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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の木材を自ら運ばされることになり、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで無残な釘打ちが始ったのでした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。
イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられました。人間の痛み苦しみに全く無関心な兵隊たちは、処刑された者が息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。イスラエルの解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れな男だったか、と。群衆の中には、かつて付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様がかすれていく意識の中で目にした光景でした。
息を引き取る寸前、イエス様は「成し遂げられた」と一言を述べます。そして、息を引き取りました。とても象徴的な言葉です。もともとはアラム語で述べられた言葉だったでしょうが、ヨハネ福音書が書かれたギリシャ語では、テテレスタイτετελεσθαι、「完了した」とか「完結した」とか終わりを告げるという意味です。これまでプロセスにあったことが完了、完結したということなので、「成し遂げられた」と訳しても問題ないでしょう。それでは、イエス様が十字架で死ぬということは、何が「成し遂げられた」ことになるのでしょうか?
この福音書を書いたヨハネはイエス様の母マリアとともに十字架の近くに立って一部始終を目撃した人です(21章24節)。彼はこの時のイエス様の気持ちを読み取って、こう書いています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」(28節)。ヨハネは、イエス様がすべてのことが成し遂げられのを知ったのだ、と書きました。ところで、イエス様が「渇く」と言われたことが旧約聖書の預言が実現するというのは、詩篇69篇22節に次にように記されていることによります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇く私に酢を飲ませようとします」(他に63篇2節も)。しかしながら、イエス様の受難と死によって実現した旧約聖書の言葉とは、このことだけに限りません。本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所は、イエス様の受難と死の出来事だけでなく、その目的についてもかなり詳しく預言しています。この預言の言葉が紀元前700年代に由来するのか500年代に由来するかについては、聖書の専門家の間で議論がされるところではありますが、いずれにしてもイエス様の時代の数百年前に彼の受難と死について見事に言い表していることは否定できないのであります。以下、イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。
イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。どうしてこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わたのであり、人間の神に対する背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのであります。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった。
以上から、イエス様が私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのか?私たちに人間に一体、何が神に対して落ち度があったというのか?「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申し上げますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があるということも明らかにしています。どういうことか、以下に見ていきましょう。
人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていた行為をしてしまう。このように、造り主である神と張り合いたいと傲慢さをもったことが、人間が神に対して不従順となり、人間内部に罪が入り込む原因となったのであります。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまいました。神との平和な関係が失われてしまったのであります。しかし、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはせず、正反対に、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えたのであります。
ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の支配力を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦された者となれる。そのようにして、神との結びつきを回復することが出来る。このような解決策を神は立てたのです。
それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷を持たない、神のひとり子しか適役はいない。それで、この重い役目を引き受ける者としてイエス様に白羽の矢が当たったのでした。
ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければならない。そうしないと、目撃者も証言者も記録も生まれず、同時代の人々も後世の人々も神の救いの業を信じる手がかりがなくなってしまうからです。
さて、神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じることになります。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのであります。
以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、世の終わりに出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。
このようなわけで、十字架に掛けられたイエス様というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした計画が成就したことを示しているのです。私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。また、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、これも神がイエス様ともども刺し貫いてしまったので、人間を牛耳る力も粉砕されてしまったのです。このようにして、神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。あと、人間の方ですることと言えば、この救いの実現が、起きた時から2000年たった現代を生きる自分のためになされたのだとわかり、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けた者は、この救いを所有する者となります。こうしてその人は、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩み始め、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死んでも、すぐ御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにいることができるようになります。神がイエス様を用いて整えた救いは、全ての人間にどうぞと提供されていますが、救いはこれを受け取った者に効力を発するのであります。
2.終わりに、このイエス様が最後に述べた言葉「成し遂げられた」について、一つ不思議なことをお話しします。初めにも申しましたように、ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσθαιと書かれています。イエス様はこの言葉を口にした時はもちろんギリシャ語のではなく、アラム語の言葉でした。それがどんな言葉なのかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の言行録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのであります。このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も効力を持っている、現在も成し遂げられた状態にある」という意味です(ギリシャ語の現在完了形による)。つまり、「成し遂げられた」とは、神の救いの計画がイエス様の十字架の時に完了してそれで全てが終わったと言うだけでなく、ヨハネが何十年後にこれを書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いている、さらに彼の書物を手にして読む者にとっても、「成し遂げられた状態」が続いている、という意味であります。この翻訳は、真に的確であり、父なるみ神の意思に適うものです。なぜなら、神の意思は、彼の手で造られた人間の誰もが、御自分の完成した救いを受け取ってほしいというものであり、これは2000年前も今も変わらないからであります。神の救いは、現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮そのものなのであります。従って、ゴルガタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、目指すべき目的地であります。また、イエス様を自分の救い主と信じて既に救いを受け取っている者にとっては、それは、絶えず立ち返るべき原点なのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
聖書日課 イザヤ52章13節~53章12節、ヘブライ4章14節~5章10節、ヨハネによる福音書19章17-30節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1.
この度、日本福音ルーテル教会総会議長・牧師立山忠浩先生より正式に辞令を受けて、本スオミ教会に赴任することになりました吉村博明です。改めてご挨拶申し上げます。宜しくお願い致します。さて、私を派遣しているフィンランドのミッション団体は、「フィンランド・ルター派福音協会Suomen Luterilainen Evankeliumiyhdistys」、略してSLEYと言います。これは、フィンランドのルター派国教会の公認ミッション団体です。SLEYはもともとリバイバル運動として出発しました。リバイバルというと、日本のキリスト教徒たちはどんなイメージを描くでしょうか?フィンランドやスウェーデンのルター派教会に限ってみると、リバイバル運動(フィンランド語ではherätysliike、スウェーデン語ではväckelserörelse、文字通り「目覚め」です)とは、ルターに帰れ、ルターを通して聖書に帰れ、というルター派のキリスト信仰を強調する運動を意味します。国教会の歴史の中で、人々の聖書離れや教会離れが進む時とか、また教会に留まっても伝統的なキリスト信仰から外れる風潮が高まる時は、いつもこのようなリバイバル運動が起こりました。SLEYは1873年に組織として設立され、国内だけでなく国外にも伝道しようと決め、最初の宣教師派遣先として日本を選び、1900年から宣教師を送り始めて現在に至っています。日本福音ルーテル教会内にも、もともとはSLEYが建てたり、また設立に深く関わった教会がいくつもあります。そういうわけで、日本のルター派キリスト教徒の中には、親子代々にわたって、フィンランド人宣教師と交流を続けた方が多くいらっしゃいます。
SLEYが日本に伝道を開始してから100年たった西暦2000年、SLEYが毎年行う全国大会は、文字通り日本伝道100年記念一色に染まりました。その時、一つの大きな催し物として、オーケストラやコーラスを動員した大がかりなミュージカルの公演が行われました。その題は、「日本へ、さあ日本へ(Jaappaniin, oi Jaappaniin)」というもので、明治・大正時代の宣教師たちの福音伝道の奮闘記を描く歴史ミュージカルでした。
そのミュージカルの中でこんな場面がありました。長野県の山村の中にある宣教師館で、女性宣教師を先生として英語の聖書研究会が開かれている。そこには旧制高校風の出で立ちの男の子たちが何人か通っている。ある日、授業が終わった後で、先生が一人の学生に尋ねました。「Mr. Mizoguchi、溝口さん、イエス様とは誰のことですか?Who is Jesus?」尋ねられた学生は、はつらつとした声で「He is a good teacher! 彼は良い先生です」と言って、会釈をするなり素早く玄関から出て行きました。家路につく学生の背を目で追いながら、宣教師は呟きます。最後は絶句するように。「そう、確かにイエス様は良い先生だわ。でも本当は、それだけではないの。イエス様は、本当はもっとすごい方なの(Oikeastaan hän on paljon enemmän)。ああ、このことをどうやったら日本人にわかってもらえるのかしら!」
イエス・キリストを偉大な先生とか卓越した思想家として見なすことは、よくあります。キリスト教徒でなくても、イエス・キリストをこのように評価する人は大勢います。このスオミ教会から少し歩いて行ったところに、哲学堂公園という緑豊かな素敵な公園があります。そこの妙法寺川沿いのところに、世界の著名な哲学者たちの銅像が立っていると聞いたので、見に行ってみました。なるほど、ソクラテスやプラトン、孔子孟子など居並ぶ哲学者の中にイエス・キリストの銅像も立っておりました。イエス・キリストとは、人種民族を超えた普遍的な隣人愛や非暴力主義に基づく倫理道徳を説き、その教えは現代まで人間の思想に影響をもたらしてきた者 ― イエス様をその様に捉えれば、彼もまた一人の卓越した思想家・哲学者に数えられるでしょう。しかし、それは本当のイエス・キリストではないのです。本当のイエス・キリストとは、神の子であり、私たち人間の救い主なのであります。この本当のイエス・キリストを知ることが、人がキリスト信仰者になるかならないかの分水嶺になるのです。
イエス・キリストを神の子、人間の救い主として知ること、これはもう、人間の思想・哲学、理性を超えた、信仰の次元の話になります。まさにこの時にイエス・キリストは、信仰上の崇拝の対象となります。人によっては、イエスの教えが他の思想家・哲学者より優れていると結論して、それに従って生きることをモットーにする人もいます。そのような人はキリスト信奉者にはなれますが、それはキリスト信仰とは別のものです。それでは、イエス・キリストを神の子、人間の救い主として信じるキリスト信仰とは、一体何なのでしょうか?
日本では、偉業を成し遂げた人間は、死んだ後、神社に祀られて、お参りに来る人たちが人生の繁栄や健康を祈願する対象となることがよくあります。そのような崇拝の対象は大抵神様と呼ばれます。イエス様が神の子と呼ばれて崇拝されるのは、これとは全く似ても似つかぬものです。キリスト信仰における神、すなわちイエス様をこの世に送られた父なる神とは、天と地とその中に存在するすべてのもの、なかんずく人間を造られた創造の神です。その独り子であるイエス様は、実はこの世に送られる以前に既に父のもとにいて、天地創造の場面にもいあわせていたことが、ヨハネ福音書1章等に証しされています。日光東照宮に祀られている徳川家康は天下統一の事業は果たしましたが、生前の家康や死んで崇拝の対象となっている家康が天と地と人間を造り、人間に命を与えたなどとは誰も考えつかないでしょう。キリスト教会の礼拝で唱えられる信仰告白の一つに二ケア信条がありますが、その中でも言われるように、主イエスは天と地と人間を造られた父なる神と同質な方なのであります。
イエス様が、神の子ということに加えて、人間の救い主であるということについてもみていきましょう。救い主、救い主とよく言われますが、一体何から救うことなのか?受験シーズンになると、菅原道真を祀る神社は若者でごった返します。きっと誰も、崇拝の対象になっている道真が天と地と人間を造ったとか、人間に命を与えたなどとは、思わないでしょう。それでも、皆、合格祈願の祈りを捧げると、きっと崇拝の対象になっているものが力を及ぼして自分の努力に報いてくれる、と信じているのでしょう。イエス様が人間を救うと言う時、それは人に幸運をもたらし、不運や不幸から守ってくれることが救いということではありません。それでは、イエス様は何から人間を救うのでしょうか?
そのことがわかるためには、神が人間を造られたということ、人間は神から命を授かったということ、つまり人間には造り主がいるということ、これを思い起こさなければなりません。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、ということを考えてみなければなりません。まさにこの創造主と被造物の関係について聖書は明らかにしているのです。
旧約聖書の創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間との間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子をこの世に送り、これを用いて計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順の罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にも絶えず神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。人間にこのような恩恵を施して下さった神は他に存在するでしょうか?また、私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、私たちはこれ以上何を求める必要があるでしょうか?
2.
