこのたとえを、敵対するファリサイ派の人たちに話しました。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の宗教エリートです。イエス様は、自分が何者で、何のためにこの世に送られてきたかを教えるためにこのたとえを話しました。しかし、ファリサイ派の人たちはたとえの意味を理解できませんでした(6節)。私たちとしては、本日の説教を通して、宗教エリートたちよりも賢くなってお家に帰るようにしましょう。

 

2.ごくありふれた話しが何かにたとえられる

 イエス様はまず、1節から5節まで、ごく一般的なこと、常識的なことを話します。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

羊の飼育が大事な産業になっているところでは、塀のような囲いをつくって、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。塀は木材で造られるものだけでなく、石で造られるものもありました。泥棒が「乗り越える」というのだから、決して垣根のような低いものではなく、それなりの高さがあったと言えます。イエス様の話し方から判断すると、囲いの中には、一人の所有者だけでなく複数の所有者の羊が一緒に入れられていたようです。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、門番に間違いなく所有者であると本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の所有する羊を呼び集める。羊は、生まれた時から同じ羊飼いに飼われているので、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられたのでしょう。別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がったでしょう。こうして、羊飼いはどれが自分の羊かわかり、羊も誰が自分の羊飼いかわかって、一緒になって牧草地を目指して、囲いの外に出て行きます。囲いの門についてですが、門番が開け閉めをすることから、扉付きの門と言った方が正確でしょう。

以上の話は、当時の人が聞いたら、ごく身近なあたりまえな出来事の描写でした。イエス様がこの話をした時というのは、ある安息日の日に盲目の人の目を開く奇跡を行った後でした。人々の間で、イエス様のことを、こうした奇跡が行えるのは神から送られた者だからだ、と言う人もいれば、逆に、安息日には仕事をしてはならないという律法の掟を破ったのだから神由来などではないとか、賛否両論の議論が沸き起こりました。宗教エリートたちは、イエス様が神から送られた方であるということをどうしても信じようとしない。それでイエス様は、彼らの心の目は盲目であると指摘したのでした(9章39~41節)。これの続きとしてイエス様は、本日の羊飼いと囲いの話をされたのです。

その内容は、先ほど申し上げましたように、当時の人なら誰にでも頭に思い浮かぶ身近な光景でした。ただ、イエス様はこの話を単なる写実的な話をするためでなく、別の目的をもって話したのです。その目的とは、自分が何者で何のためにこの世に送られてきたかを明らかにすることでした。従って、この話を聞いて、そう、確かに羊は扉付きの囲いの中で守られるし、自分の羊飼いを間違えないで牧草地に連れて行ってもらうものだ、その通りだ、などと納得してしまっては、この話をたとえとして理解したことにはなりません。この話から、イエス様本人のことやその使命についてわからなければ、理解したことにはならないのです。それで、このたとえを理解できるために、そのなかにある二つのことに注目する必要があります。まず、羊が無事に生活できるためには、しっかりした門ないし扉がついた囲いが必要であること、そして、羊が安全に牧草地に到着できるためには、良い羊飼いが必要であること、この二つです。誰もが日常的に当たり前のことだとわかることを引き合いに出して、イエス様がどんな方でどんな使命を託されて送られてきたかということを、同じように身近なこととして理解させようとする、そういう狙いがたとえにはあるのです。

 

3.イエス様は羊の囲いの門

 イエス様は、自分は羊の囲いの門である(ヨハネ10章7節)、と言ってたとえの解き明しを始めます。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」日常身近なことに即して見れば、確かに、門を通って囲いの中に入る羊は危険から免れて安全地帯にいることができます。そして囲いを基地として今度は羊飼いに導かれて出て行けば牧草地にたどり着けます。ところが、ここの霊的な意味は絶大です。ギリシャ語に即してみると、こうなります。「わたしを通って中に入る者は救われることになる。中に入り、そして外へ出て、牧草地を見いだすことになる。」

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れの中に入ることを意味します。どんな群れかというと、その一人一人が天地創造の神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持てて、この世の人生の順境の時にも逆境の時にも絶えず神から見守られて守りと導きを得られる者たちの群れです。万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げられて永遠に造り主のもとに戻ることが出来る者たちの群れです。この永遠に戻ることができる「造り主のもと」と言うのは、「神の国」とか「天の御国」とか呼ばれるところです。先ほどのイエス様の言葉の中に「中に入り、そして外へ出て、牧草地を見いだすことになる」という下りがありました。まさに群れの中に加わった者が今度はイエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行くことを意味します。そして、この群れは最後には緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に迎え入れられます。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

このように、この世においても次の世においても天地創造の神との変わらぬ結びつきを持てて生きらえること、これが「救われる」ということです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、まさにイエス様という門を通って救われた者の群れに加わるということです。

それでは、なぜ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けないと、そのように神との結びつきが持てず救われないのか?それは、神との結びつきを持てるためには、イエス様を抜きにしてはありえないからです。どうしてイエス様抜きにはありえないかと言うと、もともと人間は天地創造の後に造られた時には良いものとして神との結びつきを持っていたのですが、神に対して不従順となって罪が内部に入り込んでしまったために神との結びつきが失われてしまいました。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内部に入り込んでしまった罪を取り除かなければならない。しかし、それは不可能なことでした。この問題を解決するために神は、ひとり子のイエス様をこの世に送ることにしたのです。送って何をしたかと言うと、あたかもイエス様が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に他人の罪を全て負わせて、その罰を十字架の上で受けさせたのです。このようにして、神はひとり子イエス様の身代わりの犠牲によって人間の罪を赦すことにしました。それで、人間の側でこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しはその人にその通りになるのです。罪の赦しを受けた者ですので、その人はもう神との結びつきは回復しています。罪の赦しの中で生きるので、そこからはみ出すようなことがあっては神のひとり子の尊い犠牲をないがしろにしてしまうことになるとわかり、罪ではなく神の方を向いて生きるようになります。こうして罪に敵対する勇気を持ち、罪に手を染めないように生きようとします。

このように、私たちが自分たちの造り主である神との結びつきを回復して、その結びつきの中でこの世の人生を歩むことができ、そして次の世で造り主のもとに戻ることができるようになるためには、イエス様を自分の救い主と信じるかどうかにかかっています。ヨハネ14章6節でイエス様自らが次のように述べています。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

ギリシャ語の原文では、「道」、「真理」、「命」それぞれの単語に定冠詞ηがついています。定冠詞とは、英語で言えば、皆さんもご存知のtheです。まさに、イエス様は天の父なるみ神のもとに到達できる道、真理、命の決定版ということになります。それは、数多くある道、真理、命の一つではなく、まさにこれこそ、という決定版です。そういうわけで、救いに与る者たちの群れに加われるためには、イエス様は真に通らなければならない門なのです。「わたしよりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)というのは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって罪の赦しの救いを打ち立てる以前は、天の父なるみ神のもとに戻ることができる救いは存在しなかったということです。誰かが、自分こそが人間を造り主のもとに導けるなどと言っても、それは真理でも真実でもなく、人間を別のところへ導く誤った道でしかなかったのです。

 ここで、羊を盗んだり危害を加えたりする盗人とか強盗について考えてみます。今見たように、人間を救いの群れから連れ去って、どこか別のところに引っ張って行こうとする者たちです。そして引っ張って行った先で屠ってしまい、滅ぼしてしまう。「滅ぼしてしまう」というのは、せっかく神との結びつきを持てて生きられるようになったのに、それが全て失われてしまうことを意味します。何が、救いの群れの中にいる者をこのような滅びに陥れるのでしょうか?この世には、神との結びつきを壊そうとするもので満ち満ちています。私たちはイエス様の十字架のおかげで神から罪の赦しを日々与えられているのに、その外に連れ去ろうとするものがいろいろあります。

もし人が、自分の造り主である神を全身全霊で愛せないとか、隣人を自分を愛するが如く愛せないとか、そういう神の意思になかなか忠実になれない自分の真実の姿に気づいて悲しむうちはまだ霊的に健康な証拠です。しかし、この世は、そんなことはいちいち悲しんだりこだわったりしなくてもいいんだよ、とか、神はそんな厳しいことは言っていないよ、神は愛だから認めてくれるよ、とかいうような惑わしと誘惑の声で満ちています。まさに創世記3章に出てくる蛇の手口と同じです。惑わしと誘惑に乗ってしまえば、もう罪は気づかないものになってしまいます。罪に気づかなければ、赦しの必要性も感じられなくなります。赦しの必要性が感じられなくなれば、イエス様の十字架と復活は自分とは関係のない出来事になってしまい、そこでイエス様は自分の救い主ではなくなります。まさにこの時、神との結びつきは失われてしまいます。

盗人、盗賊とは、このような惑わしと誘惑の声と態度をもって近づいてくるもの全てを意味します。私たちは、そのような声に耳を傾けるべきではなく、イエス様の声に耳を傾けるべきです。イエス様の声とは、まず聖書の中に記されているイエス様の教えがあります。それから直接イエス様によって世に遣わされた使徒たちの教えもイエス様の声の延長です。さらに、イエス様をこの世に送られた父なるみ神の意思が記されている律法や預言があります。すなわち、イエス様の声は、全聖書のなかに聞きとることができるのです。

 

4.イエス様は良い羊飼い

 これで、救われた者たちの群れに加わる時、イエス様という門を通らなければならないことが明らかになりました。次に、群れに加わった者たちが今度はイエス様を羊飼いとして囲いを出て牧草地を目指して歩んでいくことをみてみましょう。ここでは、良い羊飼いと雇い人とが対比されます。雇い人は、羊の所有者に代わって羊の番をする者ですが、狼が現れるなど危険が生じると羊をおいてさっさと逃げてしまう。ところが、良い羊飼いはそのような場合でも逃げはせず、羊を守るためだったら、自分の命さえも惜しまないと言うのです。実際、イエス様は人間が罪の支配から解放されるために、人間の全ての罪を請け負い、それから生じる全ての罰を受けて自分を犠牲にされました。イエス様は、十字架に掛けられる前の晩、この犠牲の死を引き受けることができるかどうか自問自答して苦しみますが、それが自分をこの世に遣わした父なるみ神の御心である以上、それに従って引き受けます、と言ったのです。

