説教「アブラハムの信仰と私たちの時代」神学博士 吉村博明 宣教師、創世記12章1-8節、ローマ4章1-12節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の旧約聖書と使徒書の日課はアブラハムについて述べています。アブラハムはいつの時代の人かと言うと、これはイエス様の時代と比べて歴史的な確定が困難です。イエス様の時代は、福音書の中に名前が出て来るローマ帝国の皇帝や総督、また当時のパレスチナの地の為政者などから、今から2000年くらい前のこととわかります。ところがアブラハムの場合は、エジプトの国王が登場しますが(12章後半)名前が記されておらず、歴史的に照らし合わせられる手がかりが少なく、正確な時代の確定は困難です。イエス様の時代からさらに約2000年位さかのぼった頃という説が一般的です。つまり、私たちの時代から4000年くらい昔の人ということになります。本日の旧約の日課は、アブラハムが神の召命を受けて、ハランという所からカナンの地に移住する出来事についてです。ハランは、地図でみると、現在のトルコとシリアの国境沿いのトルコ側にあります。カナンの地とは現在のイスラエルあたり、神がアブラハムの子孫に与えると約束した地です(12章7節)。

さて、アブラハムが神から召命を受けてハランを旅立ったのは75歳の時でした。彼は175歳で死ぬので(25章7~8節)、100年間天地創造の神との関わりの中で生きることになります。皆さんは、アブラハムの100年にわたる信仰の生涯について、どんなことを思い出しますか?創世記の11章から25章に彼の信仰の生涯について記されています。沢山の出来事があります。恐らく聖書の読者の多くがよく覚えている出来事として一番のものは、高齢にしてやっと授かった、愛する息子のイサクを生け贄として捧げよ、と天地創造の神から命じられてしまったことではないでしょうか?神が与えた賜物と賜物を与えた神のどちらを重んじているのか示してみよ、と試されてしまったのです。アブラハムが陥った窮地は、私たちの想像を超える仕方で解決が与えられます。これ以外にも、神との結びつきの中で生きるアブラハムにいろんな事が起こったことが記されています。ハランを出発して、まさに波乱に満ちた人生に歩み出したと言えます。しかし、それは神からの祝福に満ちた人生でした。

アブラハムに関することで、二つほど、その後の世界の歴史にとって重要な意味を持つことがあります。一つは、創世記17章にありますが、天地創造の神と同盟関係を結ぶ時、割礼という儀式を行うことが条件になりました。割礼を施されて、天地創造の神と同盟関係に入る、これでユダヤ民族という一つの民族が誕生することになりました。もう一つの重要な意味を持つことは、本日の使徒書の日課で言われるように、使徒パウロがアブラハムの信仰の中にまさに信仰の真髄を発見したことがあります。この発見がもとで、キリスト信仰がユダヤ教のみならず、他の宗教と比べても違いが際立つ宗教になったと言っても過言ではありません。本日の説教では、このことを見ていこうと思います。

その前に、今の時代を生きている私たちにとってアブラハムの信仰がどんな意味を持つのか、少しでもわかるために、今のこの時代がどんな時代であるかを少し考えてみたく思います。最近では、真実とか事実というものは、本当に真実か事実かが問題ではなく、多くの人に受け入れられたり、支持されれば真実、事実になる、という風潮があります。何かの目的の達成のために役立つことを真実、事実にするという風潮があります。アフター・トゥルースとかオールタナティヴ・ファクトなどと言う言葉はそうした風潮を反映しているのでしょう。本当に何を信じたらいいのか途方にくれてしまう、わけのわからない時代になってしまったと思います。時代がわけのわからないものであればあるほど、少なくとも自分自身に関してはわけのわかるようにしよう、それをしてから、わけのわからない時代に立ち向かっていこう、そう考える人にとっては、やはり聖書は繙くに値する書物ではないかと思います。こういう時代だからこそ、聖書やキリスト信仰には一層意味があるのではないかと思います。

 そういうと、世界には多くの宗教があるのに、なぜキリスト教だけなのか、キリスト教は唯一の真理を代表すると気取っていると言われてしまうかもしれません。でも、聖書という書物は、イエス様の十字架と復活の出来事の後に成立した新約聖書の部分が出来てから2000年近く経ちますが、その間ずっと、それぞれの時代の中で生きた人間に時代に向き合う手がかりを与えてきたことは否定できません。聖書ですので、もちろん唯一の創造主という、私たち一人一人を造って私たちに命と人生を与えた神が中心にあります。そしてその神と自分との関係はどうなっているのかということを考えさせます。つまり、この私を造られ、私について何かを期待し、何かを計画している、そういう方がおられる。同時に、今のこの時代を生きている私は、いろんな問いを持っている。そうした問いにキリスト信仰は、すっきりと答えを与えるかもしれません。しかし、どちらかというと、人間を現実と理想の狭間において、悩ませることの方が多いかもしれません。でも、狭間に置かれることで、かえってそれまで見えなかったいろんなものが見えてくるということになるのではないでしょうか?

 もちろん、創造主と自分との関係など持ち出さないで、純粋に哲学的に無神論的に、自分とは何か、自分が向き合っている世界や時代は何か、考えることも可能です。ただ、哲学の場合は、思考はこの世止まりで、この世の範囲内で考え、答えを見出そうとします。キリスト信仰の場合は、この世の次に来る世があって、その2つの世を合わせた全体から今の世を見下ろして答えを見出そうとします。さらに、キリスト信仰の立場で言わせてもらえれば、旧約聖書に新約聖書が加えられた時から数えて2000年位の蓄積があって、それをもとに時代に立ち向かっていけば、その蓄積は吟味されて、さらに深く、豊かにされていきます。キリスト信仰をもって時代に立ち向かうというのは、この、蓄積を吟味し、それをさらに深く豊かにするという、そういうプロセスに参加することだと言えるでしょう。このプロセスに参加することを通して、自分自身を深く豊かにすることになると思います。

以上、今の時代にあって、キリスト信仰を持って生きることにはどんな意味があるかについて序論的なことを述べてみました。本日は、そのキリスト信仰にとって大きな意味を持つ、アブラハムの信仰について見てみます。アブラハムの信仰は、キリスト信仰の蓄積の中の大きな部分を占めるものです。ただし、本日は創世記の11章から25章まで全部は見れないので、アブラハムの信仰の序説くらいに考えてお聞き下さればと思います。

 

2.神は信じない者を呼びだして信じるようにする

 本日の旧約の日課の創世記12章初めは、当時アブラムという名前のアブラハムが、神の命を受けて、ハランからカナンの地に移住するところです。名前がアブラムからアブラハムに変わったのは、17章のところで神が、お前を多くの国民の父にするので、これからはアブラハムと名乗りなさい、と言ったことによります(5節)。アブラハムとは、ヘブライ語の単語の合成で「国民の多いことの父」という意味を表わします。まさに「多くの国民の父」です。

さて、アブラハムはハランからカナンの地へ移住しましたが、実は、アブラハムはハランの出身ではありません。創世記11章をみると、もともとアブラハムは父のテラと兄弟たちとともにカルデアのウルに住んでいました。カルデアとはバビロンのことです。つまり、アブラハムとテラたちは、今のイラクであるバビロンからユーフラテス川沿いに遡って、今のトルコ・シリア国境付近のハランに移り、そこで「私が示す地に行きなさい」という神の命令に従って、妻サライ(後のサラ)、甥のロト、ハランで得た従者や財産を携えて、カナンの地に移住をしたのでした。

 ここで、ひとつ、あまり知られていないかもしれませんが、アブラハムの経歴の中で驚くべきことがあります。それは、ヨシュア記24章2―3節の中でヨシュアが民に神の言葉を伝えている場面がありますが、そこで次のような神の言葉があります。「あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。しかし、わたしはあなたたちの先祖アブラハムを川向うから連れ出してカナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えた。」

つまり、アブラハムは神の命令を受けるまでは、バビロンの地、ハランの地で他の神々を拝んでいたのです。それが、神の命令を受けて、神に従う人生を始め、死ぬまで神に聞き従う者として生き抜いて、イスラエルの民の元祖になったのです。そんなアブラハムが神の命令を受ける前は異教の神々を拝んでいたというのは驚きです。

 「他の神々」というものがいつ頃から出て来るようになったのか、ということをちょっと考えてみました。ノアの時代の大洪水の後で、人間はまた増えだし、諸民族に分かれていき、世界中に広がって行きました。ただ、当時人間はまだ共通の言語を持っていました。そこで人々は、バビロンの地に集まって来て、そこに町と天にとどく塔を作り始めました。神は人間が自分と張り合おうとする性向を良しとせず、この建設をやめさせるために、人間が神に張り合おうと共謀できないようにしてしまおうと、神は人間の言葉を「混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないように」しました(11章7節)。つまり、人間の言葉を共通のものでなくする、言語をバラバラにするということです。ひょっとしたら、言語がバラバラになって、人間が各地に散らされて、それぞれの場所でそれぞれの言葉を使って生活するようになったことが、いろいろな神々の崇拝を生み出すことになったのではないかと考えることができます。ノアの子孫であるアブラハムの家系も、散らされた場所で、天地創造の神とは違う神々を崇拝するようになっていったのでしょう。

 しかし、聖書の立場に立てば、人間はみな天地創造の神に創造された者です。世界各地に散らされて、自分たちの言語を使って生活しているとは言っても、人間には創造主の神について何か遠い追憶のようなものがあることになります。「コヘレトの手紙」3章11節には次のような言葉があります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」。つまり、人間は造り主の神から「永遠を思う心を与えられている」のです。(実は、昨年の新年礼拝で私はこの聖句をもとに説教をしたのですが、ヘブライ語の原語の正確な意味は、「神は永遠というものを人の心に与えられた。それなしでは、人は神のなさる業を発見すること不可能である。しかし、与えられたので可能なのだ

ではないかと申し上げました。まだ専門家に聞いて確認していません。)、

使徒パウロは、アテネの丘の上の大集会場にて居並ぶギリシャの知識人を前にしてキリスト信仰を証しした時、人間には神を捜し求めようとする心があって、それぞれの民族は「手探りするように

(ψηλαφαςω)神を捜していると述べています(使徒言行録17章27節のギリシャ語の関係する文の訳は「もし手探りして見いだすことができるのであればいいのだが」という意味になると思います)。さらにパウロはローマ2章の中で、ユダヤ民族と異なって十戒をはじめとする律法を持たない異邦人も、律法の命じることを自然に行えるということを述べています。例えば、十戒を持っていなくても、盗む、殺す、姦淫する、偽証する等のことは、悪い事だとわかり、それをしないようにしたり、また犯した者を罰したりする、それは異邦人の心の中に律法の要求することが心に記されているからだ、と述べています。人間を造られた神は十戒を与えた方ですので、どんなに離れたところにいる民族でも善悪の基準はお互いそうかけ離れたものではないのではないでしょうか?

しかしながら、同じ天地創造の神に造られた人間はみな、言葉や文化の違いから現実にはいろんな神々を崇拝しているにしても、心の奥底にはみんな同じ希望を持っている、などといくら言っても、そこには魂の救いはありません。パウロがローマ3章で述べるように、全ての人間は十戒や律法を手に渡されていようが、心にそれらしきものを記されていようが、全ての人間は十戒や律法に盛られた神の意思を完全に実現できないということで、みな神に背を向けてしまっている存在なのだ、神の御心に反抗し、神聖な神に対して罪の汚れを持つ存在、それで神の裁きの下に置かれている存在なのだ、これが人間の真実なのだ、と教えます。人間の真実について、きれいごと、まやかしはいわない。これが聖書の立場です。それでは、人間は神の目に適う者になれないのでしょうか?神の裁きの下に置かれたままなのでしょうか?

この問題を解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送ったわけですが、そのことを見る前に、アブラハムはどのようにして異教の神々から天地創造の神に聞き従えたのか、ということについて私が考えたことを述べておこうと思います。もちろんアブラハムにも、天地創造の神への追憶はあったでしょう。しかし、その神を知る手がかりがありません。そこへ、神自らが声をかけて呼び出したのです。呼び出した神が異教の神々よりも信じるに値すると思った要因ですが、異教の神々が単なる偶像であれば、これはもう明白なことです。イザヤ書47章に、偶像というのは人間に背負ってもらって据えつけられて立つことはできるが、そこからは自分で動くことは出来ない、助けを求めて叫んでも答えてくれない、悩みから救ってもくれない、と言われています。それまで拝んできた神々が無口だったのに対して、突然、語りかける神が近づいてきたのです。その神は、天と地と人間を造られ、人間一人一人に人生と命を与え、さらに堕罪の時に失われた自分と人間との結びつきをいつか取り戻してあげようと決めておられた神だったのです。

 

3.人間は神の力で義とされると信じて義とされる

 

アブラハムの信仰で、キリスト信仰にとってとても大事なことが、本日の使徒書の日課ローマ4章3節に述べられています。パウロが創世記15章6節を引用して述べているところです。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」。いわゆる、信仰によって神から義と認められる、ということです。このことについて見ていきます。

この創世記15章6節は、その前後を合わせて見るともっとよくわかります。それは、「アブラハムは、高齢であるにもかかわらず自分と妻のサラの間に子供が授けられて、多くの子孫を得ることになるという神が約束したことを信じた。その信じたことが、彼の義として認められた」ということです。不可能と思える状況の中、理性で考えて起こりえないことを、神はすると約束した、神が約束したことだからと疑わずに信じた。それがもとで、アブラハムは義を有すると神に認められたということです。

 そこで義というのは、これは、神の意思が完全に実現された状態を意味します。まず、神は義そのものの方です。人間はと言うと、これは神聖な神と正反対な、罪を持つ、神の意思に反する存在です。義がない存在です。どうしてそうなってしまったかと言うと、堕罪の時に神に対して不従順になって罪が人間の内に入り込んでしまったからです。その結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。死ぬということが、人間は罪を内に持っていることの証拠なのです。そこで、もし人間が義を持てるようになれば、人間は神の目に相応しい者となって、堕罪の時に失ってしまった神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を天地創造の神との結びつきを持って生きられるというのは、順境の時も逆境の時も絶えず神から見守られて、良い導きと助けを得られるということです。万が一この世から死ぬことになっても、神との結びつきがあれば、神が御手を差し出して、御許に導いて下さいます。そして、永遠に自分の造り主の御許に戻ることができるようになります。

そのように人間が義を持てるためには、自分の内にある罪を取り除かなければなりません。神は人間に十戒をはじめとする律法を与えましたが、人間はそこに示される神の意思に沿うようにしっかり生きなければなりません。ところが、それは思うようにうまくいきません。なぜなら、パウロが教えるように、律法というのは本質的に実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないものだからです。なぜなら律法によっては、罪の自覚しか生じないからです(ローマ3章20節)。このように、律法や十戒を守って神の目に相応しい者になろうという義の取得の仕方は、破たんしているのです。これが人間の現実である、というのが聖書の立場です。

 では、どうしたら良いのか?そこで神は人間に代わって解決を図って下さいました。ひとり子イエス様をこの世に送って、彼に人間の全ての罪の罰を請け負わせて、十字架の上で死なせて、この犠牲の死に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。本日の福音書の箇所でイエス様は、自分は多くの人たちの身代金としてきた、と述べていますが、それはまさに、自分は人間を罪の呪縛から解放するための身代金になる、自分の命を代価にする、ということでした。先ほども述べたように、人間は、死ぬということが罪の支配下にあることを示しています。詩篇49篇に「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(8~9節)と言われます。この贖い、買い戻しをしてくれたのがイエス様でした。その代価は、神のひとり子が十字架で流した血だったのです。イエス様の犠牲とは、まさに人間に代わってなされた罪の償いでした。これで人間の罪が赦される道が開かれました。加えて、イエス様の犠牲によって、人間は罪の支配下から神のもとに買い戻されて、罪の支配から解放されたのです。

 罪が赦されるというのは、神が不問にする、なかったことにする、それで、もうお前を裁きのもとに置かない、だからお前は神のひとり子の犠牲のおかげで裁きを免れた者として、新しくやり直しなさい、ということです。不問にする、なかったことにする、というのは、罪が消え去らないで残ることですが、それでも裁きはないと言われているので、罪は消え去ったのと同じ状態にあります。そこで、人間の方が、ああ、あの2000年前の十字架の出来事は今を生きる自分のためにもなされたんだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、以上のような神からの罪の赦しがその人に効力を持ち、神は過去の罪を不問にするとおっしゃって下さり、その人は、神に対する感謝の気持ちから、これからは罪を犯さないようにしよう、罪の思いを持たないようにしよう、という心を持って生き始めます。