以上、イエス・キリストとは、良い先生とか偉大な思想家・哲学者を超えた、もっとすごい方であること、実に神の子、人間の救い主そのものであることを、ミュージカルの宣教師にかわってお教えしました。そこで、本日の福音書の箇所に目を向けてまいりましょう。本日の箇所は、先週に引き続き、死から復活したイエス様が弟子たちに現れたことを伝える内容です。復活した主の目撃録は、私たちキリスト信仰者にとって、永遠の命、復活の命とはどんなものであるかを知る上で重要なものです。永遠の命、復活の命がどんなものであるかわかると、今度は、それに至る以前の今のこの世での私たちの生き方はいかにあるべきか、ということもわかってきます。
ところで、キリスト信仰者ではないキリスト信奉者にとっては、イエス様が十字架上で死んだ後の復活とか、また生前行っていた奇跡の業などはどうでもいいことでしょう。なぜなら、信奉者にとって、重要なのは思想であり哲学であり、またそれらに基づく倫理道徳だからです。彼らに言わせれば、奇跡や復活などというのは文明の未発達時代の人間の妄想か作り話で、そんなものは人間の理性を混乱させ、倫理と道徳の進歩の妨げになる、ということでしょう。しかし、信仰者にとって、理性や倫理や道徳というものは、人間の知恵ではなく神の知恵と愛に従う時に正しいものになります。それでは、神の知恵と愛とは何か。それは、先に述べましたように、一度断ち切れてしまった人間との関係をもう一度再興すべく人間救済計画を編み出したのが神の知恵であり、それを実行に移したのが神の愛であります。そういうわけで、キリスト信仰者にとって、奇跡や復活は、今のこの世の人生をどう生きるべきかを知りうる上で、なくてはならないものなのであります。
死から復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。弟子たちの驚きようから察するに、本当に突然彼らの間に立っていたのであります。ヨハネ20章ではさらに詳しく、扉には鍵がかかっていたのに、いつの間にかイエス様が弟子たちの間に立っていた、とあります。弟子たちが、幽霊だと言って驚き恐れ慌てふためいたのは当然です。しかし、イエス様は、自分は幽霊ではない、と自ら否定し、その証拠に手と足を見て触ってみよ、幽霊には肉と骨はないが、自分にはちゃんとあることを確認せよ、と命じます。このようにイエス様には、肉体という実体があります。幽霊のように透き通ったような肉体があるのかないのか不確かな存在ではありません。また、食べ物はないか、などと聞いて、みんなの見ている前で食事もする。ここまでくると、イエス様は、復活したとは言っても、私たちと同じ肉体の欲求を持つ存在です。しかし、復活したイエス様は、私たちとは異なり、今ある天と地の中で働いている重力Gのような自然法則に支配されず、移動は全く自由です。
使徒パウロは、「コリントの信徒への第一の手紙」の15章において、体には今のこの世での体と将来の復活の体の二つがあること、そして、それらがどう違っているのかについて詳しく教えています。復活の日が来ると、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(52-53節)。また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(42-43節)。44節にも言われていますが、私たちがこの世で持っている体はこの世的な体であり、復活の時に持つことになる体は霊的な体ということになります。イエス様は、マルコ12章25節において、死者の中から復活する者は天使のようになるのだ、と簡潔に言っています。
さらに、イエス様は十字架刑の時に被った手と足の傷を見せます。これは復活後のイエス様は、死ぬ前のイエス様と同一人物であることを如実に示すものです。イエス様は、体の有り様はこの世的なものから霊的な体へと全く異なるものにはなったけれども、復活後もイエスとしての自我を持ち、死ぬ前の出来事を過去のものとして、今はその延長線上に立って新しい現実に生きる者となっている。このように、神から復活させられる者は、死ぬ前と同じ人格を持ち、復活後も自我を持ち、そして、体は全く新しい復活の体を持つ、そういう存在になるのであります。
このことは、日本の仏教の間でごく一般に抱かれている死生観と大きく異なるところです。そこでは、人は死ぬと、成仏に至る何十年かの修行の道への歩みを始めるとされます。その道を歩む者として、僧侶から戒名という新しい名をもらいます。もし、名前というものを、単なる名札のような表面的なものに考えず、それこそ一つの人格に結びつく名称と考えれば、名前の変更は人格そのものの変更になります。名前というものをそのように深く考えると、戒名をつけた時点で、死ぬ前の人と修行の道に歩み出す者の間の人格上の結びつきは、もはやなくなってしまうのではないでしょうか。加えて、修行の途上にある者はどのように自我を有しているのでしょうか。こういう疑問を抱くのは、キリスト信仰の観点に立って生と死を考えるからだと言われてしまうかもしれません。仏教の観点に立てば、特段こだわる必要はないのかもしれません。しかしながら、キリスト信仰では、死からの復活とは新しい体を持った復活であり、死ぬ前と復活後の人格は同一で、復活後も自我を持つ、ということははっきりしています。そのようにして復活した者が自分の造り主、自分に命を与えた神のもとに永遠に戻ることになる。これがキリスト信仰者の死生観であります。
イエス様の復活は、キリスト信仰者の私たちにも関わってきます。なぜなら、私たちも復活する時は、復活のイエス様と同じように、生前と同じ人格を持ち、また自我も持ちつつも、朽ちない、死なない、弱くない、霊的な体を持つことになるからです。使徒パウロが「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」(第一コリント15章20節)と述べている通りです。(「初穂」と訳されているギリシャ語の単語のもともとの意味は「第一子」です。「初穂」とはなかなか詩的な訳だと思いました。)しかしながら、2000年前のイエス様の復活と将来の私たちの復活の間には、大きな違いがあります。イエス様の復活は、今あるこの世の中で起きました。つまり、私たちが今生きている天と地の中で起きました。私たちの将来の復活は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節)、そして、造られたものは全て揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが現れる時(ヘブライ12章26-28節)に起こります。その時がいつであるかは、神以外に知ることは許されていません(マルコ13章32節)。その時、イエス様は天使の軍勢を携えて再臨し、この世の人生で彼を救い主と信じる信仰にしっかり留まった者を神の国に迎え入れます。その時、既に死んでいて眠りについていた人たちは復活させられてから、御国に迎え入れられます。たとえ眠りについていた時間が何百年たっていても、眠りについた本人にしてみればほんの一瞬のことにしか意識されない、とルターは教えます。こうして、復活の体と命を得た者たちが一堂に会する神の国は、大がかりな結婚式の祝宴にもたとえられます(黙示録19章7、9節)。それは、この世の人生に起きたあらゆることについての完全かつ最終的なねぎらいを受ける時であり場所であります。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章4節)。
3.
以上からみるに、キリスト信仰者にとって人生は二部構成と言えます。まず、今のこの世の人生、そして復活後に自分の造り主のもとで生きることになる人生。信仰者にとって人生とはこの二つをあわせたもので、今のこの世の人生はその第一部です。イエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を通して造り主の神との関係が再興された後は、この世の人生の歩みは第二部の人生に向かっていくものとなります。
こういう、復活だとか永遠の命とか次に来る世とか、そんなことを考えていたら、今の人生を軽んじることになってしまうのではないか、現実逃避になってしまうのではないか、と訝しがる人もいるでしょう。しかし、事実は全く逆です。それは、ルターの教えからも明らかです。ルターは、キリスト信仰者の人生とは、肉に宿る罪と結びつく古い人と洗礼を通して与えられた聖霊に結びつく新しい人、この二つが相克するものである、そして、キリスト信仰者は肉を纏って生きる以上はこの世の人生の段階では完全なキリスト者にはなれず、それは死んで肉が滅んだ後のことである、と教えます。肉に宿る罪を罪としてわかることができるのは、この世の人生をしっかり生きる他ありません。家庭、職場、学校、そのほか他人との関係で生きるあらゆる場所で人間関係に揉まれる時、人は神の御言葉を通して自分が罪深く、神に不従順な存在であることがわかります。堕罪の時起きた神との断絶を引きずった存在であることを思い知らされます。しかし、その同じ神の御言葉は、まさにそのような者のために神が犠牲を払って、私たちに新しい命を与えて下さった、それで神との関係はしっかり保たれているから安心しなさい、と慰め励まして下さっているのであります。そして、聖餐式のパンとぶどう酒を通していただく主の血と肉がその関係を一層強めて下さるのであります。そのようにして、キリスト信仰者は、ルターの言葉を借りるならば、罪に結びつく古い人間を日々死に引き渡し、霊に結びつく新しい人を日々育てていく人生を歩むのであります。
親愛なるスオミ教会の兄弟姉妹の皆様、この多難ではあるかもしれないが、実は限りない祝福に満ちた信仰の人生の歩みを共に歩んでまいりましょう。
1.今年の四旬節も、もう枝の主日となりました。復活祭の前の主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様がこれから受難を受けることになるエルサレムに入城する際に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」(ホーサンナωσαννα)という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとヘブライ語のホシアンナ(ホーシーアハ ナーהןשיעה נא)という言葉のアラム語訳(ホーサーア ナーהישע נא)です。神に対して「救って下さい」と救いをお願いする意味があります。さらに、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉としても使われていました。従って、群衆は、ろばに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。この奇妙とも言える光景、出来事は一体何なのでしょうか?
ルカ福音書にある同じ出来事の記述を見ると、イエス様は、まだ誰もまたがっていないろばを持ってくるように命じました(ルカ19章31節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。つまり、神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのであります。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人ろばに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
このイエス様の神聖な行為は、本日の旧約の日課であるゼカリヤ書の預言の成就を意味しました。その9章9~10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
さらに、ゼカリア書14章やイザヤ書2章をみると、世界の国々の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになって、聖なる都に上ってくるという預言があります。こうした預言を見ると、将来、偉大な王が到来して、その下でユダヤ民族の国家が復興し、支配者民族を打ち破って勝利者として全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。そのような理解を持っていた人たちは、ろばにまたがってエルサレムに入城するイエス様を目にして、いよいよダビデの王国の復興の日が来た、との思いを強くしたでしょう。しかしながら、この理解はまだ、壮大な旧約聖書の預言のあまりにも一面的すぎる理解でした。イエス様を通して預言が実現していく時、それは、ユダヤ民族という特定の民族を超えた、人類全ての民族にかかわる神の意思が実現したということだったのです。
どういうことかと言うと、大まかには次のようなことです。人間はもともと神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。ところが、それにもかかわらず人間は、神に対して不従順となって内部に罪が入り込んでしまった。これが堕罪の出来事です。その結果、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまい、人間は死ぬ存在になってしまった。しかし、神は、人間との結びつきを回復させようと考えた。回復できれば、人間はこの世で神から絶えず良い導きと助けを得られるようになるのだ。また、この世から死んだ後は永遠に自分のところに戻れるようになるのだ、と。
ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の呪縛を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下しつくす。そして人間は、この身代わりの犠牲を信じる時、文字通りこの身代わりの犠牲に免じて罪を赦された者となる。そのようにして、神との結びつきを回復することが出来る。このような解決策を神は編み出したのです。
それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?神の考えは大体、次のようなものでした。一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷を持たない、自分のひとり子しか適役はいないことになる。ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行してもらわなければならない。そうしないと、目撃者も証言者も記録もなくなってしまい、同時代の人々も後世の人々も神の救いの業を信じる手がかりがなくなってしまうからだ。さて、神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということである。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じるであろう。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのだ。彼にやってもらおう。
以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験がありますから、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世の終わりに出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったために、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。
歴史の流れというのは、無数の人間同士の無数の関わり合いやぶつかり合いから生まれて進んでいきます。一見すると、そこには、神が全てを手中に収めて全てを見事に取り仕切って方向付けているようには見えません。全ては、愚かで限りある人間のなせる業の集積に見えます。しかし、神の救いの解決策をみると、一方では、いろんな行為主体が自分の立場や観点に立って自由に行動したり発言したりするのに任せています。しかし、他方では、そうした行為主体の行動や発言があるおかげで、神の救いの解決策がイエス様の十字架という形をとって実現するのです。神の救いの解決策については何も知らない行為主体たちは、自分たちはただ自分の立場や観点に立って自由に行動し発言していると思っている。しかし、全てのことは実は、神の救いの解決策が実現していく舞台設定のようになっていくのです。そうなると、やはり神は全てを手中に収めて全てを見事に取り仕切っているとしか言いようがありません。神の計り知れない御計らいの前で、人間の自由とはなんとちっぽけなものか。神の計り知れない知恵の前で、人間の知恵はなんと取るにならないものか。
2.本日は「枝の主日」ということで、マタイ21章のイエス様のエルサレム入城の出来事が主題に定められていますが、ルーテル教会では、この他に「受難主日」という主題も与えております。その福音書の箇所はマタイ26章と27章の2章全部です。これは、最後の晩餐から十字架に至るイエス様の受難の出来事を全て含んでおります。本説教の後半は、この長い箇所を区切りながら、イエス様が十字架につけられるゴルゴタの丘に到着するまでの27章33節までを朗読したく思います。
