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今日は、コリント人への第二の手紙12章1~10のみことばから聞いていきたいと思います。
パウロは、自分が伝道したコリントの教会の中に、いろんな、多くの問題が起こっているのを知って、この第二の手紙を書いています。
そしてパウロは、神の和解を受けなさいと強く命じ、困難な問題の中にあるコリントの教会を、「私は誇りにしている」と述べたのでありました。
今日の12章からも、パウロが誇りとしていることを、更に深く展開していきます。1節を見ますと、「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せて下さった事と、啓示して下さった事について語りましょう」とあります。パウロは、誇っても何の益にもならないと思うだろうが、どうしても誇らずにいられない、と言うのです。
実は11章からも誇りたいことをいっぱい言ってきました。
又、突然に何ですか、と言いたい思いです。
それで11章16節から見てみますと、パウロは「私を愚か者あつかいにされてもいいから、私にも少し誇らせてほしい」と言って、誇るのをためらいながら、少しずつ自分のことを誇りに語ってきて、最後には「もし、誇らねばならないなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」と言いました。
それで17節から29節にわたって、ここにパウロの伝道の苦難の数々を、命がけで激しく戦ってきた生涯を記しています。
「わたしが、これから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると、確信して話すのです。多くの者が、肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」。
実際に、コリントの教会の人々も迫害にあっている。誰もが奴隷にされたり、食い物にされたりしたローマ帝国の権力のもとで、又ユダヤ教等からも不当にふみにじられてきたでしょう。
横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても我慢しています。
・・・彼らはヘブライ人ということで、あんなに強い態度になるのか、私だってヘブライ人だ。イスラエル人ということで高慢になっているのか、わたしもイスラエル人である。エルサレム最高議会の最高の地にあった議員であった。
アブラハムの子孫というだけでユダヤ教徒なのか、わたしもそうである。
キリストに仕える者ときくのか、わたしは気が変になったように言うが、わたしは彼ら以上にそうなのだ。
今や、パウロはキリスト者となって、ダマスコ途上での回心の出来事を身に受けて、キリストの福音、気が狂ったようになって伝道しているのです。
この伝道していく中で、誰よりも苦労多く、投獄された事もずっと多く、鞭打たれたことは比較できない程多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
ユダヤ人から、40に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたこと、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともあった。
しばしば旅を、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難、苦労し骨折って、しばしば眠らずにすごし、飢え、渇き、しばしば食べずにおり、寒さにこごえ、裸でいたこともあった。
この他にも、まだまだ沢山あった。と延々とパウロの伝道の生涯は、苦難の連続であったことを述べて、30節に「神のみ前で告白するなら、誇る必要があるのなら『わたしの弱さ』を誇ろう」と言って、そうして今度は12章に突然、ここに主がパウロにお見せ下さった、とてもとても、言葉では言いあらわせない幻と、主が啓示して下さったことについて誇ろう、と言い出すのです。
これまで、肉に従って言うならと、苦難の数々をえんえんと誇った上で、そうしたレベルの低い、足もとにも及ばない、霊の世界の高いレベルの、崇高な出来事に遭った。神の栄光の中で直接神から啓示を受けた、このことを誇らずにおられない。
ペテロやヤコブと言った12弟子の使徒たちに比べて、自分は「信仰について」何が言えるか、ということであります。
「パウロの誇り」とするものの、宝とするものがここにあります。だから今は無駄であっても、誇らざるを得ないというのです。
自分の受けた苦難の話しであるなら、黙っていてものだが、ここに語り出すことは沈黙するわけにはいかない、と言いたいのであります。
なぜなら、それは神が自分にお与え下さったことで、神が積極的にして下さることに対しては、自分も積極的にならないわけにはいかないでしょう、と言いたいのであります。そこで主の幻と啓示について語る、と申します。
この「語る」という字ですが、これは、ただ話をしている、というようなものではないのです。
自分が、その幻を見た時、その啓示を受けた時、自分はどんなにそれに打たれたことか。自分はその中に、没入してしまうような思いであったのであります。
今、それを語る時には、その思いを再現するような気持ちに、ならざるを得ないのです。
神からの幻を見、神の啓示、それは格別神秘的な神から、明らかに示されることです。これは、そう軽々しいことではありません。パウロにとって、どんなに大切なことであったかが、書き方からわかります。
ある人がパウロのことについて本を書きました。その本の題名は「キリストにある人」という本です。つまり「キリストにあるひとりの人」という意味です。
そうすると、このように、キリストにあるひとりの人、というのは、パウロのことにちがいありません。
しかし、このコリントの手紙では、彼はここに来てもな、お自分のことをはっきりと、言おうとしないのであります。
パウロは、「キリストにある」という喜びを、手紙のあちこちで沢山用いています。彼にとっては、キリストにあることが、すべてでありました。
信仰生活をするというのは、キリストのうちにあるということです。
キリストの、御支配の中に生きることであります。
いつでもキリストの影響を受け、キリストの命に生かされる生活をすることであります。
パウロの見た幻と啓示について、2節から4節に記しています。
その人が、第三の天にまで上げられた、というのです。
第三の天といのは、いろいろ説明もありますが、ともかく最も高い所ということでしょう。
パウロは、自分が人の行き得る最も高いところにまで、引き上げられる経験をした、ということでしょう。
しかもパウロは、その事について「からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、だれも知らない。神が御存知である」ということを、二度も繰り返しいっています。
これは、彼の経験がどんなに特別なことであったかを、示しています。
彼はパラダイスにまで引き上げられた、というのです。
パラダイスは、第三の天とはちがいます。しかし、神の特別な交わり、ということでは同じでしょう。
彼は、人間が口にするのも畏れ多い言葉を聞いたのでありました。つまり、神の御言葉を直接に聞いたことになりましょう。
これは、彼に与えられた恵みであります。又、そのように人にはそれぞれに、神様から与えられる恵み、というものがあるということです。
まぼろしも啓示も、実はただ、神がお与え下さったものでしかなかった。パウロは、ただ、それを受けただけであります。
本来、信仰というものも、そうであります。信仰も信仰の業も、ただ神がお与えになったものであります。
それを受ける者には、ただ一つだけ条件があります。それは、自分はその恵みに価しない、ということであります。
恵みを受け取ることのできる人が、ただ一つ誇り得ることは、自分の貧しさ、自分のいたらなさ、すなわち自分の弱さであります。
パウロはそれを言いたかったのであります。
7節以下を見ますと、パウロの天上での特別の経験のことで、パウロをとりまく問題が起こったり、おごり高ぶったりしないように、パウロの身に一つのとげが与えられました。
そのとげは神様からではない、サタンから送られた天使が、パウロを痛めつけるのでした。苦痛の問題は、人間の永遠の謎であります。
パウロは三度も神様にお願いしました。
9節以下にありますように、「すると神様の答えは『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」。
何んという神さまの言葉でしょうか。
その苦痛で神様をうらむことではなく、信仰を持って受けることでありましょう。だから、キリストの力がわたしの内に宿って下さるように、自分の弱さを誇ろう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのためにご満足しています。
なぜなら、わたしは弱い時にこそ、強いからです。 アーメン・ハレルヤ
聖霊降臨後第10主日 2015年8(日)