宣教師館の窓から、吉村博明 宣教師

窓

2019年12月

「古典時代ギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習に対するユダヤ・キリスト教の戦い」

吉村博明 宣教師

12月11日、吉村宣教師が東中野キングスガーデンにて「子供の人権と聖書」という大きなテーマのもと、「古典時代ギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習に対するユダヤ・キリスト教の戦い」という絞ったテーマで講演を行いました。以下はその内容です。(東中野キングスガーデンはキリスト教系の老人ホームで、1階のオープンスペースにて講演や様々な教室その他幅広いイベントを行っていてコミュニティーセンターの役割を果たしているところです。)

 

東中野キングスガーデン 講演会 2019年12月11日(水)

子どもの人権と聖書

「古典時代ギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習に対するユダヤ・キリスト教の戦い」

吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師 神学博士)

 

はじめに

今回の講演は、東中野キングスガーデンの奥山氏から、子供の人権を聖書の観点から話しをすることは可能かと打診されたことがきっかけである。子供の人権について全くの素人なので無理な話かなと思ったが、最近の家庭内暴力で子供が犠牲になったり、家庭外でもSNSを通して子供が性的に虐待・搾取されるなどの事件が多発していることに、聖書の観点から何か発言はできないかと考えた。しかし、「聖書にこう書いてある、だから子供に害悪を加えてはいけない」というのは、あまり影響力がないであろう。キリスト信仰者が聞いたら、聖書は権威ある書物だから、その通りにしようと思うかもしれないが、信仰者でなければ、聖書は権威あるどころか、未知の書物、自分には無関係の書物、関心はあってもせいぜい文学作品の一つにすぎない。

その時思い当たったのが、フィンランドのヘルシンキ大学神学部の准教授E.コスケン二エミが2009年に著した研究書「The Exposure of Infants among Jews and Christians in Antiquity(古典時代のユダヤ人及びキリスト教徒と嬰児遺棄)」(The Social World of Biblical Antiquity, Second Series 4, Sheffield, 2009)であった。それは、古典時代のギリシャ・ローマ世界には嬰児遺棄は慣習として行われていて、それに対してユダヤ人とキリスト教徒が反対姿勢を貫き、最後は西暦374年に嬰児遺棄が法律で禁止されるに至ったことをユダヤ教とキリスト教の思想面で明らかにしたものである。

現代の日本からは地理的、歴史的、文明的に離れた地域のことであるが、子供が大人の勝手都合で犠牲者になることでは共通するものがあり、それに対して聖書の観点がどう影響力を持ったかという、一つの事例になると考えた。奥山氏もそれで宜しいでしょうと承諾され、今日の講演会に至った次第である。

 コスケン二エミの研究は思想面での分析が中心で、制度変革の詳細な過程は扱われていない。しかし、キリスト教が誕生してローマ帝国内で迫害の時代を経て300年代に公認され国教にまでなる過程を視野に入れると、思想が人々に及ぼした影響力も見えてくると思われる。それで、本講演は、
1)まず、古典時代のギリシャ・ローマ世界で実際にあった嬰児遺棄の慣習についてみる。次に、
2)ユダヤ教がその慣習に反対した思想とその土台、
3)キリスト教がその慣習に反対した思想とその土台をみる。
4)ユダヤ教とキリスト教が慣習に反対する思想を展開していく時、それがどう社会の変化をもたらしたかを考える。
5)最後に、話の内容のまとめと日本の問題の解決に資する見方があるかどうか考えてみる。

1)から3)までは、多くはコスケン二エミの研究書に依拠する。4)は、ユダヤ教とキリスト教がギリシャ・ローマ世界にどう根付いていったかということを背景に据えて嬰児遺棄慣習に反対する思想が根をおろす状況を考える。

 聖書の観点から子供の人権や命の問題について論じたものは既に数多くあると思う。自分はこの分野の専門家でもなんでもないので、少し無謀なことかもしれない。ただ、コスケン二エミの研究書のことが頭にあったので、嬰児遺棄の慣習に反対したユダヤ教・キリスト教という観点から、この大きな問題に何か視点を与えることができるかもしれないと思った次第である。コスケン二エミの研究書も急いで読んだので大雑把な理解かもしれない。そういうわけで、本講演は序論のようなものとして受け取って下さることをお願いしたい。また機会があれば、もっと議論を精緻に組み立ててお話しできると思う。

本講演にあたって、二つほど注意を喚起したいことがある。まず、聖書の観点と言う時にキリスト教だけでなくユダヤ教も取り上げていることである。これを奇異に感じる人もいるかもしれないが、キリスト教にとってユダヤ教は母胎のような宗教である。キリスト教はユダヤ教が聖典としている旧約聖書を聖典としており、キリスト教の場合はさらに新約聖書も聖典として持っている。本講演でも明らかになるが、キリスト教が嬰児遺棄に反対する議論はほとんどをユダヤ教でなされた議論を受け継いでいる。奇異に感じるというのは、ユダヤ教と聞くと、現代世界のユダヤ教を考えるからと思われる。イエス様の時代のユダヤ教は今のそれと様相を異にしている。当時は、いくつかの派にわかれ、ファリサイ派、サドカイ派、熱心党の三つが新約聖書に登場する。聖書に登場しない派としてエッセネ派というのもあった。それぞれがいろんな争点に関して、これが本当に一つの宗教なのかと思わせるほど、見解の相違があった。西暦70年にエルサレムの町と神殿がローマ帝国の大軍によって破壊されてしまった後は、ファリサイ派が生き延び、そこからラビ・ユダヤ教に発展し現代のユダヤ教に至っている。従って、本講演でユダヤ教という言葉を聞く時は、現在のユダヤ教やイスラエルの国は考えないようにして下さい。

もう一つは、地域を言い表す時に「パレスチナ」という言葉を使うが、これは、現代世界の中東の問題の一つとなっているパレスチナ問題のパレスチナとは別物と考えるように。歴史的聖書研究の分野では「パレスチナ」は現在のイスラエルの国とその周辺地域をあわせた地域を指す。

    1. 古典時代のギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習

 古典時代のギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習は、本当に慣習と言っていいくらい広く一般的に行われていた。ギリシャ・ローマ世界では子供が生まれると、大体10日位に家族・親族で盛大にお祝いをすることになっていて、このお祝いをすると子供は家族の一員になったことになる。従って、遺棄するかどうか決めるのはお祝いをする前になる。遺棄が決められる可能性が高いのは、女児、婚外子、経済上の理由(これは貧しい人だけでなく、富裕層でも遺産分割の対象を増やしたくないという理由もあった)、障害児、飢饉や自然災害等があった時に生まれる子供は不吉の象徴とされて遺棄された。以上のように何か遺棄する理由が言われるのとは別に特に理由もなく、本当に父親のその時の考えで遺棄する場合もあった。

 遺棄の仕方は、場所としては町の通り、野原があり、障害児や不吉と結びつけられた場合は板に結びつけて海に沈めるということもあった。通りや野原に捨てた場合、拾われて他人に育てられる場合もあったが、ない場合は野良犬や禽獣に食べられてしまった。拾われた場合も、ちゃんとした家庭に拾われてちゃんと育てられた幸運な例もあるが、大半は奴隷にされた。それも多くは売春宿に送られる性奴隷であった。ローマ帝国のアシュケロンという町から発掘された4~6世紀頃の大浴場の下水溜に100体近くの嬰児の死骸が見つかった。浴場には性奴隷が働かされていて、彼女たちが産み落としたものと推測される。DNA判定に基づき19体の性別が判別でき、14体は男児、5体が女児であった。女児が少なかったのは、恐らく性奴隷として育てるために生かされたと推測される。性奴隷はもちろん女性とは限らない。ローマの人の多くは性的欲望のための「子供ペット」を所有していた。当時の地中海世界では、性は結婚に結びつけて考えられていなかった。結婚はあくまで子孫を作って家系と財産を受け継がせるためのもので、性はそれとは別の領域のことであった。

これらのことは、世界史の授業から得た古典時代のギリシャ・ローマ世界のイメージとはあまりにもかけ離れて聞く人を驚愕させるであろう。ギリシャ・ローマ世界は、奴隷制度はあったにせよ、民主制があったり、いつの時代にも影響力を持つ哲学者を多く輩出したり、優れた文学を生み出したり、壮大な建造物や近代の法制度の原型になるものを造ったりして高度な文明を誇っていたと一般には言われる。そういうイメージができたのは、後世に伝えられたものは哲学者や文芸作品を通してというのが中心だったから。19世紀からパピルスに記された個人の記録や手紙や役所の文書から当時の一般人の生活の様子も明らかになり始めた。高度な文明の陰も明らかになってきた。哲学者の嬰児遺棄に対する態度もまちまちで、反対する者もいたが、それは国や都市国家の人口減を心配したからであった。逆に人口急増を心配してそれを抑制する手段として嬰児遺棄を認める考えもあった。プラトンやアリストテレスもその立場であった。彼らにとって、「人間あって(都市)国家あり」ではなくて、逆なのである。

当時嬰児遺棄がごく普通のことのように考えられていたことを示す例として、コスケン二エミが次のパピルス発掘資料を紹介している。西暦1年6月17日付けにイラリオンという男が旅先から妻あてに書いた手紙を以下の紹介する。