そうではなくて、もし、まず神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、それをもって神から義と認めてもらおう、というのは、律法を守って義を得ようとすることになって、それは不可能です。キリスト信仰は逆です。イエス様を救い主と信じる信仰によって神に義と認められます。最初に義としてもらって、そのことに感謝して、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、というふうになっていきます。

 

4.アブラハムの信仰と私たち

 以上みてきましたように、アブラハムが、理性では不可能と思える中で、神の約束の言葉を信じたことが、彼の義として認められました。信じたことで義として認められるということは、キリスト信仰にあてはまります。それでは、アブラハムが自分で聞いた神の言葉と同じ言葉を私たちも聞くことができるでしょうか?それを聞いて信じて、義とされるような言葉は私たちにあるでしょうか?それがあるのです。私たちにとって神の言葉は、聖書のみ言葉です。神は、罪に陥った人間をいつか、神聖な自分の前に立たせても大丈夫な清いものに治してあげようと、それを実現するためにひとり子をこの世に送られた。人間全ての罪を神のひとり子の一回限りの犠牲の死で帳消しにするという、それ位、神聖で重々しい犠牲を彼に強いて、彼はそれを受けて立った。さらに、一度死んだイエス様を復活させることで、神は死を超える永遠の命があることを示し、その扉を人間のために開かれました。これら全ての、理性では受け入れられない、収まりきれない、神の愛と恵みを信じること。これらのことは書いてある通りに起こったのだし、それは自分のために起こったのだ、神は自分のひとり子を犠牲にするくらいに自分のことを愛してくれている、そうわかって、神はまことにイエス様を人としてこの世に送られた、そのイエス様は私の救い主です、と信じれば、もう義と認められるのです。神の目に相応しいものとされるのです。神の目に相応しい者としてもらったからには、神の意思に沿うように生きることが当然のことになります。うまくいかない時があっても、その時は神の御前に出て、イエス様を救い主と信じます、と赦しを願いば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す。もう罪を犯さないように、と言ってもらえるのです。キリスト信仰者とは、いつの時代にもどんな状況に置かれても、これを繰り返しながら人生を歩む者です。

 兄弟姉妹の皆さん、このように私たちは信じることで神から義と認めてもらえます。それで私たちもアブラハムと全く同じ祝福を受けられるのです。アブラハムは75歳からこの世を去るまで100年間、天地創造の神を信じて歩みました。その信仰の人生は波乱に富んでいましたが、いつも神からの祝福に満ちた人生でした。私たちの場合は100年はないかもしれませんが、それでも神に祝福された人生を歩めるということに変わりはありません。そのことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

説教:木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章10~17節

第3回 コリントの信徒への手紙Ⅰ    1章10~17節 

今日の礼拝の聖書は、コリント信徒への手紙Ⅰ1章10~17節です。パウロの手紙の自己紹介と挨拶は終わりました。さて、コリントの教会に対して手紙を書くにあたって、パウロはさしあたって気になることから書き始めました。その「さしあたって気になること」というのは 何だったのでしょうか。

12節を見ますと彼はクロエ家の者たちからコリントの教会の中に争いがある、と聞かされておりました。それがさしあたっての問題であったわけです。しかし、余り名誉にもならない争いごとまで聖書に書いてるというのはどうかと思いますが、パウロにとっては手がかりとして意味のあることでしょう。

ピリピ人の手紙でも教会の中に不和があり争いがあることが記されています。いずれも、まだ伝道が始まって浅い教会です。それがこういう問題を抱えているというのは、どういうことでありましょう。

若い教会であるため十分な訓練がないためでありましょうか。それとも教会は信仰を主張するためにそういうことになるのでありましょうか。それでパウロはどういうふうに書いているか、まず10節から12節まで見てみましょう。

 〔さて、兄弟たち私たちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして固く結び合いなさい。私の兄弟たち、実はあなた方の間に争いがあるとクロエの家の人たちから知らされました。あなた方はめいめい「わたしはアポロにつく」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。〕

パウロは、ここでまず勧告します、と言って「心を一つにして固く結び合いなさい」と言っています。

教会での、すべての人々の願いは一つになることでしょう。「一つと言うこと」はそう間単に言えることではありません。少なくとも紛争のない事であります。それぞれが賜物を受けながら争わないことでありましょう。そのためには同じ心、同じ思いになって固く結びついてほしいと申します。ここのところをルターの訳によれば、一つの声、一つの思い、一つの考えということになります。声を一つにして、ということは人々の願いをあらわすばかりでなく礼拝における信仰告白をよく示しているのではないでしょうか。信仰告白という字は一つのことを言うということであります。それはキリストをどう信じるかということについて同じ内容のことを、できれば一つの声で言うことであります。なぜならキリストに対する信仰は一つしかないはずであります。しかし人間の愚かさの深さのゆえに、いつもそうは行かないのであります。

それならば、せめて一つの教会の中ではっきりと一つの声を持って神を礼拝することができるようになりたい、とパウロは言うのであります。それなら教会の中の争いはどこから出るのでしょうか。いろいろな原因があると思います。多くの人が集まっているのですからずいぶん人間的な理由もあると思います。つまらないことが争いのもとになることもしばしばあります。それならコリントの教会では何が争いの原因になったでありましょう。この教会が誰によって始められたか、どういう事情によるものか、というとでしょう。パウロをはじめ何人かの伝道者たちの直接あるいは間接の影響が合ったらしいのであります。クロエの家の者たちの報告によればここには四つの派があったと言われます、パウロはそう書いていますね。

第一はパウロ派であります。自分はパウロにつく、と何かと言うとそう言う。これは自然なことであったでしょう分かりやすいことです。パウロはこの教会の伝道を始めた人であったのであります。使徒言行録18章1~4節を見ますとパウロは2度目の伝道旅行の時アテネからコリントへ行きました。使徒言行録でもわかりますように、そこでアクラとプリスキラというユダヤ派の信者夫婦に会いました。彼らは同業の天幕作りをしながら安息日毎にユダヤ人の会堂に入り伝導したのでしょう。恐らくこれがコリント伝道の始めでありましょう。パウロはそこに一年半ほど腰を据え神の言を教え続けたと言われます、こういう事情でありましたからパウロを慕う人は少なくなかったでありましょう。パウロの信仰によって多くの人は養われたに違いないのであります。これらの人々が自分たちはパウロにつく、と言ったのでありましょうか。

第二にアポロにつく、と言う人々がありました。アポロは何者? と言いたい人ですが使徒言行録によれば18章24~19章1節にありますが彼はエペソで長く伝道しコリントにも転じて聖書を教えたのですあります。アポロはアレキサンドリア生まれのユダヤ人で旧約聖書に精通しておりました。

アレキサンドリアという町は北アフリカの地中海沿岸にあります。アレキサンダー大王の名をとった町で彼が持ってきたギリシャ文化とユダヤ文化とが接触したところとして有名でありました。旧約聖書がギリシャ語に訳されたのもこの町でありました。その聖書は始めの頃の教会の聖書として用いれられたものであります。従って教会の歴史の始めの頃にはここには独特の神学が生まれ多くの優れた神学者も出たのであります。アポロはこういう町で育ち教育を受けました。従って彼は教養豊かな立派な説教者でありました。使徒言行録18章24節を見ても分かります、恐らく当時の修辞学などを中心に良い教養を身につけていたのでありましょう。このような伝道者が人を引き付けないわけがありません。その雄弁のゆえに、また優れた教養のゆえに彼の説く福音は魅力にあふれたものであったでしょう。従ってアポロ派が出来たのも不思議はなかったと思います。

第三はケファ派であります。ケファというのはペテロのことであります。ペテロはある意味ではアポロと正反対の人であります。彼はガリラヤの漁師出身であります、当然教養などというものは凡そ縁遠い人であります。しかしアポロと違って彼はエレサレム教会の最も重要な人になりました。アポロはアレキサンドリアという大都市の出身でありますがキリスト教会の立場からすればその町はまだ中心ではありません。しかしエレサレムはキリスト教の発祥の地であり伝統の町でありました。従ってペテロは、あるいは語るきことは疎いとしてもその権威の中心に人々を引き付けたでありましょう。いわば本山を代表する、ということであったかも知れません。その他に漁師出身の素朴さも魅力であったでしょう。こうしてペテロ派があっても少しも不思議ではありません。

 第四にわたしはキリストにつくという人々があった、と書いてあります。これは昔から読む人々を困惑させるのであります。なぜならパウロ派もアポロ派もケファ派もみなキリストを信じていることには違いないからであります。それなのになぜこの人々が自分たちはキリスト派と言うのでしょうか。もしかしたらこれはこの人々はパウロとかアポロとかケファと言った人間の教師を尊敬することが正しくないと思ったのかもしれません。それに対して我々に大切なことはキリストだけである、ということは最もなことであります。パウロは後にコリント人へも手紙で「キリストに属する者」ということを言っています。この人々はあるいは特別なキリスト経験を持っていたとも言えるかもしれません。

 さてこういう派閥があることは困ったことであります。そのような間違いが起こる、まことの原因は何でしょうそれを知ることが大事であります。それはやはりキリストのことであります、それには二つのことがあります。パウロが言うようにキリストは分けられるべきものであるかという第一のこと、私たちはキリストを信じて信仰生活をしているのであります。それならば信仰はキリストによって決まるのであります。そのキリストは一人なのであります、キリストは分けられるべきものではありません。誰によって教えられても一人のキリストを信じるというのであれば、そういう派閥のようなことは出来ないはずではないかというのであります。人間の愚かさのゆえに我々はいつもキリストを同じように信じることは出来ないようであります。そうは言っても一人のキリストを信じなければならないことは間違いのない事であります。そのことついてパウロはもう一つの理由をあげます。それは「パウロはあなた方のために十字架につけられたことがあるか」ということであります。一人のキリストを信じているはずではないか。それは誰が我々のために十字架についてくれたというこであります。大切なことは我々の救いのために十字架にかかって死んでくれるのは誰かということであります。それを考えればキリストにおいてとか、パウロとかアポロとか言うことは考えられないということが分かるのではないかと言っているのです。

17節を見ますとこうあります。「いったいキリストが私を遣わしたのはバプテスマを授けるためではなく福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためである」パウロがこのように言っているのは自分がバプテスマを授けたことが分派の原因になっていやしないかと恐れたためでありましょう。そこで彼は自分はバプテスマを授けるためではなく福音を宣べ伝えるために遣わされたのである、と言ったのであってここではバプテスマというものが重要であるとかないとか言うことを議論しているわけではありません。バプテスマは欠くことのできないものであります。パウロはただそれを勝手な理由に用いられることを恐れただけであります。しかしいずれにせよ大事なことは福音を宣べ伝えることであります。パウロは事柄を明確にするためにわざわざことを区別して語っています。福音を信じるようになればバプテスマを受けるようになるわけであります。しかし大切なことはキリストによって救われることであることを強調すること、まことにパウロの言うとおりであります。このことをパウロが特に強調するのはバプテスマを受けるとかパウロあるいはアポロに教えを受けることが中心になってしまってキリストによって救われるということがしっかりととらえられられなかった、このことがパウロに気にかかることであったからであります。信仰のことは誘惑の多いものであります。いろいろなさまたげもあります、誘惑はキリストによる救いがあいまいにされる、というところにあります。

どんな理由があるにせよ、このことがなくなればそれはもう救いではなくなってしまうからであります。パウロはそれを言いたかったのであります、キリストによる救いということです。教会の中の争いも勿論困ったことではあるが福音が正しく受け入れられなければ全てのことは空しいからであります。そこで最後に彼は申します、17節です。「それはキリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである」。何がどうあってもキリストの十字架が空しくなってしまってはキリスト教は終わりであります。十字架が空しくならないためには十字架が威力を発揮しなければなりません。それは人が十字架によって救われねばならないということであります。コリントの教会の内部での争いはこのことから見て恐ろしいこと、何としても解決しなければならないことであります。教会の中の揉め事のようなことをなぜ一番初めに取り上げたのでしょうか、それはここまで読んで分かってきたことです。パウロは勿論争いも困ったことではあったにちがいあいません。しかし、それはどちらかと言えば小さなことでありました。ただパウロはそれをただの争いと考えないでその信仰から見た意味を明らかにすることに努めました。最後には十字架が空しくなってしまうことを恐れる、とさえ言うことになったのであります。このようにしてこの教会の紛争は福音を語るひとつの手がかりになったのであります。それを語って十字架の問題にまで至って次に福音そのものの力を告げる機会としたのであります。                         アーメン・ハレルヤ

 次回は18節から十字架の言葉の力はどういうものであるか、聞いていきたいと思います。

説教「起きなさい。恐れることはない。」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書17章1~9節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースターに向かう四旬節が始まる前の節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたマタイ17章の他に、マルコ9章とルカ9章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことが「変容した(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は変容主日とも呼ばれます。毎年、四旬節の前の主日はこの変容主日に定められています。

 昨年も申し上げましたが、このイエス様の姿が変わる出来事はとても幻想的で劇的でもあります。イエス様が三人の弟子だけを連れて、「高い山」に登る。その山は、ほぼ間違いなく、フィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えられます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。以前、八方尾根でスキーをした時に見た五竜岳と比べると、ヘルモン山は写真で見るからにはなだらかで急峻な感じはしません。

ヘルモン山の頂上で何が起きたかと言うと、まず、イエス様が白く眩しく輝きだし、続いて旧約の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れ、イエス様と何かを話し合います。そこで、ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ立てましょう、と提案すると、突然辺りは雲に覆われ、その中から天地創造の神の声が轟きわたります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)と。その後すぐ雲は消え、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられました。周りの様子は、頂上に着いた時と同じに戻っていたのです。ところで、神が「これはわたしの愛する子」と呼び、「これに聞け」と命じたのは誰のことだったでしょうか?それはイエス様のことでした。イエス様は神の子である、彼の教えることを聞いて守りなさい、と神は言われたのです。ところがイエス様は、十字架の死から復活させられるまではこの山の上の出来事を口外することを禁じました。

この出来事に幻想的な色を添えるのは、不思議な雲の出現です。山もこれくらいの高さになると、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の福音書の箇所を注意して読むと(5節)、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を立てましょう、と言ったすきに頭上を覆ってしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神が利用したと考えられます。あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。どっちだったかはもはや判断できませんが、この件は判断しないままにしても、福音書の解き明しには何の支障もないということは毎年述べている通りです。

 以上は、三つの福音書に述べられている出来事の大まかな流れです。ところが三つの福音書の記述をよく比べてみると、お互いに違っていることがいろいろあることに気づかされます。本日はマタイの記述を中心に解き明しをしていきますが、他の福音書の記述も注意してみていきます。

 

2.

同じ出来事を扱った複数の福音書の記述がお互いに違っているということは、本日の日課の箇所の他にも数多くあります。このことをどう考えたらよいでしょうか?ある記述が歴史を忠実に反映していると言ったら、じゃ、他の記述はそうではないということになってしまうのか?マルコの記述が正しかったら、マタイとヨハネの記述は信用できないということになってしまうのか?

