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※ 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安が皆様の上に豊かにありますように!
※ 今日の礼拝の讃美唱は、詩編23編(特に1節~4節前半)です。それは今日の日課の主題にふさわしいのでお読みいたしましょう。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く時も、わたしは災いを恐れない。・・・・・
序 今日の旧約聖書の日課は、預言者エレミヤ(紀元前7世紀)の言葉です。
この時代はイスラエル(神の民)は腐敗、混乱していました。(5章)。
「恐ろしいこと、おぞましいことが、この国に起こっている。預言者は偽りの預言をし、祭司はその手に富をかき集め、わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」(30~31)(霊的指導者の腐敗)。
祭司も預言者たちは「平和がないのに、平和、平和という」(6:13~14)。と記されています。
ですからこの時代神の民イスラエルは絶望的な状態にありました。しかし、ここでエレミヤは希望の預言「ユダ(神の国)回復の預言」を語ります。
「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。」と。まさに預言者イザヤ(11章参照)による「キリスト(救い主)到来の預言」であります。
1 さて今日の福音は『5千人に食べ物を与える』という奇跡物語です。
先ず状況としては、弟子たちが帰って来ての報告し、主は休養するように
お命じになりました(6:30~32)、それにも拘らず群衆は、先回りして大挙して集って来ました。そしてイエスはさらに教えを継続されたのです。(6:33~34)。宣教の主の実際のお姿がここに描かれています!
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使徒パウロも「時が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい」(Ⅱテモテ4:2)と教えていますが、主自ら先行して実践されています。決して自らの状況によらないのです!
2 注目すべきことは、集まっている群衆に対する食べ物について、弟子たちの思いと主イエスの配慮(6:35~38)の違いが描かれていることです。
弟子たちは「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。」のです。
◎本質的に「食べることは生きること」であります。
弟子たちは、それは人間各個人のものと考えた。けれども主イエスは
「(弟子たちに)あなたがたが与えなさい」とお命じになりました。
この集う人々が食べ物を得て、生きることの責任を、主は弟子たちに持つように言われたのであります。それは如何に困難なことでしょうか!
<人は食物を摂ることができなくなると、人生は終わりになります。>
<人の思いと神の思いは、天地ほど違う。(イザヤ55:8~9)>
3 主イエスの奇跡的な給食(6:39~44)
※主イエスは「パンはいくつあるか?」とお尋ねになった。四つ福音書では、それぞれ以下のように異なる状況が記されています。
マルコ「(パンは)五つあります、それに魚が二匹です。」(6:38)
マタイ「パン五つと魚二匹しかありません」(14:17)
ルカ マタイと同じ表現です。
ヨハネ「大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(6:9)。
※さてこの後の出来事の推移が次のように記されています。
「主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そしてパンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 パンを食べた人は男が五千人であった。」(マルコ6:39~44)。
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◎五つのパンと二匹の魚が主イエスの「讃美と祈り」という祝福によって豊かな、“無限の食物”(皆が満腹するまで)へと変えられました。
◎パンと残りの魚は12(部族数)の籠にいっぱいになるほどでありました。
実に「神の恵みは無限」であることを意味しています!
4 さて、この給食は一体何を意味しているでしょうか?
① それは「少年のように僅かな物でもささげること。(ヨハネ福音書6章)」の重要性でしょう。人の目には取るに足りない物に見えます!しかし主はささげられたものを限りなく大きくされるのです!
その信仰的な極致は、「やもめのささげもの」にも語られています。聖書
(マルコ12:44~44)を参照してください。大勢の人は多くの献金
を献げていました。けれども「やもめの献げた献金」は僅かレプトン銅貨2枚(デナリの64分の一)。それは今のお金でデナリを1万円とする場合、そのレプトン銅貨二枚は156 円であります!
そのやもめの献金を、主イエスは「誰よりもたくさん」ささげた、とおっしゃっているのです。神さまにささげることの重要性がここにあります。
② 続いてここでは「分かち合うことの大切さ」を学ぶことができるでしょう。
男の人だけで5千人、女性も子供も加えると7、8千人から1万人にもなったであろう群衆が、主イエスの祝福してお与えくださったパンと魚を奪いあうことをせず、互いに分かちあったのです。
世界には未だに食糧の欠乏している場所があります。貧しい物でも互いに分かち合うことは大切です。持っている者と持っていない者の<いわゆる貧富の格差>は、現在でも目に見る形で増大しています。衣食住の問題は、現代社会の絶えざる現実的な課題です。如何に和解と一致、また平和が説かれても、もしそこに衣食住の歴然とした差別が残るならば、その意図は決して満たされないでしょう。私たちの社会、世界は、共に生きる社会であり、共に生きる世界なのですから。
③ この点について、根源的に言えば、「主イエス・キリストが必要なものはすべてを与えてくださる!」ということです。
「先ず、神の国と神の義を求めよ。そうすれば(あなたがたに必要なものは)すべて(祝福に)加えて(添えて)与えられるであろう(マタイ6:33)。という、神さまの恵みに対する私たちの素朴な信仰です。
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④ このパンと魚の奇跡物語は、究極的に「主イエス・キリストの自己投与」を表わしています。ヨハネ6:33によれば、この物語の中で主は「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と語られています。これは具体的に、主イエス・キリストの十字架の上でご自身のお体をさかれ、血を流された出来事(主イエスの自己投与)を表わしています。ですからこの物語は「聖餐」を意味するものとして理解できるでしょう。こうして私たちは、十字架において具現化された主イエスの「自己投与―聖餐―」を感謝と喜びをもってうけるのです。ですから初代教会から聖餐は、「ユーカリスト」(感謝の祭儀)と呼ばれて来ました。
また私たちは聖餐は「個人の救いの原点」である同時に、「共同体の祝宴」でもあることを覚えたいと思います。
「主にあって共に生きる」ための根源的な視点がここにある。また初代教会では礼拝の行われる時にアガペー・ミール(愛餐)があり、共同体の会食と同時に貧しい人々と分かち合う食事の集いがもたれていたことを忘れてはなりません。
※ 最後に、私が今チャプレンとして働いているブース記念病院のことをお話ししましょう。ここの食堂の名称は『五つのパンと二匹の魚』です。
そして食堂は患者さん、職員のみならず、近隣の人々にも開かれています。先週私が他のスタッフと一緒に食事をしていると、一人のアメリカの婦人が入ってきて、一人で食事を始めました。とうとう食事の終りまで、誰も声をかけなかったので、私は声をかけました。すると、その方は喜んで英語で話だしました。日本にはもう35、6年もいること、日本人のご主人のことアメリカやタイにいる娘さんたちのこと等を尽きることなく話してくれました。そしてご主人も家族も皆、クリスチャンだけれども、今は教会に行っていないと言いました。そして時々一人ぼっちで、淋しさを感じることがあると話してくれました。最後に私は自分の名刺を渡して、同時に彼女の名前を住所をいただきました。そして教会の礼拝にお誘いしたのです。・・・・・
彼女やご家族が、再び主イエス・キリストの恵みと祝福に与ることが出来れば幸いだと、私は祈りつつ、願っています。
(後日談:彼女は先週の礼拝に出席したと連絡を受けました。感謝!)
聖霊降臨後第12主日礼拝 2015年8月16日
聖書日課 エレミヤ23:1~6、エフェソ 2:11~22、マルコ6:30~44
今日は、コリント人への第二の手紙12章1~10のみことばから聞いていきたいと思います。
パウロは、自分が伝道したコリントの教会の中に、いろんな、多くの問題が起こっているのを知って、この第二の手紙を書いています。
そしてパウロは、神の和解を受けなさいと強く命じ、困難な問題の中にあるコリントの教会を、「私は誇りにしている」と述べたのでありました。
今日の12章からも、パウロが誇りとしていることを、更に深く展開していきます。1節を見ますと、「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せて下さった事と、啓示して下さった事について語りましょう」とあります。パウロは、誇っても何の益にもならないと思うだろうが、どうしても誇らずにいられない、と言うのです。
実は11章からも誇りたいことをいっぱい言ってきました。
又、突然に何ですか、と言いたい思いです。
それで11章16節から見てみますと、パウロは「私を愚か者あつかいにされてもいいから、私にも少し誇らせてほしい」と言って、誇るのをためらいながら、少しずつ自分のことを誇りに語ってきて、最後には「もし、誇らねばならないなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」と言いました。
それで17節から29節にわたって、ここにパウロの伝道の苦難の数々を、命がけで激しく戦ってきた生涯を記しています。
「わたしが、これから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると、確信して話すのです。多くの者が、肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」。
実際に、コリントの教会の人々も迫害にあっている。誰もが奴隷にされたり、食い物にされたりしたローマ帝国の権力のもとで、又ユダヤ教等からも不当にふみにじられてきたでしょう。
横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても我慢しています。
・・・彼らはヘブライ人ということで、あんなに強い態度になるのか、私だってヘブライ人だ。イスラエル人ということで高慢になっているのか、わたしもイスラエル人である。エルサレム最高議会の最高の地にあった議員であった。
アブラハムの子孫というだけでユダヤ教徒なのか、わたしもそうである。
キリストに仕える者ときくのか、わたしは気が変になったように言うが、わたしは彼ら以上にそうなのだ。
今や、パウロはキリスト者となって、ダマスコ途上での回心の出来事を身に受けて、キリストの福音、気が狂ったようになって伝道しているのです。
この伝道していく中で、誰よりも苦労多く、投獄された事もずっと多く、鞭打たれたことは比較できない程多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
ユダヤ人から、40に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたこと、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともあった。
しばしば旅を、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難、苦労し骨折って、しばしば眠らずにすごし、飢え、渇き、しばしば食べずにおり、寒さにこごえ、裸でいたこともあった。
この他にも、まだまだ沢山あった。と延々とパウロの伝道の生涯は、苦難の連続であったことを述べて、30節に「神のみ前で告白するなら、誇る必要があるのなら『わたしの弱さ』を誇ろう」と言って、そうして今度は12章に突然、ここに主がパウロにお見せ下さった、とてもとても、言葉では言いあらわせない幻と、主が啓示して下さったことについて誇ろう、と言い出すのです。
これまで、肉に従って言うならと、苦難の数々をえんえんと誇った上で、そうしたレベルの低い、足もとにも及ばない、霊の世界の高いレベルの、崇高な出来事に遭った。神の栄光の中で直接神から啓示を受けた、このことを誇らずにおられない。
ペテロやヤコブと言った12弟子の使徒たちに比べて、自分は「信仰について」何が言えるか、ということであります。
「パウロの誇り」とするものの、宝とするものがここにあります。だから今は無駄であっても、誇らざるを得ないというのです。
自分の受けた苦難の話しであるなら、黙っていてものだが、ここに語り出すことは沈黙するわけにはいかない、と言いたいのであります。
なぜなら、それは神が自分にお与え下さったことで、神が積極的にして下さることに対しては、自分も積極的にならないわけにはいかないでしょう、と言いたいのであります。そこで主の幻と啓示について語る、と申します。
この「語る」という字ですが、これは、ただ話をしている、というようなものではないのです。
自分が、その幻を見た時、その啓示を受けた時、自分はどんなにそれに打たれたことか。自分はその中に、没入してしまうような思いであったのであります。
今、それを語る時には、その思いを再現するような気持ちに、ならざるを得ないのです。
神からの幻を見、神の啓示、それは格別神秘的な神から、明らかに示されることです。これは、そう軽々しいことではありません。パウロにとって、どんなに大切なことであったかが、書き方からわかります。
ある人がパウロのことについて本を書きました。その本の題名は「キリストにある人」という本です。つまり「キリストにあるひとりの人」という意味です。
そうすると、このように、キリストにあるひとりの人、というのは、パウロのことにちがいありません。
しかし、このコリントの手紙では、彼はここに来てもな、お自分のことをはっきりと、言おうとしないのであります。
パウロは、「キリストにある」という喜びを、手紙のあちこちで沢山用いています。彼にとっては、キリストにあることが、すべてでありました。
信仰生活をするというのは、キリストのうちにあるということです。
キリストの、御支配の中に生きることであります。
いつでもキリストの影響を受け、キリストの命に生かされる生活をすることであります。
パウロの見た幻と啓示について、2節から4節に記しています。
その人が、第三の天にまで上げられた、というのです。
第三の天といのは、いろいろ説明もありますが、ともかく最も高い所ということでしょう。
パウロは、自分が人の行き得る最も高いところにまで、引き上げられる経験をした、ということでしょう。
しかもパウロは、その事について「からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、だれも知らない。神が御存知である」ということを、二度も繰り返しいっています。
これは、彼の経験がどんなに特別なことであったかを、示しています。
彼はパラダイスにまで引き上げられた、というのです。
パラダイスは、第三の天とはちがいます。しかし、神の特別な交わり、ということでは同じでしょう。
彼は、人間が口にするのも畏れ多い言葉を聞いたのでありました。つまり、神の御言葉を直接に聞いたことになりましょう。
これは、彼に与えられた恵みであります。又、そのように人にはそれぞれに、神様から与えられる恵み、というものがあるということです。
まぼろしも啓示も、実はただ、神がお与え下さったものでしかなかった。パウロは、ただ、それを受けただけであります。
本来、信仰というものも、そうであります。信仰も信仰の業も、ただ神がお与えになったものであります。
それを受ける者には、ただ一つだけ条件があります。それは、自分はその恵みに価しない、ということであります。
恵みを受け取ることのできる人が、ただ一つ誇り得ることは、自分の貧しさ、自分のいたらなさ、すなわち自分の弱さであります。
パウロはそれを言いたかったのであります。
7節以下を見ますと、パウロの天上での特別の経験のことで、パウロをとりまく問題が起こったり、おごり高ぶったりしないように、パウロの身に一つのとげが与えられました。
そのとげは神様からではない、サタンから送られた天使が、パウロを痛めつけるのでした。苦痛の問題は、人間の永遠の謎であります。
パウロは三度も神様にお願いしました。
9節以下にありますように、「すると神様の答えは『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」。
何んという神さまの言葉でしょうか。
その苦痛で神様をうらむことではなく、信仰を持って受けることでありましょう。だから、キリストの力がわたしの内に宿って下さるように、自分の弱さを誇ろう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのためにご満足しています。
なぜなら、わたしは弱い時にこそ、強いからです。 アーメン・ハレルヤ
聖霊降臨後第10主日 2015年8(日)
本日の礼拝は吉村博明宣教師のフインランドへの一時帰国のために田中良浩牧師にご奉仕をお願いいたしました。
序 旧約聖書は、主イエス・キリストの「福音の源流」である。
「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。
主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば幸いを得る。 若い時に軛を負った人は、幸いを得る。」
<この主のみ心(神の意志)は私たちの生活に主イエスによって実現する>
この主題「慈しみ・憐れみ」は旧約聖書全体を貫く神のみ心である。
例を挙げれば:―
① 律法の書=出エジプト20:6
「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」
② 預言の書(1)=初期の預言者ホセア 2:21
「わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。」
特に、ホセアの場合、この慈しみと憐みを“愛(へセド)”という言葉で表現した。しかし神の民イスラエルはこの神の愛の真実を理解できず、
不信の民となった。それゆえこの愛は日本語で“悲愛”と訳されている。
預言の書(2)=イザヤ54:8~10
「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる。・・・
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、なたを憐れむ主は言われる。」
③ 聖文書の詩編に慈しみ、憐みは、実に多くの詩編にある。詩編86:15
「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみと
まことに満ちておられる。」
これらの慈しみ深い神、憐み深い神は、主イエス・キリストによって
私たちの生活に実現し、具体化するのである。
※ 今日の福音書には二つの物語(慈しみと憐みの現在化)が記されている。
―共通していることは、いずれも共感福音書にあること。
1ヤイロの娘の復活の物語
マルコ、(ルカ)は“ヤイロ”という名をあげている。名前は象徴的である。
ヤイロとは「神は輝かせられる!」の意味。(民数記32:41 マナセの子)
神はその愛する者に救いを与え、栄光を現される、のである
この物語でマルコはマタイやルカにない、信仰の応答の状況が記されている。
先ず、このヤイロは「イエスを見ると、ひれ伏した」と記されている。
いずれも重要な言葉である。
◎見ることとは、信じることである。(ヨハネ福音書も同様)。
英語でも、Seeing is believing! 日本語では「百聞一見にしかず」。
しかし、実際の意味は、ヨハネ1:29、36に明らかである。
洗礼者ヨハネはアンデレとペトロに叫んだ。
「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と。
この“見よ”の意味は、「イエスを信じよ、そして彼に従え」である。
◎ひれ伏すことは、実際に、祈りと礼拝である。(娘の癒しを願った)
主イエス・キリストのお姿もはっきりと描かれている。
◎そこで、「イエスはヤイロと一緒に出かけて行った」のである!