西暦1年6月17日付けのイラリオンという男が旅先から妻あてに書いた手紙
「イラリオンから妻アリスへ。君とそれから愛するベロウスとアポリナリオンにも挨拶を送る。私がまだアレクサンドリアにいることを知っていてほしい。彼らだけが戻ることになっても心配しないでいて欲しい。私はアレクサンドリアに留まっているから。君には、子供のことを気をつけるようにお願いする。贈り物を受け取ったらすぐ君宛てに送る。アポリナリオンが跡継ぎを産んで、それが男の子だったらそのままでいい。女の子だったら捨てなさい。君はアフロディシアスを通じて『私のことを忘れないで』と言ったそうだが、どうして君のことを忘れられよう?だから、くれぐれも心配などしないように。皇帝の29年パウニの月23日」

  

  2. 嬰児遺棄に反対するユダヤ教の思想とその土台

ユダヤ民族が自分たちの国を失ってバビロンに捕囚されて異民族に囲まれて生活していた時、占領者たちの嬰児遺棄の慣習とそれに対するユダヤ人の態度については不明。ユダヤ民族が嬰児遺棄に反対を表明するのが明らかになってそれが研究対象となるのは、パレスチナをギリシャ世界のアレクサンダー帝国が席巻してからとなる。

 旧約聖書には嬰児遺棄を明示的に禁止する掟はないが、ユダヤ人は十戒の第5の掟「殺すなかれ」(出エジプト記20章13節)が胎児を含むかどうかという問題が鍵になった。胎児を含むとすれば、中絶は殺人になり、そうなると生まれたばかりの赤ちゃんを遺棄して生きる条件を奪うことは殺すことになる。旧約聖書は胎児も人格を持つ一人の人間として扱っている。

エレミア書1章5節
「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」

詩篇22篇10~11節
わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。

詩篇139篇13~16節
 あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。  
 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。  
 秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あたたには、わたしの骨も隠されてはいない。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。

詩篇71篇6節
 母の胎にあるときから あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹からわたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。

ギリシャ・ローマ世界では胎児は母親の体の一部であって、別個の人間とは見なされなかった。だから中絶しても母親は生きているので何も問題はないことになる。ユダヤ人がそうしたギリシャ・ローマ世界の考え方に明らかに態度表明したものとして考えらえるのが、出エジプト記21章24~25節の解釈であった。この個所は、賠償や報復の対象になるのは母親なのか胎児なのか明らかでなかった。それが、紀元前3世紀ころに旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に翻訳された時、対象が胎児であることが明記された。これは、ギリシャ語に翻訳した人の考え方なのか、それとも、ギリシャ語、ヘブライ語に関係なくユダヤ人一般の考え方を反映していたのか?西暦1世紀にアレクサンドリアで活躍したユダヤ人哲学者のフィロは、ギリシャ語の出エジプト記21章24~25節に基づいて中絶と嬰児遺棄に反対を表明した。加えて同時期にパレスチナで活躍した歴史家のヨセフスはヘブライ語の人であったが、やはり中絶と嬰児遺棄に反対を表明した。ということは、ギリシャ語の訳は翻訳した人の考えを反映したのではなく、ギリシャ語、ヘブライ語に関係なくユダヤ人一般の考え方としてあったと言える。ユダヤ人は、ギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習を目の当たりにした時、上記の聖句が強く心に響いたということであろう。

出エジプト記21章24~25節
 人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。

 上記の他にも、イザヤ書49章15節、エゼキエル書16章4~7節を知っていれば、神が遺棄された子供をどう思うかがわかる。また、胎児も一個の人間であれば、創世記9章6節の神に似せられて造られた者そのものである。 

 イザヤ書49章15節  
 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。

エゼキエル書16章4~7節
 お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた。しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、「生きよ」と言ったのだ。私は、野の若草のようにお前を栄えさせた。それでお前は、健やかに育ち、成熟して美しくなり、胸の形も整い、髪も伸びた。

 旧約聖書が紀元前2世紀くらいまでに成立した後も、ユダヤ教世界では多数の書物が現れた。それらの中でも中絶と嬰児遺棄に反対が表明されている。Sibylline Oracles, 1 Enoch, Apocalypse of Ezra, 上記に述べたフィロとヨセフス、Epistle of Barnabas  Didacheなどのユダヤ教徒の手による部分、特に後者には、障害児も生きる権利があると述べており、これなどはギリシャ・ローマ世界の考えに真っ向から挑戦するものであった。

 

   3. 嬰児遺棄に反対するキリスト教の思想とその土台

 キリスト教は嬰児遺棄反対の議論をそのままユダヤ教のものを受け継ぎ、胎児も一個の人間として見なされて、中絶と胎児遺棄が反対される。新約聖書には、その議論はないが、土台にある考え方を表わしている個所として、
エフェソの信徒への手紙6章4節 コスケン二エミによれば、「育てなさい」のギリシャ語原文は、嬰児遺棄が当たり前な世界があることを念頭に置けば、出産した時から手放すことなく育てよ、という意味を持っている。ガラテアの信徒への手紙1章15節 パウロは自分の使命は母の胎内の中からすでに神に定められていたというのは、エレミアの例にならっているが、胎児も一個の人間という旧約聖書の考えに立っている。

ガラテアの信徒への手紙1章15節
 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召しだしてくださった神が

コスケン二エミの分析は、あとは新約聖書が成立した後に現れた書物に向けられる。Epistle of Barnabas, Letter of DiognetusとDidacheのキリスト教徒の手による部分、Apocalypsis of Peter, Justin Martyr, Athenagoras, Tertullian, Minucius, Felix, Clement of Alexandria, Apocalypse of Paul, Origen, Methodius, Basil the Great, Gregory of Nyssa, John Chrysostom, Lactantius, Abmrose of Milan, Augustine。それらは、みな中絶と嬰児遺棄に反対を表明している。
 私にとって意外だったのは、新約聖書のイエス様の言葉が取り上げられなかったことである。(もちろん、イエス様の言葉を釈義学の中で取り上げようとすると「歴史的イエス」研究の分野になり、真正かどうかの問題を解決しなければならないというやっかいなことがある。そこに深入りしないでも、取り上げた文献で十分と考えたのではないかと思われる。後日、本人に確認してみようと思う。)
ルカ18章15~17節(マルコ10章13~16節、マタイ19章13~15節)やマタイ18章1~5節(マルコ9章33~37節、ルカ9章46~48節)の言葉を見ると、これら、神の国や救いということについて子供が主人公であるかのような教えは、嬰児遺棄が当たり前なギリシャ・ローマ世界の人たちにはあまりにも斬新ないしは革命的に聞こえたであろう。

ルカ18章15~17節(マルコ10章13~16節、マタイ19章13~15節)
 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

マタイ18章1~5節(マルコ9章33~37節、ルカ9章46~48節)
 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 キリスト教は中絶や嬰児遺棄に反対する議論をユダヤ教から受け継いでいるが、両者には違いも見られる。性は、ギリシャ・ローマ世界では夫婦間の外でも営むものになっていたがユダヤ教とキリスト教ではそれを夫婦間の中で営むものにした。ユダヤ教はさらに性の目的は生殖に限定し、子供に恵まれることを神からの祝福とした。これは、胎児も一個の人間という考えと合わさって、中絶や嬰児遺棄に反対する生き方を強めたであろう。キリスト教の場合は、出来れば結婚しないで独身で通すのが望ましいという考えになった。ただし結婚は禁止されたのではなく、パウロが言うように、性に関して自分を律することが出来なくなるのを避けるために結婚しても良い、というような「認める」という立場。ユダヤ教では結婚はむしろ奨励。

 どうしてキリスト教はそのような立場になったかというと、終末論を持っていることと関係している。終末論は紀元前2世紀頃にユダヤ教社会の中で強まった思潮であるが、キリスト教はそれを受容した。この世が終わって新しい世が来る。新しい天と地が創造される。その時、神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられるか入れられないかを決める最後の審判が行われる。そこでは、この世での全ての行い・言葉・思いについて創造主の神から責任を問われる。神の国に迎え入れられる者は死から復活して新しい体を与えられて迎え入れられる。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、しばらくそのような終末がもうすぐ来るという考えが抱かれていた。パウロの手紙にそれが明らか。終末の最後の審判という考えは、その後も続いていく。上述のキリスト教の書物の中には、最後の審判の時に地獄に陥れられる者たちの中に中絶や嬰児遺棄をした大人たちがいる。それに対して犠牲になった子供たちが天使に大人たちの罪を訴えているという光景が描かれている。その意味でマタイ18章10~14節のイエス様の言葉は、子供に起こることについて大人がとてつもない責任を神に対して負っていることを意味する言葉として重く受け止めなければならない。

マタイ18章10~14節
 これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さなものが一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

 

   4. 嬰児遺棄の慣習の廃止に至る社会的な動き

 以上から、ユダヤ教とキリスト教が嬰児遺棄に反対する態度を表明し、ギリシャ・ローマ世界で当たり前になっていたことに挑戦したことが明らかになった。ここで一つ問題となるのは、これらの態度表明はどこまで実践されていたのか?ユダヤ教徒やキリスト教徒はこれらの教えに忠実で嬰児遺棄を全くしなかったかのか?過去の研究者はナイーブにしなかったという見解が多かったが、近年は教えと現実はかけ離れていたという見解が多く出た。それに対してコスケン二エミは、大体において教えが守られていたが、守られていない場合もあった、とより現実的な見解を提示した。その根拠は、考古学の発掘でユダヤ人の墓地その他遺跡を調査した結果、傾向として、ユダヤ人の家族構成はユダヤ人でない人たちの構成に比べて子供の人数が多く、しかも女子が極端に少ないということはなかった。しかしながら、これはパレスチナの地域のことで、パレスチナの外側のディアスポラのユダヤ人の家族構成は小さくなり、ユダヤ人でない人たちと似たような構成になる。これは、ユダヤ人がパレスチナ外側のギリシャ・ローマ世界で生活する時、マイノリティーとして暮らすと、その土地のマジョリティーの生活様式の影響に晒されやすいということが考えられる。