聖書に収められた福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つがあります。それぞれのでき方を見ると、マタイ、マルコ、ルカの3つには共通点があります。ヨハネ福音書は、イエス様の弟子で出来事の直接の目撃者であるヨハネが書き記した記録が土台にあります。マタイ福音書も多分、弟子のマタイが書き記した記録が土台にありますが、マタイ自身の記録以外の資料も多く含まれています。大ざっぱに言うと、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、直接の目撃者でない執筆者が目撃者の談とか口伝えの伝承を資料にしています。さらに断片的に書き留められた記録やもっと長い記録も資料として用いています。

そういう目撃談や書き留められた記録などの資料は、伝承されていく過程で、強調したい部分は強調されたり、大事でないと考えられたものは背景に追いやられたり削除されたりします。そういうわけで資料は、福音書の執筆者の手元に届くまでに最初のものと比べて変化する可能性が高いです。そういうわけで、出来事の記述に違いがあるというのは、どっちが本当でどっちがそうでないと否定し合うもののように考えるべきでなく、全体像が把握できるためにお互いが補うもの同士になっているとみなければなりません。それに、出来事の記述に違いがあるとは言っても、核となる部分はみな同じです。イエス様に同行したのはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子であったこと、頂上でイエス様の姿が変わったこと、モーセとエリアと謎の雲が出現したこと、雲の中から神の声が轟きわたったこと、雲が消え去った後にイエス様だけが残っていたということ、これらは三つの福音書の記述全てに共通する、いわば出来事の核となる部分です。

三つに共通する中核部分に対して、今度はそれぞれがどう違っているのかを見ると、ルカ福音書ではイエス様が山に登った目的が「祈るため」と記されていますが、他の福音書では目的は何も言われていません。イエス様の変容についてみると、マタイ福音書では顔が太陽のように輝き、服も光のように白く輝きますが、マルコ福音書ではこの世のどんなさらし職人でも白くすることができないくらいの白さで輝いたことが言われます。ルカ福音書では、イエス様の顔の様子が変わり服が白く光り輝いたと言われます。イエス様がモーセとエリアと話をしていることについて、ルカ福音書では近くエルサレムで起きる、イエス様の十字架の死と死からの復活について話し合われますが、マタイとマルコでは話の内容は記されていません。ペトロが仮小屋を建てますと言ったタイミングをみると、マタイ福音書とマルコ福音書ではイエス様とモーセとエリアが話しをしている時ですが、ルカ福音書ではエリアとモーセがイエス様のもとを離れようとした時です。

それから、神の声が轟いた後のイエス様と弟子たちの様子についてみると、マタイ福音書では弟子たちは恐れおののき地面に伏してしまう。そこをイエス様が近寄ってきて、彼らに触れて「起きなさい。恐れることはない」と言って安心させます。マルコ福音書とルカ福音書では、イエス様のそういう励ましは記されていません。

 全体的にみると、ルカ福音書の記述が一番詳しいです。他方で、マタイ福音書ではイエス様が弟子たちを安心させるとか、マルコ福音書ではイエス様の変容がこの世のものでないことが強調されるという、ルカ福音書にない細部もあります。これらの違いは、先にも述べましたように、お互いを補い合って出来事の全体像を作り上げるものです。違いがあるおかげで、一つの出来事をいろんな角度から見れて、出来事を広く深く見ることができます。そういうわけで、違いがあることの中にも聖霊の働きがあると言うことが出来ます。

 ここで少し脱線ですが、同じ出来事を扱った福音書の箇所を比較しながらみると出来事の全体像がわかってくると申し上げましたが、どのようにしたらいくつもの福音書を同時比較することができるでしょうか?しおりや指をページに挟んで、いちいち開くところを変えるのは大変です。私はこうしています。このようにA3位の大きな紙に左からマタイ、マルコ、ルカの順に列にして書いていき、一目で比べられるようにします(実例を見せる)。私の場合はギリシャ語ですが、皆さんがわかる言葉で良いと思います。実はこういう本もあるのですが、値段は高いです。それに自分で書いた方が御言葉を身近に感じられます。なんだか写経じみていると思われるかもしれませんが、こちらは比較を通して書かれていることの内容を明確にするという目的があります。

 

3.

 イエス様の変容の出来事のなかには、分かりにくい事が沢山あります。例えば、イエス様が白く輝く変容をとげたこと、モーセとエリアの出現、ペトロの「仮小屋」を建てるという提案、出来事を言いふらしてはならないと言うイエス様のかん口令などです。以下にそれらを明らかにしていきましょう。

まず、変容したイエス様の輝きについて。マルコ福音書では、白さがこの世のものでないことが強調されて、神の神聖さを現すことを意味しています。ルカ福音書ではイエス様が「栄光に輝く」と言われ(32節)、これは文字通り神の栄光を指します。この変容においてイエス様は、罪の汚れに全く染まっていない、神聖な神のひとり子としての本質を現わしたのです。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われています。つまり、イエス様というのは、この世に送られて乙女マリアから肉体を受けて人間と同じ者となったが、罪を持たないという神の性質はずっと持ち続けたということです。そういうわけで、ヘルモン山の上で起きた変容の出来事は、まさに罪を持たない神の神聖さを持つ、そういうイエス様の本質を現わす出来事だったのです。

次にモーセとエリアが出現したことについて。二人とも旧約の偉大な預言者ですが、遥か昔の時代に登場した二人が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?ここで、人は死んだらどうなるかということについて、聖書が教えていることをおさらいしますと、人はこの世を去ると、神の国に迎え入れられるかどうかの決定を受けます。ただし、その決定がなされるのは、イエス様が再臨して、この世が終わりを告げる時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるということであり、その日には死者の復活も起きます。まさにその時に、迎え入れられるかどうかの決定がなされるのです。そうなると、この世を去った人というのは、ルターが教えるように、復活の日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠るだけということになります。

ところが、将来の復活の日を待たずして既に神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えがあります。ルターも、そのような者がいることを否定していません。エリアとモーセは、その例と考えることができます。というのは、エリアは、列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては、申命記34章にあるように、死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、人は誰もモーセが葬られた場所を知らないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(6節)。このようにモーセとエリアの場合、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないので、ひょっとしたら復活の日を待たずして、神の国に迎え入れられた可能性があります。まさにその二人が、イエス様に間もなく起こる十字架の死と死からの復活についてイエス様と話をするために、神の力によってヘルモン山頂に送られたのです。幽霊などという代物ではありません。そもそも亡くなった人は原則としては復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、それは神の力によるものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しなければなりません。

次に、ペトロが建てると言った「仮小屋」について。「仮小屋」とは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言い、それは神に礼拝を捧げる「幕屋」と同じ言葉です。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことでした。しかしながら、ペトロの提案には問題がありました。なぜなら、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。モーセは律法を直接神から人間に受け渡した神の人、エリアは預言者の代表格です。しかし、イエス様は神の子であり、神の意思そのものである律法が完全に実現した状態を持った方です。また、預言者たちの預言したことが成就した方です。それなので律法を受け渡した人と預言を宣べ伝えた人とは同等に扱ってはいけません。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天地創造の神の一声で一蹴されてしまいます。「これは私の愛する子。彼に聞き従え」と。つまり、「ここにいるのは神のひとり子である。律法の受け渡し人、預言の宣べ伝え人と一緒にするな」ということです。

 次に、イエス様は山の上の出来事を自分が死から復活させられる時までは言いふらしてはならないと命じましたが、なぜ、それを人々に伝えることをそのように後々に延ばしたのでしょうか?その背景として次のことが考えられます。イエス様の十字架と復活の出来事が起こる前は、人々は彼のことを預言者とかユダヤ民族を他民族支配から解放してくれる王という意味でメシアと見なしていました。しかし、受難の道を通って神の人間救済計画を実現するという意味でのメシアだとは誰一人として考えていませんでした。そのような時に、山の上で見たことを言い広めたら、ナザレのイエスはモーセ、エリアと並ぶ偉大な預言者だ、という噂が広まってしまったでしょう。十字架の死と死からの復活の出来事が現実に起きない限りは、イエス様がメシアであることの本当の意味はわかりません。イエス様としては、十字架と復活の出来事の前に余計な誤解や憶測を増やすことは避け、ただ黙々と神の人間救済計画を実現する道を歩むことに集中したのです。

 十字架と復活の出来事が起きた後で、イエス様には神の力が働いたからこそ死から復活することができたのだと皆がわかるようになりました。まさにその時に、イエス様は実は神のひとり子であった、そういう神の声をヘルモン山で聞いたと証言すれば、彼の十字架の死というのはこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲だったことがわかります。一体何のための犠牲だったかと言うと、それは人間が神から罪の赦しを受けられるための犠牲です。神聖な神のひとり子が犠牲の生け贄として捧げられたのです。それで人間は、イエス様が本当に自分の罪の償いのための犠牲になったとわかって、それで彼こそ救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを受けられます。それにあわせて、十字架で起こったことがその人に当てはまるようになります。十字架で起こったこととは、イエス様が自分を犠牲にすることで死を滅ぼしたこと、そして罪が持っていた、人間を死に陥れる力を無力にしたこと、こうしたことがイエス様を救い主と信じ洗礼を受ける人に当てはまるようになります。

 

4.

 さて、本日の使徒書の日課の中でペトロは、聖なる山の上で神の声を聞いたことが預言の言葉を一層しっかり携えて人生を歩めるようになったと証しています(第二ペトロ1章19節)。ここで言う預言の言葉とは、イエス様が将来再臨するという預言を指します。イエス様が再臨するということは、この世には終わりがあり、その時は今ある天と地が新しい天と地にとってかわられ、死から復活させられたキリスト信仰者は神の国に迎え入れられるという預言を指します。

ペトロは、神の声を聞いたことで、これらの預言の言葉を一層しっかり携えて歩めるようになったと言うのですが、山の上でのペトロは神の声を聞いた時、一体どんな状態だったでしょうか?恐れに満たされて地面に伏してしまってブルブル震えていたのではなかったでしょうか?預言の言葉を一層信じるどころではなかったのではないでしょうか?それがどうやって神の声を聞いて一層信じられるくらいに恐れを乗り越えられるようになったのでしょうか?

ペトロが恐れに満たされていた時、イエス様が何をしてくれたかを思い出しましょう。「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』」神のひとり子が自分の方から地に伏して震えている弟子たちのもとに歩み寄って、背中でしょうか、肩のあたりでしょうか、優しく手を触れて、心配しなくていい、大丈夫だ、と言って下さったのです。これから人間を罪の呪縛から解き放つために自分を犠牲に供しようとする方が、そう言って下さったのです。人間が受けられる励ましと勇気づけの中でこれ以上のものはあるでしょうか?

 兄弟姉妹の皆さん、私たちも地面に伏してしまう時があります。もうないと思っていたはずの罪が力をふるいだした時とか、またいろんな困難や苦難に陥った時です。そのような時こそ、イエス様が弟子たちのもとに来て、手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」と言ったことを思い出しましょう。確かに、同じ声は私たちの耳に響きません。主の手が触れることも感じられません。しかし、聖書の御言葉を通して、また聖餐式を通して、全く同じ励ましと力添えを受けられます。御言葉と聖餐は同じ励ましと力を与えるのだと信じて、御言葉に聞き、聖餐を受ける。これがキリスト信仰です。自分がどう感じるかは二の次です。感じることよりも、もっと確かなことがある。御言葉と聖餐が励ましと力を与えると神が約束すれば、それが感じることに勝る真実になる。これがキリスト信仰です。兄弟姉妹の皆さん、神は私たちがそのような確かな真実を持つことができるように御言葉と聖餐を与えて下さったことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「『汝の敵を愛せよ』という教えから見えてくるもの」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章38~48節

聖書のマタイによる福音書5章38~48節

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(イエス・キリスト)

The sermon on the mount, Boston Public Library

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

マタイ福音書の5章から7章にかけてのイエス様の教えは、彼が山の上で群衆の前で宣べたことから、「山上の説教」と呼ばれます。その中でイエス様は、十戒をはじめとするモーセ律法の正しい理解の仕方について教えます。十戒や律法を正しく理解するというのは、それらを与えた方、つまり天地創造の神の意思を正しく理解することになります。かつてイスラエルの民は全人類を代表して十戒や律法を与えられたにもかかわらず、神の意思を正しく理解していなかったことは明らかでした。それでイエス様は、「あなたたちは、神が次のように命じたと言われるのを聞いてきた。私はそれらについて次のように教えよう」と前置きをして、一つ一つ正しい理解を教えていきます。それができたのは、もちろんイエス様が神のひとり子だからで、父である神の意思を正確に知る立場にあったからです。

38節と39節で、イエス様は、律法では「目には目を、歯には歯を」と言われているが、悪人には手向かってはならない、と教えます。これは、一体どういうことでしょうか?悪人が何か悪さをしようとして、それをそのままにせよとは?また、右の頬を打たれたら左を差し出せ、とか、下着を取ろうとする者には上着を取らせよ、とか。イエス様は、悪がしたい放題するにまかせよ、悪をそのままのさばらせておけ、と言っているのでしょうか?

さらに44節を見ると、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。イエス様は、私たちに何か崇高な道徳を実践しろ、と命じているようにみえます。45節を見ると、敵を愛し、迫害する者のために祈る理由が言われます。それは、私たちが「天の父の子となるためである」とか、父なるみ神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」などと言われます。こう聞くと、なるほど神は悪人にも気前よくしてくれるのか、悪さをしようが善をしようが神は恵んでくれるのなら、別に悪をやめなくてもいいわけだ、という理解がされる危険があります。さて、イエス様の意図が、悪はしたい放題で構わないと主張するものではないことは誰でもわかります。それならイエス様は何を教えようとしておられるのか?本日は、この問いに対する答えを見つけて参りましょう。

2.

  まず初めに、38節の「目には目を、歯には歯を」という掟について。これは、出エジプト記21章22~25節やレビ記24章17~20節に出てきますが、申命記19章16~21節を見ると、どうしてこのような掟が必要なのか理由が記されています。それによると、裁判沙汰で一方が他方を陥れようとして嘘の訴えをしたとする。訴えが嘘であると判明したら、嘘をついた側が嘘をつくことで相手を陥れようとしたのと同じ損害を嘘つきに味あわせなければならない。つまり、目には目を、ということです。そして20節で言われます。「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。」つまり、「目には目を、歯には歯を」というのは、こういうことをしたらこういう報いが来るぞ、他人の目を失明させた者は自分の目を失明させねばならなくなるぞ、ということで、同じ悪が自分にも跳ね返ってくるとはっきりさせることを通して悪を控えさせるという、人間が悪に手を出さないようにする抑止力だったのです。

しかしながら、もともとは悪に対する抑止力の意図があったとしても、この掟は反対の結果をもたらしてきたことも事実です。損害を被ったら仕返しをしてもよい、あるいは、仕返しをしなければならない、というふうに理解されるからです。「これは当然の報いだ」と言って報復が正当化されます。こういう考え方はどこの世界にもあります。

掟が仕返しを正当化するものとして理解されたがために、イエス様は、それは本当の意図ではないとして、それで、悪を成す者に対して仕返しをしてはならないと教えます。報復を正当なものとしません。悪を成す者に仕返ししないとは、それじゃ、悪がなされるままにほおっておけ、ということなのかという疑問が起きると思います。ところが、イエス様の教えをよく見るとそういうことでないことに気づかされます。右の頬を打たれたら、左を出せ、と言います。下着を取られたら、上着を差し出せ、1ミリオン(約1,5キロ)歩かされたら、させた者と一緒にさらに1ミリオン歩け、と言います。ただの打たれっぱなし、取られっぱなし、歩かされっぱなしの泣き寝入りとは違います。悪を被った方はとても能動的です。受動的ではありません。能動的と言っても、打たれたら打ち返す、取られたら奪い取るというような仕返しでもありません。お返しはするが、そのお返しは普通考えられるような仕返しとは違います。

そこで、右の頬を打った側が左を出されたらどうするか考えてみましょう。下着を取った者が上着を差し出されたらどうするでしょうか?せっかく相手をひれ伏してやったと得意気になったのに、そんなことされたら、今自分がしたことが全く取るに足らないものであったとこれ見よがしに見せつけられた思いがするのではないでしょうか?そうなると、ここで恥じ入ってそれ以上の悪に進むことを躊躇するか、それとも、逆上してさらなる悪に踏み込むか、どちらかだと思います。

このように見ていくと、ここでのイエス様の教えの趣旨というのは次のように言うことができます。まず、悪を被ってしまった者は悪と同じ土俵に立たず悪と同じ手口を用いてはならないということ。そして、悪を行った者を、大げさに言えば人生の運命の分岐点に立たせるような、そういうお返しをしなさいということ、この二つを教えていることが見えてきます。

さらに42節を見ると、イエス様は「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と言われます。ここで言う「求める者」と「借りようとする者」は、38節からの文脈に沿ってみれば、悪を成す者です。困っている人一般ではありません。つまり、悪を成す者が困って求めてきたら与えなさい、借りようとしたら、背を向けないで貸してあげなさい、ということです。悪を成す者が困ったら、いい気味だ、自業自得だ、などと言うのではなく、助けてあげなさい、ということです。実は、使徒パウロがこのイエス様の教えを受け継いで教えているところがあります。「ローマへの信徒の手紙」12章17~21節です。少し、それを見てみましょう。

