説教「クリスマスを迎える心」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書1章25~27節

 

 今日の礼拝は、教会のこよみで、待降節第3主日の礼拝です。

今日の聖書のルカ福音書1章26節から見ていきますと、ここに天使の中でも位の高い、ガブリエルという天使が、神様から遣わされて、ナザレという町で、ごく平凡に、素朴な信仰を持った1人のおとめ、マリアのもとへやって参りました。

「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」と告げたのです。

普通の生活をしている中に、天使が現れた、というだけでも、驚きです。

そして、突然に「マリアよ、おめでとう。」と言われて、マリアはこの言葉に戸惑いました。

いったい、この挨拶は何の事だろう、と困惑しています。

続いて、天使は告げたのです。「マリア、恐れることはない。あなたは、神から、恵をいただいた。あなたは身ごもって、男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 

天使は、大変なことをマリアに告げました。この天使の御告げを聞いたマリアは、どんな心境であったでしょうか。

マリアが身ごもって、男の子を産むというのです。その産まれる子は救い主メシヤ

となる、というのです。

人間の世に救い主が与えられる等というとこは、前もって知っていた人は一人もいないでしょう。

これは、神様が御計画を持ち、神様が実行されていったものだからです。

だから、人間には知るよしもありません。人間は誰も皆、不意打ちで、あわてるばかりでした。

 

こんなことが起こるとは、だれも想像しませんでした。

しかも、おとめマリアから、救い主がお生まれになる等ということは誰が想像したでしょうか。

こうして、神様の御業が起こる、とういうことに、誰も想像できません。

ナザレの町は、その当時、ローマ帝国に征服された属国であります。その片田舎で、人間に対する、神の救いが与えられる、ということは考えられないことでありました。

東方の博士たちは、それに気づいていました。

ユダヤ人の王として、救い主が生まれる、星占いで彼らは知ったというのです。

星は天から地球の全体を見ているものです。

宇宙の壮大なバランスの中で、星々が動いて、輝いていることを星の博士たちは、よく知っているのです。

宇宙の地球の、この世界に、ユダヤ人の王として政界の救い主が生まれようとは、彼らは思ってもみなかったでしょう。特別なことがありそうだとは考えていたでしょう。

 

さて、そのほかに、もう一人、ひそかに心を痛めていた人がありました。ナザレの田舎娘、それがマリアその人です。

彼女は自分の体の異常に気がつきました。どうして、そうなったのか。自分では、全く、分からないことでした。

ただ、その頃、自分の周辺に珍しい事が起こっていました。

それは親族のザカリヤの妻が、もう老年になって、子供がなかったのに、身ごもったということです。

しかも、それがきっかけになって、その夫、ザカリヤは口がきけなくなったのです。不思議なことが起こっていました。

マリアは、その噂を聞いていたでありましょう。

それは、おめでたいことなのに、何かこわいようなことであったと思います。

しかし、それより自分の身に起ころうとしていることが、もっと恐ろしいように思われました。

ザカリヤの妻の場合には、年をとったといっても、夫のある身ですから、まだ、子供ができるということもないではない。

しかし、自分は、まだ婚約中で、その人と一緒に暮らしてはいないのです。それに身ごもったとすれば、それはただ事ではありません。彼女は一人悩んだことでしょう。

その悩みは、どんなに深刻であったでしょう。

天も地も、一度に変わって欲しい。自分もろとも滅び去ってほしい、と思ったかもしれません。

しかし、それでもなお、ここに神様の救いが与えられるとは考えなかったでしょう。

深刻極まるマリアの思いさえ、消し飛んでしまうような、大きな救いが起こるとは、考えることもできなかったでしょう。

マリアは穏やかに毎日を過ごしていましたのに、突然に天使によって告げられたことは、自分の年に、これからどんな事が起こっていくのか、戸惑うマリアに天使は言ってくれたのです。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵を頂いた・・・」

 

マリアが一番に驚いたことは、これは自分には、あり得ないことであるからであります。

34節を見ますと、「どうしてそんなことがあり得ましょうか。私には、まだ夫がありませんのに。」とあります。

その通りです。マリアの言葉は、その通りにちがいありません。

それだけのことでしょうか。

ただの田舎の小娘が、あわて、恐れて、こう言っていつだけでしょうか。それなら、わざわざ聖書に書き残しておく必要もないでしょう。

ごく普通に考えられることだからです。

しかし、ルカはマリアの話だけでなく、ザカリヤの妻の事も一緒に書き記しています。

ここにも、どうして、そんな事があり得るだろうか、ということがあるからです。

事情は違っても、絶対にあり得ない事があったという点では変わりはないのです。

「あり得ないこと」というのは、人間の目から見ると絶望的なこと、全く無力なこと、ということになるのです。

 