 西暦374年にローマ帝国が法律で嬰児遺棄を禁止したことも、キリスト教が帝国の公認宗教になって(311~313年)、皇帝自身もキリスト教に改宗した帰結として考えられるが、それも現実的にみる必要がある。確かに、皇帝がキリスト教徒になったことの意味は大きいが、嬰児遺棄の禁止には帝国の人口減を防ぐという政策的な意味もあった。西暦381年にキリスト教はついに帝国の国教となり、宗教の不自由が今度はキリスト教以外に向けられることとなった。この事態は、教会が独占的な地位を得て両手を挙げて喜べる状態というわけでもなかった。嬰児遺棄禁止に関して言えば、それまでは教会を中心とする共同体が聖書の教えを守る共同体としてあったのが、こんどは聖書の教えなど知らない人々が突然キリスト教徒とされて大量に教会の中に入り込むこととなった。教会はこれらの者を教えていかなければならなくなった。最初に述べたアシュケロンの公衆浴場は嬰児遺棄禁止の法律が出来た後のものであった。つまり、法律が出来た後も、まだ嬰児が遺棄されて性奴隷として使われていたのである。教会はその後も引き続き礼拝の説教を通して、聖書のみ言葉や神の意思について教えていかなければならなかったのである。

 嬰児遺棄に反対したユダヤ教とキリスト教が、ギリシャ・ローマ世界の慣習を変えさせる力になったかどうかを考える時には、それらがどのように広がって行ったかを考えるとわかるのではないか。ギリシャ・ローマ世界では、ユダヤ教徒は圧倒的な少数派であった。パレスチナの地域では多数派を構成していたかもしれないが、ディアスポラでは、地中海世界のあちこちの都市に点のようにマイノリティーとして存在し、異なる宗教が多数派という状況に囲まれてシナゴーグで礼拝を守っていた。そういう状況では、教えは自分たちのコミュニティーの中で守られるにすぎず、多数派から見たら、口うるさい少数派が何か文句を言っているとしか見えなかったかもしれない。

ところが、キリスト教が誕生するころまでに大きな変化が始まっていた。使徒言行録を見ると、パウロが地中海世界に伝道をすると、大抵は行った先のシナゴーグを訪問し、そこで福音を述べる。つまり、旧約聖書に書いてあるメシアの預言はついこの間エルサレムで実現した。ナザレのイエスは神のひとり子であり、人間の罪の償いのため十字架にかけられたが三日目に復活して大勢の弟子たちの前に現れた。そのイエスを救い主と信じて洗礼を受ければ、永遠の命を持てて神の国に迎え入れられる、と。そうするとシナゴーグのユダヤ人の間で賛否両論が起きる。

パウロが外に出ると、周りに「神を畏れる人」たちが取り巻いている。彼らは、ギリシャ・ローマの人間でありながら、聖書の神、天地創造の唯一の神を信じるようになった人たちである。ただし、割礼を受けていないので、まだ完全にユダヤ教に改宗していない。中途半端な立場にある人たちである。その中には女性が大勢いた。彼女たちは、この唯一の神を信じるユダヤ教が、人間は神に似せられて造られたものである、胎児も一個の人間であると主張し、嬰児遺棄を認めず、性を夫婦間の営みにし、従って性奴隷なんか認めない、そのような教えを説く宗教だと知っている。知っているからこそ「神を畏れる人」に加わったのではないだろうか?しかし、女性は割礼は受けられないのでユダヤ教に改宗は出来ない。したければ、父親ないし夫が改宗してそれに付随するしかない。まさに、そんな時にパウロなる者がやって来て、割礼などいらない、イエスを救い主と信じる信仰と洗礼で神の子になれる、などと教える。「神を畏れる人」たちが一気にキリスト教になだれ込むことになった。それまでユダヤ教が地中海世界に点のように存在していたのが、地中海世界を覆いつくすようにキリスト教が広がっていく。このように考えると、嬰児遺棄の禁止は、それについて教えを唱えることだけでなく、キリスト教の中心的な教えと一緒に抱き合わせになって、受け入れられたということではないだろうか?皮肉なことに社会には受け入れを助ける素地があったのである。

   

5. むすびとして - 日本の問題の解決に資する見方は?

 コスケン二エミの研究の意義は、嬰児遺棄の問題を通して2000年前のユダヤ教とキリスト教には連続性があったことを明らかにしたこと、特に二つの宗教は相反するもののように扱われるのが多いので、この問題を通して歴史の正しい把握に貢献。それから、ユダヤ教やキリスト教の嬰児遺棄反対の立場の議論を深く分析して、それが、嬰児遺棄だけに関わらず、中絶や性モラル、家族の在り方という問題と結びついて論じられるものであることを明らかにした。そうしたいろんな問題の結びつきは、さらに人間は何ものか、創造主がいて造られたものか、造られたのでなければどうして存在するのか、また、人間がこの世で行うことはいつか責任が問われるのか問われないで済むのか、そういう人間の存在、在り方、死生観と結びついていることも明らかであろう。ユダヤ教やキリスト教はこういう立場であるというのが今回の話である。

 日本の問題の解決に資する見方は得られるだろうか?以上の議論から言えるのは、子供が犠牲にならないような社会を作るには、人間の存在について、また人間はどうあるべきかということについて、そして死生観をどこかで押さえておくことは大事ではないか?

以上


2019年7月

「神学部時代の思い出」

吉村博明 宣教師

去る5月、娘のヨハンナの高校時代の同級生Kさんが家に遊びに来た。カリフォルニアの大学の看護学部で勉強されている。2年生になって実習が始まり、毎週決まった曜日に近くの病院に行き、包帯を巻いたり、血を採ったり、血圧を測ったりしているとのこと。救急患者の搬送があると院内は緊急事態が起きたかのような慌ただしさになること等、興味深く話して下さった。一番大変なことは何?やっぱり患者さんと病室で1対1に向き合った時、どんな話をしたら良いかということが一番難しいという答えだった。その時、自分にも似たような経験があったなと急に思い出されてきたことがあった。

それは、フィンランドの大学の神学部で勉強していた時、4年次にある病院付け牧師の実習であった。神学部の実習は、2年次に堅信礼教育の教育実習がある。国教会に属する、日本の中学2年にあたる生徒たちにキリスト教(ルター派)の教義や倫理を教えることをする。この実習は合宿形式の堅信礼キャンプで10日ほど生徒たちと寝食を共にして行う。3年次は教会の実習で、実習先に1カ月ほど住み込み、日曜日の礼拝を筆頭に教会の活動全てを実地で学ぶ。学生が執行してよいものは行い、その他に教会の行政を学ぶ。

病院付け実習は2週間という短さで、これには神学教育界でも批判がある。準備として、3年次に「実践神学」分野の「魂ケア」という科目を履修し、実習直前に1週間ほど病院付け牧師による集中講義がある。実習期間の短さを補うために、もっと深めたい学生は5年次の夏2カ月位の長期の実習を行うことが出来る。これは必修ではなく選択科目になる。

私を含む8名の学生はそれぞれ別々の病院・施設に送られた。私が送られたのはトゥルク市立病院の中の、医療措置のため自宅で生活できない高齢者の病棟だった。個室で寝たきりの方もいれば、車いす、シルバーカーで移動する方もおられた。初日インストラクターの牧師と一緒に患者さん一人一人に挨拶し、共有出来る情報と具体的な仕事内容を教えてもらい、三日目位からは牧師は時々顔を見せるだけで完全に一人になった。

仕事は、患者さんから声がかかれば病室に行って話し相手になることが主である。皆さん、牧師の卵とわかっているから、聖書や教会に興味ある人は声をかけてくるが、そうでない人からは何も来ない。病室で、聖書のどこそこを読んで下さいとお願いされたら、朗読で終わってはいけない。ちゃんと解説なり何かメッセージを付け加えなければならない。さらに、この個所で何か思うことがありますか、と会話を導いていかなければならない。何人かの方からは、自分の人生を振り返るとても深い話を聞かされた。お孫さんの話をよくするおばあさんは「孫というのはね、人生のデザートみないなものよ」などと、言い得て妙でしょ、という茶目っ気の表情を見せた。

声がかからない時は、病室を一つ一つ回って、具合などを聞く。教会に興味ない人もいるが挨拶だけは欠かさないようにする。食事の時間は食堂の隅にニコニコしながら立って雰囲気づくりをする。声がかかれば傍に行き話を聞く。私自身の昼食は市立病院の職員食堂だったが、これが連日全然おいしくなかったことを覚えている。

週二日午後に病棟の広間で小礼拝が行われる。最初は4,5人位しか来なかったが、日本人が聖書の話をするというのが関心を引いたのか、少しずつ人が増えていき、最終回は広間は一杯になり、歌が上手な看護師が讃美歌をとても素敵に歌ってくれた。終わりに一人ひとりから握手を求められ、車いすの方々も一生懸命手を前に出され、名残惜しいひと時となった。

実習の期間はちょうど神学部の「釈義学」分野でアラム語の集中講義が毎日あり、実習は16時に終わったので、講義が始まる16時15分に間に合うように毎日自転車を必死にこいでトゥルク大聖堂の裏にある大学の教室に急行した。初日の授業で病院職員の名札を外し忘れて教室に入ると、教授から「おっ、実習先からそのまま来たな」などと言われてしまった。

