説教「主イエスは最後まで共にいて下さる」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書9章28-36節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースターに向かう四旬節が始まる前の節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという出来事についてです。同じ出来事はマタイ17章、マルコ9章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことが「変容した(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本主日は変容主日とも呼ばれます。

三つの福音書に同じ出来事が記されていますが、よく読んでみると記述がそれぞれ若干異なっていることに気づかされます。しかしながら、さらに読み込んでいくと、そうした違いは本質的なものではなく、むしろ、お互いを補い合っていて、三つをちゃんと読むと同じ出来事の全体像がよりよくわかってくることに気づかされます。全体像がわかるための違いであると言ってよいと思います。具体的に申しますと、マルコとマタイでは、ルカに比べてイエス様の輝いた姿が詳しく述べられている反面、出来事全体の記述はそれほど詳しくありません。出来事全体の記述は、ルカの方がマルコ、マタイに比べて詳しいです。

 本日の箇所に出てくる「山」について、マタイやマルコの記述では「高い」山と形容されています。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同じ地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えられます。

 このヘルモン山について、以前の説教で2700メートル位と申し上げたのですが、2814メートルの誤りでした。この場を借りて訂正いたします。どうして間違えたかと言うと、言い訳になってしまいますが、その時見た地図には9230フィートと記されていて、私は1メートル=3,4フィートと間違えて記憶していて、それで計算してしまいました。1メートルは3,28フィートでした。それで計算し直したら、2814メートルとなりました。実際、メートルで高さを記した地図を見つけ、それも2814メートルでした。2700メートルなら日本の白山と同じくらいだなどと申したのですが、これも訂正しなければなりません。2814メートルでしたら、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ標高です。ただ、インターネットの写真を見てみると、ヘルモン山はなだらかで急峻な感じはありませんでした。頂上は現在のレバノンとシリアの国境上にありますが、山域はイスラエルまで及んでおり、冬はスキー場も開設されてスキー客で賑わう様子もネットで見ることができました。

 山もこれくらいの高さになると、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の福音書の箇所の記述を注意して読むと(33-34節)、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を3つ立てましょう、と言ったすきに頭上を覆ってしまうのですから。高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神が利用したと考えられますし、または、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。どっちだったかはもはや判断できませんが、この件は判断しないままにしても、本日の箇所の解き明しには何の支障もありません。

 
2.

 本日の福音書の箇所の出来事は幻想的かつ劇的ということができま(「幻想的」と申しましたが、「幻想」とは申しませんので御注意下さい)。山の上で一体何が起こったのか、ルカの記述を中心にマタイやマルコの記述にも注意しながら見ていきましょう。

イエス様は祈るために山に登られました。イエス様が祈る場所に山の上を選んだことは他にもあります。ルカ6章によれば、山の上で一人一晩祈り明かした後で12弟子を選んだことが記されています(12節)。マタイ14章とマルコ6章によれば、5千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たすという奇跡を行った後でイエス様は一人で山の上で夜明けまで祈られました(それぞれ23節、46節)。その後で、ガリラヤ湖上で逆風に煽られて舟をこげなくなった弟子たちを助けに行ったのです。この二つの山は、ガリラヤ湖近辺にあるので、ヘルモン山のような高い山でなく丘陵と言ってよいでしょう。イエス様が一人で何を祈られたかは、記録がないし、そもそも同行者がいなかったのでわかりません。

それでも、十字架にかけられる前日にオリーブ山のゲツセマネでしたお祈りの内容は知られています(マタイ26章、マルコ14章、ルカ22章)。もうすぐ、全ての人間の罪を償う犠牲の生け贄になる、そうすることで人間が神の怒りや罰を受けないで済むようにする、そうして人間が神との結びつきを取り戻せて、死を超えた永遠の命を持てるようになる、そういうことを実現するために神のもとからこの世に送られてきたのだが、これから受ける苦しみに果たして耐えられるかどうか不安に苛まれてしまった。避けられれば避けたい、しかし行わなければならない、そういう苦悩をイエス様は父なるみ神に包み隠さず打ち明けます。そして最後は、「あなたの御心がなりますように」と祈って覚悟が与えられ、立ち上がって十字架の道に進んで行きます。