ここで狼が何を象徴しているか見てみましょう。盗人、強盗の場合は、人間を救いの群れから連れ去って、神との結びつきを失わせて滅びに導くものでした。狼の場合は、羊を盗んだり連れ去ることが直接の目的ではなく、羊やその群れを即破壊することを目的とします。その意味で狼は、罪の支配力、罪の呪いそのものを象徴しています。それをイエス様は十字架の死を遂げることで一緒に滅ぼしてしまったのです。まさに羊のために命を捨てる羊飼いとして振る舞ったのでした。

次に雇い人ですが、これは本当の羊飼いではない偽りの羊飼いです。本当の羊飼い、良い羊飼いのイエス様は自分の命と引き換えに人間が神との結びつきを回復できるようにしました。御自分の流した血を代価として、人間を罪の奴隷状態から解放された状態に買い戻した、贖い出したのです。偽りの羊飼いである雇い人には、同じことはできません。偽りの羊飼いについて、ユダヤ民族の歴史には既に具体例がありました。エゼキエル書34章をみると、神は、自分の民を羊の群れ、その民の指導者を牧者にたとえて、牧者が羊の群れを養わずに自分自身を養っているだけの無責任を非難します。そして、無能な牧者が羊の群れを飼うことをやめさせて、神の意向に沿った真の牧者を起こすと約束します(エゼキエル34章10、23節)。イエス様がこの世に送られたというのは、この預言の実現だったのです。

終わりに、イエス様が「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われていることを見てみます。「この囲いに入っている」羊と「入っていないほかの羊」がいて、イエス様は両方の羊のグループを荒地の向こうにある緑豊かな牧草地に導いていく、霊的な表現で言い換えれば、イエス様は双方を、この世の荒波の海路の向こうにある永遠の安息地、神の御国に導いていく、ということになります。それでは、この囲いに入っている羊と入っていないほかの羊とは何を指すのでしょうか?

この囲いに入っている羊と言うのは、端的に言えば、ユダヤ人の中でイエス様を約束の救世主メシアと信じた者たち、ユダヤ人キリスト教徒です。ペトロもヨハネも他の12弟子もイエス様の母マリアも、それからパウロも皆、ユダヤ人キリスト教徒です。囲いに入っていないほかの羊とは、ユダヤ人以外の諸民族で後になってイエス様を救い主と信じた人たち、異邦人キリスト教徒です。彼らは初めの頃はまだ囲いに入っていませんでしたが、やがてイエス様という「善き門」を通って囲いに入って、神との結びつきを持つ群れに加わり、そしてイエス様という「良き羊飼い」に導かれて、最初のグループと一緒に牧草地を目指すようになりました。この異邦人キリスト教徒のグループは具体的には、初めはローマ帝国内の諸民族、やがてヨーロッパやアフリカやアジアの諸民族に広がっていったキリスト信仰者です。イエス様は、この二つのグループを一つの群れとして、神の御国に導くと言われるのです。

意外なことに思えるかもしれませんが、聖書のなかで人間界を二分しているもっとも主要な境界線は、キリスト教徒か非キリスト教徒かではありません。そうではなくて、ユダヤ人かまたは「その他大勢」のいずれかです。この「その他大勢」が俗にいう異邦人と呼ばれるものです。そのなかには、日本人だけでなく、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アフリカ人も、中国人も韓国人もみんな全部一緒くたに含まれます。「エフェソの信徒への手紙」2章で使徒パウロが教えるように、キリストは十字架で人間を罪の支配から贖う業を行って、この二つのグループ、つまりユダヤ人と「その他大勢」を一つの体として神と和解させたのです。

この視点はとても大事です。というのは、キリスト教と聞くとすぐ、それは西洋の宗教で日本人がイエス様を救い主と信じたら欧米人になびいているように見られがちです。特に、今般導入されることになる小学校の道徳の教科書の検定で「パン屋」が「和菓子屋」に書き換えられなければならない時勢では、そのような見方はますます強まっていくでしょう。しかしながら、聖書の大著者である天地創造の神から見たら日本人も欧米人も「その他大勢」にしかすぎず、本当は他の民族に大きな顔できる立場にはないのです。

エフェソ2章18~ 22節の使徒パウロの言葉は、そのような、民族の違いを超えたキリスト信仰者のこの世での立ち位置、「その他大勢」であろうがなかろうが関係なく共通したこの世での立ち位置をよく言い表しているので、最後にそれを引用して本説教の締めとしたく思います。

「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように        

 

 

説教「聖書が教える人生の目的」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章24~29節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.見ないでも信じることができる信仰

本日の福音書の箇所は、死から復活したイエス様をまだ見ていなかった弟子の一人トマスが、この目で見ない限り信じない、と言い張って、それに対してイエス様が「目で見たことに信仰を基づかせてはいけない」と戒めた出来事です。復活した主を見ることが出来たら、主が復活したことを信じてやろう、というのは全く当たり前の考え方です。弟子たちが見たと言っているのに信じられないとは、トマスは彼らがでたらめを言っていると思ったのでしょうか?ひょっとしたら、他の弟子たちには現れたのに自分にはないというのは不公平だという嫉妬も不信心を助長したのでしょう。結局、イエス様はトマスにも現れました。この目で見た以上は、もう疑うことはできません。お前は、私のわき腹に手を当ててみないと信じないと言っていただろ、ほら、触ってみなさい、とまで言われ、トマスはもう「私の主よ、私の神よ」と言って絶句状態です。不信心も嫉妬も吹き飛んでしまいました。

「わたしを見たから信じたのか?見ないのに信じる人は、幸いである。」ギリシャ語の動詞(アオリスト分詞)のニュアンスは、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」とか「見ないで信じ出した人々は幸いである」です。つまり、信じるきっかけに「見る」ということがなかった、別のきっかけがあって、それで信じるに至ったということです。それでは、そのきっかけとは何か?それについては後で明らかになります。

「幸い」というのはどういうことか?どうして「幸福」とか「幸せ」と言わないのか?「幸い」というのは、幸福は幸福でも、この世の物事に終始した幸福ではありません。死を超えた永遠の命に与っているがゆえの幸福です。死とか、死をもたらす罪に振り回されない、支配されない、それくらい天地創造の神に見守られて、神から祝福を受けて生きられるということです。仮に財産を多く所有していようとも、永遠の命と全く無関係に生きていれば「幸い」ではないことになります。このように、この世の基準からみて「幸福」度が高くても「幸い」とは限らないのです。逆に「幸福」度が低くても「幸い」であることがあるのです。

そういうわけで、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」というのは次のように言い換えられます。「復活したイエス様を見ないで、別のきっかけで彼を救い主と信じるようになった人は、神から祝福を受けて神に見守られてこの世を生きられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に神の御許に引き上げてもらえる。

もちろん、復活の主を見て信じた弟子たちが幸いでなかったということではありません。彼らが見たことを必死に人々に伝えたおかげで、多くの人たちが主を見なかったにもかかわらず、彼を救い主と信じるようになったからです。つまりイエス様はこうしたことが起きるために、これからは見ないで信じるようになることが肝要だ、と言うのです。それでは、どのようにして見ないで信じることができるようになるのでしょうか?見ることの他にどんなきっかけがあるのでしょうか?

弟子たちは、直接見ることでイエス様の復活を信じることが出来ました。復活したイエス様を見たことで、神の偉大な力が働いたこの方は真に神のひとり子であった、ということがわかりました。それでは、なぜその神のひとり子が十字架の苦しみを受けなければならなかったのか?それは、旧約聖書のイザヤ書53章等で預言されていたように、人間の罪を人間に代わって背負って、人間が神の罰を受けないで済むようにするための身代わりだった、まさに預言の実現だった、ということがわかりました。

それでは、見ない人たちはどのようにして、そうしたことがわかったのでしょうか?イエス様は天に上げられ、弟子たちや他の目撃者たちも、年月を経てこの世を去って行きました。しかしながら、イエス様を救い主と信じる人は増える一方でした。彼らは目撃者でなかったにもかかわらず。一体何が起こったのでしょうか?それは、直接の目撃者である使徒たちの、迫害にも屈しない証言を聞いたことが影響しています。迫害に屈しない命をかけた証言ですから、まさに真に迫るものがあったでしょう。聞いた人たちは、これは本当のことだと確信したでしょう。イエス様が昇天する前に既に目撃者だった使徒たちに加えて、昇天後にイエス様に出会ったパウロが加わりました。まず彼らの体験談や教えが、いろんな教会に送られる手紙の形にまとめられました。その中で、イエス様の出来事がいかに旧約聖書の預言の実現であるかの解き明しがされました。こうした使徒の教えと旧約聖書の解き明しに加えて、次に目撃者たちの証言録に基づくイエス様の言行の記録つまり「福音書」がまとめられました。このようにして旧約聖書に新約聖書が合体して、キリスト教の聖書が出来上がりました。多くの人がこの書物を読み、この書物に基づく教えを聞いて、目で見ていないイエス様を救い主と信じるようになりました。まことにイエス様の言われるような、見ないで信じるようになった幸いな人たちが誕生するようになったのです。

2.生きる目的を教える聖書

もちろん、人が聖書を読んですぐイエス様を自分の救い主と信じるようになるかといえば、必ずしもそうではありません。例えば、キリスト教は西洋文明の土台の一つなので、それを理解してやろう、そうすることで混迷する現代世界を読み解いてみようと言って聖書を読んでみても、イエス様が読む人にとって救い主になることはありません。また古代のオリエント世界の文化や宗教を知ろうとして読んでも同じです。さらには、イエス様を歴史上の思想家ないし社会改革者の一人とみなして読んでもイエス様が救い主になることはありません。思想家や社会改革者が死を超えた永遠の命など与えないからです。

それでは、どういう読み方をすると、古代オリエント世界にも、また西洋にも生きていない私たち、現代という時代のグローバリズムが渦巻く世界の中の日本にいる私たちにとって、イエス様が救い主となるのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒言行録の箇所が一つ参考になります。それは、ペトロが聖霊降臨の日に群衆の前で行った演説の最後の部分です。この長い演説の中でペトロは解き明かしをします。お前たちが死刑に引き渡したのも同然のナザレのイエスは実は旧約聖書に預言された神のひとり子であった。そのことが彼の復活で明らかになった。イエス様は異邦人の手に引き渡されたのだが、神はそうなることを全て前もってご存知で、お前たちにさせるままにしただけだ。そんなことも知らずにいい気なものだ。神のひとり子を死刑に引き渡すなどとは、なんと大それたことをしてしまったことか!