※ 物語はここで“中断する”。けれども“それで充分”である!
その会堂長ヤイロと主イエス・キリストの関係は明らかである。
2 12年間、出血に悩まされた婦人の癒しの物語
会堂長ヤイロの場合も「大勢の群衆が(イエスの)そばに集まって来た」と記されているが、それに続く物語にも、さらにその描写は強いものがある。
「そこでイエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。」そういう中で、出来事が起きたのである。
『主イエスが神の国活動をされる時には、いつも群衆が集まっていた。』
12年間、出血に悩まされていた婦人がいた。マルコは状況を明記している。
「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」と。絶望の状態であった。
続いて、この婦人の隠れた行為が記されている。
この婦人は「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。―これがこの婦人の信仰である!
※ここで「触れる」ことの目的は、関係の深化である。触れなければ、関係は次第に希薄になって行く。マルコは繰り返し「イエスに触れる」という表現を記述している。(他にマルコ3:10、6:56、8:22)。
特に、マルコ6:55~56
「その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って
行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」
この長年、出血に悩まされ、絶望していた女は「イエスの服に触れた」のであ
るが、この個所のギリシャ語(ハプトウ)は、一般には、触れるである。
しかし同時に“しがみつく”(grasp)という意味も持っている。
私はこの婦人は群衆の中で「主イエスの服にしがみついた」と理解している。
主イエス・キリストは、この婦人を癒し、言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と。
この婦人は、平安と希望を与えられたのである。
3 この婦人の癒しの最中、会堂長ヤイロの家から「娘が亡くなった」との
知らせが来た。しかし主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と
言われた。そしてペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に家に入り、子供の手を取って
「タリタ・クム」(少女よ、起きなさい)と言われ、少女を起こされた。
※主イエスの死の理解:「死んだのではない。眠っているのだ。」
これは“永眠”でない。神の国で主イエス・キリストともに眠る。→復活。
※「主イエスはこのことを誰にも知らせるな」(厳命)=“メシアの秘密”
主イエスは繰り返し:出来事(尊厳と権威)を知らせるなとは何故か?
ルターの「隠された神」=マタイ6:4、6、18-神の愛に理解の真髄がある。
初代教会の教父アウグスチヌスは「信仰はイエスに触れることである」と言う。
主イエス・キリストこそ病と死を命に導くお方である!
絶望的な状況の中にあって、主イエスを信じることこそ肝心なことである!
主イエスは、生と死の権威を持つお方である。全面的にお任せして生きよう!
4 ホスピスでの体験:
◎ピースハウスから、ブース病院(ホスピス)での奉仕をしている。
ブース病院のパンフレットを送付した。救世軍(キリスト教)の施設。
今でも週に3回(現在は月、火、木)。
礼拝、患者さんやそのご家族とお会いしている。
ごく最近、「悪いことをしていないのに、何故こんな病気に・・・・」。
その方は、非常に失望して、周囲に痛みを訴え、不満を漏らしていた。
けれどもこのがは、自宅に聖書をもっていらっしゃることを聞いたので
マタイ6:25~34を共に読み平安をお祈りすると穏やかな表情が戻った。
傾聴と同時に、必要とされる人々に福音を伝えている。
聖霊降臨後第9主日礼拝 2015年7月26(日) 聖書日課 哀歌3:22~33、Ⅱコリント8:1~15、マルコ 5:21~43
今日の礼拝では、パウロが書きましたコリントの信徒への手紙第Ⅱ、7章1~16節の御言葉から聞いていきたいと思います。
新約聖書の中には手紙が多くあります。
その中でもパウロの書いた手紙は13もあります。
手紙にも種類がありますが、ことに新約聖書で言えば、ローマ人への手紙のように、よく考えて計画を練った上で書いたものもあります。
しかし、もともと手紙は、どちらかと言えば思いにまかせて、その時の気分で
自由に書くことが多いのであります。
特に、コリント人への手紙のように、宛先の教会にも多くの問題があり、パウロとの間に、複雑なものがあったでしょう。その気持ちが、いきおい手紙にあらわれてくるのは、当然でありましょう。このコリント人への手紙第Ⅱは、その特徴が一番著しいものの一つであると言えます。
行きあたりばったりの、人間的な書き方の中に、神の言が啓示されるのであります。神の言も、人間の言葉と、離れて別に考えることはできません。
私たちが用いているこの言葉で、私たちの生活の真っ只中で書かれるのであります。
その言葉とその事実とが、信仰を証しするように、語られているのであります。
さて、7章の2節から見ますと、パウロは「私たちに心を開いて下さい」と言っています。それは6章11~12節から関係して書いています。
パウロは、何をしたいと願っているのでしょうか。福音の宣教者としての牧師と、教会の信徒との関係を考えているのです。それは、コリントの教会の中で問題になっていることが、いくつもあったからです。
その一つは、コリント人への手紙第1、3章3節~5節を見てもわかります。
「お互いの間に、ねたみや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、という事になりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなた方はただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か、パウロとは何ものか。この二人はあなた方を信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった、分に応じて仕えた者です」。ここで見られるように、教会の中で分派や党派が起こり、混乱しているのでした。
教会の特長は、みんなが親しい生活をしたいと思っていることです。
聖徒の交わりを、パウロは求めておるのです。
それでは、パウロはそれを、どのように求めているのでしょうか。
第Ⅱコリントへの手紙5章17~20節に書いています。
「キリストと結ばれる人は、だれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて、神から出ることであって、神はキリストを通して、私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を、わたしたちにお授けになりました。
19節、つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。
20節、ですから、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させて下さい」。
パウロはこのように訴えつづけたいのです。パウロは和解の伝道者でありたいのです。それが聖徒の交わりというものの基にあるのです。
聖徒の交わり、又、信仰者の交わりというのは、ただ人間がお互いに親しくなる、ということではありません。そんなことは出来ることでもありません。それは、人間には愛がないからです。
愛し合う、といっても、それが教会の中であっても難しいものです。
もし、それが出来る方法があるとすれば、それは、互いに赦し合うことが出来た時だけであります。赦す、というのは和解することであります。
私たちは、和解の福音をもって神と和解しなさい、と宣べるのであります。
信仰を持っているお互い同士が、その福音に基づいて和解するのです。別に喧嘩しているわけではありません。
しかし、愛がなくて人を赦すことが出来ないということが、既に和解が必要であるということではありませんか。
パウロは、コリントの教会の人に、心を広げてほしいと言っています。
心という字は、はらわた、という意味です。
そうすると、自分の一切をさらけ出すほどに、心を広げるのであります。
それはどうしたらできるのでしょうか。それは、赦し合うことであります。
他の人を赦し、自分も赦してもらう。
そう言う事が信仰者の交わりの基になっているのです。
大切なことは、自分が自分の隣人と、又自分と同じ信仰を持っている者と和解することであります。
もとより、それは、わざとらしい方法でするのではありません。
しかし、いつでも和解する用意があることです。
いつでも、人に赦してもらい、人を赦す用意があることです。そうすればその群れは、別に何もしなくても変わっていくのではないでしょうか。
もし、聖徒たちの群れがあるとすれば、そういうものであるはずであります。
パウロは7章2節に「私たちは、だれにも不義をしたことがなく、だれをも破滅におとしいれたことがなく、だれからも騙し取ったことがない」と言っています。ここに、敢えてこういうことを書いているということは、パウロに対する非難があったのかもしれません。
例えば、自分は金の問題でだれかを騙し取ったことはない、というのは、パウロが金のことで非難された、ということかもしれません。もちろんパウロはそんなことはなかった、といっているのです。
和解と言う時には、いつも和解を妨げるものを問題にしなければなりません。
お互いに非難し合っては、和解になりません。
和解のためには、お互いの間違いをはっきりさせる必要があります。悪口を言い合うことではありません。
しかし、自分の不充分なこと、罪などをよく知って、それの赦しを求めなければならないでしょう。それは、決して自分の罪を公に言うことではありません。
しかし、自分の罪を赦してもらいたいということがなければ、和解は有り得ないことでしょう。
次にパウロは、和解による生活の力をあげていきます。
それは慰めであります。
パウロは言っています。「あなた方を大いに信頼し、大いに誇っている」。これはどういう事でしょう。
コリントの教会は、教会内で争い合い、分裂し、ねたみや不道徳なことなど、多くの問題がありました。
コリント第1の手紙、1:11~12・17、22~24、2:1~5、3:3~5,5:1~2等に書いているとおりです。
そのような混乱と堕落におちいっているコリントの教会を、パウロは、どうして信頼することができたのでしょうか。
教会を誇る、とまで言わせたのは何があったのでしょうか。
彼がこの教会を誇ったのは、キリストにおいて誇ったのでありましょう。
パウロから言えば、それは嘘でも何でもないのです。
コリントの教会を、あるがままに誇り、信頼したのです。どうしてでしょう。
それは、彼がこの教会に対しても「和解の福音」を宣べたからであります。
神の和解を受けよ、と訴えたからであります。
その結果、この教会も、神の赦しを信じるようになったからであります。
神から罪を赦されたものは、罪の赦しを知らない者よりも、はるかに信頼できると思ったのではないでしょうか。
人間も、教会も、罪あるものであります。
弱さを持つ人であっても、又教会であっても、自分の弱さを悔いることを知っており、神によって救われていることを知っているとしたら、その方がはるかに信頼出来るでありましょう。コリントの教会は、そういう教会でありました。
パウロは、この教会を信頼しただけでなく、誇りとしたのです。
そこにパウロの慰めがありました。
慰めには、いつも悲しみが伴っています。不幸が伴っています。喜ぶことの難しい者が慰められるのであります。自分には何一つ不自由なものはない、不足するものはないと感じる者には、慰めはありません。
誰の生活にも悩みは満ちています。人に言えない苦しみ、悩みをもっています。
和解の福音は、どんな事情の中にあっても、神は私たちを赦し、救って下さる・・・と告げて止みません。そこに慰めがあります。
神と私たちの関係は、慰める者と慰められる者の関係であります。
パウロは生涯、この慰めを経験した人でありました。
しかしその慰めは、彼にはいつも、溢れるばかりでありました。
神の御業は、いつも圧倒的で、それを受ける者には溢れるばかりに与えられるのであります。
そして、溢れるばかりの喜びとなっていったのであります。
パウロは4節で書いています。
「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても、喜びに満ち溢れています」。 アーメン・ハレルヤ。
聖霊降臨後第八主日 2015年7月19(日) 聖書日課 コリントの信徒への手紙Ⅱ7章1節~16節
主日礼拝説教2015年7月12日 聖霊降臨後第七主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
皆さんは自分で種を植えて草花を育てたことがありますか?私は生まれてからずっと集合住宅で、庭付きの家に住んだことがなかったので、あまりそういう経験がありません。それでも小学校の頃、夏休みの課題で朝顔の種を買ってそれを団地のベランダの植木鉢で育てたことがあります。黒くて少しでこぼこした形で固めだったでしょうか、1センチ程もない種から芽が出て、茎が伸びて葉も出て、身の丈50センチから1メートル位になったでしょうか。やがて、花のつぼみも出てきて、もうそろそろかなと朝早く起きて見ると朝日を浴びるようにして咲いている。それを、どんな気持ちだったかは覚えていませんが、ベランダに腰かけて感慨深くしばらく眺めていたことを覚えています。まだほんのり涼しさが漂う夏の朝の、今から思えば、ちょっとした非日常的な体験を味わったのではないかと思います。
本日の福音書の箇所でイエス様は、神の国について教える際にそれを種の成長にたとえて話します。二つあるたとえのうち後のもの、「からし種」のたとえはイエス様のたとえの中で良く知られたものの一つです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、これが神の国を連想させるというのであります。ここで言われている「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラと考えられています。その種はほんの1ミリ位で、成長すると大きな葉っぱを伴って2~3メートル位になるそうです。
イエス様のたとえの中では、大きな枝を出してその葉の陰の下に空の鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは、大きな葉っぱは出てきますが、大きな枝というのはどうでしょうか?少し誇張がないでしょうか?実は、イエス様がそう言われた動機として、先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章が背景にあって、イエス様はそれをたとえに結びつけているのです。
「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(22-23節)。
このエゼキエル書の預言に言われている、大きく育ったレバノン杉というのは、今ある世が終わりを告げて新しい世が到来する時に現れる神の国を意味します。(注 エゼキエル書31章やダニエル書4章のように、大きな木がイスラエルの民に敵対する大国を指すこともありますが、それらは切り倒されるとも預言されています。)この預言はもともとは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を遂げることを預言するものと考えられていました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても、取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが次第に多くの人々の目に明らかになってくる。そうすると、そうした将来の希望についての預言は実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、さらに後の、この世が終わりを告げて新しい世が到来する時のことを指すのだと気づき出されるようになります。
イエス様自身、神の国というのはこの世が終わりを告げて新しい世が到来する時に現れるものであるとの立場をとります(マルコ13章27-27節など、マタイ25章31-46節も)。それにしても神の国をレバノン杉の大木にたとえず、高さ2,3メートルほどのクロガラシにたとえるのはどうしてでしょうか?それは、イエス様がここで神の国について教える時、主眼としていることは、からし種のように砂粒のような種が2,3メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう変化の大きさを強調したいからなのです。もし最終的な大きさだけを強調したければ、レバノン杉の大木がうってつけですが、イエス様としては、最初取るに足らない小さかったものが、そこからまさかこんなに大きな葉や茎が出るとは考えられないという位のものを生み出す、ということを強調したかったのです。それを現実にあるもので誰もが知っているからし種を題材に選んで、イメージがわきやすくなるようにして話をしたのです。
それでは、最初は取るに足らない小さいものがとても大きなものに変化する場合、大きなものとは神の国を指すとして、そうしたら、取るに足らない小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何なのでしょうか?答えは、マルコ4章を初めからみていくと見つかります。マルコ4章の最初にイエス様のたとえの教えの中で最も有名なものの一つである「種まき人」のたとえがあります(3-8節)。少し後でイエス様は、そのたとえの解き明しをします(14-20節)。そこで、「種まき人は言葉を蒔く」と言います(14節)。つまり、種とは、神の御言葉を指すのです。
これで、からし種のたとえの意味が少し見えてきました。最初に取るに足らないように見える神の御言葉があり、それが出発点となって、最初の小ささからすれば比較にならない大きなものが現れてくる。それが神の国である。神の国とは、そのような見かけは取るに足らない神の御言葉から、そういう大きなものとして現れてくる、というのがたとえの趣旨となります。(注)
本日の福音書の箇所にもう一つ種に因んだたとえがあります。それは、種というのは、一度蒔いたら、蒔いた人が毎日普通に寝起きしている間にも成長していく。種の内部でいろいろ変化が起きて、その変化が外部に現れて、芽になり茎になり葉になり穂が出て実が出来る。蒔いた人は、いちいちその過程を知らなくても、そんなことにおかまいなしに育っていく、という話です。私も今思い起こせば、朝顔の成長も同じだったと思います。ここで、最後に収穫の時が来て「鎌を送る」(29節)と言っていることに注目しましょう。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞(αποστελλω)は「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書4章13節を引用していることがわかります。そこでは、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があります(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で、「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神の目に適う者たちが神の国に迎え入れられることについて教えています(24-30節、36-43節)。
そういうわけで、この蒔かれた土地で「ひとりでに」(αυτοματος)成長して実を結ぶ種のたとえでは、まず種とは、これまで同様に神の御言葉を指します。そして、刈り入れの時というのは、今の世が終わりを告げて新しい世が到来して神の国が現れる時を指します。そこに迎え入れられる人たちが刈り入れられる実にたとえられているのです。このたとえでは、先ほどのからし種のたとえと違って、小さなものが大きなものに変化することがポイントではありません。ここでポイントになっているのは、神の国が到来する日までは、迎え入れられる人は迎え入れられるのに相応しくなるよう成長していく、その成長のもとには神の御言葉が種のようにある。人が神の国に相応しくなるように成長するのは、その人の力や努力によるのではなく、種としての神の御言葉に宿る生命力によるのである、ということです。これで、このたとえの趣旨もわかりました。
2.