イエス様が他の祈りの場所で何を父なるみ神にお祈りしたのかは不明ですが、少なくとも、神がイエス様に持っていた計画を明らかにするように、そしてそれを行う力を与えてくれるようにということはあったでしょう。

本日の出来事ではペトロ、ヨハネ、ヤコブの三弟子の同行者がいましたが、イエス様のお祈りの内容は伝えられていません。32節をみると、三人は「ひどく眠かった」とのことで、これは2800メートル級の山をロープウェイやケーブルカーを使わずに麓から登れば疲労困憊になるのは当然でしょう。ああ、イエス様は何かを祈っておられるな、と眠い目には映っているが、何を祈っているのかはもう聞き取れない。ところが、祈っている最中のイエス様の様相が急に変わった。「顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた」(29節)、そして、その輝きは「栄光に輝く」(32節)ものだった。

それだけではありません。気がついてみると、どこから現れたのか、二人の人物がいて、一緒に話しをし始めたではないか?その二人もイエス様と同じように「栄光に包まれ」ています(31節)。三人の弟子は、体は重く疲れたままですが、興奮が入り込んで次第に眠気が引いて行きます。話声も耳に入ってきました。聞いていると、この二人はかつての偉大な預言者モーセとエリアだということがわかってくる。ところで、このモーセとエリアは一体何なのだ?ルカ24章を見ると、死んだ人間が目の前に現れると幽霊とか亡霊と理解されるのは、彼の地でもあったようです。ルカ24章では、復活したイエス様が鍵を閉めてあった家の中に突然入って来たのを見て弟子たちがパニックに陥りました。しかしながら、山の上で三人の弟子たちはそうなりませんでした。恐らく、目の前に現れたモーセとエリアは父なるみ神の力によって再臨をした者という理解があったからだと思います。当時、特に律法学者の間で、エリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10-11節、マルコ9章11-12節)。加えて、ペトロがモーセとエリアのためにも「仮小屋」を建てます、と言ったのも、神の力によって再臨したという理解があったことを示しています。「仮小屋」というのは、ギリシャ語のスケーネー(σκηνη)ですが、正確な訳は、神に礼拝を捧げる場所の「幕屋」を意味します。ペトロはイエス様に加えてモーセとエリアのためにも礼拝を捧げる場所を建てると言ったわけです。幽霊や亡霊にそのようなものを建てる言われはありません。

さて、モーセとエリアが近々エルサレムでイエス様が行なわなければならないことを知らせると、二人はイエス様のもとを「離れ」出しました。文章では「二人がイエスから離れようとしたとき」と書いてありますが、歩いて立ち去ろうとしたのか、空に上げられるように去ろうとしたのか、姿が消えるようにしてなのか、ギリシャ語の言い方からでは全くわかりません(εν τω διαχωριζεσθαι)。どんな仕方であれ、とにかく、二人の大預言者とイエス様の間に距離が開きはじめた。それが見て取れた。まさにその隙をとらえて、ペトロがイエス様の方を向いて、イエス様とモーセとエリア三人のために礼拝を捧げる幕屋を三つ建てます、と言ったのです。三人の話しが終わって、そのうち二人と一人の間の距離が開き出したその時です。

この、ペトロが幕屋の提案を述べている、ほんの10-20秒程の間に突然雲が現れました。雲は、ペトロたちの側からみて、あっと言う間にモーセとエリアとイエス様の頭上に覆いかぶさりました。34節を見ると「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った(εν τω εισελθειν αυτους)、つまり雲の中に乗り込んでしまったのです。弟子たちが恐怖を抱いたのは、得体の知れない雲が現れたということより、雲がイエス様から離れつつあったモーセとエリアだけでなく、イエス様をも取り込んでしまったことによるのです。

まさにその時です。その雲の中から、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という、父なるみ神の声が響き渡りました。この声が響き渡った後で、弟子たちが顔を上げると、目に入って来たものは、そこに一人立つイエス様だけでした。あの、様相が変わる前のいつものイエス様がそこにおられました。もうモーセもエリアも雲もなくなっていました。全てもとに戻っていました。本当にあっという間の出来事でした。全てもとに戻ったとは言っても、この出来事があったがゆえに、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の声は、今目の前におられる方を指すことがはっきりしました。また、ペトロにとっては、モーセやエリアに礼拝を捧げる必要などないこともはっきりしました。

 
3.