これを聞いた群衆は心に突き刺さるものを感じました。新共同訳では「大いに心を打たれ」と訳されていますが、それではペトロの言葉を聞いて感動してしまったことになります。そうではありません。ギリシャ語の(κατενυγησαν την καρδιαν)は文字通り「心が突き刺された」です。そこで群衆はペトロたちに「私たちは何をすればよいのですか?」と聞きます。ペトロの答えは、悔い改めなさい、つまり神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る生き方を始めなさい、そしてイエス様の名前に依拠して洗礼を受けて罪の赦しを受けなさい、そのようにして自分たちと同じように聖霊を受けなさい、というものでした。その結果、この日3千人が洗礼を受けました。キリスト教会が歴史上、誕生した瞬間です。

心に突き刺さるものを感じて、「私たちは何をすればよいのか?」という問いを発するというのは、それまでの生き方は間違っていた、それを続けることはもうできない、方向転換しなければならない、ということに気づいて、じゃ、何が正しい生き方なのか?目指すべき方向は何か?それを問うているのです。つまり、生きる目的を再考しているのです。

聖霊降臨の出来事というのは実は、人間が生きる目的というのはイエス様を救い主と信じることと切り離せないということをペトロが人々にわからせた出来事です。それを人々はわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。もちろん、この時の人々は、イエス様を死刑に引き渡すことに直接間接に加担した人たちだったので、反省の余地が大いにあり、それをペトロに指摘されて深く反省しました。私たちの場合はどうでしょう?私たちは別にイエス様を死刑に引き渡すことに加担していないのでペトロの演説を読んでも、同じように心に突き刺さるものはないのではないか?果たしてそうでしょうか?

「私たちは何をすればよいのか?」という問いは、生きる目的の問いです。その問いは、それまで目的と思っていたことが目的でなくなってしまった、追及するに値しなくなってしまった、まさに目的を見失った状態の時に出て来ます。あるいは、これまでさしたる目的もなく生きてきたが、何かの原因で今やそれをはっきりさせなければ生きられなくなってしまったという時にも出て来ます。いずれにしても問いは同じです。「私は何をすればよいのか?」そんなこと考えないでも生きていけるという人もいるかもしれません。しかし実際、新聞の新刊本の紹介を見ても、生きる目的を教えるというような本は沢山出ています。多くの人が生きる目的、何のために生きるのか考えたり悩んだりしているのでしょう。

何のために生きるのかという問いは、多くの書物に埋もれて忘れられてしまった感があるとは言え、聖書ももちろん答えています。聖書がどう答えているかと言うと、本日の日課に関連したところでみると、ペトロの演説の中に出てくる「神の計画」がそれです。これは実は本日の日課の箇所の少し前のところで言われています。使徒言行録2章23節ですが、神がひとり子イエス様を十字架の死に引き渡されるのを阻止しないで、そのままにしたのは、「お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで」そうした、と言っているところです。神が定めていた計画とは、人間が天と地と人間を造った神、人間に命と人生を与えて下さった神と結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、ということです。そこで、神との結びつきを持って生きるとは、どういうことかと言うと、順境の時であろうが逆境の時であろうがいつも神から守りと導きを受けられて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとに戻ることができる、そういう生き方をすることです。そのような神との結びつきを持った生き方は、もともとは人間にはあったものでした。しかし、それは失われてしまったのです。なぜかと言うと、旧約聖書の創世記3章で明らかにされているように、造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪が入り込んでしまったために、神との結びつきが失われてしまったのです。

この結びつきを回復させるためには人間の内に宿る罪を取り除かなければならないが、それは人間の力ではできません。それは神もよくご存知でした。そのため神はひとり子イエス様をこの世に送って、彼に人間の全ての罪を負わせて十字架の上で人間の代わりに罰を受けさせて、その身代わりの犠牲のゆえに人間の罪を赦すという方策にでたのです。それで、イエス様を救い主と信じると、罪の赦しがその人にその通りになるのです。罪が赦された者ですので、その人には神との結びつきが回復するのです。このようにして、人間が失っていた神との結びつきを回復する、これが神の人間に対する計画です。

心に突き刺さるもの、私たちは何をすればよいのかという問い、これらは、実は私たちにも関係しています。神のひとり子が犠牲になったのは、私たちの罪のためだったからです。旧約聖書のイザヤ書53章で預言されていたように、私たちが神の罰を受けないで済むようにと、そして私たちが神との結びつきを回復できるようにするためにイエス様は十字架の道を受け入れたのでした。もし、神のひとり子が私たちの罪のために犠牲になったことがわかれば、「何をすればよいのか」は私たちの問いになります。その答えはペトロが言ったものと同じです。悔い改めて、つまり、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生き、イエス様の名に依拠して洗礼を受けて罪の赦しの中に入り、聖霊を受けることです。

ここで罪とは何かについて一言申しておきます。罪とは、神聖な神の意思に反することです。神の意思は十戒の中に凝縮されています。十戒についてイエス様はどう教えたでしょうか?ふしだらな目で異性を見たら、たとえ行為に及ばなくとも姦淫の罪を犯したことになる、たとえ殺人をしていなくとも人を罵ったら第五の掟を破ったことになる、と。行為だけでなく、言葉や心の中まで問われたら誰も神の前で自分は潔白だなどと言えません。しかし、イエス様はそんな自分が神の罰を受けないで済むようにと犠牲になられた、だからイエス様は私の救い主です、そう信じれば、それで神から罪の赦しを得られて、罪が自分に残っているにもかかわらず罪の赦しの中で生きられるようになります。これが神との結びつきの中で生きるということです。いつの日か神の前に立たされても、イエス様のおかげで私にはやましいところはありませんと言っても大丈夫なのです。それにしても、この世はなんと罪に満ちていることでしょうか?心の中にある罪が大手を振って言葉や行いに現れるのを許している感じさえします。ペトロが本日の箇所で「邪悪なこの世から救われなさい」(使徒言行録2章40節)と言っているのは、私たちの時代にも向けられています。神との結びつきの中で生きるとは、罪の力よりも強い力の下にいて安心していられることです。罪が私たちの心を惑わせようとして甘い声をかけてきたり、また私たちを怯えさせようとして怒り声をかけてきたりしますが、そうした声は神の御言葉に耳を傾ける者には一時の耳障りな雑音にしかすぎなくなります。聖霊に一息かけてもらえば、埃のように飛んで行ってしまいます。

以上みてきたように、聖書を読んでイエス様を救い主と信じる信仰に至ることができるのは、聖書が次のことを教えていると気づくからです。まず、自分は化学物質の複雑な化合の結果生じた、そういう偶然の産物としてあるのではなく、この自分に対してお考えと計画を持つ方が造られたということ。次に、今自分は自分の造り主とどんな関係にあるかと言うと、その関係は崩れてしまっているということ。そして、その関係を回復するために造り主は何をして下さったか、と言うと、まさにひとり子イエス様を私たち人間のために送られたということ。こういうことを聖書は教えていて、そうなんだとわかって、やっぱり神との結びつきの中で生きることが大事なんだ、その中で生きなければならないとわかって、それが生きる目的だとわかった時、イエス様を救い主と信じるのは当然のことになります。このように聖書が人間の生きる目的を教えているとわかった時、イエス様は既に救い主になっています。

 

3.この世は仮住まいという視点

神がイエス様を通して与えてくれた罪の赦しの中で生きる人は、自分に注がれる恵みの大きさのゆえに思わずひれ伏してしまい、感謝と賛美を口にしないではいられなくなります。神を全身全霊で愛しなさい、隣人を自分を愛するが如く愛しなさい、隣人が神との結びつきの中で生きられるように働きかけなさい、というイエス様の言われたことが自分の一部になったような当たり前のことになります。

そのように生きる人にとって、この世とはどんな世界かということについて、本日の使徒書の箇所でペトロは「仮住まい」と呼んでいます。最後にそのことについて見てみます。ギリシャ語の言い方(τον της παροικιας υμων χρονον)は、「寄留者としての期間」ですが、「寄留者」とは、一時滞在者、その土地の人間ではなく、よそ者です。カナンの地でのアブラハムがそうでした。キリスト信仰者にとって、この世は自分の本当の土地ではなく、よそ者として一時滞在しているということですが、それは、本国が別にあるからで、その本国とは天の御国、神の国です。それは、今は神のもとにありますが、この世が終わりを告げ、今ある天と地が新しい天と地に創造し直される時に唯一現れる国です。キリスト信仰者はそこを目指して、この世を歩んでいます。もちろん、「仮住まい」と訳してもOKです。そう言うことで、「本住まい」が別にあることを意味していますから。

そこで、今生きているこの世を一時滞在の場所、仮住まいなどと言ったら、本住まいの天国が大事になってしまって、この世のことをないがしろにしてしまうのではないか、と思われるかもしれません。それは心配には及びません。キリスト信仰者にとって、この世で自分のものに見えるものは、本当は自分のものではなく、全て神から与えられたものです。伴侶にしろ、子供にしろ、肉親にしろ、家にしろ、仕事にしろ、自分の才能や身体的特徴にしろ、みな神から与えられたものと観念します。神から与えられたので、どう使おうが自分の勝手だ、ということにはならない。与えることが出来る神は、いつでも取り上げることも出来る。だから、完全に自分のものとして自分の欲望を満たすために自分だけで消化するために与えられたのではなく、神に与えられたものとして大切に用い、扱い、育てる。そうすることで、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛せて、隣人を神との結びつきに導くことができます。そういうわけで、この世にあるものは、実はみんな神からお借りしたもので、しっかり世話し正しく用いるようにと委ねられたものなので、そうするのです。