17~18節 だれに対しても悪に悪を返せず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

「だれに対しても悪に悪を返せず」というのは、先ほど述べたイエス様の教えの趣旨に合致します。「せめてあなたがたは」の意味ですが、まず、このパウロの手紙はキリスト信仰者に向けて書かれています。それで、キリスト信仰者というのは他の者たちが平和共存を損なおうとして何かしでかしてきても、決してそれを受けて立ってはいけない、挑発に乗ってはいけない、相手が何をしようがどう言おうがこちらとしては平和共存路線に訴えていきなさい、ということです。

19節 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」というのは、裁くのは神の仕事であって、起きた不正義に対しては神が報いと償いをする。それは最終的に最後の審判の日に実現する。だから、審判が起きる復活の日を信じるキリスト信仰者は不正義の報いと償いは神に任せて、以下のことに専念しなさいと言われます。

20節 あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。

善をもって悪に報いてあげた敵の頭の上に燃える炭火を積むというのは、一つには敵が自分の悪行を恥じ入る意味があります。もう一つは、敵が考えを改めない限り、ただただ最後の審判で受ける裁きを自ら確定してしまうことを意味します。

21節 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

悪に対抗するのに悪をもってすると、結局は悪の力に頼ったことになり、悪に屈したことになる。悪に本当に勝つためには善をもって悪に立ち向かうしかない。その時、敵は恥じ入って悔い改めるかもしれない。悔い改めない場合は、あとは神がその者を完璧に裁くことになる。どっちにしても、悪は打ち負かされる運命にあるのだから、善をもって悪に立ち向かうしか道はないのである。

以上、使徒パウロの教えを見てみましたが、悪に対して悪を返さない、善をもって悪に勝つ、などとは、一見崇高な道徳に見え、誰か立派な人がやればいいのだと思われるかもしれません。しかしながら、キリスト信仰には復活の信仰があるので、悪と不正義に対する報いと償いはどんなに遅くとも最終的には最後の審判と復活の日に起きるとみんな知っています。それでキリスト信仰者は、イエス様やパウロが教えていることはそんなにかけ離れたものではないと気づくことができるのです。逆に、復活とか最後の審判とか最終的な報いや償いなどない、全てはこの世止まりで、その先は何もないと言う人から見たら、善をもって悪に立ち向かうなどというのは崇高な道徳で何か英雄的な人でないと無理ということになってしまうでしょう。

以上、「目には目を、歯には歯を」という掟の意図についてイエス様が教えたことを見てみました。それは、仕返しを正当化するものではないということ、じゃ、悪に対してどう振る舞えばよいかと言うと、悪と同じ手口を使わないで悪を一瞬たじろがせることをしなさいということでした。キリスト信仰者にはそういうことが出来る可能性があります。復活や最後の審判が起こると信じているからです。それがなければ、仕返しもせずに善をもって悪に報いるなどとは本当に道徳的な英雄しか出来ないことになってしまいます。

3.

 次に、43―44節のイエス様の教え、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい

について見てみましょう。

「隣人を愛せよ」という掟は、先ほど読んで頂いた本日の旧約の日課レビ記17章18節にあります。一つ注意すべきことは、レビ記の文脈の中ではこの「隣人」というのはイスラエルの民に属する同胞を意味します。「敵を憎め」という掟はモーセ律法の中には見当たりません。どうして律法にない掟が律法にあるものと一緒に対になって教えられてきたのか?レビ記の文脈では隣人愛は同胞愛ですので、同胞に属さない者、敵国に属する者は愛の対象ではないという考え方がつきまとったことによると考えられます。

ところがイエス様は、「敵を愛せよ」と教えました。つまり、隣人愛を向ける相手がイスラエルの民の外にも及ぶということです。これで、隣人愛を向ける相手である隣人の概念が一つの民族集団の枠を超えて全人類に及ぶものになりました。しかしながら、概念を拡大したところで、現実には敵対して来たり迫害してくる者も出て来ます。そういう者に対してはイエス様は、「迫害する者のために祈りなさい」と命じられます。「ために」と訳されているギリシャ語の前置詞υπερは「利益になるように」という意味があります。迫害する者の利益になるように祈りなさい、とは一体どんな祈りなのでしょうか?

それがわかるために、イエス様が迫害する者の利益になるように祈ったことがありますので、それを見てみると良いと思います。ルカ23章34節です。十字架にかけられたイエス様が天の神に向かって「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたところです。自分を十字架にかけた者たちが神の厳罰を受けないようにと、まさに迫害する者の利益のために祈ったのです。同じような祈りは、ステファノが大胆に信仰を証しした後で石打ちの刑を受け、息を引き取る寸前に唱えました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)。悪と不正義に対する報いと償いは必ず復活と最後の審判の日に果たされるのに、なぜ、悪を吹っかける者が罰を受けないで済みますように、などと悪を被る側の方が祈らなければならないのか?イエス様もステファノも崇高な道徳を追求しすぎて、少しやりすぎたのでしょうか?

いいえ、そういうことではないのです。イエス様とステファノの祈りの意味がわかるために、あるキリスト信仰者が以前私に話してくれたことを振り返ってみたく思います。その方の高齢の親御さんが病気で入院して、原因不明の痛みが体中にあって苦しんでいました。医者もいろいろ調べてみたけれど原因がつかめず困っていました。見舞いに行った息子さんが、励ましの言葉が尽いてしまって、黙って見ているだけということに耐えきれなくなり、ついに意を決して「イエス様にお祈りしてあげます」と言って、ベッドの脇で少し声に出してお祈りを始めました。実はその親御さんというのは、元気な頃から、神や仏などに頼らない、宗教などは弱い人間がすがりつくものだという考えを持っていました。案の定、「やめろ、やめろ、そんなものは聞きたくない!」と叫び出してしまい、せっかくのお祈りは中断されてしまいました。息子さんが落胆したのは無理もありません。しかし、ちょうどその時、頭の中にある言葉が響き渡りました。それは、あのイエス様が十字架の上で述べた言葉でした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

その息子さんが願ったことは、イエス様が癒しを与えて親がイエス様と出会え、彼を救い主として受け入れられるようになることでした。あるいは、たとえ癒しが与えられなくとも、少なくともイエス様とは出会えて、痛みがあっても心に平安を持てることでした。もちろん、洗礼を受けるまでになればベストなのですが、たとえそこまで行かない場合でも、少なくとも、あのルカ23章40

43節に出て来る、改心した強盗のように最後の瞬間にイエス様を救い主と受け入れて、この世から次の世への移行を全てイエス様に任せられるようになることでした。それが拒否されてしまった時、息子さんに残されたのは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りだけでした。

この親のケースは、迫害はありませんが、それでもイエス様を拒否するという点では迫害者の場合と共通しています。そのような人たちでさえも、神が与えて下さる救いを受け取られるようになるというのが、まさに神が望まれていることなのです。

ここで、神が与えて下さる救いとは何かということを思い出さなければなりません。それは、人間が自分の造り主であり天地の造り主である神との結びつきを回復させてこの世の人生を歩むことができるようになるということです。そして、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようなるということです。この、神との結びつきの回復という救いはどのようにして起こったのか?それは、神がひとり子イエス様をこの世に送って、本来人間が受けるべき罪の罰を全部彼に請け負わせて十字架の上で死なせて、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことで始まりました。そして人間の方で、この、イエス様が命を捨ててまでして成し遂げた償いと贖いの業を聞いて、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しはその人に全くその通りになります。罪が赦されたのですから、神との結びつきが回復するのです。

神はこの、イエス様を用いて実現された「罪の赦しの救い」を全ての人間にどうぞと言って差し出してくれているのです。神がこの救いを善人にも悪人にも等しく与えたがっていることは、45節のイエス様の教えからも明らかです。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせると言うと、悪を働こうが善を行おうが神にとってはどうでもいいと言っているように聞こえます。しかし、そうではないのです。悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、彼らが神の差し出している救いを受け取ることができるようにするという意図があります。それで、善人だけでなく悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるのです。もし、太陽が善人にしか昇らず、雨が義人にしか降らないとしたら、悪人はすぐ滅びてしまいます。神が彼らにも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、彼らが一日も早く救いを受け取るようにと猶予の時間を与えているのです。もし悪人が、神は自分にも太陽を昇らせてくれるのだから、自分の悪を認めてくれているんだ、だから悪のし放題でいいんだ、と思ったら、それはとんでもない誤解で、神の善意を裏切ることになります。そのままで行けば、この世の段階で何か罰が下るか、そうでなくても最終的には最後の審判の日に罰を下されてしまいます。

神としては、悪人も自分との結びつきを回復してほしいというのが御心です。それなので、既に結びつきを回復した者は神の御心に従って、悪人や敵に対してどんな働きができるかを考えなければなりません。悪人だから敵だから滅びてしまえ、というのは神の意思に反することです。悪人や敵のために祈らなければなりません。自分を迫害する者のために祈れというのは、「神よ、迫害を終わらせて私を助けて下さい」という自分のための祈りではありません。そうではなくて、「神よ、あの迫害する者がイエス様を救い主と信じてあなたの用意された『罪の赦しの救い』を受け取ることができるようにして下さい」とまさに悪人や敵の利益のために祈ることです。言うまでもないことですが、悪人や敵がイエス様を信じて救いを受け入れることになったら、迫害もなくなります。悪人や敵が神との結びつきを回復できるように働きかけ、またそう祈ること、これがキリスト信仰者にとって敵を愛するということになります。

以上みてきたように、汝の敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ、という教えは、キリスト信仰にあっては、まさに「罪の赦しの救い」を受け取って既に神との結びつきを回復した者が、まだ受け取っていない、回復していない者たちに働きかけ、神に祈りを捧げて、その者たちも受け取れるようにする、そういう内容です。もし、「罪の赦しの救い」とか神との結びつきの回復ということと全く無関係に、敵を愛することや迫害する者のために祈ることが目指されるならば、それはもう、道徳的な英雄にやってもらうしかなくなるでしょう。

4.

 このように、キリスト信仰の観点に立ってみると、イエス様とステファノが行った迫害者のための祈りは、何か崇高な道徳を追求した、とか、やりすぎな祈りであったというのは当たりません。もちろん、そうは言っても、自分を迫害する者が本当にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け入れられますようにと祈ることは、やはり現実離れしているような感じを受けるかもしれません。

 ところが、二人の祈りは現実離れしているとか、崇高な道徳の飾り物ではなかったことを示す証拠があります。それは、パウロです。彼は、自分でも語っているように、ステファノの石打ち刑に加担していました。それくらいイエス・キリストを拒否していたのに、「罪の赦しの救い」を受け取って、その後は使徒として福音伝道に一生を捧げました。イエス様やステファノの祈りの結果、迫害者が救いを受け取ったという例はパウロ以外にもあったかどうかについては、聖書には記されていないのでわかりません。ひょっとしたら、迫害者の中から福音伝道者が現れたかもしれません。または、あの十字架の強盗のように息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白した人がいたかもしれません。もちろん、イエス様も救いも拒否し続けて、神との結びつきを回復しないままこの世を去ってしまったケースもあるでしょう。それぞれどれくらいいたのか、それは神のみぞ知る、ですので、これ以上詮索はしません。いずれにしても、兄弟姉妹の皆さん、私たちは「罪の赦しの救い」を受け取って神との結びつきを回復したキリスト信仰者ですので、まだ受け取っていない、回復していない人たちがそうできるように、働きかけと祈りを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

説教:木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章4~9節

 第2回

コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章4~9節

今日の礼拝ではコリントの信徒への手紙Ⅰ、1章4~9節までです。第2回目になります、ゆっくり詳しく見てゆきたいと思います。1章1節の挨拶からパウロはコリントにある神の教会へと書いて、3節までの挨拶の後にいつものように感謝をのべています。4節「わたしは、あなた方がイエス・キリストによって神の恵みを受けたことについて、いつも私の神に感謝しています。」その感謝の内容はパウロの場合独特なものでした。この感謝で目立ちますことは感謝するのは私となっている。つまり単数になっていることです。ソステネと一緒に書いたはずの手紙でありますが、ここではパウロ個人になっているのです。ソステネのことをわざと除いたわけではないでしょうが、パウロとしては感謝の気持ちがよほど強かったのでありましょう。手紙に感謝はいつもつき物であります。普通には相手の人の厚意に対しての感謝になるわけであります。しかしパウロの場合、感謝は神に対してなされるのであります。しかも、その感謝はありきたりの幸せなことに対してでなく神に対して与えられた信仰の内容についての感謝であります。従ってそれはいきおい信仰の内容を語っていくということになります。そして、そのことについて感謝するということになるのであります。恵みをいっぱい受けていることはもちろん感謝すべきことにちがいありませんが、それより大切なことは信仰によって今おかれているこの救われた状態にあるということが何より大事なことなのであります。

コリントの教会の人々が信者になっているということ、その意味で恵みを受けている、ということについての感謝であります。従ってパウロは感謝すべきことについて「あなた方がキリスト・イエスにあって与えられた恵み」よ言っています。それはどんな恵みもキリスト・イエスによって与えられているものなのであります。しかし与えられた恵みがキリスト・イエスによって与えられたもの、というのは実はどの恵みを受けるときもキリストを思わずにはおられない、ということであります。実は恵みを与えられたというよりはキリストを与えられたことに感謝するということになるのではないでしょうか。キリストによって受けた恵みとは何でしたでしょうか。それは健康とか富とかということとは違ったものであります。まず、5節にありますように「すべての言葉にもすべての知識」にも恵まれていることであります。もしも恵みによって富むというのなら神を信じていることが富でありキリストを信じていることが富なのです。従ってどういう信仰状態にあるか、ということこそ深く考えなければならないことであります。恵まれる、と書いてあり字は恵まれている、つまり豊かにされているという意味の字です。それは信仰によって豊かにされているということであります。

パウロが第一に感謝していることはコリントの人々が信仰の言葉と祈りとを豊かに与えられているということであります。神の言葉と祈りとが豊かに与えられたこの教会は伝道のために十分な用意ができたのであります。それゆえにキリストのための証が深められてしっかりした根を下ろしたようになったでありましょう。そのように信仰の用意ができた者には7節にありますように「その結果、あなた方は賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいます。教会は始めからキリストが再びお出になることを熱心に待ち望みました。コリントの教会にはその信仰が生きていることをパウロは知っておりました。このように見ていきますとコリントの教会は信仰の面で立派に成長していることがわかります。それは同時にあの悪い環境で多くの問題を抱えたこの教会がこれだけの生活をしていた、ということでもあります。教会は主のお出になるのをまっていました、しかしそれなら主はどうしておられたのでありましょう。もとの文章から言いますと主イエス・キリストという字が7節にありますがそれをそのまま受けて8節にその主がと言っているのであり、それで主もまたと言う言葉が出てくるのであります。主がお出になるのなら、その主はこれを待つ者の信仰に対して無関心であるわけはないのであります。いや、その信仰を支え守られるにちがいありません。主もまたあなた方を最後まで堅く支えてくださるのであります。

この信仰は重要でありながらそれを待つのは容易ではありません。なぜなら間に見えるものでなく望んで保ちべきものだからであります。いつ、ということも分からずにただ待ち望むだけであります。それならばその信仰を堅く支えていただかねばならないわけです。主はそのようにしてくださるのであります。しかしその信仰を堅く支えると言われますがそれは、ただこの信仰を守るだけでは十分とはいえないのであります。それには主が再びお出になる日に備えていつそれがあっても大丈夫なように用意しておくことがその信仰を堅く支えることになるはずであります。そのためには何が必要なのでしょう、主が再びおいでになる日、というのは一つは審きの日ということであります。主の前に出て審かれるものがないということであります。それゆえにその日のために私たちを堅く支えてくださる主は「わたしたちの主イエス・キリストの日に責められることがないようにしてくださる」ということです、8節にあります。

ここまで書いてパウロはそれに結論をつけるように9節で「神は真実な方である」と言うのであります。ある人の訳では「神は信頼に価する方です」と言っています。ローマ人への手紙では11:29節で「神の召しは変えられることがない」という言葉を引用しています。神が変わることにない真実さを守ってくださるのでなければ一切のことはむなしくなってしまうにちがいないのであります。ここでパウロがそのことについて念を押してくれることは有難いことであります。パウロは主イエス・キリストがキリストの日までに何を用意してくださるかを語りました。それに続いて父なる神が何をしてくださるかを告げようとするのです。そこで真実なる方は神であると言ってその神によって「あなた方は召されて、御子わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに入らせていただいたのである」と言うのであります。神が我々を召されるということは事新しいことではありません。しかし召してくださって何をなさるのかは新しいのではないでしょうか。神に召されて我々は神の御子であり我らの主であるイエス・キリストとの交わりに入らせていただくのであります。交わりというと教会は皆んなで交わるという、交わりというのはそういう横の関係でなくて、ここで言えばキリストとの交わりであります。人との交わりばかりが気になってキリストとの交わりを考えないのは聖書の言う交わりではありません。

神は我々をお召しになってキリストとの交わりに入れようとされたのであります。そこに神の真実なはからいがあるのです。信仰生活の要点はキリストとの交わりであります、キリストに愛されていることを知り自分もキリストを愛するのです。ここに描かれた信仰生活の最後にキリストとの交わりのことが書かれているということは大変に大事なことであります。ここにパウロの感謝の究極の根拠があると言って良いほどです、神の真実さこそは神の愛の永遠の表現であるということです。

 

アーメン・ハレルヤ!