以上、本日のイエス様の二つのたとえの趣旨がわかりました。一つは、神の御言葉には、人が神の国に迎え入れられるのに相応しくなるように成長させる力があるということ。もう一つは、最初見かけは取るに足らないように見える神の御言葉であるが、それが出発点となって、最後は大いなるものとして神の国が現れるということです。実は、こうした趣旨がわかっても、もし「神の御言葉」とは何だ、「神の国」とは何だ、ということがわからなければ、この二つのたとえの正確な意味はまだわからないことになります。そういうわけで、まず「神の国」とは何かについてみていきましょう。
神の国とは、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今あるこの世が終わりを告げて全てのものが揺り動かされて取り除かれるという時、唯一揺り動かされず、取り除かれないものとして現れるものです(26-29節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が伝えていることは、この世が終わりを告げるというのは、同時に次の新しい世が始まることを意味しています。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にとってかわる新しい天と地を創造するという預言が出てきます(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、そのことが黙示録の21章と22章の中で預言されています。その時既に死んでいて眠っていた者たちは起こされて、その時に生きている者たちと一緒に神の審判を受け、神の目に適う者は神の国に迎え入れられるというのであります。
そこで目を神の国の中に転じると、それは黙示録21章に言われるように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神は涙をことごとく拭い取って下さるところ(4節)です。使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは、朽ち果てる体から朽ちない復活の体に変えられます(第一コリント15章42-55節)。イエス様はそのような者たちを「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。神の国はまた、黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえています(マタイ22章1-14節)。
これらのことを総合して見ると、神の国とは、そこに迎えられた者は朽ち果てない復活の体を与えられ、死も病気もなく皆健康で、前の世の労苦を全て労われ、また前の世で被った不正や不正義が全て神自らの手で最終的に清算されてすっきりするところ、その意味で道徳的倫理的に完成された状態と言うことができます。
本日の旧約の日課の中で、神が「高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる」(エゼキエル17章24節)と言われていますが、イエス様も多くの箇所で、高いものは低くされ、低いものは高くされる、先のものは後にされ、後のものは先にされる、と教えています(マタイ19章30節、23章12節など多数)。今この世で神の意思に沿わない仕方で高いところにいる者や一番前にいる者は、最終的には全く逆の立場に置かれる。今はそうした者のために低くされ一番後にされている者は、これも最終的には全く逆の立場に置かれる、ということです。イエス様の有名な「山上の説教」のはじめに「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)という教えがあります。これも、ギリシャ語の原文に即して訳せば、今悲しんでいる人たちは幸いである、彼らは将来慰められることになる、という約束の言葉です。この世で起きた不正や不正義は、うまく行けばこの世の段階で補償や救済がなされるかもしれません。もちろん、それは目指さなければならないことですが、いつも実現するとは限りません。また、なされた補償や救済も正義の尺度にぴったり当てはまるものかどうかということも難しい問題です。それで、神の意思が隅から隅まで貫徹されている神の国では、そうした無数の不均衡が最終的にぴったり清算されるところと考えてよいと思います。
神の国は、イエス様が教えたというだけではありません。イエス様が地上にいた時、それはイエス様とくっつくようにして一緒にありました。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ、病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。果ては、一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業を受けた人たちというのは、神の国の中での存在の仕方が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという存在の仕方が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという存在の仕方が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという存在の仕方が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに神の国がイエス様とくっつくようにしてあったからですが、奇跡を受けた人たちというのは、自分で気づいていたかどうかはともかく、遠い将来見える形で現れる神の国を垣間見たとか、味わったことになるのです。2週間前の説教でも申し上げましたように、神の国では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。
しかしながら、イエス様が神の国に関して人間に行ったことで最も大切なことは、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。そうではなくて、イエス様が行った最も大切なことは、人間が神の国に入れないように邪魔していたものを取り除いて、入れるようにしてくれたということです。それを可能にしたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神との結びつきを断ち切っていた原因であった人間の罪を、イエス様が全て請け負ってその罰を全て代わりに受けて死なれた。そして今度は三日後に復活させられることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。人間は、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得られて、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、それを歩み始めるようになるのです。今はまだ見えない神の国と目には見えない結びつきができたことになるのです。
3.
2週間前の説教でも申し上げたところですが、キリスト信仰者というのは、この世の人生の出口とその次の永遠の命の人生の入り口の両方がセットになって定まった者です。しかし、それでめでたしめでたしということではない、ということも申し上げました。その出入り口の時までをどう生きるかが大事になってくるからです。永遠の命に至る道に置かれたとは言っても、それで道を踏み外さないという保証は何もありません。踏み外さないで歩めるためにはどうすればいいのか?それは、神の意思に沿う生き方をすることです。それは、どんな生き方か?2週間前の説教でお教えしましたことは、自分は神を全身全霊で愛しているかどうか、またその愛の上に立って隣人を自分を愛する如く愛しているか、絶えずしっかり自己吟味しなさい、ということでした。そして自己吟味の際に、洗礼の時に神が私たちに覆いかけて下さったイエス様の義という、白い神聖な衣を肌身離さずしっかり纏っていなさい、ということを教えました。本説教では、その白い衣をしっかり纏う時に神の御言葉が大切になってくるということをお話しします。
神の御言葉とは何でしょうか?それは、とりもなおさず聖書にある言葉です。聖書にある言葉には、神自身が述べた言葉、神のひとり子イエス様の述べた言葉があり、また預言者や使徒たちの言葉もあります。預言者や使徒は人間なのに、これも神の言葉にしてしまうのか?そうです。それらは、神の霊である聖霊の働きかけによって述べられたり書かれたりしたので、それらも神の言葉です。
それならば、誰かが自分は聖霊に働きかけられたと言って述べた言葉も預言者や使徒に並ぶ神の言葉になるのでしょうか?それはなりません。どうしてか?聖書が今の形にまとまった後も、もちろん聖霊に働きかけられて述べられた言葉はあるでしょう。しかし、注意しなければならないのは、聖書がまとめられた後は、神の意思を伝える言葉は全て、聖書に則っていなければならないということです。聖書の言葉に即しているかどうかを見て、それで、あの人の言葉は聖霊が働いて述べられた、ということがわかるのです。そうでないと、今ある聖書では不足と言わんばかりに、付け足すようなことが行われて聖書が拡大して収拾がつかなくなります。(また逆に、今ある聖書にはいらない余計なことが書いてあると言わんばかりに、削除するようなことが行われて混乱を招きます。)そういうわけで、聖書がまとめられた後で聖霊の働きかけがあったと言って述べられた言葉というものは、実は聖書の確認にしかすぎないのです。まことに聖書は、神の意思を人間に伝える最高の権威なのです。
次に、聖書にある神の御言葉の役割について見てみます。それは一言で言えば、人間に神の意思を伝えることです。天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の意思を、造られた側の人間に知らせることです。それでは、神が伝えようとしている意思とは何か?これも一言で言えば、人間は造り主の神との結びつきを失ってしまったので、それを回復させようとすることを神は一番に考えているということです。それで聖書は、罪が人間の内に入り込んで神との結びつきを失ってしまったかということについてずっと述べるのです。そこから始まって神は、結びつきの回復が中途半端なものにならないように人間に律法を与えたこと、そしてイエス様の十字架の死と死からの復活が律法の要求することを全て完全に満たしたということを聖書は明らかにします。さらに聖書は、この結びつきの回復ということがイエス様を救い主と信じる者に起こることを約束します。そして、神との結びつきを回復した者はどう生きなければならないか、また何を覚悟しなければならないかを、そしてそのような時神はどう助け導いてくれるか、励まし慰めてくれるかについても聖書は教えてくれます。実に奥が深い人生の書物です。
ただ神の御言葉というものは、その本質上、人間に罪の自覚を呼び覚ますことをします。そのため、人間に自分は神から遠ざかってしまったことを気づかせます。しかしまさにその瞬間、そのような自分が神のもとに戻れるようにするためにイエス様が十字架にかけられたということを思い起こさせます。なぜなら、神の御言葉の重点はそこにあるからです。それを思い起こせば、神がどれだけ自分を愛しているかがわかって、遠ざかりは消えてなくなります。聖書の神の御言葉を読んだり聞いたりしながら神との結びつきがこのようにして強まっていけば、それは御言葉を「読んだ」というよりは、「摂取した」ということになります。
このように神の御言葉を摂取する時、それは信仰者が神の国に迎え入れられるように成長させる力を発揮します。まさに本日のたとえにあるようにです。神の御言葉は、目に見える形としては、文字が印刷された紙を束ねた本の中にあるだけです(最近は印刷しなくても電子的に見ることが出来ますが)。そこから神の国というとてつもない国が現れるなどとは想像もつきません。GDPとか軍事力とか、そういうものがないのに揺り動かされないというのです。どうして神の御言葉からそのような国が生まれることができるのか?神の国は今既に神のもとにありますが、将来(私たちが生きている状態にいてか復活した状態にいてかどちらで目にするかはわかりませんが)、目に見える形で現れます。神の御言葉で成長を遂げた人たちがそこに迎え入れられますが、その人たちは朽ち果てない復活の体を持ち、死も病苦も何も被らない、永遠に朽ち果てない復活の体を持つ人たちです。そういう人たちを構成員とする国ですから、これは世界最大のGDPや軍事力をもってしても太刀打ちできない史上最強の国です。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちにはこのような国が約束されていることをいつも忘れないようにしましょう。そして神の御言葉には、私たちをそのような国に迎え入れられるように成長させる力があることも忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(注 マルコ4章の構成やそれぞれの内容の意味ついて、学界でもいろいろな見解があります。4章に出てくる数々のたとえは、イエス様がもともと話されたそのままの形なのか、それともバラバラにあったのをマルコかその前の人が編集して今の形にしたのか、あるいは、もともとはイエス様が違う順番で言っていたのを並び替えたのか、さまざまです。しかし、学者がそれぞれ再構成したものはどれをとっても本当の歴史的事実という保証はありません。ある理論、ある方法論に基づけばこういう結論になります、というだけのことです。そこで、本説教では、私たちが確かなものとして目にすることが出来るのは、今目にしているテキストだけですので、それをもとにして話を進めて行きたいと思います。)
主日礼拝説教2015年7月12日 聖霊降臨後第七主日 聖書日課 エゼキエル17章22-24節、第二コリント6章1-18節、マルコ4章26-34節
1. はじめに