十字架に架けられた出来事については、聖金曜日礼拝の主題に委ねたく思います。以下の朗読にあたりまして、次の点に御留意下さい。それは、父なるみ神が人間救済計画を実行しようとした時、御子イエス様はそれに全く従順に従ったということです。それは、イエス様自身、神の計画を実現することが人間のためになるとわかっていたからでした。彼も、それくらい私たちのことを思っていたのです。
イエス様の受難の前触れ的な出来事(26章1章~16節)
一人の女性がイエス様の頭に高価な香油を注ぎます。女性がこれを行ったのは、イエス様がもうすぐ死んで葬られるので、その準備をするという意思表示でした。この女性の行ったことは大きな意味があります。それは、この時まだ弟子たちを含め誰も、イエス様が受難を受けて無残にも死刑に処せられるなどとは信じていませんでした。彼らにとってイエス様はすぐ実現する神の国の王でなければならなかったからです。しかし、この時既に、この女性のようにイエス様の受難と死を文字通り信じた人がいたのです。イエス様は、将来福音が宣べ伝えらえる時、この出来事も忘れられてはならないと言われました。
最後の晩餐(26章17~35節)
ユダヤ教社会の大事な祭日である過越祭の食事が、イエス様の命令により私たちの聖餐式の出発点となりました。私たちが飲むぶどう酒は、私たちの罪の赦しが実現するために主が流された血なのであります。その血を摂取することで、私たちは洗礼の時に受け取った罪の赦しを一層確かなものにすることができ、絶えず神との結びつきの中で生きていくことができるのです。この血は、文字通り神と私たちの契約の血なのです。
ゲツセマネでの祈り(26章31~46節)
神のひとり子として神と同等の方であるイエス様は、この世では人間の体と心を持ち人間の痛みと苦しみがわかるゆえに、これから行おうとする全ての人間の罪の請け負いがどれだけの痛みと苦しみをもたらすかをご存知でした。できることならその杯は飲みたくない。しかし、それでは神の人間救済計画は実現できなくなってしまう。そこで最後にこう祈ります。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」イエス様は、真に十字架の死に至るまで父なるみ神の御旨に従われたのであります。それ位、私たちのことを愛して下さったのであります。
逮捕と最高法院での裁判(26章47~75節)
逮捕に来た者たちに剣で反撃しようとした弟子を戒めた時、イエス様は言います。もしこの出来事が神の人間救済計画の実現と何の関係もないものならば、神に天使の軍勢を送ってもらうことができる。しかし、それをやってしまえば、神の計画は実現しなくなってしまう。神に救援を要請する可能性はあるのに、あえてそれを使わない。それ位、イエス様は、私たちのことを愛して下さり、十字架の死に至るまで父なるみ神の御旨に従われたのです。
・総督ピラトの尋問と十字架刑の決定(27章1~33節)
ローマ帝国支配下のユダヤ教社会では、刑法上の処罰権は総督が握っていました。だからイエス様を死刑にするには総督に引き渡して、罪状を訴えるしかなかったのです。不利な証言を並べ立てられてもイエス様は反論をしません。仮に反論をして、宗教指導者の証言を覆すことができても、それが何の意味があるでしょうか?イエス様は十字架刑に処せられることに決まりました。当時最も残酷でこれ以上の屈辱はないという位の刑罰でした。何しろ、苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間に渡って公衆の面前に晒すのですから。神のひとり子が強盗や山賊同様の刑罰を受けてしまうのです。加えて、死刑の決定後、ローマ帝国軍の兵隊たちの侮辱と暴行が始りました。傷ついた体で処刑地ゴルガタへの道のりは既に体力の限界を超えるものだったでしょう。ヨハネ福音書では、十字架を背負って歩かされたとあります(19章17節)。キレネ人のシモンが背負ったというのは、恐らくイエス様が一人で担ぎきれなくなって手伝わされたものと考えられます。イエス様とシモンと護送の兵隊たちの後を民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れをなしてついて行きます(ルカ23章27節)。兵隊たちの罵声と嘲笑、かつて付き従った人たちの嘆き悲しみの声を聞きながら、イエス様はゴルガタに到着したのです。
枝の主日/受難主日の聖書日課 ゼカリア9章9~10節、フィリピ2章6~11節、マタイによる福音書21章1-11節/26章1節-27章66節
今日の御言葉は、「ラザロの復活」の出来事であります。
ラザロは、マルタとマリヤという2人の姉と共にベタニヤ村に住んでいました。イエス様は、この家族と大変親しく、又、愛しておられました。
11章のはじめの方を見ますと、このラザロが病気になって危ない、「イエス様、早く来て助けて下さい」という知らせを、イエス様のもとによせているんです。そして、ついにこのラザロは死んでしまいました。
今日の聖書の17節になりますと、「さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて、既に四日もたっていた」というのであります。ユダヤでは、人が死にますと、なるべく早く屍を墓に葬る、という習慣です。墓に葬りまして後、喪にふすという期間が続きます。この期間の、ユダヤ人の嘆きと悲しみは大変なものです。ラザロの葬りの時も、大勢の人々が悲しみ、イエス様御自身も、涙を流される程の激しい悲しみを表しておられる。
ユダヤ教の文献によりますと、三日の間、死者の魂は屍の上を漂っていて、元の古巣に戻ろうとしている。ところが三日たつと、だんだんと屍が腐っていって、様子が変わってくると魂は諦めて、四日目からは魂は去っていく、というのです。ですからユダヤでは、屍の確認をするのは、死後三日以内でないとダメだ、という決まりであった。
イエス様がマルタとマリヤの所へ来られた時、四日間たっていました。ラザロの霊魂も、あきらめて神様の所へ行ってしまった後です。もう、魂が体に戻りたくとも戻れない、ということです。甦えりは不可能になってしまった。そういう時にイエス様は来られたのであります。イエス様がやっと来られた、というのでマルタとマリヤは出迎えに行きます。そしてイエス様との会話があります。マルタもマリヤも同じように信仰をもってイエス様に言います。21~22節を見ますと、「主よ、もしあなたがここにいて下さったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています。」と言っています。つまり、イエス様ならどんなことでも叶えられる、ということ。あらゆる事が可能であると、彼女たちは信じています。
次に注目するのは、イエス様が全能だから、イエス様はどんな事でもできるというのではなく、あなたがお願いになれば「神はかなえて下さる」というように、私たち人間の願いを、イエス様は取り次いで下さる方、仲立ちくらいの位置付けにしています。ですからマルタによると、今ここで、イエス様はまだ何となく、全能の神とまでは行かない、やっぱり人間と同じような、ちょっと取次ぎ方の上手な方くらいのレベルに見積もられているわけであります。
するとイエス様は、はっきりとお答えになります。「あなたの兄弟は、よみがえるであろう」。それに対して、マルタの信仰があらわされます。24節で「終わりの日のよみがえりの時、よみがえることは存じています。」とマルタは言います。死人が神様によって甦えらされる、ということは、、旧約聖書の中ではダニエル書12章に、はっきりと教えられている信仰であります。死人のうち、賢い者、つまり神を畏れる、信仰的な知識をもっている信者であれば、甦ると信じられてきました。主にパリサイ派の人々によって信じられてきました。この甦えりは、「終わりの日」歴史が終わる時に義人である信仰者が甦らされる。神を信じない者、神を畏れない悪人どもは、甦るどころか地獄の火に滅ぼされるというふうに、考えられていたのでした。
マルタとマリヤの信仰のクライマックスは、27節で告白しています。マルタは言った。「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の子であると、信じております」。ここでナザレのイエス様を「この世に来たるべき方」、「キリスト」、しかも「神の子」と言い表しています。キリスト教が期待している最高の信仰であります。ここに少なくとも、言葉の上では、論理の上では最高レベルの信仰を彼女たちは告白しています。けれども、実質的な面からもう一度注意深くみますと、イエス様が「あなたの兄弟は、よみがえるであろう」とおっしゃると、それに答えて、「終わりの日」ならば、それはわかります、と答えています。
今、「終わりの日」の事など、関係ないことでしょう。ともかく、今のわたしの嘆き、私たちの悲しみには、ちっとも助けにはならない、慰めにならない、と言っているのです。
マルタはすばらしい言葉で、「主よ、信じます」と言いながら、そして「どんな事でもかなえられる」とは言いながら、実際にイエス様が墓にまで行って「墓石をとりのぞけ!」と、39節で叫ばれますと、マルタは思わず申します。「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」と、言います。言葉の上では、どんな事も可能でしょう。しかし、現実に墓石をあけて、腐りかけた死体を、何とかすることができるかどうかになると、彼女はやっぱり、それはもう無理じゃないか、という反応をあらわしていますつまり、彼女は頭の中で、イエス様を信じています。しかし、現実には信じられない。イエス様が言われる言葉を、すべて信じ切ってなどいないのです。
この問題が私たちの口、私たちの頭、私たちの常識で最高のりっぱな信仰を言いあらわしても、実際の生活、実際の考え方には、くいちがい、すれちがいがあって、やっぱりどこかで誤魔化してしまおうとします。ヨハネ福音書の1番の問題意識であります。このことのためにヨハネは、福音書を書いたというのであります。ヨハネ自身が福音書の最後の、20章30節以下で念を押して書いています。「イエスは、この書に書かれていない、しるしを、ほかにも多く弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなた方が、イエスは神の子キリストである、と信じるためであり、又、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」。
イエス様はマルタに対して、このように口で言う言葉と、現実に心に思っている程度、との間にへだたりがある。イエス様は今、そこに、非常に大きなチャレンジをなさいます。大変大切な宣言を、なさっているのです。「わたしは、よみがえりであり命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。又、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。今日、私たち一人ひとりに、イエス様はあなたに宣言なさっています。あなたはこれを信じるか、と、主の前に問われているのです。よみがえり、と、命とは、ここにある。それはイエス様がいますことによって現実となる、ということです。
40節のみことばです。マルタが主に言います。「主よ、もう臭くなっています」。彼女にとっては、これが現実でした。そうしたマルタに向かって、イエスはおっしゃいます。「もし信じるなら、神の栄光を見るでろうと、あなたに言ったではないか」。立派なことを言い表すことではない。本当に、イエス様こそ甦えりそのもの、と信じて、本当にその人のものになっているかどうか、ここで問われているわけです。
イエス様は、もうすでに5章24節のところで、はっきりと言っておられます。「よくよく、あなたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、又、さばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなた方に言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今、すでに来ている。そして、聞く人は生きるであろう」。ここで言われている「イエスを信じる者はよみがえる」という、よみがえりは、主イエスの言葉を聞いて信じる者は、その時、その瞬間にです。すでに死から命に移っている、現在の話です。この命は、肉体の死が滅んでも死なない、ずーっと続いている神の国の永遠の時の中でも続いて、生かされている命であります。永遠の命を受け、裁かれないのです。すでに今、私たち信じる者はみなそうであります。
ヨハネは、すでにイエス様が言われた、よみがえりを解説しています。5章28節以下です。「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちが、みな神の子の声を聞き、善を行った人々は生命を受けるためによみがえり,悪を行った人々は裁きを受けるために、よみがえってそれぞれ出て来るであろう」。
ここで約束されているのは、墓から出て来る時が、やがて来るであろう、という未来の復活のことです。
このように、イエス様は二つのよみがえりを語っておられる。一つは、信じる者は、現在、死から命に移っているということ。もう一つは、マルタが言いましたように「終わりの日のよみがえり」、遠い未来の復活です。
41節から見ますと、イエス様は墓にまで行かれ、石をとりのけるように叫ばれると、人々は石をとりのけた。すると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いて下さることをわたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。こう言って、「ラザロ!、出て来なさい!」と、大声で叫ばれた。ありったけの大声で叫ばれたのです。すると死んでいた人、ラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。ここをよく見ますと、イエス様は天の父に、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します、と言っておられる。
天の父は、この世のすべてを創造したもう神です。私たちすべての人間の体も命も造りたもうた主であります。ヨハネは一貫して、この命を記していきます。ヨハネの福音書の冒頭に、「はじめに言があった...そしてこの言に命があった」と、まず記しています。
初めにあるのは命であり、本来なら、やがてこの命に帰るのであります。しかし、人間が、この造り主である神に背き、罪を犯した。罪の果ては死であります。死は、本来あるべきこの命から外れてねじくれてしまった、アブノーマルな状態になってしまった。よみがえりと命、そのものであられるイエス・キリストによって、その死の状態から終わりに現われる栄光へ、神の命に生きるようにして下さったのであります。「あなたはこれを信じるか」と、イエス様は私たちに言っておられるのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心をと思いを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
四旬節第五主日
1.本日の福音書の箇所は、イエス様が全盲の人の目を見えるようにした奇跡の後の出来事について述べています。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちが、この人を尋問します。なぜ、尋問に至ったかと言うと、この癒しの出来事が起きた日が安息日だったために、これを行ったナザレ出身のイエスは安息日の掟を破る、つまり神の意思に反する人物かどうかが問題になったのです。
安息日とは、皆様もご存知のように、出エジプトの時に天地創造の父なるみ神がモーセに告げた十戒のうちの第三の掟です。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8~11節)。
なぜ、イエス様が安息日に全盲の人の視力を回復したことが問題になったかと言うと、彼が唾と土で何か粘土状のものを作ったことと、それを使って目を治してあげたことの二つが、してはならないと言われている仕事をしたと見なされたからです。本日の箇所の少し前の所で、群衆が元全盲の人に尋ねました。どのようにして目が見えるようになったのか?男の人は答えました。イエスと呼ばれる者が粘土状のものを作って私の目に塗りました。そして、シロアムの池に行って洗いなさいと命じました。言う通りにそこに行って洗ったら見えるようになりました(11節)。この粘土状のものを作って目に塗るという行為と目を治すという行為が安息日に起きたために、群衆はこの出来事が宗教的に許されるかどうか判断してもらおうと、この人をファリサイ派のもとに連れて行ったのでした。このような奇跡を行うナザレ出身のイエスは、本当は神由来の者ではないだろうか、それとも十戒を破る以上は神に反する者ではないか、一体どちらか?宗教エリートはなんと答えるだろうか?