説教「地の塩、世の光として生きよ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章13ー16節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 当たり前のことですが、塩は有用かつ不可欠なものです。料理になくてはならないし、生ものの保存剤としても使えるし、消毒の役割も果たすし、また体には塩分が必要です。イエス様は、教えを受けに集まってきた群衆に「あなたたちは地の塩である」と言います。この言葉は、聖書のなかにこのように収録されているので、それを読んだり聞いたりする人に対しても、また今まさにこの礼拝に集う私たちにも向けられている言葉です。「地」というのは、天の反対、地上の意味です。そうすると、イエス様は、私たちが地上において塩のように有用かつ不可欠なものであると言っていることになりますが、果たして私たちはそのようなものでしょうか?

 イエス様はまた、私たちがこの世の光である、とも言われます。どんな光かというと、ちょうど山の上にある町が隠れることができないのと同じように隠すことの出来ない光、また燭台の上において家の中を照らす蝋燭のように人前で輝かざるを得ない光だと言うのです。そのように人々に見える光が私たちの光であると言うのですが、それでは何が私たちの光かというと、「立派な行い」がそれだと言うのです。それが周りの人たちに見える目的は何かと言うと、見た人たちが神様を崇めるようになるためであると言うのです。私たちは、神をまだ知らない人たちが神を崇めるようになる、そんな目に見える立派な行いをしているでしょうか?

以前、私はキリスト教系の病院に通ったことがあります。受付の横の壁には、その病院がキリスト教の精神で運営されているとか、待合室には聖句が書かれた額縁が飾ってありました。その病院に来て、病気を治してもらったり、命を助けてもらったりしたら、きっと神様を崇める人もでてくるかもしれません。キリスト信仰者の医師や看護婦や職員が地域医療のために貢献する、これこそ地の塩、世の光の良い例と皆思うでしょう。もちろん、医者や看護婦にならないで、別の仕方で社会のために貢献して地の塩、世の光になっている方も大勢いらっしゃるでしょう。

このように見ていくと、本日の福音書の箇所は、キリスト信仰者たる者は世の人々にとって有用かつ不可欠な存在となって、立派な行いをして、人々が神を信じるように励みなさい、そうしないと信仰者失格で味を失った塩のように捨てられて踏んづけられて終わってしまうぞ、と教えているように聞こえます。もちろん、世のため人のために尽くしている人を見ると、そういう人は輝いている印象を受けるでしょう。しかし、別にキリスト信仰者でなくとも、人助けの大切さは誰でもわかるし、立派な行いをしている人も大勢います。そうなると、キリスト信仰者はもっと頑張って立派な行いで他を抜きんでていなければならない、ということでしょうか?そうなると、世のため人のために尽くすことが出来ない、病気とか障害とか失業とか貧困等のために、したくとも出来ない人たちは、地の塩、世の光にはなれない、ということになるのでしょうか?キリスト信仰者の中にもそういう弱者は大勢います。

本説教では、キリスト信仰にとって「立派な行い」とはどんなものかを少し考えてみようと思います。それが明らかになれば、地の塩、世の光である、ということがどんなことかもわかってくると思います。結論を先に申し上げると、キリスト信仰者の「立派な行い」というのは、神の国/天の国というものを本人にとっても他人にとっても本当にあるものだと証するものだ、ということです。以下、そのことを見ていきましょう。

 

2. イエス様が地の塩と世の光について述べた時、「立派な行い」は世の光と結びつけて述べられています。それでまず、世の光とはどんな光なのかということを見ていきたいと思います。

世の光は、まず、山の上に建てられて隠れることのできない町のようであると言われます。これは、一見わかりにくいたとえですが、どういうことかと言うと、イエス様の時代、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸から20~30キロ程のところにヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの町は朝日や夕焼けの時は遠方からでも町全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、私たちが放つ世の光というのは、これらの都市のように自ら光を発するのではなく、光の本当の源から光を受けて輝くことができる光ということです。

 次に、私たちが放つ世の光とは、燭台に灯した蝋燭の明かりのように暗かった家の中を照らし出す光であるということ。家の中の事物は、蝋燭の光を受けてそれなりに輝くので目に見えるようになるわけです。つまり、もともとは他から光を譲り受けなければならなかった私たちが、いったん光を受けて輝きだすと、今度は他のものにも輝きを与えていく、そういう光が私たちであるというのです。

 第三に、私たちの光は、「立派な行い」と不可分に結びついているということです。あえて言えば、私たちの「立派な行い」そのものが私たちの光であるということです。イエス様は言われます。燭台の上に置いて家の中を照らし出す蝋燭のように、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなた方の立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」つまり、人々が目にする私たちの光とは、実に私たちの「立派な行い」なのです。イエス様はさらに、その「立派な行い」には、見る人をして神を崇めるようになる影響力があると教えられます。

 ここで要約しますと、私たちは世の光ですが、それは本源的な光から光を受けて輝くことができる光であるということです。そして、そうした私たちの光は、実は私たちの「立派な行い」であり、それを見た人たちが私たちと同じように神を崇めるようになるという潜在力を持っているということです。それはあたかも、暗かった家の中で何の輝きもなくたたずんでいた事物が蝋燭の光を受けて輝きを持つようになるのと同じだというのです。

 さて、このイエス様の教えを理解できる鍵は、「立派な行い」とは何かということにありますが、「立派な行い」とは、ちょっと捉えどころのない言葉です。ギリシャ語ではκαλαεργαと言いますが、同じ言葉が「テトスへの手紙」では「良い行い」などと訳されています(2章14節、3章8節、14節)。「行い」と訳されている単語εργαは「業」とも訳されます。ここではギリシャ語の言葉の正しい訳は何かということには深入りしないで、ここで問題になっている「行い」ないし「業」とはどんな特徴をもった行い、業なのかを明らかにしたいと思います。

 「立派な行い」はどんな特徴を持った行いかと言うと、それは「光を放つ」ということです。その光はと言えば、前にも申し上げましたように、本源的な光を受けて光ることの出来る光です。本源的な光とは、これは神の栄光の光です。神の国はこの光に満たされた国です。そのことは黙示録の終りの方でも述べられています。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(黙示録22章5節)。「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らす」(同21章23節)。

 本日の旧約の日課であるイザヤ書58章でも同じことが言われています。「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」(10節)。6節から8節までを見ると、悪による束縛を経ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折り、飢えた人にパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまなければ、「あなたの光は曙のように指し出で」る、と言われています。

 苦難や困難にある者、困窮した者、悪に囚われた者、そういう助けを必要とする人を助ける時に光が輝くということですが、それは神の国の栄光から来る光です。そういう「立派な行い」をする時に、神の国の栄光の光がその行いをする人に反射するのです。つまり、「立派な行い」というのは光ることを通して神の国が存在することを証するものなのです。

 助けを必要とする人を助けることが神の国の存在を証しした例として、イエス様の奇跡の業があります。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて公けに活動を開始した時、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と大々的に宣べ伝えました。実際にイエス様が行ったことは、まず、神の人間に対する思いと神の国について、神のひとり子という立場から人々に教えたことがあります。具体的には旧約聖書を正確かつ権威をもって教えました。それから、イエス様は無数とも言えるくらい奇跡の業を行いました。数多くの難病や不治の病を癒したり、悪霊を退治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たことを示したのです。それで「神の国は近づいた」と述べたのです。

 イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、その全貌は何かというと、黙示録の20章から21章にかけて描かれています。そこで神の国は、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もないところです。ここで注意しなければならないことは、神の国は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、そういう今の世が終わる時に唯一残るものとし現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章に、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されている通りです。神の国が結婚式の祝宴にたとえられるというのは、この世での信仰の戦いや人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国で涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っているのです。

 ところで、この神の国はまだ世の終わりなどとは無関係に、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々や、それを目のあたりにした人々は、将来この世が終わりを告げる時に現れる神の国とは、この世では奇跡であることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験することができました。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。

この問題を最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという解決策に打って出たのです。そこで人間の方が、「あの、2000年前の昔の彼の地で天地創造の神がひとり子を用いて人間のために罪の赦しを実現したのは、現代を生きる自分のためにも行われたのだ」とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の死がもたらした罪の赦しがその人に効力を持ちます。そして、その人は罪が赦されるので神の目に適う者となり、そのようにして神の国に迎え入れられる者に変えられます。そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならない、と思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。

 

3. 以上のように、イエス様は奇跡の業を通して神の国の実在を証しただけではなく、実に十字架の業を成し遂げることで、私たち人間が神の国に迎え入れられるようにもして下さいました。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しを受け取って、神の国に迎え入れられる者に変えられます。神の国に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。そういうわけで、キリスト信仰者として生きるということは、奇跡と正義に満ちた神の国が実在することを、好むと好まざるとにかかわらず証するものにならざるを得ないのです。

それでは、キリスト信仰者はどのように神の国の実在を証していくのか?私たちもイエス様のように奇跡を起こさなければならないのか?神の国の栄光を現わすような「立派な行い」をしなければならないが、それは社会的に有用で不可欠なことをすることなのか?いろいろ疑問が起きます。ここで、答えの手がかりとして、使徒パウロが「ガラテアの信徒への手紙」5章で教えている、キリスト信仰者に育っていく聖霊の実ということを考えてみたいと思います。パウロはその実の内容として、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制をあげています(ガラテア5章22

23節)。このパウロの教えは実は、当スオミ教会の昨年度の年間主題聖句でした。先々週の主日礼拝の後のコーヒー・ティータイムの時に残られた教会員の方たちに1年間の歩みを、この主題聖句の観点から振り返ってもらう時を持ちました。ずっと以前から気にかけていた聖句だったとか、職場や家庭という実際の生活の場で聖霊の結ぶ実を意識したこと、意識したがゆえに至らない自分に気づかされたこと、それぞれにいろいろな思いをお話しいただきました。本日礼拝後の年次総会にて主題聖句は新しいものにとってかわるので少し名残惜しい気がします。

昨年、この聖霊の結ぶ実を年間主題聖句にすることを決めた際に私が強調したことは、以下のことでした。愛、喜び等々の徳性は、イエス様を救い主と信じた時点で一気に備わるものではなく、実なので育ち始めるもの、そして各自の性格、個性、置かれた環境に影響されて、それぞれの仕方で次第に育っていくものであることがまず第一点としてありました。第二点は、これらの徳性は、自分の努力で達成しようとか、獲得しようとするものでなく、イエス様を救い主と信じる信仰が中心にあることで、天の父なるみ神が育ててくれるものであるということです。どういうことかと言うと、自分に罪の思いがあることがわかって、神の意思に反する自分を知った時、心の目をゴルゴタの十字架に向ける、すると、そこで首をうなだれた救世主の全身に自分の罪が貼り付けられているのを目にする。その時、「お前の罪はあそこで赦されている。だから、心配しなくても良い。もう罪は犯さないように」と言う神の声が心に響きます。私たちが生きている現実では、そのようなことは残念ながら繰り返されてしまいます。しかし、繰り返すごとに次第に、自分は神の前に立たされても潔癖でいられるのだ、やましいところはないのだ、という、そんな大それたことがイエス様のおかげで言えるのだということがわかってきます。それがわかればわかるほど、良心は責任感と安心に支えられていきます。このようなプロセスを経るうちに、聖霊の実が、自分では追い求めたわけではないのに育っていく、そのような実り方でいきましょう、ということを申し上げた次第です。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制などの聖霊の実は、力ある人、余裕のある人の場合には、苦難困難に陥っている人や困窮している人を助けたり、悪に束縛された人を解放してあげる行動として現れるでしょう。(注 「聖霊の実」とは別に「聖霊の賜物」という、特別な力が特定の人に与えられて、助けることができる場合もありますが、ここでは全てのキリスト信仰者にあてはまる「聖霊の実」を中心にお話しします。)そのような行動は、本日のイザヤ書の日課に言われるように光を放ち、世の光として神の国の実在を証しします。しかし注意しなければならないのは、それは聖霊の実が具体的な行動として現われたものなので、あくまで聖霊の実の方が「立派な行い」そのものということになります。

そこで、自身が病気その他の事情のために力も余裕もなく、助けてあげたくとも出来ない人たちの場合はどうなるでしょうか?彼らは、神の国の栄光を輝かせることは出来ないのでしょうか?いいえそんなことはありません。そのような人たちの場合も、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り、力ある人、余裕ある人と全く同じ聖霊の実を結ぶ成長を辿っているので「立派な行い」をします。病床にあるキリスト信仰者でも、自分のことだけでなく他人のために祈り続けている人も大勢います。彼らも世の光として、神の国の実在を証しているのです。兄弟姉妹の皆さん、余裕がある場合でもない場合でも、隣人のために祈ることは神の国の実在を証することになりますので、それを絶やさないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「イエス様につき従った弟子たち、そして私たちは」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章18-25節、イザヤ43章10-13節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

  イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その時イザヤ書の預言通りに聖霊が彼に降って、いよいよ天地創造の神が定めていた人間救済計画の実現に乗り出すことになります。イエス様はまず、ユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けて、最後にこれに打ち勝って、それからイザヤ書の預言通りにガリラヤ地方にて活動を開始しました。ただし、自分が育った町ナザレでは人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに活動の拠点を移しました。以上がイエス様が洗礼を受けた出来事から本日の福音書の日課までのあらすじです。本日の福音書の箇所は、カペルナウムに移った後で何が起こったかということについてです。

イエス様がガリラヤ湖畔を進んで行くと、二人の漁師が投げ網漁をしていました。二人は兄弟で名前をペトロとアンデレと言いました。彼らに向かってイエス様が言います。「私に従って来なさい。お前たちを、人間をつかまえる漁師にしよう。」「人間をつかまえる漁師」とは、エレミア書16章16節にある預言の言葉です。この預言は、イエス様の時代から600年くらい前に遡った頃に与えられました。その意味ですが、預言が与えられた時代の文脈でみると、バビロン捕囚のために世界各地に散り散りになったイスラエルの民を将来、イスラエルの地に戻す、漁師が魚を捕るように集めて戻す、ということです。つまり、バビロンからの帰還を意味するという理解がされました。さて、イスラエルの民の祖国帰還はイエス様の時代から500年程前に実現しました。それでは、イエス様はどのような意味でこの古い預言の言葉を述べたのでしょうか?実は、このような預言は、イエス様の時代には、死者の復活とか最後の審判ということを考える人たちの間では、そういうこの世の終わりの時にメシア救世主を信じる者が世界中から集められて神の国に迎え入れられる、そういう理解がされていました。ただ、漁師のペトロとアンデレはそのような理解をしたでしょうか?そもそも二人はそのような預言があること自体を知っていたでしょうか?いずれにしても、二人は「すぐに網を捨てて」イエス様に従って行きました。こんなに簡単について行くというのはどういうことでしょうか?