もし、この世自体が本住まいになって、自分たちはこの地の主人、よそ者なんかではない、この世の外に本当の住まい、本国などない、ということになれば、どうなるでしょうか?創造主に対する畏れがなくなって、全てのものは自分の欲望を満たす手段になってしまうのではないでしょうか?本日の使徒書の箇所でペトロは、人を公平に裁く方を父と呼ぶならば、この仮住まいの期間、畏れをもって生きるべきである、と教えています(第一ペトロ1章17節)。「公平」とは、ギリシャ語(απροσωπολεμπτως)では、人物が偉い人かどうか、人気のある人かどうか、また多くの人の支持を受けた人かどうか、全く考慮しないで、どんな行いをしたかに絞って裁く、という意味です。地位も何も関係ありません。全てを見通されてしまうのです。それで畏れを持つことになるわけですが、畏れをもって生きるなどと言うと、びくびくして生きる感じがします。しかし実は、そうではありません。ペトロはその後で言葉をどう続けていますか?キリスト信仰者というのは先祖代々受け継いだ空しい生き方から買い戻されるようにして解放された者である、その買い戻しにあたって支払われた代価は金銀のような情けないものではなく、神のひとり子が十字架で流した尊い血であった、それくらい私たちは価値あるものとして神から見られているのである、と。この買い戻しの中にとどまる限り、神の裁きの前に立つことになっても、イエス様の血をかけられて純白になった者として見てもらえるのです。神はまことに畏れるべき方ですが、その畏れというのは、感謝や大きな安心と表裏一体になっているのです。キリスト信仰とはなんと、重層的で全てを網羅した奥の深い生き方を与えてくれるのでしょうか!キリスト信仰者は自分でも気づかずにそれを手にしているのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「十字架の言こそ力」木村長政 名誉牧師、コリントの信者への手紙Ⅰ 1章18~19節

第4回 コリントの信者への手紙Ⅰ 1章18~19節

今日の礼拝では1章18~19節のみ言葉を聞いて見ましょう。前回の1章10~17節までの結論はキリストの十字架が空しくならないため、ということでありました。更に言えばこの手紙のひとつの願いはキリストの十字架が空しくならないように、ということであります。この手紙には多くのことが書いてあります。一貫したことを述べるのでなく、コリントの教会が持っている問題を次々に取り上げていくような書き方であります。しかしその問題についてもパウロが願っていたことは「キリストの十字架が空しくならないように」ということでありました。聖書がいつも願っていることはそのことでありました。従って18節にあります言葉「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが救いに預かる私たちには神の力である」この言葉は聖書の内容を代表する大宣言であった、と言って良いでしょう。18節のはじめに「なぜならば」と言う字が入っています。十字架の言を空しくしてはならない「なぜならば」十字架の言こそは神の力であるからである、というのであります。十字架の言こそは私たちの唯一つの力である。それゆえに何を行うにも十字架が空しくならないようにするのである、ということです。そこで17節を注意深く見てみますとキリストが私を遣わされたのは洗礼を授けるためではなく福音を知らせるためであった。しかもキリストの十字架が空しいものになってしまわぬように言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。この中ほどに「しかもキリストの十字架が空しいものなってしまわぬように」と言っています。

ところで18節の方では「十字架の言」というのであります、言というのであります、なぜそうなのでしょうか。それは言のない十字架は力にならないからです。だから十字架の言が大事なのです。キリストが十字架にかかられた時カルバリーの丘には三本の十字架が立ちました。キリストを真ん中に二人の盗賊が同じようにつけられたのであります。今日私たちは真ん中の十字架が他の二本の十字架とは比較にならない力を持っていることを知っています。しかし当時、例えばたまたまその辺りを通りかかった人がはたして三本の十字架が違うということを知ることができたでありましょうか。その人にとっては三本とも全く同じもので、何の違いもない犯罪者の十字架であるように見えたでしょう。ただ主イエス・キリストがどういうお方であったかを知っていた人だけがその違いを知ることができたでありましょう。人々が興奮しわめき騒いでいる中で主イエスに向かって立っていたローマの軍隊の百卒長だけがこのように息を引き取られた主イエスを見て「まことにこの人は神の子であった」と言われました。マルコ福音書15:39節にあります。これは今日の私たちの気持ちを代表するものであります。百卒長がどれだけキリストについて知っていたか分かりません。しかし彼は彼なりに裁判の場からの主イエスのご様子を見ていて「まことにこの人は神の子であった」と叫んだのでありましょう。十字架はただの飾りではありません、神の御子が私たちの罪のために死んでくださったのであります。それならばここに死なれたお方が神の子であり、その御子が私たちの罪のために死なれたのである、というこの事が分からなければこの死は一人の犯罪者の死となってしまうのであります。そのためには十字架の言が必要なのであります、十字架の意味が分からなければなりまsぜん。それもただ一度知る、というのでなくて幾度となくそれを知りそれを知るごとにそれによって与えられるものを悟るものでなければなりません

 

例えば机の上に十字架を置きます、それは悪いことではないでしょう。その時どのようにして十字架を見つめるのでしょうか。そこで十字架の言を聞くのであります。十字架の言を考えるそして祈るのであります、祈りの中で更に何かが与えられていくのでありましょう。十字架の言という場合、この言は漢字の二文字(言葉)の葉を取り除いた言という一文字で言います、聖書では特別な意味ある重要な言葉であります。ヨハネ福音書1章1節に出ています「始めに言があった。」この場合の言は主イエス・キリストのことを指しているのです。十字架の言、というものは第一には十字架の意味である。しかもその意味は御子が罪人のために死んでくださった、ということでありました。そうであればそれはただの意味ではなく特別の主張を持ち人々に訴えるようなものである、と言わねばなりません。それはただの話ではなくて人を救うことを告げるものであると言わねばなりません。そうすると十字架の言というのは人間の救いについて語るということになります。救いを語るということであればそれはただの話をすることではなくて、どうしてもこれを伝えてその人を救おうと言う事になるのであります。十字架の言が救いの言葉であるとすればそれはどういうことになるのでありましょう。第一に十字架の言を語る人自身がそれを救いの言葉であると認めなければならないでしょう。自分が十字架の言によって救われている、というのでなければならない。十字架の言を語る者は自分がそれによって救われたことを語るのであります。自分の救いであります。

例えばサマリヤの女が昼の暑い時井戸水を汲みに来て主イエス様に出会いました、主イエスと出会って井戸水の事からこのお方がメシヤだと知らされ救われたのです。自分が救われたことを語り他の人々に伝えていったのであります。上手には説明できないかもしれない、しかし自分はそれによって救われた、と語るのでなければ誰も信用してくれないでしょう。そうして見ると十字架の言は十字架の証しいうことになるのであります。それと共に全ての人に対してその人が救われなければならないことを告げなければならないでしょう。救いが必要なのにそんなものは関係ない、と思っている人にそれを悟らせねばなりません。証ししなければならないのであります。これが十字架の言であります。聖書はそのことを良く知っています、そこで十字架の言をただの言葉とせず、滅び行く者と救われる者とに分けて考えようとします。ある人にとってはいきなり滅びとか、救いとかいうことが突然なことかもしれません。しかし十字架の言がただの言葉でなくて人々に訴えるべき言葉であるとすればそれが救いの言葉になることは当然であります。まだ救いを必要としていないかも知れない、しかしこの言葉は救いを与えることを目的としています。人生の暮らし方とか生活の知恵とか、ということを問題にしているのではありません。あなたは救われなければなりません、ということをパウロは言おうとしているのです。そのことを別な言葉で言えば滅び行く者と言うことになるでありましょう。

キリストは十字架において私たちの罪のために死なれたのであります。それならここは滅び行く者と言わないで罪ある者と言えば良いのではないか。「滅びる」などという言い方は大げさであると思われるかもしれません。或いは古い言い方であると言われるかもしれません。しかし聖書はこれの方が罪ある者の実際の姿であると言うのであります・なぜなら罪があるというのは人間の状態ではありません。神の前に自分がどういう者であるかということなのであります。自分の罪に対してどういう責任をとるかという最も厳しい問いで問われている。その時その罪の責任を果たすことが出来なければ滅びるしか他はないことに気づくのであります。死は肉体の滅びになりましょう、しかしそれだけでなく罪の責任を問われそれに答えることが出来なければ一切の滅びになることが分かるのであります。十字架の言はそれを告げるのであります。しかしもしそのことに気づかないとしたら十字架の言ほど愚かしいことはない、十字架の救いほど愚かしいことはないでありましょう。

 18節で言っているように十字架の言はまことに滅び行く者にとっては愚かなのであります。それに対して救いにあづかった私たちにとっては十字架の言こそ強力な力であると宣言するのであります。「私たち」と言っているようにこれは実際に救いを受けた者の証言であります。理屈でもなければ説明でもありません。救いを受けてその力を知った者がそのことを証ししているのです。力という字はダイナマイトと言う字に用いられた字です、救いを受けた者から言えばこれは何もかも吹き飛ばしてしまうような力でありました。罪についての悩みもその恐ろしさもそれから出る不安も、どれもこれも消し飛んでしまって無くなってしまった、と言いたいのあります。この神の力こそがどんな人間の知恵や賢さをも打ち破る力でありました。教会の伝統と働きは救われた者の信仰の告白であります。    

アーメン・ハレルヤ

説教「希望がある」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書20章1−18節

 私たち人間の生活にはいろいろな悲しみがあります。たとえば仕事を失うこと、病気になること、また思い描いていた計画がすっかり変わることもあるかもしれません。未来を予言するのは難しいです。その中で、一番深い悲しみは、親しい人を失うことではないでしょうか。人生の望みがなくなる場合もあると思います。希望と人生の喜びが消えてしまいます。

マリアは最愛の人を失った、そう考えていたでしょう。『最も愛するイエスがなくなった』のです。喜びと望みを失ったことでしょう。

 聖書を開きましょう。

今日の聖書の箇所には、マリアの悲しみ、そして、奇跡と希望について書かれています。

初めに、悲しみについて少しお話したいと思います。今日の箇所を読みましょう。

1.週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

2.そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

 イエスは葬られました。信仰告白には「死んで葬られ」と表現されています。イエスと親しかった一人の女性の将来についての計画は「大きな質問」に変わったことでしょう。いったい何をするべきなのでしょうか。

次に聖書には奇跡について書いてあります。

弟子たちは走りました。

3.そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。

4.二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。

弟子たちは驚きました。墓が空っぽだったからです。

7. イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

8. それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

 弟子たちは奇跡を見て、信じました。神様は何でも出来るということを表す奇跡でした。  

 最後は、希望です。

私たち人間はイエスの教えを少しずつしか理解できません。マリアもその一人でした。  

 9.イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

10.それから、この弟子たちは家に帰って行った。  

 マリアは泣いていました。慰めの神様はこのこともご存知でした。

11.マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

12.イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

13.天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

14.こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった

15.イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 マリアには、何が起こったのか、まだ完全に理解できませんでしたので、更にもう一つの言葉が必要だったのです。

