説教「神が子供を抱きしめた瞬間」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書9章30-37節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 先週の説教で、マルコ8章27-38節はマルコ福音書全体の中で大きな転換点をなしているということを申し上げました。それまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動をしていましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで先週の箇所の出来事があり、イエス様は初めて弟子たちに自分の受難と死からの復活について弟子たちに預言しました。9章に入って「高い山」、ヘルモン山と推定される山に登って自分の姿が変わるところを弟子たちに目撃させる出来事があります。それから後はただただエルサレムに向かって南下していきます。

本日の箇所でイエス様と弟子たちは、まずガリラヤ地方に戻ってきます。少し奇妙なことにイエス様は自分がガリラヤ地方に入ったことを人に知られたくなかった(30節)とあります。なぜでしょうか?これは、先週申し上げたことを思い出すとよいと思います。先週の箇所で、イエス様は弟子たちに自分がメシアであることを人々に言い広めてはいけないと命じたことがありました。その理由として、メシア、すなわち頭に油を注がれて神の目的のために聖別された者ですが、そのメシア理解についてイエス様が自分のことを考えていた内容と人々の理解の間に大きな相違がありました。イエス様にとってメシアというのは、人間と神との間の壊れた関係を修復して人間が神との結びつきを持って今の世と次の世を両方生きられるようにする、そういうことを実現する者で、まさに人間の救い主、救世主でした。ところが当時の人々は、メシアと聞けば、ダビデ王朝の家系に属する者がユダヤ民族を他民族支配から解放して王の位について諸国に号令をかけるという民族解放者をイメージしていました。このような理解が持たれたのは、旧約聖書にそう理解できる預言があちこちにあったからですが、天と地と人間を造られた神の意図はそんな一民族の解放にはありませんでした。しかし、特定の歴史状況の中で生きてその中で抱かれてきた夢や願望を皆が共有していると、旧約聖書にある神の意図を本来の広さ深さで理解することはなかなか難しいことでした。これは、きわめて人間的なことであります。メシアが神の意図に沿って正しく理解されるようになるためには、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を待たなければなりませんでした。

そういう時勢でしたから、もしイエス様がメシアであると言い広められたらどうなるか?ユダヤ民族の多くは自分たちの解放者がついにやって来た、と大喜びですが、当時ユダヤ民族を実効支配していたローマ帝国やそれに取り入る傀儡政権の指導層は絶対反対だったでしょう。ローマ帝国は反乱に神経をとがらせていたので、もし鎮圧部隊出動ということにでもなれば、イエス様のエルサレム入城予定に支障をきたしたでしょう。イエス様にしてみれば、全ての出来事が福音書に記されているように起きるためには、今のところは自分がメシアであると言い広められない方が目的に適ったのであります。

 

2.

 さてイエス様一行は、懐かしのカペルナウムに到着しました。ガリラヤ湖沿岸の町です。かつてユダヤ地方で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、まっさきに乗り込んできて活動を開始したところです。漁師の兄弟ペトロとアンデレまたヤコブとヨハネをはじめとする12弟子を選んだところです。33節で、一行がカペルナウムのある家に入ったことが言われていますが、カペルナウムの家と言えば、マルコ1章でイエス様がペトロとアンデレの家に入って、ペトロの病気の姑を癒したことが記されています。その後で町中の人が病人を連れて来ました。2章ではある家で全身麻痺状態の人を罪の赦しとセットで癒す奇跡を行っていますが、これがペトロの家か別の家かは定かではありません。またイエス様の弟子となった徴税人レビが自分の家にイエス様一行とともに大勢の罪びとを一緒に食事に招いたこともあります。本日の箇所のカペルナウムの家はこれらのどれか、また別の家か定かではないですが、出来るだけ人に知られないように行動しようとするなら、前行った家の可能性が高いのではないかと思われます。