本日の福音書の箇所は、心を重苦しくする内容かもしれません。というのは、28節でイエス様は、全ての罪は赦される、と言った後すぐ、29節で、永遠に赦されない罪がある、と言います。聖霊を冒涜することがそれである、と言うのです。「罪が赦される」と言う時、新約聖書のギリシャ語で受け身の形は普通、天の父なるみ神を隠れた主語とします。それで、神は全ての罪を赦すが、聖霊を冒涜する罪は赦さない、ということになります。神が罪を赦すというのは、どういうことでしょうか?それは、神と人間の間にある断絶が解消されて両者の結びつきが回復すること。そして人間はこの世の人生を神との結びつきを持って生きられるようになること。順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻れるようになること。こうしたことが罪を赦された人に起こります。罪が赦されないと、逆のことが起こります。人間は神との結びつきを持てないまま、この世を生きることになり、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまいます。
それでは、神によって赦されない罪、聖霊を冒涜する罪とは、どういう罪でしょうか?また、それ以外の罪は全て赦されると言う時、赦しというものはどのようにして得られるのでしょうか?今日は、そういったことを考えてみたいと思います。
2. イエス様の怒り
その前に、聖霊を冒涜することがどんなに重大なことか、それが本日の福音書の箇所のイエス様の反応によく表れているので、それを見てみましょう。
イエス様は、不治の病を癒したり、悪霊に苦しめられている人たちからそれらを追い出したりして、大勢の人々を助けていました。その噂は方々に広がって、各地からもっと大勢の人たちが助けてもらおうとやって来て、大変な騒ぎになりました。悪霊というのは、先週の説教でもお話ししましたように、人間を様々な仕方で苦しめることで、自分は神から見放されたとか、また神など何の役にも立たないとか存在しないと思わせて、人間と神との間を引き裂くことを目的とする霊的な存在です。イエス様がそのような霊に苦しめられている人の前に立つと、霊は皆パニック状態に陥って、命じられるままに出て行ったことが福音書の中で多く伝えられています。
さて、モーセの律法の専門家たちが来て、イエス様の活動が神の意思に則ったものかどうかを調査しました。そして、あれは、悪霊のボス、ベルゼブルを内に持っていて、その力で悪霊を追い払っているのだ、という結論を下しました。ベルゼブルというのは、もともとはカナンの民族が信じた神で、列王記下1章にバアル・ゼブブという名で出てきます。それがイエス様の時代には、悪霊の首領を意味するようになっていました。
これに対してイエス様は、悪霊が悪霊を追い払うことなど出来ないと反論します。そんなことしたら、国が二分して内乱状態に陥って自滅するのと同じことになるではないか。また家が内輪もめになって成り立たなくなるのと同じことになるではないか。サタンだって内輪争いに陥ったら共倒れになるのだ、と。
そのように、イエス様の悪霊追い出しは同じレベルの者同士がやりあっているのではないとすると、一体どういうことなのか?イエス様は次にそれを説明します。強い者がいる家に入り込んでそこから物を奪い取ろうとする時、最初にその強い者を縛り上げないと成功しない。つまり、イエス様が悪霊を追い出すことができるのは、それを既に縛り上げてしまったからだ。強い者とみられる悪霊よりもはるかに強い者がそれを縛り上げで、手足が出ない状態にしてあるからだ。自分がそのはるかに強い者なのだ、と言うのであります。イエス様が他人の家に入り込んで物を奪い取ると言うのは、相手が悪魔とは言え、あまりいいたとえに聞こえませんが、実は、奪い取るものとして言われている「家財道具」とは、ギリシャ語のもとの単語はスケウオスσκευοςと言います。原文にあるように複数形の時は家財道具の意味も持ちますが、基本の意味は「道具」とか「器」です。その意味をもとにして、「肉体を持つ人間」も意味します。つまり、奪い取るというのは、悪魔に囚われた状態の人間を奪い返すという意味なのです。
このようにイエス様は、自分が悪霊を追い出すことができるのは、自分が悪霊なんかをはるかに上回る力を持っているからだと証します。では、その力はどこから来るのか?律法学者はイエス様の内に悪霊がいると言った、それが聖霊を冒涜したことになる。ということは、聖霊がイエス様の内にいて働いていたことになります。聖霊の働きを悪魔の働きと言ったことが、聖霊に対する冒涜になって、それが赦されない罪である、というのであります。赦されない罪というのは、情け容赦が通用しないということです。イエス様がこんな非情なことを言うのは意外な感じがしますが、この下りは読めば読むほど、イエス様の苛立ちや怒りが伝わってきます。悪魔同士の内紛と共倒れを言うために、同じようなたとえを三回も言うのはくどい位です。そして、たとえを言った後で「はっきり言っておく」と前置きして、律法学者が言ったことは聖霊に対する冒涜で、それは赦されない罪になると断罪するのです。この「はっきり言っておく」というのは、ギリシャ語原文では「まことにお前たちに言う」Αμην λεγω θμινですが、感じを出そうとすると、「これから言うことは、脅しでもなんでもないんだぞ」という訳になるでしょう。そう言ってから、聖霊に対する冒涜は赦されない罪になると警告するのであります。
3. 罪の赦しについて
イエス様は、聖霊に対する冒涜以外の罪や冒涜は赦されると言います。赦されない罪についてみる前に、罪が赦されるということはどのようにして起こるかを見てみます。先ほど述べましたが、罪が赦されるというのは、人間と神との間の断絶が解消されて、人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、万が一この世から死んだ後も神のもとに永遠に戻ることができるようになることだと申しました。従って、罪とは、人間と神との間に断絶をもたらして、人間が神との結びつきを持てなくするようにするものです。
神はこの断絶状態を悲しみ、これをなんとかしようと思いました。もともと自分が創造した人間ですので当然です。そこで何をしたかと言うと、ひとり子イエス様をこの世に送り、人間と神との結びつきを断ちきる原因であった人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、人間の代わりにその罰を十字架の上で受けさせて死なせた。そして三日後に死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。そこで人間は、これらのことが自分のために起こったとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得て、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、それを歩み始めることとなります。
ここで、「罪」とか「罪を犯した」いう言葉を聞くと、私たちはとかく他人に危害を加えるような行為を思い浮かべます。しかし、天の父なるみ神が問題にする罪とは、そういう外面的な行為に限られません。たとえ行為として罪を犯さなくても、人間の内には罪の種のようなものがあるのです。誰からも非の打ちどころのない人と言われるような人でも、もし境遇や環境の変化があれば、行為に現れてしまうかもしれないし、また現れなくても思考の中で形を取るかもしれない。そういう罪の種を原罪と言います。先ほど朗読していただいた旧約聖書の箇所は堕罪の出来事についてでしたが、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時にこの原罪が人間の内に入り込み、それ以後全ての人間が受け継いできたのです。そのような奥深くて除去不可能なものが、洗礼を受けることで、イエス様の神聖さを衣のように頭から被せられて覆い隠されます。そして神は、そのような衣をまとった者としてキリスト信仰者を見て下さるのです。
そういうわけで、神が罪を赦すというのは、大体神が次のように言ってくれることと言ってよいでしょう。「もちろん、お前が罪を犯したという事実は消えないし、またこの世で肉を纏って生きる限り原罪も消えない。しかし、お前は、私のひとり子イエスが身代わりになって死んだと信じ、それで彼を救い主と信じる信仰がある。だから、私はイエスの犠牲に免じてお前を赦そう。お前が纏っている白い衣に私は目を留めよう。それゆえ、お前が犯した罪は、もう不問にする。あたかもなかったかのようにする。だから、お前は心配せず新しい命の道をしっかり歩みなさい。」
ここで一つ難しい問題を考えてみましょう。それは、人が殺人のような何か大きな罪を犯した時、もしその人がキリスト信仰者で、自分は「汝殺すなかれ」や「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という神の掟に背いてしまったと認めて悔いて、神に赦しを乞えば、神は本当に赦してくれるのだろうか?また、もしその人がキリスト信仰者でなくても、その後魂の変遷があってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、犯した罪を悔いて神に赦しを乞うならば、神はそれも赦して下さるのだろうか?被害者の肉親が納得しないというような時でも、神は赦してしまうのか、という疑問です。
難しい問題ですが、考えの出発点として、キリスト信仰においては、他人に何か害悪を及ぼすと言うのは、その人に対してだけでなく神に対しても罪を犯すことになる、ということを思い起こします。ルカ15章の有名な「放蕩息子」の話で、父親の財産を愚かなことに使い切ってしまった息子は、自分は天に対しても父に対しても罪を犯した、と告白します(18節、21節)。「天に対して」というのは「神に対して」ということです。両親を大切にせよ、という神の掟を破ったことを認めて悔いているのです(他に金の使い方で「姦淫するな」も破っています)。親を単に自分の欲望を満たすための手段にしたことで、親に対して罪を犯した。それはまた神の意思に背くことなので、神に対しても罪を犯したことになるのです。
もし悔いる心を神が本物と認めて赦しの乞いを受け入れれば、神は直ちにその人の罪を赦します。神がその人の罪を赦すというのは、先ほども述べたように、神が罪を不問にすると言って、永遠の命に至る道に戻してあげること、その人と神との結びつきが回復して、その人が再び神の子とされることです。もちろん、国や社会の法律の規定に従って刑に服したり賠償をしなければならないということがあります。しかし、受刑者であっても賠償責任者であっても、神から赦しを得たら、法律上は犯罪者でも、その人は神の子なのです。
ところで、罪を犯した人が悔いて赦しを乞うても、あれは本物だろうか、と疑いを持たれることがあるかもしれません。しかし、悔いる心と赦しの乞いが本物かどうか、それを見極めて判断できるのは神だけです。私たち人間の判断力や人の心を見る目は神のものと比較して、あまりにも小さく限られています。では、私たちはどうしたらよいのでしょうか?もし、悔いる心と赦しの乞いは本物ではないと決めつけて、後で実は本物だったとわかったら、罪を犯した人が立ち直るのを妨げてしまったことになるでしょう。そこで、最低限しなければならないこととして考えられるのは、悔いる心や赦しの乞いが表明されたら、それがその人にとって本物になるように周りが手助けすることです。具体的にはどういうことか言うのは難しいのですが、ひとつはっきりしているのは、最初から頭から疑ってかかるのは悔いる心が本物になるのを最初から妨げてしまうことになるので、それは避けなければなりません。
そこで、もし犯された罪があまりにも大きて、その被害も甚大であった場合、いくら神の方で悔いる心を本物と認めて赦したとしても、人間の方はそう簡単に赦すことはできないということがあるかと思います。その場合、キリスト信仰に即して言えば、兄弟が罪を犯して赦すのは7回までかというペトロの問いに対するイエス様の答え「7の70倍」ということが原則としてあることを思い返します(マタイ18章22節)。そのような気前がよすぎると見なされてしまうような赦しはどのようにして可能でしょうか?それは、私たち自身が、神から、お前の罪を不問にする、とか、お前が纏っている白い衣に目を留める、と言ってもらっているからで、それで私たちも同じようにしなければならない。悔いる心を示されて赦しを乞われたら、私たちも神が私たちにしてくれたように赦して、なかったことにしなければならないということであります。
神のひとり子が自分を犠牲に供したおかげで私たちは神の罰を免れて神の子とされたのだとわかると、今度は私たちが被った危害というものも心の中では、法律がこのくらいの大きさだと言っているよりも縮小されたものになるのではないかと思います。いずれにしても、キリスト信仰にあっては、「神は赦しても、自分は赦せない」というのは、自分を神の上に立てることになるので絶対に言ってはならないことです。
これまでは、加害者が罪を悔い神と被害者に赦しを乞う場合のことを言ってきました。それでは、もし加害者がそのようなことをしない場合は、どうすればよいのでしょうか?特に、被った危害が甚大なものである場合は?それでも、キリスト信仰者は赦さなければならないのでしょうか?イエス様が「7の70倍」と言う時、何も条件が付されていないだけに気になるところです。ここは、使徒パウロの教えによるしかないのではないかと思います。つまり、復讐は神に任せよ、です(ローマ12章19節)。私たちは、心に復讐心を抱かない。加害者に何が起きるか、この世で何か罰を受けるのか、それとも、たとえこの世で起きなくとも、最終的には最後の審判の日に「命の書」が開かれて、全ての人間の全ての所業がその人の目の前に示されて、それに基づいて最終的にプラス・マイナスが清算される。それだから、その人の処遇は神に任せて、自分では復讐心を持たないようにする。復讐心を持たないとはどういう心の有り様かと言いますと、これもパウロの続く教えが大事になると思います。つまり、もし加害者が目の前に現れて、飢えていたら食べ物をあげ、渇いていたら水を上げる、という態度です(ローマ12章20節)。それはその人が愛おしくて愛しているからそうするのではなく、ただ神がそうしなさいと言っているからするだけです。それでも復讐を神に任せていることになります。もし、水も食べ物も与えなかったら、それは自分で復讐することになってしまいます。この、食べ物と水を与えて復讐は神に任せるという態度を持てないと、被害を被った人も事件が心身にもたらす呪縛からなかなか解放されないのではないでしょうか?