当時、6年次に作成する修士論文のテーマは「釈義学」分野にするか、「実践神学」分野にするか迷っていた。ギリシャ語とヘブライ語がわりに出来たので「釈義学」を主専攻に考えていたが、在学中に障害のある子供が生まれ、いろいろ考えることがあり、ひょっとしたら自分は試練の中にある人たちに寄り添うことが出来るのではないかなどと考えて「実践神学」に傾き始めていた。それで、病院実習が終わった後、選択科目の長期実習も受けようと決めた。履修条件の心理テストを受けて基準点を満たしたので履修届を出した。実習先もトゥルク大学病院に決まった。

ところが、妻のパイヴィの実家エヴィヤルヴィ村の教会の主任牧師が入院手術という事態になったので牧師助手を募集しているとの知らせが入った。「牧師助手」(通称「夏の神学者」)は神学部の学生なら誰もがやりたい夏の仕事である。給料はよくて、それに国から支給される返済不要の奨学金を合わせれば、丸一年の生活費が賄える。しかも経歴になり、将来牧師になった時、採用が有利になる。ただ、地方の募集は、住む場所が見つからないと難しく、自動車もあった方がよい。エヴィヤルヴィなら、妻の実家に居候させてもらえばよい。長期実習はキャンセルした。これが、主専攻を「釈義学」に戻すきっかけになった。

エヴィヤルヴィ村教会は田舎の教会なので陣容は小さく、牧師助手の自分の他は、音楽担当、ディアコニア、ユースリーダー、財務会計、事務員、管理人が常勤職の人たちで、あとは教会付属ホール賄いと教会学校・子供担当が非常勤。他に副牧師がいたが、ちょうどコッコラ市の病院付き牧師に異動が決まってエヴィヤルヴィを離れる矢先に主任牧師の入院が起きてしまった。それで、夏の間は堅信礼合宿の責任者と聖礼典と教会員の緊急対応は彼が担うこととなった。

「牧師助手」は正式な牧師ではないので、洗礼や聖餐式の聖礼典は執行できない。聖礼典ではないけれでも、結婚式と葬式も国教会の規定により出来ない。しかし、それ以外は牧師と同じ仕事をする。これはもう実習ではなく、文字通り「実戦」だった。

朝はスタッフ・ミーティングがあり、これは讃美歌と聖書日課朗読で始める。メッセージもしなければならない。フィンランドだから、必ずコーヒーを飲む。

村立病院と老人ホームの訪問が週に1回ずつあった。病院の初日は着くや否や、いきなり看護師たちから「牧師さん、早く来てください!」と病室に連れていかれた。そこには咽喉ガンと診断されて、これからセイナヨキ市の中央病院に救急搬送されるという男性が横たわっていた。かなりのショックで看護師たちの呼びかけにも無応答だという。「救急車が来るまでお願いします。」二人きりにされてしまった。自分を名乗り、名前を聞くが、絞り出すような声だったので聞き取れず、失態だった。どんな表情が相手にとっていいのか迷いに迷った。やがてうつろな目つきでか細い声で「私のこれまでの人生は何の意味があったのだろうか。」「意味は沢山あったんですよ。今の事態でそれがなくなることはありません!」これが精一杯の答え。「あなたのためにお祈りします。聞いていて下さい。」本当は自分のための祈りだったかもしれない。終わりのアーメンを一緒に言ってくれたかどうかはわからなかった。救急車が来て、ホッとしたというより、無念さが強く残った。

もう一回ハードだったのは、ある日、看護師に呼ばれて行くと、中央病院で両足を切断する手術を終えてエヴィヤルヴィに返された患者だった。人間がこれくらい青ざめられるのかと思う位の血の気のなさだった。看護師から、患者がパイヴィと同じ分村地区の出身で私たちの結婚式の野外披露宴にも出席したと聞かされた。その接点が自分が掴める藁だった。披露宴に来てお祝いしてくれてありがとうと言うと、青ざめた顔が少し緩んだ。言葉のやり取りが恐る恐る始まった。その方は私の牧師助手の後に亡くなられた。

病院訪問と老人ホーム訪問はあとは実習と同じようなことをした。双方とも午後に広間で小礼拝があった。病院の方は5~10名位の参加だったが、老人ホームの方は広間が一杯になるくらい集まった。あと、日曜日になると教会の礼拝の説教が有線ラジオで広間でも聞けるようになっていた。

日曜礼拝は、日本人が説教するというのが珍しがられたのか、普段よりも出席者が多かったとのこと。それでも200人位入る教会で30~40人程だった。エヴィヤルヴィは湖が美しいところで、夏は別荘滞在者の礼拝出席もある。白夜の夏は平日の夕刻に各分村地区で野外の集会が催され、まず小礼拝を行い、後はフランクフルトソーセージのグリルを中心に社交の時間となる。教会が関わる集会なので、もちろんノン・アルコールである。

2か月の間に大きな葬式が一つあった。教会での儀式は隣村の主任牧師が執り行い、私は司式補佐、その後は私にバトンタッチ。教会付属ホールで大きな追悼会があり、教会を代表してスピーチをしなければならない。葬式前に遺族の方と打ち合わせをし、故人の思い出話を詳しく伺って、それを聖書の観点を交えて話を準備する。当たり前だが、教会と聖書は切っても切れない関係なのだ。

牧師助手の仕事の中で一つ大きなものは、堅信礼合宿である。25名の15歳の少年少女を相手にキリスト教の教義や倫理を10日間にわたって教える。もちろん授業だけではなく、レクレーションのプログラムも豊富で、大方の生徒はそれが面白いから10日間耐えられると言っていいかもしれない。悪戯心溢れる反抗期まっただ中の子供たちが相手なので、職員は朝型と夜型の生活を同時に強いられる。体力と物怖じしないハートがなければ務まらない仕事だ。

合宿が終わると、堅信礼の儀式が教会で執り行われる。これは子供たちの一族郎党がみんな集まるので教会は超満員になる。聖餐式もいつ終わるとも知れず延々と続くのである。この大勢の会衆の前で説教する栄誉に与った。

これらのことは16、17年前の話であるが、書いているとあれもあったこれもあったといろんなことが思い出されてきて、ヨハネ21章25節の心境である。そう言えば、あるおばあさんは、私が病室を出ようとした時に急に手を取って「行かないで、死にたくない」と泣き出したこともあった。しかし、本心を吐き出して楽になったのか、その後はいつも落ち着いて話が出来るようになった。

8月に入って麦畑も黄色くなった頃、小中学校は新学期を迎える。牧師助手の最後の仕事は、学校の始業礼拝である。学校で始業式をしないで、教会で行うのだ。堅信礼教育や分村地区集会で顔見知りになった子供たちが大勢いて、先生方も一緒という礼拝は新奇だった。礼拝後、教会の扉に立って一人一人に握手の挨拶を交わした後、義父の家に戻り、荷物をまとめて車で400キロ南のトゥルクに出発した。前の日曜日の礼拝後に教会の職員たちがお別れ会をしてくれた。パイヴィと子供たちは既に電車で帰っていたので一人だけの出発だった。おかげで見慣れた景色を懸命に追いながら静かに名残を惜しむことが出来た。

以上の回顧は、2000年代初めのものである。フィンランドの国教会の所属率がまだ全国民の85パーセント位あった頃だ。昨年の所属率は70パーセントにまで落ちた。首都圏では60パーセント程度で、生まれる赤ちゃんの洗礼率も半分以下だと言う。近い将来ヘルシンキではクリスチャンは少数派に転落する勢いだ。私の経験は古き良きフィンランドのそれということになるのだろう。


 2018年10月

「永遠の命の約束」

「いずみの会」合同修養会早朝礼拝説教、吉村博明 宣教師

聖書の箇所 第一ペトロ1章22-25節

「あなたがたは、真理を受け入れて、
 魂を清め、偽りのない兄弟愛を
 抱くようになったのですから、
 清い心で深く愛し合いなさい。

 あなたがたは、朽ちる種からではなく、
 朽ちない種から、すなわち、
 神の変わることのない生きた言葉によって
 新たに生まれたのです。

 こう言われているからです。
  「人はみな、草のようで、
 その華やかさはすべて、
 草の花のようだ。

 草は枯れ、花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に
 変わることがない。」

 これこそ、あなたがたに福音として
 告げ知らされた言葉なのです。」
(新共同訳)

私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.この聖句は、日本人をおやっと思わせてちょっと立ち止まらせる、そんな聖句ではないでしょうか?「人はみな、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ、草は枯れ、花は散る」などとは、中学の国語の授業で暗記させられた平家物語の冒頭部分「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」を彷彿させ、皆さん共感を覚えるのではないでしょうか?特に日本の場合は桜の花がこの、美しいもの華やかなものはいつまでも続かないという思いを強めるのに一役買っていると思われます。加えて、散りゆく桜を見て美しさ華やかさは儚いものだと思っているうちに、いつしか逆に儚いもの散ること自体が美しいのだと言い換えられて強調されるようになる、そういうことが戦争中の日本にはあったのではないでしょうか?(最初の特攻隊の部隊の名前に本居宣長の「山桜」短歌の言葉が使われたり、ある特攻兵器は「桜花」と名付けられたり、軍歌の「同期の桜」などに表れていると思います。)

そういう日本人が共感を覚えるようなことを言った後で、この聖句は突然、共感者の夢を覚ますようなことを言います。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」ギリシャ語の原文を直訳すると、「主の言葉は永遠にとどまる、残る」(μενει εις τον αιωνα)です。つまり、草や花そして人間のように枯れたり散ったりせず、ずっとずっと永遠に残る、です。この聖句はイザヤ書40章8節の引用でもあります。ヘブライ語の原文を直訳すると、「永遠に続く」とか「永遠に効力を持つ」(יקומ לעולמ)です。人間が持てる華やかさも、またそれを持つ人間自身も永遠には続かない、草や花のように枯れたり散ったりして終わってしまう。もっともななことです。ところが、この聖句は、私たちの目と心をそこに止めっぱなしではいけない、と言わんばかりに、「しかし」(δε)と言って、神の言葉は永遠に続く、永遠に残る、永遠に効力を持つ、と言います。そこに目と心を向けよ、と言うのです。この聖句は限りある人間に、特に限りあることに思い入れが強い私たち日本人に何を呼び掛けているのでしょうか?