 16.イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 イエスが現れて、マリアは何が起こったのかがやっと理解できて、喜びました。悲しみが消え去りました。主を見たからです。希望と喜びが与えられました。失った希望が戻ったと思います。  

 私たちも主にお会いする希望を持っています。

それが、キリスト者の希望です。

時代の混乱の最中にあって、キリストの教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。

 解放というのは、何でしょうか。

罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

このイエスの御業によって、私達は死と悪魔の力から解放されました。ですから、この生活のなかに色々な苦しみや悲しみがあっても、永遠の命の希望があります。

***** 

 祈りましょう

天の父なる神様。マリアは悲しみましたが、イエスに出会って、喜びました。あなたの約束のとおりに、私たちもイエスにお会いする希望を持っています。感謝します。イエスが復活されたからです。これは私たちの一番大切な喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。私たちのよい行いは救いのために必要ではありません。イエスのみ業は完全だからです。

私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。私たちの天国への道を見せてください。私たちを、主をお迎えする心の準備が出来るように、あなたの声を聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神様の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、隣人を愛せるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。御言葉によって、私達の希望を強めて下さい。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。  

 

洗礼式:颯良 君

 

聖金曜日礼拝説教 「不思議な愛」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書19章17−30節

 苦しみは三種類あると思います。

 初めに

自分のせいの苦しみです。例えば、歩行者が赤信号であっても賑やかな道をわたると、きっと交通事故になりますよ。そして苦しみにもなる。これは自分のせいの苦しみです。

 第二に

5歳の女の子が道を歩いていて、酔っている運転手の車に跳ねられるとします。誰の責任でしょうか。やっぱりその酔っぱらい 運転手の責任だと思います。警察もそう判断します。

 第三に

かわいい赤ちゃんが生まれるとします。お母さんもお父さんも喜んでいます。しかし、後一年で赤ちゃんががんで死ぬとわかる。父親と母親にとって大変な苦しみです。けれども、責任が誰にあるのか、分かりません。説明できない苦しみです。

 今日の聖書の箇所にも苦しみについて書いてあります。イエスの苦しみについてです。

 

17−19 大変なでき事でした

 • 7:ヨハネによる福音書/ 19章 17節

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

• 18:そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

 • 19:ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

 これは大変なできことだと思います。イエスはとても良い方ですから。

 どんな方なのでしょうか。イエスの人格というのは。

 イエスは父の偉大なる御業を喜び、人類の罪と悩みを見ては、大変苦しみました。

イエスは神が御自身にその使命をお与えになったことを知っていましたので、何も恐れることなく、権威ある者のように教えました。

イエスは御自分の民とその聖なる嗣業とを愛していましたが、同時に彼は人間のあらゆる制約から完全に自由でした。

 そして、イエスは良い業を背一杯なさいました。

 イエスの御業について

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。イエスは良い方だと言われても宜しいでしょうね。

これらのことを読むと、私達の人間の考え方で、イエスの苦しみは説明できません。

 また、イエスは人々からいじめをうけました。

 • 20:ヨハネによる福音書/ 19章 20節

イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

· 21:ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。

 · 22:しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

 · 23:兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。

 · 24:そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

 良い業ばかりなさっていたイエス様は、今いじめられました。悪口も言われました。着るものもなくしました。全部預言者が語られた通りです。

 大変な苦しみがあったのに

 · 25:ヨハネによる福音書/ 19章 25節

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

 · 26:イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。

 · 27:それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

 イエスはまだまだケアを考えていました。本当に本当に母親の世話をなさいました。これほどの愛は説明できませんね。

 次に

イエスの苦しみは人間の考え方では説明できません。しかし、神様は人間と全く違います。神様の考えは私達の考えを明らかに超えます。

イエスの苦しみと言うのは、あなたと私のための苦しみです。

 イエスは苦難と試練と死の危険を忍び、父の御旨に従順でした。父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

イエスの苦しみの結果として、私達は希望を持っています。

 キリスト者の希望というのは

時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。

 最後に今日の聖書の箇所の終わりを読みましょう。

 28:ヨハネによる福音書/ 19章 28節

 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

 · 29:そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。

 · 30:イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 それは、私達の罪人のためでした。これは不思議な愛です。

 祈りましょう

 天の父なる神様、あなたは御自分の御子を死に渡して、人間を救う計画を作ってくださいました。イエスは私達のために大変な苦しみを受け入れました。今日私達は特にその苦しみを覚えています。イエスの苦しみも神様の計画の通りです。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行いは必要ではありません。私たち弱い人間には、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。聖書を読むと、贖い主のイエスがあと3日目に復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招き、また、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン。

説教
「最大事」マルッテイ・ポウッカ牧師、マタイによる福音書21章1−11節



少し、例えの話しをしたいと思います。 
これは、なんでしょうか。お見せしましょう。道具ですね。Multimeterです(見せます)。 
色々な電気機械をはかる時、直す時とか作る時とても便利な道具だと思います。日本製で、もう「25歳」です 。 
 
この道具は食べ物や健康食品ではありませんね。食べてみるとすぐわかりますが、その前に道具として使った方がいいです。

今日の聖書の箇所を読みましょう。これはとても有名な聖書の箇所だと思います。



最初に
イエスは小子ロバに乗ってエルサレムに行かれました。


マタイによる福音書 21章 1~4節
「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」

 預言者たちも前から神様の計画を知っていました.そして、人々に語りました。

 マタイによる福音書 5~9節 
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」



皆、イエス様を見ると大喜びしました。踊りました、歌いました。イエスがこの世に来て下さるのは、神様のご計画でした。 


  

時が満ちた、と言ってもいいでしょう。神様の計画が進展(しんてん)しました。

マタイによる福音書 10~11節
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

イエスはいったい、どなたでしょうか。これはとても大切な質問です。

このような教えがあります。
神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えることができるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を 世の救い主としてお送りになりました。聖書にはイエスの人生について、また教えの奇跡についてたくさん書いてあります。

 
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。

 そして、イエスはお生まれになりました。

 人間としてイエスは罪を別にして、全ての点において、私たち人間と同様でした。イエスは生まれ、成長し、疲れ、空腹を感じ、また喜びや悲しみを味わいました。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカによる福音書2:52)。

イエスは御業をどう行われましたか。

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。

イエスの生涯の一日については、マルコ1:21-34を読んで下さい。

そして、イエスは恵みの主でいらっしゃいます。

イ エスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪 人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何らの価値も無いのに与えられる神の愛が「恵み」と呼ばれるのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。

神様は、このようなイエス様をお送りになりました。

この神様の計画は、私たちの永遠の命の希望の元です。ですから、今日の聖書の箇所の人々と弟子たちがしたように感謝しましょう。

自分の栄光を求めていた ファリサイ派の人々はイエスのことが好きではありませんでした。イエスがいるとファリサイ派の人々の力は弱くなるという恐れがあったと思います。けれど も、私たちにとって、イエスは素晴らしい方です。

最後に

さっき話した「Multimeter」は色々な電気機械を直す時とか作る時に役に立ちます。
目的は、電気をはかる事です。では、教会はどうでしょうか。教会 の目的は何でしょうか。教会は、福音の素晴らしいメッセージのために建てられています。教会の目的は、福音を伝えることです。それも、希望をもって、喜ん で、です。 

教会は、戦う教会と勝利の教会、キリストの教会で、この地上においては、旅人、また散らされた者として、戦っています。しかしキリストの再臨の時に、教会は栄光の中に、彼と共に、勝利の教会として現れます。


「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブライ11:13)。




私たちはイエスによる永遠の命の希望のプレゼントを頂きました。このプレゼントを教会として家族や友人たちに分けることは私たちの大きな喜びです。

そして、私達の一番の最大事です。

 

祈りましょう

 天 の父なる神様、あなたは、人間を救う計画を作ってくださいました。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行いは必要で はありません。私たち弱い人間は、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを 超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。
聖書を読むと、贖い主のイエスが復活されたということが分かります。 これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である 天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えて ください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たち があなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めます ように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招き、また、復活の喜 びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を 大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができます ように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン。



 

説教「完全な運転手」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書11章17−53節

若い時の思い出です

私はフィンランドの田舎で育ちました。学校に通い始める時、小学校は近くでしたが、中学校の時にはもうバスにのらなければなりませんでした。朝早く起きて、バスストップでしばらく待っていて、毎朝隣の町の大きい中学校に通っていました。ちょっと厄介でしたが、面白いところもありました。男の子の頭の中には、やっぱりバスと運転手に対する興味がありました。バスはたいていScania とかVolvoという二つのメーカーの車でした。その他に、運転手も比べました。ある人は運転がはやく、スピードを出しました。ある人は親切でした。またある運転手はタイムテーブルをとても正確にまもっていて、冬も夏もいつも決まった時間に学校につきました。もちろん、私は中学校の時、スピードを出した運転手が一番好き だったのです。男の子はやはり男の子です、と言われるとおりです。

大人になっても、まだ少しバスと運転にたいして興味が残っています。私が出会った一番よい運転手はタムペレと言う町の近くのPaunuというバス会社の運転手でした。お客さんにたいしてとても親切でしたし、タイムテーブルについてもとても正確でしたし、女性なのにスビードも少し出すことができました。ほとんど完全な運転手と言われてもいいと思います。

今日の聖書の箇所はイエスとラザロの話です。

1.イエスはたくさん良い事をして下さいました。イエスの御業についてはこう書いてあります。

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。聖書にはこう書いてあります。

「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちところに来ているのだ」(ルカ11:20)。

イエスがカファルナウムで中風の人に罪の赦しを宣言したことについては、マルコ2:1-12を家で読んで下さい。

今日の聖書の箇所では、イエスはマルタとマリアの所にいらっしゃいました。

 20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

 21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

 22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

 24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

 25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

イエスはこうマルタとマリアを慰めて下さいました。イエスは復活と命でいらっしゃいます。

 

 2.35節です。「イエスも涙を流されました。」

イエスは神様であり、また人間であります。人間として、深く悲しまれました。ラザロは彼の良い友達だったからです。マルタとマリアと一緒に悲しまれました。しかし、イエスは人間であり、また神様でいらっしゃいます。そして、イエスはラザロを生き返らせました。