ペトロとアンデレだけではありませんでした。さらに進んでいくと、舟の中で父親と一緒に網の手入れをしている二人の兄弟が見えました。名前はヤコブとヨハネ。イエス様が声をかけると、この二人の兄弟も「舟と父親を残して」イエス様に従って行きました。

4人の漁師たちは、ただ声をかけられただけで、そのまま「網を捨てて」、「舟と父親を残して」すっとイエス様に付き従って行ってしまいました。イエス様を一目見て、その一声を聞いて付き従って行ってしまうとは、何か不思議な力が働いているとしか言いようがありません。この段階ではイエス様は、まだ権威ある教えを大々的に述べて、奇跡の業を行うことはまだしていません。彼がガリラヤ全域の会堂で教えを宣べ始めて奇跡の業を行い出すのは、本日の福音書の日課で言われるように、4人の漁師を弟子にした後のことだったのです。この段階では、彼らにとってイエス様はまだ素性のわからない人物です。それなのに、一声かけられて生業も父親もほっぽり出して、そのまま付き従って行ってしまうとは、これはもう人間の内側の心理的なやり取りで説明できる話ではなく、人間の外側から働く力、まさに神の力によるものだったとしか言いようがありません。それはまさに、イエス様が、病気から治れと命じたら治ってしまうように、嵐よ、静まれと命じたら静まってしまうように、また、悪霊よ、この人から出て行けと命じたら出て行ってしまうように、イエス様がついて来なさいと言ったら、そうなってしまうのです。マタイ9章9節をみると、徴税人のマタイが座っていたところをイエス様に声をかけられるやいなや有無を言わずに立ち上がって従って行った、とありますが、これも同じことでしょう(マルコ2章14節とルカ5章27-28節では徴税人の名前はレビ)。

 

2.イエス様につき従った弟子たち

イエス様が呼び出したらもうついて行かざるを得ないということは、本日の旧約の日課イザヤ書の預言が実現したことを意味しています。そこでは、神が自分が成す業を目撃してその証人になる者を選ぶということが預言されています。イザヤ書43章13節をみると、「今よりも後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰がもとに戻しえようか」とあります。「わたしの手から救い出せる者はない」というのは、少し注釈が必要です。「救い出す」と言っているのは、ヘブライ語の動詞נצלをそう訳しているからですが、「悪から救い出す」と言うのならわかりますが、「神から救い出す」というのは意味をなさないと思います。この動詞の基本的な意味は「取り去る」です。それで、「わたしの手から取り去る者はない」の方がよいでしょう。つまり、神が証人として選んだ者はもう神の手にしっかり握られているので、何をもってしても証人をやめさせることはできない、ということです。まさに、「わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか」ということです。このイザヤ書の預言に従えば、イエス様が4人の漁師をはじめ弟子たちを呼び集めたというのは、第一にイエス様の業と教え、そして彼に起きる出来事をつぶさに目撃させて、その証人になってもらうことがありました。第二には、この呼び集めは神の力で行うものなので、一度呼び出されたら個人的な事情は関係なく、ただやるしかないことがありました。神の力でイエス様の目撃者、証人にさせられるというのが、イエス様の弟子の呼び集めの趣旨であったと言えます。

 そうすると、イエス様の教えや業や出来事の目撃者、証人になることはよいにしても、有無を言わさずにあたかも人形の駒のように呼び出しに従わせるのは、ちょっと強引すぎるのではないかと思われるかもしれません。しかしながら、天地創造の神は、人間救済計画を実現する時が来た、それを一気に実現してしまおうとしたのです。この、一気に実現してしまおう、という神の意気込みは、イエス様のこの世での活動の期間がとても短いものであったことからもうかがえます。聖書の読者には意外かもしれませんが、イエス様が神の計画の実現に携わった期間というのはとても短かいものでした。マタイ福音書を見ると、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けて活動を開始してから十字架と復活の出来事までページ数は58ページあります。ところが、誕生から洗礼までは2ページしかありません。そのためイエス様の活動期間は長かったような印象が持たれるのですが、この期間は普通、大体3年位と見なされています。短く見積もる研究者は大体1年ぐらいと言う人もいます。イエス様の地上での全生涯は大体30年少しというのが定説ですので、全部の福音書の大半を占める活動期間の出来事は、実に生涯の最後の期間、短くて1年、長くて3年位の期間に集中しているのです。神が計画されていたことを速やかに確実に成し遂げるという時に、弟子たちの呼び集めというものも完全に神主導になって有無を言わせない動員になったと言うことができます。

 イエス様がこの地上での生涯のまさに最後の期間に行ったことというのは、まさに神の人間救済計画を実現することでした。神の人間救済計画とは、端的に言えば、人間を神の国に迎え入れられるようにするということです。イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。先週の説教でもお教えしましたように、「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味していました。

神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々は、将来この世が終わりを告げる時に到来する神の国とは、この世で奇跡と捉えられることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。

この問題を最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという解決策に打って出たのです。そこで人間の方が、「あの、2000年前の昔の彼の地で天地創造の神がひとり子イエス様を用いて人間のために罪の赦しの救いを実現したのは、現代を生きる自分のためにも行われたのだ」とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の身代わりの死に免じて確立した罪の赦しがその人に効力を持ち、罪が赦されるので神の目に適う者となり、神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。その人は、そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならない、と思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。

さて、このようにしてイエス様は、私たちが神の国に迎え入れられるようにと、天の父なるみ神の意思に忠実に従って、十字架の死と死からの復活の業を成し遂げて、神の人間救済計画を実現しました。つまり、この地上での生涯の最後の1-3年ほどの短い期間に本当にとてつもないことを成し遂げられたのです。全ての人間の罪の罰を全部請け負って、人間が罪の赦しを受けられて神の国に迎え入れられる道を開いたのです。神の国に迎え入れられない絶望的な状況を希望ある状況に変えて下さったのです。

この大事業の完遂にあたってイエス様は弟子たちを呼び集めました。弟子たちに課せられた使命は、イエス様と共にいてその教えと業そして起きる出来事をつぶさに見聞きして目撃者になること、そしてイエス様から授かった教えと力をもって、神の国の実在を証しして罪の赦しを宣べ伝えることでした(マルコ3章13-15節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの迫害にも屈しない命がけの証言を聞いてイエス様を見なかった人たちが彼を救い主と信じるようになりました。そういうことが連鎖反応的に起こって、最終的に弟子たちの証言やそれに基づく教えや信仰の証しがまとめられて、聖書の新約の部分ができあがりました。弟子たちの証言や聖書がなければ、誰もイエス様を救い主と信じることはできません。イエス様が門を開いて下さった神の国にも入ることはできません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現した救いが国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする役割を果たしたのです。

イエス様が使徒と呼ばれる弟子たちを選んで呼び出したのは、このような重要な役割を担わせるためでした。この呼び出しは、神のひとり子の十字架の死とその死からの復活という、まさに人類を闇から光に方向転換させる出来事を間近にして行われました。このような大きな出来事を間近にしたイエス様の呼び出しに個人的な事情を顧みない、有無を言わせない力があったというのは当然でしょう。本当に何か途方もない力が働いて、人間が次々に吸い取られていくような雰囲気がありました。福音書は、このように自動反応のごとくイエス様につき従い始めた弟子たちの内面的葛藤とか一切触れていません。きっと実際に自動反応のようなことが起きたのでしょう。それで、その雰囲気をそのまま伝えたいために、余計な説明を付け足すことをしなかったのでしょう。

イエス様自身、このような自動反応を期待していたことが、信心深い百人隊長の信仰がそのようなものであることを知って感心したことに伺えます(ルカ7章1-10節、マタイ8章5-13節)。ところが、呼び出されても自動反応が起きない場合は、イエス様はとても手厳しかったです。ある呼び出しを受けた人が死んだ父親を葬りに行ってもいいかと聞くと、「死者は死んだも同然の者たちに葬らせればよい」と答えます(ルカ9章59-60節、マタイ8章21-22節)。神の力が及んでも、人間の自由意思がそれを押しとどめた例と言えます。その人がそのままイエス様に従って行ったかどうかはわかりませんが、神の力が及んで付き従った筈の弟子たちにも、自由意思の葛藤はもちろん起きます。「私たちは全てを捨てて従って来ました、何をいただけるのでしょうか」という情けない質問も出ました。イエス様が逮捕された時、弟子たちは皆逃げてしまいました。しかし、そうした、神の力と人間の自由意思の葛藤に揉まれるというプロセスを経て、イエス様の復活を目撃した後は、迫害にも屈しない文字通りの「使徒」に変えられたのでした。

 

3.そして、私たちは

それでは、私たちも同じようにしなければならないのでしょうか?もし神の召し出しを受けたら、私たちもゲームのコマのように駆り出されて、4人の漁師のように、生業やさらには親や家族を置いて出て行かなければならないのでしょうか?それが私たちにとってイエス様の弟子になる、彼の後をつき従うということになるのでしょうか?

ここでひとつ注意しなければならないのは、私たちに関して言えば、神の人間救済計画は既に実現しているということです。実現の目撃者、証言者になって聖書を編み出すという役割は、既に使徒たちが果たしてくれました。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してイエス様の弟子になります。私たちがイエス様の弟子になるというのは、まず、実現済みの救いを受け取る者になるということを意味します。それから、「イエス様の十字架と復活の業は自分のためにもなされた、だからイエス様は私の救い主です」と言って、周りに証しできることも弟子であることの内容です。そして、周りの人もイエス様を救い主であることをわかって信じることが出来るように働きかけることも入ります。大きく言って、救済の実現に際して特別な役割を託された弟子たちとは状況と立場が少々異なっているので、弟子たちが受けたのと同じような、自動反応をもたらすような召し出しは恐らくないのではないかと思われます。ただ、もちろん、周りに証することは弟子たちと共通しているので、それを忘れてはならないと思います。

ところで、キリスト信仰者は、堕罪の時以来、人間を神から切り離して神の国に入れないようにしようとする力が今もずっと働いているということを忘れてはいけません。そのため、その悪い力は手立てを尽くして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者からその信仰を取り去ろうとします。究極的な場合、肉親を信仰の反対者に立てて、信仰を捨てるか肉親を捨てるかどちらかを選べという苦しい選択に追い込むこともします。そのような時は、どうしたら良いでしょうか?

昔フィンランドで聖書を学んでいた時、私はこの問題について聖書の教師に尋ねたことがあります。「もしキリスト信仰者でない親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、十戒の第四の掟『父母を敬え』はどうすべきか」と。彼が教えたことは次のことでした。「何を言われても騒ぎ立てたり取り乱したりせず自分の立場をはっきりさせておきなさい。たとえ意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てるとか、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親が信仰に至る可能性もあるのだから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい。」

 信仰に反対する者に対して敬意をもって自分の立場を明らかにするというのは、ダニエルがバビロン帝国のネブカドネツァル王に言った言葉を思い出します。ネブカドネツァルは、ダニエルに対して、王が作った金の像を拝むか火の炉に投げ入れられるか、どちらかを選べと言われて、次のように答えました。

「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ずや救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル3章16-18節)

 キリスト信仰者においては、捨てる、捨てない、と言っている信仰とは一体何なのかということをしっかり明らかにしておかなければなりません。それがはっきりしないのに、捨てるとか捨てないとか言っても、話になりません。信仰とは、本説教で申し上げてきたことに関連して言えば、大体次のようなことになります。イエス様が自分のために十字架と復活の業を成し遂げて下さったおかげで、私は神聖な神の前に立ってもやましいところがない、潔癖な者であると見なしてもらえるようになった、ということを本当にその通りだとしていることです。

本当ならば神聖な神の前でやましいところがない、潔癖だなどとは言えない身なのですが、イエス様が神聖な神のひとり子でありながら私の身代わりになって十字架の上で死なれた、それでイエス様こそ救い主です、と信じて告白すれば、神は彼の身代わりの犠牲の死に免じて私にはやましいところがない、潔癖な者として見なして下さるのです。このことは、人間がこの世の人生を終えて、次の未知なる大いなる世界に足を踏み入れる時にとても大事なことになります。なぜなら、この全く未知の恐るべき世界に足を踏み入れる時、自分には手を取って御許に引き上げて下さる方がおられるとわかることができるからです。私のことをやましいところがない、潔癖であると認めて下さる方がいらっしゃるので、それがわかるのです。本当に神がそのように認めてくれるというのは、あの2000年前の彼の地に打ち立てられた十字架という歴史上の出来事があるから、わかるのです。

 そのように、大いなる安心と信頼をもって、自分の全てを大いなる意思に委ねて未知の世界に足を踏み出すことができる。このような安心と信頼を、どうして捨てなければならないのでしょうか?また、どうして奪い取ろうとするのでしょうか?奪い取ろうとするのは、何かもっと確かな安心と信頼を保証してくれるからなのでしょうか?奪い取ろうとする者がそれを示せると言うのなら、イエス様の十字架を超えるような出来事が歴史上あったのか示せると言うのでしょうか?もし示せないで奪い取ろうとするのならば、一体何のために奪い取ろうとするのでしょうか?自分ではその大いなる安心と信頼を求めたいと思わないのでしょうか?全く理解できないことです。

最後に「ペトロの第一の手紙」3章13-16節の聖句を引用して本説教の締めとしたく思います。

「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

説教「悔い改めよ。神の国は近づいた。」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章12-17節

主日礼拝説教 2017年1月22日(顕現節第三主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.イザヤの預言の成就

 先週の福音書の箇所は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事についてでした。イエス様という本来ならば洗礼など必要のない神聖な神のひとり子がなぜ洗礼を受けなければならなかったのか?それは、イザヤ書に記された預言に従って、創造主の神が人間救済計画を実現するために必要な手続きであった、ということを先週の説教でお教えしました。洗礼の後でイエス様に何が起きたかと言うと、ユダヤの荒野で40日間に渡って悪魔から誘惑の試練を受け、それに打ち克つという出来事がありました(4章1-11節)。そのことがテーマになる主日は、日本のルター派教会では、イースター前の四旬節の最初の主日に定められています。今年は3月5日です。イエス様が悪魔から受けた試練については、その時に譲りたく思います。

本日の福音書の箇所は、イエス様が悪魔の誘惑の試練に打ち克った後に起きた出来事についてです。イエス様がいよいよ神の人間救済計画を実現するための活動を公けに開始したというところです。まず、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスに捕えられたという報が伝わります。捕えられた理由は、ヨハネがアンティパスの不倫を神の意思に反することだとはっきり言ったためでした。牢獄につながれたヨハネは後で首をはねられてしまいます(14章1-12節)。さて、イエス様は、ヨハネが捕えられたと聞いて、そのガリラヤ地方に乗り込んでいきます。(新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、アンティパスの本拠地に行くわけなので、「退かれた」ではないでしょう。)ただし、育ち故郷の町ナザレに戻ってそこを活動拠点にはせずに、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。ナザレに戻ったイエス様に何が起こったかということについては、ルカ4章16-30節に記されています。

さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。そのことがイザヤ書にある預言の成就であったと記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地」という文句で始まるところです。イエス様のガリラヤ地方での活動開始が、どうしてイザヤの預言の成就であると言えるのか、それは、この預言の全体を見てみるともっとよくわかります。少し見てみましょう。

イザヤ書の預言は、同書の8章23節から9章6節までのところです。この預言が語られた歴史的背景を見てみます。時は紀元前700年代、ダビデ王の王国が南北に分裂して二つの王国が互いに反目しあって200年近くが経った頃のことです。こともあろうに、北側のイスラエル王国が隣国と同盟して、兄弟国である筈の南側のユダ王国に攻撃をしかけようとしました。ユダ王国は、王様から国民までパニック状態に陥ります。そこで、預言者イザヤが現れて、「攻撃は絶対成功しない、なぜなら神の御心がそうだからだ、だから心配に及ばない」と宣べ伝えます。実際、北王国とその同盟国は、東方の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまうので、ユダ王国に対する攻撃計画は実現しませんでした。しかし、神の民であるユダヤ民族の北半分が滅びてしまいました。本日の福音書の箇所に引用されているイザヤの預言の出だしの部分は、このことについて述べています。引用元のイザヤ書8章23節に次のように記されています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」

ゼブルン、ナフタリというのは、ヤコブの12士族のうちの2つで、ガリラヤ地方に移住した士族です。場所的には北王国にあたります。それで、同国が滅びたことが「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」ことを指します。しかし、預言は一つの国の滅亡に終わりません。まだ続きがあります。同じ8章23節の後半で、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と言われます。異民族に蹂躙されてしまったこのガリラヤ地方が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに神の栄光を受けるかということについては、イザヤ書の続く9章1節からの預言に記されています。聖書の中で有名な箇所の一つです。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが本日の福音書の箇所に引用されています。預言はさらに続きます。9章5-6節には次のように記されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている人物は、まぎれもなくイエス様です。