ところで、一行がガリラヤ地方に入って、まだカペルナウムに到着する前のことでした。イエス様は再び自分の受難と死からの復活について預言します。最初の預言の時には驚いたペトロが、そんなことはあってはならないと預言を否定して、イエス様から、お前は人間の栄光ばかり考えて神の計画を無にしようとしている、悪魔同然だと叱責されてしまいます。ペトロのメシア理解が民族解放の英雄であったことを露呈したのであります。二度目の預言の時も、弟子たちはまだ預言の意味を理解できず、反論すると厳しい叱責が待っているので怖くて何も聞くことができません。メシアの正しい意味を理解できるためには、本当に十字架と復活の出来事が起きないと無理なのであります。

この時、弟子たちの間にイエス様に従っていくことは一体何なのだろうという疑問が起きたと考えられます。この方は、エルサレムに入城した後は神の大いなる業を呼び起こして、天から降ってくる天使の軍勢の力を持って占領者と傀儡政権を打ち倒し、ユダヤ民族を解放して真の王として君臨して諸国に号令をかける、そういう方だと信じて、我々はついてきたのではなかったか?それなのに、自分は殺されてしまうなどと言われる。しかも、3日後に死から復活するなどとも。それではユダヤ民族の解放はどうなってしまうのか?直近の弟子としてついて来ている我々の立場はどうなってしまうのか?殺されてしまうと言うのは、あまりにもあっけない結末ではないか?しかし、死から復活するというのは一体何なのだ?死から復活した者として新たに指導を開始し民族解放運動が新局面に入るということなのか?こういうふうに、弟子たちのそれまで抱いていた民族解放や解放の英雄のイメージが壊されて、新しいイメージが描ききれないという状況があったと思われます。このイエス様の再度の預言の後で弟子たちは、「誰が最も偉大な者か」ということについて議論し合い始めますが、恐らくメシア・イメージが混乱したことが原因にあったと考えられます。

 

3.

 さて、カペルナウムの家に入られたイエス様は弟子たちに道中何を話し合っていたのかと聞きました。弟子たちは答えませんでしたが、イエス様は全てをお見通しでした。そこでイエス様は、最も偉大な者について、どういう者が神の御心に適う最も偉大な者かについて教えます。人間の目から見たのではなく、神の目から見て最も偉大な者ということです。イエス様の教えは35節から37節のたった3節に凝縮されています。イエス様は、まず言葉で教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(35節)」。

これは、まさにイエス様が行ったことでした。イエス様は神のひとり子であり天の御国にて神の栄光に包まれていれば良い方でした。それが、神に対する不従順と罪のゆえに神との結びつきが失われてしまった人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしようと、神はひとり子イエス様をこの世に送られました。人間の心と魂と体を持つ者として、人間の悩みと苦しみがわかり、最後は罪と不従順がもたらす神の罰を全ての人間の身代わりとなって十字架の上で受けて死なれました。人間は、この神のひとり子の犠牲の身代わりが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じて神から罪の赦しを受けられ、神との結びつきが回復するのです。

それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を今度は死から復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。神との結びつきを持って生きる者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになってもその時は自分の本当の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのであります。私たち人間にこのような計り知れない救いをもたらすために、イエス様は神の栄光に満ちたひとり子でありながら、私たちと同じ人間の姿かたちをとってこの世に送られて十字架の死を受け入れたのです。まさに、全ての人の後になって全ての人に仕えて、いちばん先の者になったのです。イエス様の十字架と復活の出来事の後でメシアの本当の意味がわかった人たちが、まさにこのことを次のように手短く言い表しました。使徒パウロがそれを「フィリピの信徒への手紙」2章の中で引用しています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです(6-11節)」。

 このようにイエス様は、もともといちばん先の者だったのが全ての人の後になって全ての人に仕えて、再びいちばん先の者となられました。イエス様は弟子たちに、いちばん先になりたかったら、全ての人の後になって全ての人に仕えなさい、後になろうともせず仕えようともしない者は本当にいちばん先にはなれない、と教えられます。これは、どういうことなのでしょうか?もちろんこれは、弟子たちも犠牲の生け贄となって十字架にかかって、人間が神から罪の赦しを受けられるようにしなさい、ということではありません。罪の赦しの救いと神との結びつきの回復をもたらす犠牲は神のひとり子が全て行いました。私たち人間が神のひとり子と同じくらい神聖な生け贄になれるわけがありません。神が受け入れられるくらいに神聖な生け贄は神のひとり子しかいないのです。神は自分のひとり子を犠牲にしてもいいと思うくらいに、私たち人間が救われることを重視したのです。そういうわけで、罪から贖われる犠牲はイエス様の十字架一回限りで、それ以上はいらないということになります。そうすると、「すべての人の後となり、すべての人に仕える」というのはどういうことなのでしょうか?