マタイ28: 「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」

Giotto, Public domain, via Wikimedia Commons

この約束は実現されました。イエスはこう言われました。

43 「ラザロ、出て来なさい」

そして、ラザロは墓から出てきました。イエスは死にも打ち勝ちました。

マルタとマリアは喜んでくれたと思います。

 

3.皆はイエスが好きではありませんでした。

イエスを殺そうとする計画が、奇跡を見たファリサイ派の人々の中で生まれました。しかし、この計画のことも神様は御存じでした。

時は満てり

神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を世の救い主としてお送りになりました。四福音書はその救い主の生涯と御業とについてのよい音信(知らせ、メッセージ)を伝えています。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。

この計画を、神様はどうしてお立てになりましたか。

父 からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦 難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにし てキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(ヨハネ17:4)。

このようになさって、イエスは天国への道を開いて下さいました。あなたのためにも私のためにも。

初めに私は「ほとんど完全な運転手」について話しました。イエスを考えると、イエスはほとんどではなくて、「本当に完全な運転手」と言われてもよろしいでしょうと思います。それはどうしてでしょうか。イエスが運転するバスは確かに天国のバスストップに神様のタイムテーブルに従って正確につきます。信仰の聖霊によって頂いた切符を持っていて、そのバスに乗りましょう。これは、私達の慰めであり、希望であります。

 

祈りましょう。

天の父なる神様。天国への切符をありがとうございました。私達にマルタとマリアのように慰めと希望をあたえてくださいました。あなたは、人間を救う計画を 作ってくださいました。私たち弱い人間には、あなたの知恵と力は理解できませんが、どうか私たちを助けてください。あなたは人間ではないし、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束もすべて守ってくださいます。

聖書を読んで、イエスが復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しの ために送ってくださいました。そして、私たちの本国である天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。

今日もあなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父 なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。私たちがあなたの子どもとしてできる社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を大切に出来るように、 互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン  

説教「解放なら安息日に」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書9章13~25節、イザヤ42章14~21節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにする奇跡の業を行った後で何が起きたか、ということについて述べています。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちが、この人を尋問しました。なぜかと言うと、この癒しがなされた日が安息日だったからでした。つまり、癒しを行ったイエスは、安息日に仕事をしてはならないという掟を破ったのではないか、つまり神の意思に反する人物ではないか、ということが問題になったのです。

 安息日を守るというのは、皆様もご存知のように、出エジプトの時に天地創造の父なるみ神がモーセに告げた十戒のうちの第三の掟です。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8~11節)。

なぜ、イエス様が安息日の掟を破ったと騒がれたかと言うと、彼がまず唾と土で何か粘土状のものを作って、それから、それを使って目を治してあげたことの二つが仕事をしたと見なされたからです。本日の箇所の前で、イエス様がどのようにして癒しを行ったかについて述べられています。イエス様は一言声をかけて癒すのではなく、わざわざ作業をするように何か粘土状のものを作って目に塗って、目を治してあげました。この作業が安息日に起きたために、群衆はこれが宗教的に許されるかどうか判断してもらおうと、この人をファリサイ派のもとに連れて行ったのでした。このような奇跡を行うイエスは、本当は神から来た者ではないだろうか?それとも十戒の掟を破る、神に反する者ではないだろうか?一体どちらだろうか?宗教エリートはなんと答えるだろうか?

ファリサイ派の間でも見解が割れました。ある者は、神が定めた安息日の掟を破ったのだからイエスが神由来とは到底言えないだろう、単なる罪びとだ、と主張します。別の者は、そうならば果たしてこのような奇跡の業を行うことができるだろうか、と疑問を呈します。実際、旧約聖書のイザヤ書を通して読むと、将来神の霊を注がれた神の僕が現れて目の見えない人たちの目を見えるようにする時が来ると預言されています(42章7節、加えてマタイ11章4~6節、ルカ7章22~23章も参照)。イエス様を罪びと考えない人たちは、きっとイザヤ書の預言が頭をよぎったのでしょう。Distant Shores Media Sweet Publishing CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0しかし、見解の一致は得られません。そこで、ファリサイ派の人たちは、目が見えるようになった人の見解を求めました。「お前は、お前の目を開けた者のことをどう思うのか?」 男の人は答えました。「預言者だと思います。」メシアとか救世主という答えではありませんでしたが、預言者というのは神から送られる人と考えられていたので、イエス様は神由来の者、神の意思に適う者であり、罪びとではありえない、と告白したことになります。

本日の福音書の箇所には、二つ考えなければならない大きなことがあります。一つは、目を見えるようにするイエス様の奇跡の業とイザヤ書の預言の関係です。もう一つは、イエス様はなぜ癒しの業を安息日に行ったのかということです。奇跡の業とイザヤ書の関係は、実はとても深くて大きい問題をはらんでいて、一回や二回の説教でお話しすることはできないと思います。そのため本説教では、安息日の問題を中心にお話ししようと思いますが、ほんの少しだけ、先にイザヤ書の預言について触れておきます。

 

2.目を見えるようにする奇跡の業とイザヤ書の預言の関係について

本日の旧約の日課であるイザヤ書42章の中で、目が見えない者、耳が聞こえない者について述べられていました。これは肉体的に目が見えない、耳が聞こえない、ということではなく、霊的に見えない、聞こえない、ということです。霊的に見えない、聞こえないというのは、天地創造の神のみ心がわからず、それに沿う生き方ができない状態を意味します。旧約新約聖書を通じて、そういう状態は「心が頑なになる」とも言われます。神はかつて、御自分の意思に反するだけになってしまったイスラエルの民に対して、その霊的な目と耳を塞いでしまうという罰を下しました。そのことはイザヤ書6章に記されています。時はユダ南王国のウジヤ王が死去した頃、イエス様の時代から700年くらい前の頃でした。そのためイスラエルの民は神のみ心が一層わからない状態となり、国内は混乱状態が一進一退で深まり、対外的には大国バビロン帝国の侵略を受けて滅亡してしまいます。紀元前600年近くの出来事です。イスラエルの民の主だった人たちは異国の地に連行されていきました。

それから50、60年経った後、今度はペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の覇者となると、イスラエルの民は祖国帰還が認められます。本日のイザヤ書42章の預言はその時期が近づいた頃に向けられています。神は、イスラエルの民がバビロン捕囚という苦難を背負ったことで、その罪を赦すと宣言します(43章25節、44章22節)。本日の日課のイザヤ書42章16節で神が霊的に見えない、聞こえない民を導いて知らない道を歩ませる、とあります。それは、民がもはや神の差し出す手をしっかり掴まらないと前に進めない、それくらいに神によりすがっている、信頼しきっている状態にあることを意味します。バビロン捕囚の苦難が驕り高ぶっていた民をこのようにへり下って神のみに信頼する民に変えたのです。つまり、霊的に見えなくなる、聞こえなくなるというのは、結局、天地創造の神しか信頼するものがなくなってその御手をしっかり掴まって前に進めるようになる、そういう状態をもたらす機能を果たすと言えます。そのような状態は、神のみ心を知って、それに沿う生き方をすることですので、霊的に見える、聞こえる状態になっているわけです。

ところで、イザヤ書42章19節に、「神の僕」が盲目であると言われていることに違和感を抱く方もいらっしゃると思います。というのは、イザヤ書53章をみると、「神の僕」とは将来到来する救世主メシアのイエス様を指しているので、そのイエス様が盲目というのはどういうことか理解できないからです。実はこれは、イザヤ書で言われる「神の僕」というのは二つの意味がだぶっていることによります。一方で「神の僕」は、バビロン捕囚の罰を受けたイスラエルの民全体を意味し、他方では将来到来する救世主メシアを意味し、イザヤ書ではこの二つの意味がたぶっているのです。42章では明らかにイスラエルの民を指しています。

19節の「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか」という訳ですが、そういう質問ですと、「いいえ、他にはいません」という答えが返ってきてしまいます。ヘブライ語の原文はそういう修辞疑問文ではないと思います。素直に訳すと「わたしの僕以外には誰が目の見えない者か?」です。この神の問いを聞いた私たちは、「はい、私たちもそうです」と告白し、神に全面的な信頼を寄せて、その御手をしっかり掴まって暗闇の中を進みます。その時、神は、16節に言われるように、「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐに」して下さいます。

19節ではまた、「わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者があろうか」とありますが、「信任を与えた者」というのは辞書(HolladayのConcise Hebrew and Aramaic Lexicon of the OTですが)に出ている意味を素直に使えば「報いを受けた者」となり(שלמのpual分詞形)、罪のゆえにバビロン捕囚の苦難を受けることになったイスラエルの民を指します。そうするとここは、「罪の報いを受けたイスラエルの民と同じように目の見えない者は誰か?」という意味になります。この質問に対して、「はい、私です」と答える者は、神の御手をしっかり掴まって進むことになります。(19節は各国語訳も苦労しているようです。)

 

3.安息日の目的

  イエス様が目の見えない人の目を見えるようにした奇跡の業は、霊的というより肉体的な視力の回復でした。イザヤ書の預言は、字句通りに読めば、肉体的な視力回復としても霊的な視力回復としても理解できます。それで、イエス様が肉体的な視力回復の業を行えば、目撃した人たちは彼がイザヤ書の預言の実現と関係のある方だとわかったのです。イエス様が人間の霊的な目を見えるようにする奇跡の業は、十字架と復活の出来事を通して行いました。このことは後でまた述べます。

ところで、肉体的な視力回復の奇跡を目の当たりにしても、それがイザヤ書の預言の実現と関係があることを見えなくしてしまうことが起きてしまいました。それは、イエス様がこの奇跡の業を行ったのは安息日だったということでした。もし別の日に行っていれば、この方はイザヤ書の預言を実現する方だ!と拍手喝采になったかもしれないのに、わざわざ安息日に行ったがために、人々の注意は病気が治ったという奇跡には向けられなくなって、安息日を破ったということに向けられてしまいました。一体、イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?