ファリサイ派の間でも見解は割れました。ある者は、神が定めた安息日の掟を破ったのだからイエスが神由来とは到底言えないだろう、と主張します。別の者は、神由来でない罪を持つ人間ならば果たしてこのような奇跡の業を行うことができるであろうか、と疑問を呈します。実際、旧約聖書のイザヤ書を通して読み、その中のいくつかの預言をもとにすると、将来神の霊を注がれた神の僕が到来して、その時に盲目の人の目が見えるようになると理解することができます(42章7節、35章5節、61章1節、これらに加えてマタイ11章4~6節、ルカ7章22~23章も参照)。1 イエス罪びと説に与することが出来ない人たちは、きっと、イザヤの預言が頭をよぎったのでしょう。しかし、見解の一致は得られませんでした。そこで、ファリサイ派の人たちは、元全盲の人の見解を求めました。お前は、お前の目を開けた者のことをどう思うのか?男の人は答えました。預言者だと思います。メシアとか救世主という答えではありませんでしたが、預言者というのは神から送られた人と考えられていたので、答えはいずれにしても、イエスは神由来の者、神の意思に適う者であり、罪びとではありえない、という告白をしたことになります。
この出来事で一つ考えなければならないことは、イエス様はなぜ癒しの奇跡を安息日に行ったのかということです。別に日に行えば、まさにイザヤ書の預言の実現だ、と拍手喝采になったかもしれないのに、わざわざ安息日に行ったがために、人々の目は病気が治ったという奇跡には向けられなくて、安息日を破ったということに向けられてしまった。一体、イエス様はどういうつもりなのか?実は、安息日を選んで癒しの奇跡を行う時、イエス様にはちゃんと目的があったのです。どんな目的かと言うと、安息日の守り方について教えるとうことです。十戒の第三の掟は、先ほどみたように、「安息日を心に留め聖別せよ」です。原語のヘブライ語をそのまま訳すと「あなたは安息日を覚えておきなさい、忘れないようにしなさい、それはその日を神聖なものとするためである」というものです。安息日を神聖なものにするとはどういうことか?天地創造の神が天と地とそこにあるもの全てを造り上げた時、七日目は創造の業から離れて休まれ、その日を祝福し神聖なものとした。だから神に造られた人間も同じように七日目を神聖なものとせよ、ということです。これが、ファリサイ派をはじめとする当時のユダヤ教社会の考え方だと、仕事をしないということが安息日を神聖なものにする中心になりました。ところが、イエス様の場合は、仕事をしないのなら、じゃ何をするかということに目が行っていると言えます。以下、安息日の守り方についてのイエス様の教えを見ていきます。それは取りも直さず、安息日の掟を与えた父なるみ神の意思を知ることにもなります。
2.まず、安息日に絡んだイエス様の行動とそれに伴う教えについて見ていきましょう。
マルコ2章に(マタイ12章、ルカ6章も)、安息日にイエス様と弟子の一行が麦畑を通りかかった時、空腹を覚えていた弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めた出来事があります。穂を生のまま食べるのですから、飢えに近い相当な空腹だったと思われます。そこで、麦の穂を摘んだということが仕事をしたと見なされて、弟子たちのリーダーであるイエス様がファリサイ派の人たちから批判を受けます。これに対してイエス様は、かつてダビデ王が空腹を満たすために神殿の供え物のパンを食べて家来に分け与えたことに言及して、次のように述べます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(28節)。もう少し、ギリシャ語に近い訳をすると、「安息日は、人間のために出来たものである。人間が安息日のために出来たのではない。だから、人の子は安息日についても主なのである」。つまり、安息日は人間の益になるように神が定めたものである。従って、飢えや激しい空腹からの解放は禁止されている仕事にはあたらない、ということになり、それを安息日の主であるイエス様が確定したということであります。
マルコ3章に(マタイ12章、ルカ6章も)、イエス様が安息日にユダヤ教の会堂で手の萎えた人を癒す奇跡の出来事があります。そこに集まっていた人たちが訴えを起こせる瞬間を待っているのを見てわかったイエス様は、次のように聞きます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。誰も答えることができない中を、イエス様は癒しの奇跡を行います。恐らく同じ出来事について述べているマタイ12章では、イエス様が次のように述べたことも記録されています。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12節)。安息日には仕事をしてはならないが、善を行うこと、命を救うことは、してはならない仕事にはあたらない、ということであります。
ルカ14章に、イエス様が安息日に水腫の人を癒す奇跡の出来事があります。ここでも律法学者やファリサイ派の人たちが様子を窺っている。イエス様は言います。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3節)。誰も答えられないのを見て、イエス様は癒しの奇跡を行います。そして、最後のダメ押しとして付け加えます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。牛が井戸に落ちるというのは思わず吹き出しそうになりますが、それくらい当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいというイエス様の様子がうかがえます。
ルカ13章には、イエス様が安息日に会堂にて、18年間病の霊に取りつかれている女性に癒しの奇跡を行う出来事があります。安息日が破られたと解した会堂長は怒って言います。働くべき日は六日あるのだから、病気のある人はその間に治してもらうべきだ。安息日はやめるべきだ、と。これに対してイエス様が反論します。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛れていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(15~17節)。ギリシャ語の原文に近い訳だとこうなります。「この女は(アブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ)、安息日にこの束縛から解放されるべきではないか?」つまり、安息日こそが、サタンの束縛からの解放に相応しい日であるというのであります。
まさにここで、安息日にしてもいい善い行い、つまり、病気の人を癒すこと、命が危険な状態にある人を救うことが、なぜ、禁止された仕事にあたらないかが明らかになります。いずれの場合も、束縛された状態や危険な状態からの解放という意味があります。安息日にそういう束縛の下にある人を解放することは、してはいけない仕事とはみなされない。それでは、安息日にしてはいけない仕事とは何かと言うと、そういう人を束縛や危険からの解放とは無縁な活動、通常の自分の生活のためのお金稼ぎの活動ということになります。そういう活動は七日目には休止して、心と体と魂を自分の造り主に向けなければならない。そこまではイエス様もユダヤ教社会の通念も同じでした。違いは、イエス様の場合、病気であれ、差し迫った命の危険であれ、人間の命を縛りつけるものからの解放ということを安息日に結びつけたことにあります。
そういうわけで、人は安息日に心と体と魂を自分の造り主に向ける時、造り主である神とは命を束縛するものから解放して下さる方だと覚えなければならない。そして、もし周囲に病気や命の危険に晒されている人がいれば、安息日でも助けてあげることは解放の神の意思に適うことになるというのであります。イエス様がこの地上で活動していた当時、人間の命を縛りつけるものからの解放ということと安息日が結びつくということは、あまり人々の頭にピンと来るものではなかったでしょう。なぜなら、神が与える解放と聞けば、ユダヤ民族なら真っ先に頭に思い浮かぶのは、奴隷の国エジプトからの脱出とか捕囚の国バビロンからの帰還というような民族の歴史的な出来事だからです。ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活をきっかけに、天地創造の神が人間に与える解放とは、そういう一民族の歴史的体験を超えた、全人類にかかわる解放であることが明らかになりました。実は、このこと自体、既に旧約聖書の中に預言されていたのです。しかし、預言は預言でまだ実現していなかったので歴史的な体験になっていません。そのため、解放と聞けば、歴史的に体験された他民族支配からの解放という理解が中心になってしまったのです。しかし、イエス様の十字架と復活が起きたことによって預言が実現し、全人類にかかわる解放というものが歴史的に体験されるに至りました。以下、イエス様の十字架と復活がもたらした全人類にかかわる解放ということを見ていきましょう。
3.イエス様は地上で活動している間、奇跡の業をもって人間を束縛している数多くのもの、病気、悪霊、飢えなどから人間を解放しました。そして、十字架の死と死からの復活をもって今度は、人間の命を束縛している罪と死から人間を解放しました。どうしてこのような解放が行われなければならなかったのでしょうか?
人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られたものですが、それが堕罪の出来事のゆえに存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。
以前の説教でも教えたところですが、北欧のルター派教会では、罪を「遺伝的に継承する罪」と「行為に現れる罪」の二つを考えます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、というのは、「行為に現れる罪」で人を見ていることになります。しかし、真理は、「遺伝的に継承する罪」が土台にあるから「行為に現れる罪」も出てくるということです。行為に現れる罪を犯さなくても、人は遺伝的に継承する罪を背負っている。これが真理です。一体、人間の誰が、自分の思いと言葉と行いの全てを神の神聖な意思に100%沿うものにすることができるでしょうか?逆説的ですが、何も非の打ちどころがないように見える信仰深い敬虔な人ほど、自分の罪深さを自覚するものです。「遺伝的に継承する罪」があるから、赤ちゃんにも洗礼が必要になるのです。健気に可愛らしく眠っている赤ちゃんを見ると誰も、この子が罪びとだとは考えられないと思うでしょう。しかし、この世に生まれた以上は、赤ちゃんと言えども罪を背負っているのです。
罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死すべき存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに、一度死んだイエス様を神は復活させることで、今度は人間に永遠の命、復活の命に至る扉を開きました。あと人間の方ですることと言えば、これらのことが自分のために行われたとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神との結びつきが回復した者となり、その結びつきの中でこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにとどまることができるようになったのであります。
以上から、イエス様が人間にとてつもなく大きな解放をもたらしたことが明らかになりました。イエス様はご自分の死と復活をもって、人間に死をもたらしていた罪の力を無力にして、死と罪と悪魔に対する完全な勝利を人間にもたらしました。イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきに生きる者は、イエス様のもたらした勝利に与っているので、何をも恐れる必要はないのであります。天と地と人間を造られた神は、いったんは人間に背を向けられてしまったのですが、今はこの救いと勝利を人間にどうぞと提供しているのです。あとは人間がそれを受け取るかどうかにかかっているのです。
4.キリスト信仰者が安息日を神聖なものにするというのは、自分が受け取った救いと解放を全身全霊で確認することに他なりません。教会の日曜礼拝はまさにその確認の場であります。礼拝は、教会が神の御前で罪の告白をして赦しの宣言を受けることから始まります。神の御言葉の説き明しである説教を聞くことで、既に受け取った救いと解放を絶えず心に刻みつけていきます。また、讃美歌を歌うことで、この救いと解放を与えて下さった神を賛美し、さらに、救いと解放を与えて下さったからこそ神を何よりも信頼して祈りを捧げます。そして、聖餐式で神との結びつきを維持・強化します。人間の目には単なるぶどう酒とパンのひとかけらにすぎないものが、神の御言葉をかけられることで神聖なものにかわり、これを、イエス様こそ自分の救い主と信じる信仰を持って受け取る時、その人と神の結びつきは、神の目には維持・強化されたものになるのです。このように、礼拝とは一度受け取った救いと解放を確認、強化して、私たちをまた一週間の歩みに送り出すところであります。そして、一週間後また帰って来るところであります。キリスト信仰者は、安息日に仕事をしないで何をしているかというと、このように救いと解放を確認・強化しているのです。以上からも明らかなように、礼拝ではイエス様が中心になっています。これを忘れてはなりません。なぜなら、私たちの救いと解放は彼を通して与えられたからです。それゆえ、イエス様が安息日の主であるというのは誠に真理なのであります。
以上は、既に救いと解放を受け取ったキリスト信仰者について述べたものですが、イエス様が自分の救い主とわかり出しつつも、まだ洗礼を受けておらず、神の整えた罪の赦しの救いをまだ受け取っていない人たちにとっても、礼拝は大事です。信仰者にとって礼拝は既に受け取った救いと解放を確認する場なら、教会に繋がり出した人たちにとってそれは救いと解放の受け取りへと導く場だからです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、安息日の礼拝を大切にしていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
1 「イザヤ書を通して読み」ということについて。ここでは、いわゆる第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤの視点はありません。なぜなら、この区分は近代釈義学の中から生まれたもので、イエス様の時代を含む第二神殿期のユダヤ人がこの区分を念頭においてイザヤ書を読んだことはありえないからです。A.ラートの研究が明らかにしているように、当時のユダヤ人たちはイザヤ書を一つのまとまった書物として読んでいました。もちろん、三つの区分は、紀元前8世紀および同6世紀後半から2世紀までのパレスチナの歴史状況を解明するのには有益な区分です。しかし、イエス様の時代のユダヤ教社会の思想的神学的状況の解明には無益どころか有害でさえあります。それの解明には、「第二神殿期という特異な歴史的状況の中で、この本をひとつのまとまった書物として読むと、世界や歴史はどのように見えてくるだろうか」という視点がなければなりません。
四旬節第四主日の聖書日課 イザヤ42章14~21節、エフェソ5章8~14節、ヨハネによる福音書9章13~25節
今日の御言葉は、イエス様が、サマリヤの女と出会われた出来事です。
3節から見ますと、イエス様と弟子たち一行はユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた、とあります。ガリラヤへ行くのに、サマリヤ地方を通らねばなりませんでした。シルカというサマリヤの町に来られ、そこにヤコブの井戸がありました。時は正午頃であります。イエス様は旅に疲れて、井戸のそばに休まれたわけです。
私はイスラエルの旅で、四月のはじめでありましたが、このヤコブの井戸の所へ行きました。 日本では、とても想像できない程の暑さです。バスの中ではクーラーを目いっぱいかけて冷房しても暑い、バスから一歩外へ出たら、もう、ひどい暑さです。30~40℃近い、焼けつく砂漠の荒野の中を通って行くわけです。 ましてや、イエス様の時代、歩いて3~4日の旅です。 ともかく、ものすごい暑さの中、のどはカラカラに渇いて、一杯の水が欲しいのです。
7節を見ますと、ちょうどそこへ、サマリやの女が水をくみに、このヤコブの井戸へやって来ました。さっそく、イエス様は「水を飲ませて下さい」と願われたのです。弟子たちは食べ物を求めに町へ行って、イエス様とサマリヤの女との対話が始まります。ごく自然に、「水を飲ませて下さい」というイエス様の願いに対して、サマリヤの女は、その願いを素直に受け取らなかった。
なぜなら、第一には、サマリヤの女は男の人と話をする等ということは、決してしないのです。次に、イエス様がユダヤ人であることは、見てすぐにわかります。ユダヤ人に対して、サマリヤ人とはもう昔から憎しみ合っていました。民族との間に深い溝があったからです。 ですから、サマリヤ女としては、イエス様の願い等とうていできないのです。 それでサマリヤの女は言います。「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」。 ここに、イエス様は一杯の水さえ飲むことを拒まれています。 ユダヤ人とサマリヤ人とは、同じ器に唇をつける事はできない。ユダヤ人から見れば、サマリヤ人は混血の人種で、異邦人扱いですから、異邦人の使うどんな物も、共通に使用するのを律法で禁じていたからです。
この福音書を書いていますヨハネが、ここで、私たちも含めて人々に示そうとしている事は何か、といいますと、イエス様が神の子として、この世に来られた使命を果たそうとされるのが、いかに困難であるかということです。 イエス様はどんな状況、どんな相手にも分け隔てなく、敵をも愛する愛をもって、その道を探し求めて行かれるのですが、至る所でその道は閉ざされ、壁に突き当たるのでありました。 イエス様は、ここで、女の不信に対していささかも退く事なく、かえって、救い主としての御心を、彼女に示していかれるのであります。
10節に、すごい言葉がほとばしり出ています。 「もし、あなたが神の賜物を知っており、又、『水を飲ませて下さい』と言ったのが誰であるか知っていたなら、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えられたであろう」。
ここには二つの大事な言葉を言われています。一つは「神の賜物を知っていたら・・・」、もう一つは「生ける水」のことです。
暑い真昼ののどの渇きをいやす一杯の水が、今、イエス様の口をついて出る水は、渇くことのない「生ける水」の次元へと変わっていきます。 天の神様が、イエス様を遣わされたのが何のためであるのか、神がイエス様にあって、人間に与えるものは何であるのか。 これは神の賜物のことを知っていたら、彼女はイエス様の方へお願いしたであろう、と言っておられるのです。 神の賜物とは、神からの啓示の言葉のことです。それは、神の救いの御旨を、人間に知らせてくれるものです。 イエス様が、彼女に与えるものは、彼女がイエス様に手渡すことのできるものよりも、比較にならぬ程大きなものでしょう。 それは、水ではあるが、生ける水であって、真に人を生かす飲み物である。