 

4.

 それについてイエス様は、言葉と行為をもって教えます。まず、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(36節)。ここはとても劇的な場面ですので、一字一句みて、どれだけ劇的なことかを再現してみたく思います。

イエス様一行は、カペルナウムのある家の中に入られました。その中のある部屋にイエス様と12弟子が一緒に入りました。皆が座っています。子供を真ん中に立たせたということは、真ん中が空くように座ったということなので、車座のような座り方だったのでしょう。最も偉大な者は誰かという弟子たちの議論に対する答えとして、イエス様はまず、全ての人の後になれ、全ての人に仕える者となれと教え、その後で、子供の手を取って真ん中に立たせました。ギリシャ語原文には「手を取る」とまでは書いてありませんが、座っていたイエス様が立ち上がって、別の部屋か一番近くにいた子供を弟子たちがぐるりと見ている真ん中まで自分で連れて行ったのであります。

次にイエス様がしたこと。私たちの新共同訳では「抱き上げて」とありますが、ギリシャ語の動詞(εναγκαλισαμενος)は、少し厄介な言葉です。動詞の成り立ちは、「曲げた腕(αγκαλη)の中に入れる(εναγκαλιζομαι)」という意味ですので、そのままでいけば「抱きしめる」の意味です。必ずしも「抱き上げる」とか「抱っこする」ではありません。どっちでもいいではないかと思われるかもしれませんが、使われている言葉や動詞の形から可能な限り正確な情景描写を試みたいと思います。問題のギリシャ語を英語の聖書(NIV)はどう訳しているかと言うと、「抱き上げた」とも「抱きしめた」とも取れます(taking him in his arms, もしtaking him up in his armsならば明らかに「抱き上げた」でしょう)。ドイツ語の聖書でルター訳ですが、「抱きしめた」(herzen)です。ところが、Einheitsübersetsung訳をみると「抱き上げた」の意味が強く出ます(nahm es in seine Arme, もしnahm es auf seine Armeなら完全に「抱き上げた」でしょうか?)。フィンランド語訳では、「抱きしめた」とでも「抱き上げた」とでもとれます。スウェーデン語訳ははっきり「腕を回して抱いた」ですので、「抱きしめた」です。

イエス様は子供を抱っこしたのか、または立たせたまま自ら屈んで抱いたのか、どっちか決めかねるのですが、36節に出てくるギリシャ語の動詞の用法をよく見ると、イエス様が子供を真ん中に立たせたと言うところの「立たせた」が他の動詞よりも重く感じられます(すぐに後に来る「言った」を除いて)。それにこだわると、子供は立ったままということで、イエス様が屈むようにして腕を回して抱いたということになります。もちろん、子供を真ん中に立たせた後すかさず、よっこらしょっと、と抱っこした可能性も否定できません。ここから先は個人的な見解になってしまいますが、子供を抱っこするというのはよくあることなので、立たせたまま屈んで抱いた方がとても劇的な感じがします。皆様はどう思われるでしょうか?

いずれにしてもイエス様は、全ての人の後になって仕えるということを教えるために、弟子たちみんなが見ている前に子供を連れて抱っこするなり抱きしめるなりしました。そして行為を言葉に言い換えて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。イエス様を受け入れ、またイエス様をこの世に送られた神を受け入れるということは、これはイエス様を救い主と信じ、神をイエス様の父として信じることです。まさにキリスト信仰そのものです。子供を受け入れることがキリスト信仰を証しするような、そんな子供の受け入れ方をしなさい、それが全ての人の後になって仕えることになる、と言うのであります。これはいったいどういうことでしょうか?