この預言が示されてから700年の後、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃して、神の人間救済計画が実現したとわかった人たちが最初のキリスト信仰者になりました。彼らは、イエス様こそ「人間を闇の中、死の陰の地から導き出す光である」とわかったのです。そして、ああ、そう言えば、イエス様の公けの活動はまさにガリレア地方で始まったではないか!と思い当たり、そうか、あれは全てイザヤ書8章23節から9章6節までの預言の成就だったのだ、とわかったのであります。それで、その預言が、短縮された形ですが、本日の福音書の箇所に引用されるに至ったのです。

本日の旧約の日課であるアモス書3章の7節には、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」と述べられていますが、まことにその通りです。このように創造主である神は、人間救済計画がどのように実現されるかということを、何百年前だろうが前もって預言者に告げ、約束されたことを全て果たされた忠実、誠実な方なのです。

 

2.「悔い改めよ」

 少し前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所の大事なところをみていきましょう。それは、イエス様が公けに活動をした時に冒頭で述べられた言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。二つの短い文ですが、大切な事柄が沢山凝縮されています。それを見ていきましょう。

まず、「悔い改めよ」について。「悔い改める」というと、何か「悔いる」とか「後悔する」とか「反省する」というような意味があるように感じられます。「悔い改める」のギリシャ語原文の言葉は、メタノエオ―μετανοεωという動詞で、もともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。ところが、新約聖書の中でメタノエオ―と言ったら、それは「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。どうしてもともとの意味が神に向けられるように限定されたのかと言うと、ヘブライ語の旧約聖書の中にシューブשובという、「神のもとに立ち返る」という意味で使われる動詞があって、それに対応するギリシャ語は何か?ということで、メタノエオ―μετανοεωが使われるようになったという事情がありました。こうして、「考えを改める」、「考え直す」が「神との関係で考えを改める」「神との関係で考え直す」というふうになり、今まで神に対して背を向けていた生き方を改めて、これからは神に向き直して考える、行動する、生きるという意味になりました。そういうわけで、メタノエオ―μετανοεωは新約聖書の中では「神のもとに立ち返る」という意味です。(もちろん、エピストレフォ―επιστρεφω「立ち返る」も同じ意味を持ちますが、μετανοεωの場合は、語源的にみて「立ち返り」の内面的作用に注目するものと言うことができます。)

それでは、このメタノエオ―μετανοεω、「神のもとに立ち返る」とは、一体どのようなことをすることでしょうか?それがわかるために、まず、人間は自分の造り主である創造主の神とどんな関係にあるかということを考えてみる必要があります。神との関係はいいのか?悪いのか?うまくいっているのか?いっていないのか?

人間と神との関係について、イエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然、行為に及ばなくても神が与えた十戒の第5の掟を破ったことになる、また異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6の掟を破ったことになる、と教えました。つまり、十戒を外面的だけでなく内面的にまで守れないと、神の意思に反することになると言うのです。そうなると、神の意思を凝縮した十戒の掟を全てそのように完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しなくなります。

マルコ7章の初めにはイエス様とユダヤ教社会の宗教エリートとの論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争です。イエス様の論点は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものと言えば、それは律法のような戒律や様々な宗教的な儀式でした。しかし、戒律を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現・体現には程遠く、神の裁きを免れて永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。

人間には、神の意思に反しようとする神への不従順や罪が内在している。しかも、それらは人間が自分の力では除去できない。とすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世の人生では神との結びつきがないままで、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることはできない。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送り、全ての人間の全ての罪の罰を彼に請け負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦す、というものでした。人間は誰でも、このイエス様を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のために行われたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、この神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようになりました。こうして人間は、自分の造り主である神との結びつきを回復できてこの世の人生を歩み始めることとなり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死んだ後も永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

以上のように、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事を経て、神との結びつきや永遠の命を保証するメタノエオ―μετανοεω、「神のもとへ立ち返る」手がかりを得ることができました。それは、戒律を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、そういったものに拠り頼んでも自分からは罪の汚れは消え去らないと観念して、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けて、まずイエス様の神聖な純白な衣を頭から被せられること。もちろん自分の内に残る罪は必ずや、その衣を脱ぎ捨てるようにそそのかすけれども、ひたすらそれにしがみつくように着ていること。罪は純白な衣にそぐわないことをしろとそそのかし、私たちが弱さや油断からそうしてしまうことがあったとしても、その度、「父なるみ神よ、私の罪を赦して下さい。イエス様以外に拠り頼む方はいません!」と祈れば、神は「わかった、私のイエスの身代わりの死に免じてお前を赦そう、もう罪は犯さないように」と言って下さり、私たちがイエス様の白い衣をしっかり纏っていられるようにして下さるのです。本当にイエス様こそが「神のもとへの立ち返り」の手がかりであり、それ以外にはないのです。

イエス様がガリラヤ地方で公けに活動を開始した当時は、まだ十字架と復活の出来事はありませんでした。そのため、「神のもとへ立ち返れ」と言われても、人々は、何をどうしたらいいのか、戒律や宗教的儀式を積めと言うのならともかく、そうでなければ一体何なんだ、と途方にくれたでしょう。イエス様は、厳しい教えを突きつけて、人々をいったん途方にくれさせて、最後に自らを十字架の死に委ね、死から復活させられたことをもって全てを明らかにしたのです。

 

3.「天の国は近づいた」

 次に本日の福音書の箇所でもうひとつ大事なこと、「天の国は近づいた」を見ていきましょう。「天の国」は、他の福音書では「神の国」と呼ばれています。マタイは、「神」という言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、それで「天の国」と言います。

 実は、洗礼者ヨハネも同じ言葉「悔い改めよ。天/神の国は近づいた」を述べていました(マタイ3章2節)。しかし、イエス様とヨハネの言葉の意味には決定的な違いがありました。イエス様が「天/神の国は近づいた」と宣べて活動した時、ヨハネと違って様々な奇跡の業が伴っていました。皆様もご存知のように、イエス様は数多くの難病や不治の病を癒し、悪霊を退治し、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたりするという無数の奇跡の業を行いました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たことを示したのです。ヨハネの場合、「神の国が近づいた」というのは、それがもうすぐイエス様と共に来る、ということですが、イエス様の場合は、自分と一緒にもう来ている、ということだったのです。

 イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、神の国の全貌はというと、例えば黙示録20章から21章にかけて描かれています。それは、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もない、というところです。ここで注意しなければならないことは、この神の国とは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、今の世が終わる時に現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章には、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されています。神の国が結婚式の祝宴にたとえられるということも、この世での信仰の戦いや人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国で涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っているのです。

 ところで、神の国はまだ世の終わりなどとは無関係に、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、人々はイエス様の奇跡の業を目のあたりにして、将来到来する神の国とはこのようなことが当たり前になっているところなのだと体でわかったのであります。ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできません。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを入れるようにして下さったのがイエス様なのでした。イエス様の十字架の死と死からの復活が全てを可能にしたのです。父なるみ神がひとり子を用いて私たち人間のために「罪の赦しの救い」を実現した、これはまさにこの自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちはこの救いの所有者になります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者とものと見なされて、神の国の立派な一員として迎えられるのです。

 

4.おわりに

 さて、復活されたイエス様が天に上げられて、その再臨を待つ今の時というのは、神の国がその日に顕現するのに備えて待機状態にある時と言ってよいでしょう。だからと言って神の国は今、私たちと無関係にあるのではなく、キリスト信仰者にあっては、しっかり信仰に留まる限り、そこへの入国許可証を手にしているのです。「我らの国籍は天にあり」(文語訳フィリピ3章20節)というのは、まことにその通りです。キリスト信仰者は二重国籍者です。もちろん現実の世界で二重国籍を認める国は多いので、そういう人たちも多くいます。しかし、死んでしまえばゼロです。天の御国に国籍がある二重国籍者は、どこにいようが、死のうが生きようが失われず、有効であり続ける国籍を持っています。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは天国に永住権を有しているのです。この永住権の「永」は文字通り死を超える永遠のものです。キリスト信仰にあっては、たとえ他の全てのものが失われても、これだけは失われないという、そういうものがある、天の御国の国籍はまさにそれなのです。このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「イエス様が受けた洗礼と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章13-17節

主日礼拝説教 2017年1月15日(主の洗礼日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の日課は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事についてです。これは驚くべき出来事です。どうしてイエス様が洗礼を受ける必要があったのでしょうか?ヨハネの洗礼というのは、救世主メシアの到来と来るべき神の裁きの日に備えて人々を準備させるものでした。どのように準備させるかというと、人々が罪の告白をして神のもとに立ち返るという決心をして、救世主メシアをお迎えするのに相応しい者になるということです。実際のところ、ヨハネのもとに来た人たちは、彼の洗礼ですぐ罪が洗い流されて清くなり神の裁きを免れると思っていたようです。しかし、ヨハネの洗礼はあくまで、もうすぐ来る救世主メシアを迎えるのに相応しい者にするということであって、罪を帳消しにするような決定的なものではありませんでした。そのことについては、ヨハネ自身、自分の後に来る方の名のもとに行われる洗礼こそが決定的な洗礼になると述べています。

その救世主メシアであるイエス様自身がヨハネから洗礼を受けるというのは、つじつまが合わないことです。なぜならイエス様は、神の神聖なひとり子であり、聖霊の力で乙女マリアから人間の体を持ってこの世に生まれてきますが、罪の汚れを持たない神のひとり子としての性質はそのままです。それなのでイエス様は、なにも罪の告白をして神のもとに立ち返る決心などする必要はありません。ヨハネの洗礼というのは、今申し上げたように、受ける人が救世主メシアを迎えるのに相応しくなるようにするものです。イエス様が自分自身を迎えるのに相応しくなるなんて意味をなしません。ヨハネから洗礼を受ける必要など全くなかったのです。それだから、イエス様が目の前に現れた時、ヨハネは驚いてしまったのです。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と言っているほどです。ヨハネのとまどいはよく理解でします。では、なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?

この問いに対する答えとして、「イエス様は神の子でありながら、人間と同レベルになることに徹しようとした。それで、罪がないのに罪ある人間たちの間に入って洗礼を受けたのだ」と考える人もいます。つまり、人間にとことん寄り添う憐れみ深いイエス様、連帯心の強い方ということですが、実はもっと深い意味があります。もちろん、寄り添いや連帯ということは否定しませんが、それでもそうした捉え方ではとても収まりきれない、もっと大きなことがあります。その大きなこととは何かを知る手掛かりは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書42章にあります。そういうわけで、本日の説教は、イエス様がヨハネから受けた洗礼とは何だったのかということをイザヤ書の預言から見てみることにします。そして終わりのところで、イエス様が洗礼を受けたことが私たちにとって何だったのかということを見ていこうと思います。

 

2.

 なぜイエス様がヨハネから洗礼を受けなければならなかったのか?この問いの答えは、本日の福音書の箇所の中にあります。マタイ3章15節でイエス様が、躊躇するヨハネに対して、次のように言います。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」つまり、イエス様がヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」だからだというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのはあまりにも当たり前すぎて、それがどうイエス様の洗礼と関係するのかわかりません。これを理解するためには、福音書のギリシャ語の原文を見てみる必要があります。この問題は以前にもお教えしましたが、少し復習します。

 15節を原文に忠実に訳すと次のようになります。「今は言う通りにしなさい。このようにして義を全て成就することは我々にふさわしいのだから」。ふさわしいのは何かと言うと、「正しいことをすべて行う」ことではなくて、「義を全て成就すること」πληρωσαι πασαν δικαιοσυνηνです。この訳が、私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の聖書を繙いてみてもわかります。英語訳の聖書(NIV)、ドイツ語のルター訳、スウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ても、みな同じように「義を成就すること」が言われています([英]to fulfill all righteousness、[独ルター]alle Gerechtigkeit zu erfüllen、[ス]uppfylla allt som hör till rättfärdigheten、[フィン]täyttäisimme Jumalan vanhurkaan tahdon)。そういうわけで、この箇所は、「正しいことをすべて行う」ではなくて、原文に忠実な「義を全て成就する」でいこうと思います。

 そこで問題となるのが、それでは「義を全て成就する」とは何なのか、ということです。まず、「義」δικαιοσυνηという言葉ですが、これは、ルター派がよく強調する信仰「義」認の「義」、つまり、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から義と認められる、その「義」です。「義」というのは、つまるところ、神の意思が完全に実現されている状態を指します。神の意思が完全に実現されている状態とは、端的に言えば、十戒が完全に実現されている状態です。十戒は、「私以外に神をもってはならない」という掟で始まりますが、最初の三つの掟は神と人間の関係について神が人間に求めているものです。残りの七つは、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」、「貪るな」など、人間同士の関係について神が人間に求めているものです。神自身は、十戒を完全に実現した状態にある方、十戒を体現した方ですから、神そのものが義の状態にある、義なる存在であるということになります。

 この神の義というものを今度は人間の側について見ると、人間はそのままでは義を失った状態にあります。その理由は、人間は内に罪と神への不従順を宿しているからです。十戒に反しようとする性向を持っているからです。人間が義を失った状態でいるとどうなるか?それは、創造主であり自分の造り主でもある神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになります。さらに、この世から死んだ後も造り主の神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまいます。人間が神の義を持てて、神との結びつきを持って生きられるためにはどうしたらよいか?そのことについてユダヤ教の中では、十戒や律法の掟をしっかり守ろうと言って、義を自分の力で獲得することが目指されてきました。しかしイエス様は、人間がいくら自分たちの作った掟や儀式で罪を拭い去ろうとしても、罪は人間の内に深く根を下ろしているので不可能であると教えました(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、神が与えた十戒の掟というものは、自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反するものであるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのです(ローマ7章)。

 この世にいても次の世にあっても創造主の神としっかり結びついていられるためには神の義を持てなければならない。それを持てるために成すべきことは十戒に定められている。しかし、神の神聖さにピッタリ合うくらいに十戒を完璧に達成することは誰にもできない。この行き詰まり状況を神自身が打開して下さったのです。どのようにして打開したかと言うと、ご自分のひとり子イエス様をこの世に送って、彼に全ての人間の全ての罪の罰を受けさせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせたことです。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、このような犠牲の業を果たしたイエス様こそ自分の救い主であると信じて、この神が与えて下さった罪の赦しを受け入れた瞬間、神から義なる者と見なされるのです。もちろん、イエス様を救い主と信じても、人間は肉を纏っている限り、罪の思いを持ち続けます。罪を完全に拭い去ることはできません。しかし、神から罪の赦しを受け取ることができると、神との結びつきを持って生きられるようになります。神との結びつきがあれば、残っている罪にもう人間と神の間を引き裂く力、人間を永遠の滅びに陥れる力はありません。「イエス様を救い主と信じますから罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった。私のイエスの犠牲の死に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言ってくれるのです。

このように神から罪の赦しを受ける者は、絶えず受け続けることで、残っている罪を日に日に干からびせていきます。ただ、イエス様を救い主と信じることで罪は決定的な打撃を受けたとは言え、それでも必ず隙を狙ってきます。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、結局は罪の無駄な抵抗に終わります。

 

3.

 以上みてきたように、イエス様が洗礼を受けるためにヨハネのもとにやって来たのは、「義を全て成就する」ためでした。「義を全て成就する」というのは、人間が神の義を持てるようにしようとする神の計画を実現することでした。それでは、ヨハネから洗礼を受けることがどうしてそうした神の計画を実現することになるのでしょうか?