 

2.まず、「神の言葉は永遠に続く」とはどんなことか考えてみましょう。私がこの世から死んだ後も聖書は読み続けられるでしょう。その意味で、聖書が世代を超えてずっと読み継がれていくということでしょうか?そうではありません。聖書の立場では、この世というものは天地創造の神に造られて始まった、そしてそれには終わりがある、その時新しい天と地が創造されて今のものに取って代わるということがあります。森羅万象の有り様がかわるので、聖書を繙くという今の世の人間の営みはもうありません。なぜなら、聖書の立場では、今の世が新しい世に取って代わる時、死者の復活が起きて、神の御許に招かれる者は栄光の復活の体を着せられて永遠に神の御許に戻るということがあるからです。その時、神が聖書の御言葉を通して約束していたことは、もう繙いて読むことではなくなって、実現したものになって見たり味わったりすることになるのです。

そういうわけで、神の言葉が永遠に続くというのは、それが神の揺るがない約束としてあって、今の世を貫いて新しい世にて実現する日を待っている、まさに天地創造の神が約束したものなのでそれは神の側で忘れられずに実現する日までちゃんとある、ということです。

このように神の言葉はというのは全て、今の世に代わる新しい世の創造、死者の復活、永遠の命についての神の約束です。それだけではありません。第一ペトロの聖句に引用されているのはイザヤ書40章6節から8節までですが、7節をみると、「草は枯れ、花は散る」と言った後で、「なぜなら、神の息吹が吹き付けたからだ」と言っています(「神の息吹」は「神の霊」、「神の風」(רוח יהוה)とも訳すことが可能です)。この部分はペトロの引用では省かれていますが、イザヤ書では、枯れること散ることが神から罰を受けたためであると言われているのです。罪の汚れを内に持つ人間は誰もそのままでは神聖な神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう存在でしかありません。

しかし神は、人間が罪から離れて最後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、自分のもとにいて完全に安全、安心でいられるようにしてあげよう、まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そしてイエス様を十字架の上で人間に代わって罪の償いをさせて死なせ、彼の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。さらにイエス様を死から復活させることで永遠の命の扉を人間のために開いたのです。人間はこの「福音」を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになったのです。順境の時も逆境の時も変わらずに神に守られて励まされて慰められて時には叱咤されて、歩むことになったのです。

第一ペトロの聖句は、永遠に続く神の言葉のことを「福音として告げ知らされた言葉」であると言います。イザヤ書の時代ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ預言されただけでした。預言されたことが実際に起こったおかげで、神は私たちに永遠の命の約束も必ず果たして下さるのだとわかるようになりました。こうしてイエス様の十字架と復活の「福音」と永遠に続く神の言葉は切っても切れない関係になりました。イエス様の福音を宣べ伝えることは、神の永遠の命の約束は本当なのだと宣べ伝えることになるのです。

 

3.さて、この世には枯れない散らない、永遠に続く神の言葉というものがあることがはっきりしました。それは、イエス様の十字架と復活の「福音」に裏打ちされた、神の永遠の命の約束です。この約束が果たされると信じて生きることは、永遠に続くものがあると信じることになります。それだけではありません。第一ペトロの聖句では、「人間」は草のように枯れると言っていますが、ギリシャ語では草のように枯れるのは「肉」(σαρξ、בשר)です。そして、神の言葉を受け入れて聞き従う者は「新しく生まれた者」と言います。つまり、人間の有り様が肉だけではなくなって、霊が加わるのです。それで、永遠に続くものがあると信じるだけでなく、永遠そのものに与ることになるのです。枯れたり散ったりするものばかりのこの世にあって、朽ち果てないものに属して生きることになるのです。

 それでは、永遠に続くものを信じ、永遠そのものに与って生きることは、日本人らしくないでしょうか?また、咲いている時間が短いゆえに美しさが一層際立って見える桜の花を美しいとは感じなくなってしまうでしょうか?

そういうことにはならないと思います。というのは、キリスト信仰者は、桜の花が短く咲いて散ってしまうことにも、永遠を司る神の御心が表れているとわかるからです。花の後は葉桜になって、花ほど美しくないかもしれないが、その新緑はゴールデンウィークの頃までは陽光の中でキラキラ輝きます。その後は緑濃くなって夏を越し、秋には散って、木枯らしの冬を越して、また3月終わりに芽が出てきて見る見るうちに開花します。花が散るというのは、一つの素晴らしい段階が終わって次の素晴らしい段階の始まりです。ひっそりと佇む段階もあるが、その後にまた素晴らしい段階が来る。創造主の神は桜にそのような習性を与えたのです。このように季節に応じた桜の有り様に神の御心を知ることができます。もちろん、樹齢長い桜と言えども、神が与えた寿命を満たせば枯れてしまいます。それでも寿命と季節の有り様を与えた神の御心はそのままで変わりません。

永遠に続くものを信じ、それに与って生きることが日本人らしくないとすれば、何が日本人らしいでしょうか?その日本人らしさの中では、希望や喜びは何でしょうか?

キリスト信仰者の希望や喜びは、永遠に続く神の言葉を信じ、永遠の命に与ることにあります。神は、人間が御心に沿って罪から離れて生きるようにと、御言葉を与えました。さらに御言葉を正確にわかってそれに基づいてこの世を生きて、永遠の命への道を歩めるようにと、イエス様を送られました。そういうふうに言うと、キリスト信仰者は永遠の命ばかり考えてこの世で生きることはどうでもよくなってしまうのか、と思われてしまうかもしれません。いいえ、そんなことはありません。第一ペトロの聖句は永遠に続く神の言葉について述べていますが、同時に愛し合いなさいと勧めていることにも注目しましょう。イエス様の福音に裏打ちされた神の言葉を受け入れ聞き従う者は、神から頂いた恵みの大きさにただただ恐れ入りひれ伏してしまうので、もう些細な事、利己的な思いや下心、他者との比較などは馬鹿馬鹿しくなって、そういうものから心が洗われてしまいます。その清められた状態にふさわしい生き方は愛に生きることだと、ペトロはまだ気づいていない信仰者に思い起こさせているのです。

ところで神の御心は、神の創造の中にある自然の営みにも表れています。その中には、人間にとって冷酷な自然もあります。それに挑むと命を落としてしまうような自然です。瞬間風速60メートルの暴風の中を、神が守ってくれるから大丈夫だ、などと言って車で出かけるのは、神を試すことになります。他方で、人間に喜びと感動を与える美しいものもあります。昨晩、皆さんと一緒に星野富弘さんの半生記を扱ったビデオを見ましたが、その中で彼が、体が自由な若い頃はよく山に登り花なんかあまり目を留めなかったが、体が不自由になって花が身近な自然になって以来、花には「手の込んだ美しさがある」とわかるようになったと言っていました。まさにこのことです。この世で永遠の命への道を歩む私たちは、神の御心が働いている美しいものをもっと見つけようではありませんか。何が神の御心が働く美しいものかは、御言葉に基づいて生きていけばわかるはずです。御心が働いているとわかれば、美しいものから慰めと力づけを得られます。神はそのために美しいものを備えて下さったのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン


2017年4月

「さよならの力」は復活の信仰にあり

桜の開花が近づいた頃、新聞や電車の広告に伊集院静氏の新刊「さよならの力」が目に留まった。氏が執筆している「大人の流儀」シリーズの第7巻で、同シリーズは既に160万部売れていると言う。私も、「さよなら」には、別離がもたらす辛い現実に足を踏み出させる力があると思っている。ただ私の場合、そう思うのは、キリスト信仰と関係があるからとわかっているのだが。もし伊集院氏がキリスト信仰者でなければどういう道筋で「さよならの力」を見いだしたか興味がわき、それで本を手にした。氏がキリスト信仰者でないことは、本書の内容からすぐわかる。

青年期に弟を事故で失い、大人になってからは妻を病気で失った伊集院氏は、深い喪失感の中で苦しみ抜いて考え続けた結果、次のことに思い至る。「いつまでも俺が不運だ、不幸だと思っていたら、死んでいった人の人生まで否定することになってしまう。短くはあったが、輝いた人生だったと考えないといけない。」(p.183)

他にも同じような知恵ある言葉があるので引用する。「たとえ三つで亡くなった子供だって、その目で素晴らしい世界を見たはずです。だから『たった三つで死んでしまって可哀想だ』という発想ではなくて、『精一杯生きてくれたんだ』という発想をしたい。そうしてあげないと、その子の生きた尊厳もないし、死の尊厳も失われてしまうのです。

やがて、歳月は、私たちに彼等、彼女たちの笑ったり、歌ったりしているまぶしい姿を、ふとした時に見せてくれるようになります。」(p.186)

長い間、去って行った人たちが、どこかで独り淋しくうつむいているのではと憂えていた感情が、今は、彼、彼女の笑顔が浮かぶ時さえある。」(前書き中)

これらの言葉を生み出した背景には、氏の個人的な体験のほかに、東日本大震災をはじめとする近年日本を襲った自然災害の犠牲者や被災者に対する氏の共感があることは言うまでもない。