私たちは普通、「生ける水」等と言いません。ユダヤでは普通によく使った言葉なのです。 池の水とか、ためてある水、とどまっている水は生ける水とはいいません。そうしたたまり水に対して、山の小川のように、サラサラと流れる水、冷たいおいしい水、又、泉からわき出る新鮮な水を、「生ける水」といいます。 著者のヨハネは、この言葉によって、イエス様の御心の深みを開いて、私たちに示していきます。
イエス様は、真理を見通す明るいまなざしで、渇いている女の心の底まで見通されたのです。彼女は人生の中で今、長いこと待ちこがれた焼きつく渇きをもって、イエス様の前に立っているのです。 イエス様は、彼女のために生ける水と、又救い主の御旨を持っておられた。 それを彼女に与え、その賜物で彼女のやんだ心を健康にすることがおできになるのです。サマリヤの女は、この時まだイエス様の中にユダヤ人を見て、こだわりを持っていたでしょう。 彼女がイエス様を理解し、又、自分自身をも理解するように、又、彼女の満たされない要求、不安、心の渇きがどこから来るのか、どのようにして、いやされるのか、これらの事がわかるために、イエス様は彼女の目を開かれたのでした。何よりもまず、彼女には、イエス様に対する不信感がまだあった、そして、イエス様に言っています。
11~12節を見ますと、「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその『生きた水』を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。 サマリヤの女は、イエス様の持っておられる能力の限界を計ったのです。水を手に入れる等どうして出来るだろうか、と思いめぐらした。いぜんとして彼女はユダヤ人であるイエス様を見ている。この人は自分をサマリヤ人より上に置いている。サマリヤ人が聖なる井戸として、非常に骨折って掘った族長ヤコブを過小評価しているのではないか。
彼女は心の内に言うのです。 サマリヤの女は、自分たちの民族が誇らしげに、聖なる井戸を見てきた。その井戸を少し軽蔑して言っているのではないか。 しかし、この言葉の中には、何かもっと高度なことを言っているようにも感じているのでした。 イエス様は、ここで本格的に御自身の恵みの目的を現わされていかれるのです。
13~14章のみことばです。「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者は誰でもまた渇く。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る』」。イエス様が与える水からは、いつも新鮮な泉が湧き出て来るものである。そのイエス様からの賜物は、何か一種変わったものではなく、真実に私たちに与えられるもの、私たちを助け、内側から私たちを捕らえて、新たにするものであります。 イエス様が与えられるもの、それは永遠であり、永遠の命の与え主として、今、この女に御自身を現されたのです。 イエス様がそのようになさるのは、イエス様の愛から永遠の命が育つことによって、そうなるのです。 この永遠の命が、その人の中に受け入れられ土台となってしまうなら、それは渇くことのない「生ける水」を飲んだからであります。
15節で女は言った。「主よ、私が渇くことなく、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」。 今や、彼女は、ユダヤ人等という人種や歴史を越えて、イエス様に近づいていくのであります。イエス様は、彼女の心の内側の暗い部分に、彼女のまなざしを向けていかれる。 そこで彼女は、自分自身が真実、貧しく悲惨であり、すべてを無気力にしてしまう魔力が巣くっていることを知らされるのです。
16説を見ますと、イエスは彼女に言われた「行って、あなたの夫を呼んでここに連れて来なさい」。 この言葉で、この女は悲惨なすべてのものが、明るみに出されていくのであります。女は答えて「わたしには夫はいません」と言った。するとイエスは言われた。「夫はいませんとは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」。 これまで何人もの夫に、身も魂も栄養も良心も、すべてをささげて尽くして来た。しかし、とどのつまりはすべて砕かれ、今ある夫は、公然と交わりを結ぶ夫ではない。
こうして彼女は、あらゆる努力をしたあげく、孤独で恥に満ち、踏みにじられ、貧しく、愛なしに立っていた。 今、イエス様は、このような悩み、やつれて、渇いた彼女を、生ける水を必要としている姿に見られるのであります。 「5人の夫があったが、今いるのは夫ではない」と、ずばりと言われたイエス様の言葉が、悔い改めに招き、裁きの光りとなって彼女の良心に射し込み、彼女を服従させるものとなっていった。そして彼女は言うのです。「主よ、私はあなたを預言者と見ます」。 こうして彼女の心にかかっている神様を礼拝することで、イエス様との話は移りますが、イエス様は大事なことを示される。
21節のみことばです。 「イエスは彼女に言われた。『御婦人、私のことを信じなさい。あなたが、この山でもなく、また、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時がきている』」。 イエス様がこの婦人に、生ける水を与えよう、と話されたのは、その生ける水を見つけるためにエルサレムに巡礼しなければならない、という意味ではない。 それよりももっと、高度なことが示されているのであります。
23~24節にそれが示される。 真実の礼拝者たちが御霊と真理をもって、御父を礼拝する時が来る。今、その時が来ている。神は霊でありますから、礼拝する者は、御霊と真理をもって礼拝しなければならないのだ、ということ。 天の御父は、このような礼拝者を求めておられるのです。 婦人は、イエス様の言葉が、これまで自分を支えていたすべてを越えているのに、気づいたのでした。
25節になりますと、女はイエスに言った。「私はキリストと呼ばれるメシヤが来る事を知っています。そのお方が来られたら、私たちにすべてのことを宣べ伝えるでしょう」。サマリヤの人たちも、キリストを望み見る希望にあずかっている。この婦人も、その望みを期待していたのでした。 イエスは彼女に言われた。「あなたと話している私がそれである」。 この一言の言葉で、彼女はどんなに驚いたことでしょうか。
イエス様は、まことにサマリヤの女に「生ける水」を与えられました。 このような親しみと、恵みと、ゆるしとをもって彼女に語りかけ、彼女のまちがいを正していかれたお方、これこそ、神の御名によって恵みを与えられる、キリストであります。永遠に支配されるキリストであります。私たちの救い主イエス・キリストであります。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
四旬節第三主日 2014年3月23(日)
1.本日の福音書の箇所は読み通すと、一見わかったような気がしますが、実は難しいことがいろいろあります。それらを一つ一つみていくことで、天の父なるみ神の私たち一人一人に対する御心を明らかにしてまいりましょう。
まず、イエス様が自分の受ける受難と恥辱に満ちた死について、そして死からの復活について予告します。その時、弟子のヤコブとヨハネとその母親がイエス様の前に進み出て、母親が嘆願します。神の国が来たら息子たちを王様イエス様の左大臣、右大臣にして下さい、と。ここで起きる疑問は、なぜイエス様が死と復活を予告したタイミングに、母親はこの嘆願をしたのかということです。それは彼女が、イエス様の死と復活が神の国の到来に関係すると直感したからなのですが、どうしてメシア救世主の死と復活が神の国の到来と関係するのか?この疑問からみてみましょう。
イエス様が地上におられた時代のユダヤ教社会では、自分たちの民族の将来について次のような期待が抱かれていました。それは、かつてのダビデ王のような王が登場して、この王が油を注がれて聖別された者、つまりメシアとして、自分たちを支配・抑圧しているローマ帝国を打ち破って、かつてのような王国を再興してくれる、さらに諸国に大号令をかけてこれらを従わせ、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させるという期待です。そのような期待がでてきたのは、旧約聖書にそのようなことを預言するとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ士族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。またイザヤ書11章に、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言があります。同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。こうした預言をみれば、将来ダビデ家系から卓越した王がでて外国勢力を追い出して王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が持たれたとしても不思議はありません。福音書の中に「熱心党」と呼ばれるグループが登場しますが、これは機会があれば占領者であるローマ帝国に対して反乱を起こして武力で独立を回復しようと目論んでいた人たちでした。イエス様の弟子たちの中に「熱心党のシモン」という人が出てきますが、きっとイエス様が武力で王国を再興させる指導者になると思ったのでしょう。しかし、彼らにとって、イエス様が十字架にかけられて処刑されてしまったのは、期待外れ以外の何ものでもなかったでしょう。
このような、ダビデ家系の王が現れてイスラエルに民族自決国家を実現するという考えは、王様にしても王国にしても今存在する現世に実現するものです。ところが実は、当時のユダヤ教社会には、メシアについても王国についてももっと違った考え方がありました。まず、今存在するこの世はいつか終わりを告げる。その時、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる。その際、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らないものとして神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こる。かつてこの世で生きていた時に天地創造の神を信じてその意思に忠実であった者たちは神の国に迎え入れられる。この一連の大変動の時に、指導者的な役割を果たすのがメシアである。彼は、神の国という新しい世に最終的な平和を打ち立てる。大体そういう考え方です。現世的なメシアと王国復興の考えと随分違います。終末論的なメシアと神の国の考え方と言ってよいと思います。余談ですが、このような考え方を示す書物が、紀元前2、3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました。1
どうしてこのような考え方があったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書65章17節、60章19~20節にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章1~3節、こうした今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考え方に従うと、現世的な王の下で現世的な民族自決国家を実現すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は来るべき世の出来事を意味するものだというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考え方からすれば、現世的なメシアや王国復興の考え方は、旧約聖書の預言をまだまだ取り込めていないということになるでしょう。
こうしてみるとヤコブとヨハネの母親は、イエス様の死と復活の予告を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考え方を持っていたことを窺わせます。しかし、彼女のメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。到来する神の国は死者の復活に関係があると理解していながらも、その国は現世の国のように支配層と非支配層があると考えて、それで自分の息子を右大臣左大臣に取り立てて下さい、と嘆願したのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えるのであります。それがどういう国かと言うと、本日の箇所の最後でイエス様が言われます。「人の子は仕えられるために来たのではない。仕えるために、そして自分の命を多くの人たちのための身代金として捧げるためにきたのである。これと同じように、お前たちの間でも、大いなる者になりたいと思う者は、お前たちの中で仕える者となりなさい。」2 つまり、神の国の秩序は、誰かが誰かの上に立って支配するというものでなく、お互いが仕え合っているという関係にある。王であるイエス様が自分の命を犠牲にしてまで仕える立場に徹した以上、王に従う者はみなそれに倣わなければならない、というのであります。
ヤコブとヨハネの母親が示したような終末論的な神の国の到来の考えは、確かに旧約聖書の預言に基づくものでした。現世的なメシアと王国復興の考え方よりも旧約の預言を網羅しているようにみえました。しかし、それでもまだまだ大事なものが沢山抜け落ちていたのです。イザヤ書53章には、メシアが人間の救いのために自分を犠牲にするという有名な預言があります。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、恐らく有名ではなかったのかもしれません。というのは、神の国を興し栄光に輝く者が苦しみを受けて打ち捨てられるなど、不可解だからです。しかし、十字架と復活の後は、不可解でもなんでもなくなりました。イエス様は、十字架と復活の前に全てをご存知だったのです。まさに彼こそが、旧約聖書の預言の全体を把握して正確な神の国の考えを持っていたのです。もちろん、これは、彼が神の御子であるため神の意思を全てわかっていたからなのですが、彼の場合は、神の意思について正しい理解を持っていただけではなく、神の意思そのものを実現することもやってのけたのです。
2.本日の福音書の箇所の次に進みましょう。イエス様は、母親の嘆願を受け付けませんでした。イエス様の呆れ返った様子が母と息子の三人とイエス様のやり取りから窺われます。「お前たちは何を欲しているか自分でわかっていない」。嘆願した本人からすれば、右大臣と左大臣にしてくれと頼んでいるのだからわかっているつもりなのですが、イエス様からすれば、この嘆願は神の国のなんたるやを知らない、的外れなものだということになるのです。神の国とは支配する者とされる者が二分している国ではなく、構成員がお互いに仕え合う関係にある国であるということは先ほど申し上げました。
「私が飲む杯を飲むことができるか」というのは、イエス様が受けることになる受難をお前たちも味わうことができるかという意味です。二人の若者は「できます」と答えます。立派な覚悟ですが、おそらく大臣になれるなら、たとえ火の中水の中という意気込みだったのでしょう。ここでイエス様は、そう、確かにお前たちは私の杯を飲むことになる、と預言します。これで二人の運命は決せられてしまいました。というのは、ヤコブは使徒言行録12章2節に記されているように、ヘロデ・アグリッパ1世によって殺害されてしまうからです。兄弟のヨハネについては不明ですが、おそらく安逸な人生ではなかったでしょう。
このようにイエス様の預言は二人の若者の運命を確定してしまったので、それは少し残酷なものに思えます。しかし、ここで注意しなければならないのは、この預言は二人の若者を何か不幸に定めたということではないのです。キリスト信仰者に対する迫害は、イエス・キリストの名とその福音を宣べ伝える時に起こりました。ヤコブはその宣べ伝えが命を伴う危険があると知っていたでしょう。また、かつて主に「お前は私の杯を飲むことになる」と言われていたことを覚えていたでしょう。もはや主は地上にはおられず、主の御名と福音を宣べ伝えれば、大臣になれるどころか、命を危険にさらすことにさえなる。ヤコブはそれを知っている。それなのに宣べ伝えをやめなかった。どうしてでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃して、神の国がどんな国であるか本当にわかり、それまで大臣などと言っていたことが全く意味を失ったからでした。イエス様の十字架の死と死からの復活から本当に大切なものが自分に与えられたとわかり、それを出来るだけ多くの人に伝えたい、同じ大切なものを他の人たちにも受け取ってもらいたい、そういう思いで生きるようになったためでした。その大切なものがあまりにも大きくて、目の前にある脅しや恐怖が小さくみえてしまうほどだったのです。イエス様が二人の若者に「お前たちは私の杯を飲むことになる」と言ったのは、実に「お前たちはそれくらい大きな大切なものを受けることになるので、受難の杯を飲むことが出来るのだ」と言っているのであります。3
それでは、イエス様の死と復活から与えられた大切なものがなんであるかについて見てみましょう。それは、人間が自分を造られた神との結びつきを回復できたということ、そしてその結びつきの中でこの世の人生を歩むことができるようになり、順境の時も逆境の時も自分の造り主である神から守りと良い導きを得られて歩めるようになったということ。万が一この世から死ぬことになっても、その時は造り主である神が手をとって御許に引き寄せてくれ、永遠に造り主である神のもとにいられるようになったこと、であります。どうして、そのような造り主との結びつきが失われていたかと言うと、創世記の初めにありますように、最初は良いものとして造られた人間が神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったからでした。そこで人間は死ぬ存在となり、神との結びつきは失われてしまいました。ところが、神はこの不幸な状態をなんとか変えようとして、それでひとり子をこの世に送り、人間の罪から来る罰を全て彼に背負わせて人間の身代わりとして十字架の上で死なせて、この彼の犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのでした。人間は、このひとり子イエス様をまさに自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることができるのであります。これが、イエス様の死と復活から与えられた大切なものであります。
ところで、ヤコブとヨハネに起きたのと同じことがペテロにも起きました。ヨハネ21章18~19節で復活された主はペトロが将来どのような最後を遂げるかを預言します。「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」これを言われたペテロ本人は、この主の言葉を生涯覚えていたでしょう。しかし、彼は全く怯むことなくイエス・キリストの名と福音を宣べ伝えていったのです。彼も、イエス様の十字架の死と死からの復活から大切なものを与えられたとわかった一人でした。この大切なものについて、私たちは、まだ知らない人に対しては明らかにし、既に知っている人に対しては忘れてしまわないように支え合ってまいりましょう。