実は、安息日を選んで奇跡の業を行う時、イエス様にはちゃんと目的があったのです。どんな目的かと言うと、安息日の守り方について教えるということです。十戒の第三の掟は、先ほどみたように、「安息日を心に留め聖別せよ」です。「聖別する」というのは、神聖なものにするという意味です。安息日を神聖なものにするとはどういうことか?天地創造の神が天と地とそこにあるもの全てを造り上げた時、七日目は創造の業から離れて休まれ、その日を祝福して神聖なものとした。だから神に造られた人間も同じように七日目を神聖なものとせよ、ということです。これが、当時のユダヤ教社会の考え方では、仕事をしないことが安息日を神聖なものにすることの中心になりました。ところが、イエス様の場合は、仕事をしないのなら、じゃ何をするか、ということについて教えます。以下、安息日の守り方についてのイエス様の教えを見ていきます。イエス様の教えを理解することは取りも直さず、安息日の掟を与えた父なるみ神のみ心を知ることにもなります。

 ここで、安息日に絡んだイエス様の行動とそれに伴う教えについて見ていきましょう。

 マルコ2章に(マタイ12章、ルカ6章も)、安息日にイエス様と弟子の一行が麦畑を通りかかった時、空腹を覚えていた弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めた出来事があります。穂を生のまま食べるのですから、飢えに近い相当な空腹だったと思われます。そこで、麦の穂を摘んだことが仕事をしたと見なされて、イエス様がファリサイ派の人たちから批判を受けます。これに対してイエス様は、かつてダビデ王が空腹を満たすために神殿の供え物のパンを食べて家来に分け与えたことに言及して、次のように述べます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(27~28節)。つまり、安息日は人間の益になるように神が定めたものである。従って、飢えや激しい空腹からの解放は禁止されている仕事にはあたらない、ということになり、それを安息日の主であるイエス様が確定したということであります。

 マルコ3章に(マタイ12章、ルカ6章も)、イエス様が安息日にユダヤ教の会堂で手の萎えた人を癒す奇跡の出来事があります。そこに集まっていた人たちは自分を訴える口実を得られる瞬間を待っているのだな、とわかったイエス様は次のように尋ねます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。誰も答えることができません。イエス様は癒しの奇跡を行います。恐らく同じ出来事について述べているマタイ12章では、イエス様が次のように述べたことも記録されています。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12節)。安息日には仕事をしてはならないが、善を行うこと、命を救うことは、してはならない仕事にはあたらない、ということです。

 ルカ14章に、イエス様が安息日に水腫の人を癒す奇跡の出来事があります。ここでも律法学者やファリサイ派の人たちが様子を窺っている。イエス様は言います。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3節)。誰も答えられないのを見て、イエス様は癒しの奇跡を行います。そして、最後のダメ押しとして付け加えます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。牛が井戸に落ちるというのは誇張が過ぎて、読んでいて思わず吹き出しそうになりますが、イエス様にしてみれば、それくらい当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいという様子がうかがえます。

 ルカ13章には、イエス様が安息日に会堂にて、18年間病の霊に取りつかれている女性に癒しの奇跡を行う出来事があります。安息日が破られたと解した会堂長は怒って言います。「働くべき日は六日あるのだから、病気のある人はその間に治してもらうべきだ。安息日はやめるべきだと。これに対してイエス様が反論します。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛れていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(15~17節)。「安息日であっても」という言い方ですと、本当はいけないのだが、そこは目をつぶって認めなさい、というニュアンスになります。ギリシャ語原文を素直に読むとニュアンスは異なり、単純に「安息日に束縛から解いてやるべきではなかったのか」となります。つまり、安息日こそが、サタンの束縛からの解放に相応しい日であるというのです。(英語NIV訳、ドイツ語ルター訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳も、素直な訳です。)

 まさにここで、安息日にしてもいい善い行い、つまり、病気の人を癒すこと、命が危険な状態にある人を救うことが、なぜ、禁止された仕事にあたらないかが明らかになります。いずれの場合も、束縛された状態や危険な状態からの解放という意味があります。安息日にそういう束縛の下にある人を解放することは、してはいけない仕事とはみなされない。むしろ、しなければならないことになる。それ以外の活動は七日目には休止して、心と体と魂を自分の造り主に向けなければならない。そこまではイエス様もユダヤ教社会の通念も同じでした。違いは、イエス様の場合、病気であれ、差し迫った命の危険であれ、人間の命を縛りつけるものからの解放ということを安息日に結びつけたことにあります。

イエス様は安息日であるかないかに関係なく、多くの人々に癒しの奇跡の業を行いました。病気だけではなく、悪霊、飢えなどからも人間を解放しました。しかしながら、イエス様が行った解放の業の中で最大かつ最重要のものは、人間の命を束縛している罪と死から人間を解放することでした。それはどのようにして行われたでしょうか?

人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られた良いものでした。それが、堕罪の出来事のゆえに全てが変わり果ててしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教はいつも、人間は罪びとだと強調するので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのです。

以前の説教でも教えたところですが、北欧のルター派教会では、罪というものを、「遺伝的に継承する罪」(arvsynd[スウェーデン語]、perisynti[フィンランド語])と「行為に現れる罪」(gärningssynd[ス語]、tekosynti[フィ語])の二つに考えます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と言うのは、「行為に現れる罪」で人を見ていることになります。しかし、真理は、「遺伝的に継承する罪」が土台にあるから「行為に現れる罪」も出てくるということです。行為に現れる罪を犯さなくても、人は遺伝的に継承する罪を背負っている。一体、人間の誰が、自分の思いと言葉と行いの全てを神の神聖な意思に100%沿うものにすることができるでしょうか?逆説的ですが、何も非の打ちどころがないように見える信仰深い敬虔な人ほど、自分の罪深さを自覚するものです。「遺伝的に継承する罪」があるから、赤ちゃんにも洗礼が必要になります。健気に可愛らしく眠っている赤ちゃんを見ると、この子が罪びとだとは誰も考えられないと思うでしょう。しかし、この世に生まれた以上は、赤ちゃんと言えども罪を背負っているのです。

罪が入り込んでしまったために死すべき存在となってしまった人間は、神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在です。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまいました。しかし神は、人間を見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は人間に永遠の命に至る扉を開きました。人間の方ですることと言えば、これらのことが自分のために行われたとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神との結びつきが回復した者となり、その結びつきの中でこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにとどまることができるようになったのです。

以上から、イエス様が人間にとてつもなく大きな解放をもたらしたことが明らかになりました。イエス様は、人間に死をもたらす罪の力を無力にして、死と罪と悪魔に対して完全な勝利を人間にもたらしました。イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきに生きる者は、このイエス様の勝利に与っているので、何も恐れる必要はありません。天と地と人間を造られた神は今日も、この救いと勝利を人間にどうぞと提供しているのです。あとは人間がそれを受け取るかどうかにかかっているのです。

 

4.解放なら安息日に

キリスト信仰者が安息日を神聖なものにするというのは、自分が受け取った救いと解放を全身全霊で確認することです。教会の日曜礼拝はまさにその確認の場です。皆様もお馴染みのように、礼拝は、会衆が神の御前で罪の告白をして赦しの宣言を受けることから始まります。神の御言葉を解き明かす説教を聞いて、既に受け取った救いと解放を深く心に刻みつけていきます。また、讃美歌を歌うことで、この救いと解放を与えて下さった神を賛美し、さらに、救いと解放を与えて下さった神を何よりも信頼して祈りを捧げ、思いを打ち明けます。そして、聖餐式では神との結びつきを強化します。人間の目には単なるぶどう酒とパンのひとかけらにすぎないものが、神の御言葉をかけられることで神聖なものにかわり、これを、イエス様こそ自分の救い主と信じる信仰を持って受け取る時、その人と神の結びつきは、神の目から見て強化されたものになります。このように、礼拝とは一度受け取った救いと解放を確認、強化して、私たちをまた一週間の歩みに送り出すところです。そして、一週間後また帰って来るところです。キリスト信仰者は、安息日に仕事をしないで何をしているかというと、このように救いと解放を確認・強化しているのです。

以上は、既に救いと解放を受け取ったキリスト信仰者について述べたものですが、イエス様が自分の救い主とわかり出しつつも、まだ洗礼を受けておらず、神が用意した罪の赦しの救いをまだ受け取っていない人たちにとっても、礼拝は大事です。信仰者にとって礼拝は既に受け取った救いと解放を確認する場なら、教会に繋がり出した人たちにとってそれは救いと解放の受け取りへと導かれる場だからです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、安息日の礼拝をこれからも大切にしていきましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(主日礼拝説教 四旬節第四主日)

説教「こんこんと湧き出る泉の水のように」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書4章5-42節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はヨハネ4章にある有名な「サマリアの女」の話です。イエス様とこの女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、それを飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、その水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われています。永遠に喉が渇くことはない、とか、心の中に泉が出来てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何がたとえられているのでしょうか?たとえの意味ははっきりわからなくとも、聞く人にとって何か心を奪うような美しい描写ではないかと思います。

本日の福音書の日課の後半にもたとえがあります。刈り入れ人と種まき人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて、麦畑が黄金色なのを見なさい、と言われます。刈り入れ人である弟子たちは、別の者が労苦した結果を刈り入れするのであるが、別の者の労苦を分かち合うことにもなる、と言っています。もし、このたとえを家の中とかではなく、外の、まさに黄金色の麦畑の前で聞かされたら、別の者の労苦が具体的に何を意味するかわからなくても、なるほど、その通りだと言う気持ちになるのではないでしょうか?

これらのたとえは具体的に何かを指していています。それを「生きた水」とか「他の者の苦労」というものにたとえて言っているのですが、それではその具体的なものとは一体何なのでしょうか?美しい表現にうっとりして、それではそれは何を意味しているのですか、などと聞かれると、はた、と困ってしまいます。聞いた時は、わかったような気がするのですが、いざ自分の言葉で説明しようとすると、わかったようなことがどこかにいってしまう。真にもどかしいです。たとえというものにはそういうことがよくあります。たとえは、物事を直観的に分からせる効果的な手法だからです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」を具体的な言葉にしてみましょう。せっかく、うっとりしたのに何だか興ざめだと思われるかもしれませんが、具体的な言葉にして後で、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなるのではないかと思います。

 

2.