もちろんキリスト信仰にあっても、亡くなった人の過去の思い出を何ものにも替え難い貴重なものとして心に抱く。ただし、キリスト信仰の場合それは、死者が復活させられる日が来るという復活の信仰と表裏一体になっていると私は考える。どういうことかと言うと、人間は死ぬと、宗教改革のルターも言うように、復活の日が来るまでは安らかに眠る。痛みや苦しみから解放された心地よい眠りの時を持つ。そして復活の日が来ると、朽ちない復活の体を着せられて、天の御国に迎え入れられる。

そして、そこは、懐かしい人たちとの再会が待っているところである。
亡くなった人は復活の日が来るまでは眠っているだけなので、仏教で言われるように仏の世界に到達するための修行の旅に出るということはない。亡くなった人が仏の世界に到達できますようにと、一生懸命香を焚いて釈迦を宥める必要もなく、お腹が空くだろうか喉が渇くだろうかなどと心配する必要もない。安らかに眠っているのだから。

そう言うと、キリスト教は死者をほったらかしにする冷たい宗教と言われてしまうかもしれない。しかし、キリスト信仰では、亡くなった人の過去の思い出を何ものにも替え難い大切なものとして心にしまっておく。その人と共に過ごした日々を与えてくれた天地創造の神に感謝する。神が与えて下さった日々だから、思い出はなおさら貴重なものとなる、と言うか、亡くなった人は安らかに眠っているだけなので、関わりを持てるのは過去の思い出しかなくなってしまうのだ。それも、飛び切りの、いつまでも輝きを失わない思い出が全てになるのだ。そういうわけで、キリスト信仰は過去の思い出以外には何も残らないと観念してしまうのであるが、仏教では亡くなった後もその人とコミュニケーションや結びつきを懸命に保とうとすることが大きく異なるのではないだろうか。加えてキリスト信仰では、亡くなった人がこの世にいる者たちを見守ったり、助けたり導いたりすることもない。その役割は全て天地創造の神に任せられているからだ。

過去の思い出だけでは空虚さを満たせないのではないか、亡くなった人とのコミュニケーションや結びつきを保ち続けないと生きていく力が生まれないのではないか、と思われるかもしれない。しかし、復活の信仰がある限り、そんなことはないと思う。復活の日、それまで「思い出」という形にしかすぎなかった懐かしい人が再会の時、体を伴った現実の人に変わり、かつて引き裂かされてしまったものが縫い合わされて、神に全ての涙を拭ってもらう(黙示録21章4節)、そういうふうに信じるのが復活の信仰である。そういうわけでキリスト信仰者というのは、亡くなった人の思い出を何ものにも替え難い貴重なものとして心に抱き、その人と共に過ごした日々を神に感謝し、復活の日の再会の希望を抱いて今を生きる者なのである。

伊集院氏は素晴らしい思い出の大切さを強調する一方で、お母上が仏壇の前で亡き次男に語りかけることに違和感を覚えない。また、思い出の人が自分の身体の中に生きていてそれが生きる力を与えているとも考える。キリスト信仰から見れば、まだ「さよなら」と言いきれていないのではないか、と思われるかもしれない。見えない相手に語りかける場合、キリスト信仰では天地創造の神以外にはないからだ。復活の信仰がないところでは、思い出を大切にすることと、亡くなった人とのコミュニケーションを保とうとすることは両立するということか。それから、キリスト信仰では、思い出の人が身体の中に内在化することもない。というのは、生きる力を与えるのはあくまで三位一体の神だからだ。

亡くなった人の素晴らしい思い出を大切にすることと、復活の信仰がしっかり結びついていることをよく示す例として、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の最終場面をあげることができる。この小説は、いろんなジャンルの小説が合体したような壮大な小説で、いつだったか村上春樹氏がインタビューで自分は三回読んだと言っておられた。(私はまだ二回である。ところで「騎士団長殺し」の各章のタイトルが長めなのは「カラマーゾフ的」?)。

問題の最終場面とは、カラマーゾフ家の三兄弟の運命がそれぞれ決まった後のところである。無頼漢の長男ドミートリイは本当は無実なのだが父親殺しの判決が下ってしまいシベリア流刑となる。無神論者の次男イワンは理性を超える神の摂理を受け入れられず、宗教からの自由を追求すればするほど逆に別のものに束縛されるジレンマに陥り、ついには精神に異常をきたしてしまう。三男のアリョーシャはロシア正教の信心深い青年で、兄たちの運命を見届けたら故郷の町を出て行こうと決心する。

最終場面は、イリューシャという結核で死んだ少年の葬儀である。柩の埋葬を終えて参列者は墓地からイリューシャの自宅へ向かう。中学の同級生たちは皆、大泣きに泣いている。実は彼らはかつてイリューシャをいじめていたのであるが、アリョーシャが間に入るようになってから次第に態度を変え、病気の可哀そうな同級生を励ましてあげようとしだす。しかし病状は好転せず、少年は死んでしまう。

イリューシャの思い出の場所にさしかかった時、アリョーシャと少年たちは立ち止まる。そこでアリョーシャは思い出の尊厳ということについて話し始める。今みんながイリューシャを本当に愛していたことがよくわかった、彼のことを決して忘れないようにしよう、本当に素晴らしい少年だった、と。すると同級生たちは皆口々に、あの子は父親の名誉のために一人で大勢に立ち向かった勇敢な親思いの本当に高潔な少年だった、と言う。そこでアリョーシャは、みんながイリューシャのこと、この葬儀の日のことをしっかり覚えていれば、将来大人になって何か悪いことをしそうになった時、それを思い止まらせる力になる、とさえ言う。あの時自分はあんなに素晴らしい少年を知っていたではなかったか、そして彼のことを一生忘れないようにしようと誓い合ってみんなの心が一つになったではなかったか、それを思い出せばきっと悪いことを思い止められる。そんな力があるのだ、と。そしてアリョーシャは続ける。

「この善良な素晴らしい感情で僕たちを結びつけてくれたのは、いったいだれでしょうか、それはあの善良な少年、愛すべき少年、僕らにとって永久に大切な少年、イリューシェチカ(イリューシャのこと)にほかならないのです!決して彼を忘れないようにしましょう、今から永久に僕らの心に、あの子のすばらしい永遠の思い出が生き続けるのです!」少年たちは口々に忘れないことを誓う。その時 少年たちの目には「涙が光っていた」のであるが、この涙は先ほどの埋葬の後の涙とは別の新しい涙だったに違いない。

ここで一人の少年が突然、驚くべきことを言う。それは、まさに思い出を大切にすることと復活の信仰が結びついていることを示すものであった。驚きなのは、それを言ったのがコーリャという少年で、彼は同級生グループがイリューシャをいじめた時にも励ました時にもリーダー格だった。大人顔負けの頭の良いませた少年で、このまま行けば自己の能力を過信する無神論者になってもおかしくはなかった。その彼がアリョーシャに向かって、こんなことを言ったのだ。

「僕たちはみんな死者の世界から立ちあがり、よみがえって、またお互いにみんなと、イリューシェチカとも会えるって、宗教は言ってますけど、あれは本当ですか?」

感激してしまったアリョーシャは答える。
「必ずよみがえりますとも。必ず再会して、それまでのことをみんなお互いに楽しく、嬉しく語り合うんです。」

「ああ、そうなったら、どんなにすてきだろう!」と叫ぶコーリャ。
ここでアリョーシャは少年たちに向かって、さあ、イリューシャの家に葬儀の会食をいただきに行こう、みんなが大好きなホットケーキが出されても、うしろめたい気持ちを持たなくていいんだよ、と促す。アリョーシャと少年たちは皆、元気よく手をつないで歩き出す。こうして、この壮大な小説は幕を閉じる。

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イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことについては、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とラザロ(ヨハネ11章)の例が詳しく記されている。両方の場でイエス様は、死んだ者は「眠っているにすぎない」と言って生き返らせる。もちろんヤイロの娘の場合もラザロの場合も、将来の復活の日に起こる蘇りが起きたのではない。娘もラザロもその後寿命が来て「眠り」についたのであり、今は本当の復活の日を待っているからだ。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったかと言うと、それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはいないということを前もって具体的に人々にわからせるためであった。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
― 兄ラザロの死を悲しむマルタにイエス様がかけた言葉(ヨハネ11章25節)

「この世のたび 終わるそのとき
主のみ国に うけ入れたまえ。
わがからだは 墓に在りて
いと安けき 眠りにつかん。

終わりの日に 墓はひらかれ
眠れるもの よみがえらさる。
わがからだの 朽ちぬものに
変えらるるは いともうれし。」
― 教会讃美歌366番「愛のいずみ」4節と5節

「カラマーゾフの兄弟」からの引用は、新潮文庫の原卓也訳による。


 

「フィンランドの価値観教育 vs. 日本の道徳教育」

2016年5月

(1)昨年10月スオミ教会のバザーにて、フィンランドのミッション団体SLEYの仕事で来日中だった前宣教師マルッティ及びパイヴィ・ポウッカ先生御夫妻にプログラムの担当をお願いした。牧師であり音楽の専門家でもあるマルッティ先生にはコンサートを、教育学の専門家であるパイヴィ夫人には講演を担当していただいた。講演のタイトルは「フィンランドの道徳教育」。パイヴィ・ポウッカパイヴィ先生のご職業は小学校の先生で、宣教師として長年日本に滞在していた間に日本の学校教育における道徳教育に関心を持たれて研究を始め、フィンランド帰国中はヘルシンキ大学人間行動科学学部の研究員を務め、2011年に博士論文「Moral Education in the Japanese Primary School Curricular Revision at the Turn of the Twenty-First Century: Aiming at a Rich and Beautiful Kokoro(仮訳「21世紀初頭の日本の小学校学習指導要領改訂における道徳教育-豊かで美しい心を目指して」)」を発表。見事、教育学の博士号を授与された。