人間の力では、どうにもならないこと、それがクリスマスの不思議な出来事です。それがマリアに起ころうとしています。

マリアは、自分を、どうすることもできませんでした。

自分の困難な状況を、解決する力などありません。

自分の恥を隠すすべも、なければ、それを、どう処理していいか、全く分からなかったのです。

マリアは、自分で、全く、無力を感じていたにちがいありません。

 

しかし、このように無力を感じるのは、マリアだけでありましょうか。

マリアのような特別な立場に立たされた人間だけでありましょうか。そうではないでしょう。

私たちも、又、何らかの容易ならぬ問題に直面したりするものです。

外の人から見れば、そうたいした事のないように見えても、本人にとっては、人に言えない事情が深刻な重荷となっているものです。

人間の力では、どうにもならない、と言えば、それは神から離れてしまっている、ということでしょう。

最後には、神に持って行くほかない。

それを神に、おまかせする事ができると、事柄は、全く変わってしまうものであります。

重荷でしかなかったものから、神の恵みを知った、という人は、多くあります。

そこまで至らないと、実は、真の解決が得られない。

すべてを、神にゆだねていく。どの事も、神が人間に、恵を与えて下さる手段であった、という事に気が付く。

それまでは救いはありません。

 

マリアの身に起こったようなことは、私たちには起こらないかも知れません。しかし、「どうしてそんなことが。」と言わねばならないような、説明のつかない恵みは、私たちにも加えられるのです。

ただ、それを恵み、とすることができるか、だけであります。

マリアは、そのことを正しく、受け止めることができました。

マリアは主なる神が、自分に対してなさったことを、そのまま、信頼を持って、受け入れたのです。

 

38節でマリアは「わたしは主の、はしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と言っています。

「はしため」というのは、女奴隷のことです。だから、この言葉は「わたしは、あなたの奴隷でございます。」ということです。

奴隷は、ご主人の言うままになるものであります。その命までもすべて、主人のものにしている者です。

マリアは、自分を、全く、すべて、神の御手にまかせきったのです。

「お言葉どおりに」というのは、いろいろ言われる通りに、ということです。だから1つの言葉ではないのです。

いろいろなお考えがおありになるでしょう。その、どのお言葉にも従います、というとこであります。

マリアが「わたしは、主のはしためです」と言った、つまり主の奴隷です、と言ったのは、少し、言いすぎでしょうか。

 

私たちの場合、少なくとも、そこまでは言う必要はない、と思われるかもしれません。

そこで、そこまで神の思いのままにされては、やり切れない、という気持ちになるのではないでしょうか。

そうなると、神に従う、と言っても、ほどほどにする、神におまかせする、といっても、程度がある。いつでも、少し、自分の言い分を、とっておく、ということになるのであります。しかし、それでは、神にまかせた、ということにはなりません。

そういうことでは、神にまかせた者の祝福を得ることはできないのです。

マリアは、自分を主のはしためです。奴隷です、と言いました。

私たちは、マリアとはちがうと言いたいのでしょうか。

いいえ、私たちこそ、神の奴隷、キリストの奴隷、なのです。

私たちは罪の奴隷となっていたのに、キリストの救いによって、贖われたのです。

贖うとは、買いとる、ということです。キリストに買いとられたのであれば、キリストのもの、となってしまったのです。

 

私たちも、マリアと同じように、「お言葉どおりにして下さい。」と言うほかはありません。

マリアは、だんだん導かれて、何を考えたらいいか、分かるようになった、と思います。

事柄は理解できないのです。何が自分の身に起きようとしているのか、よくわからない。わからないままに、それを受ける。受け方がわかってきたのです。

 

マリアは、何がわかった、というのでしょう。それは、「主が一緒にいて下さる。」ということです。

「主が、あなたと共におられます。」と、天使は言ってくれました。

私たちに対しても、どんな時にも、慰めの言葉は、「主なる神があなたと、共に、おられます。」ということです。

「神が一緒に、いて下さる。」ことを心の底から信じることができたら、何を恐れる必要がありましょう。

キリストが、この世に来られたのは、神が、私たちと一緒にいて下さる、という、この信仰を与えるためであります。

この事実を確信させるためであります。

 

マリアは戸惑いましたが、主が一緒にいて下さることを告げられ、それを信じるためにどうしたらいいか、マリアは祈り求めたことでしょう。天使は、マリアに、「恵まれた女よ。」と言いました。マリアはもう恵みを受けて、今、恵みの中にいるのです。マリアは、まだ約束を受けているだけでありましたが、しかし、その約束は変わることがありません。

必ず、成就するのです。それを、待つのです。

マリアは、もう、恵みをいっぱい受けている人なのです。

それは37節にありますように、「神には、何もできないことはないからであります。」

マリアは、ただ、御心のままになさって下さいと祈るのみです。

 

 私たちも、マリアのように、いっさいを、神のみこころにゆだねて、新しい心で、クリスマスを迎えていきましょう。

                    アーメン、ハレルヤ!


主日礼拝説教 待降節第3主日
2015年12月13日(日)の聖書日課 ルカ1章25~27節

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