イエス様が洗礼を受けた時、何が起きたを思い出しましょう。まず神の霊、聖霊がイエス様に降りました。加えて、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。これらの出来事は全て、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書42章1~7節の預言がそのまま成就したことを示しています。イザヤ書に出て来る神の「僕」とはイエス様を指します。天から響く声と聖霊の降りは、1節の内容そのものです。

そこで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」と言われますが、どういうことでしょうか?3節にも「裁きを導き出す」とあり、4節には「裁きを置く」と言われています。少しわかりにくいことです。「机の上に何か物を置く」というのはわかりますが、「裁きを置く」とはどういうことか?日本語として意味をなしているのか?どうやって「裁き」を「置く」のか?私は、「裁き」という言葉も「置く」という動詞も意味を理解できますが、それらの理解できる言葉を並べたら理解できなくなるというのは不思議です。英語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ると、「正義をもたらす/実現する」、「正当な権利をもたらす/実現する」などと訳しています。もとにあるヘブライ語の言葉משפטが難しい言葉です。その基本的な意味は、「対立する者たちを仲裁して対立を解決する」ということです。そのような解決をもって得られたものとして、「正義」とか「正当な権利」も意味として入ってきます。さて、どの意味が適当なのでしょうか?それは、イエス様が実際に何をもたらしたか、何を実現したかをみればわかってきます。(そういうわけで本説教では、イザヤ書42章をバビロン捕囚が終わる日を預言したものではなく、エルサレム帰還後の時代を預言したものとみなします)。

先ほども述べましたように、イエス様は全ての人間の全ての罪の罰を請け負われて十字架の上で死なれました。その身代わりの犠牲のおかげで、人間は神から罪の赦しを受けることが可能になり、こうして神と人間の結びつきが回復して両者の間に平和がもたらされることになりました。つまり、イエス様がもたらしたものというのは、自分を犠牲にして神と人間の間を仲裁して両者の間を本来あるべき姿にもどしたということです。その意味で、イザヤ書42章1、3、4節で「裁き」とか言っているのは、そうではなくて、「彼は、諸国民のために神と人間の間に平和をもたらす」(1節)ということです。3節も、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、神と人間の平和を恒久に打ち立てる」(3節)となり、「暗くなることも、傷つき果てることもない、この地上に神と人間の平和をもたらすまでは」(4節)ということになります。

実際、イエス様は十字架の業を通して、神と人間の間の対立関係を解消して平和な関係に戻すことを行ったのですが、それをどのように行ったかについてはイザヤ書42章の箇所によくあらわれています。2節「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」というのは、同じイザヤ書の53章の中にあるテーマと共通しています。そこでは、神の僕が人間の罪の償いのために自分を犠牲にする時、それは小羊が口を開かず物を言わずに屠られていくのと同じだと預言されています。 

3節 神と人間の恒久の平和を打ち立てる時、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」打ち立てるというのは、詩篇51篇19節「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と同じテーマです。何が神に喜ばれる生け贄か?それは、神殿で多くの捧げ物をするような形式的な宗教的儀式ではない。そうではなくて、神に対して心から罪を悔いて新しく生まれ変わりたいと切望する心、また苦難にあって打ち砕かれて、どうか見捨てないで下さい、と神に必死にすがりつく心、そういう神以外に拠り頼むものはありませんという心を神は最上のいけにえと見なすのです。傷ついた葦、暗くなってゆく灯心とはまさに、打ち砕かれて悔いる心を持つ人のことです。イエス様は、そういう人たちを助けるために、自分自身を犠牲の生け贄にして人間が神との結びつきを持って生きられるようにしたのです。

4節 イエス様が「『暗くなることも、傷つき果てることもない』、この地上に神と人間の平和をもたらすまでは

というのは、イエス様が十字架にかけられる寸前まで激しい拷問を受け、最後に五寸釘のような太釘で手足を十字架に打ち付けられながらも最後まで身代わりの犠牲を果たしたことを意味しています。

5節 天の父なるみ神が万物の創造主であることが言われています。「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生じるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。」

その創造主である神と造られた者である人間との関係が、人間に罪が入り込んでしまったことで崩れてしまった。それを回復するために、神はひとり子を犠牲にして人間が神との結びつきを取り戻せるようにした。そのことが6節に言われます。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。」新共同訳では「恵みをもってあなたを呼び」とありますが、「恵みをもって」というのは注意が必要です。ヘブライ語の辞書をみると確かにそうとも訳せると書いてありますが、英語、スウェーデン語の聖書をみると、「神の義において」という訳になっています。ヘブライ語の言葉בצדקはそうとも訳せるのです。「主である私は、私の義においてあなたを召し出した」ということになります。ただ、これでもまだわかりにくいと思います。ここで興味深いことは、フィンランド語の聖書では「主である私は、私の義なる計画に従ってあなたを召し出した」となっています。これは、先ほどもみましたが、イエス様がとまどうヨハネに対して、「義を全て成就する」のは大事だと言っていたことと一致する訳です。「義を全て成就」するというのは、神の義なる計画、つまり罪の赦しを打ち立てて人間を罪の支配下から救い出すという計画を実現することに他ならないからです。

こうして神のひとり子イエス様は、神と人間の平和を実現するために召し出されて、十字架の上でそれを実現しました。罪の支配下から抜け出せず、どうやって神との結びつきを得られるのか手立てのない人間を一挙に神の御許に導いて下さいました。それはさながら、7節で言われるように、目の見えない人たちを見えるようにし、牢獄で囚われの身となっていた人たちを解放するようなことだったのです。

以上から明らかなように、イエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、実にイザヤ書42章1~7節の預言が全て実現するために必要なことだったのです。洗礼を受けた時点で、1節にある聖霊の降臨と天から響く声の預言が実現しました。ここから、神の計画を実現するイエス様の活動が始まります。イエス様は、神の意思と将来復活の日に現れる神の国について人々に教えました。また無数の奇跡の業を行って神の国がどういうところであるかを示しました。そして最後は、本日のイザヤ書の日課にあるように、十字架の犠牲の業を成し遂げて、神と人間の間に平和をもたらし、神の義なる計画を実現しました。まさにイザヤ書の預言の成就のため、その預言に基づいて神の計画が実現していくために、イエス様はヨハネから洗礼を受ける必要があったのです。

 

4.

最後に、イエス様の受けた洗礼には、私たちがキリスト教会で受ける洗礼を先取りしていることがあることを述べておこうと思います。それは、聖霊が降ったということです。ヨハネの洗礼は、受ける人に聖霊が与えられる洗礼ではありませんでした。(そのことは使徒言行録19章に記されている出来事に明らかです。)キリスト教会の洗礼は、受ける人に聖霊が定着するように与えられる洗礼です。聖霊だの、霊だの、与えられるなどと言うと、事情を知らない人は薄気味悪い感じがするかもしれませんが、要は、イエス様が約2000年前に成し遂げた十字架の業というのは、現代を生きる自分のためにもなされたのだ、イエス様の身代わりの犠牲のおかげで自分は創造主である神と結びつきが持てて、生きるも死ぬも神から守りと導きを得られるようになったのだ、とわかり、それで十字架のイエス様は自分の救い主なのだと信じられるようになる、そのようにわかり信じる時には聖霊が働いているということなのです。逆に言うと、イエス・キリストなる人物が約2000年前に十字架刑に処せられたというのは歴史の本に書いてあったので知っているぞ、というのは単に知識だけの話で、まだ聖霊が働いていません。実にイエス様を救い主と信じる信仰は、聖霊の働きによるものなのです。

 聖霊が働いて、イエス様のことを単なる歴史上の人物ではなく、自分の救い主と信じられるようになった時、洗礼を受けることで聖霊をしっかり自分の内に定着させることになります。そうしてイエス様を救い主と信じる信仰を携えて神との結びつきの中で生きることができます。せっかくイエス様が自分の救い主とわかっても洗礼を受けないでいると、わかったことは一過性のものになって、知識に戻って、神との結びつきは得られないことになってしまいます。

赤ちゃんが洗礼を受ける場合はどうかと言うと、洗礼とは、ルターが教えていますが、神の言葉が水に結び付けられることで水はただの水ではなくなり、文字通り洗礼となります。それで、赤ちゃんにも罪の赦しの救いを贈り物として与えて、その所有者にする力のある水になることは大人の場合とかわりません。ただし洗礼を受けた後は、両親、教保、教会が子供の霊性を育てて、イエス様のことを知識ではなくて、ちゃんと自分の救い主であると信じられるように育てていかなければなりません。そうすることで子供も、定着した聖霊が働く大人になっていきます。

兄弟姉妹の皆さん、イエス様のことが単なる知識にすぎなくなっていないか、それとも自分の救い主としておられるか、いつも注意し自己吟味することは、皆さんの霊性にとって大事なことですので忘れないようにしましょう。もし知識に戻ってしまうようなことがあれば、父なるみ神はいろんな仕方で信仰に引き戻そうとします。それは試練の形をとって起きることもあります。そのために心が打ち砕かれても、それはそれ位しないと知識の殻を破れないということなので、生まれ変わらせてもらうのにお任せするしかありません。しかし、そのプロセスを過ぎれば、神から頂く愛を以前よりももっと多く隣人に分け与えられる器に変えられていることに気づくのではないかと思います。神の導きに対して従順になり、謙虚さを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「使徒となったパウロ」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙一 1章1~3節 

第一回

コリントの信徒への手紙一

1章1~3節

今年は、私の説教ではコリントの信徒の手紙一を連続説教をして行きたいと思います。

1章1節です。「神の御心によって、召されて、キリスト・イエスの使徒となったパウロと兄弟ソステネからコリントにある神の教会へ・・・・・」とあります。パウロの手紙は、いつものようにまず、発信人の名前を書いてあて先の教会を書いています。原文では一番はじめに「パウロ」という名を書いて、その後自己紹介の説明を書いています。肩書きとして自分がどういう立場の人間であるか、ということを、まず知らせています。パウロは、いつでも定まったことを書いています。それは自分が使途である、ということです。それでは何のためにそれを言う必要があったのでしょう。ある神学者の言葉では「それは権威と温情を備えよと努めたからではないでしょうか」と言うのです。パウロの手紙は普通の手紙ではありません。牧師のいない教会に牧会をするために必要事を書くということでありました。従ってそれは、ただの説教ではありません。教会を建てるために書いているのであります。

 ※ 今回から「コリントの信徒への手紙」から連続説教をしていこうと思ったのは、ここのところを考えての事であります。当教会は長い目で見て、今一つの大きな転換点にあるからと思うからであります。つまり教会を根本から建てるためにはどう考えていったらいいか、パウロの手紙から聞いていきたいと思うからです。パウロがこの手紙を書こうとせるのには、牧師の代わりをするために、何とかしようとするわけです。それなら牧師は何をするのでしょうか。牧師の任務は教会を建てることであります。それは教会の経営ということではなくて、教会がキリストの体となるようにすることであります。教会の中の一人ひとりの信者をその教会の体の肢となるように、手や足や目や耳と言ったキリストの体の部分部分の役目をしっかりだし合ってお互いが良い関係をより強力に力を出し合うようになることでです。

 そのためには、ただの説教だけではどうにもなりません。それを行う使徒、つまり牧師は神の権威というものを持たなければなりません。神の権威というのはその人が威張ることではなくて、その人の業を通して神の権威が感じられるようにすることであります。そのためには、その人自身はどんな意味でも自分の偉さをあらわすのでなく、むしろ自分の貧しさを知り、それを誇るのでなければなりません。使徒また牧師に温かい情つまり温情というものがあるのは当然でしょう。しかしそれも普通の人の親切とか優しさということと違うはずであります。その温情も又神の温情を現すものでなければなりません。人間の温情などたかが知れています。神の温情はただ人間に優しいというのでなくて人間を救うためにあるのです。それは優しいだけでなく悔い改めを迫り神により頼むようにしていくものであります。これもはじめから人間に備わっているものではありません。こういう権威と温情を持った使徒であります。

パウロはそういう意味での神に召されて使徒となったなったと言うのであります。召されたというのですから、自分の考えによったのではない、自分自身としてはその資格はないのに召されたというのです。しかもそれを強調することによって、この仕事が神の業であることを言いたいのであります。

権威も温情も神から出たものであることを知ってもらいたいのであります。そのために、ここではもう一つのことを付け加えてています。それは「神の御旨により」ということです。すべては神の意志から出たことです。そして神の意志が全うされることこそパウロたちの願いであったのです。パウロは自分の名前と一緒にソステネという人の名を書いています。彼がどういう人であったか良く分かりまん。使徒言行録18章17節にもあります。同じ人ならユダヤ教の堂司であったということになります。しかしソステネには使徒とは書かないで兄弟と書いています。そうするとこの人は伝道者ではかったということになります。

 するとパウロはこの手紙を書くのに自分と伝道者ではない一人の信者との名前を書いたことにことになります。伝道者と信者それが教会というものであります。それならばこの手紙の発信人は教会であるということになります。次に受信人の名が出てきます、受信人はコリントにある教会であります。するとこの手紙は教会から教会へ宛てて書いたものであるということになります。そのように考えていきますと教会というものが非常に大切なことがわかります。

 人が救われるのはキリストの体である教会であります。教会の手となり足となってキリストの体の働きをなしていくことです。教会は人間が集まっているものであります、物流センターのようなのでない。だから教会の性質はそこに集まっている人間の性質で定まると言って良いのではないでしょうか。ここで手紙を見ますと「私たちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めている全ての人々と共に」という句が先に来ていますが、本当はこれは後になっているのです。そこでまず教会は「キリスト・イエスにあって聖められた聖徒として召された方々」という句がまず教会の性質なのであります。教会にいる人はキリスト・イエスにあって聖められた者」たちであります。「キリスト・イエスにあって」というのはパウロがよく用いる言葉です、キリストを信じる者と言っても良いのです。キリストを信じるとはキリストはこういうお方であると思うだけでなくキリストの支配を受けキリストに救われる者ということであります。

 ※ 私たちはどうでしょうか、自分はキリストに救われた者としてキリストの支配をどう受け取っているでしょうか。キリストにあって救われた者は実はキリストによってキリストの者とせられ神の者とせられた者なのです。キリストにあって選ばれて神の者と聖別されその意味でこの世から分離された者ということであります。その性質によるのでなくキリストの救いのゆえに今は神の者とせられているということであります。別な言い方をすれば「聖徒として召された」と言うことになるのです、従ってこの場合の聖徒とは聖人のことではなく神の者とせられた人ということであります。そのためには自分で願っていることでなく神に召されることが必要なのであります。これはコリントにある教会の人々について言われたことでありますが、もうひとつの教会の人々がありました。

 それが「私たちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求める人々」であります。これは発信人とも受信人とも読めます、そうするとこの手紙の宛先はコリント教会のほかに「至る所でイエス・キリストの御名を呼び求めている人々」であります。そうであれば教会の人の性質はキリストによって聖められること、召されて聖徒となった人、あおして三番目に神の御名を呼び求める人々ということになるのではないでしょうか。神の御名を呼び求める人は旧約の詩篇99章6節にも出てきます。又

ヨエル書2章32節にも書いてあるところを見ると旧約の時代以来、神と民とは御名を呼び求める者であることが分かります。更に新約ではこの句がローマ署10章13節に引用されています。主の御名を呼び求める者とは、主の御名によって救われたいと願って呼び求める者であります。こうして、三つのことが教会の条件であることが分かります。この手紙はパウロの個人的なものということより発信人は教会でありました、受信人も教会でありました。そして何れも主イエス・キリストの御力によって救われ、生かされている人々であります。教会とはキリストを主とする者の集まりであります。

 さて次は3節でありますが、挨拶であります。この挨拶がパウロ独特のもの、少なくとも教会にだけあるものですから、それはまことに信仰に貫かれたものであります。しかもそれは挨拶だけでなく祈りであります、それは壮大な祈りであります。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなた方にあるように。この祈りは恵みと平安を祈るものであります。しかも平安こそは全ての人間が最後に求めるものであります。しかし、まことの平和は神に対する平和から来るものであり、

魂の平安によってのみ与えられるものであります。罪が取り除かれること、罪からの救いがなければ平安はありません。この罪からの救いがなければ平安はありません。この罪から救われることは私たち自身の力ではできることではありません。それは神の御力によるほかありません。神に対して罪を犯している者に神の身力とは神の救い以外にはないのであります。神に罪を犯している者に対する救いは神の恵み、深い御心による恵みであります。もう一つ大事なことは{私たちの父なる神とイエス・キリストから]と書いてあることです。恵みは神から与えられるものであります。しかし神はこれを主イエス・キリストによってお与えくださいます。キリストを遣わしキリストの十字架と復活とによって恵みをお与えになったのであります。それならば、この挨拶の言葉、祈りの中には神の人間に対する救いの御業の一切が簡潔に語られている、ということになるのです。コリント人への手紙は全ての教会にとって慰めの書であります。そこに神が全ての教会をどんなに愛しておられるかを知ることができるのであります。

 アーメン・ハレルヤ!

次回は2月12日(日) 4節から9節までを見ていきます。