 以上、山の上で起きた出来事を書かれたものに基づいてできるだけ忠実に再現してみました。幻想的でかつ劇的な出来事ですが、天の父なるみ神の意思や計画がはっきり伝わってくる出来事だと思います。神の意思や計画というのは、イエス様に対してだけでなく私たち人間に対して両方のものです。以下、そのことについて見てみましょう。

 まず、イエス様の変容について見てみましょう。ルカ福音書では、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、実は、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ福音書9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪や不従順の汚れに全く染まっていない神聖な神の子としての本質をあらわにしたのです。

 「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証されています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。

そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。イエス様は、もともとからして罪を持たない神の神聖さを持つ方なので、何の問題なしにそのまますんなり天の神の御国に入れた筈です。モーセとエリアの場合は、御国に入れるようになるために神によって変えてもらわなければなりませんでした。31節でモーセとエリアは神の「栄光に包まれて現れ」(οφθεντες εν δοξη)と言われていますが、これは、彼らが神から栄光を輝かせてもらって、それを受けて光っているということです。イエス様の場合は32節で言われるように、彼自身が「栄光に輝く」、つまり神と同じように自ら輝かせることができる栄光(την δοξαν αυτου)を持っているということです。本当にイエス様はお迎えの「雲」に乗って、そのまま天の御国に帰ればよかった。それなのに、私は行かなくてもいい、と言わんばかり、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められたのです。なぜでしょうか?

それは、私たちも神の栄光を受けて光ることができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すこととなって、神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神と切り離された状態で生きることとなり、この世から死んだ後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間がこの汚れを除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能なことです。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす律法というものがあるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たしていくものというより、人間が神の意志からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものなのです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21-22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27-28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、できない人間にかわって人間を罪の汚れから洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで成し遂げました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪の汚れを忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまうことも辞さない方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が背負うべき罪の罰を全部彼に負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は言わば、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この尊い犠牲のおかげで、人間が罪の罰や罪の支配状態から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありません。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができるのです。

このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、それを大事に携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて光ることができるようになれる。そして、いざ、この世を去る時が来たら、神に自分の全てを委ねることができて、神の方でしっかり受け取ってもらえるようになれる。まさにそのためにイエス様は、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

ところで、復活されたイエス様は天に上げられました。今は天の父なるみ神の右に座しています。そして、今のこの世が終わりを告げて、新しい天と地が創造される時に再臨すると約束されました。マタイ福音書の終わりで、復活の主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章19節)と言われますが、今天の父なるみ神の右に座している方がどうやって、私たちと共にいて下さるのでしょうか?

それが本当に共にいて下さるのです!洗礼を受けて「罪の赦しの救い」の贈り物を受け取った者は皆、自分からそれを捨てない限り、その贈り物を大事に携えて生きる限り、イエス様を自分の救い主として確実に持っています。小さな子供の場合は、両親の信仰告白に支えられてイエス様を持っています。大人になって自分で信仰告白をするようになれば、両親から独立して救い主イエス様を持ちます。イエス様を救い主として持てるのは、聖霊が働いているおかげです。

さて、両親に支えられていても、また独立していても、信仰に留まる者が聖書の御言葉を読んだり聞いたりすると、それはただイエス様が救い主であることを絶えず思い起こさせる神の声、イエス様の声そのものです。さらに両親から独立して聖餐式のパンとぶどう酒を受けると、それは受ける人にとってイエス様が救い主であることを御言葉と一緒に強めてくれます。

さらにイエス様は、私たちの祈りを、声に出る祈りも、声にならないため息も、全て聞き遂げて父なるみ神に取り次いで下さって、全てのことを神の御心に適うように祝福されたものに変えて下さいます。まことにイエス様は、この世の終わりまで、そして私たち一人一人の人生の終りまで、いつも共にいて下さるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしっかり歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン


主日礼拝説教 変容主日
2016年2月7日の聖書日課 申命記34章1-12節、第二コリント4章1-6節、ルカ9章28-36節

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