3.神の国というのは、天の国、天国とも言い換えられます。天国と言うと誤解が生じると思います。一般には、天国と聞くとなにか、人が死んだ後で羽が生えたようになって空高く飛んで行って、何か安住の場所があって、「天国から私たちを見守ってくれている」などとよく言います。時々、仏教関係の人でもそのような言い方をする人がいて驚かされます。どうして、極楽浄土と言わないのだろうか、しかもまだ三十三回忌も済んでいないのに、と。しかし、この点はキリスト教徒も同じです。あれ、まだ主の再臨もなく復活も起きていないのに、もう天国にいるのか、と思ってしまいます。4
聖書が明らかにしている天国、神の国とは、今ある天と地が過ぎ去って新しい天と地にとってかわられるという、今のこの世が終わる時に目に見える形で現れるものです(ヘブライ12章26~29節)。その時、イエス様が再臨し、死んだ者が復活させられ、その時点で生きている者と併せて、神を信じその意思に忠実であった者が迎え入れられるところです。誰が迎え入れられて迎え入れないかという時に、最後の審判というものが起こるのです。迎え入れられた者は、自分を造られた造り主である神の御許に永遠にとどまることになります。そこは、悲しみも嘆きも労苦もなく死もないところです(黙示録21章4節)。神の国が結婚式の盛大な祝宴にたとえられるのは(同19章7~9節)、今の世での信仰の戦いの労苦が何十何百倍にもなって労われるということであり、神が全ての涙を拭い去るというのは(同21章4節)、今の世で被ってしまった不正や不正義が最終的に完璧に清算され晴らされるということです。
そうなると、人は死んだ後は復活の日まではどこで何をしているのか、という疑問がおこります。このことについては、私は説教の場でルターの教えに基づいて教えたことがあります(2013年11月17日市ヶ谷教会)。ごく簡単に言うと、人は死んだ後は復活の日までは、神のみぞ知る場所にて安らかに眠っている、ということです。たとえ、この世の時間の尺度から見て500年眠っていることになっても、眠りに入った本人にしてみれば、ほんの一瞬にしかすぎないということです。瞬きした瞬間に、あれ、いつの間に寝ていたんだろう、としか思えない間隔で、目を開けた瞬間もう復活の壮大なドラマが始まっているというものです。
しかしながら、神の国の一員になれるのは、主の再臨の日、復活の日まで待たねばならないということではありません。イエス様を自分の救い主と信じてこの世の人生を歩むようになった段階で、その人は神の国の一員となっています。復活の日にそれが見える形になるのです。今は見えませんが、天の父なるみ神の目には見えています。たとえ、人生の歩みの中で出てくる困難、苦難のために、神は自分のことを忘れてしまったのか、背を向けられてしまったのかと疑うことがあっても、イエス様を救い主と信じ、そのイエス様を自分のために送って下さった自分の造り主である神を信頼して歩む限り、その人が神の国の一員であることになんの揺らぎもありません。そのような時でも、否、そのような時こそ、神はしっかり見守っていて下さるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。
今この世にあって私たちは見えない形で神の国の一員であるのですが、その一員であるならば、お互いが仕え合うようにしなければならない、とイエス様は教えられました。洗礼を受けてキリスト信仰者となっても、誰も完全な人にはなれません。それで、仕え合うということが大事なのです。今この世で見えない形で神の国の一員である私たちが仕え合うということについて、ルターが次のように教えていますので。それを引用して本説教の締めとしたく思います。
「キリスト信仰者にとって、この世の人生は、信仰と愛と十字架の人生である。しかしながら、この三つのものは、この世の人生の間に完全なものになることは決してない。これらのものが完全になっているのは、キリストにしかない。キリストは、我々が目指して進んでいくために、我々の目の前に備え付けられた太陽である。我々の中には、弱い者もいれば強い者もいる。弱い者は苦しみを受けることがほとんどない。なぜなら、神はその者が耐えられないことを知っているからである。強い者は苦しみを多く受ける。なぜなら、神は、その者が耐えられると知っているからである。
我々は全てキリストを目指し、キリストに倣う者でなければならない。この世の人生とは言わば、信仰がひとつの段階から次の段階へ、愛もひとつの段階から次の段階へ、忍耐も十字架もひとつの段階から次の段階へと絶えず進んでいく旅路のようなものである。人生において、出来上がった義は存在しない。あるのは、義に「なっていく」ということである。我々はまだ目的地に到達していないのである。まだ旅路の途上なのである。ある者は先にいて、別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが、ただ我々が歩む意思を捨てずに進んでいれば、神は満足したもう。そして、主が自ら決められた日に再臨される時、彼は我々の信仰と愛のまだ欠けているところを一気に満たし、瞬く間に我々をこの世から永遠の命、復活の命に移しかえて下さる。
ところで、この世の人生を歩んでいる間は、我々はいつも、お互いの重荷を背負い合っていかなければならない。ちょうど、キリストが我々の重荷を背負って下さったように。我々の誰一人として完全な者はいない以上、なおさら背負い合う必要があるのである。」
1 例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩篇があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます。
2 マタイ20章26、27節のギリシャ語の表現「お前たちの間ではεν υμιν」「お前たちの仕える者υμων διακονος」「お前たちの僕υμων δουλος」に注意すること。
3 ギリシャ語の「飲むことになる」という未来形πιεσθεは、「飲むことが出来る」という可能の意味も持ちます。
4 まだ復活が起きていないのに、神の御許に引き上げられた者として、創世記5章に登場するエノクと列王記上下に登場するエリアが挙げられます。モーセは「死んだ」ことになっていますが(出エジプト記34章5節)、葬ったのは神自身なため(同6節)、誰もモーセの死については確かなことが言えない状況があります。マルコ9章などでイエス様の姿が変わった時に現れたのがエリアとモーセだったというのは、それに何か関係しているのではと思われます。
四旬節第二主日の聖書日課 創世記12章1-8節、ローマ4章1-12節、マタイによる福音書20章17-28節
1.古いキリスト教会の伝統として紀元後300年頃には、復活祭の前に主日を除いて40日間断食することが行われるようになっていました。その40日間を日本語で四旬節と呼びます。本年は、4月20日が復活祭に定められているので、主日を除いた40日間はこの間の水曜日3月5日に始まり、教会歴ではこれを「灰の水曜日」と呼びますが、本主日はこの40日の期間の最初の主日にあたります。どうして40日間の断食かというと、本日の福音書の箇所でイエス様が荒野で40日間何も食べなかったという出来事が背景にあります。そもそも、イエス様の生涯というものは、人間の救いのために受けられた十字架でのいけにえの死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して、こうした主の備えの生涯を身近なものにしようとしたのであります。
四旬節は、英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉Lenctenに由来するそうですが、フィンランドやスウェーデンでは、ずばり「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国ですから、外面的な規則の順守が救いを左右するという考えはとりません。「断食」と言っても、名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師先生にもそのようなことを勧める人もいます。こういうことをしたり、勧めたりするのは、もちろん、それをすることで神に認められるとか、救いを確実なものにするとか、そんなことは全く関係ないとみんながわかっています。それに、好物を食べなくても、食事はちゃんととるので断食には程遠いものです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常の生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングと言っていいと思います。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくて注意が向くのなら、しなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、それをすると決めた理由であるイエス様のことにいつも心が向くようになるのであります。
2.イエス様の荒野での試練について、本日の福音書であるマタイの他に、ルカ、マルコ福音書にも同じ出来事の記述があります。三つを比べて読んでみると記述がそれぞれ異なっていることに気づかされます。マルコ福音書ではたった二節ですが、ルカとマタイ福音書はもっと詳細にわたっています。荒野の試練の時は、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がおらず、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語って聞かせたものと考えられます。マタイとルカには詳細に語られたものが伝承されて記載され、マルコには要約された形のものが記載されたと言えます。
それでは、イエス様は悪魔からどんな誘惑を受けたか、そして、それらをどのようにして撃退したのか、そのことを本日の福音書の箇所であるマタイ4章を中心にして見てみましょう。
2節「そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」これは、40日間空腹を感じなかったが、41日目に急にお腹が空きはじめたということではありません。40日間次第に空腹が増しつつもまだ耐えられていたが、41日目にはそれがついに耐えられない位のものになったというふうに理解すべきでしょう。まさにこの時に悪魔が三つの大きな誘惑をしかけてきました。
三つの誘惑のうち、最初の二つのものは共通していて、悪魔は「お前が神の子なら、何々してみろ」という言葉で誘惑を始めます。ところで、最初の誘惑「お前が神の子なら、この石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、二つ目の「お前が神の子なら、このエルサレムの神殿の上からまっさかさまに切り落ちるキルドン谷に身を投げて天使に助けさせてみろ」というのは、一見それほど「誘惑」には見えません。もし、イエス様がパンを石に変えて空腹の難を逃れたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらえれば、それはそれでイエス様が神の子であることを悪魔に示すチャンスになります。しかし、イエス様は、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選びました。どうしてでしょうか?それは、もしそうしていれば確かに神の子としての力と存在を見せつけることができたでしょうが、その瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意志の下に服することになるからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。一見神の子であることを見せてくれ、と言いつつ、実は自分の言う通りにするように仕向けていくという、巧妙な罠だったのです。イエス様は、あえて空腹と恐怖の方を選びました。
最後の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というあからさまの誘惑です。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、私たち人間の救いにとって特に重要な意味を持ちます。なぜなら、イエス様は、この荒野の試練の直前、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりで、その時、神から聖霊を受け、かつ神の子であるとの認証を神から受けたのです(マタイ3章13-17節)。もし、その神の子が悪魔にひれ伏していたならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはならなかったのであります。それゆえ、たとえ万物が悪魔の下に服する事態が生じようとも、それを超える神が厳然とおられるのであります。私たちは、どのような状況に置かれても、そのような神に結びついていることを忘れないようにしましょう。
3.次に、イエス様はいかにしてこれらの悪魔の誘惑に打ち勝ったかをみていきましょう。結論から申しますと、三つの誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのに、イエス様は旧約聖書の神の御言葉を武器に用います。
まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の言葉をもって誘惑を無力にします。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験するのであります。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく、経験に裏付けられた真実の言葉なのであります。悪魔が空腹の満たしのような人間の最も根本的な必要に訴えて人間を自分の言いなりにしようとする時、この申命記の言葉を突きつけることで悪魔に次のように反論することになります。「悪魔よ、私の空腹が満たされることも満たされないことも全ては神次第である。満たされる時も満たされない時も私の命は神の御言葉を拠りどころとして立つ。だから、悪魔よ、お前は私の空腹の問題解決には何の関係もないのだ。」
次に二つ目の誘惑、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令します。悪魔は今度は巧妙にも聖書の御言葉を用います。それは詩編91篇11~12節「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから、飛び降りてみろ、と言うのであります。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を無力にします。それは、こういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなったとき、指導者モーセに不平を言い始め、神にすぐ水を出すよう要求した出来事です。実にシナイ半島の荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満と至急の解決要求をぶつけました。何度も神の奇跡的な救いの業を自分たちの目で見てきているのに、困難の度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、言うことを聞いてくれないなら、もう神とは見なさない、エジプトに帰ってやる、と言わんばかりで、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すことばかりを繰り返しました。申命記の中で、もうすぐシナイ半島の荒野から約束のカナンの地に移動するという時、神は40年の出来事を振り返って、そのように「神を試してはならない」と命じるのです。
それでは、人は苦難や困難に遭遇したらどうすればよいのでしょうか?神に助けを求める時、それが神を試すことにならない求め方とはどのようなものでしょうか?それはもう、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、その与えられた解決を最上の解決として受け取りなさい、それくらい神を信頼しなさい、ということにつきます。悪魔に対して申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への絶大な信頼を示すものです。実を言うと、このイエス様の神への絶大な信頼こそは、悪魔が誘惑用に使用した詩篇91篇の全体の趣旨だったのです。91篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2~3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は詩篇91篇全体に貫かれている神への深い信頼という主旋律から切り離して、同篇の真ん中辺だけをちょこっと取り出してイエス様にぶつけたわけです。しかし、そんな文脈から切り離した引用など、何の重みも意味もありません。このようなやり口は悪魔だけに限りません。キリスト信仰をあらぬ方向に持っていこうとする輩もみな、聖書の御言葉を全体から切り離してひけらかすのに長けていますので、皆さん、御言葉を広くかつ深く学ぶことを絶やさないようにしましょう。
三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の奴隷になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を無力にします。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神を天と地と人間の造り主として、人間に命と人生を与えた創造主として仰ぐことです。そして、目の前で神の力が働くのを目の当たりにする時も、また目に見えて働いてはいないように見える時も、神は変わることなく全てに優る力を持つお方だ、天においても地においても神より力ある者は存在しない、と神を敬うことです。神より力ある者は存在しないということは、神に敵対する者からすれば、神は恐怖の的以外の何ものでもありません。そこから逃避しなければならない存在です。しかし、神としっかり結ばれている者からみれば、神以外には何も恐れるものはなく、神は全ての恐れを抱かせるものから私たちを守って下さるので、私たちは神のもとにいて大きな安心を得ることができます。つまり、神との結びつきの中に生きる者にとって神は恐怖の的でも逃避の相手でもなく、安心の源、とどまる場所なのであります。
悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持・拡大できたとしても、神と敵対していれば、死んだ後は自分の造り主のもとに戻ることは出来きず、滅びと災いの世界に投げ込まれてしまいます。そこには権力も富も持っていくことはできません。全ての人はみな丸裸でこの世から次の世に移行するのです。しかし神との結びつきの中に生きる者は、死んだ後は永遠に造り主である神のもとに戻ることができます。この世にいる時は安心の源から安心を得、次の世ではその源自体にいることができるのであります。このように神を畏れるということは、神と結びついたまま今の世と次の世をあわせた一つの大きな人生を歩むということなのです。それに比べたら、悪魔がやると言った権力や富はなんと小さなものでしょうか?そんなもののために神との結びつきを捨ててみろ、などとは、なんと情けないことを聞くのでしょうか?