パイヴィ先生にフィンランドの教育について講演をお願いしようとした時、どんなテーマがよいか思案した。2000年代初めフィンランドの教育は学力国際比較でトップだったので日本で注目を集めていたが、日本も頑張ったかいがあって追いついたようで、そうしたらフィンランドの教育なんて話題にならなくなってしまった。そこで思いついたのは「道徳教育」。周知のごとく、今日本で「教科化」の準備が進められ、いろいろな議論を巻き起こして国民の関心も高い問題である。パイヴィ先生は、前述した研究歴から言ってこの問題の背景に詳しいし、またフィンランドの事情にも当然精通しているから、「フィンランドの道徳教育」という題で日本とフィンランドの比較をしたら面白いのではないか。それで講演依頼して快諾を得た。

ところが当日拝聴していると、パイヴィ先生は幾度も「フィンランドには道徳教育はなく、あるのは価値観教育」と強調されたことに気がついた。その時私は、しまった、と思ったのだが、あとの祭り。「フィンランドの道徳教育」という題なのに、フィンランドには道徳教育はない、と講演してしまったら、聞いている人はなんのことかわかりにくくなってしまったであろう。問題の内容をしっかり把握しないで、ただ人目を惹きつけるために題をつけてしまったことを深く後悔した次第である。

この度、パイヴィ先生から講演原稿のコピーをお借りしたので、この場を借りて先生の講演内容をわかりやすく紹介したく思う。ただ、専門外のことなので先生の趣旨から外れてしまう可能性があり、術語の訳で的を得ないものがあるかもしれないことを前もってお断わりしておく。

(2)まず、議論の出発点は次の通り。学校教育に課せられた使命として、子供に知識や技術を習得させることと同時に、それらを何のために、どのように使うかを考えさせることも重要である。特に現代では、得られた情報について、それが正しいか正しくないか、良いか悪いか、大切か大切でないかを判断したり、またそれがどんな価値を代表しているかを見極められることも重要になってきている。そうした判断力を養成することは、知識・技術の習得とあわせて子供の全人的な成長のために重要で、フィンランドでは価値観教育がそれを担っている。日本でそれに相当する教育の分野は道徳教育と考えられる。

(3)次にフィンランドの価値観教育の制度について。義務教育の段階で、宗教的な価値観教育と非宗教的な価値観教育の両方が提供される。前者は「宗教」という科目の下、生徒が自分の属する宗教について授業を受けられる。宗教を持たない生徒、距離をおきたい生徒は、非宗教的な「人生観」という科目を選択することができる。フィンランドは国民の75%がキリスト教の福音ルター派の国教会に属する国なので、宗教科目が同派のものを受ける生徒の数は当然多くなる。ところで、現行の義務教育法によれば、ある宗教に属する生徒が学校に3名以上いて、その親が要請すれば、学校はその生徒たちに自分の宗教を教える「宗教」科目を設けなければならない。2012年の価値観教育の科目の内容分布は以下の通り。キリスト教福音ルター派92%、人生観4%、キリスト教ロシア正教1,4%、その他の宗教2%。

ここで注意すべきことは、宗教教育を含めて学校教育は政治的中立性を守り宗教的偏向を避けなければならないため、宗教教育とは言っても、学校教育で行われるのは「信仰教育」ではなく、自分の宗教及び比較対象として他の宗教について客観的な知識を取得し、それに基づいて国の文化、伝統及び社会や世界との関係を自覚させることを主眼とする。それでは、信仰教育はどこで行われるかと言うと、キリスト教会ならばそれは教会である。

宗教教育と信仰教育はどう違うのか、わかりにくいかもしれない。パイヴィ先生は特に言及されなかったが、教会で行う信仰教育とは、まさに「私はイエス様を救い主として信じます」と告白できるようにもっていく「信条的な」教育である。ルター派国教会だと、幼児クラブ、子供クラブ、教会学校、堅信礼教育がそういう教育の場となる。最初の三者に参加する子供の数は現代のフィンランドではそう多いものではないが、堅信礼教育となると、国教会に属する中学2年の生徒の実に84%がそれを受ける。同教育の多くは10日間~2週間位の合宿形式で、ルター派の教義やキリスト信仰者として生きることについて学ぶ。多くは単に通過儀礼化している面もみられるが、それでも自分の宗教や信仰について他の生徒たちと共に集中的に学ぶ機会を持つことがその後の人生に与える影響は無視できないと思われる。(これは、堅信礼教育の教師を務めたことがある自分の経験から申し上げます。)堅信礼を受けると、親から独立して聖餐式を受けられたり、教会で結婚式を挙げられたり、国教会の代議機関の選挙権を得たりするなど、一人前の教会員になる門をくぐったことになる。

対して、学校の宗教教育は先にも述べたように客観的な知識の取得が中心な非信条的な教育で、授業中にお祈りをすることなどはありえない。ただし、客観的な知識中心とは言っても、キリスト信仰の観点からみた価値ある生き方を考えさせたり、比較対象として他の宗教についても学ぶので、社会や世界を生きる際の価値判断の基礎をつくることに資すると言える。

(4)フィンランドの価値観教育と比較して日本の道徳教育を論じようとする時、制度的な枠組みの違いを知っておかなければならない。それは、日本では私立学校を除いて公立学校では宗教教育は禁止されているということである。そのため道徳教育は、非宗教的なものとして教えられることが求められる。フィンランドの場合は、公立学校において、宗教的な価値観教育と非宗教的な価値観教育が生徒の必要に応じて行われる。その意味では、フィンランドでは「宗教への自由」と「宗教からの自由」の両方が保証されているが、日本の公立学校は「宗教からの自由」の保証が中心となる。

(5)以上のような背景を論じた後で、いよいよフィンランドの価値観教育と日本の道徳教育の比較の議論に入っていく。時間の制約もあって、パイヴィ先生は日本の道徳教育の歴史的背景は触れずに、道徳が教科化されることになった近年の背景を若干述べられた。いじめの問題が深刻化し、2002年に「心のノート」が出版・配布されたこと、2013年に再配布となり、2014年には「わたしたちの道徳」の改訂版が出た等の経緯を述べられた。パイヴィ先生の着眼は、「心のノート」には日本の道徳教育の核心になるものが含まれているというもので、同教材の内容分析をもとに比較を展開していく。

 ところでフィンランドでは、いじめ問題は特に価値観教育を通して解決を図ろうとはされなかったとのこと。そのかわり同国では2000年代に始まった有名な「楽しい学校」というプロジェクトがあり、現在9割の学校が参加している。価値観教育の別枠ということで、同プロジェクトの内容について触れられなかった。

さて、フィンランドの価値観教育と日本の道徳教育の比較について結論から言うと次のようになる。フィンランドの価値観教育は、生徒が自分のアイデンティティーや世界観を構築する際の材料を与えることを主眼とする。そこでのキーワードはまさに「価値」で、自分の世界観を構築するための材料を与えて、その世界観から生じる「価値の自覚」を基準にする個の倫理性を目指している。日本の道徳教育では、道徳的な人格形成が目指され、人格形成の根本的な素材である道徳性を養うことに主眼が置かれる。そこでのキーワードはまさに「徳」で、道徳的習慣、道徳的実践意欲、道徳的態度を養いつつ、様々な「徳」を身につけて徳の高い人格を形成するという、そういう道徳性を目指している。

こうしてフィンランドの価値観教育と日本の道徳教育において目指されているものはそれぞれ、「倫理性」、「道徳性」ということにまとめられていく。倫理性が目指されるところでは、自分が大事にする価値を土台にしつつ、意識的に構築した価値観を守る、そういう人間形成がなされる。道徳性が目指されると、意識的ないし無意識的に身に着けた徳にもとづいて道徳を実践する、そういう人間形成がなされる。

「倫理性」と「道徳性」の違いは、それぞれが成長を遂げる際、「自覚」、「判断」、「自発性」、「性格」の4分野でどの分野が強くなるかということに現れる。倫理性における成長では、「自覚」と「判断」が強くなる傾向がある。なぜなら、自分の宗教をはじめ様々な世界観を知って「価値自覚」が養われて、自分なりの世界観の構築に入っていけるからである。さらに、世界観から生じる価値観を基準にすることから倫理的な判断、評価、選択をする力が得られるからである。道徳性における成長では、「自発性」と「性格」が強くなる傾向がある。例えば、「思いやり」や「道徳的実践意欲」を養うことを通して道徳そのものを実践する力が得られるし、また、道徳的習慣と態度を養うことを通して、道徳を実践できる性格を身に着けることになるからである。

ここでひとつ注意しなければならないのは、フィンランドの価値観教育では「自発性」が日本に比べて強くならないとは言っても、それは学校教育のことである。対して、キリスト教会で行われる信仰教育では、神による罪の赦しということの実践的な意味を学ばされるので、「許しあうこと」が自発性を形作る。例えば聖書に「神は悔い改める者を赦す」とか「復讐は神がすること」と言われているのに、人間が「私はあの人を絶対に許せない」ということになってはいけない、という方向に導かれるのである。

(5)「倫理性」と「道徳性」は区別されるべきとの議論はなるほどと思わせるものだったが、少し抽象的すぎて、もっと具体的な例を挙げて欲しかったと思う。私など、「道徳性」というのがどうも、礼儀正しくしなさい、元気よく挨拶しなさい、思いやりのある人間になりなさい、等々のスローガン的なものしか連想できなかった。きっともっと深い内容があるのであろうが。

