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※ 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安が皆様の上に豊かにありますように!
※ 今日の礼拝の讃美唱は、詩編23編(特に1節~4節前半)です。それは今日の日課の主題にふさわしいのでお読みいたしましょう。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く時も、わたしは災いを恐れない。・・・・・
序 今日の旧約聖書の日課は、預言者エレミヤ(紀元前7世紀)の言葉です。
この時代はイスラエル(神の民)は腐敗、混乱していました。(5章)。
「恐ろしいこと、おぞましいことが、この国に起こっている。預言者は偽りの預言をし、祭司はその手に富をかき集め、わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」(30~31)(霊的指導者の腐敗)。
祭司も預言者たちは「平和がないのに、平和、平和という」(6:13~14)。と記されています。
ですからこの時代神の民イスラエルは絶望的な状態にありました。しかし、ここでエレミヤは希望の預言「ユダ(神の国)回復の預言」を語ります。
「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。」と。まさに預言者イザヤ(11章参照)による「キリスト(救い主)到来の預言」であります。
1 さて今日の福音は『5千人に食べ物を与える』という奇跡物語です。
先ず状況としては、弟子たちが帰って来ての報告し、主は休養するように
お命じになりました(6:30~32)、それにも拘らず群衆は、先回りして大挙して集って来ました。そしてイエスはさらに教えを継続されたのです。(6:33~34)。宣教の主の実際のお姿がここに描かれています!
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使徒パウロも「時が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい」(Ⅱテモテ4:2)と教えていますが、主自ら先行して実践されています。決して自らの状況によらないのです!
2 注目すべきことは、集まっている群衆に対する食べ物について、弟子たちの思いと主イエスの配慮(6:35~38)の違いが描かれていることです。
弟子たちは「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。」のです。
◎本質的に「食べることは生きること」であります。
弟子たちは、それは人間各個人のものと考えた。けれども主イエスは
「(弟子たちに)あなたがたが与えなさい」とお命じになりました。
この集う人々が食べ物を得て、生きることの責任を、主は弟子たちに持つように言われたのであります。それは如何に困難なことでしょうか!
<人は食物を摂ることができなくなると、人生は終わりになります。>
<人の思いと神の思いは、天地ほど違う。(イザヤ55:8~9)>
3 主イエスの奇跡的な給食(6:39~44)
※主イエスは「パンはいくつあるか?」とお尋ねになった。四つ福音書では、それぞれ以下のように異なる状況が記されています。
マルコ「(パンは)五つあります、それに魚が二匹です。」(6:38)
マタイ「パン五つと魚二匹しかありません」(14:17)
ルカ マタイと同じ表現です。
ヨハネ「大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(6:9)。
※さてこの後の出来事の推移が次のように記されています。
「主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そしてパンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 パンを食べた人は男が五千人であった。」(マルコ6:39~44)。
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◎五つのパンと二匹の魚が主イエスの「讃美と祈り」という祝福によって豊かな、“無限の食物”(皆が満腹するまで)へと変えられました。
◎パンと残りの魚は12(部族数)の籠にいっぱいになるほどでありました。
実に「神の恵みは無限」であることを意味しています!
4 さて、この給食は一体何を意味しているでしょうか?
① それは「少年のように僅かな物でもささげること。(ヨハネ福音書6章)」の重要性でしょう。人の目には取るに足りない物に見えます!しかし主はささげられたものを限りなく大きくされるのです!
その信仰的な極致は、「やもめのささげもの」にも語られています。聖書
(マルコ12:44~44)を参照してください。大勢の人は多くの献金
を献げていました。けれども「やもめの献げた献金」は僅かレプトン銅貨2枚(デナリの64分の一)。それは今のお金でデナリを1万円とする場合、そのレプトン銅貨二枚は156 円であります!
そのやもめの献金を、主イエスは「誰よりもたくさん」ささげた、とおっしゃっているのです。神さまにささげることの重要性がここにあります。
② 続いてここでは「分かち合うことの大切さ」を学ぶことができるでしょう。
男の人だけで5千人、女性も子供も加えると7、8千人から1万人にもなったであろう群衆が、主イエスの祝福してお与えくださったパンと魚を奪いあうことをせず、互いに分かちあったのです。
世界には未だに食糧の欠乏している場所があります。貧しい物でも互いに分かち合うことは大切です。持っている者と持っていない者の<いわゆる貧富の格差>は、現在でも目に見る形で増大しています。衣食住の問題は、現代社会の絶えざる現実的な課題です。如何に和解と一致、また平和が説かれても、もしそこに衣食住の歴然とした差別が残るならば、その意図は決して満たされないでしょう。私たちの社会、世界は、共に生きる社会であり、共に生きる世界なのですから。
③ この点について、根源的に言えば、「主イエス・キリストが必要なものはすべてを与えてくださる!」ということです。
「先ず、神の国と神の義を求めよ。そうすれば(あなたがたに必要なものは)すべて(祝福に)加えて(添えて)与えられるであろう(マタイ6:33)。という、神さまの恵みに対する私たちの素朴な信仰です。
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④ このパンと魚の奇跡物語は、究極的に「主イエス・キリストの自己投与」を表わしています。ヨハネ6:33によれば、この物語の中で主は「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と語られています。これは具体的に、主イエス・キリストの十字架の上でご自身のお体をさかれ、血を流された出来事(主イエスの自己投与)を表わしています。ですからこの物語は「聖餐」を意味するものとして理解できるでしょう。こうして私たちは、十字架において具現化された主イエスの「自己投与―聖餐―」を感謝と喜びをもってうけるのです。ですから初代教会から聖餐は、「ユーカリスト」(感謝の祭儀)と呼ばれて来ました。
また私たちは聖餐は「個人の救いの原点」である同時に、「共同体の祝宴」でもあることを覚えたいと思います。
「主にあって共に生きる」ための根源的な視点がここにある。また初代教会では礼拝の行われる時にアガペー・ミール(愛餐)があり、共同体の会食と同時に貧しい人々と分かち合う食事の集いがもたれていたことを忘れてはなりません。
※ 最後に、私が今チャプレンとして働いているブース記念病院のことをお話ししましょう。ここの食堂の名称は『五つのパンと二匹の魚』です。
そして食堂は患者さん、職員のみならず、近隣の人々にも開かれています。先週私が他のスタッフと一緒に食事をしていると、一人のアメリカの婦人が入ってきて、一人で食事を始めました。とうとう食事の終りまで、誰も声をかけなかったので、私は声をかけました。すると、その方は喜んで英語で話だしました。日本にはもう35、6年もいること、日本人のご主人のことアメリカやタイにいる娘さんたちのこと等を尽きることなく話してくれました。そしてご主人も家族も皆、クリスチャンだけれども、今は教会に行っていないと言いました。そして時々一人ぼっちで、淋しさを感じることがあると話してくれました。最後に私は自分の名刺を渡して、同時に彼女の名前を住所をいただきました。そして教会の礼拝にお誘いしたのです。・・・・・
彼女やご家族が、再び主イエス・キリストの恵みと祝福に与ることが出来れば幸いだと、私は祈りつつ、願っています。
(後日談:彼女は先週の礼拝に出席したと連絡を受けました。感謝!)
聖霊降臨後第12主日礼拝 2015年8月16日
聖書日課 エレミヤ23:1~6、エフェソ 2:11~22、マルコ6:30~44