4.以上のように、イエス様は聖書の神の御言葉を武器にして、悪魔の誘惑を無力にしました。私たちは、そのイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受け、イエス様に結びつけられているので、イエス様の勝利に私たちも結びついているのです。イエス様のもとにとどまる限り、私たちも、悪魔の誘惑を無力にする力に与っているのであります。しかしながら、私たちが洗礼によって神の義を頭から被せられたと言っても、悪魔は、私たちの内部に肉に結びつく古い人が残存していることを知っています。それで、私たちへの攻撃の手を緩めません。悪魔はなぜ私たちを攻撃するのでしょうか?
最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となり、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生まれてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにするために人間救済計画を立て、ひとり子をこの世に送り、これを用いて救済計画を実現されました。人間の罪と不従順の罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、このイエス様の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たちのために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることができます。そして、この世の人生において、永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと良い導きを受けられ、万が一この世から死んでも、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。
このように神は、御自身と人間の間の壊れた関係を修復するために御自分のひとり子さえも惜しみませんでした。しかし、悪魔にはそれが我慢ならないのです。せっかく堕罪の時に壊すのに成功した関係を修復するなんてとんでもない。なんとしてでも壊れたままにしてやりたい、と思うのです。しかし悪魔にとって、神は無敵な存在なので手の出しようがない。それで弱い存在である人間を苦しめてやろうというのです。このこと自体、悪魔が神に負けている存在であることを示すものですが、攻撃を受ける私たちとしてはどうすればよいのか?それは、本説教においてみてきましたように、イエス様が武器に用いた神の御言葉を思い出し、そこで教えられていることをしっかり心に留め、守っていくことです。つまり、私たちの必要を満たして下さる一番の大元は天の父なるみ神であることを忘れず、自分を造ってくれた以上、神は最後まで自分の名誉にかけて守って下さると信頼し、神の力を疑ったりせず、神を試すようなことはしないようにしましょう。そして、神との結びつきの中にいる限り、今歩んでいる人生の道は今の世と次の世にまたがっていることをいつも覚えていましょう。
このように聖書の神の御言葉には悪魔の誘惑を無力にし、その攻撃を撃退する力があります。イエス様が取り上げた御言葉は旧約聖書からですが、私たちの場合、新約聖書もあるので、私たちの最強の武器庫は一挙に拡大したわけです。ルターも、聖書の御言葉が悪魔の誘惑や攻撃に対する最上の武器であると述べていますので、それを引用して本説教の締めとしたいと思います。
「試練や誘惑など信仰を弱めようとするものに遭遇したら、どんな手段をもってそれらに対抗していったらよいのか?そういう時には、神の御心に反する考えを、全力を絞ってかなぐりすてることである。神の御心に反すると考えとは、神は私の罪を赦そうとなさらないのだろう、とか、神が私をこの困難から助け出さないのは、神が私に反感を抱いているからなのだろう、私を愛していないからなのだろう、終わりそうもないこの苦難がその証拠だ、罪の赦しの救いは私には関係なかったのだ、などという考えである。こうした考えをかなぐり捨てることが出来るためには、一生懸命に聖書の神の御言葉に耳を傾けかつ読み進めていかなければならない。ところが、もし君が神の御言葉に目をつむり、人間的な手助けや力に拠り頼んで自分を守ろうとするなら、君は悪魔という強力な霊を相手に無謀な戦いに丸裸で臨むことになろう。それゆえ、神の御心に反する考えをかなぐり捨てよ。そして、悪魔と議論しないように注意せよ。なぜなら、悪魔は場合によっては、純白の天使を装ったり、キリストの麗しい人格を身に纏って現れるかもしれないからだ。
神聖な聖書に何が書いてあるのか知っている悪魔は、キリストや信仰に反対するために、時としてキリストの美しい言葉を自ら用いるようなこともする。このように悪魔に泣き所を突かれた時、君は直ちに悪魔の攻撃に対して自分でどう対処したらよいかなどと考えを巡らすことを止めて、悪魔に次のように言うべきである。『私は、父なる神がお与えになり、私の罪のために死ぬ苦しみをお受けになったあの方以外にはキリストなる者は知らない。彼は私に怒りを抱いておらず、私に対して憐れみ深く恵み深いということを、私は知っている。もしそうでなければ、彼は私の身代わりとなって私のために死ぬ苦しみをお受けになることは決してなさらなかったであろう。』
もし、このような言い返しをもって悪魔に対抗することを怠ったり、また聖書を一生懸命読むことをしないならば、我々が敗者となって絶望に追い込まれるのは火を見るより明らかである。我々は、聖書の神の御言葉で自らを強化しない限り、悪魔の思い通りにさせてしまうことになってしまう。そうなれば、我々のか細い信仰の光はすぐかき消されてしまうであろう。」
四旬節第一主日の聖書日課 創世記2章15-17節、3章1-7節、ローマ3章21-31節、マタイによる福音書4章1-11節
今日の礼拝は、変容主日礼拝であります。
2月になってから、山上の説教の話が続いていました。
今日の聖書は、突然マタイ17章に飛びまして、主イエス様の御顔が全く変わってしまわれた、出来事であります。
1~2節を見ますと、「六日の後、イエスはペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。」
まずイエス様は、弟子たちの中でもペトロとヤコブとヨハネの、3名だけをつれて、高い山へと登られた。その高い山というのは、どこの山であったか。多分3000メートルのヘルモン山の、中腹での出来事であったろうと、いわれます。 ここで何が起こっているか、ということですが、ここには以前に「弟子たちはイエスの栄光を見るであろう」と約束された、その約束が確かなものとして証しされた、実証された、そういう出来事です。 もっと言いますと、宇宙的な深い見方から申しますと、ここで、天の世界との交わりが啓示された、ということ。 人間の目で見ることのできないような、驚くべき光景が展開されます。 天空の雷雲から一瞬、ピカピカピカと、稲妻の光が輝く、といった程度のものではありません。 外部からの別の光が必要ないほど、地上の自然のあらゆる光りをしのぐような、まばゆい光りの中に、主イエスは立たれた。しかも弟子たちは目の前で空高く、その御姿をあおぎ見たのであります。
今日、私たちの知っている、どんなものよりも高く上げられた、全く新しい形であらわされたのです。 次元のちがう只中に、弟子たちはその光景を見せられているのであります。
マタイ13章43節に約束されている、「彼らは、父の御国で太陽のように輝くであろう」という、その言葉どおりのことが、イエス様の上に起こったのであります。イエス様のこの変貌は、単にイエス様の人格が新しくなった、といったことに、とどまらない。 更に、ここにおいて、旧約聖書の時代にまで、時代がさかのぼって、神に仕えた預言者との、交わりが現れたのであります。
3節を見ますと、「見よ、モーセとエリヤが彼に現れて、イエスと語り合った。」 昔の預言者たちは、今、沈黙して現れたのではなく、主イエス様と生きた交わりを空中の中でもって、イエス様と語り合っているのです。
この光景を弟子たちは、どのように見たのでしょうか。弟子たちの時代よりも何百年よりもはるか、2000年以上も昔のシナイ山で、十戒をいただいたモーセがあらわれている、イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセ、旧約聖書の律法の代表者、と言ってもいいモーセであります。 又、イスラエルの民がメシヤ待望の中で、大預言者とあおいだエリヤも現れている。天の世界が、この世の弟子たちの目の前で、空中高く、交わりが展開されている。そこでは何が語られていたでありましょうか。 それは人間の、どんな知識や知恵でも考えられない光景であります。
考えてみますと、イスラエルの民は、エジプトの奴隷のような苦しみの中から救ってくれたモーセを、崇拝してきました。又、イスラエルの民は、預言者中の大預言者エリヤに、終末に再びあらわれるという、救いの約束を待望してきました。ところが、イエス様に対してイスラエルの民は、崇拝することもしない、待望もしない、イエス様を拒み、ついに十字架につけてしまった。その光景を見ようともしなかった。
それなのに、今、弟子たちが見ているのは、モーセとエリヤが、イエス様の前に語り、自分たちの主とあおいで、ひざまづいているのです。 モーセとエリヤは、イスラエルの民の期待からすれば、天国の基礎をつくるのに、あずかるべき代表者でありました、
旧約聖書のいちばん最後、マキラ書3章23節を見ますと、「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。預言者マキラの約束のゆえに、イスラエルの民がエリヤを待望したのです。 又、申命記18章15節を見ますと「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」とありまして、主はモーセを立てられたのでした。 そうして、この偉大な信仰に生きた2人は、その最後が秘儀に満ちています。
モーセはひとり山の上で、神のみそば近くに死んだ。 それで人々は、しばしば「神はモーセを天に取り去った。」と言った。 又エリヤはどうであったかといいますと、嵐の中に御使いによって、火の車に乗って天空高く引き上げられた。この2人の人生最後の姿は、なんという神秘に満ちたものではありませんか。 神秘に満ちて天に引き取られた2人、モーセとエリヤが空中で今、イエス様と出合っている、というのであります。
3人の弟子は喜びに満たされました。 ペテロは、イエス様がこのような光景に出会うことができたことを、どんなに感謝したでしょう。ペテロは何とか、この喜びを行動で示そうと思ったのでしょう。そして、熱心にイエス様の奉仕を、申し出たのでありました。
4節を見ますと「ペテロはイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ここで小屋を建てましょう、とペテロが言っています。 小屋というのは太陽の暑さや、夜露から守るための小屋でしょう。 ペテロはとっさに、この瞬間、この光景を、このままずっとありたいと願って、小屋を建てましょう、と言ってしまった。 せめて、今しばらくの間、すばらしい光景のままであってほしい、と願ってのことでしょう。
ペテロが語っているうちに、見よ!、そこに、光り輝く雲が彼らをおおった。 すると見よ!、雲から声があった。 「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け。」 弟子たちは、これを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
光り輝く雲が、イエス様とモーセとエリヤが語っている姿を、おおいかくしてしまった。「光り輝く雲」はかつて、モーセが荒野を通ってイスラエルの民を導いた時の、神のしるしでありました。(出エジプト記13章21節) 更に、神の御子イエス様に対する御父の愛を証しする声でありました。
イエス様がヨルダン川で、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時も、「これはわたしの、み心にかなう、愛する子である」という御声が、天からあった(マタイによる福音書3章17節)。 イエス様は、これから御自分の人生の方向を、十字架へと向けられる決心をされて、再び天からの御声を受けられた。 このことは、イエス様の心の内に、天の神の御心と一つにされた精霊が、ここに啓示されている。神の栄光がイエス様の体に、はっきりと現わされた。
空中での「イエスの変貌」の、この御姿は、まさに十字架の死からよみがえられた御姿を、あらかじめ、3人の弟子たちに示されている出来事であります。 弟子たちは、神の近さをこんなにまで感じた時、恐怖におそわれたのであります。イエス様が弟子たちに「立ち上がりなさい。恐れるな」と、立ち上がらせて下さるまで、顔を地面に伏してかくした。 今やイエス様は再び、僕の姿をとって弟子たちと共におられた。
こうして彼らは、いかに高く、イエス様が彼らの上にそびえ立っているか、ということを、心に深くふかく刻んで、経験したのでした。 主なるイエス様にとっては、神が近くにいますことは、平和の喜びであります。 そして弟子たちは、深い動揺なしには、それに耐えられなかったでしょう。
イエス様と弟子たちは、この山上での変貌という出来事を目撃して、いかに身近に神の栄光があるか、ということを経験したのであります。 天の神との確信をもって、いよいよ、主はエルサレムの十字架への道へと向かっていかれることになります。 この時まだ、弟子たちには、そのことのすべてを理解していたわけではありません。モーセとエリヤの中に立たされたイエス様、ゴルゴタの丘では2人の犯罪人の間に立って、罪のすべてを負って十字架の死をとげられる。そこには栄光のイエス様の姿は何一つないのであります。しかし、私たちは、よみがえられた栄光の中にあるイエス様を、しっかりと心に信じて、栄光の主といつも共にありたいものであります。 アーメン・ハレルヤ。
変容主日 2014年3月2(日)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
1.先々週、先週に引き続き、本日の福音書の箇所もイエス様の「山上の説教」のところです。「山上の説教」はマタイ福音書の5章から7章にかけて続く長い説教です。この説教が終わった時、聞いていた群衆は驚嘆したと書いてあります(28節)。なぜなら、天地創造の神の意思についてイエス様が教えた時、それは律法学者のように教えたのではなく、まさに神から権威を授かった者として教えたことが誰の目にも明らかだったからであります(29節)。本日も、そのような天の父なるみ神の権威に満ちたイエス様の教えに耳を傾けてまいりましょう。
本日の福音書の箇所は、山上の説教のほぼ真ん中にある6章の終わりの部分です。この6章というのは、人間が自分中心の考え方や生き方から離れて神中心の考え方、生き方を持てるようになるための教えが沢山あります。本日の副申書の箇所はその教えのそうまとめのようなところです。本日の箇所をよりよくわかるために、6章全体を足早にみてみましょう。
はじめに、1節から6節にかけて、慈善をするときとお祈りするときは、他人に見られないようにしなさいと教えます。少し飛んで16~18節では、断食するときにも他人に見られないようにしなさいと教えます。これらは、神の御心に適う行いであるが、もしそれらを他人に褒められたり、感心されたり、評価されるために行うのならば、それらはもはや神に栄光を帰するものではなくなって、人間が自分に栄光を帰する手段になってしまう。そういう人は他人に見てもらった段階で行いの報いを既に得ているわけであります。天にいます父なるみ神だけに見てもらえれば後は誰にも知られなくてもいいという人は、善い行いの報いを神からいただけるのです。