 まず、本日の福音書の箇所の中で起きた出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行は、ユダヤ地方からガリラヤ地方に引き返します。マタイ、マルコ、ルカの三福音書では、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後はガリラヤ地方に行き、そこを中心にして活動し、最後にエルサレムに向かう、という展開になっています。ヨハネ福音書ではイエス様は最後のエルサレム行きの前にも何度か往復されていて、三福音書には取り上げられないユダヤ地方訪問の記録が収録されています。

さて、イエス様一行は途中で、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる部分でした。それが、イエス様の時代から700年以上前の昔、東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連れて行かれ、逆にサマリア地方には東から異民族が強制移住させられて来ました。それで、同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいます。旧約聖書の一部は用いていましたが、本日の福音書の箇所の中でも言われているように、エルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族が自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負して、サマリア人を見下して、交流を避けてきたことは良くわかります。本日の箇所のサマリア人の女性の発言からも、そのことがよく伺えます。

イエス様一行は、サマリア地方にあるシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統に基づき(創世記48章22節、ヨシュア記24章32節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と考えていました。

さて、イエス様の弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、「旅に疲れた」イエス様は井戸のそばで座っていました。「疲れた」などと、イエス様が神と同質な方に似つかわしくない状態にあったのは、これは神のひとり子がこの世に送られた時、乙女マリアという人間の母から人間として生まれたことによります。神と同質ですから、罪を持つことも犯すこともない神聖な方です。しかし、人間として生まれたことで、疲れた時は疲れ、空腹な時は食べ、悲しい時は泣き、喉が渇けば渇き、痛み苦しい時は痛み苦しんだのです。こうしたことは全て福音書の中で言われています。まさに人間として生まれたことで、神が人間の痛みや苦しみを自分のものとして受けられたのです。「ヘブライ人への手紙」4章の中にイエス様について、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と述べられていますが、これは真理です。

さて、イエス様が一人で休んでいると、サマリア人の女性が井戸に水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろ。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのように、女性がやってきました。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は、なぜサマリア人と交流を避けるユダヤ人が自分に水を求めるのか、と驚きます。そこから二人の対話が始まります。そのやりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来る者であると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水のように考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、かつて5人夫がいたお前が今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解である、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

そこで、女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。全てのことに驚いた女性は、シカルの町の人々にイエス様のことを知らせに走り去っていきました。もう人目を避ける境遇にあることなど眼中にありませんでした。それほど驚き、人々に知らせないではいられなかったのです。ただし、女性がメシアという言葉を、本当にイエス様が自分で理解していた意味と同じ意味で理解していたかは定かでありません。というのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きる前は、ユダヤ人の間でさえメシアという言葉は使う人によっていろいろな意味を持っていたからでした。その辺の事情は本説教では深入りしません。ただ、本日の箇所の最後のところで、町の人々が二日間イエス様の教えを集中的に聞いた後、彼のことを「この世の救い主」(42節)と信じたと言うのは、注目に値します。

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに、食べ物を買ってきた弟子たちが戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の御心を行い、その業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに話を続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」ということについて述べていることを注釈しておきます。イエス様は、「お前たちは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているが、畑を見よ、もう色づいているではないか」と言われます。これは少し変ですね。というのは、刈り入れまで4カ月あるのに、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?これは、ギリシャ語の原文をどう理解するかによります。一つの訳仕方としては、新共同訳と異なり、「麦は種を蒔いてから刈り入れまで4カ月かかるものである」という意味にとることが可能です(フィンランド語訳の聖書はそうです。ただし、英語NIV、スウェーデン語、ドイツ語ルター版は新共同訳と同じ)。地中海地域でしたら春小麦はそれ位でできますので、イエス様は当たり前のことを述べていることになります。種は蒔いた後、一定期間したら刈り入れの時が来るものだ、ということです。

ところが、新共同訳ですと、刈り入れまでまだ4カ月あると言っているのに、なんとシカルの麦畑はもう実っている、ということになります。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?実は、イエス様が目を上げて見よ、と言っているのは、まだ茎も伸びていない畑ではないのです。イエス様は何かを現実にはない黄金色の畑にたとえていることになります。それは何でしょうか?イエス様は、目を上げて見なさい、と言います。井戸があるところよりも高い所にあるシカルの町の方を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るのが目に入ります。サマリア人の女性が、預言者かメシアかわからないが、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たということで、将来起こるべきことを先取りしていることがある。つまり使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出る、ということの先取りがここにあるのです。目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる、後には聖書の御言葉を通して信じるようになる、このようにしてイエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ豊かな実にたとえられているのです。

イエス様を救い主と信じる人を豊かな実と考えれば、実は最初の訳仕方でも問題ありません。というのは、目を上げて見なさい、と言われる時、視野に入ってくるのは、目の前の色づいた麦畑と町の方からやってくる大勢の人たちの両方になるからです。この方が、たとえで言われる直接的な描写と隠された意味の両方が一緒に揃うので、一層効果的と言えます。

いずれにしても、町の人たちは請うてイエス様に滞在してもらい、2日間に渡って教えを聞いて、彼のことを「この世の救い主」と信じるようになります。長くなりましたが、以上が本日の福音書の箇所の出来事の流れです。

 

3.

さて、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと言うと、水が動植物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので「生きている」という意味になり、文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語スウェーデン語のものですが、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」という言葉を使う時はたいてい特別な意味が込められています。何かと言うと、「生きる」とか「命」は今の世にあるものの他に、今の次に来る世のものもあって、それらを全部ひっくるめた「生きる」、「命」になります。それで、「生きている水」とは飲む人を永遠の命に至らせる水ということで、まさに「永遠の命を与える水」ということになります。

 この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉となって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。泉とは、地下水が地表に沁み出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まって池のようになったりしますが、それは泉とは言えないでしょう。掘らないで自然のままで地下水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、水は溢れ出るしかなく小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を頂くと、そのような水が絶えず湧き出る泉が心の中に出来て、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。命の根源にかかわるようなことを予感させます。でも、これは一体どういうことでしょうか? イエス様が与える水が死を超えた永遠の命に導いていく、つまり、私たちの命をこの世で生きるものだけに留めず、この世での命と次の世での命を合わせた両方にまたがるものにして、その間ずっと私たちの内にこんこんと湧き出て流れ続ける水。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

 ここで一つ注意したいことは、この水はイエス様が与えるもので、一度心に泉が出来たら、あとは水が勝手に溢れ出て行くということです。人間はただ、与えられたものを受け取るだけ、後は溢れ出て流れ出ていくにまかせるだけという受け身な存在です。永遠の命に与れるために人間はただ受け取るだけでいいというのは、キリスト信仰そのものを言い表しています。信仰というものが、与えられるものを受け取るだけでいいというのは、違和感が持たれるかもしれません。一般には宗教というのは、何か定められた掟や規定をしっかり守ることをしたり、何か奇跡を行ったりしたら強い信仰、出来なければ弱い信仰ということになると思いますが、その場合、信仰とは人間の方で頑張らないと理想の状態に到達できないということでしょう。それなのに、キリスト信仰では、まず受け取ることに専念せよ、というのはなんだか物足りない感じがするかも知れません。

キリスト信仰の場合は、人間が永遠の命に与れるために何かをしなければならないのは人間の方ではなく、イエス様が既にして下さったのです。そこが全ての出発点になります。イエス様が人間をこの出発点に立たせてくれたのは、それは人間には不可能だったからです。それでは、どのようにして出発点に立たせて下さったかと言うと、それは、人間が永遠の命に与れない障害となっていた罪の問題を解決してくれたことでした。人間は、自分の造り主である神に対して不従順になって罪を宿すようになってしまった堕罪の時に神との結びつきを失い、永遠の命から切り離されて、死ぬ存在となってしまいました。天地と人間の造り主である神は、この状態を直そうと、ひとり子のイエス様をこの世に送られ、人間の罪を全てイエス様に背負わせ、罪の罰を全て彼に請け負わせて十字架の上で死なせました。つまり、イエス様の犠牲の死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神の目に適う者とされ、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩めるようになりました。万が一この世から死んでも、その時は神が御手を差し出して御許に引き戻してくれて、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

このように、神がひとり子イエス様を用いて成し遂げたことが自分に対して行われたとわかってそう信じ、イエス様こそ救い主とわかってそう信じれば、永遠の命に与れるのです。まさに、信じることが永遠の命に至らせることになるのです。それで、イエス様が与える「永遠の命を与える水」というのは、こうしたことを信じる信仰ということになります。キリスト信仰にとって信仰とは何かと問われたら、それは、父なるみ神がひとり子イエス様と一緒に人間の救いを成し遂げたということだ、というのが答えになります。父とみ子は、全てのことは整えたので、どうぞ受け取りなさい、と言って差し出してくれている。それを、はい、ありがとうございます、と言って受け取れば、それが私たちの信仰になって、私たちの内に永遠の命に向かって溢れ流れ出る水の源が生まれるのです。

イエス様は、自分にとって食べ物とは神の御心を行い、神の御業を成し遂げることだと言っていますが、これも「水」の場合と同じように、「食べ物」が何か永遠の命に導くものを意味しています。神の御心を行い、神の御業を成し遂げるというのは、神のひとり子が十字架の死をもって人間に代わって罪を償い、復活させられることで死と死をもたらす罪を滅ぼして、人間を罪の支配下から贖いだすことです。まさに、人間を永遠の命に与らせる御業です。

 刈り入れ人と種まき人のところで、「別の者たちの労苦」と言われます。「別の者たち」と複数形になっていますが、これは、み子イエス様と父なるみ神が人間の罪の償いと罪の支配からの贖いの業を成し遂げたことを指しています。弟子たちは、自分たちが見聞きしたことを命をかけて証言し、記録に残し伝えることをし、その結果、多くの人たちが、神がイエス様を用いて成し遂げた救いを受け取ることが出来るようになりました。受け取った人は豊かに実る実となりました。

 

4.

 兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しの救いを受け取った私たちの内にはこんこんと水が湧き出る泉があることを忘れないようにしましょう。日々聖書の御言葉を繙き、自問し、神に祈り全てを打ち明けることは大事です。そうしないと、泉は見失われ、小川のせせらぎは聞こえなくなります。この世には、泉のあることを忘れさせたり、そんなものはないと思わせるものに満ちています。特に試練や苦難や誘惑に遭う時などはそうです。しかし、そんなのは単なる思わせにしかすぎません。本当のことではありません。せせらぎの音は雑音にかき消されることはあっても、せせらぎの音自体は消えたことにはなりません。いつもゴルゴタの十字架の主に思いを馳せ、心の目をそこに向けましょう。そうすれば、泉は相変わらず水を湧き出させていることに気づくでしょう。心の耳にせせらぎの音が響いて来るでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン