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今日の礼拝では、パウロが書きましたコリントの信徒への手紙第Ⅱ、7章1~16節の御言葉から聞いていきたいと思います。
新約聖書の中には手紙が多くあります。
その中でもパウロの書いた手紙は13もあります。
手紙にも種類がありますが、ことに新約聖書で言えば、ローマ人への手紙のように、よく考えて計画を練った上で書いたものもあります。
しかし、もともと手紙は、どちらかと言えば思いにまかせて、その時の気分で
自由に書くことが多いのであります。
特に、コリント人への手紙のように、宛先の教会にも多くの問題があり、パウロとの間に、複雑なものがあったでしょう。その気持ちが、いきおい手紙にあらわれてくるのは、当然でありましょう。このコリント人への手紙第Ⅱは、その特徴が一番著しいものの一つであると言えます。
行きあたりばったりの、人間的な書き方の中に、神の言が啓示されるのであります。神の言も、人間の言葉と、離れて別に考えることはできません。
私たちが用いているこの言葉で、私たちの生活の真っ只中で書かれるのであります。
その言葉とその事実とが、信仰を証しするように、語られているのであります。
さて、7章の2節から見ますと、パウロは「私たちに心を開いて下さい」と言っています。それは6章11~12節から関係して書いています。
パウロは、何をしたいと願っているのでしょうか。福音の宣教者としての牧師と、教会の信徒との関係を考えているのです。それは、コリントの教会の中で問題になっていることが、いくつもあったからです。
その一つは、コリント人への手紙第1、3章3節~5節を見てもわかります。
「お互いの間に、ねたみや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、という事になりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなた方はただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か、パウロとは何ものか。この二人はあなた方を信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった、分に応じて仕えた者です」。ここで見られるように、教会の中で分派や党派が起こり、混乱しているのでした。
教会の特長は、みんなが親しい生活をしたいと思っていることです。
聖徒の交わりを、パウロは求めておるのです。
それでは、パウロはそれを、どのように求めているのでしょうか。
第Ⅱコリントへの手紙5章17~20節に書いています。
「キリストと結ばれる人は、だれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて、神から出ることであって、神はキリストを通して、私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を、わたしたちにお授けになりました。
19節、つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。
20節、ですから、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させて下さい」。
パウロはこのように訴えつづけたいのです。パウロは和解の伝道者でありたいのです。それが聖徒の交わりというものの基にあるのです。
聖徒の交わり、又、信仰者の交わりというのは、ただ人間がお互いに親しくなる、ということではありません。そんなことは出来ることでもありません。それは、人間には愛がないからです。
愛し合う、といっても、それが教会の中であっても難しいものです。
もし、それが出来る方法があるとすれば、それは、互いに赦し合うことが出来た時だけであります。赦す、というのは和解することであります。
私たちは、和解の福音をもって神と和解しなさい、と宣べるのであります。
信仰を持っているお互い同士が、その福音に基づいて和解するのです。別に喧嘩しているわけではありません。
しかし、愛がなくて人を赦すことが出来ないということが、既に和解が必要であるということではありませんか。
パウロは、コリントの教会の人に、心を広げてほしいと言っています。
心という字は、はらわた、という意味です。
そうすると、自分の一切をさらけ出すほどに、心を広げるのであります。
それはどうしたらできるのでしょうか。それは、赦し合うことであります。
他の人を赦し、自分も赦してもらう。
そう言う事が信仰者の交わりの基になっているのです。
大切なことは、自分が自分の隣人と、又自分と同じ信仰を持っている者と和解することであります。
もとより、それは、わざとらしい方法でするのではありません。
しかし、いつでも和解する用意があることです。
いつでも、人に赦してもらい、人を赦す用意があることです。そうすればその群れは、別に何もしなくても変わっていくのではないでしょうか。
もし、聖徒たちの群れがあるとすれば、そういうものであるはずであります。
パウロは7章2節に「私たちは、だれにも不義をしたことがなく、だれをも破滅におとしいれたことがなく、だれからも騙し取ったことがない」と言っています。ここに、敢えてこういうことを書いているということは、パウロに対する非難があったのかもしれません。
例えば、自分は金の問題でだれかを騙し取ったことはない、というのは、パウロが金のことで非難された、ということかもしれません。もちろんパウロはそんなことはなかった、といっているのです。
和解と言う時には、いつも和解を妨げるものを問題にしなければなりません。
お互いに非難し合っては、和解になりません。
和解のためには、お互いの間違いをはっきりさせる必要があります。悪口を言い合うことではありません。
しかし、自分の不充分なこと、罪などをよく知って、それの赦しを求めなければならないでしょう。それは、決して自分の罪を公に言うことではありません。
しかし、自分の罪を赦してもらいたいということがなければ、和解は有り得ないことでしょう。
次にパウロは、和解による生活の力をあげていきます。
それは慰めであります。
パウロは言っています。「あなた方を大いに信頼し、大いに誇っている」。これはどういう事でしょう。
コリントの教会は、教会内で争い合い、分裂し、ねたみや不道徳なことなど、多くの問題がありました。
コリント第1の手紙、1:11~12・17、22~24、2:1~5、3:3~5,5:1~2等に書いているとおりです。
そのような混乱と堕落におちいっているコリントの教会を、パウロは、どうして信頼することができたのでしょうか。
教会を誇る、とまで言わせたのは何があったのでしょうか。
彼がこの教会を誇ったのは、キリストにおいて誇ったのでありましょう。
パウロから言えば、それは嘘でも何でもないのです。
コリントの教会を、あるがままに誇り、信頼したのです。どうしてでしょう。
それは、彼がこの教会に対しても「和解の福音」を宣べたからであります。
神の和解を受けよ、と訴えたからであります。
その結果、この教会も、神の赦しを信じるようになったからであります。
神から罪を赦されたものは、罪の赦しを知らない者よりも、はるかに信頼できると思ったのではないでしょうか。
人間も、教会も、罪あるものであります。
弱さを持つ人であっても、又教会であっても、自分の弱さを悔いることを知っており、神によって救われていることを知っているとしたら、その方がはるかに信頼出来るでありましょう。コリントの教会は、そういう教会でありました。
パウロは、この教会を信頼しただけでなく、誇りとしたのです。
そこにパウロの慰めがありました。
慰めには、いつも悲しみが伴っています。不幸が伴っています。喜ぶことの難しい者が慰められるのであります。自分には何一つ不自由なものはない、不足するものはないと感じる者には、慰めはありません。
誰の生活にも悩みは満ちています。人に言えない苦しみ、悩みをもっています。
和解の福音は、どんな事情の中にあっても、神は私たちを赦し、救って下さる・・・と告げて止みません。そこに慰めがあります。
神と私たちの関係は、慰める者と慰められる者の関係であります。
パウロは生涯、この慰めを経験した人でありました。
しかしその慰めは、彼にはいつも、溢れるばかりでありました。
神の御業は、いつも圧倒的で、それを受ける者には溢れるばかりに与えられるのであります。
そして、溢れるばかりの喜びとなっていったのであります。
パウロは4節で書いています。
「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても、喜びに満ち溢れています」。 アーメン・ハレルヤ。
聖霊降臨後第八主日 2015年7月19(日) 聖書日課 コリントの信徒への手紙Ⅱ7章1節~16節