慈善とお祈りについて教えたところでイエス様は、お祈りの仕方についても教えます(7~13節)。これも人間が自分を中心にして行うお祈りでなく、神を中心にして行うものです。「神様、あれをして下さい、かなえて下さい、与えて下さい、そのためにあれをしますから、これをしますから」と長々とおねだりしたり、いろんな条件をつけたりするお祈りは、神を信じる者にふさわしくないと言う。そういうお祈りは、神に拠り頼んでいるように見えても、実は自分を中心にしている。そもそも天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた造り主である神は、祈る人が真に必要としているものを既にご存じである。だから、祈るのなら神を中心に据える祈りをしなさい、ということでイエス様は「主の祈り」を教えるのです。本日の礼拝でも後ほど、この祈りを一緒にいたしましょう。
祈りについて教えた後で、今度は、赦すことについての教えがあります(14~15節)。これは「主の祈り」の中にある一つの課題を少し詳しく教えるものです。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じる人は、まさに信じることで罪と不従順を神から赦されて、神との結びつきを回復した者となれた。そうして、この世の人生では神から守りと良い導きを絶えず順境の時も逆境の時も得られるようになる。万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主である神のもとにいることができるようになる。あなたが、このようなとてつもない大きな恩恵を神から受けているとわかったならば、他人があなたにした過失をも赦してあげることができなければならない、という教えです。これも、自分中心の考え方から離れて神中心の考え方を持って生きなさいという教えです
これらの教えの後で、19節から21節までの「地上に積む富、天に積む富」の教えがきます。人間が自分を中心にして積み重ねたものは、名声にせよ、金銭的なものにせよ、永遠に保たれることはない、遅かれ早かれ朽ち果ててしまうものだ。しかし、神を中心に据えて考えたり行ったりして積み重ねたものは、たとえ名声を博さなくても、金銭的にたいしたものでなくても、朽ちることなく、永遠の輝きを持つものである、と教えます。
それ続く22・23節に、「目は体のともし火」というたとえの教えが来ます。これはちょっとわかりにくいたとえかもしれません。「目が澄んでいる、濁っている」と言うと、何か視力の良し悪しを言っているように聞こえます。ギリシャ語のハプルースαπλουςという語が下地にありますが、「単純な、素直な」という意味があります。この意味をあてはめるとたとえがわかりにくくなるので、通常は目が「澄んでいる」とか目が「健康である」と訳されます。しかし、6章のはじめから続いている教え、「人間の自己中心の考え方、生き方から離れて神中心の考え方、生き方を持ちなさい」という教えからみると、「単純、素直」の意味でも問題ありません。つまり、「目が素直」というのは、目が単純かつ素直に神に向いているということで、神を中心に据えた考えがあり、生き方をしているということであります。それに反して、「目が濁っている、目が悪い」というのは、自己中心の考え、生き方をしているということであります。このたとえで大事なことは、目が単純かつ素直に神に向いているとき、その人の体全体が輝くということです。つまり、たとえ、病気を患っていても、貧しい境遇にあっても、神を中心に据えて考え生きる人は、その存在そのものが輝くということであります。これとは逆に、目が神に向いていず、自分にしか向いていなければ、どんなに健康でも、裕福な境遇にいても、その人の存在は暗闇同然ということなのであります。
以上、マタイ福音書の6章1節から23節まで、神を中心に据えた考え方や生き方についての教えが沢山つまっていることを見てきました。これらの後で、本日の箇所である24節から34節までが来るのです。先ほども申しましたように、それは、神中心の考え方や生き方の教えの総仕上げです。まず、24節に神と富の双方に仕えることはできないという教えがきます。その次の25節から32節までのところで、生活の必要物に心を奪われるなという教えが続きます。そして33・34節で、「まず、神の国と神の義を求めよ、そうすれば、天の父なるみ神は生活に必要なものも与えて下さる。明日や将来どうなるかは、その時になって神がどんな道を示して下さるのかがわかるから、今の時点では明日将来のことを思い悩む必要はない。今の時点では、この今の時点にある務めを一生懸命果たしなさい」という教えで終わりとなります。「神の国と神の義を求めれば、必要なものは全て与えられる」というのは、ちょっと信じがたいことです。誰もが必要なものを手に入れるためにあくせくしているのに、それが、神の国と神の義を求めれば、神から与えられるというのです。一体どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?以下、そのことを見てみましょう。
2.まず、24節で、イエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えられます。「仕える」というのは、ギリシャ語では「奴隷として仕える」という意味の単語です(δουλευειν)。奴隷というのは主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能なわけであります。イエス様は、人間の神ないし富に対する関係も同じだと教えるわけであります。つまり、どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になるのであります。
もちろん、人間が富の奴隷にではなく、主人になることもできます。そのことについて、ルターは次のように教えます。「もし人が財産の主人ならば、財産が人に仕えるのであり、人が財産に仕えることはない。どのようにして財産が人に仕えるかと言うと、例えば君が衣服の無い人を見つけたとする。すると君はお金にこう命ずる。『親愛なる金貨君、出発しなさい。あそこに衣服の無い貧しい裸の男がいる。行って彼に仕えなさい。』また次のようにも命ずる。『お前たち価値あるお金よ、あそこに、治療を受けられない病人がいる。彼のところに急行し、すぐ助けてあげなさい。』財産をこのように扱える者が、財産の主人なのである。」
しかし、もし財産や所有することが人を束縛してその虜にしてしまい、ルターの教えるように財産を扱えない人はもうその奴隷であり、もはや神に従属していないのであります。イエス様の意図ははっきりしています。神と富の双方に仕えることはできない、どっちか一方にしか仕えることができない以上は、あなたたちは、神に仕えなさい、神に仕えることで富の主人になりなさい、と教えるのです。そして、25節の「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか云々と思い悩むな」と続いて行きます。「だから、言っておく」というのは、ギリシャ語では「それゆえ(δια τουτο)、お前たちに言っておく」、つまり、「お前たちは富にではなく神に仕えなさい。それゆえ、お前たちは、神に仕える者である以上は、何を食べようか云々と思い悩んではならない」ということなのです。食べる物や着る物など生活の必要物は、もちろん、なくてはならないものです。しかし、それが心や頭を支配してはいけない、ということなのであります。天の父なるみ神こそはお前たちの造り主であり、お前たちが何を必要としているかご存知で、お前たちの生活の必要物を準備して下さる方である。なのに、自分の造り主を忘れる位に心と頭を必要物のことで一杯にしてはならない。また必要物のことを心配しすぎるあまり、神がそれを準備してくれることを忘れたり、疑ったりしてはならない、神を信頼しなければならない、というのがイエス様の教えの主旨です。
ここのイエス様の教えで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この有名な「空の鳥」「野の花」のたとえは誤解されることがあって、「空の鳥が種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもせず、それでいて神は養って下さる」と聞くと、人によっては、「ああ、働かなくても神様は養ってくれるのか」と理解する向きがあります。イエス様は、働く必要はないと教えてはいません。イエス様が教えていることは、「種まきもせず、刈り入れもせず、倉にも納めることもしない鳥たちを神は十分に養って下さるのだから、お前たちのように種まきをし、刈り入れをし、倉に納められている者たちは、もっと養って下さるのだ。だから、なおさら心配の必要はないのだ」ということです。同じように、「働きもせず、紡ぎもしない野の花を神はきれいに装って下さるのだから、働いて、紡いでいるお前たちは、もっと素晴らしく装って下さるのだ。だから思い悩む必要は何もないのだ」ということです。つまり、働くことが前提されているのです。
それでは、富に対しては主人として、神に対しては従属する者として生きる者は、あとは働きさえすれば、必要物は満たされてくるかというと、ここでイエス様はひとつ大事な事柄を付け加えます。神に仕える者には追い求めているものがある。それは生活の必要物ではないが、それを追い求めているからこそ、必要物があとから付いてくるものである。それでは、神に仕える者が追い求めるものは何かというと、それが「神の国と神の義」なのであります。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「加えて与えられる」というのは、ギリシャ語の動詞に忠実に訳せば「付け足される」とか「付け加えられる」です。「求めなさい」というのは、ギリシャ語のニュアンスで「求めることを常としなさい」、「求めることを常態としなさい」となります。1つまり、ここは、「富ではなく神に仕える者であるお前たちは、働きつつも、いつも神の国と神の義を求めていなさい。そうすれば、生活の必要物は神の国と神の義の付け足しのようについてくる。だから、必要物のことを心配する必要はない。神に仕える者とは、それくらいに神を信頼する者である。この間、お前たちの心と頭を支配するものは、神の国と神の義でなければならない。」これがイエス様の教えの主旨です。それでは、神に仕える者が心と頭を一杯にし、追い求めなければならない「神の国と神の義」とは何かを見てみましょう。
3.イエス様が活動を開始する直前、洗礼者ヨハネが現れて、「神の国が近づいた」と宣べ伝えました。そして実際に神の国は、イエス様と一体となって到来しました。神の国がイエス様と一体となってきたというのは、彼の行った無数の奇跡の業、難病や不治の病の人たちを完治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、嵐のような自然の猛威を静めたり、悪霊を追い出した等々の業にあらわれています。つまり、神の国とは、あらゆる邪悪なもの危険なものの力が及ばない国、神の意思と力で満たされた空間ないし領域です。今は私たちの目には見えませんが、将来今の世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、「ヘブライ人への手紙」12章26・28節に記されているように、全ての被造物が崩れ去って、唯一崩れ去らないものとして現れてくるものが神の国です。2000年前に神の国がイエス様と共に到来したというのは、人々に前もって神の国というものを少し身近に体験させる意味がありました。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。難病や不治の病を治してもらったり、悪霊を追い出してもらったり、自然の猛威から助けられても、助けられた人たちはまだ神の国の外側に留まりました。なぜなら、神の国に入れるためには、人間が神の目から見てふさわしい者になっていなければならない。神の意思を100%実現できる者でなければならない。つまり、神の義を体現していなければならないのです。そんなことは罪の汚れに満ち、神聖な神から切り離された人間には不可能です。
神は、この惨めな人間が神の国の中に入れるようにしました。どのようにしてかというと、まずひとり子のイエス様をこの世に送られた。そして、神への不従順と罪の汚れにまみれた人間が本来受けるべき裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせた。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪と不従順は赦すことにしたのであります。私たち人間は、これらのこと全てが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えられた罪の赦しの救いを受け取ることができるようになったのです。こうして、私たちはまだ罪の汚れを残しているにもかかわらず、イエス様を救い主と信じる信仰によって、神から罪の赦しを得て神の国に入ることが可能となったのです。神は、私たちの汚点には目を留めず、私たちが洗礼の時に被せられたイエス様の清さをみられるのです。このような仕方で、私たちは神の義を体現することができるようになったのです。こうして、私たちは今、イエス様を救い主と信じる信仰によって、今は目に見えない神の国の中にすでに迎え入れられ、神からの守りと良い導きを得ながらこの世の人生を歩み進んでいます。そして、今の世が終わる日には、神の国の一員であることが目に見える形で現れます。
以上から、「神の国と神の義を求める」というのは、実に、イエス様を救い主と信じる信仰に入って、その信仰にしっかり留まることであることが明らかになりました。「山上の説教」を最初に聞いた人たちは、「神の国と神の義を求める」ことが具体的に何をするのかわからず、途方にくれたでしょう。しかし、イエス様の十字架と復活の後は、何を意味するかがはっきりわかるようになったのであります。イエス様は、言うならば、御自分の死と復活を行うことを通して、「神の国と神の義を求める」ことが具体的に何をするのかを明らかにしたのであります。
私たち人間が神の義を得られて、神の国に迎え入れられるようにしようと、神がイエス様を犠牲にしてまで実現して下さった救い、私たちがこの救いを思い起こし、神から受けている恵みのあまりにも大きいことを思い知った時、それまで自分を押し潰すかのように圧倒していた心配事や思い悩みは急にしぼんで影が薄くなります。イエス様が「思い悩むな」と言うのは、無理して頑張って心配事を忘れろ、ということではありません。また、無関心を決め込むことでもありません。忘れようと頑張っても心配事は消えません。ただ、自分が神からどれだけの恵みを受けているかがわかった時に初めて、心配事は自分を圧倒する力を失い、冷静に向き合って取り組めるものに変わるのです。その時、神こそが本当に全身全霊をもって信頼するに値する方だとわかり、心配事を全て打ち明けて委ね、神からの解決と助けを安心して忍耐して待つことができるのです。逆に、救いを受け取っていない人は、自分を圧倒するような心配事にどう対処するのでしょうか?圧倒しようとする力はそのままで、それに向き合わなければなりません。それだからこそ、出来るだけ多くの人が、イエス・キリストの救いの福音を聞くことができるように、そして、その救いを受け入れることができるようにと願ってやみません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
1 動詞が現在形であることに注意
主日礼拝説教 顕現節第八主日2014年2月23日の聖書日課 イザヤ書49章13-18節、第一コリント4章1~13節、マタイ6章24~34節