それでは、イエス様が敵を愛せよ(マタイ5章44節)と言っていることはどうなるのでしょうか?難しいですが、これも、イエス様が十戒を二つの掟に要約したことを考えてみたらよいと思います。つまり、「神を全身全霊で愛せよ」がはじめにあって、それを土台にして「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」が来ます(マタイ22章37-38節)。そうなので、敵なる者がそれこそ罪を犯したことを悔い、神にも人にも赦しを乞うような者に変わるようにその人を導くこと、これがその人に対する隣人愛と言うことができると思います。もし聞く耳も持たないとか、顔を合わせられる状況でない場合には、その人がそうなるように私たちが神に祈りに祈ることではないかと思います。イエス様が、神というのは善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる方(マタイ5章45節)と言っているのも全く同じことです。これは、神が無原則な見境のない気前のよさを持っていると言っているのではありません。神は、悪人が神のもとに立ち返る日を待っているからそうするのです。もし、悪人に太陽を昇らせず雨も降らせなかったら、悪人はすぐ滅びてしまって神のもとに立ち返るチャンスを失ってしまいます。ここから、キリスト信仰者に課せられた使命、役割は明白でしょう。
4.赦しに至らせない最悪の罪
以上、神が罪を赦すというのはどういうことか、どのようにして起こるのか、また私たちはそれにどのように従っていったらよいのかについて述べてみました。これらは難しい問題なので、一回の説教で全てが納得できることを期待せず、これからも何度も何度も立ち止まって考えたり、聖書を繙いたり、祈ったりしなければならないことを心に留めておきましょう。
さて、最後に、神が赦さないという罪、聖霊に対する冒涜についてみてみましょう。なぜ、聖霊に対する冒涜がこんなに大きな罪になるのかについて、まず聖霊はどんな働きをするのかを振り返ってみる必要があります。
まず、聖霊は「弁護者」(ヨハネ15章26節、16章7節)としての役割を果たします。それは、悪魔が神の前で信仰者を指さして、この者は罪の汚れを持つ者です、情け容赦は無用です、と神に訴える時、聖霊は、この人はイエス様を救い主と信じる信仰を持っています、その証拠に白い衣を手放さないでしっかり纏っています、と弁護してくれます。
それから、聖霊は「真理の霊」(ヨハネ15章26節、16章13節)とも呼ばれます。どういうことかと言うと、もし人が、神の意思に背くことをしてしまった時、また背くようなものが自分の内にあることに気づいた時、神との結びつきが失われてしまったという恐れや心配に陥ります。その瞬間、聖霊は次のように言います。「あなたは今、心の目をゴルゴタの丘の十字架に向けなさい。あそこにいるのは誰ですか?あの方の両肩に重くのしかかっている全ての人間の罪の中にあなたのものも入っているのをしっかり見届けなさい。」
人間の内に罪があるという真理をわからせるのも、また、このように救いの真理を告げて人間を罪の底から絶えず引き上げてくれるのも聖霊です。このような聖霊を侮辱するというのは、人間を神のもとに立ち返らせる働きそのものを侮辱することです。十字架と復活の出来事の前の段階では聖霊に対する侮辱とは、本日の福音書の箇所にあるように、イエス様が聖霊の力を得て行ったことを悪霊の力と言ったことでした。十字架と復活の出来事の後の聖霊に対する侮辱は、人間が罪の赦しを持てなくなるようにすることが明白になりました。
愛する兄弟姉妹の皆さん、そういうわけで、自分の罪を白日の下に晒しだされるようなことがあっても、すぐ十字架の主のもとに立ち戻れば、私たちはそれで聖霊の働きの中に入っていますので、何の心配もありません。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、聖霊を冒涜するということはありえないので安心して行きましょう。
主日礼拝説教 2015年7月5日 聖霊降臨後第六主日 聖書日課 創世記3章8-15節、第二コリント5章11-15節、マルコ3章20-30節
1. 安息日の主イエス様
本日の福音書の箇所は少し複雑なので、解きほぐすように理解していきたいと思います。
まず、安息日に病気を治すことが安息日に仕事をしてはならないという掟に反するかどうかという問題が起きます。先週の主日も安息日についての掟が問題となりました。少しおさらいをしますと、ある安息日にイエス様と共に町から町へと移動していた弟子たちが空腹に見舞われて通りがかりの麦畑の麦を取って食べ始めました。戒律に厳しいファリサイ派の人たちがそれを見て、脱穀作業をしたのも同然と言いがかりをつけ、仕事をしてはならないという安息日の掟を破ったと先生のイエス様を批判しました。そこでイエス様は、かつてダビデが祭司専用のお供え物を食べたことを引き合いに出して、安息日の守り方の中身も何が神の意思に沿っているかいないかが大事で、人間が自分の見方で決めることではないと教えました。ダビデのサウルから逃げる旅も、またイエス様の弟子たちの宣教旅行もみな神の意思によるものでした。イエス様は神のひとり子ですから、何が神の意思に沿うかは一番ご存知でした。まさに「安息日の主」なのです。それから、安息日というのは、古い契約の民にとっては、エジプトの奴隷状態からの解放を記念して霊的な休息を得る日でした。それが新しい契約のもとで生きるキリスト信仰者にとっては、罪と死の奴隷状態からの解放を記念して霊的な休息を得る日となりました。まさにそのために、「安息日は人のためにある」のです。
さて、本日の福音書の箇所の最初の舞台は安息日の会堂です。人が大勢いるところをみると、礼拝が始まる直前か直後か、あるいは礼拝の最中かはっきりわかりませんが、いずれにしても礼拝の時間帯に重なる場面です。そこでイエス様は、片腕が麻痺状態になっていた人の手を元どおりにするという癒しの奇跡を行いました。周りには、ファリサイ派の人たちがいて、この男はまた安息日の掟を破るかどうか見届けてやろう、破ったら最高法院に訴えてやろう、と注視しています。イエス様はそれを知っての上で癒しました。安息日の掟にしても他の掟にしても、神の意思に沿うように理解し守らなければならないのに、宗教エリートたちは自分たちの見方に基づいて作り変えてしまった。イエス様はそのことをひどく悲しみました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すかとか」というイエス様の問いは、まさにファリサイ派が陥ってしまった矛盾を突くものでした。
ファリサイ派の人たちは、自分の目でイエス様の奇跡の業を目撃したにもかかわらず、そこに神の力が働いたことを素直に認めることもせず、自分たちの見解が覆されたことのくやしさだけで身も心も一杯でした。とうとうイエス様を殺す計画が話し合われ始めました。既に「かたくなな心」であったのが、一層かたくなになったのです。これでイエス様の十字架への道が決定づけられていきます。これは驚くべきことです。というのは、神の意思を正確に知らしめようとすればするほど、それに反対する力を呼び起こし、神の意思の実現を阻止しようとするからです。しかし、阻止があればあるほど、最後には反対する力が木端微塵に打ち砕かれるくらいに神の意思が完全に実現することになる。まさに反対する力があったおかげとさえ言えるような勝利がもたらされる。イエス様の十字架の死と死からの復活は、まさにそのようなものだったのです。
2.奇跡のパニック
会堂の出来事の後、イエス様と弟子たちはガリラヤ湖に移動します。すると、その日の出来事の噂がどんどん広まっていったのでしょう。まず地元ガリラヤ地方の人たちがぞろぞろついて来ました。皆簡単には治らない病気を抱えていたり悪霊に憑りつかれた人たちでした。集まる人たちの群れは日に日に拡大していきました。ユダヤ地方とその中心地エルサレムからも、さらに南のイドマヤ地方からも、東のヨルダン川の対岸の地方からも、さらに北にあるローマ帝国シリア州の都市シドンとティルス周辺からも集まってきました。皆イエス様から病気を癒していただこうと、また悪霊を追い出してもらおうと集まって来たのです。群衆の押し寄せる圧力というのは相当なものです。とにかく、後ろの方から大勢の人が押してきますので、前の方でもう止まってと言っても、後ろの人たちにはわかりません。ただただ前に進もうとするので、前にいる人は本当に押し潰される危険に晒されます。イエス様が舟に乗って、少し岸から離れようとしたのも無理はありません。一人一人を相手にして語りかけたり手を取ったりして癒す余裕などありません。人々はイエス様の服に触れただけでも癒されるとわかると(マルコ5章29節、6章56節)、もう見境なくなりました。ただ我も我もと押し寄せるだけになりました。
イエス様が癒したのは病気だけではありません。汚れた霊に憑りつかれた人たちからそれを追い出すこともしました。汚れた霊とか悪霊というものは、人間を様々な仕方で苦しめることで、自分は神から見放されたとか、また神など何の役にも立たないとか存在しないと思わせて、人間と神の間を引き裂くことを目的とする存在です。イエス様がそのような霊に苦しめられている人の前に立つと、霊は皆パニック状態に陥ったことが福音書の中で伝えられています。本日の箇所では、霊がイエス様にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫びました。マルコ1章では、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ」(24節)。ガリラヤ湖の東側のゲラサ地方でも霊は、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」(5章7節)と叫びました。
興味深いことに、汚れた霊たちはイエス様が誰であるかを正確に知っていました(マルコ1章34節も)。人間たちは、この時点ではおそらくまだイエス様のことを「神の子」とは告白しなかったでしょう。ペテロがイエス様のことをメシアと告白するのはもっと後のことです(マルコ8章29節)。イエス様のことを人々は、神から力を授かった預言者の一人と考えていたようです。
さらに興味深いのは、群衆のいる前でイエス様の正体を言い当てた霊に対して、イエス様が「黙れ」と言って話すことを許さなかったことです(マルコ1章25節)。本日の箇所でイエス様は、自分のことを言いふらしてはならないと霊たちに厳しく戒めました(12節)。マルコ1章34節によれば、イエス様が霊たちに黙るように命じたのは、イエス様について人々に言いふらさないようにするためでした。なぜイエス様は、自分のことを人間よりも正確に知っている汚れた霊や悪霊に自分のことを言い広めてはいけないと禁止したのでしょうか?相手が霊ではなくて人間の場合でも、イエス様が言いふらさないように命じたことが沢山あります(マタイ8章4節、30節、9章9節、30節、16章20節、マルコ7章16節、ルカ5章14節など)。なぜ、イエス様は、御自分のことを公けにしたがらなかったのでしょうか?
これはいわゆる「メシアの秘密」という新約聖書学の学説にも関係することなのですが、それは一つの学説ですので学界には賛否両論があります。学界の議論は脇に置いて、福音書に書かれていることをもとにしてこの疑問に答えることが出来ます。なぜ、イエス様は、御自分のことを公けにしたがらなかったのか?それは、イエス様がこの世に送られた目的の一つは、神の国と神の意思について人々に正しい理解を与えることがありました。旧約聖書の中にそれらについて記されているのですが、それが間違って理解されていたのです。イエス様は神のひとり子ですから、それらについて正しく知りうる立場にありました。それ故、正しく教えることのできる唯一の方だったのです。しかし、イエス様の目的は実は、正しい知識の提供だけではありませんでした。神と人間の間に出来てしまった断絶をなくして、両者の結びつきを回復するという大事業、そのために自分を犠牲の生け贄にして人間に真の救いを提供するという大事業があったのです。この大事業は、イエス様の十字架の死と死からの復活によって成し遂げられました。
しかしながら、人間の方はと言えば、病気を治してくれたり空腹を満たしてくれるありがたいイエス様に関心が集中していました。5千人の人たちの空腹を僅かな食物で満たす奇跡を行った後で群衆がイエス様の後を追いかけて行きました。イエス様は彼らの本当の目的を見透かして言いました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(ヨハネ6章26節)。神と人間の間の断絶を解消するために、まず人々に教え、最後には命を捧げるために来たのに、人々はもっと身近なことにしか関心を持たない。そこにイエス様の直面したジレンマがありました。
イエス様がメシアであることを公けにしてはならないと言うのも、当時の政治状況から理解できます。メシア救世主とは、人間を罪と死の奴隷状態から解放して、最後の審判の日に神の意思に沿う人を集めて神の国に迎え入れる人物という理解がはっきりするのは、イエス様の十字架と復活の出来事の後です。十字架と復活が起きる前の段階では、大半の人はメシアというものを、ユダヤ民族を異民族支配から解放して民族自決国家を実現させてくれる王様という理解をしていました。そういう時に、イエス様はメシアだ、と言い広めたら、どうなったでしょうか?ガリラヤにいてもどこにいても、すぐ占領者ローマ帝国に反乱を企てる者との嫌疑をかけられて逮捕されてしまったでしょう。エルサレムに入城するまではそのようなことは避けなければならなかったのです。
それでは、なぜイエス様は悪霊たちに自分の正体を言い広めることを禁じたのでしょうか?それは、悪霊のそもそもの目的を思い出せば簡単です。先ほども申しましたように、悪霊の目的は、人間を様々な仕方で苦しめることで、自分は神から見放されたとか、また神など何の役にも立たない、存在しない、と思わせて、人間と神の間を引き裂くことです。端的に言って、いくら悪霊がイエス様の正体を正しく知っているとは言っても、そのまま人間に正しく伝えるということは絶対にありえません。そんなことをしたら自分たちの本来の目的に反することをしてしまうからです。それでイエス様は悪霊に話すことを禁じたのです。
ルターも教えているように、悪霊は聖書をよく知っていて、どこの部分で誤った理解を与えれば人を絶望に追い込めるかも知っています。悪霊が次のように言ってきたとします。「神はお前が罪の汚れを持っていることをよくご存知だ。だから神はお前に対して怒り、それでお前は今のような悲惨な状態に陥ったのだ。」そのような場合、ルターにならって次のように言い返します。「確かにお前の言うように私は罪の汚れを持つ者だ。しかし、まさにそのために神はイエス様をこの世に送られ、十字架の死に引き渡されたのだ。もし神が罪の汚れを持つ人間を怒っているのであれば、イエス様を送られることも、十字架の死に引き渡すこともしなかったであろう。」こう言えば、相手は何も言えなくなります。
3.神の国を垣間見せた奇跡
以上、本日の福音書の箇所が教えていることについて述べてきました。ここで、少し見方を広くして、そもそもイエス様はなぜ奇跡の業を行ったのかについて考えてみたく思います。
イエス様は数多くの奇跡の業を行いました。無数の不治の病を治したり、悪霊を追い出したり、何千人もの人の空腹を僅かな食べ物で満たしたり、嵐のような自然の猛威を静めたりしました。嵐の中を湖の水の上を歩いて移動したり、既に息を引き取った人を生き返らせたりしました。イエス様の服に触れただけで病気が治ったということを読むと、奇跡というのはイエス様が自分から働きかけなくとも、彼から何か不思議な力が放出されて、人がそれに接触しただけでも起きるものと言うことができます。自分から働きかけをしてもしなくてもイエス様から何か力が人間に及ぼされるというのは、一体どういうことなのでしょうか?これは、イエス様が教えていた神の国というものに関係があります。
イエス様が活動を開始した時、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と公けに言われました(マルコ1章15節)。この「神の国は近づいた」の「近づいた」は、ギリシャ語の動詞エーンギケンηγγικενですが、本当は「もう既に来た」とか「もうここにある」という意味です。これは、ちょっとおかしなことです。と言うのは、神の国とは、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、本当ならば、今あるこの世が終わりを告げて全てのものが揺り動かされて取り除かれる時、唯一取り除かれないものとして現れるものだからです(26-29節)。つまり、終末の時、最後の審判の日、死者の復活が起こる日に見える形で現れる国です。そうすると、まだこの世の終わりでない時に、イエス様が神の国は既に来ている、と言ったのはどういうことなのでしょうか?
それは、神の国が人間の目には見えない形ではあるがイエス様と一体となって来たということです。神の国は、黙示録21章にあるように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、神が迎え入れた人たちの目から涙をことごとく拭い取って下さるところ(4節)です。また19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは朽ちるものから朽ちないものに変えられ(第一コリント15章42-55節)、そのような人たちをイエス様は「天使のような者」と呼びました(マルコ12章25節)。こうして見ると神の国とは、病気がなく皆完全に健康な者となり、この世での労苦が全て労われ、また被った不正義が最終的に全て償われるところです。悪霊たちにとっても、神の国が到来する日は自分たちがまっさきに永遠の炎に投げ込まれると知っているので、何よりも来てほしくないものです。イエス様から奇跡の業を受けた人たちというのは、このような神の国の中での存在の仕方が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという存在の仕方が身に降りかかって病気が消えてしまったということです。そのようなことが起きたのは、まさに神の国がイエス様とくっつくようにして一緒にあったからです。それで、奇跡を受けた人たちは、自分で気づいていたかどうかはともかく、遠い将来に見える形で現れる神の国を垣間見たとか、味わったことになるのです。神の国では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。
ところが、イエス様が神の国ということで人間に行ったことで最も大切なことは、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。そうではなくて、イエス様が行ったのは、人間が神の国に入れないように邪魔していたものを取り除いて、入れるようにしてくれたということです。それを可能にしたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事でした。人間と神との結びつきを断ちきる原因であった人間の罪を、イエス様が全て請け負ってその罰を代わりに受けて死なれた。そして三日後に復活させられることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。人間は、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得て、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、それを歩み始めることとなります。今はまだ見えない神の国と目には見えない結びつきができたのです。
4.神の国に結ばれた者として生きる
こうして見るとキリスト信仰者というのは、この世の人生の出口とその次の永遠の命の人生の入り口の両方がセットになって定まった者ということができます。しかし、それでめでたしめでたしということではありません。これからその時までをどう生きるかが大事になってきます。永遠の命に至る道に置かれたとは言っても、それで道を踏み外さないという保証は何もありません。踏み外さないで歩めるためにはどうすればいいのか?それは、神の意思に沿う生き方をすることです。それは、どんな生き方でしょうか?
イエス様は神の意思を簡潔に要約して、神を全身全霊で愛すること、そしてその上に立って隣人を自分を愛する如く愛することであると教えました。そこで、果たして自分は神をそのように愛しているか、隣人をそのように愛しているか、自己吟味しますと、人によっては、自分はこれこれのことを成したと言って、出来たことに目が向いて誇らしくなる人がいるでしょう。また人によっては、これこれのことが出来なかったと言って、出来なかったことに目が向いて自己嫌悪に陥ってしまう人もいるかもしれません。両方ともそこで終わってはいけません。そこで終わったら、前者は砂の上にお城を建てるようなものになってしまい、後者は大きな砂の穴から出ようとしてさらに砂を掘るようなものです。では、どうすればよいのでしょうか?
ここで、原罪という罪の大元、罪の罪が神によって赦されているのを思い起こすのがよいと思います。原罪とは、たとえ行為として罪を犯さなくても、常に人間だれにでも根底に横たわっている罪です。境遇や環境の変化でもあれば、行為に現れるかもしれないし、現れなくとも思考の中で形を取るかもしれない、まさに罪の種です。それは、人間が自分の力で取り除こうとしても、また神に対して何か償いをして取り消そうとしてもできない、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時から全ての人間が受け継いでいる罪です。そのような奥深くて除去不可能なものが、洗礼を受けることでイエス様の神聖さを頭から被せられて覆い隠されて、神はそのような衣をまとった者としてキリスト信仰者を見て下さいます。
しかしながら、それで終わったわけではありません。今度は信仰者がその衣を手放さないようにしっかりそれを握って纏っていなければなりません。洗礼を受けたのが赤ちゃんであれば、白い衣を被せられただけで、まだそれを自分で脱ぎ捨てる力はありません。しかし、人間は堕罪の時に善悪を知る実を食べたので、何もしなければ赤ちゃんも成長すれば衣を脱ぎ捨てる力が出て来ます。両親や教保や教会が神様のことをしっかり教えて、衣を脱ぎ捨てない力を育てるようにしなければなりません。大きくなってから洗礼を受ける場合も同じです。白い衣を脱ぎ捨てない力はどうやって得られるかと言うと、イエス様が十字架で私の原罪を請け負って死なれた、そして復活されたことで私にも永遠の命に至る扉が開かれた、と絶えず思い起こすことです。それが信仰です。そうする時、原罪は残ってはいても、神は白い衣をしっかり纏っていると認めて下さり、お前は道をしっかり歩んでいるから安心しなさいと言って下さるのです。そうすれば、自分を誇っていた人も、へりくだって神を誇るようになります。また、意気消沈していた人も神を誇るようになって、もう心配しないで済むようになります。神はまことに愛と恵みに満ちた方であることがわかり、どんな時でもどんな状況にあっても神に感謝する心が生まれるのです。
主日礼拝説教2015年6月28日 聖霊降臨後第五主日 聖書日課 イザヤ58章11-14節、第二コリント5章1-10節、マルコ3章1-12節
1.はじめに
何年か前のヒットソングに「素敵な日曜日」というのがありました。小学生だった息子が区の特別支援学級の連合運動会でこの歌に合わせてダンスを踊ったので、私も歌詞の一部を覚えています。確か、さんさんとお日さま輝く日曜日おでかけしましょう、とか、ざあざあ雨が降ってる日曜日、傘さして長靴はいておしゃれして出かけよう、とか、ニコニコ心が躍る素敵な日曜日、とか。それを聞いていて、教会に来る人もそんな気持ちで来ることができるだろうか、などと思ったものでした。
日曜日は、週7日ある中の休みの日ですが、もちろん、実際にはお店も多く営業しているし、仕事をしている人たちは多くいます。それでも、日曜日にお店や行楽地をやっているのは、やはり休みの人が多いので買い物を多く見込めるということでしょう。ところで、1週間に7日あって七日目が休みと言うのは、多くの方はご存知と思いますが、旧約聖書の創世記の中にある出来事が背景にあります。全知全能かつ天地創造の神が万物を創造した時、6日間仕事をされ、7日目に仕事から離れて休まれ、その日を特別な日、神聖な日に定めたことに由来します(創世記2章1-3節)。その日を旧約聖書の言葉であるヘブライ語でヨーム ハッシャッヴァート(יומ השבת)とか、単に短くしてシャッヴァ―ト(שבת)とか言い、普通「安息日」と訳されています。大学関係者なら誰でも知っている英語のサバティカルという言葉もここから由来しています。
さて、私たちキリスト信仰者は安息日である日曜日に教会の礼拝に参加してこれを守りますが、どれだけ多くの人が礼拝に参加する安息日を素敵と感じているでしょうか?もし礼拝参加に何か重荷感とか束縛感を感じる方があれば、本説教ではそれを少しでも減らせるようにしたく思います。
2.安息日 - 奴隷状態からの解放を記念し霊的に休息する日
安息日に仕事を休んでこれを神聖なものとせよ、という神の掟は、モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にいた時、十戒の一つとして与えられました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8節)。
「休みなさい」と言ってくれているのはありがたいことですが、ここでポイントになっていることは、この「休め」というのは神がそうしたのでそれに倣えという命令です。つまり、「休む」というのは神の意思に従う行為であり、それをすることで自分は天地創造の神に属する者であると自分に言い聞かせ、かつ他人にも示すことになるのです。仕事を休んで安息日を神聖なものとせよ、と言うのは、仕事のことに心と時間が向けられていたのを中断して、心と時間を神に向けよ、ということです。さらに言えば、週の日に仕事も含めて生活一般のことなどでいろんな心配事があって頭が一杯になっていても、安息日にはそうした心の重荷を一旦肩から下ろして、心を神に向けなさいということです。どうやってそんなことが出来るかと言うと、例えば、次のようにお祈りします。「天の父なるみ神よ。今日は安息日ですから、あなたに心を向けたいので、この重荷を一時あなたにお預けします。どうぞ、受け取って下さい。」そうお祈りして神の足元に投げ出してしまうのです。投げ出して出来た空白を今度は礼拝の中で与えられる賜物で満たしていきます。御言葉や説教の拝聴を通して神が自分に何をしてくれたかを思い起こします。また、讃美歌を歌うことで神への賛美を声に出し、祈りの時に普段抱えている重荷の真の解決を与えてくれるように助けを祈り求めます。聖餐式がある日ならば、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいます。こうして霊的な癒しを受けて強められた者は、十分な休養を取ったことになり、新しい1週間に臨むことができるのです。
本日の旧約の箇所は申命記でした。エジプトを脱出した後40年間続いたシナイ半島の荒れ野の移動も終わりに近づいた時の記録です。この時、神は民に対して十戒の復習をします。その安息日の掟を見ると、先ほど見ました、出エジプト記の時の掟に少し補足がなされます。安息日を守る理由が一つつけ加えられます。それは、かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの民は休むことも許されず安息日を守るどころではなかった、その民を神が解放して下さった、だから安息日を守り神聖なものとしなさい、と言うのです(申命記5章15節)。天地創造の時、6日働いて七日目に休まれた神はまた、御自分の民を奴隷状態から解放して苦役をしなくても良いようにして下さった、それゆえ、安息日には解放された民、奴隷状態ではなくなった民として振る舞わなければならない、というのであります。
イスラエルの民にとって、神が解放してくれた奴隷状態というのは、エジプトにおける境遇からの解放です。神との新しい契約の中で生きるキリスト信仰者からすれば、イスラエルの民のエジプトからの解放はあまり直接関係ないもののように見えます。しかし、実はキリスト信仰者にとっても、もっと重大な奴隷状態からの解放があったことを忘れてはなりません。それは、罪と死の力の下に服していたという奴隷状態です。神はこの奴隷状態から人間を解放するためにイエス様をこの世に送られました。まさにそれゆえに、安息日とは奴隷状態からの解放を記念し霊的に休息する日であるということは、これはキリスト信仰者にとってもしっかり当てはまるのです。
3.安息日と神の意思
本日の福音書の箇所で、イエス様は安息日の間違った守り方を指摘して、正しい守り方を教えます。起きた出来事はこうでした。ある安息日に弟子たちが麦畑を通って進んで行った。その時、皆空腹を覚えて、麦の穂を摘み始めた。これを目撃したファリサイ派の人たちが弟子たちの教師であるイエス様に難癖をつけ始めた。問題となったのは、他人の麦を取ったことではありませんでした。申命記23章25節をみると、隣人の麦畑の麦は自分の空腹を満たすために手で積むのは良いが、それ以上取るために鎌を使ってはいけない、という規定があります。ファリサイ派が問題としたのは、弟子たちが麦の穂を摘んだことが脱穀作業と見なされ、さらに麦の粒を取り出すために手で籾摺りをしたことも作業と見なされたことです。作業である以上は仕事で、それは安息日にしてはいけないことでそれをした、という論理だったのです。
少し馬鹿馬鹿しく思えるような論理ですが、当人たちにとっては真面目な大問題でした。ファリサイ派は、神に約束された神聖な土地に住む民は神聖さをしっかり保たなければならない、ということをとても強調していました。そのためには神の掟を完璧に守らなければならない。安息日に仕事をしてはならないという掟があれば、完璧にその通りにしなければならない。そうしないと神の目に適う者にはなれない。そのように隙が出来ない位に細心の注意を払った結果がこうなったのです。
ファリサイ派の批判に対してイエス様は、サムエル記上21章にある出来事を引き合いに出して反論します。それは、ダビデがサウル王から逃れる途上で祭司にパンを乞うた時の出来事です。ダビデはその時、本当は祭司しか食べることが許されていない聖別された供え物のパンをもらいました。(* 祭司アビアタルとアヒメレクについて後記の注をご覧下さい。)サムエル記上ではイエス様が言われるように、従者にもパンが分け与えられたことは記されていませんが、ダビデと祭司のやりとりを見ると後で分け与えられたと考えられます(サムエル上21章3、4-5節)。将来王の位につくダビデでしたが、この時は猜疑心嫉妬心に憑りつかれたサウル王から逃れる日々を送っていました。実はそれは、神の大いなる導きの中の一コマでした。その中でもがくダビデでしたが、それはそれで神の意思に従う生き方だったのです。彼が祭司にしか許されない食べ物を得られたというのは、神の計らいによるもので、神の御心に適うことでした。さて、イエス様の弟子たちの場合も同じでした。弟子たちは、イエス様と行動を共にし、イエス様から教えを受け、それを各地に伝える役目を果たしました。自分たちの空腹を満たすために鎌ではなく手で麦の穂を摘むのは、安息日であっても神の目から見て何の問題もないことでした。これが、もし許されなければ、弟子たちの空腹が満たされないだけでなく、弟子たちと共に神の国について人々に宣べ伝えるイエス様の活動にも支障をきたしてしまいます。ファリサイ派の人たちが自分たちこそ神の意思を守って実現しているのだと思ってやっていることは、実はその反対のことをもたらしてしまうのです。まさに、人間というのは安息日のために存在するのだ、ということになってしまいます。イエス様の教えは正反対でした。人間のために安息日が存在するのだ、と。
この教えは、本日の福音書の箇所の後にも続きます。イエス様が手の萎えた状態の人を癒したという出来事です(マルコ3章1-6節、ルカ14章1-6節も)。それも、ちょうど安息日でした。もしイエス様が癒しをしたら訴える口実にしてやろうとファリサイ派の人たちが注視しています。それに気づいてイエス様が言います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」これには誰も答えることができません。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら(マルコ3章5節)、その人の手を元通りに治してあげました。
ここで、ひとつ注意しなければならないことがあります。イエス様は安息日に好き勝手にあちこちを巡回して人助けだけしていたということではありません。ルカ4章16節を見ますと、ナザレの町で安息日に会堂に入って聖書の朗読をした出来事があります。つまり安息日の礼拝に出席したということですが、この出席が「いつものように」と書いてあります。ギリシャ語原文を見ると、安息日の礼拝に出席するのはイエス様にとって習慣であった、という表現です(κατα τω ειωθος αυτω)。イエス様もちゃんと安息日を守る方でした。そしてその上で病人を癒したりしたのでした。安息日に何をしてはいけないか、何をしなければならないか、ということはイエス様が全て正確にご存知なのです。というのは、彼は神のひとり子なので、父なるみ神の意思を誰よりも一番知りうる立場にあったからです。ファリサイ派の人たちは、自分たちこそが神の意思を一番知っている者であると自惚れがあり、掟をそれこそ人為的に作り変えて、それを守らなければ神の目に失格だと烙印を押すやり方でした。神の意思に従うなどと言いつつ、実は自分たちの意思に従わせるやり方だったのです。
4.安息日の主、律法の主そして罪の奴隷状態からの解放者
本日の福音書の箇所の終わりでイエス様は、「人の子は安息日の主でもある」(28節)と言われます。これは、神のひとり子としての彼が安息日の意味や守り方を正確に知っているという意味です。父なるみ神の意思を正確に知りうる立場にいるので、律法全体についても正確に知っているということになります。イエス様は、安息日の主のみならず、律法の主でもあります。
ところが、安息日の主、律法の主と言う時、それは、イエス様がただ単にそれらについて正確に知っていて、それを人々に教えることができるという意味だけではありません。イエス様が安息日の主、律法の主というのは、律法が人間に加える圧力に人間が押し潰されてしまわないように助けて下さる方という意味もあります。イエス様はそのような力を超える力を持つ方なので、人間を律法の重圧から助けて下さることができるのです。
どういうことかと言うと、十戒の中に「汝殺すなかれ」とか「姦淫するなかれ」という掟があります。イエス様が教えたのは、外面的な行為で掟を破らないということだけでなく、心の状態も潔白でなければならないということでした(マタイ5章21-30節)。人間一人一人を造られて命と人生を与えられた神は、一人一人の心の奥底までもお見通しで、何も隠し立てすることはできない。外面的な行為で罪を犯さなくとも、心の状態まで問われたら誰も罪のない人間などいなくなってしまうのです。そのことを、詩篇の御言葉を引用して(14篇1、3節、53篇2、4節)使徒パウロは言います。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章11節)。律法とは実は、守ったら神の目に適うものとされる手段ではなく、人間がただただ神の目に適うものではないことを暴露する鏡のようなものだったのです。
このように全ての人間は、一番最初の人間アダムの時から、神の怒りを受ける存在となってしまったのでした。神は神聖そのものなお方です。神聖さというのは、罪の汚れを許さず、それを持つ人間も一緒に焼き滅ぼしてしまう力を持つものです。それが本当の神聖さというものです。しかし神は人間が焼き滅ぼされることを望まなかった。御自分がお造りになり命と人生を与えた人間ですから。しかし、神の神聖さというものは罪の汚れをほってはおけない。ではどうしたらよいか?
そこで神がとった打開策は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、彼に人間全ての罪を請け負わせ、あたかも彼に全ての責任があるようにして全ての罪の罰を受けさせて、十字架の上で死なせた。つまりイエス様を犠牲の生け贄にしたのです。さらに一度死んだイエス様を今度は死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれた。そこで人間がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それを見た神はイエス様の犠牲に免じて人間を赦すということにしたのです。罪はお前の心の中に残るかもしれないが、お前はわが子イエスの犠牲に免じて赦されたのだから安心しなさい。お前は、言わば高い犠牲を払って罪の奴隷状態から買い戻されたのだ。新しい命を与えられたのだからそれに相応しい生き方をしなさい。罪を行為で犯さないように注意しなさい。聖書の御言葉を武器にして心の中にある罪と戦いなさい。お前は死と罪の力に勝利したイエスとしっかり結ばれていることを忘れないようにしなさい。こうしたことを神はおっしゃって下さっているのです。
そうは言っても、毎日の生活の中でいろんな課題があり、いろんな人間関係の中で生きなければなりません。それらのことが原因となって、神の意思にそぐわない思いが心の中に渦巻き始めます。また、生活一般の悩み事や心配事が心を縛りつけたりしてしまいます。しかし、キリスト信仰者は、1週間に少なくとも1日は罪の赦しを頂いたことを公けに確認できる日があります。また、心を縛りつけるものから解放されて、神に心を向けることができる日があります。それが安息日です。
先ほども申しましたように、安息日に、悩み事心配事を神の足元に投げ出して、そこで出来た空白を今度は礼拝の中で与えられる賜物で満たしましょう。御言葉や説教の拝聴を通して神が自分に何をしてくれたかを思い起こしましょう。讃美歌を歌って神への賛美を声に出し、祈りの時に普段抱えている重荷の真の解決を与えてくれるように助けを祈り求めましょう。聖餐式がある日には、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいましょう。こうして霊的な癒しを受けて強められて十分な休養を取った者として、新しい1週間に臨んでいきましょう。
(*)マルコの記述によれば、ダビデが供え物のパンをもらった祭司はアビアタルですが、サムエル記上21章ではこの祭司はアヒメレクとなっています。よく言われるのですが、これはマルコが間違えたのでしょうか?これは、そう単純な問題ではありません。マルコが福音書を書く時に資料として受け取った伝承の中にアビアタルの名があった可能性も考えなければなりません。その際、パピアス伝承を信じれば、ペトロがアビアタルの名を言ったことになります。パピアスを信じなければ、書かれたものか口伝えのものかマルコが受け取った伝承のなかにその名があったことになります。さらに、イエス様自身がアビアタルの名を言った可能性も否定できません。そうなるとイエス様が間違えたことになるのでしょうか?それもそう単純ではありません。今私たちが使っている旧約聖書は紀元1000年頃に集大成された版に基づいています。イエス様の時代から1000年後のものです。イエス様の時代のサムエル記上の記述は今のものとそっくりそのまま同じだったでしょうか?死海文書を研究する人に聞いてみるのもいいですが、それでも決定的な答えがでるかどうか。 以上のような文献成立史の観点からだけでなく、今ある文献の中からもいろんな可能性が考えられます。アビアタルというのは、アヒメレクの息子です。親子ともども祭司です。サムエル記上のアヒメレクがダビデにパンを与えた時、もしアビアタルが同席していて、父親が息子に、お前パンを持ってきなさい、と命じていたならば、渡したのはアビアタルになります。もちろんサムエル記上にはそのようなことは記されていません。しかし、神のひとり子ならその時の出来事を天から見ていて知っている筈です。いずれにしても、マルコが間違えたなどという説明はあまりにも安易すぎます。
主日礼拝説教2015年6月21日 聖霊降臨後第四主日 聖書日課 申命記5章12-15節、第二コリント4章7-18節、マルコ2章23-28節
本日の福音書の箇所のイエス様の教えは少しわかりにくいかもしれません。まず、断食についての教えがあります。ファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちは断食をするのに、なぜイエス様の弟子たちはしないのか、と問われて、イエス様が答えたのは、花婿が一緒にいる時に婚礼の客たちは断食などできない、ということでした。つまり、イエス様が花婿、イエス様の弟子たちが婚礼の客ということで、それで断食する必要はない、というのです。これは一体、どういう意味でしょうか?
イエス様はまた、花婿がいなくなってしまう日が来て、その時に婚礼の客たちは断食することになる、とも言われます。つまり、イエス様がいなくなって弟子たちが断食することになる、ということです。新共同訳では「花婿が奪い取られる」となっていて、イエス様が「奪い取られる」ということですが、ギリシャ語原文の動詞(απαιρω)はそんな略奪のような強い意味で訳する必要はなく、イエス様が私たちのもとから「取り去られてしまう」程度でよいと思います。英語のNIV訳もドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳もそうです。そうであるならば、この箇所は、イエス様が天に上げられて弟子たちのもとを離れていくことを意味します。そうなると、イエス様が天の父なるみ神のもとにいる時が断食をする時だということになります。それでは、私たちも断食をしなければならないのでしょうか?後ほど、これらの疑問を明らかにしていきましょう。
次にイエス様は、織りたての新しい布を古い服の継ぎあてに使う人はいない、そんなことをしたら新しい布切れが古い服を引き裂いてしまう、と教えられます。これはもっともなことです。織りたての布はまだ洗濯して乾かしていないので縮んでいません。古い服は何度も洗濯して乾かしているので既に縮んでいるし、生地も使い古されて弱くなっています。そんな服に新しい布きれを継ぎあてにして縫い付けて洗濯して乾かしたら、どうなるでしょうか?新しい布はギュッと縮んで、古い弱くなった周りの布を引っ張って、ひどい時は引き裂いてしまいます。イエス様は、何か実生活に役立つ知恵を教えているのでしょうか?
新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけないという教えも同じように聞こえます。熟成した古いぶどう酒とは異なり、新しいぶどう酒というのは酸味が強いです。古い革袋というのは、弾力性もなくなって硬直していたり擦り切れたりしています。そこに酸味の強い液体を流し込んだら、すぐ裂け目ができてぶどう酒は漏れ出してしまうでしょう。これも生活に役立つ知恵です。
ところが、この箇所をよく目を凝らして読んでみると、イエス様は実生活に役立つ知恵を教えているのではないことがわかります。イエス様はこう言います。誰も古い服に新しい布を継ぎあてしない、誰も新しいぶどう酒を古い革袋に入れない、と。つまり、こんなことは誰でも知っている当たり前の話である、と言っているのです。それでは、なぜイエス様は誰でも知っていることをわざわざ話すのでしょうか?それは、こうした日常生活の当たり前のことを話しながらも、それを何かにたとえているのです。そのたとえられたことも同じくらいに当然のことなのだと言おうとしているのです。それでは、イエス様は何のたとえを話されているのでしょうか?以下にそのことも見ていこうと思います。
最初に断食についてのイエス様の教えを見てみましょう。断食と言うのは、多くの宗教に見られる行為です。ある決められた期間とか、何か特別なことが起きた時に、食べ物を摂らない、ないしは食べ物飲み物双方を摂らないということをします。断食と聞いて私たちがよく耳にするのは、イスラム教でラマダーンと呼ばれる月に日の出から日没までの間毎日行われる断食があります。断食の目的はそれぞれの宗教により様々ですが、おおざっぱに言えば、食べる飲むという人間の基本的な欲求を制限することを通して、それぞれの宗教が崇拝しているものと近づきになるということがあるのではないかと思います。
旧約聖書の世界では、断食のなかで大きなものは、レビ記16章に定められている、毎年秋の第七月の十日の贖罪日、イスラエルの民全体の罪を贖う儀式の日、これが民全体の断食の日と定められていました。これとは別に、ダビデ王がサウル王とヨナタンの戦死を聞いて悲しんで断食したということがあります。深い悲しみの心を個人的に神に捧げる意味合いで断食することがあったと思われます(サムエル記下1章12節、サムエル記上31章13節も)。
時代が下ってイエス様の時代のユダヤ教社会では、前述の贖罪日の他には、ファリサイ派の人たちが週二回断食していたことが知られています(ルカ18章12節)。洗礼者ヨハネの弟子たちも、週何回かはわかりませんが、本日の福音書の箇所から断食をしていたことが窺われます。イエス様自身は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野で悪魔から試練を受けた時に40日断食をしました。しかし、彼は特に弟子たちには断食を命じることはありませんでした。その理由が、先ほど見ました花婿と婚礼の客たちのたとえだったのです。このたとえについて見てみましょう。
イエス様を花婿とする婚礼というのは何か?これは、黙示録19章や21章に記されていますが、将来イエス様が再臨し、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられて神の国が目に見える形で現れる日の祝宴を指します。その日、死者の中から復活させられた者たちとその時点で生きていた者たちの中から選ばれた者たちがこの祝宴に招かれて、前世の労苦を百倍にもされて(マタイ19章29節)労われます。その祝宴の席につく者は皆、天地創造の神のもとに永遠にいることが出来る者たちです。わざわざ断食などして神とお近づきになる必要などありません。祝宴に招かれたのに、断食しますと言うのは招待を断るようなものです。それでは、イエス様が地上におられた時、あたかもそのような祝宴があるかのように振る舞って、断食など必要ない、などと言ったのはなぜでしょうか?まだ今ある天と地はそのままで神の国も到来していなかったのにもかかわらず。
イエス様が地上で活動していた時、神の国は将来のように見える形ではないが、実はイエス様にくっつくようにして一緒だったのです。どういうことかと言うと、将来現れる神の国は、黙示録にも記されているように、嘆きも苦しみもなく死さえないところです。また、前世の労苦が全て労われ、前世に被った不正義が最終的に清算され、神の愛と恵みと正義が完全に実現されるところです(黙示録19章5-9節、21章1-4節、マタイ25章31-46節、ルカ16章19-31節、ダニエル12章1-3節等々)。イエス様が地上で活動していた時、数多くの奇跡の業を成し遂げられました。病気の人に治れと命じると病気は治り、悪霊に出て来けと命じると言われるままに出て行きました。また嵐に静まれと命じれば静まり、何千人もの人たちの空腹を僅かな食糧で満たしたりました。
イエス様のこうした奇跡の業は、将来現れる神の国がどういうところであるかを、今ある天と地の下でという条件のもとで、人々に体験させる意味がありました。奇跡の業を受けた人たちは、嘆きや苦しみや死もない神の国を垣間見たというか、味わうことができたのです。このようにイエス様が弟子たちと共に行動し、群衆に教え、奇跡の業を行ったというのは、将来現れる神の国の祝宴の予行演習のようなものだったのです。将来断食など不要になる大いなる祝宴の日が来る、今自分が地上にいるのはその前触れなのだ、ということなのであります。
しかしながら、イエス様は昇天日に天に上げられ、再臨の日までは天の父なるみ神の右に座しています。そのため私たちは今、イエス様の一回目の降臨と二回目の降臨の間の時代を生きています。このイエス様が地上におられない期間は断食することもある、とイエス様は教えるのですが、ここで注意しなければならないことも教えられます。それは、マタイ6章11節にあります。断食をする場合、自分はどれだけ苦行を積んでいるかを周りの人にひけらしてはいけない、自分がどれだけ信心深いかを他人に見てもらうために行ってはならないということです。同じような教えは、既に旧約聖書の中にもあります。イザヤ書58章やエレミア書14章の中で神は、いくら断食や祈りをしても、する者たちが神の意思に背くような生き方をしていれば、そうした苦行は何の意味も持たない、と言われます。神の意思に背くような生き方をする者が神の恩寵を得ようとして断食したり祈っても顧みてもらえない。神に顧みてもらえる断食とか祈りというものは、まず神の意思に沿う生き方をして、既に神から恩寵を受けている者ができるということです。
いろいろな宗教の中で、神と呼ばれるものから恩寵や恩恵を得ようとして、様々な苦行を積んだり、掟や戒律を守るということはよくあることではないかと思います。ところが、イエス様の場合はどうやら逆で、最初に神から恩寵や恩恵を受けた者が、その結果苦行したり掟を守るという順序になっているようです。最初に断食のような苦行をして神から特段目をかけられて褒美をもらえる、ということではない。そうではなくて、既に目をかけられて恩恵を与えられた者がその結果、いろいろな業を行うということです。そうなると焦点になってくる質問は、どうすれば、業を行う前の段階で神から、お前は私の目に適う者だ、と言ってもらえるのか、ということになります。そこで、本日の福音書の箇所のもう一つの教え、新しい布きれと新しいぶどう酒のたとえが答えの鍵になります。以下にそれを見ていきましょう。
先ほど、イエス様の新しい布きれと新しいぶどう酒の教えは、実生活の知恵を教えているのではなく、何かをたとえる教えであると申しました。何のたとえなのでしょうか?ここのイエス様の教えのポイントは、最後の節22節で「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言ってところにあります。どういうことかと言うと、古い服や古い革袋を引き裂く力を持つ新しい布きれとか新しいぶどう酒というのは、イエス様自身のことを指します。引き裂かれてしまう古い服や古い革袋とは、ある状態にある人間を指します。つまり、イエス様は私たちに、新しいぶどう酒である彼を入れてもずたずたにならない新しい革袋になれ、とおっしゃっているのです。イエス様を内に入れられないままだと、古い革袋は古い革袋のままで、ただ硬直した、やがて擦り切れて使い物にならなくなってしまうものでしかない。しかし、そのままの状態で新しいぶどう酒を入れたら耐えられるような代物でもない。新しい革袋に変身しなければ、イエス様をしっかり内に留めて置くことはできない。どうしたら古い革袋がそのような革袋になることできるのでしょうか?苦行を積んだり、掟や戒律を守ったりすることで、自分をそのように新しく変身させることができるでしょうか?
先ほど、そういうことをしても、まず最初に神の方から、お前は私の目に適う者、と認めてもらわなければ、意味がないと申しました。神から、お前は私の目に適う者、と認められるというのは、実は新しい革袋になったということです。人間が自分の力で新しくなれないのは明白です。父なるみ神とそのひとり子であるイエス様の力によって、私たちを新しい服、新しい革袋に変えてもらわなければなりません。どのようにして、そのようなことが可能でしょうか?
実は、父なるみ神とひとり子イエス様は、私たちが新しく変えられるための大きな業を既に成し遂げて下さったのです。多くの人たちは、まだこのことに気づいていません。いつ、どこで成し遂げて下さったのでしょうか?それは、ゴルゴタの丘の十字架の上で起きました。人間の造り主である神と造られた人間との間を引き裂いていた原因である罪、この罪の支配から人間を救い出して神との結びつきを回復させるために、イエス様は人間の全ての罪をご自分で請け負って、十字架の上で私たちの身代わりとなって罪の罰を受けられました。それは、あたかも自分が神に対して全ての罪の責任があるかのように振る舞ったのです。神聖な神のひとり子ですから、本当はそうする必要はなかったのに。しかし、人間は罪の罰を背負いきれないので、あえてそうしたのです。イエス様は、真に犠牲の生け贄になったのです。私たち人間は、このことが本当に自分のために起こって、それでイエス様こそが自分の救い主だとわかって信じると、すかさず神はイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦して下さるのです。こうして、人間と神の間の結びつきが回復します。つまり、イエス様を救い主と信じる信仰によって、人間は神の目に適う者とされるのです。
これらの出来事がこの自分のためになされた、イエス様こそは自分の本当の救い主だ、と信じることができるのは、これは神の霊である聖霊の力が働いたことによります。それで、信仰に至った人は洗礼を受けることで、完全に聖霊の影響力の下で生きることになります。信仰者がしっかりしていれば、もう他の霊が入り込む余地はありません。聖霊の影響力の下で生きることは大事です。そうしないと、人はイエス様が救い主であることがわからないし、わかってもすぐ見失ってしまいます。また現実問題として、信仰に至って洗礼を受けた人でもその後の人生の中でイエス様が救い主であるということを忘れさせる力に何度も直面します。それで、聖霊の影響力の下にあることを自覚して生きることは大事です。
以上から、どうすれば、人間は神の目に適う者とされて、イエス様という新しい布きれを継ぎあてられても大丈夫な服となり、イエス様という新しいぶどう酒を注がれても大丈夫な革袋に変えられるかが明らかになりました。イエス様を救い主と信じる信仰と聖霊の影響力の下で生きられるようにする洗礼の二つです。この二つのことによって、人間は神の目に適う者とされ、新しくされるのです。信仰と洗礼が人間を新しくするということについて、使徒パウロは次のように述べています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテア3章26-27節)。このように新しくされた者は、神の意思に沿って生きることが当然という心になって、神を全身全霊をもって愛しよう、隣人を自分を愛するが如く愛しようということを志向するようになります。新しく変えてもらうために、そうしようとするのではなく、変えてもらったから、そうするのです。
ここで注意しなければならないことは、新しく変えてもらったとは言っても、それは出発点に立ったことで完結したのではありません。そのことについて、ルターは次のように教えています。「主イエス・キリスト以外に汚れなき手、清い心を持つ者はいない。それ以外の者は全て汚れに満ち、自分の能力や努力によっては清くなることはできないのである。神がイエス様を通して示した恵みとそのイエス様を救い主と信じる信仰によってしか、人は清くなることはできないのである。キリスト信仰者が清い心の持ち主であるという意味は、彼または彼女が清くなり始めたということである。キリスト信仰者は、まだまだ多くの点で汚れている。彼または彼女はイエス様の清さを被せられて清いのであるが、清くされていく存在でもあるのである。」
最後に、キリスト信仰者は断食をすべきかどうかということについて、一言述べたく思います。キリスト教のいろんな教派にそれぞれの考え方と思いますが、これまで述べたことに即してみると、私がフィランドで見聞きしたことがちょうどよいように思われます。どういうことかと言うと、復活祭の前の主日を除く40日間は四旬節と呼ばれる期間ですが、古いキリスト教会の伝統として、この期間に断食をすることが行われていました。40日というのは、イエス様が荒野で悪魔から試練を受けた時に40日間何も食べなかったことに由来します。昔のキリスト教徒たちはこの期間の断食を通して、イエス様が御自身を生け贄にすることに備えようとした生涯というものを身近なものにしようとしました。
日本語で「四旬節」と呼ばれる期間ですが、フィンランドやスウェーデンでは、ずばり「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国ですから、外面的な規則の順守が救いを左右するという考えはとりません。それに「断食」と言っても、名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師先生にもそのようなことを勧める人もいます。こういうことをしたり、勧めたりするのは、もちろん、それをすることで神に認められるとか、お近づきになれるとか、救いを確実なものにするとか、そんなことは全く関係ないとみんながわかっています。それに、好物を食べなくても、食事はちゃんととるので断食には程遠いものです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常の生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングと言っていいと思います。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくて注意が向くのなら、しなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、それをすると決めた理由であるイエス様のことにいつも心が向くようになるのであります。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは四旬節であるなしにかかわらず、どんな時でも、心を絶えずイエス様に向けるようにしましょう。日々の生活ではいろんなことがあり、心はいろんなものに向けられてしまいますが、こうして主日に教会に集まって一緒に礼拝を守れるというのは、1週間の中で一番心をイエス様に向けられる機会だということは、皆さんもよくご存知でしょう。
主日礼拝説教2015年6月14日 聖霊降臨後第三主日 聖書日課 ホセア2章16-22節、第二コリント3章1-6節、マルコ2章18-22節
今日のみことばは、新約聖書の一番はじめにあります福音書を書いた、マタイという人の回心の出来事であります。マルコ2章13節に、「イエス様は、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆、そばに集まって来たので、イエスは教えられた」とあります。ここに「再び」とありますから、以前にガリラヤ湖に行かれた事があって、今、再び行かれたのでしょう。マルコ1章16節を見ますと、すでに、イエス様はガリラヤ湖のほとりを、歩いておられた姿が記してあります。その時には、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネを弟子に招されています。そして、再び湖のほとりに行かれて、その「通りがかりに」収税所に座っているアルファイの子レビを見かけられた。イエス様は、収税人レビに声をかけられます。「わたしに従いなさい」。すると、レビはすぐ様、イエス様に従う者となったのです。ここの訳でレビとなっているのがマタイのことでした。
ヤコブとヨハネは、ガリラヤ湖のほとりで漁をしていた漁夫たちです。幼い頃から、生まれ育ったガリラヤ湖で魚をとり、畑では、野菜や麦をつくって生活していた、おだやかな漁民でした。ところが、今日の聖書では、イエス様が弟子に招かれたマタイは、漁師たちとは全くちがいます。ユダヤの人々から、税金を取り立てる仕事をしている、取税人と言われる者です。ユダヤの民からすれば、最も憎い取税人です。この取税人マタイに、イエス様は声をかけられたのです。「わたしに従いなさい。」
なぜ、イエス様は、他の誰れもがきらうような、取税人を求められたのでしょうか。
ガリラヤは、古代代世界の中で、陸上交通の中心地の一つでありました。神学者バークレーの研究によりますと、パレスチナは、ヨーロッパとアフリカを結ぶ陸橋である、と言われた程、すべての陸上交通は、そこを通過しなければならない。海の大道はダマスコからガリラヤを経由して、カペナウムを通り、カルメル山のふもとをまわり、シャロンの平原に沿ってガザへ出て、そこからエジプトへ至る、という壮大な幹線道路です。そのような幹線の要所がカペナウムの町でした。カペナウムが、なぜ要の場所となるかといいますと、この当時、パレスチナは大きく二つに分割されていて、ユダヤ全体はローマの長官の下におかれていましたが、ガリラヤはヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスによって支配されていました。
もう一方、東の領土(テラコニスとバタネア)は、ヘロデ大王のもう一人の息子ピリポに支配されていました。さて、このピリポの領土からヘロデの領土への道で、旅人たちの来る最初の町が、カペナウムであったのです。つまりカペナウムという町は、国境の町であったゆえに、そこには税金を取り仕切る収税所があった。旅人や人々がカペナウムを通るたびに、交通税、物を輸入したり、輸出するたびに税が課せられていった。又一般に、所得税や消費税もとられていたことでしょう。
マタイは、そういう収税所に座って、働いていたのでしょう。彼のような収税人は、ユダヤの民からは憎まれていたのでした。なぜ憎まれていたかといいますと、取税人たちは、取れるだけ税を取り立てていたからです。当時の人々は、自分がいくら税金を払うべきかを知らない。役所からの通知とか新聞もテレビもない。取税人にまかせられていたから、取れるだけ絞り取って、余った分は彼らの手数料として、私腹を肥やしていたからです。このようにユダヤの民からは、きらわれ者、罪人として見られていたマタイが、なぜイエス様によって、弟子とされたのでしょうか。マタイには一つだけ取り柄があった。ヤコブやヨハネのように漁師出身の彼らには、物を書くことが出来なかった。魚を捕っていればよかった。その点マタイは、物を書くことが出来る専門家であった。
イエス様がマタイに声をかけ、「従って来なさい」と言われた時、彼はその一声ですべてを捨てて、イエス様に従った。ただ一つ、捨てなかったものが、彼の筆であります。マタイは、文章の才能をいかして、神様のために用いられたということです。そうして、イエス様の生涯と教えを記録として、福音書として書き残したということです。この事が、どんなに大きな働きとなっていったか、はかり知れないものでしょう。マタイが書きました、福音書の大きな特長は、先ずユダヤ人のために書かれた福音書であるということ。その大きな目的の一つは、旧約聖書の預言が、イエス様によって成就された、ということを実証することであった。
イエスというお方こそ、メシヤであるということをユダヤ人に、しかと証明するため、先ず、彼自信がユダヤ人であり、彼の経験と、筆の技術が用いられたのです。ユダヤ人を回心させるため、ユダヤ人であるマタイをイエス様は招かれたのです。しかも、ユダヤの人々からは嫌われていた、取税人であった者を、弟子へとされたのです。神のなさる御計画というものが、私たちには到底はかり知れない、深くて大きな、不思議なものであります。
新約聖書は、四つの福音書と使徒言行録を除きますと、殆どが使徒パウロの手紙です。このパウロは、神様のために働く前は、名をサウロと言い、キリスト者を迫害していたのです。迫害から逃れて、ダマスコへ行ったキリスト者を追って、次々と捕えてはエルサレムへ送って殺していった人物です。ところが、サウロはダマスコへの途中で、突然、天からの光に打たれて、目が全く見えなくなり、地面に倒れたのです。そうして、天からの声を聴いたのです。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」。するとサウロはたずねました。「主よ、あなたはどなたですか」。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」というイエス様の声に、彼の生涯は一変していきます。
神様は、パウロの劇的な回心の出来事を、彼の身に起こして、今度は、主であるイエス様のことを、全世界へと伝える、伝道者にされたのです。これまた、神様は考えられない、逆転の人生をもたらして用いていかれます。神様の不思議な、驚くべき御業であります。
マタイは、ユダヤ人の嫌がる、憎んでいるユダヤ人のために向けて、福音のために用いていかれる。パウロは、迫害していた彼を回心させて、キリスト者へと伝道者へ変えられていく。神様の導きは、誠にすごい事であります。
最後に、どうしても不思議に思いますのは、マルコ1章16~20節のところで、漁師をしていたペテロやヤコブの兄弟たちには、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。彼らは網を捨てて、イエス様に従っていった。一家の家計を支えていた若者たちが、職業を捨て、親、兄弟をはなれて、イエス様の弟子となっていく。そこには、とても説明のできない内的悩み、苦闘があったにちがいない。しかし、それにもまして、圧倒的な不思議な引かれる力におされて、魅力に引かれて、ただ、ただ、イエス様の言葉に従って行ったのであります。自分の人生のすべてを、イエス様にかけて行こうと、決意していったのです。
マタイについて言いますならば、恐らくこの時、マタイは心に痛みを持っていたでしょう。彼はイエス様について、すでに聞いていたにちがいない。彼はイエス様が語られていたメッセージを、群衆の外側で聞いていたにちがいない。又、彼は心の中に、何かが動いていたにちがいない。自分自身と、この取税人という嫌な仕事を憎んでいたにちがいない。堂々と、人々の前に顔を向けて歩いていけない、自分の人生に嫌気がさしていたことでしょう。彼は熱心なユダヤ教の国粋主義者でありましたから、正統な善人たちのところへ行けたら、と思ったことでしょう。そのような時、イエス様の方から、全く思いがけなく、声をかけられたのです。「わたしに従って来なさい」と招いて下さった。イエス様のことを、人々からもいろいろ聞いていて、メシヤであられるかも知れない。そのお方のほうから近付いて、招いて下さるとは、何ということだろう。イエス様のひと声の招きに、どんなに感動し又救われたことでしょうか。まさに恵みの時、救いの時、マタイは全く新しい人生へと、導かれていったのです。神様に用いられる道とは、そういうものでしょう。理屈や、納得等というものを超えた、神様への不思議な道へと、人生が引き込まれていく世界でありましょう。
15節以下では、イエス様は、マタイの家で食事を共にされて、そこに多くの取税人や罪人と呼ばれた人々と、弟子と共に同席しておられる。その中に、イエス様がおられる、という存在そのもに、神の国の福音が輝いているのです。
ルカ17章21節に「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」とあります。イエス様は、パリサイ派の律法学者たちの非難に対して、はっきとり宣言された。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。ガリラヤで、「時は満ちた。神の国は近付いた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様のこの宣言が、弟子たちを招かれていった、すべての根底に響きわたっているのであります。
マタイという取税人を弟子にして、マタイの家で大勢の罪人を招き、食事を共にされることを通して、神の国は、そこに現に存在していることを、教えられるのであります。私たちもマタイと同じように、主イエス様に従っていく人生の中で、福音の証人として用いられてゆきたいものです 。 アーメン
聖霊降臨後第二主日 2015年6月7(日)