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本日の礼拝は吉村博明宣教師のフインランドへの一時帰国のために田中良浩牧師にご奉仕をお願いいたしました。
序 旧約聖書は、主イエス・キリストの「福音の源流」である。
「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。
主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば幸いを得る。 若い時に軛を負った人は、幸いを得る。」
<この主のみ心(神の意志)は私たちの生活に主イエスによって実現する>
この主題「慈しみ・憐れみ」は旧約聖書全体を貫く神のみ心である。
例を挙げれば:―
① 律法の書=出エジプト20:6
「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」
② 預言の書(1)=初期の預言者ホセア 2:21
「わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。」
特に、ホセアの場合、この慈しみと憐みを“愛(へセド)”という言葉で表現した。しかし神の民イスラエルはこの神の愛の真実を理解できず、
不信の民となった。それゆえこの愛は日本語で“悲愛”と訳されている。
預言の書(2)=イザヤ54:8~10
「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる。・・・
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、なたを憐れむ主は言われる。」
③ 聖文書の詩編に慈しみ、憐みは、実に多くの詩編にある。詩編86:15
「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみと
まことに満ちておられる。」
これらの慈しみ深い神、憐み深い神は、主イエス・キリストによって
私たちの生活に実現し、具体化するのである。
1
※ 今日の福音書には二つの物語(慈しみと憐みの現在化)が記されている。
―共通していることは、いずれも共感福音書にあること。
1ヤイロの娘の復活の物語
マルコ、(ルカ)は“ヤイロ”という名をあげている。名前は象徴的である。
ヤイロとは「神は輝かせられる!」の意味。(民数記32:41 マナセの子)
神はその愛する者に救いを与え、栄光を現される、のである
この物語でマルコはマタイやルカにない、信仰の応答の状況が記されている。
先ず、このヤイロは「イエスを見ると、ひれ伏した」と記されている。
いずれも重要な言葉である。
◎見ることとは、信じることである。(ヨハネ福音書も同様)。
英語でも、Seeing is believing! 日本語では「百聞一見にしかず」。
しかし、実際の意味は、ヨハネ1:29、36に明らかである。
洗礼者ヨハネはアンデレとペトロに叫んだ。
「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と。
この“見よ”の意味は、「イエスを信じよ、そして彼に従え」である。
◎ひれ伏すことは、実際に、祈りと礼拝である。(娘の癒しを願った)
主イエス・キリストのお姿もはっきりと描かれている。
◎そこで、「イエスはヤイロと一緒に出かけて行った」のである!
※ 物語はここで“中断する”。けれども“それで充分”である!
その会堂長ヤイロと主イエス・キリストの関係は明らかである。
2 12年間、出血に悩まされた婦人の癒しの物語
会堂長ヤイロの場合も「大勢の群衆が(イエスの)そばに集まって来た」と記されているが、それに続く物語にも、さらにその描写は強いものがある。
「そこでイエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。」そういう中で、出来事が起きたのである。
『主イエスが神の国活動をされる時には、いつも群衆が集まっていた。』
12年間、出血に悩まされていた婦人がいた。マルコは状況を明記している。
「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」と。絶望の状態であった。
続いて、この婦人の隠れた行為が記されている。
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この婦人は「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。―これがこの婦人の信仰である!
※ここで「触れる」ことの目的は、関係の深化である。触れなければ、関係は次第に希薄になって行く。マルコは繰り返し「イエスに触れる」という表現を記述している。(他にマルコ3:10、6:56、8:22)。
特に、マルコ6:55~56
「その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って
行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」
この長年、出血に悩まされ、絶望していた女は「イエスの服に触れた」のであ
るが、この個所のギリシャ語(ハプトウ)は、一般には、触れるである。
しかし同時に“しがみつく”(grasp)という意味も持っている。
私はこの婦人は群衆の中で「主イエスの服にしがみついた」と理解している。
主イエス・キリストは、この婦人を癒し、言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と。
この婦人は、平安と希望を与えられたのである。
3 この婦人の癒しの最中、会堂長ヤイロの家から「娘が亡くなった」との
知らせが来た。しかし主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と
言われた。そしてペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に家に入り、子供の手を取って
「タリタ・クム」(少女よ、起きなさい)と言われ、少女を起こされた。
※主イエスの死の理解:「死んだのではない。眠っているのだ。」
これは“永眠”でない。神の国で主イエス・キリストともに眠る。→復活。
※「主イエスはこのことを誰にも知らせるな」(厳命)=“メシアの秘密”
主イエスは繰り返し:出来事(尊厳と権威)を知らせるなとは何故か?
ルターの「隠された神」=マタイ6:4、6、18-神の愛に理解の真髄がある。
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初代教会の教父アウグスチヌスは「信仰はイエスに触れることである」と言う。
主イエス・キリストこそ病と死を命に導くお方である!
絶望的な状況の中にあって、主イエスを信じることこそ肝心なことである!
主イエスは、生と死の権威を持つお方である。全面的にお任せして生きよう!
4 ホスピスでの体験:
◎ピースハウスから、ブース病院(ホスピス)での奉仕をしている。
ブース病院のパンフレットを送付した。救世軍(キリスト教)の施設。
今でも週に3回(現在は月、火、木)。
礼拝、患者さんやそのご家族とお会いしている。
ごく最近、「悪いことをしていないのに、何故こんな病気に・・・・」。
その方は、非常に失望して、周囲に痛みを訴え、不満を漏らしていた。
けれどもこのがは、自宅に聖書をもっていらっしゃることを聞いたので
マタイ6:25~34を共に読み平安をお祈りすると穏やかな表情が戻った。
傾聴と同時に、必要とされる人々に福音を伝えている。
聖霊降臨後第9主日礼拝 2015年7月26(日) 聖書日課 哀歌3:22~33、Ⅱコリント8:1~15、マルコ 5:21~43