講演を聞いていて、私自身一つ興味深く思ったことは、フィンランドでは価値観教育は、宗教的と非宗教的の2つにわかれて、さらに宗教的価値観教育も宗教宗派に応じて別れていく。そのような選択の自由が保障されている結果、「宗教への自由」と「宗教からの自由」の双方が実現しているということである。日本の場合、非宗教的な道徳教育だけで「宗教からの自由」のみである。しかし、これは大丈夫だろうか?例えば、非宗教的であるはずの道徳教育において、本当は宗教的な原理で動くものがあっても、それは宗教ではなくて日本の美しい「伝統」と言い換えられて、それを維持・習得することが道徳的ということにならないだろうか?その時は、道徳性と倫理性の衝突である。

パイヴィ先生が日本の道徳教育で一つ心配していたことは、自分自身に対する愛を教えることが弱いのではないかということだった。キリスト信仰では、愛とは「神を全身全霊で愛せよ」という神に対する愛と「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛の二つが大元にある。ここで「自分を愛するが如く」と言っているように、自分自身に対する愛もしっかり認めている。ただ、そうだからと言って、キリスト教は利己的な人間を目指すのではない。なぜなら、自分自身に対する愛を持ったら、今度はそのままその愛で隣人を愛さなければならないからだ。さらにキリスト信仰では、神の実在性が目の前に立ちはだかっている。そういうわけでキリスト教の愛というのは、神に対する愛、自分自身に対する愛、隣人に対する愛、これら3つの愛が互いに緊張関係にある。それゆえ「価値自覚」ということも必然的に起こるのであろう。

最後にパイヴィ先生には、「心のノート」以後の日本の動きもしっかりフォローして、教科化に至る道徳教育そのもの(教科書やカリキュラムを含む)にも分析のメスを入れて頂きたいと思う。


「わからずやの多文化主義論」

2015年10月

1.
フィンランドは人口500万程の小さな国である。その国内で大きなニュースになることが日本にまで伝わってくることはほとんどない。しかし、国外には伝わらないローカルな出来事でも、それが実は日本でも報じられる大きなグローバルな出来事と連動していることはよくある。その一つとして、今年の夏フィンランド国内を騒がせた「多文化主義」論争がある。

論争の発端は、政権与党の一つで移民受入れに否定的な立場を取る政党の議員がネットのブログに「多文化主義は国を害する悪である、自分は断固としてそれと戦う」という主張を載せたこと。早速メディアは沸騰し、各政党は同議員を非難し、問題の政党に説明責任を要求、各地で人種差別反対・多文化主義擁護のデモが起きた。結局、問題の議員は、「戦う」というのは暴力的手段を意味しないと釈明し、2ヶ月の党籍停止の処分を受けて一応自体は収束した。

この論争の背景には、今年激しさを増した地中海やバルカン経由で西ヨーロッパになだれ込む難民移民の大移動があるのは言うまでもない。他の西欧諸国に比して移民難民の受け入れの少なかったフィランドであるが、今年は難民申請者だけでも3万5千になるとの見通しが持たれている(10月15日の内務省発表による)。100万近くなると言われるドイツに比べれば雲泥の差だが、人口比で考えれば1億2千万の日本に84万人の難民申請者が押し寄せる計算になる。それ位の数の難民申請者がやって来たら、この世界第3位の経済大国はどうなるだろうか?経済的、精神的に持ちこたえられるであろうか?ひょっとしたら、この問いの答えは、我が国の難民受け入れ政策の実績が示しているのかもしれない。

2.
ちょうど「多文化主義」論争たけなわの頃、ある大学教授が新聞のコラムに少し軽いタッチで自分の見解を披露していた。それによると、ヨーロッパの大都市に見られるような、移民と元からの住民が別々に棲み分けがされてお互い隔絶してしまったような状況は本当の多文化主義ではない。多文化主義とは異なる文化の人たちが接触し交流し合うことを言い、そうするうちにお互いが相手の良い点を取り入れて次第に一つの大きな文化を形成していく。つまり、多文化主義とはそういう単一文化に至る過程を言うのだ、という見解であった。終わりのところで、自分は稲荷ずしとラテン音楽の愛好者である、などと述べていた。

 なるほど、自国以外の料理もよく食べ、外国の音楽を沢山聞けば多文化主義者になるのか、そうなると日本人はものすごく多文化主義的な国民ということになるが本当にそうだろうか?異なる文化というものは、各自が嗜好・愛好を取捨選択していくうちに融合・統合していくものだろうか?

例えば、宗教。どの宗教も人間は死んだらどこに行くのかという問いに答えを持っている。その答えがあるから、じゃ今生きているこの生をどう生きるべきか、ということに指針が与えられる。宗教によって死生観は大きく異なる。巷の仏教だと、人間は死んだら仏様になって33年位の修行の旅を続けて極楽浄土に到達する。その間、生きている人を見守ったり助けたりしてあげなければならない。キリスト教だと、死んだら神のみぞ知る場所で安らかに眠るだけで修行も何もしない。ただ眠っているだけ。しかし、最後の審判とか復活の日とか呼ばれる時が来たら目覚めさせられて、あとは天の御国に迎え入れられるか、または入れられないかということになる。この二つの宗教だけ見ても、果たして融合や統合の余地はあるのだろうか?

近年ではキリスト教会の中でも、極楽浄土だろうが天国だろうが最終目的地は実は皆同じで、ただ各々の宗教が違う言葉で言っているだけ、などと言う人が増えてきた。共通の目的地に至る道はいろいろあり、その異なる道がそれぞれの宗教なのだ、ということで、キリスト教は御殿場口から、仏教は須走口、イスラム教は吉田口、ユダヤ教は富士宮口、あとは頂上で会いましょう、という具合なのである(富士山登頂ルートと宗教の関係は何も考えていません)。

一見結構な話に聞こえるが、いっぱしのキリスト教徒として言わせてもらうと、天国で目にする神とは、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与え、母親の胎内にいた時から自分のことを知っていた神なのである。それが実は阿弥陀如来と同じだったと言われてもなかなか納得できるものではない。仏教の人たちだって、極楽浄土で目にする阿弥陀如来が実は、自分のひとり子を2000年位前に今のパレスチナの地に送った方と同じと言われて、はい、その通りです、と言うだろうか?

3.
ところが、このような異なる死生観を盾にして違いを強調すると、頑なになって異なる考えの相手を否定して宗教戦争が起きるのだ、と批判されることにもなる。私自身、そのような批判を受けたことがある。でも、私の死生観はあなたと全然違うのだ、と言ったら、必ず宗教戦争になるのだろうか?そうならないために、「同じ山頂、異なるルート」というコンセプトの中に諸宗教を流し込まなければならないのだろうか?それとも、頑なと言われたくないから、ものわかりよくしようとするのか?

 ここで思い出すのが、キリシタン大名の小西行長が関ヶ原後、六条河原で首を刎ねられた時の出来事である。いよいよ最期の時、徳の高い僧が近づいてきて、成仏できるように念仏を唱えてあげようと申し出たが行長はこれを断ってしまった。これは歴史史料にも記されている史実と聞いたことがあるが、実はこの出来事が30年位前のNHKの大河ドラマ「黄金の日々」にあった。観られた方は覚えておいでであろうか?高僧を前にボロボロの行長が言ったのは、「私はキリシタンだ。キリシタンに仏教の念仏など無用!」そして首を刎ねられるのである。

仏教の人がみたら、なんと恩知らずの罰当たりなことを言うのかと呆れてしまうだろう。しかし、行長としては他に言いようがないのである。死んだら神のみぞ知る場所にいて安らかに眠り、復活の日に目覚めさせられて復活の新しい体を与えられて神の御許に迎え入れられる。罪深い人間の私にそれが可能なのは御子イエス・キリストが私の罪を十字架の上で贖って下さったからだ。そういう死生観と信仰を持つ者にしてみれば、成仏とか念仏とか言われても、全く筋違いな話なのである。仏教の人から見れば、せっかく極楽浄土に行けるのにどうしようもないわからずやだ、ということになろう。キリスト教徒からみれば、死者は復活させられるのにおたくこそわからずやだ、ということなる。お互いがお互いに対してわからずやなのである。

このような「わからずや」がいると、隔絶した棲み分けをもたらすことになるのだろうか?宗教戦争の原因になるのだろうか?ここで、小西行長と一緒に首を刎ねられたのは、石田光成と安国寺恵瓊であったことを思い出そう。光成は小僧上がりの武将、恵瓊は僧出身である。二人とも仏教徒である。信仰と死生観ではわからずやの立場の者同士が、家康の覇権阻止という共通の目的のもとに共に命を賭けて戦うのである。自分はキリシタンだから仏教徒とは一緒にはやりません、仏教徒だからキリシタンは嫌です、ということにはならなかった。隔絶とか宗教戦争とは全く逆のことが起こっているのである。しかも、行長の最後の言葉が示すように、死生観と信仰に関しては、わからずやさが全身みなぎっているのである。もし、行長に「同じ山頂、異なるルート」という発想があったならば、喜んで念仏を唱えてもらったであろう。なぜなら、念仏を唱えてもらって成仏できるというのは、別ルートではあるが目指す天国に着けることなのだから。

4.
従って、異なる死生観、信仰を持つ者同士が協力・協働することは可能である。もちろん、そのような協力・協働の場では、いろいろ意見の相違も生まれてこよう。しかしその全てがそういう信条の違いによるものとは言えないのである。同じ信条の持ち主の場合でも意見の相違は生じるのだから。もちろん、死生観が現世を生きる際の指針を与える以上、信条の相違が意見の相違をもたらすことも十分ありうる。しかし、その時は、お前はわからずやだ、いや、お前こそ、と言って終わって、また協力・協働を続けるしかない。これが本当の多文化主義ではないか。「同じ山頂、異なるルート」という発想は得体の知れない単一文化主義である。

 

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