子供を受け入れることがキリスト信仰を証するような、そんな子供の受け入れ方とは、どんな受け入れ方なのでしょうか?ここでカギになってくるのが、子供を受け入れる時、「私の名のために」と言っていることです。イエス様の名のために子供を受け入れる。それでは「イエス様の名のために」とはどんなことなのか?これもギリシャ語の厄介な表現がもとになります(επι τω ονοματι μου)。先ほどみた英語、ルター・ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳の聖書ではどれも、「私の名において」です(in my name, in meinen Namen, minun nimessäni, i mitte namn, ただし、Einheitsübersetzung訳では「私のためにum meinetwillen」)。イエス様の名において子供を受け入れる、これもわかりそうでわかりにくい表現です。それでは、イエス様の名前と子供の受け入れはどう関係するのでしょうか?

ギリシャ語の表現のもともとの意味は、「イエス様の名に基づいて」とか「依り頼んで」という意味です。そうは言っても、それが子供の受け入れをどう規定するかはわかりにくいです。一つはっきりしていることがあります。それは、子供を受け入れる際に依拠するのがイエス様の名前であって、他の何者の名前にも拠らないということです。子供を受け入れる時、引き合いに出すのは例えば誰か過去の偉人が慈善を沢山行ったから自分もそれに倣ってそうする、ということではないし、また他ならぬ自分が善意を持って慈善を行うという自分自身に依拠することでもない。ましてやいろんな宗教の神々や霊の名を引き合いに出すことなどしない。ただただイエス様の名前だけを引き合いに出してそれに依拠して、子供を受け入れるということです。

それでは、その唯一の名前の持ち主であるイエス様というのはどんな方でしたか?イエス様とは、十字架上の犠牲の死を遂げることで人間を罪の支配力から贖い出した方、そして死から復活させられたことで人間に永遠の命の扉を開かれた方です。このように人間の救いを実現して下さった方なので、その名前は先ほどの「フィリピの信徒への手紙」の引用にも謳われていたように、あらゆる名にまさる名であり、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてがひざまずく名なのです。そのような名を引き合いに出して子供を受け入れるというのは、受け入れられる子供も、受け入れをする大人と同じように、イエス様が実現した罪の赦しの救いを受けられるようにすることです。そして大人と同じように永遠の命に至る道を歩めるようにすること、つまり大人と同じように神の御国の一員に受け入れ一員として扱い、かつ一員でいられるように育てたり支えたりすることです。たとえ子供であっても大人同様に、イエス様が実現した罪の赦しの救いは提供されている、また永遠の命に至る道は開かれている、ということをしっかり認めて、子供もそれを受け取ることができるようにしてあげる、その道を歩むことができるようにしてあげる。このように考えれば、イエス様の名のために、とか、イエス様の名において、とか、その名に依拠して、とか言って、子供を受け入れるとはどういうことかおわかりになるのではと思います。こういう子供の受け入れ方をした時、ああこの人はイエス様を受け入れている、イエス様を送られた父なるみ神を受け入れているということがわかるのです。そのようにして子供を受け入れ導いた時、その子供はイエス様に抱っこされたか、または抱きしめられたことになるのです。

ところで、兄弟姉妹の皆さん、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いと永遠の命に至る道というものは、子供だけに提供されたり開かれたものではありません。提供されているにもかかわらずまだ受け取っていない人、開かれているにもかかわらずまだ道を歩んでいない人は大人も子供も含め世界にまだまだ大勢いるのです。また、一度は受け取って歩み始めた人で、受け取ったことを忘れてしまったり道に迷ってしまった人も大勢います。兄弟姉妹の皆さん、私たちは、洗礼を受けた時にイエス様に抱っこされたり抱きしめられたのです。イエス様の抱きしめをしっかり受け続けられるために、聖餐式を受け続けるのです。そういうわけで、イエス様に抱きしめられた者として、また抱っこしてもらった者として、お互いに信仰の成長を大切に考えていきましょう。まだ救いを受け取っていない人や道に迷ってしまった人たちに対しては、受け取ることが出来るようにと、また正しい道に戻ることが出来るようにと祈り続けましょう。もしそうした人たちに教えたり諭したりする時が与えられたら、神が聖霊を働かせて相応しい時と言葉が与えられるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十八主日
2015年9月27日の聖書日課  エレミア11章18-20節、ヤコブ4章1-10節、マルコ9章30-37節


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